ブライディー・ザ・マジックメイド

 短編集・現代日本編

 ショート・ショート
「サイコ・ペイント」
「犯罪可能性」
「デジタル藁人形ゲーム」
「ダッシュボードのフィギュア」
「立体駐車場」
「黒いマスコット人形」
「お話し人形」
「地獄の声優」
「ジュゴンの呪い」
 …に続いて…
 中編、「妖刀・影斬丸」



 「サイコ・ペイント」

 まがまがしい壁画だった。
 西洋の怪物、ミノタウロスかサイクロブスのような、人間の背丈の三倍はあるものが、逃げまどう人間たちと思しきシルエットに襲いかかり、ゴヤかボッシュそっくりに手づかみでむさぼり食っていた。
 そいつは高速道路のガード下、バブルの頃はいかがわしいビデオ屋があった場所のシャッターに、ペンキを使って描かれていた。
 頭の上をブンブンと銀蝿みたいに、無数の車が排気ガスを撒き散らしながら過ぎ去っていく。
 ぼくはその絵に興味をもった。絵心のある落書き少年が描いたものとはまったく感じが違う。いわゆるニューヨークふうのタッチではない。じゃあ古典的か? と聞かれるとそうでもない。ギーガーなんかも少し混じっているようだ。
 ただ何となく、この絵は、何枚かある絵物語の一枚で、同じ作者による「作品」が、この町のあちこちに描かれているような気がした。…そう、ここと同じように潰れた店のシャッターや、ガード下のコンクリートの壁面に。
 ぼくは使い込んだデジカメで潰れたビデオ屋のシャッターに描かれた、おぞましい絵を撮影すると、マフラーの破れた軽自動車で、「こうなる前の絵」か、「このあとどうなったのか示す絵」を探し求めて走り出した。

 この町には「絵」がたくさんある。何が何なのかさっぱり分らない抽象的なもの。どこの国の人間だか分らない奇妙な肌の色の男だか女だかが歯だか牙だかを剥いてニンマリと笑っているもの。車やバイクらしきもの。そしてのたくった文字… 意味があるものないもの、ありそうなものなさそうなもの。わけありそうなもの、わけなどなさそうなもの。
 脇見運転でガキンチョが落としたハンバーガーみたいにグシャグシャになるのは嫌だ… ということで、よほどのことがない限り過ぎ去ったものを引き返して見ることはない。ほとんどはチラッと見ただけでだいたい分るし、「あれ」の姉妹作じゃあない、ということで十分だった。
 若い女はみんな裸にしてしまいたいようなピーカンの日、年寄りは全員ゴミ収集車に放り込んでしまいたい雨の日、うるさい親や教師はメンチ肉になるのがふさわしい曇りの日、範囲を少しずつ広げたものの、シリーズはなかなか見つからなかった。
(「あれ」は「あれ一作」きりのものかもしれない…)
 そんなミサイルが飛んできて何もかも吹っ飛んでしまうイメージもたげてきた。
 イカれたアーティスト気取りが、ほんの気まぐれで描いただけ…のかも知れなかった。
 また、アーティストの背中には羽根が生えており、同じ作者の作品はアフリカの呪術師の小屋なり、沖縄のビンビンの米兵相手のスナックの壁なりに描かれているのかもしれなかった。
 だがぼくは探さねばならなかった。絶対に。そしてそいつはまず間違いなく、このあたりにある気がした。根拠もなければ理由もない。ただ、そんな気がしたんだ。

 そんなある日、ぼくは寂れた商店街を歩いていた。
 シャッター
 シャッター
 シャッター
 三軒に一軒は廃墟になっている。張り紙がしてあるところもあるが、読む気などさらさらない。
 血管を想像して思わずブッちぎりたくなる理髪店の看板の隣に、いまにもチック症状を起してしまいそうなポトスの鉢があり、「占い喫茶ブライディーの店」という手作りの表札が掛かっていた。
 割れたままのアーケードからは、レジスターを抱えたエセ神が微笑みながら舞い降りてきそうな薄い光の梯子が伸びている
(占い、占い、占い…) ぼくは思った。壁画の続きの在処を占ってもらおうと。
 へたれ牛のカウベルのような、しょぼくれた鐘が鳴る。
 店にはカウンターと小さな丸いテーブルが四つほど。カウンターの中にはロッテルダムの古着屋で買ってきたような古風なお仕着せを着た、サシミにしたいようなハーフの女の子が立っていた。
「いらっしゃい」
 暗くも明るくもない、フェルメールの肖像画の中の女が喋ったような声だった。
 表情は、笑ってもおらず、泣いても、怒ってもいなかったような気がする。
「探して欲しいんだ。これと同じ落書きの絵を」
 ぼくはプリントアウトした写真をところどころリノリウムの剥げたカウンターの上に並べた。
「おやめになられたほうがいいですわ」
 彼女は一瞥しただけで揃えて返した。
「喰われるかな、ぼくも? こんなものを嗅ぎ回ったりすれば?」
「ええ」
「見たいんだ、どうしても。この落書きにはそれだけの価値があるような気がする。命は惜しい。怖いもの見たさ、というやつだ」
「仕方ありませんね。お供しましょう」
「ちょっと待ってくれ。嬉しいけれど高いんじゃあ?」
「真の依頼人からは一切頂かないことになっています」
「ちょっと待ってくれ。『ただほど高いものはない』みたいなことはないのかい?」
「おっしゃる通りです」
 まぁいい。タダにしてやる、と言ってくれているんだ。嬉しいじゃないか。
 一歩外へでると、トップリと夜が更けていた。この店は竜宮城なのか?
 ブライディーはしとやかに、カバーがすっかり汚れている軽自動車の助手席に座った。 何年ぶりだろうね?

「えっ?」
 彼女は不審そうに凝固した血の色の瞳をこちらに向ける。
「いや、こちらの話だ」
「次の信号を左へ。それからすぐに右側に細い道があるから右折して」
 金色のダウジングの棒を掲げたブライディーはテキパキと指示した。
 車はいつしか、街灯も防犯灯も何もない。付近には家々やガレージが建て込んでいるのだが、なぜか灯りが漏れている家が一軒もない寂しい場所へと入り込んでいた。
「そろそろヘッドライトを消して」
「しかしこれを消すと真っ暗だよ」
「いいから消して! 人が歩くぐらいの速さでゆっくりと進んで」
 ぼくは言われたとおりにライトを消し、アクセルをやさしくさすった。
 すると、目の前の突き当たりの広場に、ガレージがコの字形を描くようにあるのが見えた。
 そのうちの一つの前に、自転車やミニバイクを携えた大人ではない人の影が五つ六つ立ちはだかり、懐中電灯の明りやヘッドライトで照らしていた。
 そしてその先のシャッターにはあの絵の姉妹作と思しきモノが、少年少女たちの黒い背中越しに見え隠れしていた。
「とめて!」
 不思議なことに連中は、ぼくらが車を降りても、誰一人振り向かなかった。
 どいつもこいつも頭の中でオヤジやオフクロをレア・ステーキにしてしまうことを考えている連中だった。
「どうだい、凄いだろう?」
「ああ凄い」
「他のもあるのかな?」
「あるよきっと」
 彼らはひたすら感嘆し、携帯電話のカメラで撮影したりしていた。
「見てはいけないわ」
 ブライディーは彼らの肩越しに覗き込もうとしたぼくを制した。
「どうして?」
「あの落書きの絵が全部で何枚あるか分らないけれど、順番ばバラバラでも全部を見た者は理性のタガがはずれるの。…そういう絵よ、あれは。あなたはすでに別の一枚を見ている。もしも二枚セットのものだったら、おかしくなってしまうわよ、きっと」
「じゃあ、あの子たちは?」
「これが最初の一枚であることを祈るわ」
「そんなヤバいものだったら、塗りつぶしてしまおう! まだホームセンターが開いていると思うから、黒いペンキを買ってこよう」
「無駄よ。これらの絵…落書きは生きているの。たぶん自分を塗りつぶそうとする殺気のようなものを察したら、別の場所に逃げてしまうわ。まるで一昔前のテレビゲームの敵みたいにちょこまかとね」
「それはまた面倒だな」
 若者たちはミニバイクや自転車に乗って、あるいは歩いて、ぼくらがまるで透明な存在であるように無視して、走り去っていった。
「まずいな。写真とかに撮ったら増殖するんじゃあないか?」
 ぼくは彼らが去ったあとの、誰もいない、ポッカリと空いた漆黒の空間を見つめた。
「それはおそらく大丈夫よ。生で見なければ効き目はないはず。ただの迫力のあるホラー・イラストにしか過ぎないわ」
 ぼくはライトを付けないまま、車をバックで通りに戻した。まるで暗黒の子宮から産道を通って外界に出たみたいに、他の車を見たときにはホッと胸を撫で下ろした。
 無駄とは分っていても、黒や紺や灰色のペンキのスプレーを数缶買った。
 レジの兄ちゃんは胡散臭そうな目でチラリと見た。
 顔形が分らないくらいにボコボコにしてやりたいのをぐっと我慢し、缶を後席に放り込んで、ぼくらは潰れたビデオ屋を目指した。
 ところが案の定、壁画はきれいさっぱり消えていて、節々が茶色く錆び付いたシャッターだけがそこにあった。
「逃げやがった!」
 ぼくは鼻でせせら笑った。
「笑っていられるのはいまのうちかもね」
「そんなこと言うんだったら、あんた何とかしろよ!」
「無理よ。彼らはババ抜きのジョーカーみたいに自由に彷徨っている。たまたま全部を見てしまった人が人間をフード・プロセッサーに放り込む」
「警告するっていうのはどうだ? 『みんな見ないようにしましょう。気がついても通り過ぎるようにしましょう」
「信じてもらえないか、信じてもらった場合もかえって興味をあおってしまうでしょうね」
 彼女は肩をすくめた。
「じゃあ、見たらキレかかっていた頭の線も再びつながる、という落書きを描いて回る、っていうのはどうだ?」
「一理あるけれど、絵心が必要よ。それ以外の特別な才能も」
「ぼくが描いて回るよ。うまく描けるかどうか分らないけれど」
「落書きの罪で捕まるわよ」
「『犯罪防止のためです』と言ってやるさ。…でも、テーマに苦労しそうだな。どんな絵を描けばいいんだ? 美しい風景画? それとも女性?」
「あなたの思い通りに描けばいいのよ」
「じゃあ無理だな。思い通りになることなんて何一つない! 何一つ!」
「どうして簡単に諦めちゃうのよ?」

 ぼくはホームセンターに押入って、車に積めるだけのペンキのスプレーを盗んだ。ガードマンか誰かが飛んできたが、中央線の人身事故よりひどい状態にしてやった。そう、すべては崇高な目的のためなんだ。
 潰れたパチンコ屋を見つけ、そこのシャッターにスプレーを吹き付け始めた。
 青い空に白い雲、どこまでも続く白い砂浜… ハワイかニューカレドニアのようなすがすがしくも爽やかな風景だ。
 砂浜の中央には赤いビキニ姿のブライディーも描いてやった。
 カモメにヨット、金色の夕陽。この絵を見たらヤバいボタンを押しかけている偉いさんも考え直すこと請け合いだね。
「どうだい、こんなもので?」
「だめね。犠牲者が倍増するのが落ちよ」
「どうしてそんなことが分るんだ?」
 空に凶悪な回転のこぎりのような円盤を描き加えている最中に警察官たちがやってきたので餃子のタネにして、予め剥いておいた皮でちゃんとした餃子にしてやった。
 場所を変え、別の、鎖で封鎖してあるコンビニで取りかかった。今度は雲の上の天界を天使たちが飛び回るシーンにした。
 真ん中のメインの天使はブライディーだ。
「別に無理して使って貰わなくてもいいのよ」
「まぁそう遠慮するなって。使い込んで減るのはアレとアレくらいのものさ」
 出来上がりは神々しく、しかし嘘々しくもあった。
 また邪魔が入ったのでプロレスのパイル・ドライバーの技で脳天のアスファルトに叩きつけてやった。牛乳があればいちごミルクができるところだ。
「筆が乗っているわね」
 彼女は相変わらずの無表情だった。雑巾のように絞って何かのタレにしてやりたいような気持ちが頭をもたげてきた。
「どうだい! この道徳的なこと! サンピエトロ寺院に飾ってもサマになるぜ」
「そうかしら」
 占い女が首をかしげるのと同時に、ぼくがせっかく描いた描きたての壁画に異変が生じはじめた。空は灰色に、雲は鉛色に、天使はどす黒く染まって目が吊り上がり、羽根はコウモリのそれようになり、先っぽが鉤のようになった尻尾が生えてきた。
「どうやら、悪いことをしたくなる絵を描き殴って回っていたのはあなたのようね」
 ブライディーはしょうがなさそうに言った。
「そうか、ぼくが? ぼくがそうだったのかな?」
 そう言われればそんな気もしてきた。
(いいや、違うぞ!)
 反論する声も聞こえてきた。
『おまえは髪の毛の先ほども間違ってはいない。目の前にいるやつこそ諸悪の根元なんだ。バーガーにしてしまうべきなんだ』と…
 そうか。そうか… 途端に無人のバーガー・ショップが現れた。「スマイル、スマイル…」
 ぼくは彼女を裸にして挽肉器にかけ、何十枚ものパテに変えてやった。
 肉を焼く香ばしい匂いが鼻をついた。
 パンとポテトと飲み物を用意しなければならない。それができれば後は客が来るのを待つだけだ。
 客はすぐに来た。たったいまバーガーにしてやったはずのブライディーが。
 彼女は地味な紺の制服を着ていた。
「店員を募集しなければいけないのでは?」
 ぼくはまた彼女の服を剥いてフィレにしてやった。
 力作の壁画にケチをつける者は許すわけにはいかない。
 だが、彼女はまた、どこかの女子校の制服を着て、カウンターでシェイクをすすりながらメールを打っていた。
「そんなわけで、描かれてしまった壁画はどうすることもできないみたいなのよ。作者をどうにかしてしまわないことには、永遠にイタチごっこが続くのよ」
 そうか、分った! ぼんが不死身であるように、彼女もそうなんだ。
(困ったぞ、このままではケリはつかない)
 頬杖をついた時、スプレーを向けた彼女が近づいてきて塗料を発射した。何色だったかはよく覚えていない。
「ちょっと待ってくれ! 塗りつぶさないでくれ!」
 目がしみて見えなくなり、鼻には溶剤の臭いがたちこめた。
 彼女は構わず、何も言わないままにスプレーを吹き付け続けた。ぼくは苦しいはずなのに一抹の快感にひたっていた。
(嫌だ、塗りつぶされたくない! 待てよ、このまま塗り固められてしまうのも悪くないかも…)


 「犯罪可能性」

「占っていただけますか?」
 その日、ブライディーの店を訪れたのは、法曹か金融の世界に身を置いているような、地味な背広をきちんときこなした三十代の男だった。
「何を占えばよろしいのでしょう?」
 メイドさんはアイス・コーヒーに赤と白の縞模様のストローを差した。
「おや、まだ何も注文していないのに、さすがですね。試すようで悪いが、ぼくの仕事と悩み事を当ててもらえますか?」
「あなたは…」 ブライディーは男の黒縁の眼鏡の中の、かつては自信に満ちていたであろう瞳を見つめた。「…心理学の研究所で働いている学者さんです。つい最近までは、いろんな企業に頼まれてどの人はどの部署に剥いているか、適性検査のようなものを作っておられた」
「すごいな! その通りです。では、最近は?」
「…ここのところはプロジェクト・チームではなくて、一人で、ある特別な適性検査を開発されていた。それは、痴漢や婦女暴行、幼い女の子に対する性犯罪、家族に対する殺人や傷害といった、ちかごろ頻発している事件がこれ以上起きるのを防ぐための性格検査です。
『車を追い越された時や、激しくクラクションを鳴らされた時に腹が立つか?』
『ファースト・フードの店で、自分より後の客の注文が先に出来てきたらむっとするか?』
『好みの異性の裸を想像してしまうことがあるか?』
 子供さんに対しては
『勉強しろといしつこく言われたらむかつくか?』
『よその子供と比べられたら気にするか?』
『殴られたら殴り返したいと思うか?』
 というようないくつかの質問が並んでいて、正直に答えても、嘘をついて心にもないことを答えても、いわゆる『キレて』取り返しのつかないことをやってしまう可能性を未然に判定するペーパー・テストを作っておられた」
「すごいすごい! 各設問はそんなに単純ではなく、いわゆる『どう答えても判定には関係のないダミーのクエスチョン』も多数まじっているのですけどね」
「いちおう仮完成したテストを、まずあなた自身がやってみられた。すると、恐ろしいことに『近々取り返しのつかない事件を起してしまう可能性大』と出た。自分は本当にやりそうなのか、それとも自分が作ったテストに欠陥があって、結果は杞憂に過ぎないのか…でもそれはそれで適性検査のデベロッパーとしては無能の証明…」
「いいんです。私は自分が潜在的犯罪者だと分るよりは、心血を注いだテストがいい加減なものだと言われるほうがまだましです」
「それをわたくしに?」
「ええ」
 ブライディーはカウンターに「不思議の国のアリス」のタロット・カードを並べ、一通り並べ終ったところで一枚づつ開いていった。「どうです?」
 男は青ざめた顔で訊ねた。
「辞表を書かなくて良かったですね。あなたが考案された検査は、無論完璧なものではありませんけれど、かなりの高確率で犯罪予備軍とそうでにいものを分けられるものです」「なんと恐ろしいことだ!」
 男は頭を抱えた。
「…実は、家庭か上手くいってないのです。妻とはしっくりしなくなり、子供たちは反抗期でグレかけていて、研究所では上司とソリが合わず、八方ふさがりなのです」
「でもだからと言って、百パーセント事件を起すとは限らないのでは? 確率は確率、あくまでもあなたがしっかりと自制しておられれば、何事も起きないのでは?」
 メイドさんは穏やかに言った。
「お気持ちは嬉しいですけれど、気休めを言わないでください。私は自分が作った検査に自信と誇りを持っています。人権問題などもあってすぐには普及しないでしょうけれど。バージョン・アップを重ねれば、ゆくゆくは大学入試のセンター試験のように受け入れられるものになるかもしれません」
「いいえ、そうはなりませんわ。人の心の奥底は、神様だけがご存じのものです。いかに高精度な適性検査でも、公式に採用されることはまずないでしょう」
「そんな…」
 肩を落とした男は、隣のスツールに置いてあった書類鞄の中から、一束の書類を取りだしてブライディーに渡した。
「恐縮だけれど、ブライディーさんもやってみてもらえませんか? 失礼ながら私の勘では『貴女だって、もしも追い詰められたら何をしでかすか分らない』と出るはずです」
 メイドさんは鉛筆を手にしてさらさらとマークシートを埋めていった。
「そんな… そんなはずは…」
 ポータブルパソコンの液晶画面を兼ねたOCRで読み取った男は呆然としていた。
「…『現在も将来も、犯罪を犯す可能性は限りなくゼロに近い』だって! …そうか分ったぞ、ブライディーさん、貴女は占いの力を使って、模範解答を透視するかどうかして、『いい人』を装っているんだ!」

