ブライディー・ザ・マジックメイド ブライディー、ジグを踊る 数え切れないほどの蝋燭を立てたシャンデリアの下、腰蓑だけをまとった数人の黒人の少女たちが、激しい太鼓のリズムに合わせて腕を伸ばし、足を動かし、乳房と腰を振って踊っていた。 広間の壁沿いには、頭に極楽鳥の羽根飾りを付け、全身に刺青をした黒人の男たちが、手の皮も破れよとばかりに太鼓を叩き続けていた。 お香の香りが立ちこめるなか、少女たちは汗を飛び散らせ、半ば入神状態で数人で大きな輪になったり、一人一人が小さく弧を描いたりして踊り続けた。 やがてそれも止むと、踊り手と演奏者たちは正面の薄いレースの御簾に向かい、激しく息を弾ませながら片膝を付き、深々と一礼した。 御簾の奥からはひとしきり、一人だけの拍手があった。 「なかなか楽しかったですよ、フィオナ。十分に褒美を取らせて引き取らせなさい」 凛とした声が響いた。黒人の少女たちと男たちは言葉の抑揚から観客がまずまず満足したことを悟ったのか、互いに白い歯を見せ合って微笑んだ。 「恐悦です、ポーレット様」 ウォーターフォード男爵の令嬢で、ケンブリッジ大学ニューナム女子校で外国語を学んでいるフィオナは、黒人たちにアフリカの奥地の、少数部族の言葉で翻訳して伝えた。 黒人たちはさらに白い歯を見せて平伏し、立ち上がり後じさって帰っていった。 「…時にフィオナ、次はいつ、どんな踊りを見せてくれるのですか?」 下問にフィオナはギクリとした。フィオナはダンスの専門家ではない。世界の秘境を旅したこともない。ただ各国の珍しい言語を操るので、便利な通訳として召し出されただけだった。 「申し訳ございません。わたくしはまだ伺っておりません」 「次の予定は決まっていない、ということですか?」 声は険を含んだものになった。 「は、はい…」 「それは我慢ができません。今宵のような楽しいダンスを、次はいつ見られるか、決まっていれば指折り数えて待てる、というもの…」 「はっ、早速担当する者に…」 「かの者には暇を取らせます」 「は?」 「今夜も拍手をし、褒美を取らせよとも言いましたが、ハッキリ言って退屈でした。似たようなものばかりで… 一言で言うとマンネリです」 (それはわたくしの責任ではございません) と言い訳したかったが、もちろん言えるわけがない。 しばらく間があった後、再び声がした。 「フィオナ、貴女はアイルランドの出でしたね?」 「はい」 「一度本格的なアイリッシュ・ダンスを見てみたい気がします」 「かしこまりました。すぐに手配させます…」 深く一礼して下がろうとするのを、声が制した。 「お待ちなさい。歌や踊りをなりわいとしている者たちの、形式化されたダンスには飽きました。わたくしが見たいのは、生活に密着した、と言うか、その者たちが一日の仕事を終え、今日の一日が無事に終ったことを神に感謝し喜びながら踊る踊りです。ジプシーならジプシーの、アフリカ人ならアフリカ人の、それぞれ昼間は懸命に働いていて、夕暮れ時に酒杯を交しながら踊る踊りをなのです。宮殿で堅苦しく息が詰まる日々を送っていると、完璧なステップの社交ダンスなど、ぜんまい仕掛けの機械人形たちにしか見えません」 「恐れながら…」 フィオナは御簾に向かって顔を上げた。「…それでしたら、招くのではなく、王女様がお出ましになられたら如何でしょうか? ダブリンの…というのは難しいでしょうから、ここロンドンの、黄昏時に労働者や商人、店員たちが集い、黒ビールやジンとじゃがいもをふかす香りが漂い、オイル・サーディンの油と煙草の煙が立ちこめ、素人楽士が奏でるフィドルの音が流れるアイリッシュ・パブを…」 また少し間があった。 「…分りました。フィオナ、貴女が案内しなさい。予定の打ち合わせは侍女長としてください」 王女に負けず劣らず気の強いフィオナも、ほんの少し後悔した。 (そんな絵に描いたような家族的な雰囲気のアイリッシュ・パブがあるかしら?) が、すぐに気を取り直した。 (そうよ。「白詰草亭」がいいわ! あそこのオマリーさんなら何とかしてくれる。その日だけブライディーに踊ってもらえれば…) 「…と言う訳なのです、ブライディー、デイジーさんやポピーさんたちとアイルランドの民族舞踊を踊ってもらえないでしょうか?」 英国心霊研究協会を訪ねたフィオナが言いにくそうに述べた。 「えっ…」 ブライディーの最近は普段から下がり気味の眉がますます下がってしまった。 「…わたくしのダンスなどは、とてもそのような高貴なご身分のかたにお見せするようなものではございません。やはり、ダブリンから名の通ったプロの民族舞踊団を招かれるのがよろしいのではないか、と…」 「お姉ちゃん、やってみようよ!」 デイジーは大いに乗り気だった。「…確かにプロの舞踊団なら安心して見ていられるけれども、初々しさとかハプニングといったものが少ないでしょう? 王女さまはきっとそういったものをご覧になりたいのだと思うわ」 「そうかなぁ…」 「お姉ちゃんは時々、『大英帝国の為政者のかたがたが、もう少しアイルランドや他の植民地のことを思いやって下さったら… 不作の時は小作料を減免して下さったら… 現地の言葉を禁止したり、宗教などで差別をしないで下さったら… アイルランドを独立させて下さったら…』と言っているじゃない。王女さまにそんなことを申し上げたら間違いなく首を刎ねられると思うけれども、『作り物』じゃあない素朴な踊りをお見せすることで、少しでも親しみと理解を持っていただけたら…」 「それはぼくも良い考えだと思うよ」 ドイルがパイプをふかしながら入ってきて言った。「…ぼくからも『白詰草亭』のオマリーさんに頼んで上げよう」 ブライディーは、独立運動に加わっている『お兄ちゃん』のことを思い出した。『お兄ちゃん』の友達には過激なことを企て、官憲に追われている者もいることや、ある年のクリスマスの夜に、その一人をかくまって助けたことなども… (…わたしにできることだったら、やってみようかしら? 『お兄ちゃん』は喜んでくれるかしら? 友達のかたが『なまっちょろい!』と言って怒り出しはしないかしら?)「ではそういうことで…」 フィオナはニコニコしながら席を立った。「…わたくしは警備の者と打合わせをします。王女さまはごく普通の服装でいらっしゃいますからよろしく…」 「あの… わたくし下手でございますよ」 馬車まで送っていったブライディーが言った。「…『白詰草亭』のウエイトレスたちの中にも、そんなに上手な者がいるかどうか…」 「くどいようですが王女さまは『上手な踊り』をご所望なのではないのです。雰囲気があって楽しいひとときを過ごすことができればご満足されるはずです」 「あの… でしたらフィオナ様も踊られてはいかがでしょうか? 貴族のかたがたがなさるのは社交ダンスだけで、下々のダンスなどなさらないということはよく承知しておりますが…」 「そうですね、考えておきましょう」 フィオナは馬車の窓越しに微笑んだ。 ブライディーは少し肩の荷を降ろした。フィオナは社交界でもダンスが上手なほうだった。以前ウォーターフォード邸に奉公していた時に、殿方役としてよく稽古に付き合わされたものだったが… 「ああ、それからポーレット王女様は、ご自身がダンスの名人でいらっしゃいます。いままで幾多の王侯貴族、各国の、ダンスに自信のある王子さまや皇太子さまと踊られましたが、誰もがその身のこなしに諦め、引き下がっておられます」 「今回のことはもちろん『お忍び』ですから、『飛び入りで踊られることもある』ということでしょうか?」 「それくらいでしたら問題はないと思うのですが…」 フィオナは瞳を伏せかけた。「まぁ何とかなるでしょう」 屋敷に戻ると、デイジーとポピー、それにドイルが空いている部屋のテーブルや椅子などを壁際に寄せて、練習できる場所を作ってくれていた。 「エヘヘ、お姉ちゃん、あたし頑張るよね」 デイジーはすっかりその気になっていた。「『歌と踊りは荷物にならないお土産』と申しますけれど、わたくしもこの機会に…」 ポピーが使われていなかった移動式の姿見を引っ張ってきた。 「稽古をするなら楽士が最低一人はいるな」 ドイルが言ったとき、勝手口の鐘が鳴って『白詰草亭』のあるじ、赤ら顔のオマリーがフィドル・ヴァイオリンを手にして入ってきた。 「そいつは任せときな」 「オマリーさん!」 