弓と竪琴

   第十章



  ガリアは新緑の季節に入った。
  それまで灰色の雲に閉ざされ、白い雪と苞が舞い踊っていた大地がいっせいに芽吹き、森が、林が、草原が、まるで緑の爆発のように膨らんで、地面を覆い尽くした。
  ここ、ロワール川の川面もまた、両川岸からせり出してきた樹木の枝や葉で、まるで緑のトンネルのようになっていた。遥かアルプスから溶け出した氷河の水が、四月のヨーロッパの朝の太陽を受けてキラキラと輝きながら音を立てて流れ、そこかしこで魚たちが飛び跳ねている。
  その川の上を、いま一隻のワインの定期運搬船が、大西洋岸の港、ナントを目指して順調に川下りを続けていた。予定通り行けば、今夜は久しぶりに大きな町、オルレアンでの一泊が楽しめる呑気な旅のはずだった。
  運搬船は、ワインの他に寄港各地のさまざまな名産品、二頭の種馬、六頭の種羊、それに十数人の乗客を乗せていた。
  その中に、任地に向かうローマの小役人の一統や、港町へ珍しい宝石の買いつけに向かうユダヤ人の武装商人の一隊、一つ川下の町まで買い物に出かける現地ガリアの人々や子供連れの婦人に混じって、若いケルト人の男女がいた。
  そのうち、精悍な顔の青年のほうは、弦をはずし、袋に入れた大弓に寄りかかるようにして、こっくりこっくりと居眠りをしていた。
  男はもちろん、女も、船の乗客全員が、折りをうかがってはその顔や仕草を見ようとする少女のほうは、木柵で囲われた檻の中の羊に手を差しのべていた。少女は背中に、その衣と同じ、亜麻の袋に入った竪琴を背負っていて、その職業がケルトの語り部であることを伺わせている。
  役人も商人も人々も、少女と青年がつい先ほどこの船に乗り込んだ時から、少女の歌が聞きたくて、声をかけようと財布を握りしめうずうずしていたが、お互いにその気持にかられているのが自分だけではないことに感づいて、遠慮しあっていた。少女は、そんな人々の様子に十分気づいて、瞳をいたずらっぽく輝かせながら、羊の頭をなぜていた。
  やがて船は、うっそうとした森から突き出た名もない小さな桟橋に横付けにされた。
  そこでは、いましがた結婚式を上げたばかりのガリア人の若夫婦が、大勢の一族郎党の盛大な見送りを受けて、乗り込んで来た。花吹雪が舞うなか、新郎も新婦も頬を紅潮させ、緊張と不安とで、振る手もぎこちなかった。
  語り部の少女は、その時素早く袋から竪琴を出すと、流れるように祝い歌を奏で、歌った。
  それは、その船に乗り合わせた全員が、これまで聞いたこともないような、素晴らしい結婚の祝い歌だった。
  若夫婦は知らず知らずにお互いの手を重ね頬を合わせ、小さな口づけをした。
  それに合わせるように、それまで眠りこけていた、大弓を持った青年が目を覚まし、両肩にかかった花吹雪を見て、その一片を手に取った。
  戯れに、その花びらを目にあてて透かして見ると、その新婚のカップルが、自分とあの少女の姿に重ね合わさって見えた。
  船は、軽ろやかな竪琴の音とともに揺れ、だれもが曲が永遠に終わらないことを祈った。みんなの願いの通り、少女の歌は次から次ぎへと曲を変え、いつまでも絶えることがなかった。
  紀元前四五年。うららかな、ある春の日のことだった。

  ローマの将軍で、独裁者ジュリアス・シーザーの側近にして幕僚のマーク・アンソニーは、腹心の部下アグリッパとともに、その竪琴の音と歌声を、偶然立ち寄っていていたオルレアンのローマ軍砦の望楼の上で聞いた。
  アンソニーは久しぶりに全てを忘れた。
  本国ローマでの熾烈な権力抗争、各地での陰惨な戦争、最大の政敵オクタビアヌスの姉でもある美しい妻オクタビアのこと、それにも増して昼夜まぼろしとなって現れるあのエジプトの妖艷きわまりない女王、そしてさらにいますぐ隣に立っている、自分と同じくらい聡明で、ひょっとすると自分よりハンサムな…ということはローマ一聡明で、ローマ一ハンサムかもしれない…それでいて自分のためには喜んで命を投げ出すであろう副官のアグリッパのこと。それらもろもろのことを忘れ、春の風に乗って川のほうから聞こえてくる竪琴の音に聞き惚れた。
「アンソニーさま、こんなところにいらしたのですか」
  いつもと変わらない、アグリッパの爽やかな声で、アンソニーはひとときの間さまよっていたアルカディアの地から、一面緑のカーペットを敷き詰めたように見えるロワールの森に立つ見張り台の上に引き戻された。
  アンソニーがいくら耳を傾けてみても、竪琴の音はもう聞こえなかった。ひょっとすると、ずっと前に遠くに去って、聞こえなくなっていたのかも知れなかった。
「竪琴の音が…」
  ローマきっての猛将は、あふれる涙を拭おうともせず、ようやくそれだけ言った。
「素晴らしい竪琴と、歌でございました」
  よく見ると、アグリッパの目も赤く腫れ上がっていた。「駐屯所の兵士たちも、しばし訓練が手につきませんでした。しかし、もう誰の耳にも聞こえません」
  その通り、いまはいくら耳を澄ましてみても、小鳥たちのさえずりだけが、オルレアンの森にかまびすかしく響いているだけだった。「アグリッパ!」  アンソニーは青年将校の体を思わず抱きしめて言った。「オレの望みをかなえてくれ!  あの竪琴の音を、あの歌声を、いま一度、なんとしてでも聞きたいのだ!」
