ブライディー・ザ・マジックメイド
 短編集
 英国心霊研究協会、もっと怖い話

1.ポピーが語る「落人の村」
2.ウォーレス博士が語る「死者の花」
3.安倍薫が語る「最後の妖怪」
4.シスター・セアラが語る「セアラ、初めての悪魔祓い」
5.アレイスター・クロウリーが語る「地平線の城」
6.サダルメリク・アルハザードが語る「デュラハンの復讐」
7.クルックス博士が語る「幽霊発見器」
8.ドイルが語る「占い師の眼」
9.フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢が語る「瓶の中の文書」
10.ドッジソン教授が語る「染みのあるチェス盤」
11.「お兄ちゃん」が語る「生者たちの幽霊船」
12.デュード侯爵が語る「月光蝶」
13.ブライディーが語る「陶器の子猫」
14.再びシスター・セアラが語る「悪魔の峠」
15.再びコナン・ドイルが語る「肉体交換の落とし穴」
16.再びサダルメリクめアルハザードが語る「夢の中の魔神」
17.再びウォーレス博士が語る「白い闘魚」
18.再びコナン・ドイルが語る「死刑囚の夢」



「さてと、今年もまた夏がやってきたね」
 ドイルは、サマー・ウールの薄い灰色の背広の上着のボタンを外し、胸を楽にして椅子に深く座り直した。「…我が英国の怪談は、本当は真冬、雪や氷に閉ざされたとき、暖炉のそばで語るものなんだが…」
「あら、夏の怪談も楽しいですわ」 涼やかなレースの胸飾り袖飾りの付いた空色の麻のドレスのフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢は、白檀の香りのする扇子で仰ぎながら言った。「…大学は長い夏休みで退屈ですし、九月からは新学年の新学期で、宿題もありませんですし。ね、クロウリーさん?」
「ああそうだ」
 テニスかポロをする時に着る綿ニットのシャツというラフな服装のアレイスターは、メツシュの革靴をはいた足を組み直した。
「さぁさぁ、皆さん、家庭用の製造器で作った自家製アイスクリンですよ」
 ブライディーとポピーが、シャンパン・グラスに盛りつけた、上にウエハースと砂糖漬けのサクランボを乗せたアイスクリームを運んできた。
「有り難いねぇ、人間に生まれて…それも文明国に生まれて、本当に良かったと思うよ」 ウォーレス博士が早速一口食べた。
「神の御技ですわ」
 シスター・セアラも感激していた。
「さて、どなたが一番最初に話してくれるのかな?」
 クルックス会長の言葉に、「余り怖い話ではないので、一番に」と言いながらポピーが手を挙げた…

 ポピーが語る「落人の村」

 わたしの故郷、フランスのアルプスに近いところは、諸国と国境を接していることもあって昔からとても戦争の多いところでした。
 身分の高い人の影武者や替え玉は当たり前です。わたしはいまでも、ヴァレンヌで金貨を使って捕まり、断頭台の露と消えたルイ十六世陛下と、マリー・アントワネット皇后陛下は、フェルゼン公爵様が仕立てた替え玉だったのではないか、と思っております。
 これはお婆ちゃんに聞いた話なのですが…
 …仮にマリーとしておきましょう。マリーは幼い頃から同年代の王女様と顔や姿が似ていたせいもあって、近くの田舎のお城にメイドとして上がり、他のメイドの何倍ものお給金を頂き、貴族の言葉遣いや行儀作法も教えて貰って、幸せに暮らしていました。
 その代わりもちろん、いざという時は王女様の替え玉、影武者にならねばなりません。
 マリーの両親は、日頃からとても心配していましたが、いまさらお役御免にして頂く訳にも行きませんでした。
 そのうちにとうとう恐れていた戦争が起こりました。
 味方の奮戦空しく、お城は落城寸前となりました。マリーは大急ぎでお姫様のドレスを着せられ、大勢の家来に守られて、敵の手薄なところから落ち延びることになりました。
『なるべく目立つように、立派な馬車で、荷物も積んで』です。
 マリーは覚悟を決めました。
(自分が他の者よりいい目をしてきたのは、ひとえに王女様の身代わりとなって捕まるか討たれるかして、本物の王女様を無事にお逃がしするためです。ですから、生き延びることは考えずに、王女様を演じ続けましょう」と…
 自害するための毒薬も持って、マリーは馬車の中の人になりました。
 ところが不思議なことに、神様のご加護か、護衛の銃士たちが一人、また一人と倒されながらも、一行は何とか死地を切り抜けて国境を越えてしまいました。
「ご使命、まことに大儀でございました。我々はすぐさま戦場に引き返し、皆との約束を果たしたく思います。貴女はそこまでの義務はないので、どうか村娘の衣装に着替え、褒美の金貨をもってご両親のところへ帰ってあげてください」
 残りの銃士たちはそう言い残して去りました。
 マリーは、幸運を神様に感謝しながらも、王女の絹の衣装のまま、(どこかに小屋のようなものはないものか)と森を彷徨っていました。そのうちに道に迷い、日が暮れかけてきた頃、一人の木こりに出会いました。
 木こりは彼女の姿を見るなり、うやうやしくお辞儀をし、森の奥の砦に連れて行きました。そこには大勢の男女が、木を切り倒して開墾したり、畑を耕したり、牧畜をして働いていました。驚いたのは、そこの長が、かつてマリーの主人だった王女の許婚者だった、少し離れた国の王子だったことです。
 王子はもちろん大喜び、なにしろ諦めていた王女が生きていたのですから…
 聞くと、王子の公国も敵に攻められて滅ぼされたものの、神様のご加護で落ち延びることができた、とのことでした…
「ここの村人はみんなわたしの元家来たちです。どうかもとよりの約束通り結婚してください。いつの日か二人の国を再興しましょう!」
 王子の余りの喜びように、マリーは自分が替え玉であることを言いそびれてしまいました。
 早速、婚礼の儀が執り行われ、二人は結ばれ、マリーはずっと本物の王女様に対する後ろめたさを抱きながらも、真実は永遠に言い出せなくなってしまいました。
 月日が流れ、子供たちにも恵まれ、そのうち、いくさがあったことも、自らの出自もうやむやになったまま、住民たちは平和に暮らしたそうです。
 ただ、マリーが一緒になった時、夫の王子が、薪割りや畑起こしや農具の修理がとてもに上手だったことを少し不思議に思ったそうですが…

2.ウォーレス博士が語る「死者の花」

 人生の長いあいだに渡って、ボルネオやスマトラなど、アジアとオセアニアの熱帯のあちこちの探検隊に加わったわたしだ。不思議なことや恐ろしいことにはいくつも出会ったよ。そのうちのいくつかは本に書かせて貰ったが、中にはとても記録には残せないものもある。そのうちの一つを、内容を少しぼかし、変えて話そうと思う…

…同僚の植物学者で、名前を…仮にグリーン博士としておこうかな、大変な熱帯希少寄生植物蒐集家がいた。彼にとっては、あのラフレシアの花もチューリップと同じくらいよく見ていた。他の学者が発見し、他人の名前が付けられ、すでに図鑑に載っているようなものはもう一切興味がなく、ただひたすら新種・珍種の発見に心を傾けていて、よくいる人種だが学者というよりは山師のような男だった。
 ある東南アジアの島の、辺境の村でのこと…
 グリーン博士は、木の柵で囲まれた土地のそここに、見たことのない…ということはおそらく欧米人は誰一人見たことのないと思われる、白い、骸骨に似た形の花を咲かせている地を這っている蔓草を見つけた。
 さっそく写真に撮り、採集しようと柵を越えようとすると、極楽鳥の羽根飾りを付け、全身に刺青をした肌の色の黒い戦士たちが、削った石の穂先の長い槍で遮って阻んだ。「ここは、戦士だけがとこしえに眠っている聖地である。わが部族の者でなければ、立ち入ることはできない」
 グリーンは金貨を積んで参拝に向かう村人たちに「あの花を根ごと持ち出してくれないか」と頼んだが、
「あの花は眠れる戦士の心臓より生える花」
「いくら金を積まれても、とても譲れるものではない」と断られた。
 そうなるとますます欲しくなるのが人情だ。
(人間の遺体に生える寄生植物。何て珍しいんだ! とはいうものの写真だけではトリックだ、と言われるだろうし…)
 思いはつのるものの、昼夜を問わず戦士たちが見張っているために、盗み出すことは不可能だった。
 そこで彼は、山を一つ越した隣の部族の呪術師に相談した。
「何としてでも欲しい。何なら種子だけでもいい。イギリスに持ち帰って無縁仏の墓地にでも播いてみる」
 しかし呪術師は難しい表情で頭を振った。「あの植物に種子はない。強いて言えば、隣の部族の戦士たちの心臓の中に種子があるようなものだ。だが、戦士の心臓だけえぐって奪ってもだめだ。むかし、よその呪術師がその計画を実行してみたが失敗した。つまり『あの部族の戦士の五体ちゃんと揃った遺体が要る』ということだ」
 グリーンはあれこれ考えた。
(見張りを倒して強奪する、というのは追っ手がかかって難しいだろう。なにしろこの島は彼らのテリトリーなのだから…)
 そこで、首長に向かってこう切り出した。「探検の世話になったお礼に、この村の、将来があって優秀な戦士の少年を一人連れ帰って、イギリスで勉強させてやりたいが、いかがなものか?」
 本当は「医者から見放された、元戦士の重病人をクアラルンプルの名医に診せたい」と申し出るつもりだったが、それだと長旅に耐えられず、船の上の土のないところで命が尽きては失敗する、と思ったらしい…
 人がよくて、よそから来た者も疑うことを知らなかった首長は、大喜びで一番賢い戦士の男の子をグリーンに預けた。男の子も張り切って、数年後には必ず故郷に錦を飾るから、と言って希望とともにイギリス行きの船に乗った。
 ところがロンドンに着いてほどなく、憧れの学校に入学する前に男の子は重い病にかかった。
 男の子は「悔しい、悔しい…」と言いながら、やがて亡くなり、遺体は墓地に葬られた。 グリーン博士の悲しみも尋常ではなく、毎日墓参りを欠かさなかった。
 友人たちが「おそらく空気の汚いロンドンの黴菌にやられたんだ。辛いのは分かるけれども、もう研究に戻ったらどうだ?」と慰めても、グリーンの墓参りは続いた。
 一週間… 十日… 一ヶ月… 二ヶ月…
 いつまでたってもやめる気配がない。
「いくら何でも、もういいじゃないか。首長にお詫びの手紙も書いた。彼らも、少年もきっと許してくれていることだろう」
 誰が諫めても聞かなかった。
 ある、ひどい嵐が行き過ぎた朝、墓守りが掘り返されかけた少年の墓の傍らに倒れて息絶えているグリーンを見つけた。棺の釘がいくつか外されて蓋が開きかけられていた。グリーンの両手にはシャベルが握り締められ、両目をカッと見開き、何かにひどく驚いたような恐ろしい形相だった、という…
 しばらくして、背広に身を包んだ南の島の首長たちが、少年の遺体を引取りに来た。
「故郷の島の土に葬って、真の安らぎを与えてやりたい」
 彼らは真顔でそう述べた、と言う…

3.安倍薫が語る「最後の妖怪」

 ここロンドンにも、下町の広場とかに行くと、幻灯や、エジプトの木乃伊や人魚の展示、大男の怪力ショーやこびとの曲芸など、いろんな見せ物の小屋がありますが、同じようなものは日本の帝都にもあるのです。
 中でも「妖怪の見せ物」というのは一番人気といっていいでしょう。「妖怪」には「いい妖怪」と「悪い妖怪」がいますが、西洋の妖精とは違って、見た目は一般的におどろおどろしくて、不気味で、恐ろしいものが多いです。
 怖いもの見たさの客たちは、河童や天狗や九尾の狐の剥製を眺めては、感心して、中には皿が外れるかどうか持ち上げてみたり、背中の羽根や他八本の尻尾が作り物でないか、引っ張ってみたりするのです…

