弓と竪琴

   第五章

  小春日和の秋の午後のことだった。
  キアンは冬至の祭りのときにいいなずけのブリジットにプレゼントする毛皮を狙って、山の向う側まで狩りに行った。
  森の踏み分け道に積もった落ち葉を踏みしめながら目を凝らすと…
  いた!  崖っぷちに。
  つややかな黄金色の毛皮をした大きな貂である。
  アルプス一帯はこれから一気に冬へと向かう。
  みぞれまじりの絶え間ない雪が、自給自足の小さなケルト人の村を、外界から遮断してしまう。
  貂でできた帽子は、さぞかしブリジットにお似合いだろう。
  キアンは慎重に手にした弓を引き絞った。
  この弓は、つい先日まで義父の部族に伝わる大弓だった。
 実は、キアンの実家には、もっと素晴らしい伝説の大弓がある。義父から授かったものは、弓作りの名人がその弓を一寸違わず写した模造品だと言われていた。
(早く一七歳の成人式がくればいいのになぁ。
  そうすれば、本物の家宝の弓も借りられるし、ブリジットと世帯も持てるのに…)
  彼はいろんなことを考えながら矢を放った。
  矢は狙いをたがわず、貂に命中した。
  欲張りなキアンは、矢が毛皮を大きく傷つけてないかだけが心配だった。
  獲物を拾いに崖に寄った彼が何気無くその下を見ると、いつもは何もない荒野が鎧兜で身を固めた兵士たちで埋め尽くされている。
  かれらの軍旗と、百人隊長の赤いマントがモザイクのように秋風に揺れている。
  もう、贈り物どころではなかった。

「わたしはこの村の族長だ!  ローマ軍の人々よ、心あるならば、わたしと一対一の勝負をしろ!」  父が叫んでいる。「キミたちの代表が勝てば、この村はキミたちのものだ。そのかわり、もしわたしが勝てば、どうか見逃して欲しい!」
「問答無用!」
  背中に雲霞のような大軍団を従えた、黒いマントの将軍がせせら笑う。
「兵士諸君、構わないからひともみに押しつぶしてしまえ!」
  先陣の部隊がいっせいに父をはじめとする村の男たちに斬りかかる。
  父や兄たちはよく戦ったが、なにしろ多勢に無勢。一人倒れ、二人倒れ、すぐにローマの軍団が村になだれ込んだ。
  家には火をつけられ、収穫したばかりの食料や女子供は略奪された。
  キアンの父親も母親も、ローマ軍の刃に倒れた。
  彼もまた、戦いのまっただなか、ブリジットをかばいながら、次々と迫り来るローマ兵に矢を浴びせかけた。キアンのまわりに急所を射抜かれたローマ兵の屍の山が築かれていく。
「小僧、生意気な!」
  黒衣の将軍がキアンの矢をかわしながら疾風のように迫り、白刃が一閃したかと思うとキアンは深手を負い泥の中に倒れた。
  薄れゆく意識の中で、彼は黒衣の将軍が、キアンの幼馴染みであり相思相愛のブリジットを肩に担いでさらって行くのが見た。
  「ブリジット!」
  叫びは声にならなかった。
  ブリジットと、彼女の宝物である竪琴が、霧の彼方に遠ざかる…


… また同じ、あの恐ろしい夢だった。
  冷や汗びっしょりの体とは対称的に、朝の空気がすがすがしい。
  秋の朝日が、雲間から漏れている。
  光のまぶしさに目覚めると、キアンは思わず寒さに身震いした。
『もう夏も終わりだ。まだまだ宿代を節約して野宿できると思ったけれど…』
  夜のあいだに降った草露がまたあの悲しい過去を思い出させたらしい。
  雲雀(ひばり)がもうあんなに高く舞っている。
  狼よけの焚火も、燠火からかすかに煙が立ちのぼっているだけだ。
  いけない! すっかり寝過ごしてしまった!
