2004/05/05 乾板写真の現像風景に、「赤い色の色ガラスで囲った蝋燭」を追加修正… 目次 1.ブライディー、子守歌を歌う 2.ブライディー、額縁に入る」(18禁) 3.ブラインド・オークション 4.デイジー、チャーリーと出会う 5.メイドさん、ケンブリッジへ 6.メイドさんたち、オペラを見に行く 7.メイドさん、自転車に乗ってみる 8.メイドさんたち、ストーンヘンジへ行く 9.サナアから来た少年 10.ブライディー、被写体になる(R指定(笑)) 11.スキル・イレーサー (全11短編) ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート 「ブライディー、子守歌を歌う」 ピカデリー広場の裏通りに数軒固まってある、さして広くないオペレッタの劇場の前を何かのついでの時に遠回りをしてでも通るのが、メイドのブライディーさんの楽しみの一つだった。道草していることに自責の念を感じながらも、いま演じられているお芝居のポスターを眺めたり、チラシをもらって帰るのも嬉しかったが、胸を弾ませるのは、中で演じられているオペレッタで歌われる数々の曲のさわりの部分を歌って歌詞カードを売る歌手の卵たちの歌声を聴くことだった。 何度か通りがかるうちに、自分とよく似た声で、(いいなぁ)と思う歌をよく歌う、「ご贔屓」もできた。その子はジェニファーという名前の、ブライディーと同じアイルランド系らしい子で、オレンジ色のカールした髪の毛を揺らせながら歌う姿は、他のどの小屋のカード売りよりもたくさんの、絶えず十人以上の聴衆を集めていた。拍手はしてくれるものの「ただ聴き」だけで立ち去る人もあれば、歌詞カードを買って帰る人もあり、さらに入れ替えの時刻を待って木戸銭を払って劇場に入るお客も少なくなかった。また、ブライディーの占い師としての…いや、女性としての勘によると、その中にジェニファーに気があって、目立たないように後ろのほうや物陰から彼女のことをじっと見つめてばかりいるハンサムな青年も一人いた。 ある日、たまたまブライディーが、その小屋の前を通りがかると、小さな竪琴を手にしたジェニファーが、林檎箱ほどの小さなステージの上で泣き崩れていた。座長が懸命になだめているものの、泣きやむ気配がない。くだんの青年も、煙草屋の日覆いの陰からその様子をおろおろしながら眺めている。 「頼むよ、ジェニファー、しっかりしてくれ。そんなことではとても役を貰って舞台に立ったりできないよ」 「でも座長さん、この歌は、亡くなったお母さんが、いつも歌ってくれていた子守歌にとてもよく似ているんです」 ジェニファーは化粧が崩れてしまわないように、ハンカチで目頭を押さえながら言った。「…楽しかったことや、幸せだった日のことを思い出してどうしようもないんです」 「気持ちは分かるけれども、それではとても本当のプロの歌手になれないよ。困ったなぁ… この音域の歌は、うちのプリマとジェニファー、君にしか歌えないし…」 座長もシルクハットのひさしを押さえるばかりだった。 「あの、その歌、いまだけわたしが歌います」 ブライディーは人々の中からおずおずと進み出て言った。 「えっ、何だって?」 座長は目を丸くした。 「その歌、いまだけわたしが歌いますから、ジェニファーさんを少し休ませて上げてください」 彼女はジェニファーからいろんな歌詞カードの入った小さな籐の籠を受け取ってメイドのお仕着せの袖に通すと、竪琴を抱えて小さなステージの上に飛び乗って深呼吸をした。聴衆はいつのまにか二十人以上に膨れあがっていた。 「いいぞ、メイドさん!」 「がんばれ!」 野次馬から声が飛んだ。 メイドさんは竪琴をポロンと一節奏でて、しっとりと歌い出した。 「♪赤ちゃん、おやすみ。楽しい夢を見て、お母さんの胸の中で…」 歌い終わると、拍手が鳴りやまず、それが落ち着くと先を争って歌詞カードを買ってくれた。 「上手い… もしかすると、うちのプリマ以上かもしれん…」 座長は地面に腰を抜かしたまま立ち上がれない様子だった。 「ジェニファーさん、昔のことを思い出すのもいいけれど、貴女がこれから幸せな結婚をして生まれるでしょう赤ちゃんのことを思いながら歌えば良いのでは?」 メイドさんはジェニファーに籠と竪琴を返しながら言った。 人混みをかきわけ、そっと立ち去りかけながらちょっとだけ振り返ると、件の青年が煙草屋の日よけの陰から飛び出してジェニファーと両手を握り合っていた。 ブライディーはほんのちょっと肩をすくめると、いま唱ったばかりの子守歌を鼻歌で口ずさみ、(デイジーにも聴かせてあげよう)と考えつつ、小走りに跳ねるように家路についた。 ロンドンは麗らかな春の宵のことだった。 覚え書き 有名な「アイルランドの子守歌」は、これより十年ほど後、1905年前後に作られた曲です。さらに、ビング・クロスビー主演の映画「我が道を往く」の中で使われて大ヒットし、スタンダードになったのは1940年代の半ばです♪ ブライディー・ザ・マジックメイド(65) ショート・ショート 「ブライディー、額縁に入る」 お陰様で、いま某編集者のかたに「プレゼンテーション(叩き台)」として「ブライディーさん」を読んで頂いています(=^・^=) 引き続き、さらなる応援ご愛読をお願い申し上げますねm(_ _)m そこで、悪ノリして(爆)…以下三回は、百年前の「ストリップ・ショー」の話です。 ★★★ そんなワケで、以下三回、18歳未満のかたはご遠慮ください ★★★ …大したことありませんけれど… 三回たったら帰ってきてくださいね(=^・^=) 110年前のヴィクトリア時代に、そういうショーがあったかどうか、もちろん一応調べましたが、よく分かりませんでした。コッソリと内緒で見せるような小屋はあったのではないかと… お話しの中のストリップ・ショーは、60年ほど前、終戦直後の日本で公演されたスタイルを援用させて頂きました。確かな資料が入ったら、書き直したいと思いますです。もしもそんなものはまったくなかった、ということになれば、残念ながら(笑)全体削除させて頂きます(=^・^=) その朝、メイドのブライディーとデイジーは、ロバが引く荷車で八百屋の少年が配達してくれた野菜をかたづけていた。と、デイジーが、キャベツを包んであった、英国心霊研究協会ではまずほとんど見かけない大衆夕刊紙を掌で伸ばしてしげしげと眺めていた。そこには、薄物を羽織り額縁の中で艶めかしいポーズをとった若い女性がこちらを見つめているかなり遠景の写真と、その踊り子のアップの顔写真が載っていた。 「デイジー、だめよ! そんなものを見たら」 ひったくるように取り上げた写真をチラッとだけ見たブライディーはハッとした。 そこには、年月が経って多少変わってはいるものの、厚く化粧をしてごてごてしたアクセサリーに飾り立てられてはいるものの、ダブリンの貧救院にいた頃、とても仲が良かった親友の顔があった。 (ケリーちゃん… ケリーちゃんに間違いないわ) メイドさんは胸がドキドキして息が詰まりそうになった。 数日後の日曜日、外出用の草色の木綿ドレスを着たブライディーは、花束や果物やらを買って籠に入れ、新聞に書いてあったホワイトチャペルの、ものすごく入り組んだ路地の奥にある「生きている美人画」という看板を掲げた小さな芝居小屋の楽屋口を訪ねた。 「なんですか貴女は? 何かご用ですか?」 いったんは凄んだ支配人だったが、彼女の顔や姿をしげしげと眺めているうちに表情が緩み、言葉遣いも優しくなった。 「失礼なことをお伺いするけれど、貴女、身体に傷とかありませんか? 盲腸の手術の跡とか?」 「いえ、特に…」 「ダンスかバレエか、何かできますか?」 「民族舞踊を少し… それと昔、社交ダンスやバレエを習っておられたお嬢様にお仕えしていたことがあるので、見よう見まねでそういうのもちょっとだけ…」 ブライディーはおずおずと答えた。 「結構結構… うちは支度金は五十ポンド。出演料はお客の入りによって変わる。投げ銭は折半。手渡しの祝儀は全部貴女のもの。それでいいかね?」 「あの…」 友達に会いに来た旨を告げると、支配人は溜息をついて肩を落とした。 「きょうはここでの千秋楽でね。彼女のワンマンショーの日なんだ。開幕の時間も迫っているし、手短にな」 四、五人が一度に着替えと化粧ができ、安物の香水と白粉の匂いが立ちこめる楽屋には、ボタンを外した白い背中をこちらに向けた踊り子が一人ぽつんといた。鏡台の鏡には懐かしい友の顔が写っていた。 「ケリー、ケリーちゃんでしょう? わたしよ、ブライディー。新聞で見たわ。手紙も書いたのよ。でも返事をくれなかったから、思い切って来させてもらったの」 ブライディーは空いている花瓶に花束を生け、果物籠を飾りながら言った。 「ごめんなさい」 踊り子は振り返らずに頬紅を塗り続けた。「人違いだと思うわ。あたしはケリーと名乗ったことは一度もないし、貴女のこともまったく知らないわ」 「えっ? でも、声も同じだし…」 「他人の空似、だと思うわ」 「うなじにほくろが…」 「早く帰って。迷惑よ」 「ケリー、わたし、先月アイルランドに帰ったの。院長先生はお元気でいらっしゃらなくてよ。あの通りは昔のまま、少しも変わってはいなかったわ。二人で登って怒られた林檎の木もそのままよ。猫たちも相変わらずだったわ…」 話していると、ふと踊り子の頬紅が崩れて流れているのに気がついた。 「帰って! お願いだからもう帰って!」 踊り子は顔を伏せながら叫んだ。 「ケリー、わたし、何か悪いことを言った? それだったら謝るわ…」 「謝って貰わなくていいから、帰って…」 と、突然、踊り子は顔を歪め、腰の辺りを両手で強く押さえたまま泣き崩れた。 「大変! どうしましょう!」 「何だ? どうかしたか?」 支配人たちが入ってこようとするのを、力づくで押し戻した。 「ご遠慮下さい! 病気ではありませんので安心して下さい」 ブライディーはケリーの手当を手伝ってソファーに寝かせて毛布をかけた。シスターが教えてくれた「すぐに働けるようになるおまじない」も唱えてみた。痛み止めの薬の置いてある場所を聞き出して飲ませると、毛布を頭からかぶったまま、胎児みたいに身体を丸め、やがてジッと動かなくなった。 「おい、もうじき開演の時間だぞ」 ドアの外から支配人の怒鳴る声がした。 「彼女、出られません。代役をお願いします」 「無理だ。客は大入り満員なんだ。少しでも待たせると暴れ出すぞ」 「どうか、一番近い小屋に代役を頼みに行ってください。それまで…」 メイドさんの目にケリーが着ようとしていた衣装が映った。 「…わたしが繋ぎます…」 それはギリシア神話の女神の衣装に似た白く、透けるように薄い木綿の寛衣だったが、裾は膝の上あたりまでしかなく、おまけに胸元は大きく開いて、どちらかと言うとニンフの衣装のようだった。 (わたしが、これを着るの?) メイドさんはゴクリと生唾を飲み込んだ。 