弓と竪琴 第九章 シーザーを囲んでの、内輪の定例会議の時間がせまってきたというのに、ブルータスの心は重苦しかった。 (あのキーファーが、キアン以下四名にまんまと脱獄されるとは、まったくなんということだ! さらにキアンは脱獄後ただちにシーザーの別荘に侵入し、ケルトの姫であるブリジットをまんまと奪い返したというではないか!) キーファーはそのキアンとブリジットに追い着きながら、不可解にも二人を見逃したという… これは軍規の厳しいローマにあっては、反逆罪ものだ。 「閣下、ご心配には及びません」 そんなブルータスの傍らにあって、ヴェガは至極呑気に言った。 「これが心配しないでおれるか! シーザーに詰問されたら、なんと答えればよいのだ?」 ブルータスの手が無意識に酒盃に伸びるのをヴェガが諌める。 「今回の件は、ケルトの財宝を探し出すという、シーザー閣下の御意にかなったものです。 …あの方は莫大な政治資金や戦費のために、いくらでも金を必要とされていますから。しかしその『宝』の実体が、シーザー閣下の大嫌いな超自然現象を操る魔法ということがほぼ確実になってきましたのでキーファー将軍は独断で事を進めたものと思われます」 ヴェガは静かに言った。 「なんと勝手なことを!」 温厚なブルータスの顔が朱に染まる。 「閣下、落ち着いて下さい。少数民族のほとんどは、故郷の国をシーザー個人の借金と功名心のトバッチリで滅ぼされ、恨みに思っていることを思い出して下さい。また、元老院議員のほとんどは、救国の英雄を装い、その実ローマの民主主義と議会を踏みにじり、ぬけのうのうと皇帝になろうとしている野心家に、いつかは正義の剣を振るわねばならないと考えていることを察して下さい! シーザーを倒し、名門元老院議員であるあなた様が、真のローマの指導者になるために、死者をも蘇えらせるというケルトの魔法があれば鬼に金棒です」 彼女はブルータスの寛衣の裾にすがりついて訴えた。 「今度こそ、ただではすまん」 彼は己の両方の手のひらに顔を埋めた。 「なんとお気の弱い! 元老院も、ローマの市民も、少数民族も、シーザー取り巻きを除いてみんなあなたのお味方なんですよ!」 「おまえは、ヤツの本当の恐さを知らない」「わたくしがシーザーについて読めるのは、とどまるところを知らない野望と、支配欲です」 ヴェガはゆっくりと、確信に満ちた調子で言った。「いまこそローマの将来を憂う者は一丸となって、彼を倒すべきです。早く手を打たないと、想像が現実となり、あなたがシーザーに消されますよ、ブルータス閣下。そうなるまえに、魔法であろうと何であろうと、使えそうなものはなんでも手にいれて、シーザーの野心に対抗するべきです!」 「もう一度、オレの未来を占ってみてくれないか?」 彼はつぶやくように言った。 「…なんと言う名前だったかな。そうそう、キアンとブリジットか。オレは一度そいつらに会ってみたい」 後世の詩人が「宝石をぶちまけたように美しい」と歌ったローマの朝。 こんにちのゴルフに良く似たパガニカのコースに照り映える木々の木漏れ日が、シーザーとブルータスという二人の幼馴染みの体に降り注いでいる。 平服の二人はすっかり子供の頃に返って、楽しそうにはしゃいでいた。 「久さしぶりだな、なにか賭けようか?」 シーザーがポツンと言った。 ブルータスのセカンド・ショットは、見事にホールの数インチ手前で止まった。 「続けて叩いていいかな?」 ブルータスは珍しくシーザーの顔を見ないで、ボールに夢中になっていた。 「いや、待て」 静かだが、逆らうことを許さない声だった。 ブルータスは驚いて相手の顔を見た。 「まだ賭けるものが決まっていない」 「キミが決めてくれ、ジュリアス。悪いが、それはどうせぼくのものになるだろう」 ブルータスは少しおどけて見せた。 「われわれローマが、周辺の少数民族から預かっている人質の子供たち全員だ!」 シーザーは毅然として言った。 「なんだって? キミが遠征で苦労に苦労を重ね、やっと降伏させたしるしにひっぱってきた族長の子女たちを、か?」 ブルータスは思わず聞き直した。自分がこのあいだその一部の釈放を提案して、却下されたものだ。 「少数民族の人質全員、と言っている。マーク、キミはこれらの人質をヤツらに返して、野蛮人の連中を自分の派閥に抱き込みたいのだろう?」 「冗談だろ?」 「冗談に聞こえるか?」 シーザーは芝をちぎって風に投げる。「さぁ、これで握るものが決まった。先に打て!」 ブルータスはおのれの球を見た。 (これがはずれるハズがない。彼はやはり冗談で言っているのだ) そう思って、パットに入りかけたが、どうしたことか、クラブを持つ手が小刻みに震える。 「まさか引退を考えている訳じゃあないんだろう、ジュリアス?」 「考えている」 シーザーは事も無げに言った。「わたしはキミを信じているが、キミはわたしを信じてくれていないようだ」 「なんのことだろう? キーファーのことか? ケルトの姫のことか? 反対勢力全体のことか?」 ブルータスの全身から、またしても冷や汗が吹き出した。 「わたしは、読心術やその他の魔法はいっさい信じない。しかしマーク、キミはヴェガといい、ブリジットといい、シャーマンを集めたがる傾向にあるようだな」 シーザーは相変わらずギラギラと輝く目で、ブルータスの忠実な犬のような目を射抜いている。 「…信じる、信じないはその人の勝手だがそういった理屈ではないものに躍らされんでくれよ」 ブルータスは震える手でパットした。 羽根を固めてできた球はホールの回りを二三回巻いて、カップインしたかのようにみえたが、最後の一瞬はずみがついて、ホールの縁で止まった。 「決まったな。約束通り人質はそのまま。逃げたブリジットも当然なんとしてでも奪い返してもらう」 青空にシーザーの命令する声が鍾のように響く。