 帝都の片隅に年の頃不詳の重蔵という、人形師というか、からくり細工師がいました。重蔵の仕事は、作り物の妖怪を、寄せ木造りやバネやぜんまいやロウを使って造り、興行師に売ったり貸したりすることでした。腕はかなりよく、重蔵から、まるで本当に生きているかのように動く一つ目小僧や唐傘を仕入れた興行師の小屋は、いつも押すな押すなの人だかりだったそうです。
 重蔵の腕のよさは、多分に努力のお陰でした。古物商からは江戸時代の木版画などの資料を法外な金を払ってでも買い揃える。評判の妖怪の見せ物があると聞くと、上方まで汽車で出かける。果ては「本物の妖怪を見かけた」という噂を聞くと、多摩や武蔵の山奥にでも足を伸ばす、というような具合…
 さして広くない重蔵の工房はいつも、絵巻物や設計図、作りかけの妖怪やその材料で、足の踏み場がないくらいでした。
 それから、重蔵は弟子というか、助手を一切とりませんでした。腕に覚えのある若い職人が名声をしたって門を叩いても、人付き合いが鬱陶しかったのか、教えるのが嫌だったのか、とにかく全部断っていました。
 そんな重蔵が急に亡くなりました。
 別に争ったり、傷つけられたりしている様子はなかったので、検視の結果「急病にて死亡」ということで片付けられました。もちろん遺書もない。重蔵には身寄りがなかったので、葬儀費用を払って残った少なくない預貯金は、相続人が名乗り出るまで弁護士が預かり、もしも名乗り出る者が一人もなければ国庫に没収、ということになりました。もったいない話です…
 さて、問題は作りかけの妖怪の人形です。
 法律では競売にかけて換金しなければならないはずでしたが、担当の役人がこれ以上関わることを怖がりました。
 そこで公正な番人が雇われ、四十九日の法要ののち、重蔵ゆかりの興行師たちが籤を引き、一番を引き当てた者から工房に残されたもののうち、欲しいものを持ち帰る、ということになりました。
 一番を引き当てた興行師は、錆びた包丁をギコギコと研ぐ山姥を、二番の者は空気ポンプで膨らませると部屋いっぱいの大きさになる、ゴム製の大入道を、いそいそと持って帰りました。三番は、まるで生きているみたいな座敷童子、四番は小豆洗い、五番は独りでにころころところがる野槌…という具合に、形見分けは順調に進み、部屋の中は次第にカラッポになり、きちんと片づいていきました。
 さて、中でただ一人、大変欲深な興行師がいました。彼は昼間の分配でも、かなりいいものを分けて貰ったのですが、それだけでは満足せず、夜更けにこっそりと重蔵の工房に戻ってきました。
(重蔵さんは、からくりの腕も並はずれていた。みんなが入念に調べた、とは言っても、まだきっと見つけられていない隠しどころがあるのに決まっている。容易に発見されない隠し場所にしまわれているものだから、それはきっと素晴らしいものに違いない。一つ今夜はじっくりと探索してやろう…)
 欲深な興行師は、四方の壁を丁寧に拳で叩いて回り、天井裏に上がって入念に蝋燭の明かりで照らして回りました。
 しかし、新たな隠し場所は一つも見つかりません。
(おかしいな。やはり皆の眼力で、すべて発見されてしまった、ということだろうか?) 丑三つ時、とコトッと、床の下をネズミが走るような気配がしました。
(連中は「床の下もちゃんと調べた」と言っていたし、ネズミだろうな)
 思いつつ畳を上げ、最近外した跡のある床板をもう一度外し、ランプの明かりで照らしながら床下を逆さに覗き込みました。カサカサと物音がしたと思われます…
 その興行師、その夜からフッツリと行方不明になりました。

 数年たって、同業の一人が、浅草のお化け屋敷の血まみれの獄門首の中に、彼によく似た首をみかけ、余りの驚きに、すぐに連れを誘ってもう一度訪れたところ、もう小屋は畳まれてなくなっていたそうです。
 同業によると、首は恨めしげに、まるで何かを訴えるかのように瞬きして、それがいかにもまだ生きているようだったらしいのですが…

4.シスター・セアラが語る「セアラ、初めての悪魔祓い」

 皆さんもよくご存じのように、カトリックのシスターには、普通、男性の神父様や司祭様がなさることも、ほとんど許されておりません。
 修道院などからの外出、各種さまざまな儀式などはほとんどそうです。もっとも、厳格な女子修道院で天に召されるかたが出られたら、一切をシスターたちだけでせねばなりませんが…

 わたくしがダブリンの小さな教会付属の貧救院で神様にお仕えしていた時のことです。
 とある古い熱心な信者のかたに、お願いをされました。
「セアラ様、知り合いのところのサラの様子がこの頃少しおかしいのです。まさか悪魔憑きではない、とは思うのですが、ちょっと見てやっていただけないでしょうか? 神父様や司祭様では、きっと怯えると思うので、できたらセアラ様に…」
 サラのことはよく知っていました。小学校に上がる前くらいの、金髪で巻き毛のとても可愛い女の子です。
「サラが? まさか!」
 わたしは司祭様に特別の許可を頂いて、下町にあるサラの家に赴きました。
「お願いします、セアラ様。一体どうしたものか、何とかしてやってください…」
 わたしよりほんの少し年上なだけの、若いご夫婦がすがるような目で見ます。
 二階の、光がさんさんと降り注ぐ窓辺にサラは立っていました。
「…コノ世ノ中ハ空シイ…」 サラは、あどけない声で、空に向かってラテン語で語りはじめました。「…肉体ノ全テハ死スベキ運命、滅ブベキ運命ニアル。モシ神ガ全知全能ナラバ、何故コノ世デ栄光ヲ示シ、人類全員二コノ世デノ永遠ノ命ト、満チアフレル富ト幸福ヲ与エテハクレヌノカ?」
 とてもちっちゃい子供が口にするような言葉ではありません。
「シスター、サラは一体何と言ってるのですか?」
 両親は不安そうに尋ねました。
「いえ、あの…サラに何か本を与えませんでしたか?」
「童話の絵本は買ったり、貸本を与えたり、読んで聞かせたりしました。けれども、あんな言葉の本は、家じゅうはもちろん、ご近所にも、貸本屋にもどこにもありません。もちろん読んで聞かせたりもしてません。おかしな吟遊詩人が通りがかったりもしていません」
 母親はいまにも泣き出しそうになって、立て続けに述べました。
 わたくしはそっとサラに近寄って、膝を折って目を見つめ、優しく語りかけました。
「サラちゃん、いま話していた言葉、どこの誰に教わったの?」
 しかしサラはわたしを無視して、続きの文句をつぶやきました。その目はうつろで、まるで催眠術にかけられているようでした。
「…真実ハコノ世コソガ地獄デアル。コノ世ヲ創造シタノハ神デハナク堕天使、即チ悪魔デアル。人間ハ元ハ天界ノ天使ダッタノニ、悪魔ニヨッテ、脆キ肉体ニ閉ジコメラレタ者デアル。オ人好シノ人間タチガ神ト崇メテイルノハ、実ハ悪魔デアル。悪魔ハ人間ノ欲望ヤ苦シミヤ悲シミヤ嫉妬ヲ己ノ力ノ源トシテイル為ニ、人間ノ数ガ増エ、諍イヤ争イヤ戦争ヲスルノヲ見テ楽シミナガラ己ノ腹ヲ満タシテイル…」
 サラは次第にギラギラと目を吊り上げ、目の縁には隈を浮き上がらせ、金色の巻き毛を逆立たせてさながら小悪魔のようになって続けました。
 わたしは両親のところに戻って、また尋ねました。
「友達はどうです? 大きな子、小さな子、もしかして大人と付き合っているということはありませんか?」
「いえ」 父親も母親もこわばった表情で首を横に振りました。
「気を付けて見ていますが、そんな様子はまったくありませんでした。こんなになったのはサラだけです。他のちっちゃな友達でこんなようになった子はいません」
「人間ハコノ…地獄カラ天国ニ戻ラナケレバナラナイ…」 サラはまた語りはじめました。わたしは何かとても嫌な予感がして、サラのそばに駈け寄りました。
「ソノタメニハ、魂ノ飛翔アルノミ!」
 サラはサーカスの子供みたいに、トンと床を蹴って窓の桟に乗って、飛び降りようとした瞬間、間一髪わたしは彼女の身体をしっかりとつかみました。
 母親は悲鳴を上げ、父親が走り寄って抱きしめました。
「サラ! サラ大丈夫か?」
 わたしは部屋を見渡しました。屋根裏に続くはしごがかかっているのが見えました。
「屋根裏を拝見してよろしいですか?」
「ええ、でもどの家にでもある物置ですよ。お願いする前にちゃんと調べましたが、おかしなものや変わったものなど…」
 古着、古道具… なるほど、不審なものはありません。
 と、オルゴールのような、パイ皿ぐらいの大きさの銅の円盤に無数の突起を打ち付けたものが立てかけてありました。手で回すための小さなクランクの付いたプレイヤーらしきものもあります。見た感じ、大変古いものでした。
 わたしは息を落ち着かせ、祈ってから慎重にそのクランクを描かれている矢印の方向にゆっくりと回して見ました。普通のオルゴールの音楽が流れました。
(なんだ…)
 そう思い、他の心当たりを探そうと屋根裏を後にしかけた時、正しい神様の啓示が閃きました。踵を返して矢印を反対に回すと、嗄れた、聞きづらい、地面の奥底から響いてくるような老人の声が聞こえてきました。
「死ンダラ 楽ニナルゾ
 生キテイクノハ 苦シイゾ…」

5.アレイスター・クロウリーが語る「地平線の城」

 皆さんの中で、一番金持ち…というか、土地持ちの友人を持っておられるのはどなたかな? 功成り名を遂げ、相当なところに住んでおられるかたもおられるだろうが、このイギリスの「お金持ちの貴族」の中には、文字通り桁外れの者が少なくないのはよくご存じでしょう。
 自慢じゃないけれど、ぼくのケンブリッジの友人で仮に…キンバリーという男もその一人だった。
「図書館には結構古い珍しい本もあるから、一度遊びに来てくれたまえよ」
 という社交辞令のような言葉に誘われて出かけてみると…
 まず最寄り駅の駅名が「キンバリー・フィールド」だった。…そう、領地の中に駅があるんだ。それも四つか五つも… 駅員はもちろん、辻馬車の御者も、駅前に何軒かある商店の店員たちも、みんなキンバリー家の使用人だ。後で尋ねてみると、「使用人の総数は、何百人か何千人か、数えてみたこともないし、数えようと思ったこともない」という返事だった。
 午前中に駅に着いたのだが、馬車に乗り、「ご本邸」というのに着いたのは夕方だった。
 それまでに通過したいくつも小さな町や村も、もちろんキンバリー家の所領とのことだった。
「やあ、よく来てくれたね」 キンバリーは屈託のない表情で、十数人の使用人を引き連れて出迎えてくれた。「疲れていなければ、これから本邸のごく一部だけれど、案内させてもらうよ」
 それからは、それまでよりも疲れた。
 とにかく目当ての図書館だけでも、数万冊の蔵書を有していて、ちょっとした市の図書館のようだった。持ち出し禁止の珍しい古い稀覯書も何冊もあり、ぼくはただちに好意に甘えて何日か滞在することに決めた。
 一族のための教会は、これまた町の教会よりも大きかったし、墓地もまた、そのへんの公営墓地よりもずっと広かった。
 本館には城に付いているような、建物にすると五階建てか六階建てに匹敵する塔があって、それを登るのがまた大変だった。
 キンバリーは慣れているかしてさっさと息を切らすこともなく、きれいに掃除された螺旋階段を登っていく。
「ぼくはね、この塔に上がるのがとても好きなんだ。よほどの大嵐でない限り、この家にいる時は、一日一度は必ず登るんだよ」
「へぇー、それはなぜだい? 五階建ての本館にはエレヴェーターがあるし、景色を見るのなら、そこからでもいいように思うけれども…」
「登ってみれば分かるよ」
 彼は屈託のない表情で答えた。
 登り詰め、塔の外へ出ると、三百六十度筆舌に尽くしがたい美しい景色が目の前に現れた。一面の、よく手入れされた緑の牧草地や農地。群れ遊ぶ羊たちや牛たち、馬たち。働く農民たち。…まるでバルビゾン派の絵画のようだ。
 地平線の遙か先をぼくが乗ってきた汽車が横切り、道が縦横に伸びていて、豆粒のような馬車や荷馬車が走っていた。
 そこでキンバリーは、よくある決まり文句を言った。
「ここから見える土地は、全部キンバリー家のものなんだ」
「そりゃあ凄いね」
「でもね、あそこに小さく見える城のようなものがあるだろう?」
 彼が指さすはるか先には、石造りの、塔のある城壁ある建物がかすかに見えた。
「ああ、あれが何か?」
「あの城だけは違うらしいんだ。歴代のキンバリー家の当主は、あの城を買い取ろうとしているんだが、上手く行かないようなんだ。本館からは見えず、ここからしか見えない」
「ふうん。…でもそれは、あの城の城主も、きみとこと同じくらい金持ちだからじゃあないか?」
「かも知れない。…いや、きっとそうだからだろう」
 彼はそう言って、それまで首に掛けていた双眼鏡を構えて覗いた。
「何か見えるかい?」
「ああ」 キンバリーは乾いた声で言った。
「君は魔術師らしいから、きっと興味があるだろう」
 彼は双眼鏡を渡してよこした。ぼくはそれを覗き込んで、先ほどまで裸眼で見ていた城を探した。
「…いくら使者を立て、探検隊を仕立てても辿り着くことが出来ない。ただ、ここから見える、というだけなんだ」
「そりゃあ珍しいなぁ… 蜃気楼か何かかなぁ…」
 ぼくの目の中に、さきほどの城が、ほんの少しばかり拡大されただけだったが飛び込んできた。
 上空には、コウモリのような、大きな鳥のようなものがばたばたと浮かんでいた。
 向こうの城の塔の上では、渡された物干し竿のようなものから、いくつかの物体が吊されていた。双眼鏡のピントを少し調節してみた。すると、眼球と舌を飛び出させ、すっかり干からびた老若男女が飛び込んできた。
「刑場か、何かかな?」
 ぼくが尋ねると、キンバリーはぼんやりと彼方を見つめたまま肩をすくめた。
「さあね… これだけ広いとよく分からないよ」

