弓と竪琴 第八章 ブリジットは必死になって馬に鞭を当てた。 (キアン、キアンしっかりして!) 心からの問いかけにも、キアンは何も答えてくれない。 彼の流す血が鞍と馬の腹をつたい、草原に引かれたローマ自慢の石畳の舗装道路を点々と染めていく。これではどこまで逃げても追い着かれてしまうだろう。 (雨が、雨が降り戻してくれたら…) どんよりと曇った空を見上げながら、ブリジットは願った。 チラリとうしろを振り返ると、列を揃えた騎兵の一隊が、獰猛な軍用犬を従えて、砂埃をけたてて迫ってくる。 そしてその先頭の、黒いマントを地獄の海に棲むのエイのように旗めかせている者こそ、狂気の将軍キーファーに他ならなかった。 風が舞い、髪留めなしでは、長髪が嫌でも眼に入る… ブリジットは鞍の脇に元から付いていた軍用鞄の中から、ひとふりのナイフをを取り出すと、たずなを口でくわえている一瞬の間に、風になびいている見事な金髪を根本からバッサリと断ち切った。 (どっちみち必要ない!) 改めて口にナイフをくわえ、右手でたずなを持つと、腰を大きく浮かして、続けさまに鞭を加える… 天が彼女に味方する。やみかけていた雨がまたひとしきり激しくなり、道に流れた血を完全に洗い流した。 (降れ降れ、もっと降れ!) ブリジットは祈った。 雷が鳴り出した。 雷はすぐ近くの立ち木に落ちた。 轟音と閃光と炎。二人を乗せた馬は恐怖に怯え、棹立ちで立った。 ブリジットとキアンは折り重なるようにして地面に投げ出された。ブリジットは体を投げ出して、キアンがこれ以上傷つくのを防いだ。 馬は二人を置いたまま逃げて行こうとする。「だめ、置いていかないで!」 ブリジットは叫ぶ。 「あなたが行ってしまうと、わたしもキアンも死ななければならないの!」 しかし、恐怖におびえた空馬はどんどんと遠ざかって行く。 ブリジットは背中に背負った竪琴を手にとって、音階を弾いた。 遠くのほうで馬が立ち止まった。 彼女は続いて、ケルトの牧歌を弾いた。 空馬がとぼとぼと戻ってくる。 「そうよ、おりこうさん。恐いだろうけどお願いするわね。もう鞭は当てないわ」 ブリジットはキアンをもう一度鞍の上にかかえるようにして座らせた。 「キアン、もう少しよ。がんばってね」 彼女の涙まじりの声に、キアンはうっすらと目を開いた。 「ブリジット…」 彼はとぎれとぎれに言った。 「キアン! いまは話さないほうがいいわ」「恐い夢を見た」キアンは構わずに続けた。「またあの日の、みんなが殺されて、家が村が焼き払われる夢だ…」 「その夢はわたしも子供たちもよく見るわ」「本当に恐かった」 キアンは馬上で、彼女の胸に顔を埋めた。 ブリジットがほんの軽くたずなをはたくと、馬はポックリポックリと歩き始めた。 「弓は? ぼくの弓は?」 キアンが尋ねた。 「わたしが持っているわ。ほら、この通り」 ブリジットはその小さな背中に背負った大弓を渡して見せた。 キアンは弓を受け取って、ニッコリと微笑んだ。 「また二人で狩りに行こう!」 「ええ、竪琴でも弾きましょうか?」 彼女はたずなを放して竪琴を構えた。 「ブリジット、髪の毛はどうしたんだい?」 「切ったわ。そのほうが逃げやすいと思ったの」 「すまない」 ブリジットは竪琴をつま弾いた。 その音をかき消すように、キーファーの一隊が追い着いて、槍を構えながら二人の回りを取り囲んだ。 二人の馬が歩みを止めた。 ブリジットはナイフのきっ先を自分の喉もとに当てた。 「それ以上近ずくと、自決します」 彼女は低く静かな声な、しかしはっきりとした声で言った。 「槍を下げろ」 キーファーが命令した。 槍が下げられ、キーファー一人が二人と向かいあった。 