ブライディー・ザ・マジックメイド)
 「ラキシス最後の旅」

 このお話は「女神たちの森」の続編になっています。未読のかたは先に読んで頂ければ幸せです…


「いましかない! いましかないんだ!」
 その激昂ぶりは、ブライディーやデイジーやポピーが「英国心霊研究協会」のお屋敷にやってきて以来、初めて聞くものだった。
 いや、ブライディーに至っては「白詰草亭」の酔っぱらい同士の喧嘩でも、ウォーターフォード男爵邸での男爵様とフィオナ様との親子げんかでも、こんな大声は聞いたことがなかった。
 なにしろ、一番いい応接間の分厚い樫のドアがピッタリと閉まっているというのに、廊下にまで響くのだ。こんなことは初めてだった。
 中にいるのは、四十代半ばの協会会員のヒューゴー卿と、ドイルの二人きりだった。
 ヒューゴー卿は温厚篤実、家庭では一人娘のよき父親で、社交界でもごくこぐ普通の貴族。ゴルフをたしなみ、競馬に出かけ、お酒はほどほど。メイドさんたちは卿が諍いを起こしたり、議論しているところを、これまで一度も見たことがなかった。
「…いまさらこの、君が書いた昨春の『アイルランドへの妖精の調査の秘密の報告書』は、まったくの嘘八百でした、とでも言うのか?」
 ドイルが答えているらしい間があった。
「頼む! ドイル君。君も三人の子供の父親だろう? わたしには子供は一人しかいない。…一人娘のラキシスだ。君も何度か会って知ってくれているだろう? 父親のわたしが言うのも何だが、とても気だてのよい、やさしい子だ。それが…」
 後は聞き取れなくなった。
「お姉ちゃん、買い物か何かに出て行ったほうがいいみたいだよ」
 お茶のお盆を持ったまま廊下に立ちつくしていたデイジーが、通りがかったブライディーに言った。
「なぜ?」
「お姉ちゃんは去年、ドイル様の案内役で、アイルランドを旅行したでしょう?」
 大きなメイドさんの脳裏に、奥深い森の中の魔女の隠れ里と、そこで知り合ったとても哀しい子のことを思い出した。
「どうやら、あの旅行のことが話題になっているらしいわ。ドイル様はしきりに何かをお断りになっておられるみたい…」
「ドイル様が? 確かにドイル様は成功された作家でいらっしゃるけれども、ヒューゴー卿様のご資産は、桁違いでしょう?」
「だからぁ、そんな問題じゃあないみたい」
 ちっちゃなメイドさんは首を横に振った。
「『そんな問題』じゃなかったら、一体どんな問題なのかしら?」
「もういい! もはや、君とはこれまでだ!」
 ダダッと席を立つ気配がしたかと思うと、部屋側と廊下側両方に開くドアがパァーンと廊下側に開かれた。デイジーは道化よろしく素早く巧みに開け放たれたドアの陰に隠れた。
「やぁ、君は… ブライディーとか言ったね?」
 メイドさんは久しぶりに見る卿の髪の毛がめっきり白くなり、頬が痩せこけているのに驚いた。
「はい…」
「ドイル氏と一緒に、アイルランドに妖精の調査に出かけたメイドというのは君だったね? …報告書の中では仮名になっているけれども…」
「はい…」
「ブライディー、答える必要はない!」
 応接室の真ん中に腕組みして立ちつくしたままのドイルは、非常に険しい表情て言った。「はい…」
「頼む! 十分間でいい! わたしの話を聞いて欲しい!」
 ヒューゴー卿は懇願した。
「聞く必要はない!」 ツカツカと歩み出たドイルは、二人のあいだに立ちふさがった。「…彼の願いは、決して聞き届けてはいけないものだ!」
「ドイル君、わたしはもう君には頼んではいない!」
「お二人とも、落ち着いてください! …デイジー、ウィスキーをショット・グラスで二人分持ってきて!」
 今度はメイドさんが二人のあいだに入った。
「はい…」
 デイジーは風を切って走り去った。
「ドイル様、どうして卿のお話をお伺いしてはいけないのですか?」
「それは…」 ドイルは口ごもった。「…いくら聞いても、どう考えても聞き届けられないものだからだ」
「どうしてそんなことが言い切れる? 君の意見と、このメイドさんの意見は違うかもしれない」
 卿は言いようのない哀しげな表情で言った。

「ブライディー、お断り申し上げるんだぞ、キッパリと」
 ドイルの言葉を背に、メイドさんはヒューゴー卿と応接間に入った。デイジーが新たに淹れてきたお茶をテーブルの上に置いた。
「相手が別人だとはいえ、まったく同じことを二度話すのはうんざりする。ましてや辛いことならなおさらだ」
 卿はデイジーがパタンとドアを閉めて去るのと同時に切り出した。
「一体何事でございましょうか?」
「わたしの一人娘ラキシスは、最近医者たちから『残念ながら、余命いくばくもございません。どうか好きなことをやらせてあげてください』と言われてな」
 ブライディーは思わず卿の目を正視した。嘘をついている者の目ではないことが分かった。
「きみたちの報告書によると、アイルランドの深い森の奥に、魔女が支配する処女だけが棲む村があり、そこでは少女たちが永遠の命を与えられて暮らしているそうじゃないか?」
 卿はドイルが、協会の重鎮たちだけに提出した報告書の写しを示した。
「はい。しかしいったん契約を結んだが最後、村の外に一歩でも出ると、塵になってしまうのです」
「それでもいい!」 卿はうなるように言った。「それでもいいんだ。わたしにとって、ラキシスがこの世界のどこかで生きてくれていさえすれば… それに、外からは時おり面会に行けるようだ。現に君たちはその村を訪問して、無事に帰ってきているじゃあないか?
 そんな素晴らしいところがあるのなら、わたしと同じような立場の親たちは、ぜひ娘をそこに預けたいと思うのではないだろうか?」
「しかし、相手は魔女です。それも大変気むずかしい… その魔女が、常人の頼みに簡単に首を縦に振るとは、とても思えません」
「『好みがある』というのは承知している。立場が逆で、わたしが頼まれるほうだったとしても選り好みはするだろう。その魔女、グエンドリンに断られたら、その時はラキシスも、わたしもきっぱりと諦めることを約束する。だからお願いだ。娘とわたしを、ぜひその村に…君の不思議な力をもってしかたどり着けないその村に、連れて行って欲しいんだ!」
 ティーカップの中の紅茶が波だった。
「そう申されても…」 メイドさんは困り果てた表情になった。「村はあの時、たまたま行き着くことができたところで、今度再び行こうとしても、行けるものかどうか、まったく自信がございません。グエンドリン様が新たな強力な魔法で、村を覆い隠してしまっているかもしれません」
「その場合も諦める。だから…」
「第一に、ラキシス様は、村で永遠に暮らされることを承知されているのでしょうか? わたしが知り合った子は、外の世界に戻りたくて戻りたくて、どうしようもなくなって…」
 ヘレンのことを思い出し、ブライディーは涙ぐんだ。
「ラキシスは『死んでしまって何もなくなってしまうくらいだったら、ぜひその村で暮らしてみたい。仮にそこが嫌になって逃げ出して塵になったとしても、元々そうなる運命だったのだから悔いはありません』と言っている」
「女の子たちはみんな、偶然に村に迷い込んだ子たちのようでした。それをこちらから訪ねて行くなど、神様に逆らうことでは…」
 ヒューゴー卿はいきなりガバッと立ち上がってメイドさんの肩を鷲づかみにつかんだ。
「ヒッ」
「わたしも、ラキシスも、地獄に堕ちても構わないと思っている。もしも断るのなら、自暴自棄になってしまうことを、自分でも止められないような気がする…」
 卿は低い恐ろしい声で言った。
「…おやめください。わたくしがお受けしても、ドイル様が… あなたがたを村に送り届けたあと、わたしが戻る場所がなくなってしまいます…」
「一生遊んで暮らせるだけの金を、前払いで払ってやろう。さぁ、これで心配はないだろう?」
「ラ、ラキシス様にお会いして直接お話をお伺いしたいです。ご返事はそれからでないと…」
「もっともだ」 卿はパッとブライディーを離した。「近々機会を設けるので、ぜひ、お互いに納得がいくまで話し合おう。君だったら、必ず理解してくれるはずだ」