6.サダルメリク・アルハザードが語る「デュラハンの復讐」

 千年近くむかしの話です…
 エルサレムで、十字軍の騎士たちが大勢、稀代の知将サラディン様(その魂に平安あれ!)率いる回教徒の軍の奇襲に遭って投降しました。本当は自決したかったのだけれど、それは禁じられていたために、二人以上一緒にいた者は戦友と差し違えました。一人一人で戦っていた者たちは、さす又や投網で捕らえられ、鎖で戒められて広場に並べて座らされ、抜けば玉が散るほどによく研ぎすまされた偃月刀で次々に首を刎ねられました。
 積み上げられた戦利品の鎧や兜、剣や楯などは小山のようだったそうです。
 厖大な数の遺体は、敵にさえも哀れみ慈悲を与えるアラーの神(永久に栄光あれ!)を信ずる人々によって、砂漠に葬られました。 華氏百数十度の灼熱の太陽によって、すべての亡骸はすぐに骨と塵に還る…はずでした…
(…暑いな…)
 その騎士は、体中をジリジリと焦がす日差しに、たまらず上体を起こしました。身体にかけられていた砂は、処刑者があまりにも大人数だったために、ほんの覆い隠す程度でした。
 騎士は目の前が真っ暗なのに気づきました。音も何も聞こえません。砂漠を吹き渡る風は感じられるものの、風音は聞こえませんでした。
(さては、捕虜になって目を潰され、耳も削がれてしまったか! …まぁいい。命があっただけでも神のご加護だ)
 気配を頼りに(彼は剣をはじめ、各種武術の達人だったのです)街のほうに歩いていくと、人々は口々に
「化け物だ!」
「助けて!」
「アラーの神よ! 彼に安息を!」
 と叫んで逃げ散って行きました。
 両手で顔を触ってみようとした彼は、そこで初めて自分の首から上がないことに気が付きました。
(困ったな。これでは皆、驚いて逃げてしまう。道を尋ねることもままならぬではないか)
 とりあえず捨てられていた安物の兜をかぶった彼は、宿営地に帰って隊長に相談しました。隊長は彼に、エルサレム随一の義手義足つくりの名人を紹介し、立派な作り物の首を作ってもらったそうです。「以前よりも男前の顔に作ろうか?」という名人の申し出に、彼は「首のあったところ」を横に振りながら、参陣記念に戦友たちとともに現地で描いて貰ってあった肖像画を示しました。もともとの顔が気に入っていたし、他に理由もあったからです。
 注文した首が仕上がってくるとしめたもの。しっかりと装着すると、前と同じように、見ることも聞くことも話すことも飲み食いすることも、匂いをかぐこともできました。
 騎士は親切な回教徒の人々に見送られて、現地で手に入れた宝飾品や、絨毯や、籠に入ったオウムとともにキプロス島行きの、つまり欧州へ帰る船に乗りました。

 彼には、故郷で待っているはずの妻がいました。ところがこの妻、悪い女で、留守中に浮気をしていたのです。二人は戦死した、と思っていた騎士の帰還に、大いに慌てました。
「心配ない。俺が何とかする。…そうだ。暗殺者を雇い、闇討ちにしてしまえばいいだろう。俺も実行に加わる。ただし、金はおまえが払ってくれ」
 何も知らない騎士が、ある夜、人けのないところを歩いていると、何人かの覆面の暗殺者たちに取り囲まれました。騎士はかなり腕が立ったので、一人や二人では心許ないと、数を頼んだからです。
「異教徒ならばともかく、故郷の同胞が一体何の真似だ?」
 騎士は驚いて尋ねます。
「これだけの人数だ。よもや討ち漏らすということもあるまい。冥土の土産に教えてやるからよく聞け!」
 刺客の一人…男が訳を喋ると、騎士は愛する者の裏切りに、気力も萎え失せ、簡単に倒されたそうです。
 殺し屋たちは約束の報酬を貰うべく、首を刎ねて依頼人の女のところに持参しました。 男と女はほくそ笑んで頷きあい、金を払って首は焼き払いました。その時、肉が焼ける臭いはせず、ロウの焼ける臭いがしたのが少し気にはなりましたが…

 数日後、男と女が床の中で睦み合っていると、ガシャリガシャリと、鎧が擦れ合う音がしました。
 びっくりして飛び起きると、目の前に殺したはずの騎士が立っていました。
「そんな莫迦な! おまえはこのあいだ、命を奪われて、首は焼き払われたはず!」
「そう。確かにそういう目に遭わされた」
 騎士は抜く手も見せず、二人を斬り倒しました。あたりは一面血の海です。
「あり得ない…」
「信じられないわ…」
 断末魔の男女を前にして、騎士は作り物の首をはずして見せました。その首はこうつけ加えたそうです。
「おまえたちは『スペア』というものを知らないのか?」

7.クルックス博士が語る「幽霊発見器」

「…いまさらだが、最近の科学の進歩には目を見張るものがある。もうじき「馬がひかなくても走る車」や「線を引かなくても話せる電話」が一般的になるだろう。
 わしも後進の若手に負けないように「幽霊発見器」なるものを製作して実験してみたが、これはその時のヒャッとした話だ。

「幽霊発見器」の原理は、電話のそれとよく似ている。
 ロンドン…いや、イギリスには幽霊がいっぱいいる、と言われているが、それでも名が知れた幽霊や、それを見た人間が大勢いる幽霊は、そんなにたくさんいる訳ではない。出現スポットを紹介した本も、百科事典のように分厚くはない。
 だけども、いわゆる『見えにくくて』目撃した人間も少ない幽霊は、それらよりもたくさんいるはずなのだ。彼らはその霊的パワーが少ないために、もっと生者の前に現れてアピールしたくてもできない。例えるなら「大根役者であるが故に、舞台に立てない」という悔しさで、悶々としているのに違いない。
「幽霊発見器」は、そんな彼らに一時的にではあるがスポットライトを当てる機械だ。
 詳しいことは略させてもらうが、火花放電を用いて電波を発生させ、ガラス管に金属粉を入れ、電気信号によって人間の目には見えない弱い伝導体と非伝導体を見分けて「かすかに存在はしているけれども、よほど特別な目を持った者以外には見えない」「もの」を誰にでも見えるようにできる。
 持ち運びができる大きさにするのが結構苦労だった…
 わしと助手は、新聞社に協力を頼んで、「幽霊がいるような感じがするのだが、いまのところ誰一人『らしきもの』さえ見た者がいない、無人の荒れ果てた屋敷に出かけた。「…一族の最後の主人は、大変猜疑心の強い男で、若く美しい妻を疑って毒殺したとか、その息子たちも兄弟仲が悪くて、兄が弟を事故に見せかけて殺したとか、いや、その逆だとか、噂には事欠かないところですよ」
 記者は写真機を準備して張り切っていた。 もっとも、派手にマグネシウムを焚いて幽霊が撮影できるかどうかは疑わしかったが。 助手は「幽霊発見器」の最終的な調整をしていた。
 夕方から日没まで、廊下にも各部屋にも埃が分厚く積もった屋敷の下見をして回っていたわしたち三人は、そこだけ簡単に掃除した食堂で。サンドイッチを食べながらポーカーをして、時間を潰すことにした。真夜中まで待って何の物音も気配も感じられない場合は、助手が「発見器」を背負って屋敷内を一巡する予定だった。
 夜更け、手洗いにたった記者が、いくら待っても戻ってこなかった。彼はポーカーに勝っていたし、サンドイッチも食べかけのまま残されていた。
「おかしいですね。手洗いはすぐそこだし、一体何をしているんでしょう? ぼく、見てきますよ」
 そう言って出て行った助手も、それっきり戻ってこなかった。
 さすがのわしも少し怖くなってきた。
(何かあったのではないか?)と思い始めた。(もし何かあったのなら、おそらく幽霊のせいであろうし、だったらこちらは対抗する武器兵器を持っていなければ危うい)
 わしは本来助手が背負うはずだった「発見器」を背負ってみた。想像していたよりもかなり重い。
 電池が保つのはおよそ五分間だが、手洗いまでは十分往復できるはずだった。それよりも、そのあいだにわしの腰のほうが痛くなりそうだった。
 スイッチを入れると、二本の角のような放電棒からパチパチと火花が飛び始めた。
 ベルトの前の放電管は「何もなし」を現す白色に輝いている。
「おおい、記者君! 助手! いるのなら返事をしろ!」
 ランプを手に二、三回叫びながら手洗いまでやってきた。 手洗いのドアのところに辿り着くと、ベルトの放電管…インジケーター…が、黄色になっていた。
『ごく近くで、プラズマか何か、ほんのかすかだが純粋自然界には存在していないエネルギーが発生している』ことを知らせていた。(とうとう出たか! いるとすれば、この先だな!)
 小部屋のドアに手を掛けたわしは、背負った機械が急に重さを増したように感じた。
 そう、まるで猿かなにかが上に乗ったような加重感だった。
 わしは鏡をもって来なかったことをつくづく後悔した。
 機械はますます重くなる… シンジケーターは「異常、危険」を示す赤に変わって、さらに「限界」を現す点滅をはじめた。
 わしはとうとう後ろに倒れて、尻餅をついた。
 肩のベルトをはずして振りかえると、そこには、目と口のところだけ穴が空いた、白い煙のような存在が、まるでラグビーの選手がボールにタックルするように折り重なっていた。
 わしは這うように、食堂へと逃げた。
 すぐに、ありったけの蝋燭やランプをつけながら手洗いに戻ると、「発見器」の電池は切れていて、わしが見た「ものたち」も消え失せていた。
 記者と助手はともに、手洗いの小部屋で気絶していた。ケガなどはしていなかったが、一人はその後しばらくして離婚し、もう一人はいまでも精神科の医者に通い続けている。 あの機械を背負っていなければ、わしもそのようなことになっていたかも知れない。
「発見器」は修理不能なくらいに壊れてしまっていた。二号機を造ろうにも、実際に製作にあたっていた助手が理性と知性を失ってしまい、引き継ごうとする者もいないので、それっきりになっている…
 それに、「発見器」を作る前に「退治器」を作らねばならない…

8.ドイルが語る「占い師の眼」

 皆さんもよくご存じのように、ぼくはエジンバラの医科大学を卒業後、プリマスで眼科の医院を開業していた。患者がさっぱり来なくて小説を書き始めたんだが、これは大学で眼科の臨床を勉強していた頃の話だ…

