弓と竪琴

      プロローグ

  いまからおよそ二○○○年前、紀元前五○年代。
  ローマの野心家ジュリアス・シーザーは、ヨーロッパ全土と小アジア、エジプト王国を含む北アフリカをローマの属国にし、自らその上に君臨する皇帝になりたいという己の野望を満たす一歩として、隣国ガリア(いまのフランス、ベルギー、北イタリアなどの地方)に住むケルト人たちに突如宣戦を布告した。
  戦争は八年間の長きにわたったが、圧倒的多数と、攻城弓などの最新兵器、それに中央集権による進んだ戦略と戦術と、卑劣な策略を弄するローマ軍のまえに、三○○の誇り高い部族が次々と降伏し、八○○の町が落ちた。
  これは、その時代を生きた弓の名人の少年と、竪琴の名手の少女の物語である…

   第一章

      1

「キアン!  キアンったらもう!  どこへいったのかしら?」
  両手にそれぞれ山盛りの牛糞と鶏糞の入った手桶を下げた八、九歳の愛らしい金髪の少女が、納屋の戸口のところからあたりを見渡していた。
「また狩りに行ったのね!」
  彼女はそうつぶやいて仕方なく、自分一人で肥料を畑に撒きに行こうとした。ちょうどその時、彼女より二つ三つ年上のいかにも敏捷そうな少年が、手に子供用の弓を持ち、背中には矢筒を背負って母家の窓から抜け出そうとしていた。
「キアン!」
  少女が一喝すると、少年は窓から落ちて、地面にドスンと尻もちをついた。
「いてて、ブリジット。なんだよ?」
「きょうは畑を手伝ってくれる約束でしょ?」
  ブリジットと呼ばれた少女はそう言って桶を押しつけた。キアンと呼ばれた少年は、その臭いに思わず顔をしかめた。
「族長の息子がなんでこんなことをしなくちゃいけないんだよ!」
「ローマとの長い戦争で、大人の男の人はみんな友好部族を助けにいったり、雇われ兵士になったりして、お陰で畑は荒れ放題…  母さんたちだけじゃとても耕しきれないわ」
「だから、大物を仕留めて肉を食べさせてやるからさ!」
「お肉は食べたいけれど、畑も大切なの!」
  ブリジットはキアンの貫頭衣の袖をつかんで引っ張り起こすと、堆肥を山のように積んだ一頭立ての荷馬車に乗せて、無理やり畑のほうに連れていった。
「いてて!  手伝うよ!  手伝えばいいんだろう?」
  収穫を終わったばかりの葡萄畑と秋小麦。
  そのあとにはまたすぐに春小麦を蒔かねばならない。(このころはまだ「農地を休ませる」という考えは薄かったが、肥沃なヨーロッパの大地は当時の人口を養って余りあった。土地を順繰りに休ませる「三圃制度」が確立したのは中世以後)
  厳しい冬をまえにして、玉ネギや人参が最後の刈入れを待っている…
「葡萄畑へのお礼肥と、小麦畑への堆肥の仕込みがすんだら、干し草積みを手伝ってね。それが終わったら粉輓きと…」
  ブリジットは彼に鋤と鍬を手渡しながら頼んだ。
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。羊の世話とか、種蒔きとかは?」
「それはもっと小さい子供たちにやってもらうわ。…ドルイド僧たちは『このごろ子供たちが寺小屋にこなくなった』と嘆いていたけれど、みんな戦争が悪いのよ」
  キアンは仕方なく、弓を馬鋤の手綱に持ち替えて、畑を耕し始めた。
  太陽が空高く上がり、貫頭衣と背中がうっすらと汗で張りついた頃、深く冴え渡った秋の空を、南に向かって渡って行く鴨の群れが見えた。キアンは馬鋤の手綱を離して、持ってきていた弓に矢をつがえ、引き絞った。
『この弓矢もずいぶん小さくなったなぁ。また自分で一回り大きなものを作らなくっちゃいけないな…』
  群れの中の一羽を狙いながら彼は思った。
  矢は澄み切った天に吸い込まれるようにして消えたかと思うと、見事に獲物を射落として落ちてきた。
  矢を抜く。後で洗って矢筒に戻す。子供の彼にとって自分用の矢はすこぶる貴重だ。鴨は羽根をむしるが、その羽根も後で矢羽根や枕に詰めるために別の小袋に貯めておく。次に愛用の狩猟ナイフで血抜きをし、肉と臓物を分ける。ブリジットは鳥の肝臓や心臓に目がない。『あんなものよくも!』と思うけれども、他の男の子たちに言わせると『女の子は大きくなって赤ちゃんを生むために、なんでも食べれるようにできている子が多い』のだそうだ。
  鴨を捌いていると、手に小さな竹で編んだ行李と水の入った竹筒を手に下げたブリジットがトコトコと歩いて近づいて来た。畑のまん中では逃げも隠れもできない。
「まぁキアンったら、しょうがないわね!
