ブライディー・ザ・マジックメイド
「ブライディー女子大生になる」

「ブライディー、すみません。続け様のお願いで、大変申し訳ないのですが…」
 ロンドンに涼しい風が吹き始めた、とある初秋の昼下がり、英国心霊協会の屋敷を揃って訪れたフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢と、オクタヴィア姫は、デイジーが出したお茶とマフィンに手を付けずに切り出した。
「わたくしたちと一緒に、ケンブリッジ大学のニューナム女子校に上がり、そこで密かに活動しているという女子学生たちの神秘結社の秘密を暴いてはくれないでしょうか? もちろん、今度はオクタヴィア姫の身代わりになってもらう必要はありません。心霊協会から学資を出してもらったブライディーとして入学して欲しいのです。入学に関する手はずはわたくしたちが整えますから…」
「女子大生ですか…」
 ブライディーの心が動いた。ケンブリッジ大学は、一度ドッジソン教授のお見舞いの時に訪れていて、自分と同じ年頃の少女たちが、毎日自分の好きなことを学んでいるのを見て羨ましく思っていた。さらに、ニューヨークにいるお兄ちゃんからは「雇い主の厚意で夜学に入学させてもらった」という手紙も受け取っていて、焦りのようなものも感じていた。
「…実は、ニューナム女子校の生徒で、非常に聡明で利発だった子が、突然重い心の病にかかって退学・入院を余儀なくされたのです。その子は、とても…いわゆる霊感の強かった子で、神秘結社に引きずり込まれていた、と思われます。わたくしたちがやれば良いのですが、残念ながら貴女のように霊感は強くなく、その秘密の会から誘われることもないでしょう。だから、貴女が大学に入学して、それとなく神秘学に興味があることをほのめかし、いつもの能力をそれとなく発揮して、誘われたら多少じらしてから入会し、それがどういった会でどういう目的で動いているのか、探って欲しいのです」
「もしかすると、その会の誰かがわたくしの姉、ヴァイオレットの行方を知っているかもしれません」
 オクタヴィア姫は目をうるませた。
「分かりました。全力を尽くさせて頂きます」
 メイドさんの、今回はきっぱりとした返事に、二人のお姫様は顔をほころばせて頷き合った。
「今度は『女子大生』ですって」 そんな様子を厨房の影から窺っていたデイジーは、吐き捨てるように言った。「…お姉ちゃんばっかり、ずるい…」
「まあまあ、そうおっしゃらずに…」 ポピーは、小刻みに震えるデイジーの肩を押さえて言った。「『お姫様』もそうですが、大学生も良いことばかりではないのですよ。勉学の道も、好きでなければ到底長続きせず勤まらないものですよ」
「わたし、勉強が好きです。皆様から少し教えて頂いたラテン語やフランス語にも興味があります」
 メイドさんは、わざと厨房まで聞こえるようなはっきりした声で言った。
「分かりました。では手配して文学部に入り込めるようにしておきましょう。ゲール語科でしたらボロが出にくいと思います。わたくしはアラビア語を、オクタヴィア姫はラテン語を専攻しますが、疑われないように学内では互いに親しげにするのはやめておきましょう。いいですか? それから大学は国教会の信者か、国教会に改宗しないと入学できません。もしも礼拝などがあったら適当にお芝居をしておいてください。また、わたくしとうり二つというのが不都合でしたら、すみませんが顔にソバカスでも付けてください」
「はい」
 ブライディーは大きく頷いた。

「…ミディールは地下の神で、マン島に王宮を持っていましたが、そこでは魔法の三匹の牛と大釜が、いつも絶えることなく豊富な食べ物を満たしてくれました。王宮の入り口には三羽の鶴が番をしており、一番目の鶴は『来てはいけない! 来てはいけない!』と鳴き、二番目の鶴は『あっちへ行け! あっちへ行け!』と鳴き、三番目の鶴は『通り過ぎろ! 通り過ぎろ!』と鳴くので、『来るなの三羽鶴』といわれています…」
 レースのカーテンを揺らせて爽やかな秋風が吹き抜けるニューナムの教室。ブライディーは流暢にゲール語に無理矢理アルファベットの文字を当てて表記した文章を読み上げた。「ブライディーさん、いいでしょう。さすがはアイルランド出身のかたですね。きょうはここまでにしておきましょう」
 年取った女性の講師が栞をはさんで本を閉じ、縁なしの老眼鏡を眼鏡入れにしまった。ブライディーも教科書やノートを閉じて小脇に抱えて席を立ったが、教室の隅のほうから、何やら囁き合う声が聞こえてきた。
「あのかた、もとはメイドなんですって」
「だから髪もあんなに短いんですね」
「コナン・ドイル様に学資を出してもらってこちらへ入学したんですって」
「まぁ、きっとドイル様とただならぬ関係なのに違いないわ」

 いろんな囁き八丁を聞かないようにしていたブライディーだったが、ほとんどが貴族の名家や、郷紳のお嬢様たちからなる同級生があまりにもひどいことを言い、こちらから話しかけても無視するなどの意地悪をするので、とうとう悲しくなって、人けのない放課後の教室で、一人ハンケチを目に当ててこぼれる涙を拭いながら「不思議の国のアリス」のタロット・カードで「どうしたらみんなと仲良くなれるのか」を占っていた。
 とそこへ、銀色の長い髪に灰色の瞳の東欧ふうの顔立ちの背の高い二十歳くらいの女生徒が近づいてきた。
「こんにちわ」
 彼女は少しボヘミア訛りのある英語で話しかけてきた。
「こんにちわ」
 ブライディーは慌ててタロットの陣を崩そうとした。
「どうぞ、そのまま続けて。もしもお邪魔なら、わたくしが後から出直しますわ」
 相手はチラリと並べられたカードに目を落とした。ブライディーは以前、それが元でデイジーに辛い目をさせてしまったことがあったが、今回は「わざと」で、何を占っているかを読まれても構わなかった。
「あ、いいえ。別に大したことでは…」
「わたくし、ゼリューシャと申します。ボヘミアのプラーグから留学して三年になります」
「わたしはブライディーです」
 ゼリューシャはほんのかすかに、英国のものでも、フランスのものでもない、聖書に出てくるような異国の香水の香りを漂わせていた。
「この秋に入学された、新入生のかたですわね?」
「はい」
「占いがおできになる?」
「いえ、『できる』というほどのものでは…」
「知り合ってすぐにこのようなことをお願いして厚かましいとは思うのですが…」 ゼリューシャは謎めいた眼差しを向けた。「…実はきのう、いつも身につけている母の形見のヴェネチアン・ガラス細工のペンダントを、どこかに落としてしまいまして… すぐに落とし物届けを出し、友達と一緒に立ち回り先を、それこそ這うように懸命に探したのですが…」
「まぁ、それは大層お困りでしょう」
「『新入生の中に、空いている教室で時々タロット・カードで占っている子がいる。短い赤い髪のソバカスのある子』よ」という噂を耳にしたものですから…」
「それはどのようなペンダントでしょうか?」
「これくらいの大きさで…」 ゼリューシャは白魚のような指先で、鳩の卵くらいの輪を作って見せた。「中にこのような紋章がガラス・ビーズで埋め込まれています」
 傍らのメモ用紙にさらさらと描かれた絵を見てブライディーは心臓が止まりそうになった。それは、パリでローレンスが描いた、また、バッキンガム宮殿の禁書の書庫の中の『完徳者の書』の挿絵にあった一対の鳩の羽根か二本の櫂にそっくりの紋章だった。
「…もしもお願いできるものでしたら、いますぐ占って頂けませんでしょうか?」
「分かりました」 ブライディーは胸の鼓動が次第に激しくなるのを懸命にこらえながら言った。「…やってみましょう」
 ブライディーは陣を崩して入念に切り直した。向かい合って椅子に腰掛けたゼリューシャも、渡されたカードをよく切った。
 メイドさんは心を静めてゆっくりとカードを並べ始めた。
 女教皇の正位置、愚者の逆位置…
「…ぺンダントは、空の下にではなく、屋根のあるところにあると思います… …それは、絶えず美しい楽の音に満ちているところ…」
「音楽室ですわ!」 ゼリューシャは椅子から飛び上がるように立ち上がった。「…わたくしはコーラス部に入っていて、きのうの夕方、練習があったのです」
 ゼリューシャは小走りに、ブライディーもその後に続いて音楽室に向かった。
「でも、ここは何度も調べましたが…」
 辺りを見渡して探すゼリューシャを横目に、ブライディーは閉じられていたグランドピアノの蓋を開けて、あまり使われることのない最高音部の辺りを探した。
 果たせるかな、そこにはキラキラと輝く、一対の鳩の羽根か櫂のような紋章のついたブローチが引っかかっていた。
「有難うブライディー! 恩に着ますわ!」
 ゼリューシャは抱きついてきた。
「あの、お願いがあるんです。ゼリューシャさん」
 メイドさんは小さな声で言った。
「なに? わたくしにできることなら何でもさせて頂くわ」
「わたくしの占いでブローチが見つかったことは黙っていて欲しいのです。あくまで自分で探していたら見つかったことにしておいて欲しいのです」
「分かりました。貴女がそうおっしゃるのなら… しかし、そのような素晴らしい能力、皆さんのために使わないともったいないように思うのですが…」

 その晩、寄宿舎に戻ったブライディーは、自分がタロットで占いをしているところに近づいてきた人があったことや、その人が一対の鳩の羽根か、二本の櫂の紋章のついたブローチを探していたことを、フィオナたちに手紙で報告しようと考えていた。ゲール語でしたためれば、万一他人に見られたとしても読める者は少ないはずだった。
 相部屋の生徒は、気位の高い子で、挨拶以外ブライディーとはほとんど話を交わさなかった。だから、手紙を書いていたぐらいで関心を持たれることもないはずだった。
『…ゼリューシャというその人は、わたしが何者で、何の目的でここにやってきたかを知っている上で、わざと鳩の羽根の紋章を見せたのかもしれません…』
 そこまで、時間もかなりかけて書いた手紙を、ブライディーは蝋燭の火で燃やし、暖炉の中に捨てた。
(あのゼリューシャというかたは、ローレンスやミレディや、ネス湖に現れた外国人の男や、フィオナの伯母様の公爵夫人と同じ、敵かもしれない。でも…)
 メイドさんは、ただ何となく彼女に好意を持ってしまった。どちらかと言うと入学以来無視され、いじめられてきた学内で、はじめて優しくまともに声をかけてきてくれた人だったからかもしれない。たとえそれが何らかの思惑があってのことだったとしても、それはそれで温もりのようなものを感じたし、第一、ゼリューシャは話し方も物腰態度も非常に魅力のある人だった。
(あのかたは『自分はコーラス・クラブに入っている』と言っていた。一体どのような歌声なのでしょう?)
 翌日の放課後、ブライディーはあのグランド・ピアノが置いてある音楽室に行ってみることにした。
 部屋に近づくと、まるで人間の女性の声とは思えないほど美しい、まるで秋の風のように透明感のある歌声が聞こえてきた。思わず小走りに駆け出すと、女子生徒たちの人垣に遮られた。
 それをかきわけて最前列に出ると、あのゼリューシャがこちらに端正な背を向け、窓の外に向かって「スカボロー・フェア」や「グリーン・スリーヴス」を歌っていた。ブライディーに話しかけてきた時のような東欧訛りはまったくない、完璧な発音と音階で。
 曲がグノーのアヴェ・マリアに変わった。ブライディーは思わずピアノのそばまで駆け寄って両手を胸の辺りで組んでユニゾンで合わせた。
「何よあの子、ゼリューシャさまに合わせるなんて、何様のつもり?」
「見たところ新入生のようだけれど…」
 囁きかけた者たちもすぐにジッと押し黙った。ブライディーの歌声はゼリューシャに劣らない素晴らしいものだったからだ。
 ゼリューシャはわざと、中世のラテン語の難しい賛美歌に曲を変えた。が、幸運なことにその曲を知っていたメイドさんは、またしてもついて歌った。
 ゼリューシャは振り返ってブライディーを見つめ、歌いながら歩み寄って並んだ。
 ブライディーも彼女のほうを首をかしげて見上げた。相手のドレスの胸元には、例の鳩の羽根か二本の櫂のような紋章が浮き彫りになったベネティアン・ガラス細工のブローチが輝いている。
 ゼリューシャがあるところで高音部を歌うと、メイドさんはすかさず低音部を歌ってハーモニーを奏でた。じっと聴いている子たちの中には…曲に何か特別な思い出でもあるのだろうか、それともただ神の栄光を称える歌詞に感動してだろうか、涙を流している者もいた。
「見事です。ブライディー」
 曲が終わるとゼリューシャは、母のような姉のような慈しむ目でメイドさんを見つめた。
「すいません。お邪魔をしてしまって…」
 紅潮した顔を伏せ、うなだれかけた肩をゼリューシャが支えた。
「いいえ。わたくしも久しぶりに心から楽しみました。どうですブライディー、貴女もコーラス・クラブに入りませんか? きっとお友達もできますよ。…みなさん、よろしいですね?」
 無論、反対する部員などあろうはずがない。
 しかし、
「あのかたたち、お二人ともイングランド人じゃあないのに、どうして?」とつぶやく者はいた。

