2004.06.07 ヒロインが夢の中でひどい目に遭うシーンを大幅削除
2004.06.09 さらに削除
2004.06.21 さらにさらに削除*

 ブライディー・ザ・マジックメイド
  「巴里の淫魔(インキュバス)」

「パリ、でございますか?」
 ロンドンにある英国心霊研究協会の屋敷、メイドさんのブライディーは鳶色の目を大きく見開いて、ドイルを見つめた。「…わたくし、フランス語はできませんので…」
「それはあんまり関係ない。君が一緒に来てくれたら、きっと事件は早く解決すると思うんだ」
 ドイルはいつものようにパイプをふかしながら、安楽椅子にもたれなおした。
「事件、でございますか?」
「そうだ。今度は最初から事件だ。パリ警視庁から怪事件の類例事件がないか、ロンドン警視庁に問い合わせが来てね。あいにくそれはなかったんだが、あまりの不可思議さに、ぼくたちの協会にも、何でもいいから心当たりがないか、密かに打診があったんだ」
「すると、心当たりのあるおかたがいらしたのですね」
「ああ」 ドイルは頷いた。「後は実際に現地に乗り込んで捜査するだけだ」
「分かりました。そういうことであれば、微力を尽くしたいと思います」
「旅券と査証の手配をしてあげよう。白い壁を背にした、写りのいい写真があれば出してくれたまえ」
「はい」
 踵を返しかけると、そこにデイジーが立っていた。
「ドイル様、あたしもパリに行きたいです。絵葉書や、風景画ではない、本物のパリに…」
「デイジー!」
 ブライディーはまたまた眉を吊り上げたものの、デイジーも臆しない。
「…あたしもきっとお役に立ちます。立って見せます」
「それがなぁ…」 ドイルは珍しく困った表情で耳の後ろを掻き上げる仕草をした。「今回の事件は子供にはちょっと…」
「デイジー、そういうことらしいから、今回だけはご遠慮申し上げなさい。次回はお姉ちゃんが留守番をして、貴女に行ってもらうから」
「理由を教えて下さい」
 デイジーは顔をくしゃくしゃにしかける。
「デイジー。ドイル様やお姉ちゃんたちは、いままで貴女のわがままをずいぶん聞き届けてあげてきたでしょう? もうこれ以上はだめですよ」
「理由を聞けたら納得します」
 ドイルは空咳をした。
「やむを得まい。できるだけ言葉を選んで話そう…」
「…パリに、表の画壇ではまったくの無名なのだが、一部の人々の間で非常に人気の画家がいる。仮の名前をローレンスとしておこう。
 ローレンスの素顔や正体を見た者は誰一人いない。画商など、必ずあいだに人が入る。
 ローレンスは、若くて美しいまたは逞しい美青年または美少年しか描かない。注文主のほとんどは女性だ。それも貴族か大金持ちの。
 彼女たちは、心に思っている男性の写真に、その男性の爪か髪の毛か、あるいはその他のものを添えてその肖像画を依頼をする。
 そして絵が出来上がってきて壁…それも寝室の壁に掛けるとだな…」
 ドイルはそこでまた口ごもった。
「さぁデイジー、分かったでしょう。貴女にはまだ早いのよ。これ以上ドイル様を困らせてはだめよ」
「分かりました。大丈夫です」 デイジーは引き下がるどころか、胸を張って一歩前に出た。
「…ドイル様は、ブライディーお姉ちゃんを貴族の娘になりすまさせて、お兄ちゃんの写真と爪と髪の毛を添えてローレンスさんに注文を出して、本当に怪異が起きるかどうか確かめさせるおつもりなんでしょう?」
「デイジー!」
 ブライディーは顔を真っ赤にして言った。
「その通りだ。やってくれるかね、ブライディー?」
「ドイル様や、皆様のお役に立てるのでしたら…」
「だったら、あたしは、その絵を掛けた寝室でお姉ちゃんと一緒に寝て、もしもお兄ちゃんのあやかしが絵から抜け出てきたら、一緒にやっつけてやります」
「デイジー…」 ブライディーの怒る声に勢いがなくなってきた。「お付きが一緒に寝ている寝室に、殿方が現れたりしないわよ」
「だったら、あたしはお姉ちゃんが寝ている寝台の下で寝る」
 ドイルはしばらく瞳を閉じて考えていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「分かった。デイジー、君にも不思議な力があることは気づいている。そこまで言うのなら、一緒に来たまえ」
 ブライディーが肩を落とすのとは対照的に、デイジーが飛び上がって喜んだのはいうまでもなかった。さっそくその晩より、合物からサマードレスまでよそ行きを、古道具屋で買った旅行鞄に詰め込む作業が始まった。

 マロニエの並木道を吹き抜ける薫風に、コットン・ドレスの長い裾を翻らせながらシャンデリゼにやってきたメイドさんたちは、ロンドンとはまったく違う華やかさに、すっかり舞い上がってしまっていた。
 ずらりと並んだ、最新流行のオートクチュールや数々の化粧品。アールヌーボーの家具や調度品。ロートレックやミュッシャのポスター。伝統あるエルメスや新興のルイ・ヴィトンの飾り窓には、女性だったら誰でも一度は手にしてみたくなる鞄やスカーフなどが、ゆったりとした配置で展示されていた。
「お姉ちゃん、あれ、欲しいよ」
 デイジーは、母親のものと揃いになった、少女用のハンドバッグを指さして言った。
「王侯貴族のお姫様でもなければ買えないわよ。…あそこに『紋章をお入れします』と書いてあるでしょう? 貴族のお嬢様がたはお嫁に行っても誇りを忘れないために、身の回りのものに実家の紋章を入れてもらうのよ。イギリスで言うと、ヨーク家は白薔薇、ランカスター家は赤薔薇、ヴィクトリア今上陛下のハノーヴァー家は獅子、フランスの王家は百合、オーストリアのハプスブルグ家は双頭の鷲、というふうに… 注文するとエルメスやルイ・ヴィトンの商標は薄く透かしのように、実家の紋章はさりげなく目立つように入れてくれるのよ」
 かわいそうにデイジーは、ちょっとべそをかいていた。
 凱旋門の周囲、エトワール広場を馬車で一周し、エッフェル塔に登り、セーヌ河畔でクロワッサンやエクレアとワインの軽食を食べていると、ドイルがパリ警視庁との打ち合わせから戻ってきた。
「せっかく物見遊山気分でいるのに、なにか悪いみたいだな」
「いえ、ドイル様、とんでもございません」 メイドさんたちは慌てて居住まいを正した。
「ブライディーは明日、ノートルダム寺院でシスター・セアラに会ってくれ」
「セアラ様がパリに?」
 ワインのせいではなく顔がほころぶ。
「ああ。どうもセアラさんの配下のシスターが、怪画家ローレンスに、昔、シスターになる前に付き合っていた恋人の絵を、聖人に似せて描いて貰って大変な目に遭ったらしい」
 しばらく沈黙があった。初夏だというのに、セーヌの川風はまだ肌寒い。行き交う川船のしぶきも冷たそうだ。
「では、セアラ様にとっては、仇討ちなのですね」
「そうだ。もしも… もしもだよ、セアラさんがシスターになる前に、好きだった男の人がいて、何かその人のものをずっと持ち続けていたのなら、ブライディー、君の出番はなかったかも知れない」
 メイドさんは何度も頷いた。
「分かりました。気を引き締めてやらせて頂きます」
「ローレンスの代理人とは今夜ホテル前のカフェテラスで会う約束だ。もちろんぼくも影から見ている。それが済んだらぼくは『赤い風車』でも見物しながら、あやかしを倒す方法を考えることにしよう」
 ドイルはパイプの煙をセーヌの川風になびかせて言った。
「ドイル様、もしや『赤い風車』というのは、あの噂の…」
 メイドさんはワインで火照った頬を一層上気させる。
「そうだよ」
「スイスで療養中の奥様が…」
「事件解決の暁には、ぼくはその足で見舞いに発つ。きみたちはパリで買い物でも観劇でも、何でも好きなことをしてからロンドンに帰りたまえ」

 セーヌにかかる橋の欄干から、彼らの様子をじっと見つめている、ベレー帽をかぶり、畳んだイーゼルとカンヴァスを持った顔じゅうひげだらけの人影があった。
「捕らぬ狸の皮算用。飛んで火に入る夏の虫。わざわざ湿っぽいロンドンに行く手間がはぶけた…」

「あの、ドイル様」 デイジーがおずおずと切り出した。「あたし、エルメスやルイ・ヴィトンのお店に入ってみたいんですが、無理ですか?」
「無理だね。たとえお金を持っていても成金だと思われて莫迦にされるのがオチだろう。絵心のあるお姫様なんか、わざわざ自分で気に入りの鞄を描いて『この通り作ってくれ』と注文する人だってあるくらいだ」
 デイジーは痛々しいほどしょげ返った。
「鞄の絵くらい、あたしにだって描けるもの…」
「…明日、ルーブル美術館に連れて行ってあげよう。モナリザが見られるぞ」
「モナリザ、ですか…」
 デイジーの顔は晴れなかった。
「さてと、見知らぬ土地で貸衣装なんかを借りると、どんな弾みで敵に正体がバレないとも限らない、だろうな」
 ブライディーは貴族の娘になりすますために、心霊協会会員ゆかりの高級婦人服店でレースの飾りの付いたパステルオレンジのサマードレスと、シフォンの肩掛けを、高級肌着店では肌着と寝間着を、宝石店ではイミテーションの宝石類やアクセサリーを、化粧品店では店員お薦めのヘリオトロープの香水や化粧品一式を買ってもらった。イミテーションの宝石類は、心霊協会の備品扱いということだった。
「お仕事が終わったら、香水と化粧品は全部上げるから」
 そう言うと、デイジーにもようやく微笑みが戻った。

