ブライディー・ザ・マジックメイド

「ブライディーが占いができるようになった訳」

「嫌だ! ダブリンなんかに行きたくない! ここにいるんだ!」
 幼いブライディーは、家財道具がすっかり持ち出されてガランとなった、崖の上の家のポーチにしゃがみ込んで、涙をポロポロこぼし、顔をくしゃくしゃにして言った。
「ブライディーちゃん、お父さんとお母さんは天国にいかれたのですよ。つらいことを言うようですが、もう、いくら待ってもここには帰ってこられないのですよ」
 幼いブライディーを説得するために、ダブリンの教会の貧救院からやってきた、七つ八つしか年の違わないシスター・セアラは、悲しげな微笑みを浮かべながら、自分も同じようにしゃがんで語りかけた。
「嘘だ! お父さんとお母さんが、あたしを見捨てて行くはずがないもん! 町で買い物をしていて迷子になった時も、一生懸命探してくれたもの! この近くで帰り道が分からなくなったときも、真っ暗になっても大きな声で名前を呼んで探してくれたもの!」
 けれどブライディーには分かっていた。
 父も母も、花とともに柩の中に納められ、自分もその中に野の花を入れたことを…
 町からやってきた神父様がお弥撒を上げてくださったあと、柩は近所の人たちによって土の中に埋められたことを。もしいるとすれば両親は、共同墓地の真新しい木の十字架の下に眠っているということを…
「…いいわねぇ、ブライディーちゃんには…」 シスター・セアラは羨ましそうに言った。「…本当に優しいお父さんとお母さんがいて」
「えっ、シスターのお父さんとお母さんは、そんなに怖い人だったの? すぐに怒ったり、怒鳴ったり、ひっぱたいたりする?」
 ブライディーは泣きやんでシスターの顔を見上げた。
「うううん」 若いシスターはマリア様のような顔を曇らせた。「わたしには、お父様もお母様もいないの。ある冬の寒い朝、貧救院の前に捨てられていたらしいの」
「えっ?」
「セアラという名前も、院長先生につけて頂いたの。両親と買い物に行った思い出もなければ、プレゼントを貰った思い出もないわ」
「そんな…」
「でも、わたしには数え切れないほどのお父様やお母様やきょうだいがいるの。神父様や司祭様はみな父様だし、年上のシスターは皆母様や姉様のようだし、施設の仲間は皆きょうだいのようなものよ」
「本当? 怖くない? 意地悪しない?」
「実の親でもおっかない人はおっかないし、血のつながったきょうだいでも喧嘩をする時はあるでしょう?」
 セアラは片目をつむってみせた。
「それは…」
「とりあえずわたしがあなたのお姉ちゃんになってあげる」
 シスター・セアラは笑顔で言った。
「お姉ちゃん…」
「そう。もしも万一、ブライディーちゃんに意地悪をしたり、いじめる人がいたら、お姉ちゃんが必ず守ってあげる。約束するわ」
「本当に?」
「本当よ」
「本当に本当?」
 ブライディーは泣き濡れた顔を、すり切れたドレスの袖でゴシゴシとこすってシスターを見上げた。セアラは懐からハンカチを取りだして拭いてやった。
「ほ・ん・と・う… さぁ、ブライディーちゃん、いつまでも悲しんでいると、お父様もお母様も、安心して天国で暮らして行くことができないわ。いっぱい勉強をして、いろんなことを学んで、ご両親を安心させられる『さすがわたしたちの娘だ』と誇りに思って貰える立派な大人になりましょう! 神様はもちろんのこと、ご両親も、きっと守ってくださるわ。だって、あなたのことをとても愛していらっしゃったんですもの」

 汽車はときどき「ボーッ ボーッ」と汽笛を鳴らし、黒い煙を吐きながら、ガタゴトと走り続けた。
 三等客車の固い椅子に丸く座ったブライディーは、飛び去っていくアイルランドの田園風景が、自分のいままでの、そう多くなかった、幸せな家庭の思い出と重なって見えていた。
「ねぇ、セアラ様。あたしもシスターになれるかな?」
「ええ、なれますよ。でも、シスターだけが、神様がお喜びになる仕事ではなくってよ。例えば看護婦さんも、メイドさんも、人のために働く立派な仕事ですよ」
 セアラは読みかけていたラテン語の本に押し花の栞を挟んで閉じて言った。
「セアラ様はどうしてシスターの道を選ばれたのですか?」
「神様やマリア様なら、決してわたしをお捨てにならないと思ったからです」
 即座の返答のあと、ややあって、シスターはこうつけ加えた。
「それに、ブライディーちゃんのような子を、一人でも幸せにしたい、という誓願を立てたからです…」

 汽車を降りると、そこは絵本に出てくるようなきれいな街だった。けれども、セアラに手を引かれてついていくうちに、街並みは次第にうら寂しく、くすんだものになった。行き交う人の服装はみすぼらしく、身体は痩せ、やつれた顔の人が多くなった。
 古ぼけ、さびれた小さな教会の前には、夕方の施しを求めて多くの人が並んでいた。
 教会の横には同じく小さな修道院があり、その隣には、蔦のからまった宿舎のような建物があった。
「こちらがわたくしたちの家、あちらが貴女たちの家よ」
 セアラがにこやかに言った。
「あっ、新しい子が来た!」
「セアラがまた新しい子を連れてきた!」
 宿舎の庭で遊んでいた子供たちは一斉に動きを止めて、二人のほうを見た。
「はーい、みんな、こちらに集まってね」
 セアラが言うよりも先に、みんなは二人を輪のように取り囲んでいた。
「こちらはブライディーちゃん。みんな仲良くしてあげてね」
 子供たちがブライディーのことを、まるで珍しい動物か何かを見るような感じでジロジロと眺めていると、中から背筋をピンと伸ばして胸を張った、優しい顔の男の子が出てきて、穏やかな声でこう言った。
「おーい、とりあえず一人ずつ簡単に自己紹介しようぜ。身の上話は、お互いもっと仲良くなってから、ってことで、当面はなしだ」
(「お兄ちゃん」だ!)
 男の子は名乗り、ちゃんと聞いたはずなのに、ブライディーはそう思い込んだ。
 一人っ子の彼女が、空想の中で、夢の中でいつも思い描いていた兄と、あまりにもよく似ていたからだ。
「おーい、ケリー、この子にいろいろ教えてやってくれよ」
「お兄ちゃん」は近くにいたソバカスだらけの女の子に頼んだ。アイルランド人らしい、たとえどんな困難の中でもてきぱきと精悍で明るく陽気そうな抑揚は、亡き父とよく似ていた。
「いいわよ」
 ケリーと呼ばれた人の良さそうな子は、彼女の小さな荷物を持ってくれた。
「…こっちよ!」
「じゃあみんな、お願いね! …ブライディーちゃん、わたしはいつもほとんど隣の棟にいますからね!」
 セアラはそう言って小走りに去った。
(ツイてる…) ブライディーは子供心に素直にそう思った。(…もっとキツい、意地の悪い子がいるところだと覚悟していたら、逆じゃない! これはやはり、セアラ様がおっしゃっていた通り、「いままでつらく悲しいことばかり続いたことに対して、神様が埋め合わせをして下さっている」のかもしれない…)

「セアラ様は、特にあたしたち女の子に優しくて、いろいろ教えてくださるの」
 その夜、「女の子部屋」の質素なベッドの中で、窓から差し込む月明かりの下、ケリーは囁くようにしていろんなことを話してくれた。
「…怒られているところは見たことがないし、本当にマリア様のようなおかただわ。でも…」
「『でも』?」
「あたしたちもお仕事をしなければならないの。女の子はお料理のお手伝いや、お掃除やお洗濯、男の子は石炭運びや営繕や力仕事よ」
「あたし、お家でもずっとお母さんのお手伝いをしていたわ」
 ブライディーはたどたどしい口調で言った。「…うん、それはいいの。それはいいんだけれど、ここではそれとは別に、とても特別なお仕事があるの」
 ケリーはさらに声を潜め、ほとんど聞き取れなくなった。
「どんなお仕事?」
 ブライディーも相手に合わせるようにして声を潜めた。
「ご病気の、身寄りのないお年寄りのかたがたや、行き倒れて運び込まれたかたがたのお世話よ。シスターの数は少ないし、大きい子たちが十人、二十人の組になって、荷馬車に乗って大きなお屋敷の草取りや、荘園の果物の収穫に雇われて言ってしまったりしたら、あたしたちにお当番が回ってくるの…」
「あたし、お父さん、お母さんの看病をしていたわ」
「そう、偉かったわね。でも、見ず知らずの人に同じことができるかしら?」
 ケリーはブライディーの瞳を覗き込むように見た。
「分からない… でも看護婦さんがやっていることだから…」
「看護婦さんはお給金を貰っているわ」
「『お給金』…」
 ブライディーはつぶやき返した。

