ブライディー・ザ・マジックメイド
「ブライディー、玉の輿に乗る?」

「…ブライディーさん、突然のお手紙、どうかお許し下さい」
 白い薔薇の紋章の透かしのある羊皮紙に、古めかしい書体で書かれ、同じ紋章の封蝋で封印された、巻紙の、郵便ではなく、つばの折れた黒い帽子に赤い上着のお仕着せを着た従者によって直接届けられた手紙は、そう始まっていた。
「…先日、デュード侯爵や、クルックス博士、ウォーレス博士、ドッジソン教授、ドイルさん(貴族社会の古いしきたりでは、名前を挙げる時は「家柄や身分の高い順番」というのが決まり)に招かれた『神秘学』の講演会とパーティは、とても楽しく愉快でした。
 ですが僕はそれよりも、パーティで給仕をされていた貴女を見て、愕然としました。髪の長さこそ違え、昨年、十八歳という若さで、労咳のため花のつぼみのまま亡くなった我が妻女の生き写しではありませんか!
 おまけに、ドイルさんやメイド仲間と話している貴女の声や話し方、立ち振る舞いもまた、亡き妻とそっくりなのです。
 大人の癖に大変恥ずかしいことですが、僕は、貴女を見ていると妻が甦ったようで、心が癒され、幸せな気持ちになることができます。
 ただの『貴族の我が儘』とお思いになるかもしれませんが、どうか一度、ドイルさんたちやメイドのお仲間と僕の屋敷に遊びに来てはもらえないでしょうか?
 ご返事、お待ち申し上げております。
   ヨーク公」

「これはただの、たちの悪い冗談よ!」
 鶴のように首を伸ばし、広げられた手紙を覗き込んでいたデイジーはまなじりを吊り上げ、肩をいからせて吐き捨てるように言った。
「ヨーク公と言えば、英国でも屈指の大・大・大貴族では…」
 ポピーは消え入りそうな声で言った。
「そうだ。昨年ご妻女を亡くされた、というのも事実だ。ご婚礼の時、新聞で写真も見たのだが、確かにブライディーによく似たおかただった」
 ドイルはそう言って火が消えたままのパイプをぐっと噛みしめた。
「ふ、ふん… 確かにヨーク公爵様は、お若くてカッコいいかただったけれど、きっと若衆道で、女性なんかにはご興味がなくて、結婚は世間体を守るだけのことで、奥様はそれで世をはかなんで、病気になられて亡くなられたのよ! あたし、黄色新聞で読んだわ」
 デイジーは絞められる前の七面鳥みたいにギャーギャーわめきながらそのあたりを走り回った。
「でも… でも…」 ブライディーは手紙を小刻みに震わせながら言った。「…ヨーク公爵様は、この『英国心霊研究協会』にも多大なご寄付を…」
「その通りだ。すまない、ブライディー、君は行きたくなんかないとは思うが…」
 ドイルは頭を下げた。
「『みんなで来い』と書いてあるけれど、あたしたちが庭園とかを見学しているあいだに、お姉ちゃんは別室で慰み物にされてしまうのよ!」
 デイジーは「マクベス」冒頭の荒野の魔女よろしく唾を飛ばしながら言った。
「デイジーさん、先ほどおっしゃっていたことと辻褄が合いませんけれど…」
 ポピーはデイジーを羽交い締めにして取り押さえた。
「わたくしもデイジーも、巴里に連れて行って頂いたときに作って頂いたドレスがありますので、それで… でも、背が伸びたので仕立て直さなくてはならないかもしれません…」
「この英国心霊研究協会にも貴族や卿の称号をお持ちのかたは大勢いらっしゃるが、こういうのは緊張するな…」
 ドイルはそう言いつつ、ブライディーを促しながら珍しく重い足取りで部屋から出て行った。
「なんでよ! なんであたしじゃないのよ! み教えだって、同じ国教会で一緒だというのに?」 デイジーはハンケチを端から噛みちぎりながら言った。「…こうなったら、お屋敷では、お姉ちゃんよりも先に公爵様に接近して、『いかにお姉ちゃんの口が臭いか、腋が臭いか、おならをするか、いびきをかくか、げっぷをしまくるか、すぐに怒ったり、すぐに泣いたりするか、おしとやかなのはドイル様たち男の人の前だけのブリっ子か』お耳に入れるよりないわ!」
「デイジーさん、さっきから一人で何をぶつぶつとおっしゃっているのですか?」
「いい、ポピー、このままではお姉ちゃんは、いかに名門で大金持ちで若くて男前のかは知らないけれど、その正体は、『青ひげ』もまっ青な変態貴族に滅茶苦茶にされてしまうことになるのは火を見るより明らかよ! あたしたちはお姉ちゃんを猟奇貴族の毒牙から守るために、断固としてそれを阻止するのよ!」
「はあ?」
「そのためには手段なんか選んでいてはだめなのよ!」
 デイジーはかすかに背を反り返らせて天井を仰ぎ、両手の拳を固めて言った。

 ロンドンは日に日に寒さを増し、巴里に行ったときに仕立てたドレスを箱から出すと、思っていたよりも薄くて、もうとても着られなかった。
 泣き出しそうな顔で貸衣装屋のカタログを見比べるメイドさんたちをドイルは懸命になだめた。
 数日後、仕立て下ろしの、かすかに赤いチェックの入ったそれぞれ紺色、茶色、灰色のリーズ産の厚手のツイードのドレスを着たブライディーとデイジーと、ポピーと、一番上等のフロック・コートにシルクハット姿のドイルが書斎でまんじりともせず待っていると、玄関に四頭立ての、さりげなく白い薔薇の紋章の入った黒塗りの馬車が止まった。
 黒いつば折れ帽子に赤いコートの従者に誘われて馬車に乗り込んだデイジーは、その広さと内装の立派さに思わず息を呑んで、ブライディーの耳に囁いた。
「あたし、こんな馬車初めて。…お姉ちゃんはどう?」
「シーッ 向こうではそんなことを思ったりしても、言ったりしてはいけないわよ」
 馬車はどんどんと郊外に向けて走った。
 門番小屋のある最初の門を通り抜けてからも、馬車は速度を落とさずに森や林の中を飛ばした。
「ヨーク公が、よく園遊会や狩りを催されるロンドンの下屋敷だ」
 ドイルは珍しく早めにパイプの火を消してしまい込みながら言った。
「えっ、すると、…当たり前のことだろうけれど、ここは全部ご領地?」
 デイジーは溜息まじりに訊ねた。
「ああそうだ。もちろんロンドンの街の中には上屋敷もあるし、もともと代々の地であるヨークのご領地の広さは、ここの比ではない」
「でしょうねぇ… でしょうねぇ…」 デイジーは熱に浮かされたように繰り返した。
「地平線の彼方までがご領地なのでしょうね…」
 最初の門を通過してから小一時間、ようやくいくつかの建物らしいものが見えてきたので、デイジーは降りる支度を始めた。
「まだ早いぞ、デイジー。あれは使用人や小作人たちの住む建物だ」
「えっ、本で読んだり話には聞いていたけれど…」
 デイジーはますます頬を火照らせた。
「デイジー、貴女は貴族のかたにお仕えしたことはなかったわね? わたしはウォーターフォード男爵様にお仕えしたことがあるから少しは分かっているつもりだけれど、貴族のかたがたは、わたしたちとは全く違う別世界に住まわれているのよ。だから、見るもの聞くもの、いちいち驚いたり、顔色を変えてはいけないわ」
「何よ、ちょっとくらい知っていると言うだけで偉そうに… そんなことくらい分かっているわよ!」
「デイジーさん、そんなに興奮しないで! 公爵様は最愛の奥様を亡くされた、とてもお気の毒なかたで、わたしたちは、お心を少しでもお慰めできれば、ということで行くのですよ…」
 ポピーは消え入りそうな声でつぶやいた。「…要するに、お金持ちの我が儘気ままに付き合わされるだけなのよ」
「だったら無理についてこなくても良かったのに…」
 ブライディーは困惑しきっていた。
「いや、行くわ。これは滅茶苦茶にせずはおられないわ!」
「いま何か言った?」
「いえ、何も…」

 ようやくトラファルガー広場ほどの敷地の車寄せに着いた一行が馬車から降りると、宮殿のような壮麗な館を背に、執事を先頭として、十数人のメイドがズラリと一列に並んでお辞儀して出迎えてくれた。
「すごい、これで全部?」
 デイジーは目を見張りながら叫んだ。
「いいえ。失礼ながら当番のごく一部の者たちにございます」 執事がうやうやしく答えた。「…ほぼ全員でお出迎え申し上げるのは、当主が代わられた時と、国王女王陛下の行幸行啓の時くらいでしょうか…」
「すると、使用人全体の一割くらい?」
「生憎ですが、使用人の総数は執事長や秘書長、メイド頭も完全には把握しておりません。ヨークの本家を合わせると何やかや、おそらく数千名はいるのではないかと…」
「数千人! これであと衛兵がいたら、まるでバッキンガム宮殿並みじゃないの!」
「それは違います、ちっちゃなお嬢様」 執事は慇懃に言った。「ドイツからやって来られたハノーヴァー選定候のご一統が、こちら並になられたのです」
「そ、そんなものかなぁ…」
 デイジーは思わず人差し指をくわえてしまった。
 大貴族の城館に再々招かれているドイルはさすがに落ち着き払っていたが、ブライディーとポピーはドレスの中の足を小刻みに震わせていた。
「ドイルさん、ブライディーさん、皆さん、お忙しいところ、本当によく来てくださいました!」 狩猟会用の肘あての付いたスエードのジャケットに身を包み、ピカピカのブーツをはいた若きヨーク公が、嬉しそうに微笑みながら玄関に現れた。「…どうか、ごゆっくりなさってください!」