ブライディーとデイジーは飛ぶように歩み寄った。 「よう、お二人さん、元気にしているかい?」 「今度はちょっと大変なことになって…」 「『大変』? そんなことあるかい。簡単なことじゃねぇか。…ハッキリ言って、ブライディー、おまえがこちらに引き抜かれてからというものは、歌と踊りの上手な子はいなくなっちまってな。ショーは細々と続けてはいるんだが、お客の目と耳を釘付けにできるような子はとんと…」 「で、お姉ちゃんはちゃんとその…いろいろ踊れるの?」 デイジーが意地悪そうに尋ねた。 「民族舞踊というのはどこでも、その地方地方によって少しずつ違った踊りかたというものがあるものなんだけれども…」 ブライディーはオマリーさんが弾きはじめたフィドルの旋律に合わせて、軽やかにステップを踏み始めた。 「足だけで踊るのですか?」 ジグというものを初めて見るポピーは大きく目を見開いた。 「ええそうよ」 イギリス人だけれども「白詰草亭」でアイリッシュ・ダンスを見慣れているデイジーが言った。「…アイルランドのダンスの中にも、手を振ったり腕を組んだりするものも多くて、むしろそっちのほうが主流だと思うのだけれど、典型的なのは両手をまっすぐ下におろして、足だけで踊るの。 アイルランド人が、イングランド人から踊ることを禁止されていた昔に、家の中で、窓から見られてもいいように下半身だけで踊るようになった、と言われているものの、さすがにそれは本当かどうか…」 ブライディーはとびっきりの明るい笑顔でタンタンタタタンと床を踏みならし、大きく、また小さく円を描いた。 「隣のお部屋に響かないでしょうね?」 と、デイジー。 「両隣のお部屋には誰もいらっしゃいませんわ。ですけど、ヴァイオリンの音が…」 と、ポピー。 「いまは大丈夫だよ。三人揃って白詰草亭に行って練習するというのも大変だろうから、それは『いよいよ』という時にして、大丈夫な時にここで気軽にやればいいんだ」 ドイルは穏やかに言った。 「なにか、足腰だけで踊る、というのは簡単なような、難しいような…」 ポピーは真似をしてピョンピョンと跳ね始めた。 「遅い! 全然音楽に合ってないじゃん」 「デイジーさん、そんなふうにおっしゃるのでしたら、デイジーさんも見本を見せて下さいな」 「これはね、こういうふうに踊るものなのよ」 デイジーは勢い込んで輪に加わったが、ポピーやドイルの目にはボードヴィルのお笑い芸人が駆けっこのコントをしているようにしか見えなかった。 次第に頬を紅潮させていたブライディーは、デイジーとポピーが踊り出しているのに気が付いて手を差し伸べた。 なかなか揃わないラインダンスに、デイジーは怒ったような、ポピーは悲しそうな顔になった。 「あらあら、二人とも。ダンスというものは楽しくやるものなのよ。まず笑顔で…」 二人は笑顔になったものの、どう見ても「作り笑顔」丸出しだった。 「お、踊りながら微笑むって難しいわね、ポピー」 「デイジーさん、舌を噛みますわよ」 タタタンタン、タタタンタン… 二人は時おりピチカートを交えるヴァイオリンに合わせ、ブライディーの真似をして踊ろうとしたが、ほとんど合っていなかった。 「少し休みましょう」 ブライディーが止った。 「やれやれデイジー、『白詰草亭』にいた時より下手くそになったんじゃあないか?」 オマリーさんはフィドルと弓をそれぞれ逆手に持ったまま「どっこらしょ」と椅子に座り込んだ。 「だって、このお屋敷に来てから、ダンスをご披露することなんて、ほとんどなかったんだもの」 「あらデイジーさん、誰も見ていないところで時々ステップの踏んでいないと、いざと言うときに踊れませんよ」 意味ありげなポピーの言葉。 「あら、それってどういうこと? お相手がダンスがお好きな男の人だったら、いきなり振られちゃうってこと?」 「そんなことはないわよ」 ブライディーは髪留めの位置を変えながら言った。「上手下手とか決まり事は、あるにはあるけれど、それは第一じゃないのよ。一番大切なのは楽しむこと。 プロの舞踊団だったら、きちっと揃っていなければカッコ悪いし恥ずかしいでしょうけれど、わたしたちが踊るのは、一日のお仕事を終えて、気晴しで踊る踊りでしょう?」 「まぁそういうこった」 オマリーさんも頷いた。「…しかしブライディーは上手いからなー いざとなったらワンマンショーで乗り切るほかはないだろうなー」 「ブライディー、どうやら君にすべてがかかっているようだ」 「まぁ、ドイル様まで… あまりプレッシャーをかけないでください…」 しばらくしてまた練習を再開していると、心霊研究協会の会員たちが入ってきた。 「ああ、踊っているところを写真に撮れたらなぁ…」 ドッジソン教授は残念そうだった。 「それを言ったら動物写真や昆虫写真も、よほど相手がじっとしていない限りだめになってしまうのは残念ですよ」 と、ウォーレス博士。 クルックス博士は気になることを言った。 「ポーレット王女様は、身分違いの踊り子にもダンス勝負を挑まれることがあるそうだ」 「はぁ…」 この時はまだ、ブライディーはそれが一体どういうことなのかピンとこなかった。 「…ショーの構成や曲目、振り付けなんかはどうしましょう?」 オマリーさんが帰り、ドイルたちが外出した後、夕方の、また忙しくなる前のひととき、ブライディーは広告の裏を前にして鉛筆をぶらぶらさせながら途方に暮れていた。 「曲目は、オマリーさんたちが弾けるものでないと…」 ポピーがこころもち首をかしげた。 「そうよね… オマリーさんが弾けないような難しい曲は、わたしも踊れないわ」 「さっきの振り付けでよかったら、簡単なイラストを描いて言付けておくよ」 絵の上手なデイジーが、さらさらと描きはじめた。「…ひょっとしたら白詰草亭のウェイトレスの何人かがあたしたちと一緒にバックダンスをしてくれるかもしれないよ」 「人数が多くて華やかなものをフィナーレに持ってきてはどうでしょうか?」 パリに長くいたことがあってショーとかには詳しいポピーが言った。 「なるほど… ところで衣装はどうしましょう?」 「このままメイドの制服でよいのでは? いまから揃えるとなると大変ですし、お金もかかります。それに王女様は民族衣装のプロの舞踊団はよく見慣れていると思うので、エプロン・ドレスなんかのほうがかえって新鮮に映るのでは?」 ブライディーは二、三度小さく頷いて鉛筆を動かしはじめた。 「…はじめは『子猫のジグ』とか、可愛らしいものにしましょう」 「オバサンになってしまう前にね。それは良い考えだわ」 デイジーも腕組みして頷いた。 「あら、デイジーさんももうすぐですわよ」 「あたしはお嫁に行かないで、お金を貯めて下宿屋でも経営するんだもの」 「ですから、それが…」 「…踊りばかりになってしまわないように、あいだにアイルランドの民謡を入れて… ダンスもリール(ジグと並ぶアイルランドの民族舞踊の一種)などをまぜて…」 あれこれやっているうちにショーの構成ができた。デイジーは器用に振り付けのイラストを描いて、ブライディーは企画書を携えて白詰草亭に持っていった。 白詰草亭も夕暮れ時を前にして、お客のまばらな時だった。 オマリーさんは両手を腰に当てて、店内のテーブルの配置を眺め渡していた。 「…うちの店じゃあ普段は『予約席』なんて札をテーブルに置いたことはないんだが、さすがに当日はこの、ステージに一番近い席は空けておかなくちゃあなんねぇだろうなぁ…」 「よろしくお願いしますわ」 ブライディーとデイジーは、しばらく世話になった懐かしい店の、ものの三人が踊ったら手足がぶつかってしまいそうな小さなステージの上の登ってみた。 「ねぇ、王女さまが来られるのだったら、もう少し念入りにお掃除したほうがいいんじゃあないかしら?」 隅っこの埃の積もったところを目ざとく見つけてデイジーが言った。 「それそれ、明日、保健所の役人が検査に来るんだとさ」 オマリーさんはいかにも情けなさそうな表情になった。「…自慢じゃないけど、俺っちの店は、爺さんの代から食あたりだけは出したことがないのが自慢だと言うのにさぁ…」 「それはお客さんの胃袋が丈夫だから、じゃあないの?」 と、デイジー。 「当日は毒味役のかたが厨房に入られて試食もするし、独立派の過激派を警戒して私服の護衛もくるんだと。いやはや、大変だよ」 「でも頑張りましょうよ。