 ブライディーが施設にやってきて、数日が瞬く間に過ぎた。ケリーという仲良しもでき、他の女の子たちと一緒に簡単な掃除や洗濯をするのは楽しく、寂しさが紛れた。
 シスター・セアラは約束通り、暇を見て、みんなを引き連れて大きな公園や、大きな船が何隻も停泊している港や商店街に連れて行ってくれた。
「あたし、あのドレスが欲しい!」
「ぼく、あの靴が欲しい!」
 小さな子たちはショーウインドウを見て口々に叫んだ。
「大きくなって、働いて、お給金が貰えるようになれば、やりくりをして、自分の好きなものが買えるようになりますよ」
 セアラは微笑みながら言った。
「新しいおもちゃが欲しい!」
「あたしも新しいお人形が欲しいわ…」
 別の子たちが言った。
「次のご寄付の時を待ちましょうね」
 セアラは子供たちの肩に腕を回しながら言った。
 ブライディーはなぜか、きらびやかに商品を並べた飾り窓を見ても、もう何も欲しいとは思わなくなってしまっていた。
(家に両親と一緒にいた頃は『あれが欲しい、これも欲しい』のかたまりのような子だったのに…) 彼女は自分のことをそう振り返った。(いまはもう何も欲しくない。食べるものや着るものはもう何でもいい。もし何でも神様が望みを一つ叶えてくださるのなら、お父さんとお母さんを返して欲しい)
 セアラは、ダブリンの賑やかな場所をいくら見せてもうなだれたままのブライディーを見つめ、しばらく考えてからこう言った。
「ねぇブライディー、明日から新しいお仕事をしてみない?」
「『新しいお仕事』? お掃除、お洗濯、お料理のお手伝い …お皿洗いかな?」
「うううん」
 セアラはかすかに首を横に振った。
「お年寄りのお話相手。お水を飲ませて上げたり、それに額に乗せたタオルの交換」
「ケリーがときどき隣の建物に行ってやっている、あれ?」
「ええ、そうよ。普通はもうちょっと大きくなってからお願いするんだけれど、貴女ならもうできるかな、と思って」
「やってみます」
 ブライディーは何となく、ポツリと答えた。

「セアラ、本当にいいのですか?」
 年老いた院長のシスターは、眼鏡の奥の上品で穏やかな瞳をしばたたかせながら言った。
「ブライディーは、まだ幼いのに続けさまに別れの試練を受けたばかりです。あそこの仕事をさせて、もしも万一、さらなる別れを経験させてしまっては…」
「ブライディーは、ケリーたち、同じ年頃の子とは、すでに仲良くやっています。けれど、その子たちとだけでは、どうしても満たされないものがあるようなのです…」
 セアラは、書類がうず高く積まれている、古ぼけた大きな机に座った院長に対して、両手を組んで願い出た。
「それはよく分かります。あれぐらいの年頃の子には、自分自身が身をもって体験した、豊かな経験を語ってくれる大人が必要です。セアラ、貴女もまだ若いし…」
 院長のしゃがれ声に、セアラは頬を赤らめた。
「まぁいいでしょう。もし何かあったら、責任はわたくしが持ちます」
 院長はそう言うと、再び書類に目を落として書き物をはじめた。
「有難うございます、院長先生!」
 セアラは深々と頭を下げると、衣の裾を翻らせて飛ぶように部屋から出て行った。
「やれやれ、若さというのも神様の大きなお恵みの一つだねぇ…」 院長は、眼鏡を額までずり上げて、セアラの後ろ姿を眺めていた。
「…わたしも、もう何十年か若ければねぇ…」

「ブライディー、貴女も『天に帰る人たちの家』でご奉仕をするの?」
 ケリーは不安そうに尋ねた。
「うん」 ブライディーはこっくりと頷いた。
「そうみたい…」
「大丈夫?」
「何が?」
「お父さんとお母さんのことを思い出すかもしれないわよ」
「…そんなことを言ってたら、看護婦さんとかにはなれないでしょうし…」
「そりゃあそうだけれど…」
「女の子組」が休み時間のあいだも、「男の子組」は、本職の大工さんの指導のもと、足場を組み、「みんなの家」の営繕をしていた。
 雨が漏れそうなところを修理し、崩れそうな壁は塗り直し、ペンキを塗り直したりしていた。
 中でもブライディーが勝手に「お兄ちゃん」と名付けた、ハンサムでカッコいい男の子は、命綱もなしに屋根の一番高いところに上がって、釘を何本か口に含んで、手際よく板を打ち付けていた。
「彼にご執心ね」
 ケリーは苦笑いしながら言った。
「『お兄ちゃん』なら、お父さんのように、また家を建ててくれるかもしれないわ」
 ブライディーは頬を染めた。
「ああ、みんな若きイエス様に見えますわ…」
 院長先生はハラハラしながら、そうつぶやいた。

「さぁブライディーちゃん、このかたがバテシバさんよ」
 シスター・セアラに紹介され、明るい陽が差し込んでいる小窓がある、小さな部屋に案内されたブライディーは、何となく怖い感じがして、その場に立ちすくんだ。
 ブライディーはほとんど老婆というものに接したことがなかった。父方の祖母も、母方の祖母も、何回か会ったことがあるような、ないような、お葬式に出たことがあるような、ないような、そんな曖昧な記憶しかなかった。 ベッドから半身を起こしたバテシバ婆さんは、真っ黒な頭巾をかぶった、顔じゅう深いしわだらけの、枯れ枝のような手をしていた。 幼いブライディーを見た途端、バテシバ婆さんは白く濁った眼球がこぼれ落ちてしまうのではないか、と思うほど目を見張った。
「おお、この子は… この子は…」
 まるで何年ぶりかで自分の孫かひ孫と再会したかように、ベッドから起きあがろうと試み、やせ細った腕を差し伸べた。
「バテシバさん、どうかなさいましたか? そんなに興奮なさっては、お身体に触りますよ。ブライディーちゃんは貴女のお世話をするために、前の子の代わりにやってきた子ですよ」
 セアラがバテシバ婆さんを押さえ、ベッドに寝かしつけようとすると、婆さんはハッと我に返ったようだった。
「…そうじゃった、そうじゃった。驚かせて悪かった、ブライディーとやら」
「それじゃあブライディーちゃん、後はよろしく。何かあったら呼んでね」
 セアラはそう言い残して出て行った。
 ブライディーはとことことバテシバが横になっているベッドに近づいて、ホウロウの洗面器に浸されたままのタオルを、小さな手で絞って額の上に乗せた。
「ああ冷たい、いい気持ちじゃ…」
 婆さんは目を緩く閉じたままつぶやいた。「何でもおっしゃってくださいね。夕方に大きい子と交代するまで、あたしが…」
「のぅ、ブライディー。おまえさん、自分の運を拓きたいとは思わぬか?」
 バテシバは、ブライディーの言葉を遮って、子供心にも重々しく感じる声で言った。
「『運』ですか?」
「そう、運じゃ」
 婆さんはコックリと頷いた。
「セアラさんは『一所懸命勉強をしたり、お手伝いをしたり、神様にお祈りをすると、きっといいことがある』と言っておられますけれど…」
「それは重要。必要最低限。『努力』と言い換えてもいいもんじゃ。けれども、それだけでは確実に幸せになれる、というものではない」
「?」
「時にブライディー、おまえさん、この施設の中に好きな男の子はおるか?」
 婆さんはニヤリと唇を歪めて問うた。
 ブライディーは頬を熟れたリンゴのように染め、顔を伏せてもじもじした。
「いるのじゃな。結構。おまえ、その男の子に好かれたいとは思わぬか?」
 婆さんはさらにニタニタと笑った。
「…思います。でもその『お兄ちゃん』は、ほかの女の子たちにも、いえ、男の子たちにもとても人気があって…」
「紅茶が飲みたくなった。持ってきてくれ。葉っぱの入ったポットごとじゃ」
 婆さんはふいに言った。
「紅茶、ですか?」
「そう。紅茶。ポットごと。さっさともって来るのじゃ。もしもごちゃごちゃ言われたら『いまわの際のババアが、最後の望みに美味しい紅茶を一口飲みたい』とわめいている、と言え!」
「は、はい…」
「さっさと貰ってこい!」
 婆さんの嗄れたがなり声にせき立てられて、廊下に飛び出したブライディーは、厨房に箸っていった。

