ブライディー・ザ・マジックメイドブライディー・ザ・マジックメイド

「英国心霊協会 もっと怖い話パート2」

1.コナン・ドイルが語る「ピクト人のナイフ」
2.安倍 薫が語る「双頭の刺客」
3.ポピーが語る「落人の沼」
4.アレイスター・クロウリーが語る「父と子対メイドの亡霊」
5.ドッジソン教授が語る「妖精の気配
6.ウォーレス博士が語る「人間の皮」
7.安倍薫が語る「妖怪の根付け」
8.フィオナ・ウォーターフォードが語る「地獄のチェスの駒」
9.「シスターセアラと預言者ブライディー」
10.サダルメリク・アルハザードが語る「魔神のチェス盤」
11.ブライディーの女友達で親友のケリーが語る「木彫りの母子像」
12.クルックス博士が語る「雷交信」
3.ブライディーが語る「天使のチェックメイト」


 コナン・ドイルが語る「ピクト人のナイフ」

…医者になるための勉強というのはお金がかかる。ぼくも、母や母方の親戚に学費を援助してもらっていたものだから、夏休みなんか少しでもいいアルバイトがあると聞くと、学友を押しのけてでも首を突っ込んでいたものさ。

…それは、「ハドリアヌス帝の長城」の近くで発見された、古代ローマ軍の駐屯地の遺跡の発掘のバイトだった。医学部の学生は手先も器用そうだ、というイメージでもあったのか、ぼくと、ロバートという友達が採用された。
 このロバートが、ぼくと違って、医学部でありながら大変な考古学マニアだった。
 ブリテン島に進駐してきたローマ軍の、各時代における土器陶器や武器兵器の形はほとんど暗記しているばかりか、ピクト人のそれも、デーン人やノルマン人や、ヴァイキングやサクソン人たちのそれも、考古学科の学生よりもよく知っていた。
「どうして、考古学を専攻しなかったんだい?」 と、ぼくが尋ねるとロバートは、悲しそうな表情で、
「実家が医者で、一族もほとんどが医者なんだよ」と答えた。「…医学と考古学は、まぁ似たようなところもあるしね」
 そんなロバートとぼくは、十フィート四方に凧糸で仕切られた升目の一つを、少しずつ丁寧に園芸用の小さなスコップなんかで掘り返していた。
 すでにローマ軍の壷や皿そのかけら、かつては長剣や鎧や楯であっただろうものは多数出土していた。ぼくらも「それらしきもの」が出るたびに、刷毛ではたいて白い布の上に並べていった。
「お金とか、お宝のようなものかなかなか出ないね」 ぼくが言うと、ロバートは、
「お宝のたぐいはほとんどローマ本国に送っているさ。それに兵士たちの給料はとても安かったんだ。傭い兵も多かったしね」
 と、苦笑いした。
 そんなある日のこと、ぼくのスコップがカチッと何かに当たった。
「おいアーサー、気を付けろ! そーっとだ!」
 ロバートはそう言いながらぼくと場所を入れ替わり、
(さすが外科医の卵だ)
 と唸らせる慎重さでもって、そいつを掘り出した。それは錆びてボロボロになっているものの、刃渡り数インチほどの短剣らしいことが分かった。
 ぼくが手元にあった小旗を振り、声を張り上げかけた時、ロバートがその手を押しとどめた。
「待ってくれ、アーサー!」
 彼は鋭く言った。
「でも珍しいものが出た時は…」
「これはローマ帝国の大量生産品じゃない…」 彼は声を潜めた。「…この形、この様式、ピクト人が儀式で使っていたナイフに違いない!」
「そこまで知っているのなら、なおのこと…」
「アーサー、お願いだ。明日には必ずきまり通り提出するから、今夜一晩だけ、これを俺の手元に置かせてくれないか。こういうものを見つけたくて、この仕事に応募したんだ」
「でもただの黒く錆びた青銅の残骸だよ」
「いまの姿形は問題ではない。大切なのは魂なんだ」 彼は恐ろしい目でぼくを睨み付けた。「…これはただの武器じゃない。形といい、かすかに残る文様といい、たぶん、捕虜やケルトの神に対する生贄にとどめを刺すためのナイフだ。そして、伝説によれば、心あるものがこのナイフを枕元に置いて眠ると、これによって命を奪われた犠牲者の声を聴くことができ、その時の状況を夢に見ることができる、と伝えられているものなんだ」
「そんな珍しいものだったらますます…」
「教授や博士たちに渡してしまえば、俺のような考古学科の学生でもない者は、もう二度と手にできない、まして枕もとに置いて眠ることなどできない、せいぜいガラスケース越しに見ることしかできないものになってしまうだろう」
「分かった。でも今夜だけだぞ。明日には必ず…」
 友達の頼みに、ぼくはとうとう折れてしまった。
「有難う、一生恩に着るよ!」
 ロバートは数千いや数万ポンドの金を借りることに成功した窮地の実業家のように喜び、その発掘品を丁寧にハンケチで包むと、誰も見ていないか入念に辺りを見渡してから懐の中に隠した。

 借りていた安宿の二階の一部屋に戻ると、ロバートはさっそくハンケチを広げてナイフの検分をはじめた。(考古学が専攻では?)と思うほどたくさんの資料や図鑑を、二人に一つしかない机の上のみならず、ソファーの上や床の上にも関連のページを広げて並べ始めた。それから改めて机に向かって、くだんの錆びたナイフを大小の中国の筆や綿棒で手入れし始めた。
「すごいぞ、アーサー、やっぱり俺の予感は当たっていた! これは貴重な儀式用のナイフに違いない! この図録の文様と比べてみろよ。そっくりじゃないか!」
 ぼくは彼に促されて、本に載っている写真やイラストの模様と、ロバートがナイフの上から紙を当てて、鉛筆でこすって浮き出させた模様を見比べた。なるほど、考古学は素人のぼくも、両者はよく似ていることが分かった。
 ぼくは、いつもと同じ安上がりな夕食をとったが、彼は調べものに熱中していてとうとう階下には降りて来なかった。
「アーサー、これは本当に大発見だ!」
 再び二階に上がると、彼の顔はますます熱を帯びていた。
「でも、明日は必ず教授たちに提出しような」
 やんわりと言うと、パジャマに着替えて固いベッドの上に横になって毛布をかぶった。「ああ、もちろんそうするよ。そうするとも!」
 そう言う彼の目は爛々と輝いていた。
 ぼくは、疲れ切っていたせいもあり、続きを読みたい本もあったのだけれど、じきに眠りに落ちてしまった。
 ロバートは、興奮と熱狂でそれどころではないらしく、時おり「そうだったのか!」とか、「なるほど!」とか、あるいはぼくにはさっぱり訳の分からないゲール語の呪文らしきものをブツブツと呟きながら、ずっとナイフを触り続けていた様子だった。

 …ぼくは夢を見ていた。
 夢の中でぼくは、小さな小高い丘の上にある石舞台の上に、両手両足を広げて横たわっていた。白く長い寛衣を着た何人かのドルイドの神官たちが回りを取り囲んで、呪文のようなものを唱えていた。
(ははん) ぼくは思った。(ロバートと昼間、あんなやりとりをしたからこんな夢をみているのだな。彼が見せてくれた資料本の挿絵とそっくりじゃないか! …さっさと醒めろ、こんな夢! ウイスキーでも飲んで眠り直してやる!)
 起きあがろうとしたものの、起きあがれない。まるで、寝ているあいだに無理矢理に古代を舞台にした劇の役者にされてしまったような感じだった。
(まぁいいさ。夢だったら殺された瞬間に現実に戻れるのだろう。グサリとやられたら目が覚める、という寸法だ!)
 ところが、リアルな夢は延々と続いた。
 生け贄であるぼくや、神官たちを取り囲んでいる、顔や腕に刺青を入れた老若男女の顔も、夢とは思えないほどハッキリとしていた。 顔を白い頭巾で隠した神官の長らしき人物が、部下からナイフを受け取った。
 刃は研ぎ澄まされていて銅色に輝き、柄の部分にはロバートが見せてくれた、宝石をあしらった渦巻状の文様が見えた。
 さすがのぼくも少々恐ろしくなってきた。
(もしかしたら、あれでグサリとやられたら、本当に死ぬんじゃあないか? 朝になったら、心臓麻痺で冷たくなっているエジンバラ医科大学の学生の遺体が、遺跡の近くの安宿のベッドで発見される、というような感じで…)
 全身からどっと冷や汗が吹き出した。
(よくある種類の呪いだけに…)
 そう疑いを持った途端、怖ろしさが沸き上がってきた。
(とにかく目を覚まさなければ… 一体どうすれば現実に戻れるんだ?)
 じたばたともがいたものの、どうにもならない。神官がナイフを逆手に持ってぼくの心臓に狙いを付けると、群衆から歓声が上がり、ぼくは目を固く閉じた。

「おい、アーサー! アーサー、大丈夫か?」
 ロバートの声で目が覚めた。
「…良かった。ひどくうなされていたんだぜ! 熱でもあるんじゃないか?」
「有難うロバート。でも、もう大丈夫だ。やっぱり持つべき者は友達だよな」
 ぼくはふらつく足取りで洗面所に行って顔を洗った。
 と、顔を洗面器の水にひたしている時に、またあの、刺青の群衆の歓声のような声が聞こえてきた。
(まだ夢の中の空耳が続いているのか?)
 そう思いつつ顔を上げると、目の前の鏡に、目を血走らせ、例の青銅色に輝くナイフを振りかざしたロバートの姿が映っていた。
「何をするんだ!」
 幸い、彼は力が強いほうではなかったので、もみ合った末に何とか奪い取ることができた。その途端、ナイフは元の朽ち果てた姿に戻った。
 ぼくは、ロバートがナイフを教授に提出するのを見届けてから、発掘のバイトを辞めた。彼とはその後会っていない。音信も途絶えたままだ…


2.安倍 薫が語る「双頭の刺客」

…山を越える街道を、新たに切り開こうとした領主が、人足を集めようとしたところ、さっぱり集まりませんでした。
 というのも、その山には昔から恐ろしい物の怪、妖怪の類が住みついているという噂で、木こりも炭焼きも猟師も近寄らなかったのです。
 そこで領主は「化け物を退治し、証拠を持ち帰った者には、多額の金子とともに姫の一人を与える」というお触れを出しました。
 勇み立った腕に覚えのある大勢の武芸者、修験者たちが一人で、あるいは党を組んでその山に分け入りましたが、誰一人として戻っては来ませんでした…
 諦めかけた時、一人の若侍が申込所に現れました。前髪を垂らし、錦の陣羽織を着て大変目鼻立ちが整ったその若者は、右肩の上に陣羽織と同じ生地で作った、首と同じくらいの袋をのせていました。
「その右肩のものは何か?」
 役人が尋ねると若侍は、
「これは拙者のもう一つの首でござる。非常に醜く、まともに見た者は石になってしまう故、こうして袋に包んでいるのでござる」と答えました。
 役人も領主も困り果てました。
 なにしろ、もしもこの若侍が山に巣くう物の怪を見事討ち取った場合、姫の一人を嫁がせねばならないのです。領主の娘たちはその日から食事がまともに喉を通らなくなりました。もう、新たな交易路、街道のことなどはどうでもよくなり、若侍がいままでの刺客たちと同じように、返り討ちにあって二度と帰ってこないことを祈る始末でした。
 姫の中に一人、頭が良く勇気のある者がいて、こう考えました。
(おそらく、あの若侍は、物の怪と対峙したとき、右肩の袋を取り去って、物の怪を石にしてしまうつもりなのでしょう。ならば、予め物の怪にそのことを伝え、教えておいてやれば、何らかの対策を講じることができ、恐ろしい顔を見ることもなく、従って石になることもなく、若侍を倒すことができるのでは)と…
 姫は袴をはき、刀を差して男装し、山に分け入りました。
 と、草鞋の先が固いものにぶつかったので地面を見ると、人の形をした石のようなものがそここに転がっていました。腕であったものの先には刀や槍や錫杖だったらしきものが握られています…
「おまえも石になりに来たのか?」
 林の奥から声がしました。
「いいえ、あたしはあなたに、良いことをお教えしに来たのです」 姫は懸命に言います。「…次にあなたを倒しに来るかたは、前髪も凛々しい若侍ですが、そのかたは右肩に首と同じくらいの袋をのせています。その袋を取り去ると、まともに見ると石になってしまうくらいの醜い顔が現れるそうなのです」
「なるほど…」 林の中では物の怪が大きく頷いたような気配がしました。「しかし何故そなたはわたしにそのことを知らせてくれるのか? そなたの父はわたしを倒して、街道をつくりたいのではなかったのか?」
「あたしたち姫の誰もが、双頭の異形の妻になどなりたくありません。父もいまではあんな約束をしてしまったことを大変後悔しています…」
「それは分かるが、それではわたしを倒そうと申し込んできたその若侍が気の毒ではないか?」
「いまとなっては仕方ありません。これを最後に新たな募集は打ち切りますので、なにとぞ双頭の若侍を、いままでの者たちと同じように返り討ちにしてください」
 姫は必死で懇願します。
「わたしも命ある身ゆえ、降りかかる火の粉は払わせてもらう。が、絶対に勝つという約束はできぬ。全力は尽くすが保証はできぬ」 物の怪はそう答えました。
 姫のほうは(有力な情報を伝えたのだから、「物の怪有利、若侍不利」)という感触を得て、山を下り、城に戻ってきました。
 城中や城下の寺や神社では、連日物の怪の勝利、若侍の敗北が祈祷されました。