「承知しました。アンソニー閣下」  アグリッパは上官の体をソッと引き離し、いつもと変わらない、忠誠心にあふれた声で答えた。「これよりただちに捜してまいります。見つけ出さないうちは、決して戻りません」
  アグリッパが踵を返すと、大隊隊長の階級を示す、真紅の、ほかよりも一段と大きなマントがふわりと春の風に舞った。
「待て、オレも一緒に行く!」  アンソニーは、ローマ帝国にも十人とはいない大将軍の礼装である紫紺のマントをはずしながら、後を追った。「この色は目立つ。普通の赤いものを寄こせ!」
  ほかの側近の一人があわてて自分のマントをはずすと、最高司令官のそれとを交換した。「おいおまえ、しばらくそれを着ていていいぞ!」
  その一言を捨て台詞に、ひらりと軽騎兵の馬にまたがると、アンソニーとアグリッパは、まるで士官学校の同期生のように、きれいに八つの蹄を合わせて砂煙を上げながら、まっすぐに町のほうを指して駆けて行った。
「あれはきっと、ロワール川を下る定期船から聞こえてきたものに違いありません!」
  馬上からアグリッパが叫ぶ。
「オレもそう思う」
  アンソニーが答える。
「ならば、今夜はオルレアンの船宿に一泊するはずです。十分追い着けます」
  アグリッパの助言で、その時はじめてアンソニーは鞭を当てすぎていたことに気づいた。
  オルレアンの町は、折から春の花祭りのまっ最中だった。
  そこかしこに屋台や、移動商人たちの馬車や牛車、テントが立ち並び、広場ではサーカスが催され、辻々には軽業師などの大道芸人が立って技を披露し、辻音楽師が演奏していた。
  ケルト人の青年で弓の名人のキアンは、左手に自慢の大弓を握り、右手は  まるでずっと子供の頃に帰ったみたいに、いいなずけである語り部のブリジットの手を握って、人通りの中をぶらぶらと歩いていた。
「何か食べたいものや、見たいものはないかい?」
  キアンはふと立ち止まって、ブリジットに尋ねた。ブリジットは微笑んで小さく顔を横に振った。
  そこには偶然、ケルトの金細工師が屋台を広げていて、ケルト特有の組み紐紋様や唐草模様、雷紋様や抽象化された動物の意匠のブローチやペンダント、首輪や腕輪、帯止めなどが、いい値段で売られていた。
  キアンもブリジットも、ローマ軍に村を焼き滅ぼされるまえ、それぞれの母や姉たちや祖母やおばたちが、これらの装飾品で身を飾っていたことをよく覚えていた。
  キアンはブリジットの手を離し、懐から旅用の巾着を取り出して金を数え始めた。
  だが彼女の白魚のような手は、そんなキアンの節くれだったたくましい手を覆うようにして、勘定をやめさせた。
「キアン、お金は置いておきましょう」
  ブリジットは優しい声で言った。
「しかし…」  キアンは口ごもった。「ぼくはキミになにも買ってあげたことがない」
  そう言いながら、バツが悪そうに視線をそらすと、そこに偶然、武道大会を知らせる羊皮紙のポスターが目に飛び込んできた。
  大会があるは町はずれの牧場で、日時はきょうの午後三時から、となっていた。レスリング、剣、槍はもちろん、弓の大会もあるという。それぞれの優勝者には、かなりの賞金も出るらしい。
  キアンの目の色が変わった。
「ブリジット、ぼくはあれに出場するぞ!」
  彼はそう言うなり、走り出していった。
  人の波の頭の上に、袋から半分むき出た大弓が突き出たかと思うと、人ごみをかき分け跳び跳ねるようにしてどんどんと遠ざかって行く。
  思わずクスリと笑ったブリジットは、その弓を目印に、彼のあとを追おうとした。そんな彼女の背中の竪琴をソッとつかんだ手がある。
  ブリジットが驚いて振り返ると、先ほど船に乗り合わせた新郎新婦が立っていた。
「すみません。あなたの素晴らしい竪琴と歌を、ぜひこの町の人たちにも聞かせてあげたらどうでしょう?」
  夫婦は異口同音に言った。
「素晴らしいなんて、そんな…」
  ブリジットは口ごもったが、そこはたまたま詩神ミネルヴァの神殿へと続く、まっ白な大理石の階段の途中だった
  天界から吹き降りてきた爽やかな風が、行き来する人々の、汗や、香の香りや、大地から舞い上がる砂埃をかいくぐってブリジットの頬をなぜた。ひんやりとした石段の一つに、雌鹿のような足をまっすぐ斜めに組んで腰を降ろすと、背中に背負った竪琴を取り出して、興のおもむくまま、時間のたつのも忘れて、何曲も続けて歌った。
  気がつくと、神殿の石段は黒山の人だかりだった。身分の高い人も低い人も、歌の邪魔をしないように、なにがしかのお金を、わざわざ腰をかがめて彼女の足元や、竪琴の袋の中に置いていっていた。
「いいなずけが弓の大会に出るので、応援に行きたいと思います」
  彼女がそう言って竪琴をしまっても、聴衆のほとんどは容易に立ち去りがたい様子だった。多くの人々は涙を流していた。
  聴衆の置いてくれた金を集めながら、ブリジット自身もまた泣いていた。彼女の歌はみな、亡くなった彼女の母親や養母が教えてくれた歌で、大勢の人のまえで歌うような、まして決してお金を取るような歌ではなかったからだ。
