ブライディー・ザ・マジックメイド

 アルプスの人狼

 登場人物
 ポピー…フランス・アルプス出身の、「英国心霊研究協会」のメイドさん
 カーンおじさん、セツおばさん…ポピーの養い親
 イルク…ポピーの幼なじみの魔導師志望の少年
 バッラ長老…村の長老
 リヒター大尉…イルクの魔術に興味を持つ某国の情報将校


「すみません。あたしのためにこんなところまでご足労頂くなんて…」
 英国心霊研究協会のスイス系フランス人メイドのポピーが、赤い頭巾付きのマントの前身頃をかき合わせて、どんよりと曇った万年雪の峰峰を仰ぎ見ながら言った。
「いや、いいんだよ。不思議な現象をフィールドワークするのは楽しいし、ぼくは久しぶりに入院中の妻を見舞ってやりたかったし…」
 遠くで「ワォーン」と長い狼の遠吠えが聞こえ、ブライディーは思わずブルッと震え上がった。先ほどから粉雪がチラチラと降り続いている。慣れないブーツはもう三分の一くらい雪の中に沈むようになっていた。
「このあたりはまだ山というほどのものではありません」
 ポピーはそんなことを言っていたが、ドイルもブライディーも息苦しさに疲れを感じていた。
「おじさんの家…ファルノー村まであとどれくらいだい?」
「もう少しですよ」
「橇を雇えばよかったかな?」
「このあたりで練習しておかないと、先は橇では進めない山になりますよ」
 生まれ故郷の山地に帰ったポピーは生き生きしていたが、まだ昼間だというのに分厚い灰色の雪雲に覆われた空と、それを反射する見渡す限りの雪景色と針葉樹は、慣れない者には「遭難」という不吉な言葉を思い起こさせた。「ドッジソン教授なら節をつけて『近くて遠いは田舎の道。遠くて近いは男女の仲』とか言うだろうねぇ」
 ドイルの歯はガチガチと鳴っていた。
 小さな杉の森を抜けると、戸数二、三十軒ほどの小さな村に辿り着いた。どの家も、普通の洋風建築ではなく、合掌造りの木造で少し高床式の、木の階段で玄関に上がる、例えるならアジアふうの家に近かった。そこここの壁には漢字のような図案が描かれていた。
「…ジンギスカンの子孫が、ここ、アルプスまでやってきて羊飼いをやった、という説もあるのですよ。顔立ちには東洋的な雰囲気を残した人々も多いし、蒙古斑のある赤ちゃんが生まれることもあるのです。模様は魔除けという説もあれば、表札の代わりなのではないか、という説もあります」
 先に階段をトントンと上がったポピーは、分厚い樫のドアをドンドンと叩いた。
「おじさん、おばさん、ポピーです。ただいま帰りました。ドイルさんやブライディーさんも一緒です」
 が、返事はなかった。
「おかしいな。カーンおじさんとセツおばさんに手紙を書いたのに、届かなかったのかな?」
 ドイルとブライディーは高床のバルコニー伝いにガラス窓へと回ったが、窓も内側からかんぬきがかけられていた。
「…留守のようです。でもおかしいな。…ご近所を見てきますね」
「待ちなさい、ポピー。ぼくたちも一緒に行こう」
 三人は村の家々を見て回ったが、大人も子供も、男も女も、老人も赤ん坊も、誰一人いる気配がなかった。ほとんどの家はきちんと戸締まりがしてあったが、中には鍵をかけるのを忘れている家もあった。
 ノックし、断ってから入ると、まるで村ぐるみでどこかへ出かけたかように、食べ物などはきちんと戸棚にしまわれていて、食べかけのものや、放りっぱなしのものはなかった。「これは、村じゅうでどこかへ行ってしまったのじゃあないか?」
「そんなはずはありません! ふもとの町ではファルノー村の人は一人もみかけませんでしたし…」 ポピーの顔色が変わった。「ここから先の山には炭焼き小屋と漁師の小屋しかありません。とても数十人の人が休んだり泊まったりするような…」
「でもみんなちゃんと出かける支度をして出て行ったのだから大丈夫よ」
 ブライディーはポピーの肩を抱いた。
「その通りだ。とりあえず今夜は、カーンさんの家に泊めてもらおう」
 ドイルは持参した針金を鍵穴に突っ込んで器用に鍵を開けた。
 家の中は荒らされたような気配はなかった。 ポピーは先ほどまでの元気はなくしながらも暖炉に石炭と薪をくべて火を起こした。
 ブライディーも野菜やキノコ類を刻み、乾し肉を入れてシチューを炊き、小麦粉をこねて丸くちぎってパンを焼き始めた。
 夜の帳が降り始め、蝋燭とランプが灯された。外はいつしか吹雪になっていた。
「やれやれ、とにかく到着できて良かった。…ブライディー、いつもながら君はありあわせのもので料理を作る天才だね」
「いえ、ご当地の保存食がおいしいのでございますわ」
 メイドさんはにこやかに微笑んでみせたが、ポピーはさらに心配そうな表情になった。
「どうした、ポピー」
「もしかして…」 彼女はスプーンを止めて言った。「…みなさん『人狼』になって、山をさまよっていらっしゃるのでは?」

「莫迦な!」 ドイルは破顔一笑しつつ、パイプにタバコの葉を詰めながら、お仕着せに着替えたブライディーから、ロンドンから持参してきた葉で淹れた紅茶を受け取った。「…おとぎ話の伝説もいいところだ! おそらく、むかしむかしの人々は狂犬病の錯乱症状を起こした患者を『人狼になった』と思ったのだろう。いちおう治療するための薬や道具も持参したが…」
 見慣れた黒革の治療鞄がソファーの上に置かれているのは頼もしい限りだった。
 陽はとっくに西の峰に沈み、闇が濃くなった空の、流れる雲のあいだからは時おりレモン色の満月が覗いていた。
「ワオーン! ワオーン! ワオーン!」
 狼たちの、お互いの位置を確かめ合うように遠吠えを続ける声が聞こえた。
 露で曇った観音開きのガラス窓をそっと開くと、そこここの崖の上に、尖った両耳をピンと立て、尻尾を巻いた獣たちの影法師が見えた。
 ドイルは上着のポケットから拳銃を抜きだし、旅行鞄からは銃弾の箱を取りだした。
「わたくし、おじさんの猟銃があるか見て参ります」
 ポピーはそう言って、石炭や薪置き場などになっている中二階を通って地下室へ降りていった。
「着いた早々、村人たちは忽然と消失か…」 事件簿を付けながらドイルがつぶやいた。「…ブライディー、君ばかり続けさまに使い立てて本当にすまないな。後の者は交代で休んでいる、というのに…」
「いえ、わたくしでお役に立てることでしたら… 何でしたら、早速占ってみましょうか?」
 ブライディーは、はにかみながら言った。
「…もう夕食時だと思うのに、ポピーのおじつんやおばさんを含めて、村人たちは誰一人として帰ってこないみたいだな…」夜になっても、ここ以外どの窓にも明かりが灯らない村を見渡し、ドイルが言った。「ブライディー、どうだ。とりあえず君も拳銃を持っておかないか?」
 目の前にやや小振りの銃と弾丸が置かれた。「いえ、わたしはそんなものはとても…」
 少し目を背けたところへ、古い猟銃を捧げ持ったポピーが戻ってきた。
「大変です! カーンおじさんが山に行くときは必ず持っていく銃が…」
 ドイルはそれを借りると、銃口の臭いを嗅ぎ、弾丸が込められていることなどを確かめた。
「最近発射されたことはないようだな…」
 と、その時、闇と吹雪混じりの北風に乗ってまた「ワオーン ワオーン ワーン」というもの悲しげな、仲間を呼び合うような遠吠えがいくつもいくつも重なって聞こえてきた。
 思わず表に飛び出すと、かすかな、ほんのかすかな月と星明かりに照らされて、十数匹の狼たちが、さながら軍隊の隊列のように二列縦隊になって、村のメイン・ストリートを通り過ぎて行くところだった。
 三人は息を飲んだ。
「こ、これは一体何なんだ?」
 ドイルは拳銃を手にしたまま、ポピーもおじさんの猟銃を持ったまま、ブライディーはただ呆然とその光景を見つめた。
 それは葬列のようでもあり、敗北した部隊が撤退していくようにも見えた。
 ドイルが無意識のうちに、彼らに向けようとした銃口を、ブライディーが下げさせた。「いけません、ドイル様!」
「ポピー、君は小さい頃この村で育ったそうだが、こんなものを見たことがあるか? 話に聞いたことがあるか?」
「いえ、ドイル様。見たことはもちろん、お話しで聞いたこともございません」
「一体どういうことなのだろう? ウォーレス博士ならご存じだろうか?」
 バルコニーの真下を通り過ぎる時、隊列の最前列にいた銀色の狼がふと立ち止まった。
 すると、彼に続いていた狼たちもピタリとその足取りを止めた。
 銀色の狼が、ゆっくりと、ゆっくりと振り返った。それに合わせて彼に率いられていた狼たちもそれぞれこちらを見た。
「カーンおじさん! セツおばさん! 村のみなさん!」
 目を見張ってポピーが叫んだ。
「えっ、どうしたんだ、ポピー!」
「あっ、いえ、ドイル様、すみません。わたくしいま何と?」
「『あの狼たちがおじさんやおばさんや村の人たちです』と言ったんだ」
「いや…そんなはずは…」
「わたくしもそんな感じがしますわ」
 ブライディーがつぶやいた。
 狼たちはまたすぐに歩き出した。
 階段を降りて彼らの後を追おうとしたドイルを、二人のメイドさんたちが、前に回り込んで押しとどめた。
「いけません、ドイル様。いまはいけません! 夜は地元の者でも危険です!」

 不思議な朝だった。
 カーテンからは明るい朝日が差し込んでいるというのに、なぜか爽やかな感じがなく、まるで異世界、異次元にいるようなけだるさを覚えた。
 ポピーと一緒に、彼女が暮らしていた部屋で眠っていたブライディーは、目をこすり、頭をハッキリさせようとした。隣では、長旅で疲れていたのだろう、ポピーがすやすやと、こちらはまだ安らかな寝息をたてていた。
 起こさないようにソッと起きると、階下からトントンと包丁を使う音と、ふくよかなコーヒーの香りが漂ってきた。
(いけない! わたしとしたことが! ドイル様が先に起きられてしまったんだ!」
 寝間着の上からガウンを羽織って階下へ降りると、階段を降りたところで、毛糸の帽子をかぶった、福々しい、いかにも人の良さそうな中年の婦人と鉢合わせした。
「あっ、その… もしかして… セツおばさん?」
 婦人はニコニコと、いかにも何も疑ってはいない様子だった。
「貴女がその…」
「お邪魔しております。その… 鍵がかかっていて誰もいらっしゃらなかったもので、ポピーが…」
「あの子はもう少し寝かせておいてあげて、ブライディーさん」
 踵を返して二階に戻ろうとするブライディーを、セツおばさんは制した。
「…あの子も本当に久しぶりに帰って来れたので安心したのでしょう」
「は、はい…」
「ドイル様は、客間で眠って頂いているよ」
 パイプをくゆらしながら現れた、これまた純朴そうな初老の農夫の波打つ銀髪を見たブライディーは、なぜか昨夜の狼の群れのリーダーのことを思い出した。
「初めまして、ブライディーさん。わしたちがポピーの養い親のカーンと…」
「セツです」
「貴女とドイルさんは、ポピーの命の恩人とか。改めてお礼申し上げますぞ」
「いえ、そんな…」
「おまけにロンドンの『英国心霊研究協会』のお屋敷で、よくして頂いているそうで…
 お礼を申し上げます」
 セツは深々と頭を下げた。
「いえ、お礼でしたらどうかドイル様に申し上げてください。わたしはポピーの仕事仲間でして… あっ、勝手に食材を使ってお料理をしてどうもすみませんでした!」
 昨夜、自分が料理したシチューを暖め直す匂いをかいだブライディーは、あわてて謝った。
「いいんだよ。わしらこそ、たまたま留守にしていて済まなかったね。村じゅうで集会に行っていたんだよ」
「なぁんだ、そうだったのですか」
 ブライディーはホッとした。
「夜遅く帰ってきてから、ドイル様やポピーと夜通し話をしていたんだよ。貴女はその時ぐっすりと眠っていたので、ドイル様のお指図でそのまま起こさなかった、ってわけさ」
 セツおばさんは片目をつむって見せた。
「なぁんだ。そうだったのですか!」
「貴女は朝食を食べるだろう?」
「え、ええ、はい! 着替えてきますね!」(なぁんだ、そうだったのか… わたしも起こして下さったら良かったのに…)
 素朴な木のベッドで眠っているポピーを見ながら冬の普段着に着替えてカーデガンを羽織ったブライディーが、階下へ降りていく前にもう一つの寝室を覗くと、ドイルがかすかないびきをかきながら眠っていた。

「…セツのシチューもおいしいが、貴女のこのシチューも絶品だなぁ…」
 カーンおじさんは口元を拭いながら言った。
「ロンドンのお屋敷で働いておられるのなら、さぞかしたくさんの料理を作れるのでしょうね。わたしも教えておいてもらおうかしら」
 と、セツおばさん。
「いえ、そんな…」 ブライディーは顔を赤らめた。「…お料理については、ポピーもなかなかのものですよ」
「そうかい。あの子も頑張っているんだね」
 セツおばさんは目を細めた。
「わざわざ遠くイギリスから来てもらって悪かったんだが…」 カーンおじさんはその、どことなく東洋的なところのある目元を細めた。「…謎は解決したみたいんなんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
 ブライディーの脳裏には、昨夜の奇妙な狼たちの行進の光景がまじまじと甦った。だか、カーンおじさんは構わずに続けた。
「…手紙にも書いた通り、『ファルノー村の村人全員が、夜、眠っていると、男は狼となって、女は牝鹿となって森をさまよっている夢を見る、というものなんだが、それは文字通り夢のようだったんだ」
「でも、全員が揃って同じ夢を見て、目を覚ましたときに覚えていて、しかもそのことが続くというのはとても不思議なことだ、と、ドイル様がおっしゃっておられましたが?」
「この地方にはそういう伝説があるのよ。わたしたちの遠い祖先は、遠くアジアのモンゴルからやってきたジンギス・カンだと言われているでしょう。彼は狼の化身だと言われていたし、その妻は牝鹿の化身だと言い伝えられているわ。そんなところからきっとみんなで同じ幻を見てしまったのよ」
 セツおばさんは皿を下げながら言った。
「あっ、おばさん、ゆっくりなさってください。わたしがかたづけますわ」

