弓と竪琴 第七章 トンネルをくぐり抜けると地下道に出た。「小僧、ここは地下の下水道なんだ。町から出る汚れた水は、全部この地下水路に集めて、海に流そうという計画で、いまあちこち掘り進んでいる」 バルガスの説明にキアンはただ感心するばかりだ。 何回か支流のほうに曲がると、しつこい追っ手の気配もとだえた。 行き止まりの石の階段を上がると、河口に面した水門のわきに出た。 「さあ、終点だ。おのおのがた、どうするかね?」 バルガスが一同を見渡して言う。 「わたしたちはここで。ありがとうございました」 スビカが言った。 「キアン、一緒にこないか?」 ショーンは誘ったが、いくぶん元気のない声だった。 「やめとけやめとけ! こんな感情的なヤツとうまくいくものか!」 バルガスが吐き捨てるように言った。 「…それよりか、オレと一緒に船に乗ろうぜ。剣術だって教えてやるし、シーザーの別荘の情報だって。…ちょっと待て、いま仲間を呼んでみるからな」 バルガスは突堤の端まで駆けていって、手に持った松明を独特の振りで振った。 「悪いことは言わない、オレたちと一緒に来たほうがいいぜ」 ショーンが小声でキアンの耳元に囁いた。「…あのバルガスって海賊野郎は、女には興味がないそうだぜ。 オレの言っている意味、分かるだろう?」 キアンは唾をゴクリと飲み込んだ。 「…裏の世界じゃあ知らない者はない。ま、それさえ気にならなければ、キーファーとも互角に渡り合えるくらいの男なんだが」 ショーンは一語一語かみしめるように言った。スピカも小さくうなずく。 「ローマでは珍しくないわ。バルガスは金持ちの船を襲って貧しい人々に分け与えたりして、すこぶる評判のいい人なんだけど…」 「なぁキアン、これを言ってはおしまいのようだが、バルガスはおまえにひとめ惚れしたんだよ。悪いことは言わない。ブリジットさんを愛しているならオレたちと一緒に来い」 バルガスの合図に応じて、沖合から小舟が一艘現れた。こちらに向かって漕いでくる。 バルガスが戻ってきた。 「さて、決心はついたかね?」 「ありがとう。でもぼくはシーザーの別荘に行って見るよ」 海賊は顔を曇らせた。 「危険すぎる」 「無茶だ!」 「今度こそ殺されるわ」 「いいんだ」 「勝手にしろ! …ちょっとは見直してやったのに!」 ショーンとスピカは倉庫街のほうに姿を消した。 「二人から、オレのことを聞いたんだな?」 バルガスは穏やかに尋ねた。 キアンは頷いた。 「約束する。オレはおまえになにもしない。なんなら誓ってもいい!」 「話を聞かされていなくても、断ったよ。ぼくはブリジットを救いに行くんだ」 「そうか、神々のご加護を祈っているよ」 バルガスは寂しそうに小舟に乗って去った。 空にはいつか星がまたたいている。 ローマにやってきてまだ二日目の夜だというのに、なんと人間の様々な面を見てしまったことだろう… ケルトで二○年暮らしても、こんな事件には巻き込まれなかったに違いない。 (それにしても、ローマはこんなに豊かなのに、すごい建物が立ち並び、街には品物があふれているというのに、どうして外国と争ったりするのだろう?) 彼には、答えが見つけ出せなかった。 翌日は南欧には珍しく雨になった。 シーザーの別荘の円柱回廊も、庭園の木々の緑もつややかに輝いている。ムッとするような湿った空気が総大理石張りの室内に流れ込んで、滞在中の賓客たちの間では、遠くシルクロードを通ってきた中国の扇子の柄を見せびらかすことがはやっていた。 ヴェガもまた、キーファーにねだって買ってもらった鳳凰の柄のついた、白檀の香りのする扇子をゆっくりとはためかせながら円柱回廊にそって散歩していた。 時おり横殴りに降りつける驟雨が、ヴェガの頬やドレスを濡らす。 しかしヴェガは構わなかった。 