「本当に亡くなられた奥様に生き写しの子だったわねぇ…」
「メイドなんかではなく、貴族のかただったら何とかなったかもしれませんけれど…」
 一行が屋敷の中に入ったあと、召使いたちはひそひそ話を交わし合った。
「昼食の支度ができるまで、屋根なしの馬車で庭園をご案内しましょう。敷地の中に古代のピクト人かデーン人だかが築いた人工の丘というか陵墓のようなものがあるのです。僕の父祖の地ヨークにあるハーフダン王の陵墓に似たものです」
 お茶とお菓子の後で公はにこやかに切り出した。
「それは興味深いですね」
 ドイルは身を乗り出した。
 サッカー場が四つほど入るくらいのこんもりとした緑に覆われた丘の前に着いた時、ブライディーは身震いして退いた。
「公爵様、ドイル様、デイジーにポピー、ここは伝説の通り、大昔の人々の神聖な場所ですわ。おごそかな気持ちで見学される分には取り立てて障りはないでしょうけれど、わたくしは、ここはご遠慮させて頂きますわ」
「そうですか、では僕たちが陵墓の内部を一回りしてくるあいだ、バラ園でも見ていてください。侍女を呼びましょう…」
 ヨーク公はとても残念そうに言った。
「たとえもしも何か祟りのようなものがあるのだとしても、その正体を科学の力で解き明かすのがぼくたち『英国心霊研究協会』の使命本分だと思うぞ」
 ドイルは胸を張った。
「いえ、お姉ちゃんはちょっと怖いものを見るとすぐに取り乱したりするから、来ないほうがいいと思うわ…」
 デイジーは「しめしめ…」といった表情で言った。
「ブライディーさん、わたくしも残りましょうか?」
 ポピーがおずおずと言った。
「いいえポピー、貴女も一緒に行ってあげて。 ちょっと疲れただけだから、バラを見せて頂いているわ」
 手に手にカンテラを持った一行が狭い入り口を通って横穴の奥に消えて少ししてから、ドイルとデイジーとポピーを案内していったヨーク公と、うり二つの人物が現れた。
「さすがは心霊研究協会の周辺では噂のブライディーさん、よく彼が僕の影武者だということが分かりましたね」
「いえ、わたくしは本当に少し疲れていて…」 細い赤いチェックは入っているとはいえ地味な紺色のドレス姿のメイドさんはどぎまぎして言った。「あちらのかたが影武者だっただなんて、本当に驚いています」
「でしょう? あのドイルさんですら見破れなかった。…いや、ドイルさんのことだ。気づいていたけれど、僕らを二人きりにさせてくれるために、わざと騙されてくれたのかな?」
 ブライディーは返事に詰まった。
(もしもそうなら、どういう意味だったのでしょう…)
「僕がまだ独身だった頃、お見合いのような感じでここを訪れた貴族のお嬢様たちは、みんなこの人工の丘の内部に案内したんです。ヨーク家の家柄と財産と、ぼくの容姿に興味のある子は、みんな多少の無理をしてでも付き合ってくれました。
 誘っているのが偽者だと気づいて断ったのは、亡くなった妻ただ一人だけでした。ブライディーさん、貴女が二人目です」
「こんなことを申し上げるのは何ですが…」 メイドさんは消え入るような声で言った。「…奥様もその時たまたま疲れていただけでは?」
「そうかもしれません…」 公は少し目を伏せた。「けれど、たったいま、君が彼女と同じ反応をした、ということは紛れもない事実です」
「わたくしの容姿が奥様とよく似ているということも、ただいまのいきさつも、全くの偶然です」
「あそこに小さな白亜の煉瓦造りの建物が見えるでしょう? 妻がとても気に入っていた離れで、思い出の品々もほとんどあそこに置いてあります。もしもお嫌でなかったら、ドイルさんたちが戻って来るまでのあいだ、妻を演じては頂けないでしょうか?」
「そんな…」
 断りかけたメイドさんの耳に、ドイルの言葉が甦った。
『ヨーク公は「英国心霊研究協会」にずっと多大の寄付をして下さっていて…』
「分かりました。亡くなられた奥様は確か…」
「ヴァネッサです」
「では、ドイル様たちが戻られるまでのあいだ、ヴァネッサとお呼びください…」
 言ってしまったあとでブライディーは、不安と心配にさいなまれた。
「有難う、ブライディーさん」 公は顔を近づけて見つめた。「…でもそれはあまりにも失礼だからやめておきます。でも、僕は、いつかこんな日が来ることを信じていたんです。それがこんなに早く訪れるなんて、とても嬉しくて幸せに思います」

 公は「小さな」と言ったが、歩み寄ってみると、メイドさんたちが働いているロンドンの「英国心霊研究協会」のお屋敷よりも大きく、執事もメイドもいた。
 居間の調度は、年代物の家具と、ブライディーが「お兄ちゃん」との新居での新婚生活の暁に夢見ている可愛い小さな花柄のファブリックで揃えられていた。もちろん、生地は上等の日本の絹、デザインはリヨンかトリノあたりのものらしかったが… 花柄の下には、小さな白い薔薇と、花嫁の実家の紋章なのだろう、向かい獅子が透かし織りで織り込まれていた。
「この生地が気に入ったのなら、いくらでも持って帰ってください。絹、海島綿、夏用の麻と、たくさん織らせたのですが…」
「そんな…」
 暖炉の上や壁にはターナーやコンスタブルの水彩画、棚の上のコバルト色をしたガレの花の置物が飾ってある…
 紫檀の、小さな婦人用の書き物机の上に、大きくはないが極めて上物の水晶玉と、中世風の図案のタロットカードが置いてあるのを見つけて、ブライディーはハッとして立ち止まった。
「ヴァネッサ様は、占いをなされたんですか?」
「そうです。彼女の唯一の趣味というか、得意だったことでした。…でも、病気になってからは、何度も何度も良くなるかどうかを占ってばかりいたので、僕が禁じてしまいました」 公は瞳を伏せた。「…いまから思うと、可哀相なことをしました…」
「そうですか…」
「貴女も占いを?」
「ええ。下々では、年をとってもでき、万一の場合身の助けになる趣味と言えば、男性では釣り、女性では占い、ということになっております」
「もし良かったらヴァネッサが、天国で幸せにしているかどうかを占って欲しいのですが…」
「奥様のご遺品に触れてもよろしいのですか?」
「ああ、実は僕も、ずっとそのことがとても気になっていて…」
 タロット・カードに手を伸ばしかけたブライディーには、カードの回りを静電気のようなオーラが覆っているのが見えた。
(これは弾かれてしまうかな?)と思いつつ恐る恐る触ってみたところ、そういうこともなく、カードに触れることができた。
 ヴァネッサの机、ヴァネッサのカードで占いをするメイドさんを、公は感無量の様子で見つめていた。
「…これは、丹念に占うまでもありません。亡き奥様は、天国で幸せに暮らしておられます」
 ブライディーは早々に、カードを丁寧に元あったようにかえして言った。
「実はブライディーさん」 公は窓辺に立ち、はらはらと散る赤や黄色の落ち葉を眺めた。「…昨今の心霊や降霊会ブーム、僕に『一流の降霊術師たちを招いて、ヴァネッサの霊を降ろし、例えばぼくが再婚することについてどう思っているか、彼女の死後一年という短い間をおいただけで、また見合いを初めても良いか語ってもらえ』という人達が少なくないことも事実です。そういう人達の多くは年寄りで、名門である当家の本家の血筋が絶えて、分家に移ってしまうことを恐れているのです。要するにただそれだけの理由なのです」
「僭越ながら、公爵様ご自身はどうなのですか? 社交界はカップルで参加する行事がほとんど。遅かれ速かれ、新しい奥様を娶らねばならないのは必然だと思います。わざわざ降霊会などしなくても、亡くなられたヴァネッサ様は、公爵様の今後のお幸せを一番気にかけておられると思います」
 ソファーに腰を掛けたメイドさんは着慣れないドレスの裾を直しながら言った。
「驚いたな!」 公は振り返って目を見張った。「その仕草もヴァネッサにそっくりです」
「大変失礼ですが、公爵様がそのような目でわたくしをご覧になるからでは…」
「そうかもしれない…」 公はポツリと言った。「こんなことを言うと、頭がおかしくなってしまったのに違いないと思われるかもしれないが、仮にドイルさんや貴女のお友達に大金を払って口止めをし、貴族仲間に『亡き妻が、神の奇跡によって甦った』と宣言すればどうなるでしょうか?」
「お戯れを…」
「暗黒中世の頃なら、それで通ったかもしれません」 公は真顔になった。「…ヘンリー八世がイギリスからカトリックを追放し、次々と王妃を取り替えたように」
「公にはヘンリー八世のような真似はおできならないと思います…」
「貴女はどうなのです、ブライディーさん、将来を誓った人はいらっしゃるのですか?」
 長い間があった。いつのまにか吹き荒れだした木枯らしが、よく磨かれた窓をばたばたとたたき始めてからメイドさんは答えた。
「はい」
「そうですか。それでは仕方ありませんね」 公は苦笑いした。「…もしもそうでなかったら、当家と盟友関係にある、当家と同じくらい格式の高い貴族の家の養女にでもなってもらおう、と考えていたのですが」

「養女、でございますか?」
「そう。身分違いのものが好き合ってしまった時も、身分の低いほうがどこかの養子養女に行って『○○様ご養子ご養女』ということになれば、とりたてて問題はないのです」
「存じております。しかしわたくしは…」
「分かっていますとも。約束した人がおられるのでしょう?」
 メイドさんはこっくりとうなづいた。
「じゃあせめて…」 公は茶色のなめし革に白いバラの紋章を刺繍で縫い付けてある分厚い帳簿を取りだして、ページを開いた。「…これはヴァネッサが増やし続けていた慈善事業と、寄付の覚え書きです。彼女の遺志は、僕が全て引き継いでやっているのですが、正直もう新しい項目が増えることがないというのは寂しく思います。そこでブライディーさん、貴女が寄付をしたい近所の施設などがあったら、遠慮なく書き加えて欲しいのです」
「そんな… 困ります…」
 メイドさんはそっと帳面を押し戻した。
「僕は妻の代わりに、貴女と貴女の友達や知り合いのかたがたに幸せになって欲しいのです」
 ブライディーの脳裏に、自分が育ったアイルランドはダブリンの下町にある、小さな教会と貧救院のことを思い出した。
 崩れかけた壁、雨漏りのする屋根、藁のはみ出たベッド、つぎだらけの毛布や衣類、すじ肉とくず野菜の献立…
(わたしが「お兄ちゃん」やケリーや、シスター・セアラと出会ったのは、あそこでだった。ご好意と親切でおっしゃって下さっていることを全て断ったりしたら、それこそお気を悪くされて、きょう何のためにここに来たのか分からなくなってしまう…)
「あの、アイルランドの、ダブリンのカトリックの教会でも構いませんか?」
「もちろんですとも」
 メイドさんは、いくら忘れようとしても忘れられない住所を書き加えた。
「有難う。これで僕も天国の妻に、何かをしてやれたような気になれましたよ」
 そんなことをしているうちに、外が騒がしくなった。窓から覗くとデイジーやポピーやドイルたちが、影武者の公爵に伴われて戻ってきていた。
「さて、僕はそろそろ消えることにしましょうか…」
「そうおっしゃらずに、影武者のかたと入れ変わられて、昼食もご一緒したいですわ」
「本当に?」
 ブライディーは二度三度頷いた。
「楽しかったわよー お姉ちゃんも一緒に見学すればよかったのに!」 デイジーはスケッチブックを開いて見せながらはしゃいでいた。「羨道と呼ばれる地下道を進むと、玄室と推測される広い空間があって、ピクト人が狩りの様子なんかを描いた岩絵があるのよ!」
「そう、わたしも見たかったわ」
「気分は良くなったかい、ブライディー?」 ドイルもにこやかに訊ねた。
「はい。ご心配をおかけしてすみませんでした」
 ブライディーはすっかり吹っ切れた微笑みを浮かべて言った。
「本物の」ヨーク公を交えての、銀の食器を使ってのフランス料理でのフルコースも、とても楽しいものだった。屋敷の敷地にいる鳥や小動物の話、公の領地ヨークの歴史の話、特にドイルはハンザ同盟に対抗し得た『ヨーク冒険商人組合』について公と意見を交わし合った。公はメイドさんたちに毛織物工業のうんちくを語り、『シェフィールド産の真冬用のカシミアとフラノとメルトンの生地』をプレゼントしよう、と約束してくれた。
 ただ、(機会を見て、ブライディーお姉ちゃんの欠点や失敗を話題にのぼらせよう)と言いだしかけてはドイルやポピーに制せられていたデイジーの態度を、「本物の」ヨーク公に気付かれてしまった。そう、公はただの「お坊ちゃん」ではなかった。
(なるほど、そういうことか… ならば、たとえ未練と罵られようと、いま一度試る手段があるということだ)
「きょうは有難うございました」
 別れ際、メイドさんたちがペコリと頭を下げると、公はニコニコと本当に嬉しそうに笑った。
「いやいや、礼を言うのはこちらのほうです。また時々遊びに来てください」

