アルハザードの娘の正体 2001/07/25

                1

  幾筋もの稲妻が黒い輪郭を白く浮き上がらせるところの神聖ローマ帝国の廃城。雷鳴は腐敗し濁り切った堀の水に浮かんだ泡を震わせ破り、横殴りの風は、かつては凛凛しい騎士や着飾った貴婦人たちが、鳥が歌い花は咲き乱れる庭園や緑豊かな領地を眺めた破風のある窓を容赦なく叩いていた。
  蜘蛛の巣だらけの王の間では、付着した緑青で形が変わってしまった燭台の灯りの下、華奢な身体を黒衣に包んだ一人の少女が、木版の版木にローラーでインクを染み込ませ、古ぼけた羊革紙を押しつけて印刷し、ある程度刷り終わると次のページに移って、何やら本のようなものを製作していた。
  制作者は、エリザベート皇后の仮面舞踏会で配られた薄い雪花石膏で作られた、両目のところだけくり抜かれた全く表情のない仮面をぴったりとかぶっていた。黒絹の袖口から覗く色白の手首と、仄かに漂う麝香の香りだけが女であることを示している。
  蝶番が外れ、壊れた窓の隙間から吹き込んだ一陣の風が、連夜華やかな晩餐が行われていた紫檀の食卓の上に並べてあった印刷済みの各々のベージを吹き上げると、女はローラーを放り出して拾い集めに回った。
  いま一度、尖塔の一つに落雷があり、煉瓦を剥離させながらバシャーンと音を立てて水かさを増した堀に水没した。
  一瞬目を閉じ耳を塞いだ少女が再び目を開くと、相変わらず舞い続ける羊革紙の向こうに、一人の女が立っていた。
  千年続いたビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ風の男物のターバン、濃い真紅の口紅、短い薄物のマント、ゆったりとしたアラビア風の長ズボン(シャリアール)、縞の飾り帯に差した短剣、そして何よりも人を射すくめるような厳しい眼に、黒衣の女はすくみ上がった。
「誰!」
  黒衣に仮面の少女は弾かれたように壁まで下がり、暖炉の上にかけてあった銀のサーベルを握り締めてまっすぐに構えた。
「人に名を尋ねる時は、先ず自らが名乗るべきであろう」
  晒布できつく縛ってあるものの、かすかに盛り上がった胸がなければ、トルコのマルムーク傭兵団の隊長といった感じの、低い威厳のある声が響いた。
「あたしはアルテア、アラビア人の大魔導士アブドゥル・アルハザードの娘!」
  黒衣の少女ははっきりと、しかし多少震える声で答えた。
「何、アラビア人?」
  ターバンの女は紅い唇の端から白い歯を覗かせ、舞ってる、蚯蚓がのたくったようなアラビア語の飾り文字が印刷されている一ページを引っ掴み、仮面の少女に手渡した。
「どこでもよいから読んでみろ」
  少女はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「読めるはずがなかろう」
  ターバンの女は紅い唇の端を歪めた。
「いえ、そんなことは」
  アルテアと名乗った娘は蚊の鳴くような声で言った。
「上下さかさまでは、わたしでも読めぬ」
  黒衣の少女がハッとした隙に、ターバンの女は長く伸ばした爪でひっかけるように羊革紙を奪った。
「『…そは永久(とこしえ)に眠るものにあれど、永劫なる時の果てには死もまた死を迎えん…』違うか?」
「その通りです」
「よし、ではその続きを読んでみろ」
  ターバンの女は羊革紙をはらりと投げ返した。
  仮面の少女は宙を漂う紙きれにサーベルのきっ先を隠して、まっすぐに突進した。
  だが、尖った刃がそのページを貫いた先には、もう相手の姿はなかった。
  すっかり動揺した少女がきょろきょろと部屋じゅうを見渡すと、ターバンの女は牛の皮で装丁され、机の上にうず高く積み上げられた完成品の本の上に、片足の爪先だけで立っていた。
「おのれッ!」
  少女が再度剣を向けると、ターバンの女はひらりと宙を飛んで暖炉の上に立ち、最初の剣と交差させて飾ってあったもう一本の剣を取り、バトンのように回転させて弄んだ。
  本の山が崩れ落ち、黒衣の少女は慌てて逃げた。逃げた先にターバンの女が待っていた。
  カシャーンという剣戟の響きが、ゴロゴロという不気味な雷鳴に混じって城内に谺する…
  二合、三合と火花を散らせながら二人の少女は鍔を合わせて睨み合う。
  息を揃え、二人は同時に下がった。
  ターバンの少女が右手の掌で剣の根もとからきっ先までゆっくりと撫で上げると、剣は赤く焼け、煙のような黄色い霊気を立ち上らせる…
  仮面の少女はただならぬ殺気を感じて廊下側の壁際に立っていた鋼鉄の甲冑の陰に隠れた。
  ターバンの少女が大上段に斬り降ろすと、ややあって甲冑は音もなく真っ二つに別れて左右に倒れた。
「アルテア!  貴女が本物のアルテア・アルハザードね?」
  最初に自らアルテアと名乗った黒衣の少女は、ようやく相手の正体に気付き、ターバンの少女がやったのと同じ手つきで自らの剣に呪文を掛けた。剣は鮮やかな青い光を帯びて輝いた。
  マルムーク傭兵団隊長の格好の、本物のアルテアが仮面のアルテアに向かってサーベルを斬り上げた。
「やった!」
  そう思った瞬間、二つに切断された仮面だけがはらりと落ち、その向こうの苔むした石壁にまるでバターのような切れ込みが走った。
  ややあって、褐色の頬に一本の血筋が走り、ターバンから額に覗いた黒髪の何本かがはらはらと落ちた。
「おのれ…」
  本物のアルテアは人差し指で傷口を撫でて癒し、それから指の先に付いた血を舌の先でチロリと舐めた。
  ゆっくりと振り返ったアルテアの瞳の先には、黒衣に身を包んだ、優しい穏やかな表情をたたえた金髪の少女が立っていた。
  アルテアが「ブン」と空気を震わせて剣を一振りすると、黄色い光を纏った赤いサーベルは、オーラを帯びたままマルムークの偃月刀に形を変えた。
  アラビア風の長ズボン(シャリアール)のアルテアは、偃月刀を振りかぶり、全力疾走で金髪の少女に突進した。
  カシャーンと激しく剣がぶつかる音がし、七色の眩しい閃光が収まると、黒衣の少女のサーベルのきっ先がアルテアの喉元で止まっていた。偃月刀は天井の朽ち掛けた木の梁に突き刺さっている。
「殺せ!」
  アルテアは振り絞るような声で言った。
「殺さぬと後悔するぞ!」
  警告にも関わらず、金髪の少女は剣を引き床石の上に突き刺した。
  ふわりとマントを翻らせて後ろに下がったアルテアは、印を結び、短い呪文を唱えた。
  たちまちのうちに、両手の掌の間に金色に輝く球が浮かび上がる…
  魔導士か、少しでも魔法の心得のある者が見れば、この廃城を完全に破壊して余りあるぐらいの光球であることが分かっただろう。「『後悔するぞ』と言ったであろう?」
「待って!  わたしはどうなってもいいから、この城を壊すのだけはやめて…」
  アルテアとは全く対称的に、柔和で温厚そうな金髪の少女は、両手の指を組んで懇願しながら、膝を折り、冷たい石の上に崩れ倒れた。
「この城はもともとは修道院で、戦争で父母を失った子供たちが大勢暮らしているのです」
「そんなこと、あたしの知ったことか!」
  アルテアは光球を倒れている少女に向けた。「貴女の目的は自分の偽物、アルテア・アルハザードの名を語る者を懲めることにあるのでしょう?  ならば、わたしを殺すだけで十分のはずでしょう?」
  アルテアは光球を左手に持ったまま、右手で短剣を抜いて相手に向かって放り投げた。
  短剣の刃は石の床に当ってカシャーンと金属音を立てつつ金髪の少女の目前まで転がった。
「お名前を騙(かた)った罪、重々承知致しております。逃げも隠れも致しませぬ故、いま一日だけ命のご猶予を頂けませぬか?
  わたしが突然いなくなれば、子供たちが心配するでしょうから」

                2

  翌日は前夜とはうって変わった、明るく穏やかな日和になった。
  明るい陽光に照らし出された十字架と、その下の聖ヨハネ騎士団(現・マルタ騎士団慈善会)の鷹を描いた楯型の紋章が見守る修道院の庭では、身寄りのない子供たちが畑を耕したり、井戸から水を汲み上げたり、牛や豚や鶏たちの世話をしていた。
  大きな子供もいれば、よちよち歩きの子もいる。まだ歩けないぐらいの赤ん坊は、年嵩(かさ)の女の子たちに抱かれている。
  礼拝堂の扉が開き、糊の効いた修道服に身を包んだ一人のシスターが現れると、子供たちは歓声を上げ、一斉に歩み寄って取り囲んだ。
「シスター・ジャンヌ!」
「ジャンヌ先生!」
(『ジャンヌ』だと?)  アルテアは思った。(まさかあの『オルレアンの少女』のジャンヌではあるまいな?  彼女が火刑台に架けられ、灰がセーヌ川に撒かれたのは、いまより数百年も前のことだ。…しかしあの剣の腕前。ジャンヌ・ダルクでもなければ説明がつかない…  もっとも彼女が本物のジャンヌ・ダルクだったら、火刑に処せられたのは影武者だとしても、数百年も生き長らえようとすれば、魔女か魔導士でないと、いかに英雄といえども生身の人間には不可能だ…  魔女!
  そうか、ジャンヌは国王側が言うように、「本当に」魔女だったんだ!)
  ニヤリと笑おうとしたアルテアの頬が凍りついた。
  自分は、歴史に太文字で名を残している女に、一日という十分すぎるほどの時間を与えてしまったのだ。
「みんなよく聞いて!  先生はこれから、みんなのことをもっとよくお願いするために、町の司教様のところまで行ってきます。
  しばらく留守になるかもしれませんが、その時は司教様にお願いして、代わりのシスターを派遣してもらいますので、その方の言うことをよく聞いて、お利口にしているのですよ」
「えーっ!」  という失望と落胆の声が子供たちの間に渦巻いた。
「そんなの嫌だ!  シスター・ジャンヌ」
「先生じゃあなきゃあ嫌だ!」
  顔を曇らせた子供たちは口々にそう言った。「どこへも行かないで」
  中には尼僧服の衣の裾を引っ張って、泣き出しかけている子もいた。
(ふん、あろうことか『お涙頂戴』戦術か。他の者にはともかく、このアルテアに情けを期待するとは、呆れて言葉も出ぬわ!)
  アルテアはここの子供たちが皆、太っているとまでは行かないまでも、健康そのもので、着ているものも贅沢品ではないけれど、決して粗末な繿褸(ぼろ)ではないことに気が付いていた。
(おそらく城の中で刷った偽の『死霊秘法』や『ナコト写本』や『エイボンの書』を三流れ魔導士や好事家たちに売って儲けた金で孤児院を運営しているのだろうが、とんでもない!  それでなくてもあたしは餓鬼好きと、裏では結構悪どく立ち回っている癖に、表ではブリっ子面をしている奴が一番嫌いなんだ。それを見事に両立させているとは、八つ裂きにしてやる!)
  彼女は太古の呪文を唱え始めた。
  まもなく邪神やその下僕たちが天空の彼方から、あるいは大地を割り裂いて、またあるいは次元の隙間からするりと現れて、ジャンヌと子供たちを貪り喰ってくれるハズだった。
  現に早くも燦燦と輝いていた太陽は暗雲に覆われ、大地はかすかに揺れ動き始めた。
「ジャンヌ先生、恐いよ!」
「助けて!」
  子供たちはますますシスターにすがりついた。
「アルテアね?  およしなさい!  子供たちに罪はないはずよ!」
  空の彼方に黒い米粒大の点が現れ、地の裂け目からは赤く不気味に輝く小さな複眼がいくつも覗いた。何もない空間からは白くぬめりのある鞭に似た何本もの触手が忽然と現れ、シスター・ジャンヌと子供たちを取り囲みながら迫った。
「人間である限り、誰もが罪人、ではなかったのかい?」
  呪文を唱え終わったアルテアは、異界からやってきた化け物たちにみんなが喰い殺される瞬間をもっとよく見えるところから見物しようと、また別の短い呪文を唱えた。
  すると、ジャンヌと子供たちを囲んでいた無数の触手は色を失って透明になった。
  だから包囲網の中に肩を寄せあって震えるジャンヌと子供たちの姿が見えた。もちろん向こうからこちらの姿も見えているだろう。「神よ!」
  ジャンヌは正しいただ一つの神の名を唱えて祈った。
「『死霊秘法』の粗悪品を売り捌いている者が、いまわの際に正しき神にすがるとは片腹痛いわ!」
  傲然としたアルテアの顔が次第にこわばった。
  化け物たちに囲まれた子供たちのポケットから、くるみの実ぐらいの水晶の三角錐が次々に飛び出すと、くるくる回転しながらお互いに順番を変えた。
  それぞれの三角錐には、フェニキアか、アッシリアかバビロニアの文字に似た記号が刻んである石のかけらが一つづつ納められている。
  よく観察すると、確かに破片は元は一つの古代の石刻文字岩(ペトログラフ)をばらしたもののようだった。