 翌日からブライディーは、放課後音楽室に通い始めた。ブライディーが勝手に「ソプラノさん」「アルトさん」と名付けた友達もできた。ソプラノは少しふっくらとした桜色の頬の人の良さそうな子で、「アルト」は痩せぎすの背の高い鋭い眼をした子だった。二人とも、ブライディーの割舌をもってしても容易に発音できない、遠い異国からの留学生で、ゼリューシャの腹心の友のようだった。
 ゼリューシャとソプラノ、アルトの三人は入れ替わり立ち替わり、メイドさんに楽譜の読み方や教養学科の勉強を教えてくれた。
 各教授の試験の出題の癖なども。お陰で新学期が始まってからの小試験は、すべて満点に近い成績を取ることができた。
 がしかしそのせいで、同じクラスの上流階級の子たちからは、さらなる妬みを受けてしまった。
「あのメイド上がりの子、生意気でしてよ」
「どうせまたコナン・ドイル様が予め問題を聞き出して、あの子に教えているのに違いありませんわ」
 悪口だけだったら聞き流すものの、無視や、親しくなろうとして問いかけたりした時に、わざと嘘を教えられた際などは心が痛んだ。
 そんな時は放課後、音楽室に行って、ゼリューシャたちとお腹から声をだして歌った。
 短い秋の日が落ちてから、寮に「夕食は要りません」と断りを入れてから、サンドイッチを頬張りながら、夜が更けるまで語り合い、勉強をした。ゼリューシャたちは自分たちのことはそっちのけでブライディーを手取り足取り教えてくれるものだから、メイドさんの成績はますます上がる一方だった。
「皆様は、女性の身でありながら、どんな夢があって、ここケンブリッジのニューナム校に来られ、学問を修められているのですか?」
 ブライディーがゼリューシャの私物の、白鳥の透かしのあるマイセンの紅茶セットでアールグレイを淹れると、彼女たちはそれぞれ好みのハーブを浮かして飲んだ。
 それらのハーブは、アイルランド育ちのブライディーでも全く知らない、言葉では言い表せない香りがして、それを飲むと頭が冴え、眠気も去って勉強もはかどるのだった。
「わたくしたちはそれぞれ皆、滅びた祖国の再興のために努力しております」
 ゼリューシャは凛とした声で答え、ソプラノとアルトも小さく、しかし力強く頷いた。
「ユダヤのかたたちのように、ですか?」
 訊いてしまった後で、メイドさんは思わず手のひらで口を覆った。
「貴女たち、アイルランドも独立を目指しておられるのでは?」
 アルトが低い声を一層潜めて言った。
「………………」
 ブライディーはニューヨークで働き学んでいる「お兄ちゃん」のことを思い浮かべた。(もしもロンドンやダブリンに錦を飾って帰ってきたときに、自分も負けないくらい尊敬される女性になっていなければ… でも、ここニューナムでのことは、例えばもしも、依頼された怪事件を首尾良く解決してしまえば、中退して元のメイドに戻らなければならないのかしら? ここの授業料や寄宿舎の費用はすごく高いらしいから、きっとそうよ。…では、なかなか事件の解決に進捗が見られなかった場合はどうなのかしら? 例えば、四年たっても相手がなかなか尻尾を現さなかった場合。卒業までいていいのかしら? 貧救院の出で、花売りやマッチ売りをやったこともあるこのわたしがケンブリッジ大学の女子校を卒業? まるで貸本屋さんに置いてある少女小説じゃない? でも、正式に入学試験に合格して入ったわけじゃないからね卒業証書は貰えるのかしら?)
(注、「あしながおじさん」はこれより17年後の1912年、アメリカで刊行)
「ブライディーさん! ブライディーさん!」
 メイドさんがハッと我に返ると、ゼリューシャたちが心配そうに覗き込んでいた。
「…どうかなさいましたか?」
「いえ、すみません…」
「このところ頑張りすぎているように思うので、今夜はこれで帰りましょうか?」
(寄宿舎に帰って、フィオナやオクタヴィア姫にゼリューシャたちと友達になったことを手紙に書こうかな?)と考えたブライディーの目に、音楽室の壁のコルク板に張り出された張り紙が目に入った。
『ニューナム奨学金。試験の成績優秀者で、学費寄宿舎費用を払い続けるのが困難な生徒一名に、その全額を支給するものなり…』
「何を見ているの? あれなら無理よ。あれはここ三年間のあいだずっと、ゼリューシャさんが取られているから」
 アルトがこれ以上低くはできないような低い声でつぶやいた。

 結局、(紋章が同じというだけで、まだ本当のことは少しも分かっていない)と自分に言い聞かせ、フィオナとオクタヴィア姫に手紙は書かなかった。

 数日後、新入生同士の親睦を兼ねて、ケンブリッジ近くの湖水地方の森に、みんなが馬車に相乗りして遠足に出かけることになった。
 ブライディーは同級生たちに食べてもらおうと思って、心を込めてクッキーを焼いた。
 しかし、着いた途端、みんなは仲良しグループごとに湖の岸辺や森の中に行ってしまい、後にはお弁当と水筒とお菓子を手にしたブライディーだけが取り残された。
 ゼリューシャたちは上級生だからこの場にはいなかった。フィオナとオクタヴィア姫を捜したものの、クラスが違うせいか、近くには見あたらなかった。
 メイドさんは仕方なく一人淋しくサンドイッチを食べ、(せっかくだから、どこかに遺跡のような見所はないかしら?)と、「こっくりさん」の棒を取りだして占った。
(以前にドイル様とアイルランドを旅行した時に、同じことをして大変な目に遭ったことがあるから、あんまりこういうことはしたくはないのたけれど、皆様に学資を出して頂いている以上、近所に怪しい場所がないか、いちおうは調べておかないと…)
 ブライディーは心霊協会の会員たちに進学祝いに買ってもらった秋物の帽子をかぶり直し、棒が指す方向に向かって歩き出した。
 そろそろ木の葉が黄色や茶色に変わりかけている森の小径を進んで行くと、「妖精の舞踏場」と呼ばれる半径数フィート渡って下草が刈り込まれたように平らになっていて、そここに石碑の名残りのような小さな岩が残っている場所に出た。
 メイドさんがその岩の一つに腰を下ろしてクッキーを食べていると、蜻蛉くらいの大きさの、緑色の三角帽子をかぶった男の子とも女の子ともつかないものがその周りを飛び回り始めた。
(まぁ、妖精… ドイル様やドッジソン教授がご覧になったら、どんなにどんなに喜ばれることかしら!)
「おいしそう…」
 妖精は指をしゃぶりながらクッキーを見つめた。
「よかったら、お一つどうぞ…」
 ブライディーはクッキーを小さく砕いてその子に渡した。ふと気がつくと、辺りは妖精たちや、リスや、ウサギ、キツネや小鳥たちといった森の住人で埋め尽くされていた。持ってきたクッキーや他のお菓子はたちまち無くなってしまった。
「お嬢さん、ごちそうさま。とてもおいしかった、有難う。…ところで貴女、なぜまたこんなところにいるの?」
「ケンブリッジ大学の、ニューナム女子校の、霊感のある子が、とても気の毒なことになって、なぜそうなってしまったのかを調べているの」
 そう言うか言い終わらないうちに、妖精たちや小さな動物たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。
「お嬢さん、悪いことは言わないよ。いにしえの大魔導師マーリンでもない限り、そのことには首を突っ込まないほうがいいよ」
 という声を残して。
「どうして? 誰か、何か、恐ろしいものがいるの? 教えて?」
「教えられないよ。たとえ教えてあげたところで、お嬢さんには無理だ。あの『円卓の騎士』たちだったら何とかできたかもしれないけれど」
「でもまた同じような目に遭う子が出たらかわいそうでしょう?」 メイドさんは懐から例の「一対の鳩の羽根か小舟の櫂のような紋章」を描いたメモ用紙を広げて虚空に示した。
「どなたかこの紋章に見覚えのあるかたはいない?」
「それは『清浄派』の紋章だ」
「莫迦! 教えるな!」
「そのことは知っているわ。そのかたたちは、とっくの昔に滅ぼされてしまったはずだけれど、まだいらっしゃるの? いらっしゃるとすれば何をなさろうとされているの?」
「自分たち以外の者をすべて滅ぼして、かつて自分たちを滅ぼした者たち、つまりあなたたちに復讐しようとしている」
 ブライディーは手のひらで自分の胸元を押さえた。
「でも、そんな大昔の恨み…」
「『不老不死不死身』『未来予知のように不確定なものを確定する力』…『清浄派』の『完徳者』だけに伝えられると言うこの二つの力が揃えば、『真に神のように振る舞える』と伝えられているよ」
 小さな木霊のような声を残して、最後の妖精が消えた。
 気がつくとメイドさんは、誰もいない森の木漏れ日の下に立ちつくしていた。

 ブライディーはその場を立ち去り難く、棒を取りだしてもう一度占った。
(あの妖精さんたちが、あのように恐れているところからすると、「清浄派」の末裔のかたたちが、このあたりにやって来て、魔法の稽古か、精神修養をやっているのに違いないわ。それがどこなのか、分かるようなら教えて!)
 棒はクルックルッと回転して、とある小さな崖の下の、びっしりと蔦や何かに覆われた壁を指した。メイドさんは長いスカートの裾をくくってその場に近づいてよく観察してみた。
 果たせるかな、蔦のカーテンの向こうには人一人が立って歩けるくらいの洞窟がポッカリとあいていた。大昔にピクト人か、デーン人が住居にしていたものに違いなかった。入り口付近には新しい靴跡がいっぱいついていた。中には比較的小さくて、子供か女性のものと思われるものもあった。
 いったん森に出たブライディーは、「蝋燭の木」から何本か枝を折って松明にし、ハンカチを巻いてマッチで火を付け、再び洞窟に戻った。
 地面を照らすと、蝋涙が幾重にも点々と落ちている。洞窟は先のほうで二つ、三つに枝分かれしていた。
(どっち?)
 道が分かれている度に繰り返し占った。洞窟の中で繰り返し占うのは、「人形の城」の地下洞窟以来のことだった。
 そうこうするうちにいくつもの部屋を通り過ぎた。壁をくりぬいただけの燭台置きや灯明皿置きがある。同じく質素な本棚や物置と思う棚もしつらえてあったが、本や道具の類は見あたらなかった。
 そうこうするうちに天井からは土や砂や小石が落ちてきて顔にかかった。
 松明が照らす壁の先には、ノルマン時代のルーン文字が刻んであった。
(えーっと、これは何という意味だったかしら? フィオナ様がいらしたら簡単に読んでくださるのに…)
 と、ダブリンにいた頃、フィオナにギリシア語やラテン語やルーン文字の絵入りの歌留多遊びに付き合わされたことを思い出した。
『危険 立入禁止 衝撃厳禁』
(いけない! 深入りし過ぎたかしら? ここのあたりは以前使われていたけれど、いまは使われていないみたい…)
 慌てて戻ろうとした拍子に、地面から突き出ていた石につまづき、転ばないように無意識に手を伸ばして頭上すぐのところにある梁のようなものをつかんだ。梁はまるで灰のように一瞬にして塵に還り、頭上から土砂がなだれを打って落ちてきて松明をかき消し、メイドさんを生き埋めにしてしまった。
 咳き込みが収まってゆっくり目を開いても真っ暗で何も見えず、身体は首のあたりまで土に埋まってしまっていて身動きができなかった。
(嫌よ、こんなところで死ぬなんて! お兄ちゃん、ドイル様、セアラ様、フィオナ様、オクタヴィア姫、どうか助けてください!)
 祈っても事態は変わらず、それどころかさらなる土砂が崩れてきそうだった。
(やはりこんなことを引き受けるんじゃあなかったんだわ。メイドのお仕事やデイジーたちをほっぽり出して女子大に入れて頂いて、いい気になっていたバチが当たったのよ…)
 流れる涙が頬を濡らした。
(神様、どうかどなたかが助けに来て下さいますように… そうだ! 遠足の途中でわたしだけがいなくなったら、みんなで探しに来てくださるかも… でも待って、ここは蔦に隠された洞窟の枝分かれした奥のほう… わたしのような『特別な力』がなければとても…)
 絶望するのと同時に、息も苦しくなってきた。
(神様、どうか助けて下さい。いま助けて頂いたら、一生そのかたの言うことを聞くことを誓います…)
 さらに土砂が落ちてきた。
 と、その時、闇の中にランプかカンテラの灯りと三人の人影が見えた。
「ゼリューシャ様! ソプラノさん! アルトさん!」
「話は後です」
 ゼリューシャが目配せすると、痩せたアルトがブライディーが埋まっている地面を拳で突いた。すると、地面はそこから漏斗の形に陥没した。アルトはブライディーの手首を掴んで引き抜いてくれた。
「ソプラノ、外まで運んであげなさい。わたしたちは術で脱出します」
 毬のように太ったソプラノはブライディーを背負うと、疾風のような素早さで、時々落ちてくる岩をするりするりとかわしながらアッという間に蔦のカーテンをくぐり抜けて外へ出た。そこにはすでにゼリューシャとアルトが待っていた。
「有難うございます、ゼリューシャ様」
 メイドさんは地面に座り込んで泣きむせんだ。
「いまは何も言わないで。早くみんなのところに帰りなさい」
 ゼリューシャが一撫ですると、汚れに汚れていたブライディーの顔やドレスがたちどころにきれいになった。
「…間に合って良かったです」
 ゼリューシャは優しく微笑みながら言った。

 その晩、寮に帰ってからブライディーは、ベッドに横になってからいろんなことを考えた。
(ゼリューシャ様は「清浄派」のかた… だってあのかたがこっそりとお持ちになっている古い手書きのラテン語の聖書にはヨブ記と詩編と雅歌と箴言と伝道之書と、イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書、ダニエル書とかしかなくて、創世記も出エジプト記も、福音書も省かれていたし…
 わたしにピアノの中に落ちていたブローチを見つけさせたり、洞窟の中で助けて下さったのも、もしかして…
 わたしがコックリさんで蔦で隠された洞窟を発見して、その奥で危ない目に遭ったところを助ける、というところまでお見通しだったのでは?
 ちょっと待ってよ。そうだとすると、ゼリューシャ様はこのわたし、ブライディーがすることはすべて「お見通し」ということになって、と言うことは「わたしが占おうとする項目」と「その結果」も「予め予知できる」ということになってしまうわ。
 わたしの占いに先んじて、対策を講じられる訳だから、そうなってくると、「わたしが占う」ということに意味があるのか? ということになってしまうわ…
 万一、わたしが占おうとすることについて、自在に自分たちの都合の良い結果を押しつけることができるのだったら…)
 メイドさんは毛布にくるまって、「不思議の国のアリス」のタロット・カードを握りしめた。
(勉強の仕方がとても要領がいいのも、試験問題の予測がほとんど全てと言っていいほど当たるのも、それだったら説明がつくし…)
 質素な勉強机の上に広げられたまま、レター・セットが月明かりに照らされている。
(フィオナ様やオクタヴィア姫様に報告のお手紙を書かなければ… でも、ゼリューシャ様にとってそのことが「織り込み済み」のことだったら、お二人を巻き込んでしまうだけ、だったりするかもしれないわ…
 霊感に乏しいお二人は、いいようにあしらわれるだけになってしまうかもしれない…) 同室の子がすやすやと寝息をたてているかたわらで、ブライディーは寝返りを繰り返した。
(「占い師に、自分が望むままの占いの結果を与えられる力」…そんな能力があるのなら、例えば、その占い師が「神様は本当にいらっしゃるのか?」を占った時、自分の都合に合わせて「いらっしゃる」「いらっしゃらない」といった結果を与えられるし、占い師が占いで軍隊を動かす場合、適当に成功させておいて、ここ一番というところで失敗させることもできるはず…
 そう、ネス湖でネッティちゃんが「自分がネス湖の守り神を操っている」と思わせておいて、実は外国人の魔術師が操っていたみたいに…
 その調子で行くと、「不老不死や不死身を望む人に「見せかけ」の不老不死や不死身を与えておいて、「用済みになったら葬る」ということだってできるかもしれないわ)
 あれこれと思案しているうちに、ますます使命を果たす自信がなくなってきた。
(突き詰めたら、わたしの不思議な力って、一体何なのかしら? いままで信じていたような「神様の啓示」なんかじゃなくて、「誰かから操られるための道具」なのだったら…
 これは、とてもではないけれどアレイスター・クロウリー様か、サダルメリク・アルハザード君でもないと、太刀打ちできそうにないわ。でもあのかたたちは殿方だし…)

