ブライディー・ザ・マジックメイド

 相場師メイド・プリムラ

「今年は英領インドと、英領セイロンの紅茶が不作だ。けさ、大きなプランテーションをやっていてる弟から国際電報が来てね」 革張りの安楽椅子に深く腰をおろした年配の紳士がふと思い出したように呟いた。「…だが、リプトン社と、トワイニング社だけは、例年なみの品質と量を確保したらしい」
「すると、紅茶の商品相場と、リプトン社とトワイニング社の株価は上がりますね」
 向かい合った安楽椅子に浅く座った、金髪の、まるで王立シェークスピア劇団のハムレット俳優のような目鼻立ちの整った青年が言った。
「ああ、わしはすでに数万ポンドつぎ込んだよ。数ヶ月で三割…とまではいかないだろうが、一割…いや、上手く行けば二割の値上がりは見込めるだろう」
「ぼくも買っておきましょうかね」
「いやいや、ハートレイ男爵、そんな程度の儲けではつまらんよ」 別の紳士が白い山羊ひげを撫でながら言った。「…アメリカにヘンリー・フォードという若い技師がいる。いまはまだエジソンの下で働いているが、自分で設計した自動車を走らせることに成功したそうだ。量産するためには工場を建てねばならず、もちろん資金がいる」
「『フォード』…その名前は聞いたことがありますよ」
 ハートレイは小さく頷く。。
「『有望株』だよ」
 そこへ、ヘーゼル色の瞳と髪をした、十七、八歳の物静かなメイドが、しずしずとお茶と菓子を運んできた。
「ライフゲート社という実体のない会社があるのだがね」 山羊ひげの紳士人が声を潜めて隣に座った紳士の耳に囁いた。「社長が割の良い投資話で金をかき集め、自社株の売り買いを繰り返して値をつり上げているんだよ。高値を付けたところで一気に売り飛ばして大陸に夜逃げするつもりらしい」
「それは詐欺だろう。知っているのなら警察か証券取引所に電話してやらなければ…」
 隣の紳士は山羊ひげの紳士よりもさらに声を落とした。
「シッ、実はわしはライフゲート社の株を安い時に少し買ったんだよ。少しとは言っても数万ポンドだがね。いま十数万ポンドに値上がりしている」
「莫迦な! いくら値上がりしていても持ち続けていれば、ある日突然紙くずになるぞ」
「紙くずどころか、錬金術さ。インチキ社長よりも一日だけ早く、全部売り飛ばせばね」
「君にはその日が分っているのか?」
「それはあさってさ。明日、あと一、二割値上がりしたあとでね。だから明日の朝、100ポンド買っておけば、夕方には120ポンドになるよ。そしてあさってには紙くずさ。どうだい、貴男も一口? たった一日で二割の儲け。高利貸しもまっ青さ」
「やめとくよ。知っていて尻馬に乗るのは犯罪の片棒を担ぐことになる」
 隣の紳士は顔をしかめた。
(「リプトンとトワイニング紅茶会社」…アメリカのフォードという若い技師… そして、ライフゲート社…)
 年長の客人から順に、丁寧にお茶を淹れながら、ゆっくりと名前を刻み込んだ。
「プリムラ、もう下がっていいよ。それから、鈴で呼ぶまで来なくていいからね」
「かしこまりました」
 プリムラと呼ばれたメイドは一礼して下がった。

 厨房では四、五人のメイドたちが手際よく晩餐の支度に大わらわだった。 下ごしらえやサラダ用の野菜を切る包丁の音が響き、スープのだしの香りが漂っていた。 もう少しすれば、上等の魚や肉を焼くたまらなく美味しそうな匂いもしてくるだろう…
「プリムラ、電報が来ていたよ」
 年配のメイド頭が心配そうな表情で手渡した。プリムラの表情も曇った。
「あの… いまここで読んでも構いませんか?」
「もちろんよ」
 メイド頭が用意していたハサミを差し出す前に、細い指が封をぴりぴりと破いた。
「どう? デボンシャーの郷里のご家族の具合でも悪いの?」
「いえ」 プリムラは少しこわばってはいるものの、笑顔を作って答えた。「…よいお医者様が見つかった、とのことです…」
「そう、そりゃあ良かったね」 メイド頭は晴れ晴れとして言った。「…でもそれだけのことをわざわざ電報にするかね? …気を悪くしないでよ。もしもお金のことが書いてあるのだったら遠慮なく言っておくれよ。困ったときはお互い様なんだからね」
「あ、はい… お言葉に甘えて、後でお願いします。旦那様がたはもうじき食堂に移られると思いますので、お皿を並べ出してきます」
 電報を細かく折りたたんでエプロン・ドレスのポケットにしまうと、仲間のメイドたちとともに駆け出して行った。

 晩餐会では、主人のハートレイ男爵も、客人の紳士がたも、金儲けの話は一切せず、今週幕を開けたオペラや、美術展、互いの親戚たちや友人たちをめぐる他愛のない話ばかりをしていた。
 その夜は、料理の出来は悪くなかったのにも関わらず、多くの食べ残しが出て、無惨にも捨てられた。
(ああ、こんなごちそうをメアリーに… 妹に食べさせてやることができたら…)
 ゴミ箱に吸い込まれていく残飯を見つめながら、プリムラは溜息をついた。

 翌日、ハートレイ男爵は朝早くから愛馬を駆って、付け人を従え、一ヶ月ほど前に誘われ、楽しみにしていた狩りへと出かけていった。
 プリムラたちはその日、男爵の書斎を掃除する当番だったが、もう一人のほうが風邪で高熱を出して寝込んでしまった。
「プリムラ、一人で大丈夫かい?」
 メイド頭が両手を腰に当てて声をかけた。
「ええ、大丈夫です」
「そうかい。掃除は朝と夕方の二回、旦那様はきょうは夜までお戻りにはならないが、朝の掃除も手を抜かないようにね」
「もちろんです。かしこまりました」
 いつもと同じように、だが一人で、掃除を始めた。
 それは、拭くことができないところにハタキをかけている時、目に飛び込んできた。
 プリムラが生まれて初めて見る100ポンド紙幣、それもぴかぴかの新札が一枚、積ん読の本の上にまるでメイド部屋に髪結いの割引券が置かれているように置かれていた。
(…これが100ポンド紙幣…帝国で最高額面のお金… こんなものどうやってに使うのかしら?)
 思わずしげしげと眺める。
(…そうか、賭けの勝ち金よ)
 メイドさんは男爵がことあるごとに友人の紳士がたと、競馬やサッカーやラグビーの試合、王族がたの結婚離婚や、貴族院の選挙結果、果てはゴルフに行く日の天気を賭けのネタにしていることを思い出した。
(…これが、わたしの半年間のお給金よりも高いお金…)
 ため息とともに、ある考えが閃いた。
 以後、紙幣のほうは見ないようにして、本箱の縁や机の上、明るい光が差し込む窓を、これ以上はできないくらいに丁寧に拭き、絨毯の上に茶殻を撒いて、これもまた丁寧に掃いた。
 部屋から出る前に、もう一度本の上に目をやると、100ポンド札はそのままそこにあった。それは、一枚の紙切れに過ぎなかったが、メイドさんの目にはモーゼの十戒を刻んだ石版のように映った。
(…掃除をしている最中に、ほかの子が来て、あれを見つけたら一緒に報告するつもりだったけれど…)
 荒れた手が何度もゆっくりとその紙幣に伸びかけては止った。
(ただ持ち去っては、泥棒よ。だけど、夕方に戻すことができれば… そう、夕方までに100ポンドを…)
 やがて、小刻みに震えるその手がついにつかんだ。エプロンドレスのポケットに、メイドさんの一年分の涙と汗が納まった。
 プリムラは掃除道具を手にしたまま、応接間や食堂を巡って他のメイドたちの掃除ぶりをチェックして回っていたメイド頭のところへと行った。
「あの… 書斎のお掃除、終りました」
「そう、ご苦労さん」
「あの…」
 メイド頭の次の指示を遮るようにして、プリムラは顔を上げ、目を見つめた。普段は滅多に相手の言葉を遮ることがない子だったが…
「どうかしたの?」
「お願いします。すいませんが夕方、四時くらいまでお暇を頂けないでしょうか?」
 メイド頭は、すでに風邪で一人寝込んでいることを思い出し、断りかけて口ごもった。「…そうかい。昨夜の電報のことだね。故郷の家族に為替でも送るのかい? …でもそれだったら執事の…に頼んでおけば確実に…」
「ほかにもいろいろありまして…」
 何とも言えない悲しそうな表情にメイド頭が折れた。
「やれやれ、仕方がないね。四時には戻ってきておくれよ」
「はい!」
 プリムラは顔を輝かせて走り去った。
 私服に着替え、大通りに出ると、これまたほとんど乗ったことのない辻馬車を呼び止めて乗り込んだ。
「○○街の英国心霊研究協会に行ってちょうだい! 着いたらそこから先の分のお金も払うから、そのまま待っていて!」