「そんなことはありませんわ。特別な『力』は使わず、普通に○を付けていきましたわ」「そうですか。疑ってすみませんでした。貴女は本当にいい人なんでしょう」
 男はアイス・コーヒーの代金をカウンターに置くと、とぼとぼと足を引きずるようにして店を出て行った。
「あの、一つアドヴァイスをさせて頂いていいですか?」
 ブライディーは呼び止めて言った。
「なんでしょう?」
「あなたが作られたこの適性検査、あなたのお子さんや奥さんで試さないほうがいいと思いますわ」
「どうしてですか? もしも私のみならず、息子や娘、妻に至るまで『犯罪を犯す可能性大』と出れば家庭が崩壊するとでも?」
「ご家族のかたがたも、父や夫であるあなた様からそんなことを疑われていると知ったら気を悪くなされるでしょう?」
「じゃあどうすればいいと言うのですか? このテストは『これから犯罪を犯す可能性』を判定するものなんです」 男はムッとした様子で言った。その後長年に渡って追跡調査ができない被験者なら、やっても仕方がないものなんです」
「このテストが、あなたが時間をかけてコツコツと築き上げてきたものであることはお察し申し上げますわ。しかし残念ながら、これは誰にとっても不幸しか生み出さないものなんです。理屈で証明はできませんけれど、そういうものなんです」
「莫迦な! 宇宙開発も、生命工学も、なんだかんだといちゃもんを付けられながらも次第に発展してきている。なのにどうして、『犯罪予防適性検査』だけはいけないんです?」

 自宅に帰った男は、息子と娘、妻を呼び集めてテストをさせた。
 妻たちは最初笑いながら気楽に設問を追っていたが、ほぼ全問書き終わる頃になるとひどく不審な表情で男を眺めた。
「おやじ、一体何なんだよ、このテストは?」
「ただの性格検査なんかじゃあなさそうだけれど…」
「あなた、会社の同僚にやってもらうわけにはいかないの?」
 男は苦笑いをしながら家族の回答をOCRにかけた。結果は驚くべきものだった。
 まず息子は、パソコンの筐体の中に隠してあった男のヘソクリをコッソリ盗み取って遊ぶ金に使っていた。また、男が「勉強しろ!」と説教をするたびに『あまりしつこく繰り返されるようだったら、いつか必ず殺してやる』と思っていた。
 娘はいかがわしいチンピラと交際していて、父に保険を掛けて、交通事故に見せかけて殺してしまうことを計画している様子だった。そして妻は、別の男と深い関係にあって、彼がすんなり離婚してくれなければ… その先のことは恐ろしくて、とても繰り返し検討できるものではなかった。
 男は台所へ行って引出しから使い込んだ文化包丁を取りだした。そしてそれを後ろ手に隠し持ってリビングルームへと戻った。
「おまえたち、この家に居て幸せか?」
 男は振り絞るような声で言った。
「ああ、幸せだよおやじ。時々うるさく言われた時は殴ってやりたいと思うこともあるけどな!」
「『殴る』? 『殺してやりたいと思う』の間違いじゃあないか?」
「ああ、ごくたまには」
「おまえはどうだ?」
 男は娘のほうを向き直る。
「それは出て行っちゃおうと思うことはあるけれど…」
「おまえはどうなんだ?」
 妻は答えず、作り笑いのような微笑みを浮かべた。
「いくらうわべを取り繕っても分っているんだぞ」
 男はゆっくりと包丁を取りだした。
「な、なんだよおやじ。冗談はよしてくれよ!」
「冗談なんかじゃない」
「あなた、ばかなことはやめて。わたしたちが何をしたと言うの?」
「そうよお父さん、おかしいのはお父さんのほうよ!」
「いいや、わたしはおかしくなんかない。おかしいのはおまえたちのほうだ。いまのテストで分ったんだ」
「こんな一枚の紙切れで、一体何が分ると言うんだよ?」
 三人は後じさったが、男は構わずにじり寄った。「『紙切れ』だと? おまえたちはお父さんがずっと一生懸命頑張ってきたものをただの紙切れでかたづけてしまうのか?」
「待って!」
 包丁を振りかぶった瞬間、ブライディーの声が響いた。
 三人の回答と、残りの白紙の問題用紙は青白い炎を上げて燃え上がり、灰を残さずに消滅した。
 男はハッと我に返り、包丁をゴトリとカーペットの上に落とした。
「はっ、私は何をしようとしていたんだろう?」
「疑いを持って作られたものは、必ずその疑いの通りの回答を促してしまうのよ」
 ブライディーはポツリと言った。


「デジタル藁人形ゲーム」

「お願いします! どうか見てやってください!」
 その日、ブライディーの占い喫茶を訪れたのは、度の強い眼鏡をかけた、アーティストかエンジニアといった雰囲気の童顔の青年だった。
「どうかしましたか?」
「ぼくはね、あるゲーム会社で、新しいコンピュータ・ゲームを作っています。こう見えても一部門のボスなんです。部下にはプログラマーもいれば、グラフィッカーも、音楽関係者もいます」
「そんな不安なお顔をしていたら、部下のかたがたにもうつりますよ」
「いまのところは何とかごまかしています。しかし、いつ異常事態が起きてしまうか…」「詳しくお話しください」

「現在開発中の新作ゲームについては、当然とは言え一切秘密なのですが…」
 青年はブリーフケースの中からゲームのディスクと付属品を取り出し、店のカウンターの横にある小型のブラウン管テレビに接続しながら語り始めた。
「パッケージには、小さなデジカメとケーブルが付いています。
 プレーヤーは自分の姿を写真に撮って、ケーブルでゲームマシンに送り込みます。すると、取り込まれた自分ソックリの3Dキャラクターが、化け物屋敷や幽霊船の中を冒険して回ることができる、という趣向です。既存のヒーローやヒロインが活躍するものよりもずっと感情移入ができると思います」
 彼が言った通り、彼そっくりの3D映像が幽霊屋敷の扉をくぐった。
 すると、ふわふわと漂う白い幽霊のようなものが次々に襲ってきた。画面の中の青年は光る剣のようなものを抜いて、幽霊を次々に斬って捨てた。
「…難易度は普通よりもやや低めに設定してあります。特に初めのほうのステージは。誰でも自分が、いきなり無茶苦茶に強い敵にバッサリやられてしまったら気が悪いですからね」
 ブライディーは興味深そうにゲームの展開を見つめていた。
 次のドアを開くと、研ぎ澄まされた剣を振り上げた骸骨たちが襲いかかってきた。青年は相手の切っ先を巧みにかわしながら一人ずつ確実に倒していって全滅させた。
「どうです? なかなか臨場感があるでしょう?」
 コントローラーを置くと、画面の中央に「save and continue or suspend?」の文字が点滅した。「どうです。貴女もやってみませんか?」
 彼はコントローラーを渡そうとした。
「いいえ、わたしは…」
「ぜひ、ちょっとでいいからやって見て下さい」
 半ば無理矢理に押しつけられ、ゲームが再開された。
 骸骨たちがまた襲ってきた。メイドさんは懸命に光る剣を振り回し、何体かを倒したが、残った敵の一人に右の肩を斬られた。
「痛いっ!」
 途端に青年が左手で右肩を押さえた。
「どうかされましたか?」
 ブライディーは思わず画面から目を離し、コントローラーを置き、カウンターから出て駈け寄ろうとした。
 骸骨たちは当然、画面の中の青年によってたかって斬りつけた。
「痛い! 痛い! 痛い!」
 青年は頭や脇腹や腕や胸をかばう仕草をした。
「大丈夫ですか? どうされたんですか?」 彼はカウンターの上に投げ出されたコントローラーを取ると、素早い指さばきで敵を片っ端から斬って消滅させていった。
「見たでしょう?」 ステージをクリアすると、青年は息を荒げながら訊ねた。「…まるで呪いの藁人形みたいに、ゲームの中の自分がやられると、現実の自分の躯が痛むんです」
「まさか! そんなことあり得ませんわ。…仮にあったとしても、深い感情移入の産物だと思いますわ」
 メイドさんは苦笑いして言った。
「本当にそうお考えですか?」
「ええ」
「では、貴女の写真を前後左右、この付属のデジカメで撮らせて頂いても構いませんか?」
「え、ええ…」
 彼は何回かフラッシュを炊いて撮影した。 ケーブルでつなぐと、幽霊屋敷の正面玄関にブライディーが登場した。
「行きますよ…」
 コントローラーで操られ、画面の中の彼女は屋敷の中に入った。先ほどの幽霊たちが襲いかかってきた。
 青年はわざと攻撃も防御もしなかった。
「痛い!」
 ブライディーが頬や手や腕、身体や足を押さえた。
 青年はゲーム機の電源を切った。
「どうです? これでもまだ信じて頂けませんか? このゲームにはすでに億単位の開発費がかかっているのです。できたら、発売を中止したくないのです。だからぜひ、ぜひ貴女に、なぜこのようなことが起きるのか、原因を占って欲しいのです」

「こういうのって、まず大抵カメラに原因があるのでは…」
 メイドさんはデジカメを取り上げてファインダーを覗いて青年の顔や姿、店の壁に掛かっているルノアールの複製画や、窓の外の通りを眺めてみた。
 次に蓋を開けて電池やメモリー・カードを取りだして調べた。それから正面のレンズを逆から眺めてみた。
「変ですわ。怪しい邪気とか、特に感じられませんわ」
「そのはずです。どこにでもあるような、それほど性能が凄いというわけでもない、何の変哲もないデジカメですよ。バンドルで付けるセットのほかに、すでにデジカメを持っていて、それが活用できる人のためにはぶいた製品も出すつもりなのです…」
「でも、別の種類のデジカメや、前からあったデジカメを使った人々のあいだで『呪い』の症状が起きなければ『この』カメラが原因ということになるはずなのですが…」
 ブライディーはデジカメをカウンターの上に置いて押し返した。
「プログラムはどうでしょう?」 青年は、まるで見放されるのを恐れているかのように勢い込んだ。「…プログラムの中に、何者か悪意を持った者が呪法を仕込んだ、というのは? それだったら何の変哲もないデジカメを使っても、前から家にあるデジカメを使っても、ゲームを買ってくれた人にことごとく同じように恐ろしいことが起きるはずです」 青年はラップトップ・コンピュータを取りだして、このゲームの、厖大な量のソース・プログラムを流した。
 目の前の液晶画面に、怒濤の奔流のようにスクロールするプログラムの記号をジッと眺めていたメイドさんだったが、最後の行でストップするのを待って小さく首を横に振った。「プログラムの中にも、邪気を含んだ余計なものが仕掛けられている様子はないようですわ」
「では… では、一体どこに原因があるのでしょう?」
 彼はいまにも泣き出しそうになった。
「原因は必ずあります。カメレオンのように、忍者のように、巧妙にに身を潜め、隠れているのでしょう」
「見つけ出し、取り除く方法はありますか?」
 ブライディーはかすかに頷いた。
「もう一度わたしの姿をそのデジカメで撮って、ゲーム機の中へ送り込んでください。先ほどは影…文字通り映像だけだったですけれど、今度はわざと魂…意識ごと吸い込まれて、あちこち内側から確かめてみたいと思います」
「そんなことをして大丈夫ですか?」
「危険ですけれど、わたくしも興味があります」
「あの… 成功、不成功、それぞれいくらぐらい御礼をすれば…」
「真の依頼人からは、報酬や謝礼は頂かないことにしております」
 メイドさんはニコッと微笑んだ。
「いいですか、写しますよ…」
 デジカメを構えた青年の手はかすかに震えていた。
「写すのと同時に、わたしは眠ったようになると思いますけれど、心配なさらないでくださいね」
「もしも、もしもずっと目を覚まされなければどうすれば? 救急車を?」
「大丈夫。失礼ながら、この程度の憑き物でしたらそんなことにはならないと思いますわ」
 シャッターが押された。
 ブライディーは客用の、年代物の木製の椅子に腰掛けたまま眠り込んだようになった…

 デジカメの素子の中は、広いがらんどうの倉庫の中のようだった。奥にビッシリと積み上げられた、大小色とりどりのダンボールの箱のように見えるものは、撮影済みのデータのようだった。
 彼女は幻の姿で辺りを歩き回ってみた。
 と、ダンボールの箱が次々にスーッと空中を漂って脇の通路に吸い込まれていった。
(彼がデジカメのデータをゲーム機に転送しているんだわ…)
 やがてブライディーも中空に持ち上げられて、通路に送り込まれた。通路は途中までは白い壁に囲まれていたが、途中からまるでガン細胞のように、ギラギラとどぎつく輝き、ぶよぶよと収縮をくり返しながら迫ってきた。
(ケーブル! このケーブルが呪われていたんだわ!)
 間一髪、押し潰され取り込まれそうになったところをかわしたブライディーは、行く先のゲーム機に滑り込んでテレビの映像に現れた。
「お願いします! そのケーブルを引きちぎって包丁で切り刻んでください!」
「えっ!」
 テレビ画面に驚いた青年だったが、ただちに言われた通りにした。
 包丁で三つに分断されたケーブルは、まるで尻尾が斬られたトカゲのように、しばらくそれぞれが別々にのたうち回っていたが、やがて一つ、また一つと動かなくなって、白い煙を上げて消えた。


「ダッシュボードのフィギュア」

「お願いします。見つけ出してください。お金は…そう、見つけ出して頂いたら百万円お支払いします」
 ブライディーの前に座った少し小太り紳士は、四十前後にも見えたが、若く見え、もしかしたら五十歳に手が届く年頃かもしれなかった。
 派手でもなく、地味でもない背広を上品に着こなし、きちんとネクタイを締めていた。
 隅のテーブルには紳士の秘書と運転手が、それぞれ何事かを手帳に書き込んだり、週刊誌を読んだりしていた。
「…実は、お金はいくらでもあるのです。あの車のあるところを探し当ててもらえたら、三百万… いや、五百万… 一千万円出しても惜しくないと思っています」
「その車は、もう何十年も乗っているような、年代物の車ですね?」
 ブライディーの言葉に、紳士は唖然とした。
「もう占って下さっているのですか?」
「いえ、それがもしも車種が大変珍しい車なのだったら、そんな車のオーナーは、マニアのあいでは有名人で知れ渡っている、と… また、外国のスポーツカーのように自動車自体に価値があるものだったら、ショールームに買いに行ったほうが早いと思いまして…」
「その通りです。わたしが欲しいのは車ではない。車のダッシュ・ボードや、後部座席のうしろのリア・ボードに、埃をかぶって並んでいた何個かの人形…フィギュアです」

 その日、私は運転手や秘書とともに最も有力な大物投資者、出資者数人に今後の方針の説明と相談をするために、都心をベンツで回っていました。
 いつもは「軒付け」し、用件が済むと携帯で車を呼び寄せるのですが、医者から「もっと歩かないと寿命を縮めますよ」と言われていたこともあり、この頃は勤めて空気のいい青空駐車場だったら歩くようにしています。
 一時間千円のところはたいてい空車の表示が出ています。
 運転手は「3ナンバー可」の、両隣が空いたところにバックで車を入れ、先に降りた秘書がドアを開けてくれ、私も降りました。
 そして何気なく… 本当に何気なく一台分のスペースを挟んで隣にとめてあった車にチラリと目をやりました。
 それは二、三十年前のくすんだ青色の大衆車でした。よく手入れがされてあり、ボディもバンパーも窓もピカピカに磨かれてありました。
「ほう、珍しいね。持ち主はきっとセミ・クラシックカーの愛好家なんだろうね」
 私は秘書に言いました。
「ええ、でも排気ガス規制なんかはどうなっているんでしょうね」
 確か秘書はそんなことを言ったと思います。
 さらに何気なく、三角窓の付いた窓越しに中を覗き込むと、ダッシュ・ボードのところに小さな人形がいくつか並んでいました。
 それを目にした途端、私は文字通り晴天の霹靂に襲われました。
 道楽で、金にあかせて蒐集し、自宅には展示室まで設けてある、数十年前の菓子のおまけのはしりであるヒーロー、ヒロインやマスコットたちがズラリと並んでいたのです。
 どれ一つを取っても私が持っていないもの。
 いや、日本中のどのコレクターも持っていないもの、カタログでしか見たことのないもの、伝説でしか語られていないものばかりでした。
「こ、これは… 何ということだ! 信じられない! こんなところに並べてよく盗まれないものだ!」
 思わずフロントガラスに、まず運転手席側から覆い被さり、次に助手席側からタコのように両手の指をいっぱいに広げて吸い付きました。
「社長! おやめください!」
 後ろから引き離そうとする秘書と運転手を払いのけ、リア・ウインドゥに回りました。
 人形は、リア・ボードにも両面テープか何かで、きちんと並べられていました。
 五分か十分、かなりの時間、私は恥も外聞も捨て、まるで小学生のように見とれて…いや、見惚れていました。
「社長、約束のお時間です。またあとで…」
 報告書類の入った書類鞄を抱え、秘書が言います。
「戻った頃には、この車は出庫してしまっているかもしれないじゃないか」
 私はあわてて、その車のわずか一桁のナンバーを控え、運転手に
「もしもこの車の運転者が帰ってきて出庫しようとしたら、何が何でも住所を聞き出し、わたしの名刺を渡しておいてくれ」
「相手が渋るようだったら、構わない。この車で後をつけ、帰宅先を突き止めてくれ」
 と頼みました。
 商談のあいだじゅう、私は気が気ではありませんでした。…そう、数日にして何十億と儲かることもあれば、損をすることもある投機の話をしているというのに、頭の中はあの車に飾ってあった昔の菓子のオマケの人形のことばかり考えていたのです。
 応接間を出た私はすぐに携帯電話のメールを開きました。
 それを読んだ私は、崖から突き落とされたような気になりました。
「運転手の制帽のような帽子を目深にかぶり、顔を隠した小柄な男が戻ってきたので、ご指示の通り連絡先を聞こうとしましたが、くぐもった声で丁重に断られ、名刺を渡そうとして突き返されました。尾行したものの、車線が増えたところで巧みにまかれてしまいました。誠に申し訳ございません」
 そこでさっそく、控えたナンバー・プレートを調べてみたのですが、十数年前に廃車の手続きが取られていました。最後の持ち主は借金取り立て代行業者でした」
 磊落に語っていた紳士は、急に声を潜めた。