 一帯は昼近くには爽やかに晴れ渡った。
 ブライディーが井戸の水を汲んで洗濯ものを洗って干していると、ドイルとポピーが起きてきた。
「おはようございます、ドイル様、ポピー。ポピー、カーンおじさんやセツおばさんが帰られて良かったわね」
「うん、とても嬉しかったし、懐かしかったし、幸せだわ」
 そう言う割りには、彼女はどこか浮かない顔をしていた。ドイルもそうだった。
「つかぬことを聞くがブライディー、君は昨夜夢を見なかったか?」
「夢でございますか? 昨夜は特に…」
「ぼくたちは見たんだよ。それもまったく同じ夢を…」
 初冬の日差しの中を小鳥がさえずり、草の緑がほんの少し解けた雪から覗いていた。
「どのような夢でございますか?」
「ぼくは狼に、ポピーは牝鹿に変身して、このあたりの野原や山を駆け回る夢だ。空は昼とも夜ともつかない灰色だった。どこをどう行けばいいのか分からなくなって迷っていると、昨夜目撃した行進の、リーダーの狼が現れて道案内をしてくれて、家にも戻ることができた」
「ポピーも見たの?」
「ええ。…でも、いろんな伝説をさんざん聞かされていますし、わたくしもまたお話ししましたし…」
「だとしても、二人が揃って同じ夢を見る、というのは、やはり奇妙なことだと思う。シチュエーションまで酷似していたんだ」
「と、申しますと?」
 洗濯物を干し終えたブライディーは、怪訝な表情で振り返った。
「…戦争が起きていたんだよ。インドやアフリカで起きているような大規模な戦争が…
 軍服を着た、どこかの国の兵士や将校がこの雪山に進軍してきていた。顔立ちやヘルメットの形からすると、たぶんドイツ軍だと思う。しかしマークは普通の十字ではなく、先がかすかに折れ曲がっていた。鉤十字だった。 彼らの一部は給水車に大砲をつけ、キャタピラーを回転させて動く不気味な兵器に乗っていた。未来予想のイラストで見た『飛行機』も飛んでいて、ノーベルが発明した爆弾を落としたり、銃撃したりしていた」
「それも伝説の一つでしょうか?」
「いえ、そんな伝説はありませんわ。伝わっているのは、むかしむかし、恐ろしい、狂った領主がここの村人全員を虐殺しようと軍隊を差し向けた時…その時はまだ剣や槍、弓矢の時代でしたが…村人たち全員がいっときのあいだ狼や牝鹿に変身して山奥深くに隠れて、軍隊が去るのを待った。または助けに来た味方の軍に協力して敵軍をやっつけた、というもので…」
 ポピーは身振り手振りを交えて言った。
「まぁまぁ、そんなお話しを聞いて育ったものだからですわ」 ブライディーは微笑んだ。「…わたくしも時々、森や林で妖精と出会う夢を見ますわ」
「…にしても…」
 ドイルは納得がいかない様子だった。
「ドイル様はお医者様…科学者でいらっしゃいますからね。奇妙な兵器などはきっと、おっしゃる通り科学雑誌などでご覧になったものでしょう」
「しかしな…」
 ドイルとポピーはおずおずと両手を広げて差し出した。二人の手はきれいに洗われていたものの、かすかに爪の先に土のようなものが付いていた。
「ぼくもポピーもここしばらく土など触っていない。さらに言わせてもらうと、足の爪にも土らしいものが付いていた。二人とも、だ…」
 昼食時、カーンとセツにそのことを尋ねると、
「まぁ、夢の中だったら狼や牝鹿になってみるのも楽しいんじゃないか?」
「手足の爪の土なんかは気のせいですわ。きっと無意識のうちにどこかで何かを触られたのでしょう… ただの埃かもしれませんし…」
 二人は屈託のない表情で答えた。
「昼からは長老のバッラ様のところに伺われたらどうでしょうか? 長老様とあなたがたの智慧を合わせたら、謎が解けるかもしれません…」
 セツは相変わらずニコニコしながら言った。

 三人はロンドンから持ってきた小さな瓶に入ったウイスキーや、紅茶やタバコを携えて雪道を踏みしめつつバッラの家を訪れた。
 長老と尊敬されているだけあって大家族で、持参した手みやげは、アッという間に雲散霧消した。
「お菓子のほうがよかったかしら?」
 ブライディーは囁いたけれど、ポピーは「お菓子なら村にもあるわ」と苦笑いした。
 古い揺り椅子に掛けたバッラ自身は、雰囲気が「英国心霊研究協会」の重鎮たちと似た思慮深そうな老人だった。
「遠路はるばるありがたい。…そうか、あなたがたもその夢を見られたか…」
「わたしは見ませんでした」
「もしや、お嬢さんは占いとかなされるのでは?」
「えっ、どうしてそのことを?」
「お気を付けなされ。霊感の強い人ほど、いったん精神の防壁が破られると、夢というか幻影が、現実と区別がつかないくらい鮮明なものとなって押し寄せることがありますぞ」

「それはどういう意味ですか?」
 ブライディーは身を乗り出して尋ねた。
「言葉では上手く説明できんのじゃが…」 バッラ長老は揺り椅子の回りを駆け回る小さな孫たちの頭を撫でてやりながら言った。「…この村の住民は、いわゆるヨーロッパ人ではなく、アジアのほうからやってきた者である、ということはすでに聞き及んでいると思う。ユダヤ人やジプシーたちが『ヨーロッパ人ではない』という理由で、長いあいだ迫害を受け続けてきたということについては、あなたがたもよくご存じじゃろう…
 もうお察しかとは思うが、実は我々も有形無形の差別を受け続けてきたのじゃ。その結果、同じ村の者同士の結婚が多く繰り返された、ということもあって、普通は稀にしか生まれない特別な力を持った者が多く生まれてきた。
 一つは『過去を学んで未来を予測する力…いわゆる未来予知』で、もう一つは…こちらのほうはそれこそ夢か真(まこと)かは分からぬが、その夢の中で、男は狼に、女は牝鹿に変身する、というものじゃ」
「ずっと昔から連綿と伝えられてきた超能力なら、いま特に不安を感じたりする必要はないようにも思いますが…」
 バッラ長老がパイプに火を付けるのを待っていたかのように、ドイルもパイプに火を付けながら尋ねた。
「ごもっとも。じゃが、今度のはスケールが大きいような気がするのじゃ」
「と、申しますと?」
「いままでのいくさは、剣や槍、弓矢での殺し合いじゃったから、狼や牝鹿に変身することで難をやり過ごすことができた。じゃが、科学の進歩ともに、兵器も発達し、たとえ狼や牝鹿に変身できたとしても、殺されることは免れなくなる、かもしれない… するとごく普通の狼や牝鹿に変身することは無意味になる。代わりに何か別の方策を巡らせねばならず、それを夢見ることによってその新たな策を実体化させられるのなら、そちらのほうが恐ろしいものに成りうる可能性がある、ということじゃ」
「あの…」 ブライディーがおずおずと尋ねた。「…専制君主がいっぱいいた暗黒中世ならいざ知らず、飛行機が飛ぼうかという現代に、そんな恐ろしい指導者が現れたりするものでしょうか?」
「人の心の中の闇というものは、石器を振りかざしていた大昔も、いまも、そして未来も変わらないと思うよ」 ドイルが口をはさんだ。「…いまのイギリスにも、ヨーロッパにもユダヤの人々やジプシーたちを毛嫌いしている者は大勢いる。ブライディー…君たちアイルランド人も、イングランドからひどい目に遭わされ続けてきたんじゃあないか? こんなことを言っても『言葉だけで謝られても』と感じるだろうが、わたしをはじめ心ある者はみんな『心苦しく思っている』よ。
…それならアジアやアフリカの植民地の人々は大英帝国のことをどう思っているか、ということも考えねばならないし『植民地から搾り取った利益でいろんな物凄い贅沢を享受しているイギリスの支配層はどうなんだ』ということに行き着くかもしれない。
 つまり、今後、未来、ユダヤの人々や、ジプシーや、ここファルノー村の人たちや、アイルランド人や、もしかしたらイングランド人を全員殺戮したり奴隷にしてしまいたい、と願う支配者が、世界のどこかに現れない、という保証はどこにもない、ということだ」
「ドイルさんのおっしゃる通りじゃ」 バッラ長老はパイプを吸う手を休めて言った。「…その未来の支配者の軍隊が、いままでのように剣や槍、弓矢や先込め式の鉄砲といった牧歌的な武器ではない、もっと恐ろしい武器で武装していたとしたら、狼や牝鹿に変身しても、とても太刀打ちできないし、十分に対抗しうる何かに変身するつもりなら、その準備はずいぶん早くからして備えておかねばならなくなる… すると、『恐ろしいものに備えるために、より恐ろしいものをそれより前に備えてしまう』というジレンマに陥る、ということじゃ。…お願いじゃ、ドイルさん、ブライディーさん、どうかわしらをそんな存在にさせないで欲しいのじゃ…」
 バッラ長老は走り寄って膝に乗ってきた孫たちを抱きかかえながら目を閉じた。
「と申されても、では一体どうすればよいのか、まるで雲をつかむようです…」
 ドイルが首をひねった。
「『夢』じゃ」 長老は子供たちを再び離してやりながらポツリと言った。「われらファルノー村の村人は、夢の中…つまり狼や牝鹿に変身している時に未来を予知できる。ゆえに、あなたがたの中で同じ夢を見て、なおかつ『それが夢である』と認識できるかたがおったら、解決できると信じる。わしの家に昔から伝えられている古文書があるのでお貸ししよう」
(でも、村の人たちが狼に変身していたのは、夢ではなく、現実だったわ) ブライディーは当惑した。(…もしもカーンおじさんや、セツおばさんが万一、狼や牝鹿よりもっと恐ろしいものに変身してしまったら、鉄砲も恐れないでしょうし、一体どうすればいいのかしら?)
「ブライディーさん、お願い、わたしからもお願いするわ」
 心の中とは裏腹に、不安そうなポピーに頼まれると、
「ええ、わたしにできることなら任せて。大丈夫よ」
 と微笑み答えた。

 長老の家から戻ると、雪がまた降り出した。
 ブライディーとポピーがあわてて洗濯物をしまうと、あれよあれよという間に宵闇が迫り、夜になった。
 二人はセツおばさんの料理と食器を並べるのを手伝った。
「まぁまぁ、いっぺんに娘が二人帰ってきたみたいだねぇ…」
 セツおばさんは満面の笑みを浮かべながらブライディーが(四人いるけれど、こんなにたくさん食べきれるかしら?)と思うくらいのの品数と、ずんどう鍋にいっぱいのポトフを煮込んでいた。
 出来上がるまでのあいだ、居間兼食堂ではドイルとカーンおじさんが暖炉で暖まりながら話し込んでいた。
「…『集団で同じ夢を見る』ということは、決して珍しいことじゃあないのです。ヨーロッパにおいても、アメリカにおいても、いくつもの珍しい症例が報告されています。
 ある軍隊の部隊においては、兵士全員が敵軍が夜襲を掛けてきた夢を見て、壮絶な同士討ちをしてしまったそうです。…それも最前線にいるのならともかく、敵からははるか遠く離れた後方の安全なところにいた、のにです。
 またある貨物船では、乗組員全員が、その船が嵐に遭って沈没する夢を見たので、次の港で船長以下みんな職務放棄して船を下りてしまったそうです。困った船主は、船員を雇い直して出航させたものの、船は嵐に遭って沈没してしまったそうです…」
 ドイルは持参した精神病理学の本の、しおりをはさんだところを読み上げて言った。
「そうすると、集団で見た夢は正夢になってしまうことが多いようですな」
 カーンおじさんは読めない英語の本を覗き込んで頷いていた。
「いや、それは一概には言えないと思います。みんなが同じ夢を見ても、それが現実のものにならならない限り、記録に残ることは稀だからです。『ああ奇妙だったな』で済まされてしまうことが多いからです。
 調べれば原因らしきものがあった、と言うことも多く、その場合は一時的な集団ヒステリーか集団パラノイアだと言えるでしょう。 幽霊騒ぎなどは、実はかなりの割合でそうなのです」
「さぁさぁ、紳士がた、難しい話はそれまでにして、お食事にしましょう!」
 セツおばさんの一声で、楽しい晩餐が始まった。
 とっておきの古い地ワインが開けられ、謎が近く無事解決されることが祈られた。
「ところでポピー、おまえイルクのことを訊かないね」
 皆より一足先に食事を終えたブライディーが自分の皿を洗い場に運び掛けた時、いささかワインに酔ったセツおばさんが、いまにも泣き出しそうな顔で言った。
「いやねぇ、おばさん、イルクのことはパリに働きに行くときに、もう諦めたと言ったじゃない…」
 ポピーはどぎまぎした。
「イルクとは? 良かったら話してください」 ドイルはパイプに火を付けて言った。「…ブライディー、濃いめの紅茶を頼む!」「かしこまりました」
「イルクは、わたくしの幼なじみで仲の良かった男の子です」 ワインのせいか、ポピーは顔を赤らめながら話し始めた。「…ブライディーさんと『お兄ちゃん』ほどではありませんが、二人で将来のことを語り合った時期もありました」
「まぁ、ポピーったら!」
 眉を吊り上げながらティーポットとカップを運んできたブライディーを、ドイルが穏やかに制した。
「…わたくし、イルクの野心についていけなくなったのです。彼の家は代々魔術師の家柄で… でも、薬草は薬局で買う薬やお医者様が出される薬にとって代わり、種子を蒔く時期は気象台が教えてくれるようになって、すたれるいっぽうで、彼も羊飼いをしていました。 わたしは羊飼いをしていた頃のイルクは大好きでした。 ところが、ある頃を境に
『ポピー、ぼくは君を幸せにしてあげるよ! 金持ちにしてあげる! ぼくもこのまま羊飼いなんかで終わるものか!』
 と、まるで宝の地図を見つけた少年か、ドンキホーテみたいなことを言うようになったのです」
「…ほう、それは文字通り、先祖が遺した文書でも見つけて読んだ結果ではないのかね?」
 紅茶を啜りながらドイルが口をはさんだ。
「わたしもそうだと思います」 ポピーは頷いた。「…先祖が魔導師、ということなら、『英国心霊研究協会』に遊びに来られるサダルメリク・アルハザード様や安倍薫様がそうですし、『野心』という点ではアレイスター・クロウリー様がそんな感じが致しますけれど、これらのかたがたはあまりお金の話はなさいません。イルクは『自分が手にすることが出来るかもしれない術』をお金に換えることを望むようになりました。わたしは何度もお願いしたのですが、聞き入れてもらえず、そのうちにパリに出稼ぎに行くことになりました…」
「そのイルクは現在?」
「行方不明じゃ」
「町へ出た、という噂を聞きましたけれど…」
 おじさんとおばさんは口々に言った。