 勝手口のベルがカランカランと鳴った。
 牝鹿のような素早い足取りでドアを開けると、そこには「白詰草亭」以来の同僚で友だちのプリムラが、切羽詰まった顔をして立っていた。
「プリムラさん、一体どうしたの?」
「お願い、ブライディーさん。勝手なお願いをして悪いけれど、何も言わずに夕方まで一緒に付いてきて!」
「いきなり来て、急にそんなことを言われても…」
「事情は馬車の中で話すわ。聞いてもらえれば必ず納得してもらえるから… 少しのあいだだけだったら、デイジーちゃんも、ポピーさんもいるのでしょう?」
 幸いその日は、大した用事のない日だった。
 訳がわからないうちに馬車の中の人になったブライディーに、プリムラは御者に聞こえないように声を潜めて語り出した。
…昨夜届いた電報に電報に、故郷で病気療養中の妹について、「良イ医者ガ見ツカッタガ診察料薬代高額。無理ノナイ範囲デ仕送リヲ増ヤシテオクレ」と打たれていたこと。
…昨夜、お仕えしているハートレイ男爵の友人たちが「秘密の儲け話の会」で、たまたま「ライフゲート社の株がきょう一日で一、二割上げ、明日には予め仕組まれていた倒産をする」という話をしていたことを小耳にはさんだこと。
…男爵邸のメイドたちは互いに頼母子講、無尽講を組んでいて、「医者に対する見せ金」の名目で100ポンドという大金を三日間だけ借りられたこと…
「それじゃあプリムラ、貴女はその100ポンドでライフゲート社の株を買い、夕方には売り払って利益を得るつもり?」
 ブライディーは呆れかえった。
「ええ、そうよ。男爵様のお友達のお話は、これまで一度だって外れたことはなかったもの…」
 プリムラは落ち着いた声で言った。
「もしも株の値が動かなかったら、手数料を払うだけでいいでしょうけれど、万一下がったらどうするつもりなの?」
「大丈夫、ネタは絶対確実よ!」

 二人は「シティ」にあるロンドン証券取引所のすぐ近くにある、「ソロモン兄弟社」の入口をくぐった。
 山高帽にフロックコートの投資家たちが、ホール壁一面の大きな黒板に、梯子に乗ったお仕着せの臙脂色の上下に金ボタンの少年たちの手によって黒板消しで消されては最新の値に書き換えられるのを、固唾を呑み、一喜一憂しながらじっと眺め続けている…
 何台もある電話のいくつかは常につながりっぱなしで、難しい顔をした社員たちが受けていた。空いている電話が鳴って、すでに左手に受話器を持っている社員が右手でその受話器を取ると、場内に新たな緊張が走った。
 時おり銘柄とその最新の値が短く叫ばれた。
「お嬢様がた、何か御用でしょうか?」
 背広を着た社員が、慇懃に声を掛けてきた。「ええ、紳士がたのなさる『運試し』というものを一度してみたくてね」 プリムラはニッコリと微笑んで答えた。「…それも競馬みたいなものじゃあなくて、株を…」
「…まことに失礼ですが、弊社では100ポンド以下のお取引はご遠慮願っているのですが…」
 社員は二人の質素なドレスを値踏みするように眺めてから言った。プリムラは馬車の中で入念に皺を伸ばしてきた100ポンド紙幣を取り出して見せた。
「…じゃあ、きっかり100ポンド…」
「は、はぁ…」 社員はまだ怪訝な顔をしていた。「…で、どの株に致しましょう?」
「ライフゲート社の株を…」
「ライフゲート社ですか。それはお目が高い…」
 そう言いながらも、社員の声はまだこわばっていた。
(ドイル様やドッジソン教授をはじめ、「心霊研究協会」の皆様がたは、お金の話なんかほとんどなさらないけれど、ハートレイ男爵様とそのご友人のかたがたは、主にそのようなことに興味をお持ちなのかしら?)
 ブライディーは、緊張で身を固くしながらそんなことを考えていた。
「…それでは、こちらにお名前とご住所を。値上がり後に売却された場合、税金を申告する時に必要ですので…」
「ブライディー、お願い、貴女の名前にして!」
 社員が別の書類を取りに席を外しているあいだにプリムラが手を取ってすがった。
「え、ええ…」
 あまりの勢いに、また引き受けてしまった。
「英国心霊研究協会・気付」と書いても、社員は何も言わなかった。
(たぶん投資する人の秘密を守るのが大切なことなんだわ」
 メイドさんは思った。
 手続きが終っても二人はホールを立ち去らず、臙脂色に金ボタンのお仕着せの少年たちが、まるで軽業師のように書き換えていく相場の値段をただジッと眺めていた。
 やや年上で大柄の少年たちが梯子をススーッと横に滑らせた。「ライフゲート社」と書かれたすぐ横に書かれたチョークの数字が黒板消しで丁寧に消された。
 プリムラは息を呑んで、つま先で立って首も背も伸ばした。
 新たに書かれた値段は先ほどよりほんの少し高く、「+5」と書き添えられていた。
「やった! やったわ、ブライディー、有難う!」
 抱きつかれたブライディーは困った。
「+7」…「+9」…「+10」
 ライフゲート社の株の値は、ハートレイ男爵の友人の山羊ひげの紳士が言ったとおり、小刻みに上がり続けた。
 前場終り、後場が始まった。昼食の時間が過ぎても、二人のメイドさんたちは投資家の紳士たちに混じってマネキンのように立ちつくし、目は、ほとんど黒板の一点から動かなかった。