せっかくお弁当を持ってきてあげたのに!」
  彼女は竹筒の水を注いで、キアンが血だらけの手を洗うのを手伝った。
「いや、あんまり狙いやすいところを飛ぶものだから…」
  キアンはしきりに弁解した。
「これは晩のおかずにします!  ここが終わったら忘れずに干し草のところに来てね!」
  ブリジットは弁当を置き、代わりに鴨を没収して帰っていった。バスケットを開けると干し葡萄と蜂蜜入りのライ麦パン、ハムにチーズ、それにワイン酢に漬けた芽キャベツと青アスパラガスが入っていた。甘草で味をつけた、手作りのハートの形のクッキーも…
  太陽が西に傾いた。キアンはヤケッパチでものすごい勢いで干し草を積み上げていた。「ようキアン!」  声がしたので仕事の手を止めると、彼より三つ年上の少年・ルーが、子分の少年たちに取り囲まれて立っていた。「せいが出るじゃないか?」
「まあね」  キアンは額の汗を拭いながら答えた。「キミたちのところはもう終わったのかい?」
「終わったさ!」
「早いな」
「早くできたヤツには褒美を出したからだよ」
  彼の言葉を裏付けるかのように、何人かの少年は嬉しそうに銀貨をもて遊んでいた。
「キアン、おまえも取っとけよ!」
  ルーはそう言いながら、キアンの胸元に銀貨をねじ込んだ。
  キアンはそれを取り出して、夕日にかざして見た。
「こ、これは!」  彼は驚いた。「ローマの銀貨…」
「そんなに驚くなよ。ケルトの商人でもローマの貨幣くらい使うさ!」
「訳のわからないお金は貰えない!」
  キアンはそれをルーに返そうとした。
「やせ我慢するなよ。欲しいものがあるんだろう?  金さえあれば何だって買えるさ!」「いらない!」
  キアンは銀貨をルーに投げ返した。
  ルーの腰に吊した剣が目にも止まらない速さできらめいて、鞘に収まった。床に落ちた銀貨は四つに割れていた。
「しょうがない。おまえらで分けろ!」
  ルーの言葉を待たずして、子分たちは我先に大きな破片を拾った。彼らが出ていくのと入れ替わりにブリジットがやってきた。
「そのお金、ローマ軍の道案内をしてもらったお金でしょう?」  彼女はすれ違いざまにルーをにらみつけた。「裏切者ッ!」
  ルーもブリジットをにらみ返したが、そのまま去った。
「ルーの両親は戦争で早く亡くなって、苦労したんだ」
  キアンは彼を弁護した。
「でも、でも許せないわ!」
  ブリジットは声を震わせた。

「きょう部族会議の席に、おまえのお父さんが来ていてな」
  農作業をすませてへとへとになって帰ったキアンに、彼の養い父がそう言いながら、大きな袋から、まるで釣り竿のそれような細長い袋を取り出した。
 ケルトでは、身分の高い子供ほど、成人するまで親戚や他人の家で育てられる。
  明るく燃え盛る蝋燭の下、キアンは思わず身を乗り出した。
 蝋燭は当時とても高価だった。先の弁当を見ても、彼の一族は比較的裕福である。多くの家はひどい臭いのする獣油を使うか、暗くなると寝てしまう家が多かった。
「キアン、父上からおまえに渡してくれるようにと頼まれた」
「養父さん、なにこれ?」
  大きく細長い袋を見て、キアンの胸は踊り、瞳は輝やいた。すでに義理の弟たちは、中に五色の羽根の浮いている、水晶みたいに透明なローマのビー玉と、鋼の釣り針をもらっていた。
「開けてみろ。おまえのものだ」
  キアンは、このあいだ一二歳の誕生日に  買ってもらったばかりのピカピカ光るゲルマンのゾーリンゲン産の狩猟ナイフで、縫い止めてあった糸を切った。実はこのナイフ、もちろん大の大人用で、子供のキアンが誇らしげに腰に吊すと、まるで短刀のようだった。
「『それが体に合わなくなったら、その次はわたしの弓を譲ろう』とおっしゃっておられたぞ」
  キアンはドカッと敷物の上にあぐらをかいて、中身を打ち開けてみた。
  それは、大きな子供用の弓だった。子供用とは言っても、大人の、それも力自慢の弓取りが使うのと同じ、何年もじっくりと乾燥させた、堅くてどっしりと黒光りのする重い樫の枝でできていた。
  キアンは飛び上がって喜んだ。
「やったあ。こんなのが欲しくて、自分で作ろうと思っていたところだったんだ!」
「礼は父上に言うんだ。それから、絶対に人に向けるなよ。森で獲物を狙う時は、よく見てから矢を放つのだ。孕んだ雌も射てはならない」
「うれしいな!  ヒャッホー!」
  キアンはただちに子供部屋に戻ると、とっておきの矢弦用の麻紐を取りだし、もどかしい手つきでそれをやや強めにピーンと張った。
  キアンにとって新しい大きな弓は、より大きな豊饒のしるしであり、獣や鳥たちにとっては、確実な死の宣告だった。
  弓とセットになっていた矢の数は全部で
六○本しかなく(ケルトはローマと同じ一二進法)自分で作るか、それとも獲物を売って買うかしなければいけない、と思った。
  きょうまではせいぜい鴨のような鳥、リスやノウサギを射るのがせいぜいだった。森の中で鹿や貂や狼や、ほかのどんなに素晴らしい獲物を目の前にしても、射程距離の関係で諦めるしかなかった。
『あしたからは違うんだ!』
  そう思うと、ひどく疲れていたのにもかかわらず興奮して眠れず、窓越しに見える月や星や、コウモリやリンゴの実に狙いを合わせてははずし、合わせてははずしした。やっとのことで眠気に包まれると、彼は新しい弓と矢筒を抱いて眠った。見る夢はもちろん、両手に抱え切れないほどの獲物であり、驚嘆する養父一家の姿であり、料理に腕を振るう、幼な馴染みでキアンと同じように隣家に預けられているブリジットの姿だった。