「貴方様は資産家でいらっしゃいます」 話を聞き終えたメイドさんは、ゆっくりと口を開いた。「愛好家の雑誌や機関誌、ネット・オークションやテレビ番組などに『これこれをどうしても求む』という広告やお知らせを出してみられてはいかがでしょうか? それで反応がなければ、その持ち主には他人に譲る気はまったくない、ということで、代金以外に高い占い料をかけてその車を探し出されても無駄、というものでは?」
「いいや、たとえ書類の上では存在していなくても、ライトブルーのセミ・クラシックカーは私も秘書も運転手もハッキリと見ているのです。運転手はオーナーらしい小男も見て、話もしている。…そう、譲ってもらえなくてもいいのです。せめて、プロのフィギュア写真家を連れて行って写真に撮らせてもらいたい。あのフィギュアたちはそうする価値のある希少品なのです。いや、写真はもちろん、オーナーはファン全員に展覧会に寄託して実物を公開する義務すらあるかもしれない!」
「水を差すようで申し訳ございませんが…」 ブライディーは瞳をまたたかせた。「…ダッシュボードに並べて飾ってあった人形たちは、イラストをもとにして作られたレプリカではございませんか?」
「……いや」 紳士は数秒考えてから答えた。
「フロントガラスやリア・ウィンドウのガラス越しではあったが、あれは確かに昭和三十年代、私がまだ子供の頃に作られたもののようだった。プラスチックはまだ珍しく、ロボットは木やブリキで、人形はセルロイドをソフト・ビニールでできていた。実を言うと、幼かった頃に手にしていたものがいくつかあったんだ。それらは残念なことに、大きくなるにつれて一つ、また一つと、友達とビー玉の賭けをして取られたり、どこへともなく無くしていった。もちろん当時は五円、十円で手に入ったのだ。あの質感と塗装の具合は忘れるはずがない」
 紳士はコーヒーには手を付けず息を継いで続けた。
「お願いだブライディーさん。あの車がこの町の周辺をいまも走っていると思ったら居ても立ってもいられないのです。かと言って、大手の興信所などに依頼すると、感づかれてガレージに引きこもられてしまうかもしれない」
「分りました。そこまでおっしゃるのならやってみましょう」
 紳士は黙って一枚の、大きく自動車会社の名前が入ったポスターの縮刷りのカラー・コピーをカウンターの上に置いた。そこには、東京オリンピックの頃、裕福な家庭を中心に普及しはじめた大衆車の「はしり」が、テクニカラーで彩色された幸せそうな家族とともに写っていた。
「ナンバー・プレートの数字はこれでした」
 並べてメモの紙片が置かれた。
 この街の地図が広げられ、メイドさんはキャップを外した短いサインペンを糸で吊し、目を閉じて心を静めた。
 しばらくブラブラと揺れていたサインペンは、いったんピタッと静止したかと思うと、まるで生き物のようにかすかに動き始めた。糸をほんの少しだけ下げると、サインペンの先は真下ではなく、ほんの少し外れたところに印しを付けた。
「おまえたちはここで待っていてくれ」
 秘書と運転手を店に残すと、紳士は自ら運転席に座り、ブライディーを助手席に招いて発進させた。
「実はね、ブライディーさん。身の上話なんかはつまらないでしょうし、私の生い立ちは知っておられるかもしれませんが、私の父は私たち母子を捨てて逃げたんです。賭け事でたくさん借金を作ってね。母は必死で働いて私たちきょうだいを高校へ入れてくれました。高校を卒業した私は証券会社へ入り、父とは失踪後一度も会っていません。生きているものやら、死んでいるものやら、私はこれでも有名な成金の一人ですから、もし生きていたら訪ねてきそうなものですから、たぶん…ああ、やはり自分から話すようなことじゃあありませんね」
 ベンツは流れに乗って幹線道路を走っていた。
「次の側道を降りてください」
「次の信号を左へ…」
 メイドさんは細い金色のコックリさんの棒を見つめて言った。
 風景はいつしか、古くからある自動車工場や、ブリキ屑や金型が無造作に積み上げられ、機械油の臭いが漂う街並みに変っていた。
 ふと気が付くと、目の前に一台の、非常に古い型の車が走っていた。
「あれだ! あの車です!」
 ベンツはあおるように、くすんだ青いセミ・クラシックカーとの車間を詰めた。
 やがて二台の車は赤信号で止った。
 シートベルトを外した紳士が、身を乗り出すように前の車のリア・ウインドウを覗き込んだ。そこには、木やブリキや、セルロイドやソフト・ビニールでできた小指くらいの人形がズラリと、まるで招くように並べられていた。
 目の前の横断歩道を、着物の上に白い割烹着を着た母親が、野球帽をかぶった子供の手を引いて渡っていた。
 運転席から降り、前の車の窓を叩いた紳士の顔色が変わった。じきに信号が変り、後ろの車が激しくクラクションを鳴らした。
 仕方なくベンツに戻った紳士は無言のまま青い車を追い続けた。
 けれども、とある交差点を曲がった途端、青い車は煙のように消え失せた。そしてブライディーの占いをもってしても、二度と再び探し出すことはかなわなかった。


 お話しは変わって、同じ車ネタの「立体駐車場」

「…そこまで調べられたのなら、もう駐車場の管理人のかたに申し上げて、警察にも届けたほうがいいのではありませんか?」
 ブライディーは目尻を下げて微笑んだ。
「いや、いや、御礼はそんなには出せなくて恐縮なのですが、ぜひ占ってください。やはり、できることなら恥はかきたくはないんです。『ここにちゃんとあるじゃあありませんか。人騒がせな』って」
 目の前のガッシリとした青年は、慌て者にもおっちょこちょいにも、見えなかった。
「…でも六階建て、十二フロアの立体駐車場の隅から隅まで、チョークで印しを付けながら探されても、どこにもないのでしょう? 盗難にあったとしか…」
「いや、確かにどこかにあるような気がしてならないんです。ぼくが思い出せないだけなんです。どこに置いたかを」
「あの、近くに似たような立体駐車場はないのですか? つまり、立体駐車場自体を取り違えておられるのでは?」
「近くに二つ三つあります。でも、間違えようがないんです。いくらなんでも、自分が運転して入庫したところを忘れるハズはないし、それに…」
 青年はトレーナーのポケットをまさぐってとある大手スーパーの駐車場の駐車券を取りだした。それには二日前…おとといの午前中の日時が刻印されていた。
「もしもあなたのおっしゃる通り、いまだどこかのスペースに駐車中なら、料金もかなりの額になっていることでしょう。ガードマンさんに事情を言ったほうが…」
「いや、そこは一時間百円、二十四時間止めっぱなしでも千二百円、不規則な仕事をしている人たちがよく利用するところなんです。駐車料金はいまのところ問題ではありません。どうか…」
「その… 失礼ですが、どうしてそんなに自力で探し出すことにこだわっておられるのですか?」
「実はですね…」 青年は声を潜めた。「…このスーパーの立体駐車場は、止めた人がよく、止めた場所を忘れることで有名なんですよ。よその立体みたいに、リンゴやミカンの大きなイラストがなくて、ただの階数の数字だけのせいもあります。3のAとか、4のBとかね。いままでだって、両手に買物袋をいっぱい持って自分の車を探している親子連れやカップルをよく見かけました」
「一度見失うと探しにくい、意地悪な立体なんですね。大きなワゴン車にはさまれた小さな車なんかは錯覚で見落とす、とか…」
「そうです! そうなんです! ですから、ご迷惑かもしれませんけど、お願いしたいんです」

 愛用の金のダウジングの棒を携えたブライディーは、友達が写したと思われる愛車とのツーショットを手にした青年と、問題の立体駐車場に向かった。
 売り出し日でもあるのだろうか、それともパーキング料金が安いからなのだろうか、目の前で何台もの車が列を作って駐車券を受取、入口のバーをくぐっていった。
「ここをこう通って…」
 青年は車で登ったスロープを歩いて案内した。後ろからヘッドライトを付けた入庫車が数台、追い抜いていった。
「…ぼくはあまり上のほうまで登るのは嫌で、空いたところを見つけたら、後続車があってもハザードを付けて、そこに止めるほうなんです。人によっては、そこは人に譲って次の空いているところまで登るドライバーもいますけれど…」
 平日というのに、下のほうの階は空いたところがなく埋っていた。
 と、買物袋とキーホルダーを下げた女性がキョロキョロしながら並んだ車を眺めながら歩いていた。
「ほら、あの人も自分の車を探しているみたいでしょう?」
「分りました。占ってみましょう」
 ブライディーは車と車のあいだに立って、黄金の棒を掲げて祈った。
 あろうことか、棒はくるくると回り続けるだけで、一定の方向を指すことはなかった。
「確かにおかしいですね…」
「でしょう?」
「車によっては、キーに付いているボタンを押せばハザードが点滅してロックが外れる、というものもあるのでは?」
 青年は黙ってキーのボタンを押したが、ハザードが付いた車もなければ、ロックの外れる音もしなかった。
「やはり、盗まれてしまったのでしょうか?」
 青年は小声で訊ねた。
「いえ、それでしたら占いでそう出るはずです」
 ブライディーは小走りに、外の非常階段の踊り場に立った。
「あなたは下まで降りて!」
 下の歩道まで降りた青年が手を振るのを待って、ブライディーも非常階段を降り始めた。
「わたしはいま、階段を降りていますか?」
「いいえ、登っておられますけど」
 歩道の青年からは、驚いたような、戸惑ったような返事が返ってきた。


「黒いマスコット人形」

「すいません。自分は警官なので、どうか本名は勘弁してください。ふだんは制服を着て、同僚たちと、もっぱら交通事故の処理に当っております」
 メイド喫茶を訪れた、いままでは血色が良かっただろう若者の頬は、緊張のあまりに引きつって歪んでいた。
「どうなさいましたか?」
「信じてもらえなくても構いません」
「いえ、どんなお話でも信じますわ」
 若者は何度も口ごもったが、出された熱いブラック・コーヒーを一口啜ると途切れ途切れに語り始めた。

…誰だって悲惨な事故現場なんか見たくありません。ぼくたちだってそうです。まぁ事故と言ってもほとんどは車同士の接触事故、車とバイク、車と自転車といったようなもので、死亡事故や被害者が重傷を負っているようなものは少ないのです。このあたりはまだ田舎ですからね…
 ですがたまに、車がティッシュペーパーみたいにくしゃくしゃになっていて、乗っていた人をレスキュー隊の電気カッターで切り開いて救出しなければならない時もあるのです。 まぁ、そういうのは大抵助からないのですけれど…
 とある土曜日の深夜のことです。暴走族のシャコタンの改造車が猛スピードで電柱に激突したとの通報を受けて出動しました。
 そこにはすでに大勢の野次馬たちが集まっていました。特攻服姿の暴走族仲間、パジャマ姿は近所の人でしょうか、男も女も事故車両をまともに見ることが出来ず、指の間から怖々覗きながら取り巻いている、といった状況でした。
 レスキュー隊はあと数分で到着する、との知らせが入っていました。
 自分はとりあえずスクラップと化した事故車両に近づきました。幸い、ガソリンは漏れておらず、炎が上がりそうな気配はありませんでした。連中はそろそろガス欠のところだったのかもしれません。取りあえず悪運の強い奴等だ、と思いました。
「おい、大丈夫か?」
 取りあえず声を掛けましたが、返事はありません。
「大丈夫か? しっかりしろ!」
 一面に蜘蛛の巣が走って曇りガラスのようになったフロントガラスを剥がした時のことです。中からはプンと血の匂いが漂ってきました。ライトで照らすと、二つの頭がハンドルとダッシュボードに頭を叩きつけて動かなくなっていました。
 誰が見ても生きているような感じはまったくしない… そんな光景でした。
 遠くのほうからレスキュー隊が駆けつけてくるサイレンの音がしました。自分は諦めて下がろうとした時、フロントのバックミラーに吊された奇妙なマスコットに気が付きました。
 それは黒い藁人形みたいなもので、白い目玉をギョロリと剥き、赤く分厚い唇を嘲るように大きく開いていました。腰の部分に黄色い腰蓑を付け、ゆらゆらと揺れていました。
(趣味が悪いな…)
 その時はその程度しか思いませんでした。
 その後、レスキュー隊が到着して、自分は野次馬の整理に回りました。「立入禁止」のテープが張り巡らされ、目隠しのシートが貼られました。
 と、その時、何気なく、漏れだした油なのか、それとも元々そういう染みができていたのか、アスファルトに目をやると、何か電池かぜんまい仕掛けの人形のようなものがトコトコと歩いていました。
 野次馬の誰かが歩かせたのでしょうか、とにかく悪い冗談だと思い、取り除こうとして近寄って、身体が凍り付きました。
 そいつは先ほど、あの事故車のバックミラーにぶら下がっていた不気味な黒い藁人形だったのです。
 藁人形はくるりと自分のほうを振り返ってニヤリと笑ったように見えました。
(バカな!)
 ダッシュして鷲づかみにしてやろうとした時、人形はまるでネズミみたいに素早く走って対向車線の車の流れ向こうに消えました。 自分は(夢でも見たのだろう)と、事故車のバックミラーを確かめに戻りました。
 人形の姿は忽然と消えていました。
 運転者と同乗者は即死、とのことでした。
 一回だけのことでしたら、悪い夢でも見たのだとかたづけて忘れることもできたでしょう。ところがそれから数ヶ月ほとせして、また見たのです。あの黒い人形を…
 それは高校の同窓生が運転する長距離トラックの運転席にぶら下がっていました。
「おい、おまえ、この人形は?」
「俺のじゃあないよ。会社のだれかがぶら下げたんだろう」
 同窓生は疲れた声で答えました。
「とても気に入ったよ。もし差し支えなかったらくれないかな?」
「いいよ。食事してから外そう」
 ドライブインでラーメンと餃子を食べながら次の同窓会の打合わせをしてトラックに戻ると、人形はまた消えていました…

「自分の思い過ごしかも知れません。いや、きっとそうでしょう。けれども、万一そうでなかった場合、あの人形がまた事故を起させないとも限りません」 警官と言う若者は少し血走った目でメイドさんを見た。「…お願いします、ブライディーさん。自分の親戚には神社の関係者もいて、呪術やそれを破る術にもやぶさかではないのです」
「わかりました」 メイドさんは鳶色のまなざしを向けた。「…ですが、もし首尾良く見つけ出せても、上手く捕らえるか封じる手だても考えておかないと、また逃げられては面倒なことに…」
「いちおう用意はしてきました」
 若者はカウンターの下に置いてあったスポーツバッグの中から子供のおもちゃみたいな小さな弓矢を取りだした。
「…親戚の神社でお祓いをしてもらった破魔矢です。自分は警察でやる武道のほかに、弓道などもたしなんでいます。あまり大きいと目立つ上に、狙いにくいと思って…」
 小さく頷いたメイドさんは、街の地図を広げて糸から垂らした棒を掲げた。
「…相手は動いていますね。移動中です…」
「すると、もうまた別の車のバックミラーにぶら下がっているのでしょうか?」
「ええ。その可能性が高いです」
「一緒に車で追いかけて頂けますか?」
「もちろん」
 二人は特に特徴のない大衆車に乗り込んだ。「いや、実は上司から『私服にならないか?』と誘われていまして… もしそうなったらプライベートな時も、急に呼び出しがかかるわけで… すると、車も極力目立たないものがいいかと思って…」
 メイドさんは何となくこの若者が少し好きになった。
(目には見えないものも信じているし、世のため人のために邪悪な人形を何とかしようとしている…)
「次の交差点を右へ…」
 目の前にミニパトが見えてきた。
「あれは、もしかして菊名さんたちの…」
「同僚のかたですか?」
「ええ」
 若者は携帯を取りだした。
「もしもし菊名さん、ぼくです。須佐です」『須佐君、いま麻薬所持の容疑者を尾行中です。またあとで』
「菊名さん、ヤバいかもしれない。すぐに増援を頼むんだ」
『どうして? ミニパトでつけているのに悠々と走っている。疑われているとは露ほども思っていないのよ』
 言い終わるか終らないうちに容疑者の四駆が急にスピードを上げた。
 ミニパトは赤色灯を付け、サイレンを鳴らした。
「前の四駆、止りなさい!」
「追うな、菊名さん、追ってはいけない!」
「どうして?」
 須佐と名乗った若者はアクセルをいっぱいに踏み込んで、アッという間にまずミニパトを追い抜いた。
 猛烈なスピードに助手席のブライディーの顔が引きつった。
 と、四駆はカーブでハンドルを切り損ない、街路樹に激突した。
 通行人らが飛び退いて悲鳴を上げる。
 車から飛び降りた須佐は、小さな弓矢を構えて割れたフロントガラスを覗き込んだが、そこには人相の悪い運転者が頭から血を流して気を失っているだけで、人形などの姿はなかった。
「いない… なぜいないんだ?」

「キャーッ!」
 携帯電話から菊名婦警の悲鳴が響いた。
「ーーブレーキが、ブレーキが効かないわ!」
 ミニパトがぐんぐんスピードを上げながら通りを突進してきた。
「菊名さん、よく聞くんだ! バックミラーに人形がぶら下がっていないか?」
「いるわ。黒い人形が。でもどうして?」
「そいつを引きちぎって窓から捨てろ!」
 菊名婦警は人形を引きちぎり、窓から投げ捨てた。
 途端にミニパトはキキーッと急停止した。 黒い人形は白い歯を剥き、腰蓑を揺らせながら、まるでネズミのように走って逃げようとした。
「おのれ、化け物!」
 須佐は素早く弓を引き絞り、矢を放った。矢は見事に人形に突き刺さり、人形は矢ともに白い煙を上げて消滅した。
 須佐は停止したミニパトに走り寄った。
「大丈夫かい?」
 中からは小柄でリンゴのような頬をした二十歳くらいの目のくりくりした婦警が降りてきた。
「ええ」
 ブライディーはホッとすると同時に、目を伏せた。
 他のパトカーもサイレンを鳴らしながら集まってきた。須佐はメイドさんのところに戻ってきた。
「有難うブライディーさん。おおかたバカな観光客が金にあかせてジャングルの奥地で買ってきた土産のなれの果てだったのでしょう」
「お仲間に大事がなくて何よりでした」
「また、お店に行ってもいいですか、菊名さんと一緒に?」
「ええ、もちろん」
 メイドさんは少しはにかんで答えた。