 三人はカルティエ・ラタン近くに、数年前の万博の時に新しく建ったばかりの格式の高いホテルに宿をとった。
 ドイルはメイドさんたちのために、本格的なフランス料理のディナーとワインをとってくれた。ブライディーはウォーターフォード男爵の屋敷にいた頃にフランス料理の給仕をしているし、レシピもいくつか学んでいて、味見も、余り物や残り物の試食も経験豊富だった。けれど見習いメイドのデイジーにとっては、英国心霊研究協会のパーティでブライディーの手伝いをしているとはいえ新鮮な体験で、何度も「おいしい」や「やっぱりついてきてよかったわ」を連発しながら舌鼓を打っていた。
「ドイル様、デイジーに身分違いの贅沢を覚え込ませては、良くないのでは?」
「そんなことはないだろう。何事もやってみておくことだ」 ドイルは、ドン・ペリニヨンや、年代は若いものの、ロマネコンティ、シャトーディケムまで注文してくれた。「フランス料理をうまく差配できれば、貴族のお屋敷からコック長やメイド頭として引き抜きに来るかもしれないぞ」
「貴族のお屋敷のメイド頭、ですか?」
 ワインを一口ずつお相伴に預かったデイジーは頬を紅く染めた。
「まぁいまから二十年くらい先の話、だろうが…」

 メイドさんたちは、宵のうちから一緒に、真っ白いほうろうの西洋風呂に入った。ブライディーのほうは、やはり男爵様の屋敷で知っていて、フィオナお嬢様の髪洗いを手伝うかたがた、誘われるままに入ってみたこともあったものの、たらいでの行水かシャワーしか知らなかったデイジーは、石鹸の泡立つバスタブに潜ったりして喜んでいた。
「ねぇ、お姉ちゃん、今度、お屋敷で誰もいない時、一緒にお風呂に入ろうよ」
 デイジーは石鹸の泡に見え隠れする「お姉ちゃん」の胸をチラチラと眺めながら言った。
「デイジー、あれは会員さんたちのものです。わたしたちはお掃除をするだけ。入ってはいけないの」
 とはいえ、バスタブでまっすぐ足を伸ばす心地よさは格別だった。
「それにこのお風呂、蛇口をひねるとお湯がでるよ。わざわざお湯を沸かして桶やバケツで運んでくる必要がないみたい…」
 デイジーは舞い上がるシャボン玉を夢見心地で眺めながらつぶやいた。
「これはラジエーターと言って、別のところで石炭でお湯をたくさん沸かして、それを水道のように建物じゅうに配ってるの。だから、レストランにもお部屋にも暖炉がなかったでしょう?」
「ええっ、すると暖炉の世話もしなくていいし、炊事も洗濯もお湯でできるの? うちのお屋敷にも欲しいなぁ…」
「だめよ。いまでも十分過ぎるほど有り難いと思わなければ」」
 ブライディーは「よろしければ、どうかお持ち帰りください」と書かれた紙袋に入っていた極上の海綿で、デイジーの背中を洗ってやりながら言った。

「デイジー、あなたはお利口だから寝ているのよ」
 夜は更け、買ったばかりのドレスと化粧品と香水で身だしなみを整えたブライディーは、デイジーを寝かしつけてホテルのすぐ前の広場のカフェテラスへと出た。付けひげと眼鏡とカツラで変装したドイルがすぐ近くのテーブルでエスプレッソを啜りながら新聞を広げて読んでいた。
 メイドさんは指定されていたシェリーを注文して、一口二口啜った。
 するとしばらくして、ベレー帽をかぶり仮面舞踏会の仮面を付け、絵の具の匂いを漂わせた顔じゅうひげだらけの若い男がどこからともなく近寄ってきた。
「失礼。同席させて頂いてよろしいですか?」
 男は訛りのきつい英語で話しかけてきた。
「ええ、ローレンス様の代理のかたですか?」
 訊ねたものの、ブライディーはこの男がローレンス本人である、と確信した。
「いかにも。さっそく用件をお伺いしましょうか」
 給仕がやってきた。ローレンスはアブサンを注文した。
「わたし、アイルランドの某貴族の娘でブリジットと申します。どうしても忘れられない恋人がいるのです」
 そう言って、男友達の結婚式のときに付き添いをした「お兄ちゃん」の貸衣装の背広姿の写真と、お金がない時に散髪してあげた時にこっそり取っておいた髪の毛の束の入った袋を示した。
「ほほう、なかなかハンサムなかたですな」
 ローレンスはしげしげと写真を眺めた。
「わたしを捨て、夢を求めて行方も告げずふいに…多分アメリカに渡ってしまいました」
「それはそれは、許せないでしょう」
「とてもほかの人を愛することなどできません。魔法の肖像画をぜひ、お願いします」
 自然な恥ずかしさとともに、ブライディーはドイルから託されていた、古い紙幣の束を渡した。
「よろしいでしょう。出来上がった絵は、数日後にこのホテルに届けさせます」
「あの、それと、この魔法、お兄ちゃん…いや、彼には何の害もないのでしょうね?」
「それは、魔王にかけて保証します」
 男は紙幣の束を数えもしないで上着のポケットにねじ込みながら立ち上がった。
 少し離れたテーブルのドイルが、ほんのかすかに頷いた。
「よろしくお願いします」
 ブライディーも立ち上がって会釈した。
 と、そこへ、なぜか、きちんと服を着たデイジーが、自分で描いたらしい、相当上手なサダルメリク・アルハザード少年の肖像が鉛筆で描かれている画用紙を持って現れた。
「お姉ちゃん。あたしも頼む。お金はあたしが払う。この子、とても好きなんだけれど、外国の子なんで、たぶん結婚なんかできないの」
「デイジー!」
 ブライディーと、そばから眺めていたドイルの顔が引き吊った。
 さらに、思いがけないことに、ローレンスの顔もまた、仮面越しにではあるが、凍りついた。

「この子は?」
 ローレンスは懸命に平静を装いながら訊ねた。
「あ、わたしの妹でダイアナと申します」
 ブライディーはデイジーの前に立ちふさがった。
「ご姉妹ですか。あまり似ていらっしゃいませんね」
「母が違うのです。わたくしの母は、わたくしが幼い頃に病気で亡くなっておりまして…」
 新聞越しに様子を窺っているドイルも気が気ではない。
「そうですか」
「ねぇお願い、ローレンスさんに、この子の肖像画もお願いしてみてください」
 デイジーはブライディーの身体をすり抜けて前に出た。
「デイ… …いえダイアナ、何を言っているの?」
「いいでしょう。ローレンスに頼んでみます。お姉さんに描いて上げて妹さんに描いて上げないというのは不公平でしょう」
 ローレンスはアブサンを一気に飲み干すと、手書きの似顔絵と紙幣を受け取って席を立った。
「重ね重ね、よろしくお願いします」
 立ったまま見送っていたブライディーだったが、彼の姿が辻を曲がって消えるなりデイジーの襟首をつかんだ。
「デイジー、貴女いったい何を考えているの?」
 ドイルが慌てて駆け寄ってきて二人を引き離した。
「だって、証拠は一つでも多いほうがいいのでしょう?」
「でも、ローレンスさんは魔法画家。サダルメリク君も魔法使い。もしも万一、二人が知り合いだったらどうするのよ? ローレンスさんがサダルメリク君に『君はこれこれこういうダイアナという子を知っているか?』と電報を出して、サダルメリク君が『その子は英国心霊協会のちっちゃいメイドさんですよ』と返電したら?」
 デイジーはまた泣き出しかけた。
「もういいブライディー、済んでしまったことは仕方がない」
「しかしドイル様…」
「サダルメリクという子の似顔絵を見たときのローレンスの表情は、明らかに恐れ怯えていた。たとえ知り合いだとしても親しく言葉を交わせる友人同士だとは思えない」
「怖がらせてしまったのなら、お金を持ち逃げされて終わり、なのでは?」
「ローレンスも誇り高い魔法画家だ。それもないだろう」
「じゃあ?」
「ぼくがもしローレンスだったら、面子にかけて、お兄ちゃんとサダルメリクの肖像画を仕上げると思う」
 ドイルはそう言ったものの「紅い風車」は中止した。その夜はずっと彼の部屋から灯りが漏れていた。

 翌朝、日曜日の朝早く、ブライディーは質素な濃紺のドレスに着替えて、シテ島のノートルダム寺院に赴いた。弥撒に参列する人々にまじって、不気味なガーゴイルたちが見下ろし、半月形壁面の浮彫り、扉口左右にせり出した人像柱の下で待っていると、尼僧の修道服に身を包んだシスター・セアラがやってきた。
「ブライディー、久しぶり。元気そうで何よりです」
 セアラはメイドさんをラテンふうに抱きしめてくれた。
「セアラ様こそ…」
「今回は嫌なことをお願いしてしまってごめんなさいね。わたしに、一度でも人間の男の人を愛したことがあったなら… いや、それでもこの使命はできなかったかも知れません。しかし、貴女は何という勇気の持ち主なのでしょう!」
「いえ、とんでもございません」
「きょうは貴女のために、特別に前のほうのよい席をとってあります。共に、無事に使命が果たせることを祈ろうではありませんか」
 天をつく天井、無数の美しい聖書の物語を描いたステンドグラス、薔薇窓、大勢の会衆を飲み込んで余りある礼拝堂、内陣までまっすぐに伸びる廊下にメイドさんは圧倒された。
 数人の脇僧や稚児を従えた、パリの大司教の枢機卿が弥撒を執り行われ、ブライディーは台下自らより聖体聖血…パンと葡萄酒…を拝領する栄を得た。
 パイプオルガンが鳴り響き、聖歌隊の合唱がまだ続く中、メイドさんはセアラにそっと訊ねた。
「あの、セアラ様。人が未来を知ったり、そのほかの普通は分からないことを当てたりするのは罪でしょうか?」
「確かに知らなくてもいいことを知ることは罪である、という人もいます。それを知り操ることによって増長し傲慢になり、自らの心を満足させるためだけに走り、神をも恐れなくなれば悪魔と変わりないでしょう」 シスターは穏やかに言った。「…しかし、大切な人を守り救うためだけに使うのであれば、誰が咎められるでしょうか?」
 鳩たちが籠から放たれて、青空に舞った。
「あの、それともう一つ…」