 二日目の夜が更けていった。
 ドイルはバッラ長老から借りてきた古文書を持参した辞書と首っ引きで読んでいた。古文書はロマンス語系のこのあたりのごく一部の地方でしか使われていなかった言語で書かれていた。
「ああ、シスター・セアラさんか、フィオナさんがいらしたらこんな苦労はしなくていいのになぁ… ブライディー、君もポピーも先に寝ていいよ」
 ドイルはあくびをかみ殺し、背伸びをしながら言った。
「有難うございます。それではお言葉に甘えて休ませて頂きます」
 ホピーの部屋に戻ったブライディーは、ポピーにもドイルの言葉を伝えた。
「わたしはもう少し起きておりますわ」
 ポピーはもの思いに耽っている様子だった。 ブライディーは敢えて、イルクの話題には触れなかった。
(セツおばさんが語り出すまで、ロンドンでもここに来るまでの長旅のあいだも、一言も話さなかったということは、きっとあまり思い出したくないことなんだわ…)
 寝間着に着替えて横になると、満腹と安心したせいもあってコトンと眠りに落ちた。
 昨夜と違って外はしんしんと雪が降り続いている様子だった。明日の朝になればさらに深さが増していることだろう…
 ロンドンでは膝まで積もることはない。ダブリンでもまずない。ポピーの語るところによると、ここは人の背丈の何倍も積もるらしい…
 雪の降る音も風の音も聞こえず、昨夜のように狼たちが行進しているような雰囲気も察することはできなかったものの、刻一刻、一番近くの町からも閉ざされていくのを肌で感じた。

 夜中にピリピリと、すべてが凍り始める気配がした。
 ブライディーは夢を見ていた。
 隣に眠っていたはずのポピーがいなくなっている夢だった。そんなに広くない家の部屋部屋を探して歩いても、カーンおじさんとセツおばさんの寝室をそっと覗いてみても、ドイルの泊まっている客間を見てもいなかった。…ドイルは古文書と格闘したまま、机に突っ伏していたので、ブライディーはそっと毛布を掛け、ランプを吹き消した。
(ポピー、どこへ行ってしまったのかしら? まさか外?「夜に出歩くのは地元の人間でも危ないです」と自分で言っていたくせに…)
 窓のかんぬきの一つが外れていた。
 開くと外は一面の銀世界で、鹿と思う動物の足跡が山のほうに向かって点々と続いていた。
(ポピー、まさか!)
 気が付くとブライディーも焦げ茶色の牝鹿に姿を変えていた。
(ずっと伝説の話を聞いているからよ。ドイル様かおっしゃる集団夢というものに違いないわ)
「夢の中」ということで大胆になり、外の世界へと飛び出した。
 普段ならスカートやペチコートがからみつくのに、鹿の脚は実に軽やかだった。
(早く追わないと、雪で足跡が消えてしまうわ!)
 飛び跳ねるように駆け出した。毛皮は暖かく、寒さは感じず、風雪は心地よいくらいだった。
(狼にだけは気を付けないと…)
 思ったものの、狼の足跡は一つも見かけなかった。 遠吠えも聞こえなかった。
(昨夜は特別だったのよ!)
 ポピーが変身していると思われる若い牝鹿の足跡は、一番高い山の峰に続くつづら折れの坂道を登っていた。ブライディーの牝鹿はその跡を追い掛けて飛ぶように登っていった。 山道、獣道は五合目か六合目くらいで途切れていて、それ以上を目指そうとすると垂直に近い岩をよじ登る他なく、名のある登山家たちが挑戦して成功したり失敗したりしていたが、彼らや猟師が使う山小屋が建っている…ということをポピーから聞いていた。「さすがに冬場は、使う人もなく、春の山開きまでそのままになっています」とも…
 その丸太小屋が見えてきた。しかも小屋には灯火が灯っていた。
(よかった! ポピーはあそこで一休みしているんだわ)
 ブライディー牝鹿が窓の隙間に片目を当てて覗いてみると、石炭ストーブが燃え、上に置かれたやかんのお湯がシャッシャッと湯気を立てていた。粗末な机の上には、まるでドイルの机のように何冊もの本やノートが積み上げられ、そのうちのいくつかは開かれたまま鉛筆やしおりが挟まれていた。
(おかしいな。ついさっきまで誰か…たぶんポピーが一番会いたいと思っている魔術師のイルク…がいたような気配がするのに…)
 身を引いてもう一度辺りを見渡すと、どうやって上がったのだろう、雪明かりの中、山頂へと続く岩の出っ張りの上に、一頭の若い牝鹿が乗っていた。
(ポピー!)
 ポピー牝鹿は「ピーッ」と一声寂しく、悲しそうな声を上げた。その瞳の先、数段高いところにある出っ張りの上には、狼とも、虎とも獅子ともつかない、全身がたてがみで覆われた、まるでキマイラのような不気味で大柄な獣の影があった。

 獣は、牝鹿のブライディーにも気が付いた。 黄色いトパーズのような両目には、紅蓮の炎が揺らめき、牙は虎や獅子のそれよりも長く細く尖っていて、太古の昔に滅んだ、図鑑でしか見たことのない剣歯虎のようだった。(下の岩場の牝鹿がポピーだとしたら、あの獣は行方不明になっているというイルクね) ブライディーはそう思った。不思議なことに化け物と対峙している恐怖感はなかった。 あいだにポピーがいるせいではなく、予め獣に変身する術を会得した魔術師の話を聞いていたせいでもない。普通の鹿は本能的に肉食獣を恐れるはずなのに、それがほとんどないということは、「変身したのは姿形だけで、心は人間のまま」ということだった。
(しかし、相手はどうでしょう?)
 そう考えると、恐れが湧き上がってきた。例えるなら、『切り裂きジャック』のりような人間の殺人鬼と出会ってしまった時のような…
(ピーッ! ピーッ!)
 牝鹿のポピーは、まるで「この『人』はわたしがお世話になっている、とても大切なお友達よ!」と言っているように鳴いた。
 ブライディーは最初(獣のイルクは、牝鹿のポピーを襲わないでしょう)と思っていた。 しかし獣の様子はおかしかった。
 昨夜、隊を組んで行進していた狼たちのようではなく、牝鹿に変身しているポピーや自分のようでもなかった。黄金色の目は時を追うごとに爛々と輝きを増し、瞳は赤銅色に燃えさかり、牙のあいだからは涎を垂らし、憎悪の黒いオーラを立ち上らせていた。
「ポピー、逃げましょう!」 ブライディーは叫んだ。「…その人はもう、イルクさんじゃあないわ! 実験に失敗したジキル博士のように、自分で自分を止めることができなくなってしまわれているわ!」
「分かっているわ! 分かっているけれど…)
「さぁ早く! いまならまだ間に合うわ!」 ためらっているあいだに、獣はヒラリと身を躍らせたかと思うと、牝鹿のポピーの喉元に、ずらりと並んだ牙を突き刺しかけた。
 牝鹿のブライディーは電光のように岩場を駆け上ると、ポピーを押しのけた。
 獣は一瞬あっけにとられた。
「さぁポピー、早く!」
 今度こそ逃げようとした時、獣は突然、まるで毒入りの餌でも食べたかのように苦しみはじめ、口から泡を吹いてのたうち回り、岩壁を転がり落ちて行った。
「イルク!」
 牝鹿のポピーは獣の後を追って崖を駆け下りた。ブライディーも仕方なく二人の後を追った。

「ポピー、帰ってきてくれたんだね、嬉しいよ」
 人間の姿に戻り、山小屋のベッドに寝かされたイルクは、黒い髪に黒い瞳のハンサムの少年だった。
「貴男に… 会おうと思って… 帰ってきたんじゃあないわ」 ポピーは口ごもりながら言った。「カーンおじさんと、セツおばさんからお手紙を頂いて、ファルノー村のことが心配だったから… ドイル様にお願いして…」
「大きな戦争が近いんだよ…」 丸太の天井を見つめ、イルクはポツリと言った。「…現実に、人が獣に変身できるのなら、こんなに素晴らしいことはない。仮に、夢の中だけだとしても夢で見た光景が現実なら、偵察などに生かせるだろう…」
「…イルク、イルク、お願いだから魔術を戦争に使うことなど考えないで!」
「ぼくが考えなくても、他の誰かが必ず考える… 実際に窮地に陥ってからでは手遅れだ。現に近々、某国の情報将校が、ぼくの研究に興味を持って、話を聴きに来てくれるんだ。
…ずっと獣として暮らしていくのなら金はいらないが、人間として暮らして行くためには金がいる。まして魔術を研究するのなら、本一冊買うにも借りるにも金がかかる…」
「イルク、これ以上莫迦なことはやめて! 某国の将校さんに会うのはお断りして!」
 ブライディーはふと、アメリカに出稼ぎに行ってしまった「お兄ちゃん」のことを思い出した。
「もう断れない。話は進んでいるんだ。ファルノー村の人たち…カーンおじさんやセツおばさんや、バッラ長老…にはこれ以上迷惑をかけないから…」
「『迷惑をかけない』? もうじゅうぶんかけているわ! 魔法を使って、村の人を狼に変えたか、狼に変身する夢か幻影を見させたでしょう?」
「麓でそんなことが起こっていたとしても、わざとじゃあない! ちょっとだけ試してみた魔法が効き過ぎたんだ。…つまり『大成功』という訳だ…」
「イルク!」 ブライディーはポピーが厳しい声を発するのを初めて耳にした。「…わたしは貴男のことを心配して言っているのよ!
 どうしてそのことを分かってくれないの?」
「『心配』? 多くの仕事に危険は付き物だ。
 軍人たちは市民を戦争に巻き込むし、高級船員は船客を遭難させることがある」
「イルク、魔術師の家系に生まれた貴男はこんなことは簡単に聞き入れられないと思うけれど、もう魔法は捨てて!」
 ポピーの両目には涙が溢れていた。

「いいかいポピー、『これ』は、ぼくがやらなくても、いつかどこかの魔法使いがやってしまうことなんだ。…そう、いわば科学の発展のようなものなんだ。確かにダイナマイトを発明したノーベルは、それが戦争に使われ、多くの命が奪われたことを悔やんだ。だけども、そのお金をもとにノーベル賞が設けられたし、ダイナマイトは建設や治山治水鉱山での平和事業のためにも役立てられている。君は、これから飛行機を発明しようと頑張っている発明家にも止めるように言うのか? 飛行機が発明されたら、それはきっと戦争のためにも使われるぞ」
 イルクは冷たく言い放った。
「そ、それは…」
 ポピーは口ごもった。
「…君が住み込みで働かせてもらっている『英国心霊研究協会』の会員には、一流の科学者が大勢いるそうじゃあないか? そのうちの何人かが知っていて、または本人も知らないうちに軍需産業に荷担していないと言い切れるだろうか?」
 ブライディーはクルックス博士たちのことを思い浮かべた。
「本人が知らないうちに利用されていたり、はからずもそういう結果を生んでしまった場合は仕方ないわ。けれどイルク、貴男は最初からお金が目当てで、ある国の軍人さんと会おうとしている」
「だから、発端は違っていても結果が同じなら同じじゃあないのか?」
「違う! それは絶対に違うと思う…」
 ポピーの頬に涙が伝った。
「いったん帰りましょう、ポピー」 ブライディーはポピーの耳に囁いた。「ドイル様やバッラ長老、カーンおじさんやセツおばさんに相談したら、きっといいお知恵を出して下さると思うわ」
「『ドイル』? 名前からするとイギリス人のようだな。その人に伝えて欲しい。『イギリスが、某国よりも高い金を出してくれるのなら、ぼくは某国と取引することをやめて、イギリスに研究の成果を売る』と」
「イルク、そんなことを言うのは失礼よ!
 ドイル様は立派なかたで… そうでしょう、ブライディー?」
 ポピーはすがるような視線をブライディーに向けた。
「え、ええ…」
「それは買いかぶりというものだ。そのドイルさんとやらが立派な人であればあるほど、『立派なイギリス人であろう、立派なイギリス人であることを貫こう』として、本国に『金送レ。指示ヲ待ツ』と電報を打つはずさ。もっとも、麓の街まで行かなければ電報局はないがな」
 イルクは粗末なベッドから起きあがって、挑むような目で二人を見た。
 ブライディーはポピーの肩を抱くようにして山小屋の外へ出た。
「またすぐにここへ来るのだから、そんなに思い詰めなくても良くってよ」
「え、ええ…」
「イルクさんは『ここ』で某国の将校さんと待ち合わせている、とおっしゃっていたでしょう?」
「ええ」
「某国から多額の報酬で誘われたら、そのまま旅に出てしまうかもしれないがな」 小屋の中から声がした。「…そうしたら、こんなシケた村、二度と帰ってくるものか!」
「でもね…」 ポピーは振り返って叫んだ。「獣に変身する術は山の中だからこそ役に立つのよ! もしも街だったら、たちまち警官隊や憲兵隊に取り囲まれて撃ち殺されてしまうんだから!」
「それはそうかもな」 イルクは頬を引きつらせた。「…それなら魔法の実験と練習は某国の山の中で、報酬の金は街で使うとするよ」
 雪明かりのもと、ブライディーとポピーが山道を下りかけると、山小屋の敷地の庭に、焚き火の跡があるのを見つけた。いままで特に気づかなかったが、何か薬草を燃やしたような独特の香りがかすかに残っていた。
(もしかしたら、村の人々やわたしたちが狼になったり、牝鹿になったり、もしくはそんな夢を見たりするのは、ここで焚かれた薬草のせいかな…)
 ブライディーはふと思った。
 下り坂を下り掛けると、二人の姿はゆらゆらと揺らめきながら次第に人間から牝鹿へと変わっていった。