 報告の手紙を書くことをずるずると先延ばしにしていたある日、学内の庭園のベンチでボーッとしていると、小脇に本を抱えたフィオナとオクタヴィア姫が近づいてきた。
「ここ、よろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
「どうして手紙を一通もよこさないのですか? 打ち合わせと違うではありませんか?」
 フィオナが小声だがなじるように言った。
「それがその…」
「報告するようなことは特に起きていないのですか?」
 オクタヴィアが重ねて訊ねた。
「…噂に聞けば、いままでの小テストなどでかなりいい成績を残しているとか。貴女の使命は最初に行ったとおりのことで、成績などどうでもいいのですよ」
 フィオナはキッと睨み付けた。
 メイドさんはほんのちょっとだがムッとした。
(いくら学資をまるまる出して頂いているとは言っても、ここは大学。成績が悪ければ浮き上がって目だってしまうはずだわ)
「…実は、ゼリューシャ様たちと友達になりました」
「なんですって! そんな大切なことをどうして早く報告してこないのですか?」
 フィオナたちは顔を引き吊らせた。

 入学からいままでのいきさつを丁寧に説明しても、ただ報告が遅れたことだけを責められた。ゼリューシャたちが想像する以上の術者で、いたずらに途中経過を送っても、相手の術中にはまるだけかもしれないことをほのめかしても同じだった。洞窟で落盤に遭い、危うく命を落としそうになったことを訴えても、幸い大きな怪我をしなかったせいか、まともに心配してもらえなかった。
「…これからは何かあるたびに手紙を下さいね」
「…それでは、あまり長く一緒にいると、それこそ怪しまれますから」
 フィオナとオクタヴィア姫は二人で何事かを囁きあいながら立ち去っていった。
 もう少し優しい言葉をかけてもらえるかと思っていたメイドさんは悲しくなった。
(もうちょっと心配してもらえると思っていたのに… これだったら、例えわたしを罠にはめようとしている敵だとしても、ゼリューシャ様のほうがよほどお優しい…)
 ブライディーはますます勉学にいそしんだ。
(せっかくケンブリッジのニューナムに来ていて、いつ引き払わされるか分からないのだから、目いっぱい学んで帰って、デイジーやポピーたちに教えて上げよう。もしかしたら、寺子屋の先生くらいにはなれるかもしれない…)
 そうこうするうちに、最初は冷ややかだった名家名門の同級生の中には話しかけたり頼み事をしてくる子も現れ始めた。メイドさんは「レポートの代筆」くらいは気安く引き受けた。

 天に秋の満月が煌々と輝く真夜中、ブライディーがランプの光で前期試験に備えて勉強していると、寮のドアをコンコンとノックする者がいた。
(いま時分どなたかしら? 寮母さんかな?)
「はい」
 ドアを開けると、そこには漆黒のドレスを纏ったゼリューシャとソプラノとアルトが立っていた。
「勉強の邪魔をしてごめんなさい。旧校舎の離れの庭園の四阿で、楽しい集まりがあるのですが、一緒に来られませんか?」
「いまからですか?」
「いまから、夜明け前までです」
「わたしのような者が寄せて頂いて良いのでしょうか?」
「今夜のお客さまは、あなたもおそらくご存じのアレイスター・クロウリー様です。黒一点でさぞかしおもてになることでしょう…」
(クロウリー様!) メイドさんはドキッとした。(クロウリー様は、わたくしが英国心霊協会のメイドで、その前はフィオナ様にお仕えしていたことも知っていらっしゃる。
 そんなかたと鉢合わせしたら…)
 しかし、すぐにこう思い直した。
(クロウリー様の魔力も凄い。ネス湖では電報でアドヴァイスを頂いて、危ないところを助けてもらったじゃない? そんな魔術師のかたが、わたしと顔を合わせて「やあブライディー、きみはこんなところで何をしているんだい?」と言い出すなんて、とても思えないわ)
「ゼリューシャ様たちとご一緒なら…」
「では決まりましたね」
 相部屋の子は、とうの昔から寝息を立てて深い眠りに落ちていた。

 旧校舎の離れにある庭園には、すでに何人かのニューナムの女子大生たちが集まっていた。どうやって登ったのか、高い木の枝に登って月を背に腰を下ろし、高みの見物としゃれ込んでいる子、植え込みの茂みから恐る恐る覗き込んでいる子、、四阿のテーブル付きのベンチに座っている子など様々だった。
「あっ、ゼリューシャ様だ!」
「新入生の占いのできるメイドさん上がりの子を連れている…」
「みなさん、お静かに!」 ゼリューシャがよく通る声で話しかけると一同はシーンと静まり、リーンリーンという虫の声だけが響き渡った。
「…いつもはじめに申し上げていることですが、わたくしたち女性は長い間、親や家の都合で結婚させられたり、子供を産む道具として扱われたりすることが多かったと言えると思います。ここに集っているわたしたちは、みな大なり小なり科学では説明できない不思議な力の持ち主。ぜひ、天より授かったその力で、夫に養われなくても、自らの人生を切り開いて行こうではありませんか」
 庭園に集った子たちの全員が、大きく、あるいはかすかに頷く気配がした。

「それでは、今夜のお客様を皆様にご紹介したいと思います」 ゼリューシャが手を差し伸べると、あるはずのない『幻の燭台に灯された幻影の蝋燭の明かり』が、さながら芝居の花道のそれのように一斉にボオッと灯った。「すでにご存じのかたも多いかと思いますが、本ケンブリッジ大学きっての若手の魔術の研究家、アレイスター・クロウリー様です」
 アレイスターは濃い灰色の上下の背広を着て現れた。周りはすべて妙齢の女性ばかりだというのに、いつも英国心霊研究協会を訪れる時以上に冷静な感じで、かと言って無表情ではなく、自信に裏打ちされたかすかな笑みを唇にたたえて。
「のっけから何ですけれど、ぼくは近々大学を辞めてしまうかもしれません」
 彼が茶目っ気たっぷりに語り始めると、女子生徒たちの中から「えーっ!」とか「どうして?」といった小さな叫び声が漏れた。
「…大学での講義は実につまらない… 貴女がたの中にも同じようなことを思っておられるかたがいらっしゃるでしょう。だからと言って貴女がたは中退などなさらないでくださいね。…でもぼくは、若いうちに、インドやセイロンや、チベットや中国や日本を旅して回りたいと思っているのです」
 アレイスターはそう言って、幻術の蝋燭で照らし出された女子大生たちの顔を見渡した。メイドさんと目が合うと、彼は一瞬にこやかな笑みを浮かべた。
「…インドの山奥、チベットとの国境近くに外国人の入国を許さないで鎖国をしている、とある仏教の国があるのですが…」
 彼がそう言って指をパチリと鳴らすと、四阿の白い壁に、日本の着物の上にショールみたいなものを巻き付けたような民族衣装を着て暮らす人々や、チベットの仏教寺院に似た宮殿や、大勢の僧侶たちの姿が幻灯のように映し出された。
「…その国の人々は、服は伝統の民族衣装を着るように、あらゆる建物もそれに沿った様式で建てるように義務づけられているそうです」
 ブライディーをはじめ女子大生たちは、身を乗り出して幻灯で映し出された着色写真を見た。ゼリューシャたちも興味深げに見つめていた。
「…我々西洋人がよしとしている物質文明は早晩行き詰まり、人々や国家はただおのれの欲望を満たすために利権争いや領土拡張に走り、大きな戦争を起こしてしまうような気がしてなりません。
…実は、この国の近くに、『シャングリラ』という場所があって、そこの人々は不老不死であり、争いごとのまったくない、平和で穏やかな日々を送っているらしい…のです。ぼくはぜひその場所を訪れて、不老不死や平穏を保っていられる秘密を解き明かしたいのです。…どうです? 大学での勉強よりもずっと意義があって面白く楽しそうでしょう。何かご質問は?」
 誰も黙ったままだったので、ブライディーがおずおずと手を挙げた。
「あの、鎖国していて外国人の入国を認めていない国に、どうやって行くのですか?」
「いい質問です。その国の人間に変装して入り込むしか方法はないでしょうね。いま見て頂いた写真を撮った人も、そうやって入国した、と伝え聞いています。無論、言葉もしっかりと習得していかなければいっぺんにバレるでしょう」
「…ご講演有難う御座いました。アレイスター様にも素晴らしい夢がおありなのですね。ところで…」 ゼリューシャは一転して眉を引き締めた。「…これもすでにご存じのかたも多いと思いますが…
 わたしたちの仲間の一人が、不幸な事故で学舎を去らなくてはならなくなってしまいました…」
 メイドさんはドキッとした。自分がわざわざニューナムに潜入しているのは、まさしくその件で、だからだ。
「あれはまったく不幸な事故でした」
 いつも自信に溢れているゼリューシャなのに、この時はしきりに「事故」ということを強調していた。
(本当に「事故」だったのかしら? 占ってみようかしら。でも、ゼリューシャはわたしの占いの結果を自由自在に細工できるみたいだし… もしもそうなのだったら、占いは意味がないし…)
 ブライディーは頭を垂れた。
「…皆さんも独習しているうちに『これは自分にはできそうだ』と思っても、試しに術を行う前に、必ず身近な同志や、わたくしに相談するようにして下さい。相談された側の人も、頭ごなしに反対したりせずに、友の言うことによく耳を傾けて上げて下さいね」
 満月に雲がかかり、その雲が再び消えるまでのあいだに、集った者たちは去った。

 翌晩、ブライディーは、ニューナム女子校に来て最初の報告の手紙を、フィオナとオクタヴィア姫宛に書いた。
(ドイル様がお得意にされておられる『暗号』でも何でもないこんな手紙、簡単に読まれてしまうと思うけれども、まあいいわ。たとえどんなに複雑な暗号で書いたとしても、ゼリューシャ様には解読されてしまいそうな気がするし…)
『…昨晩、ゼリューシャ様に初めて、学内の秘密の魔術の集まりに誘われて行ってきました。とある手練れの男子学生のかたがゲストで「シャングリラ」というインドかチベットの山奥にある「桃源郷」の話をしながら術で幻灯を映され、とても楽しかったです。
 お開きの際に、ゼリューシャ様が、このあいだの不幸な事件のことに少し触れられて、皆に「あれは事故だった。皆も不注意や過信から生じる事故には十分注意し、事前に私=ゼリューシャや身近な友に相談するように」と申されておりました』

 二、三日たってからフィオナとオクタヴィア姫から返書が来た。
『…小娘の使いではあるまいし、相手の言ったことを丸々書き写して報告してくるなんて、貴女は、ここニューナムで一体何を学んでいるのですか? わたくしたちやドイル様は、メイドに浅知恵を付けるために大枚の学費を払っているのではありません。図書館で大物の間諜について書かれた本でも読んで、どうしたらゼリューシャの化けの皮を剥がしながら真実に近づくことができるか、自分で考えなさい! くれぐれも貴女は一介の「使用人」軍人に例えたら兵士であることを忘れないようにしなさい』
 手紙を握りつぶして暖炉に投げ込むメイドさんの目から大粒の涙がこぼれた。
(確かにテンプラ学生とはいえ、大英帝国一、二のケンブリッジ大学で学ばせて頂いて、少しいい気になっていたことは確かかもしれない。けれど、何もそこまで仰ることはないじゃない。わたしは真面目に勉強して、成績だっていいのよ。使命の通りゼリューシャ様と友達にもなったし…)
 ブライディーはハッとした。
(友達… そう、ゼリューシャ様は、「友達」かもしれない… 確かにフィオナ様やオクタヴィア姫も、普段は気さくにやさしく声をおかけ下さる。でも、所詮は貴族とメイド。身分の壁はハドリアヌス帝の長城のように厳然と存在する。
 ゼリューシャ様も当然貴族でしょうけれど、あのかたはそのことをあまり感じさせない。
 おそらく「滅びた国」の姫か王女であることがそう感じさせているのかもしれないけれど… フィオナ様やオクタヴィア姫はいままで数限りなくわたしに命令を下され、それは主人だから当然のことなのだけれど… ゼリューシャ様はまだわたしに命令されたことは一度もない)
 そんなことを思いながらも、メイドさんは図書館に通って、周囲を伺いながら有名とされるスパイについて書かれた本を読んだ。
『…首尾よく親しくなったら、相手に何ができるか、どんなことが得意なのか、苦手なことは何か、何を知っているのか、誰を友とし、何者を敵としているのか、さりげない会話のはしばしに織り交ぜて訊ねることが、情報収集の第一歩である…』
 根がなんとか正直のメイドさん…思えばこの性格ほどスパイに向いていない性格はない。
 しかし(やらねば…)とまなじりを吊り上げ、いつもの音楽室の自習の時に、意を決して訊ねた。
「ゼリューシャ様、それにソプラノ様にアルト様、貴女がたは何か魔法を使うことができるのでしょうか? 洞窟で危ないところを助けて頂いて以来、気になって仕方ありません」
「もちろん使えますよ」
 ゼリューシャは長い灰色の髪を軽く投げ上げて言った。
「やっぱり… 水晶玉で遠くを見たり、そういうことでしょうか?」
 メイドさんは目を見張った。
「ああ、それは割と簡単です」
 メイドさんはちっちゃい女の子みたいに、ポカンと開いた口が塞がらなかった。
「簡単なのですか?」
「ええ。わたくしの力をもってすれば」
 ブライディーの脳裏に、アメリカに渡って働いている「お兄ちゃん」のことが浮かんだ。
(お兄ちゃんは、いまどこで何をしているのかしら?)
「どうかしましたか? 遠く離れている人で気になるかたがいるのですか? よかったら見てみますか?」
 まるで「お茶を飲んでいきませんか」みたいな、気軽な言葉だった。

「本当に、できるのですか?」
 英国心霊研究協会の例会で、ドイルたちが数々のインチキ超能力を見破っていくところを目の当たりに見てきたメイドさんは、さすがに半信半疑だった。
 すると、まるで心を見透かされているかのようにゼリューシャは答えた。
「何でしたら、英国心霊協会で実験してみてもらっても構いませんことでしてよ」
 こうなったらさすがにブライディーも引くに引けなくなった。
「…実はわたしには好きな人がいます。その人はいま、わたしを置いてアメリカに渡っています。ごくたまに手紙をくれますが、詳しいことは書かれていません。その人がいまどこで何をしているか、見せて頂けませんか?」
「貴女のお願いなら聞き届けない訳には参りません」 ゼリューシャは優しく微笑みながら言った。「今夜、わたくしの部屋に訪ねてきてください。わたくしはソプラノ、アルトたちと相部屋ですが、彼女たちには外すようにお願いしておきましょう」
「申し訳ありません…」
 メイドさんは顔をリンゴのように染めてつぶやいた。