ブライディーとケリーは、体つきが似ていたことが、不幸中の幸いと言えばよいのか、それとも… (大勢の仲間と一緒にポーズをとって踊りを踊るのならまだともかく、座長さんは「きょうはケリーのワンマンショーだ」と言っていた。つまり、お客さん全員の視線が、わたしに集まる、ということ?) 「おい、開演十分前だぞ。衣装は着替え終わったか?」 扉の外から座長の声がした。 「いま、着替えています」 覚悟を決めて、着てきたドレスとペチコートを脱いできちんとたたんだ。コルセットはまだ当分必要のないプロポーションだ。試しに、シャツとドロワースの上からニンフの衣装を着て、姿見の前に立ってみた。 予期した通り、シャツとドロワーズが完全に透けてしまって、あられもない姿だった。 溜息をつきながら、いったんニンフの衣装を脱ぎ、とりあえず靴下を脱いだ。それからドロワーズを脱ぎ、再びニンフの衣装を着た。 目を閉じたまま再び姿見の前に立ち、腹をくくってパッと目を開いてみた。 姿見に映った自分の顔が、朱に染まった。(だめ… 目も当てられない。透けた肌着が見えるとかえって…」 おまけにそのシャツまで、冷や汗でしっとりと濡れて貼り付きかけてきた。 そこで今度は半ば必死になって、衣装方が届けてきてあったらしい新品の肌着の入った衣装箱をかき回した。すると、サイズの合う、胸元と裾にレースの飾りが付いた白いシミーズを見つけた。 「ケリー、これ借りるね」 毛布をかぶったままの頭に向かって囁くと、シャツと下穿きの上からシミーズを着て、その上からさらにニンフの衣装を着て、三たび姿見の前に立って見た。 やっぱり一番下の二枚が変だった。 「おい、開演三分前だぞ。着替えは終わっているだろうな?」 「はい」 とは言ったものの、実はまだだった。 そこで、キャベツが包んであって、それをデイジーを広げて見ていた夕刊新聞の、ケリーが着ていた衣装のことを懸命に思い出していた。 遠景の写真の踊り子…ケリーが着ていた衣装は…薄物ということだけで、その下のことはよく分からない。当然のことながら当局のお達しで、この手の写真は遠くから写したもので、さらにその上焦点をぼかさなければ大衆新聞にさえ載せてはならないのだ。 (もはや、これまで…) そう思って、ニンフの衣装を脱ぎ、シミーズを脱ぎ、シャツと下穿きも脱いで、ペチコートやドロワースとともに、きちんと畳んだドレスのあいだにはさんで隠した。それから衣装掛けに掛けてあった洗い上がりのシミーズを加えて三枚重ねて着た上に、ニンフの衣装を着て、ケリーの鏡台のまえにあった櫛を洗って素早く髪をとかし、四たび姿見の前に立ってみた。 当然、シャツと下穿きが透けて見えることはなくなった。シミーズを三枚も重ねて着ているので、大切なところは大丈夫だ。 「出番だ。しっかりやってくれ。十五分ほど頑張ってくれれば、近くに住んでいる子を呼んでこれると思う…」 呼びに来た座長が思わず息を呑んだ。 「き、きれいだ…」 あっけにとられた座長は目を丸くして、彼女がニンフの衣装の下にシミーズを三枚も重ねて着ていることに気がつかなかった。 ブライディーは造花のティアラをかぶり、小道具の竪琴を持ち、普段よりも小股でうつむきがちに舞台へと出た。五、六人が立つと身動きができなくなるような小さな、数本の燭台が照らし出すだけの薄暗いステージには、人間が一人入れるくらいの縦長と横長の額縁が左右に一つずつ置かれている。 縦長の額縁には、黄金色の小麦の穂や、色とりどりの花束や、オレンジをはじめたくさんの果物が飾られていて、甘酸っぱい香りを漂わせていた。横長の額縁の中には、上等の寝台に見せかけた安物の寝台が置かれている。五十席ほどの客席側の窓は、分厚いカーテンで覆われていて薄暗く、様子が分かりにくかったけれども、押すな押すなの盛況のようだった。 「サラ嬢急病のため、リリー嬢が代演させて頂きます」 ヴァイオリンが甘い旋律を奏で始めた。 「おい、顔を上げろ! よく見えないぞ」 ブライディーが顔を上げると、一瞬男たちはシーンと押し黙った。 彼女はぎこちない動きで、曲に合わせて正面を見たり、横を向いたり、果物を手にしていろいろポーズをとってみたりした。心臓はどきどきとして、いまにも破裂しそうだった。 「おい、衣装が分厚すぎるぞ。金返せ!」 「サラ嬢を出せ!」 ショウが始まって、実際にはまだ三分と経っていなかっだろうが、彼女には長く、長く感じられた。 うろたえたブライディーが舞台の袖に視線をやると、血走らせた目を大きく見開いた座長が『衣装が分厚すぎる。脱げ』と大書したプロンプターのカードを持ってあたふたしていた。 「ここで脱ぐのですか?」 小声で訊ねると、座長はカードの裏に 『当たり前だ!』 と殴り書きをして示した。 仕方なく、なるべく小麦の穂に隠れるようにして、一番上のニンフの衣装を脱いだ。 「まだまだ分厚くて見えないぞ。もっと脱げ!」 客席の男たちからは罵声が飛び、呼び込みのチラシが丸められて投げ込まれ始めた。 彼女の両の瞳に熱いものが溢れてこぼれた。 (やはり、来てはいけなかったんだ。…ごめんなさい、ケリー、本当にごめんなさい…) 「詐欺だ!」 「金を返せ!」 罵声に追われ、まるでまだ新しい傷口に巻いた包帯を少しずつ引き剥がすように、そっと少しずつ一番上のシミーズを脱いだ。 恐る恐るうつむいてみると、大切なところは大丈夫、透けて見えてはいなかった。 『岩の上に脚を揃えて組んで座れ』 座長から指示が出たので仕方なく、竪琴を抱えてセットの岩の上に牝鹿のように形のいい脚を揃えて座った。シミーズの裾がずれ、ほっそりとした太股の裏側が丸見えになり、顔が真っ赤になった。 『君はニンフなんだぞ。恥ずかしがってどうする? もっと楽しそうな表情で』 いろいろとポーズをとらされているうちに、息は荒れ、全身から汗が噴き出して、シミーズが肌に貼り付き始めてきた。おまけにかぶりつきの客たちが、まだ二枚重ねて着ていることに気づき始めた。 「おい、モデルはまだ重ね着しているぞ」 「客をナメているのか?」 声は次第に殺気を帯びてきた。 『重ね着はやめろ!』 座長からの指示の文字も、読みとれないほどになってきた。 ブライディーは涙でくしゃくしゃになった顔をてのひらで拭った。もともと化粧気はなかったので、そういう点では不様にならずに済んだ。 身体をガクガクと震えさせ、震える手で、たまねぎの薄皮を剥ぐように重ね着の分のシミーズを脱いだ。汗のせいで胸も、腰の辺りも最後の一枚がピッタリと貼り付いてしまって、二つの小さなサクランボも、淡い翳りも丸見えになってしまっていた。 両手を形の良い胸のあたりに交差させ、夢遊病者のように額縁の中に立ち、それから手を放していままでのポーズをいま一度一通り繰り返すと、野次や怒号は「おおーっ」という歓声に変わった。 「きれいだよ、頑張れ!」 『よし、いいぞ。次は隣の横長の額縁に移って、寝台に寝そべるんだ』 彼女は黙々と、必死で、足を組み変えたり、伸ばしたり、膝を立てたり、俯せになって物思いに耽るポーズをしたり、マット体操に似た仕草をやらされたりした。そんなうちに、なぜか胸は固く尖り、下腹はカッと火照って、汗以外のものがにじみ出してきた。 と、ヴァイオリンの曲調がいままでとは全く違う、寂寞感を感じさせるものになった。「お陰様で当小屋での公演も、本日が千秋楽と相成りました。また当小屋にお邪魔する時も、なにとぞよろしくお願い申し上げます。ご贔屓を続けて下さった皆様に感謝の気持ちを込めまして、リリー嬢が生まれたままの姿をご披露致します」 まるで背中に刃物を突きつけられたみたいに、ブライディーの背筋に冷たいものが走った。 「いいぞ!」 「脱げ〜」 「脚も開いて見せろ!」 客たちの熱気は最高潮に達した。 ブライディーは、それこそ催眠術にかかったかのように、ゆっくりとシミーズの肩に手を掛けて外した。が、汗で貼り付いていたので、すぐにストンと床には落ちずに、胸のあたりでひっかかって止まった。もう一度手を掛けようとした時、 「よし、そこまでだ」 という声がして、座席の一角から一人の男が立ち上がり、数人の制服警官たちがなだれ込んできた。客たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。 「経営者と踊り子は逃すなよ!」 ブライディーが動くことが出来ずに、ただじっとしていると、一人の若い女性…ケリーが強く手を引いて、楽屋ではない別の物置部屋に引きずり込んだ。 「ブライディー、早く逃げて!」 ケリーは素早くブライディーにローブを着せ掛け、着てきた服を入れた袋を持たせて、姿見の後ろの秘密の扉を開けた。 「ケリー、ごめんなさい。わたし…」 「いえ、あたしこそ…」 「また会おうね」 「会いましょう」 目を合わせた二人は強く抱き合い、そして別れた。 (次のエピソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド(68) ショート・ショート 「ブラインド・オークション」 メイドのブライディーがアイルランドにいた頃のかつての主人、ウォーターフォード男爵の一人娘フィオナからの手紙は、いつもにも増して達筆だった。 『今回ばかりは、たってのお願いを致します。五月…日 昼過ぎから宵の口まで、ある用件の付き合いをして頂けないでしょうか。お受けくださるのなら、誠に恐縮ですが、一番良いドレスを着てきてください。わたくしも正装…気に入りの藤色のドレス…で参ります』 「フィオナさんのお願いだったら、断る訳には行かないだろうねぇ」 ドイルは、いつものように安楽椅子に座ってパイプをくゆらしながら、手紙を封筒に戻して返した。 「もしや、お見合いではないでしょうか?」 メイドさんは両手を組んだり離したりして床に目を落とした。 「いや、男爵様親娘はロンドンに来られるにあたって、また特に、フィオナ様はケンブリッジのニューナム女子校に進学を希望されて、国教会に改宗されておられるから、それはないだろう」 「わたくし… やはり地味な紺色の木綿のドレスでお待ちしていたいと思うのですが…」 「いやいや、藤色以外の、華やかな絹のドレスがいいだろう。明日にでも貸衣装店で借りておいで」 翌日、ブライディーは馴染みの店で、数年前のモードの肩の膨らんだ裾の長い絹のドレスを借りた。色は藤色に合って、より地味な色と言うことで深緑色を選び、靴や帽子やイミテーションの宝石なども付けてもらった。思いのほか背が伸びていたのでコルセットは新調するしかなく、これが物入りだった。 フィオナはいつものように、紋章の入った四頭立ての黒塗りの馬車でやってきた。 「いいでしょう」 男爵令嬢はブライディーの着付けを頭のてっぺんから足のつま先までしげしげと眺め渡してから言った。「…きょう行くところは、貴族や限られた者しか入ることができません。貴女はきょう一日、わたくしの従妹ということでお願いします。