「+15」…「+17」…「+18」
 午後二時半、後場…きょうの取引が終る三十分前、ハッと我に返ったプリムラは、先ほどの社員をつかまえて言った。
「お願い、朝わたしたちが買った株を、全部売ってちょうだい!」
「は?」
 社員は怪訝そうな顔をした。もっとも、質素なドレスの若い淑女が二人、有り金全部使って株を買ったあとも立ち去らず、ずっと値が書き換えられる理のを眺めていたことについても、奇異な感じを抱いていた。
「聞こえた? ライフゲート社の株を全部売ってお金に換えて欲しいの」
「それはもちろん結構ですが、ライフゲート社の株は、きっと明日も上がり続けますよ。手前どもがお勧めしている銘柄でもあります。そのままお持ち続けられては?」
「何でもいいから、元の現金にしてください!」
「は、はぁ…」
 取引が終る間際、プリムラのライフゲート社の株は全部売却され、手数料や税金が引かれて115ポンドが支払われた。
 一日で15ポンド。…新入りのメイドさんの一ヶ月分の給金ほどの利益を得た。
「お願い!」
「まだ何か?」
「この百ポンド札、筋が付いているけれど、新札にして! わたしが持ってきたのはぴかぴかの新札だったでしょう?」
「あいにくですがお嬢様、ちょっと新札は切らしているようです。新札に近い、きれいな札なら…」
「だったらそれにして!」
(おかしいわ…) ブライディーは小首をかしげかけた。(「ハートレイ家のメイドたちの頼母子講」で借りた「お医者様への見せ金」のお金なら、どうして新札にこだわるのかしら? 貸付係のメイドさんは、むしろ古い十ポンド紙幣10枚で返してもらったほうが嬉しいと思うけれど…)
 しかし何も言わなかった。
 プリムラは115ポンドをハンドバッグの中には入れず、ドレスの内側の隠しポケットに入れて証券会社を出た。
 それから近くの郵便局で、最初から別にしてあった10ポンドと会わせて25ポンドの為替を作り、書留で故郷へと送った。
「とりあえず、これだけあったらいいのよ」 そう言うプリムラはとても嬉しそうだった。(100ポンドのほうは、お医者様に見せなくていいの?)
 ブライディーはそう思ったものの、口に出して尋ねることはできなかった。

「有難う、ブライディー。きょうは本当に助かったわ。何かお礼をしたいけれど… できなくてごめんなさい…」
「英国心霊研究協会」の、勝手口の前で辻馬車を止めさせ、プリムラは目を伏せた。
「うううん… ご家族に一ペニーでも多く仕送りしてあげて」
「すまないわ…」
 馬車を降りたブライディーに向かって、小さく手が振られた。
「あの… プリムラ。訳は訊かないけれども、こんなことはもうこれっきりにしようね」
「ええ、そうするわ」
 その声には、なぜかいつもの明るさがなかった。

 ハートレイ男爵邸の近くまで戻ったプリムラは、そこで辻馬車を降り、歩いて帰った。メイド頭にお礼とお詫びの挨拶をしてからおずおずと尋ねた。
「…あの、あの子の風邪は良くなりましたか?」
「熱はだいぶ下がったようだが、仕事に戻るのはまだ無理なようだね」
「そうですか… でも熱が下がったのは本当に良かったです」 その言葉には、心から安堵がこもっていた。「書斎のお掃除が終ったら、看病をしたいと思います」
「ああ、そうしておくれ」
 朝と同じように、バケツにホウキ、はたきなどを持って書斎に入ったメイドは、ゆっくりと部屋全体を見渡した。
 もちろん男爵はまだ帰っていなかった。狩りの後は当然パーティになり、おいそれと辞去することはできない。特に、ハートレイ男爵のように「確かな、あるいは確かではない情報」を何より重んずる貴族にとっては、さらにその後のカードゲームなどもおろそかにはできず、結局相手の貴族の、郊外の下屋敷に泊まってしまうことが多かった。
 プリムラが100ポンドを拝借した積ん読の山も、まるで何事もなかったかのようにそのままそびえていた。
 純白のレースのカーテン越しに見える窓の外、夕暮れの庭園には幸い誰もいない。廊下を歩いてやってくる足音も聞こえない。
 エプロン・ドレスのポケットから100ポンド紙幣を取り出すと、はじめ置いてあった時と同じ位置に置いた。
(…そうよ、男爵様にとって100ポンドなんて、ほんのはした金なのよ。ここにこうして置いた、ということすらお忘れかもしれなくらいだわ) と、心の中でつぶやきながら…

 翌日の昼下がり、ブライディーが午後のお茶を持って談話室に入ろうとすると、会員の中で最も気難しいと思われているデュード侯爵がいきなり追い抜いて、怒鳴るように皆に言った。
「諸君たちの中で、ライフゲート社の株を買っている者はないだろうね?」
「ぼくは持っていませんよ」 びっくりしたように読みかけの新聞を畳んで脇に置いたドイルが、穏やかに答えた。「…いちおう探偵小説作家ですからね。証券会社や新聞雑誌の投資指南欄などは鵜呑みにせず、銘柄は自分で業績や評判を確かめて選んでいますよ。そのほうがもしも下がったとしても納得がいきますからね」
「株や商品相場…あれは純粋に数学的なものではないよ」 ドッジソン教授が目をしばたたかせながら言った。「…どちらかと言うと、俳優やオペラ歌手が劇場を満員札止めにできるかどうか企画する興行師たちの世界に近いね。実際の芝居やオペラの脚本や音楽、演出や演技の出来不出来もあるだろうが、出演している男優と女優の浮き名や、パトロンのご機嫌に大きく左右される、人文的なものだと思うよ」
「だったら良いのだがね…」 デュード侯爵は吐き捨てるように言った。「…昨夜、社長と取り巻きたちが夜逃げをしたらしくてね。株式や債権が紙切れになってしまった。号外が配られていたが貰い損ねた」
「ええっ、それは本当ですか?」
 談話室にいた何人かの会員たちの顔が青くなった。
 ブライディーもポットやティーカップを乗せたお盆をひっくり返しそうになった。
(ライフゲート社! きのうの朝、プリムラが100ポンド分買って、お昼過ぎには全部売ってしまった株じゃないの! きのうはたった数時間のうちにとても値上がりた15ポンド分を、実家への仕送りに加えていた…
 まさかあの子、ライフゲート社の一味じゃあないでしょうね?)
「どうしたブライディー、顔色が良くないぞ?」
 ドイルが安楽椅子に腰掛けたまま見上げた。「メイドの心配などしている場合じゃない!」 侯爵は地団駄を踏んだ。「おまけに名前まで使われて… わしのところにねじ込んでくるやつがいるかも知れない」
「友人にも勧めたりしたのかね?」
 クルックス会長が重々しく尋ねた。
「ああ、最初のうちは利子や配当の支払いも滞りがなかったからな」
「そいつはたぶん大物の詐欺師ですよ」 ドイルは気の毒そうに言った。「最初から小銭をだまし取るだけの雑魚じゃありません。おそらく大きなバックがあり、元手もかけている組織ぐるみの犯行ですよ」
「昆虫のナナフシなんかは小枝そっくりの姿をしているんだよ」 投資などとは一番無縁そうなウォーレス博士がつぶやいた。「…相手が入念に策を練り創意工夫をして本腰を入れて欺こうとしているのなら、罠に落ちても不思議ではないと思うよ」
 デュード侯爵は身体をわなわなと震わせながら返す言葉がなかった。
(プリムラは知っていたのだわ…) ブライディーは、ハンカチで顔の汗を拭ったり、溜息をついている会員たちのあいだを、少し震えながらお茶を注いで回った。(…きのう、ライフゲート社の株が確実に値上がりすることを… そして、きょうには破産してしまうことを… きっと、ハートレイ男爵様か、お客様のどなたかが話をしているのを小耳にはさんだのに違いないわ。その時は図らずも「これっきりにしましょうね」と言っておいたけれど…)

