弓と竪琴 第三章 5 キアンは主にその青年を援護する形で、次々と迫り来る敵の騎兵に矢を射かけた。キアンが討ちもらしたヤツを、青年が大刀で切り伏せる… 悪くない腕だ。 「キアン坊ちゃん、もったいのうございます!」 岩陰に隠れ、息を整えながら青年は言った。「あなたこそ命を大切に! あんな美しい彼女を残しては…」 キアンは馬から降り、這うようにして、矢筒を背負った敵兵の死体から矢を奪う。 「ご存じだったのですか! 秘密にしていたのに…」 青年は、地面のキアンを狙おうと疾駆してきた槍騎兵の胴を両断にした。自分の大刀の刃が欠けてしまったのを見ると、もう一人の騎兵に迷わず投げつけた。大刀は見事に相手の胸に命中し、その兵士はドウと砂煙をあげながら落馬して、キアンのすぐそばまで転がってきてガクッと息絶えた。 起き上がって自分の馬に戻ろうとしたキアンは、一瞬目まいがして青年に支えられた。「大丈夫ですか?」 「ありがとう。ぼくには初めての戦争で…」「狩人や農民がこんなものに慣れるような世の中は困ります」 青年は吐き捨てるように言いながら敵の死体から軍刀を奪い、とりあえず一本を手にして次を捜し、光にかざして刃こぼれがあると見ると、悪いほうを敵に目がけて放り投げてさらに次を捜した。 立ち込める家や穀物を焼く白い煙。キアンはいつのまにかブリジットとはぐれてしまったことに気が付いた。 新手新手と繰り出す敵… 疲れ、傷ついた部隊はサッと潮が引くように引いたかと思うと、新たな一隊が砂煙を上げながら突撃してくる。 二人はまた馬に乗って迎え撃つ態勢を取った。気がつくと前方にも周囲にも味方の姿はない。ここが最前線だった。 「ダメだ! きりがない! これじゃあどんなに強くてもやられてしまう…」 キアンは動転し、恐怖に駆られた。弓矢を持つ手も小刻みに震え、最初よりもかなり近い敵にすら、なかなか当らなくなった。 「お父上の言うことを聞かないからこんなことになるのです」 青年は冷たく言った。 「いまからでも遅くはありません。さぁ、早く! ここはわたしに任せて!」 「一緒に逃げよう! あの娘が泣くよ!」 「できません」 「なぜ?」 「あの部族会議の夜、わたしは、ブリジットさまと山へ逃げるように命ぜられた坊ちゃんが羨ましくて仕方なかった。『なぜ自分も族長の息子に生まれなかったのか?』と、自分の身分を呪いました。ご存じの通り、わたしにも将来を誓った恋人がいたからです」 まったく新手の敵の騎兵の小隊がキアンたちのほうにも迫ってきた。 「彼女とまた何度も愛し合うことができるなら、いっそルーたちのようにローマに寝返ってやろう、とも考えもしました」 青年は剣を水平に構えた。敵兵たちは先ほどよりも余裕を持って、ゆっくりと二人のまわりを丸く包囲した。 「だったらなぜ?」 「わたしも思います。『キアン坊ちゃんこそなぜ?』と」 隊長の合図とともに槍がいっせいに飛んできた。青年は剣で穂先を切り落とし、キアンは馬体を盾にしかわした。二人の馬はともに槍にやられて、ドウとばかりに倒れてもがいた。 「見上げた根性である。月に銀貨一○枚で、奴隷としてではなく傭兵として召し抱える。家族がいるなら保護してやるから降伏せよ!」 隊長は残虐な殺意をみなぎらせる部下たちをかろうじて制止しながら言った。 キアンと青年はお互いの目を見あった。 「イヤだッ!」 澄んだ返事が、砂塵と血生臭い空気によどむ空に響く。 「どこへ行っても、おまえらにはこれ以上の条件はないぞ!」 「条件の問題じゃない!」 二人は背中と背中を合わせた。キアンは弓を背負い、老戦士からもらった剣を抜いた。 隊長の剣が振り降ろされたかと思うと、兵士たちは次々に斬りかかってきた。キアンはどうすることもできないいままジッと立ちすくんでいた。青年は盾を拾って敵の刃先を受けながら、突き、斬り、首をはねながら応戦した。青年がまたしても刃のボロボロになった剣をヒュンと素振りすると、血しぶきがキアンの顔にもかかった。交差したまま立ち止まっていた敵兵がバサバサと倒れる。 「おのれッ!」 隊長は油断なく馬から降りた。降りたところをキアンの矢に射抜かれた。いつの間にか再び剣を弓矢に持ち変えていたのだ。 隊長はガシャリガシャリとま新しい鎧の音を響かせてヨロヨロとよろめき倒れた。 「養父さんたちが心配だ!」 主戦場のほうに追いつこうとしたキアンたちの前に、また一騎、黒い影が立ちふさがった。 「ルー!」 傭兵のくせに、ローマ正規軍の鎧を身につけ、百人隊長(センチュリアン)の真紅のマントを翻らせている、かつて同じ村の剣の名人を見て、二人は異口同音に叫んだ。とくに青年のほうは、同じ年代ということもあって、キアンよりも親しい様子だった。 