「…できなければ、キミとキーファーには責任を取ってもらう。 寛大な提案だと思うが…」 「待て、まだ勝負は…」 ブルータスは乾いた声で答えながら、勝手に続けて打った。 あろうことか、その球もまたホールの上の空間を通り過ぎ、少し離れた芝の上に止まった。その次も、またその次も。 あれから一週間、キアンは友達たちが用意してくれた隠れ家で養生していた。 ベッドの上で、ようやく上半身を起こせるまでに回復した彼は、愛用の大弓に矢をつがえて、虚空にくっきりと浮かんだキーファーやシーザーの幻に狙いをつけていた。 「キアン、ダメじゃないの、ちゃんと寝てなきゃあ!」 ケガ人にしてはやや多目じゃないか、と思う食事を乗せた盆を運んできたブリジットが心配そうに駆け寄る。 「もう大丈夫だよ」 キアンは弓矢を置いて食事に手を着け、ガツガツと、アッという間に平らげた。「そんなことより、早く残りの人質を助けだし、キーファーを倒して、隠れ里を捜す旅に出ようぜ!」 「この弓と竪琴にどんな秘密が隠されているというのかしら?」 ブリジットは弓を引き絞ったことによって弛んだキアンの包帯を、巻き直しながらつぶやく。「別に文字も何も書かれていないし、わたしは捕らわれの身の時に、あちこちでケルトの歌を歌わされたけれど、歌詞の意味を詳しく聞かれたことなんかないわ」 「そんなこと知るものか! とにかく早くなにかをやりたいなぁ… いててッ! もっと優しくやってくれよ」 その日は町に市場の立つ日だったので、キアンは久しぶりにブリジットと二人きりで散歩に行くことにした。 ヴェールをかぶったブリジットはともかく、キアンの赤い髪の毛は遠くからでも目だったが、彼はそんなことには一向にお構いなく、大胆にも道の真ん中を大手を振って歩いた。 芝居を見、服屋の店先を冷やかしているうちに、キアンはあらためて、ブリジットの自慢の金髪が短くなってしまっていることを思った。 「ブリジット、髪の毛、すまない…」 「カッコいいでしょ。ローマには女だけの大学があるらしいから、一度行ってみようかしら?」 彼女は本屋の店先に積まれた巻き本の山に目を輝かせた。 (そうか、それもこれもみんなぼくのせいなんだ) 彼は(次こそ)と心に誓う。 と、街角の立て札に人だかりがしている。 キアンたちが人をかき分けて読むと、そこにはとんでもないことが書いてあった。 「人質、つまりローマとの戦争に負けた辺境の少数民族から差し出された賓客であり、夜はシーザーの別荘で眠ることが義務づけられているにもかかわらず、無断で外出し長く戻らない者に告ぐ。 すみやかに別荘に戻らないと、残りの人質が不愉快な目に遭うであろう。 また、このような軽はずみな行動が、ローマと辺境諸国との関係にいかなる結果をもたらしても、ローマは一切責任を持たない。 外交問題担当元老院議員 マーク・ブルータス」 名指しではないが、ブリジットのことに間違いなかった。 キアンは顔を引きつらせ、ブリジットは手のひらに顔を埋めた。 「残りの人質はオレたちが助け出して見せる!」 いきなりうしろで声がしたので、びっくりして振り返ると、ショーンが立っていた。きょうも黒い肌の美少女の弓の名人であるスピカを引き連れている。 「ついでに、と言っちゃあなんだが、もしキーファーを見かけたら必ず仕留める!」 二人はそう言って、お互いに目配せをしあった。 「ちょっと待ってくれ、ぼくも加えてくれ」 キアンは走って追いかけよううとして、石にけつまずいてころんだ。 一行は目立たない食堂に入った。 「残念だが、時間がないんだ!」 ショーンは機械的に言った。「キーファーやブルータスは、ケルトの財宝やら、魔法やら…もしそんなものが本当にあるとしての話だが…に興味があるから、気紛れにオレたちを泳がせてくれていたけれど、このたびシーザーから正式にきつくダメが出て、かれらはかれらで追いつめられたらしい。つまり、おまえたちを捕らえられないとブルータスもキーファーも破滅する、ということだ。 ヤツらが失脚するのは見ていて楽しいが、残りの人質を道連れにされてはたまらん」 「ブリジットさん、キアンをしっかり見ていてあげて下さい」 スピカはそう言ってから一束の矢をキアンに渡した。「あなたのために、心を込めて作りました。どうか、使って下さい…」 「ありがとう…」 キアンは早速品定めをしたが、彼の腕の長さに合わせたそれは素晴らしい矢だった。 ブリジットは二人の瞳を見て悟った。 (この人たちは死ぬつもりでいる)と。 「そんな悲しそうな顔をしないでくれ」 ショーンは陽気を装って言った。「首尾よく事が成ったら、オレたちもその楽園とやらに合流するからな!」 「もちろん… ぼくもケガさえ完治していれば…」 「無理するな、どんな作戦にも後詰は必要だ。万一オレたちが失敗したその時は頼む」 「ブリジットさんもその時は…」 「もちろんですわ」 キアンとブリジットは異口同音に答えたが、二人ともほとんど声にならなかった。 「それともう一つ。ブリジットさん、オレたちの成功を祈って、何か一曲弾いてもらえないものかな?」 ブリジットは背中にかけていた竪琴を取ると、勇士の門出を見送る勇壮な歌を歌った。 だが、歌詞が「勝利と栄光を抱いて帰ってくる」という箇所に差しかかると、不吉なことに竪琴の一絃が勢い余って断ち切れた。 「気にしないでくれ。きっと潮時を知らせるために切れたんだ」 ショーンはそう言うと戸口のほうにヒラリと身を躍らせ、スピカもそのあとに続いた。「続きは無事帰ってからゆっくり聞かせてもらうぜ!」 二人が出ていってからというもの、キアンはほどけかけた包帯を引きちぎりながら、かれらのあとを追おうとした。そんなキアンの前にヌッと立ちふさがった大男がいる。 バルガスだ。 「バカヤロー、犬死したいのか?」 バルガスはキアンの頬に思いきりパンチをお見舞いした。