わたしたち、植民地からの出稼ぎ者が、こうして帝国の首都で貢献しているところをお見せできるんですから…」 猫の額ほどのステージにヒラリと乗ったブライディーは、タタタンタンとジグのステップを踏んで見せた。 途端に、まばらなものの客たちの視線がいっせい集まった。 「おや、あの子プロのダンサーか?」 「この店、普段からウェートレスを歌わせたり踊らせたりしてるものの、良いように言ってご愛敬程度なんだが、あの子は違うな」 すかさずオマリーさんがフィドルを取り上げて伴奏をはじめた。 ブライディーは旋律に合わせて、縦横に踊った。時どきスカートがめくれあがり、白いペチコートや足首まである丈長のドロワースをチラッチラッと見せながら。途端に、狭く古ぼけた木張りの床が、緑深い森の奥の小さな広場のようになった。白詰草亭のウェートレスたちも、互いに顔を見合わせながら、何事かを囁き合っていた。通りがかった人々が窓越しに見て「何事か?」と思ったのか、吸い込まれるように店に入ってきて飲み物や食べ物を注文し、空いていた席はアッという間に埋った。 「おっとまずいなぁ… ブライディーが帰ってきたと思われては…」 オマリーさんの眉毛も垂れた。「…明日も期待してこられちゃあ…」 デイジーは壁に貼られていた、すっかり変色しているギネスのポスターをビリビリと剥がすと、持参していた絵筆と水彩絵の具で『ミス・ブライディーの歌と踊り・本日限り』と大きく書いて、ステージの脇に張り直した。 「なるほど! その手があったか!」 オマリーさんは気を取り直して曲の続きをフィドルで弾きはじめた。 「本当は王女様をお迎えしての本番があるのだけれど、その時のお客は警備の人間で埋ってしまうんだろうなぁ…」 「ギャラのことだったら心配ないわよ、オマリーさん」 デイジーが明るく言った。「…相手は王女様なんだから、貸し切りということで、普通にお客さんが押すな押すなの満員になった時よりもたくさん払って下さるわ」 「そ、そうかな?」 ブライディーは二人の「取らぬ狸の皮算用」を尻目に、踊りながら背中を丸めたり手で顔を洗うコミカルな仕草をしたりした。 ダンスが踊ると口笛や「いいぞ!」との掛け声と万雷の拍手が鳴り響き、おひねりの小銭が飛んできて、ブライディーはにこやかにエプロンドレスの前を広げて受け止め、こぼれたのはデイジーが拾い集めた。 「ねぇお姉ちゃん。メイドさんやめて踊り子になったら?」 「アンコール」の声が響く中、デイジーはコインを勘定しながら言った。 「…若くてちやほやされる時間は短いかなー、と思って…」 「いまからそんな婆臭い…」 「しょうがないなぁ… もう一、二曲頼めるかなぁ…」 オマリーさんが耳元に囁く。 「ええ。わたしも十分練習させてもらうつもりで来たんです。ご迷惑でなければ…」 「迷惑だなんて、こんなに盛り上がったのは久しぶりさ!」 お客はさらに膨れあがり、大盛況になった。 予備の椅子とテーブルに、大あわてで緑の格子のテーブルクロスが掛けられ、白詰草亭のウェートレスたちがてんてこまいで黒ビールや料理を掲げて厨房と客席の往復を繰り返した。 (あらら… これじゃあとても一緒に踊って頂くような余裕はないみたい…) 「デイジー、一緒に踊りましょう!」 ブライディーが招くと、小さなメイドさんは「待ってました!」とばかりにステージに上がってきた。 オマリーさんがリールを弾きはじめた。 二人のメイドさんは手を取り合ったり離したり、互いにくるりと回りあったりしてアイルランドのフォークダンスを踊った。 デイジー本人は一所懸命踊っているつもりなのに、なぜかステップは合わず…というよりかチグハグで、焦れば焦るほど滑稽になり、ついにはスカートの裾を踏んづけてすってんころりんと転んでしまった。 場内は爆笑の渦が巻き起こった。 泣き出しそうになったデイジーだったが、コツンコツンと小石のようなものが頭や額に当ったので、拾ってみると小銭だった。 「ウケてるわよ、デイジー!」 ブライディーもにこやかに励ました。 「そ、そうかな?」 「いろんな芸の中で、笑わせるのが一番難しいのよ。お酒や料理とともに、その日の苦労を吹き飛ばして忘れさせてくれて、明日への活力も与えてくれる笑いが」 「そ、そうだよね」 デイジーは気を取り直してまた踊り始めた。 お世辞ではなく、本当に喝采を浴びていた。「大丈夫?」 緊張のせいか、シャレじゃなしにもつれてきたデイジーのステップを見て取ったブライディーが尋ねた。 「…ちょっとバテてきたかも… これだけやれたら十分だよね?」 「ええ、当日もよろしくお願いするわ」 拍手に手を振りながらステージを降りるデイジーの背中を見送ったブライディーはオマリーさんに駈け寄った。 「オマリーさんも、大丈夫ですか?」 「ああ。だけど当日は常連さんで上手い人に助っ人を頼もうかな」 「あと一曲お願いできますか?」 「オーケー」 再びステージに戻ったブライディーは、故郷の懐かしい人々のようなお客さんたちを見渡した。 「お客様のなかで、一つわたしと一緒に踊ってくださるかたはいらっしゃいませんか?」 たちまち満場の男たちの手が一斉に上がった。 「俺だ!」 「わしだ!」 早く決めないと喧嘩が始まりそうだったちょうどその時、一人の精悍な若者と目があった。それは、ある年のクリスマスの夜、警察に追われているところをかくまい、傷の手当てを施した『お兄ちゃん』の親友だった。 (ショーン…) 若者はオーラを放っていた。愛国と独立の固い意思の光を… 彼はスッと立ち上がると、ヒラリとステージの上に上がった。 誰も止めたり文句を言う者はいなかった。「久しぶりだな、ブライディーさん」 ショーンは乾いた声で言った。 「おひさしぶりです、ショーンさん…」 メイドさんは少し身を固くした。 (…そんなことはないとは思うけれど、今度のショーで万万一何か騒ぎが起きたら、みんなが大変なことになってしまう…) 「どうだい、あれからアメリカのあいつから手紙とかは来ているのかい?」 「ええ。時々。元気でやっているそうよ」 「そうかい。それは何よりだ。ロンドンに帰ってくる予定はないのかい?」 「ええ、いまのところ…」 ブライディーは伏し目がちに答えた。 「それは寂しいよな…」 「ショーンさんのところへは手紙は?」 「出してくれているのかも知れないが、俺の住処が定まらないものだから…」 「そうですか…」 ショーンの招きに手を差し出した。久しぶりに握り合うごつごつとした男性の手に、思わずほんの少し顔を赤らめる。 (いけないわ。普段からもっとパブなどに行って男の人と踊るようにしなければ… でもわたしには…) 「よぅ、お二人さん、頑張れ!」 客席からは野次と口笛が飛び、オマリーさんがフィドルを弾きはじめた。 ブライディーはダブリンにいた頃、殿方は『お兄ちゃん』としか踊ったことはなかった。『お兄ちゃん』は上手い、というほどではなかったものの、おっとりして優しく、いつもとつとつと合わせてくれていた。 ショーンはまったく逆で、やはりそんなに上手ではない癖に、勢いをつけ、振り回し、常にリードを取ろうとしていた。 (がまんがまん… 社交ダンスも息の合わないかたとでも踊らないといけないのよ。だから『社交』なのじゃない) メイドさんは精一杯にこやかな笑顔でステップを踏んだ。 二人の背景が古ぼけたニスの板と、ところどころはげ落ち掛けた安酒場の壁からアイルランドの緑の田園風景に変った。 ショーンは、まるで特別な関係であるかのようにブライディーの手をしっかりと握り締めた。 (これはこんなふうにするものなんだわ) そう思ったものの、かすかに相手の汗の臭いを感じ、鋭い視線で見つめられているうちに「田舎の若者の気晴し」とはどこか少し違う、何かぎらぎらした、さし迫ったところのある気配を感じずにはいられなかった。 雄鹿が雌鹿を追いかけ、つかまえようとするようにショーンは彼女とのひとときを楽しんでいた。 「英国心霊研究協会」の紳士がたはほとんど召されないジンや黒ビールの香りにむせかえったのか、ブライディーは酔ったように少し目が回ってきた。 (いけない。この程度でこんなふうになるなんて、当日はとてもおぼつかないわ…) 『ブライディーさん、ぼくらはアイルランド人で、ぼくらの故郷はアイルランドなんだ』 わざと激しく踊るショーンの瞳はそんなふうに語っているかのようだった。 