「そうか、ブライディー、君も夢を見たのか?」
「ええ。でも目を覚ますと、手足の爪の先にかすかに土の跡が…」
 翌朝、二人のメイドさんはドイルに報告した。
「…これがイルク君の術の仕業だとすると、彼は田舎の魔術師なんかじゃあない、アレイスター・クロウリー君やサダルメリク・アルハザード君、安倍薫君と並ぶ魔導師かもしれない。ファルノー村じゅうの人間に術を仕掛けられるんだ。規模を拡大すればロンドンやパリじゅうの人間を術中に陥れることもできるかもしれない。そうなると『某国の将校が大金で雇いに来ている』というのもハッタリではなくなる。これはすぐにロンドンに電報を打って、イギリスが某国よりも先手を打って彼を雇うようにしなければ…」
 ドイルは真顔で言った。

「ドイル様、しかしそれは…」
 ポピーの顔から血の気が引いた。
「それもこれもない。『愛国者』を気取るつもりはないが、イギリスを愛しているし、そこに住み暮らしている人々も愛している。ブライディー、君がアイルランドを愛しているように、ポピー、君がファルノー村を愛しているように、だ」
 三日目、外は吹雪になっていた。空は鉛色で、町まで戻ることはもちろん、家から外に出るのも難しそうな天候だった。
「ポピー、すまないが村のどなたかに犬橇か馬橇を借りてきてくれ。できたら橇使いも…『お礼は十分にさせてもらう』と言って。バッラ長老に借りられたら良いのだが… それから先ほどのイルクの話は、当分カーンおじさんとセツおばさんには秘密に… 心配すると気の毒だからね」
「すみませんが、お断り申し上げます」
 ポピーは少し震える声で、しかしきっぱりと言った。
「ポピー…」
 ブライディーは二人の顔を交互に見た。
「…わたくしは英国心霊研究協会のメイドで、馬車や橇の用意も仕事の一つですが、今度ばかりはご容赦ください!」
 彼女はそう言って、毛皮のコートを羽織り、毛糸の手袋をし、帽子をかぶって吹雪の中へ出て行った。
「ホピー、こんな天気に一体どこへ行くんだい?」
 カーンおじさんとセツおばさんが振り返って声を掛けた。
「ポピー!」
「待て、ブライディー!」
 後を追おうとしたブライディーをドイルが制した。
「すまないが、君が橇を調達してくれないか? カーンおじさんやセツおばさんまで、イルクの策謀に巻き込むわけにはいかない」 ドイルはメイドさんの鳶色の瞳を見つめて言った。「君はアイルランド人。大英帝国の臣民として忠誠を尽くす義務があると思うのだが」
「分かりました。御者もわたくしが致しましょう」
 金貨が何枚か入った小さな袋を受け取ったブライディーは、心なしか肩を落として出て行った。

 二頭立ての馬橇がカーン家の高床式の家の前に付けられた。
「本当にそんなに急ぎの用なのかね?」
 カーンおじさんは目を曇らせて尋ねた。
「ええ、ご心配をかけて申し訳ないのですが…」 コートの上からさらにマントを羽織ったドイルが橇に乗り込みながら答えた。「…不覚にも、大切な用事を忘れていて、どうしても電報を打たねばならないのです」
「でしたら御者はブライディーちゃんがやらなくても、バッラさんとこの若い衆にでも頼めば…」
 セツおばさんもおろおろしていた。
「大丈夫です。わたし、アイルランドで橇を御したことがありますし、道を覚えるのも得意なんです」
「それに電報を打ったら、今夜は町の宿屋に泊まります。ここへは吹雪が止んでから帰ってきます」
「そうですか、お気を付けて…」
「わたしたちのことよりもポピーのことをお願いします」
 ブライディーはペコリと頭を下げた。
「ええ、それはもちろん」
「ブライディー、出してくれ。電報局が閉まるまでには町に着きたい」
「かしこまりました」
 ブライディーがピシリと空に鞭を鳴らすと橇はシャンシャンと鈴を鳴らしながらゆっくりと真っ白な雪道に滑り出した。
「ポピーのことが心配だ。こんなことなら最初から、彼女には内密に、君に頼めばよかったかもしれない…」
「いえ、そんなことをすれば彼女のドイル様に対する信頼が根底から揺らいだと思います。…そんなにご心配されなくても、どこかに身を潜めていると思いますよ。わたくしもダブリンの貧救院にいた頃、辛いことや悲しいことがあったりすると、誰にも見つからない押し入れや納戸の奥に隠れておりました。ここファルノー村はポピーが小さい頃を過ごした故郷。どんなに寒い大雪でも暖かいところを知ってますよ」
 振り返って答えるブライディーの声が吹きすさぶ風にかき消された。
「君も飲むかい?」
 ドイルは懐からウィスキーの入ったフラスクを取りだして言った。
「ええ、欲しくなりましたらお願いします」 二人のフードには横殴りの雪がこびりつき、ドイルのひげは白く、まぶたは凍りつきそうになってきた。
「まだ半分も来ていないと思います。引き返しましょうか?」
「いや、このまま進んでくれ! ロンドンに電報を打って、返事をもらわねばならない!」
 と、その時、二頭の馬たちが突然いなないたかと思うと、立ち止まって竿立ちになった。 ドイルも、手綱を何とかしようとしたブライディーも橇から振り落とされた。
 吹雪のカーテンの中、無数の黒い獣の影がぐるりと取り囲んでいた。

 ひっくり返った橇を引きずって逃げようと試みた馬たちに、獣が飛びかかった。
 まず最初の一頭、続いて二頭目、三頭目、あとは黒い大きな点が次々と…
 悲鳴のようないななきが聞こえたが、すぐに途絶えた。後は馬たちの内臓らしきものをくわえ引きずった獣たちのおぞましいシルエットが浮かび上がった。
 ドイルは懐から拳銃を取りだして構えたが、その顔は凍り付いたようにこわばっていた。「ブライディー…」
「ドイルさま…」
 ブライディーはドイルにしがみついた。
 だが、不可解なことに、獣たちはいつまでたっても囲いを狭めて襲いかかってこようとはしなかった。
 それどころか、ドイルたちがやってきた方向…ファルノー村側の囲みを解いた。
「…どうやら、『彼ら』は『獣にして獣にあらず』、言うならば『人の心を持った獣で、無益な殺生は好まない』ようだな」
「イルクさんとその仲間でしょうか?」
 ブライディーは獣たちの中に、昨夜山小屋で見た全身をたてがみで覆われたものがいないか、素早く探した。すると果たして、獣たちから少し離れた小高い雪で覆われた丘の上に、『それ』がいた。その獣は、まるで兵士たちに指示を与える将軍のように、一人気高さを気取って立っていた。
「どうしましょう?」
「連中に見逃してもらったとしても、歩いてファルノー村まで引き返すのは無理だ。雪の中で行き倒れて遭難してしまうだろう…」 ドイルは歯がみしながら言った。「…かと言って、この拳銃一丁で奴らを全員倒すことは不可能だ。また仮にそれができたとしても、やはり町に着く前に凍死してしまうだろう。つまり、奴らが直接手を下さなくても、ぼくらの命運は尽きかけている、ということだ。彼らも『獣にズタズタにされた外国人たちの死体』を雪原に残したくはないのかもしれない。そんなものを残せば、地元の猟師たちや、名のあるマタギたちが山狩りを始めるかもしれないからな。行き倒れの凍死体だったら『無茶なよそ者のよくある話』で済む…」
「では、助かる方法は?」
「とにかく、連中の気が変わらないうちにとりあえずここから去ろう」
「待って下さい。あの丘の上にいる獣は、確かに昨夜のイルクさんだと思います。逃げても助かる見込みが少ないのなら、わたしが話をしてみます」
「なんだって?」
 ブライディーは肩を抱いてくれていたドイルの手を振りほどいて、一歩一歩獣たちのほうに近づいて行った。
 勤めて足もとだけを見、獣たちの姿は見ないようにしながら…
『恐怖の本体は目や耳から入ってくるものがほとんど』だから、恐ろしい姿をまともに見さえしなければ、なんとかなる…
 デイジーが「恐ろしい亡霊ばかりが載った絵本」のページを開いて迫ってきたとき、見ないように逃げ回ったことを思い出しながら進んだ。
「ブライディー、よすんだ!」
 ドイルの叫び声が風に混じって聞こえてきた。
 奇妙なことに彼女が進むと獣たちは前方の町へと続く道も譲った。姿形はおぞましい獣だが、どことなく『獣の着ぐるみをかぶった人間』のような感じさえした。
「…イルクさん、イルクさんですね? わたしはブライディーです。ポピーの友達の。昨夜、お話ししましたね?」
 丘の下まで辿り着くと、ゆっくりと目を上げて見上げ、たてがみに覆われた獣を見上げた。
『おまえの言っていることが分かる。おまえはいま人の姿をしていて、ぼくはいま獣の姿なのに… おまえも、ファルノー村の人々と同じように、ただ者ではないな。魔法使いか? ロンドンからやってきたアイルランド人の?』
 獣は少し驚いたような様子だった。
『それはそうだろうな。アルプスの隠れ里のような村の怪異を調査に来るのに、何の能力もない者が来る訳がない… 村の人間でもないのに牝鹿に変身してポピーを追ってきたし…』
「わたしは魔法使いではありません…」
『分かるものか! …まぁいい。とにかくぼくの邪魔はするな。もう察しているだろうが、直接手は下したくない。特に恨みも何もない人殺しは寝覚めも夢見も悪くなるからな』
「貴男の邪魔はしないと約束しますから、わたしを牝鹿に、ドイル様を狼に変えてください。このままではどこかで行き倒れて、殺すのも同じ事です」
『断る! 町へ電報を打ちに行こうとしたおまえたちが悪いのだ』
「何かの薬草類を調合した煙を嗅がなければいけないのですか?」
『知らないな。勝手にしろ!』
「ポピーは本当は貴男のことをとても心配して…」
 獣の姿のイルクはプイとそっぽを向くと、電光のように山の方向に向かって駆け出した。 部下の獣たちもその後を追って去った。
 後にはひっくり返って壊れた橇と、食い荒らされた馬たちの死体と、馬の血に染まった雪と、途方に暮れたブライディーとドイルだけが残された。

「すまない、ぼくが甘かった」 ドイルは抑揚のない口調で言った。「…どうすればよいか… このままだと凍死するのを待つだけだ。かと言って、ファルノー村に戻っても、町のほうに進んでも、途中で行き倒れてしまうような… この吹雪では、通りがかりの者に出会う可能性も極めて少ない…」
「わたくし、占ってみますわ」
 ブライディーはひっくり返った橇に近寄って縛り付けてあった荷物の袋を解き、ウィスキーの入ったフラスクや、ビスケットやチョコレート、それにタロットカードを取りだした。
 彼女が雪の上にカードを並べて占っているあいだ、ドイルは橇を矢板のように立て、自らも風よけになって立ちふさがってカードが飛ぶのを防いだ。
「ダメですわ。村に引き返しても、町に進んでも『命運は尽きる』と出ておりますわ。途中、誰にも遭わない…とも…」
「そうか… では、この雪の下に穴を掘って、吹雪が収まるまでじっとしているとどうなるかを占ってくれたまえ。布もあれば酒も若干の食料もある。何とかなるのでは?」
 黙々とカードを並べ直したブライディーだった。が、しばらくしてまた悲しそうに首を横に振った。
「そうか… では、先ほど君がイルクに言っていたように、狼と牝鹿に変身する、というのはどうだろう? 獣ならば、もしかしたらこの吹雪の中を村まで戻れるかも知れない」 ドイルは橇の脇に付いていたスコップでビバークするための穴を掘り始めた。
「狼や牝鹿に変身するためには、眠って夢をみなければなりません。言い換えると夢の中でしか狼や牝鹿に変身することはできないのです。そうなればいいんですけれど、この状況で眠ってしまうと…」
「しかし、もうそれしかないのだろう? それなら凍傷とかにかかってしまわないうちにさっさと寝たほうがいいだろう」
 ドイルは(縁起でもない表現だが)墓穴ほどの空間を手早く掘ると、シートを掛け、橇を重しに置いてから中に入って毛布にくるまった。「さぁ眠ろう。願わくば、人生最後の夢はいい夢でありますように…」

