ブライディー・ザ・マジックメイド 「女神たちの森」


「デイジー、本当に一人でも大丈夫?」
 地味な紺色のツイードのドレスに身を包み、流行遅れの赤いリボンの帽子をちょこんと頭に乗せたブライディーは、デイジーと御者が大小いくつもの旅行鞄を馬車の屋根に次々と乗せていくのをかわるがわる眺めながら言った。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。何がどこにしまってあるかはだいたい覚えたし、当分大勢のお客様が集まるような会はないし。…お姉ちゃんのほうこそ気を付けて。ドイル様をしっかりご案内して差し上げてね」 デイジーは旅行の予定表と地図を眺めて微笑んだ。「…いいなぁ、アイルランド。あたしも一度行きたいなぁ」
「行けるわよ。すぐ隣の島じゃない」
 灰色のフラノの背広姿のドイルは、自分が直接手に持つ写真器材の入った鞄を点検し直していた。
「ドイル君、その最新式の写真機は、いままでのものと違って、手で持てるくらい小さいし、明るい日の光のもとならほんの数秒で写すことができるものだ。ぜひ頑張って本物の妖精の写真を写してきてくれたまえよ」
 ドッジソン教授はレンズの点検を手伝いながら言った。
「それでは、ドイル君とブライディーの旅の無事を祈って…」
 クルックス英国心霊協会副会長が、フラスク(携帯用のウイスキーの小瓶)を傾ける。
「やれやれ、皆さんえらく大層ですな。わたしが何度かスマトラ・ボルネオの探検に赴いた時も、こんなに派手に見送ってはいただけませんでしたぞ」
 ウォーレス博士は苦笑する。
「それでは皆さん、行って参ります。もし何か急用が生じたら、旅程表にある主な宿に電報を打ってください」
 ブライディーが馬車の扉を開け、ドイルはひらりと乗り込んだ。彼女も皆に深々と一礼してから続いた。

 汽車はロンドンからリヴァプールへ、リヴァプールからは汽船でダブリンへ…
 海峡を渡る潮風に髪をなびかせ、きらめき光る陽光を浴びながら甲板にたたずむブライディーの心境は複雑だった。
 初めての里帰りとは言っても、戻ったところで故郷にあるのは徴税吏に焼かれた廃屋ばかりの集落があるだけだ。けれど、船客たちの話す言葉の中にゲール語や、アイルランド訛りを聞くに連れて、懐かしさがこみ上げてきて、いつしかエールの島影が見えると、胸に熱いものがこみ上げてきた。
「やぁ、一枚いいかな」
 ドイルが早速、甲板の上で写真機と三脚を組み立ててみながら言った。
「ドイル様。わたくしなど写されては、乾板の無駄遣いでしてよ。大切にされないと、肝腎な時に無くなりますよ」
「なぁに、もしもそうなってしまったら、君の正体は妖精だった、ということにでもしておくさ。さぁ、『ウイスキー』と言ってごらん」
 彼女は緑の島から飛んできて船の上に羽根を休めたひとひらの妖精のように笑った。
「いい笑顔だよ」
「夜逃げ同然でイギリスに来たときは、船倉にぎゅうぎゅう詰めに詰め込まれていた上に、お腹もすかしておりました。それがいまではこのように扱って頂き、食べるものに不自由することもなく、その上にドイル様や皆様にやさしくして頂いて、わたくしはこの狭い海を渡って本当に良かったと思っております」
「でも本当はアメリカに行きたかったんだろう?」
「ええ。ロンドンで働いて、船賃を貯めるつもりでおりました」
「いまでも自由の女神を見てみたいと思っているかい?」
 ブライディーはほんの少し考えた。
「いえ、いまは特に… でもいつか一度は…」
「なぜだい? いまよりももっといい生活がしたいから?」
「アメリカには世襲の貴族というものがいなくて、女性の参政権のある州もある、と聞いております」

 ダブリンは工場の煙突が見あたらなくて、カモメが飛び交う空気のいい静かな港町だった。
 当夜の宿に向かう途中、ブライディーは小さな教会の前に立っている子供たちの帽子の中に小銭を入れた。
「献金かい?」
「ええ。大きな教会を建てるための。アイルランドで目につく立派な教会は、すべて英国国教会の教会です。ダブリンの枢機卿台下も、シスター・セアラも、故郷に帰られたときは小さな教会で御弥撒を上げられます。当然地元の信者でも全員なかには入れません。…でも、いくら献金しても、困っている人々を救うために使われるので、いつまでも建たないんです」
 彼女は瞳を伏せて言った。

「…あれがダブリン城、大英帝国総督府です。…あちらが帝国国立の三位一体大学。成績抜群の国教会教徒の坊ちゃんがたでないと入学できません」
 翌朝、ブライディーは馬車の窓からダブリンの町を案内して回った。随所にあるパブや、賑やかな市場はロンドンのそれと変わりはなさそうだった。
「…ホワイトチャペルのような、辻姫がたむろし、曖昧宿が林立している小路は宗教上の理由でございません」
「有難う。だいたい分かったよ。…ところで妖精に関する情報はどこで仕入れたらいいだろう」 ドイルははやる気持ちを抑えきれない様子だった。「やはり、ロンドンの白詰草亭のようなパブだろうか。それとも大学の図書館だろうか?」
「繰り返して申し訳ありませんが、妖精を見た人がそのことをたとえ家族といえども他の者に話しますと良くないことが起こり、黙っていると良いことが起きると言われております。酒場の話はあてにはなりませんし、図書館で読むことができるような書物は、ドイル様ならすでに手だてを尽くしてお読みになられていることと存じます」
「ではどうすれば?」
「わたくしに考えがございます」
 ブライディーは馬車の窓から身を乗り出して行き先を御者に指示した。御者は手綱を引きながら聞き返した。
「ええ、そこでいいからやってください。チップを弾みますから」
 二人を乗せた馬車は、町でも特に貧しい人々が住んでいる地区に向かった。
「軒付けはよくないので、少し手前から歩きましょう」
 ところが降りて歩いても、二人の身なりが格段によいので、視線を集めてしまうことに変わりはなかった。しばらく進むと、手に手に鍋や皿、スプーンなどを持った老若男女、子供達の長蛇の列に行き当たった。
「炊き出しを求める列です」
 列を追い越すと、今度は荷馬車や担架の上に病人やけが人を乗せてきた人々の列に出会った。
「お医者さまにかかるお金のないかたがたの列です」
 その先には小さくて粗末な教会があり、さらにその先には死を待つだけの人々のための建物があった。
「ブライディー、お帰り!」
 まるで地霊のような、顔も手も皺だらけの修道女が小走りに走ってやって来た。
「シスター、お懐かしゅうございます」
 ブライディーは、すっかり腰が曲がって自分の肩ぐらいまでの背丈の修道尼と抱き合った。
「手紙はちゃんと届いています。元気で働いているそうですね。もうお腹をすかせることもない、と…」
「手紙にも認めました通り、お陰様でいまはロンドンの、こちら、ドイル様のところでメイドをさせて頂いております。ドイル様は妖精など、アイルランドの風土や文化に興味を持たれています」
 ドイルは帽子を取って会釈した。
「ブライディーがお世話になり、有難うございます」 シスターはドイルの手を握りしめて言った。「…ならば、あれをお見せしても良いでしょう」
 シスターは懐から小さな真鍮の鍵を取りだしてブライディーに渡した。彼女はそれで祈祷書をしまってある本箱の扉を開けて、中から何冊かののボロボロになった手書きのノートを取り出した。
 それらは不思議なノートだった。筆者がまちまちなのか、筆跡もまちまち、筆記用具もインクもあれば最近のは鉛筆で書かれたものもあり、インクの場合は色も種類も種類もばらばらだった。
 長い文章もあれば、ほんの二、三行のもあり、中には判読不能なくらいの走り書きのものもあった。それぞれの記述の冒頭には、人の名前と、年月日が記されていて、古いものは数百年以上以前のものもあった。
「…この貧救院でなくなられたかたがたのうち、お身内はもちろん、友と呼べる者さえ一人もなく、修道士や修道尼が最期を看取った
人たちのいまわの際の言の葉を書き留めたものです。手紙をもらっていたので、あらかじめ妖精に関する記述のところだけに付箋をはさんでおきました」
 シスターはそう言って、最初の付箋をはさんだページを開いた。日付は二百年以上前の、インクも錆び付いて茶色になってにかすれたもの。イングランドのクロムウェルが大軍勢を率い海を渡ってきて虐殺を繰り返していた頃に行き倒れ同然に亡くなった、とある吟遊詩人の、死の直前の言葉だった。
「…蝶のように小さく、薄い羽根を持って飛び回るものだけが妖精ではない。あなたに親切にしてくれた名も知らぬ行きずりの人、優しい言葉をかけてくれたいちげんの通りがかりの人がいれば、それが妖精だ。彼らは日が暮れても、屋根と壁のある家には帰らない。彼らが帰るのは花の影か、深い森の木のうろの中だ。だが、どうしても妖精に会いたければ『女神たちの森』を訪ねるといいだろう…」