「あの、それともう一つ…」 ブライディーはおずおずと訊ねた。「…セアラ様の部下のシスターのかたは、いまどうしておられますか? もしできることなら、予めどのようなことが起きたのか、直接お話を伺って参考にしたいのですが…」
「話はおそらく、聞くことはできません。わたしたちですら、何度も、いろんな方法で試みたのですが、叶わなかったのです」
 セアラは目を伏せた。
「それは、何故ですか?」
 シスター・セアラははたと目を見開き、メイドさんの顔をまじまじと見つめた。
「貴女、ドイル様や他のかたから詳細を聞かされていないのですか?」
「ですから『聖人様に似せた、むかし大変好きだった男の人の絵をローレンス様に注文して、その絵を寝室の壁にかけていたら、大変な目に遭った』と…」
「それだけですか?」
「はい」
「ドイル様は知っているのにわざと黙っておられるようなおかたではありません。これはどこかで、それこそ大変な行き違いがあったようです」
 シスター・セアラは部下のシスターを手招いて、至急馬車の支度をするように頼んだ。
「わたしはこれから在仏中のバヴァリア…バイエルンの王子様とスペインの王女様の見合いのパーティに出て、万一、お二人の仏語での会話が滞った時に、公正中立の通訳を、またご両家のご夫人がた同士で雲行きがおかしくなりかけたら仲裁をする予定だったのですが、代わりの者を頼むしかないでしょう。貴女の予定は?」
「いえ、特に… きょうは夕方まで自由行動ということで…」
 もちろんメイドさんに、バイエルンとスペインの縁談の重要さなど、分かろうはずがない。
「では、ぜひわたくしと一緒に来て下さい。夕方までにはホテルまで送らせます」
 礼拝が終わるとセアラはきつくメイドさんの手を引いて一目散に隠し扉から外へ出た。そこには二頭の精悍な黒馬が引く、小さく軽くて速そうな馬車が待っていた。御者は、ごく普通の恰好をしていたが、これまた非常に鍛え抜かれた男のようだった。ブライディーは、馬車の扉を開けて、手を取ってくれた無表情なその男の指に、スイス人の傭兵…それも大隊長クラス…の身分を表す指輪が嵌っていることに気がついた。

 馬車はどんどんとパリを離れる。
 街の景色は、やがてのどかな農村風景へと代わり、さらに人家もまばらな寂しいものへと変わった。
 シスター・セアラは馬車の中で、メディチ家の紋章入りの使い込まれたエルメスの軽騎兵の伝令鞄の中から、いろんな国の言葉で書かれた書類を取りだし、さらにいろんな国の言葉に翻訳していた。文書の中には、それこそいかめしい紋章の入った羊皮紙も少なくなかった。
「お仕事、大変なのですね」
「いえ、わたくしなど、ほんの下っ端です」
 セアラは書類から目を上げずに答えた。「…ボルジア公の頃には、手紙に毒を仕込む者も少なくなかったそうです。そこで、わたくしたちのように下読み係が設けられたとか」
(たとえ身分は低くても、大切な手紙の数々を一番先に読むことができるなんて、セアラ様はよほど上のかたがたから信頼されておられるのだわ)
 メイドさんはやっぱり誇らしかった。
 ダブリンの貧救院の頃より数年、せっかくセアラと二人きりになれたというのに、ろくに話しかけることができなかった。

 そのうちに、平野の真ん中に、城塞と見まがうような堀と城壁を備えた修道院が見えてきた。
 降ろされた跳ね橋を渡ると直ちに、橋は上げられた。
 堅牢な石造りの建物からは、消毒薬の匂いと、女性たちの異様なうめき声や叫び声が漏れていた。老いた者の声もあり、若いらしい者の声もある。
 さりげなく見張りが立っている頑丈な鉄の扉をいくつもくぐって中に入る…
「大丈夫ですか?」 セアラはいつもと同じ微笑みを浮かべ、メイドさんに訊ねた。「コニャックを差し上げましょうか?」
 冷たい石畳の廊下を、薬らしい小瓶や汚れ物を手にしたシスターたちが小走りに行き交っていた。窓には錆び付いた鉄格子がはめられている。獣じみた叫び声の数々はますます近くから聞こえるようになった。
 メイドさんはブリキのコップに入れて差し出された酒を一気に飲み干した。
 各部屋の扉もまた、錆びの浮いた分厚い鉄の扉で、扉の上には外側から覗くための覗き窓が、扉の下には食事を出し入れするらしい小さな扉がついていた。
「皆様、どうか早く良くなられますように
 …どうか、ご快癒されますように…」
 メイドさんは耳をふさぎたくなるのを懸命にこらえながら祈った。
「…どうか、見てあげてください」
 とある部屋の前で立ち止まったセアラは、覗き窓を開けて覗いたあと、ブライディーにも覗くように促した。
 半眼に閉じていた目を怖々ひらくと、四方の壁に藁を貼り付けた小部屋の中に、メイドさんと同じくらいの年頃の、粗末な灰色の貫頭衣を着て藁を敷いた床に膝を抱えて座った少女が、よだれを垂らし、訳の分からないことをぶつぶつとつぶやきながら、宙空に虚ろな視線を漂わせていた。
「あの子は、わたくしの腹心の中でも、最も利発で明るい子でした。…半月ほど前、ローレンスの描いた絵から抜け出したと思われるあやかしに犯されるまでは」
 セアラが差し出した名刺くらいの大きさの写真には、セアラと、部屋の中の子とは似ても似つかない聡明そうな若い尼さんが、小さな教会の前で並んで写っていた。

 シスター・セアラはポケットの中から一本の大きな錆び付いた真鍮の鍵を取り出すと、鉄の扉の鍵穴に差し込んだ。そしてガチャリという音を立てながら鍵を開いて中に入った。 メイドさんもその後に続いた。貧救院よりもひどい臭いが立ちこめている。セアラはギィーという音とともに扉を閉め、少女の前に跪き、じっとその眼を見つめた。
「ルチア、わたくしです。セアラです。分かりますか?」
 ルチアと呼びかけられた少女は、まったくの無反応だった。
「ルチア、わたくしです、セアラです。貴女のことを最も愛していた者です」
 もう一度呼びかけ、何度も抱きしめ、頬ずりし、頬に接吻を繰り返しても、ルチアはまるで魂がなくなってしまったかのようにぐんにゃりとしたままだった。
「治せない、のですか?」
 立ちつくしたままのメイドさんは、小声で訊ねた。
「薬、催眠術、悪魔祓いなどの秘術、そして祈り…ありとあらゆる方法を試し、法王猊下から秘密の勅まで発して頂いて、世界中の僧や関係者に心当たりを問いかけましたが…」
 セアラは閉じた瞳から一筋の涙を流しながら首を横に振った。
「しかも、ローレンスの描く絵の中の怪異に犯されて、このような有様になったのは、この子、ルチアだけではないのです。パリの貴族やお金持ちのお嬢様がたが何人も… そして放っておけばその数は増え続けるかもしれないのです」
 手の届かないところにある、小さな小窓から差し込む光が、藁を敷き詰めた部屋を照らしている。
「ローレンスを捕縛して問いつめる、というのは?」
「証拠がありません。絵から抜け出たあやかしに犯されて心が壊れてしまった、など… 警察も憲兵隊も裁判所も取り合ってはくれません。万一取り合ってくれたとしても、ローレンスが『自分は、描いた絵の中の人物の所業にまで責任は負えない』と申し開きされたらそれまでです」
「しかし、被害に遭われた者の多くは、社会的に地位の高いかたがたのお嬢様たちなのでしょう?」
 メイドさんは(ドイル様ならたぶんこうおっしゃるのではないか)と思うことを訊ねた。
「ですから、それらの声がパリ警視庁を動かし、ロンドン警視庁に問い合わせが行き、それであなたがたが来られた、と思いました」
「そうなんです。そうなんですけれど…」
 ブライディーは、ルチアが注文し、購入し、密かに寝室の壁に掛けていたという、昔の恋人に似せた聖人の絵を見せてくれるように頼んだ。
「悲鳴を聞いて走ってきたわたしたちの前で異様な妖気を発していたので、封印の術を施してから、中庭で油を掛けて焼き払いました。ですが、後日証拠として必要になるかと思い、写真に撮っておきました」
 書斎に戻り、セアラが見せた写真には、大きい目の本くらいのカンヴァスが写っていた。背景は自然の風景か、ごく普通のものだった。ただ、その真ん中は、人間の上半身の形にポッカリと切り抜かれたように白紙になっていて、そこにどのような者が描かれていたかは窺い知ることはできなかった。
 来客係の年老いた尼さんが薬草の入った白湯を持ってきてくれて、それを一口二口啜ると、ようやく人心地がついた。
「…あの、ルチアさんって、貴族のお嬢様から尼さんになられたかたですか?」
「いえ、彼女はわたくしや貴女と同じ、貧しい階級の出です」
「お金をあまり持っていたとは思えないルチアさんは、どういうふうにしてローレンスに画料を支払ったのでしょう?」
「さぁ、そこまでは…」
「ここからは推測なのですけれど…」 メイドさんはシスターの目を見つめた。「ルチアさんは、セアラ様やわたくしのように、例えば未来を予言することができる、みたいな特別な能力を持っておられたのでは?」
「確かに…」 セアラは頷いた。「そのことはわたしも考えて、パリ警視庁のつてを頼って、同時期に、貧しい少女で同じように病院に収容された者がいないかどうか、調べて貰いました」
「すると、いたのですね、ルチアさんと同じような能力を持っていたらしい子が何人も?」
 セアラはもう一度頷いた。
「つまりローレンスは、お金持ちからはお金を取り、そうでない者にはただで描いてやっていた、ということですね? そして、その被害者たちには『特別な能力』という共通項が…」
「ブライディー、もしもこのような事情を知らずに囮役を引き受けたのなら、悪いことは言いません。いまからでも遅くないからお断り申し上げなさい」
「しかし…」
「動かぬ証拠を手に入れ、ローレンスを裁いてルチアたちを元に戻させることは、わたくしが還俗してでも必ずやり遂げます」
「そんな…」
 日が傾きかけてきたので、メイドさんは来たときの馬車でパリまで送ってもらった。
 シスター・セアラは、「今夜また一晩、ルチアに添い寝してやりたい」と言って、修道院に泊まった。

