ブライディー・ザ・マジックメイド ショート・ショート「デイジーの帰還」に続いて 「ブラウナウの少年」 デイジーの帰還 「おはようブライディーさん」 ロンドン、一九九六年のクリスマスを控えた冬の朝、茶色の髪の小さなメイドさんが自分たちの朝食であるパンやジャム、紅茶のポットをメイド部屋の食卓にてきぱきと並べながら言った。 「おはようデイジー」 暖炉に石炭を継ぎ足していた五つ六つ年上のメイドさんはハッと振り返った 「デイジー、貴女いつ帰ってきたの? 活劇小説本の中の世界にいたんじゃあないの?」 「えへへ、急に帰りたくなって帰ってきちゃったの」 髪の毛をぽりぽりと照れくさそうに掻きながら、デイジーは自分の椅子にちょこんと腰を下ろした。 まるで長いあいだ行方しれずだったネコがひょっこり帰ってきた…しかもそんなに痩せていたりやつれていたりせず…そんな感じだった。 「よかった! で、もう本の世界には戻らないの? コッペリアさんや紅梅さんたちにはちゃんとご挨拶してきたの?」 大きなメイドさんはデイジーの肩を抱きしめて目を潤ませた。 「…もちろんちゃんとお礼を申し上げて… よほどのことがない限り、もう戻らないと思うわ」 「そうよね、人間地道に真面目に暮らすのが一番よね。お義母さんのところへは?」 「もう行ってきたよ。これからは以前と同じように、お義母さんのアパートからここに通わせてもらうわ」 デイジーはパンにジャムを塗りたくり、パクパク食べながら言った。 「お義母さんも喜んでおられたでしょう」 「ええ」 遅番で少し遅れて起きてきたポピーもびっくりし、喜んだけれども、デイジーが自分が食べ終わった食器を持って台所に下がった時にブライディーの耳に囁いた。 「ブライディーさん、おかしいとは思われませんか?」 「『おかしい』とは?」 「デイジーさんのことですよ。手紙などの事前の連絡がなく、突然帰ってきて…」 「あの子はまだ小さいから、急に活劇小説本の世界に飽きたんじゃあないかしら? それに前々から多分に気まぐれなところもあったし…」 「それにしても変だとは思いませんか?」 「ポピー、それはどういう意味?」 「アルプスのファルノー村では、わたしたちは某国のリヒター大尉から暗号文書の一部を盗み出して、恥をかかせてしまいました。大尉は某国の魔法部隊の将校。仲間に復讐と切れ端の奪還を頼んだのでは?」 「すると、あのデイジーはニセモノと?」 「占ってみたほうがよろしいのでは?」 ポピーはさらに声を潜めた。 「嫌だわポピー、わたし、そんなこと占いたくはないわ。それに暗号文書はドイル様がイギリス軍情報部に提出されたし、すでに写しもいっぱい作られていて『奪還』なんかは意味がなくなっていると思うわ」 「それはそうでしょうけれども、とにかく用心されたほうがいいと思います」 やがて日が昇り、十時のお茶の頃にはドイルがたまった用事をしに協会にやってきた。 「おや、デイジー、良かったねぇ」 「ドイル様、ご心配をおかけしてすみませんでした」 ほどなく、冬休みでケンブリッジから帰省中のアレイスター・クロウリーや、ソーホー街で滅多に客の来ないアラビア語書籍の古本屋をやっているサダルメリク・アルハザードや、日本からの留学生である安倍薫たちもやってきたが、みんな一様にデイジーの帰還に驚き、喜んだ。が、ポピーが抱いたような疑いの色をあからさまにする者はいなかった 「皆さん、その節はお騒がせしました」 「いや、いいんだよ」 ドイルは目を細めながらパイプをふかした。「『本の中』なんて言うから奇異な感じがするけれど、遠い外国へ行ったきりだった者がフラリと故郷に帰ってくることなんかはよくあることさ」 「そうそう、例えばぼくが次のリヴァプール発横浜行きの船で日本に帰ったとすると、主に京都にいるぼくの知り合いは『おお、安倍君、どういう風の吹き回しだい? ロンドンはどうだった?』とか言って驚きながらも懐かしがって迎えてくれるのと同じに…」 安倍は日本へのクリスマス・カードの宛先を書きながら言った。英語の住所の下に併記されていく漢字が、エキゾチックだった。 「ぼくが英領イエメンのサナアに帰ってもそうさ」 サダルメリクは一人特別に淹れてもらったコーヒーを啜りながら言った。「…いまとなっては知り合いも少なくなってしまったし…」 「ねぇねぇ、サダルメリク君、サナアってどんなところなのかな? もちろん砂漠ということは知っているけれど」 「ロンドンのアパートと同じように、六、七階立ての高層アパートが建っているよ。一階は家畜小屋、二階は家畜の飼料、三階以上が人が住む場所で、男性が住む階と女性が住む階は分かれている。それぞれの家の屋上が渡り廊下でつながっているのは、敵が攻めてきたときのためだ、と言われているよ。建物は下ほど分厚い、上に行くほど薄い日干し煉瓦を積み上げて出来ている。地震も時々あるけれど、不思議な免震構造になっていて、滅多に壊れないんだ」 以前は面白い話を聞いても聞き流してすぐに忘れてしまっていたデイジーは、瞳を輝かせて聞き入っていた。 「ねぇ、ブライディーさん、くどいようですけどおかしいとは思いませんか?」 台所の陰でポピーが囁いた。「デイジーさんはサダルメリクさんと親しくて、以前もサナアの写真などを見せてもらっていたはずです。それに、こう申し上げては何ですが、デイジーさんは一般教養的な話はあまり好きではなく、前はそういう話にはあまり耳を傾けなかったような気がするのですが…」 「そぉ? でもさっきパンにジャムを塗って食べている様子はデイジーらしかったわよ」「持っている情報と、持っていない情報があるのでは、と…」 ポピーはさらに少し眉を吊り上げた。 「そうかなぁ… でも、名だたる魔導師のかたが三人と、加えてドイル様までいらっしゃるのに、ニセモノだったら即座に見破られるような気もするけれど…」 「もしや、魔女になられたヴァイオレット姫様が、変装の術を使ってじきじきにこちらの様子を見に来られているのでは?」 「まさか…」 応接間では歓談が続いていた。 「時にデイジーちゃん、『活劇小説本の中の世界』はどうだった?」 アレイスターが尋ねた。 「面白かったわ。でも、現実の世界と一緒で、約束事はいっぱいあるの。にしても、コッペリアさんの魔法って、本当に凄いと思うわ」「そうだね。海の向こうのパリではルミエール兄弟が動く写真…活動写真…映画を発明したそうだが、遠くない未来、人間のお客が…演じている人、俳優とは別に…映画の中に入り込んで楽しむ仕掛けと言うか、遊園地のようなものができるかも知れないね」 「えーっ、本当ですか? それはまたスゴいです! でも入場料が高かったら、あたしは行かないかもしれません」 後かたづけの際、デイジーは早速ティーカップを一つ、手を滑らせて割った。が、セッケンのせいにして謝らなかった。 「ああ良かった、やっぱり元のデイジーよ」 ブライディーはホッと胸を撫で下ろした。 デイジーが帰ってきてから数日が、何事もなく過ぎた。ポピーがしつこく言うように、確かに以前とは変わった点もあった。 その一つが、「心霊研究協会」の共同の書斎や、書庫を入念に掃除する癖が付いたことだった。前は丸く雑にホウキをかけ、雑巾掛けも適当、ハタキもいい加減だったものが、ゆっくりと時間を掛けるようになった。 (喜んでいいものやら、疑っていいものやら…) ブライディーがこっそりと覗くと、デイジーはホウキを持って立ったまま、本箱の本を読んでいた。ブライディーは、デイジーが通俗小説以外の本を読んでいるところを見たのは初めてだった。 そこは確かに「魔法関係」の棚だった。 「デイジー、何を読んでいるの?」 呼びかけると、小さなメイドさんはあわてて本を閉じ、元の場所に戻した。 「ああ、お姉ちゃん、サボってごめんなさい。…お姉ちゃんにいろんなことを占う力があるように、あたしにもよその世界との扉を開く力があるでしょう? それに磨きをかけようかな、って思って…」 「そう、それだったらいいんだけれど…」 (「前は難しい本なんかまったく読まなかったから」)と続けかけて言葉を飲み込んだ。 「えっ、怒らないの?」 