 ブライディーは古色蒼然としたノートの、次の付箋の付いたページを次々と紐解いた。
「女神たちの森で…」「女神たちの森に…」「女神たちの森は…」
 いろんな時代の吟遊詩人や画家たちが、亡くなる直前にその場所の名を繰り返していた。
 しかし、そこが一体どこにあるか、はっきりとは示された記述は一つとしてなかった。
「変だな…」 ドイルはぽつりとつぶやいた。「妖精を見た者は幸せになれる、というのに、この『女神たちの森』で見た者たちは、みんな行き倒れた末に貧救院で最期を迎えているみたいじゃないか」
「彼らの多くが吟遊詩人か絵描きさんです。思うに、どうしても黙っていることができない。人に歌って語らずにはいられない、または絵に描かずにはいられないような、それはそれは余りにも素晴らしい体験だったのではないでしょうか」 ノートを閉じ、元のところに戻したブライディーはまっすぐにドイルを見つめた。「…ドイル様、あなた様はそれでも妖精を目撃し、なおかつ写真におさめて、心霊研究協会で発表されたいですか?」
「まあまあ、ブライディー、ご主人さまに向かってそんな口のききかたをするものじゃあありませんよ」
 年老いたシスターが穏やかにたしなめた。
「もしも一度でも本物の妖精を見ることが出来たなら、ぼくは大きな声で仲間や友人に自慢する。それがもとで野垂れ死にすることになっても後悔はしない」 彼はきっぱりと言い切った。「そのようなことを恐れているようでは、はなから心霊学の研究などできはしない。たとえば、同じ心霊研究協会のマイヤーズ氏、ビュート侯爵、フリアー女史らが研究し、スコットランドにフィールドワークにも出かけている『セカンドサイト』…近い将来溺れて亡くなる運命にある人は、服に鱗や海蛍が付いて見えるという超能力… ぼくに言わせれば、そちらのほうがよほど恐ろしい。『さぁ占うぞ』と念じてから占うのと違って、他人の運命が否応なしに眼に飛び込んでくるなんて、普通の人間にはとても耐えられないと思うからだ」
 長い間があった。
「…分かりました。占ってみましょう」 ブライディーは静かに言った。「『女神たちの森』が何処にあるのか、を。それもまた、人の生死に深く関わりのあることでございましょうから」

 とは言ったものの、ブライディーの心は千々に乱れていた。宿の自分の小さな寝台だけの部屋に帰って、ダブリンの蚤の市で気に入って買ったケルト神話の神々を描いた古い木版刷りのタロットカードを前にしても、気持ちを静めることはできなかった。
(「女神たちの森」が何処にあるのか、占うのはたやすい。けれど、もしそれが当たってドイル様が妖精と出会われ、写真に撮られて心霊学会に発表されれば、貧救院の遺言録にあった芸術家たちと運命を共にすることになりかねないわ。嘘をついて出鱈目な場所をお教えすれば、妖精に出会うことはできなくても、ドイル様はきっと想像をたくましくして筆を振るわれ、作家としてさらなる栄誉と成功を手にされるに違いない… 本当にドイル様のことを大切に思っているのなら、わたしの良心が痛むだけで、ドイル様が傷つかない道を選ぶべきよ)
 彼女はアイルランドの地図を壁に画鋲で留め、ゲーム室から拝借してきてあった一本のダーツの矢を取って、目をつむって投げた。
 恐る恐る目を開けると、矢は見事に島のちょうど真ん中あたりに刺さっていた。
(ロスコモン…キー湖やガラ湖などの美しい湖と、緑豊かなロッキンガムの森や林が点在し、川カマスが跳ねるボイル川が流れ、昔からの修道院や荘園があるところ。よし、ここならいかにも「女神たちの森」といった感じがするわ)
 ブライディーはカードを丁寧に箱にしまうと、寝間着に着替えて窓から夜空を見上げた。
ロンドンではとても見ることが出来ない、満天の星々がひしめきあって輝き、流れ星が流れる。
(これでいいのよ、これで…)
 彼女はふと、念のため、本当の「女神たちの森」が何処にあるのか、自らの力を使って占ってみたい衝動に駆られた。
(だめよ。だめ。真実の結果を知ったなら、わたしは必ずそちらのほうをドイル様にお教えしてしまう…)
 隣の家具調度付きの部屋では、ドイルが明日からの冒険を夢見て、寝息をたてていた。

「ドイル様、『ウイスキー』とおっしゃってください」
 渦巻状の文様が刻まれた巨人のテーブルのような支石柱(ドルメン)の前にステッキをついて澄まし顔で立ったドイルに向かって、三脚で支えた写真機の暗幕から出てきたブライディーは、レンズの蓋に手をかけて言った。
「…いいですか、写しますよ」
「なかなか堂に入ってるじゃないか。女流写真家にだってなれそうだぞ」
 彼は、彼女が三つ数えて再びレンズに蓋をすると、ポーズを崩して笑った。
 町から村へ、村から町へ、休憩や昼食のたびに馬車を乗り継ぎ、二人がロスコモンに到着したのは、その日の夕方近くだった。薄明かりに浮かぶ深い森と林、散らばる小さな湖、そこに浮かぶ浮島。あたり一面に爽やかな花々の香りが漂っている。
 時おり車窓から見える石造りのケルト十字架や、立石柱(メンヒル)、目を凝らしてゆっくりと見ないと通り過ぎてしまう街道沿いの名もない石の塚の数々に、ドイルは興奮を抑えきれない様子だった。
「おい、御者君、もう少しゆっくりと走ってくれないか」
「ドイル様、これ以上ゆっくり走っていては日が暮れてしまいますよ。森の中の草葉の陰には、いまではほとんど誰の目に触れることのない数奇な物語を秘めた塚が数え切れないほどにございますので…」
 やがて、道の先にぽつぽつと、荘園屋敷や小作人、使用人たちの家、石造りの修道院の塔が見えてきた。
 リスたちが遊ぶ梢や色とりどりの花畑が幻灯のように次から次へと飛び去る。
「あっ、あれは…」 ドイルは、とある名もない小さな白い花の群落の上に、無数に舞っているものを指さして叫んだ。「妖精じゃないか?」
「ドイル様、いくら何でもそう簡単に出会えたら、誰も苦労しませんよ。あれは蝶の群れです」
「御者君、馬車を止めてくれ。ぼくはここから歩く」
「旦那、いいんですかい? まだちょっとありますぜ」
「なんの。村はもうすぐそこに見えているじゃあないか。道も一本道で間違えようがない。
まだ日没までに間もあるし、荷物だけを先に届けておいてくれ」
 馬車が止まりきるのも待たずに飛び降りたドイルは、先ほどの花畑があった場所を探して走り始めた。
「ドイル様、お待ちください」
 ブライディーも続いて飛び降りてスカートの裾を持ち上げて後を追った。
「おかしいなぁ。確かにいたはずなんだが」
 花畑の真ん中に立って辺りを見渡しながら、ドイルは少し肩を落とした。
「明日また来てみましょう。雲の動きが気になります。今夜は雨のようです。早く道まで戻りましょう」
 黄金色の黄昏の空を少しずつ覆い始めている暗雲を見渡して、ブライディーはつぶやいた。
「あ、あそこに!」
 ドイルが再び指さした方向の花畑には、確かにひらひらと舞うはかなげなものたちが群れ飛んでいた。
 だが、二人がそこにやって来ると、そのものたちはまるで彼らをからかっているように、またさらに先の花畑に羽ばたいて飛び移るのだった。
「ドイル様、このままでは道がどこだったか分からなくなってしまいます」
「何を言う、太陽は西に沈もうとしている。ぼくらは東から来た。日が沈む方向と反対に戻れば、道まで戻れるさ」
 夕暮れの空に薄墨を流したように闇が広がり始め、湿り気を含んだ風が吹き荒れ始めた。「ドイル様、雨具も、ランプも地図も方位磁石もみんな馬車の荷物の中です。おまけにわたしたちはよそ者、このあたりの土地鑑がございません」
 ブライディーは両手を口元で組みながら言った。
「そんなに心配だったら先に宿に行っていてくれ。ぼくは必ず『あれ』の正体を突き止めてやるぞ」
「ドイル様…」
 立ちつくす彼女を横目に、ドイルはどんどん森の中に分け入っていく。と、ブライディーの頬に、ポツリと一滴冷たい雨粒がかかった。
 空は一天にわかにかき曇って、青白い稲妻が走り、雷鳴が轟いて、さすがにドイルもハッと我に返った。
「しまった。ぼくとしたことが!」
 そう思った時にはもう遅かった。
 落雷が近くの立木を真っ二つに裂き、ごうごうと滝のような雨が降り出し始めた。