 気が付くと、狼と牝鹿が寄り添うように吹雪きの中をポツポツと歩いていた。
「奇妙なものだな。狼と牝鹿が並んで歩いているなんて… まるで何かの伝説みたいだ」 狼の姿のドイルが言った。
「イルク様が、自分のことを高く評価されたがっているのも分かりますわ。思えば凄い術ですわ」
 牝鹿の姿のブライディーが答えた。
「そう大したものでもなさそうだぞ。現に彼が葬りたがっていたわたしたちまで、こうして生き延びている。つまり、戦争だったら敵軍の兵士にも効いてしまう、ということだ。『変身能力は敵にも及ぶ』ではお笑い草だ」「そうですね」
 獣になっていると、寒さはほとんど感じず、むしろ爽やかなくらいだった。
 ところが、白い雪に覆われた大地と、灰色の空のあいだに、かすかにファルノー村の特徴のある家々のシルエットが豆粒のように見え始めた頃…
「もう少しですね、ドイル様。ポピーも帰っているといいですね」
 ブライディーが話しかけてもドイルは返事をしなかった。
「…こんないい加減な術、某国も、おいそれと大金を出して買い取ったりしないと思いますわ。あわててロンドンに電報を打ったりする必要はありませんでしょう。ポピーやカーンおじさんやセツおばさん、バッラ長老を交えて話し合えば、いい策が見つかるのでは? …ドイル様? ドイル様?」
 狼のドイルは歩く速さが落ちていた。足取りが少しふらついているようにも見えた。
「ドイル様、大丈夫でございますか?」
「すまない、ブライディー、ちょっと頭が痛くて…」
「風邪でしょうか? 村に帰ってゆっくり休めば…」
「…わたしの見通しが甘かったせいで、こんなことに…」
「何をおっしゃいます。村はすぐそこに見えています。態勢を立て直して出直せばいいことではありませんか?」
 だが、それ以上の返事はなく、狼はばたりと雪の上に倒れた。
「ドイル様! ドイル様! しっかりしてください!」
 牝鹿はうろたえ、鼻で触り、舌で狼の毛を舐めた。
(困ったわ。どうしましょう… わたしだけ先に村へと帰って、カーンおじさんかセツおばさんを連れてくれば… バッラ長老をはじめ、村の人なら誰でも事情を察してくれるとは思うけれど、もしもそのあいだにドイル様が雪に埋もれてしまったら…」
 迷っているうちにも雪はどんどん降り積もった。
「ドイル様! ドイル様!」
 呼びかけていると、狼は再び眼を開いた。
「良かった! 本当にあと少しです!」
 牝鹿は喜んだが、狼の瞳からはそれまでの理性と教養の光は消え去り、ただ野性の本能の残酷さだけがギラギラときらめいていた。

「あの、ドイル様、大丈夫ですか?」
 ブライディーは狼の様子が明かにいままでと違うのを察して、歩一歩あとじさった。
(違う! この狼はもうドイル様じゃあない! 昨夜、山の上で化け物の獣に変身していたイルクさんのようだ…)
 狼がじりっじりっとにじり寄ろうとしたので、牝鹿の姿のブライディーは脱兎のように逃げ出した。
 狼もダッシュして追ってきた。
 あと一秒で追いつかれ食いつかれそうになった時、狼は雪に脚をとられてほんの少し身体が揺らいだ。牝鹿はその隙に再び引き離し、間隔を開けた。幸いなことにそのあいだは再び詰まることはなかった。
「よかった… でも…」
 息を切らせながらファルノー村の、カーンおじさんとセツおばさんの家に辿り着き、少女の姿に戻ったブライディーは町への街道のほうを振り返った。「おや、ブライディーさん、おかえり。えらく早いね。もう町まで行って電報を打って戻ってきたのかい?」 戸口のところで出会ったセツおばさんが陽気に尋ねた。
「ドイルさんは?」
「それが…」
 訳を話すとおばさんの顔色が変わった。
「そりゃあ大変だ! すぐに探してあげなくっちゃ!」
「探すことはできると思います」
 ブライディーは自分の能力のことについて告げた。
「おやまあ! それは便利だねぇ。それだったらポピーの居場所も探し出せるんだね?」「ええ」
「わたしはカーンに頼んで網の用意をしてもらうよ」
「『網』ですか?」
「ああ、いままでにもごくたまに、夢の中で獣に変わったきり、元の人間の姿に戻れなかった者がいたんだ。そういう時は、網で捕らえて檻の中に入れておくと、元に戻った」
 おばさんが小声で囁いた。
「そうですか! そういうことだったら安心です。…でも、居場所が分からなかった時はどうしたのですか?」
「それは…」 おばさんは言葉をにごした。「…それっきりじゃ」
「分かりました。ドイル様とポピーの居場所は真剣に占わせて頂きます…」
 ブライディーはポピーとともにイルクと出会ったことや、イルクが語っていた企みのことなどのいままでのいきさつを語ってから、大切に持ち帰ったタロット・カードをテーブルの上に並べた。
「ドイル様もポピーもお山の五合目の山小屋の近くにいらっしゃるようです… おかしいわ。ポピーはイルクさんと親しいから分かるけれど、ドイル様はどうして自分を邪魔しようとした者のアジトに?」
「おそらくイルクに戦いを挑むべし、じゃ」 カーンおじさんは毛皮のコートの上から愛用の鉄砲を肩に掛けながら言った。「…狼に深くなりきり、人の姿に戻れなくなっても、直前に思っていた考えは残っていて、イルクの野望を阻むつもりなのじゃ」
「あの… その鉄砲は?」
 ブライディーは、おのおのの猟犬を連れて家の前に集まり始めた村の男たちがみんな鉄砲を下げているのことにいい知れない不安を覚えた。
「なぁに、ただの用心のためじゃ、そう心配しなさるな」
「お言葉を返すようですが、とっさの場合、その狼がドイル様か、それとも普通の狼か、わたくしにも分かりかねます。もしも網で動きを封じることができなければ…」
「大丈夫さ! その時はその時じゃ」
 どこまでも木訥で楽観的な村の人々だったが、ここまでとんでもない事柄に遭遇し続けてきたブライディーは気が気ではなかった。
「あの… イルクさんのところにはすでに某国の先遣隊が到着していて、その…たぶん兵隊さんたちは…すでに狼に変身する能力を身につけているようなのです」
「そいつらも何とかなるじゃろう」
(ああ、せめてポピーがいてくれたら…)
 そう思ったものの、おそらく懇意な将軍に連絡を取ろうとしていたドイルに、ポピーがどんな態度を取るか分からなかった。
 幸いなことに吹雪は収まり、穏やかな冬曇りの中を、十人ほどの村の男たちと猟犬たちとブライディーが山小屋を目指して進んだ。
(ドイル様とポピーが見つからなければ、とてもロンドンへは戻れないわ…)
 タロット・占いには「先遣隊の兵士たちに続いて、某国の魔法が使える将校も到着しているかもしれない」と出ていて、そのことも大いに気がかりだった。

「みんな、くどいようだが相手も人数を揃えているらしい。おまけに精鋭かもしらねぇ、待ち伏せなどには十分気を付けてくれよ」
 カーンおじさんが地元の言葉で声を張り上げた。
「大丈夫だ、カーン。おらたちには犬がいる。妖かしの類は察してくれるだろう。それにいまはまだ真っ昼間だ」
「わたしたちが遭った時には、吹雪で真っ暗に近かったとは言え、相手はみな獣に変身していました。その後、わたしもドイル様も変身して村の近くまで戻ることができました」
 ブライディーはファルノー村の人々と、某国の兵士たちとの撃ち合いが起きないか大いに心配していた。
「ブライディーさん、何を心配しとるんだい? もしもこの鉄砲のことだったら、そう不安に思うことはないよ」 カーンおじさんが語りかけた。「…今年はまだ雪が積もったばかりで地盤がゆるい。相手が獣だったら仕方ないが、人間同士の場合は撃ち合いにはならないじゃろう。こんな時こんなところでパンパンと派手に撃ち合ったりすれば、たちまち雪崩が起きて双方とも全滅じゃ。獣であろうと人間であろうとな。イルクも、某国の将校も兵士たちも、山一つ隔てただけの地元の人間。そのことは重々承知しとるじゃろうから、滅多なことは起きんと思うよ」
「だったらいいのですけれど…」
 三合目か四合目くらいにさしかかった頃、突然村人の猟犬たちが立ち止まって「ウーッ! ウーッ!」とうなり始めた。
「すわっ!」
 村人たちが散開し、犬を引っぱり雪に覆われた岩陰に身を潜めると、某国の軍服を着た兵士たちが二、三人の偵察を先頭に山を下りてくるところだった。
(誰カイルゾ!)
 某国の言葉が叫ばれ、十数人の兵士たちも岩陰に隠れた。
 吠え始めた犬たちを村人たちが押さえた。
 と、人間の姿のイルクが現れた。彼は、それぞれ柄の付いた網の中に、狼と牝鹿を生け捕りにした兵士たちを従えていた。
「おい、ファルノー村の田吾作ども、よく聞いて、よく見ろよ! はるばるロンドンからやってきた紳士、コナン・ドイルと、カーンのところの養女(むすめ)ポピーはこの通り我々が捕らえた。おとなしく道を通せばよし、さもなくばドイルとポピーの命は頂いた上での戦いとなろう! ドイルもポピーもいまは獣の姿だから人殺しにはならない。道を譲ってくれれば二人は適当なところで解放してやるがどうだ?」
「イルク、国を売るな!」 カーンおじさんが立ち上がって叫んだ。
「お二人を逃がして、兵隊さんたちには手ぶらで帰ってもらえ!」
「ふん、『国』だって?」 イルクは鼻先でせせら笑った。「…ぼくらはもともとこの土地の人間じゃあない。はるばるアジアのどこかから流れ流れて来たんだ」
 ブライディーは岩に隠れたままカーンの耳に囁いた。
「おじさん、わたし、あの捕らえられている狼と牝鹿が本当にドイル様とポピーか占って見ますわ。なるべくお話を長くしてください」
「なるほど、あんたはそんなこともできるのか! 分かった。早いとこ頼むぞ」
「はい」
 おじさんはまたイルクのほうを向いた。
「おいイルク、その網の中の狼と牝鹿が本当にドイル様とポピーか、ちょっくら話をさせてくれ!」
「いいだろう。…と言いたいが、二匹というか、二人ともいまは眠り薬でぐっすりと眠っているから無理な相談だ」
 雪の上にカードを並べて手早く占ったブライディーは、顔を上げて言った。
「おじさん、『あれ』はドイル様やポピーじゃあありません。ごく普通の狼と牝鹿です」
「なるほど、ただのゆさぶりだったか。では、どうしよう?」
「敵は、まだ捕らえていないものの、ドイル様もポピーも行方不明であることを知っているんです。なぜ知っているのか? おそらく敵方にもわたしと同じような能力の持ち主がいるのでは…」
 ブライディーが言い終わるか言い終わらないうちに、イルクの隣にビシッと某国の大尉の階級章の付いた将校のコートを着こなした、鉄縁の眼鏡をかけた冷酷そうな男が立ちはだかった。
「ファルノー村の者たち、我々はイルク君も無理矢理、または脅かして連れて行こうとしているのではない」 『大尉』は吹いている風よりも冷たい声で言った。「イルク君は自由意思で我々と一緒に行こうとしている。我々はイルク君に対して多額の報酬を支払うつもりであり、すでに頭金は支払っている。…そうだなイルク君?」
「はい、リヒター大尉殿」
 イルクは飼い主を見上げる犬のように大尉の顔見上げた。
「…これはちゃんとした雇用契約である。だから道を譲れ!」
「『ちゃんとした』と言えば…」 カーンは猟銃を水平に構えて大尉に狙いをつけた。「…あんたたちはちゃんとしたパスポートを持って、ちゃんと国境線を越えてきたのか?」
 ほかの村人たちもそれに習って兵士たちを狙った。兵士たちも反射的に小銃を構えた。