「ブライディー、ヒューゴー卿のお話しは、きちんとお断りしただろうね?」
 お気に入りの安楽椅子に、いつもよりぞんざいな座りかたをしたドイルは、眉間に皺を寄せたままパイプにタバコを詰めながら尋ねた。
「近々… ラキシス様とお会いする約束を… してしまいました…」
「なんだって!」 ドイルはパイプをサイドテーブルに投げ出した。タバコの葉がパラパラとテーブルの上に散らばり、カーペットの上にもこぼれた。「莫迦な! 何という勝手なことを!」
「ドイル君、まぁ落ち着いて」 小脇に図鑑のような書物を抱えたウォーレス博士が、いつもの穏やかな口調で言った。「ブライディーさんがああでも言わないことには、ヒューゴー卿は帰らなかったと思いますよ。心配しなくても、ブライディーさんはラキシス嬢を説得してくれるでしょう」
「先生はいつも楽天的ですね。どうしたらそんな考えかたができるようになるのですか?」
「きみこそなぜ、ブライディーさんを信じてあげないのかね?」
 ドイルは言葉に詰まった。

「有難うございます」 ウォーレス博士と廊下で二人きりになったメイドさんは深々と頭を下げた。「…しかしわたくしは、ラキシスお嬢様に、お諦めになるように説得する自信がございません」
「無理に説き伏せたりしなくていいと思うよ」 博士はいつもと変わず飄々としていた。
「…ヒューゴー卿と、ラキシス嬢と、きみの三人で、アイルランドの魔女グエンドリンの森に行けばいいんだ」
「そんな…」
「ドイル君があの報告書をつくってごく一部の者に配った時から、遅かれ早かれこうなることは分かっていた。『愛は盲目』というからね。ドイル君にしても、もしも自分の娘がそのような運命に陥ったら、同じことを考えるだろう。もちろんわたしもだ。それが親というものではないだろうか。ドイル君もよく分かっているはずだ」
「そうでしょうか…」
「そういうものだ」
 ウォーレス博士はポツリと言った。

 ロンドン郊外、ヒューゴー卿の屋敷。
 鮮やかな新緑に囲まれた、南向きの、窓の大きい明るい花柄の壁紙に囲まれた部屋では、デイジーよりも小さい、天使のような金髪の巻き毛の少女が、高そうな人形や縫いぐるみに囲まれ、ちょこんとベッドに座っていたが、メイドさんの姿を見るとパッと顔を輝かせて走り寄ってきた。
「ブライディーお姉ちゃん! お姉ちゃんがあたしをアイルランドの、とっても空気のいい別荘に連れて行ってくれるのね!」
「ラキシスお嬢さま…」
 ブライディーはあれこれと考えてきた言葉をすべて失ってしまった。
「連れて行ってくれるんでしょう? わたしの病気がすっかり良くなるところへ? グエンドリン様とおっしゃる優しいおばさまや、お友達がいっぱいいるところへ」
(あのグエンドリン様が「優しいかた」かどうかは何とも言えないけれど…)
 メイドさんは忘れようとしていたことを、また思い出した。
「そうですね…」
 ラキシスの無邪気な、屈託のない笑顔をみているうちに、自分もいつしか自然に微笑んでいた。
「そうですね…」
「エミリーや、ほかのお人形たちも連れて行っていいのかな? お気に入りのドレスも持っていっていいのかな?」
 エミリーもまた、主人と一緒にメイドさんを見上げた。
「さぁどうでしょう。あまりたくさん、いろんなものは持っていけないのではないでしょうか…」
 ブライディーは腰をかがめて答えた。
「そぉぅ? …でもお父さまがすぐ近くに住んで、週末ごとに訪ねてきて下さるから、あたし、寂しくなんかないわ」
(グエンドリン様がそんなことを許されるでしょうか? …いや、そもそもラキシス様を受け入れてくださるかどうかも分からないのに…)
 不安はさらに渦巻いたものの、当初の説得を切り出す気もなくなってしまった。
「グエンドリン様はあたしやエミリーを気に入ってくださるかなぁ」 磨き上げた窓ガラスに映るラキシスの顔色に、かすかに、ほんのかすかにタナトスの気配が宿っていた。
「あたしを愛してくださるかなぁ…」

(わたしはグエンドリン様ではないから、何とも申し上げられない…)
 ブライディーがそろそろ辞去しようと思った頃、ラキシスはエミリーを抱いたまま揺りかごのような、子供用の籐の椅子に座ってうつらうつらし始めた。
(よかった。いまのうちに…)
 そろそろと足音を忍ばせて立ち去ろうとしてふと立ち止まったブライディーは、奇妙な感じがして立ち止まった。
(ラキシス様が息をしていない!)
 駈け寄って口元に手を当てても息はなく、心臓に耳を当てても鼓動は聞こえず、脈もなかった。
「ラキシス様! ヒューゴー卿様! 皆様!」
 扉を開け放って大声で叫ぶと、卿が駆け込んできた。
「ラキシス! ラキシスしっかりしろ! アイルランドに行くんだろう? お父さんやエミリーと旅行をするんだろう? ブライディーさんに案内してもらうんだろう?」 父は娘を必死に揺り起こした。「…かわいいエルメスの旅行鞄も買っただろう? 旅行用のドレスや帽子も、いくつも買っただろう? お父さんも新しい写真機を買った。ぜひ行こうじゃないか、アイルランドへ! 汽車に乗って、船に乗って、馬車に揺られて!」
 こんなに揺り動かしては、よくないのではないかと思うほど、細い首をがくがくと振ると、ラキシスは細く目を開いた。
「お父さん…」
「ラキシス、よかった!」
 卿は背骨が折れてしまうくらいラキシスを強く強く抱きしめた。
 お抱えの医師や看護婦たち、召使いたちも飛んできた。卿はブライディーの肩を抱くようにして控え室に下がった。
「驚かせてしまってすみません。まさか、貴女がいらしている時に起きるとは思いませんでした」
「失礼ですが、あれがラキシス様のご病気なのですね?」
 メイドさんは卿が差し出したコップの水を飲み干して尋ねた。
「ご覧になられた通りです。最初はこちらの心臓が止まるほど驚きました。無論、密かに何人もの高名な医者たちの診察もあおぎました。が、医者たちはみんな首を横に振るばかりで、誰一人原因を見いだせず、有効な治療法も見いだせませんでした。ただ、分かっているのは発作はそれ以降たびたび続き、間隔は次第に短くなり『ラキシスが死んでいる時間』は次第に長くなっている、ということです。このまま何もしなければどうなるか…ということは素人でも容易に推察できます」
「お気の毒です…」
「一緒にアイルランドに行って頂けますね? グエンドリンさんのいる森まで案内して頂けますね?」
 卿はブライディーの手を取って懇願した。
「わたくしの『力』にも限りがございます。前回偶然辿り着いたとは言え、今回もうまくその場所を見つけ出せるとは限りません…」
「その時は娘もわたしも諦めます」
「仮に無事に到着できたとして、グエンドリン様が『招かざる客』に対して何とおっしゃるかも分かりません…」
「その時も諦めます。…お願いです、ブライディーさん、娘とわたしにチャンスを与えてください…」

「ブライディー、君はこれまで本当に、この心霊協会の会員たちに対して、いや、ぼくに対して尽くしてくれた。改めてお礼を言うよ。だが、それも今日が最後だ」 ドイルは両目をうるませながら言った。「どうしてぼくの忠告を聞き入れてくれなかったんだ?」
 メイドさんはドイルが涙を流すところを見るのは初めてだった。それも、自分のために泣いているところを見るのは。
「まぁまぁ、ドイル君。いまの話を聞いただろう。ブライディーが心を動かされたのは無理もないとは思ってやれないかね?」 ウォーレス博士も、眼鏡の奥の瞳をしばたたかせながら言った。「ヒューゴー卿ご自身も、この旅が心の安息を得るための旅であることを承知しておられる」
「しかし、万一、あくまで万一、グエンドリンの村にたどり着き、なおかつグエンドリンがラキシスを受け入れたら、どうなると思うのです?」 ドイルは顔を真っ赤にして言った。メイドさんはこんなドイルを見るのも初めてだった。
「…いいですか。相手は魔女、悪魔なのですよ。ヒューゴー卿は、愛娘を悪魔に預けて平気なのですか? いや、それ以前に、神を信じる者が、魔女に平伏するようなことをしていいのでしょうか? そうまでして生きて神の祝福が得られるのでしょうか?」
「ドイル君」 博士はグッと顔を近づけて言った。「そこまで言うのなら、君も卿や、ラキシス嬢や、ブライディーと一緒にアイルランドに行って、成り行きを見届けたらどうだ? …もう五年、いや十年若かったら、わたしも同行させてもらうところなんだが」