庭園には、ミノタウロスの迷宮を模した、植え込みでできた迷路があった。 「入ってもいいかしら?」 彼女は、ずぶ濡れになりながら刈り込み作業をしていた老庭師に尋ねた。 「およしなさい、お嬢さん」 老庭師は答えた。「訓練を受けた軍人でも、一時間はかかるんだ。カゼを引きますよ」 ヴェガは彼の心の底から最短道順を読み取った。ついでに、彼がここの庭師として、一生幸せな生涯を送ることも。 彼女はドレスを翻すと、迷路の奥に消えた。 「およしなさい、お嬢さん。それに、そっちの方向には行っちゃあいけないんだ!」 右、左、左、右、まっすぐ… 庭師の心の中には通常の脱出道順以外に、誰にも秘密の「通り抜けられる植え込み」を作るように命令された記憶があった。 ヴェガはそこをくぐった。 下には一面玉砂利が敷いてあるので、泥だらけになる心配はない。 と、やがて大きな池に面した小屋の前に出た。 ヴェガはこっそり窓から中を覗いた。 各部族から連れてこられた大勢の幼い人質たちが、憂いに沈んだ金髪碧眼の美少女の奏でる竪琴に合わせて、はるか故郷の歌を、故郷の言葉で合唱している。 子供たちは、遠い異国にあってふるさとの歌を歌って慰めてくれるブリジットのことを、母のように姉のように思って慕っていた。 ブリジット! あれがブリジットか! ヴェガはブリジットの心と未来とを読んだ。 伝説の大弓と対を成す、伝説の竪琴の継承者… (彼女は、キアンと巡り会う運命にある。 そして、それ以外に…) 庭を走り回っていた子供たちのうちの一人が石につまづいてころんだ。子供は膝を切って血を流し、大声で泣き出した。 ブリジットはその子の傷を甕の水で清めながら、ケルトの神話の勇者の話を語って聞かせた。子供は泣きやみ、彼女の話に夢中になった。膝の傷も針も糸も使わずにふさがったように見えた。 (あれだ、あれこそわたしがずっと捜し求めていた「力」だ。…だが、ブリジット自身は、秘められた途方もない潜在能力に気づいていない) 「だれ?」 ブリジットが気配に気づいた。 「いまは名乗れません。しかし、ご安心なさい。キアンはもうすぐそこまで来ています」 ヴェガは答えた。 「キアンが? それは本当ですか? もし本当なら、この屋敷には想像以上に罠が張り巡らされていることを伝えて下さい!」 「それは何とも。では、いずれまた」 小屋を去りながら、ヴェガは笑いが込み上げてくるのを隠せなかった。 ブルータスは目の前にいるヴェガの言葉がまだ信じられなかった。 「キーファー閣下には飽きました。これからはブルータス閣下個人に、親身にお仕えしたいと思います」 「それはどういう意味なのかね?」 ブルータスは慎重に尋ねる。(女心と秋の空、とはよく言ったものだ)「キーファーは、いつかキミやわたしを裏切るのかね?」 「わかりやすく、おおざっぱに言えば、そういうことです。それに間違いありません」 彼女は涼しい顔で答えた。 「信じられないな。キーファーのわたしに対する忠誠は、いままで一点の曇りもない」 ブルータスはむしろ突然薮から棒にこんなことを言い出したヴェガのほうを疑った。 「キアンが現れてからと言うもの、キーファー閣下のご興味は軍団の中での出世よりも、秘められたケルトの財宝を探すことのほうに傾いたようです」 (なるほどそうか)ブルータスは思った。(ヴェガに言われなくてもヤツが野心家であることははっきりしている。いままでオレにくっついていたのも、オレがいずれ天下を取るとヴェガが予言していたからにすぎない。 ヤツを早目に左遷しておくべきだ。 でないと、ヤツがこのオレに取って代わるかもしれない。いや、もっともその可能性は少ないかも… だからこそヴェガはキーファーを見限り、オレにころんだ。これは喜ぶべき進展なのだ。 しかしちょっと待て、キーファーのような大物の軍人を飛ばすには大儀名分がいる。 