 指導教授はどちらかと言うと、学生を教えるよりも自分の研究に没頭するのが好きな人で、休講ばかりだった。教授もさすがにそれでは給料泥棒だと思ったのだろう、愛弟子のウイルソンという准教授をしょっちゅう代講に立てた。
 ウイルソンは、ぼくとウマが合った。生粋のスコットランド人で、快活で頭も良く、教授が見込んだ通り、教授本人よりも教え上手で、おまけに妖精なども信じていて、神秘学や心霊学にも興味を持っていた。
 夜更け、学生街の安酒場で、二人で酒を飲んでいた時のことだ。いつもよりウイスキーを過ごした彼は、酔眼を漂わせながら言った。「ドイル君、こんなことを言っちゃあ悪いが、君には医者としての資質はないぞ。志望を変えたらどうだ? …そうだ、作家なんかどうだ? 大学の雑誌に載った作品を読ませて貰ったが、なかなか面白くて、才能を感じたぞ」
「嫌だなぁ、ウイルソンさん」 ぼくは苦笑いしながら答えた。「作家なんかじゃあ、なかなか食っていけませんよ。残りの単位も数えるほどだし、卒業したら船医でもして金を貯めて開業して、両親に…特に学資を出してくれた母と、母方の親戚に恩返しをするつもりです」
「お母さん、か… 時に君の父上は精神病院に入っておられるそうだね?」
 ぼくはいっぺんに酔いが醒めた。口にしていた酒すら吐きそうになった。
「こんなことを言ったら、俺も精神病院に行かなければならないかもしれないが、『死体の、まだ新しい眼球に、生前最後に見た光景が映っている』という話。あれはもちろんほとんど嘘だが、ごく一部本当だ」
 ウイルソンは混み合う回りのテーブルの客たちを気にしながら囁いた。
「えっ?」
「つまり、凡人の新しい死体の網膜を調べてみても、臨終を看取った身内の者や、医者や看護婦は映っていたりはしない。切り裂きジャックに殺された売春婦の目玉を取りだして顕微鏡の上に乗せてみても、ジャックは写ってはいない、ということだ」
「そりゃあそうでしょう。もしそうなら、ジャックの被害者は全員、内臓だけではなく眼球もえぐり出されているはずです」
 ぼくは破顔一笑したが、ウイルソンは大真面目だった。
「普通の人間ではダメだ。それは間違いない。だが俺は、ある種の特別な能力を持った人間は、焼き付けることができると確信している。それは、ある程度未来を予知する力のある者、つまり本物の預言者か占い師だ。しかも、彼らが最後にその目にする風景は、病室の白い壁や花瓶などではない」
「と、申しますと?」
「亡くなった彼または彼女の網膜を覗いたら、そこには必ずその者が直後に行くべきはずのところ、すなわち天国と天使か、地獄と悪魔が写っているはずなのだ!」
「嫌だなぁ、ウイルソンさん。そんな莫迦な…」
「いいや、俺は真剣にそう信じている。だが、なかなか実験をする機会がないのだ。『本物の占い師』が行き倒れて、うちの大学病院に運ばれてくれれば…」
 その時は酒の上での悪い冗談か、一つ話のように思っていた。
 月日は流れ、無事に卒業を目前にしたぼくが、何気なく講義室で読み捨てられていたエジンバラで刷られている黄色新聞を拾って読んでいた時のことだ。
 ゴシップや風俗関係がほとんどの社会面の片隅に、次のような記事が載っていた。
「名物占い師 行き倒れる
 エジンバラの目抜き通りで水晶玉占いを生業にしていた占い師、自称エゼキエル氏が、昨日の夜十時頃、その屋台で発見された。外傷はなく、売上金も奪われていなかったことから、病死か老衰死と思われる。しかし当局は念のため遺体をエジンバラ医科大学に搬入して、詳しい死因を調べる模様。エゼキエル氏は、依頼人の未来をよく言い当てることで、とても人気があり、年老いて気力が衰えるまで長いあいだ本紙の占い欄も担当して好評だった…」
 新聞を投げ捨てると、解剖室へと走った。解剖はすでに済まされていて「無縁墓地行き」の書類が乗せられていた。
 十字を切って祈りを捧げ、ちゃんと閉じられているまぶたを開くと、そこに眼球はなかった。
 ぼくはウイルソン准教授の研究室に走り、ドアをノックした。
「ウイルソンさん、ウイルソンさん、開けて下さい!」
 扉を蹴破って中に入ったが、その聡明だった双眸からは英知の輝きはすっかり消え失せ、強烈な狂気に支配されていた。
「ケケケ… 俺は見たぞ! ついに見たんだ!」
 よだれをだらだらこぼし、くるくると出鱈目に踊る。昨夜まできちんと片づいていた研究室や実験器具は滅茶苦茶に壊されていた。
「見てしまったんだ!」
 以後、彼は何を尋ねてもそう繰り返すだけらしい…
 ぼくは、ウイルソンの両の瞳に、何かとてつもなく恐ろしいものが映っているような気がしたが、とても覗き込む勇気はなかった…

9.フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢が語る「瓶の中の文書」

 世の中の人は、古い観念に凝り固まった人がまだまだ多くて、法律よりも何百年間続いた慣習のほうを尊ぶようです。
 落とし物は現在では警察に届けるのが当たり前ですが、いまだに父の男爵のところに届ける者も後を絶ちません。まだアイルランドにいた頃の話です…

「フィオナや。おまえ、この文書の文字が、どこの国の言葉か分かるか?」
「お父様、何でしょう?」
 書き物机に座った父の前に駈け寄ると、机の上には水晶をくり抜いたらしい不思議な光を放つ、子供の拳くらいの不思議な瓶と、メモくらいの羊皮紙に書き付けられた、糸ミミズがのたくったような見たことのない文字が目に飛び込んできました。
「わたくしも初めてです。調べてみないことには分かりません」
 眼鏡をかけて入念に眺めたわたしでしたが、心当たりはありませんでした。
「…海岸に打ち上げられていた、とかで漁師が届けに来てな」
 図書館にこもり、「各国語文字図鑑」や「書体図鑑」で調べて見ましたが、該当するものはありません。
 詳しい友人や知人、学者などに写しを送って尋ねてみても、はかばかしい返事は届きませんでした。
「フィオナや、もういい。どうせどこか遠い国の誰かのいたずらだろう」
「父上、あの瓶はどこの国のものか分かりましたか?」
 父の顔が曇りました。
「それがな、これは本物の水晶だそうだ。そして、現代の最新科学の粋を集めても、このようにきれいに中をくり抜くことはできない、と学者たちも水晶細工の職人たちも言っていた」
「えっ、するとこの瓶は、わたくしたちの世界のものではない、ということですか?」
 わたしは改めてまじまじと瓶を見つめました。
「そうだな、エジプトやメソポタミアよりも遙か遠い昔に栄えた文明の産物かも知れないな。もしかしたらアトランティスのものかも知れない。近く大英博物館に寄贈しようかな、と思っている」
 わたくしの興味は再び燃え上がりました。
 ヴァチカンのセアラ様に手紙を書いても、「魔術師同盟」のよろず相談に問うても答えは
「全てをお知りにならないほうが、お幸せではないかと存じます」でした。
 こうなったら意地です。
(あのロゼッタ石の古代エジプト文字ですら、シャンポリオン様が解読されて、読めるようになったのだ。フランス人にできて、わたくしにできないはずがない!)
 わたしは各種の辞典や資料をひっくり返し、読みあさって似たようなパターンのものを探し出しました。
 シルクロードのウイグル文字や、突厥文字に似ていますが、それで解読を試みると上手く行きません。
 いろいろ試みているうちに、セアラ様がウォーターフォードの館に立ち寄って下さいました。
「セアラ様、セアラ様にはあれが読めたのですか?」
 セアラ様はコックリと頷かれました。
「お願いします! どうか教えてください! せめて何年前のどの国ものかだけでも…」「あれは一万年以上の昔に、愚かな戦争をして海中に没した国の、一部の魔法使いたちが使っていた文字です」
「何と、何と書いてあるのですか?」
「返事にも書きましたが、知らないほうがいいと思います」
 セアラ様は無表情でおっしゃいました。
「ずるいです! セアラ様だけお知りになって! 一体何なのですか? 卑猥な文書なのですか? 貴女は読んでも関係のない内容なのですか?」
「そう、わたくしは読んでも一向に差し障りはありませんが、貴女には深刻な影響を及ぼす、と思います…」
 わたしはあれこれ憶測を巡らせました。
(他人を呪い殺す呪文? 自分の寿命と死因を知る呪文? …いいや、それだったらたとえセアラ様でも心を悩ませられるはず…
 恋人を見つけたり、別れたりできる呪文? そうよ、それだったらシスターには一切関係のないもののはず。皆が言う「知らないほうが幸せ」というのはそういう意味に違いないわ!)
 張り切ったわたくしは、前にも増して調べ続けました。
 そしてとうとう、インドのサンスクリットの一種に似たものを見つけました。わくわくしながら読み解くと…
「…コレハ呪イノ文書デアル。コレヲ読ンダ夫婦者ハ、今後子供ガ生マレル確率ガ十分ノ一に激減スル。シカシソレデモ生マレタ子ハ、強運ノ子デアル。独身者ハ配偶者ト結バレル確率が十分ノ一ニ激減スル。シカシソレデモ結バレタ夫婦ハ終生愛ガ続ク…」

「ええ、わたくし、気にしていません! まったく気にしていませんとも! こんなこけ脅し!」
 フィオナは高い鼻を天井に向けたが、心霊協会の皆は、長いあいだ無言だった。

10.ドッジソン教授が語る「染みのあるチェス盤」

 かなり以前にロンドンの、とあるチェスの大会を見物に行った時の話なんだがね…
 目玉である名人同士の試合は、早く決着が付いてしまって、好きな者同士がそここで自由に対局していた。
「どうですか、一局?」
 ぼくに誘いかけてきた男は、カイゼル髯を生やした、異国ふうの風貌をしていた。
「いいですよ」
 ぼくは空いているテーブルの、勝負がついてしまっている盤と駒の前に座った。
「お差し支えなければ、私の愛用の盤と駒でやりませんか? はるばると、遠い国から持ってきたものです」
 彼はそう言って、黒い、スカーフくらいの大きさの鞄を示した。
「いいですよ」
「私はミューラーといいます」
 男は鞄からチェス盤を取り出しながら名乗った。普通、旅行用や携帯用のチェス盤は、大抵二つ折りになっていて、その中に駒を収納するようになっているのだけれど、ミューラーの盤は一インチほどの一枚板で、駒は石鹸箱のような箱に入っていた。
「ドッジソンです」
 コインを投げ、彼の黒番、ぼくの白番になった。
 ご存じでしょうが、チェス盤は木の板に市松模様に塗られています。ですが、ミューラーの盤は、皮が張られていて、それが薄い灰色と濃い灰色に染め分けられていました。ずいぶんと年代物らしくて、そこここに大小の染みが浮かび上がっています。
 試合はいい勝負でしたが、かろうじて一手違いで辛勝することができました。続けて先手後手を入れ替えて第二局を指すことにしましたが、一局目はほとんど無言だったミューラーが、二局目は駒組みの段階からポツリポツリと話しかけてきました。
「自慢するわけではありませんけど、変わった盤と駒でしょう?」
「ええ、革張りのようですね。駒も木製でも黒檀象牙製でもなく、何かの骨のような…」「ご明察ですよ、ドッジソンさん。それでは何の骨だと思われますか?」
「さぁ、牛か馬の骨でしょうか?」
「人間の骨ですよ」
 ミューラーの言葉に、ぼくは手にしたポーンを取り落としかけました。最初は冗談だと思っていたのですが…
「この盤に張られた皮、これも実は人間の皮でしてね」
「脅かさないで下さいよ」
「脅かしてなんかいませんよ。事実です」
「かなり昔のもののようですね」
 局面はかなり有利だったので、ぼくは彼の与太話に付き合うことにしました。
「これは、何百年か前に、とある欧州の辺境にある国の国王が作らせたものなんですよ。 その王は、チェスが上手くて、とうとう回りには相手がいなくなってしまいました。そこでお触れを出したんです。『我と思う者は余に挑戦するがよい。余に勝ったものは袋いっぱいの金貨を褒美に取らせる。ただし、負けたらそのほうらの命を貰い受ける。心して挑むがよい!』と…」
 近隣から腕に覚えのある者たちがやってきて王に挑みましたが、ことごとく敗れ去って命を失いました。王はその者たちの皮を剥いで盤を造り、骨を削って駒を造り、城の部屋のあちこちに飾ったそうです…」
「この盤と駒もそうなんですか?」
 ぼくは改めてしげしげと見つめながら尋ねました。
「ええ、その通りです。貴方はいま、血塗られた、由緒ある盤と駒で指している、という訳です」
「そりゃあ末代までの語り草ですね」
 ぼくは法螺話と聞き流しながら、適当に相づちを打っていました。勝負は相変わらず優勢でしたし、特に気にはなりませんでした。「…伝説には、まだ続きがあるのですよ」
 ミューラーは劣勢を挽回しようと必死で駒を動かしながらつぶやきました。
「王様が連勝を続けていたのには秘密があったのです。王は挑戦者を迎え撃つ際は、必ず自分愛用の盤と駒を使いました。…そう、ちょぅどこれと同じような… あるチェスの強い魔法使いが挑戦した時のことです。魔法使いは、局面が進むに連れ、盤の染みが微妙に変化することに気が付きました。そう、指しての難しいところでは、何者かが王に手助けしていたのです。魔法使いは飲み物を注文し、わざとそれを盤の上にこぼしました。
『すいません。申し訳ありません』
 怒るとそれまでのトリックがバレると思った王はついに破れ、後に家臣の裏切りにも遭って惨殺されました…
 ミューラーはそう言っていきなり局面を大逆転してしまうような絶妙手を指しました。ぼくは投了せざるを得ませんでした。
「どうです、買いませんか? この、由緒ある盤と駒を?」
 骨董品のセールスとしてはよくできた話でした。値段くらいは訊いてやっても良かったかも知れません…

11.「お兄ちゃん」が語る「生者たちの幽霊船」

「お兄ちゃん」からの手紙

…やぁ、ブライディー、元気かい? 俺のほうはお陰様でとても元気でやっているよ。 あまりにもいろんな仕事をやっているので、もういちいちここには書かないけれど、君もどうか、身体に気を付けて頑張ってくれ。
 心から愛しているよ。
 きっと夢が実現する日も、もうそんなに遠くないことと思うよ…