 リヴァプールからダブリンへと渡る船の中、ラキシスは、甲板の上を走り回ったり、父のヒューゴー卿のそばに戻ってきたり、帽子の赤いリボンをはためかせながらはしゃぎ回っていた。風はほとんどなく、穏やかな春の光が降り注ぎ、潮風も爽やかだった。
「ラキシス、あまり身を乗り出しては危ないよ!」
 卿までもが血色がよくなり、まるで観光旅行を楽しむ普通の親子連れのように見えた。
 ドイルもブライディーも、他の船客とともに一等甲板で日の光を浴びていたが、その顔は冴えなかった。
「ダブリンでは一、二泊する予定だそうだ。ブライディー、君もまた貧救院に寄ってもいいんだよ」
 ドイルは表情を変えず抑揚のない口調で言った。
「いえ、今回は立ち寄らずにおこうと思います」
 そうすると、老院長先生や(もしいらしたら)シスター・セアラに今回の旅の目的を尋ねられるような気がした。表向きは「気楽な物見遊山」だったが、二人の前では器用に嘘をつく自信がなかった。
「どうして? せっかく来たんじゃないか。院長先生も喜ばれると思うよ。ヒューゴー卿もラキシス嬢も、街の見物を楽しみにしておられる。ラキシス嬢にとっては、目にする最後の都会になるかもしれないしな」
「…………」
「ぼくは去年できなかった古本屋巡りをしようと思っている。卿とラキシス嬢にはお屋敷のお付きも付いておられる。遠慮はいらない。君も自由時間を楽しみたまえ」

 かすかに風にまじる食べ物と汗の匂い。あの懐かしい場末の通りの角を曲がると、小さな教会の小さな塔と小さな十字架と、炊き出しの鍋をかける鼎に組んだ鉄の棒が目に入った。何もかも変わらない光景。施設のお年寄りたちはひなたぼっこを兼ねてチェスや編み物を楽しみ、子供たちはすり切れたシャツの裾をはためかせながら走り回っていた。
 デイジーよりも小さな女の子と、鼻水をたらした男の子たち。メイドさんはその元気な姿に、何年か、十何年か前の自分や「お兄ちゃん」やケリーの姿を重ね合わせた。
 ブライディーのことを知らない若いシスターたちは、教会の祭壇にひざまずいて静かに十字を切るロンドンの香りを漂わせた少女をいぶかしそうに眺めていた。
 古ぼけたイエス様の像も、マリア様の像も、聖人様たちの像も、ゆらめく無数の蝋燭の光も、何一つ変わってはいない。
(どうかお導きください。どうかお与えください。どうかお許しください…と、何回祈ったことでしょう。ご祝福の賜物か、ドイル様や皆様と知り合って、何とか幸せに暮らしています… でも、ラキシス様をグエンドリン様のところへご案内することが罪になるのなら《なりそうだ…》どうしましょう…)
 説教壇のかたわらの書庫には説教集に交じって、幼い子供たちを教え導くための「天国と地獄の様子」や「主のご生涯」「天地創造」や「ノアの箱船」「イサクを捧げるアブラハム」などの何枚かの角が丸くすり切れた紙芝居の束が立てかけてあった。
「ブライディー、ブライディーではありませんか!」
 亡き母に似た声に振りかえると、院長先生が皺だらけの両手を広げて走り寄ってきた。
「院長先生!」
 抱きしめられたメイドさんの瞳から思わずはらはらと涙がこぼれ落ちた。
「今年も帰ってきたのですね。いつも手紙をありがとう。『お兄ちゃん』も元気にアメリカで頑張っているのですね。ケリーは写真家を目指しているそうですね。こちらからの返事は着いていますか?」
「はい… はい…」
「ドイル様はご一緒ではないのですか?」
「ドイル様はお買い物です。わたしには『好きにしてよい』と…」
「貴女も元気にやっていますか?」
「お陰様で…」
「どうかしたのですか? 何か心配事でもあるのですか?」
 蝋燭が一際ゆらゆらと揺れた。
「…そうですか」 老院長先生は微笑みを絶やさずに言った。「約束をしてしまったのなら仕方がありませんね。誠心誠意占って差し上げて、思し召しがあれば『女神たちの森』にご案内して差し上げなさい」
「グエンドリン様が断れればよいとして、もしラキシス様を気に入られたら、わたしは魔女の片棒を担ぐことになるのでは、と…」
「ブライディー、マルタのように仕事が忙し過ぎて御言葉を忘れてしまいましたか?」 院長先生はさらに大きくニッコリと笑った。「『心安かれ、我なり、懼るるな(マルコ6.50)』…たとえ魔女の森であろうが、死の淵であろうが、何処であろうが相手が何者であろうが、『何か許されざることをしでかしてしまうのではないか』と思い詰め恐れおののくことのほうが罪であるとは思いませんか?」

 メイドさんが宿に戻ると、ヒューゴー卿のお付きの人たちが目を伏せ、うつむいて出迎えた。
「ラキシス様がまた息も呼吸もされなくなりまして…」
「だんだんと発作の間隔が短く、床に付かれている時間は長くなります。このままでは明らかに…」
 部屋に入ると、ロンドンから連れてきた医者と看護婦が見守る中、卿が、お気に入りの人形とともにベッドに横たわる愛娘の手を握り締めて振り絞るような声で語りかけていた。
「ラキシス、目を覚ましてくれ。こうしてはるばるアイルランドまでやってきたのだ。ブライディーさんも一緒だ。目的の森は、明日かあさってには着く、というところまで来ているのだ」
 メイドさんは駈け寄って、もう片方の手をとった。ラキシスは蝋細工のような、半透明の青白い顔をしていた。
「ラキシス様、どうか… こんなところで万一のことがあれば、お父様のお悲しみはいかばかりでしょう? お父様がかわいそうだと思われたら…」
「あの…」 ホテルの支配人がおずおずと言った。「…国教会の牧師様をお呼び申し上げましょうか?」
「バカなことを言うな!」 卿は一喝し、支配人は飛び上がった。「…ブライディーさん、何とかなりませんか!」
「実はわたしも、とあるところでラキシス様と同じような状態になったことがございます。 その時は、アレイスター・クロウリー様とおっしゃる知り合いの高名な魔導師のかたが、わたくし愛用のタロット・カードを通じて心の中に入り込んで助けてくださいました」
「クロウリー氏だったら名前は知っている。協会にも時々来ていたかただろう。…が、いまはとても呼びに戻っている時間はない。ブライディーさん、貴女にクロウリー氏と同じことができないだろうか?」
「えっ!」
「頼む! もし成功しなくとも、決して恨んだりしないと約束するから」
 卿は赤く染まった目でメイドさんを見つめた。
「…分かりました。やってみましょう。ラキシス様が大切にされているこのお人形で…」 ブライディーは空いているほうの手でエミリーに触れた。
「さぁエミリー、ラキシス様のことを思っているのなら、どうか手伝ってちょうだい!」