 帰りの馬車の中でブライディーは、
(セアラ様やドイル様たちにはとてもすまないけれど、そしてデイジーに対しては恰好が悪いことこの上ないけれど、こんな恐ろしいあやかしと、とても渡り合ったりはできないわ)と思っていた。
(申し訳ないけれど、やはりセアラさんのおっしゃる通り断ろう。…修道女として毎日厳しい修行を積んでおられたルチアさんですら、あんな姿になってしまったのよ。他にも貴賎を問わず被害に遭った子たちが大勢… とてもわたしなんかに太刀打ちできる敵ではないわ)
 ホテルの前まで送ってもらった時には、もう陽が西に傾きかけていた。御者をしてくれたスイス人の傭兵隊長は彼女の手を取って馬車から降ろしてくれながら、「ご加護を…」と囁いた。
(でも、でもやはり、やらなければならないのかしら… こんなことをしているあいだにも、ルチアさんのような被害者が一人、また一人と…)
 ドイルとデイジーはまだ帰っていなかった。
 受付で鍵をもらうと、「ロンドンから電報が一通来ている」と言って渡された。てっきりドイル様宛だろうと思って見ると、何と、自分宛だった。
(お兄ちゃん…)
 封を切るメイドさんの手が小刻みに震えた。
『心霊研究協会ノ親切ナ人カラ事情ヲ聞イタ。絶対断レ。 ボクモ巴里ニ行ク。着クマデ早マルナ!』
 ハッと顔を上げて玄関の回転扉のほうに目をやると、髪を振り乱し、上着を汗みづくにした青年が、ドアマンに押しとどめられていた。
「お兄ちゃん!」
 ブライディーは泣きながらお兄ちゃんの胸に飛び込んだ。
「ブライディー、良かった。間に合ったみたいだな」
 ドアマンの白い目を尻目に、転がるように通りに出ようとすると、受付の係が追いかけてきて、「たったいま、もう一通届きました」とまた電報を渡してくれた。見るとドイルからだった。
『るーぶる美術館ノ帰リニ、ふらんす探偵作家協会ニ挨拶二寄ルト、歓迎ぱーてぃヲ準備シテクレテイタ。断レナイ。でいじートトモニ楽シンデカラ帰ル。済マナイガ、先ニ夕食ヲ食ベテ寝テイテクレ どいる』
 メイドさんは一度貰った部屋の鍵を再び受付係に返して、そのまま外へ出た。
「あの、すみません、荷物も一つとどいているのですが」という受付係の声も耳に入らなかった。
 賑わう通りを歩きながら、メイドさんはお兄ちゃんにいろんな事情を語った。
「…そうか。そういうことだったら本当に間に合って良かった」
 お兄ちゃんは細い肩にそっと手をかけてくれた。
「ごめんなさいね。お兄ちゃんに無断で、お兄ちゃんの絵を描かせて、おまけに髪の毛まで…」
「俺は、おまえがそう望むのなら、たとえ呪い殺されても構わない」
「有難う… 有難う、お兄ちゃん… 囮になるのはお断りするわ。でも…」
「…心配ない。ぼくも一緒に断ってあげるよ。君はやり遂げるつもりだったんだけれど、ぼくが『絶対にダメだ。どうしてもやると言うのなら別れる』と言って聞かない、ということにすれば、悪者はぼくになるだろう」
「そんな…」
 でも、嬉しくて涙がこぼれてきた。
 と、お兄ちゃんのお腹がグゥと鳴った。
「お兄ちゃん…」
「はは… 汽車の中で弁当を食べたきりなんだ」
 二人はとりあえず広場の屋台でクレープを買い、大道芸人たちの芸を見たり、歌や曲を聴きながら立ったまま食べた。カルティエラタンは暮れなずみ、行き交う人々の足取りも心持ち速くなってきた。
「もっとちゃんとしたものを食べようぜ」
 そこで、英語で「ウエルカム」と書かれた看板を上げている、学生向きのレストランに入って定食を注文した。お兄ちゃんはビールも注文したが、さすがに首を横に振られて、安いワインに変更を余儀なくされた。
「やれやれ… でも、船員の旅券と査証を更新していて良かったよ」
「お兄ちゃん、また船で働くの?」
 メイドさんは食事の手を休めて訊ねた。
「それが、少し迷っているんだ」
 勘定を払って、セーヌの川岸まで散歩をした。もう寒くなく、まだ暑くない、またどこからか辻音楽師が奏でるヴァイオリンのシャンソンが聞こえてくる、素晴らしい宵だった。
 いつしか日は落ちると、薄闇の帳に紛れるようにして、橋のたもとに立って、川岸の芝生の上に座って、口づけをする恋人たちの姿が目についた。立ちつくしたままどぎまぎするメイドさんに、お兄ちゃんは素早く、そっと軽く口づけをした。
 それだけでも、心臓が破裂しそうになった。

「お兄ちゃん…」
「さてと、おまえをホテルまで送らなければな… ドイルさんやデイジーが帰ってきて、おまえがいなければ心配するぞ」
「大丈夫。自慢じゃないけれど、わたしは知らないところでも、一度も道に迷ったことがないのよ」 メイドさんは頬を染めて言った。
「…それよりかお兄ちゃん、宿は?」
 お兄ちゃんはボサボサの髪の毛を掻きながら首を横に振った。
「…だったら、わたしが安くていいところを探してあげるわ。わたし、そういうの、得意なのよ」
 初夏の日が落ちるのと同時に、夜空に灰色の雲が流れてきた。
「自分のことは自分で何とかするよ。だから送らせろ」
「ちょっと待ってね。わたし、本当に勘がいいのよ。お兄ちゃんの宿が決まったら、ホテルまで送ってもらうわ」
 メイドさんは、小さなホテルや宿屋が集まっているあたりを駆け抜け、見渡し、目を閉じて集中した。
「うーん、どこもいま一つね…」
「おい、雨が降ってきそうだぞ。もういいよ。屋根さえあればどこでも一緒だ」
 お兄ちゃんはメイドさんの手をとって促した。
「そんな訳にはいかないわ。せっかくパリまで来てくれたのだから、二、三泊はするのでしょう?」
「おまえがロンドンに引き揚げるのについて帰るよ」
「ちょっと待ってね。通りを一筋二筋変えて探しましょう」
 選り好みをしているうちに、とうとう雨粒がぽつりぽつりと顔にかかりはじめた。
「ここがいいと思うわ」
 メイドさんは玄関の軒先の隅のほうに残飯を入れた皿が置いてある古い小さな宿屋を指さして言った。皿には、つがいらしい大小二匹の野良猫がたかっていて、残飯を食べていたが、大きいほうの猫は、自分は食べずに一回り小さいほうの猫が食べるのをじっと見守っていた。
 そんなことをしているうちに、とうとう雨がザーッと降り出してきた。お兄ちゃんもブライディーもたちまちずぶ濡れになった。
「おい、ここに決まったのなら早く入ろうぜ」
 お兄ちゃんは上着を手早く脱いで、頭巾のようにメイドさんに差し掛けた。
「いらっしゃい。お二人様ですか?」
 昔話の絵本から抜け出たようなお婆さんが編み物の手を止めて古ぼけた宿帳を差し出した。
「いえ、泊まるのはお兄ちゃん一人です」
「いや、服を乾かさないと風邪を引くぞ。…お婆ちゃん、済まないが暖炉に火を入れてこの子のドレスを乾かしてやってくれないか?」
「いいですよ。すると一名様ご宿泊、一名様ご休憩、ですね? すみませんが前金でお願いします」
 お兄ちゃんは、宿帳にさらさらと手慣れた様子で二人の嘘の住所氏名をしたため、間柄の欄には許婚者と書いた。
 宿代が安い割に、案内された二階の部屋にはシャワーが付いていた。
「先にシャワーを使えよ。そのあいだにドレスを乾かしてもらおう。それから馬車を呼んでもらって送っていくよ」
「そんな… 悪いわ」
「早くしよう。ドイルさんやデイジーが帰るよりも先に帰らないとまずいだろう?」
 メイドさんはお兄ちゃんが馬車を頼みに行っているあいだに手早くドレスを脱いで水を切ってからハンガーにかけ、クロゼットでシャワーを浴びた。
(修道院のあの子…ルチアも、洗ってもらっているのかしら…)
 肌着を籠に広げてかけて目に付かないところに置いて乾かし、バスローブを羽織って出たところにお兄ちゃんが戻ってきた。
「馬車は、小一時間くらいしないと来ないそうだ…」
「えっ?」
 ブライディーは外を見ようとして木窓の窓枠に手を掛けたものの、固くて開かなかった。
「どうした?」
 お兄ちゃんが力をこめると、ギイッと観音開き開いた。家々の明かりが灯るパリの街にザーザーと、滝のような雨が降っていた。
「俺もシャワーを浴びてくるよ」
 メイドさんはしばらくのあいだ、馬車や、傘を差したり、コートの襟を立てて家路を急ぐ人々が行き交う通りを眺めていたものの、やがて窓を閉め、丁寧にカーテンを引いた。