  ペトログラフとは、
@かつて何かの宗教か儀式が目的の、神聖な場所にあって
Aバビロニアの記録用の粘土板のような人工のものではない、自然の岩に
B模様か文字か記号のようなものが刻まれたもの
  を言う

  いま目の前でキラキラと輝きながら回転している岩の断片に描かれた文字記号は、アルテアがこれまで一度も…父で稀代の大魔導士アブドゥル・アルハザードのサナア郊外の砂漠の洞窟にある隠し書庫ですら…見たことのないものだった。
(もしや、父が必死になって捜していたエルトダウン陶片では)
  エルトダウン陶片とは、ムーやアトランティスよりもさらに太古の、おそらくは人類ではない、別の生命体が築き上げた超古代の文明の存在を証明する陶板に刻まれた文書である。
  いまでは幻とされる大陸があった頃ですら、滅多に発見されることはなかった。一万三千年以上前に栄耀栄華を誇ったこれらの帝国は、この陶板の知識によって甦らせた、人間が決して触れてはならない禁断の秘法を駆使した兵器によって一夜にして滅び、海中の深淵に没したと伝えられている…
  アルテアは胸の動悸を押さえることができなかったが、目の前のそれはエルトダウン陶片ではなかった。術で探ってみると、この星この世界ができるさらに以前の、別の星、別の世界、おそらくはヒアデス星団から運ばれてきたものだった。
  石のかけらを閉じ込めている三角錘の水晶は、金剛石よりも堅い物質で、これもまた、ムーやアトランティスの魔術でも不可能な、即ち人間技ではなかった。
  全部で一三個の石は丸く輪を描いて回転を続けながら、完璧とも言える結界を作った。
  何本かの触手がその放電に触れた途端に水分が蒸発し、紙テープの束ようになって土に皈(かえ)った
  土の中から覗いていた赤い複眼の生物たちはそれを見ると、しゃかしゃかと土を堀り変えしなおし、現れた時の三倍の速度でさっさと消え失せた。
  上空から迫ってきた輩(やから)どもも、くるりと反転して逃げ出し始めた
  だが、岩のかけらは許さなかった。
  回転が頂点に達したとき、それぞれのかけらが眩しく光ったかと思うと、光の束が残りの触手や土の中のもの、空の上のものを貫いた。
  光に貫かれた邪悪なものどもは、ことごとくあえなく塵に皈った。
  光の一本はアルテアにも迫った。
  彼女は飛んでかわそうとしたが、光はまるで命あるもののように巧みに屈折し、彼女の胸元に迫った。
(やられる!)
  背筋に電流が走った時、何者かが石の入った水晶の三角錐を手にしてその光を受け止めた。
  光の大部分は自らの源に吸収されたが、一部はこぼれてアルテアの身体を貫いた。
  剣で刺されたよりも強烈な、身体の全てをバラバラにするような激痛が走り、アルテアは気を失った。

                3

  目が覚めた時、まだ身体のあちこちがズキズキと痛んだ。
  恐る恐る目を開けると、そこにはジャンヌとがいた。
「どうして助けた?  あたしは二度もおまえを殺そうとしたんだぞ」
  シスター・ジャンヌの答は意外なものだった。
「わたしも、かつて十のうち十、死を迎えねばならなかったところを救われましたから」「何だと?  するとおまえはやはりオルレアンの乙女、ジャンヌか?」
  喋るのはまだまだ苦痛だが尋ねずにはいられない。
「子供たちのことがありますので、その問いには答えずにおきましょう。ただ…」
「『ただ』?」
「わたしたちは常に不思議な力で生かされているのです。ただ一つの神という言葉を使うのが嫌ならば、ただ『不思議な力』ということにしておきましょう。
  その『不思議な力』の意思はただ一つ、『奴等の復活を阻止せよ』
  ということですわ」
「あたしはその『奴等』の側の者だ。人間ですらない…  助けられたことを恩に着て、あっさりと信念を変えるだろう、という読みならば甘いぞ」
「奴等の側にもいろんな派閥や独立のものがあると聞いております」
  ジャンヌは頬を染め、瞳を潤ませた。
「アルテア、貴女は貴女の父、アブドゥル・アルハザードと同じように、それらの頂点に立ちたいのでしょう?」
「何だと?」
  アルテアは呆れてものが言えなかった。
「きさま、こともあろうにこのアルテア様と、手を組もうと言うのか?」
「そうです。その上で改めて、貴女とわたしか、わたしの後継者と決戦する…  つまりその日まで、共同戦線を張りませんか?」
  対するジャンヌの目は真面目そのものだった。
「さっきみたいな秘石を使わずに、魔法を使うことはできるのか?」
「いいえ。残念ながら」
「ならば正直言ってかなり苦しいぞ。奴等に手を出した者は、魔導士であれ祓師であれ、相当の実力があってもあえない最期を遂げる者が後を立たない」
  アルテアは頬を少し歪めながら寝返りを
打ってそっぽを向いた。
「わたしは倒したいのです。罪のない人々を苦しめ泣かせているものを。特にうわべだけ正義を装いつつ、裏でこっそりと悪魔と契約を交わしている者を。
  そのためには、強力な仲間が欲しいのです。暗黒の魔法を使える仲間が。
  もちろんあなたにとっても有利なことは数多いはず。信用があり、信仰厚いシスターが仲間ならば、普段は容易に入れない場所にも行けるでしょうし、強敵も多少は油断するでしょう」
  アルテアは枕で耳を覆い、頭から布団を
かぶった。
「あたしはいままでずっとたった一人で頑張ってきたんだ。何が悲しくていまさら他人と…それもたった一つの神に仕える者と組まねばならないんだ?」
「『他人』ではありませんわ」
  ジャンヌは語気を強めた。
「じゃあ一体何だ?  あんたとあたしは昨日会ったばかりなんだぞ」
「『友』ですわ」
「何だと?」
  アルテアは身体の痛みも忘れ、毛布をはねのけて起き上がった。
「もう一度言ってみろ」
「わたくし、主に誓って、貴女とは気が合う気がします」
  祈る時のように両手の指を組んだジャンヌはきっぱりと言った。
「迷惑だ!  そっちがそうでも、こっちにはこっちの都合というものがあるんだ。
  断る!  絶対にお断りだ!」
  アルテアは毛布を身体に巻き付けてよろよろと立ち上がった。指をパチリと鳴らすと、毛布はたちどころにシャリアールとアラビア風のチョッキに変わった。
「あの不思議なペトログリフを見たでしょう?あれはシルヴェスター枢機卿の代理人が見本として一部を砕いたものを送ってきたものなのです。
  わたしが匿名で地下出版しているインチキな『死霊秘法』の本物がもしあれば、本物の石板と交換しよう、と言って…
  念のために言っておくと、わたしが貴女の名を語って偽の魔導書を造って売っているのは、孤児院の経営のためもあるけれど、本物の魔導書を欲しがっている大物を釣るための餌を撒いているのよ」
(やれやれ、「必殺仕事人」気取りの莫迦娘のたわ言などに付き合っちゃあられねーよ)
  アルテアは瞬間移動の術で部屋から修道院の中庭に抜け出した。
  ジャンヌの言う通り、無敵の結界を張り巡らせたペトログリフの入った水晶の三角錐は、黒く焼け爛れ、無数の小さな穴だらけの軽石のようになって、丸く散らばっていた。
(なるほど…  「使い捨て」か…)
  しゃがんでそのうちの一つをつまむと、もろい砂糖菓子もかくやというふうに粉々に砕けた。
(もしも使い捨てでなく、何度も使える秘石魔石があるならば、欲しいが…)
  シルヴェスター枢機卿という名には聞き覚えがあった。西暦一○○○年当時ローマ教皇だった「魔導士教皇」シルヴェスターの子孫で、悪魔祓いや悪魔学に造詣が深いと称される異色の枢機卿…
  魔導士連中の噂では「禁断の秘儀」に染まって、いまではすっかりそちらの側の人間になってしまっているらしい高僧だ。
  イタリアの、かなり広い教皇領を受け持っていると言われるが、そこの領民は長い間全く非公式な過酷な税に苦しんでいる。
  たまらず誰かが上訴しようとすると、その誰かは必ず不運かつ非業の死を遂げる…
  シルヴェスター枢機卿はそれをさらに「悪魔の呪い」と脅かして、さらにひどく高価な「免罪符」を売りつける…
(いいことを聞いたぞ。魔法に詳しいとは言え、たかが慾に狂った悪徳破戒坊主。このアルテア様がチョチョイのチョイとやっつけてやる。百姓どもがどうなろうと、こちらの知ったことじゃないが、とにかく奴には相応しくないお宝を巻き上げるんだ!)