キアンは路上に叩きつけられるように倒れた。 「どうした、キーファーはオレなんかよりもずっと強いんだぞ!」 バルガスはそう言ってなおも迫ってくる。 キアンは折れた歯を吐き出しながら、ゆっくりと立ち上がったが、今度は胃のあたりに弧は短いが、はらわたがめちゃくちゃになるような蹴りを食らった。これはこたえた。 「おまけにもう手加減も期待できないんだぞ!」 キアンが今度は手と膝をついて立ち上がりながら、反論しようと口を開くと、舞い上がろうとする砂塵が赤く染まった。 「バルガスさん、もうやめて!」 バルガスにすがりつこうとするブリジットを、キアンは腕づくで制した。 立ったまま気を失ったようなキアンを、バルガスは容赦なく殴り続けた。そして、雑巾のようになった彼を床の上に投げ出した。 「くたばるのはおれたちだけで十分さ!」 バルガスはそう言うと、ショーンたちのあとを追いかけた。 「待ってください!」 叩きのめされたキアンを介抱しながらブリジットが言う。「あなたは少数民族でもないのに、どうしてそんなことをして下さるのですか?」 「いい質問だ。答えよう」 バルガスは振り返って陽気に言った。「オレはキアンが好きだ。おまえにはこんなつまらない所で死んでもらいたくない。気に入ってもらうのは難しいだろうが、今回に限り、オレはおまえの自薦の代理なのだ。…どうだ、得心したか?」「バルガス待て、よくも…」 キアンは再び一行のあとを追おうとしたが、立ち上がるのがやっとだった。 「キアンやめて! その体でついて行っても足を引っ張るだけで、何の役にも立たないわ…」 ブリジットはキアンの胸に顔を埋めるようにして押し留めた。「どうしても、と言うのならわたしも一緒に連れて行って!」 彼女を払い退けようとするキアンの手が止まった。 何かを言おうといて声にならない彼の唇を、ブリジットの唇がふさいだ。 (いにしえの神々よ、キアンの傷の痛みの全てを、わたしに代わらせて下さい!) 両手を彼の背中にまわし、強く抱きしめながら、彼女は懸命に祈った。 気のせいだろうか、キアンはいまの傷と古傷の痛みが軽くなっていくような感じがした。 それに、ずいぶん長く忘れていた元気も甦ってきた。これなら愛用の弓も力いっぱい引けそうだ! 「待っていてね、馬を捜してくる」 ブリジットはそう言って先に飛び出したが、その体は、ぐらりとよろめいた。 ケルトの神々が彼女の誠心の祈りを聞き届けてくれたのだろうか、傷も負っていないのに、体じゅうに傷の痛みが走る。 彼女は足をとめて、百発百中を期して、一本一本の矢を弓の弦にあてがって見ているキアンに微笑みかけながら、町の中に消えた。 その夜、ショーンとスピカ、バルガスたちは、同志たちの手引きで、交替の奴隷に変装し、シーザーの別荘に潜入していた。 中では、十数名の、それぞれ腕に覚えのある同志たちが、呼応してくれる手筈だった。 二人いる衛兵のうちの一人に向かって、スピカが矢を射かける。矢は間違うことなく衛兵の胸に命中する。 残りの一人が剣を抜く暇もあらばこそ、疾風のように駆け抜けたショーンが袈裟切りにした。 「助けに来たぞ!」 ドアを蹴破り、そう叫んだ時、二人の目の前に完全武装したローマ兵の一個中隊が、バーンと二人の前に立ちふさがった。 指揮を取っているのは、キーファーだ。 「キーファー… この裏切り者!今度こそ年貢の納め時と思え!」 ショーンは冷たく言った。 しかし二人に続いて乱入した、手に手に包丁や薪を切るための斧を手にした反ローマの同志たちは、思わず立ちすくんだ。 キーファーのためにやられた同志はあまたの数を数える… 兵士たちの後方には、元老院議員の服の上にぎこちなく鎧を着込んだブルータスもいる。「フフフ、言い古された言葉だが、飛んで火に入る夏の虫、とはおまえらのことだ」 将軍は軍刀を鞘から抜き放った。 「キーファー、きさまケルトの財宝やら魔法やらに興味があるそうだが、残念ながらキアンとブリジットは、もう遠くへ落ち延びたあとだ」 片方の眉を歪めたショーンが不敵につぶやく。 「そうかな。部下からの報告によると、キアンとブリジットもおっ取り刀でこっちに向かっているそうだぞ。バカなのはきさまらだ」 「バルガス、おまえ手加減したな!」 「じょ、冗談じゃねぇ。殴りすぎて死ぬかと思うほど殴ったのに…」 バルガスはあっけに取られた。 「一人残らず皆殺しにするのだわかったな! 生け捕りにして何か聞き出そうなどという必要はもはや全くない。これは命令だ!」 ブルータスがまた心なしか小刻みに震える声で命令した。 「承知しました、閣下」 キーファーが剣でショーンたちを指し示すと、兵士は一斉に襲いかかった。 ショーンとバルガスはスピカをかばいながら、敵兵を一人、また一人と斬るが、その間にも同志たちが敵の刃にかかり、一人、また一人と倒れていく… スピカは矢をブルータス目がけて射た。 ブルータスは間一髪、マントで払い落とし物陰に隠れた。 部屋の中、敵は隊列を整え、傷を受けた者は後ろに下がらせ、新手新手を前に出し、ジリッジリッと寄ってくる。 不思議なことに、ショーンたちが侵入してきた方向には、敵の姿がない。 「バルガス、こっちはいいから人質だ!」 「本当にいいのか?」 去り際、バルガスが怒鳴って尋ねる。 「できるだけ時間を稼ぐ。うまくやれよ!」 バルガスは同志たちのうち精鋭を率いて撤退した。 だが、バルガス一行が廊下を少し抜けてホッとしたころ、待ち伏せしていた兵士たちに矢の雨を降らせられた。 なんとか敵を倒し、切り抜けた頃には、バルガス一人になってしまっていた。 「よし、バルガスに続けッ!」 ショーンは残りわずかになった同志たちに命令した。 「オレは一人でもうしばらく時間を稼ぐ。…スピカ、キミも早く、みんなと一緒に行動しろ! 生き延びてくれ!」 