  その涙を腕で拭い散らして、石段を一気に駆け降りようとした彼女の目のまえに、金貨のたくさん入った袋が、突然差し出された。
  その男は憎いローマ軍の将校で、ブリジットがこれまで見たどのローマの男よりも、美しい整った顔立ちをしていた。
「素晴らしい歌だった。どうか、受け取って欲しい」
  彼、マーク・アンソニーは、長い金髪を風になびかせつつ、正確なケルトの言葉でそう言った。
「こんなにたくさんは受け取れません」
  彼女は凛とした声できっぱりと断った。
「では、どのくらいなら受け取ってくれるのだね?」
  アンソニーはブリジットの空色の瞳の底を覗き込むかのように、こんどは美しい響きのラテン語で尋ねた。
  いまのいままで、近づかれてそんなふうになる男はキアン一人だけだったが、彼女の胸は早鐘のようにドキドキと打った。
「お気持だけいただいておきます、隊長さま」
  あれだけ歌っても平気だった声が、からからに枯れた。
  そしてたったいま気がついたが、その隊長のそばには、まるで彫像のように端正で物静かな副官が、まるでアポロに寄り添うオルフェの如く控えている。
「気持だけなら、いただいてくれるのだね」
  ブリジットがアンソニーを目を見つめると、吸い込まれそうな、計り知れない強さと優しさがそこにあった。
「はい」
  そう答えた声は、はっきりと震えていた。「では、これがいまのわたしの気持だ」
  アンソニーはそう言うなり、いきなりブリジットの体を抱き寄せて、口づけした。
  ブリジットは、すぐさまアンソニーの頬に平手打ちを返したが、その手もかすかに震えていた。そしてしばらくアンソニーのほうをキッとにらみつけたかと思うと、ツバメのようなすばやい身のこなしで、その場から去った。
「女に殴られたのははじめてだ」  アンソニーは、切れた唇から流れる血を拭いながら告白した。「アグリッパ、おまえはどうだ?」
「いえ、わたくしはまだ一度も」  アグリッパはクスクスとこみ上げてくる笑いを隠せないでいた。「わたくしは閣下が大変うらやましく思います」
「バカなことを!  オレはいま、かつてもっとも苦しかった戦争の時よりも、困難だった恋愛の時よりも、苦しんでいるのだぞ!」
「お言葉ですが、閣下には故国にはオクタビアさまが、エジプトにはクレオパトラさまがいらっしゃるではございませんか?」
  二人の女性の名前を聞いて、アンソニーは神殿の石段の途中ではたと立ち止まった。
( 『正妻オクタビア…  大理石の女…』  アンソニーは思いを馳せた。『弟の、シーザー閣下の養子でもあるオクタビアヌスの仕組んだ政略結婚によってオレのもとに来た、ローマ一美しいローマ人の女…  その心はシチリア島のマーブルのように輝いていて  そして冷たい…。対するクレオパトラ…  ジャングルの極彩色の鳥のように華やかで蠱惑的な女… スコールの湿り気を帯びた真夜中の熱風…。
  彼女を愛することは、やがて大エジプト王国をわが手に収めることを意味する。
  そして先ほどの女…  まるでこの、ガリアの、森と湖の精だ。男のように凛々しくて、まるで伝説のケルトの春の女神が人の姿で現れたかのようだ。名前は何と言うのだろう? いいなずけがいる、と言っていたが、果たしてどんな男なのだろう?)
「アンソニーさま。また例の病気でございますね?」
  アグリッパが困った表情で諌めた。
「ああそうだ。オレの持病だ」  アンソニーは認めた。「言い訳すると、かのジュピターも同じ病気持ちだ」
「ジュピターならば、雷にでも、白鳥にでも、ケルト人にでも変身して思いを遂げられますのにね」
  二人は話しながら、いつしか武道大会が開かれる町はずれの牧場に来ていた。
「ローマ最強」の二人が肩を並べ、マントを翻らせて歩くと、その自信と自負は、周囲を稲妻のように圧倒し、少しでも気配を読める者は大げさなほどに道を譲った。
「おい、あれはひょっとして、ローマの将軍アンソニーさまじゃないか?」
「まさか、そんな偉い人がこんなところに」
「いや、間違いねぇ。横にいるのが、副官でローマ全軍の剣術師範のアグリッパさまだ。オレはあの人の剣を見たことがある。あまりにも早くて、だれの目にも見えない…」
  噂はあっという間に、大会に集まった人々の間に広がった。
  そして、みんながみんな、彼らの顔と名前を知っていようはずもないのにも関わらず、恐れをなした大半の者が出場を取り止めて、こそこそと帰ってしまった。もっともその反対に観衆のほうはにわかに増えた。
「祭りの日」ということもあって、とくに外出を許された地元の「箱入り娘」たちも、ローマの「貴公子」アンソニーとアグリッパの姿を一目見んものと押しかけ、まるで屓の剣闘士に対する声援のように「キャーキャー」と無責任な黄色い声を浴びせた。
「またこれだ。田舎だから大丈夫だと思ったけれど甘かったな。世の中には、顔が男前でないために悩んでいる者も多いが、度はずれてもてはやされるのも、あまり嬉しくないものだな、アグリッパ」
  アンソニーはぼやいた。
「御意」  主人の分も合わせて、両手に持ち切れないほどの花束を抱いたアグリッパの目は、そう答えながらも抜け目なく、観客席に例の語り部の少女を追っていた。「あの娘は、『いいなずけは弓の大会に出る』と申しておりました。そちらのほうに参りましょう!」