  翌朝、まだ夜が明けやらないうちにキアンは起き出して、外の冷気よりは暖かく感じるようになった井戸水で顔を洗うと、新しい弓と矢筒を背負って歩きはじめた。
  ブリジットの家の納屋からは乳しぼりの音が聞こえてくる。今朝も相変わらず早い。彼女の家の牛乳は近郷近在にすこぶる評判がよくて、老人や病人を抱える家の者が、はるばる隣村から買いにくるほどだった。なんでもいつも彼女の美しい竪琴の音を聞いている牛たちが、すごく栄養のある乳を出すのだ、という噂である。
  キアンはその評判の納屋を覗いていくことにした。
  数人の女たちにまじって、小さなブリジットも乳しぼりを手伝っていた。
「おはよう!  ブリジット」
「おはよう!  キアン。きのうはどうもお疲れさま!」
  彼女はキアンの姿を見て、ニッコリと微笑んだ。濃い金色の髪、コバルト色の瞳…  彼は働き者のブリジットが好きだった。彼女のような大きな家の一人娘なら誰も、いまごろはみんなベッドの中で眠っている時間だ。好き好んでしんどい乳しぼりなどしなくても、据え膳で食べられる身分のはずだ。
  ブリジットのほうも彼が好きだった。族長の家の一人息子なら、戦いの時は先頭に立たねばならず、従って幼いころから学問とともに剣を学ばなければならない。なのにキアンは弓を選んだ。勇ましいいくさの歌よりも、狩りの歌や働く者たちの歌を好んだからだ…
「キアンどうしたの、こんなに早くから?」
  彼女は、自分用のガラスのコップに乳をしぼってキアンに勧めた。
「ありがとうブリジット。これを見てくれよ」
  彼は牛乳を一気飲みすると、背中に背負った新しい弓を取り出して見せた。
「まぁ!」
  彼女は思わず右手で口もとを隠した。
「すごいだろ?  きょうからは大物を狙えるんだ!」
「わたしも連れていって!  きのうの鴨料理が評判が良くて、猟師から買うことになったの。だからわたしは提案したの。『それだったらキアンに頼んだら?』って。わたしも鴨だったら血を抜いたり、羽根をむしったりできるわ!」
「ジャマしない?」
「ウンッ!」  ブリジットは大きくうなづいた。「絶対に音をたてない!  話かけたりしないから!」
「じゃあいいよ。その代わりお弁当を作って!」  キアンはブリジットの家の女たちにまじって牛乳の桶を馬車に積むのを手伝いながら言った。
「お安いご用よ!  待っていてね。それに養母さんのお許しももらってくる!」
  彼女を待つあいだ、キアンは牛乳運びを手伝っていた。
「キアン坊ちゃん、あまり遠くへは行かないでおくんなさしましね。山の七合目あたりからは狼が出ますから」
「もしも狼が出たら、ブリジットお嬢さまを守ってやって下さいね」
  女たちは口々に言った。
「もちろんだよ!  でもそんなに遠くへは行かない!」
  キアンは胸を張って答えた。
「『水晶の湖』には北から南に渡る鴨がたくさん来て、羽根を休めていますよ」
「秋のノウサギはシチューにするとおいしゅうございますよ」
  そんな話を聞いていると、ブリジットが戻ってきた。背中にお弁当の入った小さな旅の柳行李と、小さな女の子用のおもちゃの竪琴を背負っている。
「竪琴も持っていくの?」
  キアンが尋ねると、ブリジットはまるでもう猟場についたような真剣な表情で『ウンウン』とうなづいた。
  村の広場では男の子たちが木刀片手に剣道の稽古をしていた。教えているのは戦いで深い傷を負って帰ってきた戦士たちだった。キアンは族長の一人息子でもあり、幼いながら近郷に名を響かせる弓の名人だったので、時折チラッと睨まれるぐらいで、何も言われなかったが、それでもピリピリと張り詰めたものを感じずにはいられなかった。
  準備万端が整うと、二人は勇躍森へと出発した。
  黙っていたけれど、キアンはブリジットを従えて歩けることがとても嬉しかった。あと少しすると男の子と女の子はそれぞれ別の先生やリーダーにつき、二人だけでは会えなくなってしまうからだ。
  村の入口まで来た時、キアンは異様な物が近づいて来るのを見た。
『熊だ!  それもかなり大きい!』
  キアンはとっさに矢筒から矢を抜いて、その熊に向かってつがえた。
「待ってキアン!  あれは熊じゃあなくってよ!」
  ブリジットはあわてて手のひらを差し出して弓を下げさせた。
  するとなるほど、それはよく見ると獲物である大きな熊を背負った少年だった。
「ルー!」
「またあいつよ、気をつけて!」
「でもきょうは一人だ…」
「ようキアン、おまえさっきオレを狙った
な?  おまえの目はふし穴か?」
「ふし穴なのはあなたのほうよ!」  ブリジットが言い返した。「この熊、おなかの大きいおめでたの熊よ!  おめでたの獣は狩ってはいけないのよ!」
「いきなり襲ってきやがったんだよ!」
「ウソよ!  あなたは少しもケガしていないじゃない!」
  あまりの剣幕にキアンが止めに入らなくてはいけないくらいだった。
「そんなことを言って、本当は羨ましいんだろう?  悔しかったらおまえもこのぐらいの大物を仕留めてみなよ!」
  ルーは捨てゼリフを残して、相変わらず重そうに熊を背負いながら村へと帰っていった。「キアン、気にしないでね。相手はあなたより三つも年上だし、弓矢も大人のものを持っていたわ!」
  ブリジットは彼の肩を抱いて慰めたが、キアンは悔しさのあまり目に涙をにじませ、手にしていたせっかくの矢をボキリと二つにへし折った。
「ぼくも父さんの弓矢で狩りをしたい!  そうすれば、熊だろうが、狼だろうがへっちゃらなのに!」