『…もちろん君の「彼」だってそうだ。そのアイルランドが大英帝国の植民地になっている。どう考えてもひどいじゃないか? 俺も、君も「彼」も、本来はこんな工場の煙の充満したロンドンに出てこなくたって、アイルランドの大地で畑を耕し、牛や山羊や羊を飼い、魚を採って幸せに暮らすことができるはずなんだ!』 (ええそうよ) ブライディーは巧みな足さばきで返した。(…でも願いはかなわなかった。不作が続いて、家族が病気にかかってもお医者様にかかるお金さえない… だからみんなアメリカやオーストラリアへ渡っていった。…そう、わたしの「お兄ちゃん」も…) 『なのに君は、遠い外国じゃあなしに、このロンドンで働いている。もちろん俺もここにいる。「彼」が本当に心の底から君のことを愛しているのだったら、どうして君をアメリカに呼び寄せないんだ?』 (「お兄ちゃん」はアメリカでお金を稼いで、帰ってくるはずよ) 『それで、君たちはロンドンに住むのかい? それとも島へと帰るのかい? 植民地の島に?』 ブライディーのステップがほんの少しだが揺らめいた。 (…それは…「お兄ちゃん」とも真剣に話したことはなかったわ… 「お兄ちゃん」はどんなふうに思っているのかしら? わたしはいつか、亡くなったお父さんとお母さんが眠るアイルランドに帰りたい…子供たちを連れてお墓参りがしたい。…でも、そんなことはどうなるか分らない… 何もかも諦めて、全てを捨ててアメリカに渡っていった人も多い… そんなわたしが大英帝国の王女様にダンスをお見せするなんて… …だめだわ。とてもそんなことはできないわ。「お兄ちゃん」も、ショーンも、このお店にいるみんなも、どう思うか… オマリーさんだって、陽気に振る舞っておられるけれど、内心はどう思っておられるか… フィオナ様だって…) 足取りが乱れもつれて、ばたーんと転んだ。 満場の客席からは小さな悲鳴と溜息が起きた。 「大丈夫?」 ショーンがひざまずいた。 「お姉ちゃん!」 「ブライディー、怪我はないか?」 デイジーは走って、オマリーさんはフィドルを投げ出して駈け寄った。 ブライディーは目を固く閉じ、歯をくいしばり、足首をさすった。 「ごめん、俺が下手くそだったからかな?」 ショーンは心配そうだった。 「いいえ、貴男のせいではないですわ。わたしが余計なことを考えながら踊っていたから…」 「『余計なこと』って、当日うまく踊れるかどうか、みたいなこと?」 デイジーが眉をひそめた。 「え、ええ… まぁ…」 オマリーさんがタオルに包んだ氷を持ってきた。 「ブライディー、無理をするな。今度のことはお断りすればいい。『英国心霊研究協会』には電話があるんだろう?」 「いえ、大丈夫です、オマリーさん。ちょっとひねっただけだと思います」 立ち上がったブライディーがショーンの手を取って客席に向かって朗らかに笑うと、客たちからは割れんばかりの拍手が来た。 「いいぞ!」 「また頼むよ!」 袖に下がり、椅子に腰掛けると、代りにデイジーと白詰草亭のウェイトレスたちが舞台に上がって、上手とは言えないが愛嬌のあるダンスを披露した。 「ほら、代りの子たちもいる。休めばいいじゃないか。何か特別なイベントでもあるのか?」 ショーンが尋ねた。 「あ、いえ… 特にそんなようなことは… …ねぇ、オマリーさん?」 「うん、そうだとも」 しかしオマリーさんは顔に浮かんだ冷や汗を腰のタオルで拭った。 ブライディーが普通に通路を歩いて見せると、ショーンは手を振って立ち去った。 「…あいつ、確かおまえの『お兄ちゃん』の友達だったなー」 オマリーさんは不安そうに言った。「…大丈夫かなぁ… 何事も起きなければいいけどなぁ…」 「英国心霊協会」の屋敷に帰ったブライディーは、さっそくドイルに診てもらった。 「…特に骨などに異常はないようだ」 丁寧に時間をかけて診察したドイルは、湿布をして包帯を巻きながら言った。「…レントゲン博士の『X線写真』で写せばはっきりしたことが分るのだろうが、まぁその必要もないだろう」 「申し訳ございません、ドイル様…」 「お姉ちゃんたら、久しぶりに男の人と踊ったものだから、張り切りすぎたのよ」 「まぁ、デイジーったら! …でもわたくし、フィオナ様にお電話申し上げてキャンセルさせてもらおうと思いますわ。もしもご迷惑をおかけしたら…」 メイドさんは恐る恐る立ち上がった。 「そんなに思い詰めることはないと思うが…」 ドイルは診察鞄をぱちんと閉じながら言った。「…気軽にダンスすればいいんだ。観客が誰だろうと、特に気にしなくていいじゃないか。先方もそういうものを望んでおられるのだろう?」 「え、ええ… でもやはりわたし… すいません、お電話をお借りします…」 幸い、フィオナはロンドンの下屋敷にいた。 ブライディーがとつとつと事情を説明すると、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢は受話器の向うでしばらく考えてからこう言った。 「…ポーレット王女様に貴女や白詰草亭のことをお話し申し上げると、それはそれはご興味を持たれ、楽しみにしておられます。幸い怪我がなかった、と言うのなら、予定通りお願いしたいのですが…」 「でもまた転んで不様なところをお見せしてしまうかもしれません」 「そうなったらそうなった時のことです。バッキンガム宮殿の舞踏会でも、靴やドレスの裾を踏んでしまったりすることはよくあることです」 「そこまでおっしゃるのでしたら…」 ブライディーは眉を引き締めながら受話器を置いた。 そしていよいよ、当日になった。 「白詰草亭」にはまず、毒味役や、お付きの男女がやってきた。警備の人々は北アイルランド系の者が多く、それぞれ勤め人や職人や商人の夫婦、きょうだい、友達同士などに扮して王女様のテーブルをそれとなく囲むようにして座り、酒と料理を注文したが、酒は飲んでいるふりをしているだけだった。 ウェイトレスのお仕着せに着替えたブライディーは、軽く足慣らしをしていた。 舞台ではオマリーさんが雇った半分素人の楽士たちがフィドルやアイリッシュ・ハープやティン・ホイッスルでケルトふうの音楽を演奏していた。 「その制服、とても似合うよブライディー。 うちに戻ってきてくれないかなぁ… でもうちは、『英国心霊研究協会』なみの給金は出せないからなぁ…」 しみじみと言うオマリーさんに、ブライディーは微笑むだけだった。 しばらくすると表に、何の変哲もない…がしかし高級な二頭立ての馬車が止って、まず地味なウールのドレスに身を包んだフィオナが降りてきた。 続いて、薔薇色の頬をした、ブライディーと同じ年頃の少女が降りてきた。少女は茶色の巻き毛と、メリノー・フラノの淡いピンクのドレスをなびかせ、挑戦するような瞳で睥睨しながら颯爽と店の中へと入ってきた。 「もしかして、あれが…」 オマリーさんとデイジーはその姿に釘付けになりながら、異口同音に言った。 「相当身分の高い人には、こちらから尋ねてはいけませんわ」 とポピー。「お付きのかた…フィオナ様…が紹介してくださるまで… もしお取り次ぎがない場合は…つまりそういうことです」 「ようこそいらっしゃいました」 オマリーさんはおたおたと出て行って王女様の椅子を引き、続いてフィオナの椅子を引いた。「どうかごゆっくりなさってください」 「ご苦労様です」 フィオナはそう言って目配せした。 「さっそくお飲物を…」 「ジンを」 王女はそっけなく、しかし逆らいがたい声で言った。 「ジ、ジンでございますか? そ、その…」 「わたくしは、その時と場所にふさわしい飲み物と食べ物を頂くようにしております」 「は、しかし、当店にはアメリカで流行っているような、気の利いたカクテルなどはございませんが…」 オマリーさんの顔は燃えた石炭のように赤くなり、汗がたらたらと噴き出た。 「ですからジンで良いのです。…あちらのかたやそちらのかたが召されているような」 「か、かしこまりました」 「わたくしも同じものを」 フィオナが言った。 デイジーがショット・グラスに注いだ生のジンを木の盆の上に乗せてトコトコと運んで行った。 王女がグラスを捧げ持ってすっくと立ち上がると、フィオナも、回りのテーブルのお供の人々もあわてて立ち上がった。 「畏れ多くもヴィクトリア女王陛下のご威光と、大英帝国の栄光に、乾杯!」 