  アンソニーが弓の大会に向かった、という噂も、これまたすぐさま伝わった。出場者はそれこそ、自分の大事な弓も矢筒も捨てて、蛛蜘の子を散らすように逃げてしまった。…たった一人、ケルト人の青年、キアンを残して…
  人々が本物のアンソニーとアグリッパであることを知った時、大会の責任者である町長や助役たちも飛んできて、二人のまえに平伏した。
「よしてくれ、オレは大会に出るために来たんじゃない」
「もちろんでございましょう!  アンソニー閣下は、ローマ随一の剣と槍の達人、レスリングと馬術の権威、弓の名人でございます」
  町長の言ったことは、お世辞ではなく、真実だった。
「じゃあ、ローマ一の弓の達人と、勝負ができるという訳だ!」
  背後から声がした。
  一同が振り返ると、そこには、旅の途中の薄汚れた、みすぼらしい格好をし、無精ひげをはやしたケルト人の青年が立っていた。
  そしてさらにそのうしろには、アンソニーが一目惚れした美しい少女が、『もしも男だったら、わたしも出てやるのに』と言いたそうな挑戦的な瞳で、彼らを見つめていた。
  アンソニーはこの、どう考えても普通の容姿の青年が、少女のいいなずけであることが信じがたかった。
「最初に断っておくが小僧」  アンソニーは鼻でせせら笑いながら言った。「オレは稽古というものが大嫌いだ。的のように動かないものは退屈極まりない。また、己が食うわけでもないのに、鳥や獣を射て無益な殺生をするのも好まぬ」
「じゃあ…」
  青年キアンは途方に暮れた。
「オレの好きなことを教えてやる。おまえのような、特別な才能もないのに、自分には才能があると誤解しているバカを殺すことだ」
  いい終わった瞬間、アンソニーの目は、はじめて冷酷な将軍のそれになった。
「止めるなブリジット!」
  キアンは弓の入っていた袋を預けながら、彼女を突き飛ばした。
「閣下、決してご油断めされませんように」
  アグリッパはアンソニーの耳もとにささやいた。「こやつ、見かけ以上にできます」
(ブリジット、というのか。いい名前だ)
  アンソニーはそう心の中でつぶやきながらマントを脱いでアグリッパに預け、上着の右片肌も脱いで、弓立ての中から大振りのものを選んで手に取った。
  キアンは大地にどっかと腰をおろして、先祖伝来の大弓にピーンと弦を張った。
「どうだろう、お互い弓取りの名誉にかけて…」  軍人らしく、先に手早く準備の整ったアンソニーが提案した。「敗者は勝者に敬意を表して、二度と弓が引けないように、おのれの右腕の腱を切り、百姓か商人にでもなるというのは?」
「いいとも!」
  キアンは即答した。これには副官のアグリッパが驚いた。
「おまえ、本当にいいのか?  意味がわかっているのか?」
「世界で二番目の腕など、なんの自慢になるものか!」  キアンはそう答えて、不敵に笑い、そして続けた。「腱などという中途半端なことを言わず、命ごと賭けようぜ!」
「よかろう」
  アンソニーの顔色がサッと変わった。
「閣下、滅亡民族の者のたわごとです。閣下はローマにとってなくてはならぬお方。万万一を考えてお考え直し下さい!」
  アグリッパはうろたえて言った。アンソニーは寵愛している有能な部下が、こんな風に慌てふためくところをはじめて見た。
「アグリッパ、おまえはこのアンソニーが、下賎の者によもや敗れるとでも?」
  アンソニーは薄気味悪いほど穏やかに尋ねた。
「滅相もない!  かようなどこの馬の骨ともわからない者、閣下が自らお手を下さる必要はない、と申し上げているのです。わたくしにおまかせいただければ、一矢で兎のごとく地面に這いつくばらせてごらんにいれます」
  食い下がるアグリッパの肩を抱いて、キアンには背を向ける格好で、アンソニーは冷静に小声で言った。
「アグリッパ、無理をするな。ここだけの話おまえでは危ない。オレがやる!  それに第一、このような満場の観衆のもとで敗れたとあれば、オレは生きてはいけん…」
  うららかに暮れていく春の夕日をはさんで、二人は、弓の決闘にしてはかなり大き目の距離をとり、それぞれ一本目の矢を矢筒から取り出して、アンソニーのほうはまるで矢場の的にでも向かうかのようにひょいと、キアンは慎重に獲物を狙う猟師の手つきで、ゆっくりと弓を引き絞った。
  観客はみんな固唾を飲んだ。アンソニーを応援する娘たちの黄色い声もいまはやみ、場内は水を打ったように静かになった。忘れ去られていたヒバリのさえずりだけが、大空からこだましてきた。
  ブリジットは、キアンが最初にアンソニーに挑戦した時から、手を組み、目を閉じ、一心に祈っている。
  キアンの矢尻を見て、アンソニーは恐怖を感じた。いろんな神の恵みを受けている者独特の、それを失うことに対する恐怖だった。
  対するキアンは、若者らしい恐いもの知らずの気持で、アンソニーの矢尻を見つめていた。
『あれがもしかすると、ぼくの命に終止符を打つ矢か』
  そう思うと不思議に瞳は澄み、無心の境地に立てた。
  両雄の弓構えを見たアグリッパは、主人が言っていたことがハッタリでないことを悟った。あの若者、こと弓に関しては、ただの馬の骨ではなかったのだ。
(勝てる!)