 その晩、ブライディーは胸をどきどきさせながらゼリューシャの部屋を目指した。
(誰にも出会わない順路…)
 そう願ってコックリさんの棒で占うと、誰にも出会わないで教えられた部屋まで行くことができた。
「ようこそ、どうぞいらっしゃい」
 ゼリューシャはいつものように質素な灰色の木綿のドレスを着ていた。部屋は、まるで清教徒のそれのように一切の聖像や宗教画はなく、十字架さえ見あたらなかった。が、かすかに乳香や没薬に似た香の匂いが漂っていた。
「ソプラノさんとアルトさんには悪いことをしました」
 メイドさんはカラッポのベッドを眺めて言った。
「いえ、いいんです。あの子たちは『注文していたハシバミのホウキが届いたから試してみる』とか言ってましたから…」
「本は余り置いておられないのですね」
 壁の本棚に、あまり本が並んでいないのを見渡してブライディーは言った。
 ゼリューシャは黙って近くに置いてあった分厚い本を取り上げ、たまたま机の上にいたコガネムシの上に叩きつけた。
「ゼリューシャ様、何を!」
 ゼリューシャが再び本を持ち上げると、コガネムシは無惨に潰れていた。
「…いま、わたしは一冊の本を使ってこの虫の命を奪いました。さあブライディー、何冊の本があれば、この虫を甦らせることができると思いますか?」
「無理です」 メイドさんは即答した。「たとえ図書館いっぱいの本をもってしても。…イエス様なら、ラザロを甦らされたみたいにおできになられるでしょうけれど」
「そうですか…」
 ゼリューシャが手のひらで潰れた虫を覆い、再びどけると、コガネムシはきれいに元通りになってどこかへ飛んでいった。
(トリックよ!)
 メイドさんは心の中で叫んだ。(予め生きている別の虫を袖の中に仕込んでおいて、目にも止まらぬ速さで死骸とすり替えたのに違いないわ! ドイル様たちの実験で、何度も何度も見てきたじゃあない?)
「貴女はいま「手品だ」と思いましたね? …構いません。そういう事にしておきましょう。ただし、甦らせたのは「手品」であって、『万巻の書物』ではないことは分かって頂けますね?」
「すみません。それはどういう意味でしょうか?」
「例えどんなに美味しい料理の本が何万冊あったとしても、それを紐解いて、そこに書いてある通りの食材を揃えて、その通りに作る料理人がいなければ、その料理は味わうことができませんね。同じように、どんなに素晴らしい魔法…いや、手品について書かれた本があったとして、読んで実行する意思のある者がいなければ、その術はないのに等しい、ということです。もちろん、料理も魔法も、料理人や魔導師が、相応の実力を持っていないといけないことは言うまでもありません」
「『知識は力なり』ということではなくて、『試し、実行する者あっての智恵』ということでしょうか?」
「その通りです。いたずらに危険を恐れたり、禁忌を避けていては、仮に例えば、アレイスター・クロウリー様がおっしゃっておられたような病も老いも死も争い事もない『地上の理想の楽園』を築くことなど、未来永劫に不可能なのではありませんか?」
 ゼリューシャは灰色の瞳でメイドさんの目をいままでになく射るように見つめた。

「分かりました。わたしも、自分の占いに磨きをかけたいと思います」 ブライディーはきっぱりと言った。「…とりあえず、『お兄ちゃん』がアメリカでいま何をしているのか、見せて頂けませんか?」
「いいですよ。そのために来てもらったのです。しかしブライディーさん、貴女自身も占いの名手なのに、どうしてまずご自分で占ってみないのですか?」
 ゼリューシャはほんのかすかに目尻を下げた。
「それがその… もしもわたし自身が占って、『お兄ちゃんがアメリカで、他の女の子と付き合っている』といったような卦が出たら、矢も盾もたまらなくなってしまうと思うので…」
 メイドさんはまたしても顔を染めた。
「しかし、それはわたくしが占っても同じ事では?」
「その場合は、わたしがもう一度、自分で占って確かめてみます」
「ますます同じ事では?」
 メイドさんは答えに窮した。
「…いいでしょう。もったいをつけないで、とりあえずやってみましょう」
 ゼリューシャは何の変哲もない質素な鏡を取りだして勉強机に立てかけ、覆ってある布をめくった。それは本当に飾りも何も付いていない、メイドが使うような普及品だった。
「この鏡は、何か特別な鏡なのですか?」
「いいえ。この部屋にいた先輩が、卒業の時に、後輩のわたくしに記念品として下さったものです。その先輩も奨学生で、高い鏡は買えなかったのです」
 ゼリューシャが鏡を一撫ですると、暗雲に覆われたインディアンの聖地…墓地のようなトーテムポールがいっぱい立ち並んだ土地が映し出された。遠くには白人の入植地の家並みが映し出されている。
 と、トーテムの下や合間に並んだ土饅頭がむくむくと持ち上がったかと思うと、成仏できなかった騎兵隊の隊員やインディアンたちが次々に甦り、腐りかけた醜い姿を晒しながら民家のほうに向かいかけた。
「ヒーッ!」
 すぐに目をそらしかけたメイドさんだったが、そうすることができなかったのは、「お兄ちゃん」の姿が映ったからだった。
「お兄ちゃん」は墓場から甦った屍食鬼たちに決然と対峙し、両手に一丁ずつ二丁の散弾銃を構えると、バーンバーンと続け様に発射していた。
「往生せいや!」
 屍食鬼たちは片っ端から吹き飛ばされていた。
「お兄ちゃん… 『よろず屋さんで働いていて、夜学に通わせてもらっている』はずでは…」
 メイドさんは手のひらで口元を覆ってうめいた。
 新たに弾丸を詰めてい隙に、化け物が「お兄ちゃん」の背後からそろそろと迫った。
「『お兄ちゃん』危ない!」
 メイドさんは鏡に額をすりつけるようにして叫んだ。
 声が聞こえたのか、「お兄ちゃん」は素早く振り返るとそいつの腹に風穴を開けた。
「よかった…」

 鏡の中では「お兄ちゃん」が残りの屍食鬼を撃ち殺しながら、かすかに小首をかしげていた。
(おかしいな。いまブライディーの声が聞こえたような気がしたのだけれど。…あいつには心配させないように「よろず屋で働いている」と手紙に書いたはずなのに…)

「『お兄ちゃん』… やっぱり手紙は嘘だったのね…」 メイドさんの瞳に大粒の涙があふれてこぼれ始めた。「…こんな危ない仕事をしているなんて…」
「アメリカは、イギリスとは違って、『亡霊がたむろする城』や『幽霊屋敷』が少ない代わりに、『怪異な森』や『禁断の土地』が多いと聞いています。そこを開拓し、切り開いていくためには、にわかゴースト・バスターや雇われモンスター・ハンターがどうしても必要なのでしょう」
 ゼリューシャは目を伏せた。
「でも何も『お兄ちゃん』がそんなことをしなくても、アレイスター様のような凄いかたがアメリカにもいくらでもいらっしゃるのでは…」
 メイドさんが言いかけた時、倒れていた化け物がゆっくりと手を動かして「お兄ちゃん」のふいを突こうとした。
「お兄ちゃん!」
 ブライディーは再び叫んだ。伸ばした手が思わず鏡に当たり、その弾みで鏡はテーブルの上から落ちて粉々に砕けた。

「…ごめんなさい! すいません!」 メイドさんは悲鳴のような声で謝った。「ホウキとちり取りを取ってきます!」
「そんなことは後でよいのでは? 『お兄ちゃん』がどうなったか、気にならないのですか?」
「えっ、この鏡は特別な鏡ではないのですか?」
「いえ、ただの安物の鏡です」
「と言うことは…」
 ブライディーが言うよりも先に、ゼリューシャは別の手鏡を取りだして、再び机に立てかけて手のひらでゆっくりと撫でた。
 すると…
 屍食鬼を全部倒して、二丁の散弾銃を左右の肩に交差させて掛け、時折振り返りながら来た道を帰る「お兄ちゃん」の姿が映った。
「『お兄ちゃん』良かった…」
 メイドさんはほろほろと涙をこぼした。
 しかし、「お兄ちゃん」がメモを取り出しながらふと口にした独り言に涙に濡れた顔が引きつった。
「…さて、次はどこの化け物退治だったかな? この調子だと金が貯まるのも早くて、予定よりも早くロンドンへ、ブライディーのところに帰れるかもな」
「お兄ちゃん… そんなことをしてお金を貯めているの!」
 メイドさんはわんわんと泣き崩れた。
「あの… こらえて頂けませんか。人が来てしまいます」
 ゼリューシャが渡してくれたハンケチで口元を押さえたメイドさんが床に目をやると、鏡の破片はきれいに消えて無くなっていた。
「ゼリューシャ様、わたし、お休みを頂いて、ただちにアメリカに渡って、『お兄ちゃん』に『危ない仕事はすぐにやめて!』と言います。わたしが言えば『お兄ちゃん』はきっと辞めてくれます」
「だと良いのですが…」
「えっ?」
「貴女の『お兄ちゃん』は、困っている人から頼まれると『嫌だ』とは言えない性格なのではありませんか? 貴女も『お兄ちゃん』のそういうところが好きなのではありませんか?」
「では、わたしもそのまま『お兄ちゃん』のそばに留まって、占いの力で手助けします!」
 メイドさんはきっぱりと言った。
「その決意は尊敬しますけれど、『お兄ちゃん』の足手まといになるということはありませんか?」
「それは…」
 うつむいたまま答えられなかった。
「アーサー王物語」で読んだ伝説の魔導師マーリンなんかは、天を裂くいかずちや、海を割る大波で仲間の窮地を救っている…
「あの…」 再び顔を上げてゼリューシャの灰色の瞳の底を見つめたメイドさんは、低い声で言った。「…わたしに、魔法を教えて下さい!」
「いいですよ。わたくしが知っているものなら、何でも」
「有難うございます」 メイドさんは深々と頭を下げた。「いくつか教えて頂いたら、ここを辞めて、ドイル様たちにもお暇を頂いてアメリカに渡って『お兄ちゃん』の役に立ちたいと思います。けれど…」
「どうかしましたか?」
「わたし、ゼリューシャ様に魔法の教授料をお支払いできません… 実はここニューナムの学費なども人に出して頂いているありさまで…」
「なんだ、そんなことですか…」 ゼリューシャは破顔一笑した。「そんなものは要りません」
「しかしゼリューシャ様は奨学生では?」
「あれはわたくしがわたくし自身に課した枷です。単に試験でよい点を取るだけなら、魔法を使えば簡単にできます。が、当たり前のことながらそれでは学問は身に付きません。
 たとえ、その気になったら空から金貨の雨を降らせることができても、やむを得ない場合を除いてはやらないのが真の魔導師というものでしょう。ブライディーさん、貴女も占いでお金儲けなどしていないではありませんか?」
「わたしも…」 メイドさんは身を乗り出した。「首尾良く修得できても、魔法はお兄ちゃんを助けたり、他の困っている人を助けたりする以外には使いません」
「それはよい志ですね」 ゼリューシャはメイドさんの肩を抱いた。「ぜひ頑張ってお互い研鑽と精進に励みましょう」

 寮の自分の部屋に戻って着替えたブライディーは、相変わらず勉強机の上の目立つところに置いてある普通の封筒と便箋に目をやった。
(フィオナ様やオクタヴィア様に申し上げなければ…)
 義務感がメイドさんを襲った。相部屋の子はかすかにいびきをかいて眠っている。灯りを増やしても目を覚まさないだろう…
(でも、何と申し上げるの? 「女子大生の真似事をさせて頂いて有難うございました。でも、「お兄ちゃん」が危ないのです。わたしはゼリューシャ様に魔法を教えて頂いてアメリカに渡ります」って…どう考えても裏切り、背信行為じゃない?)
 メイドさんの脳裏に、目を吊り上げ、頬を引きつらせた表情のフィオナやオクタヴィアやドイルたちが浮かんだ。包丁を突きつけるデイジーの姿も…
『仮に「お兄ちゃん」が本当にアメリカで魔物退治のような危ない仕事をしていたとしても…』 夢の中でフィオナやオクタヴィアたちが代わる代わる現れて言った。
『貴女がセアラ様のように、強力な悪魔払いの呪法を身につけることができて「お兄ちゃん」の元に行って守ったとしても…』
『「お兄ちゃん」は喜ぶかしら? 「おまえは何をしに来たんだ? 俺はそんなことを頼んだ覚えはない」と言うのではないかしら?「なに? フィオナ様たちに頼まれたことを投げ出してきた? 魔法はフィオナ様たちから調べるように頼まれた相手から教わっただと?」 となじるんじゃあなくって?』
『ブライディー、残念だが君には失望した』 夢の中のドイルは、とても悲しそうな表情だった。『君の「お兄ちゃん」を思う気持ちは痛いほどよくわかるが、もしかして、「お兄ちゃん」がそんなことをしているというのは、ゼリューシャが君を自分たちの仲間に引き込むための、彼女がもっとも得意としている幻術ではないのか? そのことは疑ってみないのか? ゼリューシャは「魔法を教えてやる」と称して、君を洗脳してしまうつもりではないのか?」 …それは確かに、「お兄ちゃん」に確認の電報を打ったところで、「お兄ちゃん」は「ああ、その通りだ」とは言ってはこないだろう。鏡が映し出した情景が例え真実でも、だ。
 だからと言って、ゼリューシャを全面的に信じるのは、余りにも早計だとは思わないか?』
 夢の中のデイジーに至っては、問答無用で印を切って迫ってきた。
『お姉ちゃんの始末はこのあたしがするわ。それがいままでいろいろ良くしてもらったことに対するせめてものはなむけよ!』
 悪夢から目覚めたメイドさんがようやく息を整えた頃には、窓はしらじら白みかけていて、置き時計の針はそろそろ起きなければならない時間を指していた。

 いろいろと悩んだ末に、メイドさんは同じケンブリッジで学んでいるアレイスター・クロウリーに相談することを思いついた。
(アレイスター様なら、英国心霊研究協会で面識がある。彼は「黄金の暁」団に誘われているらしいけれど、まだ正式の会員じゃあない。フィオナ様と「中身が見えない不思議なオークション」でお会いして少しお話ししたことがあるけれど、とても紳士的なおかただったわ。ゼリューシャ様についてもいろいろと知っておられそうだし…)
 ブライディーは教務課を訪れて、アレイスターが講義を取っていたり、聴講を申し込んでいる課目を調べた。以前に掲示板に張り出された昨年度の年度末試験の科目別の成績優秀者名の写しも見せてもらった。
(民俗学、東洋史学、仏教学、比較宗教学、ヒンドゥー語、チベット語、セイロン語、中国語、日本語…どれも抜群の成績だわ。それに対して、興味のない学問は、出席もしていないし、やる気がないのか、こちらはどれも「警告者名簿」に名を連ねている… これじゃあ卒業はできないわ)
 彼が皆勤している課目を選び、偶然ばったりと出会った感じで会えそうな場所を「不思議の国のアリス」のタロット・カードで入念に占った。結果、ブライディーが取っている教養の世界通史を教えている年老いた女性の教授が、ケンブリッジの男子校で中国史も教えていることが分かった。
 で、真面目に勉強してもっともらしい質問をいくつか考えて、その教授を追いかけることにした。
 果たして、教授は小さな教室で中国史の講義が終わった後も、専攻の学生と歓談していた。その人垣の中にはアレイスター・クロウリーもいた。
「中国の女性の纏足の習慣はもうなくなったのでしょうか?」
 アレイスターはそんなことを話していた。