挨拶なども貴族の令嬢のように」 「はい、かしこまりました」 「では、ドイル様、ブライディーをしばしお借りします」 「気を付けて行ってきてください、お嬢様がた」 ドイルは二人を馬車まで送って帽子を取り、車中の二人に向かって深々と頭を下げた。 馬車はロンドンの中心の、銀行などが建ち並ぶ通りに入り、ギリシアふうの円柱に囲まれた会堂の前で止まった。美少年のドアボーイが手を取ってくれたのに思わず顔を赤らめる。心付けはフィオナが花紙に包んで渡していた。 ホールの中は、すでに貴族やお金持ちの老若男女で溢れていてた。不思議なことにみんなが、等間隔に並べられたテーブルの上の、いろんな形をした古くさい旅行鞄やトランクを品定めしていた。 「フィオナ様、これは一体…」 「シッ、静かに。これはブラインド・オークションです。先日、とある古書蒐集家の貴族のかたがお亡くなりになって、お金に困られた未亡人のかたがコレクションを売却されることになったのです」 「それでしたら、全部一括か、あるいは何度かに分けて競り売りにかければよろしいのに…」 ブライディーは首をかしげた。 「ところが、亡くなられた貴族は、魔法や超能力といったものを信じておられたかたで、本もその内容にふさわしいお方に譲りたい、というご遺志なのだそうです」 「と、申しますと?」 「皆さん、中を見ずに、中身を推察し、金額を書いて落札してから、初めてどのような本が入っているのかが分かる、という趣向なのです」 「えっ!」 ブライディーは思わず小さく叫んだ。「…すると、高いお金を払って手に入れても、中はありふれたつまらないものだった、ということもあるのですか?」 「もちろん、多くはそうでしょう」 フィオナは真顔で頷いた。「…そういう失敗をしないように、ブライディー、わたくしは貴女を連れてきたのです」 「そ、そんな…」 メイドさんはあわてた。「わたくしはドイル様より『人の命に関わること以外は占ってはならない』と、固く申し付けられております」 「大金を払う価値があるよい本を、わたくしが手に入れれば、それを活用することによってたくさんの人の命を助けることが出来るかも知れません。反対に、よこしまな人の物になれば、その逆のことが起きるやも知れません。つまりこれは立派な命助けです」 フィオナは微笑みながら、とりあえず知り合いや友人に挨拶に回るため、仮に座っていた席を立った。 「そ、そういうものでしょうか…」 メイドさんはいま一つ釈然としなかったが、もはや断るすべはなかった。 「…それから、貴女が占いの能力者であることは絶対に秘密ですよ。棒みたいな小道具を使ったり、念じるような仕草はしないで、できるたけ自然にね」 フィオナは相変わらず虫も殺さない顔でそう囁いた。 「あの… お嬢様。もしや、この会場の中に、わたくしと同じく貴族を装った、例えば透視術者などはいるものでしょうか?」 メイドさんは囁き返した。 「いるでしょうね。貴族や貴婦人、郷紳たちは皆さんしたたかですし、蒐集家ともなればなおさらです」 「でも、わたくしたちもいわば反則を犯しているのですから、はっきりそれを見つけても指摘できませんよね」 「当然です」 二人は優雅な足取りで、サビルロー仕立ての上着や、パリのオートクチュールの色とりどりのドレスの海を泳ぎ渡り、競りに掛けられている古い鞄のたぐいを一通り見て回った。 「どうですか? 中身がオーラを発している鞄はありましたか?」 「たくさんあり過ぎて何が何だか分からないくらいです。そのオーラの色も、みんな微妙に違います」 「それはさすがですね。やはり貴女を連れてきて正解でした」 フィオナは上目遣いにブライディーを見た。 「そもそも、お嬢様はどんな本をお探しなのですか?」 「例えば、少し前に、貴女が『シスター・セアラが法王様から頂いた書き付け』に書かれていたということで、わたくしに見せられた文字について、書かれている本です。さらにつけ加えれば、ドイル様が貴女と一緒に行かれたアイルランド旅行で写して来られた文字について書かれた本です。それらの文字の辞書の類があれば、言うことはありません」 「分かりました。わたしは透視はできませんが、占いでやってみます」 上手く良い本…というか古文書を競り落とせば、行く行くはドイル様の役にも立ちそうだ、ということが分かって、メイドさんは俄然張り切った。 そこで、じっと心を静め、入念に時間をかけて会場全体を何度も眺め渡した後、ホールの隅のほうにある、ペシャンコの汚い書類鞄を指さした。 「あれなど、如何でしょうか?」 「分かりました。貴女を信じましょう」 二人が向かいかけた時、別の方向から二人の蝶ネクタイの紳士がやってきた。そのうちの、素早く入札カードに金額を書き込んで封筒に入れてその鞄の上に置いた恰幅の良い中年の紳士に、ブライディーは見覚えがあった。 「メイザース様…」 「おや、君は確かドイル君のところの…」 『黄金の暁団』総帥格の男は、貴族の令嬢の恰好をしたブライディーを見て、かすかに唇を歪めた。「これはどういう風の吹き回しなのかな?」 「その節はお世話になり有難うございました」 「…まぁいいだろう。お互い様だ」 フィオナとメイドさんが思わず息を呑んだのは、メイザースが連れている大学生ふうの青年のほうだった。単なる美男子と言うには少し違う、それでいて人を…特に女性を魅了せずにはいられない殉教者の透徹した灰色の瞳、全身からはかすかな狂気と麻薬媚薬の香りを発散させている。 「これだけでいいのかね、アレイスター。他はいいのかね?」 「そう、それだけでいいんです、メイザースさん」 アンソニー将軍を演じる俳優よりも存在感がある、果てしない野望と自信に溢れた声は、若き魔王のそれを感じさせた。 ブライディーがふと横に目をやると、フィオナが瞳を潤ませて「アレイスター」と呼ばれた若者の姿を食い入るように見つめていた。 「お嬢様!」 メイドさんが鋭く呼びかけると、フィオナはハッと我に返った。 「わたしたちもこの鞄の中身の本だけに、予算の全てをつぎ込みましょう」 「予算のすべてを、ですか?」 ブライディーは頷いた。 メイドさんの背中に隠れたフィオナは決められたカードに金額を書き込み、所定の封筒に入れて封をしてメイザースたちが置いた封筒の隣に置いた。 「帰りましょうメイザースさん。悔しいが我々の負けです」 アレイスターは、諭した。 「何だって?」 「いいではないですか。たかが本一冊。それもこだわるほどのものではない…」 「これが『こだわるほどのものではない』ですって?」 ブライディーは小さく叫んだ。 「そう、そんなに読みたければ、同じ内容をぼくが三日で書いてあげますよ。こちらはご婦人がたにお譲りすればよいのです」 アレイスターはうそぶいた。 「代わりにほかの本を落札して帰る、というのはどうだ、クロウリー君」 メイザースは狡猾そうな視線をキョロキョロさせた。「…たとえ自分たちにとって必要がなくても、安く仕入れて高く売ることができる…そういうことが確実にできる本があったら、一応手に入れておく、というのは?」 「やれやれ、そんなことをすれば、『黄金の暁団』の品格がますます下がりますよ」 アレイスターは、半眼に閉じた灰色の瞳でフィオナの顔をじっと見つめたまま言った。「…それでなくても内輪もめが絶えないのでしょう」 青年に見つめられたフィオナも、なぜか目をそらすでなく、顔を背けるでもなく、うっとりとした表情で立ちつくしていた。 (催眠術? いや違うわ。フィオナお嬢様は昔からこういうタイプの殿方がお好きなのよ) ブライディーの心は『気を付けろ、気を付けろ、この青年はいままで遭った者たちの中で最も手強いぞ』と告げ続けていた。 (…神秘的で、淫靡で、理屈で説明できない超人間的資質を持っていて、非日常の世界といとも簡単に行き来ができる、底知れぬ霊力の持ち主。お嬢様はもちろん、わたしでも鎧袖一触。いや、ドイル様やシスター・セアラ様でも互角に渡り合えるか、どうか…) 「どうですか。せっかくこうして出会えたのです。帰るのはいつでもできる。入札の〆切時間が来るまで、皆でご一緒にお茶でも」 アレイスターは若さに似合わない、ルシファーもかくやと思う優しい、それでいて大胆さに満ちた声で言った。 「フィオナ様、ご遠慮致しましょう。改めて人を介してから、というのが作法でございます」 ブライディーは男爵令嬢の、白く長い絹の手袋を嵌めた手を引っ張った。 「…そうですね。落札者が決まるまで、もう特にすることもありませんし、わたくしどもはこの鞄に本日の全予算をつぎ込みましたから」 フィオナはすでにメイドさんの姿は眼中になく、忠告も耳に入らない様子だった。 四人は揃ってホールの脇の喫茶店に入った。 アレイスターはウエイターを制して、フィオナとブライディーが座る椅子を引いてくれた。 「では、失礼ながら自己紹介させて頂こう。わしはサミュエル・メイザース。こちらはケンブリッジの学生で、我が『黄金の暁団』のホープにしてプリンスのアレイスター・クロウリー君」 「ぼくはまだ正式に入団の儀式をしていませんよ」 はにかんだ顔のアレイスターは、ギリシアかローマの男神の胸像より均整がとれていた。「近いうちにお願いしますよ」 「わたくしはフィオナ・ウォーターフォード。こちらは従妹のブリジットです」 メイザースはかすかに頬を引きつらせた。 アレイスターはフィオナが差し出した右腕の手の甲に、手袋越しに軽くキスをした。 ただそれだけでフィオナの顔がほのかに赤く染まった。こんな女主人の態度や表情を、メイドさんは初めて見た。 アレイスターは類まれな話術の持ち主でもあった。 西洋の心霊学や神秘学に加え、仏教やインドやチベット、東洋の文化にも深く興味を抱いていること。いつか将来彼の地に探検旅行に行きたいと思っていること、そこで人智を越える術を研究したいと思っていることなどを、いささかのよどみもなく滔滔と語った。 だからと言って人の発言を軽んじるということもなく、フィオナが語れば真剣に耳を傾け、常に当意即妙の返事を挟んだ。また、フィオナがたまたま口にした、辺境の言語に関する専門的な疑問に対しても、的確に自分の意見を述べた。 ものの三十分も過ぎる頃には、フィオナとアレイスターは、幼なじみもかくや、と思われるくらいの旧知の間柄になっていた。 「ブリジット、貴女もクロウリー様と何かお話されたらどうですか?」 「あの… その…」 「貴女はぼくのことを少し恐れておられるようだが…」 アレイスターは紅茶を一口啜って微笑んだ。「ぼくは貴女のことを素晴らしいかただと思っています。お友達思いで、困難にめげない性格で、何より先のことを見通せる力を持っていらっしゃる」 しばしの沈黙があった。 気を利かせるつもりで、フィオナは自らのケンブリッジのニューナム女子校への進学を相談した。 「ぜひ、ご進学なされるべきです」 アレイスターは力を込めて答えた。「これからは女性も自らの意志を持ち、道を切り開いて行くべきだと思います。ケンブリッジは緑豊かな空気の良い良き学舎です。