  アンソニーの構えが、意外に隙が多いのを見て取ったキアンは、そう信じて矢を放った。
  二本の矢が矢羽をこすり合うようにすれ違った瞬間、火花が散った。
  キアンの放った矢は見事にアンソニーの喉をとらえたかに見えた。しかし、ひょいと体をかがめたアンソニーは、その矢尻をガリッと前歯で受け止めた。
  凍りついたキアンの右胸に、アンソニーの放った矢が深々と突き刺さった。
「キアン!」
  ブリジットが駆け寄る。
  アンソニーは前歯で受け止めた矢尻を、ゴリッと音を立てて噛み砕いた。そして矢骨を長い楊子のようにペッと吐き出した。
  その矢骨がぽたりと地面に落ちるのと同時に、キアンは大きく目を見開いたまま、どさりと地面に倒れた。
「キアン!」
  ブリジットは彼を抱き起こすなり、胸に突き刺さった矢を両手で懸命に抜き捨てた。
  とどめを刺すべく、剣をすらりと抜き放ったアンソニーが無表情に近づいてきた。
「どけブリジット!  あとは苦しむだけだ。楽にしてやるのが、武士の情けだ」
  アンソニーはそう言って、片手で逆手に持った剣を垂直に構え、狙いつけた。
「待って下さいアンソニー!  わたしに手当をさせて下さい!」
  ブリジットはアンソニーの足にすがりついて、土下座した。
「助かるものか!」
  アンソニーは冷たく言った。
「もっとひどい傷をうけた時でも、わたしの看病で直ったのです。試させてください」
  ブリジットは食い下がった。アンソニーは満場の観客がシンと静まったまま、自分の態度を見守っていることに気がついた。
「いいだろう」  アンソニーの瞳が珍しく狡猾に輝いた。「…ただしブリジット、おまえがオレの妻になったら、だ」
「やむをえません」
  ブリジットは眉を引きしめて言った。
「よせブリジット!  そんな悲しいことを言うな!  ぼくが未熟だったんだ」
  キアンは込み上げてくる血にむせびながら自分の狩猟用の短刀を鞘から取り出して、首筋に当てかけた。
  キアンが最後の力を振り絞り、勢いをつけて切り降ろした瞬間、ブリジットの手がその刃の部分を受け止めた。
  先ほどまで竪琴を奏でていた細い美しい指が鮮血に染まった。
「ブリジット!  バカなことを!」
  キアンはそう言ったきり、がくりと意識を失った。
「手当をして、別れを告げたら、すぐにオレのところにこい!」
  アンソニーはそう言って、二人に背を向けた。
「わかりました。約束は守ります」
  ブリジットはそう答えながら、自分の手はそのままに、キアンの手当を始めた。
  村の医者や男たちが飛んできて、彼を担架に乗せて運び出した。
「よりによってアンソニー様に逆らうなんてなんて身のほど知らずなんだ!」
「向こう見ずにもほどがある」
「だからケルト人てバカなのよね」
  ブリジットには、手の傷の痛みよりも、ローマ人たちのキアンに対する嘲笑のほうが、我慢できなかった。

  キアンの夢の中で、ブリジットはアンソニーに抱かれていた。背景はすべて暗黒で、ブリジットの体の線と、辛そうに堅く閉じた瞳と、その頬に伝う涙が、白い細い輪郭となって踊っていた。
「身のほど知らず!」「むこう見ず!」「バカ!」と言った洪笑が、割れ鐘のように頭に響いた。
  思わずハッとして目を覚ますと、彼の弓と矢筒が、横たわったままでも見える位置に寝かせてあった。
  キアンは死力をふりしぼって、弓を通り越し、矢筒のほうに触れると、その中から一本の矢をひっぱり出した。
(こんな弓と矢なんかなかったら…)
  彼は声を殺して泣いた。そして、アンソニーの歯に砕かれた矢尻を喉に当てると、今度こそそれを突き立てようとした。
「いいなずけが自分の身をひさいでまで命乞いをしたというのに、それでもなお死のうとするとは…」  それはアンソニーの副官、アグリッパの声だった。「馬の骨と罵ったことに対して、まだ命のあるうちに謝ろうと思って来てやったのに、その必要はなかったようだな」
「ぼくはすべてを失った。もう何を言われても腹が立たない」
  キアンはうめくように言った。
「ブリジットさんなら、おまえは決して失うことはない」
「どういう意味だ?」
「出かけるまえに、左手で小太刀の稽古をしていたよ」  アグリッパはため息まじりに言った。「どんな練習をしていたと思う?」
「まさか!」
  キアンは自分の深手も忘れて起き上がりかけた。
「彼女はおまえのように慌て者でもなければ、たった一度の敗北でやる気をなくしてしまうような根性なしでもないよ」  アグリッパはそう言って肩をすくめた。「わたしはその一点についてのみ、おまえが羨ましいよ」

  その夜、オルレアンの町での定宿としている荘園風のホテルの豪華な広い一室で、アンソニーはただ一人、静かに名産の赤ワインを飲んでいた。
  風がさわさわと騒いで新緑を沸き立たせたかと思うと、召使が一人の化粧も飾り気もない、ただ糊の効いた新品の亜麻の衣をざっくりと羽織ったケルト人の少女を連れてきた。
  痛々しく右手に包帯を巻いたその少女、ブリジットは、アンソニーのまえに歩み出るとローマの貴族の令嬢の作法にのっとって、深々と一礼した。
「美しい!」
  アンソニーは思わず感嘆した。
「この手ではございますが、なにとぞ一曲、お聞きいただきたく存じます」
  ブリジットは竪琴を抱いて、アンソニーの傍らに座り、酌をした。
「それは何より嬉しい。これよりのちは、オレのためだけに奏でてくれ」
  アンソニーは馴れ馴れしく彼女の体に手を回してなぜた。