 数日後、若侍が、山を下りてきました。右肩の上の錦に包まれた袋はそのままに、両手で血が滴るの凛々しい前髪を掴み、両目をカッと見開いたままの首を手鞠のように弄びながら…


3.ポピーが語る「落人の沼」

…えっ、「もっと怖い話をしろ」ですって! それは、あたしにだって思い出したくないことは沢山あるんです。語りたくないことだって… でも、「ここ」でお世話になっている以上は、ある程度は…

 あたしの故郷はフランス・アルプスの小さな村で、いくつかの大国、小さな公国に挟まれているために、戦乱が絶えません…
 その時も、ある大国が隣の大国にささいなことで因縁をつけて戦争になり、どちらにもつかなかった小さな公国が一つその巻き添えに遭って滅びました。中立していれば身を守れると思っていた公国の王族貴族、大臣や将軍たちは何とか落ち延びようとしました。両大国の為政者はドサクサにまぎれて公国の領土を分割して手に入れ「この者たちを捕らえたり討ち果たした者には賞金を与える」という似顔絵入りのビラをあちこちの街の教会の塔の上からばらまきました。
 そのビラのうちの一枚が、あたしたちの村にも風に吹かれて飛んできたのです…
「いくさごとは時の運…」 村長さんはしみじみと言いました。「…この人たちはとりわけて何か悪いことをした訳ではない。ゆえに彼らが村を通っても見て見ぬふりをしようではないか」
 村長さんの言葉に村人たちは思い思いに頷きましたが、ただ一人、欲張りのヨハンだけは首を横に振りました。
「いいや。俺は金が欲しい。金があればボロ家を建て直すこともできるし、新しい荷馬車も買える。畑を広げたり牛や馬や羊を増やすことだってできる。妻や子供たちに服や靴も買ってやれる」
「やめとけヨハン」 村長さんは真顔で忠告しました。「農民のおまえが一人でどうして落武者を狩るというのだ。相手は将軍かもしれないのだぞ。剣の達人かもしれず、ピストルを持っているかもしれない」
「へへん、そこは頭の使いようさ! みんな、俺の家の前の丸い沼の真ん中に、橋がかかってるのは知っているだろうが。あの沼があるせいで、俺んちは小作料も地租もかなり負けて貰っている沼さまさまさ。みんな当分その橋は渡るなよ。渡ってどうなっても知らないからな! 家に帰ったら、『ヨハンの家に行く橋は渡るな』とみんなに言っとけよ!」
 一人、集会所を飛び出したヨハンは、さっそく自分の家の前の沼にかかった橋の真ん中あたりにのこぎりで切れ込みを入れて、体重がかかると壊れて沼の中に落ちるように細工をしました。…そう、ヨハンの家の前の沼は、いつも泥でズブズブの「底なし沼」だったのです。彼は、細い街道から自宅に向かう分かれ道のところに古い板を使って、橋に矢印を向けて「家庭的な宿屋はこちら」という看板を立てました。
 それからヨハンは、妻と大勢の子供たちを呼び集めて言いました。
「いいか、おまえたち。沼にかかったあの橋は父ちゃんがたったいま、渡ると壊れるようにした。逃げ出した公国の偉い人が渡ると沼に落ちるようにだ。だから、おまえたちは絶対に橋を渡らず、沼のまわりを回り道して来るように!」
「あなた、あたしは人様の不幸で手に入れたお金なんか欲しくないわ」
「そうだよ父ちゃん、そんなこと良くないよ」
「そうだそうだ!」
 妻も子供たちも口々に反対しましたが、ヨハンは聞き入れませんでした。
「うるさい! これもみんなおまえたちを楽にしてやるためなんだ! …いいか、繰り返すが橋は絶対に渡るな! 当分遠回りするんだ」
 数日たって、ヨハンは隣村へ、払いのいい賃仕事に行くことになりました。そこで彼はもう一度家族全員を集めて言いました。
「くれぐれも橋は渡るな。俺の留守中に橋の真ん中が壊れているのに気が付いても、俺が戻るまでそのままにしておくんだ。分かったな?」
 ヨハンの剣幕に、妻も子供たちも怯えきって同意するしかありませんでした。

 賃仕事を終えて帰ってきた日は、その地方一帯土砂降りの雨が降り注いでいました。
 小さなランプを持ち、ゴムのレインコートを着て我が家の前まで帰ってきたヨハンは、増水して水が溢れそうな沼の橋の前でハッと我に戻りました。
(危ない、危ない… 橋の真ん中は、俺が自分でノコギリの目を入れたんだった!)
 彼は肩をすくめて、池の周りを歩き始めました。
 と、雨に煙る沼にかかった橋の真ん中あたりに目をやると、何か壊れているように見えるではありませんか!
(やった! ついにやった! ひっかかった奴がいるんだ。誰だろう? 王族か貴族か、大臣か将軍か、大物だったらいいのにな!
 それも一人ではなく、二、三人とか…
 晴れたら一家総出で沼ざらえをしてやるぞ)
 家に戻ろうとしたヨハンは、もう一度よく見るために、沼のほとりに近づきました。
 ずぶずぶ… 長靴をはいた足がぬかるみに取られます。明日の朝になれば、そんな無理をしなくても確かめることができた、というのに、彼は待てなかったのです。
 ずずず… いきなり片足が膝のあたりまで沈んで、沼の中に前のめりに倒れました。もう声も出すことも、息もできませんでした。 もがけばもがくほど沈みかたが早くなって…

 ヨハンの家族は、彼が帰ってこないので、「もしや」と思い、村長さんや村の人たちに底なし沼を浚うことを頼んだそうです。でもそれはとても無理だったので、しばらくしてから引っ越して行きました。橋はヨハンが切れ込みを入れたまま全く元の姿で、「危険」の立て札が立てられたまま放置されているそうです…


4.アレイスター・クロウリーが語る「父と子対メイドの亡霊」

…「黄金の暁団」などに出入りしていると、このような話を聞く機会には事欠かない…

 遠い昔の話ではない。
 紡績業で大儲けした郷紳の一家のジョンという若い坊ちゃんが、屋敷に仕えるメアリという美しいメイドの一人に恋をした。しかし、ジョンの父はジョンの嫁に貴族の娘を迎えることが夢だったので、どう考えても一緒になれる訳はなかった。
 二人は霧の濃い夜、雨で増水したテームズ川のほとりで、最後の逢い引きをした。
「この世で添えないのなら、どうか天国で…」
 メイドのほうは、坊ちゃんの襟にしがみついた。
 しかし、メアリにとって可愛そうなことに、坊ちゃんの愛は、この時すでに醒めかけていた。
「なにとぞ一緒に…」
 すがり続けるメアリを、ジョンは引きはがすようにして川の中に投げ込んだ。
 彼は、長い悲鳴を上げながら濁流に呑み込まれて次第に流され消えていくメイドを、肩で息をし、血走った目で見送った…

(あいつが悪かったんだ。しつこかったんだ…)
 そう自分に言い聞かせて屋敷に戻ったジョンは、さすがに自分がおかしくなっていることに気が付いた。
 揃いの紺のお仕着せに白いエプロンドレスを着た屋敷のメイドたちの顔が、どれも一瞬だけメアリのように見えた。若いメイドはもちろん、年配のメイドまで…
「この制服はどうも、いなくなったメアリのことを思い出してしまう。まったくデザインの違う、お仕着せに変えてくれませんか?」 ジョンは父親に懇願し、父も「そうすれば息子がメアリのことを忘れてくれるのなら」と、灰色の、デザインも大きく違う制服に替えました。
 ところが今度は、彼に食事を給仕したり、新聞や手紙を運んでくる時の声が、メアリの声で聞こえてきた…
「この新しいお仕着せ素敵だわ、ジョン、貴男が選んで下さったの?」
「ジョン、次はいつ二人だけになれるのかしら?」
「またどこか、あたしの知らない楽しいところに連れて行ってくださいな…」
 耳を塞ぎ、頭を激しく左右に振って、ようやく別人のメイドが、まったく別のことを言っていることが分かる、という始末…
 父親が勧める貴族の娘とお見合いをした時も、相手の小間使いが突然メアリの顔になり、「これは父上や世間をあざむくためのお芝居でございますよね?」
 と恐ろしい顔をして言い放った。
 恐怖で我を失ったジョンは、とうとう父親にメアリを殺めてしまったことを打ち明けた。 父親は、彼の両肩をしっかり抱きしめ、両目を見据えて言った。
「落ち着くんだジョン。たかがメイドの一人や二人をなぜそのように恐れる?」
「しかし父さん、メアリは確実に亡霊か幽霊になってぼくを呪い殺そうとしているように思います…」 彼は怯えて父にすがりつきながら訴えました。「このごろは寝室にも現れるのです…」
「わが英国は、幽霊の話にはことかかん。国王・王妃から、メイドまで。いままで黙っていたが…」 父親は真顔で言った。「実はわしは若い頃、黒魔術に凝ったことがあるのだ」
「えっ!」 ジョンは目を見張った。
 お堅い父が、いきなり「黒魔術」などという言葉を口にしたのは、まさに青天の霹靂だった。
「…おまえがわしに反抗したように、わしもわしの父…すなわちおまえの祖父への反抗があったのだろう。もうそれに関する書物も、道具のたぐいもすべて処分してしまったが、とにかくいまでもかなりの自信がある。だからジョンよ、メアリの影如きに恐れおののくな! このわしが、必ずなんとかしてやる。 子を愛さぬ父が、どこにいるというのだ? とりあえず、この屋敷のおまえの部屋や、よく行く場所には簡単な結界を張ってやる」 使用人らの人払いをした後、ジョンは父とともに、館の自分の部屋がある一角に戻った。
 父は絨毯の床に砂で、木の床にはチョークで魔法陣を描き、そここに蝋燭を立て、ラテン語の呪文を唱えた。
「さぁ、これでここは大丈夫だ」