 同じ頃、ハートレイ男爵のロンドンの上屋敷でも、男爵と仲間が集まって午後の紅茶を飲んでいた。…こちらは「心霊研究協会」と違い、怒ったり興奮したりガックリしている者は一人もいなかった。
「やっぱり、でしたね」 男爵はにこやかに山羊ひげの紳士に語りかけた。「…世間は蜂の巣をつついたような大騒ぎですよ」
「…ライフゲートの社長はいい奴だったよ」
 山羊ひげの紳士はニコニコしながら答えた。「…たんまりと儲けさせてくれた。できることなら捕まらないで、コスタリカあたりへ逃げ延びてくれることを祈るよ」
「彼はスペイン語も話せたのですか? だったら逃亡先にはことかきませんね」
「さぁてね…」 紳士はプリムラがいれた紅茶を啜りながら言った。「英語しか話せなかったとしても、英領ヴァージン諸島、英領ギアナ… 英領ザンジバルに英領ボツアナに英領ニアサランドに英領ローデシア、そして英領香港。旅行するのに旅券も査証も要らず、総督の地位さえ金で買える魔窟みたいな植民地は掃いて捨てるほどあるさ」
「海もまた広いですからね」 と男爵。
「そういうことだ」
 山羊ひげの紳士は片眼鏡の奥のガラス玉のような瞳をしばたたかせた。
「もっといい話はありませんか? いや、もっと危ない話でもいい」
 一座の誰かが言った。
「あるとも。『汲めども尽きぬ』と言っても過言ではない」
「ぜひ一つ、二つお聞かせ頂きたい」
 紅茶を注ぐプリムラの手の動きがこころなしか少し遅くなった。

「そうだな…」 紳士は顎に形よく生えた白いひげを撫でながら語り始めた。「ハートレイ男爵、君ほどの人物には『釈迦に説法』だと思うのだが、直感や勘はあまりアテにはならんよ」
 男爵をはじめ、一座の紳士たちは大きく、あるいはちいさく頷いた。
「…同じように、折れ線グラフも大して役には立たない。実際に利益をもたらしてくれるのは情報だ。それも新聞や雑誌に載っているようなものはもう遅い。バッキンガム宮殿に集う貴顕淑女たちや、政府の高官、高級軍人たちが何気なくふと漏らしたり囁かれたりした言葉、そういうものに耳をそばだてていなければならない…」
 山羊ひげの紳士がもったいをつけているあいだに、プリムラともう一人の同僚のメイドは紅茶を注ぎ終わり、砂糖を控えたスコッチ・ケーキを配り終った。
「…もう下がっていいよ、プリムラ。いつもながらうちのメイドたちの中で、君が淹れてくれる紅茶が一番美味しいね」
 ライフゲートという落とし穴にはまらないで済んだハートレイ男爵とその仲間は上機嫌だった。
「有難うございます」
 これから先に語られるだろう興味深い話を聞きそびれたプリムラは内心ガッカリしたが、もちろんそんなことはおくびにも出さず、同僚とともに一礼して談話室を辞去した。

 数日後、プリムラはデボンシャーの故郷の家族から手紙を受取った。
「どうだい、プリムラ、妹さんの具合は…」
 メイド頭が心配そうに覗き込んできかけたので、あわてて封筒に戻した。
「お陰様でだいぶ良くなってきたとのことです」
 それは本当だった。日頃は貴族や郷紳しか診ない名医が処方した高貴薬が効いたらしい、とのことだった。
『…だから、本当に無理を言って済まないけれど、男爵邸のメイドたちの頼母子講が許してくれるのなら、あと25ポンド…いや10ポンドでいいから送っておくれ』とつけ加えられていた。
「…そうかい。余計なお世話かも知れないけれど、お金のことが書いてあるのなら遠慮なく相談しておくれよ。当家使用人の頼母子講の貸し金の限度額は10ポンドだけれど、15ポンドくらいまでは何とかしてあげられると思うから…」
「有難うございます。いよいよの時はよろしくお願い申し上げます。旦那様の書斎の掃除をして参ります」
 プリムラはペコリと頭を下げると、そそくさと下がろうとした。
「ああ、相棒のあの子だけれどね、知ってると思うけれど、咳が治らないから念のため町医者に診せることにしたよ。すまないけれどきょうも一人でやっておくれ。…万一のことがあったら、可愛そうだけれど暇を取らせなければいけないね…」
 メイド頭はそう言って目を伏せた。
(わたしだって、メイドや使用人仲間の誰かだって、病気で倒れたら同じことになるわ…)
 プリムラは暗い気持ちでハートレイ男爵の書斎に向かった。
(…もう、このあいだのような、あんな幸運なことはないでしょうね…)
 ところがそれが、あった…というか続いたのだ。
 男爵の大きく立派なチーク材の机の上の積ん読の本の山の頂には、手の切れるような100ポンド紙幣が数枚、メイド部屋の「シンガー・ミシンの講習会」のチラシのように無造作に置かれていた。
(…でも、きょうはもう、ライフゲート社みたいな情報はないし…)
 ところがそれもあったのだ。机の上の拭き掃除をしかけた時、メモの走り書きがヘルメスの飾りの付いたクリスタルのインク壷の下に置かれていた。
『フォックステール社 仕手株 仕手戦。+15、+20まで行くか?』
 男爵の筆跡で、きょうの日付とともに、そう書かれていた。
「すいません。…急に気分が悪くなって…」
 プリムラはメイド頭にそう申し出た。「…近所の、薬草を安くで処方してくださるお婆さんのところに行ってこようと思います」
「そんなんでいいのかね? 置き薬ならひと揃い置いてあるよ。お医者さんを呼んでも…」
「いえ、置き薬はきつ過ぎてかえって… わたしはお婆さんのお薬が一番合っているんです」
 真顔で心配してくれるメイド頭を残して飛び出していくのは押し潰されるような良心の呵責を感じたものの、それ以上に(千載一遇のチャンス)と胸の高鳴りを感じた。
(拝借した100ポンド札は全部で5枚、計500ポンド。もしもバレたら、それこそお婆さんになるまで刑務所に行かねばならないような大金。しかし、きょう一日で、100ポンドにつき+20の値上がりをするのなら、500で100、そう、100ポンドの利益…)
 今度はもう「英国心霊協会」のブライディーのところにも寄らずに、直接またあの証券会社の玄関をくぐった。