  ブリジットはそれに構わず竪琴を奏で始めた。巻いた包帯にすこしづつ赤い染みが広がり、やがてそれは弦をも染めた。
  だが彼は、もはやおとなしく聞いてはいなかった。とても武将とは思えない女のような華奢な指が彼女の肩の結び目に触れると、巧みに解きほぐした。
  たちまちのうちに彼女の肩と胸と背中があらわになった。アンソニーはその背骨をそっとなぜた。ブリジットはピクッと肩を震わせ竪琴を弾くのをやめた。
「キミの竪琴は帝国一だが、その曲を中断しても惜しくない容姿だ」
  アンソニーはそう言って、自分が飲んでいたグラスになみなみと酒を注ぎ、彼女に勧めた。
  ブリジットはそれに浅く唇をつけたかと思うと、一気に半分飲み干した。が、彼女の頬は飲むまえから、林檎のように赤く染まっていた。
  アンソニーの手が、今度は胸に触れようと脇をしめた彼女の腕をかいくぐろうとした。ブリジットがそれを待っていたかのように、人魚のようにパッと跳ね飛んで逃げたはずみで、ドレスの残りがはらりと脱げおちた。
  あかあかとした燭台の光に、やたらと気位の高いオクタビアでもない、かと言って黒い雌豹のようなクレオパトラのそれでもない、ケルトの心優しい女の裸身が浮かび上がった。
  もうこうなったらローマの将軍という地位も、「最強の達人」も関係ない。しばらく時間のたつのも忘れて、みじろぎせず立ちつくす彼女の姿を、アンソニーは瞬きもせず見つめ続けていた。
  彼女が立ち続けていることに少し疲れたように、かすかにあとじさるのに合わせて、アンソニーの手が蝋燭消しに伸びた。
  いくつかある蝋燭の光が一本づつ消されていくにつれて、ブリジットの雪花石膏のような白い肌が次第に闇に囲まれ、最後には、付窓からさし込む月光に、そのマリンブルーの瞳と、金髪をきらきらと輝かせるだけになった。
「ローマの将軍、マーク・アンソニー閣下」
  最後の一本が消されるのと同時に、彼女はもう一度口をひらいた。男のように、低く静かな声だった。「断っておきますが、これはキアンをケガさせたことの恨みではありません。あれは一対一の、尋常な試合でした。…ただ、肉親を殺され、部族を滅ぼされた時のローマ人のむごいやりかた、かた時も忘れません。閣下はそんな命令を出されるとは思いませんが、無念の死を遂げ、離散した人々の恨み、受けていただきます」
  ブリジットはそう言うと、左手で小太刀をスラリと抜き、逆手に構えた。
「オレはキミの竪琴の音と、姿形に惚れたのだ。キミがなに人で、ローマに対して何と思っていようと、オレには関係ない」  アンソニーは、伸ばせば手の届くところに置いてある軍刀には見向きもせず、目すら軽く閉じて、悲しげに言った。「何もかも忘れて竪琴を聞き、それから抱きたかった。いまでもそう思っている」
「わたくしには、キアンがいます!」
  ブリジットはそう答えて、アンソニーに刃を向けた。
  だが、なんということだろう、武道の達人アンソニーは、受けの構えもなにもせず、それどころか両手を大きく開いて、闇の中にギラリと輝く刃を迎えた。あまりのことにブリジットはかえってピタリと立ち止まった。
「さあここだ。ここを突きたまえ!」  アンソニーは自分の左胸を指さして言った。「このわたしが、こともあろうにフラれた。もう生きていく夢も希望もない…」
「剣をお取り下さい、アンソニー閣下」
  ブリジットは構えを崩さずにじり寄る…
「惚れた女を手にかけるヤツは最低だ」
  アンソニーは自分の軍刀をゆっくりと手に取ると、柄のほうを先にして、ブリジットに渡した。ブリジットは小太刀を鞘にしまい、その剣をスラリと抜いて、大上段に構えた。
「もし許してもらえるのなら、もう一度明かりをつけさせてくれ。キミの姿が見たい」
  彼は、今度はテーブルの上の灯明皿と、火打石を近づけた。
「待って下さい!  服を着ます」
  彼はゆっくりと窓際に向かい、雲に隠れた月を見上げていた。やがて支度の整ったブリジットがカチッカチッと火打石を打つと、部屋のなかに明かりが甦った。しかしもう、アンソニーは振り返らなかった。
「殺さないのなら、帰ってくれ」  彼はポツリと言った。「オレもケルト人に生まれればよかった」
  それまで、何も恐れていなかったブリジットは、急に両膝がガクガクと震えるのを感じた。復讐を果たせず、アンソニーに組み敷かれたら、舌を噛んで死のうと、覚悟もできていた。それなのに…
「閣下、…いやアンソニーさま」  そう話かけたブリジットの声は、もう刺客のものではなかった。「あなたが愛されたおかた、オクタビア様やクレオパトラ様は、どんなおかたなのですか?」
「二人とも素晴らしい。オクタビアを愛すればローマが手に入り、クレオパトラを愛すればエジプトが掌中のものになる。だがキミはそんな王国を背後に従えていなくても、同じように…いや、それよりもずっとずっと素晴らしい…」
  さっと振り返ったアンソニーは、月光を背に受けて、男として、マルスか、マーキュリーそのものの完璧さを備えていた。表情も、身のこなしも、息づかいさえも、感情豊かでエレガントだった。彼に比べれば、キアンは純情なだけの、田舎の青年だった。
「キミと一緒になれるのなら、オレはすべてを捨てて、キミと一緒にどこへでも行く。キミが死ねと命じるならすぐに死ぬ。頼む、一度でいいからマークと呼んでくれ!」
  彼はゆっくりと彼女に歩み寄った。
  ブリジットは幻術を振り切ろうとする戦士のように、小太刀でドレス越しに自分の太腿を浅くざっくりと突いた。たちまちのうちに、亜麻のドレスの裾に血の染みが広がる…
「何をする!」  