  彼は愛用の大弓と、矢筒を手に取って勢いよく跳ね起きる。
  名もない小川で顔を洗う。
  ケルト人特有の高い背丈、透き通るような白い肌、空色の瞳と燃えるような赤い髪の毛が水面に写る…
  顔を上げると、永遠の都ローマが、朝もやの中に霞んで見える。
(あれがローマか、ついに着いたんだな…)
  思えば、傷を治しながら、また腕を磨きながらの三年間の旅だった。アレシアで戦死した父… 本来ならば形見として受け取れるはずの、本物の家宝の大弓…を届けてくれる者もなく、全てはいったん諦めざるを得ないところからの旅立ちだった。
『いよいよ敵の都か…』
  昨夜遅くここに着いた時は、常夜灯の松明が風のなかにゆらめいていただけだった。
『 それにしても、なんと大きく立派な都なことだろう!』
  ひときわ小高い丘には白亜の大理石の神殿がそびえ建っている。あれはおそらくジュピターの神殿だ。神殿や闘技場は大小たくさんあって、一目では数え切れない。たぶんかれらの神々の数だけあるのだろう。
  そしてそれを取り巻くようにして、無数の石造りの家が立ち並んでいる。
(あそこのどこかにブリジットがいるのだろうか?)
  自分たちの部族を滅ぼし、族長であった父や養父たちを卑怯な手段で殺し、いいなずけのブリジットをさらった連中の首都がいま目前にある。
(ブリジットを助けだし、黒いマントの将軍に対し、部族の名誉にかけて、復讐を果たさなければならない!
  それにしても、あんなにたくさん家があるのだから、自分一人ではなにもできないだろう。金は絶対にいりそうだ)
  そう思うと急に現実的な不安もこみあげてきた。
  ミラノの市場で素晴らしい鋼の狩猟ナイフを見つけて、それまでのあり金をはたいて買ってしまったからだ。
(商店は毛皮を高く買ってくれるだろうか?
  安くていい宿はあるだろうか?
  しばらくローマに住むのなら、ローマ風の寛衣を買ったほうがいいだろうか?
  ローマにはケルト再興を企てるケルト人の一団がいるそうだが、どうやって連絡すればいいのだろうか?)
  いろいろと、はやる気持ちはなかなか押さえられそうもなかった。
(とりあえず、まずなにをしよう?
  そういえば腹が減ってきた。
  ひと仕事して、久しぶりに干しぶどう入りのパンと牛乳の朝食にしよう!)
  そう思って小川のほとりのオリーブの木の上で待つこと十数分、やがて、大きな野生の豚が水を飲みにやってきた。
(これはツイてるぞ!)
  キアンは弓を引き絞る…
  ヒョウと射られた矢は空間を裂くように飛び、豚の眉間につきささった。
  豚はドウッと地響きを立てて倒れた。
  彼はヒラリと地上に舞い降りると、獲物を確かめようと駆け寄った。
  その時だ。
  なんと、もう一頭いた!
  そいつは仲間の復讐のためか、キアン目がけて突っ込んできた。
( 間に合わない!)
 彼は腰のナイフをスラリと抜いた。
(ぼくはこれからブリジットを捜しに、ローマに行くんだ。ケガなんかしたくない!)
  猛獣と戦うローマの剣闘士のことをチラリと考えた。
(虎や獅子と闘うのが仕事の人もいる。たかが豚だ!)
 迫ってくる豚をかわしながら、その背にナイフを突き刺した。
  手応えがあった。だがナイフが抜けない!
  手負いの豚はナイフを背に刺されたまま、ぐんぐん遠ざかっていく…
(あれは大弓とともに全財産だ。いや、大弓は義父から譲り受けたものなので、あれだけが自分で稼いだ自分の持ち物だ!)