 二人はたちまちずぶ濡れになった。帽子も台無しだ。風雨は視界を遮り、一寸先も見えなくなった。空気もどんどんと冷え込んで、二人はガタガタと震え始めた。
「ドイル様、こんな時、ホームズだったらどうするのでしょうか」
「情けない声を出すな。とりあえず大きな木の下は危ない」
 とは言うものの、巨木の根本以外に雨宿りするような場所はない。また近くの木に雷が落ちた。
「ぼくらが宿に着いていないことを案じた村の人々が捜索に来てくれればいいのだが…」
「生憎ですが、それはあり得ないと思います」
「なぜだ?」
「このあたりの森は、『自尽の名所』なのです… とは申しましてもカトリックでは自ら命を絶つことは禁じられておりますので、たとえば、この世では添い遂げられない身分違いの男女などが深い樹海に分け入って…」
 ブライディーの声がだんだんとか細くなる。
「何だって、もしかするとぼくらもそんなふうに思われているかも知れない、って訳かね?」
「もしかしなくても思われております。遠くからふらりとやって来て、行方不明になった人は、探さないのが不文律になっています」
「何ということだ…」 ドイル一瞬は呆然として立ちつくしたものの、すぐにニヤリと笑った。
「なんの、慌て怯えることなどさらさらない。ブライディー、きみがいるじゃあないか。カードの持ち合わせがないとはいえ、きみが誠心で占えば、一番近い村や民家への方向を当てるのはたやすいだろう」
「えっ」
 仰天したものの、もはやそうするより方法はないようだった。
 沛然と降り続ける雨の中、背筋を伸ばして立った彼女は、じゅうぶんに心を落ち着けてから、かぶっていた赤いリボンの帽子を手に取り、頭上高く投げ上げた。帽子は風にあおられ、きりもみして、とある倒れた小さな塚の上に落ちた。
「よし、こちらだな」
 ドイルは帽子を拾って彼女にかぶせてやりながら、先に立って歩き出した。すると、ほどなく闇の帳の中にぽつんと一つ、黄色く光る灯火が見えた。
「やったぞ。ぼくたちが目指していた村ではないようだが、訳を話して入れてもらおう」
 二人の足取りが軽く、速くなった。
 その家に辿り着いた二人は、朽ちかけた木戸をドンドンと叩いた。
「すいません。道に迷った者です」
「ボイル村に行く途中で嵐に遭ってしまったんです」
 古ぼけた閂を開ける音がして、木戸がほんの少し開いた。
 はぜの木の木蝋の灯りに照らし出された姿を見て、彼らは息を呑んだ。年の頃はブライディーより三つ四つ上…二十歳前くらいだろうか、童顔に銀色の長い髪の、向う側が透けて見えるような、人間離れした美女だった。「それはそれは、さぞかしお困りでしょう。どうぞ中へお入りください。わたしくしはグエンドリン。お察しの通り、人ではございません」

 ドイルとブライディーはぴったりと身にあった着替えを貸してもらい、質素だがあかあかと暖炉が燃えさかる食堂で暖かいシチューと蜂蜜酒の食事を供された。
「…そうですか。妖精を求めてこの地においでになった…」 グエンドリンは微笑みながら言った。「…でしたら、わたくしの真の姿をお見せして差し上げればよいのでしょうけれど、掟によりそれはできません。その代わり、ドイル様には本をお見せしましょう」 彼女は漆喰の壁に備えられた巻物をぎっしりと入れた棚を指した。「…文字も言葉も分かるかたはいらっしゃらないでしょう。でも、挿絵だけでも楽しんで頂ければ…」
「大変だったところを助けて頂き、おまけにこのように親切にもてなして頂き、本当に感謝の言葉もありません」
 ドイルは深々と頭を下げた。
「明日の朝、太陽が昇ったら、道をお教えしますので、ただちにお発ちください。…わたくしは先に失礼して休みます。お二人もきりがつかれたら、火の用心をしてお休みください」
 グエンドリンはそう言って、消え入るように辞した。ドイルは書架から巻物を取りだして、次から次へと広げて食い入るように眺めている。ブライディーにもそこに書かれている文字が、どこの世界の文字でどのような意味があるのかさっぱり分からなかったものの、ウォーターフォード男爵のお屋敷の書庫で、ちらっと見かけたことがあったものに似ている気がした。
「ブライディー、きみも先に休みたまえ。ぼくは今晩じゅうに、この巻物の数々の挿絵だけでも脳裏に焼き付けておくことにする」
「ドイル様、雨に打たれた上、根を詰められては、お身体に触ります」
 そんな忠告が耳に入るドイルではなかった。 ブライディーは、久しぶりに太陽の匂いがする藁の寝台に横になり、たっぷりと干し草をかぶると、すぐに深い眠りに落ちた。

 それは、夢の中の出来事だったのかもしれなかった…
 ほかほかする干し草をからませながら寝返りを打とうとすると、誰か、とてもいい匂いのする柔らかな身体に触った。
「だれ?」
 ブライディーはびっくりして一瞬身をすくめた。
「わたくしです。グエンドリンです。久しぶりに妹のようなお客様がこられたので…」
 正直、それを聞いてホッとした。貧救院のシラミのわいた饐えた臭いのするベッドで眠っていた時でも、気がついたら仲の良い女友達や、ちっちゃな子たちがすぐ隣に潜り込んでいたことがよくあった。病気になった時はシスター・セアラ様が添い寝をしてくれたこともあった。
 ただ、グエンドリンは、寝間着も何も着ていない様子だった。
(たぶん、習慣なのでしょう)
 彼女がそう思って、横を向いて再び眠ろうとした時、向き合ったグエンドリンの白魚のような細い繊細な指が、自慢の短く刈った赤毛をそっと撫でた。
「きれいな髪…」
 妖精は彼女の耳たぶに息を吹きかけながら囁いた。
「きれいな胸…」
 寝間着越しに胸元に触れてきた。
「何をなさるんですか。やめて下さい」
「シッ、静かに。あなたの大切なドイル様が徹夜でご研究の最中ですよ。あの巻物は、いつもなら人間には決してお見せしないものなのです」
「そんな大切なものを… 有難うございます」
「いま、ここぞと思われた箇所を写本されていますが、写して人の世界に持って帰られたところで読める者はだれ一人としていないでしょう」
「そうですか…」
 グエンドリンは彼女の両の胸元を繰り返し優しく撫で。だっこをした貧救院のちっちゃな子たちに触られたことは何度もあったし、それをたしなめたことはなかったけれど…
「こんなことを急に言っても困られることは承知の上で申し上げますが…」
 妖精は顔を近づけて、いきなり彼女の唇を奪った。外で咲き乱れている花々の香りなのか、それとも目の前にいる人ならぬものの香りなのか甘い快感に、あらがうことはできなかった。
「ブライディーさん、あなた、わたくしと同じ妖精になる気持ちはありませんか?」
 グエンドリンは、彼女の胸の小さな蕾に、そっと舌の先でなめ回した。
「『妖精になる』?」
 頭はすっかりぼんやりとしてしまっていた。そのあいだに、相手は彼女の寝間着のボタンをすべてはだけて、ゆっくりと覆いかぶさってきた。不思議なことに、重さをまるで感じない…
「きれいな身体…」 グエンドリンは自らの身体をずらせて、彼女の太股に頬をそっとつけた。銀色のさらさらの髪の毛が肌のあちこちに散らばってこそばゆい。「…しかし人間は、いかに栄華を極め、財を蓄えても、いつか必ず年老いて醜くなり、病を得て、死んでいきます。妖精になれば、いつまでも美しい姿でいられる上に、病にかかることもなく、永遠の命を得ることができます」
「でも、妖精になったら、人間の親族身内や、親しいかたがたと別れなければならないのでは…」
 ブライディーは熱に浮かされたように頬を染め、息を荒げながら言った。
「そう。しかし人間であり続けても、愛する人々との別れは、いつか必ずやってきます」
 グエンドリンは彼女の淡い森に接吻をした。
「アッ!」
 彼女は悲鳴を上げそうになった。
「お静かに。ドイル様の邪魔をしてもよいのですか?」
「困ります。とてもすぐにご返事ができるようなことでは…」
「こんな素晴らしいことなのに、どうして迷い考えなければならないのでしょう?」
 相手は彼女の蜜を吸い尽くた。
「やめて、ください…」
 ブライディーは干し草を口に含んで固く噛み、涙を流した。
(ドイル様、お助けください)
 そう叫ぼうとしたものの、彼が一心不乱に巻物に没頭している姿が浮かんで、声を出すことができなかった。
「わたしの言の葉は、あなたを不幸せにするように聞こえますか?」
「もう、堪忍してください…」
 妖精は、彼女の花畑を飛び回ってさんざんに荒した。
「これだけ申し上げてもだめですか?」
「ごめんなさい…」
 曙光が森の東の端を淡く染める頃、夢はようやく終わった。