 ところがやはり、それだけでは根本的な解決にはならなかった。屋敷や庭じゅうに魔法陣を描く訳にはいかない。人目もある。
 外出の機会やパーティや舞踏会の誘いも引きも切らず、全部断るというのは難しい。
 出かけると、招いた側の若いメイドや商店の売り子の娘がチラチラとメアリに見え、さらに鬼女のような形相を浮かべ、怒った時のメアリの声色で、
「ジョン様、お久しぶりです」とか
「またお会いできてとても嬉しいです」とか
「どうか添って頂けるというお約束をお忘れ下さいますな」
 などと囁くので、どこへ行っても心休まることができず、ほとんど父が描いてくれた陣に守られた部屋に引きこもっていた。
 ジョンの父は、かつて一緒に黒魔術を学んだ友人たちに相談した。しかし彼も、友達の中も、奥義を究めるほど打ち込んだ者はいなかったので、メアリの怨霊を完全に退散させることはできなかった。
「父さん、ぼくはもう警察に自首しようと思うんだ」
(密かに覗いている者がいるような気がする)と言うので、厚いカーテンを降ろしたままの薄暗い部屋の、魔法陣の真ん中に置かれた椅子に、くしゃくしゃになった頭をかかえてうち沈んだジョンが言うと、父は烈火の如く怒った。
「何を言うか! おまえの双肩には当家の将来未来がかかっているのだぞ! それが前科者になるなど、絶対に許さんぞ!」
「でも、このままでは、ぼくは頭がおかしいと思われてしまうよ! いや、もうすでに思われてしまっているかもしれない!」
「落ち着くんだ、ジョン。おまえは決しておかしくなんかなっていない! おまえ以外の者は誰一人として、メアリの幽霊や亡霊やあやかしを見た者はいやしないんだ! つまり、おまえさえ思い詰めなければ、どこにも証拠はないんだ!」
「でも、ぼくには見えるんだよ、父さん。見えてしまうんだ!」
 ジョンはそう言って椅子に座ったまま泣き崩れた。
「…そうだ。もしかしたら、メアリが死んだというのはぼくの思いこみで、もしかしたらメアリは、誰かに助けられてどこかで生きているのかも知れない。そうだ、きっとそうに違いない。どこかで生きていて、ぼくのことを日夜呪い続けているんだ!」
 言い終えるとジョンは、「ケケケケ…」と、常人離れしたけたたましい笑い声を立てて笑い続けた。
(そんなことなどあるものか!)
 ジョンの父親は、言いかけた言葉を飲み込んだ。
(ジョンが、メアリのことをあそこまで恐れるのは、たぶんに良心の呵責に基づくところが大きいのに違いない。テームズ川に突き落とされて溺れ死んだメアリが生きていたことにして、そのメアリが彼に「心から謝罪すれば、許してあげましょう」と言ったら…)
 計画はじょじょに形を取り始めた。
「メアリを呼び出す降霊会」、「かつての黒魔術」の仲間。メアリによく似た口の堅い女優の卵」に「溺死したメーキャップ」をさせ、それからドライアイスの煙…
 すべての用意が整ったとき、父親はジョンに向かって言った。
「息子よ、八方手を尽くした結果、優秀な降霊術師のかたに、メアリの霊を降ろしてもらえることになった。そのかたは口も堅く、秘密も守って貰える。おまえは呼び出してもらって現れたメアリの霊に、謝ってみたらどうか?」
「嫌だよ、父さん、絶対に嫌だよ! メアリは絶対にぼくを許してはくれないよ!」
「その場合は、このわしがメアリの悪霊を滅ぼしてみせる!」
「父さんにそういうことが出来るの?」
(できる) 父は思った。(なにしろメアリと降霊術師は俳優を雇うつもりなのだ。事前に入念に打ち合わせをしてブロックサインでも決めておけば、何とでもできるだろう…)

 偶然なのか、その夜はひどい嵐になった。 雨粒が窓をたたき、風はヒューヒューと吹き荒れていた。
 黒いマントと頭巾で全身を覆った降霊術師役の俳優と、メアリを演じる俳優が、使用人たちには見られないように小さな通用口からやってきた。
「父さん、ぼくはやっぱり気が進まないよ」 この後に及んでジョンはまだ渋っていた。
「大丈夫だジョン。おまえの苦しみもきっと今夜で終わるだろう…」
 蝋燭が消され、降霊術師が重々しい声で「メアリの霊よ来たれ!」と叫んだ。
 スモークの中、メアリに扮した女優が現れた。ジョンは霊に会うことに備えて魔法陣を消した椅子の上で「許してくれ… 許してくれ…」と呟きながら震えていた。
「さぁジョン、今度こそ一緒に、一緒に行きましょう…」
 メアリは優しい声でそう言い、ビッショリと濡れた手でジョンを誘い、立ち上がらせ、降霊術師とともに、そのまま外に出て行った。
「おい、何をする! 話が違うじゃないか!」
 父親は後を追おうとしたが、身体が金縛りにあって動かなかった。
 ジョンの行方は杳として知れない…


5.ドッジソン教授が語る「妖精の気配」

…ぼくは、男性の友達は数えるほどしかいません。一度だけ、一緒にヨーロッパ旅行に行った彼…の他には二、三人…ここでは仮にソーントン、ということにしておきます…

 ソーントンは、ぼくと違って行動的で、若い頃から世界中を旅していて、西洋はもちろん、清国や日本に行ったこともあった。
 目的は… 各種武術の会得だった。
 レスリングやボクシングといった西洋格闘技はもちろん、空手、拳法、柔術といった東洋のそれも、一通り学んでいた。
 男がそういうことをする目的はほとんど「強くなりたい」とか「精神を修養したい」というものだ。が、彼にはそれに加えて一風奇妙とも言える理由があった。
 そしてそれが、ぼくとソーントンを結びつけた事柄だったのです。
「ドッジソン教授、あなたの素晴らしい小説の数々には、奇妙奇天烈な生き物が、何の前触れもなく突如として登場する場合が多いですが、ここだけの話、実際にそのような存在を目撃されたことがおありになるのでしょうか?」
 あるファンタジーの会合で、上着とシャツの下に筋肉隆々の身体を包んだ紳士に尋ねかけられた時は、一瞬引きましたけれどね。
「…さぁ、どうでしょうか…」 ご存じの通りこういう時ぼくは、相手の夢をどうにかしてしまわないように、曖昧に答えるようにしています。「見たことがある、と言えばそうでしょうし、ないと言ってもその通りのような気がします。妖精なんかと似ていますね」「私もね…」 ソーントンはジリッと歩み寄り一層力を込めて言いました。「何とか見たいと願っているのですよ。それも一つではなく、いくつも。そして、そのための努力もしています」
「と、仰いますと?」
「日本の剣道や、拳法や柔術には『殺気』というものがあるそうです。簡単に言うと、身を潜め隠していても、傷つけてやろうという気持ちが気配になって、何ヤードも離れたところにいる相手に分かってしまうことです。 武術の修行を積み、遠くのそういう気配をいち早く素早く感じ取ることが出来て、そのものがいる方向に目をやることができれば、目にするチャンスも増すのでは、と…」
「なるほど…」 ぼくは頷きました。「…その理屈で言うと、アーサー王やラーンスロット卿や、円卓の騎士たちはさぞかし沢山の妖精を見たことでしょうね」
「有難うございますドッジソン教授!」 相手はいきなり両手で握手を求めてきました。そのきつかったことと言ったら… 「…私の夢をご理解頂けるのですね!」
「ええ、もちろん。道ばたの草むらに気配を感じたら素早く振り向く。クローゼットの中に何かがいる感じがしたら、目にも止まらぬ速さで開いてみる…そういうことでしょう?」
「そうです! その通りです!」
 ソーントンはすっかり感激していました。「…でも十分気を付けてくださいよ」
「えっ?」
「だって、もしも万一、その妖精が邪悪な妖精で、見られたり、存在を知られたりすることを嫌っていた場合、それこそ『見たな…』と、いきなり貴男に襲いかかってくる可能性だってある訳です」 ぼくは真顔で忠告しました。「気が付かず、そのまま通り過ぎていたら、何も起きなかったところが、何かが起きてしまう訳です。まぁ貴男のように十分に訓練を積んでおられれば、そういう場合も大大事に至る可能性は少ないとは思いますが」
「ええ。しかしそれを恐れていては、楽しい愉快な出会いも無いわけでして…」
 彼はまっすぐぼくを見据えました。

 それからしばらくして、ぼくはソーントンから「妖精が潜んでいるらしい空き家の館があるから、ぜひ二人で見に行かないか?」 という誘いを受けました。
 ぼくは正直、気が進みませんでした。
 善良で友好的で幸運を授けてくれる妖精がいるのだったら、そこに住んでいた人たちはどうして引っ越しして去っていったのでしょう? ひょっとして「目撃したらツキが落ち、貧乏神に取り憑かれてしまうような妖精」がいるのではないでしょうか?
 いまのように「英国心霊研究協会」の皆さんのような、頼もしい面々がご一緒であれば、恐れるものなど何もないのですけれどね。
 その時は最初尻込みしました。でも、結局受けてしまったんです…

 その館は、手入れをする人がいなくなってから時間が経っているらしく、門から建物に至る庭は、草ボーボーでした。その草や、木々の枝がさわさわと揺れる度に、ソーントンは素早く鋭い一瞥を向けます。
「本当にいるのだろうか?」
 写真機を携えたぼくが彼の背中に隠れるようにして尋ねると、彼は
「いるんじゃあないかな。写真を写すことは無理でも、見ることはできるんじゃないかな」 と言いました。
 ソーントンの視線の先の、壁や敷石をトカゲがサッと横切りました…

 ぼくたちは家主さんから借りた鍵束の中から「玄関」と書かれたタグの付いた鍵を選び出すと、ホールへと入りました。そここに蜘蛛の巣が張り、埃が積もった「幽霊屋敷」だ。
 ぼくは自分がソーントンよりも先に「彼ら」を見つけようなどという野心は、最初から抱いてはいませんでしたた。
(大げさに言えば、彼は「今日という日」のために、各種の武術の訓練を積み、後頭部や側頭部、背中やお尻に目玉を付けるように頑張ってきたんだろう。そんな彼よりも先に、妖精を見つけてしまっては悪い)とも考えていました。 ソーントンは両腕を胸のあたりで身構えながら、廊下を進み、部屋を覗いて回った。
「どうだい、何かいそうかい?」
「まだ『気配』は感じられない。だけども、何者かが潜んでいるような予感はする…」
 彼は重々しく答えた。
 と、何気なく振り返ったぼくの視線の先、廊下の曲がり角を、後ろ足だけで立ったネズミのようなものが素早く曲がって消え去るのが目に映りました。
「ん、ドッジソンさん、何か見ましたか? 目撃したんですか?」
 振り返ったソーントンは、ぼくの両目を見つめて尋ねた。
「あ、いえ… ネズミだったと思います」
「本当にネズミでしたか?」
「ええ。かなり大きかったですが、あれはネズミです」
 ぼくはソーントンが、たとえネズミでもいいから発見してくれるように祈りました。
 彼はさらに油断無く身構えながら、とある部屋に入った。そこは、木製の鎧戸の扉がズラリと並んだウォークイン・クローゼットの物置部屋でした。
「わたしはこちらの列を開けて回りますから、貴男はそちらの列をお願いします」
 そう言うとソーントンは、ある引き戸はそーっと、次の戸はガラガラと一気に… という具合に開けて中を調べていった。
 ぼくは、メイドたちがするように、普通に開けて、普通に閉じていきました。中は古いリネンや、箱に入った道具類などがそのままになっていました。
 何番目かの引き戸の前で、ぼくは手を止めた。中に何かがいるような「気配」がしたためだ。何かこう、名状し難い、禍々しい存在の妖気が…
 よほど彼を呼ぼうとしまたが、結局呼びませんでした。呼びつけて中に何もいてもいなくても、何か思われそうな気がしたからです。
 ぼくは一インチ、二インチ、三インチと、そーっとそーっと引き戸を引いた。差し込む明かりがクローゼットの中を照らす範囲が広がると、「そいつ」がいたのです。
 粘土か、ゴムで作った緑色のガーゴイルのような顔。鱗のようなもので覆われた身体、コウモリのような羽根。鉤のように曲がった尻尾。魚の目に似た目が、まるで眠りを邪魔されて怒っているかのようにギロリとぼくを睨んだのです。
 声を出そうとしたが、凍り付いて出ませんでした。そのうちにそいつは、クローゼットの奥のほうに、音もなく逃げ去りました。
「どうかしましたか、ドッジソンさん、またネズミですか?」
「あ、いえ、特に何も…」
 ぼくは(言っても信じて貰えないだろう)と思って、黙りこくってしまいました。
「まだまだ部屋はいっぱいありますね。ドッジソンさん、貴男さえよければ、怖くなければ、次の場所からは二手に分かれて探索しませんか?」
 クローゼット部屋を探し終わったソーントンは、少し肩を落として提案しました。
「い、いいですよ。そのほうがはかどりますからね」
 ぼくは「いや、やはり二人で探しましょう」と言いかけて、そう言い直しました。
 客間の一つで、小さな、真っ赤なエリマキトカゲのようなやつが横切るのを、納戸の一つでは紺色のバシリスクのようなやつが走り去るのを目撃した。
(…確かに、この館には訳の分からないものたちがいっぱい存在する。…しかし、ソーントンには一匹も見えないのだろうか? 訓練を重ねた、と言っているのに…)
 その後もぼくは、奇妙なやつや、グロテスクなやつを、何匹も何匹も目撃しました。