「おや、ブライディーさん、ニューナムからふらふらと出てきたりして良いのですか? 保護者のかたがたにお叱りを受けませんか?」
 女性教授の言葉に、男子の学生たちがいっせいに振り返り、彼女のもとに殺到した。
「今度パーティをやるのです。お友達を誘ってぜひ来て下さい!」
「お金を払いますから同級生の皆さんの写真があったらぜひ焼き増しして分けて下さい!」
 女性教授が咳払いをした。
「ほらほら、『男はすべて狼』です。早くニューナムに戻りなさい」
「あの、先生、次回はレポートの提出日だと思うのですが、明朝清朝の『白蓮教』というのが、どの本を読んでも難しすぎてよく分からなくて…」
「それはわたくしよりクロウリー君のほうが詳しいから、彼に教えてもらいなさい」
 女性教授はツカツカと教室から出て行った。
 男子学生たちのあいだからヒューヒューと口笛が吹かれた。
「おい、アレイスター、おまえもなかなか隅におけないな」
「オカルトやってる男はモテると聞いたが、本当なんだな!」
 アレイスターは懐から何やら小さな写真帳のようなものを取りだした。
「ニューナムの新入生の写真入りの名簿の写しだ。これで丸く納めてくれたら嬉しいのだが…」
 写真帳は奪い合いになり、バラバラになってページも引き裂かれた。
「さぁ、いまのうちだ、ブライディー」
 アレイスターはメイドさんの手を引っ張ってその場から脱出した。
「アレイスター様、あの写真帳は?」
「ああ、あれかい。あれは芸能雑誌の若手女優の特集号さ」
 校庭のはずれの人目につきにくいところまで逃げてきた二人は、不自然なくらい距離を置いてベンチに座った。アレイスターは分厚い中国史の本を開いた。
「よし、これでもし誰かに見られても『白蓮教』の話をしているようだろう…」
 ブライディーはゼリューシャの鏡で見せてもらった『お兄ちゃん』のことを相談した。
「…それは、おそらく本当のことだろうね」
 アレイスターは言った。
「…疑うとするなら、アメリカにゼリューシャの仲間がいて、君の『お兄ちゃん』をもの凄くいい条件で、そういう危険な仕事に引きずり込んだのかもしれない…」
「どうしてそんなことを…」
 メイドさんは蚊の泣くような声で言った。
「本当に未来を見通したり、不確定なことがらを確定させたりする能力は、珍しいんだよ。
 おそらくゼリューシャとその仲間たちの中にその力を持った子がいないんだろう。でも鏡で見せてくれた『お兄ちゃん』の現在であって未来ではない。ゼリューシャはかなりの魔法を操れるようだけれど、逆に言うとそこまでが彼女の限界なのかも…」
「わたしは… わたしは一体どうすればよいのでしょう?」
 ブライディーはアレイスターに身体と顔を近づけて訊ねた。
「いま、このままの状態ですぐにアメリカに渡っても『お兄ちゃん』の足手まといになるのは間違いないだろう。かと言ってゼリューシャたちからさまざまな魔法を学べば、今度は彼女たちの頼みを断れなくなるだろう。難しいところだね」
「もしもアレイスター様ならどうなさいますか?」
「ぼくか? ぼくなら…」
 アレイスターはメイドさんの耳元に唇を近づけた。

 ちょうどその時、フィオナ・ウォーターフォードもアレイスターから借りていた本を返そうと、彼を捜していた。
「アレイスター? あのあたりで見かけたよ」
「クロウリーの奴? このへんをうろうろしていたぜ」
 人づてに訊ね歩いてやってきたちょうどその時、フィオナはアレイスターとメイドがベンチで仲良く真面目に何事かを話し合っているのを目撃してしまった。
「ブライディー、一体何を!」
 フィオナは叫び、二人は振り返った。
「あっ、フィオナ様! あの、その、違うんです。これは…」
 メイドさんは懸命に弁明しようとしたけれど、フィオナは本を投げだし手のひらで顔を隠すようにしながら、もう片方の手でドレスの裾をつまんで小走りに走り去った。
「フィオナ様!」
 あわてて追いかけようとするメイドさんをアレイスターが押しとどめた。
「放っておきたまえ。君はいまそれどころじゃあないはずだ」
「しかし…」
「君が思っている『お兄ちゃん』なら、そうやすやすと不覚を取るようなことはないだろう。そして、君が本当にフィオナさんたちのことも思っているのなら、最初に頼まれたことを果たして上げることだ」

(フィオナ様はきっと、わたしが、女子大に上げてもらったことを良いことに、「探索」と称してアレイスター様と親しくなろうとしているように映ったことでしょうね…)
 ブライディーは目の前が真っ暗になった。
(…この調子ではお役ご免となって、退学させられてしまうかもしれないわ。もしそうなってしまったら、いろんなことを、もう少し勉強したかったのに、残念だわ…)

 くよくよと思い悩んでいたちょうど同じ頃、メイドさんの想像通り、フィオナは自慢の長い金髪を逆立てていた。
「ブライディーは許せません! こともあろうに、あのアレイスター様といちゃつくなんて…」
「まぁ押さえなさい」 フィオナよりはメイドさんに借りがあるオクタヴィア姫は落ち着いて言った。「…彼女は彼女なりに策を立てていて、のことだと思います。第一、いまさら代わりの者を差し向けるのも難しいでしょう」
「しかし万一このままゼリューシャの側に裏切ってしまったりしたら…」
 フィオナは唇の端を噛んだ。
「ブライディーはそんな簡単にそのようなことをする子ではないと思いますよ」
「ですが…」
「まだまだ新学期は始まったばかりですし、期待し続けても良いのでは?」
「オクタヴィア姫様は、姉上のヴァイオレット様の事が第一目的で、ゼリューシャたちの野望にはさしたる関心がおありにならないから、そんなふうに悠長に構えておられるのです」
「フィオナ、言葉が過ぎましてよ」 オクタヴィア姫は優しい中にも威厳をこめて言った。「ブライディーはもともと貴女の使用人でしょう? もっと信用してあげてもよいのでは?」
「その使用人がアレイスター様と…」
「ははん、わかりました。フィオナ、貴女はメイドよりもアレイスター様のことのほうが気になるのですね?」
「そんな…」 フィオナは顔を真っ赤にしてどきまぎした。「身分が違いますし、第一アレイスター様は女子学生とどうこうするような、そんなレヴェルの低いおかたではありません。あのかたにはそれこそ大きな夢があって…」
「あれ、わたくしは何もそのようなことを訊いておりませんよ」
 フィオナは続ける言葉がなくなって、うつむいたまま黙ってしまった。
「…いざとなったら、このわたくしがまた、メイドの衣装で立ち回って見せます」
 オクタヴィア姫はクローゼットの中になかば隠すようにしまってある洋服箱を開けて、メイドの衣装を取りだして見せた。
「オクタヴィア様、今回それだけはおやめ下さい!」 フィオナは慌てて蓋をし直し、箱をクローゼットに押し戻した。「…今度の相手は本格的な魔法使い…もしかしたら本物の魔女たちなんですよ。前回のような医者崩れのいい加減な霊媒や、わたくしの伯母の公爵夫人のような、年取ってから泥縄で不老不死に興味をもったようなかたとは訳が違います!」
「いいえ、わたくしはときどきこのお仕着せを着て何かをしないと、身体がなまってしまうのです」
 オクタヴィア姫も譲らなかった。

 ブライディーは学校の勉強に加えて、魔法の訓練も始めた。
 ゼリューシャはどこから掘り出してきたのか、不揃いの三枝、五枝、七枝、あるいはそれ以上の枝を持つさまざまなデザインの燭台を持ち運んできて、それぞれの枝にごく細く短い蝋燭を立ててその全てに火を灯した。
「…じゃあブライディー、息を吹きかけるとかしないで、この火を消してご覧なさい」
「えっ、息とかは使わないで、ですか?」
「目を閉じて全部火が消えた状態を想像すればよいのです」
 メイドさんは言われたとおりにしたものの、再び目を開くと、蝋燭はただの一本も消えることなくゆらゆらと揺らめいていた。
「手本と言うのはおこがましいですが、見本をお見せしましょう」
 ゼリューシャは両目をつむり、心を落ち着かせた。一瞬、空気がピーンと張りつめたかと思うと、何十本と灯っていた蝋燭は一斉にフッとかき消えた。
 メイドさんは息を呑んだ。
 そして、ゼリューシャが再びカッと目を見開くと、消えていた蝋燭全部に再び灯が灯った。

 翌日はゼリューシャの腹心の一人ソプラノが、近所の人けのない小さな森に連れて行ってくれた。爽やかな秋風が吹き渡り、早くも黄色い葉が舞い落ちて散りかけていた。
「さあてと」
 ソプラノはその丸いころころとした身体を軽く揺すると、一陣の風が吹き抜けて、落ち葉がさらに舞い落ちた。落ち葉はメイドさんの顔にも吹きかかって、思わず手のひらで顔を覆った。次の瞬間、葡萄酒の樽のようなソプラノの姿は忽然と消え去っていた。
「ソプラノさん! ソプラノさーん!」
 ブライディーはきょろきょろと辺りを見渡した。頭上の梢の上まで探してみた。
「どこを探しているのですか?」
 すぐ後ろから高い声がした。はっと振り返るとソプラノがいつのまにか真後ろに立っていた。
「やってごらんなさい」
「あの、どうするのですか?」
「風をまとうようなイメージを思い描くのです。目は閉じたほうが上手くいくかもしれません」
 ブライディーは胸の上で腕を交差させ、木の葉が舞い散る様子を思い描いた。
 すると…
 それまではらりはらりと散っていた落ち葉が、吹き始めた風に煽られるようにはらはらと落ちてきて、メイドさんの身体の周りに舞った。
「いまです! 風と一体になって消えることを願ってみなさい!」
 ブライディーの身体は見事にフッとかき消えて、次の瞬間、少し離れた茂みに現れた。
「見事です!」 ソプラノは拍手した。「…初めてでここまでできれば、後は独習でもいい線まで行けると思います」
「有難うございます」
 メイドさんは顔を赤く染め、一礼した。
「ゼリューシャ様の炎の術はサッパリだったそうですが、もしかすると貴女は森や風と相性が良いのかもしれません」
「はい」
 メイドさんは顔を輝かせた。
(これで、森の中なら、いつでもお兄ちゃんを連れて逃げることができる!)
「…ちなみに、いまの術は秋から初冬の森の中しか使えません」
 ソプラノは難しい顔をして言った。
「えっ?」
「しかも、常緑樹の森ではだめです」
「はぁ…」
 メイドさんの心も少ししおれた。

「二つ目の術は少し間をあけてからお教えしようと思っていたのですが、一つ目が順調だったので続けてやりましょう」
「よろしくお願い申し上げます」
 ソプラノは唇に指を当て、「ピーッ ピーッと鳥の鳴き声をまねた。
 すると、パタパタッと、たくさんの小鳥の羽ばたきが聞こえた。
 ブライディーが顔を上げると、無数のムクドリやヒヨドリ、ツグミといった小鳥が枝に鈴なりになって、こちらをじっと見下ろしていた。
 ソプラノがもう一度、今度は別の音色の指笛を吹くと、集まっていた小鳥たちはバタバタと羽音を立てて飛び散った。
「さて、やってごらんなさい。…ここをこういうふうにするのです」
 ブライディーは懸命に指の組み合わせかたや唇への当てかたをまねて吹いてみた。
 最初は「ヒューヒュー」と空気の漏れるような音しかしなかったのが、何度か繰り返すうちに、次第にピーと音が鳴るようになった。
 パサパサという羽音がしたので梢を見上げてみると、ソプラノほどではないけれども、数羽の小鳥が集まっていた。
「これも、初めてにしては上出来です。あとはまたご自分で練習しておいてください」
 ソプラノは拍手をする仕草だけをした。
「あの、小鳥を集めるとどのようないいことがあるのですか?」
 メイドさんは顔をほころばせながら訊ねた。
「それはまた追々… ちなみにこの術は、当たり前のことながら小鳥たちがたくさんいるところでしかできません。また、もちろん夜もだめです」 ソプラノは微笑み返した。
「…先を急ぐようですが、リスやウサギやキツネなど、森の動物を呼び寄せる術もお教えしておきましょう」
 彼女は今度は両手を複雑に組んで頬をうんと膨らませてから口元に当てた。
 ブライディーは目を見開いてジッと見つめていた。

 その晩、ブライディーは夢を見た。
 夢の中でブライディーは、アメリカに渡っていた…

 そこは、週に一度か二度しか駅馬車の便がないカリフォルニアのひなびた寒村だった。
「あの、すいません。どなたかこの人を知りませんか?」
 メイドさんは「お兄ちゃん」の写真を取りだして、酒場兼よろず屋にたむろしていた人々に見せて回った。
「お嬢さん、悪いこたぁ言わねぇ、兄か恋人か知らねぇが、ここから先は追いかけるのはおやめなせえ」
「知っておられるのですね、『お兄ちゃん』の行方を?」 メイドさんは顔を輝かせた。「だいたいでいいですから、どうか教えて下さい。わたし、『お兄ちゃん』に会うためにはるばるイギリスから渡ってきたんです」
「おらたちは、欲に目がくらんだ連中とはいえ、これ以上いい若けぇもんがおっ死ぬところを見たくはねぇだ」
「と、申しますと?」
「この村の山奥に、砂金の出る川が流れているだ。んだども、そこには滅ぼされたインディアンの怨霊が取り憑いていて、砂金を取りに来ようとした者を迷いの森に迷わせ、万年霧が立ちこめている谷底に落っことしちまうんだ」
「『地主』と称する連中が、腕の立つ『ゴースト・ハンター』を何人も雇った。奴らはこの村で支度をして意気揚々と出発して行ったけれど、誰一人として戻っちゃあこないぜ」 酒場にいた村の男たちは、安いバーボンの臭いをプンプンさせながら言った。
「どうかわたしにも、そのかたたちが買い揃えたのと同じ支度を売ってください。お金ならありますから…」
 ブライディーは嘆願したが、店にいた老若男女は皆けたけたと笑った。
「お嬢さん、経験を積んだ山師やレーンジャー崩れでも二の足を踏むところなんだ。そんなドレス姿じゃあとてもじゃないが無理だね」