「やめろブリジット、キミだけは助けてもらえ」キアンは振り絞るように言って、鞍の上に座り直した。「頼む、ブリジットだけは助けてやってくれ。あなたもそのほうが都合がいいのだろう?」 「ほほう、この後に及んで、殊勝な心掛けだな!」 キーファーは嘲笑った。 「キアン、だめよ。そんな中途半端な気持ちだから、ケガをしてしまうのよ!」ブリジットはつぶやいた。「死ぬと言ったら絶対に死にます!」 彼女がそう言ってナイフを自らの喉に突き立てかけた瞬間、キアンは血だらけの手でナイフをブリジットの手からもぎ取った。 「キアン!」 「ブリジット、キミだけは助けてもらえ」 槍が再びいっせいに構えられた。 「さぁ、お嬢さん、あなただけ降りて下さい」 キーファーが抑揚のない声で言った。 「降りません」彼女はそう言って傷ついたキアンの体を包みこんだ。 「早く突きなさい! あなたがたはそれでも兵隊ですか?」 ブリジットが叫んだ。 彼女を見ているうちに、キーファーはさらに残酷なことを思いついた。 ( なるほど、ブリジットにはさきほど人喰魚を操ったような 不思議な『力』がある。その力は、瀕死の恋人を、地獄の淵から引き戻せることもできるのだろうか? もしかして、シーザー閣下がいまだに探しておられるケルトの宝は、金銀宝石ではなくて、そういった力を意のままに使うことができる魔法のことではないか? だとすれば、ぜひそいつを手にいれたい! そうすればオレはブルータスやシーザーよりも偉くなり、帝国に君臨できるかもしれない!) 「突くな。突いたヤツはオレが叩き切る」 キーファーが渇いた声で言った。 「キアンを見ろ! 虫の息ではないか? 放っておいても間違いなく死ぬ。ブリジットまで殺すことはない。恋人の死を見届けたら、彼女の勇気も脱げ落ちて、無力になるだろう!」 「しかし閣下…」 将校たちは反対した。 「全員引け!」 キーファーは訓練か何かのような陽気な声で命令した。 「これだけ言っているのに不粋なやつらだ。いいから二人だけにしてやれ」 二人を乗せた馬は、雨がやみ、雲のあいだにうっすらと虹のかかった道をとぼとぼと去って行った。 「これは重大な責任問題です」 副官が恐る恐る言った。 「うろたえるな。責任はすべてわしが取る。尾行の上手な者たちに、こっそりと追わせろ! 連中の仲間も一網打尽にするのだ!」 キーファーはそう宣言すると、キッと空の虹を仰ぎ見、そして続けた。 「ヤツがなぜブリジットに惚れたのか、なぜ命がけで救いにきたのか、分かった。彼女はドルイドか何かの面妖な術を使うのだ。それで、キアンの感情を支配しているのに違いない!」 ブリジットとキアンを乗せた馬が、港にたどり着いた時には、幸いなことに夜のとばりがとっぷりと降りていた。 華やかな明かりの点った酒場や娼家が軒を並べる大通りには、酔っぱらいの船員や、ローマ海軍の兵士たちが行き交っている。 露地裏に馬を止めて様子をうかがっていたブリジットは、キアンを建物の陰の藁の中に隠すと、まず宝石店に行った。 そして指輪やブローチなど、身につけさせられていた装飾品をみんな売り払った。 買値は本来の値打ちの一割にも満たなかったが、このさい仕方がないだろう。男装をしているので、もう少し高く売れると思っていたのだが… 一割とはいえ、当分のキアンの治療費にはまず十分な金額だ。 両替店で金を細かくすると、ブリジットは薬草店で傷薬を買い込んだ。 「お客さん、そんなにたくさん… どこかへ遠征ですかね?」 薬草店の店主が凛々しいブリジットの姿をしげしげと眺めながら尋ねた。 「そんなようなものだ」 ブリジットは勇ましい声で答えた。 薬やら包帯やらを鞄一杯に買い揃えると、ブリジットは通りで客を引いている女に、低い男のような声で話しかけた。 