「お話し人形」

「七十いくつかのお婆さんだ。前の日まで元気にしていて、翌日急に心臓麻痺かなにかで亡くなったとしても不思議ではないのだけれどね」
 私服の刑事として再スタートを切った須佐は、ブライディーに、とある高齢者向け公営住宅の高層アパートの一室を見せながら言った。
「わたしのような部外者が拝見してもよろしのでしょうか?」
 言いつつも駅前の商店街の喫茶店のメイドさんは靴を揃えてきちんと片付けられた2DKの部屋へと入った。
「ああ。もちろん病死ということになったのだけれど、腑に落ちないところがあってね」「どのようなところですか?」
 小さな台所にはそれぞれ小さな電気釜に電気ポット、冷蔵庫に電子レンジ、きれいに洗われて並べられたお皿や茶碗。
 居間の小さな本棚には随筆や旅行記。アルバムが数冊あった。
「何となく、何となくなんだけれど霊気のようなものを感じるんだよ。刑事がこんなことを言っちゃあいけないんだろうけど…」
「わたくしも感じますわ」
 ブライディーが見つめる先、文机の上には、一輪挿しと筆箱の他に、身長三十センチくらいのかわいい女の子の人形が乗っていた。
「これは?」
「いま一人暮らしのお年寄りのあいだで静かにブームになっている『お話し人形』だよ」 須佐は人形を抱き上げた。
『こんにちわ。お母さん。また咲子と遊んでくれるの?』
 人形が喋った。
「中に精巧なセンサーといくつものICチップが埋め込まれていてね」 須佐はメイドさんに人形の目の前に座るように勧めた。「…こちらが言ったことに対して相応しい返事をする上に、髪を撫でたり手を握ったりしても何か言うんだよ」
「咲子さんという名前は?」
『お母さんが先立たれた娘さんの名前なのよ』 人形が代りに答えたので、ブライディーはハッとした。『あたしに同じ名前をつけてくれたのよ』
「こんにちわ、咲子さん。お母さんが天国に行ってしまって寂しいでしょう…」
『いいえ』 人形はかすかに首を横に振った。『お母さんはいまごろ、天国で本当の咲子さんと幸せにしていると思うわ』
「でもあなたは寂しいでしょう?」
『いいえ』 人形はまた首を横に振った。
『お母さんは本当にあたしを可愛がってくれたわ。「咲子、咲子」と言ってくれて… お洋服や着物をたくさん縫ってくれて…』
 須佐刑事が近くにあった洋服箱を開けると、中には数着の人形の服がきちんと整理されて入っていた。
「そう、優しいお母さんだったのね」
『ええ。あたしもとても幸せだったわ…』
「ねぇ、咲子さん。悲しいときにこんなことを聞いてすまないのだけれど、お母さんは突然の病気で亡くなられたの?」
 はじめて答えが止った。が、ややあって再び小さな口が開いた。
『いいえ。本当は違うのよ』
「本当のことを教えて」
『いいわよ』 人形は小さく頷いた。
『あたしは幸せだったのよ。でもそっくり咲子さんの代りをすることはできなかった。
 お母さんは咲子さんが好きだったお料理…ふわふわの卵焼きや、おいもの煮付けや花畑みたいなちらし寿司を作ってくれた… あたしは少しずつ頂いて、「おいしいわ」と言った。だって本当においしかったんだもの。お母さんは涙を流して喜んでくれたわ。絵本を読んでくれたり童謡も歌ってくれた。夏の花火大会の夜には浴衣を着せて窓辺に立たせてくれた。雪の日には赤いコートを着せて散歩に連れて行ってくれた… でもあたし、完全に咲子さんの代りになることはできなかった。…そう、あたしはずっとこの大きさのままで、大きくなれなかったのよ。お母さんもそのことはよく分っていた。分っていて愛し続けてくれた。あたしはそんなお母さんがかわいそうになってきた。(あたしみたいな代りの者じゃあない、本物の咲子さんに遭わせてあげることができたら、お母さんはどんなに喜ぶだろう、って…
 そこであたし、お母さんが巡回バスで市立の図書館と憩いの家に行ったとき、図書館で本を読んだの。タロット占いとか、コックリさんとか、降霊術の本を…』
「咲子さんは本が読めるの?」
『ええ。お母さんが童話を読んでくれて、字を教えてくれたから… あたしは思ったの。 亡くなった人の霊を、ひとときとは言えこの世に連れてくることができるのなら、ぜひお母さんに本物の咲子さんと再会させてあげたい、と… それで、お母さんにそのことを話したの。お母さんは「いいよ、わたしにはおまえがいるから。いまではおまえが咲子だよ」と言ってくれたけれど、あたしは本に書いてあった通りの方法で咲子さんを呼び寄せることにしたの。呪文を唱えてね。本当の咲子さんは来てくれたわ。
 お母さんは最初、とてもびっくりした顔をしたけれど、すぐに咲子さんを抱きしめたわ。
 あたしと同じくらいしっかりと… それから目を閉じて、二度と開かなかった…』


「地獄の声優」

「占って欲しい、と言うよりも、原因を突き止めて欲しいんですけど」
 その日、ブライディーの喫茶店を訪れた、まるで俳優のように容貌も声も普通よりはぬきんでている三十代の男は、何枚ものMDと、プロが使うその携帯用の編集再生機をテーブルの上に置いて切り出した。
「…ぼくは原田と言います。アニメーションの声優…主に二枚目の役…をやらせてもらっていますが、それだけでは食えないので、別に録音技師もやっています。
 同じプロダクションの声優の親友の滝という男が、恋人だった翔子が半年ほど前に一緒に海水浴に行っていた時に事故でなくなって、あまりにも落ち込みが激しくて、オーディションも受けなくなったんで、励ましてやろうと、こういうものを作ったんです」
 原田はそう言って編集再生機のスイッチを入れた。
『滝君、もうそんなに悲しまないで。あたしは天国から滝君のことをずっと見守って、応援しているわよ』
「翔子さんの出演作品を編集して、作られたんですね。いささか悪趣味なような気もしますけれど…」
 ブライディーは眉をひそめた。
「いや、喜んでもらえると思ったんです。本当です! 彼と彼女は端が羨む仲でしたからね… ぼくの自宅からタイマーを使って、ぼくと一緒にいる時に滝の携帯に掛けたら、彼、まっ青になってブルブル震えて…」
「それはその滝というやつが、事故に見せかけて翔子さんを殺したんだろう」
 反対側の隅のテーブルでコーヒーを啜っていた須佐刑事が口をはさんだ。
「ええ、ぼくも疑いたくはないけれど、そんな気がしてきました。地元の警察も一通り調べたんですけれど、滝君には翔子さんが溺れた時のアリバイがあったんです」
「そんなもの、『腕時計か何か、大切なものを落とした』とか言えば、恋人だったら探しに行くかもしれない。流れの速いところで何回か繰り返したら、そのうちに…」
 須佐は自分のテーブルを引き払って、コーヒー・カップを持ってこちらに移ってきた。
「しかし、こんなものを使って自白に追い込んでも、裁判所は証拠とはしてくれないぞ」
「ええ、ですから何とか…」
 原田は二人を見つめて頼んだ。
「わたし、フェイクで作った翔子さんの声なんかではなしに、滝さんの携帯電話に降霊術で、あの世にいらっしゃる翔子さんの霊を降ろしてみたいと思いますわ。滝さんがここへ来て協力してくださったら、ですけど」
 ブライディーは滝が帰ったあと、ポツリと言った。

 数日後、滝は原田に連れられて喫茶店にやってきた。
 五つある小さなテーブルのうちの四つは隅に寄せられ、真ん中に一つだけが置かれ、その中央にソフトボールくらいの水晶玉が置かれた。
 四つの椅子に原田とサングラスをかけたままの滝、それに須佐刑事とブライディーが座った。
 真夜中、灯りが消され、最後の蝋燭も吹き消された。
 やがて、どこかからかすかに可愛らしい声が響いてきた。
『…滝さん、どうかもう気にしないで。あたしももう気にしていないから…』
「いい加減にしろよ、原田。こいつは最新のテクノロジーを使って作ったニセモノだろう?」 滝は振り絞るように言った。「今夜は化けの皮を剥がしてやるために来てやったんだ。翔子とぼくしか知り得ない、特別な質問をしたら絶対に答えることはできないだろう。…例え隣の部屋に、翔子ソックリの声の声優が隠れていたとしても…」
『…いいえ、滝さん、あたしは本物よ。だから疑うのだったら何でも聞いてみて』
「最後の打ち上げパーティの夜、二人きりになった時、アクセサリーの露天商で君が手に取ったものは何だ?」
『赤いガラスの指輪。値段は二千円だった… あの夜は楽しかったわね、滝君』
 滝の顔が見る見る老人のみたいに皺だらけになった。
「バカな! 信じられない!」
『信じてもらえなくてもいいのよ。あたしはあなたにこれからも頑張ってもらえればそれでいいの』
「悪かったよ、翔子、俺が悪かった。俺があの岩場に、おまえが買ってくれたバッグを置き忘れさえしなければ…」
『いいのよ。そんなのにこだわって夜中に捜しに行ったあたしの落ち度だわ』
「いや、そんなことは…」
『だからもう、あたしのことは…』
 声は次第に消え、ブライディーは再び蝋燭を付けた。
「やはり事故だったのか。これで決着が着いたな…」
 須佐刑事が電気を付けた時、原田の携帯電話が鳴った。
「もしもし」 携帯に出た原田に、携帯のマイクからフル・ボリュームで翔子の声が響き渡った。
『それはそれとして、よくも突き落としてくれたわね、原田君!』


「ジュゴンの呪い」

「お願いします、ブライディーさん、何とかしてください!」
 目の前の野菜ジュースを一息で飲み干した、まだあどけなさを残している二十歳前後くらいの青年は、タンクトップ健康的に日焼けした肌を覗かせているのとは裏腹に、腐りかけの魚のような睡眠不足の目でメイドさんを見つめた。
「このままではぼくは、一番好きなことを止めなければならなくなってしまいます…」
 青年は堰を切ったように語り始めた…

 ぼくは海に潜るのが大好きなんです。
 子供の頃、家族旅行で沖縄へ行って素潜りをしてからは病みつきになりました。大学生になって講習を受け、スキューバの資格も取りました。もう少しで講師にもなれると思います。水中写真の依頼もポツポツもらえるようになりました。沖縄、小笠原、グアム、そしてハワイ、一生懸命バイトをしてお金を貯め、近くで美しいと言われるところは、所属クラブやツアーの仲間たちとともにほとんど潜りました。どこも期待に違わない素晴らしさでした。

 半年ほど前、沖縄の西表島近海の、あまり知られていないダイビング・スポットに水中カメラを持って潜っていた時のことです。先に潜っていた仲間はすでに船に上がって休憩していました。
「ジュゴンはいなかったな」
「バカ、そんなもの滅多にいるものか」
 友達はそんな話をしていました。
 用具の調整に手間取っていたぼくが、後から一人で潜ることになりました。…本当はいけないことなのです。ご承知の通り、最低二人一組で潜るのが基本なのです。ですが小さな嵐が来そうな雲行きで、他のメンバーは先に楽しんだんです。幸い、雨雲はゆっくりしていて、ぼくも潜れることになりました。
 美しいサンゴ、極彩色の魚たち、いつもの感動にひたることができました。
 と、幾尋かの深みに、まるで人魚のような姿が見えました。ジュゴンです! 天然記念物の! (何という幸運だろう!) その時のぼくは、心から神仏に感謝しました。ダイバーの仲間にも、先輩にも、ジュゴンをその目で見た人はいません。ジュゴンを見た者は幸せになれる、という言い伝えもあります。
 ぼくはそのジュゴンを脅かさないように少し距離を置いてしばらく泳ぎました。無論、写真も何枚か撮りました。
 やがてとうとう、気配に気が付いたジュゴンがぼくのほうを向いて、瞳でこう語りかけてきました。
『お願いします。どうか私の写真は誰にも見せないでください。できたら誰にも仰らないでください』
 もちろんジュゴンが話すわけはありません。だけども、そんなふうに語り、哀願するように見えたのです。
「分った、誰にも言わない。写真はぼくだけの宝物にするよ」
 目で答え、空気もなくなりかけていたので船に上がりました。
 しばらくは約束を守っていたのですが、ダイバー仲間が「あんな、こんな珍しい魚や生き物を見た」と自慢を始めるに連れて、次第に我慢ができなくなってきました。
 宿でビデオや写真の見せ合いになるとなおさらです。
 そしてとうとう「ジュゴンらしいものを見た」と言ってしまったんです。
 そうなると、後はもう坂を転がるようなものでした。
 たちまちぼくは「ジュゴンを撮影した幸運な若者」に祭り上げられ、その映像はテレビで何度も何度も放送され、写真は雑誌や新聞に掲載されました。正直、ちょっとしたプチ成金になったぼくは、ジュゴンと交した約束などすっかり忘れて有頂天になっていました。
 ぼくたちが潜ったスポットはボカしていたものの簡単に割り出されて、ダイバーたちのラッシュになりました…

 その頃からなんです。ぼくが依頼を受けて撮影した美しい水中写真に、チョウチンアンコウやら、目玉が飛び出し、顎がやたらと大きい、額からは発光体をぶら下げた不気味な深海魚が写るようになったのは…
 ぼくはそんなものを写した覚えはまったくない。第一、そんな深海魚が人間が潜れる深さまで上がってくることはまずないんです…
 もし、人に見せれば明らかにトリックということになって、前に写したジュゴンまで疑われてしまいます。
 デジタルだから、消そうと思えばいくらでも消せるのですけれど、正直、気味悪くなってきて、そして例のジュゴンとの約束を思い出したんです。
 心当たりと言えば、もうそれくらいしかありません。新しい水中写真の器材なども、この時の版権で買ったものです…

 お願いします、ブライディーさん。鮫に襲われたり事故に遭うのも嫌ですが、いままで楽しんできた幸せを台無しにしてしまうのはもっと悲しいです。あのジュゴンに会って謝りたいのです。西表島の問題のスポットにいるにせよ、あるいは嫌気が差して引っ越したにせよ、占いで探し出し、一緒に潜ってください!」

 数日後、西表島近海のダイバー・ショップの船の甲板の上に、ウエット・スーツ姿の青年と、競泳用の水着姿にシュノーケルを付けたブライディーがいた。
「やはりこのあたりに居るのでしょうか?」
「ええ。おおざっぱな占いではそう出ましたが…」
「ぜひ会って謝れるといいです。…ところでブライディーさんはスキューバはやらないんですか?」
「はい、わたしライセンス持っていませんし、それに深いところに潜るのなら、同じだと思って…」
「それはそうですけど… 二、三十メートルの深いところだと、ボンベを背負っても往復を考えるとせいぜい五分か十分。素潜りで上手な人とあまり変わりはありません。おまけに潜水病の心配もあります。しかし、浅いところだとスキューバだと三十分は居られるので有利ですよ。そうでないと海女みたいに何度も息継ぎのために海面に浮上しなければなりませんからね」
「でもジュゴンというのは比較的浅い海にいるのでしょう?」
「それはそうなんですけれど…」
 水中カメラを手に船縁に腰掛けていた青年は背中から海に入った。反対側、ブライディーは両手を揃えて頭から飛び込んだ。
 と、宇宙生物まがいの巨大なクラゲが近寄ってきた。
『ほら、現れた。このあたりにはこんな大きなクラゲはいないはずなのに、友達が潜っても現れないのに、ぼくが潜るとなぜか出るんです…』
 青年はそう言いたげに顔をしかめて見せた。クラゲをやり過ごすと次はカツオノエボシ、それも通り過ぎさせると今度は青年が言っていたやたらと顎だけが大きなグロテスクな魚や、チョウチンアンコウのような見るからにグロテスクな深海魚が一匹、また一匹と近寄ってきた。
『写真に写っていたのは幻じゃあなくて、全部実物じゃあありませんか?』
 ブライディーは呆れて見せた。
『実はそうなんです…』 青年は頷いた。『…でも、そうとでも言わないと、気味悪がって来てもらえないと思って…』
 ブライディーは片手のナイフで接近してくる大きな甲冑魚もどきを追い散らし、もう片手の棒でジュゴンの潜んでいるあたりを占った。
 そこへまた古代の奇妙奇天烈な魚たちがうようよと泳いできた。手持ちぶさたの青年はしきりにシャッターを切っていた。
『おかしいわ! こんな魚たち、いまはいるはずはないのに…』
 ブライディーはしきりにかぶりを振った。『もしかして、図鑑か何かで勉強した者が作り出している幻? でも写真に写る幻というのは、幻術なら相当高度な術だし、科学技術としても、パソコンの画面に映し出すのなら簡単でしょうけれど、海の中に立体で映し出すなんて!』
 思い切って恐る恐る手を伸ばしてみると、手は不気味な魚を突き抜けて、向う側へと通り抜けた。
(幻影であることがバレたと分れば、相手は次の新しい手段に訴えるかもしれませんわ…) そこで、恐れおののいているフリをしながらも、幻の深海魚のすぐそばを巧みにすり抜けた。
 すると、その向こうにぼんやりと、のっぺり愛嬌のある生き物がフワフワと漂っていた。(ジュゴンだわ!)
 ジュゴンは片方の鰭に小さな子供を、もう片方の鰭にソフトボールくらいの大きさの水晶玉を抱いていた。
(子供がいたので人間を追い払いたかったのね…)
『その玉はどうしたの?』
 ジュゴンの前にそっと回り込んで訊ねてみた。
『…むかしむかし、何万年も前に、魔法の文明を誇った人間の国が、その力の使いかたを誤って一夜にして海の底に沈んだの…』 ジュゴンは答えた。『…住んでいた人たちはみんな(自分だけは助かりたい)と思って船や気球に大切なものを積み込んで逃げ出そうと試みたけれど、みんな津波に飲まれたり、爆発に巻き込まれて海の底に沈んでしまったわ… この玉はその宝物のうちの一つで、わたしたちの先祖から代々伝えられたものよ。人間を追い払いたい時に使うようにしているの…』
『あなたの写真を撮って、より大勢の人間を呼び寄せることになってしまった人は十分に反省しているわ。だからもう勘弁してあげて…』
 ジュゴンはしばらく考えていたが、やがて『…貴女を信用するわ。だけども、今度また約束を破ったら、その時は… わたしたちには幻ではない、本物の太古の恐ろしいものを復活させることだってできるのだから…』
 と言い、身を翻らせて姿を消した。
 さすがに息も苦しくなってきた。浮上すると青年が波間に漂いながら待っていた。
「ブライディーさん、心配しましたよ。いま仲間と探しに行こうとしていたところだったんですよ」
「もう大丈夫、ジュゴンに会って、ちゃんと謝っておきましたよ」
 南の太陽に照らされたブライディーの顔はにこやかだった。