「おっと、こんなところで銃撃戦をはじめれば全員お陀仏だ」
 大尉は苦笑しながら網を解いて捕らえられていた狼と牝鹿を雪の上に落とした。
 二匹はその衝撃で目を覚まし、まず牝鹿が、続いて狼が状況を察して何処へともなく逃げ去った。
「おたくたちの中にもいろんな物事を知ることができる能力の持ち主がいるようだな。結構! 古来、特別な力を持ったファルノー村の者たちのことだ。不思議ではあるまい」
 しばらくにらみ合いが続いた。
「どうしよう? このままだと埒があかぬまま日が暮れてしまう」
 カーンおじさんは村の仲間と相談をはじめた。
「くそぅ、イルクさえ改心してくれたなら、兵隊たちは目をつむってやるのだがな」
「ぼくは自分の意思で某国へ行くんだ!」 まるで陰口が聞こえたかのようにイルクが叫んだ。「みんなぼくのことは放っておいてくれ!」
「そんな訳に行くか! ファルノー村の人間が戦争をひどいものにしたとあっては、未来永劫肩身が狭い!」
「そんな心配は無用だ。ノーベルはスゥェーデンの人間だが、スウェーデン人の肩身が狭くなったりはしていないだろう?)
(イルクさんって、よほどノーベルが好きなのね) ブライディーは思った。(ご自分も魔術界のノーベルを目指しておられるのかも…)
 と、その時、一頭の牝鹿が別の岩陰からひょっこりと顔を出してイルクと大尉のほうに向かって走った。
「ポピー!」
「わざわざ捕まりに行くなんて…」
 ブライディーもカーンおじさんも、ファルノー村の面々もあっけに取られた。
「イルク、わたしと一緒に逃げて! 某国には行かないで!」
 牝鹿のポピーはすがるような目でイルクを見上げた。
「ポピー、おまえにはロンドンの『英国心霊協会』という立派な奉公先があるのだろう? ドイルとか言う偉いご主人もいるのだろう? そいつらの言うことを聞いて幸せに暮らせばいいだろう。ぼくはぼくの道を行く!」
「うううん…」 牝鹿は目を潤ませながらかぶりを振った。「…尊敬していたドイル様も、ただの『イギリス愛国者』だったの。『このことは本国に報告しなければ』とかおっしゃって… それはそれで当たり前だとは思うけれど」
「そうだろう。ファルノー村の人間はいまのところイギリスにも、某国にも恩も仇もない。 だから決めるのならいまのうちさ!」
 イルクは唇を歪めた。
「違うわ! いまのうちに手を引いて!」
「それはできない相談だ」
 大尉は空いていた網で牝鹿のポピーを捕らえた。
「おい、何をする!」
 イルクが大尉に詰め寄る。
「なぁに、心配ない。改めてここを無事に通るための算段さ。用が済めば逃がしてやる」
 牝鹿のポピーは網の中で暴れたが、もはや手遅れだった。
「さぁ、どういうことになったか、分かっただろう? 今度こそ道を通せ!」
 カーンおじさんをはじめ、ファルノー村の村人たちは仕方なくイルクと大尉と、兵士たちを横目で見送った。
「イルク、こんなことをしてどうなっても知らないぞ!」
「何とでも言えよ!」
 雪原に、「ワォーン」と狼の遠吠えが木霊した。
 皆がとっさに振り向くと、雪に覆われた崖の上で、一頭の狼が吠えていた。
「なにっ、ドイルだと?」
 大尉の顔色が変わった。
「皆さん、気を付けて下さい! ブライディーは叫んだ。「…村へ帰る途中、狼に変身したドイル様は、牝鹿のわたしを襲った上、おまけにまだ元の姿に戻れないんです! つまり、人の心を失ってしまわれていて、誰彼構わず襲いかかる恐れがあるんです」
「なんじゃと?」
 村人たちも兵士たちも、それぞれ相手に向けていた銃口を狼に向けた。
「イルク、これはどういうことだ?」
 大尉は疑いの目を向けた。
「いえ、ですからこれはその…」
「『獣に変身しても、人の心は失わず、任務などをつつがなく遂行できる』というのが、おまえが売り込みたがっている術のメリットではなかったのか?」
「ご、ごく稀に…」 イルクは作り笑いを浮かべてみたり、怯えてみたりをせわしなく繰り返した。「…上手く行かないことがあるのです。事故…そう、これは事故です!」
「何ですって! もしもドイル様が元に戻らなければ、決して許さないから!」
 網に捕らえられている牝鹿のポピーが言った。
「そんなことを言われても約束できない」
「ちょっと待て。そんな不安定な術に大金を払うほど我が国は気前が良くないぞ」
 大尉は獣のような恐ろしい顔になった。
「ですから、お国に行ってから、より完璧なものになるように改良しますので…」
 イルクは身振り手振りを交えて弁明にやっきだった。

「では尋ねるが、さきほど部下たちを狼に変身させてドイルたちが町に行くのを妨害した時、もしも万一、部下たちが正気を失ったらどうするつもりだったのだ?」
 大尉は拳を振りかざした。
「そ、それは… ですから滅多に起きないアクシデントでして…」
「その『滅多に起きないこと』がわたしの目の前で起きているではないか?」
 狼のドイルが、牝鹿のポピーを狙って、ぐるぐると回りを回りながら次第に間合いを詰めていた。
「大尉殿、奴はこの牝鹿が目的のようであります。これを逃がしてやれば、奴は獲物を追いかけて去るのでは?」
 副官が顔色を窺う。
「いいだろう。いまドイル狼に飛びかかられたら発砲するしかなく、そうなればここにいる全員が雪崩の下敷きだ」
「了解しました」
 副官が大きく頷くと、部下の兵士たちが網を解いた。
「さぁ、早く村人たちのほうへ行け!」
 しかし牝鹿は銃床でふさふさの尻尾の付いた尻を叩かれても立ち去らなかった。
「『自由にしてやる』と言っているのに分からないのか?」
 副官は軍用ナイフを取りだしてちらつかせた。
「嫌です!」
 ポピーは毅然として言った。
「ポピー、その人たちの気が変わらないうちに早くこちらへ! 貴女が意地を張っているとドイル様までが危ないの!」
 ブライディーに手招きされて、牝鹿はしぶしぶその場を離れた。
 黄昏が迫ろうとする淡い黄金色の光の中、牝鹿は次第に十代の女の子の姿に変わった。「おおー!」
 大尉と兵士たちからも、カーンをはじめとする村人たちのあいだからもどよめきが起きた。
「どうです、すごいでしょう?」
 イルクはすかさず大尉の耳に囁いた。
「ううむ、そのことはよく分かっているのだが…」
 ポピーはブライディーと抱き合った。
「ブライディーさん、ドイル様は本当に?」「そうなのよ…」
「カーンおじさん、ドイル様を…獣になったままの人を…元に戻す方法はないのですか?」
 ポピーは責めるように養父を見た。
「いや、夢から覚めれば、本人が目を覚まそうと意識すれば人間に戻るはずなじゃが…」 狼のドイルは相変わらずイルクと大尉と兵士たちの回りを点々と足跡を残しながら歩き回っていた。 兵士たちは銃剣を向けて防ぐ構えを見せていたものの、飛びかかられたら防御できるようには見えなかった。
「そうだ!」 大尉ははたと手を打った。「…この狼を、元の人間の姿に戻してみろ! そうすれば契約はそのままだ。しかし、戻せなければ、残念ながらこの話はなかったことに!」
「そ、そんな…」
 イルクは教師から難題を出された学生のように、傍目にも困惑し切った表情になった。「分かったわ!」 ブライディーはパッと顔を輝かせた。「…ドイル様はわざと人間に戻らないのよ! あれはお芝居で、イルクの術にケチをつけて、信用をなくさせる作戦なんだわ! 町へ電報を打ちに行けなかったから、責任を感じていらっしゃるんだ!」
「なるほど、でも危険じゃぞ」 カーンが言った。「…もしもあいつらが発砲したら… 撃たれたとき狼の姿をしていたら、後で文句を言う訳にもいかん…」
 イルクは狼と対峙した。
「こらっ、イギリス人、ぼくの邪魔をするな!」 ファルノー村の魔術師は居丈高に叫んだ。「…もうとっくに目は覚めているのにわざと戻らないんだろう? さっさと戻れ!」
「わたしが言いたいのもまさにそのことだ」 大尉はホルスターから愛用の拳銃を抜き、ゆっくりと狼の眉間に狙いを付けた。「…もしも変身の術を身につけた自軍の兵士が、裏切って脱走したり、反乱を起こしたりしたらどうすればいいのだ?」
「大変、ドイル様!」
「ブライディーさん危険です!」
 飛び出しかけたブライディーをポピーが抱き留めた。
「さぁ、どうしても元に戻せないと言うのなら、おまえが撃て! 誰か、イルク君に銃を貸してやれ」
 兵士の一人が銃を手渡した。
 イルクは小刻みに震えながら大尉に習って小銃の銃口を狼に向けた。
「…ドイルさん、でしったけ? 早く人の姿に戻って下さい! さもないと本当に撃ちますよ」
 指先が引き金にかかった。
 それがイルクの良心に訴えるための芝居なのか、それとも本当に正気を失って狼のままなのか、誰にも分からなかった。ただ、金色の瞳は、責めるように、狙うように、そして怒っているかのようにイルクの瞳を見上げていた。
「そ、それ以上近づくと、本当に撃つぞ!」 怯えるイルクを見てカーンが慌て始めた。
「まずい! 撃つと雪崩が起きるぞ!」

 イルクと某国の大尉と兵士たちと、ファルノー村の人々とブライディーにポピー、狼の姿をしたドイルの三者三すくみの状態が続いた。
「もう待てない! この話はなかったことに…」
 大尉はその鋭い視線で副官や兵士たちに目配せをした。
「も、もう少し待って下さい!」
 狼のドイルから目をそらせられないイルクは、へっぴり腰で後じさった。
「皆の衆、兵隊どもを逃すなよ! みんな捕まえて憲兵隊に突きだしてやるんじゃ!」
 カーンたちは獣用に持ってきた網を構えていきり立った。
「ふふふ、莫迦どもめ! まだ分からないのか?」
 大尉は眼鏡の縁を持ち上げて、何か呪文を唱え始めた。
 すると、大尉自身をはじめ、引き連れてきた十数名の兵士たちが全員、次第に石灰色の淡い光に包まれて変貌を始めた。
「こ、これは…」
 カーンも村人も思わず照準をはずして息を呑んだ。
「こんなのって…」
「まさか…」
 ブライディーもポピーもあっけにとられた。 だが、一番驚いたのはイルクだった。
「嘘だろう、まさか!」
 大尉と兵士たちは、みんなの見ている目前で、鷲のような、鷹のような、ハヤブサのような猛禽に変身し、バサバサと羽ばたいたかと思うと、ほぼ一斉に雪空めがけて舞い上がった。
 狼のドイルも呆然としていた。
「やめとけ! この状況ではわしらのほうが危ない!」
 鷲鷹の群れに向かって猟銃を撃とうとした村人をカーンが制した。
 鳥たちは上空で雁のような編隊を組み、二、三回旋回したのち、某国の方向へ飛び去った。「そんな… 信じられない!」
 イルクは動転を隠せない様子で、雪の上を右往左往し続けていた。
「…でも思えばあり得ることだったわ」 ブライディーはポピーを抱きしめながらつぶやいた。「…自分たちが鳥に変身できるから、イルクの話を疑わなかった。鳥になれる上にさらに獣にもなれたらもっといい、というふうに考えた…」
「お、おまえのせいだ、ドイル! 全部おまえのせいだ!」 ただ一人取り残され、置き去りにされたイルクは山のほうに向かって後じさりながらわめいた。「せっかくのいい話をぶち壊しにしやがって! もう少しで認められ、成功するところだったのに! 町に電報を打ちに行ったのを妨害されたのがそんなに腹が立ったか? こんなことになるのだったら、あの時、情けなどかけずに葬っておけば良かったな!」
「イルク、まだそんなことを!」
 イルクに駈け寄ろうとするポピーをブライディーが抱き留めた。
「覚えていろよ! この礼は必ず、必ずさせてもらうからな!」
 某国製の小銃を雪の上に投げ捨て、走り去るイルクの姿が次第にまたあのキマイラのような恐ろしい獣へと変わっていた。
「イルク、待て! これは神様の思し召し、よい機会。わしからバッラ長老に『今回のことはすべて水に流してもらうように』頼んでやるから、魔法を捨てて村で一緒に暮らそうではないか?」
 カーンは懸命に呼びかけた。
 が、獣は聞く耳を持たず、そのまま山小屋のほうに向かって駆け上がり、去った。
「嫌なこった! いまに見ていろよ!」
 と、捨てぜりふを残して…
 それを見届けると、狼のドイルもひらりと身を翻らせて何処へともなく去った。
「ドイル様!」
「ドイル殿!」
 メイドたちやカーンの叫びが空しく響いた。

 夕方から天候はまたまた模様になった。カーンおじさんと家に戻ったブライディーとポピーは、窓の外を不安げに眺めながら、帰ってこないドイルのことを心配していた。
「ドイル様… いちおう、だいたいのことは解決したと言うのに…」
「わたくしのせいかしら?」
 ポピーはうなだれ続けていた。
「そんなことはないわよ。ドイル様し大英帝国の人間として、貴女はこの国のこの村の一人として、当然のことをしただけなのだから…」
 ブライディーは自分よりほんの少し低い肩を優しく抱いた。
「…すまんな、雪が止んだら、また貴女に占ってもらって、村の者たちと一緒にドイルさんを捜しに行こう!」
 カーン叔父さんは鉄砲の手入れの手を休めて言った。
「さぁさぁ、きょうはわたしが後かたづけをするから、二人は休んで、休んで…」
 セツおばさんが言ってくれたとき、ブライディーは玄関の扉の近くに見覚えのある人影を見た。「ドイル様!」
 飛ぶように走っていって開けると、帽子と肩に雪を乗せたドイルが立っていた。
「ドイル様! 良かったです!」
 ブライディーもポピーも、ドイルのコートに抱きついた。

「ドイル様! 山では助けて頂いて有難うございました」
「『助けた』? わたしが?」
「えっ、覚えておられないのですか?」
 ブライディーとポピー、それに加わったカーンおじさんは互いに顔を見合わせた。
 ブライディーは手短かに、きょうあったことを説明した。
「そうか、全然覚えていないな」
 ドイルは呆然とした表情でつぶやいた。
「ええっ、本当に?」
 真顔で驚くポピーを、ブライディーは別室に連れ込んで耳打ちした。
「ポピー、ドイル様は後々のことを考えて、わざと何も知らないフリをしてとぼけておられるのかもしれないわ。狼がやったことだと、何も責任を取らなくていいし、問われたりもしないでしょう?」
「そ、そう言われればそうね。イルクや、あの大尉たちの術も凄かったけれど、思えばドイル様だってただ者じゃあないのですから…」
「さぁさぁ、そうと決まればもうこの話は終わりにして、夕食にしようじゃないか」
 カーンおじさんの言葉に頷くと、メイドさんたちはエプロンをしながら食堂に駆けていった。