ニューナムは教授から講師陣に至るまで全員が女性で安心できます」 あの誇り高いフィオナは、王立シェークスピア劇団の若手人気ハムレット役者の入り待ち、出待ちをする町娘たちみたいに頬を林檎のように赤らめ、口元をほころばせ、アレイスターの語ることや身振りに夢中になっていた。 競りが終わり、中身を当てた客の歓声、外した客の溜息が渦巻く中、目的の本は無事にフィオナが落札した。手に入れた途端、彼女はまるで夢から覚めたように現実に立ち返った。 「ブライディー、きょうのアレイスター様とのことは、お父様やドイル様には内緒にね」 男爵令嬢はメイドさんをすがるような目で見つめつつ、ほんのかすかに頭を下げた。 こんなフィオナを見るのも、ブライディーは初めてだった。 「かしこまりました、お嬢様」 帰りの馬車の中、ロンドンの夕陽の輝きの中で夢中でその本を読み漁るフィオナは、もう普段の彼女に戻っていた。 (次のエピソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート 「デイジー、チャーリーと出会う」 ロンドンはカラリと晴れた、とある春の日曜日。朝の十時頃。大小の教会から出てきた敬虔な人々は、その足で買い物やマチネーに向かったり、散歩を楽しんだりしていた。 糊をきかせたてのメイドさんのお仕着せのまま礼拝を済ませてきたデイジーが、ちっちゃい子だけがお参りしたご褒美に貰える、きれいな聖書の絵はがきを胸に抱いて歩いていた。と、ある広場の噴水のそばの人だかりを見つけ、人混みの又のあいだをくぐり抜けて最前列に出た。 しぶきがかかるくらいの縁の上に、自分よりずっと幼い、つぎあてだらけのシャツとズボンを着た六歳くらいのくりくりした目の男の子が、伴奏もないのに実に巧みな足さばきでタップダンスを踊っていた。ある時は真剣に、またある時は剽軽に、千変万化の振り付けで集まった観衆に精一杯の愛嬌を振り撒き、少しも休もうとはせず踊り続けた。 「あんなに小さいのに偉いねぇ」 「でも、あの子、すごく上手いじゃない」 囁きあっていた大人たちは、男の子の踊りが終わるとひとしきり拍手した。すると男の子はやおら傷だらけのヴァイオリンを取り出して流行歌を次々と演奏したが、これがまた上手かった。それから素早くピエロの化粧をすると逆立ちやトンポ返りやバック転をまじえておどけてみせた。人々は喝采し、石畳の上に置かれたすり切れた帽子に向かって小銭を投げた。 男の子はお金を投げてくれた人、一人一人に深々と頭を下げ、帽子に入らず敷石の上にこぼれた小銭を、これまた軽やかな身のこなしで一枚ずつ拾って、帽子の中に入れていった。 デイジーもまた五ペンス硬貨を取り出すと、駆け寄って帽子の中に入れた。 「有難う、ちっちゃなメイドさん」 男の子は小銭がいっぱい入った帽子を胸の前で横切らせて最敬礼してくれた。 「あなたのほうが、あたしよりずっとちっちゃいじゃない」 「ごめんごめん。そうだね」男の子はニコニコしながら言った。「おいら、チャーリー。雨さえ降らなければ毎週日曜日はここで踊っているから、また見に来てくれよな。振り付けだって、毎回新しいのを考えているんだぜ」 「あたし、デイジーよ。…教会には行かないの?」 ほんの少し、間があった。 「おいら、ユダヤ人なんだ。だから、休みがあるとすれば金曜日なんだ」 「そう… あたし、金曜日は小学校に通わせてもらっているの。秋からは中学校へ上がるのよ」 「そうかぁ、いいご主人様なんだね。…おいらも学校へ行きたいなぁ… でもさ、勉強なんてその気になったらどこでてもできるんだぜ。おいらだって、読み書きソロバンくらいはできるし、芝居の台本だって読めるよ」 チャーリーはそう言って、塔が聳える空を仰いだ。 二人はいつか、噴水の縁に座って足の先を水面につけて揺らせながら話し込んでいた。時おり強い風が吹いて、吹き上がった噴水の水がかかるのにも気にせずに。 「…ふーん、きみのお姉ちゃんは占いの名人なのか。一つおいらの未来も占ってもらおうかなぁ…」 「こんど一緒に見に来るね」 「うん。それまでに片手逆立ちがまじるやつを練習しておくよ」 とそこへ、白い顎髭を生やし、山高帽をかぶったユダヤ教の律法学者が走ってやって来た。 「チャーリー、大変じゃ。母ごがまた…」 「母ちゃんが?」 靴などをひったくったチャーリーは裸足のまま血相を変えて駆けだした。 かなり遅れてデイジーと律法学者も後に続いた。 何人かの近所の人たちが、狭い、汚いアパートの部屋の中を恐る恐る覗き込んでいた。中では、すり切れた舞台衣装のようなドレスを着た一人の夫人が、傷だらけのテーブルの上に小銭の山を積み上げて、主演女優のような見栄を切ったまま、けらけらと笑い続けていた。 「見てみて、金貨の山よ! これだけあったら、何でも好きなものが食べられるし、買いたいものだって買えるわ!」 「母ちゃん、よく見てくれ、これは金貨でも銀貨でもないよ。みんな一ペニーや五ペンス銅貨だよ。 これ全部合わせても、ここの家賃にも足りないよ」 「有難う、チャーリー、全部おまえが稼いでくれたんだよね。母さんは嬉しいよ」 夫人は涙を流しながら、すがりつこうとするチャーリーをきつく抱きしめた。 「さぁ、こんなにあるんだ! みんな一枚ずつもって帰っておくれ。久しぶりの大入り袋だよ」 夫人は近所の人たちに向かって小銭を投げつけた。 「母ちゃん、しっかりしてくれ。もうじきシドニー兄ちゃんも船員を辞めて帰ってくる、と言っているから… そうだ! おいらの新しい踊りを見てくれ。良くないところがあったら教えておくれよ!」 チャーリーは朽ちかけた床の上で、タップダンスを踊り始めた。 チャーリーの母は、誇らしげな笑顔を浮かべて、息子のダンスをうつろな視線で追っていた。 デイジーは、促されて、近所の人々とともにその場から去った。 (次のエピソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド(72) ショート・ショート 「メイドさんケンブリッジへ」(前編) ドッジソン教授が病を得て少々長く伏せっている、ということで、英国心霊研究協会を代表して、ドイルが一泊で見舞いに行くことになった。 「見舞いの品は何がいいでしょう?」 「そうだなぁ… 教授はずっと独身だけれども、ちっちゃくて可愛い女の子が大好きだから、ブライディーとデイジーを連れて行ってあげたら、一番喜ぶんじゃあないかなぁ」 クルックス博士は首をひねった。 「そうそう。わしも調子が悪いときは、南洋を探検した際に集めてきた綺麗な蝶々を眺めると、元気が出てきますぞ」 ウォーレス博士も頷いて、メイドさんたちがお供を仰せつかることになった。 汽車に乗ったことがないデイジーはそのことを聞くと喜んで、皿を一、二枚割ってしまった。が、それにもめげず、手作りのクッキーを焼き始めた。ブライディーはデイジーのために特売で買ったB反の、レモン色のギンガムの生地の織り傷を避けてサマードレスを縫うことになった。自分は去年縫った青いサッカーのサマードレスの背丈を伸ばして着ていくことにした。 さらに、どこからかその話を聞きつけたフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢から、またしても手紙が来た。 『ケンブリッジに行かれたら、ぜひともニューナム女子校へ行って、雰囲気などを見てきて頂けませんか? わたくし自身が下見に行ったり、願書を貰いに行く時には、もう後戻りはできなくなるでしょうから』 汽車に乗っているあいだじゅう、デイジーは窓から身を乗り出してはしゃいでいた。駅に止まるたびに、地元の商人が売りに来るサンドイッチ弁当やカップケーキなどのお菓子を穴のあくほど眺めて結局買わず、汽車が動き出してからは車窓の風景をたどたどしい絵でスケッチをしたりしていた。かと思うと、いつのまにかコンパートメントのソファーに横になってすやすやと眠っていた。 緑したたるケンブリッジの学園都市。 ブライディーとデイジーは、生まれて初めて、若い男子学生たちが広いグラウンドで土まみれになってサッカーやラグビーの試合に興じているのを目の当たりに見た。選手の中に「お兄ちゃん」によく似た青年を見つけると、 (お兄ちゃんだって、頭はいいし、スポーツだって得意なのに… お金があって、国教会だったら、大学に行って、立派なお役人や学者にだってなれるのに)と、いう思いが胸をよぎった。 観客席では、白い木綿のサマードレスに白い帽子の若い女の子たちが一かたまりに固まって黄色い声援を送っていた。 (あのかたたちが「女子大生」かしら? それとも男子学生たちのただのお友達?) メイドさんが思い切って手を振ると、彼女たちも手を振り返してくれた。 「やぁ、わざわざ来てくれてどうも有難う」 敷地内の学寮の、壁や箪笥の上に無数の可愛い女の子たちの写真を飾った部屋。ドッジソン教授は写真機を取り出しながら言った。「心配をかけて済まなかったね」 「お元気そうで安心しましたよ」 ドイルも、パイプを一服したいのをこらえながら笑った。 「…ブライディー、デイジー、よく来てくれたねぇ。ブライディー、チェスの腕前は上がったかね? 早速だけれど写真を撮ってあげよう」 二人は満開の花壇や薔薇を背にして何枚も、何枚も写真を撮ってもらった。 「どうだろう、近くに小川が流れていて、途中に家鴨たちがいる池なんかもあるのだけれど、ボート遊びでもしないかい?」 「いいねぇ、ぜひ連れて行ってもらいなさい」 ドイルは、振り返って見つめるメイドさんたちの肩を軽くたたいて送り出した。 「ぼくは、ちょっと図書館で調べたいことがあるんだ。夕方、ここに迎えに来るよ」 ロンドン育ちのデイジーにとって、川遊びも初めてではしゃぎ回り、ついには間近に寄ってきた家鴨の子に手を伸ばそうとして、危うく落ちるところだった。 「本当に楽しかったですわ。有難うございました」 二人がペコリと頭を下げるとドッジソン教授もこれ以上はないというくらい目を細めた。 「明日は帰るだけなのかね?」 「昼過ぎの汽車の切符を買いました。それまで、ぼくとブライディーはニューナムの見学に行きますが、デイジーは暇ですよ」 「そうかいデイジー、じぁあ明日は昼までぼくが作ったお話を聞かせてあげよう。全部新しいお話だよ」 「うん、ドッジソン先生って、こんないいところで先生をしておられたのですね」 デイジーも瞳を輝かせた。 ケンブリッジでの宿の夜明け前、ぐっすりと眠っているデイジーの毛布をかけ直してから手洗いに立ったブライディーは、そこここの学生寮の窓に、夜通し消えない蝋燭やランプの明かりが数え切れないほど灯っているのを見た。 翌朝、デイジーを教授に預けたドイルとブライディーは、小さな馬車でニューナム・カレッジに向かった。 到着するなりドイルは、ファンと称する女性講師や女子学生たちに取り巻かれて、喫茶室に連れて行かれてしまった。 「やれやれ。『取材』はドイル様がやってくださるでしょう…」 一人ポツンと後に取り残されて、所在なさげなメイドさんだったが、気を取り直してその辺りを散歩することにした。 