「妖刀・影斬丸」

「まるで幽霊にでも斬られたかのようだ」
 須佐刑事は何枚かの写真をカウンターに並べた。写真には剣道の稽古着を着た白髪の男が倒れているところが写っていた。近くにはこの男のものと思われる日本刀が落ちていた。 男の腰にはその刀の鞘と、脇差しが差してあった。
「…被害者は坂崎重蔵と言って、よくテレビに出演して、兜割りや真剣白刃取りをして見せている有名な剣道の師範だ。目だった外傷はなく、死因は心臓麻痺とのことだ」
「一人で練習されていたのでしょうか?」
 メイドさんは熱いブラック・コーヒーを淹れながら訊ねた。
「いいや。現場の草っ原は地元でも有名な『決闘場』だった。…いまでも時々不良グループや暴走族が果たし合いをするところらしい。坂崎氏は駅から近いところにちゃんとした道場を構えていて、青少年や社会人を指導している。もし稽古をしたかったのならそこでいくらでもできる。まして死亡推定時刻からして、真夜中に野原で真剣を振り回すなど考えられない。唯一あり得るとすれば…」
 須佐はコーヒーを啜った。
「『坂崎さんは決闘に赴いた』?」
「その通り。だが、奇怪なことに、現場には、まるで派手な立ち回りをしたかのような坂崎氏の足跡があった。だが、その相手の足跡は一つも見つかっていないんだ。…まるで、幽霊とチャンバラをしたみたいに…」
「『見えない相手と斬り合いをして、斬られたショックで心臓が止った』…」
 メイドさんは頬杖をついた。
「まったくあり得ない話ではない。ボクサーはサンドバッグを相手に見立てるが、初心者の場合、跳ね返ってきたサンドバッグにはね飛ばされることもあるそうだ。
 坂崎氏は常々、テレビなどで『宮本武蔵や柳生十兵衛、沖田総司ら、名だたる剣豪と試合をしてみたい』と豪語していたそうだ。
 何者かが催眠術か何かで坂崎氏に幻影を見せ、死に至らしめた可能性が高い。…が、とてもじゃないが証明できるような事柄ではない。剣豪の霊に挑戦されて受けるような剣術家は、いまの日本では稀だろう。一人、二人、三人…せいぜい十人いるかいないかだと思う。けれども、そのような亡霊の跋扈を許しておくわけには行かないような気がするんだ」
 メイドさんは深く頷いた。
「……問題は、もし仮に、わたくしの占いの力でその霊がいまどこにいるかを探し出せたとして、どうやって倒す、封じるか、です」
「やはり、真剣で立ち会って一刀両断にする、とか…」
 須佐は自信のなさそうな目で見上げた。
「いいえ。まず不可能です。なぜならそういう存在は、対戦者の能力を鏡に映したように吸い取って、常に対戦者よりも、ほんの少し上回る力を身につけているからです。 中国に、男の人の精を吸い取って不老不死を得ている仙女がいますが、どんなに精力絶倫の男の人が来ても、常にそれを全部吸い取ることができるのと似ています。でなければ不老不死を保てません」
 メイドさんが少し顔を赤らめながら話し終えた時、玄関のチャイムがカラカラと鳴って菊名婦警が飛び込んできた。
「ブライディーさん、何をエッチな話をしているのですか!」 振り返って須佐のほうを睨み付けた。
「須佐君、あなたも何を考えているの? 次から次へと、やらなくてもいい余計なことに首を突っ込んで!」
「い、いいじゃないか菊名さん。これは世のため人のためなんだ」 須佐はスツールから立ち上がって二人のあいだに入った。「…ブライディーさんがいれば、この種の事件も解決できるかもしれない」
「ふん、何よ! 『ブライディーさん、ブライディーさん』 そんなにブライディーさんがいいんだったら、ブライディーさんと結婚でもすればいいでしょう!」
 婦警さんはドアを思い切りバタンと閉めて出て行った。
「ごめん。気にしないでくれ。…といまさら言っても無理か…」
 須佐は青菜に塩をかけたように打ちひしがれていた。
「…警察学校の頃からの同期でね。気は合うのだけれど、その…心霊能力とかそういうものは皆無なんだ。もちろん信じてもいない。頭から信じてないからますます相当メジャーな幽霊や妖怪が目の前に立っていたとしても見えないんだ」
「いいではありませんか」 メイドさんは目尻を下げた。「…お似合いのカップルですわ。 言い古されていますけれど、性格がまったく反対のほうが長続きしましてよ」
「そ、そうかな… ケンカばかりしていなければならなくなるような気がするけれど…」
「生まれる子供のことを考えてください」 ブライディーは顔を紅潮させる。「…『見える者』同士の夫婦の子供は『見える』可能性が高まりますよ。『見える』あなたは子供の頃幸せでしたか? それからいま、幸せですか?」
「うーん、他の子よりも幸せであったとも、なかったとも言えるなー」 須佐はいろいろを思い出そうとしているかのように左右に首をかしげた。「刑事になったのも、科学や論理では解決できない不思議な事件に興味があったから、だしなぁ…」

 何事かブツブツと呟いている須佐はほったらかしにして、メイドさんはケルト神話のタロット・カードでゆっくりと占い始めた。
 剣術にまつわる事件らしく、クーフーリンなど、戦の神のカードが中心に現れた。
「やはり刀ですね。坂崎氏が持っていて、ご遺体のそばにあった刀に強力な邪気が宿っている、と出ています…」
「そうか! ぼくもそうではないかと目星を付けていたんだ。それだったら話は早い! 坂崎氏の愛刀は『影斬丸』と言って、ずいぶん昔、鎌倉時代か、もしかしたら平安時代から伝わる名刀なんだ。作者銘はないものの、確か重要文化財にも指定されている。ちょうどいいぞ! 『影斬丸』はいま証拠の品として警視庁に保管されている。ぼくと一緒なら見られるはずだ」
 須佐は勇んでブライディーの手を掴み、出て行こうとした。
「ちょっと待ってください。一緒に行きますけれど、他にもうお一人、警視庁の剣道の上手なかたにもお願いしないと。…いえ、名刀というのはある程度の達人が持たないと力を発揮しないんです。ちょうど伝説のタロットや水晶玉でも霊力が高い占い師が使わないと猫に小判です。レーシングカーが名レーサーでないと動かせないのにも似ています」
「な、なるほど…」 須佐は、古いアールデコ調の、三輪のチューリップが垂れ下がったような灯りを上目遣いに見上げた。「えーっと、あいつはいま忙しいな… アイツもダメか…」
 それからハッとした。
「菊名さんだ! 彼女は警視庁の女子では一番強い! 確か四段で、女子では相手がいないから、男子に混じって稽古しているはずだ! 調子のいい時は、男子の師範代クラスも負かす時がある、とか…」
「でも、菊名さんはオカルトが嫌いなんでしょう?」
「ああ、しかし事が剣道だったら、話は違うかも知れない…」
「では、ダメもとで頼んで見られては?」

 二時間ほど後、須佐とブライディー、それに稽古着姿の菊名婦警は、警視庁の剣道場に立っていた。
「たってのお願いということで、一時間だけ貸し切りにさせてもらったけれど…」
 菊名は鞘に入った影斬丸を左手に持ち、象嵌の柄の部分を右手で握り締めた。
「あの、気を付けて下さい! ものすごい邪悪な気配を感じます! やはり、いきなり実験というのは危険ですから、きょうのところは中止して、対策を考えてから明日以降に…!」
 走り寄ろうとしたブライディーに鞘の先が向けられた。
「科学的ではありませんわ! 科学で証明できなければ、捜査も裁判も、何もあったものではありませんわ。あたしはいまからこれがただの鋼の固まりに過ぎないことを証明して差し上げます」
 菊名婦警は頭に手拭いを巻いただけで、面はかぶらず、鯉口を切った。
 すると、鞘と鍔のあいだにできた僅かな隙間から、白い、角度によっては銀色に輝く煙のようなものが立ち上った。
「菊名さん、気を付けろ! マジでヤバそうだぞ!」
「どこが? この刀は鑑識係の人も調べたのよ。『刀身には血痕も何もない、柄にも坂崎氏の指紋以外はなかった』とおっしゃってたわよ!」
「そ、それは鑑識の人は普通の人だから…」 煙のようなものはますます激しく吹き出したが、菊名にはまったく見えていない様子だった。
「重さと言い、柄の手触りと言い、持った感じと言い、本当に立派な刀ね… さすがに坂崎さんの刀だけのことはあるわ…」
 彼女は道場の真ん中に立って、正眼に構え、二度三度と素振りをして見せた。
 漏れ出た煙のようなものは、ちょうど相手が立つ場所に集まって、次第に人の形を成し始めた。
「おい、止めさせようか?」
 須佐は切羽詰まった声で訊ねた。
「いえ、いま割って入るのはかえって危ないですわ。菊名さんの心がおかしくなってしまう危険性が高いです」
 ブライディーは手を横に伸ばして遮った。
「しかし…」
 白い煙はやがて、新選組の隊服を着た、若い秀麗な青年になった。
「沖田総司だ。菊名さんの好きな剣士だ…」 須佐は囁いた。
「沖田様ですね… あたし、ずっと憧れ続けておりました。ぜひ一手御指南をお願いします…」
 沖田の姿をした幻影は婦警さんにも見えるらしく、夢うつつのうっとりとした表情で言った。
「…えっ、竹刀や木刀ではなく、真剣でご教示いただけるのですか、感激です… 貴男様に斬られて死ぬのなら、本望です… あたしはこの影斬丸で… 沖田様は菊一文字でございましたわね。あたしの名も菊名と言うんです…」
 彼女は摺り足で半歩歩み出ると、影斬丸を八双に構えた。沖田はもちろん天然理心流の構えだ。
「やはり影斬丸ですわ。影斬丸が、持ち主がいつも心に描いていた理想の好敵手の幻を読みとって目の前に作り出しているんです!」
 メイドさんが囁いた。
「それだったら持ち主の坂崎氏は、もっと早い時期に、幻の強敵にやられて死んでいるはずでは?」
「封印ですわ。坂崎氏が亡くなる前に、誰かに影斬丸を貸さなかったか調べれば… でも、とりあえず菊名さんを何とかしなくては…」

「えーいッ!」
 婦警は気合いとともに、幻の沖田に斬り込んだ。沖田は愛刀、菊一文字で軽くいなした。
「はぁはぁ…」
 たった一太刀斬り込んだだけなのに菊名の息が荒くなり、顔に汗が伝い始めた
 幻影の沖田のほうは、余裕の足取りで一歩、また一歩と踏み込んだ。
「くそぅ! どうすればいいんだ! 菊名さんも相当強いとは言え、とてもじゃないが沖田総司にかなうはずがないぞ!」
 幻の沖田がゆっくりと剣を上段に振りかぶった。
「…教えてくれ、ブライディーさん! このままでは菊名さんは、坂崎氏と同じように幻影の沖田に踏み込まれて斬られて心臓麻痺で死んでしまうかも…」
「一つだけ方法があります。でも…」
「どんな大変なことでも構わない! 早く教えて下さい!」
 須佐はすがるような目でメイドさんを見た。
「影斬丸は人の命…と言うか魂を奪うように、封印を破られています。ですから、誰かが沖田さんの代りに、菊名さんの目の前に飛び込んで影斬丸に…菊名さんに斬られたらこの場は収まると思います…」
「分った! 有難う!」
 須佐は聞き終わるか終らないうちに、幻の沖田の背後から駆け出し、影斬丸を構える婦警さんの前に身を躍らせた。
「菊名さん、やめるんだ! こいつと勝負してはいけない!」
「いやぁー!」
 大きく目を見開いた菊名は須佐の身体を肩から腹にかけて袈裟切りにした。
 刑事のシャツが赤く染まったかと思うと両手で胸を抱え、かすかなうめき声を立てて倒れた。
 途端に菊名婦警のすぐに目が覚めた。
「はっ! あたしはいま何をしたかしら?」
 目の前の、床を血で染めている須佐に気が付いて悲鳴を上げた。
「キャーッ! 須佐君! 須佐君!」
 彼女はひざまずいて抱き起こそうとした。
 二、三歩駈け寄ったブライディーはそれ以上近づくことは出来なかった。
 悲鳴を聞きつけて、すぐに何人もの人がやってきた。
「どうしたんだ?」
「何があったんだ!」
「あの女です!」 婦警はブライディーを指さして言った。「あの女は催眠術師なんです! 須佐さんの心が一向に自分に向かないことに腹を立て、あたしに証拠物件の日本刀を持たせて催眠術を掛け、須佐さんに斬りつけさせたんです! そうでもなければあたしが須佐さんを、道場で、他人が見ている目の前で斬りつけるはずなんてあり得ません!」
「そうか、分った!」
 鋭い眼の刑事が言った。
 たちまちブライディーは取り押さえられた。
「しかし菊名君、もちろん君にも後で話を聞かなければ…」

「あの… 須佐さんの容態はどうでしょうか?」
 小さな取調室、ブライディーは目の前に座っている若い怜悧そうな刑事に尋ねた。
「…………」
 そこへ別の刑事が入ってきて何事かを囁き、そのまま立ち会いとして部屋の隅に立った。「良かったな… 幸い大したことはなかったそうだ。まぁ須佐もそこそこはできる奴だからな。とっさに受けたのだろう」
 メイドさんはホッと胸を撫で下ろした。
「須佐さんの意識が戻ったら、本当のことを… 菊名さんを救うためにわざと斬られた、ということを語って下さると思います」
「しかし神志那警視、誰かに催眠術をかけ、被害者を襲わせる犯罪など前代未聞です。証明できるのでしょうか?」
 立ち会いの刑事がまた囁いた声を今度は聞き取ることができた。
「一種の殺人教唆に当るかもしれないな」
 神志那警視と呼ばれた男は、細く白い指を机の上で組んだ。
「…さぁて、ブライディーさんとやら、いままでのいきさつを洗いざらい話してもらいましょうか…」
 メイドさんは、自分自身に(落ち着くのよ… 落ち着くのよ…)と言い聞かせながら語った。
 最初の出会いは須佐刑事が制服警官だった頃、奇妙な黒い藁人形が交通事故を巻き起こしていることを調べていたこと…
 須佐刑事は「科学捜査では証明できない心霊事件とも呼べる出来事」に関心を持っていて、刑事になったのも、行く行くはそれを明らかにすることが目的だったこと…
 占いのできる自分は、いつのまにか須佐刑事に当てにされていたこと…
 そのことを菊名婦警は余り快く思っていなかったこと…
 しかし、影斬丸については、その怪しい力のあるなしを突き止めるために、実験台を買って出てくれたこと…
「なるほど… 興味深い話だな…」 黙って聞いていた神志那警視は、穏やかに言ったかと思うと、一転して拳で机をドーンと叩いた。
「それは、一流の占い師を揃えたら警察はいらなくなる、須佐はそういうポリシーを持っている、ということかね?」
「ですから、須佐さんが回復して下さったら… 菊名さんも須佐さんの頼みで影斬丸を手にして下さったことを語って頂けるかと…」
「やれ『怪電波が聞こえた』だの、『殺せ、と命令する悪魔の声が聞こえた』だの、凶悪犯罪の容疑者はみんなそんなことを言うんだよ」
「…そのうちのいくつかは真実かもしれません!」
 神志那警視は再び拳を振り上げ掛け、空中で止めた。
「バカバカしくて怒る気にもならない… こうなったらこの私が、その影斬丸とやらを持って、振り回してみてやる! これでも私は剣道六段だからな! それで、もしも万一私がおかしくなったら、おまえたちの言っていることが正しいと証明できるわけだ! それまで君は拘置所に入っていてもらうぞ! パスポートも外国人登録書もないなんて、じゅうぶん立派な犯罪だ! 良くて強制送還だからな!」
 神志那はそう言い捨てて、取調室から出て行こうとした。
「やめてください、それだけは! 危険過ぎます!」
 椅子から立ち上がり、取りすがろうとしたメイドさんは、もう一人の刑事に取り押さえられた。