                4

  緑豊かでなだらかなイタリアの平原を見渡す丘にあるシルヴェスター枢機卿の私邸邸宅(バラッツオ)は建物の全てがシチリア島産の白亜の大理石造りで、見事に手入れされたローマ風庭園のそこここには四阿(あづまや)や、人工池や、噴水や、神神の彫像が置かれていた。
  外館から内館に向かってはまっすぐな円柱回廊(ポルティコ)が伸び、回廊は建物の周りを囲んでいる。
  厚かましくもカソリック尼僧の変装をしたアルテアは、長い衣の裾を引きずりながら、しずしずと丸い柱の列が影を落とす長い廊下を進んでいた。
  シルヴェスターはローマ教皇庁百名の枢機卿の中でも「有力」とされる一人である。当然、諸手続きや陳情、上訴、信仰上の問題で訪れる客は少なくない。時折すれ違う秘書役の司祭はみな忙しそうで、足を止めたり振り返って見る者はいなかった。
「サン・レモ教区のシスター・アルテアと申します」
  ティティアーノの受胎告知を背にして座っていた受付の司祭に、吹き出しそうになるのをこらえながら、穏やかに、この上なく真面目な顔をして言った。
「お約束は?」
「もちろん」
  司祭は本日のアポイトメントを写した紙を見たが、もちろんそんな名前などない。
  小首をかしげつつ、老眼鏡を掛けなおし、分厚い予定表を繰り始めた。
  アルテアが片目をつむると、空欄だった今日のこの時間のところに名前が浮かび上がった。
  司祭は我と我が目を疑ったが、そこには確かに自分の筆跡で「シスター・アルテア」と記されているのだから通さぬ訳にはいかない。「どうぞ、シスター・アルテア」
  アルテアは胸の十字架(ロザリオ)に手を当てて何喰わぬ顔で、乳香の匂いが立ち込める広間を横切った。
「あ、あいや待たれよ。ご用件は何でしたか?」
  スサで織られたアラビア模様(アラベスク)のペルシア絨緞の中央の陰陽に差しかかった時、司祭が呼び止めた。
  アルテアはもう一度片目をつむった。
「そこに書いてある通りですわ」
  司祭がもう一度予定表に目を落とすとそこには「見習い尼僧ジャンヌを正式にシスターとして認めるについての件」と、いかめしいラテン語で書かれていた。
「かような些末な件はわざわざ枢機卿台下にお伺いを立てなくとも、不肖わたくしが決裁させて頂きます!」
「もう一件あったでしょう?」
  女魔導士は面倒臭さそうに、三度片目をつむると、その下にさらなる文章が浮かび上がった。
「ローマ教皇庁の最高の禁書の一、『死霊秘法』発見の報告」
  それを読んだ瞬間、受付の司祭は目をカッと開いたまま、身体じゅうをわなわなと震わせた。
「『死霊秘法』?  ま、まさか…  信じられぬ。おお、神よ…」
  一生神と信仰に身を委ねてきた彼は、苦しげに胸を掻きむしったかと思うと、椅子もろともバッタリと倒れた。
  異状に気付いた何人かの神父が慌てて駆け寄った。
「医者を!」
「だめだ。もう心臓が止まっている!」
  神父たちの叫び声を聞き流しながら、アルテアは構わず扉を開いた。
(題名を聞いただけで絶命するとは、よほど悪とは無縁の生活を送ってきたのだな)
  少し肩をすくめたものの、同情は湧いてこなかった。
(『…汝正しきに過ぐる勿れ』)
  樫の木の扉の奥にはさらに黒檀の扉があり、壁一面にミケランジェロやボッティチェルリの名画がさりげなくかかげられていた。
  取り次ぎがいなくなってしまったので、アルテアは勝手に扉を開けて入った。
  室内にはマイセンの陶器やヴェネチアのガラス、宋の青磁、アラブの黄金のランプや、瑪瑙、新大陸の瑠璃、アフリカの金剛石をちりばめた司祭冠などが、真紅の天鵞絨を広げたあちこちのテーブルにところ狭しと置かれていた。
「ガラクタだよ。まぁ、世間の人間には値打ちのあるものとみえて、こちらが頼みもしないのに、勝手に置いていくのだけどね」
  声のする方を振り向くと、紅駒鳥の翼の色の寸胴の僧服に身を包み、豊かな金色の短髪の上にも同じ色の小椀状の帽子を乗せた青年が、ステンド・グラスによりかかり、腕を組んで立っていた。
  年の頃は二十二、三。信じられないほどの若さで、整った顔立ちをしていた。
  一般に、カソリックの階梯は非常に厳密な年功序列で、神父、司祭、主教、司教、大主教、大司教と上がって行くまでに相当長い年月を必要とする。
  もちろん役人と同じで、出身や卒業した神学校、僧としてのキャリアや才能、人脈や財力なども大いに物を言う。
  にしても、この年でローマ教皇に選ばれる資格のある枢機卿とは、余りにも桁外れだ。
  賄賂をばら撒きまくったのか、禁断の魔法で若返って見せているのか、とにかく予想されていた以上の曲者に違いない。
「アルテア・アルハザードともあろう者が、ぼくの姿を見たぐらいで驚くとは意外だな。
  君だって一○○○年はその姿でいるのだろう?」
  シルヴェスター枢機卿はボヘミアのワイングラスに藁でくるんだキアンティを注ぎ、ゆっくりと喉を潤した。
「やはり、魔導士か?」
  アルテアは黄金の甲冑の持つ純金の楯の陰に隠れつつ身構えた。
「今日び、高徳の宗教家であろうと、魔術の一つや二つ使えないと、この混沌の時代はとても乗り切れないよ」
  シルヴェスターの瞳が怪しく光る。年齢を偽れるということは、自在に姿形も変えれるのだろう。そこまで出来るのは相当の使い手だ。
「本や石板、ペトログラフを集めている、と聞いたが」
  アルテアは注意深く執務室を見回したが、当然のことながらそんなものは見当らない。「ぼくは教皇庁で、反キリスト的な文書、石板、石碑、ペトログラフを集めて焚書にしたり、粉々に砕いたりするのを仕事にしている。
  そういうものがキリスト教が伝播した地域で発見されると、総てがイエズス会士などを通じて報告される。
 この間も新大陸の南の大陸のインカとか言う野蛮人の神神を刻んだ財宝を鋳潰してよい、という許可を出したばかりだ」
  シルヴェスターはテーブルにそっけなく積み上げられた黄金の伸べ棒を取り上げた。
「果たしてどんな神だったか、普通の人間にはもはや知る由もなかろう。だが、このわたし、シルヴェスターは違う!」
  枢機卿は伸べ棒を元に戻すと、印を結んで何か呪文を唱えた。
  すると、別に熱を加えもしないのに黄金は次第にどろどろに溶け、テーブルの上に広がった。
  さらに不思議なことに、溶けた黄金はテーブルから滴り落ちることなく、またゆっくりと盛り上がり、形を整え始めた。
  しばらくすると、アーモンド形の瞳をし、足元にジャガーをはべらせた土偶に似た神が甦っていた。
  千年生きて悪事を繰り返しているアルテアも驚きの余り言葉が出なかった。いままでにも多数の腕の立つ魔導士たちを倒してきたがこんな凄い術を使える者などいなかったからだ。
  この術を盗めば、アルテアと父アブドゥルの積年の夢…太古の邪悪な神神の完全復活…に大きく近付けそうだった。
「教えてやってもいい。本物の『死霊秘法』と交換に」
  アルテアが指をパチリと鳴らすと、そこここのテーブルに飾られてあった陶器やガラス細工や瀬戸物が一斉に跳ねて床に落ち、木っ端微塵に砕けた。
  シルヴェスターは眉一つ動かさなかったが沢山の割れ物が割れる音は厚い扉を通して廊下に響いたかして、司祭たちが騒ぐ声がした。「台下、如何致されましたか?」
「何の騒ぎでございますか?」
  アルテアがもう一度指を鳴らすと、砕けた破片は跳ね豆のようにテーブルの上に戻ったかと思うと、たちまちのうちの元の美しい美術品に再生した。
  扉を押し破った司祭たちが見たのは、いつもと何ひとつ変わりのない部屋のたたずまいと、柔和な若き枢機卿とシスターの姿だった。「こ、これは…」
「いま確かに大変な物音が…」
「悪魔の悪戯だ。瞞されぬように、心を清くしてしかと祈れ。信仰が足りんと言われても仕方ないぞ」
  シルヴェスターがおごそかに説教すると、司教たちは最敬礼して出ていった。
「確かに大した術ですけれど、鋳潰す前の神像の形を千里眼で予め見ていれば簡単ですわ」
  アルテアは相手を眼光鋭く見つめつつも、声は本物のシスターのように穏やかに言った。「手品だ、というのかい?  そりゃ侮辱だな。疑うのだったら、ぼくが元の形を絶対に知らない破片を持ってきたまえ。この場で元通りにしてみせよう!」
  年若き枢機卿が撫然としかけるよりも早く、アルテアは懐から、紫の服紗に包まれた、古色蒼然としていて、そこここに小さな文字がビッシリと刻まれた陶片を取り出した。
「こ、これはエルトダウン陶片!」
  シルヴェスターの顔からさっと血の気が引いた。
「…世界を滅ぼすつもりか?  君の生みの親アブドゥル・アルハザードも桁外れの大莫迦者だったが、君も相当の愚か者だぞ!」
「あら、じゃあなたはどうして『死霊秘法』なんか欲しがったりしているの?」
「ぼくはいままさに復活しようとしている邪神を再び封印するために…」
「嘘をおっしゃい!」
  女魔導士はピシャリと言った。
「…まあ、いいわ。とにかくこれを元のペトログラフにしてくれれば信用しましょう」
「だから、そんなことはできない、と言っているだろう?」
「では、この話はなかったことに」
  言い終わるや否や、アルテアは一匹の黒い揚羽蝶になって羽ばたいた。
「待て、分かった。やってみよう。ただし、ここではだめだ。ぼくの書庫へ行こう!」
  シルヴェスターの柔らかな指が空中で大きくアーチを描くと、空間が切断され、地下へと降りる螺旋階段が現れた。
  アルテアは人間の姿に戻るのが面倒臭いのか蝶の姿のまま後をついていった。
  しばらく下に降りると、膨大な量の古い本が放つ、独特の黴臭い空気がどろりと淀んでいる広間に着いた。
  シルヴェスター枢機卿が短い呪文を唱えると、一瞬にして無数の本棚や書架が現れた。
  古代中国の、糸で通された竹や木片に書かれたもの、エジプトのパピルスに書かれたもの、バビロニアの粘土板、石碑、石板、ペトログラフ、古今東西のありとあらゆる文書がビッシリし隙間なく保管されていた。
「バビロンの図書館はバベルの塔が神の怒りに触れた時に、またアレクサンドリアの図書館は初代ローマの独裁者シーザーがエジプトを攻めた際に焼け落ちた。
  そしてバグダッドの図書館はジンギスカンがヨーロッパに押し寄せた時に生き掛けの駄賃として放った炎に沈んだ…
  当時、わずかに残されていた超古代の貴重な文献や資料はこれら三度にわたる祝融(中国の火の神、転じて火事のこと)で灰燼に帰してしまった。
  が、あと一ヵ所、ヴァチカン、サン・ピエトロ寺院の地下の聖ペテロの墓所のさらなる底に、これら禁断の書物の数々が秘密裡に集められたのだ。
  もちろん、主なる神に逆らう悪魔(サタン)の知惠の集積として、何者も閲覧することが許されぬ、書物の形をした悪霊として封印された。
  見つけ次第焼却、消滅させられなかった理由はただ一つ。人間は、たとえ最も神に近いとされる歴代のローマ教皇ですら、エデンの園以来『神のように賢くなれる知恵』というものに弱かったからだ」
  シルヴェスターは近くの本棚から、分厚く黒い牛皮で装丁された本を抜き出してまん中あたりを開いた。
「見たまえ。これがヴァチカンが長年所蔵してきた貴女の父上アブドゥル・アルハザードの『死霊秘法』の、最も初期の完全なヴァージョンの一冊だ」
  蝶の姿のまま、書物の綴じ合わせの部分に止まったアルテアは、紛れもない父の使っていた特別な薬草の香りを嗅いだ。
  ところがどういう訳か肝心の文字がない。
  全ページが白紙のまま、空しく黄ばみ、紙魚の餌食となりつつあった。
「ぼくのせいなんだ」
  シルヴェスターのコバルト色の瞳が怪しく光を帯びて吊り上がった。
「!」
  アルテアが驚く間もあらばこそ、シルヴェスターは電光石火の早業で、本をばたりと閉じた。
  蝶の姿をしていたアルテアは逃げる間もあらばこそ、ページの間に挟まれてしまった、
  シルヴェスターは目を細め、唇を少し歪めて、何やら短い呪文を唱えた。