「これでフォックス・テールという会社の株を買えるだけ買ってください」
 プリムラは100ポンド札を五枚、そっと差し出して言った。
「フォックス・テール社ですか?」 このあいだの社員が眉をひそめた。「…あまり業績が良くない会社ですよ。もっとも、創業は古くてロンドンのあちこちに半端な土地や古い建物をいっぱい持っているので、ライフゲート社みたいなことにはならないでしょうけれど…」
「とにかくお願いします!」
「分りました。きょうは貴女お一人なのですね? もしもこのあいだみたいに値上がり後に売却された場合、税金はもうお一人のかた…確かブライディーさんとおっしゃった…につけておいてよろしいでしょうか?」
「え、ええ」
 それから一時間もしないうちに動きがあった。
「主任、とある大貴族の代理人のかたが、フォックス・テール社の株を一万株買いたい、と申しておられますが…」
 電話を受けていた社員の一人が受話器を手のひらで覆いながら言った。
「一万株? そんなにあるかな? …まぁいい、とにかくうちも商売だ。売り手があるのだったらかき集めて売って差し上げろ!」
「分りました」
 各銘柄が書かれた大きな黒板の前の梯子が動かされ、バッキンガム宮殿の衛兵をミニチュアにしたようなお仕着せを着た少年によって、フォックス・テール社の値が書き換えられた。
「+5」
 プリムラは思わずニッコリと微笑んだ。
「主任、ほかの証券会社にも『フォックス・テール社の株を買いたい』という注文が入っているようですが…」
「なんだろう? もしかして、政府がフォックス・テール社の持っている二束三文の地所に、何か公共施設を建てるような計画が漏れでもしたのだろうか?)
「+7」
 プリムラは顔をほころばせ、胸の前で組んだ手を震わせた。
(やっぱりハートレイ男爵様の情報は間違いないわ。旦那様のメモの通りにしていれば、わたしも安アパートを持てるくらいの財産を築くことができるかもしれない…)
「主任、またフォックス・テール社に大規模な買いです。店長に報告しておきますか?」「そうだな…」
「+10」
(まだ昼前だと言うのに、+10、100ポンドにつき+10ということは、500ポンドだと50ポンドの利益。すごいわ… でも、一度に50ポンドも送金すれば、田舎の家族は、わたしがそれこそ何か悪事でも働いたのでは? と心配するでしょう。何かよい理由を考えなければ… 「宝くじに当った」? だめだめ… 「ボーイフレンドが貸してくれた」…これもだめね…)
 フォックス・テール社の株は、昼を過ぎても小刻みに、そして時おり大きく上がり続けた。
「+12」…「+14」…「+15」
「会長からの指示です。『そろそろフォックス・テール社の株の取引を中止するように…』と。『特に根拠もないのに、一日でこのように値上がりするのはあまりにも不自然だ』と…」
「あの…」
 プリムラは傍目にも狼狽の色が隠せない社員にむかっておずおずと切り出した。
「あの… さっきフォックス・テール社の株を全部売ってください」
 社員はいまやはっきりと胡散臭そうな目で彼女を見つめた。
(なんなんだ、この娘は? このあいだのライフゲート社のときといい、きょうといい、どうして一日で上げる株を知っているんだ?…誰かの使い走りか? いやいや、それなら額が小さすぎる。500ポンドは普通の市民ならもし盗めば終身刑になる大金だが、投資家の諸卿にとっては床に落としたポーカーチップ一枚に過ぎない…
 これは何かの悪い冗談だろうか? それとも…)
「あの… わたし、占いをするんです!」
 プリムラは相手に尋ねられる前に切り出した。「…タロット・カードや、安物の水晶球や、ダウジングの棒を使って…」
 彼女は、ある時、ブライディーに見せてもらった占いのグッズやアイテムの数々を懸命に思い出しながら言った。「…自分で言うのも何ですが、ここのところものすごく霊感が冴えていて、一日で値上がりする株が浮き上がって見えたんです!」
(翌日には紙切れになる、ということもですか?)
 言いかけた社員は、ぐっと言葉を飲み込んだ。
「おい、どうした? 小口でも大切なお客様だ。フォックス・テール社の株はまだ取引停止にはなっていない。売りたいとおっしゃっているのなら、売ってさしあげろ」
「はい、わかりました、主任…」
 こうして、プリムラの手には500ポンドの元金と、手数料などを差し引いた売買益75ポンドが支払われた。
「75ポンド…」
 プリムラは天にも昇る気持だった。

(どうしよう、こんな大金…) プリムラは城に招かれたシンデレラのようにドキドキしていた。(…直接、田舎に送ったら、みんなきっと「プリムラは、何か悪事でも働いたんじゃあないか?」と疑って心配するに違いないわ。どうしよう?)
 悩みつつハートレイ男爵邸に戻り、夕方の掃除の際に500ポンドを積ん読の山の上に戻した。
(やれやれ… これでもう悪いことをしたことにはならなくなったわ) ホッと胸を撫で下ろした。(…置き忘れられた大金、耳にし目にした情報、掃除の相棒の風邪、頂けた昼間の休み…幸運が四つ重なって、それも二度続けて…)
 メイドさんは心から神様に感謝した。
 労せずして75ポンドを手に入れた理由は、なかなか考えられなかった。
(「宝くじに当った」? だめだめ… 「古道具を買ったら中から出てきた」…これもいま一つ…)
 そんなことを考えていると、料理の手伝いや皿洗い、掃除をしていてもつい笑みがこぼれるのだった。
「ねぇプリムラ、このごろとても楽しそうだけれども、何かいいことでもあったの?」
「デボンシャーの妹さんの病気がいいほうに向かっているの?」
「それとも誰かいい人ができたの? 例の出入りの内装職人の徒弟?」
 同僚のメイドたちが尋ねられた時は「内緒、内緒…」と答えるだけだった。
 いつものように、男爵が主宰するお茶会で、バラのような頬をこころもち赤くそめて、いつもより一層丁寧に紅茶を注いで回るのだった。
「さっきのあのメイドの一人だがね…」 メイドたちが下がったあと、山羊ひげの紳士が声を潜めて切り出した。「…あの子によく似た娘を、シティのソロモン兄弟証券会社の取引値の大掲示板の前で、チラッとだが二度ほど見かけたよ」
「ははは、それは他人の空似でしょう」 ハートレイ男爵は笑いながら答えた。「…メイドが株の取引などするわけがない」
「一度目はライフゲート社が破産する前日。 その次は我々がフォックス・テール社に対して仕手戦を仕掛けた日だった」
「まさか…」
 居合わせた紳士たちは互いに顔を見合わせた。
「…絶対にあり得ない、ということもありませんぞ」
「我々の話が聞かれているのか?」
「しかし資金はどうしているのでしょう?
 メイド仲間の頼母子講か何かの金でしょうか?」
 男爵は少し顔を青ざめさせながら言い、それからハッとして顔を上げた。
「…もしや書斎の… 絶対に値上がりすると分っているのなら… 後で元金だけ返しておくことができるのなら… ぼくは、定例のこの会以外は留守がちだし…」
「もし心当たりがあるのだったら困りますぞ、ハートレイ君」
 一同が険しい目で男爵を睨んだ。
「あ、いえ… そういうわけでは… 皆様の思い過ごしでしょう」
「そうか、それならそれでいいのだが…」
 皆は渋々鉾を収めた。
 収まらないのはハートレイ男爵のほうだった。胸の中に湧き上がった疑心暗鬼の群雲は頭の中まで覆い尽くして消え去らなかった。晩餐会が終り、客人たちを送り出した後、書斎に戻った。
 ポケットの中から、友人たちとラグビーやサッカーの試合の予想を賭けの対象にして勝った現金、何枚かの100ポンド紙幣をぞんざいに、毎回買ってはみるもののあまり読まない、会の仲間で話題の本…これからの世界や経済情勢について書かれた…本の上に置いた。
 男爵にとってはオペラの半券くらいの、なくなってもどうということはないものの…感覚だった。
 机の上には、「ちょっといい」と思ったことや「役に立ちそうなこと」を走り書きしたメモが何枚か、散らかっていた。
 どれもいつかノートに書き写そうと考えてそのままになっているものだった。
(まさか… まさかなぁ… しかし、プリムラがこの部屋の掃除を担当していたとしても不思議ではない…)
 男爵は紙幣を鷲づかみにして、ひきだしの中に突っ込もうとしたが、どのひきだしの中も結構いろんなものがぎっしりと詰まっていて、さらに詰め込む余裕はなかった。
 メモも適当に揃えて同じようにしまい込もうとしたものの、これまた適当なしまい場所がなかった。
(そうだ、確かめる手があるぞ!)
 男爵の脳裏に、一つのアイデアが閃いた。 メモを手に取ると、何か短い書き付けて、目に付くところに置いた。賭けの勝ち金の100ポンド紙幣も、いつものように積ん読の山の上に置きっぱなしにした。
(…こうしておけば、近々真偽がはっきりするだろう。まぁ、何も起きないだろうが…)