「どうしたんだルー、その格好は?」 「しれたことよ。早速手柄を立てたのさ!」 ルーはローマ正規軍隊長用の、頭頂に真紅の羽根飾りのついた、にぶく輝く鉄でできた頭ごと覆える兜を、指でチョイとささえ上げた。 「『手柄を立てた』というと…」青年は烈火の如く怒った。「きさま、仲間を殺したなッ?」 「仲間? なんのことだ? ローマ軍こそ、いまのオレの仲間だ」 「おのれッ、許さん!」 青年は馬上のルーに剣を向けた。 「ローマ軍ではいま、軍備拡張にともなって傭兵の大募集をしている。だれでも気持の持ち方次第で、いまのオレのようになれるのだ」 ルーは冷たくうそぶいた。 「だれがおまえのことなんか!」 キアンは弓を向けた。 「やめろキアン、ルーはオレがやる!」 「二人がかりでかかってきていいぞ。これは戦争なんだからな」 ルーはゆっくりと馬から降りて、剣は抜かないまま青年と対峙した。次第に強くなった風のせいで、マントが旗のように旗めく… 着つけていないマントが邪魔になったのか、ルーはブローチ…現在、女性のアクセサリーになっているブローチは、過去にはこういった実用的な意味があった…に手をやって外そうとした。 「ルー覚悟ッ!」 その一瞬の隙を突いて、青年は低い突きの構えから切り込んだ。ルーはサッと身を引いてかわしたかと思うと、外したマントを青年の頭からスッポリとかぶした。それを取りのけようと青年が両手を上げたところ、軍刀が胸を深々と刺し貫いた。 「!」 青年は死力を振り絞って、かろうじてマントを払いのけた。唇がほんの少し動いた。うつろな瞳で、恋人の名を呼んでいるようだった。ルーが剣をねじりながら抜くのを待っていたかのように、青年はドサリと倒れた。 青年の最期に、キアンは反射的に弓矢を構え直し、後じさった。 「という訳だ、キアン。いまどき、ものわかりの悪いヤツが生き残るのは難しい…」 ルーは脱いだマントを肩に掛け、血塗られた軍刀を青年の遺骸のスカーフで丁寧に拭った。「さてと、愚か者の末路を見てもらったところで、ブリジットのところへ案内してもらおうか?」 「イヤだッ!」 キアンはキッパリと言った。 「このあいだに懲りて、きょうは盾を持参した」 ルーは馬の腹から、標準のものよりはかなり大きい目の角盾を外して構えた。使わない時は馬鎧になる、異民族ふうのものだ。 キアンは相手の体のほぼすべてを被う盾を見て慌てた。ルーは盾を掲げてジリジリと 寄ってくる… そこでやむなく弓矢を下げて老戦士からもらった剣を抜いた。 『ぼくはいつでも弓矢を構え直せる。だからルーは盾を捨てることができない。あんなに大きくて重そうな盾を持っているんだ。この前よりはマシさ!』 事実、ルーは盾をとても重そうに持っていて、動きにくそうだった。剣を繰り出すことさえ難しそうに思われた。 『チャンスはある!』 キアンは正面切って、ジャンプ一番、ルーのま上を狙った。突き降ろすキアンの一撃をルーはたやすく横なぎに払った。 キアンはもんどり打って盾のま前に倒れた。バッとしゃがみ、いつでも立ち上れるように態勢を整え、ルーが盾をのける瞬間を待った。「何を待っている? オレはこの盾からは出んぞ!」 盾の向こうから嘲笑う声がした。そして盾を押しつけるようにしてにじり寄ってきた。 キアンは辛抱できなくなって勢いをつけて立ち上がりかけた。すると、それを待っていたかのように、ルーの剣が己の盾を突き破ってキアンの右肩を捕らえた。 激痛のあまり、何がどうなったのかよく分からなかった。 ルーは盾を空に放り投げた。先ほどまであんなに重たそうにしていた盾は、まるで凧のように軽々と空に舞い上がり、そのまま飛んでいってしまった。 「バカめ! 板の盾だよ。弓矢を防ぐにはこれで十分だからな」 ルーはほくそ笑んだ。 「ちくしょう、計ったな!」 「…物事には作戦−−つまり、やり方というものがあるんだ、わかったか?」 キアンは傷口を押さえてのた打った。石段で転んで足の肉を削ずるくらいにすりむいた時も、受身に失敗して手を骨折した時も、こんなことはなかった。 「養父さん… 養母さん… ブリジット…」 彼はしゃくりあげて泣いた。 「右肩の腱を切ってやった。もう一生、二度と大きな弓を引くことはできんだろうよ」 そんな捨てぜりふを残し、ルーはひらりと馬にまたがると、遊撃騎兵らしく何処へともなく去った。 キアンはみんなのいるところまで戻ろうと立ち上がろうとした。とたんに世界がぐるぐると回転して、バタリと倒れた。 「助けて…」 彼は声にならない声でつぶやいた。 痛みをこらえて腹這いに這いずった。 『もう弓なんか引けなくていい。戦になんか出られなくていい。