 今回はは、去年俺がアメリカに渡った時の、奇妙な体験を話そう。
 ぼくが乗ったのはヘルメス号という、そんなに大きくない貨客船で、船長はマックスというアメリカ人の海軍からの将校の誘いを断ったことがあるらしいという、大変肝の座った男らしい人だった。
 ぼくは、ほかの臨時雇いの釜焚きとともに、燃え盛る釜に石炭をくべる仕事をしていた。 一時間も続けてやったら倒れそうになるくらいの重労働だ。もちろん何人か組になり、交代でやるんだけどね。
 ある、非番の霧の夜のことだ。艦橋の上にいた見張りが、伝声管で叫んだ。
「左舷約千フィートほどのところに船影。帆船です! それも三、四百年昔の、メイフラワー号に似た… 幽霊船ではないでしょうか?」
 噂はあっというまに船じゅうを駆けめぐった、高級船員たちは艦橋に登り、他の船員たちやそう多くない客たちは甲板に出たり、船室の窓から言われた方向をまじまじと眺めた。
 俺もまた、甲板から身を乗り出すようにして、そちらを眺めた。
 すると、霧の合間を縫って、古い形の三本マストか四本マストの帆船がゆっくりと近づいてきた。
 帆は少しも破れてはおらず、船体もきれいで、マストの先に鬼火が燃えてもいなかった。
 向こうの船の舳先に、ナポレオンがかぶっていたような帽子をかぶり、ドレイク船長が来ていたようなコートを着た影が立って、ランプを振った。
「『足りない物がある、売ってくれ』と接岸を求めていますがどうしましょう?」
「船長、あれは絶対幽霊船ですよ。黙って通り過ぎたほうがいいですよ」
「幽霊船でなくても、いま時あんな形の古い帆船、きっと訳ありに違いありません。何かトラブルに巻き込まれるのはごめんだ!」
 航海士も機関長もこぞって反対している様子だったが、マックス船長は剛胆な人だった。「困っている船を見過ごす訳にはいかない。接岸してやれ。わたしが向こうの船に行く。他に一緒にいきたい者はいないか?」
 みんなが口ごもったり、尻込みする中、俺はブライディー…君やドイルさんたちのことを思い出して勢いよく手を挙げた。
「よーし、おまえこい! 他の者は警戒だ」
 俺はマックス船長の後について、渡された長い板きれを渡った。船長は拳銃一丁、ナイフ一本持っていなかったので、俺も見習った。まぁ、敵地に乗り込むのだから、多少の武器なんか持っていても同じことだと思った。乗り移って見て驚いた。帆船は思ったよりも小さく、手狭で、おまけに船客たちが来ている服装が全員、絵本や図鑑でしか見たことのないコロンブスの頃のファッションだった。
 でもしかし、幽霊なんかじゃない、みんなれっきとした人間だった。
 ブライディー、君にソックリの、赤い髪の毛に鳶色の目をした、十六、七歳くらいの可愛い女の子もいたよ。彼女は膨れあがったスカートにエプロンをして、古めかしいボンネットをかぶっていたよ。
「実は…」 向こうの船長が、古い感じのする英語で切り出した。「…我々は新天地を求めてニュー・アムステルダムの港に向かってる途中なのだが、途中で嵐に遭い、航路を少しばかりはずれてしまって、多めに持ってきた水と食料を使い果たしかけてしまった。大変厚かましいお願いではあるが、貴船に余分の水と食料があれば、売っては貰えぬだろうか?」
 相手はそう言って、小さな革袋を開けて、大英博物館でしか見たことのないスペイン金貨を見せた。
 俺はマックス船長の目を見た。帆船の乗組員たちや乗客たちは、すがるような目で見つめていた。
「いいでしょう」 マックス船長は快活に答えた。「困ったときはお互い様です。水と食料だけでよいのですね? 代金は適正と思われる額を頂きましょう」
 さぁ、それから、ぼくらの船から、相手の船へ、渡し板づたいにいくつかの樽や物品が運ばれた。俺は…ブライディー…君に似た子の姿を見たいために、何度も往復した。自惚れかも知れないが、心なしかその子も、物陰からほんの少し頬を染めて俺のほうをチラチラと眺めていたような気がした。
 やがて、板がはずされ、俺たちは先にスピードを上げた。再び釜焚きの出番、というわけだ。向こうの船の連中は、煙突からもくもくと黒い煙を吐いて航行する船に、ずいぶん驚いていた様子だった。
「船長、かれら、無事に新大陸にたどり着けますかね?」
 わざわざ釜焚き部屋に降りてきてくれた船長に、俺は尋ねた。
「ああ、大丈夫だ。彼らは幽霊なんかじゃなかった。人間だったからな」
 マックス船長はパイプをふかしながら答えてくれた。
 俺はと言うと、あの子の名前を聞かなかったことを、かなり後悔していた…

12.デュード侯爵が語る「月光蝶」

「言うまでもないことだが…」 英国心霊研究協会の主だった会員の一人であり、会の重要なスポンサーの一人でもあるデュード侯爵が、気難しそうな顔をますますしかめて話し始めた…

…陶器やガラスというものは、それがいかに高価で芸術的価値の高い骨董品であっても、割れてしまえば価値はほとんどなくなる。
 断っておくが、これは絶対にわしの身に起きたことではない。…仮に「某伯爵」としておこう。伯爵はエミール・ガレをはじめたぐいまれなるガラス工芸品の蒐集家として社交界にも名を馳せていた。年に一、二度、屋敷のコレクション・ルームで行われる「展覧会」には王侯貴族がこぞってやってくることで有名だった。
 その部屋に自由に出入りできるのは、伯爵本人と、何十年となくそこの掃除を任されていた年老いたメイドの二人きりだったが、そのメイドが寄る年波に勝てず、ついにお暇を願い出た。伯爵ははたと困り、後継者を育てておかなかったことを後悔した。
 何しろ値段が付けられないくらい高価なものばかりだ。まず第一に信用…とは言ってもメイドの身元保証人など、たかが知れている。
 やはり、本人の人柄が一番大切だ。
 次にふつつかであったりそそっかしいのもダメだ。なにしろオブラートよりも薄い細工物もあるのだ。本人はいくらそっとハタキをかけたつもりでも、細かいところが欠け落ちてしまうかもしれない…
 伯爵はメイド頭に命じて、十年以上奉公していて、正直で品行方正、なおかつこれまで皿やコップを一度も割ったことがないメイドを選抜させた。
 条件に該当する者は、ジュリーという子ただ一人しかいなかった。十五の時から伯爵邸に上がり、これまで一度も嘘をついたことも言い訳をしたこともなく、皿一枚、グラス一つ割ったことがなかった。仲間の評判もよく、非の打ち所のない子だった。
 ジュリーは早速、前任者の老メイドから手入れの仕方を教わった。仕事は比較的楽で、ジュリーは「大変名誉なことだわ」と喜んでいた。展示室の一段高い、玉座のようなところに、つややかな絹の覆いをかけられた、ひとかかえほどある作品を見るまでは。
「これは、数ある旦那様が集められたものの中でも、一番の宝物なので、絶対にこの布をめくってはいけません。これの手入れは旦那様が直々になさいますから、貴女は何もしなくてよろしいし、してはいけません」
 しかしジュリーは老メイドの声が耳に入らないくらい、雷に撃たれたような衝撃を受けていた。大きく羽根を広げて羽ばたく蝶の輪郭をたたえたそのものは、ガレと人気を二分するほどの才能を持つガラス工芸職人であったジュリーの父の最高傑作のデザインと、あまりにもよく似ていたからだ。
 父は不運にも若くして病に倒れ、母と幼いジュリーを残して、惜しまれつつ亡くなった。
 工房の建設費などの借金があり、生活にも追われて、母は泣く泣く夫の作品の数々を売却していった。その母も、父の後を追うように世を去った。
 この世のものとは思われぬ、酸化コバルトの配合で、星々のようにきらめく「月光蝶」は、父の最高傑作であり、ジュリーと母のお気に入りであり、家族の絆の象徴であった。
 それがいま、まず間違いなく自分の目の前にある!
 ジュリーは早鐘のように打つ心臓の音を聴かれないように必死だった。
「…では要領は分かりましたね。くれぐれもよこしまな心を起こさぬように。神様がご覧になっていますよ」
 老メイドはそう言い残して養老院に入った。翌日から、ジュリーが一人で掃除をすることになった。各作品を脱脂綿に薄い石けん水をしみこませて拭き、面相筆で埃を払っていく…
 仕事はしんどいものではなかったものの、ジュリーの脳裏には、あの玉座の覆いの中身が気になって気になって片時も心の中から離れなかった。
(あれは絶対に、お父さんの「月光蝶」よ!)
 そう思うと、ガラス細工の巨大な蝶が、我が家の居間にあった頃の幸せな光景がまざまざと甦ってくるのだった。
 蝋燭の明かりに、七色の鱗粉を撒き散らすように輝き、両親の笑顔を映し出す蝶の羽根…
(あの蝶を、もう一度見たい!)
 ジュリーの思いは日に日に強くなっていった。
(何も盗もうという訳じゃない。ちょっと見るだけ。幸せだったあの頃のことを思い出したいだけ… それくらい罰は当たらないでしょう? だって、この蝶は、もともとわたしのお父さんが作ったもので、わたしたち家族のものだったんだもの…」
 結び目の形をしっかりと記憶したジュリーはとりわけ慎重に絹の布を取ったつもりだったが、どこかに良心の呵責があったのだろう、両手がいつもからは考えられないくらいブルブルと震えた。
 絡まった布がほんの少しねじれた瞬間、まるで見えない手が持ち上げてそうしたみたいに、宝石のようなガラスの塊がふわりと宙を漂って床に落ち、ガシャーンと音を立てて、布が絡まる大きな破片や小さな破片の塊に分かれて砕けた。

 ジュリーは全身から血の気が引き、心臓が止まったような気がした。
(このガラス細工の蝶が、自宅にあった時には、手を触れようと思ったことなんか一度もなかったわ… そう、こんな布なんかかけてあったのがいけないのよ。きっと盗み見しようとした者は、割ってしまうような仕掛けが…)
 どう思っても、何を疑っても、それが元の形が分からないくらいに壊れてしまったことに代わりはなかった。
 恐る恐る廊下へ出ると、誰もやってくる者はいなかった。
(よかった。気づかれていないみたい…)
 とりあえずホッと胸をなでおろした。
 幸い、主人の伯爵は旅に出ていて、あと二、三日は帰らない、とも聞かされていた。
(逃げようかしら。どこか遠い外国へ…)
 勇気もないし、実際にはできもしない逃亡計画を思い巡らせていたジュリーの脳裏に、ある考えが閃いた。
 それは、亡き父親の親友だった「どんな壊れ物でも元に戻してしまう」という評判の魔法使いのことだった。
「どうしても困ったことが起きたら、一度彼に相談してごらん」
 父は病の縁から、何度もそう繰り返していた。
 とりあえず箒とちりとりで大きな破片も小さな破片もガラスの粉もすくい取り、絹の布で包んで固く縛って台の上に戻したジュリーは、大急ぎで魔法使いの家に赴いた。
「ふむ、派手に壊れておるのぅ…」
 その夜、得意の術を使って誰にも見つかることなく部屋を訪れた彼は、ジュリーが包んだ絹の包みを開けもせずに言った。
「元に戻るでしょうか?」
「戻る」 魔法使いの言葉にジュリーは天国にも舞い上がる気持ちだった。
「本当に元どおりに?」
「ああ、ただし丸三日はかかる」
 天国に昇りかけていたジュリーは失速し、地獄へと落下をはじめた。
(旦那様…伯爵様は三日目の夜にお帰りになるご予定。ギリギリだわ)
「どうするのだ。元に戻すのか、戻さないのか?」
 魔法使いはいらついた様子で言った。
「どうかお願いします。しかしお礼が…」
 相手は何も答えずに、長くも短くもない呪文を唱えた。ジュリーは破片を包んだ袋が輝くでもなく。膨らむでもなかったので(こんなことで元に戻るのかしら?)と不安だった。「…いいか。これでこの破片は、三日のちには元の形に戻る。ただし、一つだけ守って貰わねばならないことがある。いまから三日間のあいだ、たとえどんなことがあっても、この包みを開けて中を覗いてはいけない」
「分かりました。何があっても開けません」
 次の瞬間に、魔法使いはジュリーの前から忽然と消えていた。
 一日目、二日目、ジュリーはいつもと同じようにコレクション・ルームの掃除をした。 台の上の包みは、いくら待ってもグシャリとひしゃげたままで、どうにも変化はなかったが、彼女は父と同じように父の友人を信じていた。
 そして三日目…
 包みがあれからまったく変化がないのを見たジュリーは初めて
(もしかしたら、騙されているのではないかしら?)と思った。けれども
(時が来たら、劇的に元通りになんだ)
 と思い直し、日課の掃除を続けた。
 窓から差し込む月光と星の光が壷や花瓶やランプなどのガラス細工をキラキラと輝かせはじめた頃、主人の伯爵が四頭立ての馬車で帰宅した。
 玄関でのお迎えの列にも参加せず、ジュリーは部屋に戻って包みを見た。
 すると、果たせるかな、包みは、ほぼ元通りの大きさに丸く膨らみ、かすかに収縮を繰り返していた。
「また、いいものいくつか手に入れてきたぞ。晩餐の前に飾りたいから頼む」
 伯爵の珍しく機嫌のよい声が階下から響いてきた。
(大変! すぐにこちらに来られるみたい!)
 焦ったジュリーは、魔法使いの警告を勝手にこう解釈した。
(膨らんで、元通りになった様子だったら、もう見てもいいんだ。第一、もし万一元に戻っていなければ、逃げ出さないと…)
 それでも包みの結び目に手を掛けたジュリーは、一瞬思いとどまった。
(あと五分、十分、可能な限り待つべきかもしれない…
 でも、でも、このままだと例え上手く行っても、わたしはもう一生、この「月光蝶」を見られないかもしれない。両親と暮らした、あの幸せだった家にあった、キラキラ輝く思い出のガラス細工を… そもそも、これを壊してしまったのは、一目見たかったからじゃないの!)
 止むに止まれぬ気持ちに押し切られ、ついに彼女は結び目を解いた。
 中から現れたのは、もぞもぞと蠢く、大きな黒い目玉をした節だらけの、五、六齢の黄色い月の光を反射する巨大なガラスの幼虫だった。