「ねぇ、プリムラ、あたしお暇になってしまうかな?」
 相部屋のメイドがベッドの中で何枚も重ねた毛布にくるまって力無くつぶやいた。
「そんなことないわ。ただの風邪だわ。治ったらまた一緒に働きましょう」
「…でも、お医者様は何とも…」
「『悪い』ともおっしゃらなかったのだから大丈夫よ」
「そうかなぁ… 再々休んでみんなに迷惑をかけているし… プリムラ、貴女にも旦那様の書斎の掃除を一人でさせてしまって…」
(そのお陰で、わたしにもついに運が向いてきたのよ)
 口に出しかけた言葉をぐっと飲み込む。
「さぁさぁ、早く寝ましょう。熱が引けば明日の朝からでも復帰できるかもしれないでしょう?」
「そうね…」
 蝋燭の明りを吹き消したプリムラは、古ぼけたカーテン越しに映る月を眺めながら思案した。
(…わたしも、もしも病気になったら、たちまち働けなくなってお金に困るわ… 利子だけで食べて行けるくらいの財産なんて夢のまた夢だし、年金はお婆さんになるまで頂けないし… この75ポンドを元手に、投資をやってみる、というのはどうかしら?
 旦那様の机の上のメモ書きの情報は確実よ。 その通りに株を買っていけば、月にいくばくかのヘソクリが可能だわ。そのうちのいくらかを実家への仕送りに足して、残りを繰り越していけば…)
 枕の中の75ポンドの紙幣は、数百、いや数千ポンドの金の卵を産む鶏に思えてきた。
(…そうよ、これならもしも病気になっても、お金を減らさずに、いや、むしろ増やすことだってできるかもしれない。このお屋敷をお暇すれば、情報を見聞きすることはできなくなるけれど、それまでに勉強すればいいのよ。『旦那様の投資術』を…」
 バラ色の未来を考えているうちに、安らかな眠りについた。

 翌日、プリムラは公休日だったが、同僚のメイドの熱がきれいに引かなかったために、代ることにした。
「ごめんなさいね」
「いいえ、いいのよ」
 男爵の書斎にある情報のことを思い浮かべると、明るく引き受けることができた。
「プリムラ、すまないわね。あんたも風邪に気をつけてね」
 メイド頭は重々しく言った。
「はい。有難うございます。こちらこそ今月は昼間に二日もお暇を頂いてすみませんでした」
「いや、あんたはいままでまったく病欠を取っていなかったからね。健康で丈夫なのは芸のうちだよ。…書斎の掃除が終ったら、きょうは堂々と休んでくれていいからね」
「それではお言葉に甘えて、昼間に買物をしてきます。夕方には仕事に戻ります」
「そうかい。そうしてくれると助かるよ」
 いつものように道具を抱え、ただしまた一人で書斎に入ったプリムラは、ハタキをかけて回った。本箱の縁を丁寧に拭き、机の上に取りかかろうとした時、いつものように本の上に数枚の100ポンド札が、まるでメイド部屋の「刺繍の内職募集のチラシ」のように置かれているのが目に入った。
(だめだめ、もうだめよ! 今度こそバレるわ。二回やって誰にも見とがめられなかったのは運がよかったのよ。きょうはそれで儲けた75ポンドだけでやるのよ。情報は… 情報はタダだから…)
 ゆっくりと机の上を拭きながら、取り散らかされたメモの一枚が床に舞い落ちた。
『リヴァプール造船』
(『リヴァプール造船』…)
 メイドさんはその会社名を心に刻み込んだ。(もうこれだけで十分よ! 『一日で一割、二割上げる』なんて言う幸運はそうそうないでしょうから、今度はじっくり腰を据えて値上がりするのを待つことにしましょう)
 床を拭き終えて書斎を出ようとした時、ふいに証券会社の社員が言った言葉が思い出された。
『弊社は100ポンド以下のお客様はご遠慮頂いております』
(75ポンドじゃあだめなのかしら?)
 平積みの本の山の上にある数枚の100ポンド紙幣が再び眼に映った。
(あれをお借りして行けば、文句はないのでしょう… あれだけの元手があったら、一日で25ポンドの利益を得られるでしょう。そうすればわたしの資金も100ポンドの大台に乗って、『立派なお客様』になれるはずよ!) 迷ったのはほんの数秒で、五枚の100ポンド札はまたエプロンドレスのポケットに収まった。
(これが最後、お金をお借りするのは、これが最後よ!)

「これで『リヴァプール造船』をお願いします」
 いつもの証券会社、いつもの社員にプリムラは575ポンドを渡して言った。
(…いつもなら、年中特売をしている婦人服店や化粧品店で、結局買わない品物を冷やかしている時間だわ…)
「『リヴァプール造船』でございますか? かしこまりました」
 ブライディーと一緒に来た最初の時や、一人で来た二回目の時と同じように、投資家の紳士たちに混じって『リヴァプール造船』の株の値がよく見える場所に立った。
(…この紳士がたは、わたしと同じく、みなさん小口のお客なのよ。ハートレイ男爵様のように大口のお客様は、わざわざこんなところにまで株の値を見に来たりはしない。狩りやら舞踏会から、パーティやらゴルフやらにうつつを抜かされて、上げようと下げようと頓着などなさらない。そもそも、自分がどれくらいの財産を持っていて、そのうちの株はどれくらいで、どんな銘柄を買っているか分っていて、その変動を気にしているなんて、本当の資産家財産家とは言えない気もするわ)
「リヴァプール造船」の株の値が動いた。
「-2」
「えっ!」 プリムラは思わず声を出し、回りの紳士たちが振り返った。
「-3」…「-5」
 値はあれよあれよという間に書き換えられた。
「株の値は上がり続けるもの…特に男爵様の机の上にあるメモの銘柄は」とばかり思っていたメイドさんは愕然とした。
 まだ昼前だと言うのに30ポンド近くの含み損になってしまった。このあいだ「フォックス・テール社」で儲けた75ポンドのうち、半分近くを失ってしまった。
(そんな…)
 ここですぐに見限って売り払ってしまえば、まだ40ポンド近くのプラスでいられた。だが彼女は考えた。
(これは何かの行き違いよ。男爵様の情報に間違いがあるはずがないわ。ほんの少し辛抱すれば、「リヴァプール造船」は値を戻し、上げるはずよ…)
「-7」…「-10」
(おかしいな…おかしいな…)
 不安と焦りが胸の中で渦巻く。
 それでもまだ60ポンドの損で済んでいた。元金は無傷な上に、15ポンド浮いている。 だけども、プリムラは失った60ポンドのことばかりに囚われていた。
(節約して使えば、半年は遊んで暮らせるお金が、半日で消えちゃった…)
 そう思うと悔しくて悔しくて、取り返そうと思わずにいられなかった。総資金575ポンドのうち500ポンドは男爵の机の上から黙って拝借したものであることも忘れて…
「-20」
「えっ!」 プリムラは小さく叫んだ。「どうして…」
「…リヴァプール造船が、軍艦の発注を巡って政官界に賄賂をばらまいていたことがバレたらしい…」
 立見をしていた男たちが囁き合った。
「売って下さい! 『リヴァプール造船』を全部売ってください!」
 プリムラは並んでいる紳士たちを掻き分け、割り込んで叫んだ。
「-40」…「-50」
 わずか十数分、数十分の待ち時間が、十年数十年のように感じられた。
 涙がとめどなく流れた。
「お嬢さん、わけは知らないが、そんな切羽詰まったお金で、こんなことをしてはいけないよ」
 年老いた投資家が宥める声がずしりと響いた。
 ようやく順番が来て、売り払って戻ってきたのは300ポンドになっていた。
(…どうしましょう… 200ポンド足りない…男爵様は机の上にお金を置いたことなど忘れてしまっておられる? …いいや、そんなことはないわ。いくら何でも、100ポンド札が二枚も無くなっていれば…)
 プリムラは自分が警察に捕まり、新聞にも載って、それが故郷デボンシャーの親兄弟…とりわけ病気で療養中の妹が目にする光景を想像した。
(えらいこと… 大変なことをしてしまったわ…)
 とにかく300ポンドを大切にしまい、辻馬車にも乗らず、無我夢中で走り続けた。
 まっ青な表情で走る若い娘を、道行く人たちは思わず振り返って見た。
「ブライディー、ブライディー、助けて!」「英国心霊研究協会」の勝手口、血相を変えて飛び込んできた友だちを見て、ブライディーも思わずたじろいだ。
「プリムラ、一体どうしたの?」
 しゃくり上げながらわけを語るプリムラに、ブライディーは静かに諭すように言った。
「それは、罪を償わなくてはいけないわ」
「分ってるわ。だけども、病気の妹に悲しい思いをさせたくないの。五年の刑期が十年になってもいいから、もう一度賭けてみたいの。貴女の不思議な力を借りて…」
「だめよ、そんなこと」
 きっぱりと言ったものの、ブライディーは引っかかっていた。
(どうして三度目もハートレイ男爵様のメモの通り買ったのに、暴落したのでしょう?)と…