「わたしも本がいっぱいあるところを片づけたり、お掃除をしていたりすると、思わず興味のある本を開いて読んでしまったりするから…」 「お姉ちゃんは元々から本が好きだからね」 声は明るかったけれども、なぜか心の底には暗い気持ちがこもっているような気がした。(目の前にいるのは本物のデイジーだけれども、本の中の世界の誰か…コッペリアさんか誰かに、何かを言われたんじゃあないかしら?) ポピーほどではないけれど、大きなメイドさんはふとそんなことを考えた。 (もしも魔法のことで何か知りたいことがあるのなら、三人の魔導師さんたちにお訊きすればよかったのに… 現にきのう、お三かたとも揃っているところに居合わせていたのに… 表だって尋ねられないことかしら? だったら少し心配だわ) 「そうですね。何者かに何事かを脅かされているか、口止めをされているのかもしれませんね」 いつものように一日が終わってベッドに入る前、ポピーは髪をほぐしながら言った。「ポピーさんはどのような本を読んでおられたのですか?」 「ポピーが帰った後、ドイル様にお断りして一晩お借りしたんだけれど…」 ブライディーは一冊の魔法の本を取り出した。その表紙には「魔術と呪術」と書かれていたが、稀覯書という訳ではなく、どちらかと言うと入門書だった。 「ざっと読んで見たのだけれど、心当たりがある箇所と言えば…」 押し花の栞が挟まれた場所を開くと、そこにはこう書かれていた。 『…魔導師が帰るべき家を離れて、外国なり他の世界に居ついたり、長い旅をして回っていたりすると、その留守の間に、別の、本人よりもより高度な術を持った魔術師がその者になりすまし、悪事を成し、その罪を本人になすりつけることがある。これを防ぐためには、実家を映す鏡などがよく使われる… 伝説や物語などでは『本人を殺してなりすます』ことが多いが、なりすます術者のプライドが非常に高い場合や、自分のアイデンティティーが完全に消え去ってしまうのが嫌な時などには、殺してしまわずに、用済みになったら元の自分に戻り、犯した罪を本人になすりつける…』 「でもですねぇ…」 ポピーは大きく首をかしげた。「本人を殺してしまわずになりすまそうとすると、本人と鉢合わせしないように気を遣わねばならならいのでは?」 「だから…」 ブライディーは本をパラパラとめくって別の箇所を開いた。 『高次の術者なら、離れたところから催眠波で本人の意識の中に入り込んで遠隔操縦することも可能である』 「催眠術で何者かに意識を乗っ取られそうなのだったら、どうしてデイジーさんはわたしたちにそのことを訴えないのでしょうか?」 ポピーは重ねて尋ねた。 「それは、何か事情があるのよ。弱みを握られているとか、脅かされているとか…」 「だとすれば何とかしてあげないといけませんね。で、相手がデイジーさんを操ろうとする目的は何でしょうか? やはり…」 「わたしがアルプスから持ち帰ってきた暗号文書の切れ端にまつわることかしら?」 「ねぇお姉ちゃん、お姉ちゃんのタロット・カード占いはとてもよく当たるけれど、どう、あたしの未来の運命をもう一度じっくりと占ってくれないかな?」 玄関のクリスマス・ツリーの飾り付けをしながらデイジーが言った。 「いいけれど、人の運命はそんなに再々占うものじゃあないのよ。以前占ってあげた時、『未来は明るい、お金を儲けて将来は小さなアパートのオーナーになれる』って出たじゃない?」 ブライディーは脚立の上に乗って樅の木に金や銀のモールを巻き付けながら言った。「それとも以前は断った『恋占い』の依頼かなぁ?」 「うううん」 デイジーは枝のあちこちにトナカイたちのひく橇に乗ったサンタクロースの人形や、星の形の飾り物をくくりつけていた手を休めた。「近い将来、災難やトラブルに遭ったり巻き込まれたりしないかどうか… もしそういうものが目の前に迫っていたら、何とか避ける方法はないか…」 「デイジー、神様のご計画や、人一人一人に与えようとしておられる試練を嫌がってはいけないわ。イエス様も十字架にかけられるのが分かっていながら、その十字架を背負いながら刑場への道を歩まれたのよ。ご自身は何も罪をおかしていなかったのに… 神様としてのお力を使って逃げ出すことも、ご自分を辛い目に遭わせた人たちにその場で裁きを下すこともできたのに、なさらなかった…」 「そうね。でもお姉ちゃん、それはイエス様が神様だからできたことよ。普通の人間だったら、何とかしようと思ってジタバタすると思うわ」 デイジーは遠い外国や植民地から届いたクリスマス・カードをピンで壁に貼り付けながら言った。 「思えばそれが『魔法』というものかもしれないわね。自分を守り強くしようとする試み… でもね、人間にはどうしたって限界があるのよ。魔導師マーリンはキャメロットの城主になったかしら? ジョン・ディー博士は総理大臣になったかしら? サダルメリク君のご先祖様のアブドゥル・アルハザードは世界征服を達成できたかしら?」 「ブラウナウ…」 デイジーはポツリとつぶやいた。 「えっ、デイジー、いま何か言った?」 「いえ、何も…」 「『ブラウ』なんとかと?」 「あたし、そんな言葉知らないわ。もちろん意味だって」 「呪文かな?」 「知らないって言ったでしょう? お姉ちゃんはメイドで良かったわよ。もしもどこかの国のお姫様だったら、将軍たちをけしかけて戦争を起こしていたかも知れないわ!」 デイジーはそう言い捨てると、残りを放り出して駆け去って言った。 「デイジー、玄関ドアのオーナメントの飾り付けがまだでしょう?」 後には呆然とした大きなメイドさんだけが残された。 「『ブラウナウ』、デイジーは確かにそう言ったんだね?」 夜更け、あかあかと燃える暖炉の炎が照らし出す中、英国心霊研究協会の書斎に備え付けの大英百科事典のうちの一冊を、ドイルは書き物机の上に開いた。 「ええ、確かにそう聞こえました」 濃いめの紅茶を運んできたブライディーが答えた。外は木枯らしが吹き、雨戸をバタバタと鳴らしている。 (もう一度戸締まりを確かめてきたほうがいいかも知れないわ) 大きなメイドさんは幅の広い肩越しに覗き込みながら考えていた。 「ブラウナウという言葉は、一つしか載っていない。オーストリア・ハンガリー帝国の町の名前…つまり地名だ」 「町の名前でございますか? オーストリア・ハンガリー帝国の? ヨーロッパ生まれのポピーならともかく、デイジーがそんなあまり有名でない町の名前をつぶやくなんて奇妙ですね。新聞か雑誌で見たのでしょうか?」 「バッサウとザルツブルグのあいだ。オーストリアとドイツ国境のオーストリア側、ライン川のほとりにある。取り立ててこれと言った産業はない。歴史的事件の舞台になったこともない… どういうところかは知らないが、友人に行ったことがある者がいたら尋ねておくよ」 ドイルは紅茶を啜りながら辞典を閉じた。 休み時間におけるデイジーの読書の傾向は確かに以前とは変化していた。 英国心霊研究協会のお屋敷の蔵書のナポレオンや、シーザー、アレクサンダー大王の伝記、さらにはさらに専門的なアッシュールバニパルやネブカドネザル、ラムセスについして書かれた本を次から次へと読み始めたのだ。 (昔は大衆活劇小説がほとんどだったのに… お年頃から言ってロマンス小説を読み出した、というのなら分からなくはないし、冷やかしてあげるのに…) ブライディーは、ポピーが疑うように、だんだんと気味悪くなってきた。 「ねぇデイジー、どうしてそんな、男の子たちが読むような勇壮な英雄のお話ばかりを読むようになったの?」 「うーん」 デイジーは口ごもった。「『ロンドン正義メイド団』や『ロビン・フッドのメイドさん』よりもスケールが大きいし、ハラハラドキドキするからかなー」 「でも、むかしむかしの歴史の物語には、女の人はほとんど出てこないでしょう? この『スコットランドのメアリ・スチュワート女王物語』なんかどう? ダーンリ卿とのロマンスと破局も出てくるし、最後はとてもかわいそうだけれど面白いわよ」 「ああそれ、確か『悲劇の女王物語』シリーズで一番売れているのよね」 デイジーは本の表紙をチラリと見た。 「一番売れているのは『クレオパトラ物語』じゃあ?」 年長のメイドさんは少女向けの歴史物語を何冊か勧めてみた。 