  その様子を書庫の隅からこっそりと伺っていた者がある。
  黒い修道尼姿のジャンヌだ。彼女はシルヴェスターがアルテアとのやりとりに夢中になっている間に、枢機卿の禁書のコレクションを何冊か失敬していた。
(普通の魔導師ならそれっきり標本になってしまうでしょうが、アルテアはあれぐらいでやられるハズはないわ。すぐに本から抜け出して反撃するでしょう。
  そういう展開になれば、その隙に退散しましょう!)
  ジャンヌは息をひそめてアルテアが逆襲を開始するのをいまかいまかと待っていた。
  だが、まるで全く普通の本のように微動だにせず、書架に納まったままだった。
(どうかしたのかしら?  まさかあれっきりでやられた、などと言うことはないでしょう)
  ジャンヌはだんだん不安になってきた。
  第一、このままだと自分も進退きわまってしまう…
  五分以上たっただろうか、じっと本を見つめていたシルヴェスターは、再び本に手を伸ばすと、おもむろにさっき蝶を挟み込んだ場所をページを繰って捜し始めた。
(愚かな!  せっかく閉じ込め封印した相手を再び自由にしてやるなんて!  …でも立ち回りになれば、悠々と立ち去れる…)
  盗んだ禁書を抱え、書架の陰に沿って駆け出す用意をしていたジャンヌはもう一度シルヴェスターのほうを見て、思わず「アッ!」と声を上げそうになった。
  何と、つい先ほどまで白紙だった『死霊秘法』に、ビッシリとアラビア語らしい文字といくつかの魔法陣を主とした図版が埋まっているではないか!
(アルテアが消滅して、代わりに本物の『死霊秘法』が復活した?  一体どういうことなのかしら…
  それに…  逃げるチャンスがなくなってしまったわ!)
  シルヴェスターが埃を払うように開いたままの本を床に向けて振ると、先ほどアルテアが彼を試そうとしたペトログラフの破片がパラパラと落ちた。
  若い枢機卿が細く鋭い眉を引きしめて短い呪文を唱えると、粉々だった石は元の手鏡ほどの石板に戻った。しかも元々欠けていた部分は自動的に復元しつつ同質の物質で補い、そこに書かれてあったであろう文字や図形を再現するという優れた術だった。
(凄い!  あの人は本当に何でもできるんだわ!  あのアルテア・アルハザードをアッという間に本の文字にしてしまうし、枢機卿でありながら不世出の魔導士。魔導士枢機卿だわ)
  シルヴェスターは腰を屈め、床で固まった石板を拾い上げた。
「『書物に命と魂、即ち人の形を与える呪文。
  また、元は一巻の書物なれど、この呪文に依りて人の形を得し者を再び元の命なき書物に戻す呪文。サナアの魔導士アブドゥル・アルハザード、ただ一つの神とその預言者に対抗するため、これを編み出す』か。
  やれやれ良かった。これを先に読まれていれば、アルテア・アルハザードは永久に人の形を与えるところだった…」
  そう呟くと、シルヴェスターは掌で石板を握り潰した。
  たったいま、元の形を取り戻した石板は、今度こそ吹けば飛ぶ一握の石粉になって書庫の床に散った。
(『本を人に、人を本に』ですって?  するとアルテアは何であれ女から生まれた者でも、土や腐った屍肉から造られた者でもなくて、本の化身だったの?)
  驚きの余り、ジャンヌは携えていた本のうちの一冊をパタンと床に落とした。
  たちまち気付いたシルヴェスターが石の床にコツコツと靴音を響かせながら早足でやってきた。
(どうしましょう!  魔法が全くできないわたしは、勝つことはもちろん、逃げ切ることもおぼつかないわ!)
  ジャンヌはせっかく盗んだ禁書を諦めてその場に放り出し、両手で尼僧の衣の裾を持ち上げて走った。
  シルヴェスターは彼女めがけて炎の球か雷撃か、強力な呪文を撃とうとしたが、ここは彼にとってよほど大切な宝物庫であるのか、苦々しそうに舌打ちしながら、普通に走って追いかけてきた。
「ブラウン・ジェンキンを呼び出して噛らせてやろうか…待てよ、鼠なら大切な本も噛るかも…  ウボ・サトゥラを召喚して時空の彼方に追放してやろうか…いやいや、水気のある邪神なら本も水浸しになるやも知れぬ)
  どうやら呪文をいくつも知り過ぎているというのも困りもののようだ。いざという時にどれから唱えてよいか迷ってしまうからだ。
  盗もうとした本を全部放り出して逃げ出したジャンヌだったが、先ほどシルヴェスターが立っていたあたりの区画を走り抜けようとして、何かにつまづいた。
「痛たッ!  ツイてないわ!」
  膝をさすりながらふと足元の石畳を見ると小さなペトログラフの石板のかけらがあった。
  ジャンヌの手の中の石板は、不思議なことに周囲の塵を集めて、どんどん元の形と大きさに復元しようとしている。
  言うまでもなく先ほどシルヴェスターが粉々にして隠滅しようとした、アルテアが解読を求めていた石板だ。
  彼女は素早くそれを懐に入れて逃走を再開した。まだ合体していない分の塵が熊ん蜂の大群のように霧状の帯を引いて付いてくる。
  異変に気付いたシルヴェスター枢機卿はとうとう立ち止まって長い呪文を唱え始めた。(だめッ!  射程が長くて、曲がり角も曲がって追跡してくる呪文を唱えられれば絶対にやられるわ!)
  覚悟を決めたジャンヌは、書架に手を伸ばして、先ほどアルテアが閉じ込められた『死霊秘法』を取ろうとした。
(本の中のアルテアを、この石板の呪文で助け出せば、あいつなんかメじゃないわよ!)
  だが何ということだろう、シルヴェスターが『死霊秘法』を収めた棚は高すぎて、いくらつま先で立っても跳び上がってもジャンヌには届かない。
  その間にシルヴェスターは呪文を途切れさせることなくゆっくりと追いついて、ジャンヌのま正面に立った。
  彼の指先からは二○○番手の絹糸よりも細い金色の光が放たれ、まっすぐに迫ってきた。
  ジャンヌは目を閉じて顔を背けた。
  と、突然、どうやっても届かなかった『死霊秘法』がぐらりとぐらついたかと思うと、ひとりでに落下した。
  シルヴェスターが撃った金の光は禁断の書物の表紙に命中し、黒い煙の尾を引く焼け焦げを作った。同時に、ジャンヌは白い曇りガラスのような靄に包まれてフッとばかりに消えた。
「莫迦な!  本にされてしまえばいかに優れた魔導士と言えども力を放てぬハズなのに」
  『死霊秘法』||アルテアでなければこんな程度では済まなかったであろう、小さな浅い焦げ目のついた本を拾い上げながらシル
ヴェスターは眉を痙攣させた。
「||そうか、ぼくが放ったこの心臓に針の穴を開ける呪文の力を、本…自分自身の身体で受け止めた拍子に、別の、瞬間移動の術に転換したんだ…  何てヤツだ…」
  感心し、地団駄を踏み、すぐに追跡しようとした時、上の書斎との連絡用に置いてある巻き貝の貝殻の中から声が響いた。
「シルヴェスター台下。ファーレンクロイツ枢機卿台下が約束の時間だとしてのお見えです。次期教皇猊下と評判のお噂高き方であれば、お待たせするのはどうかと…」
「分かった。すぐに参るとお伝えせよ」
  シルヴェスターは巻き貝の貝殻に向かって怒鳴り返すと、紅色のマントと翻らせて出口に向かった。
(なぁに、たかが小娘一匹、逃げたところで知れている。役所か異端審問所で何やかや申し立てても、あの荒れ城に棲んでいる娘とぼくとでは、皆が信じるのはぼくのほうだ。
  第一、異端審問所の筆頭審問官は、他でもないこのぼくじゃないか!
  後でゆっくりと捜し出して、まがまがしいものどもの餌にしてやる!)