「わたし、鴨シチューが食べたいわ」  ブリジットは唐突に言った。「ウサギでもいい!…いや、リスの手袋が欲しいわ!」
  しかしいつものように、キアンは一回こうと言い出したら聞かなかった。
「ブリジット、ぼくはルーが仕留めたのより大きな熊を仕留めるぞ!  でなければ狼を五頭以上仕留めるまで村へは帰らない!」
  そう言うなりどんどんと歩みを早めて、森の奥へと歩いていった。小さなブリジットは彼に遅れずについて行くのが精一杯だった。
  と突然、彼女はキアンの背中を叩くなり、嵐で倒れた木のウロを指さした。そこには大きなノウサギが二人に気づかずにあたりを睥睨している…
「オレはもう、あんな小さいのは射らないぞ!」
  キアンが怒鳴ると、ノウサギは驚いて、猛烈な勢いで逃げ去った。
  森はどんどん深くなる。こもれびがキラキラと差し込む。テルペン(木精。フィトン  チッドの古い言い方)の軽く刺すような香りも次第に濃くなってきた。まだ浅い落葉を踏みしめて歩く大きな足音と小さな足音…
  時折立ち止まって振り仰ぐと、自分たちは樹齢数千年の天をつくような針葉樹にぐるりと取り囲まれており、その頂点に小さく丸くぽっかりと、白い雲を従えた抜けるような青空が見えた。
  ブリジットは木立の根元、落葉の影に松露(トリュフのこと)を見つけては背中の篭に入れた。
  とある大きな椎の木の下でドングリを集めていた彼女は、キアンの狩衣の裾を引っ張って、はるか先の木立を指さした。そこには立派な角をはやした大きな雄鹿が悠々と草を食んでいる。
『あれなら獲物としても素晴らしいわ』
  彼女の目はそう言っていた。
「あんなもの、全然大したことないね!」
  キアンの声に驚いて、雄鹿は電光のように逃げ去った。
「わたし…  これから寒くなるから、鹿皮の長靴が欲しかったのに…」
  ブリジットは泣きそうになった。
「熊を倒せば、ブリジットが欲しいものを全部買ってあげるよ!」
「ルーはローマ軍に大勢の勢子と猟犬を借りたのに決まってるわ!  たった一人であんな大きな熊を倒せるはずがないわよ」
「でもあいつはきっといまごろ、『一人で倒した』と、言いふらしているさ!」
「それがローマとその手先のつけめなのよ。お金とか名誉とかに弱いルーを、大人のいないわたしたちの村の少年たちのリーダーにしておくと、簡単に服従させられると思っているのよ」
「そんなこと、させるものか!」
「ねぇキアン、大切なのは冷静になることよ。あなたに無茶をさせることが連中の目的なのよ」
  森の広場の小さな環状列石(ストーン・サークル)に足を揃えてチョコンと腰かけたブリジットはしみじみと言った。
「ブリジットは、ぼくには大物は無理だ、と言うのかい?  ぼくの弓の腕前を知っていて、それで仲良くしてくれている癖に…」
  キアンは彼女を正面に見るかっこうで、白樺の根元にドッカリとあぐらをかいた。
  ブリジットは背中の竪琴を手に取ると、ポロンとひと節、エキゾチックな旋律を奏でた。
  遠くのほうで樵が斧を打つ音がコーンコーンと響いてくる。ブリジットは曲を弾き続ける。キアンがハッとして木陰や落葉に目をやると、そこには人形のような森の精霊たちが彼女の歌に聞き惚れて、何十人と姿を現していた。
「きょう森で気をつけることは何?」
  彼女が歌で尋ねると、森の精霊たちもお互い肩を組んで揺れながら答える。
「ローマ軍の先鋒が罠をたくさん仕掛けた」「まぁ、ひどい!」
「人の道を歩いていれば大丈夫。それと、身ごもった妻を殺されて、森の王が怒っていた」「わたしたちの部族の男が殺したのよ。困ったわ」
  ブリジットは悲しそうに目を伏せた。
「きょうは人の道を行き、人の道を帰って、狩りはしないほうがいい」
「おまえたち、よく聞いていれば、何の相談をしているんだ?」
  キアンが怒って矢尻の先を精霊たちのまん中に向けると、かれらはあわてふためいて蜘蛛の子を散らすように姿を消した。
「キアン、ひどいわ!  あの精霊たちは、わたしが大人になったらもう会えないのよ。それまであと少ししかないのに…」
「ブリジット、ぼくの邪魔をするつもりなら先に帰っていてくれ!」
  キアンは弓の先で村の方角を指した。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのよ!」
  必死で釈明するブリジットは、キアンの背中にまっ黒なボロボロの服を着、手には大きな収穫鎌を持った骸骨が彼の背中にへばりついて「ヘッヘッ!  おまえさんに止められるものか!」と笑っている幻を見た。
  ブリジットはキアンの両手を取ると無理やり引っ張ってドルイド僧がオガム文字で印を刻んだヤドリギの木の下に連れていった。
「なにするんだよ!」  キアンは彼女の手を振りほどいた。「キミは本当におかしなことばかりするなあ!」
「さて、出直してくるとするか!  今度は仲間を大勢連れてな!」  死神はそううそぶきながら消えた。
  昼まえに二人は湖に着いた。
  弁当の行李を開いてもブリジットは食欲がなく、キアン一人が食べていた。
「どうしたの?  おなかの具合でも悪いの?」
  キアンが心配すると、ブリジットは真剣な表情で言った。
「キアン、行きがけにも言ったけれど、わたし、鴨を仕込んで帰りたいの!」
「それじゃあちょっと肩ならしをするかなぁ」
  キアンはそう言うなり矢をつがえて、湖の上を狙った。折しも陽が陰り、白い霧が流れて来たかと思うと、たちまちのうちに湖とそれを囲む砂浜や森や岩壁などの複雑な地形を覆い隠した。