「一晩いくらだ?」 娼婦が安い値段を言った。 「屋根はあるんだろうな?」 ブリジットは肩を怒らせて重ねて尋ねた。「桟橋の、いまは使われていない道具小屋があたいのショバさ!」 娼婦は自慢げに答えた。 「すると火もある?」 「もちろん!」 娼婦はブリジットを女と知らずに自分の棲み家に案内した。 蝋燭の灯りが点ると、派手な色の絨緞やベッド、それに長椅子が浮かび上がった。壁には神話を題材にした卑わいな絵がかかっている。 「どうだい?」 娼婦は暖炉をいこしながら得意そうに言い、男装のブリジットの上着を脱がせにかかり、そして驚いた。「ちょっと待っておくれ、あたいにその趣味はないよ。サッポーじゃあないんだから」 「ごめんなさい」 ブリジットは謝りながら、相手のみぞおちに思いきり当て身を食らわした。 女は気を失い、音もなく倒れた。 「ごめんなさい、本当にごめんなさい!」 ブリジットは女を長椅子に寝かせると、あわててキアンを隠した露地裏までとって返した。 「キアン、生きていて! わたし、きょうはもう十分悲しいことをしてしまったのよ」 ブリジットが藁を払いのけると、キアンは初めて両目を開こうとした。 「キアン、無理をしないで!」 ブリジットは彼を再び馬に乗せると、くだんの道具小屋まで連れていって、ベッドの上に寝かせた。 それから馬の尻を手で軽く叩いた。 「さあ、お帰り! おまえがいたら目立つのよ。きょうはありがとう!」 馬は低くいななくと、霧が立ちこめ始めた港の通りをシーザーの別荘に向かって帰って行った。 部屋に戻ったブリジットは、ちょうど沸いていた湯でキアンの傷口を拭き清め、買ってきた傷薬を塗って包帯を巻いた。 飲み薬は… やはり口移しで飲ませるしか方法がない… 彼女は薬を口に含むと、キアンの口に口づけをし、飲ませた。 その瞬間、キアンが薄く目を開いた。 「キアン!」 ブリジットは叫んだ。 「ざまあないよな… 助けに行って、逆に助けてもらうなんて…」 キアンのおぼろげな視線の先には、ブリジットが気絶させた女の姿があった。「おまけに関係のない人まで迷惑をかけて!」 「では、二人ともあの場で死ねばよかった、とでも言うの!」 彼女は眉を引きしめた。 「キーファー、ヤツがぼくたちをこのまま見逃すハズはないよ」 キアンは消え入りそうな声で言った。 「そんなことはないわ。彼はわたしたちに追い着いたのに、見逃してくれたのよ」 ブリジットはそう言いながら、キアンの額に手を当てた。ものすごい熱だった。 「おおかたぼくは、放っておいてもくたばるだろう、と読んだんだろう」 キアンの瞳から生気がスッと去った。 「キアンのいくじなしッ!」 ブリジットはキアンの頬をぶった。「将軍は、あなたの勇気を認めてチャンスをくれたのよ」 「嘘だ。ヤツはそんな男気のあるやつじゃあない。完璧な尾行が付いているはずだ」 「尾行が付いていたら、どうだと言うの? そんなに死にたいのなら、勝手に死になさい!」 ブリジットはキアンに背を向けたまま、気絶させた女の手足を縛り上げた。そして、一度も振り向かないまま出て行こうとした。 「どこへ行くんだ? お願いだ。ここにいてくれ!」 キアンは哀願した。が、ブリジットはこのままキアンを自分の腕に抱き続けると、彼はそれを幸福と錯覚して、そのまま死んでしまうような気がした。 「葬式屋よ! 棺桶も作らなきゃあね!」 扉の外の星空を見上げても、涙が両頬を伝って床に落ちた。 「ブリジット、キミは長い間ローマに捕らわれて、変わったのか? 教えてくれ!」 ブリジットは最愛の人に背を向けたまま扉を閉め、涙を夜の空気に散らしながら走り出した。 「キアン、すぐに帰ってくるわ。