何がいいだろう? そうだ、ヤツはきのう、せっかく捕らえたショーンら一味を、牢獄のトンネルから逃がしている。そのことを叱責されたことにしておこう。 ヴェガがこっちについた以上、彼にはオレの嘘を見破る手段がない… もし彼が脱獄した連中をさっさと討ち取ることに成功したら、その時はその時でまた、ヘラクレスのような無理難題を押しつけてやればいいさ! まぁそれにしても、なんと運のないやつだろう。これが二三日まえのできごとだったら、シーザーの持ちかけた東方総司令官への栄転話にすなおにはいと答えて、ヴェガを失った悲しみを位階の上達で穴埋めしてやることもできたものを…) ブルータスはニヤリと笑いながらも、キーファーのようにヴェガを自分の膝に抱き寄せたりはしなかった。その意味では、彼はケルトを裏切ってきた将軍よりは頭がよくて、ヴェガには何か危険な香りがすることをはっきりと感づいていたのかもしれない。 「…というわけだ。ショーン、スピカ、バルガス、それにキアンの四名、生死を問わず捕まえるまでは、ここへ戻ってくる必要はない!」 ブルータスはできるだけ穏やかに言った。 キーファーにとっては、この命令そのものよりも、ヴェガが上司のブルータスのうしろに立っていることが晴天の霹歴だった。 (まさかこのオレに飽きた、というわけではあるまいな? それとも牢獄での、ヤツらに一杯してやられたところを目の当たりにして、オレは間抜けだと思われてしまったのだろうか? いずれにせよこれはえらいことだ! ヴェガの信望を取り戻さない限り、もうブルータスに嘘はつけない。また、オレはブルータスに嘘をつかれいても分からない… それにしても、一時は東方総司令官に抜擢されていたかもしれないこのオレが、ガキどもに足をすくわれるとは何たることだ!) 「かしこまりました。ヤツら四人の首、必ずや切り落として、この、この床の上に転がして見せましょう。…なあに、こう見えても手は打ってあります」 静かに答えるキーファーの腹の中は、溶岩のようにふつふつと煮えたぎり、裏切者ヴェガの姿をキッと睨んだ。 雨は小止みになった。 蒸し暑い嫌な空気が、シーザーの別荘の庭木の葉をときおり揺さぶっている。 キアンは監視の目をうまく盗んで塀を乗り越え、パレスの茂みに隠れた。 すばやく高い木に登って、パレス全体の間取りをうかがって見る。 真ん中に豪華な噴水公園のあるパティオを囲むようにして、コの字形の壮麗な別荘の本館があり、円柱回廊でつながっていた。召使や衛兵の宿舎と思われる別館はそれとは別にあり、両者の間は森のような散策路で区切られている。 さらに、ミノタウロスの迷宮のような生け垣でてきた迷宮があり、その奥はよく分からない。 (どうやら、その迷宮の奥が一番怪しい) キアンはそう直感した。 (しかしあの迷宮、無事に抜けおおせるだろうか? ああ、スピカさえいれば、ここで働いている庭師らの心を読んで、楽に抜けられるのになぁ…) そう思って、思わず激しく首を横に振る。 いけない。他人をそこまでアテにしては。 (スピカには、スピカの目的があって、懸命に生きているんだ!) 父の形見の弓矢をしっかりと背中に背負い深呼吸を一つして木から飛び降りる。 (待っていろよ、ブリジット…) キーファーは、キアンが迷宮をくぐり抜けてブリジットを救いにくるという確信があった。ブリジットがここに捕らわれていると教えたのは他でもない自分だから。 彼はパレスの倉庫から、樽のいけすに入った魚をたくさん取り寄せて、小屋の前の池に放った。 ブリジットと子供たちが、まわりがいつになく騒々しいので窓から外を覗いて見ると、刃物のような鱗と、とがった牙を持ったいかにも獰猛そうな魚が、次から次へと池に放たれるところだった。 人質の子供たちはおびえ、口々に「お姉ちゃん、恐いよ」とつぶやいて、彼女のドレスの裾にすがりついた。 