(…男爵様は、お友達から聞いた『今後値上がりする銘柄』をメモする癖がおありになる。
 おそらく『リヴァプール造船』の贈収賄疑惑のことも、コネクションを通じて伝え聞いたのでしょう。そこで『危ない会社』としていつものようにメモをした。でもどうして『危ない』という印し…×印とかをしなかったのでしょう?)
 小首をかしげ、しきりにまばたきした。
「…ねぇプリムラ、ハートレイ男爵様の机の上には、いつもそんなメモがいっぱい散らかっているの?」
「いいえ、そんなにたくさん、というほどでは… 古いメモは、クリップで留めてあるし…」
「二度目のフォックス・テール社の時、どうしてフォックス・テール社にしたの? ほかにもメモに書かれた会社があったでしょうに」
「それは『+15、+20まで行くか?』と、景気のいいコメントが書いてあったからよ」
「他の会社名にもコメントが?」
「ええ。『危険』とか『やめたほうがいい』とか…」
(…なのに、今回の『リヴァプール造船』は、ただ会社名だけでコメントはなし。本来なら『危ない』とか、×印を書いておかねばならなかったはずなのに…)
「分ったわ」 ブライディーは静かに言った。「…昼から、残った300ポンドのお金を元手にね損したお金を取り戻しに行きましょう。 その代わり、上手く行かなくて、全部損してしまって、五年の刑期が10年になっても、知らないわよ」
「有難う! それでいいわ! 元はと言えば、全部わたしのせいなんだから!」
 プリムラはそれこそ実の妹のように抱きついてきた。

 ソロモン兄弟証券会社は、いつものように大勢の投資家の紳士たちであふれ、梯子に乗ったお仕着せの少年が壁一面の大黒板の数字をせわしなく書き換え続けていた。
 二人の少女は、たまたま空いていた商談用の小さなテーブルを占拠した。ブライディーは『不思議の国のアリス』のタロット・カードをうやうやしく取りだして並べはじめた。「おいおい君たち、タロット占いで銘柄を選ぶのかい?」
 紳士の一人が苦笑しながら覗き込もうとした。
「放っといて下さい!」 プリムラは冷やかしに近寄ってきた紳士たちを懸命に追い払おうとした。「わたしたち、真剣なんです! たとえ莫迦にされても仕方がないくらいの小口であっても、貴男がたよりずっと真剣なんです! 命がかかっているんです!」
「『命がかかっているような金』でこんなことをしてはいけないよ」
 諭すような誰かの声。
「『モルガン銀行』 …まずモルガン銀行を100ポンド買って!」
 ブライディーが熱にうかされたように言った。
「ほぅ、『モルガン銀行』…それは目が高い。ぼくも少し買っておこうかな」
「真似しないで!」
 プリムラが突っかかろうとする。
「好きにさせておきましょう! 時間がないわ…」
 ブライディーはタロット・カードをせわしなく動かして陣を崩し、再び並べ、さらにカードを組み替えて並べかえた。
「…次の100ポンドを、『オランダ王立インドネシア石油会社』」
「分ったわ!」
 プリムラは紙幣を握り締めて走った。
 あまりにも目立つ行動に、いつしか二人の回りを取り囲むように人垣ができてしまった。「どこかで見た顔だと思ったら、おまえは『心霊研究協会』のメイドじゃないか?」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、召使いを従えたデュード侯爵が、いつもよりさらに一層眉間に皺を寄せて立っていた。
「…こんなところで一体なにをしているんだ?む
「こ、これはデュード侯爵様」 ブライディーは立ち上がって深々と一礼した。「…きょうはお休みなので、ご覧の通り、お友達のために占って差し上げているのですわ」
「フン、その占いは当るのか?」
「分りません。きょうが初めてなもので…」
「いい加減な… ドイル君に言っておくぞ」 侯爵は吐き捨てるように言って立ち去った。「…残りの100ポンドでスイスの『ネッスル食品商社』」
 ブライディーは溜息まじりにつぶやいた。 後場が始まった。
「モルガン銀行」は+7…+10…+15と…
「オランダ王立インドネシア石油会社」は+12…+16…+20と…
「ネッスル食品商社」は+25…+30…+35と…
 いずれも上がりはじめた。
「すごい! この子の占いは当るぞ!」
「どこの、何という占い師だ?」
 怒号と叫び声が渦巻きはじめた。
「利益が200ポンド、元金と合わせて500ポンドを少し越えたら、すぐに売って! 欲張ってはダメ! 下がり出すわよ!」
「そうするわ! 有難う! 本当に有難うブライディー!」
 プリムラはコマネズミのように走り回りながら言った。

 その日の取引終了直前、含み益は200ポンドをほんの少し越えた。ブライディーは未練がありそうなプリムラの背中を小突いて、全ての株を売却させた。
「帰るわよ!」
 二人は手に手を取って辻馬車に乗り込んだ。 その後を、数人の投資家の紳士たちが追いかけてきた。中には高額の紙幣を握り締めている者もいた。
「貴女はどこのどなたですか? ぜひ、値上がりするであろう株を占ってください!」
「もし下がっても文句は言いません!」
 中には辻馬車の扉を叩いたり、後ろに取りすがろうとする者もいた。
「チップを弾みますから、怪我をさせないように、そっと出してください」
 ブライディーが頼むと、御者までが
「チップはいいですよ。…いや、運賃も要りません。その代り値上がり確実な銘柄を教えて下さいよ、お嬢さん。あっしはそのためにこのあたりを流しているのでして…」
 しばらく走ってから運賃を客席に置いて飛び降りるようにして馬車から降りた二人は、別の辻馬車に乗り換えてハートレイ男爵の屋敷の近くまできた。
「有難う、ブライディー。ここからは一人で帰るわ。お金もほら、ちゃんと持っているし…」
 プリムラは頬を染めて言ったが、ブライディーは何となく嫌な予感にとらわれていた。(「お金を返しに来たところで捕まる」というのはよくある話よ。もしも男爵様がプリムラを試すか、罠にはめようとして嘘の情報とお金を置きっぱなしにしていたのなら、隠れて待ちかまえている、ということも大いにあり得るわ。でも、どうすれば…)
 ほんの少しだけ考えた末、駆け出そうとしている友達のメイドの後ろ姿に向かって言った。
「ねぇプリムラ、きょう、この時間もハートレイ男爵様のお友達はお集まり?」
「ええ。集まっておられると思うわ。それが何か?」
「貴女、お茶うけのお菓子について、提案できる?」
「ええ。自慢じゃないけれど、あたしの淹れる紅茶は、皆様にとても評判がいいのよ」
「じゃあ…」 ブライディーは彼女の耳に何事かを囁いた。
「…分ったわ。でもなんのためにこんなことをしなくちゃあいけないの?」
「言ってみればそうね…ただの用心のためよ」
「用心? まぁいいわ。やってみるわ」