元気な体で、みんなと楽しく暮らせればいい…』 そんな考えが稲妻のように、激痛の合間を駆け抜けた。 『なぜローマなんかと戦争したんだ? 父さんたちはなぜ降伏しなかったんだ?』 絶対に認めたくはなかったが、『戦に参加させてくれ!』と意地を張った自分が、どうしようもない愚か者であることに気がついた。 彼はわざと頬を砂で擦って、傷の痛みを少しでも紛らわせようとした。時折、体じゅうの体温がスーッとまとまって失われていく感じがした。 目を開くと、つい先ほどまで遥か彼方まで見えていたものが、ぶ厚い紗がかぶせられたように、ぼんやりと白く濁り、ほとんど何も見えなかった。 『助けて… 助けて…』 彼の心の中はその思念でいっぱいになり、やがてそれは少しずつ『許して… 早く楽にして…』に変わった。 「キアンッ!」 「キアン、大丈夫か?」 眠りに落ちる時と同じようにウトウトと、意識をなくす寸前、彼は聞きなじんだ力強く頼りがいのある声を聞いた。 『養父さんの声だッ!』 キアンの心に勇気と希望が戻った。 思い切って再び目を見開くと、従卒を何人か伴ったキアンの養父とブリジットの養父が、騎馬鎧姿も勇ましく、それぞれ剣と槍を振りかざしながらこちらに駆けてくるのがハッキリと見えた。 「養父さん!」 弓を杖代わりに地面に突き立てると、キアンも再び立ち上がることができた。 「キアン、じっとしておれッ! 隠れているのだッ!」 養父たちが手綱を引いたとたん、物陰からローマの騎兵たちが、丸く囲むように姿を現した。 「フフフ… バカめッ! こちらの思うつぼだ!」 率いているのはもちろんルーだった。 『ぼくを、ぼくを助けようとしておびき出されたんだ…』 そう察すると、養父たちも、味方の兵たちも、ローマ騎兵たちも、霧に包まれたように輪郭を失ってぼやけた。 「我を思わんものは一対一で勝負せよ!」 キアンの養父が大音声で呼びかけた。 「わしもだ! ローマ軍に槍の使い手はいないのか!」 ブリジットの養父もいきり立った。 「最後までお目出たい連中よ…」 ルーが上げていた手をサッと振り降ろすと、ローマの騎兵たちはいっせいに持っていた投げ槍を投げた。この槍はピルムと言い、普通の槍と違って、穂先がかなり細長く、何かに当ると曲がるように柔らかい鉄でできていて、投げ返されたり再利用できないようになっていた。 投げ槍は養父たちの乗った馬や従卒たちに命中した。養父たちは傷つきいきり立つ馬から振り落とされ、従卒たちは倒れ、膝をついた。 「ええい卑怯者め! おまえたちは寄ってたかってしか戦えぬのか!」 キアンの養父は胸と腹に投げ槍を受けて、もだえ苦しむ従卒にとどめを刺してやりながら叫んだ。 「それでは狼と変わらぬではないか!」 ブリジットの養父がハッシと空中で受け止めた投げ槍を投げ返した。それは見事に敵の騎兵の一人に当り、即死したのか音もなく、ガシャリと頭から落馬して果てた。 「そうよ、我らは狼、そして、おまえたちは負け犬よ!」 ルーは自信たっぷりに、もう一度手を振り降ろして合図を送った。 ローマ軍兵士の輪が縮まり、そして再び、数を減らして広がった時、話の中では無敵だったキアンの養父とブリジットの養父は全身傷だらけで、膝をつき、倒れる寸前だった。「養父さん!」 キアンは声にならない声で叫び、杖としてついていた弓で加勢しようとした。とたんにまた肩に激痛が走って昏倒した。 ローマ兵の輪は、一度襲いかかった者を控えとして残し、まったくの新手だけが再び輪を縮めた。それがさらに広がると、そのあとには誰とも、いや、何ともさえわからない血まみれの肉の固まりだけが残されていた。 ルーは部下から捧げられた二つの首の髪の毛を得意そうに持ち、まるで楽器か何かのようにゆらゆらと動かしていた。 「養父さん!」 それを最後に、キアンの目は真っ暗な闇しか見えなくなった。 「さてと、あとはブリジットだけだな」 ローマに寝返っからというもの、いつも嘲笑い続けているようなルーの声が聞こえた。 キアンは左手でナイフを抜き、自分の胸に突き立てようとした。 「おっと坊ちゃん、そんなカッコいいことをされては困るんだ」 サッと近づいたルーはキアンの手からナイフをもぎ取り、さるぐつわを噛ませた。「戦争はこれからが面白いのだし、おまえは部族の滅亡を見る義務がある。…おいッ、だれか! こいつの手当をしてやれッ!」 キアンは甲冑を着たごつい手が、恐ろしく強い圧力で傷を握るのを感じた。 「消毒はどうします?」 その兵士はラテン語で怒鳴った。 「いらん! 戦がすめば首をはねる。それまで持てばいい!」 『いますぐはねてくれ。いまはともかく、昔はおなじ村の仲間だったじゃないか。