「ブライディー、どうしたんだい? 少し顔色が悪いぞ」
 自身も目を赤く腫らし、無精ひげが伸び始めたドイルが尋ねた。
「いえ、何でもございません」
「きのうはぼくが無茶をしたからなぁ。悪かった。謝るよ。だが、怪我の功名と言うか、ここにお邪魔できて良かったよ。文章は読めなくても、挿絵だけでも非常に興味をそそるものばかりだ。魔法陣などは初めて見るものばかりだし。…どうだろう、きみさえ良ければ、あと何日か滞在させてもらえるようにグエンドリンさんにお願いしてみたいのだが」
 彼女は胃の辺りがキリキリと痛むのを感じた。
「ドイル様、実は…」
 言いかけた時、上品な花の香りを漂わせながらグエンドリンが入ってきた。
「もちろんよろしゅうございましてよ、ドイル様。どうか全部ご覧になるまでゆっくりといらっしゃってください」
「そうですか。厚かましくて恐縮です」
 ドイルは、ブライディーがいままで見たことがないくらいに顔をほころばせた。
「そちらのメイドのかた、何か不自由なことがあったら遠慮無く言ってくださいね」
 妖精は何食わぬ笑顔を向けた。
「ドイル様に剃刀と石鹸をお願いします」
「生憎ここには刃物はないのですよ。料理などもすべて魔法で作っています」
「ブライディー、気を遣ってもらわなくていいよ。ここはロンドンじゃないんだから、ひげくらい伸びたってどうということはない」
「ほかに何かございませんか。朝食はベーコンと目玉焼き、じゃがいもと紅茶でよろしいでしょうか?」
「じゅうぶんですよ。あとはぼくのパイプ煙草が乾けば…」
「魔法で新しいのをお出しましょう。トルコですか、ヴァージニアですか?」
「あの…」 ブライディーは上目遣いに妖精の瞳をキッと睨んで言った。「水浴びをしてきたいんですけれど、よろしいですか?」
「どうぞ、どうぞ。ここへんには蛇や毒虫などもいません。新品の櫛を差し上げましょう。手鏡は要りませんね?」
 嵐は夜のあいだに収まって、木々の緑や草花に雨粒の残りが輝く朝を迎えていた。
 ブライディーが表へ出てほんの少し歩くと、目の前に柔らかい芝の岸辺と木々に囲まれ、朝霧が立ちこめた美しい小さな湖が現れた。
 彼女はドレスや肌着を手早く脱いで、丁寧に木立に掛けた。両腕で胸元を覆って、足先からそっと水面に分け入ると、水はぬるく、心地よかった。
 身体を丁寧に洗って、小鳥のさえずりや梢のさざめきを聞いているうちに、抜き手を切って少し泳いでみたり、潜ってみたり、静かになった水面に顔を写してみたりした。
 と、その顔が急に自分のではない、別の可愛い少女のものに変わった。
「キャッ!」
 驚いてたじろぐと、その子は人魚のようにバシャッと飛び跳ねて彼女の前に立ちはだかった。
「あなた、新入りだね」
「新入り、って?」
「あなたもグエンドリン様に妖精にしてもらったのでしょう?」
「いいえ、勧められたけれど、お断りしたわ」
「えっ」
「そんな」
「もったいない」
「信じられない」
 湖のあちこちから少女たちの声がこだました。
 見渡すと、靄に閉ざされた岩陰に、小さな浮島の陰に、岸辺の木立の陰に、沐浴をしている同じ年頃の少女たちがいっぱいいた。
「あなたたちは?」
「だから、妖精よ。もう何百年も、毎日こうやって楽しく暮らしている…」
「妖精って、羽根も生えてないし、わたしには普通の人間の女の子に見えるけれど…」
「元はそうだったの」
「ご両親やお友達が心配しているでしょう?」
「神隠しにあった、と思っていたわ。でも…いまはもうみんな死んじゃった」
「ねぇ、誰か知っていたら教えて。わたし…いや、わたしたち、ここから逃げたいの」
 ブライディーは近寄ってきた少女たちの瞳を見つめた。
「無理よ。グエンドリン様は一度気に入られた子は絶対にお手離しにはならないわ」
「でも、木の小枝を折りながら、どちらかの方向へまっすぐに歩いて行けば…」
「やってみたら?」
 少女たちはキャーキャーと笑いながら四方に逃げ散った。そのうちの一人が木に架けてあったブライディーのドレスと肌着を持ち去った。
「ちょっと、返して!」
「返さない。そんなこと、考えるひとには返してあげない…」
 こだまはだんだんと遠ざかった。

「メイドさん、メイドさん、あなたはこれから皺くちゃのお婆さんになるまで、毎日毎日何枚のお皿を洗うの?」
「メイドさん、メイドさん、あなたはこれから腰の曲がったお婆さんになるまで、来る日も来る日も何枚の洗濯ものをするの?」
「メイドさんメイドさん、あなたはこれから死ぬまで、明日もあさっても掃除をし続けるの?」
 少女たちは散り散りになって逃げながら囃したてた。
(さすがにもう怒ったわ。…わたしの服はどこ?)
 ブライディーは小枝を手折ると、青空に向かって投げ上げ念じた。小枝はある方向を指して道の上に落ちた。小走りに走りながら、きょろきょろと探すと、見つけにくい木陰に服が掛けてあった。ホッと肩を撫で下ろして着ていると、色とりどりの服を着た少女たちがそこここの茂みから恐る恐る顔を覗かせた。
「凄い。どこにあるのか占えるんだ」
「たぶん、だれがどこにいるかも分かったりして…」
「道に迷っても大丈夫なんだ」
「ということは、この森から逃げ出すことだってできるんだ…」
「ふふふ…」 彼女は珍しく不敵に微笑んで見せた。「どう? 参ったでしょう」
「でも、そんな凄い力がありながら、どうしてあなたはメイドなんかやっているの?」
 少女たちは一人、また一人、おずおずと近づいてきて、木の切り株や苔の上に腰を下ろした。
「占い師になったら、お金儲けができるのに…」
「お金が儲かったら、メイドを雇えるのに」
「ロンドンじゃあ、やろうと思えばいつでもできることはやらないのが粋なのよ」
 いつしかブライディーの回りを囲むように座った少女たちは、口をぽかんと開けて彼女を眺めていた。
「…あなたたち、こんなところで毎日遊んで暮らしていないで、ドイル様やわたしと一緒に逃げましょう」
「だめよ」
「あたしたちはグエンドリン様の力で生かされているの」
「だから、グエンドリン様の力が及ばないところに離れると、本来の時間が戻って、塵にかえってしまうの」
 ブライディーは思わず近くの木にもたれた。。
「そうなの。…すると、仮にグエンドリン様を倒しても、あなたたちは…」
「そう。みんな消え去ってしまうわ」
「だれを倒す、ですって?」 突然グエンドリンの声が響くと、少女たちはまた一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。「少しくらい占いができるからと言って、いい気にならないほうが良いですわよ、ブライディーさん。…それにしてもあの子たち、ここに長く暮らしていながら『占いでお金儲け』など、程度の低いことを… せっかくわたくしが、最も素晴らしいもの…永遠の命を与えて差し上げている、というのに…」
「それは本当に、最も素晴らしいことでしょうか?」
 彼女はグエンドリンに歩み寄った。
「神と同じ力です。神があの世でかなえることを、わたくしはこの世で与えているのです」
 グエンドリンは吐き捨てるように言った。
「神様は刻一刻、あまねく世界を慈しみ見守っておられます。あなたがたはただ面白おかしく遊んで暮らしているだけのように見えますが」
「お黙りなさい。あなたも年をとって肉がたるみ皺が寄り、髪の毛が白髪になって抜け、少し何かをしても疲れるようになり、病気で苦しむようになってから後悔しても知りませんよ」
 ブライディーはしばし自分が年老いた姿を想像した。貧救院で自らの名前すら忘れて、廊下を徘徊し、最期は寝たきりになって、もがきながら死んでいった老人たちと重ね合わせて。
「…あの子たちの中には、幼くして死に至る病にかかった者もいます。ご両親がはるばるこの森を訪ねてきて、命を乞いました。ブライディーさん、もしもあなたにわたくしの力があったなら、目の前で泣いて土下座されるご両親の願いを断れますか?」
 ブライディーは思わずその場にへなへなと座り込んだ。
「願いを、かなえて差し上げると思います」
「そうでしょう。それが当然というものです。…今夜はゆっくり休ませてあげますから、しっかりと現実の怖ろしさを考えてみてください」
 グエンドリンが去ってしばらくすると、逃げていた少女たちが三々五々戻ってきた。彼女たちはブライディーの肩を優しく抱き、髪の毛を撫で、野いちごを勧めた。
「ブライディー、どうしてそんなに悲しそうな顔をするの?」
「永遠の命の一体どこが気に入らないの?」
「この森はとても広いよ。退屈なんかしないよ」
「仲間だってこんなに大勢いるんだから」
「ドイル様のところに、帰らせてください」 彼女は蚊の泣くような声でようやくそれだけ言った。