 翌日、ヨーク公のお抱え商人から、カシミアなと゜の見事な若い婦人物用の毛織物の反物が数着分届けられた。
「あたし、お義母さんのためにコート・マントを縫って上げる!」
 デイジーはそう宣言して、一人だけ二着分取り込んでしまった。ポピーはフランス・アルプスの麓、ブライディーはアイルランドと、それぞれ寒いところの生まれ育ちだったので、フードの付いていて、全体が二重になったコート・マントや肩掛けを欲しがったが、かろうじて確保できた。
「お姉ちゃんもポピーもばっかじゃない? ここロンドンじゃあそんなもの要らないわよ。一重で十分よ!」
 デイジーは早くもチャコと裁ちばさみを振り回して、さらなる侵略を試みようとしていた。

 数日後、ダブリンのシスター・セアラから手紙が来た。
 ブライディーはわくわくしながら封を切った。
『…これで屋根も壁も塀も直せますし、ベッドのマットレスも新調することができます』
(きっとそんなことがしたためてあるんだ)
 しかし、感謝する内容には違いなかったものの、ニュアンスはまったく違っていた。

『…法外なご寄付を本当に有難うございます。ヨーク公様には位の高い担当責任者が改めて正式に礼状を認めます。ブライディー。きっと貴女は、ヨークの公爵様に気に入られたのね。ご浄財は、喜んで受け取らせて頂きます。全額ダブリンの司教・任枢機卿様にお預けしたので、いずれ改めてアイルランドじゅうの教会や恵まれない人達の施設に公平に配分されることでしょう…』

(な、なぁんだ…) ブライディーはガックリと肩を落とした。(お金は全部、あの小さな裏町の教会と貧救院に渡るんじゃあないのね…)

『…ヨーク公様からの、即ち、貴女からの宛先は、わたしたちの小さな教会と貧救院になっていましたが、ご存じのように、このような桁違いのご喜捨をすべてわたくしたちにすることなど、規則の上でも、神様に照らしてもとてもできません…』

 ピカピカに立派になった教会と貧救院を想像して喜んでいたメイドさんは落ち込んでしょげてしまった。そこへさらに追い打ちが続いた。

『…ブライディー、有り難いことは筆に尽くせないほど有り難いのですが、今後はこのような心配は一切ご無用に願います。大貴族の公と、メイドの貴女とあいだに、一体何があったのかは知る由もありません。けれど、もしもこのようなことが続いたりすれば、貴女は公の願いをお断りすることが難しくなると思います。どうか「トロイの木馬」の故事を思い出してください。公は紛うことなき紳士であり、思慮分別にも長けておられましょう。しかし、神の御前においては、様々な悩み・悲しみ・苦しみから逃れることのできないただの一人の人間であり、失われ、欠け落ちたものを再び取り戻し揃えようとしているヨブの末裔に過ぎないことを忘れないようにしてください…』

(そんなのじゃあない… そんなのじゃあなかったんだもの…)
 かろうじて涙がこぼれそうになるのをこらえている時に、玄関のチャイムが鳴るのが聞こえた。
 あわてて出てみると、また正装をした使者が巻紙の手紙を、今度はドイル宛に持ってきた。
 差出人はシェフィールドの伯爵、ヨーク公の遠縁の老人だった。
 手紙を開いて読んでいたドイルの表情が見る見る険しいものに変わった。
「ドイル様、まさか…」
 傍らで立ちつくしていたブライディーも身体をこわばらせた。
「そう、そのまさかだ」
 ドイルは手紙を広げたままテーブルの上に置き、代わりにパイプをくわえてふかし始めた。
 ブライディーが読んでみると、なんと、
「ブライディー、デイジー、ポピーの『英国心霊研究協会』の『三人の名物メイドさん』を『三人とも養女として引き取りたい』『とりあえず試しに三人で、数日滞在してもらうというのはどうだろうか?』」と書かれていた。
「もちろん『シェフィールドの伯爵はヨーク公の操り人形』で、『公のお目当てはブライディー、君一人』なんだが、それだと簡単に断られてしまうので、『デイジーやポピーも一緒に』と書かれているのだ」
 ドイルは眉間にいくつもの皺を寄せた。
 ブライディーは一瞬、貴族の養女になったデイジーやポピーたちのことを想像してみた。(「もう働かなくてもいい」「お勝手も、掃除も洗濯もしなくてもいい」「一日中本を読んだり、絵を描いたり、音楽を楽しんだりよろ、好きなことをしていられる」「それに何よりも病気や怪我をした時の、お金の心配が要らない」…デイジーがこの申し出のことを知ったら、飛び上がって喜ぶことでしょう。ポピーだって、二人とも『わたしたちもやっと運が開けてきた』と思うに違いないわ…)
「この手紙は…」 ドイルは手紙をくるくると巻いてリボンでくくり直し、あかあかと燃えている暖炉に投げ込もうとした。「…こうしよう。もちろん、デイジーやポピーには絶対に秘密だ。シェフィールドの伯爵様には、ぼくが丁寧に断りの手紙を書いておこう」
「何をお断りになるのですか、ドイル様?」
 二人がドキッとして振り返ると、箒を逆さに手にしたデイジーが、両目を白目にして、これ以上は無理というところまで吊り上げて仁王立ちに立っていた。

「いや、これはその、つまりだな…」
 ドイルは巻紙の手紙を後ろ手に隠して、そのまま暖炉の中に落とそうとした。
(デイジー、分かって。公爵様のお目当ては、わたし一人なのよ。でもそれだと断られてしまうので、人を介して、こんなふうにおっしゃってきたのよ)
 ブライディーは言いかけた言葉を全部飲み込んでしまった。それは傲慢な推測のような気がしたからだ。デイジーも、ポピーも、あの日長くヨーク公にお目通りしている。
(もしかしたら公は、わたしとともにデイジーもポピーも、それぞれ少しずつ気に入られたのかもしれないわ。もしもそうなら、二人に訪れたチャンスの芽を摘み取ってしまう権利は、どこの誰にもないはず…)
「ブライディーお姉ちゃん、それにポピー、ぜひドイル様のお許しを頂いて、シェフィールドのお屋敷に滞在しに行こうよ!」
 デイジーはブライディーとポピーの顔を代わる代わるすがるような目で見上げた。
「でもそんなことをしたら、ここ英国心霊研究協会の皆様のお世話は一体どなたが? 一人か二人が抜けて、代わりに新しい子が入ってくると言うのなら、当分残った一人がいろんなことを教えていけばいいのでしょうが、一度に三人ともお暇を頂いてしまうとなると…」
 ポピーが珍しく自分の意見を言った。
「…それにデイジーさん、貴女はブライディーさんがまかり間違って玉の輿に乗ってしまわれはしないかと、ものすごく妬んでおられていたではありませんか? 三人揃ってご養女にして頂いても、玉の輿に乗られるのはブライディーさんだけなんですよ!」
 ポピーはデイジーの耳元にヒソヒソと囁いた。
「事情は変わったわ!」 デイジーは高らかに宣言した。「ブライディーお姉ちゃんはヨーク公の玉の輿に乗ればいいのよ! あたしはあたしで、自分の運命は自分で切り開くのだから! …もちろん、ご養女にして頂いた後で…」
「デイジー、井戸の中の蛙が、お月様を手に入れたような愚かな夢を見てはいけないわ!」
 ブライディーは両膝を床に付いてしゃがみ込み、デイジーの両手を取って両目をまっすぐに見つめた。
「『英国心霊研究協会』が大変にお世話になっているヨークの公爵様には大変失礼だけれど、これは典型的な貴族の『お戯れ』よ! わたしは一度、フィオナ様のお願いを受けて、オクタヴィア姫様の身代わりをお引き受けしたことがあるから、よくよく分かっているの。 貴族のお嬢様の生活は、それはそれは窮屈で、ままになることは何一つなかったわ!」
「ふん、何よ! いつもいつも自分だけいい思いをして!」
「二人とも、いい加減によさないか」
 ドイルは穏やかにたしなめた。
「シェフィールドの伯爵様が、このような公式な書面で約束されておられるのだ。よもや簡単に反故にされることはないだろう。もしかしたら、この提案は純粋にお世継ぎのことを心配されたシェフィールド伯爵がお一人で勝手に画策されたことで、ヨーク公はご存じないことも考えられる…」
「あたし一人、あたし一人だけでもご養女に行っていいかしら?」
 デイジーは涙ぐんだ。
「やめておきましょうよ、デイジーさん。わたしが育ったフランスでも、お戯れを申される貴族のかたは多いけれど、ほとんどの人は本気にはされません。だから、丸く収まっているのです」
 ポピーは少し首をかしげ、かすかに微笑みを浮かべながら、優しく言った。
「不思議な力があるのはブライディーお姉ちゃんだけじゃあないのよ…」 顔を伏せたデイジーは、低い、しかしはっきりとした声でつぶやいた。「…このあたしにだってあるのよ。あたしは、亡くなられたヨーク公の奥様には似ても似つかないけれど、奥様の霊を毎晩毎晩、プライベートに降霊させられるんだから!」
「それだ!」 ドイルがはたと手を打った。
「三人ともシェフィールド伯爵様のお屋敷にご養女の見習いに行けばいいんだ。そして、ヨーク公が伯爵邸を訪れたとき、ブライディーは直接ヴァネッサ様を装い、デイジーは降霊術をやって、公に見てもらえばいい」
「ドイル様!」
 今度はブライディーが泣き出しそうになった。
「やったぁ!」 デイジーは飛び上がって喜んだ。「勝負よ、お姉ちゃん、これが最後の…」
「そんな、『勝負』だなんて…」
「わたくしも… わたくしも参加させて頂きますわ!」
 ポピーも声をかすれさせながら言った。
「三人とも、クリスマス前までには帰ってくるんだよ。でないと困るからね」
 ドイルは片目をつむった。