  感情を押し殺した笑みを浮かべながら、可動暖炉の後ろに隠した本物の隠し通路から書斎へと戻ると、顔じゅうまっ白な鬚に覆われたファーレンクロイツ枢機卿が従者の司教たちを従えて、たた一人、螺鈿の椅子に浅く腰を降ろして待っていた。
「わが信仰の友・シルヴェスターよ。禁断の書物の焚書は進んでおるか?」
  老枢機卿は従者を下がらせた後、しゃがれて消え入りそうな声で訊ねた。
「至極順調にございます。…何でしょうか私めの働きぶりにご不満でも?」
「いや、そういう訳ではない。むしろ、貴卿が担当になってからは、ローマにおける聖ペテロの布教開始以来、よくぞこれだけの神を冒涜する書物があったなと思わせるぐらいの大量かつ多種の禁断の書物を摘発し、関係者を懲罰に掛けておる」
「恐悦に存じます」
  シルヴェスターはテーブルの上のシャトー・ディケムを老人に勧め、自らも「失礼」と言って一息に飲み干した。
「問題はこの後じゃ。貴卿がこれほどまでに奮闘努力しておるにも関わらず、世間に流出する魔導書と魔導書とも言えぬまがいものの数が一向に減らないのはどういう訳じゃ?」「はぁ、それはどこかに神をも恐れぬ者がいて、版木なるものを駆使してそのようなものを大量に造り、売り捌いておるせいか、と」
「何とかせい!」
  老枢機卿の声にグラスのワインが波立つ。「は、ただちに」
(やったぞ!  これでさらなる錦の御旗が手に入った)
「それにもう一つ、…シルヴェスター、貴卿がヴァチカンに提出した魔導書や魔像はいづれも二級品ばかりで、真正の『死霊秘法』など一級品は皆無じゃ。一体どうなっておる?
  まさか先の一○○○年世紀末時の教皇シルヴェスター猊下のように、自ら魔導士にならんとして集めておるのではなかろうな?」
「滅相な!  真正の魔導書を回収できぬのは一重に私の力不足にございます」
「ならばこれ以上に申し伝えることはない」
  ファーレンクロイツ枢機卿は鬚の中の双眸をキラリと光らせて呟いた。






    アルハザードの野望(承前)