まるで海賊の女船長のような逆らいがたい声がこだました。 「乾杯!」 あちこちから唱和する声が上がったが、もとより「白詰草亭」の常連の男女は目を丸くした。 「な、何者なんだあいつら?」 「きょうは見慣れない連中がいっぱい来ているなぁ、と思っていたが…」 「もしかして…」 「いや、多分そのもしかして、だ…」 王女は、料理は見計らいで任せた。 「い、いいのかな… アイルランドの大衆料理なんかお出しして…」 オマリーさんはすっかり口ごもるようになってしまっていた。 「いいんですよ。ああいったかたはほぼ毎日高級なフランス料理のコースと、年代物のワインやシェリーを召し上がっておられるんですよ。ですから、ごくたまに違うものを飲んだり食べたりすることを物凄く楽しみにされておられるのです」 ポピーがいそいそと盛りつけの準備をしながら言った。 「…でもいいのかかなぁ… このジャガイモとキャベツとすじ肉を寒天スープで煮込んだやつ、いつもながらいかにもその…貧乏臭いけれど…」 デイジーは目尻を下げる。 「いいんですよ。アイルランドの寒天スープ料理はすぐお腹がふくれるし、お通じやダイエットにもいいんです」 ポピーは意外に強気だった。 ブライディーは、と言うと緊張してステージへの出入り口のところでジッとしていた。「デイジーにポピーさん、もう手伝いはいいから、ショーの準備をしてくれ」 オマリーさんの声はますます上ずる。「…先方はそれがお目当てなんだから、それさえ上手く行けば…」 「さぁお姉ちゃん! お稽古も十分したことだし、大丈夫だよ!」 デイジーに促されて立ち上がったブライディーは、生贄の羊のように尻込みし、小刻みに震えていた。 「あーっ、王女様もフィオナ様も、ジンを飲まれて、寒天スープの料理もおいしそうに召し上がっておられるわ!」 客席を覗いたデイジーは小さいが素っ頓狂な声で叫んだ。 「…そりゃあ王女様も人間です。人間が飲んだり食べたりするものは召し上がりますよ」 ポピーはブライディーの背中をトンと押した。「さぁ、始めましょう!」 それでもブライディーは出ない。 「どうしたのよお姉ちゃん。取って食われる訳じゃないのに?」 「仕方ありませんね。これを飲んで下さい」 ポピーが大きめのタンブラー・グラスに注いだジンを、ブライディーは一口だけ飲んだ。 「あ、有難う。何か落ち着きました」 エプロン・ドレス姿で手をつないだ三人はブライディーを真ん中に、飛びっきりの笑顔でステージへと出た。 ブライディーとデイジーとポピーは、楽士たちの演奏する音楽に合わせて、「子猫のジグ」を踊り、続けて「妖精のリール」やケルトの女神をモチーフにしたダンスを踊った。「両端の子たちは全然だけれど、真ん中の子は上手いはね。下手さを目立たせないようにフォローしているわ」 ポーリーン王女は目を細めながらフィオナに言った。 お付きの人々や「白詰草亭」の常連客たちからは、一曲が終るたびごとに大きな拍手があり、なにがしかのおひねりも飛んだ。 最初はらはらしながら眺めていたオマリーさんも、次第にホッと胸を撫で下ろした。 (良かった! 王女様はそれなりに楽しんで下さっているみたいだ。料理にもかなり箸を付けて下さったし、このまま無事に終ったら言うことはないのにな…) ブライディーもにこやかに飛び跳ねながら同じことを思っていた。 中入りはブライディーがソロで「庭の千草」や「ロンドンデリー・エアー」や「柳の庭」などの、しんみりしたアイルランド民謡を歌い上げた。 みんなは食事を忘れてじっと聞き惚れていた。 「皆様がたの中で、何かリクエストがございましたら… わたくしたちの知っている曲でしたら、それを歌い、踊ろうと思います」 王女はスクッと立ち上がり、大舞踏会の主催者のような瞳で見つめた。 「アイルランドには酒場のドアをはずして床に置き、その四隅にビール瓶を立てて、その上で瓶を倒さないように踊るダンスがあると聞いています。もしできるのなら見せて頂けますか?」 メイドさんたちとオマリーさんは互いに顔を見合わせた。 「どうだい、できるかいブライディー?」 「長いことしていませんがやってみます」 「やれー!」 「アイルランド魂を見せてやれ!」 観客たちからは野次と口笛が飛び交った。 白詰草亭の、古ぼけてところどころニスが剥げたドアの蝶番が、大工仕事のできる男立ちの手によって手際よく取り外されてステージに置かれた。取っ手の部分が出っ張っているために、緩やかな坂道のように傾いていた。 四隅にギネスの空き瓶が立てられたが、傾きがあるため、少しの衝撃で倒れてしまいそうだった。 ブライディーはボートに乗る時みたいに慎重にその上に乗った。空き瓶はゆらゆらと揺れた。 楽士たちがゆっくりと音楽を奏で始めると、メイドさんはそろそろとドアの上でタタタンタンとステップを踏み始めた。 四本の空き瓶はカタカタと揺れたが、倒れはしなかった。 ジグのテンポが早くなった。ブライディーは微笑みながらそれに合わせて踊った。瓶はさらに大きく揺れたものの、倒れることはなかった。 「いいぞー!」 「すごいぞ!」 お客たちからはやんやの喝采と口笛が飛んだ。 「うちのお姉ちゃん、あんなこともできたのね」 デイジーは呆然とした言った。 「まるで魔法か手品のようですわ…」 ポピーも「信じられない」と言った表情だった。 音楽がさらに早くなった。ブライディーの足さばきは目にも止らないものになった。両手でスカートの裾を持ち上げて踊り続けた。 と、何を思ったのか、王女はスクッと席を立つと、すたすたと夢中で踊り続けるメイドさんに近寄って、いきなりドアの上に足を掛けた。 途端に、それまで倒れそうで倒れなかった瓶の一本が、カタンと音を立てて倒れた。 楽士たちは楽器を動かしていた手を止め、ブライディーは息を弾ませながらドアから降りた。 「何をするんだ!」 「ひどいじゃないか!」 白詰草亭の常連客から怒りの声が上がった。 ポーリーン王女は構わず倒れた瓶を立て直してからドアの上に乗ると、楽士たちに演奏を再開するように手で合図した。 王女は、ブライディーそっくりそのままに、瓶を一つも倒さずタタタタタンタンと激しく踊って見せた。 「うそー!」 デイジーをはじめ皆は唖然としたが、ブライディーだけは身じろぎもせずダンスを見つめていた。 ポーリーン王女は、アイルランド人のダンスの上手な子…ブライディーみたいな子…よりもアイルランド人らしく、正確なリズムでステップを踏んだ。顔立ちは、良く言えば高貴で、悪く言えばツンとしたところがあったが、本物の王族なのだから仕方がなかった。 だが「アイルランドの貴族の娘」は、ドアを外し、四隅にビール瓶を立ててジグを踊ったりはしないだろう。少なくとも人前では。 その証拠にフィオナは唖然として、椅子から半分腰を浮かし、身を乗り出すようにして眺めていた。 「さぁブライディーさん…でしたか? …一緒に踊りませんか、ジグを」 王女はほんの少し手を差し伸べるようにして誘った。 「いけー お姉ちゃん! あの人が飛び乗って邪魔したみたいに飛び乗って、瓶を倒してやれ!」 デイジーがけしかけた。 「えっ、でもそんな…」 ブライディーはひどくためらっていた。 「もしもわたくしや、貴女の立場のことを思って迷っているのでしたら、そんな遠慮は無用です!」 ポーリーンは毅然として言った。 「お姉ちゃん、あんなこと言ってるよ…じゃなかったおっしゃっておられるよ」 「王女さまは『ダンス勝負』がしたいのではないでしょうか?」 ポピーはブライディーの耳に手のひらを当てて囁いた。「…だとすれば、『無礼講』と考えてもよろしいのではないか、と…」 「そ、そうでしょうか?」 「あわわ… た、頼むから粗相のないように…」 オマリーさんの赤い顔から見る見る血の気が引いた。 「そこの店主!」 王女は相変わらず複雑な拍子を、瓶を倒さずに踊り続けながら言った。 「八百長をけしかけたりすると、営業許可を取り消しますますよ!」 「そ、そんな無体な…」 「行け、ブライディー! 相手が例え何者でもああ言っているんだから!」 白詰草亭の常連たちが外野から囃したてた。 ブライディーは意を決して、ポーリーンが踊っている脇に飛び乗った。 が、瓶は倒れなかった。 「ふ、ふん! お姉ちゃんも上手いから倒れないのよ!」 ふいにドアから飛び降りたポーリーンが、楽士たちに向かって言った。 