あなたのお友達も、味方も、お医者さんも呼んでくる! だから死なないで!」 仮面の女に教えられた海賊バルガスとの連絡先は、波止場の貧民窟を分け入った、酒と汗と麻薬の煙が混じりあった匂いが鼻をつく地獄の一丁目のような酒場だった。 「バルガスってえ野郎は来ているかい?」 ブリジットは思いきりドスの効いた声で尋ねたが、内心は不安と焦りで冷や汗たらたらだった。 酒場のおやじが黙って顎をしゃくって見せた先には、海賊と言うには目の光のやさしい大男が、数人の仲間とテーブルを囲んで、盃を重ねている。 (どうしたものかしら?) ブリジットはバルガスがこの場にいてくれたことにホッとしながらも、途方に暮れた。 (きっと、 キーファーの付けた尾行の目が光っている。 バルガスに迷惑がかかっては立つ瀬がない。 また、迷惑がかかるような頼みかたをしたのでは、断られても仕方ない。耳打ちも怪しまれる) 「お客さん、注文を?」 おやじがうっとうしそうな顔で注文を聞いてきた。 「一番強いやつを、瓶ごと」 ブリジットは注文し、一杯目をグイッとあおった。 手酌で二杯目をついでいる時に、バルガスのテーブルから噂話が聞こえてきた。 「おい、聞いたか? きょう…じゃあねえもうきのうだな、シーザーの別荘にケルト人のが一人潜入して、虜にされていた部族のお姫さまを助け出したんだそうだ」 カウンターの正面には、ローマ名産のよく写る鏡が飾られている。その端っこのほうにチラリと写っているバルガスの毛虫のような眉がちょっと上がったのを、ブリジットは見た。 「そんなことできるのかよう?」 別の誰かが尋ねた。 「当番の警備隊長はキーファー将軍だったが、内通者がいたこともあって、まんまとしてやられたそうだ。…もっとも、そいつは当然とはいえ深手を負って、瀕死のまま逃げたらしい」 鏡の端に写ったバルガスが、グラスに残っていた酒を一気に飲み干した。 「そいつの名前、聞いてるか?」 バルガスが尋ねた。一瞬まわりの子分たちの背筋がピンと伸びた。 「ええ親分。確かキアンです」 喋っていた男が恐る恐る答えた。 「そうか、じゃあお姫さまの名前はブリジット、だな?」 バルガスはそう言って、ニヤリと笑った。 (あの野郎、即戦即決でやりやがった!) そう言いたそうな笑いだった。 「よくご存じで?」 「牢獄から脱獄する時に、噂に聞いただけだがな。ずいぶんといい女らしいぜ」 ブリジットは思わず二杯目の酒を飲み干した。 「長い間捕まっていたからかもしれないが、オレは足を洗いたくなった」 バルガスはそう言い捨てると、スクッと席を立って、ブリジットのうしろに立った。 ブリジットは肩越しにバルガスのほうを振り返った。 「よう兄ちゃん。可愛い顔してるじゃねぇか? オレと遊ばねえか?」 ブリジットの目が恐怖と幻滅に被われた。 彼女は酒瓶を握りしめると、バルガスの頭目がけて振り降ろした。 命中した! と思ったら、相手は泥酔していたはずなのに、まるで妖怪のように分身しながらスッと体をかわした。瓶は椅子の背を空しく叩き、粉々に砕け散った。 「野郎、やりやがったな!」 バルガスは目にも止まらない速さで右手を振りかぶり、ブリジットを張り倒した。 華奢なブリジットはテーブルの二つ三つをなぎ倒してふっ飛ぶと、壁に頭を打ちつけて昏倒した。 バルガスは気を失ったブリジットを、戦利品か何かのように、肩に軽々と担ぐと、そのまま酒場から出て行こうとした。 子分たちも野卑たさもしい笑みを浮かべながら続けて席を立ちかけた。 「バカヤロー、ちょっとは気を利かせろ!」 バルガスが一喝すると、子分たちは今度は照れ隠しの笑いを浮かべて席に戻った。 