「くそぅ、見つけられないなぁ… 確かに『何か』がいそうな気配がするのだが…」
 窓から、沈みかける夕陽を眺めながら、ソーントンは悔しそうに言った。
 ぼくには、その窓の桟の上から、一瞬蟹のように突き出た目玉が覗き、消えるのが見えた。
「ドッジソンさん、貴男さえよければ、夜も少しねばってみたいのだが、構いませんか?」
「ええ、ぼくは構いませんよ」
 日が暮れ、ランプの明かりになってからも、ソーントンには見えず、ぼくには何匹も何匹も見たのです。
「残念ですが、帰りましょう」
 ぼくにそう言ったソーントンの肩に、頭の上に、背中に、腿に、スネに、腕に、そいつらはいっぱいぶら下がっていました。ケタケタとさも楽しそうに笑いながら…
 その後すぐ、ソーントンは病気で亡くなりました。まだ若かったはずですが…


6.ウォーレス博士が語る「人間の皮」

 よく「羊の皮をかぶった狼」とか「人間の皮をかぶった悪魔」という表現があるけれど、これはわたしが実際に体験した話だ。

…とある東南アジアのジャングルに、皮をかぶるのが習慣の種族がいた。
 こういうことを言うと、「酋長や呪術師が、憑依するために虎やライオンの毛皮を着て、太鼓の音に合わせて踊るのだろう」くらいにしか思わないだろうが、彼らのなりきりかたは半端ではなかった。
 虎やライオンの皮をかぶった者は、文字通り四本足で密林を闊歩しているのだ。大蛇に扮した者はうねうねと地を這い、大鷹になった者は羽ばたいて空を飛んでいた。
(まさか!)と眉をひそめられるかも知れないが、本当のことだ。
「ですから、このあたりでは例え鳥獣でも撃たないでくださいよ。原住民がなりきっている可能性が高いですから…」
 案内人も真顔で言ってくれていた。
「だけど君、もしもいきなり猛獣が襲いかかってきたら撃たないわけにはいかないじゃないか?」 わたしらの探検隊きってのライフルの名手、若くてハンサムなアーリントン大尉が眉をひそめた。「人間が扮装している猛獣でも、襲ってくることはあるのかい?」
「あり得ます」 案内人はあっさりと認めた。「…彼らはなりきっていますからね」
「しかしじっとしていることもできないだろう。正当防衛という言葉もある」
「あなたがたの中に、サーベルの名手はおられませんか? 皮だけ切り裂いて、中身を明らかにすれば、もとに戻ります。元が本物の猛獣だったら、いきなり皮を剥いでも誰も文句は言いません。敷物が一丁出来上がる、と言いたいですが、この部族にプレゼントすると、たいそう喜ばれて、珍しい秘儀などを見せてもらえるかもしれません」
 案内人は喋りながら手を差し伸べて情報料の追加を要求した。
「そんな大道芸人みたいなことができるか」 と言いたいところだったが、バークレー卿はサーベルの達人だった。
「せっかくここまで来て引き返すというのも残念なことです。ご期待に応えられるか分かりませんが、やってみましょう」

 わたしたちはその密林をさらに奥地へと進んだ。
 正式な隊長はマラリアで倒れて途中の寝込んでしまい、わたしとアーリントン大尉とバークレー卿が鼎の体制で指揮を執ることになった。
 バークレー卿がギラギラ輝く抜き身のサーベルを構え、万一卿がやり損じた場合に備えてアーリントン大尉がライフルを腰のあたりに構えながら慎重に進んだ。
 キーキーという怪しげな猿や鳥の鳴き声や、時おりいきなりへばりついてくるヒルに悩ませられながらも、我々は奥地へ奥地へと分け入った。
 と、いきなり一匹の豹が、茂みの中からバッ襲いかかってきた。
「わーっ!」
 ほとんどの隊員やポーターたちが叫んで散り散りに逃げ出す中、バークレー卿は飛びかかってくる豹をキッと見据え、サーベルを振り上げると、致命傷は負わさず、顎から腹にかけて一直線に皮だけを切り裂いた。
 豹はドサリと下草の上に倒れた。大尉は本物の獣だった時に備えて銃口を向けた。逃げかけていた者たちも恐る恐る戻ってきて固唾を呑みながら見つめた。
 果たして、豹の腹の裂け目から、人間の手足が現れた。しかもそれは原住民のように黒くなく、華奢な白人の手足だったものだから、恐る恐る戻ってきた一同から「おおーっ!」と驚嘆の声が漏れた。
 手足に続いて長く波打つ金髪が現れた。
 それをふりほどきながら立ち上がると、まるでプリマのように美しい女性だったことから、さらに大きなどよめきが起きた。
 アーリントン大尉とバークレー卿は、人目で彼女にボーッとなってしまったようだった。 無理もない。二人とも独身である上に、もうずいぶんと長い間白人の、それも美しい女性を見ていなかったからだ。
「何もそんなに珍しがることはないでしょう」 彼女は憮然として言った。「案内人から聞いているでしょう?」
「それは現地人のことです」
 銃口を下げた大尉がすかさず言葉をつないだ。
「貴女のようなお美しいかたが、どうしてこのようなことをされているのですか?」
 バークレー卿はサーベルを鞘に収めた。
「あたしの隊は、気球でこのあたりの地形を調査中に、遭難して不時着してしまったのよ。
 男性の隊員は、それこそ猛獣に襲われたり、事故の際の傷が悪化して亡くなったわ。あたしは原住民に助けられて、いままで彼らと一緒に暮らしてきたの」
「そうだったのですか!」
「そうすると我々がやって来たのは本当に僥倖だった、という訳ですね」
 大尉と卿は、彼女に近づいた。
「ところでお名前は何とおっしゃるのですか? 私たちは…」
「ケイトよ」 彼女は何となく冷たい感じがする声で言った。青い瞳の輝きも、どことはなく疑念に満ちている感じだった。
 わたしは大尉と卿に忍び寄って耳打ちした。
「…気を付けてくださいよ! ケイトさんも気球の事故のときにすでに死んでいて、原住民がケイトさんの皮をかぶっているだけかもしれません…」

「莫迦な! あんなに流暢に英語をはなしているのだぞ」
 ケイトが他の隊員と話しているあいだ、アーリントン大尉は椰子の木陰にわたしを連れ込んでいった。
「しかしこの部族の者は、ライオン、虎、オランウータン、その他どんな猛獣の鳴き声も克明に真似できるのですよ。たちどころに英語を覚えたとしても不思議ではありません」
 わたしも疑うことは悪いことだとは思っていたけれど、可能性が捨てきれないことは仕方ないことだった。
「もう一度わたしのこの剣で…」
 バークレー卿がサーベルを抜きはなって熱帯の太陽にかざしきらめかせた。
「それももし、あの人が本物のケイトさんだったら大変なことになりますし…」
「だったら一体どうしたらいいんだ?」
 大尉は焦り始めていた。
「じっくり観察するしかないでしょう。もしも彼女がニセモノなら、わたしたちに近づいてきた理由か目的があるはずですから…」
「そうと決まったら、探りを入れるためにある程度親しくなってもいいはずだな」
 二人は何事もなかったかのように、ケイトのいるみんなの輪の中に戻っていった。
(探りを入れたいのはむしろ向こうのほうだろう)わたしは肩をすくめた。
 ケイトはすぐにでもイギリスに帰りたそうな様子だったが、僕たちにも未知の部族をフィールド・ワークする、という大きな目的があった。
 そこで、「彼らの村にいたことがあるのなら、いろいろ教えて欲しいし案内してもらえるのなら有り難い」と言うと、彼女は顔を曇らせた。
「あの部族のかたがたは、とても慎重で臆病で、秘密主義なのです。あたしもなかなか受け入れてもらえませんでした」
「しかし、いまでは見事に豹に身をやつすまでに同化されているではありませんか?」
「生きていくために必死で学んだのです」
「時に、その能力は一体何のためにあるのでしょうか? 敵の部族に攻められた時に、人間以上の能力をまとって闘うためでしょうか?」
 わたしは、ノートを取りながら尋ね続けた。「詳しいことは知りません」
 ケイトはかぶりを振った。
「わたしもずいぶんとあちこちを探検して回りましたが、このような事例は初めてです。何か意味があるような気がしてなりません」

 それから二、三日、わたしらが進もうか退こうか、判断を下せずにいた時、ケイトの姿が忽然と消えた。
(やっぱりニセモノ、ケイトさんの皮をかぶっていたんだ。では、いま現在は誰になりすましているのか?)
 わたしはその考えに傾き、アーリントン大尉か、バークレー卿を最も疑った。
(皮をかぶって完璧に変装している部族の者の、その偽りの皮を切り裂いて正体を暴くことができるのはサーベルの名手バークレー卿だけだ。彼をあやめ、成りすましてしまえば、もう怖いものはないはずだが…)
「ウォーレス先生、あなたのお考えになっていることは正しいですよ。きっとそうに違いありません」
 射撃の名手、アーリントン大尉が、まるでわたしの心を読んだかのように耳打ちしたので、わたしは大尉も怪しく思えてきた。
 ケイトの中身は現在は大尉の皮をかぶっており、まず無実のバークレー卿を葬ろうとしている…
 他の二人も、それぞれ他の二人を疑い、疑心暗鬼を深めている様子だった。
 わたしはまた、ケイトは本当のケイトで、何かイギリスに帰ることに対して嫌気がさし、また村に帰っていっただけ、という気もした。 ところで、偉そうに人を疑っているわたしは、果たして大丈夫なのだろか、そんな気もしてきた。
 寝ているあいだにバッサリやられて、どうにかされてしまった…そうされていないという保証はどこにもないのです。
 主な可能性だけでも四通り…
 部族や村を守る方法としては実に巧妙な方法です。仮に戦争などになれば、確実に双方に犠牲者が出てしまいます。
 この作戦なら、最も上手く行くと、敵を自滅に追い込めるし、そこまで行かなくてもかなり攪乱できそうでした。
(そうか、そのためにこの術…術だとすると…は、あるんだ)
 さすがに同士討ちのような愚かなことまではしませんでしたが、薄気味悪くなって撤退を余儀なくされたのでした。

 この話には、後日談があります。

 アーリントン大尉は、ケイト嬢のことが忘れられず、剥製にされた猛獣を見ると、皮をめくってみる奇癖に取り憑かれ…
 サーベルの名手、バークレー卿は、アジアの秘境のどこかで、明らかに「皮をかぶっている」様子の人間を斬り、皮を剥いたそうです。ところが、その下も皮、その下も皮、と、次々に剥がしていくうちに、ついにはタマネギのように、剥いた皮だけ残して、実体は完全になくなったとか…


7.安倍薫が語る「妖怪の根付け」

 根付けというのは、西洋のキーホルダーのようなものです。
 広辞苑では「きんちゃく・煙草入・印籠などを帯に挟んで下げる時、落ちないようにその紐の端につける留め具。珊瑚・瑪瑙・象牙などの材に精巧な彫刻を施したものが多い」 と書かれています。
 江戸時代には実用的なものもあったのですが、次第に粋を競う江戸っ子たちが、根付け職人に凝った自分だけのオリジナルの品を注文するようになってからは、高級なアクセサリーや蒐集家のコレクションになっていきました…