スピカはしばし躊躇していたが、ショーンの腕に払い飛ばされるようにして外に出た。「生き延びる、だと! 片腹痛い! おまえらはここで、一人残らず全滅するんだ」 キーファーはそう叫びながら、まっしぐらにショーン目がけて剣を打ち降ろしてきた。 それをガッシと受け止めようとしたショーンの細身の剣は、キーファーの力にかかってあえなく真ん中から砕かれ、額を割られた。 彼がもんどり打ってうつ伏せに倒れたところへ、黒い鎧の将軍がまるで虫か何かの標本のように、剣を突き立てた。 「バカめ! ヴェガをかばった時の手の傷がとうとう命取りになったな! おまえのその勇気に免じて、…この台詞は確か二度目だな… スピカの命だけは見逃してやってもいいぞ」 キーファーはショーンの心臓に突き立てた剣をギリギリとねじりながら言った。「…ただし、ケルトのお宝の秘密を教えてくれたら、だ!」 ショーンは薄れゆく意識の中で、何か尊い、光り輝くものを見た。 「…誰が教えるものか!」 キーファーがニヤッと唇を歪めた。 「だろうな」 「無念だ!」 ショーンは血を吐きつつ、相手の顔を見詰める。 キーファーは嘲笑い、ショーンに突き立てていた剣を抜き去って鞘に収めた。 「オレがケルトを裏切って、ローマ側に寝返った本当の理由を話したことがあるかな? オレは実は、ケルトの宝の本当の姿を、おぼろげながら掴んでいる」 「そんなこと、ハッタリだ!」 ショーンは血の海からゆっくりと起き上がりかけた。 「ハッタリなものか! 裏切る値打は充分にあるものだ、とだけ言っておいてやろう…」 (キアン、ブリジット、オレの夢を、ケルト再興の夢をぜひともかなえてくれ…) ショーンは折れた剣を構えながら心の中で念じた。 キーファーが顎をしゃくって合図をすると、衛兵たちの槍が針ネズミのように彼の体を貫いた。 バルガスはたった一人、獅子奮迅の頑張りで血路を切り開いた。 (人質がよそへ移された、という情報は聞いていねぇから、ここのどこかに閉じ込められているに違ぇねぇ…) ふと、窓から下を見ると、つい先ほど徹底的に痛めつけたキアンが、ブリジットとともにパレスの建物の入口に到着したのが月明かりで見えた。 目と目があった。 (やれやれ… やはりオレの殴り方が足りなかったのかなぁ…) バルガスはしょうがなく、窓からロープを投げてやった。 一方、別働隊の残りの同志たちは、迷路のようなパレスの中を追いつめられ、逃げまどっているうちに仲間を一人、また一人というふうに衛兵に殺され、いつしかスピカただ一人になっていた。 廊下のつきあたりの部屋に逃げ込んだ彼女は、こちらに背を向け、窓からの星明りに顔をさらすように立っている人影に思わず息を飲んで立ち止まった。 「ヴェガ姉さん!」 「ショーンはかわいそうなことをしましたね」 ヴェガはまるで他人事のような無表情で抑揚のない声で言った。「彼はわたしのことも愛してくれていました」 「それが分かっていてなぜ?」 スピカはなじった。 「彼は本当は、どちらのほうを愛していたのかしらね」 そう言うヴェガの頬に涙がつたう… 「彼は姉さんのほうが好きだったわ! …裏切って、ローマ側につくまでは」 「亡くなったいま、もはやそのようなことはどうでもいいでしょう… ところでスピカ、読心術の腕はあがりましたか? もし読めたらわたしの心を読んでごらんなさい!」 ヴェガはそう言って妹のほうを振り返った。スピカは姉の涙に一瞬たじろいだ。 気を取り直して精神を集中しても、姉の心を読むことができなかった。 「…読めないでしょう? こと読心術に関しては、子供の頃からわたしのほうが力が上だったものね… わたしはあなたとショーンがお互いに好きあっているのを知って、猛烈に嫉妬したのよ。ショーンは一本義な、私欲のない、いい男だったものね。やけになったわたしは、別の生き甲斐をみいだした。…ショーンが命を賭けていたのと同じ目的。そう、ローマを滅ぼすことよ!」 追っ手の衛兵たちがドアを押し開いて入ってきた。 「ヴェガ様、失礼します。妹君をお渡し願います!」 「眠れ!」 ヴェガがそう鋭く叫んで、両手を差しのべながら開くと、衛兵たちは強い薬でも盛られたかのようにバタバタと倒れた。 「姉さん、一体どこでそんな術を!」 スピカは仰天した。 「わたしは術を磨いて、キーファーやブルータスにあることないことを吹き込んで、ローマをめちゃくちゃにするつもりでした」 ヴェガは再び窓の外に目をやった。 「ショーンはそんなわたしを哀れに思ってくれていたのです」 「嘘よ! 嘘だわ! そんなこと!」 スピカは激しくかぶりを振った。 「…だけど、わたしのこんな程度の力ではしょせん到底届かないことを悟ったの」 振り返った彼女は、再び何か術を放つ構えを見せた。「そして絶望しかけた時、あの子に巡り会ったのよ!」 「『あの子』って?」 「ブリジット。…あの子の竪琴と、キアンの弓の秘密を解けば、さらにあの子の力をうまく引き出してやりさえすれば、ローマを灰燼に帰させることも不可能ではないわ。かつてわたしたちの故郷チュニスの町が、ローマ軍の手によって焼き滅ぼされたように。 スピカ、あなたも忘れた時はないでしょう? 両親を殺され、家を焼かれ、奴隷として売り飛ばされた屈辱を! わたしたちからすべてを奪って、ぬくぬくと幸せそうにしているローマの市民に、わたしたちと同じ目に合わせてやるのよ!」 ヴェガは妹に向けて術を放った。 スピカはひとたまりもなく眠りに落ちた。「幸せにね」 姉は妹の戦いで乱れたおくれ髪をそっとなぜた。 キーファーが新手の部下たちを率い、慌ててヴェガの部屋に突入すると、窓からの逆光を背に弓矢を構えたスピカと出食わした。 床には先に突入した部下たちが折り重なるように倒れており、長椅子の上には捨てられたとはいえ、愛しいヴェガが気を失っていた。 「おのれスピカ、許さんッ!」 