  大弓に矢をつがえると、はや点になった豚に狙いを定めた。
  ふうっと一つ深呼吸する。
  矢は今度はスッと音もなく手元を離れた。
  しばらくしてかすかにドオッという地響きが聞こえてきたが、豚の倒れる光景は遠すぎて見えなかった。
  キアンは豚を、というよりナイフを拾いに行った。血痕が点々と草原に続いている。ナイフは落ちていない。おそらく、豚に刺さったままなのだ。
  やっと豚が死んでいる所まできた。ナイフと矢がそれぞれ急所に突き刺さっている。
  振り返ると、矢を射たオリーブの木は、はるかな緑の点になり、小川の水面はモザイクのようにキラキラと輝いていた。
  彼は木の枝を編んで草原の上を走る筏を作って獲物をくくりつけた。
  この筏は、幼い頃養父から習ったものだ。
  そう思うと、狩猟に夢中になって忘れていた焦る気持がまた甦ってきた。
(いまは冷静に、冷静に…)
 自分に言い聞かせる。
(一族を殺され、民族を滅ぼされた人々の末裔は何万人といる。もちろん自分もその一人だ。その人々はみながみな軽はずみな行動に走ったか?  否。
  ほとんどの人々は、ローマ風の生活になじんで、ローマ人たちの言う生活の豊かさを楽しみ、その中で民族の誇りを失わず、結婚し、子供を生み、独自の伝統文化を伝えながら、民族・国家再興のチャンスをうかがっている…)
  小川とオリーブのところまで戻って、さらにもう一頭の獲物を筏に乗せる。
  一人で二頭の豚を引っ張っていくのは息が切れた。
(ローマ人なら奴隷にやらせるか、人を雇うだろう。だが、ケルト人は働き者なんだ)
  彼は黙々と、二頭の獲物を町まで運んでいくことにした。

  ローマ市。
  そびえ立つ総大理石造りの巨大な闘技場や公衆浴場にキアンは思わず目を見張った。
  神殿をはじめ壮麗な建物がいたるところにひしめき建っている。
 間近で見ると、圧倒される…
  同じく総大理石の敷石を敷きつめた広場、そこを埋め尽くす商人たちの露店、街角ごとに演説し、議論をぶつ人々。
  台の上で売られる奴隷たち。サイコロ賭博に熱中する遊び人…
(それに、行き交う人間のなんと多いことたろう!)
  見渡す限り商店ばかりが並んでいる通りもある。
  故郷の村では、こんな大きな豚を、一度に二頭も仕留めれば、たちまちのうちに村じゅうの人が出てきて、噂は近郷近在にひろまり当分のあいだ宴会が開かれたものだった。
  それがここではろくに振り返る人さえない。
  大きな肉屋があったので、入った。
  主人はキアンの服装と、髪の色を見て、一瞬鼻でせせら笑った。
「おや、こいつは野生だね。
  野生は肉が堅いから、そう高くは出せない、と言いたいところだが、きょうは元老院のブルータス閣下が蛮族の族長たちを招待して宴を開かれるのだ。
  野蛮人の連中は、ブヨブヨが嫌いなんだ」
  主人はそう言って、二頭の豚を銀貨一枚一○ドラクマで買い叩こうとした。
「バカにするな!」
  キアンは豚をひきずりながら立ち去りかけた。
  結局、銀貨三枚三○ドラクマで売り飛ばすことに成功した。
  その表面には、キアンの父・族長の肖像の代わりに、仇であり、ローマの終身独裁官であるシーザーの肖像が刻まれていた。
  よし、使ってやれ!
  キアンはまずテーブルが八割がた埋まっている食堂に入った。
  品書きのラテン語を読む。
  三年間の旅のあいだに勉強して、ずいぶん文字も読み書きできるようになった。
  さっそく干しぶどう入りのパンと、牛乳とチーズを注文する。おそらくあちこちの小麦粉を混ぜてあるのだろう、パンはじつにきめこまやかで口当りがいい。酵母もいい。きっと競争が激しいのだ。店は実によくはやっている。
(連れ去られたブリジットも、このような食事をしているのだろうか?)
  機嫌よく食事をしていると、五、六人のローマ兵の一行がやってきた。
「野蛮人、どけ!」
「『野蛮人』とは何だ! ぼくも金を払った立派な客なんだぞ!」
  キアンはテーブルを持ち上げてそいつらに投げつけ、連中が驚いたスキに一目散に逃げ出した。追っ手を適当にまき、なに食ぬ顔で広場に続く商店街を歩くと、軒先に並べられた商品の種類と、量の多さに圧倒された。
  食料品、衣料品、薪炭、薬、靴、壷、皿などの日用品から、武器、防具、馬具、金銀宝石細工に輸入品専門店、人気作家の詩や戯曲、難しい法律や哲学や数学の本(筆写本)を売る本屋まである。
(これでは金がいくらあっても足りない!)