「もっとテンポを早めて!」 「えっ!」 ブライディーは驚いた。 楽士たちは言われた通りに必死になってフィドルやアイリッシュ・ハープや、ティン・ホイッスルなどを演奏した。 メイドさんは懸命に踊っていたが、四隅に立てられたギネスの瓶は次第に大きくカタカタ、グラグラと揺れ始め、あるところでついに一本がコトンと音を立てて倒れた。 演奏が止り、ブライディーは「はぁはぁ…」と大きく息を弾ませながらドアから降りた。 デイジーやポピー、オマリーさんや常連客は一瞬シーンと静まった。 「次はわたくしの番ですね」 ポーリーンは倒れた瓶を立て直し、ドアの上に乗った。「…さっきと同じ速さで演奏してください。…いや、さっきより早くても構いません」 一息ついていた楽士たちは、再び懸命に曲を弾きはじめた。 テンポがじょじょに速くなる… 「おい、あの娘は瓶を倒さずに踊りきると思うか?」 常連客の一人が相席の客に尋ねた。 「ブライディーがだめだったんだ。あの子もきっとだめに決まっているさ」 だが、曲が限界まで速くなってもポーリーンは瓶を倒すことなく踊り続けた。 タタタンタン…と、アイルランドのリズムのはずなのに、それはブライディーやオマリーたちアイルランド人にとっては侵攻してきたイングランドの軍隊の軍靴の響きのように聞こえた。 とうとう曲が終り、楽士たちはヘナヘナとそれぞれの椅子に座って、ハンケチで顔の汗を拭った。 「もうおしまいなのですか?」 ゆったりと優雅にドアから降りたポーリーンは、ブライディーたちを高みから見下ろしながら言った。 「…もう少し楽しませてもらえるかな、と思っていたのですが…」 「なによ! お姉ちゃんはどっちかと言うと気が小さい…気が弱いほうだから、貴女がいい心持ちになれるように、ちょっと加減したのよ!」 食ってかかろうとするデイジーを、ポピーとオマリーさんが慌てて取り押さえた。「…本当に本当の、真剣のダンス勝負をしたら、お姉ちゃんのほうが絶対に勝つんだから…」 「わたしがダンスの前に一口お勧めしたジンのせいですわ」 とポピー。 「分りました」 ポーリーンは眉一つ動かさずに言った。「では、お互いの名誉だけを賭けて、後日もう一度勝負をしましょう。よろしいですか?」 「ポーリーン様、お戯れが過ぎます!」 ようやく前に出てきたフィオナを王女は細い…しかししなやかな腕で制した。 「フィオナ、貴女は下がっていらっしゃい! …分りましたね、ブライディーさん?」 「ああ、大変なことになっちまった!」 その日は早めに閉店した「白詰草亭」 全部の椅子を逆さまにしてテーブルの上に乗せ、ホウキとモップを掛けた後、その椅子の一つを元に戻して一人ポツンと腰掛けたオマリーさんは頭を抱えた。 「無事に終って『やれやれ』と思いかけていたところだったのに… 過激派の連中が騒ぎを起さずにホッとしかけていたところだったのに…」 「すいません、オマリーさん…」 ブライディーもすっかりしょげ返っていた。「謝ることなんかないわ、姉ちゃん」 デイジーは森から飛び出してきたイノシシみたいに鼻息を荒くして言った。「…とてもじゃないけれど、あのまま引き下がることなんかできなかったわ!」 「これはもはやブライディーさんお一人の問題ではございませんわ!」 日頃はおとなしいポピーまでが息巻いた。「…常連さんたちがとても悔しい思いをされましたわ」 「オマリーさんも悔しかったでしょう? 再試合が見たいでしょう?」 デイジーが詰問した。 「いいや、悔しいなんて思っちゃいない。再試合なんかとんでもないことだ」 オマリーさんは血走った目でデイジーを睨み返した。 「…王女さまには、勝ったまま気持ちよくお引き取り頂ければ良かったんだ! だから、ブライディーも気を利かせて… もちろんそうなんだろう、ブライディー?」 「えっ、いえ、決してそのようなことは…」「もしも再試合で勝ったりしたら、今度は王女さまがどう思われるか分ったものじゃあない。もしまた、ということになったら… ああ、えらいことだ!」 「どうしてそんなに嘆くのよ? 何度も何度も王女様ご一行に半分貸し切って頂いたら儲かるじゃない? きょうだって過分に頂いているのでしょう?」 デイジーは引き下がらない。 「それはそうだけれど…」 オマリーさんは鼻水を啜りながら言った。「今日ので十分噂が広まってしまったとだろう。そのうちに過激派が…」 「あら、警備はちゃんとされていたじゃない。何回繰り返しても大丈夫よ」 「それは何とも…」 ポピーが重々しく言った。「…自分が逃げるつもりがなければ、どんなに警備を固めても、なかなか防ぎきれるものではありませんわ」 「ほら見ろ… 俺も、細々と商売してきたこの白詰草亭ももうおしまいだぁー!」 「とにかくお約束をしてしまった以上、仕方ありませんわ。今度こそご満足して頂けるような、素敵なショーにしましょう。わたしもできるだけドアに瓶を立てて練習をします」 「それにしてもどうして王女さまが、社交ダンス以外の、庶民の、それもアイリッシュ酒場の、客たちが小銭を賭けて行う余興のダンスを上手に踊られるのでしょうね?」 ポピーは小首をかしげた。 「王女さまはおそらく、生まれついたダンスの天才でいらっしゃるのですわ」 ブライディーがポツリと言った。「…たぶんどの国のどんな踊りも…遠いアフリカの原住民の踊りも…一目見て聞いただけで真似できるのでしょう」 「えっ」 「そんな…」 「まさか!」 「ダンサーとしては類い希な、ずば抜けた才能と資質です。もちろんそういう訳ですからお稽古もお好きなのでしょう。でもしかしあのかたは王女さま。公式の場では決まった社交ダンスしかできなくて、ほかのダンスも踊ってみたくて、それを人に見せたくて、むずむずされているのでしょう」 「あー、それだったら旅回りの大道芸人に生まれついたほうがよほど幸せだったかもなー どっちにしろ迷惑な話だ」 オマリーさんは溜息まじりに言った。 「英国心霊研究協会」の屋敷の、離れ部屋、ブライディーは取り外したドアの上に乗り、四隅に立てた瓶を倒さないように、タタタタン、タタタタンと練習をしていた。 「オマリーさん、もっと速く!」 「無理だ。俺にはこれが限界だ!」 フィドルの弦がいまにも切れてしまいそうだった。 「勝負は白詰草亭のあのドアを、また取り外してやるんだから、あのドアでやったほうがいいんじゃあないかしら?」 デイジーは腕組みして言った。 「…でもあのドアで練習すれば、もしブライディーさんが勝ったときに何か言われると思いますわ」 とポピー。「…いまごろ王女様も宮殿の違うドアで稽古されているでしょうから…」 と、その時、会員で気難しいことで知られるデュード侯爵がドアを開けて入ってきた。「やかましい! 一体何をやっているんだ? 外でやれ、外で!」 「デュード侯爵、これには深い訳が…」 後を追いかけてきたドイルが手短に説明した。「某王女」と聞くと、さすがのデュード侯爵も黙って引き下がらずを得なかった。 「有難うございます、ドイル様」 ブライディーはペコリと頭を下げた。 「ぼくが心配なのは過激派だけだよ。頑張りたまえ。次はぼくも見に行かせてもらうよ」 窓の外は、春とは名ばかりの冷たい雨が降っていた。 白詰草亭に戻ったオマリーさんは、先日幸運にもブライディーとポーリーン王女とのダンス対決を目の当たりにすることができた常連客たちから質問攻めにあっていた。 「なぁオマリー、ブライディーちゃんの後でドアに瓶を立てて踊った、ツンツンした娘は一体何者なんだい?」 大工道具の入った鞄を床の上に置いたひげづらの男が、黒ビールをあおりながら尋ねる。 「あの日は知らない連中も大勢前のほうのテーブルに来ててステージを取り囲むようにしていたけれど?」 職人の亭主を呼びに来たおばさんも食い下がる。 「勘弁してくれよー 本当に何もないんだ!」 オマリーさんは吹き出る冷や汗をタオルで拭いながら言った。 「もしかして、やんごとない身分のおかたで、アイルランドの民族音楽が好きなかたじゃないかい?」 「きっとそうだ!」 「ウォーターフォード男爵令嬢のフィオナ様がお付きでついていたくらいだからなー 俺っちは仕事で出入りさせてもらってるからチラッと知ってるんだ」 「そんなことないよ。それだったら宮殿に舞踏団を呼ばれるよ」 必死で打ち消そうとすればするほど図星の推理がたたみかけられてきた。 