そして、酒場から悠々と立ち去ろうとしたその時、まん中のテーブルにいたざんぎり頭の目つきの鋭い男がスックと立ち上がって彼を制した。 「ちょっと待て!」 その顔にバルガスは見覚えがあった。一緒に脱獄した相手、ショーンだ。 「ショーン、来ていたのか?」 バルガスは破顔一笑しかけてやめた。 「見損なったぜ。こんなヤツだとわかっていたら、逃がしてやるんじゃなかったな」 ショーンはそう言って、まだ包帯を巻いた右手にナイフを構えて、バルガスと相対した。「ちょ、ちょっと待ってくれ!」 『これは芝居なんだ』と言えないところにバルガスの苦労がある。 酒場の隅からは、キーファーの密偵たちが色めき立ったことに彼は気がついた。 「あいつはお尋ね者のショーンだ。早く報告しろ」と囁いているのがわかる。 使い走りが一人、コソコソと席を立った。 「放してやれよ!」 ショーンは出て行く男には目もくれずに言った。 (ええい、一か八かだ!) バルガスは歯噛みする。 「わかった、わかった、頼むから説教だけは垂れないでくれ」 バルガスは、グッタリとしたままのブリジットの体をショーンに放り投げた。 ショーンは両手で受け止めた。 男の子のかっこうをしているが、少女。 (ひょっとして? この子がブリジットか?) ショーンが目で尋ねた。 (そうだよ。こちとらの作戦をメチャクチャにしやがって! どうしてくれるつもりだ?) バルガスも目で答える。 そのショーンの胸の中でブリジットが意識を取り戻した。 「お願いです。放して下さい!」 ブリジットはいきなりショーンの胸にしがみついてきた。 「もう大丈夫だよ。安心しな!」 ショーンは思いきり格好を付けて言った。 外へ出たとたん、知らせ受けて駆けつけて来た憲兵隊の一個小隊と鉢合わせした。 「ショーンだな? 脱獄その他の罪で逮捕する!」 隊長はスラリと剣を抜きざまに言った。 それまで店の中で遠巻きにして成り行きを見守っていた酒場の客たちは、椅子を倒して立ち上がり、悲鳴をあげ、壁伝いに、あるいは台所をから蛛蜘の子を散らすように逃げ散った。 打ち合うこと二、三合、ショーンは傷がもとで次第に壁へと追い詰められた。 「ほらみろ、だから言わんこっちゃない!」 バルガスは腕組みしたまま静観している。 憲兵隊の兵士たち数名が、定められた陣形の通りに、代わるがわるショーンに斬りつけたが、ショーンは何とか太刀先を受け、かわし、逆に切り伏せた。 「ええい、何をしている! 相手は金貨五十枚の賞金首なんだぞ!」 敵の返り血が、ブリジットの男物の服にはね返る。 ブリジットはとっさに、倒れている敵の軍刀を奪い、ショーンと鉾先を交えたまま、彼をじりじりと追いつめていた兵士に斬りりかかった。 「なんだおまえは?」 敵兵はショーンに新たな傷を負わせ、振り返りざまブリジットが手にした剣を払い落とした。 「もはやこれまでか!」 目の前に迫るきっ先を見つめながら、ブリジットは心の中で叫んだ。 「待て、そいつは殺すな!」 隊長が命令し、きっ先は彼女の心臓の皮膚の手前で止まった。 「なぜですか、隊長?」 思わず部下が聞き返す。 「そいつの上着だけを切ってみろ!」 隊長が指示を出し、兵士はきっ先のひっかかっている上着の布だけをまっすぐに切り降ろした。 布が左右に分かれるよりも先に、ブリジットは両腕で胸をかばった。 「やはり間違いない… けさ逃亡したブリジットだ。こいつは大手柄だぞ!」 隊長はほくほく顔で言った。 「多額の報償に預かれることは間違いない…」 褒美と聞いて、後方に控えていた後詰めの兵士たちまで一斉に剣を抜き放った。 「こいつは絶対に殺すな! 傷つけてもいかん! 分かったな? …ショーンのほうは生死不問でいい!」 隊長の手振りで兵士たちは陣形を変えた。 (キアン、ごめんなさい…) 目をつむり、神々に祈ったブリジットの胸に、一枚のマントが投げかけられた。 バルガスが投げたマントだった。 「バレちまったら仕方ねぇ。せっかくこちとらが一所懸命田舎芝居をしてるというのに、このバカが邪魔をするからだ!」 バルガスは海賊の蛮刀を抜きながら、熊のようにのっしのっしと歩み出た。 「誓って言うが、芝居には見えなかったぜ」 ショーンは撫然として言った。 「お芝居だったのですか、ごめんなさい!」 「嬢ちゃん、いちばん最初に芝居を始めたのは嬢ちゃんじゃあないかい?」 バルガスは蛮刀を斜めに構えた。 「…それにしても、本当に男だったらよかったのになぁ」 隊長は褒美目当てに興奮している部下たちを両腕を広げて制した。 「よせ、こいつだけはおまえらのかなう相手ではない!」 しかし血気にはやる部下たちは隊長の言うことなど聞かない。 「隊長、隊長はそんなことを言って、褒美を一人占めになされるおつもりでは?」 「そこまで言うのなら、止めはしない」 隊長がそう言いながら、制していた両腕を下げると、部下たちは獲物に群がる猟犬のように、バルガスに襲いかかった。 ブリジットは、バルガスの動きをジッと見ていた。さっき自分が酒瓶で彼の頭を殴りつけた時、確実に当ったと思ったのに彼はかわした。 バルガスは敵兵らの太刀筋を、大男とは思えない身軽な動きでよけ、自らの剣は相手の死角を間を泳がせるかのように捌いた。 彼がヒュンと蛮刀の血糊を床に振り払うのを待っていたかのように、剣を構えたままの敵兵たちは、人形のように折り重なって次々と倒れた。 ショーンの目が皿のようになった。 「おっさん、強いな!」 「おっさん、ではない。お兄さんだ」 バルガスは渋い声で言った。 「ヤツはオレがやる」 隊長が満を持して一際ギラリと光る軍刀を正眼に構えた。 「おまえたちは何とかして、ブリジットとショーンを押さえろ!」 隊長は「キェーッ!」と烈帛の気合いもろともバルガスに斬りかかった。 バルガスは最初ブリジットとショーンをかばいながら戦っていたが、隊長が結構強いのと、雑魚が多いのとで、ついにバラバラになってしまった。 悪戦苦闘の末、バルガスは隊長の剣を跳ね上げた。 ショーンも兵士を二三人切り伏せた。 だが、ちょっとした隙に、ブリジットが兵士の一人に捕まり、喉に刃を当てられた。 「動くなッ! 剣を捨てろ!」 「でかしたぞ!」 自らの命が風前の灯だった隊長の顔に、残忍な笑顔が戻った。「褒美の八割はおまえにやる!」 ショーンは事態を察して、剣を床の岩に突き刺した。 それを見た兵士たちが、その剣をすかさず取り上げようとしたが、よほど深く刺してあったのか、なかなか抜けず、三人がかりでようやく抜くことができた。 バルガスのほうはなかなか蛮刀を捨てようとしない。 「バルガスさん、わたしには構わないで、逃げて下さい!」 ブリジットは声をふり絞って言った。 「おっさんは逃げてもいいぞ」 ショーンも叫んだ。 隊長は剣の勝負に負けた腹いせか、高飛車に言った。「…こいつらにキアンという反逆者も加えて、四人揃えてシーザー閣下に差し出せば、将軍にしてもらえるかもしれない」 「四人揃ったら、そんなに嬉しいですか?」 どこからともなく、声が響いた。 「ああ、嬉しいね…」 隊長は最後まで言い終わらないうちに、虚空を飛んできた一の矢に胸を貫かれて倒れた。 ほぼ同時に、二の矢がブリジットを取り押さえていた兵士の眉間を貫いた。 三人と、残りの兵士たちが矢の飛んできた方向を振り向くと、夜風に血に染まった包帯をはためかせたキアンが、近くの屋根の上から三の矢を引き絞って狙っていた。 「キアン!」 ブリジットが叫んだ。 