「うーん」 デイジーはなぜか目をそらせた。「…あたし、最近、女の人が出てきたり、活躍したりすることにはあまり興味がなくなったの…」 「と言うと? どんなことを知りたくなったのかな?」 「ナポレオン皇帝陛下や、シーザー、アレクサンダー大王は、どんなお母さんと言うか、お乳母さんに育てられたのかなー、とか、どんな女の人を好きになったのかなー みたいなことが知りたくなって… でも、あまり載っていないのよね」 「それはそうでしょう」 ブライディーは苦笑して肩をすくめた。「…歴史に名前を残した英雄たちは、ほとんどみんな自分が努力して成り上がったのよ。ナポレオン皇帝陛下はコルシカ島の貧乏貴族の子だし、シーザーも貴族だけれど貧乏で、活躍を始めたのは四十歳を過ぎてから… アレクサンダー大王もマケドニアというギリシアの中の小さな国の王子様だったはずよ。お母さんもお乳母さんもあまり関係ないと思うわ。 …むしろ、名前を残すことができた人たち以外の、王子様や貴族の坊ちゃんの母上や乳母さんのうちの大勢の…それこそ数え切れないくらい大勢の人たちが、「息子や坊ちゃんが、どうかどうか大物、英傑になりますように」と叱咤激励して、学問や武芸に励ませたと思うけれど、みんながそうなることはできなかったんじゃあないかしら?」 「じゃあ、お姉ちゃん…」 デイジーは珍しく…それこそ本当に珍しく真剣な眼でブライディーを見つめた。「『マクベス』に出てくる魔女たちのような者が、お姉ちゃんが持っているような素晴らしい占いの力で、『この子は将来、世界を征服するかもしれない』という可能性のある子供の前に現れて、『君は大きくなったら世界を征服できるかも知れないよ』と予言したとしたらどうなるかな? …ちょうど天使たちが身籠もったマリア様の前に現れて『お腹のお子は、世界を救う救世主様です』と祝福したみたいに…」 「うーん…」 今度は大きなメイドさんが顎に手を当て、首を大きくかしげた。「イエス様の御前にお祝いの言葉を捧げにやってきた天使や羊飼いたちや三博士たちは喜びに溢れていたと思うけれど、もしも英雄になるかも知れない子供の前に現れて予言した占い師というのは、デイジーの言うとおり『魔人・魔女』でしょうねぇ…」 「どうして?」 「イエス様はかかわった人誰一人傷つけはしなかったけれど、英雄というのは一面、大きな戦争を起こして大勢の兵隊さんや罪のない人々を殺す『殺戮者』だからよ」 「でも、相手の国のほうが戦争を仕掛けてきたりした時は、戦争が起きるのも仕方ないじゃないの?」 デイジーは取り出していた本を丁寧に本棚の元の位置に戻しながら言った。 「どの国の偉い人も将軍たちも戦争を始める時は『このまま放っておくと、相手の国が襲いかかってくる』と言うのよ。『これは正義の、正当防衛の戦いだ』とか… ナポレオン皇帝陛下が戦争を繰り返したのも『フランスを守るため』、シーザーのガリア遠征も『ローマを守るため』だったでしょう?」 「そうかぁ… だったら、遠い未来、独裁者になるかもしれない子供の前に現れて、覚醒させる者がいてもいいわけだよね」 デイジーは納得したように頷いた。 「ちょっと待って、そんな火に油を注ぐようなことはよくないわ」 大きなメイドさんは嫌な予感…それこそ頭の上に大きな重しを乗せられたような気持がした。 ブラウナウの少年 「そうか、そんなに気になるのなら一緒にブラウナウに行ってみようじゃないか」 ドイルはこの冬はじめてロンドンにうっすらと積もった雪と、それを踏みしめて行き来する人々や馬車を眺めながら言った。「…いまからなら充分クリスマスまでに帰ってこれるだろう。わたしもまた妻の見舞いができるし…」 「でも、メイドとしての仕事をろくにせず、旅行のお供ばかりさせて頂いて申し訳がありません」 大きなメイドさんはうつむいた。 「いや、そこに行けば、もしもデイジーを操ったり、魂を乗っ取ろうとしている者がいるのならば、その正体を突き止められるかもしれない」 「するとデイジーも一緒に?」 「もちろんだ。彼女も気分転換になっていいかもしれない」 ドイルはパイプをくゆらせながら目を細めた。 「留守番はお任せ下さい。アルプスでは大変骨を折って頂いたのですから、どうか安心して行ってらっしゃいませ」 ポピーはペコリとお辞儀をした。 大陸横断列車は英仏海峡を渡り、パリへ、そしてリヨンへ… 結核でスイスの療養所に入っているドイルの妻を見舞うため、ジュネーブで数泊したのち南ドイツのミュンヘンに向かった。 ヨーロッパはパリと、先月にスイスに行っただけのブライディーと、パリしか知らないデイジーは、使命のことはしばらく忘れてうきうきしていた。 列車の中を飛び交う様々な言葉、財布の中で次第にごちゃごちゃになっていくフランスとスイス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国の紙幣や貨幣… そして駅に止まるたびに売りに来る様々なパンやお菓子… 窓の外の、いっそう寒さが深まった雪景色が飛び去っていった。 「お金と暇のある貴族や郷紳の人たちや子供たちは、いつもこんなふうに旅行を楽しんでいるのかなぁ…」 二等客車の猥雑とした車内で、デイジーはまた羨ましそうに行った。「…それもドイル様のように、特等車のコンパートメントや食堂車で」 「旅行が趣味のかたならともかく、貴族のかたがたも日頃の責務や社交で大変なのよ。それに、本当に旅が好きなら、徒歩のほうが文字通り世界が見えるかもしれないわ」 ブライディーは自分のお金で買った地図を広げて赤鉛筆で印しを付けて言った。「…ヨーロッパのいろんな職人さんたちは、若いうちは町から町へ、親方から別の親方へ、国から国へ渡り歩いていろんな技術を身につけていったのよ。だから、ギルドというものはあっても派閥や流派に偏らない、例えばフランスの自由民権思想ような考えかたが根付いたの」 「なるほど… それでブラウナウはもうじきなの?」 デイジーは自分がその見知らぬ町の名前を口にしたことは意識にないらしかった。 だから今回の旅もデイジーには「暗号文の切れ端の手掛かりを探すため」というふうに説明してある。 「えーっと、『バッサウとザルツブルグのあいだ、ミュンヘンから東に六十マイル。…もうすぐね!』 そのライン川のほとりの小さな町に到着すると、ドイルは旅行案内書を参考に、よいとされている宿を取った。 ファルノー村はフランス・アルプス側の村で、フランス語が通じた。イギリスでは貴族、市民ともに、隣国であるフランス語が第一外国語なのだが、ここはオーストリア・ハンガリー帝国、ドイツ語圏で、ドイルのような教養人でも会話は少しあやふやになってきた。 まぁそれもホテルなどでは、季節はずれの唐変木のイギリス人観光客を歓迎して懸命に分かろうとして耳を傾けてはくれるのだけれど… 「ああ、そのことを考えたらシスター・セアラ様は…」 ドイルが図書館で下調べをしているあいだに散歩に出て街の目抜き通りとされるところを歩いていたブライディーは、店の看板も、商品の説明カードもチンプンカンプンなのに途方に暮れながらつぶやいた。「セアラ様だったら、英語でしょ、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ラテン語、ギリシア語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、東欧の言葉がいくつか… ざっと数えただけでも十数カ国語…」 折る指が足りない。 「大丈夫、大丈夫!」 デイジーはコートの襟を立て、マフラーを巻き直しながら言った。「…言葉なんか、成せばなんとかなるものの代表よ。さっきの『渡り職人』じゃあないけれど、あっちこっち行き来していたら、特に頭が良くなくても覚えられるのよ。お姉ちゃんだって、古いアイルランドの言葉…ゲール語…が出来るじやない」 「それはそうだけれど…」 うろうろしているとゴシック様式の、いくつもの尖塔のある、いかにも由緒のありそうな教会の前を通りがかった。 「そう… ドイツでも北側はプロテスタント発祥の地なのだけれど、南ドイツはカトリックが多いのよね。…デイジー、ちょっと待っててね。