「なぁ、あのやんごとないおかた、またこの白詰草亭に来られるのかい?」 「次はいつなんだ?」 「またブライディーちゃんとダンス勝負をするのかい?」 「あー、もう助けてくれー! 献立を考えるだけでもやっかいだ」 頭を抱えて店の奥に隠れようとしたオマリーさんだったが、大地の女神のようなごっついおばさんが立ちふさがった。 「あんたが逃げてどうするのさ?」 「第一、ブライディーちゃんを負けたままにしておくなんてできねぇ! 今度はおいらたちが真剣に、手拍子と口笛と足踏みでも応援するぜ!」 「だから、ブライディーが勝ったりしたら、それはそれで具合が悪いんだ!」 オマリーさんは血走った目を大きく見開いて、みんなを見つめた。 「おい、オマリー、おまえには愛国心というものがないのか?」 「そんなんで『アイリッシュパプでござい』と、いままでやっていたのか?」 たくさんの白い目に睨まれて、ヘナヘナと座り込んでしまった。 一方同じ頃「英国心霊研究協会」の端のほうに空き部屋で、ドイルが雇ってくれたフィドル弾きのジグに合わせて踊っていたブライディーも、パタンと瓶を倒し、立ててはまた倒していた。 「だめだわ… 下手になってしまったのかなー」 ブライディーは肩を落としながら休憩を申し出た。 「そんなことありませんわ。少し固くなっておられるのではありませんか?」 ポピーはタオルを差し出しながら言った。「疲れているのかもしれません。練習のしすぎかも…」 「デュード侯爵様のせいだよ」 デイジーは唇を尖らせた。「…突然怒鳴り込んでこられたりするものだから、思い切って踊れないんだよ。外で練習すれば…」 「そうね… わたし、ほかのアイリッシュ・パブでダンス勝負をしているところがないか、見てくるわ」 ブライディーはエプロンドレスの紐を解いて脱いだ。 (ショーン… 彼もかなりダンスをたしなんでいる様子だった… 彼が日頃…時々かもしれないけれど、踊っている店が見つかれば…) メイドさんはキョロキョロしながら、アイリッシュ・パブのあるところを探し、尋ねて回った。 と、ついにある通りで、午後とは言え昼間から陽気なジグやリールの音楽が流れている店を見つけて中に入り、卵酒を注文した。 白詰草亭とは違って、店の真ん中のテーブルと椅子を取りのけた床の上では、老いも若きも、男も女も、相手を変えて楽しそうに踊っていた。 みんなブライディーより上手ではなかったが、生き生きと、いかにも気晴しといった感じで踊っていた。 「よう!」 いきなり肩をポンと叩かれてびっくりした。 振り向くと、上着を肩からひっかけたショーンが立っていた。 「噂、聞いたよ。…気にするなって。失敗したっていいじゃないか。カッコ悪くたっていいじゃないか」 「でも…」 「君はプロのダンサーじゃないんだから、どうだっていいことさ。例の『やんごとないかた』だって、プロには勝てないさ。まぁ、君くらいがちょうどいいライヴァルってところだろう」 「どうだい、また一曲、一緒に…」 「いえ、きょうはやめておきます。あまり他の男の人と踊っていたら『お兄ちゃん』が…」 ブライディーは顔を赤らめながらうつむいてしまった。 長くなりはじめた昼も黄昏が迫り、酒場もじょじょに客が増え始めた頃、誰が言い出したともなしに入口のドアが外されて床に横倒しにされた。おそらくいつもいまごろの時間から「ドアの上でのダンス」が始まるのだろう。四隅にギネスの空き瓶が立てられて、客の一人、吊りズボンの労働者ふうの初老の男が曲に合わせてジグを踊り始めた。 ところが、最初からかなり出来上がっていたせいか、すぐに一本が倒れ、続いて二本目、三本目も倒れた。 「おーい、残り一本だぞー!」 と野次が飛ぶ。 「分ってるって! こいつはそう簡単に倒すものか!」 言った途端に最後の瓶もカタンと倒れた。「はい交代、交代!」 次に黒ビールのジョッキを持ったままの若い男が、時々飲みながら踊った。 やはり取っ手の突起によってほんの少し持ち上げられているほうの瓶がパタパタと二本とも倒れ、残りは蝶番側の二本だけになった。「おーい、ジョッキが空だぞ! おかわりをしてやれよ!」 「はーい!」 明るい顔と声のウェイトレスが飛ぶようにやってきて、曲芸のようにジョッキを交換した。 若い男はそれをまたきれいに飲み干した。さすがに両足が少しもつれてきた。 「おーい、またおかわりだとさ! おあとがつかえているから、なんとかしろ!」 「はーい!」 またウェイトレスが飛んできて、男をわざと残っている瓶のほうに誘った。 交換のために手を伸ばした瞬間、つま先が瓶を蹴って倒した。 「よっしゃ、残り一本だ!」 「『残り一本』?」 男が心持ちうつむいて唯一残った瓶の位置を確かめようとした弾みで、無情にもその瓶もコトリと倒れた。 変って今度は若い店員ふうの女性がドアの上に乗った。彼女は酒をたしなまないのか、ふらつくこともなく、正確に、けれどときどきスカートを翻らせて中をチラチラと見せながら踊った。 「おーい、もっとテンポを速くしろ!」 楽士たちの曲が一段速くなると、やはり取っ手側の瓶から次々に倒れた。 「ああ、きょうはもうちょっとみんなに見てもらいたかったわ」 女性は苦笑しながらドアから降りた。 (思い出したわ、そうなんだ!) 自分とはまったく関係のない人々のダンスの「試合」を見物して、久しぶりに浮き浮きした気分になったブライディーは心の中で思った。(…『ドアの踊り』は、もともと狭い場所でたくさんの人がダンスしたい時に、交代を促すためのものなのよ! だから『いかに瓶を倒さないか』じゃなしに、『早く倒してさっさと次に順番を待っている人と交代させるためのもの』なのよ。だから、倒してもそれは恥ずかしいことじゃない。でもそれが、いつしか技術を競うためのものになったところもある。…ただそれだけのことよ!) 「おい、どうかしたかい? ずいぶんと晴れ晴れとした顔じゃないか?」 ショーンが尋ねた。 「あ、いえ、いいんです! わたしも踊ってきますね!」 メイドさんはそう言ってドアのダンスの順番を待っている人の名簿の最後に名前を書きに行った。 数日後、白詰草亭は再び押すな押すなの賑わいになった。どこで噂を聞きつけたのか、店の中に入りきれない人たちが窓や、予めドアが外されてポッカリと開いた場所から鈴なりになって覗き込んでいた。 「ブライディーちゃんが勝つのかな?」 「いやいや、そんなことをしたらやっぱりまずいと思うよ」 口さがない外野からはそんな予想が聞こえてきた。 ポーリーン王女は前回と同じように、フィオナを引き連れて現れ、予めお付きの人々が取り囲むように座っている真ん中の席に腰をおろした。 「あわわ… どうか神様、きょうも騒ぎが起きませんように… ブライディーが勝ってしまったりしませんように…」 心持ち痩せて頬もこけたようなオマリーさんは、店内を見渡す隅っこで珍しくお祈りを唱え続けていたが、やおら厨房に向かって叫んだ。 「おーい! ソーセージはしっかり茹でろ! 卵も肉も魚も貝もしっかり煮て焼くんだ! きょう一日は念入りに!」 ブライディーたちの応援団としてなのか、ドイルも来ていて割といい席に一人で座り、アイリッシュ・ウイスキーのグラスを傾けながらパイプをふかしていた。 このあいだと同じように、けれども要所要所の出し物を変えて、ブライディーとデイジーとポピーのダンス・ショーが幕を開けた。 「刈り入れのジグ」「結婚式のリール」などに続いて、ブライディーはアイルランドでもあまり知られていない民謡を歌い、ハープで物語の弾き語り始めた。 「♪あるところに、とてもダンスの上手な娘がおりました… 娘には恋人がいて、農作業の合間にはよく二人で踊っておりました… それはそれは、傍目も羨む仲でした…」 「♪…その国の領主は、悪い人ではありませんでした。 『祭りの日に、ダンスのコンテストをやろう! 優勝者にはたくさんの金貨と土地と雌牛と羊を! しかし上手下手の審査だったら文句が出るかもしれない。ドアを外して瓶を立て、最後まで瓶を倒さなかった者の勝ちにしよう!』 領地の隅々から参加者が集まって… 領主館のドアというドアが外されて、牧場に並べられて瓶が立てられました。 娘も恋人も踊ります… 一本、また一本と瓶が倒れて失格者が続出する中、娘と恋人は最後の二組に残りました。