色とりどりの花々が咲き乱れる花壇から、そっと開け放たれてレースのカーテンがそよぐ窓を覗いてみる。大きな講義室では、詩の朗読の授業をやっていた。 「しづかなる夜は なかなかに ねなましものを たまゆらの 過ぎ去りし日の ものおもい たのしきひかり はこびくる」 (トマス・ムーア/中島 敦訳) ブライディーは、故国アイルランドの詩人の詩を、イングランドの若い女性たちが次々と読んでいるのを聞いて、少し誇らしくなった。 (だってワイルド様の小説にしても、たまらなく素敵なんですもの) 別の教室では、何が何やらさっぱり分からない、難しい数学か物理の公式が黒板いっぱいに書き付けられていたが、教えているのはクルックス博士やドッジソン教授のような男性ではなく、でっぷりと太った中年の女性で、女学生たちは皆、眉間にしわを寄せてノートをとっていた。 また別の教室では天文学を、その隣では教授も学生たちも全員染みだらけのエプロンドレスに身を包んで、もうもと巻き起こる煙の中で化学の実験をやっていた。 いくつか回っているうちに、小さな教室で、度の強そうな眼鏡をかけた若い女性の講師が、黒板にゲール語に英語のアルファベットを無理矢理に当てた文章を、五、六人の女子生徒たちに読ませているのに行き当たった。 「先生、左から…番目と…番目と…番目の単語は何と発音するのですか?」 フィオナによく似た女子学生が立ち上がって質問した。 「えー、あー、そのぅ…」 眼鏡の女性講師は、答えられないような様子だった。 ブライディーは思わず、細く開いていた窓の間から顔を覗かせて、ゆっくりしっかりとその三つの単語を含む文章を発音した。 「『真の宝は手に入れるものではなく、巡りあうものだ』という、古いケルトの諺です」 「だ、誰ですか、貴女は?」 女性講師も女子学生たちも一斉に顔を引きつらせた。 「いえ、あの、わたしは…」 「分かった! ガートンの子よ!」 一人が立ち上がって、指さした。 「そうよ、確かフィールド・ホッケー・クラブに赤インクで書かれた果たし状が…」 「きょうがその試合の日よ!」 「皆さん、ガートン女子校のじゃじゃ馬娘たちに、勉学ででも、スポーツででも、断じて後れをとってはなりません!」 女性講師は金切り声を出し、メイドさんはスカートの裾をつまんで、一目散に走って逃げ出した。 女子学生たちは、試合を見ようと各教室から飛び出してきた。 ブライディーには、彼らが自分を追ってきたように映った。そこで、ニューナムとガートン両女子校の生徒たちが、黄色い声を張りあげながら、ドレスのくるぶしまである長いスカートの裾を乱しつつスティックを振り回し、互いにボールを相手のゴールに叩き入れようと入り乱れている芝生のグラウンドを横切って逃げることにした。 「これを持つのね」 コートの外に置いてあったスティック立てから一本拝借して中に入ると、ちょうど緑の芝生を這う白い蛇のように目の前にボールが飛んできた。素早く振り切ったスティックは見事に真芯でとらえた。 ボールはものすごい回転とともに、女子用が全部揃わない専用防具の代わりに、胸当てなど西洋甲冑の前面半分で代用して身を固め、スネ当ての代わりにペチコートを重ねばきし、長い髪を振り乱しなびかせたゴールキーパーのすぐ横をかすめて、ゴールを割った。 メイドさんが息を弾ませながら待ち合わせ場所に戻ってくると、ドイルが両手に持ちきれないほどのパンフレットや献呈本を馬車に積み込もうとしている最中だった。 「やぁ、ブライディー、きみも女子大生になりたいかい?」 「なってみたいです! 思いっきり、自分が興味のあることを勉強したり、お友達を作ったり、遊びたいです」 二人はドッジソン教授の学寮でデイジーを拾った。汽車に乗ると、宵にはロンドンの街の灯りが見えてきた。 (次のエピソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート 「メイドさんたち、オペラを見に行く」 「大変失礼なのだが…」 英国心霊研究教会の重鎮にしてパトロンの、いつも気むずかしい顔をしているデュード侯爵が、紋章の透かしの入った手漉きの切符入れから、オペラのペア・チケットを机の上に置いて並べて言った。 「非常に楽しみにしていたのに、のっぴきならぬ急用が入って行けなくなってしまった」 ブライディーが覗き込むと、今夜の日付の王立ロンドン歌劇場。出し物は「フィガロの結婚(英語版歌詞台詞)」だった。 「…ここに置いておくから、暇があって行きたい人に渡してくれたまえ」 侯爵が帰ったあと、デイジーもしげしげとそのチケットを覗き込み、しばらく考えてから言った。 「お姉ちゃん、安売りチケット屋さんに売りに行こうか?」 ブライディーは食堂兼会議室の大時計をチラリと眺めて肩をすくめた。 「だめよ。もう時間がないわ」 「じゃあ、歌劇場の前で売ろうか?」 「お巡りさんに捕まるわよ、デイジー」 メイドさんは両手を腰に当て、眉をひそめた。 「『お兄ちゃん』と一緒に行ったら?」 デイジーはニヤニヤと笑う。 「連絡がつかないし、第一、お兄ちゃんの趣味じゃないような気がするわ」 「あたしを連れて行って。あたし、オペレッタは何度か連れてって貰ったけれど、本物のオペラは行ったことがないの」 チケットを握り締めたデイジーは、すがるような目で仰ぎ見た。 「子供には退屈よ。それにこの切符をよく見て。『特等バルコニー席』と書いてあるでしょう? 天井桟敷の立見席ならともかく、ここに座ろうと思ったら、殿方は夜会服を、女性はドレスを着ていかなければだめなの。ついでに言うと、バルコニー席と言うのは女の子同士が二人で行ってはだめなの。必ずカップルで行かないと」 デイジーは顔をくしゃくしゃにて、目にはいっぱい涙をため、鼻をすすりはじめた。 「行きたいよ… 天井桟敷でいいから見物したいよ」 と、メイド控え室の窓ガラスをトントンと叩く音がした。ブライディーが顔を上げると、「お兄ちゃん」が笑っていた。 「お兄ちゃん!」 「ちっちゃい子を、それも自分が差配する子を泣かせるなんて、それこそダメじゃないか、ブライディー」 「あっ、お兄ちゃんだ! お姉ちゃん、お兄ちゃんと行ってくればいいよ。また貸衣装屋さんでドレスを借りて…」 デイジーはけろりと泣きやんで、はしゃぎ始めた。 「デイジー、一番見に行きたがっていたのは貴女でしょう? お兄ちゃんに連れて行ってもらいなさい。…お兄ちゃん、できたら、デイジーをオペラに連れて行ってあげて欲しいのだけれど」 「お安い御用だ」 「嫌だ!」 デイジーはまたむずかり始めた。「今夜は、もしかしたらどなたか会員のかたがいらっしゃるかもしれないし、お屋敷を留守にするのも不用心だし…」 「三人で行こう」 「お兄ちゃん」は宣言した。「もう一人分、三人が割り勘でお金を払って、三人でバルコニー席に座ったらいいんだ。俺たちはどこかの成金の郷紳の三兄妹で、大学生の俺が、妹のおまえたちを連れてきたということにすれば」 ブライディーが、このあいだフィオナお嬢様からオークションに付き合ったお礼に貰った春物の財布の中から、一緒に入っていたソヴリン金貨を取り出すと、お兄ちゃんも靴底から同じ金貨を取り出した。 「お兄ちゃん、それは?」 「心配するな。沖仲仕同士の拳闘の大会で優勝した時の賞金さ」 「もう! そんなこと… しないでね」 ブライディーは泣き顔になった。 「俺は勝てる相手としかやらない」 お兄ちゃんは涼しい目をして笑った。 デイジーも、スカートの隠しポケットから、大きなパーティをやり終えた時にご祝儀に貰ったクラウン銀貨を取り出した。 「お兄ちゃん」の貸衣装選びは五分で終わったが、デイジーのそれは長くかかった。生まれて初めて袖を通す絹のドレスに彼女は大はしゃぎだった。 お兄ちゃんと一緒にドレスを選んでいるあいだじゅう、ブライディーの胸はドキドキと高鳴っていた。そして結局、自分がいいと思うものより、お兄ちゃんが「こっちが似合うよ」と言ってくれたドレスのほうを選んだ。 花嫁花婿衣装が飾ってあるところでは、二人とも顔を赤くしてうつむいたままで、デイジーに大いに冷やかされた。 コペントガーデンの王立歌劇場に辻馬車で乗り付け、案内されたバルコニー席に座ると、同じバルコニー席のそこここから、 「どちらの家のおかたかしら?」とか、 「かわいいお嬢様たちだね」というような囁きが聞こえてきた。 「フィガロ」は聴きごたえも見ごたえも十分だった。 「どう、デイジー、お話しの筋はよく分かった?」 芝居がハネた後、ブライディーは意地悪く訊ねた。 「面白かったよ。伯爵が奥さんの侍女に浮気をするんだけれど、侍女に会いに行ったら、奥さんにすり替わっていたんだよね。それでフィガロは、両思いの侍女と無事に結婚できて…」 ブライディーやデイジー目当てに寄ってこようとする若い貴族や郷紳の男たちを、お兄ちゃんは鋭い目で睨み付けて、ことごとく追い払った。 デイジーは帰りの馬車の中で眠ってしまった。ブライディーも聴いて覚えたばかりのアリアを鼻歌でくちずさみながらうつらうつらしていると、いつか気づかないあいだにお兄ちゃんが細い肩を抱いてくれていた。 (次のエピソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート 「メイドさん、自転車に乗ってみる」 ある晴れた春の日の昼休み、ブライディーの「お兄ちゃん」は颯爽と、自転車に乗って英国心霊協会の勝手口にやってきた。 「お兄ちゃん、これ一体どうしたの?」 「買える訳がないだろう。自転車工場で働いている友達から、『とにかく人目につくところで乗ってくれ』と頼まれて、無理やり押し貸しされたんだ」 自転車は、かなり前からある前輪が大きくて後輪が小さいタイプではなく、前輪と後輪が同じ大きさで、車体は鉄パイプでできていて、車輪にはゴムのタイヤが巻かれていて、サドルの荷台が付いている最新型のものだった。 「どうだい、ブライディー、乗せてやろうか?」 「危なくない?」 「大丈夫さ」 メイドさんは長いスカートの裾を整え、足を揃えて恐る恐る荷台に横座りに座った。 「軽いな」 お兄ちゃんはペダルを踏み込むと、通りを走り出した。 ゆっくりと走っている馬車を追い抜き、身体を傾けて角を曲がり、風を切って進んだ。 ブライディーはお兄ちゃんの腰にしがみついていた。 「どうだい?」 「ちょっと怖いわ」 お兄ちゃんはスピードを落とした。 頬に当たる風が心地よかった。 「これくらいでどうだろう?」 「気持ちいいわ」 メイドさんは思わず顔をお兄ちゃんの背中に押し当てた。 そのあたりをぐるりと一周すると、徒歩でも馬車でもない風景を目の当たりにして、新鮮な気分になった。 無事に心霊研究協会の勝手口に戻ってくると、腕組みをしたデイジーが頬を膨らませて待っていた。 「お姉ちゃん、ずるい!」 「ごめん、ごめん、デイジー。