「よし、静かに淹れるんじゃぞ」
 ブライディーが小刻みに震える手で琥珀色の液体を注ぐのを、婆さんは射るような目で見つめていた。
「どうぞ…」
 ブライディーが、クッキーとともにベッドの横の小さな机の上に、受け皿にのせて勧めると、バテシバは信じられないくらい優雅な手つきで受取り、角砂糖を入れた。
「…ふむ… ダージリンに、英領ジャマイカ産の砂糖… どこぞの貴族様のご寄付の品だね」
「お菓子もどうぞ…」
「シッ!」
 婆さんはティーカップの中の細かいお茶の粉が描く模様を真剣に眺めていた。
「ふーむ、靴下だね…」
「『靴下』?」
 ブライディーは問い返した。
「そう、おまえのその『お兄ちゃん』がいま一番欲しがっているのは、暖かい、汗をよく吸う、手編みのウールの靴下だ。ほぐして球にした古毛糸はセアラがいろいろ持っておる。イニシアルの入ったのが喜ばれるじゃろう。サイズは洗濯の時に確かめろ」
「なぜそんなことが分かるのですか?」
 ブライディーはあっけに取られて言った。

「信じる、信じぬはおまえさんの勝手じゃ。まぁ試してごらん。色ぐらいはおまえさんが選べ」
 バテシバ婆さんは片目をつむって言った。
 シスター・セアラから、寄付で頂いた薄い茶色の毛糸玉を貰い、編み棒を借りたブライディーは、バテシバ婆さんの看護の合間に、せっせと靴下を編み始めた。
「偉いわねぇ、ブライディーちゃん、自分の靴下?」
 セアラは珍しくプライベートなことを尋ねた。ブライディーは
「内緒」
 とはにかみながら答えた。
 茶色を選んだのは、「お兄ちゃん」が茶色が好きそうだったからだ。よそのお屋敷や職場に働きに行く時も、教会での儀式の時も、いつも茶色の上下を来ていた。
「おお、やっとるな。わしの世話は適当でよいから、頑張れよ」
 せっせと編み棒を動かすブライディーを眺めながら、婆さんはまるで孫娘を見るように目を細めた。
「真面目で実直で働き者の男をゲットしようと思えば先手必勝じゃ! 先を越されるなよ!」
 果たして、靴下が出来上がった翌日、「お兄ちゃん」がブライディーやケリーたちの部屋の修理に訪れた。
 壁の傷んだところを張り直し、開け閉めが固くなりだした窓は、いったん全部はずしてカンナを少しずつかけては、元の窓枠にあてがって試していた。
「あの、もうそれくらいでいいです…」
 あまりにも丁寧な仕事ぶりにブライディーがおずおずと言うと、「お兄ちゃん」は
「そんな訳にはいかないよ。確かにここの建物の傷みは激しいから、直してもまたすぐに調子が悪くなることもあるだろう。だからと言って、手を抜くようなことはぼくはしたくないんだ」
 顔を上げずに、大変厳しい目で修理箇所を見つめていた。
「ごめんなさい… あたしも、あたしもお金持ちのかたの依頼の洗濯物は丁寧にして、施設の洗濯物はいい加減にするようなことはしないようにするわ…」
「そう、それが大切だと思うよ」
「お兄ちゃん」は、まるでもう一人前の職人のように、床板を直し、そげがささりそうなところにカンナや紙ヤスリをかけ、壁紙が破れているところは、見分けがつかないくらいに張り直し、ニスが剥げているところは塗り直してくれた。
「さぁて、次に行こうかな…」
「お兄ちゃん」は脚立を背負い、残りの道具一式を肩に掛けて出て行こうとした。幸い部屋には二人きりだった。ブライディーはおずおずと後ろでに持っていた紙袋を差し出した。
「あの… これ…」
「うん、何?」
「プレゼントです」
 ブライディーは顔を真っ赤にして言った。
「有難う、開けてみてもいいかい?」
「お兄ちゃん」は道具を再び床に置いた。ブライディーはかすかに頷いた。
「有難う、こんなのが欲しかったんだ。君が編んでくれたのかい?」
 今度は大きく頷いた。
「二足とも、よそ行きにするよ」
「お兄ちゃん」は大切そうに紙袋を上着のポケットに入れた。
「本当に有難う。でも…」
「『でも』?」
「一体どうして、ぼくが、靴下を欲しがっていることが分かったんだい? 誰にも言ってないのに…」
「それは…」 ブライディーは口ごもった。
「…何となく、そんな気がしたから…」
 彼は肩をすくめてニコッと笑うと、次の仕事をやりに行った。
 翌日、ブライディーは「お兄ちゃん」が、自分が贈った靴下をはいているのを見た。
 日に日に丈が短くなっているようなズボンの裾から、特徴のある薄茶色が見えるたびに、心が躍った。翌日も、その翌日も、「お兄ちゃん」のズボンの裾からは、同じ色の靴下が姿を覗かせた。
 気のせいか、ブライディーが遠く離れたところで洗濯物を干している時も、お使いでたまたまそばを通りがかった時も、「お兄ちゃん」はチラチラと眺めてくれているような気がした。

「うまく行ったかい?」
 バテシバ婆さんはベッドに横になったまま、ニヤリと笑いながら尋ねた。
「ええ、とっても喜んで…」 ブライディーは顔を輝かせた。「…でもどうして?」
「簡単なことさ。おまえに才能があるんだよ。誰もが羨む、勉強や努力では、決して身に付かない、とても素敵な神様からの贈り物が」
「『才能』? 『神様からの贈り物』?」
「ああそうさ。貴女は顔もかわいい、声もきれいだ。それなのにまだそれ以上のものを持って生まれてきた、ということは、神様に感謝しないとといけないよ」
「『神様に感謝』?」
「その通り。きょうは部屋の中でものをなくした時や、お使いの途中で落とし物をした時の探しかたを教えてあげよう」
 肘をついてベッドから半身を起こした婆さんは、先が曲がった二本の針金の棒を取りだして示した。

「えーん、あたしの指人形が… あたしの指人形が…」
 隣の、ブライディーやケリーたちよりも、もっと小さな女の子たちの部屋で、一人の子が、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。
「一体どうしたの?」
 ブライディーが走っていくと、その子を懸命になだめていたケリーが
「とても大事な宝物をなくしたらしいのよ。ここに来る前から持っていた指人形を…」 と言った。「…あたしも知っている、結構かわいい指人形で、誰かに取られたんじゃあ…」
 ケリーは居並んで当惑する同じ部屋の女の子たちを見渡した。
「シーッ、『七度探して他人を疑え』よ。しっかり探して見たの?」とブライディー。
「もちろんよ。何度も何度も、みんなで…」
「…分かったわ。でも、もう一度あたしに探させてくれないかしら?」
 しばらく考えてからブライディーは言った。
「もちろん。…でも、本当に隅から隅まで探したのよ」
「どんな指人形なのか、教えてくれないかしら?」
「えーっとね、こんな感じ」
 ケリーはチラシの裏に鉛筆で簡単な絵を描いた。
「みんなをお庭に遊びに行かせて」
「分かったわ」
 ケリーは当の女の子の肩を抱き、残りの子たちを引き連れて出て行った。
 廊下を遠ざかっていく一同を見送ったブライディーは、ドアをきちっと閉めると、懐から、針金の先を曲げただけの、何の変哲もない棒を取りだした。
 心を静め、絵を見つめて、棒を両手の手のひらにはさんで胸のあたりで捧げ持つと、不思議なことにくるっくるっと回って、壁の一点を指し示した。
(おかしいわ。どうして壁なんか指すのかしら? バテシバお婆さんもいい加減なことを教えてくださって、でたらめじゃあないの?)
 壁は、「お兄ちゃん」たちがきれいに塗り直したばかりだった。
(はっ、待って! もしかしたら…)
 壁に鉛筆で印をつけたブライディーは「お兄ちゃん」を呼びに行った。
「お兄ちゃん、ここの壁に…」
「なんだいブライディー、ここの壁がどうかしたかい?」
 彼はきょうも、彼女が贈った靴下を身につけていた。
「ここの壁の下のほうに、ネズミの穴か何かがなかったかしら?」
「よく知っているな」「お兄ちゃん」はびっくりした表情で言った。「小さな穴が開いていたから、漆喰で塗り込めて、それからペンキを塗ったよ」
「お願い、『お兄ちゃん』! その穴をもう一度開けて、中を探して!」
 ブライディーは真剣な顔で、彼の顔を見つめ続けた。
「…分かった。道具を取ってくるよ」
 しばらくジッとブライディーの鳶色の瞳を見つめ返していた彼は、廊下に駆け出して行った。