 帝都でも有名な根付け職人の一人に、善吉という若者がいました。幼い頃から手先が大変器用で、一度?にしたものは人の顔でも、植物でも、動物でも克明に絵に描いたり、木彫りで再現できたりできました。
 おまけに、くるみほどの大きさの猫が顔を洗ったり、ニワトリが羽ばたいたりする細工も得意だったので、依頼人は引きも切らず、予約は数年先まで埋まっている、といった具合でした。
 仕事は順風満帆、後は嫁さんでももらって客の応対でもやってもらえれば、後は死ぬまで好きな根付けを作っていられるはずでしたが…
 ある、雨がしとしとと降る初秋の夜、長屋の善吉の家の戸をトントンと叩く音がしました。
「はい、どなたで?」
 善吉は彫刻刀と作りかけの根付けを置いて尋ねました。
「根付けの製作をお願いしたいのですが…」 男のものでも、女のものでもない、強いて言えば小さな子供のような声が返ってきました。
「あいにくですが、仕事は先まで埋まっていまして…」
 つっかえ棒をはずして戸を引くと、そこには蓑を着て、かぶった傘から雨水をしたたらせ、絣の着物を着た童子が立っていました。「そこを何とか…」
「大変な雨だね。まぁ上がりなさい。お腹はすいていないかい? 雨が上がってから帰りなさい」
 善吉に招き入れられた童子は、彼が作って後は客に渡すだけになっているいくつかの根付けをしげしげと眺めていた。
「よくできているだろう? 何だったら触ってみてもいいよ」
「えっ、本当?」
 童子は目をくりくりさせながら、手で蚤を掻く猿や、耳をピクピクさせるウサギの細工を楽しみました。
「注文は受けてあげられない。もし受けるとすれば、ずいぶん先のことになってしまうけれど、誰の言いつけで、おいらにどんな根付けを頼みに来たんだい?」
 仕事が一段落した善吉は、童子にお茶と、差し入れの菓子を出してやり、自分も頬ばった。
「おいしい!」
 童子は思わず顔をほころばせた。が、すぐに曇らせた。
「お願いしたかったのは、河童さんとか、猫又さんとかいった、妖怪の根付けなのです。 ご承知の通り、ご維新このかた、帝都の開発発展は凄まじい勢いで、妖怪の住めるところは年々狭くなり、多摩の山奥などに追いやられています。それでも引越しが出来る妖怪はまだよいのですが、古い大木や、川や池や泉に長い長いあいだ住みついていて、もうどうしても離れられなくなった妖怪は、それらと運命を共にするしかありません。そこで、いまあるうちに、かれらの姿を写し、形にして残しておいて欲しいのです」
 童子の悲しげな話しかたに、善吉の心は揺り動かされました。
「するとその仕事は急ぐ…んだね?」
 童子はコックリと頷きます。
「それでその… 数はどれくらいあるんだい?」
「分かりません… とりあえずたくさん… やっているうちに増えるかも知れません」
「そんな… それはいくら何でも…」
 善吉は苦笑いを浮かべ、かぶりを振りながら仕事に戻りました。
「どうしておいらでなければいけないんだい? 根付けを作れる職人は、他にも大勢いるだろうに…」
「これらの妖怪が見えるのは、あなただけだからです。ほかの職人さんには、何も見えない、ただの古木か、普通の川か池か泉としか目に映らないと思います。もちろんわたしの姿も見えないでしょう」
「えっ?」
「お願いします。この仕事ができるのは善吉さん、あなた様だけなのです」
 童子はペコリと頭を下げた。
 善吉もまた興味を持ちました。
「根付け師では、おいらにしか見えない妖怪たちとは、一体どういう者たちで、どんな姿をしていて、どんなことを話すのだろう?」
 興味と好奇心が頭をもたげてもきました。

 善吉は寝る時間を惜しんで、妖怪たちの根付けを作る仕事を引き受けることにしました。
 最初は、セメントの堤防ができてしまう古い川に棲む河童の老夫婦でした。
「有難うございます」
「こうしてわたしたちの姿が名人の手で残されるということは、感激です」
「本当にわしらにそっくりじゃ」
 河童たちは出来上がった根付けを受け取ると、しみじみと眺め涙を流して言いました。
「まだすべてが終わったと決まったわけじゃあない。どうして他の川に引っ越さないのですか?」
 善吉は尋ねました。
「わしも、婆さんもこの川に長いので、すべてが終わるにしても、このままいようと思います」
「ものごとがうつろい行くのは世の定め。こうして記念の品を作って頂いただけでも思い出になります」

 ほの暗い川べりに立って何度も頭を下げながら見送る河童たちに向かって手を振りながらも、善吉は釈然としませんでした。
 そこで、この場所を案内してくれた童子に向かってポツリと、
「なぁ、妖怪はもし死んだらどうなるんだろう?」
 と、つぶやきました。
「他の生き物たちとおなじですよ。また妖怪に生まれ変わってくるかもしれませんし、動物にかもしれないし、人間に生まれ変わってくるかもしれません」
 童子はニコニコしながら答えました。
 次は、村人が一人もいなくなって廃村になる村の猫又、その次は鉄道が通って誰も山越えをしなくなる峠に住む山姥、というふうに善吉はとんとんと依頼をこなして行きました。「なぁ、根堀り葉掘り聞くようで悪いんだが…」
 善吉はまた童子に尋ねます。
「滅び行く者に根付けを贈っても、一緒に土に返ってしまうのではないだろうか?」
「それは大丈夫です。前世が妖怪だった者は、次、何かに転生した時に、妖怪だった頃の記憶をかすかに留めていることができるのです。 妖怪が記念の根付けをどこかに隠して亡くなると、新しく生まれ変わってから、それとはなくその隠し場所に到達して掘り起こすことができるのです」
「なるほど。しかし現在美男美女の人生を過ごしているのに、何となしに掘り出した根付けが醜い妖怪だったりしたら、ちょっと衝撃を受けるだろうなぁ…」
「大丈夫ですよ。そういう人も少なくありませんから… あくまで過去は過去。過ぎ去ってしまったことです」
 それからというもの、善吉は道を歩いていて、着物姿の男性が、動物や妖怪、龍や麒麟などの根付けをぶら下げているのを見かけると、(もしかしたら、あの人たちの前世はあんなふうだったのかもしれないな)というふうに考えるようになりました。
 滅びゆく妖怪たちに、根付けを作ってやって回る仕事も順調でした。
 あっという間に何年かの月日が流れて、案内役の童子は美しい女に成長しました。
 いつのまにか善吉は彼女に恋心を抱くようになりました。女性のほうもやぶさかではないようでしたが、やや心配なことが一つありました。…そう、彼女は妖怪に近い存在だったのです。
 まぁしかし、愛は全てを乗り越える…というようなことで二人はめでたく結婚し、玉のような男の子も生まれました。
 その男の子…善太郎が大きくなって父と一緒に買い物や縁日に行くようになった頃、善太郎は、すれ違ったり追い抜いたりする男の人が、根付けの付いた巾着や煙管入れやなどを持っていると、目ざとく見つけて
「あっ、根付けだ! 根付けだ! 父ちゃん、あの人、根付けを持っているよ!」
 と、善吉の着物の裾を引っ張るのでした。
 初めのうち善吉は、自分の仕事が根付け職人で、家にはいっぱい完成品や製作途中のものが転がっているものだから、息子が興味を示すのも当然だ、と思っていました。が、そのうちに気になることに気づきました。
 善太郎が道で指さすのは、決まって河童だとか、猫又だとか、小豆洗いといった妖怪の根付けだったからです。
(まぁそれも、おいらが半分妖怪の女性を嫁さんに貰ったのだし、妖怪に関わりのある注文を受けてきたのだから、やむを得ないだろう)
 と、自分に言い聞かせて納得していました。このままずっと、ごく普通の幸せな生活が続くと信じていたある日のこと…

 その時、善吉は善太郎を連れて、遠くのの村へ出来上がった根付けの配達を兼ねて出かけていました。
 と、古びて崩れかけた祠の前で、善太郎がはたと立ち止まりました。
「父ちゃん、おいら、この場所、覚えているような気がする」
 彼はそう言うと、祠に入り、小さな錦の袋に入った袋を握り締めて出てきました。
 その袋に、善吉は見覚えがありました。
 確か、昔この辺りの妖怪に作ってやった根付けを入れた袋でした。
「父ちゃん、開けてみてもいいかな?」
 息子は、屈託のない声で尋ねました。


8.フィオナ・ウォーターフォードが語る「地獄のチェスの駒」

「まったく貴族というものは…」
 ケンブリッジのニューナム女子大に在籍中であるものの、夏休みでロンドンの上屋敷に戻っているウォーターフォード男爵令嬢は、溜息混じりに語り始めた…

…一体何を考えているのか、分からないところがあります。
 わたくしがケンブリッジのニューナム女子大へ入学する少し前のことです。
『卿』以上の爵位を持つ者のチェスの大会」などと謳うから、てっきりチェスの試合のことだと思ったら、自分が所持しているチェスの駒の自慢をするお茶会であったりするのです。
 父のウォーターフォード男爵のところにも招待状がきました。ご存じの通り領地アイルランドのウォーターフォードは、ガラス工芸の名産地で、我が家には名人が作ったクリスタル・ガラスのチェスの駒がありました。
 が、父は、
「曰く因縁話というものは、余り好きではないのだ。ましてや持ち物の自慢話はな… フィオナ、おまえが行ってくるといいだろう。何か面白い話が聞けるかも知れない」と言い、わたくしが名代として出かけることになりました。
 会場はさる貴族の館でした。
 幸い、女性の参加者も多く、銀髪の公爵夫人や、樽のように福々しい伯爵夫人が、先祖代々伝わる珍しいチェスの駒を見せ、その由来をとうとうと語りました。
 辺境の海峡に浮かぶ孤島の修道院に伝わる歴史的な駒、百年戦争や薔薇戦争のかたどったもの、ロビンフッドなどの物語の登場人物をなぞらえたものなど… シャーロック・ホームズや不思議の国のアリスのキャラクターをイメージしたものもありましたわ。
 さて、「自慢話」が中休みとなって、わたくしと数人の貴婦人たちがテラスのテーブルで談笑しておりますと、向こうからとても冷たく厳しい菫色の瞳をした見慣れない若い令嬢が、小さな木の箱を持ってやってきました。
「自己紹介をするぶしつけをどうかお許し下さい。わたくし、ヴァイオレット・サマーセットと申します」
 挨拶を聞いてみんな目を見開いて息を呑み、驚きの顔を扇子で隠し、かすかに背をそらせました。
 ヴァイオレット・サマーセット。彼女は名門サマーセット家の次女でありながら社交界にも滅多にその姿を見せず、密かに黒魔術にのめりこんでいるという噂のあるかたでした。
 ニューナム女子大に入ってからは、姉上のオクタヴィア・サマーセット様と同窓生になりました。その時はすでにヴァイオレット様は、その…家出をなさっており、オクタヴィア様は大変妹のことを案じておられました。
 それはさておき、その時は…
「ここはチェスの駒を自慢してもよい場でしたね? わたくしも一つお見せしましょう… わたくしのものでも、サマーセット家のものでもないのですが…」
 ヴァイオレットはそう言って、何の変哲もない、茶色のニスが塗られた小さな木箱を開きました。
 わたくしをはじめ、皆が恐る恐る覗き込むと…
 そこには白と黒のチェスの駒のセットが、白い絹の布を張ったそれぞれのくぼみの中に収まっていました。
 白の駒と、黒の駒は、同じデザインではありませんでした。それはキャラクター駒では珍しくはありません。ただ、目の前にある駒は余りにも違いすぎました。
 白の駒は卒も城も、騎士も僧正も、女王も王も、高貴で清浄で、光り輝いているデザインであるのに、黒の駒はどれも邪悪で暗黒そのものでした。
「この駒は、どこのどういう駒なのか、ご存じのかたはいらっしゃいませんか?」
 薄い唇にかすかな微笑を浮かべながら、ヴァイオレットは尋ねました。
 もちろん、誰も恐れおののいて返答する者はいません。例え心当たりがあったとしても、口を開く者はありませんでした。
「フィオナさん、貴女は社交界きっての才媛で、東欧の小さな、非常に珍しい言葉を話す国から使節が来たときは、ヴィクトリア女王陛下の通訳も務められたとか… ご存じありませんかしら?」
 わたしは睨むように見つめてきた相手をにらみ返してやりました。
「これはおそらく、八百年前に異端として滅ぼされた清浄派(カタリ派)のチェス・セットだと思います。彼らは善悪二元論を信じていて、世界の終わりの日には、天軍と魔軍が最終戦争を行い、その際、必ず天軍が勝つとは限らない、と信じていました。だから、自らに厳しい戒律や修行を課し、自分で天国に行けるようになっておくべきだと…」
「惜しい…」
 貴婦人の魔女はニヤリと唇を歪めました。「これは、地獄のチェス・セット。魔王はこれを携えて、何度も神を挑発しているのだけれど、神は争いごとが嫌いだから、一度も受けたことがないのよ」 彼女はそう言いながら黒の魔王を、爪を伸ばした指ではさみ、突き出しました。「…どう、わたくしと一番なさいませんこと?」
 わたくしはかぶりを振りました。勝つ自信はありましたが、万一の時が心配でした。
「案外臆病でいらっしゃるのね」
 ヴァイオレットは箱を閉じ「失礼」とうそぶいて去りました。
 その時は、それ以上のことはありませんでしたが、勝負を受けていたらどうなっていたか、いまでも思い返すことがあります…