13.ブライディーが語る「陶器の子猫」

…デュード侯爵様のお話しをお伺いして、とても辛く、哀しいことを思い出しました。
 あれは、うんと小さい頃、貧救院に行く前、お母さんと一緒に崖の上の小さな家で暮らしていた頃のことです…

 その前の年に父が亡くなり、わたしは母と二人暮らしでした。母は小さな畑を耕しながら編み物や洋裁の内職をしていたので、いつも一緒にいることができました。
 わたしには宝物がいくつかありました。母が作ってくれた手作りの人形は、一つを除いて貧救院を卒業し、ロンドンに出てくる時に、泣いて別れを悲しんでくれた子たちに貰って貰い、服やアクセサリーも、斬れなくなったり似合わなくなった時に寄付しました。
 でも、より以前に、もっと思い出の品があったのです…
 それは、本物の子猫と同じくらいの、陶器の三毛猫で、物心ついて以来、唯一、一シリング以上を出して、元気に働いていた父に買ってもらったものでした。

 もう十数年以上むかし「巡回蚤の市」が近くの町にやってきた時のことです…
 久しぶりに両親に手を引かれ、古着屋や古本屋、古道具屋を見て回りました。一回り大きい服と靴と、童話の本を買ってもらったわたしは、とても嬉しくて弾むように歩いていました。父母は、自分たちのものは何一つ買っていなかったように思います。
 と、道ばたに灰色の麻布を敷いて、中古の雑貨品を売っているところで、埃だらけの一輪挿しや石鹸箱に混じって、一匹の背中を丸めて寝転がっている陶器の三毛猫の子猫が目に飛び込んできました。家族みんなで可愛がっていたのに、ある春の日を境に行方不明になってしまった子と、ブチの模様や表情までうり二つでした。
「どうしたんだい、ブライディー?」
 父はすぐにわたしの視線の先にあるものを見つけて、当惑した表情になりました。
 カードに書かれた値段は「一シリング半」とても、ねだれる値段ではありませんでした。
 母は、父に何か願い事をするような顔をしていました。しばらく間があったあと、父は腰を折ってこう言ってくれたのです。
「ブライディー、あの猫の置物、チビにソックリだな。手にとって見せてもらうか?」
 わたしは大きくこっくりと頷きました。
「さぁさぁ、お嬢ちゃん、可愛いだろ」
 黒いドレスの露店の寡婦がそーっと手渡してくれました。抱きしめながら見ると、お腹の模様までチビと同じでした。
「欲しいか?」
 父の問いかけに、長いあいだ答えられずにいました。
「欲しかったら、買ってやってもいいんだぞ」
「本当?」
 疑いのまなこで覗き込んだ父の瞳は、まっすぐにわたしを見つめ返していました。
「ああ本当だ。おまえが大事にするのなら」「欲しいよ、お父さん。買って。ずっと大切にするわ!」
 父はすり切れた財布から、値札のまま、泥の付いた紙幣を抜き出すと寡婦に手渡した。 わたしは父がいつものように、お店の人と交渉しないのを大層不思議に思っていました。(道具や農機具を買うときは、必ず値切って、時にはお店の人とけんか腰になるのに)と…
 寡婦の店主が黄色い新聞紙で、丁寧に幾重にも包んでくれているあいだに、わたしがそっと母のほうを見上げると、母はなぜかホッとしたような、かすかな微笑みを浮かべていました。
「さぁ、これでチビが帰ってきたな」
 父は笑顔でわたしに包みをしっかりと渡しながら言いました。
「でもねお父さん、もしも本物のチビが帰ってきたら、このチビは半額で引き取って貰えるかな?」
 一瞬、父も母もお店の寡婦も変な顔になったけれど、すぐに楽しそうな表情に戻りました。
「その時は、チビが二匹だ!」
「そうね、そうよね! チビだって一人じゃ寂しい、お友達が欲しいわよね!」

 家に帰ったわたしは、丁寧に包みを開いて、陶器の子猫を台所の床の片隅に置きました。
「おい、こんなところに置いたら、上から物を落としたとき、割れてしまうかもしれないぞ」
「でも、チビはいつもずっとここにいたから。ここがチビのお気に入りだったから…」
「そうか、そうだな。そうだったな」
 父はそれ以上何も言わず、そこが陶器のチビの居場所になりました。気のせいでしょうか母は、エプロンの端で目頭を拭っているようでした。

 ほどなくして父は病に倒れ、ほとんどお医者様に見て貰うこともなく、その年の冬に召されました。とても狭い家でしたので、病床の父の視線の先には、いつも陶器のチビが映っていたことと思います…

 それから、母と二人きりの生活が始まりました。
 父が亡くなったことは、悲しく寂しいことでしたが、それ以上に、母がめっきりとやつれてしまったことが、子供心に大変辛かったことを覚えています。
 ある日のこと、わたしが居間で人形で遊んでいると、台所のほうでガシャーンと音がしました。あわてて走っていくと、母が陶器のチビの上に鍋を落として、チビは四つ五つの大きな破片と、細かい小さな破片の数々に割れていました。
「ごめんなさいね、ブライディー」
 母は、ほとんど聞き取れないくらいの、かすかな低い声でいいましたが、それはわたしが(そう言って欲しい)という空耳で、本当は何も言わなかったのかもしれません。
 その時は泣きませんでした。
(わたしが、こんなところに置いておいたのが悪かったのよ…)
 正直、そう思って、よろず屋の茶色の紙袋に、大きな破片を入れていきました。その時は修復を試みる気持ちはなくて、そのまま瓦礫置き場に捨ててしまうつもりでした。
 ですが、片手に紙袋を持ち、歩きかけた途端に、
(もしかしたら、ほとんどきれいに元の状態に戻るのでは?)
 と言った気持ちがむくむくと頭をもたげてきて、そのまま物置小屋に行き、父が作ってあったニカワを取ってきて、大きな破片をつなぎ合わせようと試みました。
 けれども、幼かったせいか、それともそれはもう大人の上手な人がやっても元には戻すのは難しい状態だったのか、十分もたたないうちに諦めてしまいました。でも、瓦礫置き場には置かずに、紙袋は自分のベッドの下に隠しました。
 夜、ベッドで横になると、昼間はそうでもなかったのに、
(これは、両親揃って最後に出かけた蚤の市で買ってもらったものなのに)とか、
(お父さんがまだ元気だった頃に、最後に買って貰ったものなのに)とか、
 父や母の笑顔や、いなくなったチビたちの姿などが次々に甦ってきて、その時初めてポロポロと涙がこぼれ、灰色のシーツを濡らしました。
 厳しい冬が間近に迫ったある秋の日、母が寂しそうな声でこう言いました。
「ブライディー、今度の日曜日、また町に古道具の市が立つんですって。おまえももう大きいんだし、一人で行って自分の欲しいもの…服やらお菓子やらを…買ってきたらどうだい?」
「いえ、お母さん、もういいわ。要るものはもうほとんど買ってもらっているし、お金だってもったいないし…」
 そう答えると、母はとても落胆したような表情になりました。
「そうかい、じゃあ、お母さんと一緒に行かないかい? 来週を見送ると、もう来年の春まで難しいと思うから」
「いいわよ。行きたかったらお母さんだけ行ってきて。わたし、お留守番をしているから」
 その時は顔すら上げず、何気なく言った言葉でしたが、後になってとても後悔しました。
 日曜日は寒い風が吹き始めるいにくの日になりました。母は一人で町へ行き、咳をしながら帰ってきました。
「お帰りなさい! 何か買ってきた?」
 しかし母は何も買い物をしていませんでした。
「ごめんよ。特にいいものがなかったんだよ」
 母はとてもガッカリした表情でしたが、なぜだかは分かりませんでした。
 その年の冬、母は風邪をこじらせ寝込みました。近所のおばさんたちが入れ替わり立ち替わり訪ねてきてくれましたが、お医者さんは一度か二度しか呼ぶことができず、あっけなく召されてしまいました。
 わたしは、泣く暇もなく、ただただ呆然としていました。
 お葬式のミサを挙げてくださった町の神父さんに付いて、シスター・セアラ様がやってきて、わたしはダブリンの施設に入ることになりました。
「きょうだいが一度にいっぱいできますよ。ダブリンは賑やかだし、いろんな船も見られるし、汽車にも乗れますよ」 セアラ様は笑顔でそう言って下さいました。旅立ちの日は日曜日で、町にはまた市が立っていましたが、わたしはもう少しも目をやる余裕はありませんでした。
 そんな時、あの黒いドレスをまとった寡婦の露天商が声を掛けてきたのです。
「ごめんなさいね、お嬢ちゃん、あんたのお母さんに頼まれていた陶器の子猫だけれどね、もうどこを探してもなかったんだ。お金は返すよ!」

14.再びシスター・セアラが語る「悪魔の峠」

 オルゴールの箱に仕掛けられていた悪魔の罠を見破ってしばらくしてから、また司教様から悪魔祓いの使命を授かりました。
「田舎…僻地なんだがね、立派な道があるというのに、誰も通りたがらないところがあるのだよ。ときどき馬車や人間が谷に転落するのだ。落ちたら最後、遺体は上がらない。
 本当に悪魔の仕業なら、神の栄光を示して滅ぼし、ほかに原因があるのなら、暴いて欲しい」

 わたしは一人で出発しました。最寄りの村では村人たちに口々に止められました。
「お若い別嬪のシスター様、悪いことは言わねぇだ。およしなさい。わしらは、あの道のことは諦めているだ」
 村長の言葉に村の人々は大きく頷きます。
「皆さんの中に、何か心当たりのある人はいませんか?」
「だから呪いなんだよ」 若者が立ち上がって語りはじめました。
「むかし、この村に一人の美しい娘がいて、峠を越えたところにある町の領主の息子と恋をしたんだ。二人は相思相愛で、領主の息子は水晶の首飾りを娘に贈った。
 だけども、身分違いで決してここでは一緒にはなれない。息子は『一緒に駆け落ちしよう』と約束し、手はずを整えた。
 ところが、彼には兄がいて、兄のほうも娘に惹かれていた。よこしまな兄は(もしも弟のほうに万一のことがあったら、娘の心は自分のほうに向くのではないか)と考えたんだ。
 兄は多少の魔法が使えたらしい。これを使わないという手はない…
 ある夜、弟はついに馬車でもって村に向かって出発した。屋根には鍋やら釜から、所帯道具一式が詰まれていた。
 峠にさしかかった時、折悪しく霧が出てきた。弟は手綱を引き、スピードを緩めて慎重な上にも慎重に峠を越えようとした。
 とその時、突然、馬はいななき竿立ち、滅茶苦茶に走ったかと思うと、崖から真っ逆さまに転がり落ちていったんだ。
 悲報を聞いた娘は、ほどなく同じ崖から身を投げた。兄の目論見は見事に外れてしまった。
 以後、あの峠は呪われて、いまだに時々犠牲者が出るんだ」
 わたしは(眉唾だ)と思いました。(事故が多発する道は、ほかにいくらでもあります。悪魔の呪いなんかではなく、きっと他に原因があるのに違いないわ)と…
 翌日の早朝、わたしは無理に荷馬車を一台お借りして峠へと向かいました。順調に走れば、昼頃には峠に、夕方には峠の向こうの町に到着する予定でした。
 一頭立ての馬車が余裕を持って通れる道、太陽はさんさんと降り注ぎ、まったく危険なところなどありませんでした。
 ところが山を登るに従って、次第に雲が厚くなってきました。しかし雨具も用意しています。馬も大人しいと評判の馬でした。
 ちょうどお昼頃に、峠のてっぺんに着くことができました。
 わたしは恐る恐る崖の下を覗いてみました。アイルランドでは珍しい千尋の谷で、下のほうは木立に覆われて何も見えません。あたりを見渡しても特に怪しげなものや不審なものは見あたりません。天気のいい昼間なら、特に危険なところなんかない。無事に向う側の町にたどり着き、明日出発した村に引き返すことができれば『十七歳のシスター見習いが何事もなく往復したのだから安全だ』という噂が広まるはずです…
 自分はビスケットで軽い食事をし、馬に干し草と水を与えて御者台に乗り、少し進んだところで空に稲妻が走り、雷鳴が轟きました。 驚きいななく馬を、手綱を引き、懸命に御そうとしていてたわたしの頬に、何かの虫がひっつきました。粘る糸を引いていたところからすると、蜘蛛…銅貨くらいの小さな蜘蛛でした。
 蜘蛛は素早くわたしの首と襟の隙間から胸元に入り込みました。肌の上をカサカサと歩き回る感じがしました。
 町で育った者なら、気色悪がって取り乱すかもしれませんが、わたしも田舎の生まれ育ちでしたので、そう慌てずにすみました。
 ところが… その一匹のあと、次の一匹、また次の一匹というふうに次々と顔にかかり、修道服の中に入ってくるではありませんか! 轟然と降り出した雨と雷鳴に、馬はますます暴れます。とうとうわたしは馬車を諦めて飛び降りました。
 その直後、馬車は崖から真っ逆さまに落ちて行きました。馬には可愛そうなことをしたと思っています。
 幸い、近くに洞穴があったので、服を脱いで小さな蜘蛛をはたき落としました。使命は達成、(天候に気を付け、養蜂家が使うような顔を覆う網のようなものを着用し、服装を工夫すればそれですむことよ)と肩の荷を降ろしたちょうどその時…
 洞窟の奥から、シャッシャッと糸を吐き出すような音が聞こえてきました。そっと覗くとオレンジ色の光が二つ、瞬いていました。(あれが親蜘蛛ね。問題ない、専門家に頼んで退治してもらえばいいのよ)
 そう思った時、巨大な蜘蛛の首の節に、何かキラキラ輝いているものが見えました。
 何だか分かったとき、さすがのわたしも嵐の中に逃げ出しました。
 それは、水晶の首飾りでした。