「菊名婦警や、ブライディーさんはどうなりましたか?」
 警察病院の個室で、赤やら黄色やら、色んな点滴を受けていた須佐刑事は、カルテを持って入ってきた医者を見て上体を起しかけた。「何をするんですか! 幸い命に別状はなかったとは言え、絶対安静ですよ!」
「教えて下さい! ぼくには聞く権利がある!」
「菊名さんは別室で鎮静剤で眠っています。 ブライディーさんと言う人は、いま神志那警視の取り調べを受けています」
「何だって!」 さらに起きあがりかけた須佐は、傷口を押さえて倒れた。
「ほら、言わないことじゃあない!」
「菊名さんはもちろんだが、ブライディーさんも何も悪いことをしていないんだ! 早く自由にしてあげて欲しい! そしてここへ来させて欲しい! 相談したいことがあるんだ! …そうだ、『影斬丸』はどうなった?」
「二重の意味で証拠になりましたからね。たぶんまた鑑識係が…」
「お願いします! 剣道初段以上の人が『影斬丸』に触れないように言ってきてください!」
「えっ?」
 医者はあからさまに不審そうな顔をした。けれども須佐が必死で頼むので、看護士の誰かに言付けようとして出て行った。
 すると、入れ違いに神志那警視が入ってきた。警視は、手に鞘に収め、さらに袋に入れた『影斬丸』を持っていた。
「具合はどうだね、須佐君。思ったよりも傷が浅くて良かったな」
 神志那は見舞客用の椅子には座らず、須佐を見下ろした。
「はい。警視、有難うございます。奇妙なことを言うようですが、その影斬丸の取扱には注意してください。剣道の上手い人がその刀を抜くと、幻影を見るのです。坂崎氏が心臓麻痺で亡くなったのも、菊名さんが我を忘れてぼくに斬りつけたのも、その刀のせいなんです!」
「須佐君、君は曲がりなりにも刑事だろう?」 神志那はあからさまに眉をしかめた。「自分が迷信を撒き散らしているとは思わないのか?」
「…犯罪のうちの99パーセントまでは科学的捜査で解明されることでしょう。それはぼくも認めます。ですけれど残りの1パーセント、いや、0.1パーセントは、理屈では説明がつかない、不可解な要因によって起きるんです。常識では理解できない凶悪犯罪のうちの0.何パーセントかは、そういうものが原因なんです。ブライディーさんはそういうことが分る人なんです! ですから、すぐに釈放してあげてください!」
「須佐君、私はいままで君のことをまともな、立派な刑事だと思っていた。だが、そんなことを言い出すのなら、元の交通違反の取り締まりに戻ってもらわなければならないよ」
「それでも構いません! とにかくその影斬丸を…」
「…百歩、いや二百歩譲って君のいうことにも一理あるとしよう… ブライディーさんが傍にいれば、これから重大な犯罪を犯しそうな奴はどんな奴で、どのあたりにいるか分るとしよう… 君がそいつに貼り付いていれば、現行犯で逮捕ができて、どんどん検挙率が上がる… 君はそれを狙って、つまり出世することを願ってそんなことを言っているんじゃあないかね?」
「とんでもない! ぼくはそんなことは考えていません!」
「しかしそう思われても仕方がないんじゃあないかね? 思われたくなければ、以後はブライディーさんとの付き合いはキッパリと止めることだ。もちろん他の占い師とも二度と会わないと約束してくれたらブライディーさんはいますぐ釈放しよう」
「そ、それは…」
 ためらっている須佐の前で神志那は影斬丸の袋を縛っていた紐を解き、刀を取りだし、スラリと鞘からから抜きはなった。
 菊名婦警が手にした時に湧き出たのと同じ霧が病室にたちこめはじめた。神志那にはそれが見えているのかいないのか、悠然としている。
「止めてください、警視!」
「須佐君、三百歩譲って、君が正しいとしよう。…全体からするとほんの僅かな確率だがオカルティックなことが原因で、事件や事故が起きることもある、としよう… ブライディーさんのような人が重用されることになったとしよう… そうなると、非常に都合の悪い者たちも大勢出てくる。例えば、世間では立派な人とされているのに、裏では闇の世界を牛耳っている者とかが次々に占いによってあぶり出されてしまう… そう思わないかね?」
 神志那はギラギラと輝く切っ先を須佐の喉もとに突きつけた。
「いま私がこのまま刃を突き出せば、殺人罪になるだろうか? 菊名婦警は『何も分らないままにやった』と証言するだろう。私も『訳が分らぬままにやった』と言う。刀の呪いは、より真実味を帯び、私たちが罰せられる可能性はさらに低まるかもしれないな」
 目を大きく生唾を飲み込んだものの、須佐は何も言わなかった。
 現実には数秒だったろうが、長く長く感じられる時間が流れた。
 廊下から足音が響いてきた。神志那は素早く影斬丸をもとの袋にしまった。
「誤解しないでくれたまえよ。私は君たちの味方なんだ。部下が訳の分らない災難に遭うのを喜ぶ上司などいるものか。今回のことはちょっとした事故ということにしよう。…よくよく考えておいてくれたまえ」
 警視はそう言い残し、病室から出て行った。

 数日後、須佐刑事がそろそろ退院できる頃になって、私服姿の菊名婦警が看護士に付き添われて見舞いにやってきた。
「大丈夫だ。二人きりにさせてください」
 須佐が頼むと看護士は少しためらってから下がった。
「ごめんなさいね、須佐君、本当にごめんなさい!」
 彼女は両目に、決して作り物ではない涙を溜めて言った。
「謝らなければならないのはぼくたちのほうさ。恐ろしい実験をさせて、君の経歴に傷をつけてしまった」
「そんなものはどうでもいいのよ。あたしは『何も起らない』と信じて、それを証明するために影斬丸を抜いたのだから。…でも、影斬丸の呪いだったとしても、ブライディーさんの催眠術だったとしても、不可解な力があることを認めてしまうことになって…」
「ブライディーさんの催眠術はあり得ないよ」 須佐は苦笑いした。「こんなことを言ったらおこがましいけれど、ぼくに万一のことがあったら、ブライディーさんだって悲しむんじゃあないか? もしも仮に…そんなことは絶対にないけれど…ブライディーさんが君のことをうとましく思っているのなら、こんなややこしいことなんかしないで、君だけを密かに、藁人形と五寸釘か何かで呪い殺してしまうほうが遙かに手っ取り早いんじゃあないかい?」
「そうよね… そうよね… でもあたしはブライディーさんを快く思うことができないわ。
 彼女があなたの前に現れさえしなければ、あなたは心霊事件…今回の影斬丸みたいな事件…には興味を持たず、持ったとしても、いまよりもどうすることもできなかったはずだわ。それを彼女が協力してくれるせいで、小さい細切れけれども手掛かりが手に入ってしまう…
 お願い須佐君!」 菊名婦警は須佐の手を固く握りしめた。「あたしはあなたのことが好きなの! 余計なことに首を突っ込んで欲しくなんかないの! それでなくても刑事というのは危険が多い仕事でしょう? やらなくてもいい、他の刑事たちもやろうとしていない事件を掘り下げてなんか欲しくないの! もしもあたしを愛してくれているのなら、あなたが興味を持っている理屈では説明のつかない事件と、ブライディーさんのような人から手を引いて欲しいの!」
「でも、実際にぼくに斬りつけて、君もそういった不可解なことが起きうるということを身をもって体験したはずだ。『この謎を解明してやろう』とは思わないのか?」
 須佐は菊名婦警の、震える瞳を見つめた。
「思わないわ。テレビドラマみたいに、誰かヒーローがやって見せてくれるのならともかく、自分では。…自分でやろうとして危うくあなたを殺しかけてしまったじゃない!」
「ぼくらを、遡ると坂崎氏を大変な目に遭わせた者を、このままのうのうとさせておいても平気なのかい? 普段は三十分の駐車違反さえビシビシ取り締まっているというのに…」
「分ったわ…」 彼女は溜息をつき、肩を落とした。「…この事件だけよ。この事件が片づいたら、もう二度と奇怪な事件には首を突っ込まないで」
「そんな約束はできないよ。…取りあえず、ブライディーさんがどうなったか、調べて欲しい。ずっと日本にいられるように、アイルランド大使館に掛け合って、パスポートや書類を取寄せてやって欲しいんだ」
「もう、また『ブライディーさん、ブライディーさん』…」
 また菊名婦警の目が吊り上がりかけた。
「それから、坂崎氏の遺族のかたのところに行って、最近、影斬丸を見せて貰いにに来たか借りだした者がいないか訊ねてくれ。それから、肝腎の影斬丸がいまどこにあるか、保管場所が知りたい」
「もう、本当にいい加減にして!」
 メモを取り終えた婦警は、病室のドアをバーンと閉めて出て行った。

 さらに数日後、成田空港のロンドン行きの便の搭乗口では、小さな旅行鞄を持ったブライディーが、入国管理官に付き添われて強制送還の手続きが済むのを待っていた。
 とそこへ、シャムロックの紋章が入ったアイルランド大使館の書類を握り締めた菊名婦警が小走りに走ってきた。
「…そこの強制送還、ちょっと待って! …いま、身もとの確認が取れて、仮の書類がファックスで送られてきたわ!」
 係官が重箱の隅をほじくるような目つきで端から端まで読んでいるあいだ、ブライディーはじっと、ピカピカに磨き上げられた出発ロビーの床に目を落としていた。
「本当にもう… 占いだか何だか知らないけれど、前科がないのだったら、パスポートくらい取って…」
 腰に両手を当てて説教をしかけた菊名はハッとした。
(…それにしてもパスポートがないというのにどうやって日本へ来れたのかしら? いまどき密航はそう簡単ではないはず。まさか、この照会に対する返事のファックスも魔法か何かで… まさかね! このIT全盛の世の中に…)
「有難うございます。ご迷惑とお手間をおかけしてすみませんでした」
 ブライディーはペコリと頭を下げた。
「またまた、悪いなんてことはここから先も思っていないくせに!」
「いえ、そのようなことは決して…」
「分ったら、その仮発行のパスポートを持って、さっさとできるだけ遠い外国へ行く便に乗ってね。お金がないと言うのなら差し上げるわ!
 その代りもう二度と須佐君には近づかないで! そんなにオカルト探偵ごっこがしたいのなら、ロンドンかニューヨークあたりで、金髪青い目のイケメンと一緒にやってちょうだい! あなたが乗った飛行機が飛び立つまで、ここで見送りますからね! 今度もし日本の土を踏んだら…」
 あまりの剣幕にメイドさんはすくみ上がった。

「ねぇ、須佐君、本当にもうこんなことはやめましょうよ!」
 菊名婦警はミニパトを運転しながら言った。
「いいや。約束してくれたじゃないか。『影斬丸の事件が解決するまでは、オカルトに関わっても構わない』って」
 須佐刑事は助手席でシートベルトをゆるく締めて、車窓を流れるいかにも剣道家が道場を構えそうなまだ田園が残っている郊外の風景を眺めていた。
 ミニパトは道場主を失って、寂しくなった感じのする屋敷の前に止った。
「『影斬丸』を借りに来た人ですか? はい、そう言えば…」 坂崎の未亡人は大きく目を見開いた。「主人が亡くなる一ヶ月ほど前のことでしたでしょうか、普段は家では気難しい主人が、妙に嬉しそうにしていますので、わたくしが
『どうか致しましたか? 何か良いことでも?』と訊ねますと、
『やっと影斬丸の真の価値が分る者と知り合うことが出来た。先日、さるパーティで共通の友人に紹介されたのだが』
 と申しておりました」
「その友人、紹介された相手は分りますか?」
 須佐はメモを広げて勢い込んだ。
「住所録や名刺箱があれば分ったと思うのですが、あなたがたが帰られたあと、別に本庁の刑事というかたがたが来られて持って帰られました」
「なんですって! 事件などではなく、病死ということになったはずなのにどうして?」
「わたくしにも分りかねます。住所録や名刺箱を持って行かれて、通夜や葬儀に来られていない人に法事などの挨拶状を出すことができなくなってしまって…」
「ほら、やっぱりこの事件には、あたしたちの手には負えないような裏があるのよ!」 横から菊名婦警が囁いた。「…手を引きましょう!」
「奥さん、ご主人は、坂崎氏は、他に何かおっしゃっておられませんでしたか?」
 須佐は構わず続けた。
「ですから、『みんながうちのこの影斬丸について興味を持つのは金銭的な価値のことばかりだ。テレビの出演の依頼も、鑑定家と称する者たちに見せて、何百万だか何千万だか査定しよう、といった類のものだ。莫迦にするにも程がある! この影斬丸には金銭以上の、素晴らしい価値があるのだ。長い年月、代々伝わってきたせいで忘れ去られ、いまや当主のわしさえ分らない不思議な価値が』
 と…」
「なるほど、それで?」
 須佐はさらに膝を乗り出す。
「『パーティで紹介された人が言うには、影斬丸の真の力は、昔の偉い僧侶の法力によって封印されているらしい。良かったらそれを解いてあげるから貸して欲しい、と…」
「それでご主人は貸したのですか、その友達に紹介された新しい友達に?」
「ええ。影斬丸はしばらくして返却されたのですが、その直後にあんなことが起きて… わたくしには封印してあったのは素晴らしい力などではなく、呪いであったような気がしてなりません」
 坂崎夫人はハンカチで目頭を押さえた。
「奥さん、本当にその相手方の名前やだいたいの住所とかはお聞きになっておられませんか?」
「ええ。そのような大切なもの、貸すときも返すときも手渡しでございましたし、どうやら事が済むまで名前は秘密に、と、口止めされていたふうでもありました」
「このような大切なこととも思われることをどうしてそちらから話して下さらなかったのですか?」
「いえ、主人の死は心臓麻痺による病死と言われ、訊かれない限り余計なことは、と思いまして…」

「その住所録も名刺入れも、いまごろは処分されてないだろうな…」
 帰りのミニパトの中、須佐はうめくように言った。
「あたしが須佐君に斬りつけた刀は、そんな曰く因縁のある刀だったのよ… 本当に大事に至らなくてよかったわ…」
 菊名婦警は信号待ちで止ったときに、思わず両手で自分の胸を抱えた。
「分ったぞ! そいつは影斬丸のレプリカを作り、どこかでコッソリと本物とすり替え、ニセモノを未亡人に返却して、本物は自分のものにしてしまう気だ!」
「それって、お金目当て?」
「いいや、金を問題にするやつじゃあない。おそらく、日本刀の大好きなライヴァルにでも贈るつもりだろう」
「ライヴァルのご機嫌を取るために?」
「違う、それだったらまだいいんだが、暗殺するために、だ。影斬丸をプレゼントされたやつは、大喜びで抜いて見るだろう。すると、坂崎氏のように心臓麻痺で死ぬか、このあいだの君のように意識朦朧となってそばにいる人に斬りつけてスキャンダルを起してしまう。一介の婦警ならアクシデントで済むけれど、政治家や有名人なら致命的だ」
「でもあたしたちはこうやって、そのことを知ってしまっているわ。悪事を企んでいる人がいるとしても、もう実行は難しいはずだわ」
「うん。そいつは諦めきれずに、何か仕掛けてくるかもしれないな」
「須佐君、あたし、やっぱり怖いわ」
 再び信号待ちになると、婦警は須佐のほうに身体を傾けた。

「ぼくの予感だと、影斬丸はきっとよくできたレプリカにすり替えられる。すり替えられる瞬間、つまり、本物の影斬丸を坂崎氏から借りだし、呪術で封印を解き、それを坂崎氏に返却して死に追いやった人物が二振りの影斬丸を持って現れる現場を現行犯で取り押さえるしか方法はないと思う」 須佐刑事は腕組みしてつぶやいた。「…ああ、ブライディーさんがいたらなぁ… その時間と場所を占ってもらえたら、何とかなったかも知れないのに…」
「何よ! 『ブライディーさん、ブライディーさん』って!」
 菊名婦警は何もないのにクラクションを鳴らし、法定速度を守って走っていた前の車が慌てて道を譲った。
「…貴男も、多少なりとも霊感はあるのでしょう。だから、数ある所轄事件の中から『影斬丸』と坂崎氏の事件に興味を持ったのでしょう? だったら、その時間と場所も自分で占ってみたらどうなの?」
「分ったよ、菊名さん。ぼくにはそこまでの霊感はないけれど、すぐ下の弟の義彦を拝み倒せば何とかなるかもしれない。もうじき実家の神社の前を通るから、そこで降ろしてくれないかな?」
 やがてミニパトは、そう大きくもなく、かと言って小さくもない、社殿の朱塗りもきれいな神社の鳥居の前に止った。
「…知っているだろう、島根県にある須佐神社? 素戔嗚尊を祀っている… ぼくとこのお社は分社なんだよ。由緒もかなり古い。もちろん社殿は何度も建て替えられて、建築物としての価値は高くないのだけれど、最初のお社が建ったのは大和時代か、それくらい古くて、境内の裏庭には代々の当主が封印した、あやかしたちの塚がいくつもあるんだよ」
 鳥居の前では、ちょうど水色の袴をはいた若い禰宜が参道の石畳をはいていた。
 須佐刑事によく似たその神職は、まるで美少年のタレントばかりを揃えている芸能ブロダクションのメンバーのみたいに、遠くからでも浮き上がり、輝いて見えた。
 菊名婦警は思わず、ブライディーを国外退去まで追いやって手に入れようとした須佐刑事のことを忘れてウットリとなったが、すぐに我に返った。
(だめよ! 須佐君が刑事になったために、この神社はあの弟さんが継がれるのよ。そんな人を好きになったら大変だわ。…ひょっとしたら巫女の恰好をさせられるかもしれないし…)
「あ、仁彦兄さん、怪我をしたんだってね。大丈夫? もういいのかい?」
 しかし、そう言ってにこやかに微笑みながら走り寄ってくる姿が、あまりにもアイドルそこのけだったので、菊名婦警は思わず頬を赤らめてしまったる
「義彦、頼みがあるんだ」
「兄さんの頼みだから、何でも聞いてあげたいけれど、心を鬼にして断らせてもらうよ。 だって、怨霊とか、妖怪とか、そんなものにうっかりと関わってしまったら、それこそ源頼光や安倍晴明みたいに、自分自身が武芸の達人であるとか、陰陽術に秀でているとか、歴史に名前を残すくらいの実力がないと返り討ちに遭ってしまうよ。今度の怪我もそのせいなんだろう?」
「ああ、それはそうなんだけれど…」
(この弟さんは『まとも』よ!) 菊名婦警は小さく頷いた。(…やっぱりあのブライディーとか言う女は、日本人の穏やかさや禁忌を遵守しない『不良ガイジン』なのよ! きっと母国のイギリスかアイルランドかでブラックリストに載せられてしまって村八分にされて、遙か遠い東の小さな島国まで、一文無しになって漂木みたいに流れ流れて打ち寄せられてきたのよ。そんな漫画かアニメに出てくる腐れ魔女みたいな女に須佐君をどうこうさせる訳には断じてできないわ!)
「…この事件だけは解決したいんだ。この事件を解決したら、おとなしく交通違反の取り締まりの仕事に戻ってもいい。この菊名さんとも約束したんだ」
「あれ、兄さん…」
 弟はちょっと意外そうな顔なになりかけたが、すぐに元のにこやかな表情に戻った。
 それから声をひそめて耳打ちした。
「…『ブライディーさん』とかいう占いメイド喫茶をやっているハーフの霊感のある女の人と仲が良くなりかけていたはずじゃあ?」
「ああそうだよ。でも事情があって今回はもう頼めないんだ」
 刑事は弟の耳に囁き返した。
「それってやっぱりトラブルがあった、ってことだろう? やっぱり止めておいたほうが… もしかしたら今度は怪我くらいじゃあ済まないよ」
「強力な呪力のある日本刀が、それまで付けられていた封印が解かれた上、悪人の手に渡ってしまいそうなんだ。何としてでも取り戻し、再びちゃんとした封印を施して、正しい持ち主に返したいんだ」
「もう、仕方がないなぁ… 本当にこれが最後だよ」

 義彦は境内の隅の、大きなクスノキの下の玉砂利に簡単なかまどをしつらえて、その下で細かくちぎった薪を燃やし、その上に亀の甲羅を置いた。熱せられた亀の甲羅には、ピピッと音を立てて次第にヒビが走り始めた。その様子を義彦は、じっと真剣に見つめていた。
 その横顔が、須佐刑事よりも数段、あまりにも男前で凛々しかったので、菊名婦警はついに「止めて下さい」と言い出せなかった。