…暖かい春の日が降り注ぐシンメトリーの英国庭園で、人形を抱いたラキシスは、緑の芝で覆われた人工の丘の上に建っている四阿のほうをじっと見上げていた。
「お母様…」
 メイドさんが植え込みの陰に隠れるようにして目を凝らすと、白いシフォンのドレスを着て、同じシフォンの日傘を差した若く美しい貴婦人が柱のかたわらに立っていた。
「ラキシス、こちらへいらっしゃい!」
「いますぐ行きます!」
 少女はよたよたとなだらかな丘を駆け登ろうとした。
「ラキシス様、行ってはなりません!」
 ブライディーは走り寄って人形の手をつかんだ。
「何をするの、離してよぉ!」
「そこの! メイドの分際でラキシスに何をするのですか!」
 ラキシスはあらがい、貴婦人は血相を変えた。
「ラキシス様、あれはお母上ではありません。母上になりすました物の怪です!」
「お母様だよ!」
「姿形はそうでも、正体は醜い化け物です」
「離してよ!」
「ラキシス! そんな人形手放しなさい! 早くわたしのところへ!」
 それを聞いた少女は一瞬凍り付いてキョトンとした。
「だって、エミリーはお母様がご病気を押して作ってくださった…」
 物の怪は不様にも慌てはじめた。
「そ、そんな人形また作ってあげます!」
「だから『そんな人形』なんかじゃないってば!」
「ラキシス様、これではっきりしましたでしょう? 『あれ』は…」
「ええい! なにをごちゃごちゃと…」
 罵りはじめた貴婦人の白いドレスの下半身にポツリと赤い染みが浮かび上がったかと思うと、みるみる広まった。ラキシスもさすがに退きはじめた。
「メイドさんの言うとおりだ。あれはお母様じゃあない!」
「申し上げた通りでしょう?」
 手を引いて逃れながら、ふと振りかえると貴婦人の顔の肉が腐り落ち、髑髏があらわになっていた。
「見てはいけません!」
 同じようにしようとするラキシスのの両眼を、ブライディーは素早く覆った。

 少女は「ホーッ」と言う溜息とともに息を吹き返した。
「ラキシス、ラキシス良かった! 今度こそはもうだめだ、と思った…」
 ヒューゴー卿は男泣きにむせび泣いた。
 少女の顔に次第に赤味が戻ってきた。
「ブライディーさん、有難う。貴女がいて本当に良かった!」
「いえ、何とかできて、お役に立てて良かったです…」
 ブライディーは顔じゅうにうっすらと浮かんだ汗を拭った。
「次、次に発作が起きたら… ダブリンではもう一日休養するつもりでしたが、こうなったらもう一刻の猶予もありません。明日にでもグエンドリン様の村に向かいたいと思うのですが、構いませんか?」
「ええ。わたくしは構いません。きょう教会へ行って祝福も頂いてきました」
「よろしく頼みます」
 ラキシスがゆっくり、ゆっくりと目を見開いた。
「お父さん… ブライディーさん、どうかしたの? あたし、また眠ってしまっていたの?」
「大丈夫だ。大丈夫だよ、ラキシス。何でもない。何でもないんだ。グエンドリン様のところには、都合で明日行くことになったからね。ダブリン見物はできないけれど許してくれ」
「うううん、あたし、早くグエンドリン様にお会いしたいわ」
 ラキシスはエミリーとともにベッドの上に起きあがった。
「もういいのかい? もう少し横になっていたほうがいいのでは?」
「もういいわよ、お父さん。明日乗る馬車はどんな馬車? 田舎の道でガタガタと揺れたりしないかな?」
「総督閣下のご親戚の貴族のかたのをお借りしたよ。揺れたりなんかするものか」
「窓は大きい?」
「ああ」
 卿はまた娘を抱きしめた。

 その夜遅く、ブライディーはドイルの部屋を訪ねた。ドイルは、買いあさり、ポーターに持たせて持ち帰ってきた古本の山に囲まれて読書をしていた。
「ドイル様…」
「どうして行くのか、ブライディー?」
 ドイルは本を開いたまま振り返った。
「はい…」
「例えば、グエンドリンがまた『ラキシスは預かってやるから、その代わりにおまえもここに残れ』など金では解決しない条件を持ち出したらどうする? その時になったら、相手が考える時間をくれるとは限らないぞ」
「ドイル様…」 メイドさんは静かに答えた。「わたくしはもう、求められたこと以外、明日のことは煩わず、占いもしないことにしました」
「そうか… そういう気になるのも分かる…」
 ドイルは立ち上がって、カーペットの上に山脈のように積まれた古本のあいだを歩いて窓際に寄った。カーテンを開くと、ロンドンのそれよりも暗い、しかし落ち着いたしじまが包むダブリンの夜景が広がっていた。
「ラキシスを見ていたら、誰でもそうなるだろう… ヒューゴー卿は貴族の中でも屈指の資産家だが、何もできない… ぼくは読書家を自負しているが、これだけ本が積み上げられているというのに、解決法を書いた書物はどこにもない…」
 十点鐘の鐘が、闇を包むおぼろな霞の中に響き渡った。
 ノックの音がした。
「どうぞ」
 寝間着姿でエミリーを抱いたラキシスが、不安そうな目をして入ってきた。
「あの… もしかしたら、あたしのことで仲良しだったのがそうではなくなってしまったのではありませんか、ドイル様とブライディーさんは?」
「そんなことはないよ」
「そんなことはないわ」
 二人は微笑みながら答えた。が、その微笑みは大人の嘘に覆われていた。
「もしかしたらあたし、グエンドリン様がいらっしゃる森ではなくて、神様やマリア様がいらっしゃる天国に行ったほうがいいのかな…」
 開いていた窓からガラス越しに街の明かりを眺めたラキシスがふと呟いた。
「そんなことはあるものか。どうしてそんなことを言うんだい? お父様が悲しまれるぞ」
 ドイルの声はいつものような自信に満ちてはいなかった。
「だってね、エミリーがそんなふうに言ったような気がしたの。『あたしと一緒に天国へいきましょう』って」
 ブライディーがしゃがむと、人形は
『ねぇ、そうでしょう?』と言いたげな瞳を向けた。

 穏やかな陽光が、薄くかかった雲から降り注ぐなか、幌を掛けた二頭立ての馬車はアイルランドの田園地帯を進んだ。宿場の村のあるところでは必ず休み、付近を散策した。
 村の規模は少しずつ小さくなり、最後に立ち寄ったところはただの一軒家の農家だった。
「お殿様がた。お嬢様がた、一体どこへ行くおつもりですだ?」
 日焼けした麦わら帽をかぶった老婆が、井戸から汲んだ清水でもてなしてくれながら、ゲール語で尋ねた。
「ことらの紳士がたは、ロンドンの考古学者で、ドルメンの研究をしておられるのです」 ブライディーがゲール語で答えた。
「ドルメン? …ああ、妖精のテーブルのことだね。でもな、いまからじゃあ行って帰ることは無理だべ。陽が暮れちまうでな。悪いことは言わねぇ。今夜は村まで引き返して泊まったほうがいいだべ」
「ご忠告有難う。でも、急ぐのです。簡単なキャンプの支度も持っています」
「そんな問題じゃあねぇだ。夜になると魑魅魍魎が出てくるだ」
 エミリーを抱いたラキシスは、ごくこぐとコップの水を飲み干した。
「ああ、おいしい! ロンドンのお水より、どこのお水よりおいしい!」
 すでにヒューゴー卿の従者たちや、医者や看護婦たちは村に残してきており、一行は卿にドイル、ラキシスとブライディーの四人になっていた。
「すみませんが、わたしたちが戻るまで馬車と馬たちを預かって頂けませんか? ついでにお水をもう少し分けて頂けませんか?」
 メイドさんは銀貨を渡して言った。
「いいけんども、やめといたほうがいいと思うよ。妖精のテーブルは逃げて行かねぇだ。 どうしても、と言うのなら、紳士がただけにして、お嬢さんたちはここに残りなされ」
「有難うございます。でも、わたしたちも一緒に見に行きたいのです」
 ヒューゴー卿とドイルは共に、無言でリュックサックを背負った。人形と小さなバスケットを持ったラキシスは、物珍しそうに藁葺きの家を眺めていた。
 一行の目の前には、新緑が鬱蒼と繁る森と、人一人がかろうじて通れるくらいの、つづら折れの獣道だけが続いている。
 薄い雲が太陽を覆い、天気は下り坂のような感じだった。
 ブライディーも、リュックサックを背負った。
「大丈夫か、ブライディー。婆さんの言うとおり、今夜は村に泊まって、明日の朝に出直すことにしてもいいんだよ」
 ドイルはメイドさんの耳に囁いた。
「大丈夫です。急ぎましょう。もう引き返すことはできません」
 一行はブライディーを先頭に、ドイル、ラキシス、ヒューゴー卿の順番で森のなかに分け入った。
「大丈夫かい、ラキシス。しんどくなったら言うんだよ。お父さんがおんぶしてあげるからね」
 卿はしゃがんで愛娘の頭を撫でた。
「だってお父さんはリュックサックを背負っているよ」
「そうなったらリュックはその場に置いていくよ」
 数多の分かれ道ではダウジングの棒を使い、ブライディーはどんどん森の奥に分け入った。 ドイルは木の幹にナイフで傷をつけた。
 小一時間おきに休憩し、水を飲み、用意してきた砂糖パンやクッキーを少しずつ食べた。「お父様、足が痛い…」
「そうかい。じゃあ約束通りお父さんがおぶってあげよう。エミリーとバスケットはブライディーさんに持ってもらいなさい」
 卿は自分のリュックを木のウロの中に隠すと、ラキシスをおぶった。
「さぁ、進みましょう!」
 薄暗い木漏れ日がこぼれる。風が冷たさを増し、メイドさんはリュックの中から薄いコートを取りだしてラキシスに羽織らせた。木立越しに見上げる灰色の空は、どんどんその濃さを増していく…
「もう少し、だと思います…」
 日没まで二時間ほど余して、視界がパッと開けた。森のなかの平地。曇り空の下、野の花が咲き乱れ、蝶や蜂たちが飛んでいた。
「わーい!」
 ラキシス父親の背中から飛び降りて駆け回ったが、ブライディーは浮かぬ顔だった。
「おかしいな、本当にここか? 去年はあった村がないし、人けもまったくないぞ…」
 再び歩み出したドイルがヴェールのように垂れ下がった蔓草を掻き分けると「アッ!」と叫び声を上げた。
 みんなが向う側を覗くと、黒く焼け落ちた家々の柱や梁などの残骸が、点々と残っていた。