(あと一組、これに勝てば金貨と土地と雌牛と羊が手に入る… もう少しで手に入る… もうあとちょっとで手に入る…) そう思った途端、娘か恋人か、どちらかが瓶を倒して、優勝はもう一つの組に… その日以来、娘と恋人が、以前のように、農作業の合間に、楽しそうに踊る姿は見られなくなりました…」 「あわわ、何という歌を歌うんだ!」 オマリーさんの顔からまた血の気が引き、ポーリーン王女のお付きの人々のうちの幾人かの顔はこわばったが、常連客たちからは拍手が起きた。 「いいぞー 歌や踊りは本来楽しむためのものだ。苦しむためのものじゃぁない!」 ポーリーン王女とフィオナは平静を装っていた。彼女たちにとっては公務先でのこのような辛辣な歓迎は割合によくあることで、いたずらに取り乱さないように訓練されているのかも知れなかった。 「…お姉ちゃんは気が強いほうじゃないのに、よくあんな歌歌えたわねぇ…」 デイジーは手のひらを口元に当てて呆れていた。 「いえ、ああ見えても根性があるかたですよ、ブライディーさんは」 ポピーは小さく頷いていた。 「歌の中の娘と恋人はその後どうなったのだろう?」 ドイルは独り言をつぶやいた。 「さて、このあいだの続きをやるとしましょうか、ブライディーさん」 王女は立ち上がって促した。 「おい、あの歌を聴いた後であれかよ」 「あのお姫様も相当だなぁ…」 常連たちのあいだから囁きが漏れた。 今回はあらかじめ外されていた二枚のドアがステージに並べられて瓶が立てられた。 「どうぞ、踊りやすいと思うほうを先にお選び下さい」 ブライディーの言葉に、王女はそれぞれのドアに乗って見て、一方を選んだ。 「こちらにさせてもらうわ」 二枚のドアの四隅にギネスの空き瓶が立てられた。 メイドさんはチラチラとフィオナとドイルのほうに目をやった。二人とも (勝ち負けのことなど考えずに普通にやればいいんですよ) (たかがダンスじゃないか。…されどダンス、ということもあるだろうけれども…) と言いたげだった。 音楽が始まった。 はじめは緩やかなテンポのジグ、ジグからリールへ、リールからジグへと拍子も曲もメドレーのように切り替わった。 二人はスカートの裾で瓶を倒さないように気を付けて慎重に踊った。 やがてテンポが少し速くなった。 「お姉ちゃん、頑張れ!」 デイジーが声を掛けた。 無心にダンスを続けていたブライディーがふとざーっと客席を見渡すと、ドアが取り外された入口付近にショーンが立っていた。 さらにふと気になった。彼は上着の懐に片手を忍ばせていた。それは、拳銃を隠し持っているように感じられた。 (ショーン、もしも何かするつもりなら、どうか止めて! みんな仲良くしているのよ!) 瞳をうるませながら、懸命に瞳で語りかけようとした。 (君は肉親や親戚、友人をイギリス人に殺されたことがないから、そんなふうに思うんだ。…二百五十年前のクロムウェルの頃から、連中が我々にしてきたことを考えてみろ! 到底許されることではないぞ!) ショーンの眼は冷たい怒りの炎を燃え上がらせていた。 (そんな恐ろしい手段に訴えなくても、他にいくらでも方法があるわ! 言論、出版、芸術、そしてダンス… アイルランドはいつかまたきっと独立できる。そしてそれは決して遠い日のことじゃあないわ! 『お兄ちゃん』やシスター・セアラ様や、フィオナ様や、オマリーさんたちとともに、来るべき日を見ましょう!) (それまで待てない。もう待ちすぎるほど待ったんだ! 誰かが思いきったことをしなければ現実は何も変らないんだ!) (困ったわ、どうしよう? …いや、困ったどころでは済まされないわ。どうしよう?) メイドさんは激しくおどりながら、またドイルやフィオナやデイジーやポピーたちのほうを伺った。 けれども誰も彼女の狼狽に気が付かなかった。 懐に入れたショーンの腕がかすかに動いた。 (あんなに遠くからだったら、たぶん命中はしない…) そう思いながらもブライディーの心は急速に乱れた。(でも、もしショーンが発砲してしまったら、どうすることもできないくらいの悲劇になってしまう。…ショーンはこの場で護衛たちに撃ち殺されてしまうかもしれない… 普通のお客さんたちも巻き添えに遭うかもしれない… でもわたしがダンスを止めて騒ぎ立てたら、その瞬間にショーンが撃つかもしれない… さらに、すべてがわたしの思い過ごしだった場合、ショーンにかかる迷惑は計り知れない… ああ、神様マリア様、何とかしてドイル様か誰かに伝える方法はないかしら?) 両者の瓶はなかなか倒れない。勝負はなかなかつかなさそうな雰囲気で、ショーンはじっくりとより確実なチャンスを待っているように見えた。 ところが、唯一意外な人がメイドさんの心の中に気が付いてくれた。 それはすぐ隣のドアの上で踊っているポーリーン王女だった。 (どうかしたのですか、ブライディーさん?) まるで大の仲良しが、以心伝心で語り合うように、二人の気持ちは通じ合った。 (杞憂だったらいいのですが、この場で貴女を狙っている者がいるような気がするのです) (なんですって!) (ダンスは止めないでください! その瞬間が最も危ないです!) (しかし、ではどうすれば?) 二人は心で語り合った。 ブライディーはとっさに空いていた両手を使って鉄砲を構えて撃つ仕草をし、王女は踊りながら胸を撃たれて倒れかけるような仕草をした。 (なんだ?) (何という振り付けなんだ?) 客たちはざわめき、ドイルは一瞬で二人が言わんとしていることに気が付き、立ち上がって拍手しながら王女と客席のあいだに立ちふさがった。 「いや、素晴らしい! 素晴らしい! 二人とも名人だ! どうでしょうお二人、それに皆さん、このダンス勝負は引き分けということにされては?」 「ドイル様!」 メイドさんはホッとして目に涙を溜めながらドアから降りた。 「『ドイル』? あの有名な?」 ポーリーン王女もくりと踊るのを止めた。 「どうでしょうご両人、それに皆さん、有名な作家のコナン・ドイルさんがああおっしゃっているんだ。引き分けということで…」 オマリーさんがここぞとばかりに大声で言うと、客たちもお付きの人々も立ち上がって割れんばかりの拍手をした。 ショーンは一瞬(してやられた)という表情を見せたものの、踵ヲ返すと黙って店から出て行った。 「良かったわね、お姉ちゃん!」 デイジーは駈け寄って抱きついた。 「立派でしたわ!」 ポピーも瞳を潤ませていた。 ポーリーン王女は、気遣い寄ろうとするフィオナを制して、ブライディーに近づいた。 「貴族のきまぐれに付き合って下さって有難う」 「いえ、どういたしまして…」 ブライディーは「あかんべー」をしようとしているデイジーとのあいだに入って一礼した。「お粗末なダンスをお見せしてしまってすみませんでした。次回はぜひ、アイルランドから有名な舞踏団をお呼びになられますように…」 「そうですね。いい思い出になりました」 勝ち気な王女が寂しそうに言った。 「?」 「…わたしは近々結婚するのです。相手はさる外国の王子で、イギリスを離れることになります」 「えっ?」 「…親同士が決めて、一度だけ見合いをした相手です。王子様も優しそうなかただったので、断りませんでした」 「…………」 ブライディーの心臓は、踊っていた時よりも激しく打っていた。 (もし「お兄ちゃん」と結ばれなかったらどうしよう?)とか(もしも市民でなく、貴族に生まれていたらどうなったかしら?)というような思いがチラリと胸の中をよぎった。 「庶民のダンスを踊るのも、わがままを通して忍びで町に出かけるのも今宵が最後でしょう。ブライディー、貴女とこうしてお話しするのも」 「ポーリーン様、そろそろ…刻限です」 フィオナが言いにくそうに言った。 「…どうか、どうぞお幸せに…」 道が開けられ、フィオナに誘われて馬車に乗り込むポーリーンを、メイドさんたちはオマリーさんやドイルたちとともに深くお辞儀しながら見送った。 「あー、終った!」 馬車が出発するなり顔を上げたデイジーがお腹をぐぅーっと鳴らした。 「みんなー、気を遣わせてすまなかった! さぁ、とことん飲み直してくれ! ドイルさんも!」 オマリーさんが涙で頬をべとべとにしながら叫んだ。「…今夜は全部おれの奢りだ!」 客たちからどよめきと歓声が上がった。 (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com