  それまで鈴なりになって水面に羽根を休めていた鴨たちの上にも霧が覆いかぶさり、姿を見えなくした。
  飛来したては去る鴨も、霧の中で黒く朧な点になり、とても射落とすのは難しく思えた。
  しかしキアンは構わずに、新しい弓を宙空の一点めがけて引き絞った。
『いつ見ても、とても子供とは思えない大人顔負けの堂々たる弓構えだわ』
  幼いブリジットも、獲物を狙う彼の真剣に姿を見るたびに息を潜め、はらはらとして、胸の中が熱くなるのだった。
  ヒュン。矢は小気味よい弓鳴を残して空に消えた。
「まな板と竃(かまど)の準備を!」
  キアンの声に促されて、彼女は手頃な岩を集めはじめた。
「でもキアン、一羽で足りるかしら?」
「大丈夫だよ」
  彼の言葉通り、ほどなくして一本の矢で射抜かれた二羽のカモがドシリと落ちてきた。「わー、すごい!」
  ブリジットは目を見張って感嘆の声をあげた。
  そんなことを数分続けると、たちまち二家族分の胃袋をまかなえるだけの獲物を取ることができた。
  キアンは枯れた矢竹の束を拾ってきて、細いものは先をナイフで削って串に、太いところは薪にして、火打石で火を起こした。そのあいだに彼女のほうは獲物の羽根をむしり、血を捨てて、細くかわいい守り刀で巧みに捌き、腰のポシェットからひとつまみの塩をつまんで振りかけた。
「羽根、矢羽根にする?」
  ブリジットが丁寧に揃えた羽根をキアンに見せると、彼は焼けていいにおいのしだした串をひっくり返しながら手を横に振った。
 肉を焼いたり切り分けたりという世話は、家長や年長者、社会的地位の高いほうがする。これは狩猟民族時代の不文律で、いまの欧米人にも受け継がれている。
「いいよ。鷲か鷹を仕留めて、それをトレードマークに使おうと思っているんだ」
「まぁ、キアンたら…」
 鷲や鷹は無論、とても貴重で仕留めるのがたいへん難しい鳥だ。
  鳥も山菜もキノコも香ばしく焼けてきた。
  彼女は先に口にするように勧められた料理をおいしそうに頬張り、羽根を髪の毛に差した。
『このままルーと熊のことなんか忘れてくれたらいいな』
  ブリジットはそんなことを考えながら、座ったまま彼のほうに寄った。
「ねぇキアン、お願い。わたしに弓矢を教えてくれないかな?」
  大きな目をパチクリさせながらブリジットが頼むと、キアンもそれに負けないくらい大きく目を見開いて見つめ返した。
「…たとえ当らなくてもいいから、一度自分で獲物を狙ってみたいの」
「じゃあぼくの古いほうの弓矢を使ってみるかい?」
  彼は念のために自分がきのうまで使っていた弓矢を貸し与えた。予想に反してブリジットは、男の子用にしては結構強めに張られた弦をキリキリと引き絞り、近くの木にぶらさがっていたリンゴのうちのひとつを狙った。「力、強いんだね」
  キアンの感想に頬を紅潮させる。
「毎朝乳絞りをしているせいよ、きっと」
  いつもキアンの格好をすぐそばでみているせいか、弓構えもいい。
  十分に狙ってから放った矢は、もうちょとというところでそのリンゴをかすめて天へと消え去った。
「ごめんなさい。大切な矢を…」
「いいんだよ」  キアンは彼に代わっていまは彼女が背負っている矢筒からもう一本矢を抜くと、彼女の手を取って構えさせてやった。「もっと肩の力を抜くといいよ」
  ブリジットの体は、いつも相撲を取っている同じ年頃の男の子たちに比べて、柔らかくてフワフワしていて汗臭くなくて、その代わりにシャボンの匂いがした。
 石鹸という意味のこのポルトガル語は、その源をケルト語に発すると言われている。
「引いて!」
  彼に励まされて、彼女はもう一度弓を引き絞った。
「矢尻の先を的から離さずに!」
  キアンが力を合わせると、弦は完全に張り詰めた。
「いまの風は少し難しいから、ぼくが計るね」
  キアンはそう言いながら矢尻をほんの少しだけ風上に向けた。
「さぁ、思い切って放つんだ!」
  ブリジットが手を離すと、矢はほんのかすかに孤を描いてリンゴを砕いた。でも彼女はあんまり嬉しいそうではない。
「ん、なにか?」
「軸を射れば、落ちてきたリンゴを食べれたのに…」
「じゃあ別のを落とそうか?」
  キアンが弓を取り戻そうとすると、彼女は逃げるようにパッと駆け出した。
「今度はわたし一人で射らしてちょうだい!」
  ブリジットはそう言うと、キアンの弓を捧げ持ち、まるで小さなダイアナのようにトコトコと、もと来た道を戻り始めた。
「お古でも、ぼくの弓矢だよ…」
「気に入った獲物を倒せば返します」
  言葉つきまでが女神のようになってきた。
  キアンは仕方なく、せっかく新調した弓と彼女の竪琴を背負って、後衛にまわった。
  さわさわとさわめきながら舞い散る落葉のカーテンの向こうに、またしても立派な角を持った雄鹿がいた。小さな狩りの女神は、弓に新たな矢をつがえて、その鹿を狙った。貫頭衣の腋がビリッと音をたてて裂ける。
  目と目が会った。
  ブリジットはいったんは構えた矢を口にくわえ弓を下げて、右手を服の頭から出して片肌を脱いだ。その胸はかすかに形よくふくらみかけていた。
「なに格好つけてんだよ!  逃げちゃうよ!」
  キアンは鋭く囁いたが、なぜか鹿は逃げなかった。
  彼女は弓矢を構えたまま、獲物に歩一歩近づいた。その時になって鹿ははじめてもがいた。見ると右の前足が罠に噛まれて動けなくなっている。
  ブリジットは矢を矢筒に戻し、弓を着衣の左肩に掛けて走り寄った。
「ひどいことするなぁ。人間がはまったら、狼に襲われて一巻の終わりだぜ」