 数分のち、いったんきれいに修復された壁は、再び穴が開けられて、漆喰のかけらを飛び散らせていた。
「見える? 何かある?」
 片手を突っ込んで懸命にまさぐる「お兄ちゃん」に、ブライディーは尋ねた。
「ないな… 君が言うようなものは…」
 ねばり強く手探りしていた「お兄ちゃん」だったが、とうとう諦めて、差し入れていた手を抜いた。
「あたしがやってみる」
 木の棒を手にしたブライディーが腹這いになって「お兄ちゃん」に代わって手を突っ込んだ。
「やめとけ。ネズミがいる。マジでかじられるかもしれないぞ!」
 そう言えば、中でカサコソと気配がした。
 が、ブライディーはひるまず探し続けた。
 と、棒の先が何かに触れた。
 慎重に引き寄せると、まさしく、埃にまみれた指人形だった。
「良かった…」
 ブライディーはヘナヘナとその場に座り込んだ。
「良かったな」
 微笑んでくれていた「お兄ちゃん」だったが、やがて、その笑顔に怪訝な表情が混じった。
「でも一体どうしてここにあると?」
「いえ、何だかそんな気がして」
「俺を呼びに来た時は、確信に満ちていたような感じだったけれど… だから、俺も君の勢いに押されて… …ま、いいか、そんなことどうだって。とにかく、これをもう一度直さなくちゃなぁ…」
「ごめんなさい…」 しゃくり上げながら笑うブライディーだった。「あたしもこの指人形。きれいにしなくちゃ… このままじゃあ返せないわ」

「有難う、ブライディーお姉ちゃん、それに『お兄ちゃん』」
 宝物を取り戻した女の子は、本当に嬉しそうだった。
「ブライディー、貴女本当に凄いじゃない!
『失せ物探し屋』さんになって、お礼を稼ぎましょうよ!」
 ケリーははしゃぎ回っていた。

 ケリーが言い出した噂は、たちまち施設じゅうに広がった。女の子たちにはもちろん、男の子たちのあいだにも…
「ねぇねぇ、聞いた? ブライディーちゃんって、捜し物の名人らしいわよ」
「失し物探しだけじゃあなしに、いろんな悩み事も占ってくれるらしいわよ」
「えっ、でもそれって、お礼がいるんじゃあないかしら?」
「俺、庭の石の下で飼っていた蛙がどこかへ行ってしまったんだけれど…」
「キャッ! そんなのはきっとだめよ!」
 ブライディーはバテシバ婆さんから教わった通りに、占えることは何でも気さくに占ってやった。
 幼い恋占い、友情占い、将来占い、失せ物探し…
 謝礼は特に求めなかったけれど、キャンディーや、お菓子づくりの実習の残りのクッキーや、お屋敷に出かけて働いた時に頂いたチップの銅貨などを無理矢理に置いていく子もいた。
 お菓子は自分より小さい子にあげ、銅貨は隣の小さな教会の浄財箱に、誰も見ていない時を見計らって入れた。

 そんなある日、ブライディーとケリーがみんなと離れた木陰に座って休んでいると、ベティという茶色の髪をおさげにした、五、六歳の子が泣き出しそうな顔をしてトコトコやってきた。
「ブライディーちゃん、お願いがあるの…」
「どうしたの、ベティちゃん?」
「あたしのお父さんと、お母さんのことを占って欲しいの…」
「えっ!」
 一つ二つ年長の二人は、思わず顔を見合わせた。お互いの親や身内の話は、よほど必要がある特別な場合を除いてはタブーだったからだ。
「あたしのお父さんとお母さん、生きているらしいの」
「ベティちゃんのご両親が?」
「あたし、たくさんある樽の中の一つに入って、果物を磨いていたの。そうしたら、シスターさんたちが通りがかって…」

『ねぇ、聞いた? ベティの両親がダブリンに戻ってるそうなんだって。なんでもチラッと見かけた人がいる、って言う噂よ』
『へぇー よく帰ってこれたわねぇ』
『もしも「ここ」を訪れてきたら、院長先生はどうされるおつもりかしら?』
『さぁー』
『まぁ、あの二人のことだから、すぐに発つつもりかも』
『でしょうねぇ…』

「…と話していたの。だから、お父さんとお母さんが『ここ』に来てくれるかどうかを… もしも来てくれないのなら、ダブリンのどこにいるかを占って! あたし、規則を破って、怒られてもいいから、一目、お父さんとお母さんに会いに行きたいの」
 ブライディーとケリーは、再び顔を見合わせた。
「…お礼は、掃除当番と、洗濯当番を何度でも代わるから… お願い、占って…」
 ベティはすがるような目をして言った。
「お願い、占ってあげて。あたしからもお願いするわ」と、ケリー。
「分かったわ」
 ブライディーは心を静めてから、駒に見立てた、いろんな木の実を取り出した。
 ハンケチを広げた上に、それらの木の実をパッと投げた。
「お父さんとお母さんは、ちゃんとした形で『ここ』に来てはくださらない…」
 ベティの顔がさらに悲しそうに曇った。
「…でも安心して。ご両親は、誰にも気づかれないように、貴女のことを見てくれるわ」
「そんなの嫌… そんなの嫌…」
 ベティは消え入りそうな声で言った。
「あたしのほうから会いに行きたい… あたしのほうから会いに行くわ… お願い、ブライディーちゃん、あたしにできることで貴女の言うことなら何でも聞くから、お父さんとお母さんの居場所を占って… どんなに怒られてもいい、どんな罰を受けてもいいから、あたしのほうから会いに行くわ…」
 しばらくじっとうつむき続けていたブライディーは、静かに顔を上げた。
「ケリーちゃん、図書室にあるダブリンの地図を持ってきてくれないかしら?」
「分かったわ! そうこなくっちゃあ!」
 ケリーはドレスのスカートの裾を翻らせながら駆け出していった。
「大丈夫よ、ベティちゃん。お父さんとお母さんのいらっしゃる場所は、あたしが必ず占ってあげるから」
 ブライディーがそう言うと、ようやくベティの顔に微笑みが戻った。
「これでいいかしら?」
 しばらくすると、ケリーが地図を持って戻ってきた。
 ブライディーは地図を草の上に広げると、二本の先を曲げた棒を取りだして、両手の手のひらにはさみ、地図の上にかざして一心不乱に占いはじめた。

「だいたいの場所は分かったわ。後はその場所に行ってみないことには…」
 幼いブライディーは、航海士が六分儀をしまうように棒をしまい、船長のように地図を折りたたんだ。
「シスター・セアラに頼んで、連れて行ってもらいましょうか?」
 ケリーが不安そうに、ブライディーとベティの顔を覗き込んだ。
「たぶんだめよ。断られるわ」 と、ブライディー。「…セアラ様個人なら、こっそりそうして下さるかも分からないけれど『ここ』の規則が…」
 ベティが再び泣き出しそうになった時、ブライディーはキッと眉を引き締めて言った。
「セアラ様を巻き込んだりしたら気の毒よ。あたしたちだけで行きましょう!」
「でも、悪いことと分かっていてやってバレたら、お尻を鞭で叩かれるわよ」と、ケリー。
「バレなければいいのよ。そして、バレない方法があるのよ」

「ブライディー、占いの力を、再々使ってはいけないよ」
 昼休み、施設の庭に咲いた花々を持って、「天に召されるのを待つ人々の家」を見舞ったブライディーは、バテシバにそう言われた。「あの、どうしてでしょうか?」
 ブライディーは、いくら丁寧に生けようとしても、花がうつむいてしまうのに、イライラしていた。
「神様を篤く信じている人々の中には、占いを快く思っていない人もいるのじゃ」
 バテシバの息も、いつもに比べて乱れていた。空には重苦しい黒い雲がたれ込めはじめていた。
「でも、羊飼いたちや東方三博士たちは星が流れるのを見て、クリスマスの夜、ナザレの村にお祝いに駆けつけたのでしょう?」
「神様の啓示は特別じゃ。わしがおまえさんに教えたのは、あくまで人の力の使い方じゃ。アダムとイヴがかじった智慧の実に由来するものじゃからな… 使う者の心によって、良きものにも悪しきものにもなる…」
 ブライディーはいつものように、老婆の額のタオルを変え、麦わらで冷たい水を飲ませた。
「あたし、決して悪いことには使いません。約束します。それに、困っている人を占いで助けて上げることが、どうして悪いことなのでしょう?」
「『人は、己や世界の未来を知ってはいけない』と考えている者も多いからじゃ。『未来は神様のみがご存じのことであるべき』じゃと… 『人が人の力で、神様が与えようとされる試練を拒否するべきではない』と…」
「でも、苦しいことや悲しいことは、避けられるのならそれに越したことはないのでは?」
「『苦しみや悲しみが人の心を強くして、他人の苦しみや悲しみが分かるようになる』からじゃ。故に、『強力な占いの力でそれらを避けてばかりいると、しまいにはサタンのようになってしまう』と…」
 ブライディーは黙りこくってしまった。
「…おまえさんにはとても世話になった。棚の上に乗せてあるわしの鞄を取っておくれ」
 脚立に乗り、ぼろぼろの革の鞄を降ろすと、ベッド横の小さなテーブルの上に置いた。
 蓋を開けると、何冊かの古い本とともに、鏡や、水晶玉にまじって、古ぼけた何組かのトランプ・カードや、タロット・カードが現れた。
 一つ一つ順番に渡すと、バテシバは涙を流しながら、それらに接吻し、頬ずりした。
「…これらはみんな、わしの生涯の友達じゃった。こいつらだけが、ついの旅の道連れじゃと思っていた。けれど、今日いま、おまえさんにくれてやる。どうかもらってやっとくれ…」
「そんな…」
 老婆が弱々しい手つきで差し出す占いの道具を、ブライディーは押し戻した。
「…おまえさんならきっと使いこなせるじゃろう。もう細かいことを教える気力は残っておらぬが、自分でいろいろと試してみるがよかろう…」
 バテシバはそう言い終えると、いつのまにかスースーと安らかな寝息をたてていた。
 ブライディーはそっと鞄を元の場所に戻っておいた。