「ご養女の候補生」ということで、ブライディー、デイジー。ポピーの三人は、贈られたばかりの厚手の立派なフラノやメルトンの毛織物の生地を、それぞれ思い思いに袖をゆったりととったり、襟を大きくとったり、内側に隠しポケットをつけたりしてコートやマントや肩掛けに仕立てた。
 シェフィールド行きの汽車に乗るべく駅に向かったのは、ロンドンもすっかり寒くなって空はどんよりと曇っていまにも初雪が降り出しそうな日で、三人とも(手早くコートを縫っておいて良かった)と思った。
「風邪を引かないようにな。なあに、ただの『貴族のお戯れ』なのだから、そんなに緊張することはないよ」 見送りに来てくれたドイルは、三人に新しい毛糸の手袋を渡しながら言った。「…少し早いけれど、これはぼくからのクリスマス・プレゼントだ」
「有難うございます」
 三人のメイドさんたちはコンパートメントの窓から顔を覗かせてペコリと頭を下げた。
 汽笛がボーッと鳴って、汽車はロンドンを後にした。そして夕方には、あっちこっちに紡績工場が建ち並ぶシェフィールドの街に到着した。
 駅からは迎えの馬車でシェフィールドの伯爵の屋敷へ。伯爵の屋敷はさすがにヨーク公ほどではなかったが、それでもブライディーが仕えていたウォーターフォード男爵の館の数倍の広さがあった。
「なるほど、ブライディーさん、貴女は本当に亡きヴァネッサに生き写しじゃのう…」
 シェフィールド伯爵は、サンタクロースみたいに顔じゅう白いひげに覆われた好好爺で、三人はホッと胸を撫で下ろした。
「…まぁ、ヨークほどの銀の匙をくわえて生まれてきた男ならば、またまだ若くて頭のよい男ならば、失われた大切なものをなんとか取り戻したいという思いに取り憑かれても不思議ではない。わしに言わせれば『禁断の黒魔術』に走らなかっただけでもめっけものじゃ… がしかし、ブライディーさん、貴女が完全に断ってしまえば、次にはその手段に訴えないとも限らない。
 そこで、厚かましいお願いなのじゃが、ブライディーさん、デイジーさん、ポピーさん、三人で力を合わせて、ヨークに神様の思し召しを悟らせて欲しいのじゃ」
「分かりました。全力で最善を尽くします」
 ブライディーとポピーは声を揃えて答えながら深々とお辞儀をしたが、デイジーは伯爵の前に駆け寄って袖をつかんだ。
「ヨーク公爵様にぜひ、あたしにヴァネッサ様の降霊会をやらせて頂けるようにお取りなしください!」
「デイジー!」
 ブライディーはデイジーの首根っこをつかんで無理やりに下がらせた。
「よいよい。先ほども言ったように、魔術魔法のたぐいは、ヨーク公がそちらのほうに興味を抱いてしまったら困るので、あまり良い返事は出来ぬのじゃが、一流人士が集う『心霊研究協会』ができるくらいに流行っているのなら、無下に『やるな、興味も持つな』とも言い難いじゃろう」
 シェフィールドの伯爵は、見事なガラス細工のディキャンターからショット・グラスへとウイスキーを注ぐと、一気にあおった。
「有難うございます。きっとご期待にお応えしてみせます」
「うむ」
 その夜、伯爵は三人の到着を歓迎してささやかなパーティを開いてくれた。伯爵には数人の子供たちがいたが、いまはそれぞれ余っている子爵だの男爵などの称号を先に譲ってもらって、皆ロンドンで暮らしていた。伯爵夫人も福々しい体型の、これまた人の良さそうな貴婦人だった。ブライディーたちはいつも給仕をする立場なのに、ここではメイドさんたちに給仕してもらっていた。次から次へと絶え間なく出されるご馳走の数々に、ブライディーやポピーでさえも(ああ、なんて楽なのかしら、このままご養女になるのも悪くないかも…)と思い始めたりしていた。
「君を見ていると、本当に我が娘たちがまだちっちゃかった頃のことを思い出すよ」
 すっかり酔いが回った伯爵が言うと、デイジーは慣れ慣れしく
「お義父さまとお呼びしてもいいですか?」
 と言って、肩を揉んだり、一緒にトランプ遊びをするようにねだったりしていた。
 三人は別々の寝室を与えられたものの、夜が更けると密かにブライディーの寝室に集まった。部屋の一角にはソファーセットやテーブルもあったにもかかわらずベッドの上に丸く輪になって座って相談を始めた。
「まずあたしに降霊会をやらせてよ!」
 パジャマのポケットからデザートに出たお菓子の残りを取りだしてパクパク食べながらデイジーは言い張った。
「でも、降りてこられたヴァネッサ様の霊が何とおっしゃるか分からないから怖い気がするわ」
 ブライディーは顔を曇らせた。
「そんなもの、出たとこ勝負よ!」
「もっと確実に、ヨーク公様に、亡き奥様の面影をたたえた女性にこだわらないようにして頂ける方法があれば良いのですが…」
 ポピーは囁くような声で言った。

 翌朝からは早速「ご養女修行」が始まった。 まるで学校の授業みたいに、一時間ごとにフランス語や、ダンスや、貴族の身のこなしや社会の一般常識を教える家庭教師の先生たちが来て、個人授業をしてくれた。
 以前「お姫様の身代わり」を頼まれた時に、フィオナ・ウォーターフォードを殿方に見立ててダンスの特訓をしたことがあるブライディーは、そこそこ上手く社交ダンスを踊った。 もとよりフランス人のポピーは、早々に第二外国語をドイツ語に変更されてしまったが、なんとアルプス出身の彼女は片言ではあるもののドイツ語も読み書きできて喋れた。
 デイジーは、フランス語もダンスも、まったく一からだった。それでも彼女は必死でものにしようと頑張っていた。
「ブライディーお姉ちゃんも、ポピーも何よ! あたしは一番ちっちゃいんだから、これからぼちぼちとやっていけばいいんだから…」
 昼からも乗馬の練習や、文学の講義などが続いた。
 ブライディーはアイルランドの、ポピーも田舎育ちで、馬に乗れ、問題は貴婦人ふうに横座りすることだけだったが、デイジーはこれまた一からだった。
 文学も、ブライディーはウォーターフォード男爵家で、フィオナから勧められたギリシア神話やシェークスピアなどの古典や名作を数多く読んでいたので、基礎はできていた。 デイジーとポピーは、あらすじを教えられて「気に入った作品から始めて一冊でも多く読破するように」と、山のように本を押しつけられてしまった。
「大丈夫、デイジー。あまり無理をしないようにね。無理をして円形脱毛症にでもなってしまったら、それこそ元も子もないでしょう?」
 ブライディーが優しく声を掛けるとデイジーは、
「お姉ちゃんうるさいわよ。自分がちょっとばかり出来るからと言って、見下ろすようなことを言わないでよ。…すぐに、すぐに追いついて追い越してみせるから!」
 と半ば涙声で言った。
 と、そこへ
「やぁ、みんな頑張っているんだね」と声を掛けながらヨーク公がやってきた。
「お世話になっております」
 ブライディーが代表して挨拶した。
「ヨーク公爵様、お願いします。クリスマスも迫り、ご多忙のところ大変恐縮ですけれど、どうか、どうかあたくしの降霊術を見てください!」 デイジーは公に近づき跪き見上げて言った。
「デイジー!」
 ブライディーたちは引きずり戻そうとしたが、公は「よいよい」と手のひらを立てた。「…クリスマスが迫ろうと、ぼくら大貴族は、全く関係ないんだ。さまざまな準備や雑事は、すべて執事たちや秘書たちがやってくれるからね。…だけど、パーティを催す時はもちろんそこにおらねばならず、出席を約束したさまざまな会には出なければならない。それを忙しいと言えば、非常に忙しいということになるのだろうけれど…」
「決してお手間は取らせません。ロンドンで流行りの降霊会のように、亡くなられたかたと親しかったかたがたを何人も呼び集める必要もございません」
「ほう…」
「できたら今夜、このシェフィールド伯爵様のお屋敷にお忍びでお出ましくだされば、全身全霊で試みます…」
 デイジーは必死で売り込んだ。
「有難う、デイジーさん…」
 ヨーク公は穏やかに目を細めたが、もう一つ浮かない顔で、気も進まない様子だった。その目は、
(僕はヴァネッサの代わりに、あたかもヴァネッサが元気だった頃のように、再び人生を歩み出せる相手が欲しいんだ。いかに本物のヴァネッサを呼び寄せてくれたとしても、抱擁を交わそうとしたら腕が突き抜けてしまうような存在では物足りないんだ)と言いたげだった。
(悔しいわ… もしもあたしがアレイスター・クロウリー様や、サダルメリク・アルハザード君だったら、『亡くなられた奥様そのものを甦らせることができます』とでも言えるのに…)
「さぁさぁデイジー、公爵様はお忙しいのよ」 ブライディーはデイジーを宥めながら引き下がらせようとした。「もしも公爵様がそのような降霊会にご興味があるのなら、とうの昔に、ロンドンから一流の降霊術師たちを招かれて何度もやられているわよ」
「そうよね」 デイジーは唇を噛んだ。「…公爵様はきっと亡き奥様と言葉を交わすだけではご満足ではないんだ…」
「デイジー、失礼よ!」