「わたしも女なので、あなたの魅力には勝てそうにありませんわ、マーク」  駆け寄ろうとするアンソニーを制しつつ、ブリジットはとぎれとぎれに言った。「しかし、今宵は帰ります」
「幸せなヤツだ、キアンは」  立ち去りかける彼女の背中に向かって言った。「彼の子供を生んでやれ。きっと喜ぶだろう」

  傷ついたキアンが待っている小屋への帰り道、ブリジットは川のせせらぎでドレスの血の染みを洗った。
  まずその端を裂いて包帯にして傷口に巻き、それからドレスを着たまま川の流れの浅いところに入って洗い流した。
  と、どこからともなく男の声がした。
「ブリジット!」
  彼女があたりを見渡すと、自分と同じように腰のあたりまで川につかった若い男の影が、剣の柄に手を添えて鯉口を切りながら、こちらに歩いてくる。「アンソニー閣下とのできごと、世間に知らせるわけにはいかん。噂を封じるのは副官の使命だ」  特別の時以外は、いつもアンソニーの影のように付き従っているアグリッパの声だった。「かわいそうだが、死んでもらう!」
  ブリジットは急いで川から上がろうとしたが、水に濡れたドレスが体にまとわりつき、つまづいて転んだ。膝までの平服を着ていたアグリッパは、剣をスラリと抜いてバシャバシャと大股で迫り、アッという間に追い着いた。
  アグリッパは倒れ込むようにして、彼女を突き殺そうとした。ローマ全軍の剣術師範の突きである。
  水の中で、ブリジットのドレスが腰までめくれ上がった。アグリッパは、彼女の太腿に包帯が巻いてあるのを見た。その突きには全体重をかけていたにもかかわらず、剣のきっ先は彼女の乳房と乳房の間を蚊が刺したほど傷つけただけで、間一髪ピタリと止まった。「そうか…」  アグリッパは剣は構えたまま持ち直して、一歩退いた。「そういう訳だったのか。…おまえ閣下を振ったのか?」
  ブリジットはこくりとうなづいた。
  アグリッパはからからと笑った。
「よりによって、アンソニー閣下が振られるとは、前代未聞だ。こりゃ面白い、愉快だ!」
  ブリジットは油断なく起き上がって、身構えた。
「が、しかし、それならそれで、閣下の恥を喋らせる訳にはいかん!」
  笑ったことでやや迫力を失ったアグリッパの第二撃を、ブリジットはかろうじて身を引いてかわした。そして、川の中にザブリと身を踊らせて泳いで逃げた。
「ま、あの女は、軽軽しく喋るような女ではなかろう」  アグリッパはそう独り言を言って剣をチャリンという鍔音を残して収め、しばらく川の流れを眺めていた。「…それにしてもいい女だったな。閣下があんなに夢中になられたのは、クレオパトラ様以来だ。クレオパトラ様のように、絶世の美女という訳でもないのにな。竪琴の魔力であろうか、このわたしですら…」
  そこまで言うとアグリッパは、なぜか流れる涙を自ら恥じて、川の水で顔を洗った。
「上は閣下のような地位のあるお方から、下はキアンのようなその日暮らしの放浪の無国籍者でさえ、燃えるような恋をしている。わたしには、何が足りないのか…」

  ブリジットは傷だらけのうえ、びしょ濡れになって、キアンの待つ小屋へ帰った。幸いなことに彼の矢傷は思ったより浅くて、意識もはっきりとしていた。
「どうしたんだい?」
  キアンは、ブリジットが洗いきれなかった血の染みを見て、サッと顔色を変えた。
  だが、彼女が濡れた服を着替えようとして後ろを向いて裸になると、それは、自分でわざとつけた傷によるものであることが分かって、彼は驚いたことを恥じた。そしてこう言い直した。
「ぼくは幸せだ」
「あら、アンソニー閣下もそうおっしゃっておられたわ」  ブリジットは、キアンの包帯を替えながら言った。「あなたを狙った弓は、ほんの僅か急所をはずしてくれたのよ。…おそらくわざと」
「ぼくがバカだからだ。アンソニーと一緒になったほうが幸せになれるかも」  キアンはしみじみと言った。「強いし、格好いいし、権力はあるし…」
「あの方はいつか破滅する人よ。今夜それが分かったわ」  彼女はキアンの頬にそっとキスした。「彼があなたより優れている点は武芸の腕前でも、姿のよさでも、ましてその地位でもなく、そこなのよ、キアン…」
「分からないな…」
「分からなくていい。あなたには決して真似ができないことよ。それでいいの。そのほうがあなたも、そしてわたしも、幸せになれる…」
「そんなものかな…」
  キアンはブリジットのまぶたにキスを返した。

  数日たったある朝。
  それは嵐の前触れのような、どす黒い雲が垂れ込め、ピタリと閉ざされた窓から生暖かい風が漏れて吹く、不気味な日だった。
  その日はたまたま朝市の立つまわりだった。
  宿代を稼ごうと、響きのいい場所をとるため、夜明けまえの真っ暗なうちから竪琴を持って出かけたブリジットだったけれど、広場までいかないうちに突如起こった吹き降りの雨と風に会って、一張羅のフード付きの蝋引き木綿のコートをびしょ濡れにして帰ってきた。
  まだ完全に傷の癒えきっていないキアンはベッドですやすやと眠っているはずだった。「おはよう、キアン!」
  だが、いつも彼女を押しつぶすように大の字になって眠っている彼の姿はそこにはなく、愛用の弓と矢筒もなくなっていた。
『まさか、少しよくなったから、狩りにいったのかしら?』
  ブリジットは暖炉を起こしながら思った。
  風雨はますます激しくなる。こんな日に獣はいない。彼女と同じ気持ででかけたのなら、とっくの昔に帰ってきていい時間だった。
  しかしキアンは一向に帰ってこない。
(まさか!)