  少し落ち込んだところで、回りで買い物をしている人に目をやると、男はみんなお洒落で格好もよく、女はみんな美しく見えた。荷物持ちの召使までがとりすましている。
(いけない、いけない。とにかく目的に一歩でも近づかなければ… つまらない喧嘩をして捕まりでもしたら、元も子もないぞ)
  決心したのはいいが、さすがに弓と矢を売る店の前でははたと立ち止まった。「ご自由にお試し下さい」という看板も気に入った。
  ローマでは、剣や槍、馬術に格闘技が武芸の主流で、弓術はどちらかというと、マイナーな存在だ。だから、職業軍人で弓術を専門にする者はまずいない。むしろ、キアンのような少数民族出身の傭兵が中心となって、弓兵部隊を構成していた。
(ここでねばっていると、同胞に会えるかもしれない。同胞に会えば、ブリジットの噂を聞けるかもしれない…)
  そう考えて、店の中に入った。
「この弓にちょうど合う矢はないかな?」
  売り子はハッとするほど美しい黒人の少女で、乳房を晒できつく巻き、下は丈の短い腰布姿だった。
  しかしそれよりもキアンは、この少女の不思議な光を放つ黒い瞳に吸い込まれそうになった。
「こちらになっております」
  キアンは矢を手に取った。矢尻の重さといい、矢羽の感じといい、悪くない。
「試していいかな?」
「どうぞ」
  キアンは店の奥に設けられた藁で作った的に向かって矢をつがえた。
  弓を軽く手加減して引き絞り、ひょいと手を放すと、第一矢はヒュッという自信に満ちた音を立てて、的の真ん中に突き刺さった。
  二の矢、三の矢も同じところに命中し、しばらくして的に矢羽の花が開いた。
「いい矢だ。一本いくらする?」
「一○○本で、銀貨一枚になっております」
(安い…)と彼は思った。どんなに手の早い者でも一○○本の矢を作ろうと思ったら、三日はかかる。
(自分は不猟のときでも、一日に銀貨一枚は稼いでいた…)
「もらおう」
「ありがとうございます。どちらへお届け致しましょうか?」
「必要な時に取りにくるから、それまで預かっていてくれ」
「失礼ですが、お名前は?」
「キアンだ」
「キアンさま、その腕前に対して、もう一○本おまけしましょう」
  少女その不思議な光を放つ瞳を伏し目がちにして言った。
  すっかり気持ちを良くして店を出た。振り返りざまに店の看板を見ると、「スピカの店」と書いてある。
(あんなに可愛ければ、きっと人気があるだろうな…
  さぁ、あとは名物の風呂に入って、服を買って、宿を取り、そこを足場にブリジットを捜そう!)
  ローマの公衆浴場は、ケルトで売られていた観光絵案内のそれから想像していたものよりかはるかに豪華で、宮殿と見間違うくらいだった。
(待てよ、自分のような外国人でも入れるのだろうか?  それでなくても自分のこの赤い髪の毛は異民族そのものなのだ。旅人は「ユダヤ人でもムーア人でも、戦争で手柄を立てた者や、税金をたくさん納めた者は、みんなローマ市民になっている」と言っていた。
 さっき暴言を浴びせられたのは、おそらく自分の服装がみすぼらしかったからに違いない… しかし風呂は貧しい者でも必ず行く。
  だったらそう心配することもないだろう)
  大小何一○種類もの風呂。天井、壁、床一面に施された華麗なモザイク…
  蒸気の立ち込める蒸し風呂のなかで、ローマの男たちがシーザーの噂話をしている。
「シーザーはやりすぎだよ。ガリアに攻め行ってケルト人たちを滅ぼしたのも、略奪を繰り返して彼個人の借金を支払うためだったそうじゃないか。共和国の軍隊を自分の私兵のように使ってさ。しまいに元老院の連中からしっぺ返しをうけるんじゃあないかな」
「いやあ、そんなことはないよ。彼はローマのために、実によくやってくれている。ガリアに攻め入ったのも、終身独裁官になったのも、ローマがより豊かになるようにと考えてのことだ。他に思惑なんかあるものか」
(何だって!)
 風呂の中で思わず叫びかけた。
(ぼくらの村を滅ぼしたのは、略奪して借金を返済するためだった、だって!)