  ブリジットが鹿を押さえているなか、キアンが渾身の力を込めて罠を開くと、鹿はようやく罠から抜け出した。いつも不思議に思うのだけれど、彼女が「どうどう」となだめて抱きしめると、どんなに荒ぶっている獣でもおとなしくなるのだった。
「キアン、代わりに押さえていて!」
  彼女は小袋から傷薬と包帯を取り出して、傷ついた鹿の手当をした。  手当がすんで手を離しても、鹿は傷が痛むのか、助けてくれた二人への感謝なのか、何度も振り返りながら去っていった。
  キアンが調べると、罠にはシーザーの馬印であるローマ数字の「]」が記されていた。 「]」はシーザーの親衛軍団であるローマ第一○軍のしるしであって、この刻印のあるテントのペグや武器や備品などが、ヨーロッパ各地で多く出土している。
  「この罠、あといくつあるのかしら?」
「ローマ軍の輜重部隊(食料や武器兵器を運搬したり、現地で調達する部隊のこと)のものだ。と、いうことは、連中はもうすぐそこまで…」
「とりあえず、なんとかしなければ…」
  ブリジットは弓矢をキアンに返し、着衣を元通りにしながら言った。
「でもどうやって?」
  彼の問いに彼女は代わりに返してもらった竪琴をポロンと一節つまびいた。すると、先ほどの森の民たちが、再びおそるおそる現れた。
「これを全部拾い集めて捨てたいの!」
「それはいい考え!  わたしたちが案内します!」
  かれらの案内で見つけた罠を、キアンは  片っ端から紐でくくって回収した。それはみんなが想像していた通り、たくさんの数が広い範囲に点在していた。
  すべてを集め終えた時、太陽はすでに西の空に傾いて、薄い闇のとばりが森に降りかけていた。
「お疲れさまでした!」
「ありがとうございました!」
  キアンが人々に恐れられている底無し沼に集めた罠の束をガシャリと投げ捨てると、森の民たちはいっせいにペコリと頭を下げると三々五々去っていった。
「すっかり日が暮れちゃったわ…  みんな  きっと心配しているわ…」
  ブリジットはすっかり怯えて、キアンの手にしがみついた。遠くのほうで狼の遠吠えが聞こえたかと思うと、湖から流れでた霧が、あたりを覆いはじめた。
「結局、あんまり狩り、できなかったね」
  キアンは彼女の手をしっかりと握って、駆け足で家路についた。
  もう少しで森を出ようとした時、キアンははたと立ち止まった。
「どうかしたの?」
  キアンが黙って指さす方向には、赤く光る二つの大きな目玉があった。
「『森の王』だ!」
  キアンはそうつぶやきながら、静かに弓を構えた。小刻みに震える矢尻の先がようやく目と目のあいだに定まった時、二人は声なき声を聞いた。
『早く射ろ!』
「待ってキアン!  待って!」
  ブリジットは身を挺して矢の前に立ちふさがった。
「どけブリジット!  願ってもないチャンスだ!」
  キアンは彼女を力づくで押しのけた。ブリジットは転んで土だらけになった。そしてあわててもう一度狙おうとすると、「森の王」のまわりには、数頭の狼が潜んでいた。狼のうしろには猪、狐、鼬、貂、兎、その他ありとあらゆる森の獣たちが、さながら大きな一つの影のようにひしめいていた。体じゅうから冷や汗がにじみ出るのを感じたキアンは、弓矢を下げた。
「おまえたちはなんだッ!  なんだよッ!」
  キアンは叫んだ。
『シーザーの軍団の通ったあとは、ネズミ一匹生きてはおらぬ…』
  「森の王」は悲しそうに言った。
『あれだけの数の殺し屋だ。穀物も食えば肉も食う。無論、森の掟など守らぬ。孕んだ雌も子供の獣も無差別に食用にし、皮と脂を得る』
  狼も言った。
『かれらにとって大切なのは、財貨を本国・ローマに送ること。ガリアのことなど、ましてわれら獣のことなど、爪の先ほども考えてはいない!』
  狐はキアンとブリジットのまえに進み出て訴えた。
「ぼくが戦う!  決してヤツらの勝手にはさせない!」
  キアンはは大見栄を切った。
『小僧、おまえはバカか?』  動物たちのあいだから嘲り笑いが起こった。『ひと握りの戦士と、年寄と子供だけで、ヤツらに勝てる訳がない!  それに…』
「『それに』?」
『戦う前に裏切者を出しているおまえさんたちは、一致団結して立ち上がることすら難しいだろう!』
「森の王」はそう言い捨てると、「森の民」である動物たちを引き連れて、遠くへと去っていった。
「行くなッ!  おまえたちが行ってしまったら、もう狩りができないじゃないか!」
  叫ぶキアンをブリジットが抱き止めた。
「落ち着いてキアン。とにかく早く村へ帰りましょう!」

                2

  そのころ「シーザーのローマ軍来襲!」という噂が、キアンたちの村じゅうを席巻していた。
  赤々と輝く篝火の下、ローマ兵に手伝ってもらって熊を倒したルーは、自らの取り巻きを従え、演壇の代わりにその熊の上に片足をかけて、人々に訴えた。
「戦いになると、すべてが失われる!  年寄は殺され、子供は全員奴隷として売り飛ばされるだろう。村は焼かれ、あとには何も残らないだろう!」
「ルー、この裏切者がッ!」
  ローマとの戦いで傷ついた戦士たちや、それについて武術を学んでいる少年たちのあいだから罵声が飛び、石が投げられた。
「おまえたち、あとで必ず後悔するぞ!」
  ルーは冷ややかに言い放った。
「ローマにも慈悲はある。かれらは恐ろしいほど合理的だ。交渉の持っていきかたによっては、いままでと同じかそれ以上の暮らしと安全が保証されるのだ」
「みんな、おいしい言葉にだまされるなよ!」