「なんだ! 一体どうしたと言うんだ?」
 ドイルはとある一軒の焼け跡に走り寄って、ナイフを取りだし、灰や土を取り除いた。
 割れた皿や陶器の茶器の破片、半分溶けたガラスのコップなどが出てきた。
「火事…ではありませんか? それこそオカルトか迷信か、焼け落ちた村と同じ場所に再建するのは縁起が悪い、ということで、別の場所に移られたのでは?」 ヒューゴー卿は声を少し震わせながら、その場に立ちつくした。「もう一度占ってもらったら、引っ越した先が分かるのでは?」
「どうしたの? お父様、ドイル様、ブライディーさん。グエンドリン様やお友達はいらっしゃらないの?」
 ラキシスはあどけない表情で、エミリーを強く抱きしめながら呟いた。
「大丈夫、ブライディーさんがきっと連れて行ってくれるからね」
 卿はラキシスを連れて、蔦のカーテンの外側に下がった。
「…これは尋常一様の焼けかたではないぞ…」 ドイルは傾いた柱や梁を調べて回りながら言った。
「…どこかで出火して広がった気配も無ければ、油を撒いた跡も、火矢で攻撃された跡もない。何か、火を噴く巨大なフイゴで炎を吹き付けられて一気に焼失したような… それもそんなに前のことじゃあない」
「ご遺体や骨は一つも見あたりません。良かった… 炎は、魔法の炎だったのでしょうか。それとも龍?」
 ブライディーも注意深く歩き回って遺留品を捜した。
「いや、火を噴く大きな生き物が襲来したのなら、足跡が残っているはずだがそれもない」
「一度、あの農家まで戻って、おかみさんに聞いてみたらどうでしょう?」
「そうするか? しかし少女たちはグエンドリンの結界から出れば塵になってしまうんだったな?」
 メイドさんはハッとした。
「…もし、逃げおおせた者がいるとすれば、グエンドリンだけ、という可能性もある。いや、グエンドリン自身も、自ら定めた結界から出ると塵に還る定めで、そうなったのかもしれない…」
「占ってみましょうか、皆様の行方を?」
「そうだな、頼む」
ブライディーはリュックサックの中からケルト神話の神々を描いたタロットカードのセットを取りだして、苔に覆われたドルメンの上に並べはじめた。
 その時、突然一陣の風が吹いて、カードを散り散りに飛ばした。
「あっ!」
 二人は慌ててカードを拾い集めようとしたが、カードは森の奥へ奥へと飛ばされて、半分以上が視界から消え去った。
「ど、どうかしましたか?」 ヒューゴー卿がラキシスの手を引っ張ってやってきた。「…何か分かりましたか?」
「いえ、残念ながら… 今夜はここで野営するしかないでしょう」 ドイルはさらに暗さを増した空を見上げて言った。「食料も水も二食分くらいしか持ってきていません。明日の昼まで調査して何も分からなければ、約束通り諦めて頂けますね?」
 しばらく間があった。
「…そうですね。その時はやむを得ません。ですが、明日の昼まであればまた新たなことが判明するかもしれません。わたしも今夜、できるだけ調べ回ってみたいと思います」
「くれぐれも危険かつ勝手な行動はお慎みくださいよ、卿」
 ドイルはムッとした。
「分かっています。しかし、せっかくここまできて、ということもあるでしょう?」
「お父さん、どうしたの? グエンドリン様やお友達は?」
「ごめんよラキシス。グエンドリンさんやみんなは、ここにはいらっしゃらないみたいだ。今夜はここにテントを張ってキャンプをするから、もう一晩だけ待ってくれないか?」
「わーい! わーい! キャンプだ! キャンプだ!」
 ラキシスは無邪気に走り回った。
 ドイルとヒューゴー卿は黙々とペグを打ってテントを張り始め、ブライディーは焼け残ったかまどの跡に鍋を掛けて、スープかシチューの下ごしらえをはじめた。
「柴が要りますわ。今夜の分と、お料理に使う分が」
「ぼくらが集めてこよう」
 紳士二人が森の中に向かった。
「お姉ちゃん、あたしにも何か手伝わせて!」
 じゃがいもとニンジンの皮を剥いているメイドさんを、ラキシスが覗き込んだ。
「そうね。だったら一緒にキノコ集めを手伝って貰おうかしら。そのあたりにいっぱい生えていると思うわ」

 メイドさんは回りに気を付けながら、籠にキノコを集めた。
「ラキシス様、遠くへ行かないでくださいね!」
「ブライディーさん、これは食べられる? こっちは?」
 少女は病気におかされているとは信じられないくらいに、それこそ妖精みたいに元気に木の根本を飛び回った。
「ラキシス様、わたしが教えたもの以外は触らないで下さいね。触っただけでかぶれるキノコもありますからね」
 示されたキノコを見てブライディーは驚いた。
「ラキシス様、これは非常に珍しく珍味なキノコでございますよ。おそらくお父様もドイル様も食べたことはないと思いますよ。すぐに鮮度が落ちるので、いくら貴族やお金持ちのかたでも、町に住んでおられるかたは食べられないのです」
「へぇー やったぁ!」
 ラキシスは自分が採ってきたキノコを手にして飛び上がった。