 それでも彼女はねばって、男の子用のジーパンと、ズボン吊り、インジゴで染めたネルのシャツと靴、背嚢、乾パンに乾し肉にブリキの水筒、ナイフにロープにマッチにランプに油などを売ってもらった。
 コックリさんの棒を頼りに何日も深い山や谷に分け入って、食料も底を尽きかけてきた。
(神様、どうかお兄ちゃんに会わせてください!)
 最後の力を振り絞って祈った先の小さな洞窟に、ライフルを抱いた木乃伊のように見えるやせ細った人影が見えた。忘れようとしても忘れられない人影…
「お兄ちゃん!」
 転けつまろびつ駆け寄った。お兄ちゃんは泥水をすすり、草の根を食べて生きながらえていた。
「ブライディー… 俺は夢を見ているのか? きっと夢だ。ブライディーがこんなところまで来るはずがない…」
「お兄ちゃん」は息も絶え絶えに言った。
「…これもきっと、インディアンの怨霊の幻影なんだ」
「幻なんかじゃないよ。わたし、本当に来たんだから! さぁ早く、一緒に山を下りようよ」
 メイドさんは「お兄ちゃん」の肩を抱えて起き上がらせようとした。
「無理だ、ブライディー。俺のことは諦めて、おまえだけ早く山を下りろ!」
「どうして! ここまできて…」
 ブライディーの瞳に大粒の涙が溢れてこぼれた。
 とその時、ずっとたれ込めていた暗雲がさらに立ちこめて辺りは夜のように真っ暗になった。
 木の葉が嵐のように舞って二人に襲いかかってきた。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。わたし、魔法を習ってきたんだから…」
 しかし、心を静め、呪文を唱えても、風は一向に収まらなかった。
『愚カナリ白人…』
 どこからともなく、低い声が響いた。底知れない闇が山と谷全体を覆いつつあった。
「ブライディー、俺はいい。おまえだけ早く逃げろ!」
 お兄ちゃんがかすれた声で叫んだ。
「嫌よ! そんなの絶対に嫌!」
 風に舞い落ちる木の葉が二人を埋め尽くした。
「どうして… どうして跳ね返せないの?」 息がどんどん苦しくなる。ふと気が付くとお兄ちゃんはものを言わなくなっていた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! どうしたの? 返事をして!」
 しかし、ほどなく彼女の息も詰まった。
(助けて! ドイル様、セアラ様、フィオナ様、オクタヴィア様、アレイスター様、デイジー…)

 はっと目が覚めると、ニューナム女子校の寮のベッドで、汗びっしょりになっていた。
「大丈夫? ずいぶんうなされていたわよ。寮母さんやお医者様をお呼びしましょうか?」
 日頃は愛想の悪いルームメートが、真顔で心配してくれていた。

「お兄ちゃん」に関する悪夢や悪い予感を振り払うように勉強したお陰で、成績だけはそんなに落ちなかったメイドさんだったけれども、ゼリューシャやソプラノやアルトたちたがせっかく手取り足取り教えてくれる魔術のうち、木や森や鳥や動物に関するもの以外は、いくら熱心に練習してみても、さっぱり上達しなかった。
 蝋燭はいくら精神を集中して見つめても消えたり灯ったりすることはなかったし、アルトが教えてくれた「薄い花紙を手を触れずに空中に浮かび上がらせる術」も、いくら頑張ってみてもサッパリ持ち上がらなかった。
「申し訳ありません。せっかくいろいろと教えて下さっているのに…」
 ブライディーはうつむいたまま言った。
「謝ることはありませんよ」 ゼリューシャは少しもイライラしたり気を悪くしたそぶりは見せなかった。「…思うに、貴女の占いの能力が素晴らしすぎるために、それでいっぱいいっぱいみたいなところがあるのでしょう」
「すると、『お兄ちゃん』を救えるような、すごい魔法を身につけることはできないのですか?」
 メイドさんの顔から血の気が引いた。
「『まったく見込みがない』というようなことではなくて、気長にこつこつと努力を重ねて何かのきっかけでできるようになるかもしれません」
 ゼリューシャはいつもの笑顔を浮かべて言った。
「そんなの嫌です! 半年…いや、三ヶ月くらいだけでいいんです。アメリカに『お兄ちゃん』を連れ戻しに行って帰ってくるまでのあいだ、そうするだけの力がありさえすれば… その後はもう、どんな力も要りません! 占いの力も…」
 メイドさんは必死になっていた。もうこの時は、(ゼリューシャたちにかまをかけて、何か企んでいるのなら聞きだそう)と思ってもいなかった。つまり、本心だった。
 そのせいか、ゼリューシャは何度も言うか言うまいかためらった末に、、彼女にしては珍しく何度も詰まりながら切り出した。
「方法は… まったく… ないことは… ありません…」
「ゼリューシャ様、まだ早すぎます!」
「それはもう少ししてから…」
 ソプラノとアルトは手を差し伸べて制しようとした。
「いえ、構いません。わたくしは、この子が『お兄ちゃん』を思う気持ちに打たれました」
「有難うございます。ぜひ、その方法を教えてください! わたし、必ずやり遂げてみせます!」
「口で言うのは簡単です。試練の儀式に一晩耐えればよいだけです」
「どのような試練ですか?」
「人によって違います。他のかたが受けた試練と、貴女が受けるであろう試練とは違う、ということです」
「もし、失敗して不合格になるとどうなりますか?」
 メイドさんは眉を引き締めて訊ねた。
「心が壊れて、最悪の場合、命を失います…」
「『命を失う』…」
「それだけではありません。仮に首尾良く合格しても、貴女は一生『お兄ちゃん』とも、他の誰とも結婚できなくなります。そういう誓約を、試練を課する相手とするのです」
「『お兄ちゃんと結婚できない』…」
 ブライディーは魂が身体から離れていくような気がした。
「そうです」 ゼリューシャは深く頷いた。「合格すると、貴女はやすやすと『お兄ちゃん』を救い出し、アメリカから連れ帰ることができるでしょう。アメリカの悪霊がいかに強大なものであろうと、十分太刀打ちできるはずです。しかし、もう結婚はできません。 試練を課す者との契約なのです。…どうしますか、やりますか?」
「やります。わたし、お兄ちゃんを助けに行きます。結婚できなくなっても構いません」
 メイドさんはきっぱりと言った。
「そんなにすぐ決めなくても、ゆっくり時間をかけて考えてもらってもいいのですよ」
「いまこうしているあいだにも、『お兄ちゃん』は危険にさらされていると思います。
 一刻も早くなんとかしてあげたいです。だから、例えば準備に時間がかかるのなら、すぐに着手してください。お願い申し上げます」
 ブライディーは深く頭を垂れた。
 これにはゼリューシャのほうがたじろいだ。「分かりました。それでは早速準備に取りかかりましょう…」

 その夜、メイドさんは寮の部屋の中、ランプの灯りの下で、オクタヴィアとフィオナに初めて報告の手紙を書いた。
 かなり崩したゲール語で…

『オクタヴィア様、フィオナ様、
「重い心の病にかかられたニューナムの生徒のことですが、原因らしきものが分かりました。
 やはり、皆様やわたくしが疑っていた通り、ゼリューシャ様たちに「ある種の儀式」を勧められたのです。その儀式に合格すると、魔法の才能に乏しい者でも、かなり強力な術を使えるようになるらしいのです。
 おそらく、被害者の子も何らかの理由でその儀式を受けて失敗し、大変お気の毒な状態になったものと思われます。
 わたしも先日、その儀式を受けられるように、ゼリューシャ様にお願い申し上げました…』

 そこまで読んだフィオナは手紙を握りつぶしてしまった。
「ブライディー …この子、この子、莫迦じゃない? 失敗して犠牲者になってしまったら、また証拠がつかめないじゃない!」
「受かるつもりなのでは?」
 オクタヴィアは紅茶をすすりながら言った。
 フィオナは皺くちゃにしてしまった手紙を再び伸ばして続きを目で追った。

『…どうかご心配なさいませんように。わたくしは、その儀式というか試練を、身をもって体験し、合格し、その上でどんなに危険なものかを告発したく思います』
 フィオナとオクタヴィアは互いの顔を見合わせた。
「もしもそのようになるのなら、それで万々歳なのですが…」
 オクタヴィアは火を付けた手紙を暖炉に投じながら言った。
「アレイスター様に占って頂いたらどうでしょう?」 フィオナはオクタヴィアの耳元に囁いた。「…アレイスター様はブライディー以上に占いの名手であられます。ブライディーが合格できるか否かを占って頂いて、もしも失敗するという卦が出たら、その時は『やはり怖くなりました』ということで止めさせればいいのよ!」
「しかしクロウリー様が気安く占って下さるでしょうか?」
「わたくしたち二人でお願いすれば、何とか…」
「仮にブライディーがすでに自分で自分のことを占っていて、合格できると踏んだからそうするつもりなのであれば、クロウリー様に失礼なのでは?」
 オクタヴィアも声を潜めた。
「それだったら、それこそアレイスター様に確認して頂ければ願ったり叶ったり、なのでは?」
「それはそうですね。ではフィオナ、貴女がただちに段取りを…」

「なんだって! あの子が『完徳者の試練』を受けるだって! …早まったことを…」
 オクタヴィアとフィオナたちから話を聞くなり、いつも落ち着いているはずのアレイスターが血相を変えた。
「合格できるかどうか、アレイスター様のお力で占っていただけないでしょうか?」
 フィオナはおずおずと言った。
「そんな… 合格などする訳がないじゃないか! …百年に一人…いや、二、三百年に一人出るか出ないかなんだぞ」
「えっ!」
 令嬢たちの顔からも血の気が引いた。
「ぼくは『お兄ちゃんを助けるために試練のことがゼリューシャたちから提案されたら、《わたしには到底無理ですけれど、代わりに挑戦してみたいと言っている人がいる》と言って、ぼくのことを推薦してみてくれ』と言ったんだ」
「すると、ベンチでアレイスター様と話し込んでいたのは…」
「そう、そのことを打ち合わせていたんだ。だけども、いまだにブライディーからぼくのほうにその話はない、ということは…」
「あの子、自分で受けるつもりなんだわ」
「『お兄ちゃん』の力になるつもりで…」
 オクタヴィアとフィオナは顔を見合わせた。
「アレイスター様なら、もちろんやすやすと合格されますよね?」
 フィオナは彼を見つめて尋ねた。
「いや、率直に言ってぼくでも『十に一つ』くらいだろう。それに、万に一つ、彼女が合格できたとしても、一生結婚はできない。そういう誓約をさせられるんだ」
「ええっ、すると合格して強大な魔力を得て『お兄ちゃん』を助けることはできても、結ばれることはできないのですか?」
 オクタヴィアは唖然として言った。
「ああ、そうだ。あの子は純粋に貴女たちからの依頼を果たし、『お兄ちゃん』を救うためだけにやるつもりなんだ」
 アレイスターは唇を噛んだ。

 女子寮付きのメイドのお仕着せを着て変装したオクタヴィア姫は、ブライディーが寮の部屋に一人きりなのを確かめてから中に入った。
「オクタヴィア様! なぜまたそんな恰好をされてまで!」
「シッ、火急の用件です。手紙を読みました。
 貴女、ゼリューシャたちの『試練』を受けようとしているそうですね?」
「ええ」
「すぐにお断り申し上げなさい!」 オクタヴィアは低い鋭い声で言った。「どんな理由でも構いません。『怖くなった』とか、『急に自信がなくなった』とか言って、絶対に止めて頂くのです」
「どうして? せっかくようやく使命を果たせそうなのに…」
「はっきりと言いましょう。ブライディー、貴女には荷が重すぎます。無理して受けたら、先の子みたいに、心が完全に壊れてしまうか、死んでしまうでしょう! 貴女が受けようとしている『試練』は、噂によると千人に一人、いや、万人に一人しか合格できないものらしいのですよ」
「でも… でも、やり遂げると『お兄ちゃん』の力になることができます。わたしは…」
 ブライディーは、すがるような、いまにも泣き出しそうなオクタヴィアを見つめた。
「よく考えなさい。貴女に万一のことがあれば、一番悲しむのは『お兄ちゃん』でしょう?」
 相部屋の子が戻ってくるような足音が聞こえた。
「いいですか、これは命令です。最初の使命であった探索も止めるように命令します。とにかく『貴女がたと付き合ってはいけないと、保護者にきつく言われた』とでも申しておきなさい。その時くれぐれも『わたしは続けたいと思っているのに』というような顔はしないように…」
「でも…」
 ノックの音がして相部屋の子が帰ってきた。
「どうぞ。開いています」
「必ずその通りにして下さいよ」
 メイドに扮装したオクタヴィア姫は、そう耳打ちして出て行った。
 入れ違いに入ってきたルームメイトは少し怪訝さうな顔をしたが、ブライディーが微笑みかけると、初めてぎこちなくだが微笑み返してくれた。

「本当に『試練』を受けるのですか? わたしたちは決して押しつけたりはしませんよ」
 黄昏の音楽教室、ゼリューシャはベートーヴェンのピアノソナタを弾いていた手を休めて言った。
「どうかお願いします」 ブライディーはゆっくりと、静かに頭を下げた。「…ゼリューシャ様、このようなことをお訊きしてよいかどうかわからないのですが…」
「どうぞ、何でも訊いてください… わたくしに答えられるようなものであれば」
「ゼリューシャ様は、この『試練』を受けて合格されたのですか?」
「いえ!」 ゼリューシャは長い銀色の髪の毛を乱れさせてかぶりを振った。「わたくしには、とてもそのような勇気はありません。もちろん、ソプラノやアルトたちにも、です」
「では、合格されたかたを知っておられますか? 伝説や歴史上のかたではなくて、直接人となりを知っておられるかたで…」
 窓から鳥のさえずりが聞こえた。
「一人だけ、知っています」
「そうですか。それをお聞きしたら十分です。わたしは、教えて頂いた魔法の稽古に行って参ります」
「お待ちなさい! お稽古はもう必要ありません。『試練』は『魔法に関する試験』などではないことは分かっています」
「えっ?」
 ブライディーは目を見開いた。
「それは『受ける者の心が試される試練』であるらしいです」
(『心が試される』…)
 窓の外に目をやると、連れだって楽しそうに語り合いながら寮へと帰る女子大生たちの姿が映った。
「あの… 失敗されたかたを知っておられますか?」
「ええ、何人も、何人も…」
 窓によりかかり、目を閉じたゼリューシャの瞳から光るものが幾筋も伝った。
「いえ、そうではなくて、そのかたたちがどういった理由で試練に挑まれたのか…」
「全員貴女と同じ理由でです」 ゼリューシャはいまにもそのまま泣き崩れてしまいそうだった。「…みんな、不治の病にかかった家族や、危地にある愛する人を手助けしたいと思って挑みました。自分自身の欲得のためにしたものは、ただの一人もおりません…」

 その夜はやはり何か特別な夜だった。闇は濃く、風はなく、よどんだ重苦しい気配がニューナム一帯を覆って、フクロウや虫の鳴き声さえ聞こえなかった。
 黒い法服を身に纏い、手にお守り代わりの「不思議の国のアリス」のタロット・カードを携えたブライディーは、たった一人ランプを掲げてニューナム近くの森に分け入っていた。
 と、少しだけ開けたところの、古い切り株の上に、木で作った杯が置いてあった。
(これを飲むのね)
 一口すすると、上等の葡萄酒だった。残りはためらわずに飲み干し、杯を元の場所に戻した。
 どこからともなく声がした。
「『誓約』は了解していますね?」
 ブライディーはこっくりと頷いた。
「…貴女への試練は簡単です。これより貴女に、仮の『永遠の命』を授けます。貴女を心から愛してくれた人、七名の未来の臨終の場面で一滴の涙もこぼさなければ合格とします…」