心まで敵に売っちまったのかよ!』 頭の中では思っても、いくじのないことに声にはならなかった。 「ブリジット、聞こえるか? キアンと、自分や兵士たちの命を助けたければ、ただちに降伏しろ!」 ルーは馬上から大声で叫んだ。「他の者よく聞け、おとなしくブリジットを差し出せば、降伏者全員の命を助けた上、恩賞を与える。おまえたちはバカな族長たちのせいで理不尽な戦いを強いられたのだ。われわれは大いに同情しているぞ!」 「黙れッ! この裏切者!」 キアンが狩りに明け暮れているあいだ、村の広場で剣の稽古をしていた同年代の少年たちが、師範に率いられて切り込みをかけてきた。 かれらは死に物狂いでルーの部下と切り合い、三騎がなんとかかいくぐってルーの目前に躍り出た。 「頭の悪い友を持って、オレは辛い…」 ルーはそううそぶきながら、ぶ厚く短い ローマの軍刀ではなく、ケルト伝統の薄く細長い剣の鯉口をピシリと切った。 「節操のない友をもった、われらのほうがもっと辛い…」 少年たちが言い返した。 餌を狙って低く飛ぶ燕のような丸い航跡がキッチリ三つ、空中にきらめいたかと思うと三人の若者はドサリと揃って落馬してピクリとも動かなくなった。 ルーはヒラリと馬から降りて、血塗られた剣をキアンの傷付いた肩で拭った。 キアンの喉元まで饐えたものが込み上げてきたが、さるぐつわのために吐くこともできない。 ルーはチャリンと涼しい鍔音を響かせて、剣を鞘にしまい、殺した友の亡骸を蹴った。「正義ぶるヤツは大嫌いだ!」 言葉とは裏腹に、冷たい表情にかすかに寂しさの影がよぎる… 「さぁ、ブリジットを捜すぞ!」 彼はキアンの手と胴を縄でグルグル巻きに縛って、それを自分の馬に引かせた。満足に立つことすらできないキアンはじきに倒れて、ルーの御する馬に引かれるままになった。 「あの… こいつは弱っているし、こんなことをしたら死にますが?」 部下の一人が恐る恐る尋ねた。 「生きていようが、死んでいようが、遠くからではわかるものか!」 ルーは上機嫌で答えた。「それに好きな者同士なら、たとえ死体とわかっても、取り戻しに来るさ!」 6 一方そのころブリジットは、混乱する戦の中でキアンたちとはぐれ、ごくわずかな味方とともにキーファーの本隊と戦っていた。 「キーファー閣下、あそこにブリジットらしい女が!」 「殺すな! 自害もさせるな!」 まっ黒なマントを翻らせながら、馬上のキーファーは一直線にブリジットのほうに迫った。無論部下たちも彼のあとを追って続いた。 あと少しというところで、彼女は森の中に逃げ込んだ。鬱蒼として立ちはだかる木立に、地元出身のキーファーすらたまらずに手綱を引き加減になり、まして他の騎兵たちは、過敏に用心して一団に固まった。 「小さな森です。まず回りを囲みましょう」「わかった」 キーファーが部下の提言を入れて、指示を下しかけた時、奥へ去ったはずのブリジットの馬影が、白樺の林の間に見え隠れした。するとキーファーはつい一瞬前に決断したことを忘れて、思わず叫んだ。 「あそこだ! 追えッ!」 おい茂る下草にたじろいでいた部下たちも、逃げる相手も容易でなさそうなことに励まされて、追跡を再開した。 陣地の矢倉の上から、まるで蟻が蜜に吸い寄せられるかのように、大勢の騎兵が森に吸い込まれていくのを見た遠征軍の総司令官ジュリアス・シーザーは、ひとこと「どう思う?」と幕僚たちに尋ねた。 「当然わが軍の大勝利です!」 「祝宴の準備をさせましょう!」 居並ぶ将軍たちは顔を輝かせ、口々に答えた。そこへ、キアンの養父、ブリジットの養父、そのほか名のある戦士の首を捧げ持ったキーファーの伝令が矢倉を駆け登ってきた。「この通り、敵将のほとんどを討ち果たしました!」 「よせ、そんなもの一々見せに来ずともよい、と言ったであろう?」 水できれいに洗い清めてあるだけに、余計に無念の形相が凄まじい首たちに、シーザーはあからさまに顔を背けた。 実際、勇敢な軍人でありながら、シーザーは血や死体を見るのが大嫌いで、当時第一の娯楽であった剣闘士の試合すらまったく見ることがなかった、と伝えられている… 「お望みのブリジットも、ただいま森の中に追いつめましたので、まもなく…」 「するとあの一騎はブリジットだったのか?」 「はい。それが何か?」 「下がれッ!」 シーザーはまなじりを吊り上げた。伝令も、居並んだ将軍連も彼がなぜ機嫌を損じたのか分からなかった。 「明日わたくしが重装歩兵(ファランクス)で決着を着けます!」 将軍の一人、オクタビアヌスただ一人だけが、大急ぎで矢倉から飛んで降りた。 このオクタビアヌス、シーザーの遠い親戚で、のちにシーザーの養子となった。