わたし、いろんなことが上手く行くようにお祈りしてくるわ」 ドイツのカトリックの教会は、アイルランドの教会とも、イギリスのカトリックの教会とも、以前に「淫魔(インキュバス)退治で訪れたパリのノートルダム寺院とも雰囲気が違っていた。大きさ云々ではない。アイルランドやイギリスの旧教の教会は、英国国教会に押されてどれも小さい。かたや旧教が主流であるフランスのノートルダムはセーヌ川河口の中州にあって大きく、広く、そして明るい。ここオーストリアの教会は、内陣の脇の母子像も、十字架にかかったキリストの像も、壁に並んだ聖人たちの像も、お顔の眼差しはそう変わらないと思うのに、ステンドグラスから差し込む光のせいかどこか謹厳な感じがした。 (神様、マリア様、どうかこのブラウナウの町での探索が上手く行って、謎が解け、もしもデイジーが何者かの影響のもとにあるのなら、どうかその邪悪なるものを追い払うことができますように…」 他に誰もいない礼拝堂の最前列で、ブライディーは膝をついて祈った。 すると、聖人の像の一つか、天使たちの像の一つからか、どこからともなく声が聞こえてきた。 『定まらなぬ事がらを定めさせる力のある娘よ、預言者の末裔よ、よく聴け…』 ハッとして回りを見回したが、誰もおらず、心に直接語りかけてきた。 (悪魔の声かしら? 聖域の中にそのようなものが入り込めるはずがないわ…) 『…このブラウナウの町では占術を使ってはならぬ。もし使ってしまっても、その場所に行き、その対象の人物に会ってはならぬ。さらに、そこで起きている事柄に対して決して干渉をしてはならぬ。 もう一度だけ繰り返す。よいか? …このブラウナウの町では占術を使ってはならぬ。もし使ってしまっても、その場所に行き、その対象の人物に会ってはならぬ。さらに、そこで起きている事柄に対して決して邪魔をしてはならぬ。 分かったか?』 「あの、あなた様は?」 「ここは教会の中である。邪悪なる者は入り込むことは出来ぬ。まして語りかけることは出来ぬ。疑うなかれ。さもなくば、年老いた時に途方もなく大きな後悔をすることになるぞ』 「どういう意味ですか? おっしゃることがよく分かりません!」 再び辺りを見渡したが、もはや声は聞こえてはこなかった。 (「占うな」と言われても、わたしたちは謎を解き明かすためにはるばるロンドンからこんな遠いところへ来た訳だし、何もしないで…何も試みないうちに帰るのはドイル様に申し訳が立たないし…) 教会を出ると、河畔の公園でデイジーが、ライン川を往復する大小の船をぼんやりと眺めていた。 「けっこう賑やかね…」 ブライディーは気を取り直すようにつぶやいた。 「ドーヴァーとカレーのようなものかな?」 とデイジー。 「そうね。あいだにあるのは海じゃなくて川だけれど、そんな感じね。こちらに住んで、向こうで働いている人もいるでしょうし、その逆も… オーストリア側とドイツ側で違うのはお金くらいかな」 「お互い、入ってくる品物…商品に税金をかければ、結構いい実入りになるわね」 お金の話をする小さなメイドさんは、まるでブライディーをここに連れてくることが使命だったみたいに、すっかりいつもの様子に戻っていた。 「図書館でも、物知りそうな人に聞きこみをしても、何も分からなかった」 ホテルの部屋、ドイルはノートをパラパラとめくりながら言った。「…何の変哲もない、変わった伝説も言い伝えも何もない普通の町だ」 「これから…つまり未来にここで何か起きるのではないでしょうか?」 ブライディーは窓を開け、眼下に広がる箱庭のようなヨーロッパふうの家々の屋根を眺めた。「…わたしが百年先の東京に飛ばされたとき、百年のあいだに、世界じゅうを巻き込んだ大きな戦争が二度もあったようなことを言っていました。 もしかして未来に、この町から戦争が起きるのではないでしょうか?」 「だとすれば特に何もできないぞ。…せっかくここまで来たのに…」 作家は額に手を当ててうつむいた。 「お姉ちゃん、そろそろ窓を閉めてよ、寒いよ」 デイジーが震え始めた。 「ドイル様、わたし…」 大きなメイドさんはおずおずと言った。「…この町で将来何かが起きる場所を占ってみたいと思います」 「おおっ、そうか、やってみてくれるか!」 教会の中で聞こえた天使か悪魔かの忠告に逆らって、テーブルの上に、ロンドンから持参してきたケルトの神々のタロットカードが並べられた。 「この町の…ブラウナウの地図をお願いします」 カードの陣の隣に、詳しい地図が広げておかれた。 ブライディーは目を軽く閉じ、心を静めて、地図にピンを刺した。 「自信はありませんけれど…」 ピンは商店街に刺さっていた。 「明日、みんなで行ってみよう」 ドイルは鉛筆で印を付けた後、ピンを抜いた地図をいつまでも見つめ続けていた。 翌日もまた寒い日だった。 三人は、道行く地元の人たちと同じようにコートの襟を立てつつブラウナウの商店街を見て回った。 「固まっていると効率が悪いな。ぼくは主に右側を見て回るから、君たちは左側を頼む」 「かしこまりましたドイル様。…行きましょうデイジー!」 ブライディーとデイジーは目を輝かせながらパリとはまた違った感じの、オーストリアの田舎町のこじんまりとした店店のウインドゥを覗いて回った。 婦人服店のマネキンたちは数百年の栄華を誇るハプスブルグ家の栄華の面影を残すドレスを着ている。お菓子屋さんにはモンブランなどの美しい山をイメージしたケーキが並んでいる。 「わたし買おうかしら…」 大きなメイドさんと小さなメイドさんは同時に言って、顔を見合わせて笑った。 デイジーはもう以前とまったく変わりなくなっていて、ただの気晴らしとしてもやってきて良かった、と思わせた。 「一つか二つずつ全部違った種類のを買って、ホテルで半分ずつ切り分けて食べようか?」 「うん、そうしようよ、お姉ちゃん!」 本屋があったので二人はまた中に入った。 何人かの客が立ち読みしていたが、メイドさんたちはドイツ語はまったくだったので、背表紙や表紙を見ても、何の本かはサッパリだった。 唯一、絵本や画集のコーナーでは、表紙に描かれた絵から、だいたいの内容が分かった。 その一角に、六、七歳くらいだろうか、デイジーよりも小さい、あどけなさを残した男の子がいて、水彩画の教科書のような本を貪るように読んでいた。 黒い髪に、少し下がり気味の黒い瞳は、不安そうにも、疑り深そうにも見えた。 「あの子、絵が好きなんだね」 デイジーが囁いた。 「ええ」 ブライディーはなぜか、その男のことが少し気になった。 「あたしも好きだけれど、絵の本や、絵の具や筆やパレットって、とても高いのよね。あの子の服装を見てもとりわけて裕福そうじゃあないから、買って貰えないわよね、たぶん…」 「お家が豊かか、そうでないかではなくて、ご両親に理解があるかないかじゃあないかしら? お金持ちでなくても絵の学校や塾に通わせて貰っていたり、画材を買ってもらっている子もいるわよ」 「ふーん、そういうものかなぁ…」 男の子は一心不乱に画集のページをめくっていた。説明文は難し過ぎてまだ読めないのか、絵だけを見つめていた。 風景画、人物画、静物画、植物画… 「よっぽど好きなんだね」 デイジーはブルッと震えるように肩をすくめた。 と、その時、店の入り口から、警察官のような、軍人のような、いかつい中年の男が入ってきた。 「アドルフ! アドルフはどこだ? またそこで美術の本を読んでいるのだろう。分かっているんだぞ!」 すると、男の子はビクッとしたかと思うとあわててそれまで読んでいた本を閉じ、素の棚に返そうとしたが、手がかすかに震えてなかなか戻すことができなかった。 なんとか戻して逃げ出そうとした時、中年の男はキョロキョロと店内を見渡しながら、もうすぐそこに迫っていた。 男の子はとっさに、床に開けたまま置いてあった空のボール箱の中に入ると、ブライディーとデイジーを哀願するような目で見た。 (いいわよ、知らないフリをしていてあげる) メイドさんたちも目で答えた。 蓋は中から閉じられ、メイドさんたちは近くにあった絵本を取って立ち読みするふりを始めた。 「ちょっと、そこのお嬢さんたち、このへんで黒い髪の、これくらいの男の子を見ませんでしたか?」 