 ブライディーはどうしようもなく眠くなって、つい、さっぱりと糊の効いたシーツをピンと張ったベッドに潜り込んだ。お腹はいっぱい、お兄ちゃんはシャワーから上がったらしく、何かごそごそしている。どうやらサイドボードの上に出ていた小さな聖書を抽斗の中にしまっているようだ。
「お兄ちゃん、何をしているの?」
「いや、別に。…疲れているのなら少し眠れよ。馬車が来たら起こしてやるから」
「有難う… そうさせて頂くわ。でも、わたしがここで寝てしまうと、お兄ちゃんが…」
 まぶたがだんだんと重くなる…
「俺は起きているよ。汽車の中でずっと寝ていたから」
 メイドさんは夢を見た。
 ダブリンの貧救院にいた頃、お兄ちゃんや、ケリーと、鬼ごっこをして遊んだこと。みんなでシスター・セアラに読み書きを教えてもらったこと。木登りをしていて院長先生に叱られたこと。ウォーターフォード男爵とフィオナ様が訪ねてきて「メイド兼侍女に一人貰い受けたい」と言われたとき、セアラ様が自分を推薦して下さったこと…
 貧しかったけれども、幸せだった毎日のことを。
 ハッと目が覚めて、サイドボードの上の安物の夜光置時計を見ると、ちょうど真夜中の十二時を指していた。
「お兄ちゃん!」
 闇の中、お兄ちゃんは床に毛布をくるまって、ほんのかすかないびきをかいて眠っていた。
「お兄ちゃん、大変よ!」
 あわてて揺り動かすと、お兄ちゃんはあくびとともに薄目を開いた。
「ああ、ブライディーか、いま何時だ?」
「もう十二時よ!」
「なんだって? どうしてお婆ちゃんが呼びに来ないんだ?」
 お兄ちゃんは目をこすりながらむっくりと起きあがった。
「呼びに来たけれど、もしかして二人とも寝ていたんじゃないの?」
「たぶん、そうだ」
「どうしましょう! ドイル様やデイジーがきっと心配しているわ」
 メイドさんはバスローブの胸元を合わせ直しながら言った。
「だけど、いまからではもうどうにもならないな」 お兄ちゃんはもう一度窓を開いて外を見た。激しい雨がまだ降り続いている。家々の明かりもめっきり少なくなっている。「…すまん。俺のせいだ。明日の朝一番に送っていくよ。おまえはセアラ様に、郊外の修道院に泊めてもらったことにしろ」
「うん」
「そうと決まれば、お互いもう少し寝ておこうぜ」
 床の上で横になっていたお兄ちゃんは、毛布をかぶり直して背中を丸めた。
 ベッドに戻ったメイドさんはシーツをすり上げてさらに胸元を隠した。
「ねぇ、今度はお兄ちゃんがここで寝て。わたしは床で寝るわ」
 ブライディーはバスローブの裾を合わせながら再びシーツから抜け出した。
「バカ言え。俺はどこででも寝られる」
「…このベッド、二人用だから、二人寝られるんじゃあ…」
 メイドさんは顔を赤らめながら言った。
「結婚式も挙げていないのにそんなことをしたら、二人ともシスター・セアラ様から破門されるぞ」
「海の向こうのアメリカでは近頃、役所に届けだけを出す『二人だけの結婚式』が流行っているらしいわよ」
「俺もセアラ様の怒った顔は見たことがないけれど、きっと怒らせたら怖いぞ」
「そうかなぁ… 噂によるとセアラ様は、女の子が身ごもってしまったらしいカップルの結婚式をこっそり挙げておられるらしいんだけれど…」
 メイドさんはうつむいてもじもじしながら言った。
「そんなことをして、もしバレたら、シスター・セアラ様も破門だ… けれどその噂は、いかにもセアラ様らしいなぁ」
 お兄ちゃんもむっくりと起きあがって、暗闇の中、ベッドに横座りしたブライディーの顔を見つめた。
「俺も噂を聞いたんだけど、おまえやデイジーのように不思議な力を持った女の子は、結婚するとその力がなくなってしまうことがある、って言うのは本当かな?」
「消えることもあれば消えないこともあるらしいわ」
「おまえは消えても構わないのか?」
「わたしは、お兄ちゃんと一緒になれるのなら…」
 後は言葉にならない。
「ドイルさんたちをがっかりさせて、デイジーからはバカにされるぞ」
「構わない… ルチアさんみたいに酷いことになってしまうことを思えば…」

 お兄ちゃんはおずおずと、本当にどぎまぎしながらベッドに潜り込んできて、メイドさんに背を向けて横になった。
「こんなことをすると思い出すな。お互いまだ小さかった頃、こんなふうに一緒に寝ていると、厳格なシスターたちが『あまり仲がいいと、赤ちゃんができてしまいますよ』と真顔で脅かしたことを。ブライディー、おまえはすっかり本気にして、以後ケリーのような女の子としか遊ばなくなったっけ」
「…お兄ちゃん、どうして背中を向けるの?」
 闇の中、お兄ちゃんは寝返りを打って彼女のほうを向いた。二人は互いの息づかいを聞いた。
「そう言えばきょう見たフランス人の恋人たちは、人前も気にしないでずいぶんと長い間キスを交わしていたな。ああいうのって、よく息が苦しくならないな」
 二人はどちらからともなく、唇を近づけ、合わせた。 そしてパリの恋人たちと、時間を競ってみた。
(おかしい… おかしい… まさか…)
 息がだんだん苦しくなり、意識はだんだんと朦朧とし始めた。
(お兄ちゃん、やめて!) 言おうとしたが、声は出なくなっていた。 目を開けてみようとした。確かに瞼は開いているはずなのに、何も見えなかった。
(助けて! 止めて! おかしい… 本当のお兄ちゃんだったら気づいてやめてくれないはずがない… やはり…)
 急に絶望の奈落が、ポッカリと大きな口を開いた。
(インキュバス… あれだけ、あれだけ気を付けていたのに…)
 かすかな後悔が、たった一つだけ残った灯火となって揺らめいていたが、やがてそれもフッと消えそうになった。
(わたしは、勘がいいと思っていたのに…)
 敗北感が、心をどろどろに溶かしはじめた。
(ドイル様、セアラ様、デイジー、ごめんなさい…)
(神様、助けてください。せめて、ひと思いに死なせてください… 修道院の、鉄の扉の向こうにいた、あの子みたいになるのは嫌です…)
(これは、いつまでも止まないんだわ)
 そういう結論に辿り着いた。鉄の壁の向こうにいたあの子も、きっとずっと…)
 そう考えると、新たな恐怖が膨らんできた。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
 暗闇の中、ドアを蹴破る大きな音がしたあとに続いて、かすかに自分を呼ぶ声に気が付いた。
「お姉ちゃん、しっかりして!」
 目を開けたつもりでも、やはり何も見えなかった。
「ブライディー、しっかりしろ!」
「大丈夫… 息も浅いし、脈も弱いが、大きな怪我はどこにもないみたいだし、いまのところ命に別状はないようだ。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
 何度目かの問いかけに、ようやく瞼がかすかに動いた。
「大丈夫。あたししかいない。誰も見ていないよ」
 水を含ませたタオルで土色になった唇を拭った。
「デ…イ…ジ…ー…」
「良かった! 気が付いたんだね。扉の向こうにドイル様もいらっしゃるよ。だからもう、何も心配しないで!」
 ブライディーはようやく何とか瞳を開いた。
 濃い靄がかかった視界の中にデイジーの顔が見えた。
「…パーティが終わって、夜遅くホテルに戻ったら、荷物が届いていて、…ローレンスの描いた肖像画で、そのうちの一枚が絵から抜け出ていて… それで、雨の中、ドイル様と一緒にホテルや宿屋を一軒ずつ…」
 デイジーが窓を開けると、雨はようやく上がっていて、柔らかな朝日とともに、小鳥のさえずりが聞こえてきた。淀んだ空気がさわやかな風に入れ替わった。灰色だったお姉ちゃんの顔にも、ほんの少し赤味が戻った。デイジーは「よいしょ」とお姉ちゃんの上半身を起こして髪を梳かし、両の耳たぶに香水を付けた
「ドイル様、もういいよ!」
「ド…イ…ル…様」
 ドイルが微笑みを浮かべると、ほんのかすかに目を細めた。
「申し訳… ありません…」
「気にするな。いま、セアラさんにも電報を打った。いま大至急こちらに向かってくれているそうだ」
「セアラ様が?…使命を果たせず…それどころか逆に不覚をとり…会わせる顔が…ありません…」
「だから、もうそんなことは気にするな」
「そうだよ。お姉ちゃんの仇は、あたしが必ず取ってあげるから!」
 デイジーは胸を張った。
「デイ… ジー!」
「デイジー、やめておくんだぞ。お姉ちゃんに心配をかけるな」
(嫌だ! あのローレンス、あたしが、必ず、八つ裂きにして殺してやる!)
 ドイルは厳しい顔で睨みつけたが、デイジーはそれ以上の恐ろしい決意で心の中で深く誓っていた。