シーザーにはクレオパトラとの間にカエサリオンという男の子がいたが、数年後、オクタビアヌスに攻められた時、アンソニーと母・クレオパトラとともに自決。 そして、正妻との間に一人娘ジュリアがいたが、四○以上年上の政敵ポンペイウスと政略結婚させた。孫のような妻ジュリアにポンペイウスは政治を忘れ、失脚。ジュリアもポンペイウス方に毒殺される。 養子オクタビアヌスは、シーザー暗殺のあと、アンソニーらとともにブルータスを破り、さらにそのアンソニーとクレオパトラの連合軍を破って、ローマ帝国初代皇帝となった。 彼の姉、オクタビアはアンソニーの正妻。伝えられるところによると、オクタビアヌスは、いつも飲む薬袋を手放さない神経質な男だったが、軍人・政治家としても、常に「石橋を叩いて渡る」慎重さを発揮した、と言う… 「おまえたち! 荷物をまとめて故郷(ローマ)に帰れ!」 シーザーは手にした盃を投げつけ、拳を震わせた。「わたしは趣味や酔興で戦いをやっているのではない!」 「閣下、なにか不都合なことでも?」 「『なにか不都合』だと? バカ者どもめ!ブリジットは、わざと自分が追われていることを利用して、騎兵を引きつけているのが判らぬのか!」 「はぁ…」 「負け戦など見たくない!」 シーザーはそう言い捨てて矢倉を降りた。「こんな勝ち戦を、なぜまた?」 将軍たちはこの後に及んでも、なぜ自分たちが罵られなければならないのか理解できなかった。理解したのは、三○○○の騎兵の機動部隊のほぼ全騎が、海綿に吸い込まれる水のように、森の中に消えた直後である。 木陰に隠れ、ひそんでいたケルト兵によって、森の外回りの円周にいっせいに火が放たれた。そのあたり一帯には昨夜キアンとブリジットによって油が撒かれていたのだ。森は長い間続いた晴天のせいですっかり乾燥しきっていた。カサカサに乾いた落葉は焚き付けそのものと言っても過言ではなかった。それで、炎はまたたく間に内側へと燃え広がった。 「やはりキーファーにはこんな簡単な罠も見抜けなかったか…」 傷ついたキアンを馬で引きずりながら、炎の手前で立ち止まったルーは、まるで他人事のようにつぶやいた。 「この分ではどうせキーファーも戦死か重傷… ちょうどいい。明日転属願いを出そう…」 キーファーは自分と軍勢が紅蓮の炎に囲まれたのを見て、はじめて罠に落ちたことを悟った。 「早く森を抜けるんだ!」 敵の騎兵は次々と、木の葉をかぶせて地面のように見せかけた底無し沼の上におびきだされた。しばらくは慣性で沈まなかった騎馬の蹄が、突然ズブズブと沈み出す。 「なんだこれは?」 気がついた時にはもう遅い。重い鎧を着たローマの騎馬は、アッという間に馬の腹まで沼に沈んだ。あわてて馬を捨て、来た道を戻ろうとしても、炎に追われた味方が後から後から押し寄せる… 沈む味方の馬や兵を桟橋代わりに踏みつけて、なんとか渡り切ろうとする者、火傷はしても炎のほうがましだと強引に引き返そうとする者… 先ほどまで圧倒的な勝ち戦に酔っていたキーファーの部隊は、たちまち阿鼻叫喚の地獄絵図に変わった。 「者ども、落ち着け! あわてるな!」 取り返しのつかない失敗をしてしまったことに気がついたキーファーは、自らも大いに周章狼狽し、右往左往した。 その時、木立の上から投げられた投げ縄がキーファーの体をマントごと絡め取った。 キーファーがとっさにその方向を見ると、一○歳くらいの小さな女の子が投げ縄の端を持っていた。 「敵将キーファーを捕まえたッ!」 その少女…ブリジットはそう宣言すると、縄の端を肩に巻き、全体重をかけて木立から飛び降りた。枝の根本には滑車が付けてあり、キーファーの体は樹上に宙ぶらりんになった。 「き、きさまブリジット!」 キーファーは彼女こそ似顔絵まで配って捜し求めてきた竪琴弾きであることに気がついて地団太を踏んだが、もはや後の祭りだった。 火の勢いが衰えかけると、それまで炎の輪の外に陣取って、逃げ出そうとする敵兵を掃討していたケルト兵たちが分け入って来て、かろうじて命長らえた敵や、傷ついた敵を捕虜にした。が、ほとんどは底無し沼で溺れ死んだり、味方の馬に踏み潰されたりして、その数はごくわずかだった。 「ざまを見ろ!」 「おととい来やがれ!」 宙吊りのキーファーを見て、ケルト兵たちは口々にはやし立てた。 キーファーはあまりに不甲斐のない見落とし、不覚に頭を垂れ、すっかり観念した様子だった。 一同がキーファーほか捕虜たちを引き立てて勇躍丸焼けになった森を出ると、そこには馬で引きずってボロボロになったキアンをはじめ、緒戦で捕虜になったケルト兵を引き立てたルーが待っていた。 「キアンッ!」 