  そう思ったブリジットは、生がわきのコートを再び羽織って、雨の中へと走り出した。(まさか!  まさか!)
  彼女が目指したのは、オルレアンの町はずれにある、ローマ軍の駐屯地だった。人々の噂だと、地方視察の名目でこのオルレアンにしばらく遊んでいたアンソニー将軍が、近くローマに召還される、とのことだった。
  せっかく若芽を萌え出したばかりの木の枝が、この嵐で何本もぬかるみの中に倒れていた。そのぬかるみの中に、もうだれのものかとも分からなくなった一組の足跡が、駐屯地のほうに向かって点点と続いていた。
  そのあとを追っているうちに、ブリジットは倒れた木の枝に、小鳥が巣を作っていて、雛がかえっているのを見つけた。思わず立ち止まった彼女は、巣ごと拾うと、そのまま懐の中に入れ、また走り出した。
  そして、やっとのことで駐屯地の入口にたどりついた彼女の目に飛び込んできたものは、砦の守備要員数百名に向かって、たった一人矢を構えているキアンの姿だった。
「アンソニーを出せ!  ぼくはあいつにもう一度試合を申し込むんだ」
  病み上がりの青白い顔に伸びた髪の毛を振り乱してキアンは叫んでいた。
「閣下の一行はもうじき出立だ。残念だが、きさまの試合を受けている時間はない」
  副官のアグリッパは新品の真紅のマントで雨をしのぎながら、威厳をもって言った。
「逃げるのか!」
  キアンは走り寄った。
  守備隊の兵士たちが槍を揃えて彼に襲いかかろうとする。それをアグリッパが制する。「そこまで言うのなら、このアンソニー、受けて立つ!」
  兵士たちの奥から涼しい声が響いて、兵士たちの列が割れ、アンソニーが現れた。
  キアンは色めきたった。
「アンソニー!  ぼくは、ブリジットの名誉を傷つけたおまえを殺す!」
「さて、それはどうかな」  アンソニーは今度もマントをアグリッパに預けて、何の変哲もないただの弓と矢を手に取った。「万万一オレが不覚を取っても、ヤツに手出ししてはならんぞ。これは果たし合いだ」
  兵士たちの列が遠巻きに退いた。
「閣下、ご酔狂が過ぎます」
  アグリッパは珍しく大声で諌めた。
「キアン!  キアン!  やめてッ!」
  ブリジットはまっしぐらに駆け寄って、キアンにすがりついた。
「離せブリジット!  ぼくはヤツを殺して、キミの名誉を…」
「わたしの名誉なんか…」
  キアンは泣いて止める彼女をはじき飛ばして弓をいっぱいに引き絞った。
  ブリジットは雛たちをかばうように、泥の中に倒れた。
  アンソニーは例によって、矢場の景品に向かう酔客のように、ひょいと弓矢を構えた。
  近くの立ち木に、閃光とともに大きな雷が落ち、木は裂けるように割れた。
  兵士たちが逃げ散る。しかし二人はお互いをジッと見つめたまま、微動だにしなかった。「キアン、わたしはあなたと小さい家を建てて住みたいの!  あなたの子供を生みたいの!」
  泥の中に倒れたまま、ブリジットは叫んだ。
  風と雨はますます激しくなり、たとえどんな名人でも、弓矢をまっすぐに射ることは至難と思われた。
「きさまは男の風上にも置けん!」  アンソニーはそう言って、弦もちぎれよとばかりに弓を一杯まで引き絞った。「きさまがまた負けたら、ブリジットはすぐにきさまのあとを追うということがわからないのか!」
  雨音にかき消されないように、アンソニーは大音上に叫んだ。
「そう言うあなたの妻と恋人、オクタビアとクレオパトラはあなたのあとを追うかな?」
  キアンはそう言い返して、不敵に微笑んだ。「もちろん」  アンソニーは目を半眼に閉じ、女たちのことに思いを馳せた。「もちろんだとも! 後を追ってくれるはずだ!」
「それなら、立場は同じだ!」
  両者の矢が、雨中に鋭い弓鳴りを残して弦を離れた。
  それらはお互いに、白光りする稲妻の一筋のように、嵐のなか  まっしぐらに相手を目指した。
  次の瞬間、二本の矢は、ちょうど二人のまん中で衝突した。双方の矢尻は粉々に砕け、矢骨は落ちた。
  兵士たちのうちから「おーッ!」  というため息とも、なんともつかない声が上がった。「キアン、オレは悲しき宮仕えの身。決着を付けたいのは山々だが、諸般に迷惑がかかる刻限ゆえ出立する」
  アンソニーは弓を収めた。
「…………」
  キアンは何も答えなかった。
「キアン!」
  ブリジットが駆け寄って彼を抱きしめた。「完敗だ…」  キアンは彼女にぽつりとつぶやいた。「アンソニーは最初から、ぼくの矢尻を狙っていた…」

  嵐がやんで、雲のあいだから太陽が顔をのぞかせた。
  キアンは木に登って、ブリジットが拾ってきた小鳥の巣をもとに戻した。するとさっそく親鳥が戻ってきて、わが子の無事を確かめていた。
「今度こそ、キミはぼくを嫌いになっただろう?」
  草原の上に寝転んで、その光景を見上げながら、キアンは言った。
  キアンの脇に座ったブリジットは、ゆっくりと首を横に振った。
「わたしもオクタビア姫や、クレオパトラ女王の横に並んだら、あなたにどう写るか、とても…」
「バカだな…」
  キアンは笑いながら、隠し持っていた花の首飾りを取り出して、彼女の首にかけた。
  彼女の頬は心もち赤らんで、皇帝から贈り物を受ける后妃などよりもずっと、気持が弾んでくるのを隠せないでいた。



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