キーファーは槍を投げようと構え、スピカは弓を引き絞る… キーファーは乾坤一擲の力で槍を投げた。 スピカも矢を放った。 彼女の矢は弦を離れるなり、火矢でもないのに全体青い霊気の炎を浴びて迫ってきた。 勘の悪いキーファーもすべてを悟った。 (あれはスピカではない。これは魔法使いが放った矢だ!)と。 (あれはヴェガのほうだ!。またしても双子にだまされたのだ!) 「ヴェガ、どけッ! かわせッ!」 しかし彼女はもう覚悟を決めた様子で、槍を胸の真中で受け止めた。 ヴェガが放った矢は見事にキーファーの右肩に命中した。 青い炎がゆっくりと右腕全体に走る… 左手で矢を引き抜こうとしたキーファーが、その稲妻のような放電にかなわないことを悟ると、左手に剣を持ち替えて、自ら右手をつけ根のところから斬り落とした。 「閣下!」 上官の傷の手当をしようと駆け寄る部下たちを払いのけ、傷口から滝のように流れ落ちる血にも構わず、キーファーはヴェガのもとに近寄ったが、彼女の胸にささっている自分の投げた槍を抜くことはせず、蔑むように彼女の顔を一蔑した。 「しょせん道具のくせに生意気な真似を!」 しゃがれた声を振り絞る。 「許せませんでした。裏切っても、心に一抹の… 呵責も… 感じないあなたを…」」 声が途切れる。 「オレは裏切ることはやぶさかではないが、裏切られることは、絶対に許さんのだ」キーファーは冷笑した。「何を企んでいたのかは知らないが、おまえがわたしを出し抜くなど一○年早い!」 「愚かな男…」 ヴェガはそう言うと、ガバッと跳ね起き、隠し持っていた短剣でキーファーの胸を突こうとした。「そんなにうまくいくものですか!」 「ほざくな!」 キーファーは彼女が振りかぶった短剣をハッシと受け止めてサッともぎ取り、すでに突き刺さっている槍に並べるように突き刺した。「…愚かなのはきさまだ、ヴェガ。キアンとブリジットがいかほどの者だ? ただのガキと小娘ではないか。どうしてそんなにまでして連中に期待する?」 そこへブルータスがやってきた。 ブルータスは瀕死のヴェガを見て、キーファーがスピカを討ち取ったのだ思った。「閣下、不覚にもまただまされました。それはスピカの服を着たヴェガです。われわれに同士討ちをさせようというヤツらの卑劣な策略で…」 キーファーは遺体を蹴ってうつぶせにした。 「なんだって! …まあいい。それよりかキアンとブリジットもここに潜入して、いまおまえの部下と…」 「ヤツら野蛮人はいつシーザー閣下お得意の波状攻撃を覚えたのでしょうな」 キーファーは不気味なくらい涼しい顔でみずからの深手に包帯を巻きながら言った。「あとはキアンとブリジットと、オカマの海賊の三人ですな。お任せ下さい」 「あのバルガスとかいうヤツに気をつけろ。むかし軍にいたことがある。キーファー、おまえの指揮下にあったこともある、と記録にあったぞ」 ブルータスはこときれたヴェガの胸に刺さったままの槍と短剣を抜いてやりながら言った。 「なんだって、まさか!」 キーファーの顔色が少し蒼ざめた。 冷酷な将軍として知られる彼は、戦場で多くの部下を見殺しにしていた。特に自分にとって代わりそうな有能なヤツは。 キアンは、打ち捨てられたショーンの無残な遺体を見て、体を怒りに震わせた。 「おまえらよくも…」 しかし、目の前の敵は例によって多い。どんなに力んで弓を引き絞っても、倒せるのは一人か二人だ。 相手もそれを見越して、ジリッジリッと寄ってくる。 その脇ではバルガスが、なりふり構わず、敵を一人づつ確実に切り伏せていた。このあいだまでと違って、我流ではない、ローマ兵士と同じ太刀筋で、ずっと洗練されている。「剣を使える人、って羨ましいな」 お互いの背中を合わせて守りについたキアンは、ふとつぶやいた。 「オレは難しいことはよくわからんが、別に華やかなものを羨ましがる必要はないんじゃないか?」 バルガスは答えた。「キアン、おまえは自分にできることをやりとげればいいんだ!」 衛兵たちが何回目かの切り込みをかけてきた。さきほどからキアンをかばうことに専念していたバルガスがついに深手を負った。 「しょうがねぇ。奥の手を使うか!」 バルガスが振り子のように剣を揺らすと、敵にはバルガスが分身したかのように見えた。 その様子を見ていたブリジットは、ソッと物陰に隠れ、しばし目を軽く閉じ、両手を胸のあたりで組んで祈っていたかと思うと、背中に掛けていた竪琴を手に取り一節奏でた。 そして小さいが鋭い声で叫んだ。 「分かれよ!」 竪琴の不思議な音色を聞いた瞬間、衛兵たちの目には、弓を構えたキアンがたくさんに分裂したように見えた。 「なんだ、どうした!」 兵士たちが目をこする。 「うろたえるな、幻影だ。本物は一人だ」 小隊長が怒鳴る。 キアンの最初の矢がその小隊長を貫いた。 大勢のキアンたちが次々に矢を放つ。 矢は片っ端から兵士たちを倒した。 かなりの数がやられると、かれらは少しづつ奥へ撤退を開始した。 てっきり自分一人の実力で勝ったと思ったキアンは自信を得、有頂天になって深入りした。すぐ調子に乗るケルト人の悪いところだ。 そんなキアンを見てブリジットは神々に祈った。 (キアン、わたしには、不思議な力があるわ。あなたを守ってあげたいと思う時だけ発揮できる不思議な力が。魚の時にはじめて気がついたの。でもあまりあてにしないで。もっと慎重になって) しかしキアンはひた走る。 「止まれ、話を聞け!」 ブルータスの声が響いた。 そのそばでは、宿敵キーファーが残った左腕で、ヴェガの服を着たスピカを盾にするように押さえ持って立っている。 そしてそれを取り巻くように、いままでよりか格段の殺気をみなぎらせて入る衛兵たち… 「ヴェガ覚悟!」 キアンの指がまさに矢を放たんとした時、ブリジットとバルガスが異口同音に叫んだ。「キアン待って! それはスピカさんだ。