「お嬢さん、この魚はなんだと思う?」 「…………」 「この魚はね、アフリカの人喰魚なんだよ。川に落ちたものは、大きな象でも、あっと言う間に骸骨にしてしまうんだ。知っていたかね?」 「いいえ、知りません」 ブリジットは毅然として答えた。 「もうじきここへ、お嬢さんの知り合いが、お嬢さんを助け出そうという、はなはだ無謀な考えを抱いて、ここへくるんだ。 そうしたら、この池に追い落として、そいつはお嬢さんが泣き叫ぶなかで、魚に体じゅうを食いちぎられてくたばる、あとにはケルトの財宝のありかを示す伝説の大弓だけがポッカリと浮き上がって残る、とまぁこういう寸法さ」 そう言い終わるとキーファーは、腹の底から笑った。その笑いは、将軍にふさわしい豪快な笑いとは違う、陰湿なものだったので、作業をしている彼の部下ですら薄気味悪く感じた。 ブリジットは気が遠くなるのを、懸命にこらえた。 (やはりキアンのことだわ。あの女の人も言っていた… 本当にすぐそこまで来ているんだわ… キアン、来ちゃいけない!) 生け垣の迷路の中で、キアンはブリジットの心の叫びを聞いた。 来るな、と言っているようだ。 (キーファーとヴェガのことだ。きっと卑怯な罠を張り巡らしているに違いない。 しかし自分は行く! 行くと決めたら死んでも行く!) 生け垣の間から、衛兵が二人現れて、キアン目がけて槍を突いてきた。キアンはそれぞれの槍の穂先を両手でハッシと掴むと、気合いもろとも槍を奪った。 あわてた衛兵が剣を抜く間もあればこそ、彼は槍を棒高跳びの棒にして、生け垣を軽々と跳び越える。 跳び越えながら、地上に目をやると、迷路がだいたいどうなっているのか、俯瞰でとらえることができた。 大きな池と小屋が、もう少し向こうに見える。 待ち伏せをしている兵士たち… (あの黒い点はきっとキーファーだ!) またしても衛兵たちが現れた。 彼は残ったもう一本の槍の柄のほうで衛兵たちを張り飛ばした。 一方、ジッと待ち構えているキーファーのもとには、刻一刻と伝令が入ってきていた。「閣下、キアンがもうじきこちらにやってきます!」 「よし、皆の者は引いて道を通してやれ。ヤツはあくまでも、いいなずけのまえで、魚の餌にしてやるのだ!」 そう言って彼はまたゲラゲラと笑った。 長い間キーファーに仕えてきた従卒たちも、この笑い声を聞いて、次の機会に転属願いを出そう、と決心した。 攻撃中止の狼煙が上げられた。 「そうだ、もっといいことを思いついたぞ。ボートを出してブリジットを乗せ、池の真ん中に進ませるんだ! 助けにきたヤツが池の中にバシャバシャと入ったとたん…」 「お待ち下さい閣下。ブリジットはブルータス閣下からシーザー閣下への献上品です。いくらなんでもそのようなことは…」 諌めた下士官は、最後まで言い終わることなく、キーファーにまっぷたつにされた。 死体は仰向けに倒れ、顔が池の水際についた。 地獄の魚が雲のように集まってきて、たちまちのうちに死体の顔の部分をシャレコウベにしてしまった。 子供たちとひきはがされるようにしてブリジットが連れてこられ、両手、両足をきつく縛られてボートに乗せられた。 「おとなしくしていないと、子供たちが… 後は言わなくても分かって頂けますな」 「キアンが死んではわたしも生きていけません。身を投げたいと思います」 「どうぞご自由に、お嬢さん。魚もキアン一人くらいでは満腹にならないでしょうからな」 キーファーは慇懃に答えた。 「ついてはわたしの竪琴も、一緒にボートに乗せてくれませんか」 キーファーは迷った。何かイヤな予感がする。しかし、ままよとばかりに決断した。 ( 弓と竪琴がその持ち主ごと揃ったら、何か面白いことが起きるのかもしれない…) 「いいですとも、お嬢さん。