「でも、みんなで選んだ元老院議員をないがしろにするのはよくないと思うよ。特にシーザーが近頃ナンバー2のブルータス議員としっくりいってないのは気になるなあ」
「元老院が何だ。議論ばかりしていて、一歩も前に進まない、もうろく爺の集まりじゃないか!」
「シーザー閣下は、ローマの領土をすごく広げたんだぞ!  オレたちがこうやって毎日のんきに暮らせるのも、閣下のおかげだ。閣下は皇帝になってもおかしくない!」
「バカ言え、豊かになり、外敵の脅威もなくなったいまこそ、内政や外交の重要なことがらは、もとのようにみんなで決めるべきだ」「何を言う、野蛮人どもはシーザーの命令だからおとなしくしているんだ。なあ、そうだろそこの赤毛のケルト人?」
  男の一人がバカにしたような抑揚で尋ねる。
「シーザーは必ずぼくが殺る!」
  キアンはそう答えて風呂を出た。
  ローマ人たちがいっせいに嘲笑う。
「おまえが?  未来の皇帝陛下を?」
「だったら呑気に風呂なんかに入っていないで、このローマのあちこちに捕らわれているケルト人の人質の一人でも救い出したらどうなんだ。ずいぶんかわいそうな目にあっているらしいぜ」
  床屋で散髪をしてもらっている間も、キアンは男たちの会話が耳から離れなかった。
  シーザーは政治的野心を満たすためと、そのためにした借金を返済するためにガリアを征服した。そのことを元老院の連中は快く思っていない…
  例えば、元老院の有力議員ブルータスはシーザーの幼馴染みだったが、一度はシーザーに弓を引いている。当然敗れて、盟友が大勢処刑されるなか、特別に許され、いまは文官でありながら、シーザーがもっとも信頼を寄せている腹心であるという。
  そのブルータスはシーザーが戦争に勝ってこれ見よがしに連れてきたガリア・ケルトの族長の子弟を解放したがっている。つまり彼は懲りもせずシーザーが滅ぼした相手と仲よくしたがっているのだ。
  浴場を出たキアンは、服屋のまえで立ち止まった。着古してすっかり擦り切れたケルト風のスボンをなでる。ブリジットを捜すためとはいえ、ローマ人と同じかっこうをすることにはためらいがあったが、思い切ってローマ風の寛衣を買って着た。
  通りは地中海のバラ色の夕日に照り輝き、ガラス細工店のコップや花瓶が七色の彩りを発している。
  広場では、辻音楽士たちが竪琴や石琴の演奏を始めた。
(ああ、もう一度ブリジットの奏でる竪琴の調べを聞いてみたいものだ)
  と突然、思わず涙を流しそうになるくらい懐かしいにおいをかいだ。
「リンゴだ!」
  そう、キアンたちの生まれ故郷、はるかアルプスのふもと、水晶の湖の近くに花咲き、実っていたリンゴの香りだった。
「さあさあ、リンゴはいかが?  山賊の出る山の中を、早馬車で一○日飛ばしてきて、たったいま着いたばかりのもぎたてのリンゴよ。これを食べると頭がよくなって、難しいお役人の試験も楽々受かる!」
  ケルト風の衣装に身を包んだ売り子のローマ人の少女は、衣装に合わせた小さな弓矢を下げていた。
(ブリジットにも、大きくなるのに合わせて何度もお下がりを上げたっけ…  でも彼女の矢は、いくら教えても、決してまっすぐ飛ばなくて、ご愛嬌だった…)
  リンゴは一個につき銀貨一枚と、とんでもなく高価だったが、貴族の屋敷の厨房係を中心に飛ぶように売れていた。
「オレは元老院議員ブルータス閣下のコックだ。三○まとめて買うぞ!」
(なるほど、ブルータスの家は、今夜は宴会だったんだ)
  勢いに押されて、キアンも一つ買った。
(本当に懐かしい。今夜は食べずに枕元に置いて寝よう。平和だった頃の故郷の山河の夢が見られるかもしれない…)
  太陽はすっかり暮れ落ちて、家々の窓辺に明かりがともり始めた。
  彼はリンゴをお手玉のように投げながら、外国人の旅人向けに安くていい宿があると教えられた地区に向かう近道の裏通りを歩いていた。
  と、リンゴは粉々に砕けた。月あかりのなかに甘酸っぱい空気だけを残して。
「だれだ!」
  答えはない。
  二の矢が飛んできた。
  キアンは間一髪かわした。
  続いて三の矢。
  民家の屋根の上に、小柄な人影が見えた。
  キアンは素早く応戦に転じた。
  彼の矢が相手の弓の上端に命中したかと思うと、人影はフッとかき消えた。
  ただちに追いかけようと駆け出しかけると、相手は弦の切れた弓を持ったまま、ヒラリと屋根から降りてきた。
「弓矢の店」のスピカだ。
  スピカはキアンの前にひざまずいて頭を下げた。
「お試しして、申し訳ありません」
「そっちがわざと外しているのが分かったから、こっちもわざと外したんだ」
「じつは、お願いがあるのです」
「…………」
「人々の幸せのために、人を一人殺していただきたいのです」
「ぼくは殺し屋じゃない。猟師だ」
  キアンは肩をすくめて立ち去りかけた。
「お父上らの仇を取りたいとは思われませんか?」
  キアンは立ち止まって振り返った。
「なぜそれを知っている?」
  スピカはなかなか答えなかったが、やがて意を決したように言った。
  キアンは彼女の、例の瞳の不思議な光が、ひときわ濃くなったように感じた。
「わたしたちの一族は、人の心が読めるんです。…ちなみにわたしは、相手の人の過去の悲しい思い出が読めます…ブリジットさんのことはなんとおなぐさめしていいか…」
  スピカは口ごもった。
「殺していただきたいのは、人の心の未来が読める女、ヴェガです。ブルータスとその部下キーファー将軍は、彼女を利用して、先々裏切りそうな部下をあらかじめ粛正しようとしています」
(キーファー!)