                1

  廃城と隣り合わせた修道院に戻ってきたジャンヌは、小さな山賊たちの手荒な出迎えを受けた。
「お帰りなさい、ジャンヌ先生」
「『しばらくかかる』と言っていたけれど日帰りだったじゃないか!」
「分かった!  先生も寂しくなったんだ!」「おや、先生ったら転んだの?  膝頭に血がにじんでいるよ!」
「ああこれ、これは道で蹴つまづいたのよ」「ぼくらにはいつも注意する癖に、慌てん坊の先生だなぁ…」
  向日葵のようににこやかに笑ったジャンヌだったが、心の中は千千に乱れていた。
(シルヴェスターが追ってきたらどうしよう?
  やつのこと、世界の果てまでも追ってくるでしょう。たとえうまく身を隠せても、子供たちを人質に取られたら…
  仮に彼も魔導書を蒐集し悪事を企んでいると訴えても、とても信じてもらえないだろうし)「先生どうしたの?  傷が痛むの?  司教様に援助をお願いする件がうまくいかなかったの?」
  子供たちのあどけない表情を眺めていると、(自分は八つ裂きにされてもこの子たちを僅かでも危険にさらす訳には行かない)という決心が固まった。
  傷の手当もしないままに城で最も高い塔にある王の私室に駆け込むと、完成した、または製作途中の偽の魔導書の山をぐるりと見渡した。
(この中にわたしにでも唱えられる呪文があれば、少しでも戦える、というのに…)
  彼女は手近にあった一冊を開いてパラパラとページをめくった。自分が城の壁をこすって集めて振り掛けた黴の粉が飛び散る…
  カタコトのラテン語で「炎」と「攻撃」の文字を見つけると、そこにあった呪文を途切れ途切れに唱えたが、さすがに全く何も起こらなかった。
(やはり偽物ではだめなのかしら。それとも本はある程度正しくてもわたしに魔力がないからかしら?)
「その両方だよ、ジャンヌ」
  後ろで声がした。ハッとして振り返ると、黒い寛衣と漆黒のマントに身を包み、手に彼女の居所と姿を写し出している水晶球を持ったシルヴェスターが立っていた。
「…城と修道院の蔵書だった魔導書の偽物を作って得た金で孤児院を経営するなどとはなかなか殊勝な心がけじゃないか
  まぁそのためにいまごろはヨーロッパのあちこちで魔導士志望の若者たちや好事家がまるで効き目のない呪文を熱心に唱えては失望しているのだろうけどね。
  みんな『自分に魔力がないせいだ』と信じて、滝に打たれたり辻斬りに走ったりしている。だから誰からも文句は出ない。いやはや全くよく考えたものだ!」
「お願い!  わたしはどうなってもいいから子供たちには手を出さないで!」
「これだけの偽物の山を見せらた後では約束できないな」
  シルヴェスターは大教会の天蓋を見渡すかのように天井近くまでびっしりと保管されている魔導書の山を見渡した。
「魔女に養われていたとあっちゃあ、みんな悪魔の子供ということになりはしないかな?」
「何ですって!」
  思わず叫んで後じさった。
「これだけの偽の本をたった一人で贋作したなどとは信じられない。おそらく子供たちにも手伝わせたのであろう。ならば同罪とは思わないか?」
「いいえ、これは全部わたしが眠る時間を
削って」
「民衆はよりセンセーショナルな話のほうを信じたがるんだよ。たとえそれが事実と違う脚色されたものであってもね。…魔女とその使徒たる餓鬼ども。絵柄が浮かんでくる
じゃないか?」
  ジャンヌは騎士の甲冑の置き物が携えていた剣を取り上げて鞘を払った。
「だから、ぼくにそういうものは通用しないと言っているだろう?  ここにはぼくにとって大切なものはないし、手加減せず、さっさと済まさせてもらうよ。本当は召喚した邪悪な神の餌にしてやりたいところだが、これでも忙しいのでね」
  シルヴェスターが片目をつむると、彼女は思いきり壁に叩きつけられた。続いてもう片方の目をつむると凄まじいかまいたちがジャンヌを襲い、衣をズタズタに切り裂いて、身体じゅうに深く鉤裂状の裂傷が走った。
  たちまち大量の血が吹き出して、彼女は両手で身体を抱えるようにしながら血溜りの中に倒れた。
(やられる訳にはいかない…  わたしはともかく、子供たちが…)
「おお、いいことを思いついた。子供たちこそ邪神の餌にしてやろう!  何と言っても生贄を喜ぶに違いないだろうから」
「許せない!」
  ジャンヌは朱に染まった白い素肌のまま、テーブルの足につかまってゆっくりと立ち上がろうとした。
  相手は鼻を「フン!」と鳴らし、クルリと背を向けて窓から孤児院のほうを眺めた。
  小鳥の囀りにまじって子供たちの歓声が聞こえる。
「大勢いるじゃあないか?  あんたの教育の賜物か、みんな可愛いし素直そうじゃないか。一つ、あんたの代わりをしてやろうか?
  あんな子供たちだったら、教え甲斐がありそうだ。いろんなことをね」
「ダメ!」
  彼女は苦しまぎれに先ほど唯一持ち出してきた小さなペトログラフの石板を投げつけたが、まるで届かず、近くのテーブルの上のとある一冊の贋作本の上に落ちた。
  シルヴェスターは一瞬にしていかにも人のよさそうな神父に変身した。
「じゃあこれから行ってくるよ。『ジャンヌ先生は長い旅に出られて、後はぼくが引き継いだ』と言いにね」
  彼の衣のあちこちからは急速な変装の時に発生した黒い邪気がかすかにたなびいている。
  その黒い気がわずかでも触れると、鉢植えの観葉植物はたちまち茶色くなって枯れ果て、壁には青黒い黴が生じた。
「ダメ!  絶対に!」
  ジャンヌは最後の力を振り絞って一気に突進した。
  剣はおそらく油断していたシルヴェスターの背中の中心を串刺しに貫いた。
「やった…」
  ホッとした彼女が安らかに目を閉じようとした時、くるりと振り返ったシルヴェスターがニヤニヤしながら後ろ手に手を伸ばし、血まみれの柄を掴んで一気に抜き去った。
「!!!!!
  貴方は本物のシルヴェスター枢機卿じゃあない!  …いいえ、人間でもない!  たぶん…」
  シルヴェスターが片目をつむると、剣についた血や床にしたたり落ちた血は小さな
アメーバの群れのように傷口に戻り、皮膚も服もすぐに復元した。
  血走らせたガラスのような目で見下ろし、ピカピカの曇り一つなくなった剣を振り上げると、機械のように一かけらの躊躇もなく、彼女の頭めがけて振り下ろそうとしたちょうどその時、
  一振りの偃月刀がカシャーンと鋭い音を立てて受け止めた。
  ジャンヌが霞む目で必死に確かめると、本にされてシルヴェスターの書架にしまわれたハズの、トルコ傭兵隊長の格好をしたアルテア・アルハザードが見えた。
  当然、驚いたのは彼女だけではなかった。「アルテア貴様…」
  さすがのシルヴェスターも大いに狼狽し、たじろぎ、二三歩退いた。
  アルテアが短い呪文を唱えながら手のひらでジャンヌの身体じゅうの深手をなぞると、傷はたちまち塞がって、衣装まで元通りになった。
「ありがとうアルテア、でもどうやって?」
  曇りが払われた瞳で魔導士の娘をしげしげと見たジャンヌは、アルテアの様子がいままでとはずいぶんと違うことに気付いた。
  なるほど服装やプロポーションは全く同じなのだが、目が優しい。顔付きも身のこなしも自信と野心満々の以前のアルテアとは違って、おとなしく、上品かつしとやかで、気品さえ感じられ、アラビアの姫君のようだった。
  おそらく油断をしていないアルテアとの再戦はあまりやりたくなかったのだろう、しばらくうろたえていたシルヴェスターだったが、テーブルの上に目をやってハッとした。
  ジャンヌ作の贋作の『死霊秘法』の上に落ちた石板が金色に光り輝きながら、ゆっくりと、今度こそ本当に消滅しようとしている。「おまえは…  もしかして…  贋物の『死霊秘法』が人の姿になったもの…」
「私は『死霊秘法』の削除版、または海賊版の化身。アルテア・ディレーテッド」
  磨き上げた金のブローチと、偃月刀のきっ先をキラリと輝かせて見栄を切った格好は、もしそう呼べるものならアルテアの姉のようだった。「なぁに、同じ『死霊秘法』でも削除版や海賊版だったら、その魔力は本物の、つまりアルテアの半分もあるまい!」
  気を取り直したシルヴェスターは、剣を床に突き刺して捨て、ゆっくりと両腕を丸く回転させて黒い邪気を集め始めた。
「ジャンヌ!」
  アルテア・ディレーテッドは、つい先ほどまで瀕死の深手を負っていたのに、いまは全く元の傷一つない身体に戻って戸惑っているジャンヌに呼びかけた。
「どうしてわたしの名前を知っているの?」「話は後、目の前のヤツを何とかしたいけれど、私はもともと本で、血も肉も備えていない存在。多少の魔法は使えるとは言え、このままではシルヴェスターには勝てないわ」
「わたしも戦いたいけれど、魔法はからきしダメなの」
「身体を貸してくれるだけでいいわ」
「えっ?」
「ジャンヌ、おいそれと簡単に首を縦に振らんほうがいいぞ」  シルヴェスターは印を結ぶ仕草を続けつつ割って入った。
  どんな凄い術を出すつもりなのだろうか、時間はある程度かかる様子だ。いま打って出れば大きな術は間に合わず、勝算が生じるかもしれない。
「…いったん本の化身と合体すれば、二度と元の純粋な自分自身には戻れぬぞ」
「本当なの?」
  ジャンヌが優しい目のアルテアに尋ねると彼女は悲しそうに瞳を伏せた。
  どうやら本物のアルテア、本物の『死霊秘法』と違って、絶対に嘘はつけず、人を欺けないような性質の存在らしい…
「ほら見ろ!  命が惜しければいまのうちに後ろを見ないで逃げ出すことだな」
  シルヴェスターは先の尖った黄色い歯を剥き出しにしてわめいた。
「それでもいいけれど、このままでは確実にやられるわ。私を倒した後、ヤツは必ず貴女の後を追うでしょう」
  本の少女は目を伏せたまま言った。
「子供たちも…」
  ジャンヌは窓の外を見た。
「シルヴェスターが勝てば、もちろん自分の思う通りにするでしょう」
  もはや選択の余地はない…
「来て、もう一人のアルテア!  わたしが自分で改竄した、決して人を傷付けることのない『死霊秘法』のアレンジ版!」
  トルコ傭兵隊長の制服姿も凛凛しい少女は、姉とはまったく違う澄んだ目でジャンヌを見た。
  二人の少女はいつしか半透明の身体になっていた。
  もうお互いの足で歩み寄ることもなく、まるで影絵と影絵が重なるように二つの身体が一つになったかと思うと、血と肉を備えた人の姿に戻った。
「チッ!」
  シルヴェスターは頬を歪めて舌打ちしたが、合体途中の二人は強固な球形の結界に守られていて手出しができなかった。
  ジャンヌの心の中には、数え切れないほどの魔法が掛け巡っていた。
  炎の術、氷の術、雷の術、瞬間移動の術、治癒の術、蘇生の術、心を読む術、結界を張る術、外す術、時間を速くする術、遅くする術、力を上げる術、素早さを上げる術、透視の術、未来を予測する術。記憶を封印する術、封印された記憶を解放する術、土火風水など大自然の力を利用する術、星星を旅する術、時と次元を越える術、念力、精神感応、生物を操る術、変身術、分身術、地を割り星を落とす術、相手の体力魔力を奪う術、仲間の力を上げる術、敵の力を下げる術、そして魔導書に人格を与える術…
  どんなに優秀な魔導士の見習いでも全部会得するには少なくとも一年はかかる多種大量の呪文が一瞬にして自らのものとなった。
  ないのは、本物の『死霊秘法』の著者、アブドゥドル・アルハザードが目指した外なる神たる古き支配者たちを確固として召喚する術だけである。
『トルコ傭兵隊長と修道女の衣装。どちらを選びますか?』
  内なる自分が外なる自分に訊いてきた。
『動きやすいので、トルコ傭兵隊長の姿のほうを』
  願うだけでジャンヌはアルテアたちと同じ姿になった。
  ひび割れて曇った部屋の姿見に写った自らの姿は、優しい表情のアルテアの妹そのものだった。
(そうなの…  『死霊秘法』の贋作を作った時からこのことは運命づけられていたのかもしれないのね)
  ジャンヌはとうとう覚悟を決めたのと、シルヴェスターが呪文を唱え終わったのはほぼ同時だった。
  見慣れた世界は一瞬にして姿を消し、様々な色をした大きな月がいくつも浮かぶ荒涼とした地平線が出現した。
(ここはどこ?  シルヴェスターの正体は何?」
  早速覚え立ての魔法で相手の心を読もうとしたけれど、「壁」で守られていて読むことができない。だが、失望する間もあらばこそ、同時に速修した膨大な知識から即座に該当箇所がひもとかれた。
『シルヴェスターも私と同じく本よ』
(どんな本?)
『そこまでは戦ってみないと分からない。でもとにかく『死霊秘法』のように文化文明が開けた後で、人間が記した本ではなくて、人間などまだ影も形もなかった頃に、遠い彼方の星の住人が著した「本」らしい』
  ジャンヌ自身も本と一体化した身であるから、図書館に通わなくても、索引や栞を調べなくても、まるでもう一人の自分と対話するように容易に集積した知識を引き出すことができる。
(シルヴェスターも同じ存在なら、わたしがいましているような調子で、わたしの…『死霊秘法』のことを探っているの?)
『一度ある本が人間化すると、もう他の本を付け加えることはできない。つまり合本になって力を増すことはできない。シルヴェスターは「シルヴェスターになった本」の範囲内の魔法しか使うことはできない。だから、そこに「相手のことを調べる魔法や呪文」がなければ、それはできない。
  彼がアルテアを本物の白紙の『死霊秘法』に封印したのも、もしかすると自分よりも強力な本の人格を野放しのままにさせておきたくなかったからかも…』
「削除版の癖に嫌にいろいろと知っているな」
  シルヴェスターはいまいしそうに言った。「あら、削除版のほうが真正版よりも内容が豊富なのよ。例えば…
  アブドゥル・アルハザードはその生涯で、ただの一度の直弟子を持つことはなかった。なぜなら、彼は自分以外の人間など金輪際信用できなかったからよ。
  でも魔法や呪文によってはどうしても助手の必要なものも多いし、アルハザードのような恐ろしく自尊心の高い魔導士は、他の魔導士には結構な仕事も使い走りに見えてやる気が起こらない。
  そこで一応『死霊秘法』を脱稿した段階でこの自らの忌まわしい著書に人の姿と魂を与えて、手伝わせることにした。本に人の姿を与える呪文はすでに考えてあって後は実際に試してみるだけだった…
  だけど、さすがのアルハザードもいきなりただ一部しかない『死霊秘法』で試してみる勇気はなかった。
  人の姿を与えるには、魔力を持っている本でなければならない。
  いろいろと実験してみるためには…」
「もうその辺でいいだろう!」
  シルヴェスターは虚空より取り出した杖で蒼黒い軽石に似た微細な気泡だらけの大地を一撃した。
  すると、ゴゴゴという低く鈍い不気味な地鳴りの音とともに、大地を割り、同じ岩質でできた天を衝かんばかりの巨大な岩壁が四方八方あらゆる場所からニョキニョキと聳え始めた。
  以前のジャンヌだったら腰を抜かし、気を失っていただろうが、削除版とは言え『死霊秘法』と合体したいまでは驚きも少ない。
  ほんの軽く足をふんばるだけで、嵐の海の中の小舟のように揺れる岩の上にしっかりと立ち続けることができた。
  彼女の周りをぐるりと取り囲んだ岩壁をよく見ると、一つ一つの壁は無数の棚が刻まれていて、棚の一段一段にはぎっしりと石板が収納されていた。
(ここはどこ?)
  ジャンヌは内なる自分…削除版の『死霊秘法』に尋ねた。
『ここは魔導書の世界。全ての宇宙の選ばれた魔導士が記した魔導書は、どのような下らない、つまらないものでも一冊残らず…石板粘土板の場合は一枚、羊革紙の書きものなどの場合は一ページ残らずここに保管されているわ。
  ある者から見てつまらない、下らないものでも、また別世界の者から見れば興味津津ということだってある訳でしょう?』
  シルヴェスターが、今度はごく短い呪文を唱えると、絶壁の石壁に彫り付けられた書架の中の石板のうちのいくつかが青や黄や赤の不気味な閃光を浴びて光輝き、それぞれ巨大な海老やなまこや昆虫や蝙蝠の姿に変身した。
(どうしよう、シルヴェスターはどんどん味方の下僕を増やしているわよ。こちらも…)『私には「ここ」の本に魂を吹き込む術はないわ。なにしろ「削除版」だもの。「完全版」の『死霊秘法』の執筆者アルハザードはここへやってきて、まず「ありとあらゆる」書物を実体化させる「本」に「魂」と人の姿を与えて、自らの下僕第一号にした。そいつがシルヴェスターよ!』
「エーッ!」
  ジャンヌは悲鳴を上げながら思わず二三歩退いた。
「…あんなヤツらを相手に、たった一人で戦わなくてはならないの?」
『大丈夫。こちらは削除版とは言え天下に名だたる『死霊秘法』よ!  あんな連中メじゃないわ!』
  心の中に棲み付いた本の魂が励ます。
  まず蝙蝠の化け物が編隊を組んで重くよどんだ霧を縫って急降下してきた。
  ジャンヌはそれらに向かって両手の手のひらを向け、
(全てを焼き尽くす地獄の火炎よ、ほとばしれ!)
  と念じた。
  ところがそんなものはとんと出ない。
  そのうちに最初の一群が牙と爪を剥き、
真っ赤な口を大の字に開いてすぐ目の前に
迫ってきた。
「ダメじゃないの、嘘つきッ!」
  叫び、顔をそむけた瞬間、突如虚空に爪の先ほどの小さな火の球発生したかと思うと、一瞬にしてモンゴルフィエ兄弟の気球ほどの、光輪と光環を伴う巨大な火球に成長し、化け物たちの先陣部隊をあっという間に飲み込んだ。
  火球はそのまま勢いをつけて蝙蝠の化け物たちの本体に直進した。
  何百何千匹といたであろうヤツらの仲間は逃げる間もあらばこそ、一匹残らず消滅した。「クッ!」
  さすがのシルヴェスターも、か弱い娘がものの弾みで突如として身につけた魔力にたじろいだ様子だった。彼は地上からジャンヌを包囲していた巨大な海老やナマコや蛭たちに一斉に飛びかかるように指図したが、上げ下げする指には勢いがなかった。
  ジャンヌは周りを取り囲んだ異星の軟体生物に身の毛もよだたせ、何で対抗しようか急には思いもよらなかったが、新たな魔法を唱える必要はなかった。
  蝙蝠生物を殲滅させた先ほどの火球が可能な限り鋭い軌道を描いてUターンした。
「ダメ!  何をするの!  わたしまで焼け死んじゃうじゃないの!」
  ジャンヌの悲痛な叫びも空しく、火球はさらに計り知れなくなるぐらい膨張肥大しつつ地上に激突した。
  擬足蠕足や殻を不気味に蠢かせていた連中はこれまた瞬く間に消し飛び、後には何一つ残らなかった。
「やった!  やったぞ!  偉そうなことを
言っても、やはり削除版は削除版だ。己の術をコントロールすることもできなかった!」
  シルヴェスターは目玉をこぼれ落ちそうなぐらい見開いて、黒く炭化した大地の上を、残りの人の形をした下僕たちと踊り回った。
  と、それらの下僕たちが堅い鱗に被われた足先のほうから一匹、また一匹と、地面に吸い込まれるようにして姿を消した。
  気が付いた時には、彼等の影は一つとして見えなくなっていた。
「あれっ、あいつらみんなどこへ行ってしまったのかな?  暇(いとま)を出した覚えもないのに…」
  首をひねるシルヴェスター枢機卿は無数の触手に靴底を支えられて、自らの身体が高くもちあげられているのに気付かなかった。
「シルヴェスター台下」
  彼は目の前に球状のすこぶる頑丈そうな結界に守られ空中を浮遊しながら現れたジャンヌの姿を見て腰を抜かした。
「あら、そんなに驚かれることもないのでは?貴方も魔導士なのでしょう?」
「莫迦な!  たかが削除版の癖に…」
「悪口を言える立場かどうか、ご自分の足元をご覧になったら?」
  促され、詰め襟から蒼白い首を少しばかり伸ばして足元を除き込んだシルヴェスターはさすがに生唾を飲み込んだ。
  得意の瞬間移動の術で逃げようとした直前、それを許さない特殊な霊気を帯びた触手の束が彼の首と両手両足を捕まえた。
「無礼者!  妹が兄に向かってこんなことをしていいと思うのか?」
「貴方がわたしの『兄』ですって?  眉唾じゃあないの?
  貴方は誰?  何の為に魔導書を集めているの?」
「ぼくはアブドゥル・アルハザードによって人の姿を与えられた彼が修行時代に著した魔導書だ。確かに晩年に執筆された『死霊秘法』ほどは有名ではないが、あの狂えるアラビア人の著作であることには間違いない!
  だから、兄に向かって無礼を為すのはやめろ!」
  シルヴェスターは手足をじたばたさせながらわめいた。さすがの白皙の美形もこうなってはおしまいだった。
(「兄」?  あのアルテアの兄?)
『騙されちゃダメ!  まるっきり嘘ではないにしても、奴は信じて心許せる存在ではなくってよ!』
  だがジャンヌが心の片隅で(もしそうだったらどうしよう?)と思った途端、術が緩みシルヴェスターをいましめ捕らえていた触手が緩んだ。
  彼はその隙にするりと宙空に逃れ、新たに別の術を唱えた。
  大きな原色の色の月が浮かんだ黒い空は芝居の劃き割りのように裂けて破れ、シルヴェスターはその間からするりと逃れた。
  ジャンヌは素早く黒いマントを身に巻きつけると、黒い鶫(ツグミ)に変身して後を追った。
  シルヴェスターが逃れたのは、枢機卿館地下の魔導書の図書館だった。
(あの星にあった魔導書のうち、目ぼしいものはすでに全部ここに移してあったのよ。
  残った本の力では埒があかないと思ったので、より大切なコレクションを使うことにしたのね…)
  黴と香の匂いの立ち込める書庫を見渡すと、奴は案の定アルテアを閉じ込めた『死霊秘法』の棚の脇にいた。
  同じ棚に置いてあったと思われるエルトダウン陶片やルルイエ写本、ナコト写本などの忌まわしい記録が床に落ちて散らばっている。「寄るな!  それ以上近寄るとこれは魔法の炎で燃やしてしまうぞ!」
  シルヴェスターは『死霊秘法』を両手で抱え、後じさりしながら叫んだ。
「あら、その本はいかなる魔法の炎でも焼くことはできなくってよ。そんなことは貴方が一番よく知っているでしょう?」
  旧き古えの支配者を召喚したいのは山々なのだろうが、どうやら旧い神神を意のままに操ることは流石のシルヴェスターにもできないらしい。…それはそうだろう。旧き支配者の存在を現在の魔導士たちに伝えた、その意味では大功労者のアブドゥル・アルハザードでさえ、長く願い研究し続けても叶わなかったことなのだ。
「これだけは渡さんぞ!  絶対に!」
  目を血走らせ、唾を飛ばしてわめいてみても、実力の差は明らかだった。
  削除版であるとはいえ、シルヴェスターは『死霊秘法』の敵ではない…
  先ほどアルテアをはめたような、よほどの騙し討ちをしない限り…
  ジャンヌが片目をつむると、禁断の邪神のことを記した他の魔導書は親指の爪ほどの大きさの小さな豆本に縮んでジャンヌの掌の上に集まった。
「返せ!  ぼくはアルハザードの正統な後継者だ!  遺産の全てはぼくのものだ!」
「あら、アルハザードに息子がいたなんて言う話は聞いたことがなくってよ。娘がいたという話も聞いたことはなかったけれど、『死霊秘法』の化身なら、アルテアが唯一正統な継承者じぁあないかしら?」
  ジャンヌは炎の術を撃とうと指先を向けた。
  シルヴェスターや他の有曾有無曾有の本は灰になるだろうが、『死霊秘法』だけは残るだろう。
「も、もはやこれまで!」
  観念したシルヴェスターは『死霊秘法』の冒頭の一ページを開くと、身体を平面にしてその中に逃れた。
  ジャンヌが駆け寄って一ページ目を開くと、手描きの差し絵として描かれたアラビアはサナアの街の街角に消えようとするシルヴェスターが見えた。
(もちろん追撃ね!)
  ジャンヌは近くの机に本を開いて立て掛けると、自らも身体を平面にして後を追った。