 昼近くになって、件のスイス人の傭兵隊長が御する馬車で、セアラがやってきた。
 小さな狭い安宿に宿泊者以外に何人もの人間が出入りすることになってしまった。ドイルは予め、受付の老婆にたくさんの心付けを渡していた。 ドイルとセアラは、互いに目配せと会釈を交わした。デイジーはずっと、ブライディーの枕元に付き添っている。
「ブライディー…」
 それでもセアラは、いつもと変わらない微笑みを浮かべて走り寄った。
「セアラ様、申し訳…ございません…」
「何を謝るのですか。貴女は何も悪いことをしていません」
「ドイル様… パリの地図がありましたら、お願いします」 ブライディーはまだ少し虚ろな視線をドイルに向けて言った。「わたしの力で、ローレンスが潜伏している場所を占ってみます」
「だめだ。君は危うく命を落とすか、心が壊れてしまうところだったんだぞ」
「デイジー、わたしの服を持ってきて… いつまでもこんなところでぐずぐずしていては…」
 今度はデイジーを焦点の合わない瞳で見つめて懇願した。
「セアラ様、すみませんが、お肩をお貸しください。立ってみます…」
 セアラとドイルとデイジーは互いの目を見合って、三人ともかすかに首を横に振った。
「ブライディー、心配しないで。貴女はもう少しここにいて、身体を休めて。ローレンスは、わたくしとドイル様で見つけ出します」
「でも、どこに潜んでいるのか、分からなければ…」
 メイドさんは肘を立て、必死に上体を起こそうとした。
「そこまで言われるのなら…」
 廊下の外で控えていた傭兵隊長がコツコツとかかとの音を響かせて、あちこちに書き込みがある大きな八つ折りのパリとその周辺の地図と鉛筆を持って入ってきた。
 それらを受け取ると、心を静め、まだ少し乱れたままの髪を掻き上げて、手を小刻みに震わせながら、まず小さい全体図の上に鉛筆を落とし、それからさらにもう一度心を整えてから、最初の占いが示した詳細図の上で同じことをした。
「ここだと… 思います…」
 示された場所は、セーヌ河畔に小さな船が並んで浮かび、倉庫が建ち並んでいるいるあたりだった。
「行きましょうか?」
 地図を返して貰った傭兵隊長がセアラに言った。
「ええ」
 セアラは、修道服の隠しポケットから、法王猊下の書き付けを取りだして確認した。
「それは?」とドイル。
「わたくしも、兄弟姉妹も読めないのですが、どうやら『全てを許可する』というような意味のことが書かれてあるらしいのです。…わたしたち、カトリックの修道女は、普通、許可がなければ外出も、何事もできないのです」
「ぼくも、ぜひお供させて頂きたい」
 ドイルは頭を垂れて、セアラに頼んだ。
「ドイル様は、ブライディーを守ってあげていてください。し損じたことが分かったら、ローレンスが舞い戻ってこないとも限りません」
「しかし…」
「ブライディーをよろしくお願いします」 セアラは穏やかに言った。「ルチアもそうですが、この子も、わたくしの妹なのです」
「こんなことになったのは、ぼくにも大きな責任が…」
「ドイル様に責任はございません」
 セアラは深く一礼すると、傭兵隊長とともに階段を降りて行った。
「ドイル様…」 セアラが去ってホッとしたのだろうか、ブライディーはまた息絶え絶えになった。「セアラ様を追いかけてください… わたしには、デイジーがいますから…」
「そうだな」
 ドイルは懐から拳銃を取りだして改めた。「デイジー! おい、デイジー?」
 再び拳銃を懐にしまって辺りを見渡したところ、デイジーの姿が消えていた。
「おかしいな。自分の朝食でも食べに行ったのかな?」
「デイジーは、断りなしにそんなことをする子ではありません。…ドイル様、すみませんがわたくしの服を持ってきてください」
「そう言えば、あの子も地図をチラッと覗き込んでいたような」
「セアラ様の邪魔をしたら、大変です」
 ブライディーは何とか一人で服を着て、ドイルの肩を借りて一歩ずつ階段を降り、馬車に乗った。「本当に大丈夫なのか? 君こそ足手まといになるのではないのか?」
「ローレンスが逃走しようとした時、わたくしの力がなければ追えません。上手に、無傷で捕らえなければ、ルチアさんたちを救うことができないと思います」
 メイドさんは膝の上に置いた震える拳を強く握りしめた。

 セーヌ川沿いの、古ぼけた倉庫のような建物にシスター・セアラが乗り込んだ時も、ローレンスは何枚もの若いハンサムの男たちの油絵を黙々とカンヴァスに描き続けていた。壁や床のあちこちには、まだ注文主に納めていない同様の絵が無造作に置かれていて、絵の具やテレピン油の匂いが立ちこめていた。
「ここが分かったところを見ると、どうやらあの娘、仕留め損ねたようだな…」
 ローレンスは、背中にセアラの気配を感じても絵筆を動かし続けながら言った。
「お願いです。貴男が奪った少女たちの魂を、どうか返してください」 セアラはいつもと変わらない柔和な表情で頭を下げた。「それから、これ以上奪うのも止めてください」
「それは、できないな」
「何故ですか?」
「答える義務はさらさらないが、薄々感づいてはいるだろう」
「人は、未来を知ったり、不確かなものを確かにしてはいけないから、ですか?」
 ローレンスは答えない。
「そういうことを知り得る者がいたら、貴男や貴男のお仲間に不都合、だからですか?」
 ローレンスは手を止めて、絵筆を瓶に投げ込んだ。
「それはあなたたちには言われたくない台詞ですね。修道女とはいえ、女は女。ぼくの術から逃れられないですよ」
 彼はゆっくりと振り返り立ち上がった。
「生憎、わたくしは生身の殿方に情欲を感じたことは一度もありません」
「ほぅ、それは淋しいことですね」
「淋しくはありません。神様がいらっしゃいます。周りの人々は皆、兄弟姉妹だと思っています」
「本当に感じたことはないのですか。情欲というものを?」
 ローレンスはゆっくりと両手を宙空に漂わせ、交差させたり、円を描いたり、印を結んだりし始めた。
 すると、すでに出来上がっていた絵の中から、何人もの美男の男達が抜け出てきてセアラを取り囲み、寄ってたかってその修道服や頭巾を乱暴に脱がし、引きちぎり、肌着も引き裂いて、いったん離れた。
 シスター・セアラは、髪を完全に剃っていたが、その身体は丸みを帯びた白磁の彫像のように大人の女性の美しさで輝いていた。彼女はどこも隠そうとはせず、すくっと立ち、相変わらず慈愛溢れる微笑を浮かべていた。
「わたくしで良ければ、いくらでも気の済むようにして頂いて構いません。その代わり妹たちの魂を元に戻し、これ以上は誰も傷つけないと約束してください」
「それでは、遠慮無く…」
 ローレンスは高く上げた手を采配のように振り下ろした。絵から抜け出た美青年たちは、ゆっくりと着ていた服を脱ぎ始めた。
 彼がもう一度手を挙げて振り下ろすと、青年たちは一斉に襲いかかった。そして入れ替わり立ち替わり弄んだ。
 それでもセアラは、まるで蝋人形みたいに表情も顔色も変えずに、じっとされるがままになっていた。
「面白くないですね… 全然面白くないですね…」
 ローレンスの額に汗が浮かび始めた。
「…仕方ないな。ぼくも足るを知ることにして、きょうのところはこれくらいで勘弁して差し上ることにしますよ」
 彼は青年たちがセアラを延々と蹂躙し続けているあいだに、悠々と絵筆や絵の具類を片付け、大きな絵の具箱になおしてそれを肩から掛け、気に入りのイーゼルを折りたたんでかついで、ゆっくりと裏口から出て行こうとした。
 ところが裏口には、御者の恰好をしたスイス人の傭兵隊長が、鞘袋に入った長い剣を手にして立ちふさがっていた。隊長は部屋の奥のほうでセアラがいたぶられているのを見ても眉一つ動かさず、鞘袋の紐を解いて鯉口を切り、ゆっくりと剣を抜きはなった。その剣は稲妻に似た電光を閃かせていた。
「チッ、こんな奴もいたのか」
 ローレンスは後じさりして、脇にあった大きめの風景画に向かった。
 額をまたいで揺らめく画面の中に逃げ込もうとした時、すでに、絵の中にちっちゃな女の子が眉に皺を寄せ、目を吊り上げて待ち伏せしていた。
「おまえはあの娘とともに絵を注文した奴だな? 邪魔立てすると、餓鬼でも許さないぞ」
「よくも… よくもお姉ちゃんを…」
 その子、デイジーが瞳を閉じて念じ始めると、絵の中の世界の空間もゆらゆらと揺らめいて陽炎が立ち始めた。

「まさか、あの莫迦な娘の敵討ちに来たのではあるまいな?」
「そうだよ。ローレンスさん。あたしは絶対貴男を許さないからね!」
 デイジーは一歩、また一歩ローレンスに歩み寄った。
「…なるほど、この絵の中に入って来れたところを見ると、多少は何かできるらしいが、それにしてもこのぼくに勝てるかな?」
 ローレンスは手にした絵筆で何もない空間にさらさらと馬に乗った首無し騎士の絵を描いた。首無し騎士は、馬のひずめを蹴立ててまっすぐにデイジーに襲いかかってきた。

 一方、セアラは裸の美青年たちに蹂躙されていたが、ローレンスが絵の中に逃げ込んだと見るや、簡単な呪文を唱え、短い印を切った。途端に美青年たちは全員、紙人形のようにめらめらと燃え上がり、一掴みの灰を残して跡形もなく消え去った。そこへ剣を鞘に収めた傭兵隊長がやってきて、素早く自分が着ていた外套をすっぽりとセアラに着せ掛けた。
 さらに、ブライディーの肩を抱えたドイルも入ってきた。
「セアラ様、大丈夫ですか、ローレンスは?」
 ドイルはセアラの有様を見て思わず目をそらし、ブライディーはセアラにすがりついた。「この通り、大丈夫です。ローレンスの操るのは、かなり高度なものだとはいえ、ただの安っぽい幻術です。だからブライディー、貴女も何も気にする必要はありませんよ」
「セアラ様、わたしのために、ローレンスの術にかかって下さったのですか?」
 セアラは小さく頷いた。
「それで、ローレンスは?」
 見つめる先の絵の中に、ローレンスと首無し騎士に追いかけ回されているデイジーがいた。
「デイジー!」
 ドイルとメイドさんは目を見張った。
「セアラ様、デイジーを助ける方法は?」
 ドイルは拳銃を取りだして撃鉄を起こしながら尋ねた。
「結界が張られていて、わたくしの力をもってしても中に入ることはできません。なぜならその結界はローレンスが張ったものに加えて、デイジーちゃんが張ったものと二重になっているからです」」
 セアラの表情にも不安と心配の色が覆った。
「そんな!」
 ブライディーとドイルは代わる代わる絵の中に手を差し入れようとしたが、表面で跳ね返されてしまった。