変わり果てた姿を見たブリジットはなりふり構わず飛び出そうとして、仲間に止められた。 「ブリジット、なかなかやるじゃないか」 ルーはうそぶいた。 「ルー、あなたという人は!」 ブリジットは眉を引きしめて、ルーをキッと睨みつけた。 「でかしたぞ、ルー!」 キーファーの顔には狡そうな微笑が甦った。「早速交換といこうか?」 ルーはぐったりとした肉の固まりとなってピクリとも動かないキアンを踏みにじった。 ブリジットと仲間は、歯がみしながらキーファーやほかのローマ兵の縄を切った。 ルーたちも同じことをした。兵士たちはそれぞれ戦友のところに戻って抱き合った。 ブリジットはキアンを抱き起こした。 「キアン! キアンしっかりして!」 ブリジットは竹の水筒の水を含んで、口うつしに水を飲ませ、残りの水を布にひたして傷を洗い清めた。水が傷口にしみて、キアンは少しだけ顔をしかめた。それを確かめると彼女は自分の体より大きな彼をかかえて、味方の輪に帰った。 「おまえたち、絶対にこのままではすまさないからな!」 いましめの跡をさすりながらキーファーが恫喝した。 「ブリジット… 右肩の腱を切られた。…もう二度と弓は射れないんだ…」 キアンは息も絶え絶えに弱音を吐いた。 「何を言うの、キアン! 傷は浅いわ」 「もうダメだ。明日こそ皆殺しにされてしまう…」 「そんなことないって!」 彼女は彼のすり傷だらけの頬に頬ずりして言った。 「まぁ今夜のうちにせいぜいいちゃついておくんだな。…もっとも、そんな元気があったらの話だが…」 ルーはそう捨てせりふを残して去った。 太陽はいつの間にか西の大地に沈みかけていた。 7 夜のあいだじゃう、キアンはずっと傷の痛みと、そこからくる熱のせいでうなされていた。 「もう一生弓矢は引けないんだ…」 彼はうわごとで何度もつぶやいた。 「そんなことはないわ。すぐには無理かもしれないけれど、訓練すればまた元のように」 ブリジットは薬草の汁を飲ませ、何度も森の中の、彼女だけ知っている秘密の泉に通っては、冷たく清い水を運んで、手拭いを絞り、キアンの額に乗せた。 不思議なことに彼女が傷口に手をかざして軽くなぜると、死ぬような痛みが収まり、切られた所が少しずつ治癒するような気さえした。…そう、母なる獣が子供の獣の傷を舐めるように。それは太古から伝わる愛の魔法で、のちの世になるほど失われてしまったけれど、この時分には、まだ大きく痛みを取り去り、尋常では治るはずのない傷を急激に癒やすこともできたのだった。心もち楽になったので、キアンはかえって愚痴をこぼした。 「いっそルーに一思いに殺されたほうがよかった… そうすれば、こんな痛い苦しい思いをしなくてすんだんだ…」 キアンは泣いてしゃくりあげた。 「そんなこと言うんだったら、わたしはほかの人の看病をしてきます」 彼女はそう言ってスクッと立ち上がった。「あなたよりもっと深手を負った人もいるのだから…」 「待って、行かないで!」 哀願するキアンを無視して、彼女は歩み去った。 ほかの負傷者を励まし、看病している家族や友人をいたわり、夫や兄弟や恋人を失って泣き崩れる女たちを慰め、埋葬を手伝った。 夜更け、彼女は人々が寝静まり、あるいは憔悴のあまり転々反側するのを横目に見ながら、服を脱ぎ、体と髪を清めた。月光に金髪が光り、刺すような冷水に、肌は薄いバラ色に染まる。彼女は用意していた晴れ着を着た。 母がその竪琴とともにくれた、遠くエジプト王国からの輸入品である、まるで絹のような光沢のある白の一重の衣… それを着て、まるでベンチのような形の自然の岩に腰を降ろしたブリジットは、竪琴を取り出して鎮魂歌を歌った。 澄んだ歌声は北の風に乗って、あたりに広がった。すでに眠っていた者は悪夢から解き放たれ、キアンのように痛みと不安から眠れずにいた者はいつしか安らかな眠りに落ちた。そして、家族のそばから、故郷の土地から去りがたく周囲をさまよっていた戦死者たちの霊魂は、諦めを見いだし、ティルナノーグ…ケルト人の天国。常世国。ちなみに、ギリシャ人、ローマ人のそれは、アルカディアと言う…へ旅だっていった。 戦場の上をふわふわと飛んでいた鬼火たちも次々にフッとかき消えた。放置された武器や鎧兜目当ての卑しい野盗たちも、せわしげに動かしていた目と手を思わず休めて、彼女の歌に聞き惚れた。 ローマ軍の陣地でも耳にした者は多かった。 副将のオクタビアヌスは、参謀たちと明日の重装歩兵の隊形を相談していてそれを聞いた。 キーファーは今日の思いもかけない一敗地に、天幕の布をジッと見つめていたが、曲を聞いているうちに、なぜか思いつめていた気持が楽になって、明日は指揮官としてではなく、一人の将校として戦おう、という戦意が甦ってきた。 