9.「シスターセアラと預言者ブライディー」

 その日、ヴァチカンの、天井と壁一面に聖画の描かれた会議室では、教皇と、ごく一部の枢機卿たちが、頬杖をついたり、頭を抱えていた。
「『彼ら』は復讐をするつもりだ…」
「その復讐は、我々のみならず、全世界に対する復讐になる可能性が高い…」
「はるかな過去の恨み、彼らは決して許さないだろう…」
「『アルビジョワへの十字軍』我々の先達は、愚かなことをしてしまったものだ…」
「八百年前、なんとか和解の道はなかったのだろうか?」
「なかったから戦争になってしまったのでは? そして、彼らは滅ぼされた…」
「…とにかくこれは根が深い。サラセン人との、聖地奪回をめぐるいくさも、いまさらどうしようもないことだが…」
「彼らは一体何をしてくるのだ?」
「単なる嫌がらせ程度のものなら、無視することもできるのだが…」
「いや、その程度ではすまないだろう。下手をすれば、全世界を巻き込む戦争を起こし、大勢人が死ぬところを高みの見物をするのかも知れない…」
「どんなふうにしてそのような大きな戦争を起こすのだ?」
「なぁに簡単だ。狂気の独裁者を一人、二人作り出せばよいことだ。民のほとんどは日々の生活に追われて、自分たちを取り囲む状況が変化していることに気がついていない…」
 しばし間があってから重々しい声が響いた。
「我ら… プロテスタントも含めての我らに、神のご加護は?」
「我等の立場上、固く信じ、祈らなければならないことかと…」
「その通りだ。しかしそれ以外に何もしなくてもいいのか?」
 いくつもの異口同音が響いた。
「預言者は? イザヤやエレミアのような預言者が、いまの世にいるのなら、その者を捜す、というのはどうだ?」
「莫迦な! 我等が異端者になってどうする? 主イエス・キリストの復活以来、もはや預言者の必要はなくなった。明らかに審判の日は間近に迫っており、もしあるとすれば、それは主のご再臨であるはずだ」
「もう預言者は必要ない!」
「そうだ、新たな預言者を望み、神への全幅の信頼をやめてはならぬ」
「何が起ころうと、それは神の御心で、我等に止められるものではない」
「しかし待て」
「たとえ異端に落ちるとも、試してみる価値はあるのでは?」
 小声があちこちで囁かれ、紙片が回された。

 一八八〇年代の後半、アイルランドのダブリンの場末の片隅にある、小さな教会と女子修道院と、それに付属した貧救院にも、さざ波が及んでいた。
 シスター・セアラは、壁の上のほうに小さな木製の磔刑像がかかっている以外何もない、小さな部屋に、幼いブライディーを招き入れて、粗末な机を前にした椅子に座らせた。
「さぁ、ブライディーちゃん、一緒にお祈りをしましょうね」
 ブライディーは椅子にちょこんと腰掛けて、手を組んで祈った。セアラは立ったまま祈った。
「目を閉じて…」
 ブライディーは、言われるままに瞳を閉じた。
「明日は、どんな日になるのかな?」
 まだ年端のいかない子だったが、次第に大人が思いを巡らせるような表情になった。
「明日は、きょうと同じくらい素敵な日よ。いいお天気で、洗濯物はよく乾いて、ケリーやみんなはいたずらをして、シスター・グラディスにお小言を頂いて、院長先生におゆるし頂いて… 『お兄ちゃん』は男の子たちまあいだで起きた喧嘩を止めて…」
「分かったわ。有難う。じゃあ、次に、世の中全体にとってとても大変なことが起きるのは何時かしら?」
 小さなブライディーは眉をひそめ、額に皺を寄せて長いあいだ考え続けた。
「分からなかったらいいのよ。無理しなくてもいいのよ…」
「…いまからおよそ二十五年ほど先、ヨーロッパで大きな戦争が起こって、大勢の人が死んで… 人が乗る空飛ぶ機械が飛び回って、馬の引かない鉄の車が走り回って、人々を押し潰して…」 ブライディーは頬をリンゴのように赤くして語った。シスターは固唾を呑んだ。
「それでその戦争は終わるの?」
「終わるわ。でも、それから二十年ほどして、今度は世界中を巻き込むもっと大きな戦争が起きて、もっともっと大勢の人が死ぬの… 何百万人、何千万人という人が…」
「神様…」
 セアラは喘ぐように祈った。
「その戦争も終わるの?」
 小さなブライディーは目を閉じたままコックリと頷いた。
「ええ、終わるわ。…その先も見る、セアラ様?」
「いえ、もういい。もういいわ!」 シスターは思わず言ってしまった。「もうそれ以上は知りたくない。耐えられないわ!」
 いつのまにか窓から差し込む光が、磔刑像を細くかすかに照らしていた。


10.サダルメリク・アルハザードが語る「魔神のチェス盤」

 フィオナさんがチェスの話をされたから。ぼくも不思議なチェス・セットの話をしようかな…

 とある砂漠に、アリーという交易商人の若者がいて、数人の仲間とともに隊商を組んで、きょうはあそこのオアシス、明日は少し離れた町というふうに、売れそうな商品を安く仕入れては高くで売るという仕事をしていた。突然の砂嵐や、盗賊団は怖かったが、店はなく、人も雇ってはおらず、屋台を組み立てて客を待つだけの、まぁ気楽な商売だった。
 アリーには一つだけ特技があった。チェスである。朝がたや夕方のオアシスの市、覗き込んで冷やかす客もなく、万引きされそうな高価なものを扱っていない時は、愛用の、ラクダの骨を有名なモスクの塔の形に削ったチェス・セットを前にして腕を組んで考えるアリーの姿がよく見受けられた。
 彼はとても強く、ごくたまに挑戦してくる隊商の知り合いや、行く先々の地元の暇な男たちにも一度も負けたことはなかった。駒を引いても…
 彼の実力に舌を巻いた友人たちは、バクダッドやバスラや、イスファファンやダマスカスやエルサレムの都へ行って、そこの名人と勝負してみてはどうか、とアリーに勧めた。
 だが、彼にはそこまでの野心はなく、通行税や関税の高い大きな都は敬遠して、小さな取引と日銭の利益だけでじゅうぶん満足していた。
 そんな訳で、もはや地方や辺境の砂漠にアリーのチェスの敵はいなかった。だから、市で客が来ないときは、大きなパラソルの下、白の駒を動かすと、席を変わって黒の手を考える、というようなことをしていた。

 と、ある日のこと。いつものようにアリーが一人で定跡の変化手順を考えていると、耳の先が尖り、隈取りのある吊り上がった目をした、肌の色の真っ黒い大男が近づいてきて盤上の駒を覗き込んだ。
「ほぉー、なかなか難しいね。だがこれは黒の勝ちだろう」
 普通の人だったら大男の異形に驚き、盤と駒をひっくり返して逃げるところだったが、アリーは余りにも夢中になっていたために気がつかなかった…と言うか、気にも留めなかった。
「あんたもそう思うかい? でもぼくは違う。ここから白を持っても結構やれると思うんだ」
「そうかい。じゃあ一つやってみないか?」
「いいとも!」
 と、ゲームが始まった。
 その勝負は接戦の末アリーが勝ち、改めて一から始めた対局も二回続けて際どいところでアリーが勝った。
「あんたは強いよ。都へ出て名人たちとやっても結構いいところまで行くだろう」
 最初は怒り、ひどく悔しがっていた大男…魔神も、汗を拭いながら認めた。
「いいんだ。そこまでしなくても。賞金や名誉が賭けられていると、アガってそのせいで負けてしまうかもしれない」
「しかし隊商は、盗賊に襲われたり、砂嵐や流砂に巻き込まれたりして危ないだろう?」
「それはそうだが、気楽なのがいいね」
 アリーは駒をしまいながら言った。
「またおまえと指したいな。今度こそ勝ってみせる。魔神仲間の強いやつとやって、腕を磨いておく。それまで災難にあって命を落としたり怪我をしたりするなよ。…そうだ。これをやろう」
 魔神はそう言って腰布の中から小さな旅行用のチェス・セットを取りだした。それは人間の旅行用くらいの大きさだったから、魔神が手にするとさらに小さく見えた。
「たまにはこれで定跡を並べたりしてみてくれ。何かの役に立つかも知れない。今度会った時、もし俺が勝ったら返してくれ」
 魔神はそう言い終わると、黒い砂煙を巻き上げて去った。
「有難う…」
 アリーはそう言いながら、借りたばかりの二つ折りの盤を平らにしてみて眺めてみた。 すると不思議なことに、市松模様の盤面に、細い線や太い線が浮き出てきて、まるで生き物のように波打った。
(これは一体なんだろう?)
 少し考えると、すぐに気がついた。それらの線は、いまアリーたちがいる周辺の砂漠の地図だった。オアシスにはアリーと思しき白のキングの影が映し出されていた。
 そして砂漠には、砂嵐や流砂らしい渦巻きが湧き上がっては移動して消え、盗賊団らしい偃月刀を持った人影の記号が、別の隊商の記号の上に乗って消し去っていた。
「なんと! これがもし本当なのだったら、すごく重宝なものだ!」

 アリーが魔神から借りた盤は、千里眼の占い師が使う水晶のように、砂漠での障害物や、恐ろしい存在を映しだした。
 アリーは、仲間には盤のことは秘密にして、危険な場所はそれとなくほのめかすに留めた。
 以後、彼とその仲間の隊商は、思わぬアクシデントに遭うことがなくなり、順調に商売を続け、儲けを上げた。
 そこそこ財を成したアリーは、(いつか魔神に再会したら、たとえまたチェスの勝負に勝ったとしても、この盤を返して、商売も引退して、好きなチェスばかりをしていよう)
 と考えていたが、そうは問屋が卸さなかった。
「どうしてアリーたちだけが、事故にほとんど遭わず、事件にもほとんど巻き込まれないんだ?」
「ひょっとしたら、アリーたちはいい占い師を雇ったのでは?」
「そんな話は聞かないから、交易で何かそういうことができるものを手に入れたのでは?」
 噂が広まると、それとなく尋ねたり、探りを入れてきたりする知り合いが多くなり、 やがてついに、王様の耳にも入ってしまった。
「アリーよ、そなたは隊商をやっていて、もうずいぶんと長い間、災難に遭わない幸運に恵まれ続けているそうだが、何か理由でもあるのか?」
 宮殿にアリーを召し出した王様が下問した。
「いえ、特に何もございません。ただアラーの神のご加護が続いているだけでして…」
 アリーは平伏しながら答えた。
(この王様は戦争が大好きだ。もしもあのチェス盤のことを話したら、必ず欲しがり、奪って、『敵の伏兵がどこに隠れているか』などを知るための道具にしてしまうだろう)
「本当にそうなのか?」
 王様は玉座から身を乗り出し、顎髭を撫でながら尋ねた。
「まぁいいだろう。わしもそなたの幸運を分けて貰いたいものだ」
 いったんは帰宅を許されたアリーだったが、隠し場所からチェス盤を取りだして眺めてみると、王様の手勢が八方から取り囲んでくるのが映し出されていた。
(こりゃいかん! このチェス盤は魔神からの借り物だ。取り上げられてしまっては返せなくなってしまう!)
 とはいうものの、もはや逃げ道は「魔物のいる砂の洞窟」方面しかなくなっていた。王もまさかアリーがそこへ向かうとは思わなかったから、兵を差し向けなかったのだった。
(嘘をついたことがバレたら、チェス盤は没収された上に斬首は免れないだろう。魔物に八つ裂きにされても仕方がないから、ここは一縷の望みをかけて、そっちへ逃げるしかない…)
 決心したアリーは、盤とわずかな水と食料を携えて「砂の洞窟」の中へと入っていった。
 回りの天井や壁は、いつ崩れ落ちてくるか分からない流砂。それがサラサラと音を立てて流れる中、奥へ奥へと進んだ。
 すると、両端に魔法の炎が揺れる燭台がいくつも並んだ通路の奥の広間に、おぞましい大蛇の姿に、恐ろしい鬼女の顔をした化け物が、細長い舌をチロチロさせながらとぐろを巻いていた。
「そこなる人間、この砂の洞窟の怖ろしさは聞き及んでおろう。なのにどうしてわざわざやって来たのか?」
 魔物…ナーガは恐ろしい声で尋ねた。
 アリーは手短かにわけを説明し、
「自分は殺されてもいいから、貴女も魔神の一人ならば、どうかこの不思議なチェス盤を本来の持ち主である魔神の手に返却し、再び勝負ができなかったことを残念に思うと伝えて欲しい」と言った。
「何と律儀なかたでしょう!」
 と、ナーガはガラリと優しい声で言った。
 魔物は、まるで脱皮するように大蛇の着ぐるみを脱いだ。ゴーゴンかメデューサのような仮面を脱ぎ捨てると、その下からは見目麗しい王女が現れた。
「…わたしは、国を滅ぼされて亡命中の、さる王国の王女です。そのチェス盤は、わたしの居所が敵国に知れぬようにと、懇意の魔神がこれと見込んだ聡明な若者に配っているものです」
「えっ、するとこの盤は、これ一つだけではなく、いくつかあるものなのですか?」
 アリーは驚いて問い返した。
「ええ。魔物と称して各地に隠れ住んでいる腹違いの妹の姫も何人かおります。みんな貴男のような勇気ある人と巡り会えていればよいのですが…」
 アリーはこの姫と結婚し、幸せに暮らしたそうです。
 魔神とのチェスのリターン・マッチが行われたかどうかは、残念ながら分かりません…