 その時、男爵邸の豪華な談話室では、ハートレイ男爵を除く数人の客たちが、紅茶とともに出された菓子の趣向に「ほぅ」とか「へぇー」とか感心していた。
「ハートレイ君はどこへ行ったのかね?」
 山羊ひげの紳士が尋ねた。
「書斎の納戸に隠れているらしいよ。…何でも、メイドが本の上に置いてあった100ポンド札をくすねたらしくて、返しに来た現場を取り押さえるつもりなんだとさ」
 誰かが言った。
「『返しに来る』? どうしてそんなことが分るんだ? 盗んだ…盗まれたのならそれっきりじゃあないのか?」
 別の誰かが言った。
「どっちにしても、そんなところにそんなものを置いておくハートレイ君が悪い。罪作りな… わしが呼んでくる!」
 山羊ひげの紳士が席を立って書斎に向かった。
「ハートレイ君、一体何を莫迦なことをやっているんだ? 返却されることが分っておるのなら、それで良いではないか?」
 紳士が一喝すると、ハートレイ男爵が、それこそ泥棒のようにすごすごと出てきた。
「しかし問い詰める楽しみが…」
「愚かなことを考えるな。それよりもきょうの菓子を見ろ」
「はぁ、菓子を、ですか? ぼくは甘いものはいま一つ…」
「食べろ、とは言っていない。見るだけでいい」
 談話室に戻った男爵が、少し冷めかけてしまった紅茶の横を見た。
 紋章入りのウエッジウッドの菓子皿の上には、ダニッシュ・ケーキの上に、ヤスリでダイヤモンドのように見せかけた小さな氷砂糖が乗っていた。
「ほぅ、氷砂糖のダイヤモンドですか。これは景気が良いですな」
 ハートレイは顔をほころばせた。
「何という平凡な感想だ。これだけ指南し続けてやっていると言うのに分らないか?」
「えっ?」
「『ダニッシュ・ケーキの上にダイヤモンド』だ」
「まさか…」 ハートレイ男爵の顔色が変った。「…アムステルダムのデビアス社…」
「わしが、明日… いや、きょうにでも買おうと思っていた銘柄だ。まだ誰も知らない… 知るわけがない情報があってな…」
「ぐ、偶然ですよ」
「 メイドを大切にしたまえ、ハートレイ君。紅茶を淹れるのが上手なメイドを」
 山羊ひげの紳士は重々しく言った。
「はい、分りました、ロイド卿」
 男爵は渋々頷いた。

「英国心霊研究協会」の昼下がり。
 ランチを協会でされた会員さんたちの後かたづけを終えたメイドさんたちが控え室に戻ってきた。これからようやく賄いの昼食、という時、いやしん坊のデイジーが、目の前のでおいしそうな匂いを立てている余り物の料理を見向きもせず、置き捨てられていった「ロンドン・エコノミー」紙を広げ、ズラッと数字ばかり書いてある欄を熱心に見つめていた。
「ねぇデイジー、何をそんなに見ているの?」 プリムラのことがあったばかりのブライディーが、パンをちぎる手を休めて尋ねた。
「…貴女が少しだけ持っている『エジソン電気会社』の株の値段?」
「うううん」 ちっちゃなメイドさんはかぶりを振った。「…エジソン電気の株は、あんまり動かないからそんなに毎日見なくてもいいの」
「じゃあ何?」
 大きなメイドさんが少し不安が増し、立ち上がって覗き込むと、会員さんがつけたものか、デイジーが付けたものか、株式欄には赤鉛筆でいくつかの銘柄の値に印しがあった。
「『ゲーム』だよ、お姉ちゃん」 デイジーは明るく言った。「…もしも2000ポンドの元手があったら、どの銘柄とどの銘柄を買って、増やすか減らすかという遊びだよ。ちなみにあたしはいま2200ポンド。一割もふやしているのよ、凄いでしょ?」
「ははは… 遊びだったらほとんどの者が勝てるんだよ」
 頼まれていたのか、ドイルが捨てるつもりの別の経済誌を持って入ってきた。
「有難うございます、ドイル様」
 デイジーはそれをひったくるように受取った。
「…本当のお金を投資していないから、値下がりしても、辛抱強く、再び値上がりするのを待てるだろう? もしも本当のお金を、それも自分が汗水垂らして苦労して働いて得たお金だったら、もしもし急激に値下がりをはじめたら『もう二度と元の値には戻らないんじゃあないか?』とか思って、慌てて売ってしまうだろう。そんなことを繰り返すから、手数料や何やらでスッてしまうことが多いんだよ」
「…ダイヤモンドのデビアス社、あたしの睨んだ通り、かなり値上がりしているわ」
 忠告を聞いていなかったのか、デイジーは飛び跳ねて言った。
「あらあら、デイジーさんは幸せなかたでいらっしゃいますね」 ようやく一休みしにメイド控え室に戻ってきたポピーが言った。
「…空想のお金でこんなに大喜びできるのですから…」
「わたしは読書で空想するほうがずっと楽しいですわ」
 ブライディーは今度貸本屋に返しに行く本を片付けながら言った。「会計係さんのようにお仕事でならともかく、お休みの時に数字やグラフばかり見ていてどこが楽しいのか…」
「お姉ちゃんはお金持ちになりたくないの? お金持ちになったら、お仕事はしないでずっと自分の好きなことをしていられるのよ。もちろん、身の回りの雑用は使用人を雇ってやらせるの」
 デイジーは唇を尖らせる。
「貸本を借りて読むくらい、そんなお金持ちにならなくてもできるわよ」
「お金があったら貴族のかたのように図書館のオーナーにもなれるのよ」
「何万冊あっても、一度に一冊しか読めないわ」
 少し険悪な雰囲気になりかけた時、玄関の鐘が鳴った。
「あの鳴らしかたは郵便屋さんですわ」
 ポピーがスカートの裾をつまんで持ち上げて走っていった。
「…ブライディーさんへのお手紙がありますよ」
「えっ、わたしに、『お兄ちゃん』かな? それともセアラ様?」
「いいえ『税務署』と書いてありますけれど…」
「『税務署』…」
 封を切って読んでいたブライディーの顔が次第に泣き出しそうになった。
「どうしたブライディー?」
 渡された督促状を目で追っていたドイルが、難しい表情で言った。
「うむむ… これは… もしも身に覚えがあるなら払わねばなるまい…」
「ほらね、お姉ちゃん。世の中お金が要るのよ、いくらでも」
 デイジーが勝ち誇ったように言った。


     (次のエピソードに続く)





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