…お兄ちゃん、デイジーも乗せてあげて」 「デイジー、しっかりつかまってなよ」 お兄ちゃんは今度はデイジーを乗せて出発した。 二人はなかなか戻ってこなかった。メイドさんはほったらかしたままの台所を気にしながら、そわそわしながら待っていた。 そして、二人がようやく帰ってくると、ほっと胸を撫で下ろした。 「すごく楽しかったよ、お姉ちゃん」 デイジーは息を弾ませて言った。「…子供用の自転車もあるんですって」 「こんど友達に頼んで借りてきてやるよ」 お兄ちゃんは汗を拭いながら言った。「…と言っても、荷馬車にでも乗せてこないと、ここまで持ってくる方法がないな」 「お願いします、お兄ちゃん。…そうだ、お姉ちゃんが乗ってみたら?」 「えっ!」 メイドさんは思わずたじろいだ。アイルランドにいた頃は、よくロバや子馬の背中に乗っていたが… 「乗ってみろよ、ブライディー」 お兄ちゃんはハンドルを手渡した。「近頃じゃあ若い女の子からおばさんまで、自転車に乗っているのをよく見かけるぜ」 メイドさんは長いスカートがひっかからないように、そおっとサドルにまたがってみた。 そして片足をペダルの上に乗せ、もう片方の足で地面を蹴ってみた。ペダルを漕ぐと、自転車は少しふらふらしながらも、ゆっくりと進み出した。 「いいぞ、その調子だ。いきなりあんまりスピードは出すなよ」 お兄ちゃんもデイジーも走ってついてきてくれた。 (歩くよりずっと早い! ちょっとした用事や買い物なんかにとても便利そうだわ) 思い切って、だいたいの値段を聞いてみた。残念ながら、とても手が届かなかった。 「こういう機械物は大量生産されるとどんどん値段が下がるから、じきに買えるようになるさ」 お兄ちゃんは明るい声で言った。 「この自転車、一ヶ月先に返す約束なんだ。ここに置かせて貰って帰るから、気が向いたらぼちぼち乗ってみなよ」 「えっ本当?」 これにはブライディーよりもデイジーのほうが喜んだ。 「お姉ちゃん、乗せてね」 「人を乗せるなんて、まだまだ」 メイドさんは自転車から降りて、スカートの裾を直しながら笑った。 (次の絵ピーソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート 「メイドさんたち、ストーンヘンジへ行く」 ドイルが常連の心霊学の雑誌に、何度目かのストーンヘンジに関する文章を書くことになり、新たに取材し直すことになった。今回は編集者は同行しないとかで、またブライディーが鞄持ちを仰せつかった。すると、デイジーの機嫌が悪くなった。 「…いつもお姉ちゃんばかり。…アイルランドは仕方がないとしても…」 「このあいだケンブリッジやオペラに一緒に連れて行ってあげたじゃない」 ブライディーは懸命になだめたものの、要するに一度小旅行や観劇などの面白さを覚えたデイジーを説得するのは難しかった。「ドイル様の鞄はとても重たいのよ。写真機だって… もしも疲れたって『一休みしたい』などと言うことは言えないのよ」 「それは、このお屋敷で仕事をしていたって一緒だもの」 デイジーももはや、簡単には引き下がらない。そう言えば、最近の働いている時の張り切りかたは、明らかに「次の何か」を楽しみにしているように思えた。 「みんなで行こう。わしたちはこうしてロンドンに集っているし、有志同士でフィールドワークを行ってはいるが、親睦目的の小旅行はほとんどしたことがない」 「それは名案ですな」 クルックス博士やウォーレス博士が言い出した。 「どうじゃな、ドイル君だけは仕事ということで、後は適当にくっついて行く、というのは?」 「馬車が二台で一泊ということになれば、メイドさんも二人いたほうがよろしいな」 参加者を募ったところ、七、八人が集まった。デイジーが飛び上がって喜んだことは言うまでもなかった。 当日は薄曇りで風は湿気を含みだしていたものの、まずまずの天気だった。ロンドンからの朝早い汽車で最寄りの駅に降り立った一行は、くじ引きで馬車に分乗した。 ブライディーとデイジーは、初めて見る巨大な石の構築物に目を見張った。なるほど、アイルランドにも巨石遺跡はあるものの、ソールズベリー平原の真ん中にどんとあるのは圧巻だった。 「中央の石をトリリソン、まわりに配置されているのをそれぞれサーセン列石柱、ブルーストーン、ヒールストーン、オーブリーホールなどと呼ぶそうじゃ」 「この場所は、夏至と冬至の日の出の方角がほぼ直交する特殊な緯度にあるらしいですぞ」 「最初の石が五千年前に設置されてから、完成までに千四百年かかったと言われているそうじゃ」 一人黙々と思索に耽っているドイルに代わって、クルックス博士やウォーレス博士たちが案内書を見ながら説明してくれたものの、二人とも理科系ということで、今ひとつロマンを得られなかった。 そろそろ昼食の時間が近づいてきたので、ブライディーは馬車から折りたたみ式のテーブルやら椅子やらを降ろして組み立ててテーブルクロスを敷いた。後は夜明け前から作ったサンドイッチやらローストビーフ、チキンや飲み物などを並べるだけ、となったので、デイジーを呼びに行こうとした。 ところが、デイジーの姿はその辺りのどこにも見あたらなかった。 (デイジーったら、わたしたちはメイドだということを忘れて、遊びほうけているのでは?) いったんは怒ったブライディーだったが、石柱の陰にも、どこにもいないのに不安になってきた。駆け足でストーンヘンジの回りを一周しても影も形もなかった。 (おかしいわ。黄色いドレスを着ていて、とても目立つはずなのに… でも、もしかして、ウサギの穴か何かに落ちていたりでもしていたら…) ドイルやクルックス、ウォーレスの両博士、他の会員たちに訊いてみようかとも思ったが、みなが楽しそうに散歩したり歓談したりしているので、聞きづらかった。 (こうなったらどこへ消えたか占ってやるわ) 誰かが持ってきてそのままのダウジングの棒を手にとって心を静め、デイジーが隠れ潜んでいる場所を占った。 棒は何も力を加えていないのに、くるっくるっと振れて、最後にピタッと一定方向を指した。 ブライディーは棒の先が狂わないように、ゆっくりとその先に進んだ。 と、ある列石柱の陰に黄色いドレスの端がチラリと見えた。 「見ぃつけた!」 走って駆け寄ろうとすると、デイジーは石柱と石柱のあいだの何もない空間に小さな掌を差し伸べていた。 「デイジー、隠れんぼなんかしている場合じゃないでしょう? お昼の支度をしなくちゃあ) 「あっ、お姉ちゃん、ごめんなさい。…でも、ここに不思議な入り口があるよ」 なるほど、デイジーが指し示す先には、蚊帳の出入り口に似た薄い空間の裂け目があった。 「だめだめ、ここはそれでなくても言われのある場所なのよ。こんなところに入ったら、今度こそ本当に二度と帰って来れなくなるかもしれないわよ」 ブライディーはデイジーの手を強く引っ張って、陽炎が立ち上っているところから立ち去ろうとした。 と、ゆらめきの向こうに、何か人影のようなものが見えた。 「お父さん… お母さん…」 メイドさんは帳に手を差し入れて広げようと試みた。 「お姉ちゃん、あたしに言っておいて…」 デイジーはむずかるというよりも慌てた。「…いい、デイジー、あなたは絶対に付いてこないで、ドイル様たちのところに戻るのよ」 腰を折ってデイジーを言い含め、自分だけその先に一歩を踏み出しかけた前にデイジーが立ちふさがった。 「…そうだ。お姉ちゃんの両親は二人とも病気で亡くなったのでしょう? お薬を買っていってあげたら? お姉ちゃんはいまなら多少のお金もあるし、お薬や、欲しがっていたものを買っていってあげたら…」 「だめよ。間に合わないわ。隙間が閉まってしまうわ」 なるほど、ゆらぎは見る見る狭くなっていた。 「…とても町に買いに行ってる時間はないわね」 デイジーはおろおろするブライディーのスカートを引っ張った。 「止めておきなよ、お姉ちゃん。向こうはたぶんこの世じゃないから、たぶんお姉ちゃんの占いだって当たらないよ。すると、来たところ…ここ…が分からなくなってしまって、二度と…」 「かもしれない… でも亡くなったお父さんやお母さんにもう一度会えるのなら…」 彼女は目にいっぱいの涙をためて言った。「…ドイル様たちとのことや、デイジー、あなたのことや、そのほかいっぱいいろんなことを話して聞いてもらうの」 「お姉ちゃんのお父さんとお母さんは天国にいらっしゃるのだから、改めて話さなくても全部ご存じのはずよ」 デイジーは泣きながらスカートの裾にしっかりしがみついた。 「おーい、ブライディー、デイジー、そんなところで何をしているんだ?」 「お腹がペコペコだ。早く弁当にしよう」 遠くでドイルや博士たちが呼ぶ姿が見えた。 「ほらほら、お仕事だよ、お姉ちゃん。いつもあたしに『お仕事が一番大事』と言ってるくせに… 仕事を放り出してお父さんとお母さんに会いに行っても怒られるだけだよ」 「でも…」 陽炎の隙間はこれ以上狭まるともうくぐり抜けられないぐらいになっていた。 「何かあったのか?」 遠目にも表情をこわばらせたドイルが小走りに走ってきた。 「でも、この近所に住んでいるのならともかく、ロンドンに帰ってしまうと、当分こんなチャンスは…」 「そんな問題じゃないよ、お姉ちゃん!」 「ブライディー、どうしたんだ、止まれ!」 ドイルも叫んだ。 「あっ、あそこに、昔飼っていて死なせてしまったネコが…」 彼女はついに、ほとんど閉じかけている隙間から向こうに行ってしまった。 …そこは白い靄に包まれていて、外から眺めた時よりも、何も見えなかった。 「お父さん、お母さん!」 繰り返し呼んでも、返事は返ってこなかった。 ふと振り返ると、自分が入ってきたところが分からなくなっていた。 (占いで、出口を見つけて帰ろう…) エプロンドレスのポケットから棒を取りだして掌にたてても、不思議なことに棒はどちらの方向にも倒れなかった。メイドさんの顔から血の気が引いた。 (どうしよう! やっぱりデイジーの言った通り…) 辺りを駆け回っても、一定の方向にまっすぐに走っても、何もない、ただ白い霧が這う地面が続いているだけだった。 「助けて! ドイル様、デイジー、クルックス博士、ウォーレス博士!」 何度か叫んでも、誰も答えてはくれなかった。 (もうだめだ… やはりデイジーの忠告を聞いておけば良かったんだわ…) 頬を幾筋もの涙が伝い、疲れから全身の力が抜けて、気が遠くなりかけた。 と、その時、遠くから呼びかける声が聞こえてきた。 「ブライディー! ブライディー! 大丈夫か、しっかりしろ!」 「しっかりしてよ、お姉ちゃん!」 薄く目を開くと、ドイルやデイジーや、クルックス、ウォーレスの両博士たちが、心配そうに覗き込んでいた。自分は列石柱を見上げる位置にある芝生の上に寝かされていた。 「大丈夫、少し疲れが出ただけのようだ」 ドイルは彼女の額と自分の額に代わる代わる手を当てて言った。 「このところ、彼女たちにはハードスケジュールが続きましたからなぁ」 博士たちもホッと胸を撫で下ろした様子だった。 