なんなら身投げする前に、われわれのために勝利の凱歌を歌っていただきたいものですな」 小屋の中から竪琴が運ばれてきた。 ブリジットと竪琴を乗せたボートは、槍を何本も縦につなげた棒に押されるようにして池の中央に進んだ。 その様子を満足そうに眺めていたキーファーが、人喰魚が先ほどの下士官の遺骸をまだむさぼり続けているのを見て命令した。 「おい、早くそいつを引き上げろ! 魚が満腹になってしまうではないか!」 兵士たちが、遺体のシャレコウベにくっついて離れようとしない人喰魚を槍でつっ突いて池に戻しているところに、キアンが到着した。 はねた魚が兵士の顔に噛みつき、兵士は悲鳴を上げた。 「バカもの! ヤツに歓迎の仕掛けがバレてしまったではないか!」 キーファーは怒鳴りながらその兵士も斬った。 だが、キアンにはキーファーも人喰魚も目に入らなかった。彼の目に写ったのはただ一つ、池の上のボートに縛られて乗せられたブリジットの姿だけだった。 「キアン 、来ちゃあダメ!」 「ブリジット!」 キアンは叫んだ。「両手を高く上げろ!」 ブリジットは言われたとおり、縛られた両手を高く上げた。 キアンは大弓に矢をつがえると、弦も切れよとばかりに思いきり引き絞り、ヒョウと射た。 矢は水面をきらめかせる強い風の中、やや弧を描いて水の上を飛び、見事にブリジットの両手の手首を縛っていたいましめを切った。彼女の手首にはすり傷一つつけずに。 それはそれを見ていた子供たちとキーファーの部下たちの間から 思わず感嘆の声がもれるほど素晴らしい腕前だった。 自由になった両手で、足のいましめを素早くはずした彼女は、キアンに向かって叫んだ。 「キアン、池には人喰魚がいっぱい放たれているの! 絶対に池に入っちゃだめ!」 「ブリジット!」 キアンも叫び返した。 「そこを動くな!」 「よく来た坊や」 キーファーは嫌味なくらい穏やかな口調で言った。「さぁ、キミの大事なブリジットを助けてごらん!」 キーファーが合図をすると、突き出された剣と楯で固めた兵士たちの横一列が、ジリッとキアンを池のほうへ追いやった。 「さぁさ、遠慮することはないんだよ。泳いで助けにいけばいい」 キアンがバシャリと一歩池に足を踏み入れると、たちまち人喰魚が群れ集まってきて、足に食いつく。 あわてて池から上がり、食いついていた魚を一匹づつ自分の皮膚ごとひっぺがす。あっという間に両足首が血だらけになる。 「どうした、キミのブリジットに対する愛はその程度のものだったのかね?」 一分の隙間もないくらいに密集したキーファーの兵士たちが、ザックザックと足並みを揃えて、キアンのほうに迫ってくる。 「キーファー、この裏切者!」 「その通り。で、それがどうかしたのかね?」 キーファーは憎々しげに答えた。 前には兵隊、うしろには人喰魚。だが、キアンは意を決して身を翻らせると、池のほうに飛び込んだ。 (同じ死ぬのなら、一度でもブリジットを抱きしめて死のう。それが叶わなければ、せめて一歩でも近づいて死のう…) 水のひんやりした感触を感じながら、キアンはそう思った。 「お兄ちゃんがんばって! ブリジットさんを救い出して!」 子供たちの声援が耳の底に響く。 が、たちまち手足に激痛が走る。見ると、人喰魚が彼の手足の皮膚にかぶりついて食い破っている。流れ出た血の匂いを悟って、さらに無数の人喰魚が寄ってきた。 「キアン!」 ブリジットはボートの上に立ち上がって叫んだ。 (バカ! ブリジット、立つな! もしひっくり返ったらどうするんだ?) 息を継ぐため、水面に顔を出したキアンはそう叫ぼうとしたが、もう声はでなかった。 まわりの水はもはや自分の体から流れ出た血で何も見えなかった。 「なんだ、弓と竪琴が揃えば何かが起こると思ったが、何も起こらぬではないか!」 