 その日の、みんな揃っての食堂での夕食後、
「さぁ、ちゃんとお婆さんのお世話の当番をしてきたわよ。誰も見ていない出入り口から出て、ベティちゃんのご両親を捜しに行きましょう!」
 ブライディーは廊下の物陰で少し咳き込みながら言った。
「ブライディー、大丈夫? ちょっとしんどそうよ」
 そう言いながら相手の額に手のひらを当てたケリーは眉と目をピクリと吊り上げた。
「大変! 熱があるみたい! やめておく?
 第一、就寝時間を過ぎてベッドの中にいなければ、後で三人ともたっぷり叱られるでしょうし…」
「いえ、大丈夫よ。それに占いでは、ベティちゃんのお父さんとお母さんは、今夜じゅうにはダブリンを離れてしまう、と出ているし…」
 ベティも心配そうな顔をして、ブライディーを見上げていた。
「さぁ行きましょう! いまを逃せばもう二度と会う機会はないかもしれないわ」
 ブライディーはデルファイの巫女のように棒を握り締めて言った。

「この廊下なら、向こうから誰もこないはずよ!」
 ブライディーが棒で占った道を、三人は駆け足で進んだ。
「この通用門は、多分いまは誰も見ていない」
 施設の門を出てからも、彼女たちは小走りに走った。
 遅い春の宵闇が次第に降りてきて、通りの家々や、商店や、行き交う馬車に明かりが灯りはじめる頃、ポツリポツリと雨が降ってきた。
「傘は?」 ブライディーが尋ねると、ケリーが「一本だけ持ってきているわ」と言いながら、ボロボロの破れコウモリ傘を開いた。
「ケリー、貴女がベティちゃんに差し掛けてあげて!」
「分かったわ。…ブライディー、貴女は?」
「あたしは持って来なかった」
「ダメじゃない! 占い師さんだったら、雨が降ってくることは分かったはずなのに! …それでなくても、風邪気味なのに!」
 ケリーはなじった。
「あたしは明かりを持たないといけないから…」
 ブライディーはそう言って、郊外への道を先導した。

「お嬢ちゃんたち、大丈夫かね?」
 途中、荷馬車に乗った農夫や、仕事帰りの人々が口々に声を掛けてくれた。
「大丈夫です! 家に帰るところなんです! 家はもうすぐなんです!」
 ブライディーは手にした棒を隠しながら明るく答えた。
「そうかい、だったらいいんだけどね!」
「気を付けてお帰りよ!」
「帰ったらすぐに着替えるんだよ!」
 荷馬車に乗った人々は、そう言って通り過ぎ、追い抜いていった。
「有難うございます!」
 三人はにこやかに手を振った。
 雨は次第に本降りになってきた。傘で防いでいたケリーとベティも、歩くのが難しいくらいにドレスが濡れはじめていた。ブライディーは、かなり前からびしょ濡れだった。
「もう少しよ、頑張って!」
 片手に棒を、片手に火屋付きのランプを掲げたブライディーは、二人を励ました。
「…ベティちゃんはもうじき、お父さんとお母さんに会えるから…」
 土砂降りとなった闇の中、三人が辿り着いたのは、いくつもの木製の十字架が歪み、斜めになった、草ぼうぼうの荒れ果てた墓地だった。
「こんなところにお父さんとお母さんが?」 ベティはさすがに不安な顔をして言った。
「今夜、必ずいらっしゃるわ。あたしの占いはとても良く当たるのよ」
 彼女たちは、雨風をいくぶんしのげる大きめの十字架の陰に、傘を差し掛けて隠れた。 ランプの火を消すと、バラバラと傘を叩く雨粒の音だけが、真っ暗な墓場に響き続けた。

「いつ頃来るの?」
 身体を小刻みに震わせていたケリーが、たまりかねて尋ねた。
「もうじき… もうじき必ず来られるわ…」 ブライディーは、歯をガチガチ鳴らしながら答えた。ベティは、二人のあいだにはさまるようにして、ただ黙ってじっと待っていた。「ねぇブライディー、もう真夜中よ! もう帰ろう! 院長先生も、セアラ様も、みんなも、きっと心配しているわ。貴女の占いも、時には外れることがあるのよ…」
 ケリーが立ち上がろうとしたちょうどその時、ザーザーと雨が降り続く枯れ木の森のような十字架の中を、ザッザッとぬかるみに足音を響かせながら、大きいのと、やや小柄なのとの、二つの影がやってきた。
(お父さん! お母さん!)
 叫びかけて飛び出そうとしたベティの口をケリーが押さえ、身体を押しとどめた。
「シッ! 様子がおかしいわ。ベティちゃん、あの人たちが本当に、貴女のお父さんとお母さんか、もう少しだけ様子を見ましょう!」 大小二つの影たちは、ランプとシャベル、つるはしを持っていた。彼らは、とある崩れかけた十字架の前で互いの顔を見合わせると、かすかに頷きあってから、そこを掘り返しはじめた。
 ザックザック… 降りしきる雨の中、二人は黙々と作業を続けた。やがてガッと音がした。どうやら棺までたどりついたようだった。 大きな影のほうが、つるはしでガツンガツンと乱暴に蓋を壊した。
「ブライディー、ケリー、あたし、怖いよ」 ベティが囁いた。「あんなの、あたしのお父さんとお母さんと絶対ちがうよ! 人違いだよ!」
「そうだよね、ベティ、もうおめめをつむっておきましょう! あの人たちが帰ったら、あたしたちもすぐに帰りましょう!」
 ケリーはベティを抱きかかえながら、囁き返した。
 ブライディーだけがずっと見ていると、二人は地面に膝をつき、屍食鬼のように柩の中を覗き込み、遺骸から何かを奪い取ると、シャベルやつるはしは打ち捨てたまま、しとしとと降り続く雨にまぎれて立ち去った。
「さぁ、帰りましょう! と言ってもいまは真夜中だから、どこかで雨宿りして、夜が明けてから帰りましょう!」
 ケリーに促されてベティは立ち上がったが、ブライディーは膝が折れてバシャリとそのままぬかるみの中に倒れ込んだ。