「ねぇ、ポピー、貴女ロンドンに戻るの?」 その日も無事に過ぎて、湯たんぽにお湯を入れ、ベッドに入ったブライディーは、隣のベッドのポピーに話しかけた。「おじさんやおばさんたちは寂しがりはしないかしら? 貴女が里帰りしたことで、もうずっとここにいてくれる、と思っておられるのではないかしら?」
「いいえ、わたしはロンドンに戻ろうと思います」
 ポピーはきっぱりと言った。「このファルノー村は狭い世界だし、若いうちは広い世界を見たいんです。おじさんもおばさんも、わたしの年頃には町へ出稼ぎに出ていたし、許して下さると思います」
「そう… 帰る故郷のないわたしは、何かもったいないような気がするわ」
「ブライディーさんはここに来られてまだ一週間にもならないじゃあないですか。十日、二週間とたつ頃には、町の喧噪が懐かしくなって、それこそ獣や鳥にでもなって飛んで帰りたくなりますよ」
 ポピーはクスッと苦笑しつつ頭から毛布をかぶった。

 夜も更けた頃、「ワオーン、ワオーン」と悲しげな、寂しげな狼の鳴き声が響いた。
 遠く離れたところからではなく、家のすぐ近くから。
「イルクじゃないかしら? イルクが変身した獣…」
 ポピーとブライディーは飛び起き、ガウンを羽織ってランプを携え震えながらバルコニーへ出た。
 カーンおじさんは猟銃を、ドイルは拳銃を携えて出てきた。
 一同の視線の先、降り積もった雪の上には、全身たてがみに覆われたキマイラのような獣が怒りに全身を震わせ、オーラを舞い上げて立っていた。
「おのれ、ドイル! よくもさっきは邪魔をしてくれたな!」 獣はイルクの声でわめいた。「もう少しで… もう少しで長年の苦労が報われるところだったのに…」
「いや、イルク君、こんなふうに言ったらただの方便、言い訳に聞こえるかもしれないが、わたしにはその間の記憶がまるでないんだよ。 信じてくれなくても構わない。しかし本当に何も覚えていないんだよ」
 ドイルは穏やかに語りかけた。
「とぼけやがって! これだからイギリス人は嫌なんだ! ドイル、あんたは国に帰れば有名な推理小説作家で、卿の称号も近い大変裕福な人だそうじゃないか? ぼくも、もう少しでそうなれるはずのところだったんだ。 それをよくも邪魔してくれたな!」
「まだそんなことを言っているの、イルク? わたし、しつこい人は大嫌いよ」
 駈け寄ろうとしたポピーを、カーンおじさんが取り押さえた。
「うるさい! 他の者は見過ごせてもドイル、おまえだけは許せない。おまえが『狼になっていた時のことは覚えていない』と言い張るのなら、ぼくもいま、おまえを八つ裂きにして『知らない』と言い張ってやる!」
「イルク、言葉が過ぎるぞ!」
 カーンおじさんが空に向けて「バーン」と発射した。
 獣のイルクはヒラリと身を翻らせて銃弾をかわした。
「おじさんやめて!」
 ポピーが哀願した。
「わたしからもお願いします。どうやら幸いなことに恨まれているのは、わたしだけのようですから…」
 ドイルはゆっくりと前に出た。
「ドイル、狼に変身してみろ! 今宵も山小屋の前で、ぼくが編み出した薬草を燻してきた。眠るか目を閉じれば、この付近一帯の人間は獣に変身できるはずだ。それで決着をつけ、どちらが勝っても恨みっこなしにしよう!」
「分かった」
 軽く目を閉じたドイルが淡い白い光に包まれ始めた。
「ドイル様、やめてください!」
 ブライディーたちはドイルにすがって押しとどめた。

 かすかなランプの明かりの中、ドイルはまたあの淡い光に包まれながら狼に変身した。
 イルクが化けている獣は、それよりももっといろんなたてがみが付いていて物々しかったが、いまとなってはこけ脅しにしか見えず、さほど恐怖は感じなかった。
 が、野良犬同士のケンカもほとんど見たことがないブライディーとポピーは、戦いが始まる前から目をそらせていた。
「荒れくれの沖仲仕ならともかく、ロンドンを代表する一流人士のドイル様が、こんなことをしてはいけませんわ!」
 だが狼はもはや聞く耳を持たず、雪の上を歩一歩と弧を描くように回り込んだ。
 獣のイルクは、自分から挑戦してきた癖に、狼が間を詰めると、間隔を維持するように、同じように弧を描いて遠ざかった。
 両者の目は次第に爛々と赤いルビーのように輝き、人間の感じは消え去っていった。
「ウウッ! ウーッ!」 といううなり声が響き、鋭い牙が並んだ口元から涎がこぼれて雪の上に落ちた。
 二匹がまさに雪を蹴って飛びかかろうとしたちょうどその時、バサバサバサと羽音がして、雪夜空に大人くらいのかなり大きな鷲か鷹のような猛禽の鳥の影がいくつも浮かび上がった。
「な、なんだ!」
 カーンおじさんも、セツおばさんも、ブライディーもポピーも意表を突かれてポカンと上空を見上げた。
「昼間の大尉たちだ、一体何だろう?」
 カーンは一応銃口を空に向けかけた。
「彼らも意趣返しでしょうか?」
 ブライディーはさらに身を固くした。
「彼らはれっきとした職業軍人でしょう? 上からの命令なしに勝手な行動は出来ないし、某国の参謀部は、たとえ成功しても大して意味のない復讐なんか許可したりしないのでは…」
 と、ポピー。
 狼のドイルも、獣のイルクも一瞬あっけに取られて舌をダランと垂らしながら凍り付いた。
 その隙に鷲鷹たちは一斉に急降下し、狼と獣、カーンおじさんやブライディーやポピーたちのあいだをかすめるように飛び交った。 あまりに突然のことに、カーンも今度は鉄砲を撃つ間がなかった。
「キャーッ!」
 気が付くとブライディーは猛禽の脚に捕まえられ、真っ暗な空へと連れ去られた。
「ブライディー!」
 あまりのことに、すぐに人の姿に戻ったドイルが叫んだ。
「ドイルさまー!」
 空からはメイドさんの叫び声が返ってきた。「大尉殿、どうして?」
 気が抜けたようにスーッと人の姿に戻ったイルクが、すがる目で夜空を仰いだ。
 けれど大尉も部下の兵士たちが変身した鷲鷹は何も答えず、地上の者たちを無視し、二三回旋回したかと思うとそのまま某国の方向に飛び去った。
「どうして… どうしてぼくじゃなくてあの子なんだ?」
 イルクは呆然としてつぶやいた。
「きっと君より価値があると思って作戦を変更したんだろうね」 ドイルが他人事みたいに言った。「…変身できる者は少なくない。 ファルノー村の人たち、それに大尉をはじめ某国の魔法部隊の精鋭たちもあのように鳥になれる。だが、行方不明の者がいまどこにいるか、目の前の捕虜が本当に味方の捕虜なのか、ピタリと占いで当てられる超能力者は数が少なく、もっと貴重だということだろう」
「ドイル様、ブライディーさんの命は?」
 カーンおじさんとセツおばさんがポピーを抱きしめながら尋ねた。
「殺されるようなことはないでしょう。ひどい目に遭わされることも。大尉たちの目的は彼女の占い能力でしょうから…」
「攫われたのなら、取り戻しに行きましょう!」
 カーンおじさんは猟銃を背中に掛け直して言った。
「ええ、もちろんです。…しかし、どこに攫われていったものやら… 人の居場所を百発百中で探し出せるブライディー。でもその本人が拉致されとあっては…」
「大丈夫です。ブライディーさんのような能力はありませんが、我々も超能力者です。相手もそうなのでしょうが、我々もそうなのです。何とかできないはずはありません。バッラ長老にお願いして村の者全員に非常招集をかけてもらいましょう」
「しかし、皆さんの迷惑では?」
「何を水くさいことを!」 セツおばさんがニコニコして言った。「あなたがたはポピーとわたしたちのために、実にいろいろして下さったではありませんか?」
「イルク、おまえも協力するな?」
 カーンが詰め寄った。
「イルク、断ったら承知しないわよ!」
 ポピーも眉を吊り上げた。
「は、はい、分かりました。分かっていますとも!」
 冴え冴えとして雪がちらつく夜空に、村の教会の鐘の音がキーンコーン、キーンコーンと響き渡った。

 大尉と部下が変身した鷲鷹は、山の反対側の某国の二、三棟かの見張り小屋の前でブライディーを降ろすと、元の兵士たちの姿に戻った。
「大尉殿、よかったですね。鳥は当然夜は目が見えません。それなのに無理して飛んで、魔力の消耗が大きかったです」
 部下は息を切らせながら言った。
「うむ、上手くやつらの争いに乗じることができて幸運だった。こんな派手な立ち回りは、昼間はとてもできないし、かと言って機会を窺いゆっくりしていれば、ロンドンに帰ってしまうかもしれなかったしな。…ご苦労だった。おまえたちは下がって休め」
 部下たちは敬礼を返して兵士用の小屋へ入っていった。
「さてと、ブライディーさん、乱暴な真似をしてすみませんでした」
 起こすのを手伝おうと伸ばされた手を、ブライディーはビシャリと払いのけ、ガウンの前をかき合わせながら自分で立ち上がった。
「何をなさるのですか? 某国のことは、学問も技術も芸術も素晴らしい立派なお国だと尊敬していましたのに、こんな野蛮にことをなさるのですか? 早く元の、ファルノー村に帰してください!」
「とりあえず、家の中に入りませんか? こんなところで立ち話をしていたら風邪を引きますよ。それでなくても、吹雪の空を寝間着姿で飛んできたのですからな」
 ブラディーは仕方なく、憮然としてストーブが燃えているものの、机と二、三脚の椅子があるだけの殺風景な小屋の中に入った。
「どうぞお座り下さい」
 大尉はストーブの前の椅子を勧め、メイドさんは渋々浅く掛けたが、大尉は立ったままだった。
「単刀直入に申し上げます。貴女、お金は欲しくありませんか? 大切に使えば一生働かなくても暮らせるくらいの大金です。我々のために、時おり、敵軍がどのように配置されているか、その陣容は、とか、開戦を仕掛けるならばいつどのような戦法がよいかとか、逆に敵が奇襲してくる恐れはないか、やってくるとすればいつどんなふうに、といったことを占って頂ければ助かるのですが…」
「お断りします!」 ブライディーは即座に言った。「何であれ、敵国の戦争に協力することなんか…」
「『敵国』?」 大尉はかすかに唇を歪めた。
「…ブライディーさん、我々の調査によると、貴女はアイルランド人なのではありませんか?」
「何時の間にそんなことまで… 失礼ですわ」
「アイルランドは数百年ものあいだイギリスに支配抑圧され、ひどい目に遭わされてきている。もしも我々の国がイギリスと戦争して大勝利を納め、大英帝国が崩壊すれば、植民地は独立できるかもしれないのではありませんか? もちろん、アイルランドも」
 メイドさんはハッとした。
「貴女の同郷のお友達や知り合いで、独立運動をされているかたはいませんか? お金があれば、そのかたたちの支援もできるのではありませんか? そもそも、貴女ご自身は、アイルランドがイギリス植民地で搾取され続けていることをどう考えておられるのですか?」
(「お兄ちゃん」…)
 アメリカに出稼ぎに行っている「お兄ちゃん」のことを思い出した。
「どうです。ご返事はいますぐでなくても結構。ゆっくり考えてください。けれども、誠に遺憾ながらこのような形でお連れした以上、お帰り頂く訳には参りません。どうか今夜はこの小屋でお休みください。小官は兵士たちの小屋で眠ります」
 大尉はそう言って外へ出て行った。
 しばらくしてからブライディーは扉や窓を開けようと試みたが、どこも外から閂が掛けられていた。
 ストーブの火を使って火事を起こして脱出する、というのは考えられたが、大尉を怒らせるのは賢明ではない気がした。
(第一逃げ出すのに成功しても、外はこの雪、帰り着くまでに凍死してしまうわ。牝鹿に変身しても本物の狼に喰い殺されるのが関の山… それにしても何か使えるものはないかしら?)
 部屋の中を調べて見ると、まだ挽いていないビザンチウム産のアラビア・コーヒーの豆が入ったブリキの缶があった。
 豆を何粒か取り出し、心を静め、机の上に投げ、散らばりかたを見て占った。
 じっと眺めていると豆の一粒一粒が狼に変身して、ここに向かって雪の夜道を疾走してくるドイルやカーンおじさんに見えた。牝鹿に変身したポピーもいた。イルクも獣の姿で嫌々続いていた。
(ドイル様、ポピー、皆様…)
 ブライディーは胸が熱くなった。
(でもどうしましょう? ここに助けに来て頂いたとして、また争いになってしまうわ。 雪が降り積もっているから撃ち合いにはならないでしょうけれど、獣と猛禽同士、もっと恐ろしい争いになったら…)
 心は焦りに焦るものの、よい考えは浮かばなかった。
 ノックの音とともに大尉の声がした。
「ブライディーさん、起きておられますか?」
「ええ」
「言い忘れていたことがあります」