11.ブライディーの女友達で親友のケリーが語る「木彫りの母子像」

…ダブリンの貧救院にいた頃のことです。
 あたしがお世話した「死を待つ人」の中に、ジョナサン爺さまという人がおりました。 ジョナサン爺さまの特技は木彫り細工で、人々の求めに応じて手のひらくらいの大きさの木製のロザリオや母子像を刻んでいました。
 物腰はとても上品で、言葉遣いも丁寧なことから、シスターやみんなは「もしかしたら、落ちぶれた貴族かもしれない」と噂しました。 しかし、他の人たちは「そんなことはあるものか。ジョナサン爺さまは、行き倒れの木彫り職人のなれの果てにすぎない」と言っていました。
 とにかく、爺さまが古びた彫刻刀で彫り、ヤスリで刻む十字架上のイエス様や、マリア様は、本職が作ったもの以上に神々しく、魂がこもっていたのです。若い頃に罪を重ねてきた人や、赤ちゃんを産むことを諦めざるを得なかった女性は、爺さまの作った母子像を握り締めて、涙を流しているのをわたしはよく見かけました。バザーでも一番に売り切れていたのをよく覚えています。それだけを目当てに来る貴族や郷紳のかたも多かったのです…

 そんなある日、ロンドンからやってきて、ついでに貧救院を訪れたロンドン警視庁のいかめしいヒゲの警視が、院長先生と面談したあと、いつものように庭のベンチで木を削っているジョナサン爺さまをチラリと見て立ち止まり、つぶやきました。
「おや、あれはスピークスじゃないか。ロンドンの胡散臭い場所で、娼婦の堕胎をやり続けていた男だ」
「えっ、それは本当ですか?」
 院長先生は思わず息を呑みました。
「間違いない、あれは絶対にスピークスだ。医者でも何でもないのに、モグリで百人近く中絶手術を行って、そのうちの何人かは失敗して母子共に死なせた悪名高い奴だ。わしはお尋ね者の顔を覚えるのが仕事だから、まず間違いない。荒稼ぎした金でアメリカに逃亡したと聞いていたが、こんなところに流れてきていたとは…」
 警視は歯ぎしりしながら唸りました。
「お言葉ですが、人違いではありませんか。あのかたはここでも一番の、柔和で温厚で優しいかたです」
 と、院長先生。
「そういうのに限って、本性は良心のカケラもない奴なんだ。おまえたちはカトリックなのに腹が立たないのか?」
「ですが、仮にそうだとしてもいまではすっかり悔い改めて…」
「悔い改めてそれで済むのなら、警察も刑務所も必要ない! 誰かここの神父かシスターで奴の懺悔を聞いた者はいないか?」
「告悔の秘密は絶対です」
 警視は顔を真っ赤にし、頭から湯気を立てましたが、医者を騙った罪の時効はせいぜい五年か七年、イギリスでは中絶は合法だし確かな証拠なしに逮捕するには容疑者が年を取りすぎていました。
 そこで警視は院長先生と別れた後、施設の門前で一人ぼんやりと立っていたあたしを木陰に誘い、手に銀貨を握らせてこう頼んだのです。
「いいか、ジョナサン爺さんと二人きりになった時『男の子と悪い遊びをして、大変なことになってしまった』と言いながら泣いてみせるんだ。爺さんから『わしが何とかしてろう』という言葉を聞き出せたら、金貨をやる。ダメでも銀貨は返さなくてもいい。やってみるか?」
 あたしは一も二もなくコックリと頷いてしまいました。 だめでもともと、金貨が手に入るかもしれないのです。

 ジョナサン爺さまは相変わらずベンチで木を削り続けていました。茶色の木屑が緑の芝生の上に散らばっていました。
 あたしはあたりに誰もいないのを確かめてから、入念に悲しげで深刻な顔をして近づきました。
「ん、一体どうしたんだね、ケリー?」
 爺さまは作業の手を止めて、あたしを見つめてくれました。
「大変なことになっちゃったの…」
 とにかく嘘泣きを一所懸命演じました。
「もうここには居らしてもらえないわ! もっとここに居たいのに…」
「赤ちゃんは、赤ちゃんはいらないのかい?」
 爺さまは木彫りを投げ出し、それまで見たことのないような恐ろしい、悪魔のような顔になり、痛いくらいに両肩を鷲づかみにしました。
「赤ちゃんはいらない… もっとここにいたい…」
「神様から授かった命じゃぞ。一生後悔するかもしれないんじゃぞ!」
「要らない! 要らない! あたしを助けてください!」
「では、これをやろう」
 ジョナサンはそう言いながら、出来上がったばかりの、幼子のイエス様を抱きしめているマリア様の木像をくれました。
「妊娠は、おまえさんの思い過ごしかもしれん。とりあえず祈り、願ってみなさい」
 金貨は貰えませんでした。
 爺さまはほどなくして召され、その過去は闇に葬られてしまいました…


12.クルックス博士が語る「雷交信」

 わしももう長いあいだ、この「英国心霊協会」で、ずいぶんと手品のトリックを使ったインチキ降霊術や、怪異現象や奇跡を見破ってきた。ブロックサインや鏡や化学薬品を使ったいかにもチャチなものがほとんどだったが、中には手強くて苦労したものもあった。
 そして、数えるほどではあるが、いかに胡散臭くても、本物の超能力と認めざるを得ない現象もあったのだ…

 その降霊術師たちは、「ベルリンからやってきたゲオルグとブルーノ兄弟だ」と名乗っていた。二人とも顔じゅうを覆う灰色のひげ、年齢不詳の容姿や、きついドイツ訛りは「いかにも」と思わせた。
 彼らが大勢の見物客に小銭を取って見せる「超能力」は、珍しく野外で行うものだった。 リージェント・パークやハイド・パークといった広場がある場所で、しかも夏の雷雲が湧き起こっている状況のみで、ショウは行われた。
 影も映らない分厚い陣幕で隔てられた二人のうちの一人に、決してサクラではない観客の一人が、伝えて貰いたいこと…聖書や詩の一節や、シェークスピアの台詞の一つをことづける。兄弟に言わせると「空に稲妻が走り、ゴロゴロという雷鳴が響き渡る状況になると、その電気エネルギーを媒介として、お互いにその内容を交信としあうことができるのだ」という触れ込みだった。
 けれども、いくらいくら前もって避雷針が立ててあるとは言っても、野外でそのような見せ物をするのはどう考えても危険極まりない。いつどんな拍子で観衆に落雷しないとも限らないからだ。
 ロンドン警視庁の知人からそれとなく依頼を受けたわしは、早速とある公園で行われていた「雷交信ショー」へと出向いた。
 銅貨一枚で「超能力」が見られるということで、大勢の大人たちや子供たちが、陣幕で隔てられた芝生の上を行ったり来たりしていた。
 ゲオルグとブルーノの兄弟は、二手に分かれて、白布をかぶせた果物箱の上に、フロックコートにシルクハットという出で立ちで、お互いの方向に向かって金属製のステッキを掲げていた。
(莫迦な! あんなことをしてもしも雷が落ちたら命にかかわるぞ!)
 落雷のエネルギーがいかに恐ろしいか知り尽くしているわしは、正直うろたえた。
 観客の中に三人目の…助手がいて、何らかのブロックサインで伝えているのだろう…という疑いを打ち消すために、二人は黒い目隠しを手にしていた。
「さぁて、皆様お立ち会い! わたくしめはゲオルグ。双子の弟ブルーノとともに稲妻走るシュッットガルトの森で、雷電による意思の通信の修行をしてきた者でございます!
 幸い今日は、雷が鳴り、稲光が走りそうな雲行きでございます。皆様の中で弟に伝えたいことがあるかたは、是非とも壇上に!」
 わしは真っ先に手を挙げた。
「イギリス学士院の会員で物理学者にして勲爵士のウイリアム・クルックスだ。ぜひとも試させて頂きたい!」
 人々の顔がいっせいにわしのほうを向いた。「おお、そのような立派な科学者のかたに加わって頂けるというのは大変光栄です。どうかお願いします!」
 わしは壇の上に上がり、彼が手にしている目隠しをしてみた。光も何も見えず、裏返すと見えるようになるといった仕掛けもなかった。
「で、弟に伝えたいことは何でしょう?」
 ゲオルグは目隠しをしながら尋ねた。
 後で、わしの助手に確かめたところ、陣幕の向こうでブルーノも同じ目隠しをしたということだった。
 早くトリックを見破って、観客たちを散会させ、イカサマ兄弟をさっさとロンドンから追い出したかったわしは、誰かに唇の動きを読まれないように両手の手のひらでハンドメガホンを作ってゲオルグの耳にこう囁いてやった。
「『真なるもの来たり
  偽りなるもの去る』」
 ご存知の通り、「コーラン」の有名な一節にした。
「分かりました! すぐに弟に送ります…と申し上げたいところですが、われらの通信には稲妻の助けが必要です。しばしお待ちください!」
 わしは、時間を稼いでいるあいだにゲオルグが何か別の方法で伝えるのだ、と思ってこれ以上はできないくらい細心かつ厳重に彼が不審な動きをしないか見張っていた。が、特に何もなかった。
 そのうちにゴロゴロと雷鳴が轟き、興行師が立てたビカッ、ドカーンと落雷があった。
「いま送りました! どうかみなさん、弟ブルーノのところへ!」
 わしと見物人は陣幕を回り込んでブルーノのところへ行った。そこでは別の観客がブルーノを見張っている。聞けば特に怪しい素振りはなかった、と言う。
「いま稲妻に乗せて兄から伝言が届きました!
 『真なるもの来たり
  偽りなるもの去る』
 どうです、合っていますか?」
「合っている…」
 認めざるを得ず、歓声を上げた見物人たちから小銭がどんどん帽子の中に投げ込まれた。
「さぁ、次のかたどうぞ! 今度はぼくから兄へ、伝言を伝えましょう!」
 雷がどんどん近づいているにもかかわらず立ち去る人はなく、人品卑しからぬ紳士たちが次々に挙手した。
 一回戦は、完璧にわしの負けだった…

 わしは帰ってから、手品のトリックを懸命に考えてみた。が、どうやってあの通信をやっているものか、どうしてもさっぱり分からなかった。恥を忍んで友人や、心霊研究協会の仲間にも尋ねてみた。だが、「雷はめくらましで、雷が落ちて観客がそちらのほうに気を取られているあいだに何かをしているのではないか」というくらいで、トリック自体をはっきりと答えてくれる者はいなかった。そのうちに
(もしかしたら、あの双子の兄弟は雷を操ることができる本物の超能力者なのではないか?)という感じさえしてきた。