15.コナン・ドイルが語る「肉体交換の落とし穴」

 ぼくら心霊研究協会のあいだでは、「肉体は霊魂の入れ物に過ぎない」と考えている人は少なくない。
 トリックではない霊媒が、死者のメッセージを伝えることができるのは、死者の霊魂が一時的に霊媒の肉体に間借りするからだ、と考えられている…

 さて、もしそれが正しいのなら、命令の従う若々しい肉体を用意でき、そこに乗り移ることができるのなら、その者は病気や老衰では死なないことになる。
 予めそういう肉体を用意しておいて、いざという時は乗り移ればいいはずだ。

 仮にウォードという名前にしておこう。
 ウォード氏はおよそ七十歳で独身、そろそろ人生の黄昏時の年齢だった。しかし事業で成功していて金はある。おまけに、趣味でかなりの魔法の研究をしていた。
 ある日、彼は思い立って、自分が二十歳くらいの時の写真付きで、新聞広告を載せた。「養子募集。健康で以下の条件を全て適合する若者。
一、性格はこれこれ(学究肌で辛抱強い、というウォード氏の性格の良いところが書いてあった)
二、趣味はこれこれ(チェスや神秘学に興味がある、というウォード氏の志向が書いてあった)
三、ウォードの名前を名乗り、ウォード二世として活動すること。

 何人かの若者が応募してきて、チャーリーという若者が選ばれた。チャーリーはいろんな魔法の本を読んでいて、ウォード氏直々の口頭試問でも、専門的な質問によどまず答えることができた。性格も似ていて、ウォード氏は面接の時間にわざとひどく遅れて行ったのだが、半数以上の応募者が「騙された」と言って帰ってしまうなか、チャーリーは文句一つ言わずに待っていた。
「チャーリー、おめでとう」 ウォード氏はにこやかに切り出した。「さっそく明日から、ロンドンにあるわしの屋敷で、『ウォード二世』として暮らしてくれないか? わしは田舎の別荘に引退する。おまえは商人たちや、わしの魔法仲間に大して『わしの名代』として振る舞ってくれればよい」
「嬉しいです、お義父上!」
 失業中のチャーリーは、天にも登る思いだっただろう。ウォード氏の養子として、さらに教養を身につけ、身のこなしも次第に金持ちのそれになっていった。
 しっかりとした健全な精神を持っている者は、滅多なことで肉体を乗っ取られたりすることはなかったから、チャーリー本人も、回りの人々も、露ほども疑わなかった。
 そもそも魂を入れ替えたり、肉体を乗っ取ったりする術は、アルハザードのような偉大な魔法使いでも大変難しいのだ。とてもではないがアマチュアの、魔法研究家如きがおいそれとできる術ではない…はずだった。

 ところがウォード氏にはそれができた。
 犬と猫、猫とネズミの魂を入れ替えて、ネズミに猫を、猫に犬を追いかけさせることができたのだ。なぜだかは分からない。単にそれだけに限られる先天的な才能、というだけだったのかも知れない。
 ウォード氏は、その能力をひたすら隠し、人に悟られないようにしていた。
(この超能力は、自分が年老いて、ここ一番という時に使わなければならない。相手に用心警戒をされてしまっては、成功はおほつかず、すべてがおしゃかになってしまうかもしれない…)
 一生というか、人生を賭けた作戦は、ほぼ順調だった。
「ウォード氏は、魔法に詳しいけれどもただの愛好家。大それた事は何一つできないし、従って思いつきもしないだろう」
 というのが彼の友人知人たちのイメージだった。
 乗り移りのタイミングも難しかった。自分が元気で歩き回って喋れる時に肉体を交換してしまえば、老人の身体をあてがわれたチャーリーが、入れ歯から泡を飛ばしながら
「騙された! 訴えてやる!」
 と言い出すだろう。
 かと言って、ウォード氏本人が寝たきりになり、満足に物を言うこともおぼつかなくなってからではとても術どころではない。
 そこで、とっておきの秘策があった。
 彼は、年を取って、認知症になったフリをしはじめた。わざと人の名前を間違え、大切にことも思い出せない芝居をし始めた。
 さっそく養子のチャーリーが心配して飛んでやってきた。
(しめしめ…)
 ウォード氏は思った。(ここで入れ替わったら、チャーリーが泣こうがわめこうが、ボケ老人のたわごとだと思われるだろう。わしは若い肉体を手に入れることが出来、万々歳じゃ…)
 ウォード氏は乾坤一擲、霊魂交換の術をかけた。
 術は上手く行った。チャーリーは何故か文句を言わなかった。
(上手く行った!)
 見事若返りに成功したウォード氏の耳元に医者が深刻な表情で囁いた。
「お義父上のお見舞いもすませたことですし、手術の日取りはいつになさいますか?」

16.サダルメリク・アルハザードが語る「夢の中の魔神」

『チャンスが欲しくないか?』
 宮殿付きの金銀宝石職人のハッサンが、くたびれ果てて寝ていると、夢の中で、藍色の大きな身体をした太鼓腹の魔神が出てきてそう尋ねた。
「欲しいです」
 ハッサンは答えた。高価な貴金属を扱っているとはいえ、職人の給料は知れている。 毎日太陽が西に傾くと、親方が指輪や首飾りや、アラベスク模様のブローチやペンダントを紫檀の宝石箱に入れて受取り、足りないものがないか、目方が軽くなっているものはないか、片眼鏡や小さい天秤を使って入念に調べ、担当の役人に渡す。うやうやしくそれを押し頂いた役人は、衛兵に付き添われて宝物庫に戻しに行く、というのが日課だった。
「明日、弁当の籠の中に、クークー鳴かない鳩を入れて出勤し、仲間が何かに気を取られているあいだに、値打ちの高いダイヤモンドを二粒三粒、その鳩の筒に入れて放ち、後で安全な場所で回収するのだ」
 魔神は大きな目玉で睨み付け、金の腕輪をした太い腕を振り回しながら言った。
「そんなことをすれば、夕方、帰りの検査の時に、たちまち足りないことがバレてしまいます」
「明日、日暮れの前に、同僚と些細なことで喧嘩になって刃傷沙汰に及んだ衛兵が、おまえたちの仕事部屋に躍り込んできて、自暴自棄になっていくつかの宝石を奪う。だが、取り囲まれ追い詰められて窓から落ちて死ぬ。彼が鷲づかみにした宝石は、ポケットの中や落下地点周辺から回収されるだろうが、中に二つ三つ、見つからないものがある、という寸法だ」
 魔神は面倒くさそうに言った。
「急にそんなこと言われても信じられません。第一、もしその予言が本当だとしても、どうして貴方が、見ず知らずのぼくに教えてくれるのですか? 『お礼に半分よこせ』とか?」
「謝礼などはいらん。わしがおまえにこのことを教えるのは、ただの気まぐれで、信じる信じぬはおまえの勝手だ」
 そう言い終えると魔神は煙とともに消え、ハッサンは夢から目覚めた。
(確かに…) 彼は考えた。(…いま、ぼくたちの仕事部屋を警備している衛兵は余り仲が良くなさそうだ。話をしているところを見かけたことがないし、睨み合っているように見える。…でも待てよ、毎日そんな光景を見ているから、さっきのような夢を見たのかも知れない。そうだ。きっとそうに違いない。 しかしだからと言って、刃傷沙汰に及ぶ、というのは誇大妄想のような気がするし、ましてそれが明日起きる、なんて…)
 苦笑いしながらいつものように朝の支度を整えて、出勤しようとすると、下宿の窓の下に巣を作っていて、いつもパン屑をやっている普段からあまり鳴かない鳩が、ハッサンのほうを見て小首をかしげていた。
(一つ、信じてみるか…)
 鳩をそーっと捕まえると、抽斗の中から小さな筒を取りだして脚に付け、弁当籠に隠して布をかぶせた。
(数人いる同僚が、いっせいに気を取られるようなことがなければ、このまま持って帰ればいいだけのことだ)
 ハッサンが仕事場に入ろうとすると、二人の衛兵はいつもにも増して険悪そうにお互いを睨み合っていた。
 幸い鳩は、仕事中ずっと静かにしてくれていた。
 長い昼休みが過ぎ、夕陽が長い城壁の向こうに広がる西の砂漠に沈みかけて、再び仕事にかかろうとした時、果たして…
 扉の外で何か言い争うような声がしたかと思うと、次第に怒鳴り声に変わった。
「なんだと! もう許せん!」
 親方と何人かが仕事道具を置いて絨毯から立ち上がって外へ出た。
「うるさい! おまえらには関係のないことだ!」
 残りの職人たちも外へ出た。
 ハッサンの胸はどきどきと高鳴った。ついて出るフリをして、自分が扱っていた小粒だが非常に高価なダイヤをつまむと、籠の中の鳩の筒に入れて蓋をし、鉄格子越しに手を伸ばしてそっと窓の桟に置いてやった。
 仕事仲間の目はすべて扉の外、廊下のほうを向いていた。彼も素早くその中に加わった。
「うわーっ!」
「やめろ!」
「ただではすまないぞ!」
 不揃いな悲鳴とともに、偃月刀を抜きあった二人の衛兵がドカドカと部屋になだれ込んできた。彼らは作業机にぶつかりながら偃月刀を打ち合った。
 いくつかの机はひっくり返り、宝石貴金属が床にこぼれた。
 刀を交わすこと数合、とうとう片方の衛兵がもう片方の胸を突き刺し、目に付いた宝飾品を鷲づかみにして窓から桟を伝って逃げ出した。
 親方も職人たちも、腰を抜かし、壁にへばりついて呆然としていたが、ハッサンは、まるで影絵芝居でも見るように、その様子を冷静に眺めていた。