味方だ!」 「さんざん手こずらせてくれたね、キミが最近『ローマに弓を引く者として』少しずつ名前を売っているとか言うキアンくんか?」 ブルータスは無表情に言った。 「それがどうした! きさまがブルータスか?」 キアンは矢尻の向きをキーファーからブルータスへと移した。 「いかにも。わたしがシーザーの親友で、元老院議員のマーク・ブルータスだ。仲間の命が惜しければ、弓矢を捨てろ! それからブリジットくん、くれぐれも変な術を使わないように…」 「キアン、バルガス、わたしに構わずブルータスとキーファーを討って下さい! そうでないと、姉もショーンも浮かばれません!」 スピカが叫んだ。 「お嬢さん、いまは不本意にもお嬢さんを人質にしているが、わたしは本当は少数民族の味方なのだよ」 ブルータスは困り切った表情で言った。「…わたしはシーザーと違って、みんなと仲良くやって行きたいんだ。 嘘だと思ったら、お嬢さんの得意な読心術で、わたしの過去を読んでみたらどうかね」 スピカはブルータスの過去を読んだ。 根っからの共和主義者。シーザーとは幼馴染みだが、最近は政策上の対立が元でギクシャクしている。元老院や軍人の支持者はシーザーより数多い… 「なぁキアン君、それにブリジット、決して悪いようにはしない。わたしと組もうではないか?」 ブルータスは手を差しのべて、得意の弁舌を披露する。「それに仮に、キミたちがわれわれを出し抜いて残りの人質を助け出すのに成功したとして、その後はいったいどうするつもりなのかね? そんなことをすれば、わが友シーザーにまたしても戦争する絶好の機会を与えるだけだ」 「…………」 キアンもブリジットも、思わず黙り込んでしまった。 それはブルータスの言う通りだった。そしてもし戦争になれば、その悲惨さは枚挙にいとまがない… 「キミたちさえおとなしくしてくれていたら、わたしからシーザーに、あまり過酷なことはしないように、うまく頼んでやろう」 ブルータスは薄く笑いを浮かべて、余裕のあるところを装うとした。「…さらにわたしは、もしわたしが執政官になった暁には、人質をみんな解放し、ヨーロッパじゅうの民族の融和を計ろうということを、長年堂々と選挙公約として掲げてきている」 「わかった、ブルータス」 キアンは弓を床に置き、続いて矢筒の紐を解いて並べた。 「ぼくも両親や一族の仇を討ちたいし、残りの人質を全員助け出して、それぞれの故郷に返してやりたい。しかし時代がそれを許さないのも事実だ」 「だまされちゃだめ!」 スピカが叫ぶ。 どうやら土壇場になって、ブルータスはともかく、キーファーの心の底の本心まで見破った。 「権力者は嘘をつかなければ出世できないものなのよ! わたしはどのみち殺される!」「ブリジット、キアンの弓矢をひろって、こっちにこい! それからそこのバルガスとかいうクズ、きさまも剣を捨てろ!」 キーファーがおもむろに口を開いた。傷口の包帯から血がしたたり落ち、まるで地獄から聞こえてくるような声だった。 ブリジットは言われた通りキアンの捨てた弓矢をひろい、眉を引きしめてブルータスやキーファーをはじめ衛兵たちをにらみながら、一歩一歩かれらのもとへ歩み寄った。 剣の幅まで近づいた途端、キーファーは大上段に剣を振りかざしてスピカを斬り、かわりにブリジットにきっ先を突きつけた。 スピカは音もなく崩れ倒れた。 「どうだ見たか? わたしに逆らうとどうなことになるか!」 キーファーは顔じゅうを歪めた。 こときれたはずのヴェガとスピカ、二人の姉妹の、血に染まった手が重なった。 「おのれ、だましたな!」 キアンは激怒したが、あとの祭りだった。「ブリジットがいる以上、もうこんな女どもに用はない!」 冷ややかに笑う… しかし意外なことにブルータスも激怒した。「何をする。わたしはいまかれらに約束したばかりなのだぞ」 「ブリジットと、この弓と竪琴さえあれば、ケルトの財宝の謎は解けるのです。役立たずどもには消えてもらいましょう!」 「バカな! きさまいつからわたしに命令できる立場になったんだ?」 ブルータスは慣れない手つきで剣を抜きかけた。 「ずっと前から考えていたことなのだ。ずっと前からね… ブルータス閣下、あなたはわたしから出世の道を奪い、さらにヴェガまで取り上げた… もしもあなたがわたしだったら、果たして辛抱していたでしょうかね?」「こ、これは反逆だ!」 ブルータスは叫び、そして衛兵たちに命令した。「反逆者キーファーを討て!」 だが、衛兵たちはピクリとも動かない。それどころか、おずおずとではあるが、ブルータスに刃を向けた。 「無駄です、閣下。かれらはわたしに恐怖を感じていますから」 「こんなことをしてただですむと思っているのか!」 ブルータスは一喝した。「…命令違反は死刑、というのをよもや忘れたわけでは」 「よく知っていますよ閣下。だから閣下にはキアンたちを始末した後で死んで頂かねばなりません。…野蛮人のキアンの復讐の刃に倒れた、という呈にしてね」 キーファーは部下にブリジットとキアンの弓と竪琴を預けると、狩猟用のナイフを除いては丸腰のキアンに、ゆっくりと歩み寄った。「キアン、ショーンに言ったこととと同じことをきさまにも言わねばならんな」 剣が十分届く距離に立つと、キーファーは勝ち誇って言った。「キアン、武芸が得意だったオレは、おまえたちの部族の族長になりたかった。 ケルトの族長は一年交替の任期制。オレは毎年毎年、おまえのおやじがオレを推薦してくれるのを首を長くして待っていた。 しかしキアン、きさまの親父は、オレ以外の者ばかりを指名し、オレは望んでいた地位にはついにつけなかった。 オレはローマに寝返り、アレシアの砦できさまの親父を斬り、部族を滅ぼした。だがオレは部族を再興することも大いに考えている。 