「みなさんすいません。そうじゃなくて…」 言いかけて彼女は、口をつぐみ、ホッとして再び目を閉じた。 (次のエピソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート 「サナアから来た少年」 「今度は、父上や、屋敷の者たちには内緒の買い物なのです」 フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢は、ドイルたち会員がいない時を狙いすまして英国心霊研究協会にやってきた。 「お嬢様、もう堪忍してください」 ブライディーは両手を胸の上で組み合わせ、蚊の泣くような声で言った。「以前ご奉公させて頂いたご恩に報いるため、お役に立ちたいのはやまやまなのですが、そのことがもとで、万が一にでもお嬢様の身を危険にさらすようなことになれば、悔いても悔い切れないと思うのです。事実、わたくしやデイジーは、神様から頂いたささやかな能力のために、これまで何度も死ぬかと思うような目に遭ったんです」 「言い換えれば『冒険を楽しんだ』ということでしょう?」 男爵令嬢は目を大きく見開いて、ブライディーと、紅茶を運んできたデイジーを睨み付けた。「…ずるいです。あなたたちだけ。わたくしは何も『アフリカの草原やアマゾンの密林を探検するので付き合え』などと申しているのではありません。ソーホーに新しくできたアラビア語の書店を見に行きたい、と頼んでいるだけなのですよ」 「お屋敷の侍女やメイドと行かれたら良いではないですか。それに、なにゆえアラビア語なのですか?」 「わたくし、ケンブリッジのニューナム女子校をアラビア語科で受験しようと思っているのです。…近頃往来でときどき見かける自動車。いまはまだ石炭で動いているものが多いですけれど、行く行くは石油を燃料とするそうなので、修得しておけば彼の国の貴顕淑女との外交に微力を尽くせるのではないか、と」 「いままでの流れからすると、てっきりゲール語科に進まれるものかと…」 「ゲール語は、人に教える自信があります」 フィオナは優雅に紅茶を一口啜った。 「…お願いします、ブライディー。貴女がいれば銅貨で金貨の買い物が出来るのです。節約が大切なのは、メイドも貴族も同じなのです」 「勘弁してください、お嬢様」 ブライディーはひたすら頭を下げ続ける。 「メイドではなく、親友と思えばこそ、父上にさえまだ語っていない夢を打ち明けたというのに、これほど頼んでもだめですか?」 二人のあいだがだんだん険悪になってきたのを察して、デイジーがおずおずと口をはさんだ。 「あの… お嬢様。あたしでよければ…」 「デイジー、何を言ってるの!」 金切り声を上げるブライディーを片手で制して、フィオナは銀の盆を持ったままたたずむデイジーに目をやった。 「デイジー、噂は小耳にはさんでおりますが、あなたにも何か不思議な力があるのですか?」 「あたし、ほかの人が見えないものがいろいろ見えます」 「デイジー!」 ブライディーが平手打ちしようとして振り上げた手を、立ち上がったフィオナがハッシと受け止めた。 「暴力はいけません。…デイジー、わたくしに付き合い、なおかつ秘密を守ってくれますか?」 「喜んでお供させて頂きます」 笑顔で答えたデイジーは、ブライディーのほうを振り向きざま「あかんべー」をした。 「デイジー、もう絶対に、何があっても助けてあげないわよ」 「いまの言葉は、わたくしに対しても、と考えてよいですか?」 フィオナの言葉に、ブライディーはうつむいて黙るだけだった。 「サダルメリク」というその専門書店は、ソーホーの裏通りの奥の非常に分かりにくいところにあった。 「有難うデイジー、貴女がいなければ諦めて帰ってしまうところだったわ」 かすかに乳香や没薬の香りが漂う鰻の寝床のような細く長く薄暗い店内、フィオナはさっそく怪しげな巻物の数々を物色し始めた。 アラビア語にも、そのほかにも当然まったく興味のないデイジーが、迷宮をうろうろと彷徨っていると、本棚の切れ目や行き止まりの壁に、ストーンヘンジで見たような空間の揺らぎがあるのを見つけた。それも、一つや二つではなく、いくつも… と、隙間の一つから、ぼんやりとした小さな影がゆっくりと現れ出た。影は次第に人の…十二、三歳くらいの子供の姿をとった。 頭に白い頭布を巻き、白い長衣をまとった賢そうなアラビア人の少年だった。 「こんにちわ。あなたはこのお店のかた?」 「そうだよ」 眼を細める少年の、その眼の中に渺茫とした砂漠が広がっていた。 「あたし、デイジー。フィオナお嬢様のお供で来たの」 「知ってるよ。…ぼくは大抵のことなら何でも知ってるんだ」 「お名前を訊いてもいい?」 「サダルメリクだ」 少年は優しい声で言った。「サダルメリク・アルハザード」 「サダルメリク? 素敵なお名前ね。下の名前も。もしかして、アラビアの貴族?」 異国の響きに魅せられたデイジーは、彼が名乗ったときの抑揚で何度も発音を繰り返した。 「いや、貴族じゃない。先祖は魔法使いだったらしいけれど。…それもあんまり大したことのない…」 「魔法使い」と聞いて、デイジーは飛び上がった。 「魔法使いがそんなに珍しいかい? きみの国にもマーリンとか、有名な人がいくらでもいるじゃないか」 「貴男は、貴男は何か魔法が使えるの?」 デイジーは瞳を輝かせた。 少年が片目をつむり、指をパチリと鳴らすと、周囲の景色は一瞬にして変わった。 そこは、見渡す限り果てしなく広がるベージュ色の砂の海だった。風が吹くたびに、粉のような砂が舞い上がり、風紋が刻一刻と変化する。その砂漠のど真ん中に、ぽつんと純白の大きなパラソルが立てかけてあり、その下に白いリゾート・テーブルと椅子があり、テーブルの上には氷を浮かべたソーダ水のグラスが二つ置かれていて、グラスには麦藁が差し掛けてある。 デイジーはただあっけにとられて辺りを見渡した。頭上には灼熱の太陽が輝いている。 「…どうぞ」 デイジーは椅子に座ってサイダーを一口すすった。日なたと違って、パラソル投げかける影の下は嘘のように涼しかった。 「ぼくの故郷だ。アラビア半島の南のほうにあるサナアというところなんだ」 少年は同じように椅子に座り、ソーダ水をすすった。 「サダルメリク、お願い!」 デイジーはじっと少年の黒い瞳を見つめて言った。「あたしに魔法を教えて。あたし、毎日お料理を作ったり、お皿を洗ったり、掃除や洗濯をしたり、とても… とてもしんどいの。そんなことをしなくてもすんだら、きっと毎日が楽しくて、面白くて、素敵だと思うの」 「いいよ」 少年はいともあっさり答えた。「君は才能がありそうだし、ぼくが知っている魔法なら、何でも教えてあげるよ」 「本当? 有難う! あたし、早速お姉ちゃんやドイル様たちにお暇をお願いしてくる! あっ、そうだ。お金も欲しいな。…義母さんがずっと病気で…」 少年はどこからともなく拳ほどの大きさの分厚い白布の袋を取り出すと、テーブルの上に置いた。デイジーがその紐をほどくと、中にはオスマン・トルコの金貨がぎっしりと詰まっていた。 「とりあえずこれくらいでいいかな? 金貨を出す魔法を覚えたら、自分でいくらでも出せると思うけれど」 デイジーはつくづく(お姉ちゃんの代わりににフィオナ様に付いてきて良かった)と思った。(もしもお姉ちゃんがフィオナ様のお願いを受けていたら、この幸運もすべてお姉ちゃんのものになっていたんだ)とも。 「…でもちょっと待って、サダルメリク。貴男はどうして、あたしにこんなに親切にしてくれるの?」 「君を一目見て好きになったからさ」 少年は三百六十度広がるペルシアンブルーの天蓋を見上げて言った。 「あたしのことを、好きに…」 暑さで火照りかけていたデイジーの顔がますます赤くなった。 「ぼくは、君のために、ぼくができるすべてのことをしてあげる。君は、ぼくのためには、何もしてくれなくていい。ただ…」 「ただ?」 「メイドさんはしばらく続けて欲しい。なぜなら、いきなり辞めてしまったら、いままでの君の友達や知り合いが、よってたかって君の幸運を妬み、『そんな胡散臭い話に乗るな』とか言って、ぼくとの仲を裂きに来るからだ」 デイジーは(もっともだ)と思って、大きく頷いた。 「…だから、お金もいっぺんに使ってはだめだよ」 デイジーはもう一度首を縦に振った。 「次のお休みの日に、また会おうよ。もっといろいろ話をしよう」 少年が再び指をパチリと鳴らすと、デイジーは元の、黴臭いアラビア語の本の書店の通路に舞い戻っていた。 「やはり、ブライディーと来なければだめみたい…」 フィオナは腋の下に抱えていた巻物を次々と本棚に返しながらぼやいていた。「目移りして…」 デイジーは金貨の入った袋を背中に隠しながら、溢れてくる笑いを抑えるのに苦労していた。 (次のエピソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート 「ブライディー、被写体になる」 デイジーがドッジソン教授にサーカスに連れて行って貰って、ブライディーがただ一人屋敷で留守番をしている日、ホワイトチャペルの小さな芝居小屋で「生きている名画」のモデルをしているケリーが訪ねてきた。 白いブラウスに藍色の木綿のスカート姿のケリーはあの小屋や楽屋で会った時よりも驚くほど清楚に見えた。 「あの時は本当にごめんなさいね、お陰で助かったわ」 ひとしきり昔話に花を咲かせた後、ケリーは紅茶茶碗やケーキ皿を洗うのを手伝いながら言った。 「いえ、わたしこそ、突然お邪魔して…」 まだ少し時間がある、ということだったので、ブライディーはケリーを連れて英国心霊研究協会の屋敷を案内して回った。 厨房と応接間の間にあるメイドの控え室、屋根裏のメイド部屋では、ドッジソン教授に貰った「不思議の国のアリス」のタロットカードや、アイルランド土産のケルト神話のタロットカード、アイルランド旅行をはじめとする小旅行の記念写真のアルバムなどを見せて自慢した。 「もし悩み事ができたら、その時はぜひ占ってね」 ケリーもとても楽しそうだった。 会議室では、リモージュ伯爵に頂いたビスクドールのイリスを紹介した。 「素敵、まるで本当に生きているみたい」 ケリーは人形の頬やドレスにそっと触れてみながら、ただただ感心していた。 書斎ではドイルや他の会員たちが執筆した分厚い論文が並んだ書棚を見てもらった。もちろん壁に貼られた数多の心霊写真や、妖精が写っていると思われる写真なんかも… 「写真の乾板って、高いの?」 立てかけてある何台かの写真機や、サイドボードに置かれている乾板の束を見ながら、ふいにケリーが訊ねた。 「いえ、そんな目を剥くほどでは…」 「ねぇブライディー、乾板代は払うから、いまここでわたしの写真を何枚か撮ってもらえないかな?」 「いいわよ」 何気なく生返事をした途端、ケリーはいきなりその場でパッパッとスカートを脱ぎ、ブラウスを脱ぎ、ペチコートもドロワースも肌着も全部脱いで、窓辺に立った。 