男はいかめしい声で尋ねた。 「すみません。わたしたちは旅行者で、ドイツ語はよく分からないのです」 ブライディーは「ドイツ語旅行会話」の本で勉強した通りに答えた。 「そうですか…」 男はチラリと床に置かれたボール箱に目を落とした。 「ああそう言えば、貴男さまが入ってくるのと同時に、黒い髪の子があちらの出口から飛び出して行きましたよ」 身振り手振りを交えて言う。 「そうですか、有難うお嬢さん」 男はさらに血相を変えて指さされた方向へ駆け出して行った。 「もういいわよ」 囁くと、男の子はおずおずと箱から出てきた。 「ありがとう… お姉ちゃんたち、この町の人じゃあないんだね?」 「ええ。イギリス…ロンドンからの旅行者よ。いまのはあなたのお父さん?」 あわてて「旅行ドイツ語」のポケットブックを開きながらゆっくりと話しかける。 「うん、そうだよ。ぼくが絵の本を立ち読みしたりするのを快く思っていないんだ」 「お父さんのお仕事は軍人さん? それともお巡りさん?」 「ぼくのお父さんの仕事は、このブラウナウの町の税関長だよ。だからとても威張っていて、ぼくに『勉強をしろ! 絵なんか見るな、描くな』って…」 「まぁお父さんのおっしゃることも分かるわ」 デイジーは一人腕組みして頷いた。「…絵なんかじゃあ、よほど上手くてもなかなかそれで食べていけないし、あなたみたいに小さかったら、読み書きソロバンのほうが大切よ」 「学校の勉強もちゃんとやるつもりだよ。それに…」 少年はほんの少し口ごもりながら続けた。「…外国から来た子に説教される言われはないよ」 「何ですって!」 デイジーは眉を吊り上げ、唇を尖らせた。 「…だから、オーストリアやドイツ人の子に言われるのならともかく… 君たちイギリスからの旅行者だろう? 音楽家を見てご覧よ。バッハにモーツアルト、ベードーヴェン、それになんと言ってもワーグナー…みんなドイツかオーストリア人じゃないか。イギリスにそんな有名な音楽家がいるかい?」 「まぁいいじゃないの」 ムキになって突っかかりそうそうなデイジーを引き離しながらブライディーは微笑んだ。「…じゃあね、アドルフ君さよなら。絵を教えてくれる学校に入れるといいわね」 男の子と別れた二人のメイドさんは、ドイルの姿を探しながら歩いた。 「フン、何よあの子! せっかく助けて上げたのに!」 デイジーのおかんむりは収まらなかった。 「まぁまぁ、どこの国の子も自分の国が一番だと思っているのよ。デイジーだってロンドンに居たら、植民地から来た肌の色の違う子は(よそから来たんだ)と思うでしょう?」 「うーん、それはまぁそうだろうけれど…」 ドイルは先に商店街のはずれまで行って、粉雪がちらつき始めたなかを待っていてくれた。 「ドイル様、お待たせして申し訳ございません」 「いや、いいんだよ。特に何か変わったものはあったかね?」 「いいえ、特に…」 「そうか… じゃあ宿に戻ろう。あと二、三日滞在して、手掛かりが見つからないようだったら、ミュンヘン見物でもしてから帰国しようじゃないか」 ホテルのレストランでの夕食には、大小さまざまな種類のソーセージや、ハム料理チーズが出た。 「さすがにドイツですね。半端じゃあないですね」 デイジーは大小の茹でたソーセージに片っ端からフォークを突き刺してぱくつきながら言った。 「デイジー、美味しいからと言って詰め込んだらお腹をこわすわよ。人間は腸詰めじゃあないんだから…」 ブライディーは自分はあまり食べないで、メモ帳にスケッチをしては、通りがかった給仕やウエイトレスをつかまえて何というソーセージ、チーズなのか名前を尋ね、調理法を聞いていた。 「これとこれは大変柔らこうございますわ。『心霊研究協会』の会員の皆様にはお年を召されたかたが多いので、肉料理ばかりでなく、こういったものを添えれば食が進まれるのではないか、と…」 「しかしロンドンでドイツ産の食材が揃うかどうか… 新鮮さも気になるし… わたしはこのドイツ・ワインのほうがお奨めだと思うがね」 ドイルはメイドさんの真似をして、テーブルの上にあった赤白のワインのラヴェルを手帳に書き写した。 「…しかし会員様の中には、ドイツのワインということに気を悪くされるかたもいらっしゃいますので、やはりワインはフランス産が無難かと…」 「そうか… 何かと気を遣うなぁ… まぁ、あと十年は平和が続くとは思うけれど、その後のことはぼくにも予想がつかないよ」 「ねぇねぇ、誰か、このブラウナウの町の税関長さんって、どんな人か知っている?」 デイジーはブライディーの真似をして、ボーイの一人に尋ねた。 「この町の税関長さんは、結構やり手、たたき上げの人だよ」 ドイルから過分のチップをもらっていたボーイはニコニコして答えた。「…普通は、学歴はもちろんコネがなかったらなかなか偉くはなれないんですよ」 デイジーは口からソーセージを半分はみださせながら(うんうん)と頷いた。 「でも、いまの税関長さんは、学歴もコネもないのにそこまで登り詰められた、大したおかたなんです」 「ふーん、それで自分の子供にも結構厳しいんだね」 鼻歌を歌いながら遠ざかっていくボーイの背中を見つめてデイジーが言った。 「うん、デイジー、この町の税関長がどうかしたのかい?」 ドイルがナプキンを皿の上に置くと、別のウエイターが皿を下げた。 二人のメイドさんは、昼間の商店街での出来事を語った。 「なるほどね… まぁ、そういう親子というのはどこの国にでもいるものだよ」 「あたし、あの男の子、きっとお父さんよりずっと偉くなるような気がするわ」 デイジーが珍しく予言をした。 「有名な画家になるのかな?」 「うーん、それはどうかしら」 占い師としては、かんじんなところがあやふやだった。 ブラウナウに滞在すること二、三日、これといったことはなく過ぎていった。 「みんな、荷物はまとめたかい?」 片づいた部屋を見渡し、ドイルが言った。「ええ」 ブライディーはみんなの鞄の数を数えながら答えた。 「せめてお姉ちゃんがアルプスから持ち帰ったという暗号が解けた、という電報でも来れば…」 小さいメイドさんは肩をすくめた。 「デイジー、イギリス軍の暗号解読部が『解けました。これこれこういう内容でした』なんて電報を打つわけないでしょう?」 「あはは、お姉ちゃんの言う通りだ! …じゃあロンドンに帰ったら、解けているといいね」 「ああ、期待しよう。…汽車の時間まで近くを散策してみないか?」 「そうですね。せっかく来たのですから…」「賛成!」 ということで、今度は三人でまた町をぶらつくことになった。 「おおっ、寒い! ロンドンも寒いし、エジンバラも寒かったが、オーストリアも寒いな」 ライン川の川べりに添った公園、白い息を弾ませながらドイルが言った。 「ダブリンの港は凍ることはありませんが、この川は真冬には凍るのでしょうか?」 「船が行き来するためには凍ってはだめだよねー」 デイジーはスキップしながらついてきた。 ライン川の水面はオーストリア・アルプスから吹き下ろす風を受けて、時おり荒海のようにうねり、しぶきを上げていた。 「どれ、せっかく出てきてはみたが、これじゃあ風邪を引いてしまうな。ぼちぼち戻ろうか」 「ちょっと待ってください、ドイル様!」 何かの物音を聞いたブライディーは、厚手のウールのドレスのスカートの裾をつまんで駆け出した。 「お姉ちゃん、どうせ犬か猫のケンカだよ」 言いつつデイジーが後を追い、ドイルも早足でメイドさんたちに続いた。 川沿いの、物置小屋や倉庫、空き家が並んだ路地裏に入ると、何ヤードか先、二人の灰色の背広を着て、つばの広い帽子を目深にかぶった男たちが、男の子を抱きかかえ、もう一人がその子の口を押さえて小さな川船が繋留してあるところに走り去ろうとしていた。 「キャーッ!」 大きなメイドさんは悲鳴を上げた。 「人さらいだ!」 とデイジー ドイルはひるまず突進した。 灰色の男たちは少なからず驚き、スピードが落ちた。男の子の口を押さえていた手もはずれた。 「あっ、このあいだの、あの子だ!」 メイドさんたちは口々に叫んだ。 「イギリス人のお姉ちゃんたち、助けて!」 男の子は手をぐっと差し伸べた。 