 グエンドリンの家では、ドイルは相変わらず巻物を所構わず広げて、図版などをノートに書き写していた。幸い、グエンドリンはあれからどこかへ出かけていて留守の様子だった。
「ドイル様」
「何だね、ブライディー?」
 ドイルはノートから顔も上げなかった。
「グエンドリン様はサッフォーです」
 彼女は火照った顔をうつむかせながら言った。
「それがどうかしたか? ロンドンの上流貴婦人中にも、そういう女性はいる」
「この森に住んでいる大勢の少女たちは、みんな彼女の妖術で生かされていて、慰みものにされています」
「それはそういうこともあるだろう。彼女は最初に『自分は人ではない』と断っていたじゃないか。…それともブライディー、きみも彼女に言い寄られたのかい?」
 実はもうすでにそれ以上の目に遭ってしまったのだが、さすがにそこまでは訴えることができなかった。
「ドイル様、太陽があるうちに、一刻も早くここから逃げ出しましょう。いま書き写されているインクは、この森から出ると消えて読めなくインクに違いありません」
「帰りたかったらブライディー、きみだけ先に帰りたまえ。ぼくは、もうしばらくここに残る」
「ドイル様を残して、とてもわたくし一人だけが先に帰る訳には参りません」
 押し問答をしているうちに、グエンドリンが戻ってきた。
「ドイル様、それほどこれらの巻物がお気に召されたのなら、すべてお貸し申し上げましょうか?」
「えっ?」 ドイルは目を見張った。「…これを全部貸して頂けるのですか? ロンドンに持ち帰ることができれば、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢という語学の天才もおります。彼女の協力を得られれば、全面的に解読解題することも夢ではない、かと」
「その代わりに、と申し上げては何ですが、すべてつつがなくご返却頂けるまで、このブライディーさんをわたくしにお預けください。 わたくしはそれで安心できます。…ブライディーさん、あなたもそれでよろしいでしょう? ここは空気はいいし、自然は美しいし、水浴びだって毎朝できます。友達も大勢いるし、食べ物や着るものの不自由はさせないとお約束します」
 ブライディーの目の前は真っ暗になり、心臓は早鐘のように打った。
「ブライディー、これは妖精学…いや、心霊科学全体にとって、二度とないような素晴らしい申し出だ」 ドイルは彼女の両肩に両手を置いて言った。「…半年、いや、三ヶ月で必ず迎えに来るよ」
「ドイル様…」 彼女は流れ落ちる涙を拭おうともせず、ドイルを見つめ続けた。
「いまからの三ヶ月は、一年でもっとも快適な季節です。…そうですね、ただ遊んで暮らすのももったいないでしょうから、そのあいだにわたくしが知っている術の数々をお教え致しましょう」 グエンドリンは早くも彼女を抱きしめて囁いた。ブライディーは鳥肌が立った。「あなたには才能があります。きっと多くをものにできるでしょう。…そうそう、お身内のかたに幼い頃体験した悪夢で悩んでおられるかたがいらっしゃる、とか。そういうのを解く術もお教えしましょう。薬草や薬石の種類や採りかたなども…」
「願ったり叶ったりです。それでいいね、ブライディー?」
 あまりのことに、ブライディーはとても首を横に振ることができず、人形のように凍り付いていた。
「さっそくロバが引く荷馬車と、近くの人間の村まで案内する少女たちを揃えましょう。出発は明朝でよろしいですね。ドイル様、荘と決まれば、あなたも根を詰めるのはやめにして、ゆっくりお休みください」
 グエンドリンは勝ち誇った目でブライディーを見下した。
 
 その晩、寝間着に着替えることもしないで、藁の寝台の上でまんじりともせずに起きていた。月と星の光だけが、かすかに部屋の輪郭を浮き上がらせている。
「わたしさえ、ほんの少しのあいだ辛抱すれば、八方丸く収まるのよ。ドイル様はあんなに喜んでおられるじゃない。妖精にして永遠の命を与えるという申し出さえ、丁重にお断りし続ければ、後のことは何とでも…」
「それは甘い考えだよ」 突然、干し草の布団の中から女の子の声がした。「…ドイル様が巻物を持って帰られたらすぐに、グエンドリン様はあなたを人間ではなくしてしまうよ。 嘘だと思うのなら、あなたの得意な占いで占ってみるといい」
 干し草の中から現れたのは、けさ湖の中から顔を出して驚かせた子だった。
 ブライディーは、言われるままに、昼間のうちに森の中で拾ってきたドングリや椎の実などのいろんな木の実をそっと床の上に投げて占った。
「その子の言う通りだよ」
 木の実たちはころころと転がりながらそう告げた。
「あなた、なぜそのことが…」
「あたしも遠い昔『妖精を見たい、妖精のことを知りたい』という彼と一緒にここへ来たの」
 少女はうつむきながら言った。

「あたしはヘレン。あたしもかつて、ずっとともに時間を過ごしたいと思う素敵な殿方と一緒にここへ来たの。彼は、ドイル様と同じように妖精を研究することに命を賭けていた」 少女はポツリポツリと語り始めた。「そして、同じ申し出がされて、彼が巻物をいっぱい持って、いったん街へ帰っていった日の夜…」

…月が煌々と輝き、星々が降り注ぐ夜だったわ。眠っていたあたしは、女の子たちに起こされて、湖まで行って身を清めたあと、ギリシアかローマの女神が着ているような、肌が透ける薄絹の寛衣に着替えさせられた。
「一体なんなの?」と尋ねると、「歓迎会みたいなものだから、そう緊張しないで。歌って踊って楽しみましょう」と言われたわ。
 みんなでバラッドを歌いながら小径を歩いていくと、やがて何本もの古代の苔むした立石に囲まれた広場に出た。広場の真ん中には小舟くらいの小さな石舞台があって、松明のかがり火が燃やされ、グエンドリン様が立っておられた。
 苦い草の味のお酒のようなものを飲まされて、みんなで妖精の振り付けで舞い唱った。盛り上がるうちに一人、また一人と薄衣を脱ぎ捨て、いつのまにかあたしも寛衣を脱がされ、石舞台に寝かされた。するとグエンドリン様も服を脱がれて、その後のことは何も覚えていなかったわ。
 彼は、約束よりも早く、二ヶ月くらいで巻物をすべて写し終えて帰ってきた。でも、はしゃいで駆け寄ろうとしたあたしを制し、顔を歪め身を引いてこう言った。
「きみは自ら望んでそうしたのか?」と。
 初めのうちあたしは何の事やらさっぱり訳が分からなかった。はじめのうち彼は毎日、森の外から足繁く通って訪ねてきてくれた。
 それが三日に一度になり、週に一度、月に一度になり、とうとう半年に一度になってしまった。
「あたしが嫌いになったの?」
 そう訊くと、彼は悲しそうにこう答えた。
「ごめん。ぼくにはやりたいことがあるんだ。あの写し取った巻物の研究だよ。全部調べ終えるのには、人生はあまりにも短い。君と違ってね」
 やがて彼は、研究を極めることもなく、年老いて命が尽き、巻物の写しとともに柩に納められた。あたしはこうやっていまも生き続けている。

