暴君



  全知全能のアッラー(御名が永久に称えられんことを!)お許しあれ。落ちぶれ果て、落魄した身の唯一の希望は、耳かき一杯の阿片。たとえこの身がその一粒一粒に潜む悪鬼にボロボロに食い荒らされようとも、悔いはない。最初から野たれ死に覚悟の流浪の語り部とはいえ、毒虫が襲い、凍れる夜露の降り掛かる砂の褥でアッラーから賜る夢は、王候諸賢の集う黄金の広場で神を称える詩曲を朗詠する晴れがましきわが姿。
  しかし現実は、最後の所持品となった先祖伝来の琵琶を売り、その代わりに小指の爪の先ほどの麻薬を手に入れた醜悪な中毒患者。もはや我に残されたものは、夢と幻の境を無くする地獄の誘惑のみ。
  満天の星を仰いで黒ずみ曲がった爪先を舐めれば、それはたちまちオルフェの如く細く麗らかな楽人のそれに変わり、身に纒っていた繿褸は絹の舞台衣装となり、流沙の砂紋は我が唱うるコーランにひれ伏す蟻の如き巡礼の信者の群れと化す。
  その時我は見た。砂の群集の中に、頭一つ突き出た異様な風体の人影を…  我は幻の人波を掻き分け、その輩の下に走った。
  それは骸骨だった。かつては純白だったと思われる絹のターバンは血痕と思われる錆色に染まっており、服もズタズタだった。よく見ると骨もいたる処欠け、無理に継ぎ合わされた跡がありありと伺えた。その眼窩の奥には果てしない虚無と寂莫があった。
「遽やかにアッラーに慈悲を乞い、我が轍を辿る勿れ」
  地獄の底より深き深淵より聞こえるが如き恐ろしい響きだった。
「汝は誰ぞ」
  我は問うた。これも阿片の成せる技か。それとも放蕩の限りを尽くした報いがついに死神の姿を借りて到来したのか。だが真実はそれより尚恐ろしき事だった。
「余はこのアラビアの始源に於て栄えたる四大国のうち、南方のアド、即ち暴君シェダの統治する荒漠たる砂漠の国の魔導士なり」
  骸骨は屹立したまま語り始めた。我は名状しがたき畏怖に打たれ、その場に膝を着き、彼を見上げた。
「余は後世が伝える如く不遜に非ず。自尊家に非ず。当初は全うな学者として、星晨を観、治水の図面を引き、動植物を交配し、無辜の民草の幸いを計っていた。むしろ他の諸賢人に比べ、微々たる功績しか留めるを能わず。
  ある日のこと、久々に王シェダに御目通りして、ささやか乍ら勲爵を賜る栄誉を得た余は、有り金をはたいて衣装を作り、石柱の都アイレム、汝の知る処の無名都市にある宮殿に登城した。今そなたが目にしておる繿褸がその折の衣である。
  最早いまの世には失われたる  きらびやかな宝石の数々、その眩い光に照らし出された大広間で、余たちは王に拝謁した。
『もっと近う寄れ』
  シェダは確かに余に向かってそう言った。いや、そう言ったように聞こえたのだ。余は恐縮して恐る恐る、褒章を手にした王の前に進み出た。しかしそれは違っていたのだ。王の言葉は余よりも遥か後方の人士に向かって発せられたものだった。王は余を全く無視しその男のもとに歩み寄った。この時顔や態度にそれとなく侮蔑の表情が浮かんでいたのなら、余は己の名誉の為、例え相手が王であろうと何者であろうと斬り掛り、即座に衛兵どもに倒されていただろう。今から思うと、そうでなくても何故そのようにしなかったのか慚愧でならぬ。
  余は感情を表情に出す方ではない。永年の刻苦奮励でその様に出来ている。それよりもずっと以前、とうの昔に王は狂っておったのだ。金品に対する飽くなき欲望、良家の女子を攫奪しての、夜な夜な地下室で繰り広げられる背徳と淫亂。石柱都市は腐敗と堕落のどん底にあった。
  瞬間余はその様な獸から差しのべられる暖かい言葉を期待して列席していた自分に、嫌悪と吐き気を催した。列席の同胞も余に同情してくれた。その場で事を起こさなかったのは、彼等に迷惑をかけたくなかった故でもある。
『誰かがシェダを倒さねばならぬ』
  それまでは一顧だにしなかった閃きが天の啓示のように心中に渦巻いた。
  その日以来、余の研究は激変した。生産より破壊、報恩より復讐、愛よりも憎悪に燃えた余は、何喰わぬ虫も殺さぬ顔で、一刻も早く、暴虐かつ慈悲の一片だに無き王シェダを抹殺することに専心した。王は想像の通り強面の親衛隊及び強力な魔導士共に囲まれておるので、非力な余が大願を達成するには、それを上回る魔道外道の召喚より道はない。