キーファーは腕を組ながら、半分失望し、半分誇らしげに、だれに言うともなく言ったが、部下の兵士たちはみんな震え上がった。 キアンは薄れゆく意識の中で、楽しかった子供の頃の夢を見た。 水面がキラキラ輝く湖に面した森。キアンはオモチャの弓でウサギを射ち、ブリジットは小さな竪琴で、母から習った歌を歌った。 (あのころは本当に楽しかった… 一日がすごく短かった…) 涙で泣きぬれたブリジットの手にした竪琴に偶然指が触れ、妙なる響きが水面を渡った。 するとどうしたことか、貧欲にキアンの体をむさぼっていた人喰魚が次々と離れると、ブリジットの奏でる次のひとふしを聞きたいかのように水面に集まって顔を出した。 ブリジットは自分でも驚いた。 (しかし奇跡の可能性が少しでもあるのなら… ) ブリジットは指から血がにじむくらい強く曲を弾いた。 魚はずっと固まっておとなしく彼女の調べを聴いている。 「なんだ? どういうわけだ?」 キーファーたちも異変に気づいた。 ブリジットは折りを見計らって竪琴を背負うと、そのまま池に飛び込んだ。 少し潜って、池の底近くに沈んでいたキアンを肩に担ぐと、水面に出た。 「キアン、しっかりして!」 ブリジットは叫んだ。 キアンはぐったりとして答えない。 彼女はそのままキーファーたちとは反対側の岸を目指して泳ぎ始めた。 「グスグスするな! 迂回して追いかけるんだ!」 キーファーは命令した。 (それにしても、あのブリジットとかいう小娘は、変な技を使ったぞ。もしかして…) 彼もまた、遅蒔きながら、ブリジットの中に眠っている途方もない力に感づいた。 「待て、ブリジットのほうは、絶対に傷つけてはいかんぞ」 いままでの傍若無人ぶりはどこへやら、キーファーは冷静な軍人に戻って指示を飛ばした。 ブリジットはようやくのことで対岸に上陸した。 (もとよりここは敵の本拠地、逃げ切れるはずがない…) そう覚悟して、冷たくなりかけているキアンの体をしっかりと抱いてじっとしていると、目の前に馬に乗り、もう一頭、空馬を引っ張った仮面の女が現れた。 「さあ、早く乗りなさい!」 声に聞き覚えがある。今朝、小屋の外から声を掛けてくれた女だ ヴェガは空馬のほうを指さした。 ブリジットは死に物狂いで傷ついたキアンを空馬の鞍の前に乗せ、自らはドレスの腰から下をまっすぐに引き裂いて飛乗った。 「ついてきなさい! 逃げ道を教えます!」 ヴェガは「ハッ!」と馬に鞭をくれた。 キーファーと部下たちがどんどんと小さくなる。 三人は複雑な迷路を、ヴェガの先導で易々と通り抜けた。いっぽう、兵士たちのほうは、右に迷い、左に突き当って、直線的にはわずかの距離もまったく追ってこれなかった。 「どなたかは存じませんが、ありがとうございました」 ブリジットは馬上から礼を述べた。 「ここから逃げたら、海賊のバルガスを頼りなさい。また、ショーンとスピカも大切な仲間です。みんないまはバラバラですが、いつか力を合わせてキーファーを倒す運命にあります。キアンの体がよくなったら、そう伝えて下さい」 ヴェガは早口に言い、住所が書かれた紙片と、着替えの男ものの衣服を渡した。 「ラテン語は読めますね? 覚えたらすぐに飲み込んでしまいなさい。それからもちろん早駆けはできますね?」 「はい!」 ブリジットは渡された男ものの服に着替えながら力強く答えた。 ヴェガはよそみをしていたが、ちらりと偶然目に入った水をしたたらせている彼女の裸身に、自分でもまさかと思うくらい嫉妬を覚えた。 ブリジットはまるで男の子のように、軽々と馬にまたがり、ヴェガのほうに小さく会釈した。そして再び馬に鞭を当てると、まっすぐに何処へともなく落ち延びていった。 仮面をかなぐり捨てたヴェガは、ブリジットの背中にかけられ、交差した弓と竪琴をしばらくの間、じっと見送っていた。 KIJISUKE@aol.com