そしてそのためには、そのシンボルとも言えるケルトの財宝のありかを知る必要があって、おまえたちを今日の今日まで見逃してきた。しかしもはやその必要もなくなった。伝説の弓と竪琴とブリジットはこちらの掌中にある。 財宝を発見したならば、ブリジットと祝言を上げて、シーザーの傘の下、夢に見た族長に就位してやるから、観念して地獄に落ちるがよい!」 キーファーが左手一本で振りかぶった軍刀を振り降ろした瞬間、バルガスが両手の手のひらで刃をハッシと受け止めた。 「おのれ、クズの分際でシャレた真似を…」 むきになって軍刀を引こうとしたが、左手だけではうまくいかない。 「じつはオレもおまえに恨みがあるんだ。オレがかつて、その武勇を妬まれ、死地に追いやられたおまえのかつての部下の一人だ、と言ったらどうする?」 バルガスは勢いをつけて、ついに相手の軍刀を奪った。 「ええい、仕方がない! さっさと斬り殺せ!」 キーファーは部下たちに命令した。 衛兵たちは一斉にキアンとバルガスに斬りかかった。二人の命ももはやこれまでかと思われた。 とその時、それまでおとなしくしていたブリジットが、勝ち誇った一瞬の隙を狙ってキーファーの頭を竪琴で殴ると、血路を開いてキアンたちのそばに戻った。 「キアン、選んで。楽に、幸せになりたい? それとも、苦しい、地獄のような道でも生き延びたい?」 ブリジットはキアンの目を見て尋ねた。 「オレでよければ介錯してやるぜ。戦場では捕虜の首を上手にはねることで有名だった」 さすがのバルガスもついに膝をつきながら言った。 殴られた頭を左手で撫でるキーファーの表情にはまだ勝利の笑みが広がっている。 「生き延びたい」 彼は断固として言った。矢筒にはもう二本しか矢が残っていない。 「生き延びてケルトの血を残したい。そしていつかはローマを滅ぼしてやりたい」 キアンは最後から二番目の矢をキーファーめがけて手で放り投げた。 「スピカの恨みだ、思い知れ!」 矢は火矢でもないのに真っ赤な炎に包まれる… キーファーはすんでのところでそれをかわしたが、大理石の壁に深く突き刺さった火矢は、一瞬のうちに波のように壁と言う壁に燃え広がった。 その炎はたちまちのうちに熱く、一同の身を焦がした。 衛兵たちは泡を食い、すっかり狼狽して、我勝ちに逃げようと屋上に殺到した。 「ええい、逃げるな! 幻だッ!」 キーファーはわめいたが、彼自身も黒いマントに燃え移ろうとする火に往生するありさまだった。 「閣下、幻ではありません。本当に燃えています!」 梁がガラガラと音を立てて崩れ落ち、衛兵たちの多くはその下敷きとなった。 「ザコはまかせろ!」 再び奮い立ったバルガスは片手に自分の剣もう片手にキーファーから奪った剣を振りかざして、踏みとどまり残っている敵ながら果敢な兵士たちを再び蹴散らしはじめた。 ブリジットは隙をうかがって、キアンの弓を持って戻った。 ブルータスもこの間に逃げようと試みた。「待て、ブルータス! 反逆を知られた以上きさまも生かしておくわけにはいかん!」 残された片腕にすばやくひろった槍を構えた。逃げるブルータスを追おうとするキーファー… 窓から桟へ逃げたブルータスは、ついに桟の端に追いつめられた。 キアンも窓から桟に出ると、矢筒の中から矢をスラリと抜くと、燃え盛る炎の中、慎重に狙いをつけた。 「小僧、まだこのオレにたてつくつもりなのか!」 キーファーはブルータスを殺すのをやめ、踵を返してキアンに迫ってきた。 だがどうしたことだろう、キアンの気迫に押されて一瞬踏み込みを躊躇した。 「両親と部族の仇ッ!」 キアンは弦もちぎれよとばかりに弓に最後の矢をつがえて強く引くと、火の粉を舞い散らせながら放した。矢は飛びながら炎におおわれる… 「笑止ッ!」 キーファーはとっさに振り返ると、剣を巧みに捌いて火矢の矢骨を斬った。 だが、矢は斬られてもなお力衰えず、矢尻の部分が見事にキイファロスの左胸に命中した。 火矢の炎が鎧に燃え広がり、漆黒のマントを焦がした。振り消そうとする姿はさながら地獄で踊る悪魔のように見えた。 「なんということだ! このオレが、こんなガキどもに…」 ブリジットは危険を顧みず、落ちていた剣を拾うと、細い桟を走って、火だるまのキーファーの懐に飛び込んだ。 「みんなの… みんなの仇!」 バランスを失ったキーファーは、まっさかさまに地上に叩きつけられ、動かなくなった。 彼女はすぐに、ヴェガとスピカのもとに戻った。 (キアンの時と同じように、黄泉国から呼び戻せるかもしれない。…せめて二人のうちのいずれかだけでも…) (わたしはいいから、妹を助けてあげて。わたしも手伝うから) かすかにヴェガの心の声が聞こえる。 スピカを抱え起こしたブリジットは「力」を使った。 「神々よ… どうかご加護を…」 血が止まり、致命的だった傷口が塞がり、かすかながら、鼓動が戻った… 不審に思ったキアンが覗きにくる。 「刀傷なら多少心得がある」 バルガスもいろんな治療道具を奪って戻ってくる。 「さあ、子供たちのところに案内してもらいましょうか」 キアンはキーファーのものだった血に濡れた剣をブルータスに突きつけて言った。 「おまえたちもこんなことをしてタダですむと思うなよ!」 剣を突きつけられてもなおブルータスは、高官の威厳をくずさなかった。 三人はブルータスの案内で、ほかの人質が閉じ込められているところに行った。 「ブリジットお姉ちゃんだ!」 「…怖かったでしょう。もう大丈夫よ」 いたいけな人質たちはブリジットを見るなり駆け寄ってきて、まとわりついた。 「さあ、みんな逃げようぜ!」 疲れきり寂しそうな、人質の子供たちを見渡しながら、キアンは言った。 当然のこととはいえ、最初は誰も続こうとはしなかった。 「確かに、ここから逃げれば、人質として送っている部族に迷惑がかかるだろう。また追っ手の追求も半端ではないだろう。