 その名は絶対に忘れられない名だった。
「人の心はふとしたきっかけで変わるもの。そんなことを許してはなりません。
  お願いします!  お礼は、粛正されかかっている幹部たちがいくらでも払ってくれるはずです」
(ローマに着いた初日に、敵の名を聞くなんて、これは罠かも…)
 彼はそう考えて慎重になった。  
「ぼくは殺し屋じゃないんだ。悪いがほかを当ってくれ。それに…」
  キアンは皮肉が嫌いだったが、この際は言いたくなった。
「キミだって結構いい腕をしているじゃあないか!」
「それはできません!」
  スピカは決然と答えた。
「なぜ?」
「わたし自身がヴェガと決着をつけたいのは山々なのですが、ヴェガの読心能力は、ほぼ全般に渡って可能なのに比べて、わたしのは相手の人が強く心に刻んでいることくらいしか読み取れません。…加えて弓や、他の武術の腕前も姉のほうが上。…これでは勝敗は目に見えています」
「そりゃあ不思議な話だ」
「ヴェガはわたしの一卵性双子児の姉なのです。それに…」
「それに?」
  キアンはスピカの妖しい瞳に、不思議な胸騒ぎを覚えた。
「キーファーこそ、あなたの捜しているブリジットさんをさらったその人でしょ?」

  夜もかなり更けたかというのに、ブルータスの壮大な屋形はいまだに宴の真っ最中だった。
  色とりどりの民族衣装の正装に身を包んだ賓客、楽団、踊り子、食膳の上げ下げをする召使たちと、だれがだれなのかよく分からないありさまだ。
  キアンとスピカは、客の召使たちが待機しつつお流れの相伴に預かっている庭園の木の枝の上から、ヴェガを捜していた。もちろん弓矢は隠し持ってきている。客の召使たちも、もうすっかり出来上がっていて、誰も木の上に注意を払うものなどいない。
  黒雲が足ばやに流れて月の上にかかった。「キアンさま、あれです。あれがわたしの姉のヴェガです!」
  スピカが小さく叫んだ。
  なるほど、豪華な絹のドレスに身を包み、丁寧に化粧をしているが、背丈や顔形はスピカにそっくりな黒人の美少女がいる。
  そしてそのそばには、黒い鎧と、黒いマントを羽織った精悍な軍人がいつもピッタリと寄り添っている。
(あいつだ。あいつに間違いない!)
 キアンの心は嫌が上にもはやる…
「あれが、あなたの仇のキーファーのはず…
 わたしたちの一族は、みんなその能力を秘密にしていますが、キーファーの心がほかの娘に揺らぎかけたことを『自分の力』で知った姉は、愚かにも『力』のことをキーファーに打ち明けてしまったのです…
  当然、彼の心は姉に戻りました。愛のためではなく、自分の野心を満たすためです。
  姉は『力』で、彼の自分への関心が、決して愛のせいではないことを知っています。それなのに…」
  キアンはうなずいた。
  キーファーが恐るべき武芸の達人であることは、これだけ離れているのにビリビリと伝わってくる殺気と緊張感で分かる。
 三年前、思わぬ不覚を取ってブリジットに捕らえられた頃とは、格段の差がある。おそらく、本人も期するところがあって研鑚したのに違いない…
  現在では、おそらく軍人としての腕前は屈指であろう。
  キーファーが突然こちらを見上げた。
  目と目が合いそうになった。
(危ない!)