「なんでしょうか?」
 メイドさんは(どうせまた脅しかすかしだろう)と幻滅していた。
 けれど、再び小屋の中に入った大尉は、明々と燃えるストーブに目を落とし、何か語りかけてはやめ、切り出しにくそうな様子だった。
「どのようなことでしょうか?」
 もう一度言うと、大尉は軍帽のひさしの下の眉間に皺をよせて、ゆっくりと語り始めた。
「貴女は、イギリスのとある貴族のご息女で、ヴァイオレット姫という人のことを知っているか聞いたことはないでしょうか?」
 ブライディーの顔から少し血の気が引いた。
(…もしや、わたくしがダブリンとロンドンでしばらくお仕えしていたウォーターフォード男爵令嬢のフィオナ様の親友で、フィオナ様よりももっと身分の高いオクタヴィア姫様。そのオクタヴィア姫様の妹で、早くに亡くされたご両親を甦らそうと魔術にはまり、少女の頃に行方不明になって、警察などが必死で捜索したのにもかかわらず見つからず終いのヴァイオレット姫様のことでは?)
「ご存じなのですね?」
 大尉は一転して鋭い眼でメイドさんの顔を覗き込んだ。
「えっ、いえ、数年前に、連日のように新聞で報道された、行方知れずになったお姫様のことですね?」
「ドイルを見習って同じようにとぼけてはいけない、ブライディーさん」 大尉は火掻き棒を取り上げた。「小官も多少の魔法が使えるのですよ」
 ストーブの蓋を開いて石炭を継ぎ足し、カチャーンと音を立てて蓋を閉めた。
(ヴァイオレットさんのことは「例えどんな些細な手掛かりでも良いから教えて欲しい」と、オクタヴィア姫様たちから頼まれている。もしも大尉が何かを知っているなら、何とか聞き出さないと…)
「ヴァイオレット姫さまは、いまどこに?」
「わたしの国にいらっしゃいますよ」
 大尉はいともあっさりと答えた。
「ヴァイオレット様が、某国に…」
 ある程度予想していたものの、驚きだった。
「そう意外でもあるまい。現在のイギリス王室初代のジョージ一世陛下は我が国のハノーヴァーのご出身であり、英語は話せなかった。イギリスの魔術魔法も有名ではあるが、我が国もヨーロッパのほぼ中央にあり、いかなる学問を修めるにも有利な地理的位置にある。…どうだろう、我々の先ほどの提案を受け入れてくれたなら、行く行くはヴァイオレット様とも会わせてさしあげようかと思うのだが…」
 ブライディーは思わず大尉の端正な顔を見つめた。
(ヴァイオレット様の消息が聞けたら、オクタヴィア姫様たちはどんなにお喜びになられることでしょう! わたしも、もし出来ることなら、ドイル様がやろうとされたように町まで電報を打ちに行きたいところだわ。でも、やはり自分の目で確かめないことには嘘かもしれないし… 大英帝国のほうはともかく、ドイル様たちを裏切る訳にはいかないし…)
「…ヴァイオレット様は、貴男のお国でどんな魔法を学ばれているのでしょうか? やはり、亡くなられたご両親を復活させるための魔法でしょうか?」
「小官もそこまでは知らない。本当だ」
 大尉は口ごもった。
「ヴァイオレット様も、占いを?」
「そうだな。『遠くない将来、大きな戦争がつづけさまに二つ起きる』と予言している」
「えっ!」
「『当たるも八卦、当たらぬも八卦』というところだ。特に二つ目の戦争は全世界を巻き込んで、何千万人という人が亡くなるそうだ。…こんな占い当たって欲しくないが、備えておくに越したことはないだろう。ブライディーさん、貴女も他人事ではありませんよ。もっとも、その頃には貴女もお婆さんになっておられるでしょうがね」
(確かにわたしは老い先短くなっているでしょうけれど…) メイドさんは思った。(『お兄ちゃん』と子供がたくさんいる賑やかな家庭を築くつもりなのに… その子供たちや孫たちが…)
 頬が火照り出したが、それはストーブの熱のせいだけではなかった。
(大尉の条件を飲んで、ドイル様たちを裏切ったふりをして、某国に潜入すれば、確かめる機会もあるのでしょうけれど…)
「…まぁ、ゆっくり考えて欲しい。夜も遅いのに邪魔をしてすまなかった」
 大尉はそう言って出て行った。カチリと外から閂を降ろす音がした。
(でも、とりあえずわたしを助けようとこちらに向かっているドイル様やカーンさんたち、ポピーを危険にさらすことはできないわ。みんなが到着したら、今度こそ撃ち合いになってしまうでしょう。だから、その前に、何とかわたしがここから逃げ出さないと。…それも火事とか起こさずに… 何かないかしら?)
 小屋の中を見回すと、壁の下のほうの床に接するあたりに、丸くネズミの穴があった。
(ネズミ… そう、ネズミに変身できないものかしら? ファルノー村の人々は狼と牝鹿に、大尉たちは鷲鷹に変身できるのだから、他のものになることができれば…)
 ブライディーは質素な軍用の折りたたみベッドに潜り込んで、懸命に眠ろうと試みた。

 目を覚ました時、メイドさんは小さな白いネズミになっていた。
(よかった、ドブネズミじゃなくて) それが最初の思いだった。(ドブネズミだったら、ドイル様やポピーや皆様に嫌われたかもしれなかった… 例え一時のことだとしても、思い出されると悲しいもの…)
 すぐにでも壁の穴をくぐって逃げだそうと思ったものの、大尉の木製の書き物机に鍵のかかった引き出しがあったことが気に掛かった。
(もしかしたら、引き出しの中の書類に、ヴァイオレット姫様の消息に関する書類があるのではないかしら? 持ち出すことが無理でも、読むことができたなら…)
 引き出しの桟に駆け上がったネズミのブライディーは側面に歯を立ててみた。そこはベニヤ板に近い薄っぺらい板でできていて、簡単にかじって破ることができた。
 外から近づく気配がないか耳を澄ませながら、自分がくぐれるほどの穴を開けて中に潜り込んだ。
 そこには確かに大切そうな書類の束があった。が、口でくわえてページをめくって見ると、全部アルファベットと数字を組み合わせた暗号で書かれていた。
(…そうよね。本当の本当に大切なものがある部屋に捕虜を閉じこめておいたりするはずがないわよね)
 諦めてすぐに逃げようと思ったものの、
(骨折り損のくたびれ儲けというのも…)
 と考え直し、暗号文書のごく一部をかじって破り取って口にくわえた。
(どんな暗号でも、ドイル様なら解読してくださるかもしれない…)
 ネズミは小屋を出ると、まっしぐらに山を下り、こちらに獣の姿で救援に向かっているドイルたちと合流しようとした。

「うん?」
 今夜を最後に司令部に引き返そう、ということで蚕棚ベッドの兵士たちと軍服姿で仮眠を取っていた大尉は、さすがに魔術師独特の勘で、ブライディーを閉じこめていた小屋に異変が起きたことを感じ取った。
 飛び起きて再び扉をノックした。
「ブライディーさん、ブライディーさん、失礼しますよ」
 扉を開けて中に入ると、ベッドはもぬけのからで、引き出しの側面が食い破られているのを見つけた。
「しまった! うかつだった!」
 ポケットの鍵で開け、書類を確かめた大尉の顔が見る見る蒼白になった。
「な、なんということだ。破り取られたのはごくごく一部だと言うのに、最も極秘の部分が持ち去られている! …恐るべし占い少女!」
「どうかなさいましたか、大尉殿」
 気配を察した副官がやってきた。
「…なぁに、大丈夫ですよ、大尉殿。わが国のの暗号は鉄壁です。これまで幾度か暗号文が敵国の手に落ちていますが、諸外国の暗号解読部の力をもってしてもいまだに解読はされていません」
「だが…」 大尉は歯がみしながら言った。「ブライディーとドイルが解こうと試みたら… 何より不安なのは、よりによって機密の核心部分が…」
「そ、それは大変かもしれません…」
 副官の顔色も変わった。
「皆を起こせ! ただちに追跡する! ブライディーを捕らえる計画は断念し、抹殺に変更する! 彼女もしくは彼女が変身していると思われる獣を見つけ次第殺せ!」

 冬のアルプスの夜は、テンやイタチなど夜行性の肉食動物がうろうろしている。白ネズミからすぐに少女の姿に戻ったブライディーは、紙片をポケットにしまうと雪道を急いだ。 幸いなことに雪も風も止み、月と星が輝いていた。
 しばらく行くと、じきに狼と牝鹿が入り交じった実に不思議な獣の集団と出会った。
「皆さん!」
「ブライディー! 自分で逃げ出してきたんだね」
 淡い光に包まれた獣たちは、ゆっくりと人の姿に戻った。
「ドイル様!」
 メイドさんはドイルの胸に飛び込んだ。
「よかった!」
「よかったわね!」
 ポピーは飛び上がった。カーンおじさんやセツおばさんたちも「うんうん」と頷いていた。
「ぐずぐずしていちゃあだめだ。彼らを甘く見ちゃあいれない。必ず追いかけてくる!」
 イルクは辺りをキョロキョロと見渡した。「イルクの言う通りだ。急ごう! もう一度獣に変身して、ファルノー村に帰ろう!」
 カーンおじさんが狼に戻ったのに続いて、みんなが再び獣の姿になった。
 そこへ、鷲鷹の姿の大尉や兵士たちが濃い藍色の夜空に、羽ばたく黒い斑点となって現れた。
 鳥たちは「ギャーッ! ギャーッ!」と叫び続けた。ゴゴゴ…と雪の大地が揺れ始めた。「しまった! 連中はわれわれ全員を生き埋めにするつもりだ」
 懸命に駆けながら狼のドイルが言った。
「でも、昼間の態度と違いますね」
 牝鹿のポピーが小首をかしげた。
「わたしのせいかもしれません…」 牝鹿のブライディーが囁いた。「…彼らの秘密書類の一部を盗んできたんです!」

「何だって!」
 狼のドイルが表情を引きつらせた。
「それは余計なことをしたんじゃないのかい?」
 牝鹿のセツおばさんも心配そうに言った。
「かなり前に知り合いからあるかたの消息を調べてもらえないかと頼まれていて、占いでは『ヨーロッパの真ん中あたりのどこか』としか分からなかったのですが、偶然大尉がそのかたのことを話されて…」
「それはオクタヴィア姫の妹のヴァイオレットさんのことか?」
 ドイルが重ねて尋ねた。
「ええ、そうです」
 坂の上の雪がズズズズ…と滑り出したかと思うと、滝のように流れ落ちてきた。
「追いつかれる! だめか…」
 みんなが諦めかけたとき、人の姿に戻ったイルクが雪崩に向かって呪文を唱え始めた。 すると、雪崩の勢いは次第に勢いを削がれ、次第にゆっくりとなってみんなのすぐ手前で完全に凍り付いて止まった。
「イルク、凄いじゃないか!」
「イルクさん、有難うございます」
 ドイルやカーン、ブライディーやポピーたちも人間の姿に戻って目を見張った。
「ヘッ、ぼくはこれでも魔導師ですからね。 これくらいの攻撃は何とか防ぐことができますよ」
 イルクは初めて少し胸を反らせた。
「おのれイルク、裏切るのか?」
 鷲鷹の姿の大尉が空から叫んだ。
「貴官たちこそぼくを見限ったじゃないか!」
 猛禽たちはしばらく上空で弧を描いていたが、急降下して食いつくこうとしても、また狼の姿になって反撃されると判断したのか、諦めて帰っていった。

「うちの若いもんが先に町まで行って、至急国境警隊の兵隊さんを何人か駐屯させてもらうように電報を打ってきた。『ただちに派遣するように手配した』との返電ももらったから、もう奴らがやってきても安心じゃろう」 カーンおじさんの家にやってきたバッラ長老がひげを撫でさすりながら言った。
「ポピー、本当にまたロンドンに戻ってしまうのかねぇ?」
 セツおばさんは目にうっすらと涙を浮かべながら尋ねた。
「ごめんなさい、おばさん。でもわたし、もっといろんなことが知りたくて…」
「いいんだよ、ポピー」 カーンおじさんはパイプをふかしながら頷いた。「わしらも若い頃は長いこと町で働いていたんだ。このたびは帰ってきてくれて、謎を解いてくれて有難う」
「もうやたらと山のてっぺんで変な薬草をいぶしたりしてはダメよ、イルク!」
 ポピーは目を吊り上げた。
「ぼくが悪かったよ、ポピー。あんなのだったら、仮に某国へ行って大尉たちに協力しても、用が済んだら秘密を守るために殺されてしまっていたかもしれない…」
「どう、イルク、わたしと一緒にロンドンで働いてみない? 新しい世界が開けるわよ」「そ、そうだね。真剣に考えておくよ」
「ポピー、ロンドンでは親切な人たちに囲まれて幸せそうだけれども、帰ってきたくなったらいつでも…」
 セツおばさんはハンカチで目頭を拭った。「ええ、おばさん。それじゃあ…」
 荷物が積まれた馬橇にポピーとドイルが乗り込んだ。御者台にはイルクが座った。
「さんざん迷惑をかけたお詫びに町まで送って行くよ」
「それくらい当然よ」
 ポピーが頬を膨らませた。
「いろいろ有難うございました」
 ブライディーは長老やカーンおじさんやセツおばさんに深々と頭を下げた。
「ブライディーさん、また遊びに来てくださいね」
 セツおばさんはメイドさんの手を取って握った。
(太くて荒れててごつごつしているけれど、とても暖かい手…)
 思わず幼い頃に亡くなった母のことを思い出し、別れの寂しさもあって涙がこぼれた。「ええ、ポピーと一緒にまたきっと…」
「そろそろ汽車の時間が… この雪でそんなにきっちりには来ないとは思うけれど」
 イルクが急かした。
「さようなら」
「おじさん、おばさん、仕送りするね」
 ポピーが元気な声で叫んだ。
「無理をしなくていいんだよ。遊びたい盛りだろうに…」
「失礼します」
 ドイルが会釈すると、馬に軽く鞭が当たった。シャンシャンと鈴の音を響かせて橇が滑り出した。ファルノー村の人たちは、橇が雪の中の黒い点となり、やがてそれが見えなくなるまで手を振り続けてくれていた。

「…これが大尉さんが持っていた某国の機密暗号文書の切れ端です」
 汽車のコンパートメントの中で、ブライディーはドイルに紙片を渡した。
「ふうむ…」 しばらくそれを眺めていたドイルが長い溜息をついた。「…イギリスの暗号解読部の専門家たちが束になってもなかなか解けない暗号だ。いくらぼくや君でもそう簡単には解読できないだろう。…どうだろう。ぼくを信用して預けてくれないか? 写しもちゃんととっておくよ」
「ええ、よろしくお願いします。それでは、わたしたちは二等車に下がらせて頂きます」 メイドさんたちは車窓を流れる雪景色を眺めながら微笑んだ。


     (次のエピソードに続く)





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