しかし、たった一度の、自分自身の人生じゃないか!」 キアンが力を込めて説得すると、ゲルマン人の少女がスクッと立ち上がった。 「わたしは故郷に将来を誓った人がいます。ここ、ローマにいると、意に沿わぬ結婚をさせられてしまいそうです。わたしは、帰ります」 彼女はそう言って、みんなのもとを離れ、ブリジットに従った。 「ぼくもお父さんやお母さんに会いたい!」 小さい男の子が立ち上がった。 続いて残りの全員がキアンたちに従った。みんな決心がみなぎっていたので、キアンは満足だった。 「さてと、そろそろ逃げさせてもらうが、くれぐれもここ以外の場所に囚われている人質たちにひどいことをしないように」 キアンはさらにブルータスに剣を突きつけて言った。 「わかった。しかしシーザーにはなんと報告しよう?」 彼は途方に暮れていた。 「まぁ、すべてキーファーの乱心のせいにしておくことだな。あながち嘘ではないだろうし」 バルガスはブルータスの肩を馴れ馴れしく抱きながら言った。「…あんた、いつもそんなに緊張していたら、できるはずの出世もできなくなるよ」 脱出した子供たちをそれぞれの目的地に送り届ける役目は、アルプス方面についてはキアンとブリジットが受け持ち、遠い国については、傷の癒えたスピカとバルガスがその持ち船でやってくれることになった。 「バルガス、恩に着せて、手を出すなよ」 船出に際して、キアンは真顔で言った。 「じゃあキアン、おまえも一緒に来てくれるか? おれはそのほうが嬉しい」 バルガスも真顔で答えた。 「ブリジットさん、またいつか」 スピカとブリジットはしっかりと抱き合った。 キアンとブリジットは、手始めに幼い男の子と女の子の兄妹を、ガリア(いまのフランス)東部の部族の小さな村に送った。 その日の朝まで、ブリジットと別れることを悲しがっていた子供たちは、生まれ故郷の村が目に映ったとたん、ブルータスの署名入りの釈放状を握りしめて駆け出して行った。 ブリジットがホロリと寂しそうな表情を見せると、かれらは太陽がさしはじめたばかりの、花畑咲き乱れる丘の上で、立ち止まって振り返り、両手をちぎれんばかりに振って叫んだ。 「ありがとう、ブリジットお姉ちゃん! キアンお兄ちゃん!」 北イタリア一帯に初雪が降り、キアンとブリジットが設営したちいさな天幕のカンバスにも薄く降り積もった。 その年(紀元前四五年)もまもなく終わろうとしている。 キアンは狩りに出かけて、いない。 ブリジットはマントの胸元をかき寄せると、竪琴を手にとって、亡くなった人々の鎮魂の曲をつまびいた。 歌声は馥郁とした森の冷気に乗って、キアンの耳にも聞こえた。 冬の風が吹き、彼女の集めたドングリなどの木の実、キノコが、まな板がわりの岩からコロコロとこぼれ落ちた。 キアンは鳥や兎など、両手に持ち切れないほどの獲物をさげながら、 (このまま歌のするほうに帰らなければ、ブリジットはいったいどうするだろうか)と考えたりした。 と、目の前に金色の毛をした貂がよぎる。 (ブリジットは帽子をもっていない。あれで帽子を作れば、冷たいアルプスの氷花から彼女の金髪を守ってやれる! それに金色の毛皮は、彼女の雪花石膏のような肌に、さぞかし似合うだろう…) キアンはとっさに矢を放ったが、貂の動きは素早く、矢をかわして逃げた。 キアンが獲物を逃すのは珍しいことだった。 彼は意地になって獲物を追いかけた。 太陽が西に傾き、つるべ落としに暮れ落ちた。 貂を求めて、山や谷を駆け抜けたせいで、キアンはすっかり汗びっしょりになった。 獲物がついに夜の闇の中に逃げきってしまった。 それでもなお諦めきれず、腰に下げた獲物の兎を焼いて、先に食事を摂った。 彼はどうしても、ブリジットのようやく元の長さに戻りつつある髪に、貂の毛皮の帽子をかぶしてやりたかったのだ。 しかし、まともな獣たちは、とっくの昔にねぐらに戻っている時間だった。 失意と自己嫌悪でくたくたになってブリジットの待つ天幕に帰った時には、空には満天の星が輝き、月が天の頂きにさしかかっていた。 テントにはブリジットはいなかった。 彼女が心を込めて準備したと思われる鍋は、肉がないまま、空しく冷えきっている。 木の実や茸は、まるで子供がおもちゃにしたかのように地面にちらかっている。 「ブリジット!」 キアンの叫びは空しく森に谺した。 「ブリジット!」 彼はゾッとした。 (まさか、何かあったのでは?) 貂を深追いしたことを後悔しながら、キアンはまわりを必死で探した。 探して探し抜いて、ヘトヘトになったが、ブリジットは見つからなかった。 キアンはぽろぽろと涙を流した。思えば、ローマに来て、ローマから去るまで泣かなかった彼が、こんなところで泣かなければならないなんて、情け無いことだった。 と、ふと耳に竪琴の音と歌声が響いた。 確かにブリジットの声だった。 亡くなった人々への鎮魂歌だ。 「ブリジット、どこにいるんだ?」 キアンは心の中で叫んだ。 やがて彼は星明かりの下、断崖の上にいるブリジットを見つけた。 彼女はとても寂しそうだ。まるで部族の運命を自分一人で背負ってしまったような表情だった。 キアンは曲が終わるのを待って、彼女を抱きしめた。すると、それまで彼女が愛用していたローマの薔薇香水に代わって、大地の若草の香りがした。 「追ってくるわ」 ブリジットは彼をそっと引き離すと、ポツリと言った。 まさかと思ったキアンが目もくらむような崖の下を覗くと、たくさんの螢のような松明の光が点々と、彼らがいましがた逃げてきたばかりの道を追い着いてくるのが見えた。「やるしかないんだ」 キアンはだれに言うともなくそうつぶやくと、夜空に向けて続けさまに二本の矢を射た。 それらはいつまでも力衰えて落ちることはなく飛び続ける二羽の白鳥のように、まっすぐに故郷めがけて飛んだ。 KIJISUKE@aol.com