「ねぇお姉ちゃん、明日になったらグエンドリン様やお友達に会えるかな?」
 ラキシスは木の筒を吹いて焚き火の火をいこしながら尋ねた。ドイルたちは再び柴を集めに出かけている。辺りにはおいしいシチューの匂いが漂いはじめている。
「お会いできたらいいわね」
 メイドさんは一所懸命笑顔を作った。
「もし… もしもお会いできなかったら、あたしたち、ロンドンに引き返すの? そこであたし、死んじゃうの?」
「そんなに心配しないで。とりあえずしっかり御飯を食べて、今夜はぐっすり眠りましょう。お姉ちゃんが妖精のお話しをして、歌を歌ってあげるわ」
「本当?」
 少女はパッと顔を輝かせた。
「お父様も、ドイル様も一緒だし、エミリーもいるでしょう? きっと楽しい夜になるわよ」
「あたし、ロンドンの近くには何度かキャンプに連れて行ってもらったことがあるけれど、こんな深い森の奥で泊まるのは初めてよ。お父さんのお友達や、メイドや執事たちがいないのも…」
 四人は焚き火の火を囲んで早めの夕食を食べた。
「うまい! ブライディーさん、君はわたしのところの料理人よりよほど美味いシチューをつくるな」
 ヒューゴー卿はブリキのカップの最後の一滴まで飲み干して言った。
「本当だぞブライディー、持参してきた食材とキノコだけで、これだけの味が出せるなんて! この状況ではとても食欲など進まないと思ったが…」
 ドイルもひととき、真からの笑顔でくつろいでいた。
「ラキシス様がとても美味しい、珍しいキノコを見つけて下さったお陰ですわ」
「そう! あたしが見つけたのよ、お父様、ドイル様」
「そうか、それはよかったなぁ…」
 食事がすみ、メイドさんは濃い紅茶を淹れた。ドイルはパイプをふかしつつ大学を出たての頃、アフリカ航路の貨客船に船医として乗り組んでいた時の話をはじめ、ヒューゴー卿は拳銃を手入れしながら、熱心に耳を傾けていた。
「さあさあ、貴女は着替えて先にねんねしましょうね。お着替えをお手伝いしましょうか?」
「うううん、あたし、一人で着替えられるよ」
「お嬢様がああ仰って下さってますので、泉に食器を洗って今夜の分ののお水を汲んできておいてもよろしいでしょうか?」
「一緒に行ってあげようか?」
 とっぷりと暮れて星々が輝きだした夜空を眺めてドイルが言った。
「いえ、すぐそこですので」
「水までおいしいと思ったら、泉の水だったのか」 卿は紅茶を啜って言った。「…明日の朝は我々も顔を洗いに行かねばならない。すまないが簡単な地図を書いておいてくれないか?」
「地図なんか要らないくらいすぐそこです」
「そうか、それは助かるな」
「ヒューゴー卿様、ドイル様、先ほどお料理のことを過分にお褒め頂きましたが、皆様空気の良いところを歩いてこられたので、美味しかったのだと思います」
 ブライディーはそう言ってペコリと会釈すると、汚れた食器を重ねて鍋に入れて泉に向かった。
 夕食にも使った、こんこんと清水が溢れている苔に覆われた泉で手際よく洗い物を済ませ、振りかえると焚き火の火と、ランプの明かりでぼんやりと輝くテントが見えた。
 立ち上がって二、三歩歩きはじめたとき、小さな、ほんのりと光るものが飛んでいるのに気が付いた。
(蛍かしら? まだ夏じゃあないのに?)
 メイドさんは最初そう思った。

 キンポウゲの花びらのような光の点は、誘うようにふわふわとブライディーの回りを飛び回り、まるで「後をついてこい」と言いたげに森のさらに奥に向かって飛びかけては、また元に戻ってきたりを繰り返した。
(何なの?)
 鍋と食器を置いて追いかけようとした時、後ろから声がした。
「追うな! 何も見なかったことにするんだ!」
 振りかえると、片手にランプを持ち、片手に拳銃を構えたドイルが立っていた。
「ドイル様…」
「何も見なかったことにするんだ。これ以上深入りしてはいけない。何もなかったことにすれば、ヒューゴー卿も、ラキシス様も諦めてロンドンに帰られるだろう。それが最初の約束だったではないか?」
 ドイルは一層険しい表情で鋭く囁いた。
「しかし…」
「くどいようだが、君はラキシス様が魔物になってまで生きながらえて欲しいのか? 神に逆らうことだとは思わないのか?」
「すみません、ドイル様!」
 メイドさんは差し伸ばされたドイルの腕を振り切って、黄色い淡い光を追いかけた。
「待て、ブライディー! 君はもう十分に約束を果たした! お二人を森に案内した。だがそこには焼け跡しかなかった。お二人ももうこれ以上、何も望まれないはずだ!」
 声が急に小さくなり、闇がゆらゆらと揺らめいたかと思うと、森が開け、小さな家々の明かりが点々とまたたく村が現れた。
 広場には、女学校の一クラス分の少女たちが集まっており、その中心には、ほんの少しだけ背が抜き出た長く青い髪をした見覚えのある二十歳くらいの女性が立っていた。
「ブライディーだ! ブライディーがやってきた!」
 少女たちはいっせいに駈け寄って取り囲んだ。
「さぁさ、皆さん! きょうはもう夜が遅いでしょう。ブライディーさんも長旅で疲れておられると思います。歓迎会は明日にしましょう!」
 その魔女、グエンドリンは諭しながら皆を追い散らした。
「なぁんだ、つまんないの!」
「つまんない!」
「グエンドリン様が魔法をお使いになれば、ご馳走も、飲み物も、歓迎のお飾りもアッという間に出せるのに!」
「グエンドリン様はブライディーを独り占めにするおつもりだ。そんなのずるい!」
 メイドさんは魔女の特別な愛の趣味のことを思い出してたじろいだ。
「逃げなくてもいいです、ブライディー。実は、いまはそれどころではないのです。…皆さんもそうでしょう?」
「そうだ、それどころじゃあなかったんだ!」
「ブライディーがいい智恵を出してくれるかな?」
「ブライディーは占いができるし…」
「羨ましいわ…」
「じゃあなおのこと、邪魔をしちゃあいけないよね!」
 少女たちは口々に喋り、互いの顔を見合わせると、時おりグエンドリンの顔を振り返りながら、三々五々それぞれの家に帰っていった。
「ブライディー、本当に一年ぶりですね」
 グエンドリンは自分の家にメイドさんを招いた。
 相変わらずこざっぱりとした、民家ふうの家で、木目の壁には恐ろしく古風な衣装と髪型の少女たちから始まって、比較的新しい衣装や髪型の少女たちの肖像画がいっぱい飾ってあった。
「どうぞ、お座りなさい」
 パッチワークのクッションが置かれた木の椅子に座ると、テーブルの上には気づかないうちに二人分のホットミルクが現れていた。「…事情は知っています」 魔女は、メイドさんが話しかけるのを制して言った。「願いを聞き届けてあげるのは簡単なのですが…」
 とても魔女とは思えない柔和な表情にホッと胸を撫で下ろした。
「…ご存じのように、わたしたちを狙っている者がいるのです。このあいだは間一髪で危ないところでした。これ以上逃げ隠れできるところがないのも苦しいところです」
「怪物ですか? 魔女の仲間ですか?」
「いいえ」 グエンドリンは首を横に振った。「…神の使徒を自認する者たちです。もちろん、わたしたちが神から見たら許されざる存在であることはよく分かっています。なにしろ、定められた寿命を越え、思し召しを無視して生き続けているのですから…」
「しかし、誰にも迷惑をかけておられる訳ではないのに…」
 ブライディーは小さな声で言った。
「誰に迷惑をかけていなくても、やってよいことと悪いことはあるのです。例えば、自ら命を絶つことのように… 神のご意思に従えば消え去るしかないわたしたちですが、いましばし目をつむって頂けると有り難いのです」
「いったいどなたにお願いすればよいのでしょうか?」
 ホーホーというフクロウの声が窓から聞こえてきた。
「この人間です」
 魔女が差し出した肖像画に描かれている一人の若く美しい修道女を見て、ブライディーは思わず息を呑んだ。
(シスター・セアラ!)