「…そうかい、それはえらい目に遭ったねぇ…」 いつものように、大きな枕を背もたれ代わりにベッドに半身を起こしたバテシバは、溜息まじりに言った。「…言い忘れていたとしたら詫びなければいけないのだけれど、占い師が真実を言い当てる、ということは必ずしも依頼人に幸せをもたらせるとは限らないんだよ」
「ベティちゃんには… ベティちゃんには、とても可愛そうなことをしてしまいました…」 ハンケチを顔に当てたブライディーは、しゃくり上げた。「…もしも心に深く傷を刻み込んでしまっていたら、どうしたら…」
「ケリーと一緒になって『占いは外れた。墓場で見たのはお父さんとお母さんじゃあない。人違いだ』と言ったんだろう?」
「はい…」
「で、ベティは信じてくれたんだろう?」
「と思います…」
「だったらそういうことにしとくしかないねぇ… 傷ついた心は、本人か神様でないと直せないから…」
 バテシバはそう言って、ゆっくりと起きあがりかけた。
「ブライディー、ベッドの下からわしのお気に入りの靴を出しておくれ」
「バテシバさん一体… ちゃんと寝ていなければ…」
「知れた事よ。かわいいおまえさんの看護のお陰で、具合もだいぶ良くなったから、ここからオサラバするのさ。…さぁ、クローゼットの中に一張羅のドレスが入っているから、着替えを手伝っておくれ…」
 ブライディーはコマネズミのように走り回って着替えを手伝い、例の占い道具の入った鞄を持たせた。
「さてと、いまの時間帯なら、誰にも見つからずに出て行けるじゃろう。それじゃあ、ブライディー、おまえも達者でな」
 鞄を手にしてドレスの裾の乱れを直し、黒いつばの広い帽子をかぶったバテシバは、思っていたよりもずっと背が高く、背中も曲がっておらず、長いあいだ寝たきりだったとは思えないくらい足取りもしっかりとしていた。
「待って下さい!」
 ブライディーは小さな手を差し伸べた。
「ん、何じゃ。わしが教えられることはだいたい教えた。もっと知りたければ自分で勉強せい!」
 老婆は顔だけ振り返ったが、その顔から皺もほとんど消えていた。
「そうではなくって…」 ブライディーは珍しく口ごもった。「…どうかあたしも連れて行ってください! 簡単な占いならあたしもできます。占いを頼みに来るお客さんをほんの少し回して頂ければ…」
「あのな…」 振り返ったバテシバは、大きなコウモリのように黒い裾を広げた。「…まだ女になりきってもいないおまえさんに、恋人同士や夫婦のあいだの問題をどうして任せられるんだい?」
「それは…」
「それに、ケリーや『お兄ちゃん』や、シスター・セアラはどうする? 悲しんで寂しがるぞ。無論おまえさんもまた寂しくなるぞ」
「それは…」
 ブライディーは涙ぐんだ。
「悪いことは言わん。もう少し大きくなるまでここにおれ。もしかしたらそのうちに、わしなんかよりもずっと凄い占いの師匠と出会えるかも知れぬぞ」
 バテシバはブライディーの赤い短く刈った髪の毛を優しく撫でながら言った。
「でも…」
「わしのことを心配してくれているのなら、大丈夫。地獄の底でもうまくやっていける自信があるからの… そうそう、この鞄はおまえにやるという約束じゃったな」
 老婆は小さな胸に鞄を押しつけるようにして持たせた。
「でも、これがないと占いのお仕事が…」
「この後に及んで、このわしをなめるなよ。 そんな道具、いつでも好きなだけ誂えられる。どうか記念に貰ってやっとくれ」
 片目をつむると、そのまますたすたと廊下へと出て行った。
「待って下さい!」
 鞄を抱えたまま後を追いかけて廊下へ出て左右を見渡したものの、バテシバの姿はもうどこにもなかった。

「ブライディー! ブライディー!」
 いつもの声に呼びかけられて薄目を開くと、ケリーや、ベティや、『お兄ちゃん』や、シスター・セアラの心配そうな顔が覗き込んでいた。
「ああ、よかった!」
 ケリーやシスター・セアラはひまわりのように微笑んだ。
「あたし、どうしていたのかしら?」
「あのままあそこで倒れて、あたしが近所の農家に助けを呼びに行って、あたしたちを捜索していたセアラ様たちを呼んで頂いて、荷馬車でここへ帰ってきて、お医者様を呼んで頂いて、でも、三日三晩うなされ続けて…」
 ケリーは早口で言った。
「セアラ様は、不眠不休で祈りながら貴女の看病をして下さったのよ」
 ベティはたどたどしい口調で言った。
「…ベティ、ごめんなさいね。間違った占いをしてしまって。セアラ様もごめんなさい…」
「うううん、いいのよ」
「わたしも貴女が元気になってくれて、神様に感謝しています」
 ベティもセアラも涙ぐんだ。
「ああ、そうだ。バテシバさんは… あたし、ずっとお当番だったのに…」
 みんなは口ごもったが、「お兄ちゃん」が重い口を開いた。
「バテシバさんは、おまえが死線をさまよっているあいだに、召されたよ。お葬式の弥撒もすんで葬られた」
「えっ!」
 ブライディーはガバッと跳ね起きた。
「これをおまえに、って…」
「お兄ちゃん」が見慣れた鞄を差し出した。

 それから数日、ブライディーの健康が回復すると、ケリーとベティを含めた三人は、院長先生の部屋に呼び出された。
 そこには、院長先生とシスター・セアラの他に、風紀の先生である、気難しく怖い顔をした中年のシスター・グラディスが審判を司る天使の彫像のような無表情で立っていた。
「そんなに怖がらなくていいですよ…」
 セアラは、当然ビクビクおどおどとしている三人に囁きかけた。
「セアラ、貴女自身も事情を聞かれていることをお忘れなく!」 いきなりシスター・グラディスの雷が落ちた。「…貴女がこの子たちに度を超して優しくし、しつけを怠るから、このような事件が起きるのです。司教様から頂いた『外出許可証』はもう返したのですか? …本当に、子供たちを街に連れて歩くなど、勝手なことをするにも程があります! あの許可証は、ブライディーを引き取りに行くためだけのものだったはずです!」
「申し訳ございません…」
 セアラは衣のポケットから一枚の書き付けを取り出すと、院長先生の机の上に置いた。
「ごめんなさい…」 ベティが鼻水をすすり上げながら語りはじめた。「あたしが悪いんです… あたしがお父さんとお母さんがダブリンに来ていることを盗み聞きして、ブライディーちゃんに居場所を占ってもらうように頼んだから、こんなことに…」
「いえ、違うんです!」 ブライディーが横から言った。「『何か困ったことがあるのなら、あたしが相談に乗るわ』と持ちかけたんです!」
「黙りなさい!」 グラディスは一喝した。
「わたくしはいま、ベティだけに尋ねているのです。…ベティ、貴女は幼いから、そういうことを頼んでみよう、と思うもの無理はありません」 シスター・グラディスは抑揚のない口調で言った。「貴女はこれから毎日、わたくしがもういいと言うまで、ノート一頁分、神様に今度のことについての『ごめんなさい』という謝りの手紙を書きなさい」
 意外と優しいお仕置きに、院長先生もセアラも、ブライディーもケリーも、ホッとかすかな溜息をついた。
「早速きょう、いまからすぐに書き始めなさい。それから、今度また他人の話を立ち聞きしたら、わたくしにも考えがあります。さぁ、貴女はもう部屋に戻りなさい!」
 ベティはしばらく院長先生や、セアラや、ブライディーやケリーたちの顔を見比べて逡巡していた。
「ベティちゃん、あたしたちは大丈夫だから、先に戻っていて」
 ブライディーの笑顔に促されて、ベティは二、三度振り返り振り返りしながら院長室から出て行った。
「さてブライディー、貴女はみんなに、失せもの探しや、相性や将来などの占いをしてあげていた、というのは本当ですか?」
 ブライディーはコックリと頷いた。
「誰に習ったのですか?」
「家にいた時から、自分一人で工夫していろいろと占っていました」
 シスター・グラディスの眉間の皺が増え、表情は金梃子で挟んだように歪んだ。セアラは目を伏せてうつむいた。
「では、これは一体何ですか?」
 グラディスは、バテシバの形見の占いの道具が入った鞄を取りだした。
「あたしが占いをすることを知って、下さったものです…」
「莫迦ねブライディー!」 ケリーが耳元で囁いた。「バテシバさんはもう亡くなられたのよ。シスター・グラディスが責めようとしても、もう責めることはできないわ。だから、正直に『バテシバさんに習った』とおっしゃいなさいよ!」
「それはできないわ。例えバテシバさんは亡くなられていても、今度はあたしをバテシバさんの看護係にしたセアラ様が責められるかもしれない…」
 ブライディーは囁き返した。
「ケリー! 貴女は『ブライディーがいくばくかの謝礼で占いを請け負う』と、みんなに勧誘して回っていたことは調べがついています!」 グラディスは顔を真っ赤にして怒鳴った。「…貴女は、わたしがいいというまでずっと、洗濯当番の時間は倍、掃除当番の時間も倍、自由時間はなしです!」
「そんな…」
 ケリーの顔もくしゃくしゃになりはじめた。「なんなら三倍にしましょうか?」
「いえ、すいませんでした!」 ケリーは泣き出しながら部屋から出て行った。「ブライディーごめんね」と言い残して。
「さてブライディー、いずれにせよ貴女が、占いをしていたことは明白です。口から出任せ、いい加減なことを言って、さぞやベティのようなちっちゃな子たちの純真な心を、たぶらかし、からかって面白がっていたのでしょう」
 グラディスはブライディーと顔をつきあわせ、唾を飛ばして怒鳴った。「…嘘つきは重罪です。神様の真似をして人を…しかも子供を惑わす偽りの啓示を与えるというのは悪魔、魔女の仕業です!」
「グラディス様、何もそこまでおっしゃらなくても…」
 セアラがあいだに割って入った。
「セアラ、従順の規則を忘れたのですか?」
「セアラさん、いいんです。みんなあたしが悪いんです。三日三晩生死の境をさまよったのも、自業自得なんです」
「ブライディー、貴女はわたくしがいいというまで、一人で反省室に入っていなさい。昼間は二時間おきに懺悔。そして今度占いをしているところを発見したら、ただちにマグダレン女子修道院に行ってもらいます!」
 グラディスの言葉に、セアラも机に座った院長先生も目を閉じて顔を伏せるだけだった。