「ポスターや呼び込みのチラシに使う写真はいっぱい写して貰ったし、イラストも描いて貰ったけれど、どれもみんな興味本位で嫌らしく写されたり、描かれたりしているのよ。 だからきょうは、あなたが飛びっきり上品に写してちょうだい」 ケリーは一糸まとわぬ姿で、その辺の花瓶など、小道具になりそうなものに寄り添ってみながら言った。 「そ、それだったら服を着たまま写ったら?」 メイドさんはあっけにとられながらつぶやいた。 「何言ってるのよ。服を着たままの写真なんて、お婆さんになってからでも写してもらえるわよ」 仕方なく、なるべく生活の臭いが写り込まないように、窓辺や、花瓶のそばや、ビスクドールを抱いたり、屋敷で一番豪華な長椅子の上でポーズをとってもらって、マグネシウムを焚いて何枚か撮影した。ちょっと度が過ぎる、と思ったポーズの時は、ドッジソン教授がときどきやっているように、レンズに白粉の粉を薄く振りかけて写してみた。 「有難う。今度はあたしが貴女を写してあげるわ」 ケリーは手早く服を着て、写真機をひったくった。 「いえ、わたしはお屋敷のかたがたにたくさん写して貰っているから…」 「それは服を着た写真でしょう? …さっきたくさん見せて貰ったけれど」 「そんな、滅相な…」 顔をこわばらせ、冷や汗をかきながら後じさる。 「一年かけて育てた草花も、花が咲いているのはたった一週間だけ、みたいなことも多いでしょう? この機会を逃すと、永遠にないわよ」 「永遠に?」 「そう、永遠に… 例えば、メイドさんって、立ち仕事が多いでしょう。だから、ある朝、足がむくんでいるのに気づいたら、そのまま死ぬまでむくんだままだった、ということがあっても不思議じゃないのでは?」 確かにそういう話はよく耳にする。 「誰にも見せなければいいのよ。誰にも」 「しかし…」 「万一、あくまで万一の話よ。あなたのお兄ちゃんが兵隊か外国航路の船員にでもなって、遠い戦地や航海にに赴く時に、封筒に入れて渡してあげることができるのでは?」 それは「万一」の話ではなくて、かなりあり得そうなことだった。 「でも、それだったら、服を着てお洒落をした写真とか、お兄ちゃんと一緒に写っている写真とかを持たせて上げたら、お兄ちゃんも喜んで満足するんじゃあないかしら」 メイドさんは頬杖をついて思いを巡らせた。 「もちろんそういった写真も上げるのよ」 ケリーは真剣なまなざしで親友を見つめた。「でもでも、それだけじゃあだめ。だめということもないけれど、十分とは言えないわ。…戦場の町や、港に行くと、ドレスの胸元をはだけて、短いスカートをはいた、きれいな女の子がたむろしているのよ。男の人なら絶対に我慢できなくなるわ。本人が我慢しようとしても、悪友に誘われたら断り切れないわ」 「じゃあ、どうしたら…」 「だから『どうしても我慢できなくなった時は、この封筒を開けてみて』と言って、普通の写真とともに添えておくのよ」 「そ、そんなものかしら…」 「あなたのお兄ちゃんが、その封筒を開けずに持って帰ってくれば、それで済む話じゃない?」 そう言われると、そんな気がしてきた。 (お兄ちゃんは、そんな意志の弱い人じゃない。だから、わたしが頼めば決して中身を開けたりしないはずよ) 「そうと決まれば、脱いでちょうだい」 とうとうその気になって、どなたか会員の清国旅行土産の牡丹の花柄の衝立の影でエプロンドレスとお仕着せを脱いで、丁寧にハンガーにかけ、ペチコートもドロワーズも肌着も全部脱いで籐の籠にきちんと畳んで入れ、洗い立てのシーツをくるくるとまとってケリーの前に出た。 写真機を準備万端整えていたケリーの目尻と眉が下がった。 「それも脱いで」 「でも…」 「それだったら、服を着ているのと一緒じゃない?」 なるほど、大いにもっともだ。 ブライディーはこれ以上はないというぐらいゆっくりとシーツを脱いだ。 一枚目、姿見の前で右手の腕を水平にして胸元を隠し、左手でもう一つの大切なところを隠してみた。 「貴女、お尻の形もすごくいいわね。さぁ、微笑んで!」 姿見にマグネシウムの光が当たったり、写真機や写真師が写り込んでしまうと、もちろん台無しなので、自然の光で、角度を工夫して、慎重に写された。 二枚目、窓辺のレースのカーテン越しに… 三枚目、チッペンデールふうの椅子に足を斜めに揃えて… 四枚目、廊下に両足を両手で抱えてじかに座って… 五枚目、来客用のベッドの皺一つ無いシーツの上に横になって… 「ねぇ、もうこれくらいで十分でしょう。乾板がもったないわ」 再びからだにシーツを巻き付けて、ブライディーは哀願した。 「どうせ買いに行かなくちゃあならないんだから、全部写してしまいましょう」 最後には、よそ行きにと思って買ってあった新品シミーズの封を切って、それを着て写った。何か着ているほうが無難だろうと思ったが、実はそれは錯覚だった。 「ねぇ、ちょっと水で濡らしてみたら?」 「ええっ、そんなことしたら…」 逃げるよりも先に、いつのまにか用意されていた洗面器の水が飛んできた。 「ひどい! 誰が床を掃除するのよ…」 怒ってレンズと暗幕をかぶっているケリーを睨み付けたちょうどその瞬間にマグネシウムが焚かれた。 「ちょっと、そんなことしたら丸見えじゃない!」 「少しは色っぽいのもないとメリハリが付かないと思うわよ」 「わたしは、貴女を写すときはちゃんと考えて写してあげたのに」 「だから、あたしは、えげつないのはたくさん写して貰っているから、もうそういうのは足りているの」 二人は屋敷の現像部屋で、キャッキャッと言いながら現像をした。 「はい、お疲れ様。ぜひお兄ちゃんに渡して上げて」 自分の分の写真を胸に抱いたケリーは、飛び跳ねるように帰っていった。 (そんな日が来ないことを祈るわ) メイドさんはそう思いながら、(それはともかくこの写真、どこに隠しておこうかしら。特に、デイジーに見つからないようにするには…)と頭を悩ませていた。 (次のエピソードに続く) ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート 「スキル・イレーサー」 アラビア語の本の買い物に付き合わなかったことを、かつての主人、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢になじられて、メイドのブライディーは長いこと落ち込んでいた。 代わりに付き添って行ったデイジーは、その日からなぜか前より一層生き生きし始めたというのに… (やっぱり、力を貸さなかったことで、気を悪くされているでしょうね… ゲール語をはじめとするヨーロッパ古語が堪能なフィオナ様には、ドイル様や他の会員のかたがたも、大変お世話になっているし、これからもお世話にならねばならないというのに…) どっちを選んでも後悔が残りそうなときは、より少ないであろうと思うほうを選ぶしかない、と考えて断ったのだが、果たして正しかったかどうか、自信がなくなってきた。 (こんな力、いっそのことないほうがスッキリするかも知れない。いままで占いができるせいで、どれだけ災難な巻き込まれたことか… それは、助かったこともあるし、人を助けたこともあったけれど…) 風薫る公園のベンチに一人腰掛けてうじうじと悩んでいると、木の上から涼しげな少年の声がした。 「力の消しかたを教えてあげようか?」 メイドさんが木漏れ日がきらめく先を見上げると、ニッカーボッカーにエンブレムの付いたブレザー姿の肌の色が浅黒い聡明そうな外国人の少年が、大きな枝に腰掛けて足をぶらぶらさせていた。 「ぼくはサダルメリク。デイジーちゃんの友達だよ」 少年はひらりと飛び降りた。メイドさんは少年が、オークションで出会ったアレイスターと同じオーラを発しているのを感じた。 「デイジーの… お友達?」 「そうだよ。余計なことかも知れないけれど、お姉ちゃんの占いの能力は、たぶん結婚すると消えると思うよ」 「結婚すると、消える?」 少年はかすかに頷いた。 「本を読んだり、修行したりして身につけたのではない、生まれつきの不思議な力は、女の人の場合、往々にして結婚したり妊娠したりすると無くなってしまうことが多いよ」 ブライディーは、お兄ちゃんに思いを馳せた。 (お兄ちゃんが、ずっとずっとそばにいてくれるのなら、こんな力、要りはしない… いや、他には何もなくたっていいわ…) 「好きな人がいるなら、打ち明けたほうがいいと思うよ」 「子供のくせに、お姉さんに恋愛の手ほどきをするなんて、いい根性をしているね」 二人が驚いて声の方向を振り返ると、濃い灰色の背広姿のアレイスター・クロウリーが苦笑いを浮かべて立っていた。 サダルメリクはほんの一瞬、鋭い視線で睨み付けたが、すぐにまた元の柔和な表情に戻った。 「…そういうことで、ブライディーさん、いまこの子が言ったことを気にすることはありませんよ。力を消そうと慌てて結婚したものの、消えなかった…などと言うことになったら洒落になりませんからね。第一そういうことが目的で一緒になるお相手のほうこそ、いい迷惑でしょうからね」 メイドさんは例えひとときとは言え、そういうことを考えた自分が大層恥ずかしく思えて、黙ってうつむいた。 「アレイスター・クロウリーさんですね。初めまして。ぼくはサダルメリク・アルハザードと言います。よろしくお見知りおきを」 少年は右手を差し出したが、アレイスターは両手を後ろ手に組んだままだった。 「…さすが欧州随一の魔都と謳われるロンドン。とんでもない子も来てますね」 「あなたに言われたくはないですよ、クロウリーさん」 メイドさんの目には、二人のあいだに火花が散るのがはっきりと見えた。 「…ところでブライディーさん」サダルメリクは再び笑顔に戻ってメイドさんのほうを向き直った。「フィオナお嬢様は、また貴女に頼み事をすると思いますよ」 フィオナの名前を聞いて、アレイスターの瞳がほんのかすかにだが動いたのを、サダルメリクは見逃さなかった。 「そうでしょうね…」 ブライディーは瞳を伏せた。 (この子はデイジーの友達だ、と言っていた。 もし本当だとしたら…) 胸の内の不安はどんどんと膨らむ。 「大丈夫ですよ、メイドさん」 アレイスターは超然とした様子でつぶやいた。「その時、引き受けてもいいと思えば引き受けられたらいいし、気が進まなければ断ればいいのです。デイジーという子のことも、そんなに心配する必要はないでしょう。なにしろこのサダルメリク君が友達にいるのですから」 「クロウリーさん、フィオナお嬢様に会いたければ、ぼくの店に来てもらうといいかもしれませんよ。ぼくの店、結構気に入って貰ったみたいなので」 サダルメリクはウインクを残してフッとかき消えた。 「先を越されたなあ」 アレイスターは含み笑いしながら、悠然と歩いて立ち去り、後にはブライディー一人がぽつんとベンチに残された。 (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com