「どうしましょう。明日の朝が来てしまったら、すべておしまいよ。今夜のうちにドイル様を訪ねて、二人で逃げ出すしかないかも…」
 ブライディーは小刻みに震えた。
「…よっぽど上手くやらないと、グエンドリン様はきっとどこかで見張ってらっしゃる。魔法合戦になったら、占いだけじゃあ、とても勝てないわ」
 魔女の話をすれば魔女が現れる。廊下にほんのかすかに何者かが忍び寄る気配がした。 ヘレンはいきなりブライディーの唇に深いキスをした。
「な、何をするの!」
「シッ、お芝居しないと、あたしたち二人ともおしまいでしてよ!」
 ヘレンは彼女のドレスとレースの襟飾りが付いたブラウスと肌着のボタンを手早く外し、自分のも外して、胸と胸をこすりつけて倒れ込んだ。手を彼女の太股のあいだに伸ばして優しく撫でさする…
「早く、あなたも同じように! あたしの真似をして!」
 ブライディーは恐る恐る、言われるままに同じ仕草をした。相手はしっとりと濡れていた。
 木の扉がほんの少し開き、隙間から銀色の髪が風になびいて揺れた。グエンドリンは干し草の中から、ほの白い美しい背中や尻を浮き上がらせたり、牝鹿のような脚を突き出し、折り絡ませる二人の乙女たちの影を見つめた。
(もう一方の影はヘレンね。わたくしに無断で許せないわ… お仕置きをしなければ…)
 そう思いながらも、咎める声を出すことができずに、時おり干し草の中から聞こえてくる喘ぎ声や溜息やすすり泣きに聞き耳を立てていた。
 ブライディーはいつしか本当に息を荒げていた。と、何気なく床を見ると、窓の隙間から漏れる月光が動いて、つい先ほど占いに使った木の実が、ぼんやりとかすかに「グエンドリンは約束を守らないであろう」と告げた陣の名残を照らし出していた。
 干し草の中で彼女は思い切りヘレンを吸った。ヘレンは小さな悲鳴のような叫び声をあげて干し草の束を床の上に落とし、木の実は飛び散った。
「よかった…」
 二人は異口同音に言い、再びお互いを探り始めた。さすがにグエンドリンも、もう我慢することができなくなって、扉の隙間を閉めるのも忘れたまま、おそらくは別の相手を捜しにどこかに歩み去った。
 二人は瞬時に芝居をやめて頷きあった。
「最後のチャンスよ!」

「ドイル様、ドイル様、申し訳ございませんが、起きて下さい」
 小声で囁き、揺り動かしても、前の夜徹夜していたドイルはなかなか目を覚まさなかった。
「一体何事だね、ブライディー?」
 彼女は手短に説明した。
「永遠の命を持つ妖精にしてもらえばいいじゃないか」 彼は目をこすりながら言った。「…ぼくならそうしてもらうね。ずっと好きなことばかりして暮らせるし…」
「お戯れをおっしゃらないで下さい。ドイル様や心霊研究協会の皆様、デイジーと別れて暮らさなければならないのですよ」
「みんなちょくちょく会いに来るさ」
 ドイルは横になったまま背伸びして、あくびをかみ殺す。
「そのうち誰も来てくれなくなります」
「身ごもったり子供を育てたりする苦労もないし、いいことずくめじゃないかね」
「ドイル様。人はそれぞれ。わたしはここにいる子たちを軽蔑したりはしません。でもわたしは嫌なんです」
「いい『お兄ちゃん』もいることだしな」
「ドイル様…」
 彼女は顔を真っ赤にして眉を吊り上げた。
「冗談だよ。これから先の君の人生で『ああ、あの時、あの森で永遠の命を持つ身体にしておいてもらったなら』と思うことが数限りなくあるだろう」 彼は片目をつむって肩をすくめた。「だから念を押したまでのことさ」

 二人は来たときの服装に着替えて、ヘレンの手引きで森のはずれの花畑まで逃げてきた。
「ここからはあなたの能力で、外の世界へ戻る道を見つけてください」
 ヘレンは持参した弓袋から手製の少年少女用の小さな洋弓と矢筒を取りだしてブライディーに渡した。
「気休めかと思いますが、どうぞお持ちください。もうお察しの通りグエンドリン様は妖精などではありません。元は人間…つまり魔女なんです。ですから、一撃で致命傷を負わされたら、いかに永遠の命を持っていると言ってもその限りではありません。あたしたちに刃物の類が与えられてないのもそのためなんです… でも、たまたま、あたしは道具を作る係で、みんなの目を盗んで…」
 なるほど、洋弓の鏃は鋭く砕いた石でできていた。
「有難う。でも彼女を葬ってしまったら、あなたがたも…」
 ブライディーは洋弓に矢をつがえて近くの木に向かって射た。矢はヒュウと音をたてて飛び、見事に幹に深く突き刺さった。
「使わずに逃げ切れることを祈っております」
「有難う」 また会いに来るわね、と言いかけて口をつぐんだ。
「いいんです。あたしたちのことはどうか忘れて、人に語ったり書物に記したりしないでください」
「仕方ないな」
 ドイルは小さな声で言った。
「さよなら。…あなた、とてもきれいだったわよ、ブライディー」
 ヘレンは彼女の頬に軽くキスをした。
「さよなら…」
 ドイルは留まり続けようとする彼女の手を、父親のように引っ張って促した。

 二人は月と星々を頼りに、小川のせせらぎに沿って、早足でなだらかな丘を下った。
 すると、ほどなく、今度こそ本物の人間の集落と思しき家々の灯火が見えてきた、
「よかった。…きっと宿の人たちが心配しているぞ」
「ええ、パンヤの寝台でゆっくり休ませて頂きましょう」
 ドイルとブライディーがさらに歩みを速めたその先、崩れかけた哩石(マイルストーン)の傍らに、薄い寛衣と銀色の髪をなびかせてグエンドリンが立っていた。
「あれだけ親切にして差し上げたつもりなのに、ずいぶんと愛想を尽かされたものですわね」
 ブライディーはすかさず背中に背負っていた弓袋から洋弓を取りだし、素早く矢をつがえてグエンドリンに向けて構えた。
「…おやおや、おまけにそんな物騒なものを持ち出して…」
「お退きください!」
「ブライディーさん、あなたに本当に撃てるのですか? わたしを撃てば、あの幸せに暮らしていた子たちもみんな消え去ってしまうのですよ」
 グエンドリンは冷たい笑みを浮かべながらゆっくりと近づいてきた。
「ドイル様…」
「ブライディー、それを貸したまえ。ぼくが撃つ」
「いえ、相手は魔物とは言え女、わたくしが撃ちます」
 ブライディーは弓をいっぱいに引き絞った。