                2

  魔導士アブドゥル・アルハザードが生きたオールド・サナアの街は、敵が侵略してきたことを考えて、どこも高い石の城壁に囲まれて、道という道は狭くくねくねと曲がりくねっていた。
  近くの食堂からは羊の肉を焼くおいしい匂いが漂ってくる。どうやらいまは断食月ではないらしい…  回教寺院の塔からは朗唱者が朗朗とコーランを唱えている。
  山賊ごっこだろうか、男の子たちが玩具の偃月刀を振り回しながら石畳の坂を上がって行く…  顔を黒いヴェールですっぽりと覆った女たちが、近くのオアシスから駱駝で運ばれてきた野菜や果物を山盛りにして並べた市場(スーク)の方に行く…
( イスラムの教えが浸透したサナアでは、アルハザードはひっそりと身を隠して棲んでいたはず…)
  物陰に隠れたジャンヌは虚空から水晶球を取り出して眺めると、小さなみすぼらしい家の中で、虫喰いだらけのテーブルの上に置かれた一冊の本に向かって、しきりに呪文を唱えている鬚のアラビア人の姿が浮かんだ。
  その脇に顔をすっぽりと黒い頭巾で覆った贋修道士がいる。
(姿を消し、なおかつ気付かれないようにして、この部屋に移動する!)
  ジャンヌが念じると、ただちに回りの光景は水晶球と同じものになった。
「さてシルヴィアス、後の呪文は貴様がやれ!」
  アブドゥル・アルハザードは険のある表情で至極偉そうに命令したが、そのしゃがれ声には心なしか張りがなかった。
  シルヴィアスと呼ばれた、身体つきがシルヴェスターに非常によく似た魔導士は、こくりとかすかに頷くと、低い女の声で奇妙な呪文を延々と唱えた。
  するとどうだろう、本のページがあたかも強風に煽られたかのようにパラパラとめくれ、黒い蚯蚓に似たアラビア文字の一群が宙に漂い始めた。
  さらに呪文を続けると、黒い渦となってその場で回転していたそれらの文字は、次第に人の…目鼻立ちの整った砂漠の幻の民族の少女の姿になった。
「これでよし、これでわが心血を注いだ魔導書『死霊秘法』は、禁書に指定され、有力な白魔導士が追跡を試みても、自ら戦い、逃れ、時を伺い、邪悪なる旧き支配者の存在を人々に知らしめ、我が名と共に後世に名状し難い恐怖を与え続けるであろう!
…目を開けよ、我が娘『死霊秘法』の化身アルテア・アルハザードよ!」
  少女はアルハザードの命に応えて、鋭く叡智に満ちた瞳を開いた。
「儂に万一のことがあった場合は、儂の意思を継ぎ…」
「やなこった!」
  開口一番、アルテアはきっぱりと言った。「何と!  儂はおまえの生みの親なのだぞ」「それがどうした?  娘…子供というものは親とは別の人格を持ったものだ。それにおまえがコーランの教えを信じる敬虔な回教徒だとでも言うのなら、道徳を振りかざすのもいいだろうが、そうではないのだろう?」
  アルテアはテーブルの上の宙空からゆっくりと降りてきた。
「おいシルヴィアス、おかしいじゃないか。こんなハズでは…」
  年老いた魔導士はうろたえ、取り乱し、助手を責めた。
「私は全力を尽くしました。お約束の通りお暇を…自由を戴きたく思います」
  女魔導士シルヴィアスは空間を櫛形に切って、その隙間に消えようとした。
「ちょっとそこの、待て!  誰が去っていいと言った?」
  アルテアが指をパチリと鳴らすと開き掛けていた空間がまた閉じて、シルヴィアスはその間にはさまれてしまった。
「わたしは、アブドゥル・アルハザードの著書一冊に人の形を与える契約をした魔導士です。ご覧の通り彼女は人の形と自分でいろんなことを考えることができる魂を得た。これ以上何をしろとおっしゃるのですか?」
「儂は儂の言うことをあんなことも、こんなことも何でも聞く娘が欲しかったのじゃ!」
  アルハザードも口角泡を飛ばしてわめいた。(そんなにいろんな注文を付けるのなら、一から十まで自分でやればよかろうに!)
  自分の親ながらアルテアは眉を潜めた。
「子の性格が親に似るのは当然です。術を施す前に何度も申し上げたでしょう?」
  シルヴィアスはとても苦しいそうだった。「だから、優秀で、人の言うことをよく聞き、立派で、人類の尊敬を一身にあつめるような魔導士となって現れる、と思ったではないか」「冗談はよして!」
  シルヴィアスは何とか抜け出そうともがいたが、無駄だった。
「ふざけた野郎だ。邪神の餌にしてやる!」
  アルテアが呪文を唱えると、透けた時空の向う側から、七色に輝くシャボン球に似た有機質の固まりがやってきた。
「あ、あいつはウボ・サトゥラ!  …アルテアおまえはあいつの召喚もできるのか?」
「シルヴィアス魔導士も莫迦だけど、おまえも莫迦じゃない?」
  アルテアは形のよい鼻をフンと鳴らした。「あたしはもしその気になれば有名無名の全ての旧き神神をたちどころに呼び出すことができてよ」
  彼女は腕組みをしながら哀れなシルヴィアスが絹を裂く悲鳴を上げながらアメーバ状の生物に飲み込まれていく様子を楽しそうに眺めつつ言った。
「すると、全人類を滅ぼすことも…」
「今すぐやって欲しくって?」
「あ、いや、今すぐはやらなくていい」
  父親であるはずのアブドゥル・アルハザードはうろたえて口ごもった。
  魔導書に人の形を与える女魔導士シルヴィアスが完全にウボ・サトゥラに飲み込まれて消滅し、邪神もまた召喚者の命を完遂して時空の彼方に去った…

(どうだ?  これでぼくがなぜアルテア…『死霊秘法』やその他の魔導書を目の仇にするのか、よく分かっただろう?)
  突然思念の呼びかけがあったので、ジャンヌがギョッとして振り返ると、彼女と同じく自らを透明にしたシルヴェスターが立っていた。
(あの女魔導士のシルヴィアスという方はぼくの姉だ。…さあこれで納得したはずだ。ぼくはアルハザード父娘はもちろん、キミをはじめいかなる魔導書造りも許しはしないことが!)
『この人は本当に正義の人かしら?』  内なるジャンヌが呼びかける。『…でも、それならどうして子供たちまで殺そうとしたの?おかしいじゃない?』
“そう、その通り!”
  心の中心に明瞭な声が響いたかと思うと、サナアの街の一角のみすぼらしい家は途端に白銀に炎でメラメラと燃え上がり、一面白い床があるだけで果てしなく何もない世界が現れた。
“シルヴェスターは本の魔導士よ!  従ってどんな本でもチョイチョイと改竄することなど朝飯前。この本は確かにあたしだけれど、現在は奴もまた同じ『死霊秘法』…つまりジャンヌ、貴女の目の前に潜り込んでいることを忘れないで!”
「畜生ッ!  本の分際でどうして邪魔ができるのだ!」
  実体を現したシルヴェスターは血走らせた目をカッと見開いた。
“『死霊秘法』…アルテア・アルハザードはただの本じゃあなくってよ!”
「クソッ!」
  シルヴェスターは風を喰らって逃げた。
“さてと、こうなったのも何かの縁。あたしは自分の生い立ちをペラペラと人に喋りたくなんかないけれど、本当の事情を説明しなければ奴は倒せないからね”