「君たち、ここはぼくに任せろ!」 男たちのスピードが増した。まるで脚が地についていない、スケート靴なんかはいていない、地面は氷ではないのに、滑って行くような感じだった。 両者のあいだは詰まるどころか離されていった。 「くそっ!」 息が続かずにやや速度が落ちたドイルに、メイドさんたちのほうが追いついた。 (追ってはならぬ!) 薄曇りの、ぼたん雪が舞いはじめた天空から声が響いた。 「えっ?」 ブライディーは思わず耳をそばだてた。ドイルとデイジーに聞こえた様子はなかった。(追ってはならぬ!) 「でも…」 「えっ、どうかしたの、お姉ちゃん?」 「いえ、何も…」 「だめだ、とても追いつけない! ブライディー、やつらの先回りをする道はないか?」 「はい、占ってみます!」 素早くダウジングの棒を取りだしたとき、再び声がした。 (占ってはならぬ!) また声が響いた。 「どうした、早くしろ! あいつらは人さらいだ!」 「お姉ちゃん、早く! あの子、税関長の坊ちゃんでしょ? 身代金を要求されるか、密輸品を見逃してもらうように脅かすつもりよ!」 「ただいま…」 胸の前に立てた棒は摩訶不思議なくらいにくるくると回り、そして真横の細い横丁を指して止まった。 「こちらが近道です!」 「よしっ、ブライディーとデイジーは警察か町の人で勇気のある人を呼んできてくれ」 「分かったわ!」 ドイルは横丁に走り込み、デイジーは通りを目指した。 横丁の十字路。ドイルは横から宙を飛ぶように差し掛かった灰色の背広に帽子の男たちと激しくぶつかった。弾みで男の一人が抱きかかえていた少年を手放し、少年は素早くドイルの背中に隠れた。 「…そ、そんな莫迦な! どうして我等の先回りができたのだ?」 ぶつかって転倒したというのに、男たちの帽子は飛ばず、相変わらず顔は見えなかった。 男たちが立ち上がっているあいだにブライディーが追いついてきた。 「…やはりおまえか、ブライディー! あれだけ教会で警告したと言うのに!」 もう一人の男がいまいましそうに言った。 「あなたたち、一体何者なの? …分かった! ファルノー村でイルクさんやわたしを連れ去ろうとした大尉たちの部下でしょう?」 「『ファルノー村』? 『大尉』? 我等はそのような者たちとは一切関係ない。我等は…」 「よせ、ミヒャエル!」 一人がもう一人が制した。 「しかしガブリエル…」 ガブリエルと呼ばれた灰色の男は居住まいを正し、威厳のある声で語り始めた。 「ドイル殿、どうか、その少年を我等にお渡し頂きたい。その少年は、このままここ、ブラウナウで育ってはいけない子なのだ」 「胡乱な連中の言うことなど聞けるか!」 「…その子が、このままここ、ブラウナウで育つと、大変なことが起きるのだ」 ミヒャエルと呼ばれた男が重々しく続けた。「…我々はその子に対して、絶対に危害を加えたりはしない。十分に幸せで穏やかな生活を保障する!」 「そんなこと、信用できるか! それだったらどうして、この子の両親に正式に養子として迎えたい旨の申し入れをしないんだ?」 ドイルは柔術の型を構えた。 「すまない。これ以上は何も言えない。分かってくれ!」 ガブリエルは深く頭を垂れながら片手で仲間の頭を押さえて下げさせた。 「分からないね。要するに人さらいじゃないか」 「やむを得ない、『力』を使うか?」 「だめだ。それはできない」 「しかし未曾有の…」 「いくさはいままでにもあった」 灰色の男たちが押し問答をしているあいだに、デイジーが警官と、手に手に棒や農具を持った町の人々を連れてきた。 「あいつらよ!」 「おおっ、いかにも怪しいやつ!」 警官は警棒を、町の人々はそれぞれ手にした武器を振りかぶり、灰色の背広と帽子の男たちに襲いかかった。 「くそっ、何ということだ!」 「おまえたち、後悔をするぞ! 大きな、大きな後悔を!」 ミヒャエルとガブリエルは捨てぜりふを残して飛ぶように逃げ去った。 「追え! 逃がすな!」 追いかける人々の中にドイルも加わった。 後にはブライディーとデイジーと少年だけが取り残された。 「大丈夫?」 「有難う、お姉ちゃんたち」 少年が不安そうな顔をほんの少しほころばせかけたちょうどその時… 川岸の倉庫の屋根の上から 「ホホホ… ホホホ…」 という若い女性の、嘲るような笑い声が聞こえた。 「あっ、ヴァイオレットだ!」 少年はパッと顔を輝かせて声の主がいるところをすぐに探し当てた。 そこにはメイドのお仕着せを着た美しい、だが何とも言葉では言えないような剣のある少女が、スカートの裾を翻らせながら立っていた。 「ヴァイオレット様!」 ブライディーは驚いた。彼女はオクタヴィア姫からずっと探してくれるように頼まれていた姫の妹だったからだ。 「お姉ちゃん、あの人知っているの?」 デイジーは怯えながら尋ねた。 「ええ」 「有難う、デイジーさんにブライディーさん。 年を取ってから楽しいことを体験することになるわよ! そこの子が見せてくれることになるわ。せいぜい長生きしてちょうだいね」 「ヴァイオレット様。貴女はヴァイオレット様ですね? オクタヴィア様が大変ご心配をされ続けています。どうかロンドンに戻られるか、せめて手紙を書いて差し上げてください」 「そうね、お姉様によろしく伝えておいて、ブライディー。でもわたくしは、とても面白いことを思いつきましたの。あのアブドゥル・アルハザードよりも、もっと愉快なことをね」 「それはどういう意味ですか?」 ブライディーが尋ねた。 「だから長生きして自分の目で確かめなさい、と言ったでしょ?」 次の瞬間、ヴァイオレットの姿は忽然と消えていた。 「そうそう、ついでにサー・ドイルにも伝えておいて。貴男の息子さんは戦争で死ぬでしょう、って」 と、言い残して… 「ねぇ、お姉ちゃん、いまの人は誰なの?」 呆然としているブライディーのコートの袖を引っ張ってデイジーが尋ねた。 「前のご主人フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢の親友の、オクタヴィア姫様から、ずいぶん前から探すように頼まれていたオクタヴィア様の妹よ」 「じゃあ、メイドのお仕着せを着ていたけれど、あの人も貴族?」 「ええ…」 「じゃあよかったじゃない。イギリスに帰ったら早速教えて差し上げたら。『ヴァイオレット様は、オーストリアのブラウナウにいらっしゃる』って…」 「そうね。そうするわ」 「きっと好きな殿方とでも駆け落ちなさったのよ」 デイジーはリンゴのように頬を赤くしていた。 「そういうのだったらいいのだけれど…」 「ヴァイオレット様は、あたしたちが『年取った時に難儀する』みたいなことをおっしゃっていたけれど、それって、『お金を貯めて年金にも入っておきなさい』ってことかな?」 「えっ? ええ… …デイジー、ドイル様には、息子さんのことは秘密にね」 「ああ、あの『息子さんは戦争で戦死する』という? ヴァイオレットさんの占いも、お姉ちゃんのと同じくらいよく当たるの?」 大きなメイドさんは唇を噛みしめた。 「アドルフ、あんたもあのヴァイオレットさんを知っているの?」 デイジーは少年のほうを向き直って尋ねた。 「うん、ときどき会いに来てくれて…」 少年はコックリと頷いた。 「そう、お菓子か何かをくれるわけ?」 「いいや、ぼくがお父さんに叱られて泣いていたら、励ましてくれるんだ。『お父さんはもうじき病気で死んで、君は絵の勉強ができるようになるから安心しなさい』って」 「えっ?」 メイドさんたちは思わず顔を見合わせた。 少年は続けた。 「『その後、お母さんも病気で死んじゃうけれど、両親は君やアイロス兄さんに遺産を残して下さるから、君はそれで絵の修行をしなさい』って… お母さんも死んじゃうのは悲しいけれど、うるさいお父さんがいなくなるのは嬉しいな…」 「そんな… そんないいかたはないでしょう?」 ブライディーは珍しく言葉を荒げた。 「お姉ちゃんの…」 少年は唇を尖らせた。 「ブライディーよ」 「ブライディーお姉ちゃんのお父さんはどんな人だったの?」 「小さい頃に病気で亡くなってしまったけれど、とても優しかったわ」 「ごめんなさい」 少年は口ごもりながら言った。