「どうして撃とうなどとされるのですか?」
 グエンドリンは初めて会った時のように穏やかに微笑んだ。「…わたくしは邪魔などしないつもりですよ」
「えっ、本当ですか?」
 矢がほんの少しだけもとに戻った。
「油断するなブライディー!」
「ドイル様もそんなにいきり立たれないでください。そもそも、あんなに喜ばれて約束を交わしておきながら、どうして突然に去られたのですか?」
「よくない占いが出たのです」
 ブライディーはそれだけ言った。
「そう。それなら仕方ありませんね。どうぞお帰り下さい」
 グエンドリンは一歩二歩路肩に退き、二人はゆっくりと、その前を通り過ぎようとした。
「ちょっとお待ち下さい」
 二人は立ち止まって振り返った。
「その洋弓は一体どうされたのですか? わたくしの森では武器は一切禁止で、あり得ないはずなのですが」
「わたくしが…作ったのです」
 ブライディーは口ごもりながら言った。
「たった一日で、道具もなしに、ですか?」
「もういい、ブライディー。行こう」
 ドイルはメイドの肩を抱いて先を促した。
「いいでしょう。わたくしも戻ってあの子たち全員を取り調べます。道具係の子は数人しかいないんですけれど」
 ブライディーはぴたっと立ち止まり、バッとグエンドリンのほうを振り返った。
「わたしが、とある子を脅かして道具を持ち出させて作ったんです。その子に罪はありません」
「ブライディー…」
 同じように立ち止まって振り返ったドイルの額に見る見る深い皺が刻まれる。
「ドイル様は黙って先に行ってください」
「そんな訳には行かない」
「ドイル様、ごめんなさい」
 彼女はドイルに洋弓を押しつけると、目をつむりながら両手で思い切り突き飛ばした。
 彼は、空気と空間をまるで水面のように波紋を波立たせてマイルストーンの向う側に消えた。
「さて、あなたも一緒に逃げないのですか?」
 グエンドリンは腕組みして目を細めた。
「わたしは戻ってその子の無実を証言します」
「それは殊勝な心掛けですね。ますます気に入りましたよ」
 二人が森に戻った頃には、夜はしらじらと明けかけていた。
 顔や身体を洗いに起きてきた少女たちは、互いの顔を見合わせてあっけにとられた表情で、グエンドリンに従って歩くブライディーの後を茂み越しに追った。
「あの子、莫迦じゃない。簡単に連れ戻されるくらいだったら、最初から逃げなければいいのに」
「そうよ。そうしたらお連れの殿方も巻物を手に入れられたのに」
 その様子を片隅で唇を噛みながら眺めていたヘレンは、仲間を押しのけて躍り出た。
「ブライディー、あなた本当に莫迦よ。大莫迦よ! どうして戻ってきたの?」
「おやヘレン、そんなに興奮して、どうしたのですか?」
 グエンドリンは立ち止まり、穏やかに尋ねた。
「ヘレン、あなたは何も言っちゃあだめよ」 ブライディーは懇願する。
「さて、それではあなたに一日で弓矢を作ってもらいましょうか」
 グエンドリンは工作小屋にブライディーを招き入れ、材木や、のこぎり、やすりや錐などを示した。
「どうかしましたか? 早く手をつけて製作にかかってください。半分、いや、三分の一でも作ることができたら、すぐに帰して差し上げます」
 水を打ったような静けさの中、時が過ぎた。
「その必要はないわ」
 皆がその声のほうを見ると、ヘレンがもう一張り、新たな洋弓を構えてグエンドリンに向けて矢を引き絞っていた。
「…弓矢を作ったのも、逃げる手引きをしたのも、あたしです」
 ブライディーは天を仰いだ。
(ヘレン、あなたこそ、おばかさんよ…)
「グエンドリン様、みんなも、お覚悟を…」 言い終わるより早く、ヘレンはヒュウと矢を放った。バシッと手応えがあった音がして、人影が床に崩れ落ちた。
「おやおや、永遠の命どころか、儚い命すら要らないのですか?」
 グエンドリンは唇を歪めた。
 矢は素早く両手を広げてあいだに割って入ったブライディーの肩に深々と命中し、みるみるドレスを血に染めていた。

 ブライディーが目を覚ますと、ふかふかの羽根布団に寝かされていた。風邪で寝込んだ時のように頭が痛く、身体もだるかったが、受けた傷の痛みはまったくなかった。
 かたわらにヘレンがいて、心配そうに覗き込んでいる。
「よかった。気がついた? グエンドリン様がすぐに魔法で治してくださったのよ。傷跡も残らないし、メイドさんのお仕事も前と同じようにできるって」
「お水を…」
 麦藁を突き刺した木の水筒から小川から汲んだ清水を吸うと、人心地がついた。
「…でも、ごめんなさい…」
 ヘレンは深々と頭を垂れたまま上げなかった。
「うううん。わたしのほうが悪いの。…それよりも、わたし、永遠の命になってしまったの?」
 レースのカーテンが、針葉樹のテルペンの香りがする森からの風に揺れる。
「いいえ、そうはなさらなかったみたいよ。『ご本人の強い願いだから』って」
「よかった…」
 彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「スグリのジュースがあるのよ。飲む?」
「ええ… ヘレン、あなたのほうは?」
「それも良かったのよ。永遠の命を奪われて、この森から追放されるだけで済んだの」
(本当に?)
 ブライディーは疑ったけれども、口にすることはできなかった。
「あたし、街に出て働くわ。ブライディー、あなたみたいなメイドがいいな。仕事も料理も一所懸命覚えて… できたらあなたの近くで勤め口を見つけたい。そう、厚かましくって申し訳ないんだけれど、一緒にロンドンに連れて帰ってくれないかな。あたし、一度もロンドンに、イングランドに行ったことがないの。旅費は必ず働いて返すから… 就職が決まったら支度金が貰える職場もあるのかな」
「ロンドンはとても空気が悪いところなのよ。ヘレン。あなたみたいな子だったら、すぐに気分が悪くなって倒れてしまうかも」
「そんなに? でもブライディー、あなたはダブリンからロンドンに出て頑張っているのでしょう?」
「食べていけなかったから仕方なく、よ」
「メイドさんの仕事、あたしにもできるかな?」
 ヘレンがあまりに身を乗り出して見つめたので、ブライディーは肘を立てて半身を起こした。
「…手先が器用だったら、籠とかを編んだり、新しい機織り機を試す織子の仕事なんかもあるわよ」
「そうか、そういうのもあるんだ…」 ヘレンは瞳を輝かせた。「あたし、グエンドリン様から街行きのドレスをもらってくるね。それからこの部屋にあるものは何でも自由に使っていい、ってグエンドリン様がおっしゃってたわよ」
 彼女の足音が遠ざかっていくと、ブライディーは寝台から立ち上がって寝間着のボタンを外し、恐る恐る矢が当たった箇所を見てみた。肩から胸にかけて清潔な包帯がきっちりと巻かれてあり、かすかにいい香りの薬草の匂いがした。どうやらグエンドリンの魔法は何らかの根拠に裏打ちされたものらしく、借り損ねた巻物のことを少し惜しいことをしたと思った。
 カードテーブルの上には、一枚一枚にこの森に棲む少女たちと、彼女たちが一番好きな森の花々を描いた素晴らしいタロットカードが陣を崩し散らかされたままになっていた。ブライディーはそれらをちゃんと揃え重ねて、脇にあった箱にしまった。
 彼女は、最初に言われていた通り、ヘレンが森を出たとたんに塵に還ってしまわないか、占ってみたくなった。
(でも、もし、塵に還るとでたらどうするの? 追放の罰を喜んでいるヘレンに、「それは事実上の極刑なのよ」などと言えようはずがないわ…)
 迷いたたずんでいるうちに、赤ワイン色の天鵞絨そっくりのコール天のドレスを着たヘレンが戻ってきた。
「どう、ブライディー素敵でしょう?」
 彼女はドレスの裾を翻してくるりと一回転してみせた。
「羨ましいわ」
「グエンドリン様が鞄と帽子もくださるらしいの」
「良かったわね」
 微笑みながらも気が気ではなかった。
「ロンドンで落ち着いたら、二人で同じ日にお休みを取って、あっちこっち案内してね… それともブライディー、あなた彼氏がいるの?」
 一瞬、間があった。
「秘密よ」
「よし、これで占ってあげる」
 ヘレンは箱に収められたグエンドリンのカードを手にしかけた。
「触っちゃだめ!」
「どうして?」
「それもおもちゃじゃない」
 ヘレンが再び支度をしに部屋を出た後、彼女はいったんはしまったカードを再び手に取った。案の定、問いかけの念とともに切るとピリピリと電気ようなものを感じる不世出のカードだった。
(カードよ、教えて。グエンドリン様はヘレンが森から出ても塵にならない魔法が使えるかどうか、を)

「お願いします、グエンドリン様。どうか、ヘレンの追放を取り消して、ずっとこの森に居させてやってください」
 ブライディーは両膝をつき、両手を胸のところで組んで頭を垂れた。
「どうやらあのカードで確かめたようですね」 グエンドリンは窓の外の森の向こうを眺めたまま言った。「ブライディー、あなたはわたくしの命の恩人です。もしもあなたが永遠の命を得て、わたくしたちと一緒にずっとこの森で暮らしてくれるのなら、ヘレンの追放は取り消してあげますが…」
「そ、それは…」
「嫌なのでしょう?」 バッと振り返ったグエンドリンの顔は怒りに歪んでいた。「…あれも嫌、これも嫌。ブライディー、あなたが棲んでいるロンドンは、そんな気ままが許されるところなのですか?」
「いえ。みんな毎日くたくたになるまで身を粉にして働いています。貴族のかたがたも作法や慣習にしばられていて、思い通りになることは少ないです」
「そうでしょう? だったらヘレンは諦めなさい。わたしは、みんなで真似をしないように、ヘレンが塵に還る様子を自分の目で確かめるように、あの子たちに言ってあるくらいなのです」
「グエンドリン様は残酷なかただったのですね…」
「残酷? では仮に、無条件に追放を取り消したとしましょう。あの子はここに残るでしょうか?」
 ブライディーは、やっと目の前に開けた新しい世界と、輝かしい未来に思いを馳せ胸をときめかせているヘレンの、明るい笑顔を思い浮かべた。
「さぁ、刻限です。わたしも、みんなも見送ります」