 それからというもの、わしは雷が起きそうな夏の夕方は、ゲオルグとブルーノ兄弟が出没しそうな公園へ出向いていって、(彼らの言うところの)実験を見物した。
 何度か通い詰めるうちに、「実験中」の兄弟をじっと見つめている、若くて美しい娘がいることに気がついた。娘は二人と知り合い…というよりは懇意らしく、準備している時や、後かたづけの際は、ゲオルグとブルーノと手話で話し合っていた。
(手話! そうか!)
 脳裏に閃くものがあった。
 アメリカのグラハム・ベルは、耳が聞こえにくい人のために補聴器を考えているうちに、何とかほんのかすかな声を大きくするための仕掛けとして電話を発明した。
 かんじんの補聴器は、持ち歩くとかなり大きくて目立つために、ことし…一八九六年現在まだ実用化には至っていない…
(そうだ! きっと「補聴器」に違いない! きっと彼らは、ベルがいまだに成し得ていない「耳の穴の中に隠せて、人の目からは見えない補聴器」を作り上げ、お互いにセットし合っているのだ。
 伝える文言をかすかに読み上げると、それは前もって夜の人目がないうちに地面の中を這わせておいた電話線を伝わって、相手の耳に届くのだろう… 拡声に必要な電気は、落雷を利用して蓄電池に蓄積する…)
 トリックは見破ることができたが、新たな疑問が湧き上がっていた。
(そんな素晴らしくも小さな道具を、偉大なエジソンやベルに先駆けて発明したのなら、どうして世間に発表して、耳の不自由な人々の役に立とうとしないのか? と…)
 わしは自説を証明し、兄弟に詰問してやろうと、彼らが口上を述べているあいだに、陣幕のあいだの地面を園芸用のスコップで掘り返してみた。もしもベル〜エジソン式の理論を使っているのなら「電話線」が埋まっているはずだった。
 ゲオルグもブルーノも、娘も人々も、わしのことを奇異な眼でジロジロと眺めた。
 ほどなく、わしは敗北に打ちひしがれ、思考を振りだしに戻さざるを得ないと悟った。
 どこをどう掘ってみても、二人のあいだに電話線は埋まっていなかったのだ。
 だが、その頃、ゲオルグとブルーノにも、微妙な変化が現れ始めていた。あれほど仲が良さそうに見えた兄弟が、一人の娘を巡っていさかいを始め、娘はそのことを悲しく思って去ろうとし、そのことがさらに…というふうに伺えた。

 夏とともに夕立と雷のシーズンも終わろうとしていた。
「さてとお立ち会い、我ら双子の兄弟は、なにも道具やトリックを使わずに、雷を媒介として、お互いの考えを伝え合うことができます!」
 二人とも顔は笑っていたが、時おり見つめ合う眼には、氷の炎が宿っていた。
 観客も、なぜかその日は、異様な雰囲気を感じ取って、興味というよりは恐怖のために、その場に釘付けになり、固唾を呑んでいた。
 遠くから雷の音がゴロゴロと響き、稲妻がピカッピカッと走った。
 いつものように、観衆の中から公明正大な紳士二人が、それぞれ陣幕によって隔てられたゲオルグとブルーノに伝えたい文言を語った。
「次の落雷がこれなる避雷針にあった時、我ら二人は交信します!」
 だがしかし、その日、その時に限って雷は避雷針には落ちなかった。
 ビカッ!
 恐ろしい雷光にその場にいた者全員が本能的に固く眼を閉じた。
 ドカーン!
 物凄い音がし、地響きが響き渡った。
 恐る恐る目を開くと、焼け焦げたゲオルグが台の上に倒れていた。娘が駈け寄ったが、彼はピクリとも動かなかった。
「キャーッ!」
 ご婦人がたから悲鳴が上がった。
 わしは慌てて陣幕を隔てたゲオルグのほうに駈け寄ると、彼もまた黒こげになって男たちに囲まれていた。
 雨がポツポツと降りかかってきた…


13.ブライディーが語る「天使のチェックメイト」

 わたくしがダブリンからロンドンにやってきた当時、しばらくお世話になっていたアイルランド料理の大衆レストラン「白詰草亭」の片隅には、小さなゲームのテーブルがいくつか置いてありました。ビリヤードやトランプ・カードのテーブルは結構人気があって、時には順番を待たねばならないことが多かったのですが、小さなチェス・テーブルのほうはほとんど指す人もなく、埃が積もるままになっておりました。チェスが好きな人はみんな「チェス・クラブ」のほうに行かれるようでした。…貴族は貴族の、働いている人たちは働いている人たちの… 「チェス・クラブ」でも軽食は注文できますし、大勢人が集まれば集まるほど、気のあう相手や、自分と同じ実力の相手を見つけることができますものね…

 ある日の昼近く、わたくしも含めて、何人かのウエイトレスが忙しくお給仕をして回っていますと、いつもはそこだけポツンと空いているチェス・テーブルに、初めて見る金髪の巻き毛の十四、五歳の男の子が、古ぼけた椅子に浅くチョコンと座って、駒を駒箱から出して並べていました。慌てて走って注文を取りに行くと、彼は、
「何か、アイルランドの家庭料理が食べたいな」と言って、銀貨を置きました。
(お坊ちゃんふうでもない、普通の子が、いきなり銀貨を?)
 わたくしが少し不審そうにすると、彼は、「泥棒でも、スリでもないよ。これはお金を賭けたチェスの試合で稼いだお金だよ」
 と、少しはにかみながら言いました。
「きょうは、おふくろの味が食べたくなったんだ。適当に見繕って持ってきてくれると有り難いな…」
 その、ハンサムで聡明そうな表情と、きびきびとした立ち振る舞いに、わたくしは顔を赤く染めました。
「はい。いますぐに…」
 厨房に下がると、ほかのウエイトレスの子たちもみんな、彼のことに興味を持って、チラチラと眺めているようでした。
 料理が揃うまでのあいだ、彼は真剣な眼差しで、並べた途中からの定跡を見つめていました。
 わたしが、ジャガイモとスジ肉のスープと、キノコの炒め物、アスパラガスのサラダにジャガイモの粉を混ぜたパンなどを運んでいくと、彼は、ガツガツと食べて、気持ちがいいくらいにきれいに平らげました。
「ごちそうさま! おふくろの味と一緒だったよ! おふくろのことを思い出したよ! また来るね!」
「待って! よかったら名前を教えて!」
 たくさんのお釣りを渡すと、彼はそれをポケットにしまいました。
「イアンだよ」
 駒を駒箱にしまうと、少年はスックと立ち上がりました。
「わたし、ブライディーって言うの。どこのチェス・クラブにいるの? 応援に行ってもいいかな?」
 イアンが何回か食事に来た後、わたしは何となく、ただ何となく感じるものがあって、尋ねました。
「ソーホー街の、『白い僧正』クラブだよ」
 彼は、少し考えてからポツリと答えてくれました。
 次の公休日、わたしは少しだけおめかしをして、ソーホー街へ行きました。
 行き交う人々、ガヤガヤという話し声や商店の売り子の呼び声、タバコとパイプの煙とフィッシュ・アンド・チップスの臭いが漂う通りから『白の僧正』の看板のあるクラブの中に入ると、灰色の煙だけはそのままに、やや静かなの世界が広がっていました。とは言え、会員さんは働いている人たちなので、時おり、
「しまった!」とか、「困った!」とか、
「ヘッヘッヘッ…」という勝ち誇った笑いや、「う〜ん」と唸る声が上がっていました。
「あの、わたしは見学、応援だけなのですが…」
「見学だけでも木戸銭は頂くよ」
 オーナーの老人が寄ってくると、隅のテーブルから耳慣れた声がかかりました。
「その子の見学料はぼくに付けておいておいて下さい!」
「イアン君!」
 わたしが駈け寄ると、彼は相手をチェック・メイトに討ち取り、相手はとても悔しそうな表情で、銀貨を置いて帰るところでした。
「なんだ。イアン君の知り合いか、彼はうちでは一番強くてね。次がミスター・サーストンかな」
 オーナーは腕組みしながら言いました。
「へぇー、イアン君は凄いんだ」
 わたしは向かい合う席に座ると、崩された駒を並べ始めました。ダブリンの貧救院にいた頃、お年寄りから駒の並べかたや動かしかたくらいは教わっていたのです。
「どうだい、よかったら一番」
 イアンは片目をつむりました。
「いいけれど、わたし、とても弱いわよ。女王を含めて半分の駒を落としてもらって、ちょうどいいくらいだと思うわ」
「そんなの勉強にも何にもならないよ。騎士と城だけを落とすよ」
 彼は白を持って、左端の城と騎士を取り除きました。
 わたしは次第にむきになりましたが、だんだんと追い詰められていきました。
(だめ、もう投げようかしら…)
 そう考えた時、背広姿の痩せた、初老の、とても鋭い眼をした男が入ってきました。
「サーストンさん、いらっしゃい!」
 オーナーは駈け寄り、イアンの眼が厳しいものに変わったのに気づきました。最初は「ただチェスのライヴァルだから」と思っていたのですが…

 サーストンさんはイアン君とわたしの駒落ちチェスをチラッと一瞥するなり、わたしに向かって、
「もう挽回できるチャンスはない。投げろ!」
 と、怖い声で言いました。
「は、はい… わたしもそうするつもりでした」
 弾かれたように立ち上がって退くと、サーストンさんは無言で、黒の駒を最初の位置に並べ始めました。
「きょうは俺が黒の番だったな」
「そうですね」
 イアン君の返事もどことなくよそよそしく感じられました。
「あの、見学していていいでしょうか?」
 わたしは緊張しながら尋ねました。
「………」
 サーストンさんは振り向きもせず無言でしたが、イアン君は小さな声で「どうぞ」と言ってくれました。
 最初の二、三手は、ごく普通の指し手でしたが、五、六手目から黒の騎士と僧正が奇妙な動きを見せ始めました。わたしのような弱い者から見ても、主な定跡にはない手だということが分かりました。
 イアン君の手が止まりました。
 かたわらのチェス時計の、彼の文字盤だけが刻々と針が進みます…
「ちょっと、お手洗いに失礼します」
 彼はそう言って、時計は進むままに、手洗いに立ちました。
 サーストンさんは眉一つ動かさず、厳しい目で盤面を睨み続けています…
 わたしは何故か、止むに止まれぬ感情に押されて、後を追いかけました。
 男性用の手洗いを覗くことなど、普段は絶対にやらないのですが、この時ばかりはそう…何かしらとても不吉な予感を感じたのです。 思った通り、イアン君は鏡の前で、抜き身のナイフの、白く輝く刃をジッと眺めていました。
「ブライディーさん、止めないで下さい!
 あいつは間違いなく、十数年前にぼくの両親を死に追いやった徴税官なんです」
 彼はナイフを握った右手をそのまま上着のポケットに隠して囁きました。
「ちょっと待って! 十数年も前だったら、あなたはまだ赤ちゃんだったか、幼かったはずよ! 顔を覚えているの?」
 わたしは囁き返しました。
「ぼくの父はコナハト地方のチェスのマスターでした。イギリスからやってきた徴税官もたまたまチェスのマスターで、父は『勝負をしてもし勝ったら、村全体の徴税を待ってくれ』と頼んだのです。徴税官は受け、黒の騎士と僧正が奇妙な動きをする『はめ手』を使ってきました。父は見事にそれを破ったけれど、徴税官は約束を反故にして、支払いを待ってはくれませんでした」
「そんな… そんな『はめ手』を指す人はいくらでもいるでしょう? もしも人違いだったらどうするの?」
 わたしは、席に戻ろうとする彼を必死で止めました。
「ロンドンに来て、それらしい容姿風貌の、イギリス人のマスターたち数百人と試合をしてきたのです。その手を指したのはサーストンだけでした…」
「でも、それだけでは… また、仮にサーストンさんがその徴税官だったとしても、復讐はいけないわ!」
「いいや、この日が来ることをどんなに待ち望んできたことでしょうか!」
「刑務所に入ったら、もうアイルランドの家庭料理は食べられなくってよ!」
 彼は一瞬立ち止まりました。
「それは、確かに…そうですね…」
 席に戻った彼は、静かに白の歩卒を持って動かしました。黒の無理攻めを咎める冷静沈着な一手で、サーストンさんの額に汗が浮かび始めました。
 わたしは、サーストンさんが盤面に夢中になっているうちに、イアン君が、右手を上着のポケットに入れ、何かを握り締めたのに気がつきました。
(やめて! もしもサーストンさんがご両親の仇でも!)
 わたしは彼の青い瞳をじっと見つめました。 神様のご加護か、彼の瞳から憎悪の炎が静まるのを感じました。
「…もう挽回できるチャンスはないな… 同じ手で負けたことがある。もうずいぶん昔のことだが…」
 サーストンさんはそうつぶやきながら、黒の王を倒し、よろよろと立ち上がり、力のない足取りで帰っていきました。
「有難う、ブライディーさん…」
 イアン君は、勝利の局面を眺めながら言いました。
「…もう『白詰草亭』でもてなして頂くこともないでしょう… おふくろの味は、アイルランドに帰って食べることにします」

 あれから何年か、アイルランドに若手のチェスのグランド・マスターが現れて、将来のチャンピオンを嘱望されているのですが、その人の名前が、イアンなんとかさんと言って、写真を見ると、イアン君とソックリの、巻き毛の金髪のかたなのです…


     (次のエピソードに続く)





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