「…でも、小さい頃に亡くなったのなら、いまも生きていたら、『もっと勉強しろ!』とか、『奉公に行け!』とか、やかましくガミガミ言っていたかもしれないよ。もしそうだったらお姉ちゃんも『早くどうにかなってしまえばいいのに』と思っていたかもしれないでしょう?」 「わたしのお父さんは優しい人だったから、もし長生きしていても、そんなことは言わなかっただろうと思うわ」 「そう…羨ましいな…」 少年はポツリとつぶやいた。 そこへ、ドイルと警官が戻ってきた。警官は少年にさらわれかけた時の状況を質問した。アドルフは「いつもの道を散歩していたら、突然連れて行かれそうになったんだ。相手の男たちの顔はよく見えなかったけれど、一度も会ったことのない人たちだったと思うよ」と証言した。 「すまないがブライディーとデイジーはアドルフ君を家まで送って、家の人に事情を説明してくれ。ぼくは警察へ行って、いちおう証言書を書いてくる。もっとも不覚なことに犯人たちの人相をよく見ることが出来なかったのだが…」 「分かりました。でも心配ですね。わたしたちはイギリスに帰らなくてはなりませんし、警察のかたに気を付けて頂くというのもずっとは無理でしょうし…」 「ご家族のかたにくれぐれも用心してもらうようにお伝えしておいてくれ」 少年の家は税関長にふさわしい、立派なものだった。 「それはそれは、有難うございます…」 あまり身体が丈夫そうではない少年の母親は恐縮しながら礼を述べた。 「それではこれで失礼させて頂きます」 ブライディーとデイジーが辞去して何気なく垣根越しに裏庭のほうを覗くと、少年が自分で紙に描いた兵士たちの頭の部分をハサミでじょきじょきと切り取っていた。 「…おのれ! 栄えあるドイツを脅かす敵兵はみんなこうしてやる! こうしてやる! こうしてやる!」 何枚もの首と胴体が分かれた絵が枯れた芝生の上に散らばっていた。 「何か気味悪いわ…」 ブライディーは早くその場から立ち去りたいのに、なぜか立ち去れずに立ち止まり、少年の様子を眺め続けていた。 「どおってことないわよ」 デイジーは鼻を鳴らして言った。「…あれくらいの年の男の子は人形の顔に落書きしたり、ひどい時は人形の首でもちょんぎったりしてしまうものなのよ」 「それは分かっているけれど、何かあの子は…」 「心配なの? またあの灰色の男たちがあの子をかどわかさないか、って…」 「えっ、まぁ… その…」 その時、北風がにわかに強まり、二人は思わずめをそらせ、顔を背けた。再び眼を開いた時、ヴァイオレットが少年の傍らに立っていた。 「その懸念はご無用よ。わたしがあの、お為ごかしの連中からこの子を守って上げるから…昼も夜も、小さいあいだも、大きくなってからもずっと。 戦争に行っても弾丸が当たらないようにはじいてあげるわ! なにしろ、この子は、数百年に一人の、とっても大事な子なんですもの!」 「ヴァイオレット様!」 大きなメイドさんは思わず垣根をかき分けて身を乗り出した。「…それはどういう意味ですか? 貴女は一体なにをなさろうとしているのですか? どうしてお姉様の待っておられるイギリスに、ロンドンに帰ろうとはなさらないのですか?」 「ロンドン? あんな陰気なところ、丸焼けにでもなってしまえばいいのよ!」 ヴァイオレットは作り笑顔で少年のほうを向いた。「…さぁさぁアドルフ坊ちゃん、きょうは危ういところをあのお姉ちゃんたちに助けて頂きましたね。もう一度お礼を言っておきましょうね」 「うん、お姉ちゃんたち、きょうは本当に有難う。また遊びに来てね!」 少年は白い歯を見せ、大きく手を振った。「これからはずっと、このわたくしが坊ちゃんのことをお守り申し上げますよ」 「うん、ヴァイオレット、有難う!」 「さて、きょうはお父さまがどうして坊ちゃんにつらいことを言うのか教えて差し上げましょうね」 魔女はネコ撫で声で少年の耳元に囁いた。「それは、ユダヤ人どものせいなのですよ…」 「またユダヤ人?」 「ええそうです。やつらは一シリングでも関税を負けさせようと、わざと複雑な書類を書いて提出したり、何やらでさんざんお父さまの頭を悩ませているのです。そういったことがなければ、お父様はもっとご機嫌がいいはずなのです。また、かれらがいなければお父様はこのブラウナウの町の町長になれるおかたなのです。それをユダヤ人たちが邪魔をしているのです…」 「そうかぁ… ユダヤ人たちめ…」 少年の顔が憎悪に歪んだ。 「ねぇ、お姉ちゃん、もう行こう!」 デイジーがコートの袖を引っ張った。「…ドイル様が待っておられるわよ」 「えっ、ええ、そうね…」 ブライディーはなぜかとても不吉な思いに駆られて、なかなかその場を離れられず、後ろ髪を引かれる思いだったが、とうとう立ち去った。 後にはアルプスおろしの寒い風が吹き続けた。 ロンドンの「心霊研究協会」の屋敷に帰ると、ポピーがクリスマスの準備をつづかなくやり終えていてくれていた。 「オーストリアはどうでございましたか?」 「ええ、それが…」 旅の一部始終はデイジーが雄弁に語ってくれた。 「…そうですか。何も良くないことが起きなければいいですね」 「ええ、わたしの思い過ごしだったらいいのだけれど…」 ブライディーは目を曇らせた。 「やぁ、ブライディーにデイジー、お帰り!」 この頃旅行づいているね!」 ドッジソン教授が白い大きないかめしい感じがする封筒を手にしてやってきた。「海軍省から書留で手紙が来ているよ! ドイル君宛だけれどね。わたしがサインして受け取っておいた」 「有難うございます、教授」 ドイルはゆっくりとレター・ナイフで開封した。メイドさんたちは固唾を呑んで見守った。 「…某国の暗号が、ブライディーが、ファルノー村から持ち帰った紙片が決め手となって解けたそうだ。某国はその少し前に、暗号をすべて全く新しいものに変更した。紙片に書かれていた内容は… 『…優秀な占いの予知能力者を総動員して、我が国の国益に叶いそうな子供たちを見つけ出して、密かなる庇護のもとに育てる…』 と言うようなことが書かれていたらしい」 「なぁんだ、たったそれだけ?」 デイジーはあっけらからんとして言った。「じゃあ、ブラウナウで出会ったあの子もその一人だったんだ。 そういう子は、きっと何人もいるんだ」 「そういうこと… 一種の天才英才教育ということだけだったら、列強のどの国でもやっていそうな気がするな」 ドイルは呟き、手紙を暖炉の中に投じた。 めらめらと燃え上がる手紙を見つめながらドッジソン教授も「うんうん」と頷いた。 「そうですね…」 ブライディーにもやっといつもの微笑みが戻った。 デイジーが読む本も、「英雄伝」から、以前のような他愛のないものに戻った。 クリスマスのパーティを控えた「心霊研究協会」のお屋敷に、再びアレイスター・クロウリーやサダルメリク・アルハザードや、安倍薫たちが集った。 メイドさんがオーストリアのブラウナウでの出来事を語ると、三人の魔導師は一様に顔を曇らせた。 「…と言うわけで、オクタヴィア姫様やフィオナ様に、ヴァイオレット様が見つかったことをお知らせしたいと思うのですが…」 「それは… やらないほうがいいかも…」 安倍薫が重い口を開いた。 「なぜでございますか?」 「そのことを知ったら、オクタヴィアさんはきっとお供を従えてブラウナウに行きたがるでしょう。でも仮にヴァイオレットさんに会えたとしても、ヴァイオレットさんは一緒にロンドンに帰りはしないだろうからですよ」 百年先の未来の日本から西洋事情を学ぶために留学してきた陰陽師の子孫は、特別に淹れてもらった日本茶を啜りながら言った。 「それは… わたくしもそのように思うのですが…」 「ヴァイオレットさんは、幼くして亡くされたご両親を甦らすために、小さい頃に見知らぬ黒衣の魔導師についていって失踪されたのですよね?」 ゆったりとした寛衣を着たアラビア人の少年は、とっくに冷めているはずのコーヒーをかき混ぜ続けながら言った。「…普通、そういうのと、予知や占いの能力とは関係がないんです。例えば『死者の復活には賢者の石が必要だ』ということが分かったときに、じゃあその賢者の石はどこにあって誰が持っているかを知ることが出来て便利なだけです。