「さて、もうひと暴れするかな」 バルガスは蛮刀の刃こぼれを透かして見、ショーンは敵の死体から軍刀を奪って構えた。 二人が一歩にじり寄ると、残りの敵兵たちはそれに合わせるように、ジリッと一歩下がった。 お互いそれを何度か繰り返しているうちに、敵兵たちは散り散りになって逃げた。 死体で足の踏み場もない酒場の入り口近くには、ブリジットとキアンだけが取り残された。 「キアン、キアン大丈夫?」 抱えるように抱きしめる。 「本当は眠りに落ちる寸前だったんだよ。今度眠ってしまうと、二度と目を覚ませないことは自分でも分かっていたけれど、眠ってしまうところだった… そしたら、キミの助けを呼ぶ声が聞こえたんだ。ここの風景も、ショーンやバルガスの姿もハッキリ見えた。 だけど二人が頑張ってくれていなければ、走っても到底間に合わなかったよ」 彼はブリジットを抱きしめ返した。 外ではその二人が、まだ雑魚相手に戦っている剣戟の響きが聞こえてきている。だが、それはだんだんと小さく遠ざかっていく。 「あんなにひどい傷と熱だったのに…」 ブリジットがそう言うと、キアンは思い出したかのように小刻みに震え、片膝をつき、続いてもう片方の膝も着いた。 「キアン、しっかりして!」 ブリジットは自分がもらったマントを脱いで、キアンに着せた。 バルガスとショーンが敵の残りを片付けて戻ってきた。 今度はショーンが自分の着ていたマントを脱いでブリジットに貸し与えたが、彼女はそれもキアンに着せた。 「馬車を捜しに行ってくるよ」 目のやり場に困ったショーンはそう言って出ていった。 「オレは医者を呼んでくる。腕がよくて、足のつかないヤツを」 バルガスも立ち去った。 ややあって、ショーンが荷馬車を引き連れて戻ってきた。 「途中でヤツと医者を拾う。うしろに乗ってくれ」 彼はそう言うとヒラリと御者台に上がった。「ブリジット、アルプスの向こうに、ぼくたちケルト人の隠れ里があるんだ。そこで静かに暮らさないか?」 荷台の藁に傷ついた体をもたせかけながら、キアンはマントの一枚を彼女に返し、着せてやった。 「水はきれいで、土地は豊かで。獣もたくさんいる」 「ええ。でも…」 ブリジットは口ごもった。「残してきたほかの人質の子供たちのことが心配だわ。わたしが逃げたことに対する報復で、ひどい目にあわされていないかしら? わたしがいなくなったことで、さみしがってはいないかしら?」 「よし、それだったら、もう一度シーザーの別荘に出かけていって、子供たちも救い出そう!」 自分が相変わらず瀕死の重傷であるにもかかわらず、キアンはきっぱりと言った。 「感心しないな」 御者台のショーンが振り返りざま言った。「かりに、子供たちを無事に救い出したとして、そのあとどうする? またシーザーに戦争の口実を与えるだけじゃないか!」 「…………」 「おまけに、おまえがまだくたばっていないことを知ったキーファーがどんな手を打ってくるか分からない」 ショーンは冷たく言い放った。「ところでキアン、話は変わるが、おまえケルトの財宝とか言うものについて、なにか知っているか? 何がなんでも皇帝になりたいシーザーが、その政治資金を調達するために、えらくご執心と噂されているものだ」 「いや、何も…」 キアンは口ごもった。 「…そんな話はいま初めて聞いた。ただ…」 「ただ?」 みんながキアンのほうを見つめる。 「わが部族に伝わる弓と竪琴は、かたがた大切にするように言われているけれど…」 彼はそう言って、ブリジットが手にしている竪琴を見た。 「そうか、それならそれは絶対に、ヤツらの手には渡せないな」 ショーンの目には、ローマとシーザーに対する憎しみが炎のように燃え盛っていた。 KIJISUKE@aol.com