 絵の中、デイジーはとうとう大きな岩を背に、首無し騎士に追い詰められてしまった。
「いいぞ! 首を刎ね落としてしまえ!」
 少し離れたところからローレンスが命令した。
 デイジーは顔を引きつらせながらも、つい最近、パリに来る前、サダルメリク少年に習い教えて貰った呪文を唱え始めた。
「古の神の下僕共よ、永劫の時の果てと、無限の空間の彼方より来たり賜え。深き淵より、地の奥底より来たり賜え…」
 すると、岩の隙間から、地面の中から、巨大な蚯蚓に似た触手たちが群れをなして現れ、
首無し騎士の両手両足に巻き付いたかと思うと、あっという間にバラバラに引きちぎった。
「な、なんだと?」 ローレンスはポカンと口を開いたままあっけに取られた。「…こんな術、見たことがない… おまけにこんな小娘が…」
「それはそうでしょう。西洋の術じゃない、アラビアの狂える魔導師の術だからね…」
 デイジーはいくらでも伸びる触手たちを従えて、唇を歪めながら再び近づきはじめた。
「…しかも、こんなのまだまだ序の口よ。もっと凄いのもあるのだから…」
「くそっ!」
 ローレンスは、手にした絵筆でキマイラやら、屍食鬼やら、怪物たちを片っ端から描きはじめた。
「無駄よ! 幻影の怪物たちが、本物にかなう訳がないじゃない?」
 デイジーの言うとおり、ローレンスの描いた怪物たちは触手に襲われるなりたちまち砕けて消え去った。そして触手たちはついにローレンスの両手両足、胴と首を捕まえて締め上げた。
「ま、待ってくれ! ぼくを殺めると、魂が壊れた女の子たちを、元に戻せなくなるぞ。戻しかたを知っているのは、ぼくだけなんだからな」
「そんなこと、知ったことじゃあないわ! あたしは、お姉ちゃんの恨みを晴らすため、貴男を殺すために来たのだから!」
 これには、セアラやドイルやブライディーのほうが慌てた。
「デイジーちゃん、それはいけないわ! たとえどんなに悪い人でも、人の命を奪ってわ!」
「おい、デイジー、莫迦なことはやめろ! お姉ちゃんの友達が何人も助からなくなるんだぞ!」
「デイジーお願い! その人は生け捕りにして!」
「嫌よ!」
 デイジーは彼らのほうを見て、冷たく言い放った。
「…なぜなら。この術は、一度使ったら最低一人、人間の生贄を必要とするのだから…」
 ローレンスは震え上がり、セアラ、ドイル、ブライディーは狼狽した。
「デイジーは、いつからそんな恐ろしい術を…」 と、ドイル。
「…そう言えば、フィオナ様のお付きで、ソーホー街のアラビア語の書店に行ってから、そこの店番の少年に、いろいろと知らないことを教えて貰っている、とか言ってました」
「現実の世界ではなく、絵の中の世界だから、術者が未熟でも効いているのかもしれません。…とにかく止めさせないと…」
 セアラは何度も絵の中に入ろうと試み、指先、手のひらを差し入れるまではできたが、それ以上は無理だった。ブライディーもドイルも、もう一度試してみたものの、まったく弾かれてしまった。
「デイジーちゃん、たとえ大人でも、人が人を殺めてはいけないのよ。ましてや貴女はいたいけな子供。絶対にやってはいけないわ。怪物たちには後日わたくしが必ず生贄になるから、と言って、いったん帰ってもらいなさい!」
「シスター・セアラ、それはいけません!」 ドイルとブライディーが異口同音に叫んだ。「化け物たち、よく聞きなさい。後日わたしが必ずあなたたちの世界に行くと約束します。ですから、ローレンスを助けてください!」
 セアラの必死の祈りが通じたのか、触手たちはローレンスを手放してするすると引き揚げた。
「セアラさん、そんな約束してしまって、どうなっても知らないわよ!」
 デイジーは悔し涙をぽろぽろこぼしながら、ローレンスを促すように絵から出てきた。
 ブライディーは平手を振り上げてデイジーの頬を思い切り叩いた。
「痛い! 何するのよお姉ちゃん! あたしはお姉ちゃんのために…」
 ブライディーは泣き崩れて倒れた。
「昨夜の娘… やはり仕留め損ねていたのか… 大人しく術にかかり続けていれば、命だけは助かったものを…」
 ローレンスは吐き捨てるように言った。
「さぁ、ローレンス。おまえが奪った少女たちの魂を元に戻す方法を言うんだ!」
 ドイルは画家の襟首を締め上げた。
「嫌だね! 誰が教えてやるものか!」
 ドイルは手を離し、相手を壁に叩きつけた。
 その時、ヒュンいう音と共に一本の矢が飛んできてローレンスの左胸にぐさりと突き刺さった。、彼の左胸に見る見る血がにじみ始めた。
「誰だ!」
 皆が振り返った。大きく開いた窓の先、道の向こうに洋弓を構えた黒い人影が見えた。人影は洋弓を置き捨てると、駆けだして逃げた。
 セアラの目配せを受けて、傭兵隊長が後を追った。
「急所に命中している。たぶん助からない…」 ドイルは矢を抜くのを諦めて言った。「だから、早く言ってくれ!」
「方法は… 絵のモデルとなった… 本当に好きな男との結婚だ… そうすれば、魂は元に戻る… 男のほうに、魂の抜け殻となった… 恋人と… 結婚する勇気があれば…の話だが…」
 セアラとドイルとブライディーは思わず互いの目を見た。
「すると、ルチアの場合は、まず還俗させて、それから絵のモデルとなった恋人を捜し出して事情を説明すれば良いのですね?」
「男が… 変わり果てた姿になっている恋人を見て、逃げ出さなければ、な…」
 青ざめた唇の端から血を流しながら、ローレンスは不敵に笑った。
「おまえは一体何者だ? なんのためにこんなことをした?」
 ローレンスは答える代わりに、血で床に、何かは分からない、紋章のような記号を描いた。
「何だ、これは何の記号だ? どういう意味だ?」
「あなたは、この記号か紋章で表される秘密結社の一員なのですか?」
「…知っては…ならない…人間は…未来を…知ってはならない… 不確定であるべきことは… 確定させてはならない…」
 ローレンスはその紋章の上に突っ伏して息絶えた。
 セアラとドイルはまた顔を見合わせた。
「どういう意味でしょう? わたしのような、不思議な力を持った者は、この世に存在してはいけない、悪魔の申し子のようなものだ、と言いたかったのでしょうか?」
 メイドさんは遺体から目をそらせて言った。
「そんなことはありません。このかたの信仰がどのようなものだったか、知る由もありませんが」 セアラは殺された男の両腕を胸の上で組んでやった。「…人は皆、祝福を受けて生まれてくるのです。それを否定するなど…」
 後は言葉にならなかった。

 午後、カルティエ・ラタンのホテルの一室、短い時間お風呂に入り、ドレスを一番地味なものに改めたブライディーは、化粧はしないままに、ドイルやセアラたちの待つ居間に戻った。 テーブルの上には、傭兵隊長愛用のパリの地図と、鉛筆が二、三本置かれていた。
「ルチアさんが好きだった、修道女になってからも聖人に似せて肖像画を描かせた殿方の名前は何とおっしゃるのですか?」
 メイドさんは椅子にかけて、静かに訊ねた。
「懺悔で聴聞したことは、絶対の秘密なのですが…」 セアラはそう言って、名前の書かれた紙片を渡した。「この際、やむを得ません…」
 紙片をチラリと見たブライディーは、深呼吸を一つすると、瞳を閉じて鉛筆を持ち、地図の上にぽとんと落とした。
「どこだ?」
 覗き込んだドイルの顔色が青ざめた。
「どうされましたか、ドイル様?」
「公共墓地… 墓場だ…」
「どうしましょう!」
 セアラも息を呑んだ。
「とにかく、確かめてみないことには…」
 ブライディーも息を整えながら瞳を開いた。 地図を手にしたセアラとドイルは先を争うようにして出て行こうとした。
「セアラ様、あなたは怪物にも狙われている身、青年の名前を教えてくだされば、ぼくが確かめてきます」
 と、ドイル。
「いえ、『あのもの』たちの『後日』というものが明日なのか、あさってなのか、一週間後なのか、一ヶ月後なのか、半年後なのか、一年後なのか、十年後なのか百年後なのか、誰にも分かりません。いちいち心配していてはきりがありません」
「デイジー、みんな貴女のせいなのよ」
 ブライディーは悲しそうな表情で妹分を見た。
「あたし、謝らないわよ」
「デイジー!」
「よいのですよ。わたくしは、デイジーちゃんが人を殺めるのを思いとどまってくれたことのほうがよほど嬉しいのです」
 セアラはいつもの微笑みを浮かべて二人を分けた。
「では、この際、全員で行きますか。…それより私も、ローレンスの殺害犯人を取り逃がし、申し訳ございません」
 寡黙な傭兵隊長が深く頭を下げた。

 陽光のきらめく広い公共墓地に、一同は到着した。あちこちに供えられた花束に、蝶たちが舞っている。ブライディーは手にしていた白い薔薇の花束の中から一輪抜き取ると、地面に描いた墓場のだいたいの地図の上に落として占った。
「このあたり、ですか…」
 地面に置かれた墓石を一つ一つ調べていたセアラが、ふいに足を止めた。
「ありました」
 ドイルたちが覗き込むと、そこにはつい半年ほど前の日付が刻まれた、真新しい墓石と十字架があった。下に眠る人物は、わずか二十歳ほどで天に召されていた。
「いつ、どのようにして亡くなったのだろうか。病気だろうか、事故だろうか、それとも…」
 ドイルはポツリと言った。
「占って、みましょうか…」
「いえ、ブライディー、それはいけません。そこまで知る必要はありません」
 セアラはそう言うと静かに祈りを捧げ始めた。ブライディーもついて祈った。ドイルとデイジーは黙って目を閉じうつむいていた。
「しかし困りましたね。これではそのルチアさんとおっしゃるかたは、その…一生元に戻らないことになってしまいます」
 祈りが終わった後で、ドイルはまたポツリと言った。セアラとブライディーは憂いに満ちた表情で黙ったままだった。
「そんなことはないよ。方法はあるよ」 ふいにデイジーが明るい声で言った。「結婚式を挙げさせればいいんでしょう?」
「しかしデイジー、どうやって亡くなっている者の結婚式を挙げるんだ?」
「降霊術だよ。霊を降ろして、誓いの言葉を言って貰ったら良いのでは?」
 みんなは一斉に目を見張った。
「なるほど。しかし、そう都合良く彼の霊が降りてきてくれるだろうか? また降りてきても、ローレンスが言っていたように、ひどい有様のルチアさんを見て。誓いの言葉を述べてくれるだろうか? さらに、誰がその降霊会と結婚式を執り行うか、という問題もある」
「結婚式はわたくしが執り行いましょう」
 セアラが間髪を置かず言った。
「ルチアさんの彼の霊は、あたしが降ろしてみるよ。大丈夫。きっと上手く行くって」
 デイジーは自信満々だった。