  余は自信を持って、かつて誰もが顯現を夢見て果たせなかったとてつもない悪鬼悪神の招来を成すべく、寝食を忘れ、あの日あの時の意図せざる蛮王の無視のみを糧に、自ら夜叉となって古の書を繰り、僻地の土俗の観察と偽り、呪文を求めて地の果てを彷徨した。
 執念に瞳は真っ赤な血に染まり、若く溌刺とした体は木乃伊の如く干乾びてしまった。されどその時の余は躊躇なく狂える王を振り返らせ八つ裂きにする事のみに邁進していた故、その他の事象は髪の毛一本の価値も無くなっていたのだ。
  余は灼熱の太陽の下、蛇を喰らって命長らえている種族の者共の呟く地鳴りの如き人の言葉ならぬ呪いの文句を書き留め、また北へ登ってジャディスの沼に棲むおぞましき民の言葉を記し、タズムの深き森の魑の声を表記し、さらに北の果て極寒のタムードの凍土に覆われた遺跡を逐一我が手我が爪にて掘り起こし、禁じられた呪文を手にいれた。
  だが、だが、努力はまだまだ不充分であったのだ。余の蒐集した禁断の言葉の数々は、確かに威力はあっても、王シェダとその取り巻きを一気に殱滅させるにはまだまだ不充分だった。
  そのうちに余は、自分の心が大なる変貌を遂げたのを感じた。すなわち当初は、自分を無視したシェダ王のみに対する憎悪であった物が、一連のいきさつとは何ら関係もない民草にも及び、飢饉があれば王の倉の穀物が減ることに満足し、疫病があれば王の召し出す美女の数が減るのを喜び、洪水があれば王の領地が例え木簡一枚分でも削られることに北叟笑んだ。
  思えばこの時に気付いておくべきだったのだ。余は王を呪っていたのではない。実際は此の世の一切合切に災いが降り掛かることを心密かに望んで止まなかったのだ、と。
  ある晩、命を削るようにして集めてきた呪咀の数々を清書していた余は、疲労困憊の余りに筆を手にしたまま不覚にも眠りこけてしまった。すると夢の中で、闇より深き闇の中より、何かを囁く声がする。人や獣のような神が造り賜うたもののそれではない。おぞましきまがまがしき存在の唸り声、魔物たちの嬌声であることはすぐに判った。
『これこそ心血を注いで捜し求めていた物、異次元への鍵』
  そう確信した余は悪夢の中で筆を握り締め必死で言葉に非ざる言葉を書き綴った。果たして目が醒めた時、余の手元には厖大かつ詳細な究極の秘法が残っていた。
『ついに獲得したのだ』
「狂気の王に鉄槌を下す」  そんな当初の目的はすでに跡形もなく雲散霧消していた。余は自らの珠玉の傑作に「死霊秘法」と命名すると、脇の下にしっかりと携え、待望の虐殺行を開始した。
  シェダ王を最初に殺すことなど思いもよらなかった。まずタムード、タズム、ジャディスの王や貴族、姫たちを残忍非道な方法で殺し、存分に恐怖を味わって貰うのだ。余をこれほどまでの奈落の底に追いやった者には、それ相応の報いを受けて然るべきだ。
  氷壁の断崖絶壁の上にあるタムードの城塞では、宇宙の果て暗黒雲の渦の中コスより飛来せし者が存分に暴れ回った。阿鼻叫喚の中、余は純白の雪の城が次第に真紅に染まり、犠牲者の亡骸で飾られて行くのを大いなる満足を持って眺めていた。
  タズムの沼の町では南太平洋ルルイエの深淵より封印を破りて現れ出たる巨大な剣烏賊とも巻貝ともつかぬ多眼多触手の異形の生物が、逃げ惑う人々を次々と捕捉し、さながら豆の莢を弾く如くパチンと臓腑を破裂させるのを面白おかしく見物した。
  ジャディスでは、あの極悪非道なシェダ王が珍しく真面目に心を寄せていたさる姫君を捕縛し、散々弄んだ挙句、自慢の手術の腕を駆使して魑魅魍魎の体を繋ぎ合わせてふた目と見られぬ姿にし、生きたままシェダの前に放り捨ててやった。
  あの時のシェダの顔は決して忘れはしない。眼球がこぼれ落ちそうなくらい見開かれ、口は締まりなくだらりと開き、その奥には喉を塞ぐ泡で満たされているのがはっきりと見て取れた。
  だが流石はシェダ、腰の剣を抜き放つと、すでに錯乱した近従を手始めに、かつては愛したその化け物を一刀の元に切り捨てた。