  傷ついた戦士の一人が声を張り上げた。
「やつらに降伏すると、やつらの言葉…ラテン語…を強制されるのだ。伝統のあるケルトの文化や習慣も、かれらのそれに塗りつぶされる!  税や徴兵が過酷なことは言うまでもない!  おまけに人質を出さねばならない!キアン坊ちゃんと、ブリジットお嬢さまは仲を裂かれてローマへ送られる!」
  ちょうどその時、当のキアンとブリジットが戻ってきたので、村人たちの目はいやが上にも二人に注がれた。ブリジットは思わずキアンの肩にしがみついた。
「族長、ご決断を!」
  ルーはキアンの父と養父、ブリジットの父と養父らから成る数人の村の指導者たちに決断を求めた。
「父さん!」
  キアンが駆け寄ろうとするのを父は制した。「われわれの結論は最初から決まっておる」
  父は重々しく宣言した。
「戦は世の常。勝ち戦だといい戦で、負け戦は悪い戦だ。最初から勝ち目のまったくない戦ほど、悪い戦はないだろう…」
  キアンもブリジットも、ルーも戦士たちも、少年たちも、今朝がたは平和に乳しぼりにいそしんでいた女たちも、老人たちもみんな、族長の言葉を固唾を飲んで聞き入った。
「…少しばかり平和が続いたわれわれは、旧態依然の部族連合。従って軍隊はバラバラ。戦士たちは互いに功を焦り、族長たちの仲は悪い。それに引き換えローマ軍は、統率のとれた職業軍人の集まりで、おまけに百戦練磨。戦いを挑んだところで、結果は火を見るよりも明らかだ」
  ルーはニヤリと笑った。
  キアンはブリジットを指の跡が残るほど強く抱きしめた。
  村人たちの顔を安堵と落胆の色が覆った。「最初から負けとわかっている戦をする者は愚かだ。がしかし、外国からの圧力に対してなんの抵抗もせずに服従するのは卑怯者である。わしは卑怯者にはなりたくない。諸君の中にもわしと同じ考えの者も多かろう…」
  戦士や少年たちのあいだから歓声が上がった。
「…強制はしない。女子供と年寄は、食料を十分に持たせて山へ逃げるのだ。ローマに従いたい者は今のうちに村を去れ!」
  ルーとその取り巻きは唾を吐き捨て、舌打ちをして去った。
「ルーよ。おまえがもし今度の戦で取り立ててもらったら、山に逃げ込んだ人々に対して狼藉をしないように、シーザーに頼んでくれ」「わかったよ、族長…」
  ルーは振り向かずに答えた。
  人々は大急ぎでそれぞれの家に帰った。混乱の中、キアンとブリジットはそれぞれの父と養父の前に進み出た。
「父さん、ぼくも戦うよ!」
「バカものッ!  族長の息子たるおまえが刻限までに帰らず、集会にも顔を出さないとはいったいどう言うことだッ!」
  族長はキアンを力の限り殴った。吹っ飛ばされた彼は、かなり離れた木の幹に打ち付けられて、やっと止まった。ブリジットは震える両手の拳で唇を覆って息を呑んだ。
「そんないい加減な奴とは、もう今夜限り、父でも子でもない!  ルーや女子供たちとともにローマでも山奥でも、どこへでも好きなところに行くがよい!」
「でも父さん、ぼくとブリジットはローマ軍が仕掛けた罠を森で見つけて、集めては捨てていたんだ!」
  キアンは目に涙をため、鼻水をすすり、顔をくしゃくしゃにして弁明した。
「そんなことをしていて、もしブリジットがローマ軍に捕まったらどうするつもりだったんだ?」
  父はさらにツカツカと歩み寄って、彼の襟首をつかんで持ち上げ、さらに殴り続けた。「もうやめて下さい!」  ブリジットはサッと駆け寄ると土下座して頼んだ。「お願いします!  キアンもわたくしも、戦いに参加させて下さい!」
「ダメだと言ったらダメだッ!」  族長は  グッタリとしたキアンをブリジットに投げつけた。「確かにこいつはわが部族始まって以来の弓の名手だ。しかし、戦いでは何にもまして、剣のうまさがものを言うのだ」
  そう言い捨てると族長は一統を従えて屋形の中に消えた。これから作戦を巫子に占ってもらうのだ。
「くっそう…」
  ブリジットの腕の中で意識を取り戻したキアンは、彼女の手を乱暴に払いのけると、口の中にたまった血を吐き捨てた。
「キアン、お父さまを恨んではダメよ。お父さまは、部族の血を絶やさないために、落ち延びるように言ってくれているのよ!」
「だからと言って」  キアンの両の瞳には憎悪の炎が燃えさかっていた。「みんなの面前であんふうに言わなくたって…」
「あのかたたちのご子息たちはみんな出陣されるのよ。ああでも言わなければ…」
「バカにしやがって!」  キアンは取りすがるブリジットを弓の柄で打った。「ブリジットもぼくのことをバカにしているんだろう?こうなったらぼく一人でシーザーを、シーザーが無理なら敵の大将を射止めてやる!」
  そしてたった一人、松明も持たずに森の中に戻っていった。
  森の中はリンリンという虫の音と、ホーホーという梟の声のほか、何も聞こえてこない。墨を流したような暗黒は、地元の人間であるキアンすら、道に迷わせてしまう。月は雲から出たり隠れたり。星の数も少ない。
『ローマ軍の連中はどこにいるんだ?』
  彼はルーたちのあとを懸命に追おうとしたが、かれらはもうずいぶん先に行ったかして話声も聞こえず、足跡も残っていなかった。『手柄を立てれば、父さんやみんなも考え直してくれるだろう』
  と、先のほうにたくさんの小さな松明の揺らめきが見えた。揺らめきはだんだんと近づいてくる。どうやら仕掛けたはずの罠が全部消え去っているので、不審に感じているところのようだ…
『よーし、やってやる!』