 一瞬にして情景が変わった。

 そこはケンブリッジ近くの病院の一室だった。個室の白いシーツを敷いたベッドには、やせ衰えたドッジソン教授が横たわっていた。
「先生、早く良くなってくださいね」
 ブライディーは声を掛けた。
「いや、わしはもうだめだよ、ブライディー」 教授は力無くつぶやいた。「…楽しかったなぁ、君とのチェスの試合。よもや負けるとは思わなかったよ… それからドイル君やデイジーとケンブリッジに遊びに来てくれたこと… ロンドンの心霊研究協会の屋敷ではいろいろお世話になったねぇ…」
「いえ、わたしはメイドですから、当たり前のことをしていただけです」
「…できたら、君の写真をもっと撮りたかったなぁ… 妖精や、お姫様の恰好をしてもらって… 『アリスのタロット・カード』大切に使ってくれたまえよ…」
「そんな… 退院されたら、どんな恰好でもしてモデルになりますわ。お約束します。ですから…」

 横たわっている人物がドイルに変わった。
「ブライディー、ぼくは君と出会えて本当に幸せだったと思っているよ。…妖精を探してアイルランドに旅行した時のこと、あの時は楽しかったなぁ… いろいろと迷惑をかけたことは一度ちゃんと謝ろうと思っていたのだけれど…」
「いえ、迷惑だなんて… 早く治って、わたしを主人公にした短編小説を書いてください」
「それは何度も考えたよ。でも書けなかったんだ。君を脚色して書くことなんて… もし書くとしたら、ありのままの君を書きたくて…」
「それは、過ぎたお言葉です…」

 人影がデイジーに変わった。
「このあたしとしたことが、お姉ちゃんより先に行ってしまうことになるなんて…」
「デイジー、何を言っているのよ、貴女らしくもない…」
「もちろんよ。いまのは洒落よ、冗談よ」
 デイジーは力無く「あかんべー」をして見せた。
「お姉ちゃん、お願いがあるの。…もしあたしに万一のことがあったら、ときどき降霊会を開いて、あたしの霊を降ろして欲しいの。
 あたし、もっともっとお姉ちゃんといろんな話しをしたかっし、へらず口も言いたかったの…」
「それだったらいまお話ししましょうよ」
 ブライディーは無理に笑顔を作って言った。
「お姉ちゃん、本当はあたしがしなくちゃいけなかった仕事をやってくれてありがとう…」
 看護婦がかすかに首を横に振りながら二人のあいだに割って入った…

 フィオナは、立派なお見舞いの花束に囲まれていた。
「ブライディー、いままで本当によく尽くしてくれました。改めてお礼を言います」
「フィオナ様、そんなお気の弱いことをおっしゃらずに…」
「亡き父上が『貧救院でメイドを雇おう』とおっしゃって二人で出かけた時、『この子がよさそう』と言って貴女を選んだのは、わたしでしてよ」
「有難うございます…」
「『お姫様になってください』とか『女子大生になってください』とか、無茶なお願いばかりしてごめんなさいね」
「いえ、そんな… わたしも楽しませて頂きました」
「お水を、お水を飲ませてください。それから、氷枕を取り替えて… …ごめんなさい、貴女はもう、わたくしのメイドではなかったのですね…」
「フィオナ様、そのようなことはご懸念なさいませんように…」

(泣いていない… ここまで涙を一滴もこぼさずに来ている…) ブライディーは冷静だった。(そう、これは全部わたしを試しているかたが出している幻に過ぎないのよ。あともう少しよ!)

 貧救院からの幼友達のケリーは、しきりにブライディーの手を触りたがった。
「ブライディー、あたし、死ぬのは嫌。とても怖いわ…」
「大丈夫、きっと良くなるわ。そしたらまた、二人でお芝居でも見に行きましょう!」
「うううん、もう無理よ。あたしがホワイトチャペルの舞台に出ていて、急にショーに出られなくなって、貴女が代わりに出てくれたときはとても嬉しかったわ…
 二人で写真の撮りあいをしたこともあったっけ… そして貧救院…いまではとても懐かしいわ… ブライディー、貴女はあたしの分も長生きして、幸せになってね…」

 次は、どこかの女子修道院の、質素な部屋だった。痩せてやつれ切ったシスター・セアラは涙をポロポロこぼして泣いていた。
「ブライディー、よく来てくれました。もう会えないかと思っていました。貴女の不思議な力で、そこに立っている死神をやっつけて下さい!」
 シスター・セアラは部屋の一角を力無く指さしたが、ブライディーには何も見えなかった。
「セアラ様、セアラ様が基督様、マリア様、天使たちに召されることを恐れるなんて、思いませんでした」
「ガッカリさせてしまいましたか? もしもそうなのだったら心から謝ります…」
「いえ…」
「わたしはいままで無数の悪鬼、怨霊、亡霊のたぐいを退散させてきました。しかし、皮肉なことに、土壇場になってみると、他ならぬ自分自身が、たとえどのような姿になっても、この世に留まり続けたいと思っていたことに気付きました。わたくしは神様を深く信じています。天国はさぞかし素晴らしいところでしょう。わたくしがいなくなっても、わたくしの使命は代わりの者たちが引き継いでくれるでしょう。けれど…」
 セアラは一瞬息を止めた。
「…ブライディー、貴女の花嫁姿をこの目で見、結婚式を取り仕切り、貴女の子供たちに洗礼を授けたかった…」

 ブライディーの唇が小刻みに震えた。
(首尾良くこの『試練』をがんばり通したとしても、自分は、セアラ様にも、他の誰にも花嫁姿を見せられないと思うと、ふいに涙がこぼれそうになった。が、なんとか踏みとどまった。

 風景がまた変わった。
 そこは、アメリカのニュー・イングランドの森の中らしかった。冬の、白い雪が、木々の梢にも、木こりの丸太小屋にも降り積もっていた。
「ブライディー、ぼくは心底きみと結婚したかったんだよ」
 粗末な木のベッドに横たわった「お兄ちゃん」は、窓の外に広がる雪景色を眺めて言った。
「…結婚して、『全米アイルランド協会』からメダルを貰えるくらいたくさん子供を産んでもらって…」
 ブライディーは「わたしも、本当にそうしたかったのよ」と言いかけた。
「ぼくは莫迦なことをした。お金に目がくらんで、アメリカに渡るなりゴースト・ハンターの道に首を突っ込んでしまって、とうとう最後まで足を洗えずじまいだった。君にも数え切れないほど危ないところを助けてもらって、本当に感謝しているよ。
…最後のお願いだ。いままで数限りなく訊ねた問いに答えてくれ。『君はどうして、ぼくのプロポーズにイエスと言ってくれなかったんだい?』
 長い沈黙があった。暖炉の火がはぜる音だけが部屋に響いた。
「お兄ちゃんを守れる力を得る代償として、一生結婚はしないという誓願を立てたの」
「そうか、やはりそうだったのか…」
「お兄ちゃん」はまぶたを閉じた。
「怒らないの? 責めないの?」
「ぼくのことを思ってしてくれたことだ。そんなことができる訳がないじゃないか」
 ブライディーの胸に熱いものがこみあげてきた。
「有難うブライディー。ぼくは幸せだったよ…」
 その時、ずっと(これは幻に過ぎない)と自分に言い聞かせ続けていたブライディーの瞳に大粒のしずくが湧き出して溢れて頬をまっすぐに伝った。

「ブライディー、ブライディー! しっかりしなさい!」
「アリス」のタロット・カードを撒き散らし、暗い森の切り株に覆いかぶさるように俯せに倒れている法服姿のブライディーを、オクタヴィアはひきずり起こした。
 外傷はまったくないのに息も脈もかなり浅く、肌は蒼白で死斑のような点が見る見る浮かび上がり始めていた。その両頬には、ひどく泣いた跡があった。「早く起きなさい! アイルランド人のメイドは、雌牛みたいに頑丈なことだけが取り柄なのではないのですか!」
 オクタヴィアがその頬を何度か平手で叩いても、両肩をつかんで揺すっても、メイドさんの身体はぐにゃりと力無く崩れて、残りのカードをさらにこぼすだけだった。
「オクタヴィア様、わたくし、お医者様を呼んで参ります!」
 フィオナが顔を引きつらせながら言った。
「いえ、それは多分間に合いません。このわたくしがアレイスター様を呼んで参ります。…幸いこうして学寮のメイドのお仕着せを着ていますし… ブライディーは魔術の秘儀のせいでこうなったのです。魔術にお詳しいかたしか命を取り留めるの難しいのではないかと思います。フィオナ、貴女はタロット・カードを拾い集めたり、コルセットなどを緩めたりしておいてあげて下さい」
 フィオナは黙って頷くしかなかった。

 オクタヴィアは息せき切ってトリニティ校の学寮のアレイスターの部屋を鋭くノックした。幸運この上ないことに彼はまだ起きていて、寝息を立てて寝ている相部屋の生徒を気にしながら、トマス・アクイナスの書いた中世の錬金術に関する本を読んでいた。
「オクタヴィア姫、いまごろどうされたのですか? まさか!」
「クロウリー様、ブライディーが… わたくしたちがあんなにとめたのに…」
 アレイスターはハンガーに掛けてあった薄手の外套をひったくって羽織り、机の、鍵のかかる抽斗から愛用のマルセイユふうのタロット・カードや秘薬を取りだしてポケットに詰め込みながら駆けだした。
「どこだ?」
「このあいだ集まりをやった森の…」
「分かった。先に行く!」

 クロウリーが着いたとき、フィオナは虫の息となったブライディーの周りでおろおろしていた。
「アレイスター様、どうかブライディーを助けてやってください!」
「かならず助けてやれるかどうかは約束はできないが…」 アレイスターは大きな切り株の上に寝かされたメイドさんを一瞥すると、外套を脱いで木の枝に掛けた。「…全力を尽くしてみよう。すまないが君はオクタヴィアさんと一緒に、少し離れたところから祈っていてくれ。精神を集中したいんだ」
 そう言いつつ、外套のポケットから古いマルセイユふうのタロット・カードを取りだしかけたアレイスターは、切り株の隅にきちんと揃えて積み重ねられた「アリス」のタロットに気が付いた。
「これは?」
「ブライディーのお守りというか宝物です。いつもこれでいろいろと占いをしているみたいで…」
「アリス」のカードを取り上げたアレイスターの手から全身にかけて、鋭い電流のようなものが走った。
(こ、これは… これを使えば何とか…)
「アレイスター様、こんな時に占いですか?」
「占うんじゃあない。これはもともとそういう目的のためだけに作られたものじゃあない。ブライディーさんや、他の多くのかたがたは占いや遊びのためだけに使っているようだが…」
 アレイスターが息を整え、目を軽く閉じると、途端に夜の闇が濃くなり、しじまが深くなったような気がした。
 彼がその白魚のような優雅な指で、カードを一枚一枚ブライディーの前に並べるにつれて、まるで周囲に霞網が張られていくように空気が張りつめていった。
「よ、よろしくお願い申し上げます」
 フィオナは一礼すると、二三歩後じさって、
それから踵を返して小走りに走り去った。
 アレイスターは切り株の前にひざまづいてメイドさんを見、それから夜空を見上げ、深く息をした。
(結界を張れるだけの蝋燭と、香が欲しいところだが、贅沢は言ってられないな…)
 彼がもう一度メイドさんに目をやると、白い生気のようなものが煙のようにどんどん立ち上っていくのが映った。
(…………)
 カードを新たに開いて、すでに開かれているカードの上に並べた。
(…チェシャ猫…三月ウサギ…おかしな帽子屋…ハンプティ・ダンプティ…ハートの女王…)
 周囲の闇が次第に溶けて、ぼんやりと明るい光に包まれ始めた。
(ブライディー、行ってはだめだ。ぼくが行くまで、じっとしていてくれ…)
 彼がさらにカードを開いて手のひらをそっと押し当てると、光の中に少しずつ風景が広がり始めた。
 冷え冷えと研ぎ澄まされた空気が充ち満ちてきた。
(もう少しだ…)
 星々が一斉に輝きを増し始めた。
(どこだ、ブライディー、どこにいる?)
 カードの重なり具合が、ほんのわずかにずれた。
 虫の声が止んだ。

 陽炎の中、アレイスターにおぼろげに見えたのは、ロンドンでは非常に珍しい、カトリックの小さな教会だった。
 おろしたてのフロック・コートにピカピカのシルクハットをかぶったコナン・ドイルが玄関のあたりをうろうろしていた。
「ドイルさん、こんなところで何をやっているんですか?」
「花嫁の父役を頼まれたんだが、かんじんの花嫁の姿が見えないんだ…」
 中に入ると、英国心霊研究教会の二人のちっちゃなメイドさんのデイジーとポピーが、花嫁のドレスの裾を持つ侍女役のドレス姿で待っていた。
「んもー、どうしてあたしが、お姉ちゃんのドレスの裾なんか持たなくちゃあいけないのよ!」
「まあまあ、そうおっしゃらずに…」
 最前列の参列者席には、ドッジソン教授やクルックス博士、ウォーレス博士たちが陣取って、早くもグラスで御神酒を頂いていた。
「お目出たごとは、いくら年を取ってもいいものですな」
「我々は国教会の信者ですが、こんな前にいていいのですか?」
「まあまあ、同じイエス様を信仰しておるのです。この際固いことはなしです…」
 控えの間では、ど派手な色物のドレスを着たケリーが、純白のウエディング・ドレスを手にして呆然と立っていた。
「ブライディー、そろそろ着付けをしないと間に合わないわ…」
 そこへ、ブライディーとデイジーがかつて働いていた居酒屋兼食堂のあるじオマリーさんがやってきた。
「皆さん、『白詰草亭』では披露宴の用意が準備万端ですぜ。ウエディング・ケーキ、お酒、ご馳走、どれも飲み放題食べ放題でお待ち申し上げております」
 上品な色物のドレスを着たフィオナとオクタヴィア姫たちが立派な馬車で到着した。
「きょう一日、ウォーターフォード家で一番いい馬車をお貸し申し上げますわ。花婿さんと花嫁さんに使って頂ければ幸せですわ。もちろん、御者のリリーもお付けして…」
 シスター・セアラは一足先に祭壇に向かって祈りを捧げ始めていた。
「神様、無事にきょうという日を迎えることができたことを深く感謝申し上げます…」
 すっかりめかし込んだ「お兄ちゃん」が、沖仲仕の友達を引き連れてやってきた。
「ブライディーは?」
「それが見あたらないんだ」
「さっきまでいたんだが…」
「恥ずかしがってどこかに隠れているのじゃあないだろうか?」
「そのうち現れるよ」
 みんなが異口同音に答えた。
(いけない! 結婚式が始まるまでにブライディーを見つけ出さないと、彼女は常世の国に行ってしまうぞ!)
 アレイスターは焦った。彼は手にしている残りの「不思議の国のアリス」のタロット・カードをじっと見つめて心を研ぎ澄ました。
(戻ってくるんだ、ブライディーさん! さもないと夢は永久に夢のままで終わってしまうぞ!)