 パリからかなり離れた平野の真ん中、堀に囲まれて建っている大きな修道院の礼拝堂に、深夜、五人の人間が集まった。
「デイジー、大丈夫? もしも気分が悪くなったりしたら言うのよ」
 地味なドレスのブライディーは、窓や廊下から絶え間なく伝わってくる、心を病んだ女性たちの苦悶の声を気にしながら訊ねた。
「だから大丈夫だよ、お姉ちゃん。ルチアさんの彼氏の霊を呼び出して、きっと二人の間を結んで見せるよ」
 ちっちゃいながらも、霊媒の式服…漆黒の絹のドレスに身を包んだデイジーは、持参したイミテーションの宝石の耳飾りや首飾り、ブローチを身につけながら言った。
「ちょっと待ってね、デイジーちゃん」
 いつもと同じ清貧な修道尼の制服姿のセアラは、しばらく座を外していたが、やがて手にした聖書と同じくらいの大きさの、立派な螺鈿の宝石箱を持ってきた。箱を開けると、それはそれは見事なサファイアの耳飾り、ルビーの指輪、水晶の首飾り、カメオのブローチなどが納められていた。
「これは、大昔にこの修道院をお開きになったお姫様のものだったと伝えられている宝石です。イミテーションよりもご加護があるのでは?」
「有難うセアラさま」
 デイジーは驚くほどの手早さでイミテーションを本物に付け変えた。
「あの、セアラさま。術が上手く行って、ルチアさんが元に戻ったら、ご褒美にこの中の一つをあたしに下さいませんか?」
「デイジー!」
 ブライディーとドイルが睨みつける。
「一つとは言わず、すべて差し上げましょう」
「セアラさま!」
「あたし、絶対成功させる!」
 祭壇の前には、粗末な木の車椅子に乗った純白の花嫁衣装姿のルチアが、花束を手にし、虚ろな瞳で十字架の基督を見上げている。
「ルチアの還俗の儀式はすでに済ませてあります。挙式の許可も取りました。後は、お相手だけです。ドイル様は国教会なのに、よろしいのですか?」
「いや、ぼくは実はイエズス会の寄宿学校の出身なのですよ」
 ドイルは『この際、関係ありません』と言いたげに掌を振った。
「では、皆様、やらせて頂きます」
 デイジーはセアラと並んで、祭壇を背に、ルチアと対面する位置に立ち、心を静めて祈った。
「…我は求め訴える。今宵一夜、冥界の境を越えて、来たり賜え…」
 なま暖かい風が吹き抜けて、礼拝堂の燭台の蝋燭を一斉に揺らせた。
 一分、二分、三分…
 何も、起こらない。ただ、時折、お香の匂いが鼻をつき、心を病んだ女性たちのうめき声や叫び声が聞こえてくるだけだ。
 五分、七分、十分…
 デイジーは一心不乱に口の中で呪文を唱え念じ続けているのだが、やはり、何も起こらない。
 そのうちに、ルチアがケタケタと甲高く嘲笑った。
「お姉ちゃん…」 デイジーは静かに言った。
「しばらく、炊事や洗濯や、メイドのお仕事はしなくていい?」
「いいけれど、デイジー、ひどく消耗するようなことはやめておいてね。無理ならこれ以上の無茶はしないでね。わたしたちはもともと、できないことを頼んでいるのだから」
「今宵一夜、叶え賜え!」
 デイジーはまなじりを決したかと思うと、隠し持っていたナイフで左手の掌を印の形に切り刻み、その手を正面に突きだした。たちまち鮮血がにじみ出し、床の上に落ちる。
「デイジー、何をするんだ!」
「何をするの?」
 ドイルがナイフをもぎ取り、ブライディーが羽交い締めにし、セアラが傷にハンケチを押し当てようとした時、開け放たれた正面の出入り口に、一人の美しい青年が現れた。
「ルチア…」
 青年は、車椅子に乗った花嫁姿の恋人の姿を認めると、走って駆け寄った。
「ぼくだ! その姿は一体どうしたんだ? 事故にでもあったのか?」
 セアラが、簡単に事情を説明した。
「そうか… 悪い奴に騙されたのだな。…すまない。助けてあげられなくて…」
「それが、助ける方法があるのです。貴男が結婚して上げれば、元に戻るはずなのですが…」
「しかし、ぼくは死んでいる」
「構いません」
「死者との婚礼などを取り持ったりしたら、貴女は破門されますよ。…いや、異端審問にかけられるかもしれない」
「特別の許可を得ています」
「だったら、早く挙げてくれ!」
 セアラは厳粛に式を執り行った。青年は誓いの言葉を述べ、ルチアの左手の薬指に指輪を嵌めてやり、口づけをした。
 と、途端に、ルチアの瞳に命の光が甦った。
「あなた…」
「ルチア…」
 二人は改めて熱い、熱い口づけを交わした。
 掌に真っ赤なハンケチを巻いたデイジーはごくりと生唾を飲み、ブライディーは目をそらし、ドイルは溜息をついた。セアラは、いつものように微笑みを浮かべている。
「二人だけの部屋を用意してあります。誰も邪魔をしないように言ってあります」
 青年はルチアを抱きかかえると、何かを語りかけながら礼拝堂を出て行った。ルチアも嬉しそうに青年の問いかけに答えていた。
(もしもわたしがルチアさんのようになっていたら…) ブライディーはふと考えた。(お兄ちゃんは結婚してくれたかしら? …いや、きっと…)

「…そういう訳で、わたくしはろくに使命を果たすこともできず、ただただ心配と迷惑だけをおかけし、本当に申し訳ございませんでした」
 窓の外は雨に煙るロンドン。英国心霊協会の屋敷で開かれたパリ遠征の報告会で、ブライディーは深々と頭を下げた。
「いいや、そんなことはないぞ。君のお陰でローレンスの隠れ家を突き止め、ルチアさんをはじめ、多くの娘たちの魂を元に戻すことができたんだ」
 ドイルは、見慣れない切手を貼って、船便でフランスから送られてきた礼状の束を示して言った。
「あたしはお姉ちゃんよりもずっと大活躍したのよ」 左手に白い包帯を巻いたデイジーは胸を張って言った。「あたしがローレンスを捕まえ、おまけにアイデアを出して、ルチアさんの恋人の霊を降霊させて、元の元気な身体に戻して上げたのよ!」
 もちろんそのせいで、セアラが異界の名状し難いものに付け狙われることになったことは黙っていた。
「おお、それはそれは、デイジーは凄いな」 クルックス博士はただ頷いて感心していた。「…デイジーには、我らが協会からもご褒美をあげないとな」
「いえ、クルックス博士、デイジーにはすでにセアラ様から余りあるほどのお礼の品を…」
「ぜひ、下さい! あたし、役に立ったでしょう。ぜひ、次のお仕事にも一緒に連れて行って下さい!」
 デイジーはドイルの言葉を遮って言った。
「霊媒の式服を着たデイジーちゃんを、ぜひ写真に撮りたいなぁ」
 と、ドッジソン教授。
(お葬式のドレスを買うなんて、贅沢です。デイジーはこれからまだまだ背が高くなって、すぐに着られなくなるというのに…)
 言いかけて、ブライディーは口をつぐんだ。
「ブライディーもよく頑張ってくれたと思うよ」
 配られた報告書から目を上げたウォーレス博士は、メイドさんたちに向かってにこやかな笑みを浮かべて言った。
「それで、このローレンスとか言う妖術使いが描き残したという記号というか、紋章が何を表しているか、分かったのかね?」
 マイアース副会長は、自らの専攻に近い、分厚い紋章学の本や、紋章の型録を何冊も積み上げ、無数のいろんな種類の紋章がずらりと掲載されたページを一枚ずつめくりながら言った。
「いや、それが…」 ドイルは言葉を詰まらせた。「いま、各種の研究機関やフィオナ様に問い合わせているところなのですが…」
「そのローレンスという輩が、こけおどしか、はったりで出鱈目な記号か紋章を描いただけではないのかね?」
 デュード侯爵は、相変わらず苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
 と、その時ちょうど、郵便電報の配達を知らせる鐘の音が鳴り、ブライディーがスカートの裾をつまんで走って出て行った。
「私たちの研究班は、こんど人狼伝説のフィールドワークでドイツに赴こうと思っているのだが…」
 別の会員たちが、新たな遠征計画書の束を差し出した。
「そのようなどこに潜んでいるか分からないものでしたら、ブライディーが…」
「いいえ、お姉ちゃんだったら、狼に丸飲みされて一巻の終わりだよ」 デイジーはまたさりげなくドイルの前に出た。「あたしを連れて行ってくれたら、猟師さんを三人連れて行くよりも安心だよ!」
 ブライディーが手紙を銀の盆に乗せて戻ってきた。
「フィオナ様からの速達です」
 ドイルは添えられた銀のペーパーナイフで手紙の封を切った。
「…まったく、ドイル様たちは、どうして毎回このような危険なことばかりをなさるのでしょう? 前回のアイルランド旅行の際に採集されてこられた文字や文章と同様に、この記号紋章が何を表しているか、とても恐ろし過ぎてお答えすることはできません。もしもこのようなことを今後も繰り返されるおつもりでしたら、ブライディーを返して頂きたく思います」
 心霊協会の会員たちは、シーンと水を打ったみたいに黙りこくった。
「ほらね。お姉ちゃんはね、怪人や怪物たちと戦うよりも、貴族様のお屋敷で働いたり、警察で行方不明の人や家出した子供の捜索に協力しているほうがお似合いなんだよ。このあたしにお任せ頂ければ…」
 沈黙を破ったのは、ジャンヌ・ダルクもかくやと思われるデイジーの勇ましい言葉だった。

 デイジーは、ローレンスに描いてもらったサダルメリク少年の肖像画を屋根裏のメイド部屋の自分のベッドの上にかけた。ブライディーが心配しても「術者が死んでしまっているから大丈夫だよ」と言い張った。
 セアラに貰ったお姫様の宝石については、ドイルが何度も「銀行の貸金庫に預けておいてあげよう」と言ったのを断って、自分で秘密の場所に隠し、毎晩取りだしては身につけて鏡に写してみるなどして悦に入っていた。

     (次のエピソードに続く)





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