「噂に聞くロンドンの有名降霊術師の術も、それなりに素晴らしいものでしょうけれど、
あたしの降霊術は、ひと味もふた味も違います。ドイル様たちは、なぜか、そう数多く術を試す機会を下さいませんが、巴里でもネス湖でも、ロンドンでもここぞという時は必ず成功させております」
 デイジーはなおも食い下がった。
(そうだわ。わたしもデイジーには、何度も窮地を救われているのよ。だから、欠点らしきものだけをあげつらうことはできないわ…)
 ブライディーは、もうデイジーを止めることを諦めた。
「分かった。日取りと謝礼に関することは、僕の執事と打ち合わせてくれ」
 ヨーク公もついに根負けして言った。
「日取りの件は執事のかたと話し合いますが、謝礼は直接公に…」
「何と、金銭以外のものを望むとでも言うのですか?」
「はい。もしも公が満足されたら、あたしをご養女にして頂けるように、公からシェフィールド伯爵にお願いしてください」
 さすがの公も、これには答えに詰まった。
 ブライディーとポピーは開いた口が塞がらなかった。
(…大丈夫よ。いままで何度も半ば強引に、半ば必死で降霊術を成功させてくれてきたけれど、今回だけは、公を心から満足させることは難しいと思うわ…)
 自分で自分にそう言い聞かせたものの、ブライディーは困惑し切っていた。
(…ドイル様たちが数多く見破ってきたインチキ降霊術師たちのように、最初から依頼人が望んでいる答えを用意するような真似をしてくれなくてはいいのだけれど…)
「ブライディーさん…」 ポピーが横から囁いた。「こうなったらブライディーさんの占いで、『現在の公にふさわしい、容姿も気だてもヴァネッサ様に似ていらっしゃるお相手』を占って差し上げてください」
「占いで?」
「ええそうです。公にデイジーさんが呼び出す霊が述べる答えだけではない、別の道を用意しておいてあげてください…」
「そうね。万一デイジーが苦し紛れにとんちんかんなことを言い出した時のために。…ポピー、貴女はどうするつもり?」
「わたくしも…」 ポピーはゆっくり、しかしはっきりと言った。「わたくしもわたくしなりの方法で、公に再びお幸せになって頂く方法を探してみたいと思います」

 ブライディーは旅行鞄の奥のほうに詰めて持ってきていた『不思議の国のアリス』のタロット・カードを取りだした。
(まさか、ここでも占うことになるなんて…)
 気が進まないことはこの上なかったものの、「良縁」つまり「素敵なお相手がどこにいる誰か?」というのは、古代ユダヤ、バビロニアやデルファイ以来の古典的な占いのテーマの一つである。
 大きなメイドさんは、再びの「お姫様修行」の合間を縫って、精神を集中させ、三度丁寧に占った。「貴族のお姫様」、「郷紳のお嬢様」、「ごくふつうの町娘」、「外国人の若い女性」の別なく、公平に。結果は三度とも同じだった。
(これでよし…)
 シェフィールド伯爵家の便箋に結論を書き、揃いの封筒に入れて封蝋をすると、ホッと安堵の溜息をついた。
 同じ頃、ポピーはヨーク公に「公爵様の使用人…執事やメイドたちに『どんな質問をされても答えるように』というお墨付きをもらって、ヨークの屋敷に出かけて行った。
(…まるで刑事や探偵さんみたいに、何を聞き出しに言ったのかしら?)
 ブライディーはいぶかしんで、これまた占いで調べようと思いかけたが、さすがにそれはやらなかった。
 そうこうしているうちに、デイジーが降霊会を行う日がやってきた。
 十二月にしては気味が悪いくらい生暖かい夜、ヨーク公、老シェフィールド伯爵夫妻、デイジー、ブライディー、ポピーの三人が、「こちらのほうがいいだろう」ということで、ヨーク公とヴァネッサの愛の巣だった、ヨーク公の広大な屋敷の中の白亜の離れ屋敷に集まった。
「さぁ、やるわよ。あたしの一世一代の降霊術を…」
 ヴァネッサのお気に入りの調度で満たされた部屋。 ちっちゃいというのに一人前に、クリスタルのリキュール・グラスに黄金色の蜂蜜酒を注いでは啜りながらデイジーは言った。
 いくつもの燭台に明々と灯されていた灯火が一つ一つ、蝋燭消しをかぶせて丁寧に消され、後は中央のテーブルの五本だけになった。
 暖炉の火は少し前に消されていて、赤い燠火が煉獄の炎のように辺りをぼんやりと照らし出している…

「本当に… 本当にヴァネッサの霊をこの場に現れさせるようなことができるのかい?」 いつも快活なヨーク公も、言葉を詰まらせた。
「あたしはいままで失敗したことがありません。…術を成功させるについて多少の無理をして、皆様にご迷惑をおかけしたことは、まったくないとは言えませんけれど」
 シェフィールド伯爵に無心して、今夜のために御用商人から買ってもらった黒に近い濃い紫色のドレスに、巴里でセアラからご褒美に貰った宝石類を身を包んだデイジーは胸をそらせた。
「あの、皆様、このような会ははじめてですか?」
 ブライディーがおずおずと訊ねた。
「ああ、初めてだよ。お誘いのようなものはいくつかあったとは思うが、みんな執事が断っていたはずだ。僕は、このようなものは信じないたちでね…」
「そのお考え、一時間後には変わっていることでしょう」
 デイジーは自信たっぷりに言った。
「伯爵様は?」
 ポピーが小声で訊ねた。
「わしらはこの年じゃし、率直に言って先立った親戚友人も少なくはないから、何度か付き合いで参加したことはあるよ。じゃが、たまたまそうだっただけかもしれないが、なんだか胡散臭かったな」
「そのご感想、もうじき改められることでしょう」
 デイジーは一段と声を低めて言った。そして、最後に残ったテーブル中央の蝋燭の炎に、ゆっくりと蝋燭消しをかぶせていった。
「あの、お互いに手を繋いだり、目をつむったりしなくてもいいのですか?」
 ふくよかな老伯爵夫人が訊ねた。
「特に必要ありません。『こうしてくださいああしてください』と注文の多いのは、たいがい手品のタネから目をそらさせるための目くらましであることが多いのです。狩りの行きがけに自分の蘊蓄や経験を語る猟師は二流の猟師です」
「なるほど…」 ヨーク公はさらに大きく目を見開いて、辺りを見渡した。「それは言えていることかもしれないな」
「本物の、真の術に、だらだらとした前振りや長々ともったいを付ける必要はないのです」
 デイジーが最後の蝋燭を消すと、たちまち異様な気配が部屋を覆った。そう、それこそ、姿や形のないものたちが大勢ひしめいているような…
 ヨーク公は思わずゴクリと生唾を飲み込み、伯爵夫人は早くも夫伯爵にすがりついた。
「…無念にも早世されたヨーク公夫人ヴァネッサ様、もしもこの世に思い残されたことがあるならば、何卒今宵ここ来たりて述べられ賜え…」
 空気はさらに一層重くよどみ、誰か何者かが、どこかからやってくる気配がした。…もちろんドアを通らずに…
 サラサラとドレスをする音がした。
「ヴァネッサ! ヴァネッサなのか?」
 公は立ち上がり、回りを必死で見渡した。
 伯爵夫妻も、ブライディーもポピーも公の視線の先を追った。すると、ターナーとコンスタブルの水彩画のあいだ、ガレの花瓶の前に、一人の清楚な美少女が立っていた。
「なんだ、ブライディーさんじゃないですか。びっくりしましたよ」
 公はそう言って暗闇の中、白い歯を見せて笑った。
「公爵様、わたくしならさっきからずっとここにおりますけれど…」
 ブライディーは公のすぐ隣の椅子から身を乗り出して囁いた。
「えっ、『ここにいる』? するとあれは?」
「あなた…」
 語りかけたヴァネッサの、その声もまたブライディーによく似ていた。
「ヴァネッサ!」
「わたくしが亡くなってから、まだ一年あまりしかたっていないというのに、早くも後添えをお迎えになられようとしているなんて、わたくしは悲しいです」
「いや、それは違う、ヴァネッサ。僕は全くそんなつもりはないのだが、年寄りの親戚連中がうるさいんだ」
「お年寄りのご親戚と、わたくしと、どちらを大切に思ってくださっておられますか?」
 ヴァネッサの霊はたたみかけた。
「それはもちろん君だよ、ヴァネッサ」
「ならば、もう生涯後添えなどはお迎えになられませんように。できれば、国教会の修道院に入って僧になり、残りの一生をわたくしの菩提を弔って過ごしてくださいませ」
 ヨーク公、伯爵夫妻、ブライディーとポピーの顔から血の気が引いた。
「そ、それは…」
「お嫌でございますか?」
 ヴァネッサは小面のようだった青白い顔を般若のように歪めた。
「いや、そんなことは…」
「お約束ください。さもないと、いますぐこの場であなたを冥界にお連れ申し上げます」
「分かった。約束する! 後添えはもらわない。毎日君の冥福を祈って暮らす!」
「そうですか。それを聞いて安心しました。ゆめゆめ約定をお違えになりませんように…」
 そう言い残すとヴァネッサの霊は、フッとかき消えた。