 固く目を閉じたアレイスターが再び目を見開くと、そこは寒風が吹きすさぶ荒涼としたアイルランドの荒れ地だった。
 十四、五歳の見習いシスターに手を引かれた、ぼろをまとったちっちゃな女の子が村の共同墓地の石造りのケルト十字架の前で泣きむずかっていた。
「…ブライディーちゃん、貴女のお父様とお母様は神様に、天国に召されたのですよ。ここでずっと待っていても、帰ってこられはしませんよ。わたくしセアラと一緒にダブリンに参りましょう。ダブリンは賑やかな街ですよ。お手伝いをすればご飯もいっぱい食べられるし、友達もいっぱいいます。汽車にも乗れるし、サーカスだって見に行けますよ」
「嫌だ! あたしはここにいる! ここにいたらお父さんとお母さんが帰ってくるんだ!」
「お家は燃やされちゃったし、ここにはいるところがないでしょう?」
「嫌だ! あたしはここで、お父さんとお母さんと暮らすんだ!」
 ちっちゃなブライディーは、見習いシスターの手を振りほどいて駆けだした。すぐに追いかけようとした尼さんは、下枝に衣がひっかかって転んだ。
「ブライディーちゃん、そっちは危ない!」
 尼さんの言うとおり、女の子が走っていく先には目もくらむような崖だった。だが泣きじゃくりながら走っているので、見えていない様子だった。

「行くな!」 アレイスターは叫びながら女の子の腕をしっかりと掴んだ。「…君のお父さんは、ダブリンで待っている。妖精に魔法をかけられて、ずいぶん若返って、君と同じくらいちっちゃくなって」
「本当?」
 ちっちゃなブライディーは鼻水をすすりながら怪訝そうな目で彼を見上げた。
「ああ本当だ」
「お母さんは?」
「お母さんは君がなるんだ。君がお母さんになるんだ」
「あたしが… お母さん?」
「ああそうだ。ぼくは、ロンドンで有名な魔術師なんだ。ぼくの予言は必ず当たる」
 女の子は泣きやんで晴れやかな顔になった。
「魔術師? 帽子の中から兎を出す人?」
「ああ。何年も未来から、君の心の中を遡ってきたんだ」
 そこへようやくセアラが追いついてきた。
「どなたが存じませんが、有難うございました」
 顔を上げたセアラはハッとして息を呑んだ。
「シッ、どうかそのままに」
「分かりました」
「ブライディーちゃんをよろしくお願いします」
「わかりました」
 ちっちゃなセアラはアレイスターの瞳を見つめて言った。

 アレイスターが再び目を閉じ、それからゆっくりと開くと、元のケンブリッジのニューナムの森に戻っていた
 切り株の上に横たわったブライディーは、苦しそうな息をしながらもかすかに寝返りを打とうとしていた。
「ブライディーさん、しっかり! 目を覚ますんだ!」
 呼び声に応じてメイドさんはかすかにまぶたを開いた。
「わたしは… わたしは… そう… 失敗したのですね?」
「ああそうだ。危ないところだった」
 アレイスターは茂みのほうを振り返って叫んだ。
「おい、気が付いたぞ! 構ってやってくれ!」
 茂みからオクタヴィア姫とフィオナが走り出てきた。
「ブライディー、良かったです!」
「アレイスター様、有難うございます!」
「なんとか…」
 アレイスターは差し出されたハンケチで額の汗を拭った。
「どうか、ブライディーを叱ってやらないでください」
 アレイスターは弾む息を整えながら言った。
 ほどなく、森の東の空がしらじらと白んできた。

 翌朝、オクタヴィア姫とフィオナは、ゼリューシャやソプラノ、アルトたちの行方を捜したが、三人の姿は忽然として消えていた。さらに不思議なことに、クラスメートやコーラス・クラブの友達だった誰に訊いても、教授や講師や教職員の誰に尋ねてもゼリューシャたちのことを覚えている者は一人もなかった。
 学籍簿や過去の成績表からも、彼女たちの名前や記録はきれいさっぱり消え去っていた。
 彼女たちがいた学寮の部屋は、長いこと使われた形跡がなく、分厚い埃が積もっていた。「見事に、魔法を使って逃げられてしまいましたわ」 オクタヴィア姫は歯がみして言った。「…てっきりブライディーもどうにかなってしまったと早とちりし、さすがに続け様に犠牲者を出したのではまずいと思って、引き払ったのでしょう。返す返すも残念です…」
「しかし…」 フィオナは眉を寄せた。「逃げて下さったのはむしろ良かったのでは? 何喰わない顔をしてそのまま居座り続けられても、わたしたちには対抗する術がありませんし…」
「何をおっしゃる、わたくしたちにはアレイスター様がいらっしゃるではありませんか?」
「いいや、いまのぼくは、あのゼリューシャを敵に回したくないですよ」
 アレイスターは傍らのブライディーに目をやった。
「ブライディー、本当に大丈夫かい?」
「はい。危ないところを助けて頂き、どうも有難うございました。…オクタヴィア様、フィオナ様、お指図に従わず、申し訳ありませんでした」
 お姫様たちはまなじりを吊り上げて口を開き駆けたが、アレイスターに制せられた。
「まぁ良いほうではありませんか? これで物騒な魔女たちを、このニューナム女子校から追い払うことができたのですから…」

「あの…」 (アレイスター様が去られて、フィオナ様やオクタヴィア様とだけになると、ひどく叱られた上に、延々と説教される…)
 そう考えたメイドさんは、蚊の泣くような声で切り出した。「…ご命令に従わずに勝手なことをした上に、ゼリューシャ様たちを取り逃がしてしまって誠に申し訳ございません。ついては、これ以上高い学費を立て替えて頂いてここニューナムにいる理由もなくなったと思いますので、ロンドンに帰らせて下さい」
「ブライディー、貴女は勉学を続けたくないのですか? もしもそうなら、もうしばらくいてもいいにですよ。ここまでの成績も良い、と聞いていますし」
 オクタヴィア姫はメイドさんの瞳を覗き込んで訊ねた。
「…過ぎたお言葉、有難うございます。けれどもドイル様たちのことや、デイジーたちのことも心配ですから…」
「それよりも『お兄ちゃん』のことのほうが心配なのではありませんか?」
 フィオナがさらに大きく目を吊り上げて言った。
「フィオナさん、それは言わない約束では?」
 アレイスターが言うと、フィオナは珍しくどぎまぎした。
「いえ、わたくしは『お兄ちゃん』のことが心配なら、これまでよく頑張ってくれたお礼に、アメリカまでの旅費を出して差し上げようかと… 何でしたら、信頼できる女性の魔導師を付けて…」
「そんな… とんでもございません…」
 メイドさんは身を縮めた。
「…ところでブライディー、貴女が課された『試練』とは、一体どのようなものだったのですか?」
「占い以外、ほとんど魔法らしい魔法は使えない貴女でも受けることができたところからすると、わたくしたちにも受けられそうな気がするのですが…」
 お姫様たちが口々に訊ねた。
 無論、答えられるメイドさんではなかった。
「さあさあ、それくらいにしておいてあげてください」 アレイスターは快活に言った。「…ぼくもケンブリッジに長くいるつもりはないのですが、ぼくがいるあいだは、これ以上このようなことが起きないように目を光らせておきますよ」

 短い期間だったが寝泊まりした女子寮の部屋を片付け、相部屋の子に挨拶をすると、ずっと愛想が悪かったその子は、うっすらと目に涙をためて「寂しくなるわ…」と言ってくれた。
 クラスメートも先生がたも別れを惜しんでくれた。
「ブライディーさん、貴女は久々に見込みのある子だったのに、残念ですわ」
 中国史の女性教授は、記念に自分が使っていた本をくれた。
「機会があったら、またぜひ聴講に来てくださいね」
 勉強は貧救院でシスターたちに教えてもらったり、フィオナの屋敷で立ち聞きして学んだだけで、「卒業式」で級友と別れたことがないメイドさんは、ハンケチで目頭を拭い続けた。
 最後に、ブライディーはゼリューシャやソプラノやアルトたちと過ごした音楽室を訪れた。
 いつもたいてい居て、ピアノを弾いていたり窓際で歌っていた長身の人影はなく、洗い立てのレースのカーテンだけが秋風に揺れていた。
 ブライディーは何気なくグランドピアノの蓋を開けて、中を覗き込んでみた。
 すると、最高音部のところに、一対の鳩の羽根か櫂のような紋章で封蝋した手紙がはさんであった。匂いをかいでみると、ゼリューシャがいつも使っていた香の香りがした。

「ブライディーさん。このような別れになって本当に残念です。『どうか許して下さい』
などと書くのはおこがましいでしょうけれど、そうとしか申しようがありません。
 許してくださるのなら、またどこかでお会いしたいです。
 貴女が『お兄ちゃん』と結ばれて幸せになられることをお祈り申し上げております。
 お詫びのしるしに、貴女のご友人、オクタヴィア姫様の姉上、ヴァイオレット様の消息をお教え致しましょう。
 ヴァイオレット様を『葬列の丘』からお誘いしたのは、他ならぬこのわたくしです。そして、ヴァイオレット様こそ、わたくしが人となりを知る、ただ一人の『完徳者』の試練の合格者です。彼女はいま、欧州のどこかで『将来、人類にとってもっとも脅威となる人物』のメイドをしています。つまり、『最強』と言うか、『最凶』にして『最悪』の『マジックメイド』です。貴女と貴女の仲間たちに神様のご加護があるのなら、相まみえることもできるでしょう。…また貴女と会えて、一緒に歌を歌える日が来ることを祈りつつ… かしこ ゼリューシャ」

「お姉ちゃんはきっと、成績が悪くて学校を追い出されてきたのよ」
 ロンドンの「英国心霊研究協会」のお屋敷に帰ってきて、そこここを拭き掃除しているブライディーを、ドアの隙間からのぞき見しながらデイジーがポピーに囁いた。
「そうですか。あたしは『勉強はよくできたけれど、女子大生になりすましていた魔女たちを取り逃がしたので引き揚げてきた』とお伺いしましたが…」
 とそこへ、ドイルやドッジソン教授や、クルックス博士、ウォーレス博士たちがやってきた。ブライディーは掃除をやめて、お茶を入れに厨房に向かおうとした。
「ブライディー、お茶はデイジーに任せて、ニューナムでの出来事を報告してくれないか?」
 パイプに火を付けながらドイルが口火を切った。
 ブライディーはケンブリッジでの出来事を順を追って丁寧に話した。
「これはわたくしの勝手な思い込みかもしれませんが…」 話し終えたブライディーは、デイジーが淹れてくれた紅茶を一口すすって言った。「…ゼリューシャ様たちは、そんなに悪いかたがたではなかったような気がします」
「お姉ちゃんどうかしているんじゃない?」 デイジーが目を剥き、口をポカンと開けて言った。「…また危うく『あの世行き』になるところだったのよ。運良くクロウリー様が近くにいらしたから良かったようなものを、『大きな借り』を作ってしまって… ドイル様たちにご迷惑がかかったらどうするつもりなのよ?」
「まあまあデイジー」 ウォーレス博士が穏やかな調子で口をはさんだ。「…クロウリー君はそんな若者じゃあないよ」
「すいません…」
 けれどもブライディーはうなだれたままだった。
「ぼくは、このゼリューシャがピアノの中に残したという手紙の内容が気になるな」 ドイルはブライディーから渡された手紙の現物を天眼鏡で観察しながら言った。「『将来、人類にとってもっとも脅威となる人物』とは一体どこの誰のことなんだ? 大いに気になるな」
「おおかたあのナポレオンのような、戦争が大好きな野心家じゃあないかね」
 クルックス博士が眉間に皺を寄せて言った。「で、その者がまた、ヨーロッパじゅうを大戦争に巻き込む、とでも? ブライディー、手紙のことはオクタヴィア姫やフィオナ様にもうお話し申し上げたのかね?」
 ドイルはメイドさんに重ねて訊ねた。
「いえ、(もしかしたら罠なのかもしれない。自分ならともかく、姫様がたを巻き込んではいけない)と思いましてまだ… その者がどこにいるか、占ってもおりませんです」
「しばらく様子を見るのが賢明かもしれないな」
 パイプをふかしながらドイルが言った。
「ところでブライディー、女子大生の生活は楽しかったかい?」
 ウォーレス博士が微笑みながら訊ねた。
「楽しかったです。とても…」
 メイドさんの顔にもようやく笑顔が戻った。「もうしばらく居ても良かったのに…」
 ドイルが手にしたパイプに目を落とした。
「…ドイル様があんなふうに甘やかすから、自分がただのメイドであることを忘れて、のぼせ上がった末にドジを踏むのよ…」
 ドアの隙間から聞き耳を立てていたデイジーがまた目を吊り上げた。
「いえ…」 ブライディーはかぶりを振った。「わたくし、ほんの短いあいだだけでも女子大生の真似事のようなことをやらせて頂いて、クルックス先生や、ウォーレス先生や、ドッジソン先生への尊敬を新たに致しました」
「と言うと?」
 博士たちがメイドさんの顔を覗き込んだ。
「あの… 怒らないでくださいね。わたくしはこれまで、家がお金持ちで、勉強ができたら、どなたでも学者さんとして一家を成せるものだと思っておりました。けれども、ケンブリッジに行くと、皆様と年もそう変わらず、学問も深いおかたでも、一講師や一助手のかたが大勢おられました…」
「突き詰めたら肩書きなんかはあってもなくてもまったく関係のないものなんだよ、ブライディー」 ウォーレス博士が穏やかに言った。「…失礼だけれど、君の『お兄ちゃん』は何の肩書きもないけれど、君はそんなことは何も気にしていないだろう?」
(お兄ちゃん…)
 メイドさんの心にまた、一番大きな心配事が甦ってしまった。

     (次のエピソードに続く)

 謝辞
 お友達のみぐさんに、「タロット・カードは遊びや占いにも使うけれども、魔術・魔法においては、もっぱら自らを見つめる時に使うことのほうが多い」ということや、「自分のタロットカードを道標として、自己の内面を旅する一種の「精神修行」である『パスワーキング』という瞑想法がある」ということを教えて頂きました。さらに、本編中での、アレイスター・クロウリーさんが、「他人が愛用しているタロット・カードを使って、その人の心の中を旅をする」という、文字通り「魔術・魔法」的なアイデアを頂きました。
 ここに謹んで深くお礼申し上げます。

     (次のエピソードに続く)





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