 亀の甲羅に幾筋かの太い亀裂や細いヒビが走ったところで準備した少ない目の薪は燃え尽きた。
 義彦は白い木綿の布で冷め始めた甲羅を手に取ると、真剣な表情でジッと見つめた。
「菊名さん、オカルトとか、占いとか、そういうものが嫌いだったら先に帰ってくれていてもいいんだよ」
 須佐は嫌味っぽく言った。
「いえ、いいんです。影斬丸をすり替えようとしているのは誰なのかは重要ですわ…」
「残念ながら、誰が、というところまでは、ぼくの能力では無理ですね」 義彦は困したようにかすかに首を横に振ったが、髪が乱れるその仕草がまた魅力的だった。「…ただ、すり替えられる場所は、おそらくは証拠品の保管庫で、日時はたぶん…あさっての真夜中でしょうね…」
「有難う義彦、それだけでもじゅうぶんだよ」
「須佐君、一体何を考えているの、まさか…」
「まさかじゃない、当然、カラのダンボール箱か何かに身を潜めて、誰がすり替えに来るか確かめてやる!」
 かすかに胸を反らせた須佐だったが、すぐに腹のあたりを押さえた。
「ほらほら、無理をしないで! もしも侵入者が暴れたらどうするつもりなのよ。どうしても、と言うのならあたしも一緒に…」
「待てよ、警察の証拠品の保管庫なんて、そうそう誰にでも近づける場所じゃあないぞ。…もしかして、警察内部の人間だろうか?」
「その可能性は高いですね、兄さん」 義彦も顔を曇らせた。「…気を付けて下さいよ。相手は名刀を我がものにするために、一人殺しているんですからね」
「大丈夫だ。拳銃を持っていこう! いかなる名刀とは言え、また、持っている人間が達人であっても、ピストルにはかなわないだろう!」
「だったらいいんですけどね」
「義彦さん、それはどういう意味ですか?」
 菊名婦警が頬を少し赤らめながら訊ねた。
「…確かに狭い保管庫、部屋の中で日本刀を振り回すのは不利です。しかし、相手も拳銃を持っているかも知れません」
「拳銃対拳銃なら対等じゃないか!」
 須佐刑事が威勢よく言った。
「…いいですか、兄さん。相手は影斬丸を手にしても心がおかしくなったりしない、かなりハイレベルな幻術使いなんですよ。もし遭遇したら、刀も拳銃も使わず、幻術だけでなんとかしてくるか、幻術と影斬丸、または幻術と拳銃のコンビネーションで襲いかかってくるかもしれないのですよ」
「困った… せめてブライディーさんがいてくれたら…」
「またブライディーさん、ですか!」 菊名婦警が目を吊り上げる。「あたしが一緒に張り込んであげるわ。いくら凄い催眠術使いでも、二人いれば何とかなるでしょう!」

 翌々日の夜中、須佐刑事と菊名婦警は、警視庁の証拠品保管庫のうちの、刀剣類を保管しておく部屋に置いた、冷蔵庫が入っていたダンボール箱の中に、息を潜めて隠れていた。 菊名婦警は須佐とピッタリ寄り添うことができて嬉しかったものの、弟の義彦に会ってからは、なぜかその嬉しさは前ほどのものではなくなっていた。
「本当に来るかしら?」
 婦警は節穴から覗きながら言った。
「来るよ。弟の占いもよく当るんだ」
「来るとして、こんなにたくさん証拠品や押収品の刀剣類がある中で、影斬丸のある場所が分るのかしら?」
「ぼくは神志那警視が怪しいと思っているんだ。『余計なことに首を突っ込むな』ってきつく注意されたんだ」
「当たり前よ、上司なら誰でもそう言うわ。須佐君、あなたバカじゃない? 神志那警視なら、夜中にコソコソとコソ泥みたいな真似をしなくたって、昼間に堂々とすり替えができるじゃない?」
「そ、そう言われたらその通りだね…」

 蛍光腕時計の針が真夜中を過ぎる頃、コツコツと足音が近づいてきた。カチリと鍵を差し込み、ガチャガチャと回す音がした。
 少し手こずっている様子からすると、本物の鍵ではなく、自分で刻んだ合い鍵のようだった。
 ギイッと扉が開けられると、片手に懐中電灯、もう片手に袋に入った日本刀を手にした白い人影が浮かび上がった。肩幅からすると男性のようだった。
「あいつ、一体どうやって影斬丸を探すつもりだろう?」
「だから相手も占い師だと言っているでしょう? ちなみに、あなたは影斬丸の保管場所を知っているの?」
「ああ、21列の30番だ」
 不審な男は、まるで下見をしてあったかのように、まっすぐに21番の列へ行き、30番の棚を開け、荷札の付いた影斬丸を採りだして交換した。
 小さな常夜灯に照らされた男の顔は、能の狐の面で隠されていた。

「動くな! 動くと撃つぞ!」
 須佐刑事はダンボール箱から飛び出して、拳銃を狐面の男に向けた。菊名婦警は部屋の灯りを付け、非常ベルのボタンを押した。
 けたたましいベルの音が真夜中の庁内に響き渡る…
 まるで幽霊のような白いシーツをまとっている狐面の男が、その面を心持ち上に向けた。
 するとあたかも笑っているように見えた。
「何だ? 何がおかしい? ここは警視庁の中だぞ。もう絶対に袋の鼠だ!」
「ソウカナ… 影斬丸ハ頂イテ行クゾ」
 男はくぐもった声でそう言った。
 その時、ドアをバーンと開けて神志那警視と警官隊が突入してきた。
「警視庁に侵入するとは、何という大胆不敵!」
「占イヲ使エバ、手薄ナ所ガ分ッテ簡単ダッタヨ…」
 そういいながら狐面の男は少しずつ消え始めた。
「取り押さえろ!」
 神志那警視の命令で、須佐を始め何人もの刑事や警官が飛びかかったものの、男の姿は消えていた。後には狐の面と、白いシーツのような衣装だけが残された。
「廊下と、窓の外、屋上などを探せ!」
 警官たちはバラバラと散っていった。
「…これは…良くできた手品か、奇術か、最近はやりのイリュージョンと言うやつだ」
 神志那警視は呆然として言った。「…つまり、トリックだ!」
「警視、本物の影斬丸が奪われ、レプリカと思しきものが置いてあります!」
 保管庫を覗いた須佐が報告した。
「くそぅ… こともあろうに、警視庁の中で、証拠品が盗まれるとは! …もうだめだ… 私はどこか辺鄙なところに飛ばされる! いや、下手をしたら辞表を書かねばならないかもしれない…」
 神志那警視は頭を抱えて座り込んだ。
「…須佐君、すべては君のせいだ! 君が坂崎氏の死に疑問を持ち、庁内の道場で菊名君に影斬丸を振り回させたのがいけなかったのだ! 噂が広まり、誰か欲しい者が現れたのだ!」
「申し訳ございません! 必ず容疑者を捕らえ、影斬丸を取り返します! それまで箝口令を敷き、マスコミには伏せておけば…」
「一体どうやって? 相手は幻術を…信じたくはないが…操るんだぞ! 仮に追い詰めることができたとしても、またこのように逃げられるかもしれない!」
 須佐はゆっくりと携帯電話を取りだした。
「ブライディーさんです! 彼女を呼び戻せば、影斬丸の在処と、容疑者の居場所を占ってもらえるかもしれません…」
「とても認めるわけにはいかない!」
「とんでもありませんわ!」
 警視と婦警は異口同音に言った。
「どうしてそんな非科学的な方法に…」
「得体の知れない人なんかに…」
「頼らなければいけないんだ?」
「それではこのまま容疑者を野放しにし、影斬丸が戻らなくてもいいのですか?」
「それは…」
 二人は口ごもった。
「…ぼくは菊名さんに約束したんです。理屈では説明のつかない事件に首を突っ込むのはこれが最後にする、と… それだったらいいでしょう?」
 警視はギリギリと歯がみしたが、やがて絞り出すような声で言った。
「いいだろう… ブライディーさんを呼び戻したまえ」
 三日前までの菊名婦警なら、一人になっても猛烈に反対を続けただろうが、須佐の弟、義彦に会ってからは、須佐に対する執着は薄れていた。
(まぁいいわ… たとえ神社の跡取りでも、ブライディーさんと同じように、大事なことは占いで決める人だとしても、あの優しそうな雰囲気はそれに勝るわ…)

「有難う、ブライディーさん、戻ってきてくれたんだね!」
 空港のゲートをくぐってきたメイドさんの手を取った須佐は、跳び上がらんばかりだった。
「メールを読んでくれたよね? 大変なことになったんだ。一刻も早く影斬丸を取り戻し、容疑者を確保しなければ警察の面目は丸つぶれになってしまうんだ」
「わかりました。でも…」
 ブライディーはいつものように控えめな口調で、穏やかに言った。「…もう占いをしなくても、いま影斬丸がある場所と、持ち去った人物は分るような気がしますけど…」
「何だって!」
「何ですって!」
 須佐と菊名婦警は仰天した。
「『占い…オカルトなんか使わなくても分る』ですって!」
「ええ」 メイドさんは大きく頷いた。「…こんなことができるのは身近な人です。そう、いろんな事情をよくよく知っている…」
「誰だろう? 神志那警視かな? 菊名さん、まさか君じゃあないだろうね?」
 婦警さんは須佐の足を思い切り踏みつけた。
「あたしはそんな悪事は働きません! 時価数千万円と言われる影斬丸の価値には興味があるけれど、買い主を探すのが難しいし、買いたたかれてしまいそうだわ」

「一体どこの誰が、ぼくたちの目の前で盗んだんですか? ぼくたちが知っている人ですか?」
 須佐は勢い込んで訊ねた。
「まぁそんなに急がずに」 メイドさんはニッコリ笑った。「あまりあわてると、うまくいくことまでだめになってしまいますわよ。…そうですね、せっかく日本に舞い戻ってこれたことですし、これからもずっと居られるようですから、とりあえず須佐さんのご実家の神社に参拝して、いままでの御礼とこれからの幸福を祈りたいですわ」
 それを聞いた菊名婦警の心の中で、疑いの炎がメラメラと燃え上がった。
(…おのれ、魔女メイド! もしかしたら、須佐君から話を聞いて、須佐君のみならず、弟の義彦さんにまで興味を持ったんじゃあないかしら? あなたは須佐君とオカルト探偵ごっこをやりたいのでしょう? これ以上触手を伸ばすのはやめにして欲しいわ!)
「おや、菊名さん、何か?」
 婦警の顔から少し血の気が引いたことに気が付いた須佐が言った。
「あっ、いえ… 別に何も… そうよね。外国のかたは日本の古い伝統と文化に興味があるわよね」
 三人は空港からまっすぐ、須佐神社の分社に向かった。途中、須佐刑事は携帯電話で弟に立ち寄ることを知らせた。
「なかなか立派なお社ですね」
 車から降りたブライディーは、きれいに掃除が行き届いた境内を眺めて言った。
「神社庁の役員を務めるおやじの大造がなかなかのやり手でね。あっちこっちの観光本やパンフレットに載せて貰えるように努力した結果、初詣や夏祭り、秋祭り、七五三なんかの参拝客が増え、グッズの売上も伸びたんだよ。いまでは行事の時はアルバイトの巫女さんを数人雇っているくらいだよ。おやじいつも忙しく全国のお社を飛び回っているけれど、きょうはいる、って義彦が言っていたよ」
 本殿の前で代わる代わる鈴を鳴らして柏手を打ち、お賽銭を投げ込んだ。
「やあ、仁彦、これがおまえがお世話になっているお嬢さんたちかい?」
 鼻の下に職業軍人のような立派なひげをたくわえた恰幅のいい初老の神主が出てきた。「こちらこそ、須佐さんにはお世話になっています」
 婦警さんとメイドさんはペコリとお辞儀をした。
「まぁまぁ、堅苦しい挨拶は抜きだ。どうだい、お二人さん、巫女の衣装を着てみないかね? 家内が準備しているよ」
 二人は須佐刑事の母親に巫女の衣装を着付けしてもらって大造の前に出た。
「二人ともよく似合っているよ。で、仁彦や義彦の嫁に来てくれるのかね?」
 大造はそう言って「ワハハ…」と豪快に笑った。
「お父さん、ぼくたちはまだそんな仲じゃあないですよ。警察の同僚と友達ですよ」
 須佐は照れながら頭を掻いた。
「そんなことはないぞ。我が家の血筋は代々霊感があるのだ。残念ながらわしは乏しいほうだが、仁彦、おまえと、弟の義彦には大いに素質があると思う。そのおまえが連れてきたお嬢さんたちだから、何もないはずはないだろう…」
「そんな、困ります…」
 菊名とブライディーは声を揃えて言ったが、まんざらでもなさそうだった。
 二人は須佐の案内で、神社や祀られている祭神の詳しい由緒を聞き、稲荷社や天神社などのちいさなお社を参拝して回った。
 境内の裏の、いくつもの小さな塚が折り重なってある築山に差し掛かったとき、ブライディーの歩みが止った。
「どうしたんだい、ブライディー? 何か?」
「…この塚の下に封じられているものたちは、ちゃんとしっかりと封印されてはいませんわ。 このものたちの世界に通じる道も…」
「またまた、思わせぶりなことを言って!
 何が何でも自分の世界に引きずり込むつもりでしょうけれど、そうは問屋が卸さないわよ!」
 巫女姿の菊名婦警は重々しく言ったが、築山の真ん中にある注連縄をぐるりと巻いたクスノキの老木の背後から声がした。
「さすがはブライディーさん、おっしゃる通りだよ」
「義彦、そんなところで何をしているんだ?」
「修行だよ、声なき者たちの声を聴く…」
 クスノキの後ろから現れた禰宜の衣装の義彦が、微笑みながら言った。「…お二人ともぜひ、次の行事の時、アルバイトの巫女をお願いします。…おっと、菊名さんは婦警さんだから、アルバイトはできませんでしたね」
「そんなことありませんわ義彦さん。ぜひやらせて頂きますわ」
「ところで、菊名さんのお名前は?」
「小菊です。日本ふうでしょう?」
「素敵なお名前ですね」
 菊名婦警はいよいよ、兄から弟に乗り換えかかったような様子だった。

「ねぇ、ブライディーさん、そろそろ影斬丸を持ち去ったやつのことを教えてくださいよ」
 菊名婦警が義彦と一緒に庭園のほうに赴いたのをいいことに、須佐刑事はブライディーの耳に囁いた。
「その前に、影斬丸を自分のものにしたかった人は、なぜ欲しかったのか、考えてみられましたか?」
 塚を見渡すことができる石でできたベンチに座ったブライディーは、袴の朱色よりは落ち着いた鳶色の瞳で須佐を見つめた。
「さぁ… 菊名さんが言っていたように、お金が目当てじゃあないことは確かな気がする」
「それはもちろんです」
「では、あまりにも強くて練習の相手がいない剣道の達人だろうか? 影斬丸があれば、目の前に宮本武蔵などの剣豪の幻を浮かび上がらせて稽古をすることができる」
「それは、前にも申し上げたとおり、坂崎さんの時のように、悲劇的な結果しか生まれませんわ。なぜなら、影斬丸が作り出す相手の幻影は、常に自分より強いからです」
「うーん、『名刀として売るつもりはない』『封印を解いて妖刀として利用することも難しい』…だったらその…よくあるように、自分で眺めて悦に入る、とか…」
「それでしたら、影斬丸でなくても、古美術品店に出ている刀や、オークションに出ている刀を買えばいいでしょう?」
「分らないな… 一体どういう意図なんだ?」
 須佐刑事は「考える人」のようなポーズをとった。
「犯人はおそらく、一度解いた封印を、再び施して、剣豪の幻なんか現れないようにして、別の目的で影斬丸を使うつもりですわ」
 ブライディーは、ポツポツと点在する、いくつかの小さな塚と、その上にある祠を見つめてつぶやいた。
「『別の目的』?」
「ええ、刀本来の目的で、ですわ。犯人が待ちきれなくなって、盗んだ影斬丸を、自分自身のために使い出すのを待ちましょう…」

 それから数日は、何事もなく過ぎ去った。
 変ったことと言えば、菊名婦警が休みの時間に、古事記や風土記を分りやすい物語にした本や、有名な民俗学者や妖怪の研究家が書いた、怪異にまつわる本を読むようになったことぐらいだった。
「おや、菊名さん。君もとうとう、目には見えないものに興味を持つようになったのかい?」
「ええ、まぁ…」 婦警さんはいままで見せたことのないような、愛らしい、恥ずかしそうな表情で言った。「…ごめんなさいね。須佐さん」
「須佐『さん』? いままで通り『君』づけでいいよ」
「…あたし、初めてあなたの実家の神社に参拝してから、日本の神話や伝承を知っておくのもいいかなー…って思い始めて…」
「そ、そりゃあいいことだよ!」 須佐刑事はどぎまぎした。「…ブライディーさんだって、日本に来てから古事記や風土記を簡単に英訳した本を読んでいたよ。外国人でさえ、古い日本のことについて知ろうとしているのに、ぼくたち日本人が、有名な神話のエピソードさえ知らないというのは恥ずかしいことだよ」
 言ってからすぐに(しまった!)と思った。
 菊名婦警は須佐の口からブライディーの名前が出たり、話題に上ったりするとたちまち不機嫌になり、怒り出すのが常だったからだ。
 が、このたびの菊名は、まるで人が変ったようになっていた。
「そうですわ…」 婦警は素直にうなづいた。
「日本人ならそういうことを一応はちゃんと知っておくべきですわ…」
 須佐は(助かった…) とホッと胸を撫で下ろすのと同時に(おかしい)とも思った。
(…まるで別人のようだ。神社に案内して義彦の薫陶を受けたせいだろうか? それにしてもあれから何日もたっていないじゃないか…)
 それでも(考えすぎかな?)と思って、ワンルーム・マンションに帰ってベッドに潜り込んだ。
 と、その夜更け、須佐は夢の中で不思議な声を聴いた。
『須佐君、助けて… お願い、助けて…』
 それは確かに菊名婦警の声だった。
(おかしいな、菊名さんにはきょう本庁で会ったじゃないか。珍しく本なんかを読んでいた。それも古事記や風土記に関するのを… ご機嫌も悪くなかった…)
 須佐は毛布をかぶり直して寝付こうとしたが、声はさらに続いた。
『…お願い、須佐君、あたしよ… ここはとても暗くて狭いの… 逃げだそうとしても逃げ出せないの… …それに、どうしてこんなことになってしまったのかよく分らないの…』
(…悪い夢…「悪夢」? それだったらブライディーさんに夢占いをやってもらおうかな? …待てよ、でもそんなことをすれば、また菊名さんが不機嫌になるかもしれないな。…やめておこうか… そうだ、もしも同じような夢が続くようだったら…)
『いいえ、すぐに相談して! いままでブライディーさんのことをあまり良く言わなかったことは謝るわ。だからすぐに… お願い…』