 ブライディーは慌ててマッチを擦り、テーブルの上の燭台の蝋燭から始めて、部屋じゅうの蝋燭を灯し、暖炉の石炭と薪の上に置いた新聞紙にも火を付けた。公爵とヴァネッサの愛の巣だった居間はたちまち明るく、暖かくなった。
 しかし、公と、老伯爵夫妻と、デイジーとポピーは顔面蒼白で立ち上がれずにいた。
「あの、この、その、これはつまり…」
 デイジーは何かを言おうとしたものの、言葉が出てこなかった。
「ヴァネッサが… ヴァネッサがあんなふうに思っていたなんて… 僕はなんてよこしまなことを考えていたんだ。彼女が亡くなって一年と少ししかたっていないというのに、後妻のことを考え始めるなんて…」
「やはり時期尚早だったんじゃよ、ヨーク」 シェフィールドの老伯爵はハンケチで顔中の冷や汗を拭いながら言った。「…もうあと二、三年してから、デイジーさんにもう一度来てもらって、再び降霊術をやってもらおう。その頃にはヴァネッサの霊もきっと落ち着いて安らぎを得ていることじゃろうて」
「…さあ、これで分かったし納得もしたでしょう、デイジー。わたしたちも明日の汽車でロンドンに帰りましょう!」
 ブライディーはデイジーの手をつかんで立ち上がるように促した。
「公爵様、どうして… どうしてあんな約束をされてしまったのですか?」 デイジーは振り絞るような声で言った。「どうして『ヴァネッサ、君には済まないが、ぼくは寂しいんだ。現実の世界で、支え、愛してくれる新たな女性が必要なんだ。分かってくれ』とおっしゃらなかったのですか?」
「デイジー!」
「デイジーさん!」
 ブライディーとポピーが、ちっちゃな霊媒を部屋から引きずり出そうとした。
「皆さんも見たでしょう? とてもそんなことが言い出せる雰囲気ではなかった」
「でも、言いたいことはちゃんと言わないとだめだよ!」 デイジーは二人の手を振りほどき、公の前に立ちふさがった。「『僕はそろそろ後妻を迎えようと思うんだ。ヴァネッサ、いくら君でもしつこく反対を続けるのであれば、ゴーストハンターを呼んででも天国に行ってもらうぞ』って!」
「いや、それは正論だが、感情的にはとても無理だ」
「そうよデイジー、貴女はまだちっちゃいから分からないのよ」
 ブライディーは(占った公にお似合いのお相手を、先にお教えしなくてよかった)と思いながら言った。
「何よまた偉そうにお姉さんぶって! 本当に愛し合った仲だったら、自分の気持ちをちゃんと伝えるべきだわ。以前は…生前は愛し合っていたとしても、現在…死後、相手を束縛するようなことを言ったとしたら、それはもう相手を…公を…もう愛してはいないという証拠よ!」
「だとしたらどうすればいいんだ? 僕も、僕の新しい相手も、ヴァネッサの亡霊に祟られたくはない」
 公は椅子にかけたまま両手で頭を掻きむしった。
「わたしが、わたしがもう一度ヴァネッサ様の霊を呼び出して、公の本当のお気持ちをお伝えし、それでもご理解頂けなければ怨霊退散、調伏させてみせるわ!」
「そ、それは…」
「デイジー、出来もしないことを申し上げてはいけないわ!」
「そうですよ。もしも失敗すると、貴女まで祟られますよ!」
 ブライディーとポピーはデイジーのドレスの肩を揺すって懇願した。
「出来ないことなんかないもの。やったことがないだけだもの…」
「そのような高等な呪術、アレイスター・クロウリー様か、サダルメリク・アルハザード君か、安倍薫君でないと出来ないと思うし、仮にもし試みようと思うのなら、よくよく相談し、十分に修行を積んでから…」
「ちょっとお待ちくだされ。公爵家の秘密もしくは恥になるようなことは、他言ご無用に…」
 老伯爵は立ち上がって手を差し伸べながら言った。
「分かっておりますとも。ですから…」
「ブライディーお姉ちゃんは、クロウリー様とご一緒に幽霊退治をしたことがあるから、三人でやったらきっとヴァネッサ様の霊を説得できるよ!」
「何と、それは本当ですか?」
「本当です公爵様。このまま一生ずっと、亡き奥様の霊に怯えて暮らすか、それともご自身でご自分と公爵家の未来・将来を切り開くか、あたしたちが伯爵様のところに滞在しているあいだにご決断ください!」
 デイジーはきっぱりと言った。

 シェフィールド伯爵の屋敷に滞在しているブライディーたちには、詳しいことは知る由もなかったが、使用人たちが運んでくる噂によると、公爵邸のヨーク公は、気の毒なくらい思い悩んでいる様子らしかった。
「無理もないです。生前のヴァネッサ様は、それはもうお優しく、嫉妬とは無縁のかただったそうです」「ご養女・お姫様教育」の休み時間、ポピーは吹きすさぶ木枯らしに揺れる冬木立を眺めながら言った。「…それなのに亡くなられて霊になられた途端、公を脅かし縛り付ける存在になられてしまって…」
「デイジー、貴女、人違いで間違った霊を降ろしてしまったんじゃないの?」
 冷めた紅茶を前にしたままのブライディーはショールの前をとじ合わせ直した。
「そんなことないってば! あたしはこれ以上はできないくらいちゃんとやったんだから…」
「ヨーク公はおそらくヴァネッサ様に『私のことは早くお忘れになって、私の面影をたたえた人でも、他のどなたとでも、ご結婚なさってください』と言って欲しかっただろうし、そう言われることを予想していたのだと思います」 彼女としては始めての「出張」してからというもの、ドイルの真似だろうか、「探偵手帳」のようなものを付けていたポピーは、そのページを前後に繰りながら続けた。
「そんなこと、いまさら言ってもどうにもならないじゃん!」
 デイジーは唇を尖らせた。
「どうしましょう? ヨーク公のお名前は伏せて、シスター・セアラ様や、アレイスター・クロウリー様や、サダルメリク・アルハザード君や、安倍薫さんに、『生者を束縛している死者の霊を無事に天国に昇らせる』術を問い合わせてみましょうか?」
「やっぱりよく考えると、皆様から『君たちには無理だ、やめておきなさい』と忠告されるのがオチだわ、お姉ちゃん」 デイジーはポピーやブライディーの分のケーキにフォークを次々にグサリグサリと突き立ててやけ食いのようにかき込んだ。
「…『依頼人の名前を明らかにしてくれたら、ぼくが、わたしが代わりに束縛霊を祓って差し上げます』と、まんまとオイシイところだけを持って行かれてしまうだけだわ」
 食べながら喋るものだからケーキの粉がピカピカに磨き立てられたテーブルじゅうに散らばった。
「ヨーク公様さえそれでよければ、そうして差し上げたいような…」
「ダメよ!」 デイジーは怒鳴った。「この件は、あたしとお姉ちゃんで、決着をつけるのよ! それで伯爵様のご養女にしてもらうの!」
 デイジーは紅茶をガブ飲みしてケーキを流し込んだ。
「デイジーさん、ヴァネッサ様の霊に取り憑かれて祟り殺されますよ…」
 ポピーは声を潜めた。
「とにかく、ヨーク公爵様を説得して、もう一度降霊会をやるしかないわ」 デイジーは口の回りにべったりとついたクリームを舌で舐め取りながら言った。「あたしが再びヴァネッサ様の霊を降ろして除霊を試みる。もしも埒があかない場合はすかさずお姉ちゃんが後詰めとしてゴーストハンター…除霊してさしあげればいいのよ!」
「口で言うのは簡単だけれど…」
 ブライディーは口ごもった。
「何をビビっているのよ、お姉ちゃん。人間生きている限り、大なり小なり修羅場の連続なのよ。安全確実、八方丸く収まる道なんか、どこにもありはしないの。今回のことで公爵様もヴァネッサ様につくづく愛想が尽きたことでしょう。ヴァネッサ様の霊には消えてもらいましょう。それしかないわ!」
「分かったわ。ここや、公爵様邸の図書館にある魔法の本で、よく研究しておくわ」
「そう、それでいいのよ」
 と、そこへ、ヨーク公爵の使いの執事がやってきた。
「皆様にはまことに申し訳ないのですが…」
 執事は銀の盆の上に、白い薔薇の紋章の入った封筒を乗せて持ってきて言った。ブライディーが銀のペーパーナイフで開封すると一枚の小切手が入っていた。
「今回のご養女の話は、なかったことにして頂けませんでしょうか? 理由は、皆さんの想像される通りだ、と公爵様がおっしゃっておられました」
「どれどれ」
 デイジーはサッと手を伸ばして小切手の金額を見て、息を呑み、そしてたちまちえびす顔になった。
「分かりました。さっそく今夜の汽車ででもロンドンに帰らせて頂きます。いろいろお世話になり有難うございました。お邪魔しました」
「とんでもない! このままで帰る訳には参りません!」
 ブライディーは小切手を懐に入れようとするデイジーの手からそれをひったくると、金額も見ないまま、これ以上はできないくらい粉々に引き裂いて、銀の盆の上に盛った。
「な、何をするのよお姉ちゃん! これ以上居座り続けるほうがよほど失礼だわ」
 デイジーは両の瞳に涙をためた。
「お金なんか一ペニーも要りません! その代わり、もう一度だけ降霊会をやらせてください!」
 ブライディーは叫んだ。