 子供が一人座るといっぱいになってしまう独房のような小部屋。明かり取りの葉書くらいの窓から差し込む光に照らされたブライディーは、両手で脚を抱えてうなだれ続けていた。
 と、そこへ、ひたひたと人目を忍ぶ足音が聞こえてきた。
「ブライディー、大丈夫ですか?」
 シスター・セアラの声がして、ブライディーの顔は少しほころんだ。
「…お水か、飴でも差し入れたいのですが、差し入れ口の鍵は、わたしは持っていないのです」
「いいんです、セアラ様」
「ごめんなさいね。お家から、貴女をここに連れてくる時、『決して悲しい、つらい思いはさせない、もしも何かあったらわたしがかばう』みたいなことを言っておきながら…」「いいえ、みんなあたしが悪いんです…」
 木のドア越しに、ブライディーはしみじみと言った。「…悪いことと分かっていながら、雨の中夜中に無断で、ケリーやちっちゃいベティを誘って外出して、危ない目に遭わせて、おまけに自分は熱を出して倒れて、大変な迷惑をかけて…」
「いいえ」 セアラはかすれた声で、しばらく間をおいてから言った。「…もしもわたしが貴女だったら、同じことをしていたかもしれません」
「えっ?」
「神様は『隣人を愛せよ』『困っている人を見かけたら、良きサマリア人のようにせよ』とおっしゃる… 『お父さんとお母さんが今夜だけダブリンに来ているから、一緒に探して下さい』と頼まれれば、探してあげると思います。その具体的な手段を持っていさえすれば…」
「院長先生や、グラデイス様や、セアラ様にお願い申し上げてみるべきでした」
「それは無理です」
 セアラは木の扉にヴェールに覆われた耳と頬を押し当てて囁いた。
「どなたも信じては下さらないでしょう。仮に、貴女が占い、かなりの確率で当てたとすると、昔なら魔女として火焙りの刑に処せられたと思います…」 小部屋の中でブライディーは胎児のように身体を縮めた。「…いまでも信仰篤い人は、快く思わないでしょう。未来は、神様と、公に預言者と認められた者だけが知るものだからです。けれど…」
「『けれど』?」
「もしも貴女が旧約聖書の預言者たちと同じ不思議な力を持っているのなら、その力は、お金儲けや名声を求めるためではなく、みんなの幸せのために使うべきです」
「セアラ様、そんなことを言って怒られませんか? 法王様は聖人様や福者様や奇跡はお認めになりますが、もう預言者の出現をお認めになられることはない、もしあるとすれば、それはイエス様の再臨の時だ、と聞いておりますが…」
「それはそうです。が、正しい、敬虔な、小さな預言者は、いつの世にもいたし、現在でも、いればいるほどいいと思います」
「えっ?」
「身体の力の強い人が、力の弱い人を手伝って上げるのは良いことでしょう? 同じように、魂の力の強い人が、弱い人を助けて上げるのは当然では?」
「本当ですか?」
「本当です。グラディス様はあのようにおっしゃいましたが、今後も、もしも人の命に関わることで占いを頼まれたら、占って差し上げなさい」
「でも…」
「無理強いはしません。貴女が正しいと思うようにすればいいでしょう…」
 遠くのほうから人がやってくる気配がした。
「ごめんなさいね」
 セアラはドアに向かってひざまずいて祈った。
「そんな、謝らないでください!」
 ブライディーもドアに向かって両手を組んだ。

 シスター・グラディスの怒りは二ヶ月ほどで解けた。
 ベティはもう反省文を書かなくてもよくなり、ケリーの洗濯と掃除は以前の通りに戻り、ブライディーも反省室から出してもらえた。
「三人ともいいですね。もしもまた約束を破ったら、今度はこれよりももっと厳しい罰を与えますからね」 シスター・グラディスは目を吊り上げて言った。「特に貴女は、もし再び『ここ』で占いをしたら、マグダレン女子修道院に入れますからね!」
 三人はうなだれてコックリと頷くだけだった。

 それからしばらく、ブライディーもケリーもおとなしくしていた。会った時ももう占いの話はしなかった。ベティも合わせて三人が長いあいだ罰を受けていたことはみんなに広がっていたから、もう占いを頼みに来る子も一人もいなかった。
「お兄ちゃん」は、ブライディーが何も言えないでいると、
「大丈夫だ。君はそんなにひどい悪いことをした訳じゃあない。ただ、一晩黙って外に行っていただけじゃないか。『仕事が倍』『反省室』男子ならよくあることさ」
「『お兄ちゃん』はそういう罰をうけたことがある?」
 おずおずと尋ねると、
「ああ、あるよ、何度も…」
 という答が返ってきた。
「本当に?」
 目を大きく見張ると、
「ああ、本当だ」と、見つめ返してくれた。
「…そんなことは、一人残らずみんな大なり小なりあるんだ。違うのは、自分で言うか言わないか、噂になるかならないか、ということだけなんだ」
「…でも、せっかく自分なりに人を喜ばせる方法を見つけた、というのに…」
「続ければいいじゃないか、占いを」
「えっ?」
「シスター・グラディスは『ここ』で占ってはいけない、とおっしゃっているんだろう?
 だったら、卒業したら、また一から始めればいいじゃないか? シスター・グラディスも、看護婦さんなり、メイドさんなり、社会人になって働き始めた卒業生については、干渉は出来ない。まさか少年院を出た少年少女に付く保護司さんみたいに、定期的に訪問して回ることはできないだろう。シスターたちだってそこまで暇じゃないし、卒業生の就職先はアイルランドのみならず、イギリスや英連邦、アメリカにまで広がっているからね」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
 ホッと肩の荷を降ろしたブライディーは思わず「お兄ちゃん」に抱きついた。
 すると彼は、彼女をしっかりと抱きしめ返してくれた。
「ブライディー、君は頭もいいし、器量もいいから、きっとメイドを雇いに来た貴族や郷紳たちの目に止まって、雇われていくよ。彼らのお嬢さんたちの小間使いになったら、勉強だって続けさせて貰えるかも知れない」
 ブライディーは「お兄ちゃん」の暖かい胸の中で、
「…そうなったらいいのに。『お兄ちゃん』もいい働き口が見つかったらいいのに…」と、泣きながらつぶやき続けた。

 それからしばらくたったある夏の初め、施設の子供たち全員で遠足に行くことになった。
 今年の行き先は、ダブリン郊外の、とあるピクト人の遺跡だった。付き添いのシスターたちは司教様から外出の許可を貰った。普段素行の良くない男の子たちは、若い神父の見習いが引率することになった。
 もちろん、子供たちは大喜びだった。
「あのいつもお堅いシスター・グラディスだって、きっと内心は嬉しいのに違いないと思うわ」 ケリーは声を潜めて言った。「いくらシスターさんたちでも、ずーっとこんなところで働いていたら、頭がおかしくなるに違いないもの…」
「そういうケリーちゃんが、外でのお仕事の募集によく応募しているのは偉いと思うわ」
 ブライディーも久しぶりにうきうきしていた。
「あら、外のお仕事のほうが楽しいわ。行き帰りに景色は見られるし、内緒のお心付けは頂けるし…」
「でも、知らないお仕事は覚えないといけないし、見ず知らずの雇い主のご指示を受けなければならないから、気を遣うでしょう?」
「それが退屈しないのよ」
 シスター・グラディスの長いお説教
「…いいですか、もしも万一何か事故か間違いがあったら、来年からは取りやめですからね」
 の後、何台かの二頭立ての大きな荷馬車に分乗して、郊外に向けて出発した。
 御者は、プロの御者志望の男の子たちが交代ですることになった。
 荷馬車の中では、歌や賛美歌が歌われた。

 昼前に到着した場所は、聖パトリックが福音を伝えるよりもはるか以前にピクト人たちが住んでいたという、いくつもの小さな洞窟のある崖のふもとの原っぱだった。
「いいですか、イギリスに渡って炭坑夫になることが希望の年長の男の子だけ、洞窟の中で、実際に道具を身につけてもらうなどして、わざわざお越し頂いている職長さんに適性を見て頂きます。それ以外の子は、絶対に洞窟に入ってはいけません。近づいてもいけません。いいですね? 後は必ず出発前に決めたグループで行動するように」 シスター・グラディスは大声を張り上げた。「…それでは時間まで自由行動とします!」
「わーい!」
 歓声が上がった。
 ブライディーはケリーやベティたちと、朝早く起きて作ってきたサンドイッチやお弁当を食べ、「お兄ちゃん」たち男の子組とフォークダンスを踊った。楽器の得意な子はフィドルを弾き、竪琴を奏でた。ブライディーは「お兄ちゃん」と手を繋ぐ時は、特別に胸がドキドキとした。