 殺したほうの衛兵は、恨みを晴らしてホッとしたのだろうか、ただちにやってきた憲兵隊に抵抗することはなく、その場で斬り殺され、下の地面に落ちた。
 ハッサンは、犯人に哀れを感じた。
(彼の乱心のお陰で、ぼくは一生遊んで暮らせるだけのダイヤモンドを手にしたかもしれないんだ)
 そう思うと感慨もひとしおだった。
 一段落すると、早速親方と憲兵隊が一緒になって、騒ぎで散らかった宝石が揃っているか調べはじめた。犯人がひったくった宝石は死体のポケットから見つかった。
 しかしさらに、高価なダイヤモンドが三つほど、無くなっていることが分かった。
 当然の成り行きとは言え、ハッサンは頭の上から氷水を浴びせかけられたようにゾッとしていた。
(止めておけば良かった。もしも時間が戻せるのなら… あんな魔神の言うことを聞くんじゃあなかった)と、これ以上はないくらいに後悔した。
 ハッサンや同僚たちに対する取り調べは過酷を極め、耳の穴、鼻の穴、他の穴は隅から隅まで検査され、最後には下剤まで飲まされたが、ダイヤは誰の身体からも発見されることはなかった。
 結局、それらは剣戟の最中に窓から放り投げられ、きらめきながら落ちるのを見た誰かが拾ってネコババした、ということで決着をみた。
 無事に無罪放免となったハッサンは、下宿に帰ってさらにドキドキしながら窓の外の桟を見た。すると、脚のところに小さな筒を付けた鳩が、ちゃんと戻っていた。
 あたりを入念に見渡してから鳩を抱き上げたハッサンが筒を取り外し、蓋を取ってみると、中からまさしく三個のダイヤが現れた。
 夜、ハッサンが眠ることができず、輾転反側していると、夢の中に再びあの不気味な魔神が現れてこう言った。
「仕事は辞めるなよ。金遣いを荒くしてもいけない。そのダイヤは、わしの指示があるまで大切に持っているのだ、分かったな?」 狐につままれたような気持ちのハッサンだったが、しばらく待っていると、また夢の中にあの魔神が出てきてこう言った。
「バクダッドのどこそこに、駆け落ちした十何番目かの王子と、女官のカップルがいて、ひどい喧嘩をしている。三個のダイヤのうち二個までを使って女官のほうを引き取るのだ。ただし、三個目は未来永劫、決して使ってはならない」
「ええっ、ダイヤはともかく、生身の女性を引き取ったりすれば、困ってしまうのでは?」
 ハッサンがしぶしぶ教えられた場所へ出かけて行くと、そこではとある貴公子と、黒いヴェールで顔をスッポリと隠した女性がしきりに何事かを言い争っていた。
「すいません。お取り込みの最中恐縮ですが、もしもこちらの女性を諦めて下さるのなら。このダイヤを差し上げますが、如何ですか?」
 手のひらに収まるくらいのケースを開けて示された宝石を見て、貴公子の表情が変わった。
「一つじゃあ足りないな」
 唇を歪めながら言う男に対して、ハッサンは二個目のダイヤを取りだした。
「本当にいいのか? 後になって『気が変わった』などと言うなよ!」
「申しません」
 十何番目かの王子は、ダイヤの入った宝石ケースをひったくると、逃げるようにして去っていった。
「さて、これで貴女は自由の身のはずです。
 どちらへでもお行きなさい」
「有難うございます。見ず知らずのかたが、どうしてこのような親切をしてくださるのですか?」
 そう言ってヴェールをはずした女官の顔を見て、ハッサンの心が揺らいだ。長い黒髪、物憂げな瞳、上品な鼻、官能的な唇。どこをとっても彼が長年夢に描き続けてきた女性だった。
「もしもぼくがお嫌いでなければ、結婚を前提におつき合いしてください!」
 ハッサンの一目惚れのプロポーズに、女官はこっくりと頷いた。
「仕事を投げ捨ててきたわたしは、家族のところへも戻れません。どうかよろしくお願い申し上げます」
 二人は結婚し、子供たちにも恵まれた。
 ハッサンは魔神の言いつけどおり「宮殿付きの宝石職人の仕事」を真面目にこつこつと続けていた。
(いまのぼくのこの幸せは、他人様の諍いを元手に手に入れたものだ。だから、決して夫婦喧嘩はするまい)
 自分なりにそんな誓いも立て、心優しく穏やかに毎日を積み重ねて過ごしていた。
 そんなある日、妻が病気になった。病は重く、町の医者たちはことごとく匙を投げた。 名医と呼ばれる医者にかかるためには、相当の費用がいる。ハッサンは魔神との約束を破って三個目のダイヤを外国から来た商人売ることにした。
(あの事件から長い月日が流れた。よもやもう覚えている者などおるまい)
「治療費は、これを売って工面するから心配しないように」
 ダイヤを見せられた重病の妻の表情がみるみる鬼のようなものになった。
「あなた… そのダイヤ、わたしがお仕えしていた姫様のもので、遠い昔にある騒ぎの最中に行方知れずになったものと、色といい形といい、そっくりですが…」

17.ウォーレス博士が語る「白い闘魚」

 わたしの友達には、実にいろんなことを研究している者がいてね。それはもう、ほ乳類、鳥類、爬虫類、両生類、植物、そして魚類…

 仮にヒアリー博士としておこう、ヒアリーは額の広い、いかにも賢そうな顔をした、魚、それも闘魚の専門家だった。
 シャムや英領ビルマ、仏領インドシナ、台湾、英領マレーシア、英領インドネシアなどを回って、様々な種類の闘魚を現地人から買い集めてはせっせとロンドンに送っていた。
 ご存じだろうが闘魚というのはキノボリウオ科の硬骨魚の総称で、大きさは五センチから十センチメートル。色彩はさまざまだが褐色で光沢のあるものが多い。雌は水面に泡で巣を作って産卵する。雄は体色が美しく、強い闘争性をもつ。
 東南アジアの各地では、狭い目のガラスの水槽に二匹の闘魚を入れて闘わせる。もちろん、どちらが勝つか、賭の対象だ。
 負けたほうの闘魚が哀れにも腹を上にして水面に浮かぶまで、女房が洗濯をして稼いだ小銭が、ハンケチの上に置かれて、その回りで男たちが怒鳴り、叫び、拳を振り上げる…

 ぼくはロンドンのヒアリーの研究室によく遊びに行った。なにしろ、一緒に入れておくことができないものだから、洗面器くらいのガラスの水槽が棚の上に縦横ずらりといっぱい並んでいた。
「こんなに別々だと、世話が大変だね」
 ぼくは半ば冷やかすように言った。
「いやあ、ウォーレス。でも俺には夢があるんだ」
 ヒアリーは闘魚に餌をやって回りながら言った。
「夢、と言うと?」
「狭いところでたくさん飼っても、争わない闘魚を作り出す、という夢だよ」
「それは難しいだろう。闘魚というのは、自分の縄張りの中に入ってくる別の闘魚は、すべて排斥してしまう生き物だ。だからこそ闘魚と名付けられているんじゃないか」
 わたしは、緑の藻が揺れる水槽の中で一匹ずつ泳ぐ褐色の魚を見つめていた。
「できるさ。人間は太古の昔、狼の中からおとなしいやつを選んで飼い慣らし、こんにちの犬たちにしたんだ。現代人の、現代科学を学んでいる俺たちが、魚をおとなしくできないでどうする?」
 ヒアリーは一つの水槽から、一匹の白い闘魚を上部にとぐろを巻いた龍の飾りが付いている戦闘用の狭いガラスの鉢に移した。それから、もう一匹、別の白い闘魚が入っている水槽を持ってきた。
「金を賭けようか」 わたしは財布から十シリング銀貨を取り出して水槽の前に置いた。
「…ぼくはこの白っぽいのが勝つと思う」
「現地の男たちは、いっぺんにそんな大金は賭けないよ」 ヒアリーは苦笑いした。「こちらで言うところの一ペニー銅貨を一枚ずつ賭けて、日長一日、安い酒を片手に意気軒昂するんだ。土の上には、敗れてはらわたをはみ出させた死骸が、次第にうずたかく積まれていって、それがある程度たまると、負けが込んで金を借りているギャラリーが捨てに行くのさ。その間ずっと嫁さんを働かせてね」 彼は微笑みながら、二匹目の、やや灰色がかった闘魚を見せ物用の水槽に入れた。
 二匹はたちまち突っかかり、争いはじめると思ったが、まるで普通の同類の魚のように、穏やかに泳ぎ続けていた。
「ほほぅ、すごいじゃないか!」 わたしは水槽に眼鏡を当てるようにして成り行きを見守り続けた。「現地では、こんな場合どうなるんだい。ノーゲームかい?」
「現地ではあり得ない。必ずどちらかが勝ち、どちらかが負ける。君がいま目の当たりにしているのは、太陽が没することのない大英帝国の都ロンドンだからこそだ」
「闘魚というやつは、たとえいくら餌をたらふくやっていても、縄張りを侵すものには食いつくんじゃあ?」
「そうだよ、ウォーレス。思えば人間だってそうじゃないか。どんなに文明が進歩しても、文化が豊かであっても、産業が発達して生活が豊かになっても、戦争は無くならない。それどころか、近頃じゃあ大量殺戮兵器のオンパレードだ。俺が密かに培っている理論が正しいと証明されれば、それに対していくらかの歯止めが掛けられると思うんだ」
 二匹の闘魚は、結局いつまでも争いを始めなかった。
「立派なご高説だが、果たして可能なものなのかい?」
「ああ、人間での実験は難しいが、魚はいくらでも手に入るからね。俺の夢は、風呂桶くらいの水槽の中で、何十匹もの闘魚を飼うことなんだよ」
 それからしばらくして、わたしは再びヒアリーの家を訪れた。ベルを押しても応答が無く、玄関に鍵がかかっていなかったから、
「ごめんください」と言いながらそのまま中に入った。
 部屋には彼が言っていた風呂桶ほどの水槽が置かれて、中には何十匹もの闘魚が泳いでいた。
(実験は成功したんだ!)
 そう思った瞬間、藻の合間に、何か白いものが見えた。そっと近寄ってみると額の広い、髑髏と骸骨だった。

18.コナン・ドイルが語る「死刑囚の夢」

 イギリスではない、ヨーロッパの、とある国での話だ。

 その国の王様が、心霊学に凝った。
(人間は死んだらどうなるのか? 知りたい、どうしても! 神父さまや牧師様の言うように、審判を受けて、天国に行ったり、地獄に堕ちたりするのか、それとも無神論者の言うように、ほとんどの者が生まれる以前の記憶を持っていないように、意識というものは消えて無くなってしまう…無に帰る、のか?) はじめのうち王様は、世界じょうから有名な霊媒たちを呼んで、死者たちに「あの世」の様子を語ってもらうだけで満足していた。 霊媒によって呼び出された霊たちは、天界の素晴らしさや地獄の悲惨さを口々に語った。 しかし王様は次第に退屈し始めていた。
(なるほど、魂や天国を信じれば心の安らぎを得られることは間違いない。死後は何もなくなる、と思うよりはよほど道徳的であり、素晴らしいことだ。しかし、余はいやしくも一国の王である。いま一歩、踏み込んだことを知りたい!)
 王は、殺人などの重罪を犯した死刑囚たちに、家族への報奨金の支払いを代償として、次のような実験を受ける者を募った。

「致死量ギリギリの麻薬を注射する。それで絶命すれば、それをもって死刑の執行とする。
 息を吹き返した者は、もし夢か何かを見たら、それを嘘偽りなく語ってもらう。それから罪一等を減じて無期懲役とする)
 縛り首よりは苦痛が少なそうだ、ということで志願者が何人か名乗り出た。
 王の考えでは以下のようになるはずだった。(死刑囚のうち、心から悔い改めている者は天国の情景を見るはずだ。そうでない者は地獄を…)
 実験は開始されたが、一人を残して全員が息を吹き返すことなく絶命した。
 最後に残ったのはハンスという、妻殺しの容疑で有罪の判決と死刑の宣告を受けていた若い男だった。
 ハンスは、捕らえられた時から一貫して「自分は無罪だ。絶対にやっていない!」と繰り返し主張していた。
 目撃者はいなかったものの、夫婦のあいだで喧嘩が絶えなかったこと、アリバイがなかったことなどから、死刑の執行を待つ身になっていた。
「オレは無罪だが、その実験をやってみる。 首尾良く魂が一時的に離脱できたら、妻が殺されたあの日、あの時に戻って、真犯人の姿をこの目で見て確かめ、できることならば取り憑いて呪い殺してやる!」
 反対者は数多くいた。
「ハンス君の無実を信じる会」の二人の友人たちは、
「ハンスは死刑囚の中でただ一人、動かぬ証拠がない者だ。焦って執行するべきではない」
「裁判をやり直すべきだ」
「麻薬なしに罪を終身刑に減じるべきだ」
 という署名運動を始めた。
 しかしハンスは友人や世論の支援を断った。
「君たちの気持ちは大変嬉しいが、無罪なのに、終身刑というのは、考えようによっては死刑よりも悲惨なことだ。俺が無実だということは、どこかに真犯人がいて、野放しになっていることに他ならない。俺はそいつに正義の鉄槌を下してみせる!」
 いよいよ実験の日がやってきた。
 執行官や検察官、医師、科学者、著名な霊媒たちが囲む中、ベッドに縛り付けられたハンスに致死量ギリギリの麻薬が注射された。
 王もまた、そんなハンスの様子をマジック。ミラー越しにジッと眺めていた。
 数分後、ハンスは何事かをつぶやきはじめた。
「…おまえたちだったのか! まさか、信じられない! 信用していたのに!」
「…どんなに謝っても許しはしないぞ!」
 医者は蘇生のためのマッサージを始めた。「おい! ハンス、真犯人を見たのか? だったら早く目を覚まして教えてくれ!」
 検察官は大いに慌てた。王もいてもたってもいられなくなって隠し部屋から飛び出してきた。
「目を覚ませ、ハンス!」
「もういい、あとは我々に任せろ!」
「真実を告げてくれ!」
 しかしハンスは彼らの言うことを聞く耳を持たなかった。
「俺はもう、夢も希望もない身だ。こうしてやる! こうしてやる!」
 血の泡を吹きながら、ハンスは他の死刑囚と同じように絶命した。

 数刻後、ハンスの友人二人が、それぞれの自宅の居間と寝室で、心臓麻痺を起こして死んでいるのが発見された。
 彼らは社会的地位の高い、信頼できる人物たちで、事件のあった時間は二人で酒を飲んでいた、あの「ハンス君を救う会」の代表たちだった。

     (次のエピソードに続く)





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