「あたしは… あたしはもう二度とヴァネッサ様の霊を降ろしたりしないからね!」 デイジーはブライディーに向かって大声で言った。それからヨーク公の執事のほうを振り向いて小声でこうつけ加えた。「…だから、小切手を再発行してください」
「デイジーさん、貴女、つい三分ほど前と、まったく違うことをおっしゃっていませんか?」
 ポピーがおずおずと尋ねた。
「やかましいわね。『君子は豹変する』の。無理してヴァネッサ様の霊と戦って、万一負けちゃったりしたら大変でしょう? それよりも目の前の大金よ。貴女がたが要らないというのだったら、あたしが全部もらっておいてあげるわ!」
「デイジー、わたしも決心したわ。貴女はもう一度降霊会をやるの」 ブライディーはしゃがんでちっちゃなメイドさんの目をまっすぐに見つめながら穏やかに言った。「でないと、このままでは公爵様があまりにもお気の毒でしょう?」
「お気の毒なんかじゃない。本人がお坊さんになるつもりだったら、それでいいじゃん」
「三分前に言っていたように、貴女はもう一度ヴァネッサ様の霊を降ろすだけでいいの。わたしが天国へ昇らせてみます」
「できるかできないか分からないあやふやなことを言うものじゃないわよ、お姉ちゃん。シスター様にお説教されなかった? …クロウリー様やアルハザード君や、安倍君ならばいざ知らず…」
「でも、このままだったら公爵様もヴァネッサ様もお幸せとはほど遠いし、せっかくわざわざやってきたわたしたちも後味が悪いでしょう?」
「後味なんかどうでもいいの! ああ、小切手…」 デイジーは粉々に引き裂かれた紙を手のひらに盛ってはらはらと涙を流した。「ああ、明日の一より、きょう十のものが手に入るところだったのに…」
「じゃあこうしましょう。公爵様には本当に心からお幸せになって頂いてから、改めてお志を頂戴する、というのは?」
「だから、あたしがヴァネッサ様の霊を降ろし除霊を試みて、もし上手く行かなかったら、お姉ちゃんが戦うんでしょう? そんな面倒くさいことをしなくても、何もしなくても大金を頂けるところだったのに…」
 これ以上はないくらいにヘソを曲げ、ゴネ続けているデイジーの後ろに、シェフィールド老伯爵が立った。
「わしからも頼むよ、デイジーさん。これでヨークもよく分かったことじゃろう。どんなに愛し合った仲でも、人の気持ちというものは変わるものじゃし、たとえ変わらなくても度が過ぎると重荷になって身動きがとれなくなってしまう、ということが…」
「伯爵様… 伯爵様もきっとあたしに愛想がお尽きになったことでしょうね… せっかくたとえお世辞でも『ご養女に』と声をかけて下さっていたのに…」
 去ろうとするデイジーの肩を伯爵は優しくつかんだ。
「わしはいまも君を養女にできたらいいな、と思っとるよ、デイジーさん」
「えっ?」
 これにはブライディーもポピーもポカンと開いた口が塞がらなかった。
「いまの世の中、君くらいシッカリしていないと、とても渡っていけないと思うよ。君が男の子で、血のつながった息子だったらどんなによかったか…」
「…きっと歴史と伝統あるシェフィールド伯爵家をアッという間に潰してしまうと思うわ」
 ブライディーは思わず独り言を言った。
「何ですって!」
「まぁまぁ、とにかくこのままロンドンに帰られることだけは思い留まってくだされ。もう一度降霊会を行い、ヴァネッサの霊を祓ってヨークを自由にしてくれたなら、ヨークが出すであろう謝礼に加えて、このわしからも同額の謝礼を積み足そう」
「うーん、『成功報酬』かぁ…」
 デイジーの表情が、嬉しいような困ったような、複雑なものになった。
「デイジー、やりましょう! 成功の暁にも、わたしはわたしの取り分は要らない。貴女に差し上げるから…」
「わたしの分も要りません」
 ブライディーとポピーが代わる代わる言った。
「あたしが、ヴァネッサ様の霊を降ろすのは百パーセント確実。心配なのは、あたしが力を使い果たすなどしてそれ以上のことができなかった時、お姉ちゃんがクロウリー様たちのようにササッと除霊できるかどうか、よ… だいたいお姉ちゃんは、いつも『できそうだから』とやってみては返り討ちにあってボロボロにされるんだから…」
「今度は自信があるの。もしも失敗したら、その場で髪を下ろして、ダブリンに帰って尼さんになります…」
「そんなことしてもらっても一ペニーの得にもならないわ! お姉ちゃんの髪の毛が金髪のロングだったら、カツラ屋さんが買い取ってくれるかもしれないけれど。クリスマス前で相場は下がっているでしょうし…」
「では、万一思うような良い結果が得られなくても、半額をすべてデイジーさんに…」
 老伯爵の一言で決着が付いた。
「よっしゃあ! 頑張るわよ!」
 ちっちゃなメイドさんは両足を大きく開いて、両腕をまくりあげ力こぶを作ってみせた。

 数日後の夜、前回と同じ、ヨーク公邸内の思い出の白亜の館で、二度目の降霊会が行われることになった。夕方から降り出したこの冬最初の本格的な雪が、次第に大地や木立や建物の屋根に降り積もり、すべてを白く塗りつぶしていった。
「ああ、ロンドンも雪が降っているのかしら? ドイル様たちは風邪など引いておられないかしら… 『英国心霊研究協会』のお屋敷は、ちゃんとなっているかしら?」
 ブライディーは、お屋敷の図書室から借りだしてきた数冊の魔法に関する本の、自分が栞をはさんだページを読み直しながらつぶやいた。
「これから大切な大一番だと言うのに、感傷にに耽らないでね」 デイジーは新たに作らせた、今度は漆黒の式服を着て胸を張った。「何もかも失敗したあたしたちを見て、ドイル様たちが笑顔で『お帰り』とねぎらって下さると思うの?」
「デイジーさん、こんな時に何ですが、お取り込みにまぎれて贅沢が過ぎませんか?」 ポピーが小声で耳打ちした。「わたくしたちは、ロンドンに帰ればただのメイドなんですよ」
「相手は大・大・貴族様たちなのに、同じ服なんか着ていられないわ」
「しかし降霊会は闇の中で…」
「霊は、暗闇の中でも目がお見えになるのよ。…特に今回の場合は若き公爵夫人ヴァネッサ様の霊。それで、術者のあたしが、前回と同じ服なんか着ていたら、心の中でせせら笑われてしまうかもしれないでしょ?」
「そんなものでしょうか…」
「ウエストミンスター、カンタベリーの両大司教様の冠ご法衣を例に挙げるまでもなく、押し出しというものは大切なの」
 デイジーは、執事から渡された翌朝のロンドン行きの汽車の特等車の三人分の切符を内ポケットに取り込みながら言った。
(これはコッソリともうちょっと安い席に交換して、差額は… なあに、座って眠れるのならどこでも一緒よ)
 夜は更け、長い蝋燭も次第に短くなった。
「お姉ちゃん! そういうことはメイドを呼びつけてやらせる!」
 ブライディーが自分で暖炉に石炭を継ぎ足そうとしているのを見たデイジーが一喝した。「これから、すべてを成功させたら、ヨーク公爵様も、シェフィールド伯爵様も、ご養女にしてくださる計画を再びお採り上げ下さるかもしれないでしょう?」
「デイジー、粉をかぶったカラスが鳩の中で暮らせると思ってはいけないわ」
「お姉ちゃんたちはシンデレラの話を知らないの? ドイツの田舎の貧乏貴族の娘からロシアの女帝になられたエカテリーナ様の話は?」
 吹きつけ始めたはじめた雪が窓をすべて白く染め、ヴァネッサお気に入りの花柄の分厚い冬のカーテンが、ほんのかすかなすきま風邪に揺れ出す頃、ヨーク公とシェフィールド伯爵が連れ立って現れた。ヨーク公の頬はメイドさんたちが来た時とは比べものにならないほどゲッソリと痩せこけて気の毒なくらいだった。一回目の降霊会でショックを受けた伯爵老夫人は欠席する、ということだった。 ヨーク公は、まるで持病持ちの老人のように、主賓の椅子にドサッと腰を下ろした。
「公爵さま…」
「終わるまで、何も言うまい…」
 ヨーク公は駆け寄ろうとしたブライディーを制して言った。
「しっかりなさってください」 水晶玉を前にして深々と腰を掛けたデイジーは蜂蜜のリキュールを悠然と飲み干した。「…亡くなられた奥様と、生きているご自分と、どちらが大切ですか?」
「本当に大丈夫なんだろうね? ヴァネッサがこだわっているのは僕のはずであって、君たちではないのだから…」
「お気が変わらないうちに始めましょう…」 デイジーが目配せすると、ポピーが蝋燭を消して回った。暖炉は少し前に消されて丁寧に灰を掛けられ、ぼんやりとも輝くなくなっている。文字通りの真っ暗闇になった。
「ヴァネッサ様、公爵様がもう一度だけお話をしたいと申されておられます。なにとぞ、いま一度、お出まし下さいますように…」
 しんしんと冷え込む空気を割り裂くようにして、ヴァネッサが再びやってきた気配が感じられた。
「公爵様、死者のわたくしにこう度々会って下さりとても嬉しく思います。できれば、このちっちゃいチンチクリンの霊媒をお雇いになられて、毎晩会って頂けると嬉しいのですが…」
「…………」
 公爵は押し黙ったままだった。
(ひょっとしたら、ご養女は無理としても、専属の霊媒としてずっと雇って頂けるかもしれない…)
 にんまり頬が緩みかけたデイジーのお尻をブライディーが思い切りつねった。

「公爵様、何かおっしゃってください…」
 ブライディーがヨーク公の耳に囁いた。
「あ… ヴァネッサ、それが…」
 聡明で快活なヨーク公は言葉に詰まり、何も言えなかった。
「前回も気になっていたのですが…」 ヴァネッサはブライディーを恐ろしい目つきでギロリと睨んだ。「老伯爵様と、どブスの霊媒はともかく、このメイドは一体何者なのですか? 言うのも汚らわしいことですが、姿形だけはわたくしにほんの少しだけ似ていないこともないようですが…」
「それは…」
 闇の中のヨーク公の顔は、光茸のように一層蒼白になった。
「…よもや、とは思いますが、まさかこの下賤の者を、ただほんの僅かにわたくしの面影を留めているというただそれだけの理由で、お手元に置かれるつもりではございませんでしょうね?」
「違う!」 ヨーク公は高熱に震える病人のように、首を横に振った。「そんなことは露ほども考えてはいない」
「では、重ねてお問い申し上げますが、何故彼女は大きな顔をしてこの場にいるのですか?」
「ヨークは後添えを望んでおるのだよ」
 老シェフィールドの伯爵が静かに口を開いた。「…ヨークは、容姿性格とも例えほんの少しでもおまえの面影を留めている女性にこだわっておったのじゃ」
 たちまちヴァネッサは目は赤く血走ってつり上がり、メデューサのように髪の毛を振り乱した。
「何ですって! …わたくしと甲乙付けがたい高貴な身分の女性ならまだしも、こんな端女を? 信じられません! 公、嘘だとおっしゃってください! これは何かの間違いなのだ、と…」
「いや、嘘ではない! 確かに最初はそのつもりだった。だが、考えが変わった。おまえが僕のことをこんなに思い続けてくれているなんて…」
「許せません! わずか一年ほどで、これ以上の裏切り、心変わりがあるでしょうか?」
 ヴァネッサは長く醜く爪を伸ばした干からびた両手を公に向かって伸ばした。「ご背信、万死に値しますわ!」
 獣のような爪が公に迫り、喉を引き裂こうとした。公は金縛りにあったように椅子から立ち上がれないままでいた。
 あわや、という時、ブライディーがヴァネッサの腕を掴んで押し戻した。
「何をする! 邪魔立てすると、おまえから地獄へ突き落とすぞ!」
「あわわ…だから言わないこっちゃない!」
 デイジーは何度もドレスの裾を踏んづけて転びながら、這うように部屋から出て行った。
「ヴァネッサ様、ご執着は痛いほどよくお察し申し上げますが…」 ブライディーは静かに言った。「お悲しみを表される手段としては、もう十分なのではございませんか?」
「おのれ! メイドの分際で、わたくしに意見をするのか! もはや、断じて許しません!」
 つむじ風のような、かまいたちのような烈風が部屋の中に吹き荒れた。かわいい花柄に包まれたシートやクッションや、ターナーやコンスタブルの名画はズタズタに裂け、ガレの花瓶や窓カラスは粉々に砕けた。
「公爵様、伯爵様! どうかなさいましたか? なにとぞドアをお開けください!」
 廊下から執事たちの叫び声が聞こえてきた。
「だめだわ! もの凄く強力な結界だわ。あたしの力をもってしてもどうにもならないわ。逃げさせてもらうから、悪く思わないでね! あー、だからお金だけもらってすぐに帰ればよかったのに…」
 デイジーの声が聞こえた。
 公と老伯爵は両手で飛び散る破片から顔を守ろうとしたが、ブライディーはヴァネッサをキッと正視したまま、一歩一歩近寄った。
「…ヴァネッサ様、貴女も愛する公と引き裂かれて、お苦しみになったのではございませんか? そこで、わざと公から嫌われるようなことをなさっておられるのではございませんか?」
「何だと?」
「何じゃと?」
 ヨーク公と老伯爵は思わず顔を隠していた両手を下げた。
「笑止! こうなればおまえはもちろん、公も許さぬ!」
 ヴァネッサはテーブルの上にあった銀のペーパーナイフを取り上げると、逆手に強く握り締めてブライディーめがけて振り下ろした。
「おやめください、ヴァネッサ様! 貴女は生前はそのようなおかたではなかったはずです…」
 抵抗せず、懸命にまっ暗闇の部屋の中を逃げ回っていたブライディーだったが、ついにじりじりと壁際に追い詰められた。