  西暦七三八年。
  狂気の魔導士アブドゥル・アルハザードがダマスカスの街角で衆人監視のもと、見えない怪物に四肢を引きちぎられ、貪り喰われて無残な死を遂げたその後には、一冊のぶ厚い書物が残された。
『死霊秘法』と題されたその手書きの本は、明らかにアルハザードがこの世に書き残した置き土産だと推察された。
  聖なる槍で串刺しにして拾われたその本は早速教主スライマーンの宮殿に運ばれ、焚書に処せられた。
  ところが普通の火はもちろん、魔法の炎にくべても本は一向に燃えなかった。
  スライマーンと大臣たちは連名でウマイア朝イスラム帝国じゅうに触れを出した。
「この書物を地上より消滅させたる魔導士には、許されるかぎりの望みの褒美を取らせる」
  都ダマスカスや遠くエジプト、ペルシア、アラビア、アフリカ、ヨーロッパじゅうから名だたる魔導士が集まり、自慢の炎や全てを消滅させる光輪や、どんなものでも木っ端微塵に破壊する呪文で挑んだが、本はビクともしなかった。
  皆が諦めて「宇宙の彼方か深海の海淵に封印する」という案に後退しかけていた時、フェニキアの旧都ビブロスからシルヴィアスとシルヴェスターという双子の姉弟の魔導士が「ぜひ我等に試させて頂きたい」と言ってやってきた。
  教主側は別に拒否する理由もないので、日時を定め厳正な老魔導師を立会人に選んでやらせてみることにした。
  シルヴィアスは低い声で奇妙な呪文を延々と唱えた。
  するとどうだろう、本のページがあたかも強風に煽られたかのようにパラパラとめくれ黒い蚯蚓に似たアラビア文字の一群が宙に漂い始めた。
「おお!」
  立ち会いの役人や魔導士たちから感嘆の声が漏れた。
「これならばうまく行くやも知れぬ」
  さらに呪文を続けると、黒い渦となってその場で回転していたそれらの文字は、小さく開かれていたシルヴィアスの口に一字一句残らず吸い込まれた。
「お見事!」
  人々は絶賛したが、シルヴィアスの兄シルヴェスターは急に凶悪な表情になって言った。「莫迦め!  これであの名著『死霊秘法』は我等姉弟のものよ!」
  そう言い捨て、つむじ風に乗って逃げた。
  狼狽する役人たちに向かって、老魔導士は静かに言った。
「心配ご無用。『死霊秘法』はあの二人に扱いこなせるような代物ではござらん」
  そうとも知らず、大砂漠の大流砂の真ん中にある隠れ家に戻った姉と弟は、すっかり興奮の極みにあった。
「やったぜ姉貴。これで世界はぼくたちのものだ!  いままでさんざんぼくらのことを能無し魔導士と蔑んできた連中を見返すこともできるんだ!」
  シルヴェスターはそう言いながらかねて用意してあった立派な白紙の本を広げた。
「…さあ姉貴、吸い込んできた文字や文章をここへ吐き出せ」
  シルヴィアスは言われた通り、蚯蚓に似た黒い糸を吐き出した。だがそれらの文字は全然本の上には乗らず、宙を漂いながら次第に人の形を取り始めた。
  と同時に、吐き出しているシルヴィアスの姿が、まるで色と質量と水気の全てを失ったかのように、蝉の抜け殻に似た存在になって、ついには粉々に砕け砂漠の熱風に乗って飛び散ってしまった。
「姉貴!」
  シルヴェスターが叫んでも、後の祭りだった。
  一方、シルヴィアスの身体から出て、こましゃくれた少女の形を得た「もの」は「フン」と鼻を鳴らして言った。
「あたしを食べようなどという大それた考えを抱くから、逆に食べてやったのよ!」
「貴様、何者だ?」
「何って『死霊秘法』に決まっているじゃない」
「ぼくの姉貴をどうした?」
「どうしようとあたしの勝手でしょ?」
  怒りの霊光に身を包んだシルヴェスターは術を撃とうとしてたじろいだ。
  目の前の少女のほうが何百何千倍ものよほど強力な力を秘めている。
  確かにこいつをどうにかしようと言う方が無謀だった…と悟るに十分なくらいの。
  シルヴェスターは手を下げ、引き吊った笑みを浮かべながら後じさった。
「そうそう、それが利口というものよ」
  少女は下賎の者に対する女王のように、ろくに視線も交わさなかった。
  シルヴェスターは逃げた。顔を覚えられなかったのが不幸中の幸いだった…
  そして一千年の時を経て、彼シルヴェスターは果敢にも復讐を挑んできた。久しく待ちに待った野望とともに。

(するとアルテア、貴女に人の形にもなれる選択の幅を与えたのは、シルヴェスターの姉シルヴィアスであることは間違いないのね)“そうだ。彼等二名は失われた古代フェニキアの都市ビブロス最後の魔導士。
  ユダヤ民族の歴史と彼等のただ一つの神との契約、及びその神が地上に使わしたとされる神であり神の子であり精霊とされるものの言行録がビブロスのパピルスに記された。
(ということは…)
  アルテアは愕然とした。
(もしもシルヴィアスとシルヴェスターが、姉のシルヴィアス亡きいま、シルヴェスターがその気になれば、善き本[聖書のこと。信仰深いキリスト教徒は、婉曲にこう言う。
  ちなみに神のことは(我が)主(ロード)。
  災難や障害のことは試練と、言い換えて言う)
…シルヴェスターが善き本に、善き本の魂が人の形を得るように呪文を唱えれば…」
“おそらく再臨がなされるだろうな”
  アルテアはいともあっさりと答えた。
(わたくし、シルヴェスターを心を善きものに変えてみせます!  善き心の持ち主になったシルヴェスターが善き本に向かって呪文を唱えれば、救世主(メサイア)が再臨され、人類は今度こそ救済されます!)
“ヴァチカンもそれを期待して、彼を枢機卿という高位に叙階した…が、どうやら無駄な努力だったようだ。
  彼はダゴンを神と崇めるフェニキア…引いてはアトランティスの末裔だ。
  まかり間違っても新しきただ一つの神など崇めぬだろう”
(しかし…)
“そら来た!  油断するな。油断さえしなければ奴如き、削除版とは言え『死霊秘法』の敵ではない”
  真っ白いページの向こうからシルヴェス
ターがやってきた。
「シルヴェスター枢機卿、お願いがあります。叶うことなら善き本に貴導士の術を施して、主のお姿を再び現実のものにして下さい!」「できる訳がないだろう。ぼくはキリスト教徒のフリをしているが、真実はただユダヤのただ一つの神が唾棄するまでに嫌ったペリシテ||フェニキアの古の神ダゴン…おまえたちの言う、かつての筆頭大天使、地上に堕ちてからは魔王となった暁の天使ルシファーの下僕なのだぞ」
「でも貴卿にはできる!」
「この世界、邪悪の神及び悪魔は数え切れぬほどいるが、ただ一つの神は人の心それぞれの中にしかおらぬ。ただ一つの神が人を創造された時、(再び人類の前に姿を現す時は、人類を滅ぼす時だ)と決めたらしいからな」「でもイエス様は…」
「彼は世界を滅ぼす代わりに、自らが十字架に懸った。それだけのことだ」
  シルヴェスターは肩をすくめた。そしてゆっくりと自分が持っているらしい最高の破壊攻撃呪文を唱え始めた。
「ぼくはキミを殺す。キミを殺してからゆっくりとアルテア…『死霊秘法』に挑む。
  キミはぼくに殺されたくなければ、キミがぼくを殺すことだ」
「でも、そんなことをしたら、本に人の姿を与える古の術を持った人が…」
「確かに姉貴がアルテアに殺されてからは、ぼくがたった一人の継承者だ。けれどぼくは例え天地が逆さまになっても、善き本からキミたちの主を召喚したりはしない」
  シルヴェスターの指先の動きが終わりに近づいた。
“早くやれ!  やらなければやられるぞ!”
  アルテアが叫んだ。
「でもでも…」
  ジャンヌの瞳に大粒の涙がにじむ。
「貴方が心を変えて下されば、人類全てが永遠に救われるのよ…」
「全ての人類のほうが心を入れ替えれば、ぼくが善き本から善き本の化身を召喚したりしなくとも、地上の楽園が訪れるのではないのかな?」
“早く!  ここでやられたら、あんたもあたしも、これっきりなのよ!  あんたの大事な子供たちを守ることもできないのよ!”
  文字通り[悪魔の誘惑]というか、アルテアのその一言でジャンヌは決心した。
  彼女は破壊と消滅の呪文を放った。シルヴェスターよりも速く。
 シルヴェスターは今度こそ、一瞬にして炎に包まれた。  
「それでいいんだよ、ジヤンヌ。神も悪魔も言葉…即ち人の心の中にある。ビブロスの術で人の形を与えた本は、人そのものに他ならない。ただ一つの神は泥から人間を造ったとされるが、所詮ただの紙切れの束である本も、泥と変わらない…  問題はそこに書かれていること…魂…で、とどりつまり姿形などは文字通りただの形骸に過ぎない…」
  途切れ途切れに言うシルヴェスターの姿にモザイク状の細かいヒビが走り、ある瞬間にパッと砕けて飛び散った。
  その後には手鏡くらいの大きさの一枚の古びた亀裂だらけの石板が残された。ジャンヌがそっと広い上げようとすると、それもまた塵となって消滅した。
「シルヴェスター自身の正体も、太古から伝わったペトログラフだったのね…」
  呪文が解け、まぶしい青空と見慣れた修道院の尖塔が目に飛び込んできた。
  人間の姿に戻ったアルテア・アルハザードははしたなくも大きく両手両足を広げて伸ばし、大あくびしていた。
「ご苦労だったな、ジャンヌ」
「何が『ご苦労』よ!  わたしは、ひょっとすると全人類を救済できるかも知れない術の持ち主の、ただ一人の生き残りを殺してしまったのよ!」
「まだそんなことを信じているのか?  ハッタリだ、ハッタリ。奴におまえたちのただ一つの神を呼び出す力などあるものか」
  服についた埃をはたくと、アルテアは短く移動の呪文を唱えた。
「待って!  貴女ももう邪悪な存在との関わりを持つのはやめにして!」
「おまえは兵士に敵を殺すな、料理人に晩餐を作るな、洗濯娘に洗濯するな、と言うのか?」
「あなたは悪い人じゃないわ!」
「フッ、削除版の、しかも半分は脆い人間の分際で、完全版に説教するとはいい度胸だ。
  その気になったらいつでも挑戦は受けるから安心しな」
  そう言い残すと、彼女は黒い瘴気のつむじ風に乗って消えた。
  慌てて後を追おうとした時、緑の丘を走ってやってくる子供たちの姿が見えた。
  かなり遅れてファーレンクロイツの枢機卿が衣の裾を持ち上げて続いている。
(ファーレンクロイツの枢機卿様に、シルヴェスターをあやめてしまったことを悔懺して、せめて彼がやっていた仕事の引き継ぎをしなくてはならないかも…)
  屋敷の地下にあった魔導書のことも思い出し、ジャンヌは頭を抱えた。





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