  二人はとっさに葉の陰に隠れる。
  かいま見たキーファーの両の目には、途方もない野心の炎が燃え盛っていた。
  キアンはその目に、その目の炎を忘れようもなかった。
(もう絶対に間違いない、あの男だ!
  養父と一族と村を焼き滅ぼした、憎んであまりあるあの男だ!  地位のある人物で探しやすいとはいえ、ローマに来た最初の日に巡り会えるなんて、なんと幸運なのだろう!)
  寛衣に正装したヴェガは、賓客の間を酌をして回っていたかと思うと、キーファーの漆黒のマントの中に戻る。マントの中で、
「この人は裏切ります。あの人は裏切りません」と言っているようだ。
  何度か繰り返すと、キーファーは奥の部屋に消えた。恐らくブルータスに報告するのだろう。
  ヴェガは無防備になった。
(あのおとなしそうに見えるヴェガが、どうしてこんな危険な男に惚れたのだろう…)
  キアンは静かに矢をつがえた。
(いまなら確実に命中する!)
  そう思って、スピカのほうにチラリと目をやると、まるで姉の死と同時に自分の命も終わるかのように、目を閉じて、祈っている。
(でも実際はそんなことはあり得ない。もしもそうなら、スピカは迷わず自分の命を断ってばよく、わざわざ殺し屋を雇う必要なんかない…)
  気を取り直して再び標的に向かうと、ヴェガはエトルリアの酒瓶の林の奥に隠れてしまっていた。
  キアンは鏃(やじり)の先をキーファーに向け変えた。
「キーファー将軍を殺ろう!」
  キアンは断固して言った。
「キーファーが死ねば、ヴェガだって、目が覚めるだろう」
「それをやろうとしていままでに何度しくじったことでしょう」
  スピカが毅然として答える。
「ローマじゅうの名のある刺客が彼に向かいましたがみんな返り討ちにあいました。
  失礼ながら、あなたよりも腕の立つ者もことごとくやられたのです。
  キーファーがあなたの仇であることは間違いないでしょうが、ここは堪えて、まずヴェガを討って下さい!」
  キアンが再び弓を構えかけた時、おり悪しく当のキーファーが戻ってきた。
  キアンは考えた。
(仇を目前にして、何の関係もない別の人間を射ることなど、とてもじゃないができない…)
「イヤだ!  ぼくはキーファーを仕留めて見せる!」
  キアンは興奮した。矢尻の先にある相手の姿が揺れる。
「止めてください!」
  スピカがすがりつく。
 はずみで枝が揺れ、キーファーに気配を悟られた。
(万事休す!)
  ヴェガは引き続き、酒をつぐふりをして、将来の裏切り者を調べている。それが、部屋の角を曲がって、新しい座にさしかかった。
  彼女が手にしていた酒瓶が突然ブルブルと震えだした。そしてしまいに床に落ちて粉々に砕けた。
  キアンたちのほうに向かっていたキーファーが踵を返した。
  新しい座の中に潜んでいた数人の若い暗殺者たちが、それぞれ隠し持っていた武器をスラリと抜き払いながら、スックと立ち上がった。「キーファー、われらの積年の恨み、受けて見よッ!」
  客や召使は、悲鳴をあげながら蜘蛛の子を散らすように逃げる…
  テーブルが倒され、食器が砕けた。
  キーファーは、その薄い唇に冷たい笑みを浮かべながら、スラリと佩刀を抜き放つ。
  地獄の闇のようなマントを背に、銀色の剣が踊った。
  若者たちが次々と血しぶきを上げて倒れる。「ハハハ、どうした、口ほどにもない!」
  彼が皇帝であってもおかしくないくらい、威厳に満ちた声だった。ローマの、人材の厚さを改めて思い知らされる。
  若者たちは、最後の一人を除いて、またたく間に切り殺されてしまった。
  最後の一人は、なかなか切り込まないで、間合いを計っている。
  キーファーも、血塗られた剣を持ち直した。
「ショーン、勝ち目がないのによく来た!」
  ショーンと呼ばれた相手の若者は、灰で脱色した髪の毛を油で固めて逆立たせ、不敵な瞳を輝かせている。
「キーファー、ヴェガを利用して、恥ずかしくないのか!