「グエンドリン様、皆さん、本当に長い間お世話になって有難うございました」
 まっさらなドレスに身を包み、エルメスふうの小さな旅行鞄を手に持ち、森に咲いた花を飾ったつばの広い真っ白の帽子をかぶったヘレンは、目にいっぱいの涙を浮かべて頭を下げた。
「身体に気を付けるのですよ。生のお水は飲まないように」
 グエンドリンも声を詰まらせていた。
「頑張ってね」
「幸せにね」
「また時々帰ってきてね」
 少女たちもハンカチを目に当てていた。
「ブライディーさん、ヘレンのことをかたがたよろしくお願い申し上げますよ」
「分かりました。お任せ下さい」
 ブライディーは乾いた声で答えた。
「さよなら!」
 ヘレンは振り返って手を振りながら、小走りに小径へと駆け出した。
「ヘレン、待って!」
 追いかけようとしたものの、ブライディーの足は鉛のようだった。
「この森も当分見られないかと思うと寂しいわ」
 木漏れ日のなか、ヘレンは飛び跳ねるように歩いた。
「ロンドンじゃあ、水浴びもなかなかままならないって本当?」
「ええ」
「ねえねえ、素敵な男の人って、多いのかしら?」
「それは…」
「そうだ。この森の女の子たちの唱う歌を教えて上げる」
 そう言ってヘレンは歓迎の歌や、水浴びの歌、花や小鳥や動物たちの歌、花摘みや機織りの歌、女の子同士の恋愛の歌、そして故郷を偲ぶ歌を次々に歌った。
 ブライディーが何気なく目をやると、ヘレンの身体が少し透明に透けて見えていた。
「ヘレン!」
「何、どうかしたの、ブライディー?」
「いえ、別に…」
 そう言えば、先ほどから茂み越しに、何者かが彼女たちの後を付けて追いかけてくるような気配が続いていた。どうやらヘレンが消え去るところをその目で確かめようとしている子たちらしい。
「ロンドンの食べ物は、おいしいかな?」
「友達はたくさんできるかな?」
 ヘレンの身体がますます透けて見えるようになった。
「ブライディー、あなた顔色が悪いわよ。傷のせいかしら? 少し休む?」
「ええ、少し休みましょう」
 二人は路傍の石に並んで腰を下ろした。
「ヘレン、戻りましょう。あなたたちはやっぱり、森から出ようとすると、消えてしまう定めにあるのよ」
「大丈夫よ。グエンドリン様が大丈夫とおっしゃって下さったじゃない」
 立ち上がって先に進もうとしたヘレンが、急に一層見えにくくなった。
「ヘレン!」
 彼女を抱きしめようとしたブライディーの両手が空を切った。
「有難う、ブライディー。こうなることは分かっていた。どうか、あたしの分まで幸せになってね。…あたしは、この森で暮らした何百年よりも、あなたと一緒にいた三日間のほうがずっと楽しかったわ」
 声だけが梢に響いたが、やがて葉ずれと小鳥のさえずりの中に消えた。
 ブライディーは地面に泣き崩れた。
 マイルストーンは、すぐ目の前にあった。

 ロンドンは曇っているのか、煤煙でくすんでいるのか、それとも霧なのか、陰鬱な天気が続いていた。
「いやあ、ドイル君、残念でしたなぁ」 英国心霊協会の本拠地の屋敷。副会長のクルックス博士は白髪を書き上げながらブライディーが注いだダージリンを啜った。「…君はまだまだ若い。次回に期待、ということにしましょう」
「わたしも何度かジャワやボルネオ方面の探検に行かせて頂いておりますが、第一回目で大発見をすることなど、まず稀です」
 ウォーレス博士は写真帳のページを興味深くめくった。遺跡、支石柱(ドルメン)、立石柱(メンヒル)、さまざまな塚、石碑など、どれもよく撮れていて、色もきれいに塗られていたが、肝腎の妖精が写ったものは一枚もなかった。
「もうじきまた、新型の写真機が発売されるという噂ですよ」
 ドッジソン教授が横から眺める。
「現地アイルランドの人々への聞き込みは上手くできましたかな?」 同じく副会長の古典学者、マイヤース博士が尋ねる。
「ええ、まあ、ある程度は…」
 ドイルははにかむ。
「うちのチームのフリアー女史が行ったスコットランドでは、誰も彼も恐ろしく口が堅くて…」 デュード侯爵は、ドイルたちの旅行中の出納帳から目を上げずにつぶやいた。「…ところで、三、四日間、一ペニーも使っていない日がはさまっていますが?」
「ああ、それはロスコモンのわたくしの知り合いの家に泊めてもらってご馳走になったんです」
 ブライディーがにこやかに微笑みながら答えた。
「それはよろしかったことですわね」
 フリアー女史は愛用の水晶球を撫でている。
「どう、お姉ちゃん、似合う?」
 デイジーは厨房で、お土産にもらった妖精を形取ったイヤリングを揺らせながら囁いた。
「可愛いわよ、デイジー」
「本当?」
「よく似合っているわよ。それを選ぶのに時間をかけすぎて、お姉ちゃん、ドイル様に叱られたんだから」
 玄関のベルが鳴った。ブライディーが走って出ると速達の配達だった。差出人はフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢。いつ見ても一目で彼女からだと分かる惚れ惚れする筆跡だった。
「ドイル様、お手紙です」
 ペーパーナイフとともに銀の手紙盆に乗せて出すと、ドイルはすぐに封を切った。
『…ご質問の、とある石碑に刻まれていたという見知らぬ文字の件について、率直にお答え申し上げます。「分かりません、存じません」方便で逃れるのは簡単ですけれど、あいにくわたくしにはその度量がございません。正直に、ドイル様がこの文字、この文章について、これ以上深く追い求められないことを切にご忠告申し上げます。何卒ご賢察賜りますように。かしこ』
 ドイルの手とまぶたがほんのかすかに震えた。
「なんですか?」
「もしや、大発見を?」
 普段は絶対にそんなことはしない紳士たちが、まるでパブリック・スクールの少年たちのように椅子から立ち上がって彼の後ろから爪先を伸ばして覗き込んだ。
「ああ、いえ、皆さん、残念ながら、お答え頂けませんでした」
 我に返ったドイルは、ヘリオトロープの香りがする紋章の透かしの入った手漉きの便箋を揃いの封筒に戻して、再び盆の上に置いた。
「それにしてはすごいじゃないか。あのフィオナ・ウォーターフォードがここまで言うなんて…」
「わしも是非その断片の写しを拝見したいですぞ」
「とりあえず重ねて問うてみられては?」
 普段は温厚なクルックス、ウォーレスの両博士も珍しく興奮を隠せなかった。
「そうですね。手紙ではなくて、じかに会って話す機会でもあれば」
「そんな悠長な。我々は曲がりなりにも不可思議なものごとに科学の光を当てようと志しを同じくして、こうして集っているのですぞ」
「失礼ながら、このたびのドイル殿の探査はあまりにも成果が少なすぎる。唯一の目玉というべきものを塩漬けにしてどうされるおつもりか?」
 マイヤース博士とデュード侯爵に至っては食ってかからんばかりの勢いだった。
 ドイルは両手で拳を作って押し黙った。
「さあさあ、皆様、わたくしが現地で習い覚えた歌を聴いてくださいませ」
 ブライディーは竪琴を手にして、ヘレンから教えてもらった女神の森の歌の数々を格調高く、感情を込めて歌った。
 険悪になりそうだった座はシンと静まった。聴き入る者、歌詞を写し取ろうとする者、中には涙する者もあった。
 会は何とか和やかさを取り戻した。

 その晩、妖精のイヤリングをしたまま眠っているデイジーに毛布をかけ直してからベッドに入ったブライディーは、ロスコモン村の宿の前でドイルに写してもらった写真を、もう一度しみじみと眺めた。
 それはただの影か、レンズの曇りかも知れなかったけれども、彼女の目にはヘレンと一緒に写っているように見えた。

     (次のエピソードに続く)





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