「わたくしと公のあいだを邪魔するものは、こうしてやる! この野良猫の泥棒猫!」
 ヴァネッサは紙ナイフを思い切り振りかぶってメイドさんの胸元に突き立てようとした。 と、その時、ヨーク公が身を翻して躍り出て、妻の亡霊が手にしていたナイフをハッシと受け止め、ねじりあげてもぎ取った。
「いい加減にしないか、ヴァネッサ! 僕は君との愛は永遠で不滅だ、と思っていた。しかし、こんなことが続いたらそれも考え直さざるを得ない…」
「ヴァネッサ様、一世一代の素晴らしいお芝居でした」
 それまで半分恐怖に怯え、半分冷静に成り行きを見守っていたポピーが始めて口を開いた。
「…わたくし、使用人たちのあいだを回って調べました」 ポピーはドイルの真似をして書き込み続けている「探偵手帳」を開いて言った。「…生前のヴァネッサ様がお芝居にとてもご興味をもっていらしたことを。それも、見るほうではなく、演じるほう…つまり女優に。けれど、ヴァネッサ様は公爵夫人。それこそ生まれ変わりでもしない限り、舞台の上で役を演じることなど万が一にもあり得ないことです。しかし公が、亡き自分の面影の似た女性にこだわりだしたのを見た貴女は、文字通り一芝居打つことを思いつかれたのです。嫉妬に狂った亡霊を演じれば、残された夫も愛想が尽きて、自分のことを早く忘れて下さるのでは、と…」
「ヴァネッサ、いまのことは本当なのか?」
 ヨーク公はヴァネッサを見つめて尋ねた。
「ポピー、真実を暴露してしまうのは、時と場合によるわ。せっかくのヴァネッサの、いままでのご苦労が…」
「そうですね。わたしにはヴァネッサ様があまりにもお気の毒で…」
 ポピーは手帳を閉じ、目を伏せて下がった。「何をたわけたことを! わたくしはあなたたちが思い描いているほどの善良な女性ではございません!」
「もしも…」 ブライディーはポピーの耳に囁いた。「…貴女がいま言ったことや、わたしが思っていたことが間違っていなければ、ヴァネッサ様の怨霊を退散させるためには、ちゃんとした呪文なんかは必要ないはず。それらしい呪文、それらしい印を切れば、消えてくださるでしょう…」
「ええ、わたくしもそう思いますわ」
 ブライディーは、十字架の基督や、聖母子の像に願をかける時のように両手を胸のところで組み、心から
(どうかヴァネッサ様が安らかに天国に行けますように)と祈った。
「ヴァネッサ、再々呼び出したことは悪かった。謝る。この通りだ。どうか安らかに眠ってくれ」
「何と申されてもこのメイドだけは許す訳には参りません!」
 うら若き公爵夫人の怨霊は、青白い地獄の業火を従えてなおも迫ってきた。
 とて、その時、部屋の中に次元の渦が、紅茶に入れたミルクのように渦巻いたかと思うと、息を切らしたデイジーが現れた。
「デイジー!」
「デイジーさん!」
「あー、だから言わないこっちゃない! でもさすがに強力な術を立て続けに使うと疲れるわ」
「何だ小さなブスでチンチクリンの霊媒! ブスは見逃してやるから、さっさと立ち去れ!」
 ヴァネッサはデイジーのほうを向き直り、吐き捨てるように言った。
「そうはいかないわ! 貴女を除霊すると、満額の報酬が手に入るのよ!」
「なに、金が目当てか。下らぬ! つまらぬ!」 ヴァネッサが骨と皮だけの手を天井に差し向けると、チャリーンチャリーンと音を立ててソヴリン金貨の雨が降ってきた。「公爵邸の金蔵の金貨だ。いくらでも好きなだけ持っていくがいい!」
「デイジー、人様のお金よ! 手を付けたら泥棒よ!」
 ブライディーは金切り声を上げた。
「お黙り! メイド! この金はわたくしの持参金だ。どこの誰に恵んでやろうと勝手のはず!」
「そうですか。ではご遠慮なく…」
 デイジーは床に落ち散らばってかすかにキラキラと輝いている金貨を拾い集め始めた。
「デイジー!」
「デイジーさん!」
 ブライディーとポピーは眉を吊り上げたものの、デイジーはまったく頓着しなかった。
「あの、ブライディーさん…」 ポピーは探偵手帳を後ろ手に隠しながら囁いた。「…ひょっとしたら、ヴァネッサ様が怨霊になって現れたのは、みんなに嫌われるためのお芝居では『ない』のかもしれません…」
「えっ?」
 ブライディーは息を呑んだ。
「…つまりその… 本気でヨーク公とブライディーさん、貴女を祟り殺そうとされているのかも…」

「こんなになるのだったら、やはりセアラ様かアレイスター様か、サダルメリク君か、安倍薫さんにお願いするか、予めもっと入念にご教授して頂いてもらっておくべきでしたわ…」
 再び新たな、今度は青白い炎を上げて燃え上がる冥界のナイフを握り締めたヴァネッサの怨霊が迫ってきた。ブライディーはポピーをかばうように抱きしめると、背中を向けた。
「ヴァネッサ、同じことを言わせるな! 芝居にしろ、そうではないにしろ、いい加減にしたまえ!」
 それまでほとんど呆然としているだけだったヨーク公は、暖炉の上に交差させて飾ってあった骨董品の古い銀のサーベルを取り外してヴァネッサに向けてまっすぐに構えた。
「公、あれほどわたくしの死を悲しんでくださり、嘆き、涙を流してくださった公が、わたくしに刃をお向けになるのですか?」
 ヴァネッサははじめて大きく目を見開きたじろいだ。
「ヴァネッサ。この者たちに甘言に乗せられて、二度も呼び出してすまなかった。謝りが足りないというのなら何度でも謝る。この通りだ」 公はまた深々と頭を下げた。「もう当分降霊会をしたりはしない。再婚も…数年はしないと約束する」
「数年後は?」
「その時はその時でまた考えることにしよう。…だから頼む、この場は鉾を収めてくれ」
 長い長い沈黙が流れた。
「…分かりました。公がそうおっしゃるのなら、妻として従わない訳にはいかないでしょう…」
 ブライディーとポピーはヘナヘナと絨毯の上に崩れるように座り込んだ。
 ヴァネッサはナイフをテーブルにドンと突き立てると、現れた時と同じ闇深い空間に後じさって去った。
 このナイフは、灯りを付けても翌朝太陽が昇っても、消えることなく憎悪の炎を燃え続けさせた。公の回りの者は「今度こそ一流有名な除霊師を呼んで、とりあえずこのナイフだけでも消し去るように」と勧めたものの、公はなぜかずっとそのままにしてあるらしい…

 翌日、ブライディーとポピーとデイジーはすっかりしょげかえったまま、滞在中だったシェフィールド老伯爵の屋敷を辞去した。
「お金は一切ご辞退申し上げましょうね」
 口を酸っぱくして言ったブライディーだったけれど、デイジーは
「あたしは、あたしのやるべきことはちゃんとやったのに…」
 と泣きじゃくって、結局、約束の半金を手に入れた。
「本当にいろいろと有難う、懲りていなかったらまた是非遊びに来てくれたまえ」
 老伯爵も久しぶりにホッとした様子で白いひげをなでた。
「はい。ぜひ…」
「デイジー、本気にしてはいけませんよ」
 大きなメイドさんは小さなメイドさんの耳に囁いた。
「何よ偉そうに! お姉ちゃんはまた経歴に大きな失敗の記録をつけ加えただけの癖に… お姉ちゃんが年取ってお金に困って借りに来ても、あたしは一ペニーだって貸してあげないからね!」
 ブライディーは。せっかく前もって入念に占ってあった、「ヨーク公と相性のいい」なおかつ「その女性のほうも公のことを思っているであろうと思われる女性」の名前を書いた紙片は手にしたまま、老伯爵に渡しそびれてしまった。

「ただいま帰りました…」
 なかばほうほうのていでロンドンの「英国心霊協会」のお屋敷に帰り着いたメイドさんたちだったが、なぜか屋敷の玄関のドアを開けた途端ツンと饐えたような臭いが鼻をついた。
 あわてて台所に回ってみると、「何か料理を作ろうとして、うまくいかず、さらによく洗えていない鍋やフライパン」がそのままに掛けてあり、吹きこぼれの跡もそのままになっていた。お屋敷全体にうっすらと埃が積もり、床や絨毯も掃除された気配がなかった。
「やぁ、みんなお帰り。『ご養女修行』は楽しかったかい?」
 パイプをくわえたドイルだけは、出かけたときと同じ明るい笑顔で迎えてくれたけれども…
「ドイル様、三人が三人とも、長くお休みを頂いて有難うございました」
 ブライディーとポピーは深々と、デイジーはペコリと頭を下げた。
「ヨーク公から手紙を頂いたよ。非常によく頑張ってくれたらしいね」
「いえ、ご期待に十分添うことができずに、申し訳ございませんでした」
 ブライディーは半ば泣きべそをかきながら言った。
「でも、とても楽しかったです。もしもまたこのようなご縁があったら、と思います」
 デイジーだけは、元気な笑顔だった。

 次のエピソードに続きます…





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