  男なら正々堂々と策謀をやって見ろ!」
  ショーンは、その細身の剣で、キーファーを指した。
  そこへ、ブルータスの部下、キーファーの部下たちがどかどかと駆けつけてきた。
「どけッ、その度胸に免じて、オレが相手になってやる!」
  キーファーが命令すると、兵士たちはたちまち下がりすぎと思うほど下がった。
  会話が耳に入ったのか、衝立の陰に隠れていたヴェガが姿を現した。
「ショーン!」
「ヴェガ!」  ショーンが叫ぶ。
「ヴェガ出てくるな!  隠れていろ!」
  キーファーが怒鳴る。
「若者たちの死を無駄にしてはいけません!
  さあ早く、姉を討って下さい! ヴェガさえ討てば、キーファーはその辺にざらにいるこれと言った取り柄のないヒラ将軍に過ぎません!」
  スピカにせかされるようにして、キアンはしぶしぶヴェガに狙いをつけた。
  ショーンがキアンの殺気を感じた。
「やめろーッ!」
  矢が放たれる!
  ヴェガは恐怖に立ちすくむ。
「ヴェガ!」
  さすがのキーファーの顔から、サッと血の気が引いた。
「さよなら、姉さん!」
  スピカは両目を閉じた。
  が、ショーンは矢の前に体を投げ出す。
  矢はショーンの思いきり差し伸ばされた右手の手のひらを射抜いて、ヴェガの左胸の皮膚にかすかに傷をつけ、止まった。
 ヴェガは眉一つ動かさない。まるでこうなることを最初から分かっていた、黒大理石の彫像のような無表情だった。
  純白の寛衣にかすかに赤いしみが広がる…
「ショーン!」
  今度はスピカが叫んだ。
  ショーンはヴェガが無事なのを確かめてから、手のひらに刺さった矢を引き抜き、よろよろと剣を拾いに戻った。
  が、いち早く、キーファーが彼の剣を拾って我が物とした。
  ショーンは目を閉じた。
  そのショーンに、将軍は、ゆっくりと剣の柄のほうを向けて返してやった。
  ショーンは左手一本で、それをしっかりと受け取って構えた。
  キーファーは自らの剣を鞘に収めた。
「裏切者の俺にも、かけがえのないものはある。なければこれより一から築き直したい。 同じケルト人として、礼を言う。…それにしても惜しいな。その勇気があれば、わたしと同じようにローマ軍に入っても成功しただろうに…」
 ショーンは相手に唾を吐きかけた。
 部下たちがいきり立って斬りかかろうとするのを、将軍は両手で制した。
 ただ一人生き残った暗殺者は、歯で衣服を裂いて傷ついた手を縛りつつ、ヴェガのいるほうを何度も振り返りながら去った。兵士たちの集団は二つに割れて、道を作った。
  キアンは恥じ入った。
(また間違えた…  もしも自分がショーンの立場だったら、果たして体を投げ出してブリジットを守ってやれただろうか?)
 スピカに目をやると、彼女はあふれ出る涙も拭わずに、去っていくショーンをじっと見つめていた。
「許せんのは、そこの木の上のネズミ! その弓の腕には見覚えがあるぞ!」
 キーファーが一喝した。
「キーファー、ブリジットをどこへやった?」
 キアンは枝の上に仁王立ちに立って、今度こそ宿敵に向かって弓を引き絞った。
「小僧、やはり貴様か。おとなしくしていれば、こちらも忘れてやるつもりだったのだがな」
「ぼくは絶対に忘れない!」
 乾坤一擲の気合で放たれた矢は、まっすぐにキーファーの顔めがけて飛んだ。
「しゃらくさい!」
 将軍が余裕でその矢を剣で払い落とそうとした時、矢は急に加速した。
「なにッ!」
 キーファーは動転した。
(やった! これで仇の一人は仕留めた!)
 キアンがてっきりそう思った時、今度はヴェガが褐色の腕を伸ばして、将軍の右眼を捕らえようとした矢柄をハッシと掴んだ。
 さっきとは一転して、鷹のように素早い見のこなしで。
(まさか!)
 形勢はまた逆転した。
「一旦引こう!」
  キアンが彼女を促すと、スピカは木の下につないでいた馬に飛び降りた。
  キアンも彼女に続いた。
  うしろにスピカを乗せ、絶妙の手綱捌きで小川を越え、林をくぐる。追っ手は次々と小川に落ち、枝に体をすくわれて落馬した。
  手綱を口でくわえて弓を引くと、追い着き並びかけた残りの追っ手は、片っ端から射落とされ後続の味方の下敷きになった。



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