ルーは下士官らしく、何も考えずに、剣を女のように抱きしめ、支給品の毛布を頭からかぶって、ひたすらグッスリと眠っていた。 夢の中で彼は、夢の中でしか抱くことのできない一人の女のことを思っていた。 そしてジュリアス・シーザーは、ローマ本国の元老院に送る、この度の遠征の報告書と公式の戦争の記録…のちの「ガリア戦記」…を書く手を休めて、珍しく酒の瓶に手を伸ばした。普段はほとんど酒を飲まない彼にしては、珍しいことだった。金、戦費、政治資金… いま彼の頭の中にあることはそのことだけだった。 ローマにおいては地位やチャンスをつかむためには金が要り、つかんだそれを維持するためにさらに天文学的な金が要った。英雄と呼ばれる自分も、一皮剥けばみじめな破産者にすぎない。ただ、自分を信じて、あり余っている金の一部を貸してくれた見かけだけの友のために、戦い続けるよりない。他人をして金を貸さしめるだけの才覚と弁舌をたまたま備えていた自分自身に対して、シーザーは恨みを覚えた。戦争など、二の次三の次にすぎない。問題は、果たしてこの欲望に行き止まりがあるかどうかだ… 曲が終わると、ブリジットのそばには、小さな森の精霊たちがズラリと勢揃いして並んでいた。 「お別れを言いにきました」 精霊の代表は悲しそうに言った。 「わたしたちは秘密の道を通って、平和な土地に逃げます。ブリジット、もしよければ、あなたの友だちのうち、汚れのない子供だけを一緒に連れていってあげましょう」 「ありがとう!」 ブリジットがこのことを告げにキャンプに戻るまでもなく、よちよち歩きの子供を連れたり、胸に赤ん坊の入った籐の籠を抱いた若い母親が集まってきた。 森の中の、いつも濃い霧におおわれていてだれも近づかないあたりがじょじょに晴れ渡ったかと思うと、まるで道標のように両側にキンポウゲの花がズラリと並んだ細い道が現れた。 精霊たちは葦笛を吹き、小さな太鼓を叩いて子供たちを誘った。子供たちは普段から草花の陰や台所の食器の陰で時々目にしている精霊がハッキリ見えたことに喜び、ブリジットの竪琴よりも強力なその楽器の音色に魅せられて、あとをついていった。揺り籃の中の子供は、精霊たちが神輿のように大勢で担いでいった。 若い母親たちは、ある者は地面に膝をつき、ある者はいまにもあとを追いかけようと腕をまっすぐに差し出しながら泣きじゃくっていた。悲しさと悔しさに目をそらせようとしたブリジットは、精霊の長が秘密の道の入口でもなく、遠ざかりゆく精霊や子供たちのうしろ姿でもなく、まったくあらぬ方向を見て、消えゆく歌を低く繰り返していた。 彼の心配りに気がついたブリジットは、まず半狂乱になっていた母親の一人の肩を抱いて起き上がらせ、子供たちを追うように歩み出した。 「さぁ、早く子供を追って!」 「でも…」 「責任はわたしが取ります!」 ブリジットが彼女の背中を強く押すと、母親は涙でクシャクシャになった顔をパッと輝かせ、脱兎の如く行列を追った。 「さぁ、あなたがたも早く!」 ブリジットは倒れ崩れていた母親たちを次々に抱き起こすと、同じことをした。覚悟を決めてなんとか正気を保っていた女たちは、許しを求めるような目でブリジットを見た。「もちろん! どうぞ!」 母親たちは互いに手を取り合って、息子や娘たちを追った。最後の一人が滑り込んだ瞬間、精霊たちの秘密の道は元のように濃い霧におおわれ、なにも見えなくなった。 「おまえは行かなかったのかね?」 ゆっくりと振り返った精霊の長は、あとにただ一人残ったブリジットの姿を見て言った。「わたしは、キアンを見捨てては行けません」 ブリジットは低く、しかしきっぱりと答えた。 「やれやれ、頼りない男を好きになると、苦労するのう」 「キアンは一生懸命戦いました!」 「あれで?」 「もともとおとなしい、心の優しい人なんです。戦も好きではなく… それが生まれてはじめての戦で…」 目にいっぱいの涙をため、声をつまらせたブリジットはその場を走り去ろうとした。 「待て!」 精霊の長は彼女を鋭く呼び止めた。立ち止まったブリジットの肩にヒラリと飛び乗ると、懐から黄金のはさみを取り出して、彼女の前髪をジョキジョキと切った。 「少し早いかもしれんが… ブリジット、おまえを一人前の女として認めておこう。わし一人の祝福ではちと寂しいかもしれんが…」 「いいえ、とんでもありません!」 頬をリンゴのようにまっ赤に染めたブリジットは額にかかった髪の毛を払い落とすと、まっしぐらにキャンプへと戻った。 「さらばだブリジット… もうおまえには、わしたちの姿は二度と見えんし話もできん。がしかし、竪琴の音は時々聞かせてもらいにいくぞ。