『アルハザードよ。何故朕に仇為すや。かくも深き恨みの禍根は何なるや。不平不満を述べていたら朕が先にうぬを処刑していたことは認める。しかし、かほどに祟られるべき瑕疵を朕は知らず』
  王は最後まで王であることを捨てず、下問した。余は王が余を無視した経緯を語った。
『そう言えばそのようなこともあったかも知れぬが身に覚えなし。かような些事でかくも筆舌に尽くし難き報復、真に狂えるのは己ぞ』
『そうかも知れん』
  余は答えた。答えつつシェダを殺す異形を呼び出す呪文を唱えた。王を殺すのに余がすでに召喚したことのある異形を使うつもりはなかった。既に見た恐怖を再び見るのは退屈なだけである。余は自著の最後の呪文を歌うが如く滑らかに唱えた。
  人の世の、或は此の世の言葉ではない一連の呪咀が脳裏を駆け巡った。余は自分の頭蓋の内部が次第に膨張するのを感じた。肥大の余りこぼれ落ちそうになった眼球を慌てて掬って元に戻した。王の断末魔を見ないうちは断じて放棄は出来ぬ。
  やがて頭上には巨大な蛆の如き膨らみが育ち上がった。顫毛が動めき、蠕動を繰り返している。だが甚だ残念無念なことに、この時すでにシェダは完璧なる狂気のもたらす安寧の中にいた。
  蛆はサッと永年の怨敵に飛びかかると、グシャグシャとむさぼり喰った。
  余はシェダの体が完全に汚れた世界に落ちて永劫に復活せざることを入念に確かめると、足取りも軽やかにアドの城下町へ出た。そこここには虐殺された兵士や市民どもの亡骸が散乱している。だが、かような景色を見慣れた余にとっては、最早血糊も臓腑も歓迎の敷花と変わらなかった。
  余は涼しい顔で、至極幸福な気分に浸りながら町中を歩いた。大惨劇を何とか生き延びた市民共が恐い物見たさで寄ってくる。しかしそれらの顔には暴君を倒した英雄に対する畏怖も尊敬も一片だになかった。
  余は余自身が異形に変身しつつあるのを感じた。あれだけのことをやったのだからやむを得まい、などとは断じて思わなかった。余は自らの身中に育ちつつある物に対してこれまで通り制御し、飼い慣らそうと試みた。
  これだけの呪文を知っているのだ。これほどの艱難辛苦の末に入手した暗黒の叡知である。そう易々と乗っ取られはしない。
  だが、敗れた。何故敗れたのか理由は判らぬ。元よりあの者共は唯その事のみが目的で卑小な余を利用しただけに過ぎないのかも知れぬ。正真正銘、本物の尖った翼の生えた悪魔がヒラリと余の背中に舞い降りたかと思うと、小指の先から順々に体中の全ての骨を逐一丁寧に折って海鼠のようにしてから、激痛にのた打ち回る余を、これまた手足の先から順々にむさぼり喰った。
  余が生前最後に見た光景は、余の最期を見届ける民草どもの、ホッとしたような安心したような腑抜けたような表情だった」

  骸骨は話終えると、修復の跡がはっきりと見える顎の骨をけたけたと叩き合わせて笑った。
  我が辺りを見渡すと、我が聴衆と思われた人々は、みなこの魔導士によって殺された者共の血を滴らせた遺体であった。彼、かつてのアドの賢者アブドゥル・アルハザードは自ら生贄とした人々の遺体の全てを率いて、時と次元を越え、あてもなく彷い歩いているのだ。
「無視に憤る者、余の下に来たれ。側近に加えん」
  彼は我が肩に手を伸ばした。驚いて飛び退くと、亡者どもが骨と皮ばかりの手を差しのべて一斉に迫ってきた。
  我は心の底からアッラー(御名が永久に栄えんことを!)と預言者ムハマッド(魂の安らかならんことを!)に慈悲を乞うた。地獄でよいから全うな地獄で罪の償いを果たせんことを、懸命に祈った。
「今更救いを乞うても無駄である」
  アルハザードは骨の一つを取り外すと、その尖った先で我の腹を刳った。
  阿片のせいか痛みはない。だが反射的に傷を押さえようとして驚愕した。腸のあるべき処には、蛸のそれのような、小さな異形の目玉が露出していたからだ。
  百も、二百も…



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