 楽しい時間はあっという間に過ぎた。小さい子たちは木陰で昼寝をし、大きい子たちは洞窟で炭坑夫の適性試験を受けたり、組になって散歩や探検、魚釣りに行ったりした。
 陽が西に傾きはじめると、時計を持っている子の合図に合わせて、みんな三々五々最初の集合地点へと帰ってきた。
「みんな揃っていますか?」
 シスター・セアラが澄んだ声を張り上げると、
「はーい」「はーい!」
 と、草原の上に集まった子供たちの返事が返ってきた。
「『洞窟組』の男の子たちもみんな無事に出てきたようです。子供たちは全員揃っています」
 セアラは晴れやかに院長先生に報告した。
「そうですか。神様のお恵みで終日天気もよく、本当によかったですね。それでは、帰りましょうか…」
 その時、シスターの一人が走ってきて叫んだ。
「院長先生、セアラ、大変です。シスター・グラディスの姿がどこにも見えないんです」
「えっ?」
 院長とセアラは思わず顔を見合わせた。
 すぐにシスターたちや、「男の子組」の神父見習いたちが辺りを探したが、見あたらなかった。
「やむを得ません。小さい子たちだけを先に荷馬車に乗せて帰らせて、大きい子たちも組を組んで一緒に探してもらいましょう」
 院長先生が断をくだした。
「どうしてなの? どうして一緒に帰らないの?」
 ベティはブライディーやケリーたちに尋ねた。
「大丈夫、すぐに追いつくからね」
 ブライディーは優しく言った。
 ところが、いくら平地を探しても、シスター・グラディスは見つからなかった。
「…神様、どうしましょう…」 院長先生はどんどんと西に傾く太陽を見つめ、ロザリオを握りしめておろおろとした。「探す範囲を広げるべきでしょうか…」
「…あの、院長先生」 セアラが言った。「もしかしたら、シスター・グラディスは、たくさんある洞窟の一つに入ってしまわれたのではないでしょうか?」
「まさか! 『適性試験を受ける子以外は、絶対に入ってはいけません』と、口を酸っぱくして言っていたのは、他でもない彼女ですよ!」
「何か事情があったのだ、と思います」
「俺たちもそう思う」
 男の子たちの適性を見に来ていたプロの炭坑夫たちが真顔で言った。
「院長先生、どうか俺たちに洞窟を探させてください!」
「教わった通りに命綱を付け、二人一組になって曲がり角ごとにチョークで印しを付けながら進みますから」
「お兄ちゃん」をはじめとする男の子たちが口々に言った。
「しかし洞窟はいくつもあるし、途中でいくつもに枝分かれしているし、そんな危険なところ…」
「シスター・グラディスはぼくらの先生で、ぼくらを愛して下さっているかたです。だからぼくらが探します。さぁ、早くお許しを下さい! ぐずぐずしていると、日が暮れてしまいます…」
「お兄ちゃん」が炭坑の装備を身につけながら言った。
「そうですね… でも、あなたたちに万一のことがあったら… せめてどのあたりの洞窟なのか、見当を付けることができれば…」
 院長先生は決断しかねていた。
 シスター・セアラと、ブライディーと、ケリーは、互いに顔を見合わせてもじもじとしていた。
「あの…」
 何かを言い出そうとしたブライディーに向かって、ケリーが囁いた。
「いいの、ブライディー。『次に占ったらマグダレン女子修道院送りにします』と言っていたのは、他でもないシスター・グラディスなのよ。貴女の占いで無事発見したとしても、『それはそれ、約束は約束』と言われてまた処罰されてしまったらどうするの? マグダレン女子修道院と言えば、一度入ったら最後、死ぬまで、修道院の外に出ることはできない、とても厳しいところなのよ。…それに、このままシスター・グラデイスが行方不明になってくれれば、他のかたは、貴女のことも、みんなのことも、大目に見て下さるようになるかもしれないわ…」
 ケリーの言葉に、ブライディーの言葉はほんの少し揺らいだ。けれど、すぐにキッパリと言った。
「セアラ様、あたしにシスター・グラディスの行方を占わせて下さい!」
「えっ!」
 さすがのセアラも絶句した。
「占わせて下さい!」
 ブライディーはもう一度繰り返した。

 小さい子たちが馬車に乗り込み、男の子たちが再び装備を調え始めた。大きな女の子たちは先に組を組んで平地を、範囲を広げて捜しに行った。
「さぁ、ブライディー、お願いするわ」
 大きな木の木陰で、手頃な枝を手渡しながらシスター・セアラが言った。
「頑張って!」
 ケリーが小声で励ました。
「お兄ちゃん」は無言で、少し離れたところから心配そうな表情で彼女のことをじっと見つめていた。
 ブライディーは深呼吸をすると、両の手のひらで枝をはさみ、目を閉じて祈った。
 枝は、くるっとかすかに回ってとある方向を指した。
 立ち上がってそちらに向かって何歩か歩くと、セアラやケリーや「お兄ちゃん」たちも少し距離を置いてついてきた。
 また深呼吸して祈り、枝を掲げると、かすかに動いて、二、三の洞窟が並んでいるあたりを指した。
「このうちのどれかなんだな? ありがとう。後はもう、ぼくらに任せてくれ」
「お兄ちゃん」はブライディーを遮るように追い越した。
「そうだ、任せろ!」
 炭坑夫のおじさんも言った。
「でも、この中は物凄く枝分かれしていて、大変だと思います。どうか、ここからもあたしに占わせてください」
 ブライディーはペコリと頭を下げた。
「おい、シスターさん、この子はこんなことを言っているが大丈夫なのか?」
 と、おじさん。
「ええ、こうなったら…」
 セアラが院長先生の代わりに答えた。
 結局、ランプ付きのヘルメットをかぶり、つるはしと小鳥の入った鳥かごを持ったおじさんを先頭に、男の子用のヘルメットをかぶったブライディーが続き(当時の英国の炭坑では、まだ少年たちも働いていた)、その横に「お兄ちゃん」が並び、しんがりはシスター・セアラがつとめた。
「次は右です! 次は左です! その次は真ん中!」
 一同はブライディーが枝で占う通りに進んだ。おじさんは命綱代わりの凧糸を繰り出し、「お兄ちゃん」はそここにチョークで定められた印しを付けた。
「シスター・グラディス、いませんか? わたくしたちの声が聞こえたら、どうか返事をしてください!」
 セアラは大きな声で叫んだ。声はわんわんと洞窟にこだましていった。天井からはときどきパラパラと土や砂が落ちてきた。
 ランプの黄色い明かりだけが、ぼんやりと先のほうを照らしていた。
「…これから先は、危険です」
 おじさんは立ち止まって言った。
「でも、あたしの占いでは、シスター・グラディスはこの先にいる、と出ています」
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃんのその占いは本当に当たるのかい?」
 おじさんは顔をしかめた。
「では、貴男はここで待っていてください。ここから先はわたしたちで参ります」
 セアラは毅然として言った。
「ぼくもだ。ブライディーを信じる」
「お兄ちゃん」は先に歩き始めた。
「しょうがない…」 おじさんは肩をすくめた。
「シスター・グラディス、いらっしゃったら返事をしてください!」
 みんなが何度目かに呼びかけたとき、先のほうでかすかに、ほんのかすかに声がした。
「みなさん、わたしはここです! ここにいます!」
 一同が走って駈け寄ると、泥だらけになったシスター・グラディスが先細りになった洞窟の行き止まりで座り込んでブルブルと震えていた。
「…洞窟の入り口でマリア様のような幻を見たのです。てっきりわたくしを祝福にお姿を現して下さったのたぜ、と思い、夢中で後を追いかけるとこんなことに… 悪魔のたぶらかしだったのです。ごめんなさい!」

 一同はすぐに来た道を戻った。洞窟を出るとすぐに、奥のほうでガラガラと天井が崩れる音がした。
「ブライディー、貴女が『占い』で捜してくれたのですか、本当に有難う… そして謝ります…」
「いえ、あたしは規則を破ったんですから、マグダレン女子修道院に行って来ます…」
「そんなところへはもう行かなくても構いません。貴女はわたくしの命の恩人です…」
 シスター・グラディスにも、シスター・セアラにも、院長先生にも、他のシスターや神父さんたち、「お兄ちゃん」をはじめとする男の子たちにも女の子たちにも笑顔が戻った。
「やれやれ、この子を一番スカウトしてイギリスに帰りたいよ」
 炭坑夫まおじさんは、うまそうにパイプ煙草吸いながら言った。


     (次のエピソードに続く)





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