「うん、どうかしましたか? 貴女の知っている人ですか?」
 自らと一統の不老不死を誇る魔女も、人の心は読めないらしく、真顔で尋ねた。
「いいえ、知りません」 メイドさんは明るく答えた。「…ただ、ずいぶんとお若くて、お美しいシスターのかただなぁ、と思って…」
「外見にまどわされてはいけません。また、もちろん身分低いようなのですが、このシスター・セアラとかいう修道女は、法王様から悪魔払いをしてもよいという許可証や、その他に、使命のためならば、司祭や司教たち、枢機卿たちがするようなことを何でもしてようという書き付けを頂いている頂いているそうなのです」
 グエンドリンは、その白く透き通るような指先で、セアラの肖像画をなで回した。
「シスターというよりも、女性の白魔導師のようなおかたですね」
「男性に生まれていれば間違いなく若き枢機卿、いにしえの世ならば十字軍の司令官を任されているくらいの使い手です。…もちろん彼女の指揮になる実行部隊は別にいて、わたしたちがかつて棲んでいたところも、その者たちに焼き払われたのですが…」
「お気の毒です。…でもね皆様ご無事で何よりでした」
「ブライディー、貴女が偏狭な異端審問官の一味ではなくて良かったです」
「わたくしもドイル様も、教会が認定する奇跡以外に、神秘なものや不可思議な出来事の存在を認めるのにやぷさかではありませんから」 熱っぽく返事をしながらも、メイドさんの心は千々に乱れていた。
(セアラ様だって、やりたくてやっておられるわけではないでしょう。きっと『上』のほうの命令に従っておられるのに違いないわ。「何とかお目こぼしを」とは思うけれども、お願いをしたところで断られそうだし… なにしろ神様の摂理に逆らって長く長く生きている人たちだから… 征伐のために『神の騎士団』を遣わされても文句は言えない人たちだから…)
「ブライディー、貴女の占いの力で、なんとか追い払うよい方法を占っていただけませんか? さもなければ、いくら病気の小さな少女をお預かりしても…分かりますね?」
 ふと窓のほうを眺めると、それぞれの家に帰ったはずの、魔女の力で生かされている子たちが覆い被さるようにして覗いていた。
「貴女たち! いつからそんな不作法なことを覚えたのです?」
「だってグエンドリン様、あたしたちだって心配です!」
「あたしたちも、塵になって消え去りたくなんかないもん! いつまでも、いつまでも、妖精みたいに死なないで、毎日面白おかしく楽しいことをして生き続けたいもん!」
 少女たちはまるで、鶏小屋のヒヨコのように代わるがわると窓から顔を突きだした。
(しかし、すでにドイル様のお怒りも買っているというのに、まだその上にセアラ様まで怒らせてしまったら…) メイドさんは焦った。(…占いの力で何とかして、ラキシスさんやヒューゴー卿、それにグエンドリン様や女の子たちを喜ばせ、幸せにしたとしても、ドイル様やセアラ様のお怒りが収まらなければ…)
「断らないよね、ブライディー?」
「そんな冷たい子じゃないよね、ブライディー?」
「断るくらいだったら、あの子…ラキシスとか言う子を、はるばるこの森に案内してきたりはしないよね」
「あたし、ラキシスちゃんと、いいお友達になれそうな気がするわ…」
 女の子たちは口々に言った。
「分かりました」 メイドさんはニッコリして言った。「全力を尽くして考えてみましょう」
「やったぁ! そうこなくっちゃあ!」
「ブライディーならそう言ってくれると思ったわ」
「なにしろ、あのヘレンが見込んだ子だから…」
 少女たちは飛び上がった。中には嬉し泣きしている子さえいた。グエンドリンも心なしかホッとしたような顔をしていた。
「ちょっと待ってください。いいアイデアを思いつけるかどうかは自信がありません」
「大丈夫だよ。ブライディーは魔法のタロット占いができるんだもの!」

 すぐに戻ってきたメイドさんを見て、ドイルはホッとした様子だった。
「よかった!ぼくの忠告を容れて、探索はやめてくれたんだね」
「は?」
「だって、あれから二、三分しかたっていないじゃないか。入り口に見えてそうではなかったんだろう?」
「は、はい。そうです。ドイル様…」
 スヤスヤと安らかな寝息をたてているラキシスの傍らで横になると、少女たちが入れたものだろうか、エプロンドレスのポケットから珍しい木の実がいくつも転がり出た。

 二人がテントに帰ると、入れ違いにヒューゴー卿が探索に出て行った。が、卿も疲れていたらしく、小一時間ほどで戻ってきた。
 ドイルと卿が、カーテンで仕切った出入り口付近ででいびきをかき始めた頃を見計らって、メイドさんは「不思議の国のアリス」のタロット・カードを取りだして、静かに占い出した。
(お願い、カードよ、教えて! 次にシスター・セアラ様と、配下の者たちが、グエンドリン様の森を滅ぼしにやつてくるのはいつのことかしら?)
 テントの外では春の夜風がさわさわと木立を騒がせている。天幕も波立ち、カードもかすかに揺れた。
(明日!) ブライディーは息を呑んだ。(…大変、鉢合わせをしてしまうじゃない! セアラ様は一瞬にしてわたしたちの目論見を察してしまわれるに違いないわ! ヒューゴー卿がセアラ様と話し合いを始められたら、まず十中八九諍いになってしまうでしょうし、ドイル様はセアラ様の肩を持たれるでしょうし、一体どうすればいいのかしら?)
 懸命に頭を巡らせる。
(ヒューゴー卿からヴァチカンに、多額のご寄付をして頂いて、偉い人たちにお目をつむっていただく、というのはどうかしら? …だめだめ、セアラ様はとてもそんなことを上のかたがたに取り次ぐかたじゃあないわ…) 寝返りを打った。
(セアラ様にすべてを正直に申し上げて、ご相談申し上げる、というのは? 無理無理。きっといつもと同じお優しい微笑みを浮かべながらも「これを助ける者が皆滅びる時、彼らはわたしが主であることを知る」(エゼキエル書30.8)」と仰るのに違いないわ)
 とうとうその夜は一睡もできないままだった。

 チチチチ… と、森の一番鳥たちが歌い始め、夜がほんのりと白みを帯び始める頃、卿とドイルは待っていたかのようにむっくりと起き出した。
「おはよう、ブライディー。 …おや、どうしたんだ、ずいぶん目が赤いぞ。昨夜は眠れたのか目 君も意外に緊張するたちなんだな」
 ドイルは囁いた。
「いえ、ドイル様、そのようなわけではないのですが…」
「心配ない。きょうの夕方には村に帰って、医者や看護婦、卿の召使いたちと合流していることだろう。明日かあさってにはダブリンに戻っているさ」
 ドイルは、「お先に」と言い残して泉のほうに向かった卿の背中が遠ざかっていくのを確かめながら言った。
「そうですか? 卿やラキシス様がそんな簡単にお諦めになられるでしょうか? いざとなったら『村に待たせてある従者たちに食料を買い込ませて呼び寄せる』とおっしゃるのでは…」
 メイドさんは立ち上がり、まだ幸せな寝息をたてて眠り続けているラキシスを目覚めさせてしまわないように、ドイルを促してテントの外へ出た。
「相手は魔女だ。普通の人間たちでは例え軍隊を呼び寄せても発見できないだろうさ。ブライディー、君みたいな霊感のある者を連れてこなくては」
「アレイスター・クロウリー様のような魔法使いを呼び寄せられたら?」
「それでもだめだろうね。魔女の隠れ里は、女性の魔導師にしか見つけられないと思うよ」
「わたくしも顔を洗ったら、トーストを焼いたり、卵やベーコンを焼きます。きのうのシチューやキノコも残っていますし…」

 一行は交代で泉に身支度に向かった。最後はメイドさんがラキシスに付き添って行った。「ブライディーさん、きょうこそはグエンドリン様やお会いできるよね」
「えっ、ええ…」
「あたし、顔も自分で洗ってみるわ」
「えっ?」
「だって、これから先ずっと、グエンドリン様とお友達だけの村で暮らすことになったなら、顔も身体も自分で洗えないと恥ずかしいでしょう?」
「えっ、ええ、そうよね…」
 メイドさんはまた涙をこらえた。
(…ああ、わたしにクロウリー様やサダルメリク・アルハザード君みたいな、自らの身を守る呪文が唱えられたら、もしもセアラ様にお願いを聞き入れてもらえない場合、セアラ様と戦ってでもラキシス様をお幸せにするのに…)
(君がセアラ様に楯突こうなんて、千年早いよ!)
 声がしたような気がしたので振りかえると、蝶のような、トンボのような妖精たちが朝靄の中を飛び交っていた。
(あのグエンドリン様だって逃げるのが精一杯、君に助命を頼んだだろう? グエンドリン様は、命乞いを頼まねばならないような、そんな弱っちい魔女じゃない。本気を出せばセアラ様と互角以上のはずなんだ。愛しておられる少女たちさえいなければ…)