おまえとキアンとの間にどんな子供ができるのかと思うと、いまから楽しみじゃ。願わくばその子がわしらを見ても、物など投げたりせんように、ちゃんと教育しておいてくれよ!」 駆け出して、ハッとして立ち止まったブリジットは、あわててうしろを振り返ったが、そこには大きなキンポウゲの花がたった一つポツンと咲いているだけだった。 「ありがとうございました! そして、さよなら!」 彼女は深々と頭を下げた。 そのころ、ブリジットが処方してくれた薬がよく効いたおかげでグッスリ眠っていたキアンは、とりわけ悲しげに泣きすする声に目が覚めた。それは戦死者を葬った墓地から聞こえてきた。彼はズキンズキンとうづく傷の痛みをこらえて、なんとか立ち上がると、熱で足をふらつかせながらも、木の幹を伝うようにして墓地に向かった。 そこには、ま新しい土まんじゅうが数え切れないほどたくさんできていた。 キアンはその中のひとつの前で、墓に額をこすりつけるようにして必死に悲しみをこらえている一人の娘を見つけた。形のよい娘の背中に見覚えがある。干し草置場で見たカップルの娘のほうだった。ローマ軍を相手に勇敢に戦った青年のほうは、いまは冷たい土の中にいる… 「年老いて病気になり、長い間苦しんで死んだのなら納得もします。男として、どうしてもやらなければならない仕事のために、命を捧げたのなら諦めもしましょう… あなたは兵士ではなくて、ただの百姓だったではありませんか? 昨夜あんなに元気で、あんなに深く愛し合ったのに、向こう見ずにも人殺しの集団の中に飛び込んでいって命を捨ててしまうなんて!」 娘はそうつぶやきながら、泥だらけの手で墓の土を掘り返そうとした。キアンは自分の傷の痛みも忘れて、彼女の腕を取り押さえた。驚いて我に返った娘は、彼のほうを見つめた。キアンはかすかに首を横に振った。 「どうか休ませてあげて!」 「キアン坊ちゃん?」 それからキアンは、亡き彼の戦場での勇敢な働きを逐一話して聞かせた。…自分を守ってくれながら、敵を何人も倒したこと。農民とは思えない素晴らしい剣の腕前だったこと。倒された相手は裏切者ルーで、村一番の使い手だったこと… 最後にキアンは、「彼の仇はぼくが必ず取るッ!」と誓って、言葉を結んだ。 ところが娘は意外な返事をした。 「キアン坊ちゃん、バカなことはおよしに なって下さい! 坊ちゃんにもしものことがあると、ブリジットお嬢さまがどんなにお嘆きになることでしょう! どうかいまは軽はずみなことを避けて、落ち延びて下さい! それはきっと恋人の願いでもあるはずです」 キアンはもちろん、いままでこんなに大勢の人||それも親戚や村の人々||が死んだのを見たことはなかった。いままでで一番悲しかった思い出は、可愛がっていた小馬が病気で死んだ時だった。 村の炎上にはじまって、戦士たちの死、養父たちの死、自らの深手と、あまりにも一度に多くのことが起こった。 墓の前にいる娘は、懐から守り刀を取り出してスラリと抜いて、左の乳の下に当てた。「そんなことしちゃダメだ!」 キアンは飛びかかって守り刀を奪おうとした。 「お慈悲です! 死なせてください! 生き延びても、明日はもっとひどいことが起こるんです!」 いつもなら簡単にできることも、傷の痛みのせいで容易ではない。が、なんとかもぎ取った。 そこへブリジットが、キアンを捜しながら戻ってきた。 「ブリジット、いいところへ! この人を見てあげてくれ!」 「わかった!」 ブリジットは自分よりは四、五歳は年上の半狂乱の娘の肩を抱くようにして連れ去った。 キアンは、そのまま眠らずに、燃え盛る薪を前に、大きな木の幹を背にしてずっと考え続けた。 しばらくしてブリジットが戻ってきた。 「強い薬を飲ませたら、やっと眠ってくれた…」 こんなひどい状況の中でも、彼女は少しも明るさを失わない。疲れさえ見せない… 「これ、返してあげてくれ」 キアンは娘の守り刀を手渡した。 「ブリジット、やはりぼくらが戦ったのは間違っていたんだ」 彼女が正面に腰を降ろしたのを見て、キアンはポツリと言った。 「『正義が貫かれないよりは死んだほうがまし』だなんて、そんなこと絶対なかったんだ…」 「キアン、わたしもそう思うわ」 「明日ローマ軍が攻めてくるまえに降伏しよう!」 キアンがそう言った瞬間、ブリジットは わっと泣き崩れた。 「もっと早くにしていれば…」 「でも。だれが代表で降伏するかだけど」 「それはキアン、あなたしかいないわ」 「えっ、ぼくが?」 キアンはショックだった。そして、ブリジットがいつの間にか前髮を降ろしていることに気づく余裕なんかまったくなかった。 KIJISUKE@aol.com