  キアンは矢筒から矢を二本抜き、一本を口にくわえ、一本をつがえて引き絞って放った。
  かなりの距離と、そのあいだには木立があったにもかかわらず、矢はローマ兵の顔をかすめて木に突き刺さった。
「敵襲だッ!  散れッ!」
  兵士たちはじつに素早く散開した。次々に矢を放つキアン。悲鳴とともに黒い人影が倒れる。
「隊長、夜戦とゲリラ戦に誘い込まれることはシーザー閣下より厳禁されています!  撤退しましょう!」
「わかった。小隊撤退!」
  隊長(キャプテン)の号令一下、開きかけた松明の花弁はたちまち小さくしぼんだ。
『やった!  ローマ軍などと言っても大したことないじゃないか!』  キアンは小躍りして喜んだ。『奴らがこんなに弱いのだったら撃退できるかもしれない!』
  彼は、たった一人でかれらの後を尾けた。無論、兵士たちは道を、キアンはそれに沿った森の中を、だ。連中は全部で七〜八人いた。
  キアンは走り追いながら、次々に矢を射かけた。胸や体を射抜かれて、一人、また一人と倒れる敵兵たち…
「軍規は軍規。われわれの任務は食料調達と偵察であって、交戦ではない!  早く陣地に戻ろう!」
  ついに堪忍袋の尾が切れた部下に対して、今度は隊長が諌めた。敵兵の小隊はすでにおおかたやられて、二〜三人になっていた。
  キアンはもうすっかりいい気になって、たった一人でローマの遠征軍をやっつけてしまうつもりで追いかけた。
  と、目の前がパッと明るくなって開けた。
  どう考えてもそこは、つい最近まで草原であったところだった。下草が刈られ、その上に何百、何千のテントがまるで町のように整然と並び、篝火が昼間のように輝いていた。
  連中が逃げ込むなり、声がした。
「よく辛抱した。あとはわれらに任せろ!」
  マントの上に光苔で「]」の印を描いた夜戦専門の槍騎兵(ランサー)と歩兵からなる小隊が飛び出して、キアンを取り囲んだかと思うと、アッという間に縮まった。
  彼は生まれて初めて背筋にゾッとしたもの…恐怖を感じた。
  松明にキラキラ輝く槍の穂先が、鎖鎌が回転して空気の震える音が急速に迫ってきた。「なんだ子供じゃないか!」
「殺すなよ!  こちらも相当の犠牲を払ったんだ。なぶり物にして情報を聞き出すんだ」
  キアンは弓を肩に戻し、ナイフを抜いて身構えた。
  夜闇を鋭く引き裂いて鎖鎌が飛んできた。一つ、二つはかわしたが、三つ目、四つ目についに捕まって手足と体の自由を奪われ、地面にしたたか打ちつけられた。
  ガチャガチャと鎧兜の音を響かせて、兵士たちが近寄ってきた。キアンはよほど舌を噛んで死のうと思ったが、恐くてできなかった。「小僧、きさまの部族の兵力や配置などを喋るんだ。そうすれば一思いに首をはねてやろう。われわれにも慈悲はある」
「イヤだッ!  絶対にイヤだッ!」
  隊長が顎をしゃくると、兵士たちが身動きのできない彼を立たせた。
「ケルト人は死後の世界を信じているらしいが、体はどうなるのかね?」
  耳たぶに軍刀(グラディウス)のきっ先が当るのが感じられ、首筋に生暖かい血が流れた。
「たとえ五体はバラバラになっても、元の体で復活するんだ!」
  答えたものの、声は怒りと恐怖で震えていた。死自体は恐ろしくなかった。ブリジットの弾き語る神話では、英雄とは決して死を恐れない者のことだった。
「それではなぜ、亡くなった勇者たちは、きさまたちの危機に、復活して救いにこないのだろうねぇ…」
「………」
「どうだろう。きさまは勇気もあるし、腕もいい。われらに協力してくれれば、きさまときさまの家族だけは助けてやらないでもないが?」
  キアンの心が僅かだが動いた。部隊の説得要員は彼の顔色の変化を見逃さなかった。
「ルーを知っているだろう?  あいつはいまわれわれに組してうまくやっているんだ」
  ルーの名を聞いたとたんに、彼はうんと嫌気がさした。そして尋問している兵士に唾を吐きかけた。
「こいつ、下手に出てやりゃあいい気になりやがって!」
  兵士が剣を振りかぶった。キアンは堅く目を閉じ、顔をそらせ、歯を食いしばった。
  その時、一本の矢がヒュウと唸りを上げて飛んできて、兵士の喉を射抜いた。『何事だ?』と思ったキアンが目を開くと、二の矢が彼を押さえていた兵士の背中を射抜いた。彼は体をよじって逃げ出し、鎖を解いて倒れた兵士から剣を奪ってもう一人の胸を刺した。
  三の矢はすぐそばにいた騎兵を馬からころがり落とした。
  キアンはそいつの馬にひらりとまたがると思いきり馬の腹を蹴った。猛スピードで走り出す馬の前に、弓矢を構えたブリジットがチラリと見えた。今度は思いきり手綱を引く。「ヒヒーン!」といなないて竿立つ馬の鐙(あぶみ)にポーンと足を掛けた彼女は、キアンの前に飛び乗った。
「わたしが手綱を!」
  ブリジットは巧みな手綱捌きで深い森の中に馬を廻した。
  追ってくる敵の騎兵目がけ、キアンはうしろに反って矢を射かけた。一人、また一人と倒れる敵…
  アッという間にいまは砦と化した自分たちの村が見えてきた。ブリジットは優しく手綱を引くと、馬から降りて裾の乱れを直した。「ありがとう」
  キアンは息を弾ませながら、彼女の小さな肩に手を置こうとした。
「わたし、あの時キアンがみんなを裏切ったら、キアンを射ろうと思っていた…」
「………」
「キアンを殺して、わたしも死のうと思っていた…」
  振り返った彼女は目にいっぱいの涙をためて、彼の首にしがみついた。



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