「じゃあセアラ様の弱点を占う、というのはどうかしら?」
 言ってしまった後で、メイドさんは(思いつきとは言え、何て大それたことを…)と思った。(…いままで計り知れぬほどお世話になり、なおかつわたくしには何も悪いことをされたことのないセアラ様に対して、一瞬でもそんなことを考えるなんて…)
(セアラ様には弱点はないよ!)
(もしもセアラ様に勝ちたいと思うのなら、セアラ様の力を上回る魔法使い…マーリンとかを連れてこなくっちゃあ難しいよ。君の知り合いのアレイスター・クロウリーやサダルメリク・アルハザードだって歯が立つものか。…十年、いや、二十年先は分からないけれどね)
 カブト虫やテントウ虫の姿に小さな人の顔の妖精たちが口々に囃したてた。
「…そうね、わたくしたちがいくら力を合わせても、魔法の実力行使でセアラ様を上回るのは到底無理なことよね。でもなぜ、何百年もお目こぼしを頂いていたグエンドリン様が、いまのいまになって狙われる立場になったのかしら? …もしかして、ドイル様がヒューゴー卿と、今回のラキシス様のことで口論されたことを根に持たれて…」
(そんなことは思わないほうがいいわよ) 妖精たちはメイドさんの目の前で羽ばたきつつ空中で静止しながら言った。(仮に君の魔力がセアラ様を上回っていたとしても、こんなことで争うことなんて考えないほうがいいし、ドイル様に対して疑心暗鬼を持つなんてもっと良くないと思うよ…)
「その通りね。でも、このままでは…」
 と、ブライディーがふとあたりを見回すと、泉で顔を洗っていたはずのラキシスの姿が見えない。
「あれっ、ラキシス様は? ラキシス様! ラキシス様ぁ!」
 少しずつ声を大きくしながら、辺りを探し回っていたメイドさんだったが、どこにも見あたらないことを悟ると身体から血の気が引いた。
「ラキシスさまぁー!」
 声を聞きつけたドイルやヒューゴー卿が走ってきた。
「一体どうしたんだ、ブライディー!」
 ドイルは彼女の肩をつかんで揺すった。
「ラキシスは?」
 卿も急に不安な表情になった。
「も、申し訳ございません…」 メイドさんは森の下草の上に泣き崩れた。「…ラキシス様が…」
「手分けして探そう!」 ドイルはメイドさんを引っ張って立たせた。
「もしも見つからなくても、そう心配するこはないように思う」 ヒューゴー卿も責めなかった。「…一足先にグエンドリンの隠れ里に行ったのかもしれないし、グエンドリンたちが迎えに来て、連れて行ったのかもしれない」
(多分そうだと思います)
 言おうとすると、何者かが囁いた。
(言っちゃあだめだ!)
(どうして?)
(ぼくらを信じて!)
 間があった。
「…そうだ。『この森で、気に入りの少女たちとともに何百年生き続けている魔女グエンドリン』は、『少しばかり霊感があるとは言え、メイドのブライディーさん』に、『そう再々自分たちの住処を訪れられるのが嫌』で、『こっそり連れて行った』のだ。…そうに違いない…」
 固く閉じたヒューゴー卿の目尻から、はらはらと男泣きの涙が流れた。
「しかし、このままにはできません。卿にブライディー、呼び笛は持っているね? 笛の音でテントに集合するまで探しましょう」
 ドイルの言葉に、残りの二人はかすかに頷いた。

 紳士二人の姿と遠く離れると、ブライディーは懐からダウジングの棒を取りだして心を鎮めた。
 ほどなく、草むらがゆらゆらと揺らめいて新しいほうのグエンドリンの村への入り口が現れた。
「あっ、ブライディーだ!」
「ブライディーがまた来た!」
「何かいい考えを思いついたのかな?」
 花摘みや、歌や踊りの練習をしながら遊んでいた少女たちが駈け寄ってきた。
「みんな! ラキシス様、ラキシス様を知らない?」
 写真を見せて尋ねる。
「知らないよ」
「知らない…」
「この子がラキシス? きれいな子…」
「かわいい子…」
 少女たちは写真を回しながら互いに顔を見合わせた。その顔は嘘をついているようには見えなかった。
「ラキシス様ぁ ラキシス様ぁあ!」
 メイドさんは小さな広場の真ん中に立ち、少女たちの村を見渡して叫んだ。
「一体何事ですか? どうしたのですか?」
 騒ぎを聞きつけてグエンドリンも走り寄ってきた。
「グエンドリン様!」
 ブライディーはわけを話したが、魔女も心持ちうなだれた首を横に振るだけだった。
「わたくしも知りません。本当です…」

(本当に本当だろうか? この森は自分の家のようなもの、妖精たちもたぶんグエンドリン様と少女たちの味方… もしも「ラキシスさんは引き取りました」と明言すると、父のヒューゴー卿が訪ねてきて、そういうことをして貰えない他の子たちがかわいそうだ。それに、何より、噂が広まって、シスター・セアラ様は、何が何でもグエンドリン様を討たねばならなくなって、そうなると少女たちも)
 メイドさんの心は千々に乱れた。
「どうでしょう。疑われたままでは、わたくしたちも悔しいです。貴女の得意な占いで探しみられては如何でしょう?」
「そうだそうだ!」
「ブライディーは占いの名人なんだ!」
「何度でも占って、どこでも探してもらいましょうよ!」
 魔女と少女たちは目を潤ませて言った。
「いえ、集合の時間も迫っています。もう失礼申し上げたいと思います…」
「だったら、あたしたちが探すわ!」
「この森の中じゅうを!」
「隅から隅まで!」
「あたしたち、この森の中のことは、狐の穴から倒木の裏側のウロのことまで知っているから…」
「さぁみんな、そうと決まったら、日没まで一生懸命探しましょう!」
「もし見つかったら、グエンドリン様から魔法の鳩をお借りして、必ず報告するからね」
 女の子たちは二人一組になると、散り散りに森の中へ消えていった。
(気を付けてね、貴女がたは一歩でも森の外へ出ると…)
 言葉は声にならなかった。広場にはグエンドリンとメイドさんだけが残された。風は暑くもなく寒くもなく、緑の香りをたたえて爽やかだった。
「どうかよろしくお願い申し上げます」
 メイドさんはペコリとお辞儀をすると、踵を返した。
「待ちなさい。境までお送りましょう」
 二人は何も話さずに歩いた。ブライディーはチラッと見た魔女の横顔に、何かしら悲しみのようなものを感じた。
「ブライディー、もう一つの件、解決策は占ってくれましたか?」
「はい。しかし、方法についてはついに占いで出すことはできませんでした。セアラ様は明日にでも再びここにやってこられそうだ、という卦が出たのですが…」
「そうですか… そうなったら、もうすべてを運命に託すしか仕方ありませんね」
 グエンドリンは哀しげに目を伏せた。
 途中、木陰の木製のベンチに、少女たちのお人形たちが折り重なるようにして置かれていた。メイドさんは、他の人形たちの顔や頭に隠れるようにして、その中にエミリーがいたような気がした。
 いよいよ去り際、という時、グエンドリンと少女たちの村のほうから、おいしそうなシチューの匂いが漂ってきた。
「いい匂いですね。ご馳走になってから帰れば良かったかも…」
 メイドさんがそう言うと、魔女は、
「今日は特別に珍しいキノコが採れて。この森でも滅多にみつからないのが」
 と微笑んだ。

 その日の昼過ぎ、ヒューゴー卿とドイルとブライディーは、医者や看護婦、召使いたちを待たせてあった村まで引き返した。
「ラキシス様が森で行方不明」との聞くと、付き添ってきた者たちはもちろん、村人や、一軒家のおかみさんもショックを受けたようだった。
「ブライディーの占いの力をもってしても『不老不死の魔女と少女たちの森』はついに見つからず、おまけにラキシス様が行方知れず、これも占いの力は探し出せなかった」となると、失意と絶望が人々を覆った。
 ヒューゴー卿は地元の若い男たちに頭を下げて、何度も山狩りをしてくれるように頼んだが「あそこは呪われた場所だ。文字通り魔女の森なんだ」と、いくらお金を積んでもことごとく断られてしまった。
 卿は信頼できる召使いたち数人と、村の宿屋に長期滞在して、雨の日も風の日も毎日のように「魔女の森」に通ってはラキシスを探し、お菓子やお金や、新しいドレスや着替えやラキシスの好物だったものを、森のあちこちにある妖精のテーブルの下にソッと置いてきた。
 不思議なことに、それらのものは、お金を除いて数日後に見に行くとみんな無くなっていたと言う…

 ドイルとブライディーは後ろ髪を引かれる思いに駆られながらも、他の召使いたちとともに村を辞去し、ダブリンを経由してロンドンに戻った。
 ブライディーは、シスター・セアラとはまったくすれ違わなかった。道はほとんど一本道で、シスターがやってきていたのなら、必ずどこかで出会っていたはずなのに…

     (次のエピソードに続く)





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