なのにヴァイオレットさんは『大人になって英雄になる』かもしれない子供に偏った考えかたを吹き込むことに努力を注いでいる。最初の目的と現在やっていることに関連はないわけです。じゃあどういうことかと言うと、何者かに指示されているか、操られている可能性が高いです…」 「そんな…」 ブライディーは泣き出しそうになった。 「おそらく、ヴァイオレットを幼い頃に連れ去っていった黒衣の男にとっては、ヴァイオレットさんの予知予言の能力だけが魅力だったんですよ。失礼ながらブライディーさん、貴女がスカウトされなかったところから推察すると、ヴァイオレットさんの力のほうが格段に上なんでしょう。…そのアドルフという少年が長じてどのようなことを成すのか、占ってみましたか?」 「ええ、でもサダルメリク君の言うとおり、分かりませんでした」 「そうだ! 安倍君なら百年先の日本から来たんだから、当然知っているよね」 デイジーが手を叩いて飛び上がった。 「聞かないほうがいいと思うよ。また聞かないで下さい」 安倍は言葉を濁し、一座は押し黙った。 「…読みかじったところによると…」 出された紅茶のスプーンを取ることもなく、ずっとその琥珀色を眺めていたアレイスターがつぶやいた。「…真の悪魔というものは、無数の人間の魂を食うことによって、その存在を保っているという。手に入れる最も効率的な方法は…大きな戦争だ… さらに具体的に言うと、戦争を起こすような人間を守り育て、応援して権力を与えるのが手っ取り早い」 「えーっ、そうすると、あたしたちがブラウナウ出会ったあのアドルフ君は、大きくなったらナポレオン皇帝陛下のような、偉い軍人になられるの?」 気を取り直して切り分けたパウンド・ケーキを運んできたデイジーが素っ頓狂な声を上げた。「…しまった! あたし、ブラウナウに残って、ヴァイオレットさんみたいに、アドルフ君の押しかけメイドさんになればよかった… 上手くやると取り立ててくれるかもしれないし、ひょっとしたらジョゼフィーヌ様のように、身分が高くなくても皇后に納まれるかも…」 「デイジー、ジョゼフィーヌ様は後に離婚されて、ナポレオン陛下はマリー・ルイーズ姫と再婚されたでしょう? 貴女『英雄伝』のどこを読んでいたのよ?」 大きなメイドさんがまた眉を吊り上げた。「だからぁ、ナポレオン陛下の『運』はジョゼフィーヌ様がもたらしておられたのよ。それを愚かにも陛下は気づかれず、お子様が出来なかったということだけで離縁されて、ただ名門ハプスブルグ家のお姫様だということだけでマリー・ルイーズ様と再婚され、それからは… たぶん、気を遣いすぎてそれまであった『運』が落ちてしまったのよ…」 「デイジーちゃんの言ってることは、当たらずと言えども遠からず、というところかもしれないよ」 安倍薫が柿右衛門の茶碗の底に残った茶殻を見つめながら言った。 「すると、わたしたちが邪魔をした灰色の男たちは、人さらいなどではなくて…」 メイドさんの顔から血の気が引いた。 「あまり気にしないほうがいいですよ」 サダルメリクが目を細めた。「…おそらく、その計画を立てた者は、アメリカや中国や日本に、そういう見込みのある少年たちを選び出して、一人一人に押しかけメイドとして影の庇護者を送り込んでいるのですよ。そういったカップル…カップルと言えればの話ですが…はヨーロッパやこのイギリスにも何組もいるのでしょう。全部が全部目論見通りに育てば笑いが止まらないことでしょうよ」 「だといいのだが…」 妙に重々しいアレイスターの発言のあと、言葉をつなぐ者はいなかった。 クリスマスまであと数日に迫ったある日、ブライディーの昔の主人であるフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢と、フィオナより遙かに格上の名門の、現王室につながる貴族の令嬢であり、ブライディーと非常によく似た顔立ちのオクタヴィア姫がやってきた。 もちろん、メイドさんたちはブラウナウへ行ってきたこと自体黙っているつもりだった。「…今年も、暮れていきますわね」 フィオナは応接間の本棚に、新しく加わった新刊書や、「心霊研究協会」の有志がオークションなどで競り落とした稀覯本を目ざとく眺めながら言った。 「今年も、ヴァイオレットを見つけ出すことができませんでした…」 オクタヴィアは溜息をついた。「…消息もまるで… こちらには、アレイスター・クロウリー様をはじめ、魔導師のかたも少なからず集われるというのに、何か情報はないでしょうか? どんなに些細なことでもよいのです」 「いえ、特に…」 ブライディーはどぎまぎしながら答えた。「…ケンブリッジの、ニューナム女子校の様子は、あれからどうでございますか?」 「代わり映えありませんね。しょせんどのような研究でも、やる意思さえあればどこででもできるものです。大学は教授陣をはじめとする環境を提供しているだけのような気もします」 フィオナは本棚からボロボロに痛み、ところどころページがゴソッと抜け落ちている一冊のドイツ語の古本を取りだして読み始めた。よりによってその本は、ドイルがブラウナウの古書店で買い求めたその地方全体の伝承伝説について書かれたものだった。 「…どなたか最近ドイツを旅行されたのですか?」 「えっ、いえ、どうして…」 メイドさんはドキマギし始めた。 「…この本は、普通のドイツ語ではなくて、ラインラント地方の古い方言で書かれています。『ドイツ人で、ラインラントに生まれ育った、それも古老でなければ読めない本』です。…失礼ながら、ここの会員さんの中で辞書なしで読めるかたがいるとは思えません。 おまけにこのひどい傷みかた… カタログで買ったとすれば必ず「損傷激しく、読むには耐えない」と記載されて、よほど内容に興味がない限り買う人はないでしょう。 考えられることは、どなたかが旅行に行かれて、ふと立ち寄った古本屋で『読むのにはつらいけれど、非常に珍しいドイツ語で書かれているから、記念の土産物として買った』ということぐらいです」 「いや、お見事です、フィオナさん…」 パイプを手にしたドイルが目を細めながら現れた。「…わたしがスイスで療養中の妻の見舞いの帰りに足を伸ばしたのです」 (なぜそんな本をこんな目につくところに立てかけておいたのですか?) メイドさんたちはドイルを白い目で睨み付けた。 「お一人で?」 「いや、この子たちと一緒に…」 だんだんとヤバくなってきた。 「この暮れの押し詰まった時期に、ブライディーを借りだして? ということはまた何か事件がらみの冒険ですね。お差し支えなければ、ぜひお聞かせください」 「ドイツやオーストリアにも、ここ『英国心霊研究協会』や『黄金の暁団』のような、魔術を研究する集まりがあるのでしょうか?」 オクタヴィアはすがるような目でドイルたちを見つめた。 「いえ、残念ながら大した収穫はありませんでした。…向こうにも我が国と同じような集団はあるでしょうが、ぼくも詳しくは知りません」 「そうですか…」 二人の令嬢は少しガッカリした様子だったが、またすぐに世間話に戻った。 帰り際、馬車に乗り込もうとしたフィオナとオクタヴィアに、デイジーが辺りを見回しながらソッと素早く囁いた。 「あのね。あたしたち、オーストリアのあるところでヴァイオレット様を見つけました。でも、ヴァイオレット様は何者かに操られているご様子でした。あたしたちも危うく操られるところでした。だから、ドイル様は『絶対に黙っていろ』と…」 令嬢たちは凍り付いた。 「何ですって!」 「有難う、デイジー」 オクタヴィアは数枚の心付け用の銀貨をデイジーの手に握らせた。「よく言ってくれたわ。本当に有難う」 「オクタヴィア様、くれぐれも軽はずみなことはお慎みください」 馬車を動き出してからフィオナが言った。「…ドイル様がわたくしたちに打ち明けて下さらなかった、ということは、ヴァイオレット様を取り込んでいる相手は相当の相手か、と…」 「ええ、分かっています。分かっていますとも…」 オクタヴィアが眺める馬車の窓の外、雪が降り出した… (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com