「こんなに夜遅くごめん」
 須佐刑事は開口一番、謝りながらブライディーの携帯に電話をかけ、つい先ほど見た悪夢の話をした。
「それは賢明な判断だわ。わたしのほうこそ謝らなければならないわ。まさか相手がこんなに早く動いてくるものとは思わなかったの… 占い師は占い師の行動を読みにくいの…」
「『相手』って、影斬丸の?」
「ええ、そうよ。急がなくては! 須佐さんは車で、ご実家の神社へ急いで! わたしもそこへ寄せて頂くわ」
「えっ、神社? 一連の事件の犯人は、いま神社にいるというのか?」
「ええ、残念だけれど… 急ぐけれど覆面パトのサイレンは鳴らさないで! 相手に警戒されてしまうわ」
「わかった」
 須佐刑事はおっとり刀でパジャマから私服に着替えて国道を飛ばした。

 神社の駐車場に着くと、そこには先に一台、ポツンとカブト虫型の茶色の車が止っていた。
(へぇ、ブライディーさんもいざとなったら車を運転するんだ…)
 よく見るとそれは、フォルクスワーゲンではなく、カブト虫型のポルシェ、ヘリテージだった。
(彼女もきっと飛ばしてきたんだな…)
 鳥居をくぐり、常夜灯が照らす石畳の上を走っていくと、社殿の裏庭の、多くの塚のある辺りが、まるで発光塗料でもぶちまけたようにボンヤリと鈍く薄黄色に輝いていた。
 さらに近づこうとすると、黒い小柄な人影が見えた。
(ブライディーさんかな?)
 そう思ってよく見ると、私服姿の菊名婦警だった。
「菊名さん、どうしてこんなところに?」
「須佐さんも来たの? …実は近所の人から『境内の裏の塚のあたりが怪しく光っている』と言う通報を受けて…」
「確かに光っているな。…だけども菊名さん、君は交通違反の係で、深夜は非番なのでは?」
「こう見えてもご近所からは頼りにされているのよ」
「通報通り、確かに不気味に光っているな…「ぼくたち兄弟もずっとこの神社で育ったけれど、こんなの見たことがない!」
「そうなの?」
「ああ。義彦は?」
「お母様に聞いたけれど、『どこにも見あたらない』っておっしゃってたわ。先に調べに行かれたのではないでしょうか?」
「おそらくそうだろう。…菊名さん、もし万一何か危ないことがあってはいけないから、君はここで待っていてくれ。ぼくが調べて義彦も探してくる!」
「いえ、あたしも一緒に… 須佐さん一人では心配ですわ」
 菊名はすがるような目で須佐を見上げた。
「そうかい。じゃあ一緒に…」
 数歩歩き出しかけた時、暗闇に声が響いた。
「行ってはいけませんわ! これは罠ですわ!」 二人が振り返ると、誘蛾灯の下に、メイド喫茶のお仕着せ姿のブライディーが立っていた。「それに、その菊名さんも本当の菊名さんじゃあありませんわ…」
「何だって!」
 刑事は驚いて菊名から少し離れた。
「…正確に言うと、身体はまさしく菊名さんですが、中の魂は別の者です」
「オホホ…そんなことあるわけはないでしょう! あたしが菊名でなかったら、本物の菊名さんはどこにいるのですか?」
「本物の菊名さんの魂は、あのいくつかある塚のうちの一つに閉じこめられていると思います。自分ではどうすることもできなくて、眠っている須佐さんに呼びかけられたんです」
「…と言うことは、君は…」
 須佐刑事は歩一歩後じさって菊名から離れた。
「…長いあいだ、あの塚の一つの土の中深くに封じられていたものです」
「バカな! そんなことがそう簡単にできるわけが…」
「できたんです。影斬丸があれば…」
 ブライディーは静かに言った。
「…ここに一人の男の人がいます。その人は、神社で育って、いにしえの陰陽師や豪傑たちが裏の塚に封印してきた物の怪に興味を持ち、何とか彼らを解放して話をすることはできないものか? と考えました。
 そのためには、オーケストラの指揮者の指揮棒のような、彼らを動かし指図するものが必要です。影斬丸はその一つでした。
 彼は、坂崎氏を言葉巧みに騙して影斬丸を借りだし、封印を解き、死に追いやりました。 これで影斬丸が本物で、いくつかある能書きに偽りがないことが分りました。菊名婦警があなたに怪我をさせてしまったのは『おまけ』でした。
 その人は、『あさって犯人がすり替えに現れる』と占いをして、実はその当日の前日に前もってすり替えたんです。姿形がよく似ている須佐刑事、あなたになりすまし、身分証を偽造し、堂々と警視庁に入ってね…」
「義彦が? まさか?」
「…あとは占いの当日の夜、幻影を見せるだけでよかったのです。刀はすでにすり替わっているのですから…」
「よく分りましたね…」
 刀を手にした人影が闇の奥から現れた。

「義彦、おまえだったのか!」
 走り寄ろうとする須佐をブライディーが立ちふさがって制した。
「危険です。たくさんのお金が人の心を変えてしまうように、影斬丸も人の気持ちを変えてしまうんです」
「どうしてこんなことをしたんだ!」
「興味があったんですよ」
 禰宜の装束の義彦が鞘から影斬丸を抜き放つと、菊名婦警が彼のそばに走った。
「菊名さん、危ない! そいつはいま…」
「ですから『あれ』は菊名さんじゃあありませんわ」
 メイドさんが囁いた。
「そ、そうだったな… 義彦、『興味』って、何の興味だ?」
「いろいろですよ。ぼくは剣道はやりませんが、影斬丸が作り出す幻の剣豪というものも一目見てみたかった…」
「おまえはそれだけの理由で坂崎氏を…」
 須佐は歯がみした。
「もちろんそれだけじゃあありません。生まれ育ったこの神社の裏の塚に封印されているものたちにも会って話がしてみたかった…
 影斬丸自体の封印は、ぼくがこっそりと陰陽術や方術の研究をして解いたんですけれど、塚の封印を解き、中のものを従わせるためには『しるし』が必要だったんです。その一つがこの刀だった、というわけです…」
「分った。坂崎氏の死が謀殺であったことの証明はできない。どの裁判官も幻の剣豪など信じはしないだろう… しかし、ぼくになりすまして…おそらく身分証も偽造して…警視庁の証拠品保管庫から影斬丸を盗み出したのは立派な窃盗罪だぞ!」
「本当は坂崎氏のご遺体のそばから頂戴すれば簡単だったんですけどね」 義彦は邪悪な微笑みを浮かべた。「…でもそれだったら、坂崎氏が『妖刀・影斬丸』のせいで亡くなった…という真実がアピールできないでしょう?」
「何がアピールだ! さぁ、早く菊名さんの中にいるヤツを元の塚に戻し、菊名さんの魂…心を元の身体に返してやってくれ! 影斬丸があればできるんだろう、そういうことが?」
「ええ。凄いでしょう? まさしく、見る人が見、持つに相応しい人が持てば、何千万円何億円以上の価値がある刀です」
「もういい! ご託はもういいから早くしろ!」
「お断りします」 義彦はキッパリと言った。「…ぼくはこの子と旅に出るんです。そして、日本中の…いや、世界中の影斬丸のような存在を集めて回るんです」
「そんなものを集めてどうする?」
「…まだよく分りません。でも楽しいんじゃないですか?」
「バカな…」
 須佐刑事は素早く携帯電話を取りだして援軍を呼ぼうとした。が、いくらボタンを押しても一向にかからなかった。
「無駄ですよ、兄さん。ぼくと彼女…菊名さんは旅に出ますから、邪魔しないでください。 そうしたらぼくも、兄さんとブライディーさんのことを見逃してあげますよ」
 義彦と、菊名婦警の身体に宿ったモノは歩み去ろうとした。
「そうはさせるか!」
 須佐刑事は二人の前に回り込んで手錠を掛けようとしたが、逆に菊名婦警に腕を掴まれ、ねじ上げられ、放り投げられて松の木に叩きつけられた。
「痛たた…」
「大丈夫ですか?」
 メイドさんが駈け寄って抱き起こした。
「ブライディーさん、カッコ悪いけれど何とかしてください! このままでは弟も、本当の菊名さんも…」
「分りました」
 ブライディーは歩み出て、まだボンヤリと輝き続けている塚に向かって何か短い呪文を唱えた。すると、残りの塚の中からいろんな物の怪たちの声が聞こえてきた。
『おまえだけ行くのか? ずるいぞ! オレたちも自由にしてくれ!』
『なんでおまえだけなんだ? 何百年も同じ所に閉じこめられていた仲じゃないか?』
「うるさいわね!」 菊名婦警の姿をしたものは振り返って罵った。「あたしは運が良かったのよ!」
『そんな理屈は納得できない!』
『我等はいまだに封印された身なれど、残された力を使って邪魔してやる!』
 途端に義彦と菊名婦警の姿をしたモノの動きは鈍くなり、まるで鉄のおもりを入れた靴をはいているかのような足取りになった。
「どうしよう?」 義彦が訊ねた。「影斬丸であいつらの封印も解いてやろうか?」
「そんなことする必要はないわ。あたしたちだけで楽しくやりましょう!」
 菊名婦警の姿をしたモノは冷たく言い放った。
『おのれ、薄情者!』
『おまえがそういうつもりなら我々にも考えがあるぞ!』
『後悔するなよ!』
 義彦が持っていた影斬丸は、まるで空から伸びてきた見えない手に鷲掴みされたようにひったくられた。
「しまった!」
 空中を彷徨った刀は、やがて須佐刑事の両手に収まった。

「これをどうすれば? 呪文か何かを唱えるのか? ぼくはそんなものは知らないし…」 影斬丸を抜きはなった須佐は、メイドさんを見つめ、切羽詰まった声で訊ねた。「…まさか弟や菊名さんに斬りつけるわけにはいかないし…」
「どうか、まず、菊名さんの身体にいる物の怪、あやかしを追い出して下さい!」
「だからどうやって?」
「なるべく菊名さんに近づいて、『出て行け!』と命じて振り下ろす恰好をするだけていいはずですわ」
「やってみる!」
 ザッと玉砂利を蹴って菊名婦警の姿をしたモノに向かって鋭く影斬丸を振りかぶり、振り下ろした。
「おのれ、化け物、出て行け!」
 刀身から霧のような、白い煙のような霊気がシャワーのように吹き出し、婦警の身体を縄のように縛った。
『くそぅ… せっかく器を手に入れたというのに…』
 菊名の身体から振り絞られるように黒い邪気がにじみ出てきて、真っ黒な人のような、鬼のような、亡霊武者のような、猩々の兵士のような姿になった。
「菊名さん、しっかりして下さい!」
 支えを失ってぐにゃりと倒れ込んだ婦警さんにブライディーが駈け寄った。
『まぁいい。奪い返されたならもう一度頂戴すればいいんだ!』
 亡霊武者は腰に差してあった真っ黒な太刀をスラリと抜いて須佐刑事に迫ってきた。
「待て、剣道も少しは習ったが、得意ではないんだ!」
「確か兄さんはそうだったよな。…これはまだまだツイているかもしれない! 構わないからやってしまえ!」
 義彦が命令した。
『おっと、影斬丸のないおまえの言うことを聞く義理はもうないね。だが、オレはオレのために戦う!』
 亡霊武者は大上段から斬りつけた。須佐はかろうじて受け止めた。
 斬り結ぶこと数合、須佐の息が乱れてきた。『フフフ… どうやらおまえたちの時代には刀は廃れてしまっていて、扱いに慣れていないようだな… そうだ、おまえさんの身体を頂いて、また人間を襲ったり、かどわかしたり思い通りのことをやってやろう…』
「そんなことさせるものか!」
 とは言うものの、劣勢は明かで、次第に追い詰められていった。
「ブライディーさん、菊名さんを連れて逃げてくれ! ここはぼくが…」
 メイドさんは気を失ったままの婦警さんを必死で揺り起こした。
「菊名さん、菊名さん、目を覚まして下さい! 須佐さんが大変なんです!」
「ちょっと待て、ぼくの言うことを聞け!」
 義彦のほうも、肉体を失った亡霊武者を操るのに苦労していた。何事か呪文を唱え続け、両手はせわしなく様々な印を切り続けていた。「…兄には別段恨みはないが、我が夢、望みをかなえるためだ。命を奪わない程度にやってしまえ!」
「『命を奪わぬ程度に』? そんな手加減などできるものか! 勝手にさせてもらうぞ!」
 亡霊武者は水平に突きの構えで須佐刑事に狙いを付けた。
「待て! おまえを甦らせてやったのはぼくだぞ! 命令に従え! 兄を殺してはならない! 影斬丸を奪うだけでいいんだ!」
『嫌だね、オレ様はオレ様の思う通りにやるんだ!』
 幽霊武者はせせら笑った。
「何だと! それなら術を解いてやる!」
 義彦は呪文を唱えるのを止め、印を結ぶのを止めたが、幽霊武者は消えもしなければ動きを止めもしなかった。
『…おまえの兄貴の身体と影斬丸を頂いてやる!』
 幽霊武者は勢いを付けて斬り込んできた。「菊名さん、目を覚まして下さい!」
 その瞬間、メイドさんの呼びかけに目を覚ました婦警さんの目に、幽霊武者の太刀先をかろうじてはねかえし続けている須佐の姿が映った。
「須佐君、何をもたもたしているのよ!」
 菊名は須佐の手から影斬丸をひったくると、迫ってくる幽霊武者とすれ違った。
 両者残心のまましばらく動かなかった。
 影斬丸の刀身からはウォーターシャワーのように霊気が流れ続けている…
 幽霊武者の黒い刀からは、黒い霧が流れている… 武者はふてぶてしくニヤリと笑った。「菊名さん!」
 須佐とブライディーと義彦はともに叫んだ。
  菊名はチャリンと鍔を鳴らすと、影斬丸を鞘に収めた。
 幽霊武者はグラッ、グラッとよろめき、揺らめいたかと思うと、全身が黒い粉となって崩れ去った。
「やった! ありがとう、菊名さん!」
 須佐刑事は婦警さんに走り寄った。
「だめじゃない須佐君、あんな程度のヤツに手こずっていては…」
 義彦はヘナヘナと玉砂利の上に腰を下ろした。
「だめだ… ぼくにはとても操れなかった…」
「その影斬丸、菊名さんが持っておられてはいかがですか?」
 ブライディーは静かに言った。

「えっ、この刀は坂崎氏の未亡人が相続それるもの。数千万円の価値があるものでは…」 影斬丸を胸に押し抱いた婦警さんはどぎまぎした。
「ですから、坂崎未亡人にお願いして見るんです」
「そんな厚かましいこと、とても…」
「今夜の活躍、とても見事でしたわ」
「そんな… あたしは義彦さんに騙されて、どこか暗く狭いところに閉じこめられていたところを、須佐君やあなたに助けてもらったんです…」 菊名は顔を火照らせた。「…御礼を言わなければ…」
「御礼を言わなければならないのはこちらですわ。あなたの剣術の腕がなければ、いまごろは憂慮すべきことになっていたと思いますわ」
 ブライディーは微笑んだ。
「義彦、ぼくは悲しいぞ!」 須佐刑事は弟の手に手錠をはめようとしながら言った。「親父もおふくろも悲しむのに決まってる!
 裁判で証明できるのは窃盗罪だけだから、この上は早く罪を償って…」
「…興味があるんだ! もちろんいまも!」
 義彦は兄の手を振り払って、まだぼんやりと輝き続けている無数の塚のほうに走って逃げた。
「無駄なことはよせ! じきにつかまるぞ!」
 須佐は携帯電話を取りだしかけたが、義彦の姿は闇と光のはざまに溶け込むようにして消えていった。
「そう簡単には捕まらないさ! 影斬丸はなくても、ぼくにはまだ使える術があるんだ!」
 後にはふてぶてしい声だけが残った。
「待て! どこへ行こうと言うんだ?」
 追いかけようとした須佐を、またブライディーが制した。
「もう放っておいても大丈夫です。影斬丸みたいな強力なものがない限り、当分とりたてて何もできませんわ。影斬丸を手放したあと、呪文を唱えても幽霊武者は言うことを聞かなかったでしょう?」
「それはそうだけれど…」
「…でもあたし、やっぱり非科学的なことは信じませんからね!」 婦警さんはメイドさんを睨み付けた。が、その顔は笑っていた。「…今夜のことは夢だった… そう、夢だったのよ…」
「ところで、どのあたりで義彦が怪しいと?」
 須佐はブライディーに尋ねた。
「警視庁の証拠品保管庫に押入った者が、狐の能面をかぶっていた、とお聞きした時に…
 そんなもの、普通の家にはありませんから…」
 メイドさんははにかんで答えた。

「容疑者が弟だったので、わざと逃がしたのではないのかね?」
 警視庁では神志那警視が、気難しい顔をさらに一層気難しそうに歪めて問いつめた。
「いいえ、須佐さんは必死で追おうとしたのですが、残念ながら逃げられてしまったんです」
 菊名婦警が助け船を出してくれた。
「…仕方がないな。須佐義彦は窃盗の容疑で全国指名手配しておくぞ。ま、三日もしないうちに捕まるだろうさ」
「あの、警視…」 須佐刑事は懐から白い封筒を取りだした。封筒の表書きには「辞表」と書かれていた。「…知らなかったこと、わざとではないこととは言え、今回の数々の不始末、ご迷惑をおかけしたこと、伏してお詫び申し上げます」
「何だねこれは?」 チラッと見た神志那はビリビリと粉々に引きちぎって投げ返した。「…こんな紙切れ一枚で何もかも終らせられるほど世の中は甘くないぞ! 安月給でこき使ってやる!」
 一喝に須佐刑事はすくみ上がったが、菊名婦警はクスクスと笑っていた。

「影斬丸はあなたにお預けしておくことにします」
 坂崎氏の未亡人は、刀を返しに行った須佐とと菊名に対して静かに言った。
「このたびは弟がとんでもないことをしでかしてしまって…」
 恐縮する須佐に、未亡人はゆっくりと静かに首を横に振った。
「坂崎のやったことは、坂崎にも大いに責任があります。お気にされませんように…」
「本当にあたしが持っていていいんですか?」
 菊名婦警は目の前に置かれた影斬丸をジッと見つめた。「…これは、時価何千万円もする刀なのでしょう?」
「お金の問題ではありません。あなたがもっておられたほうが、きっと役に立つことが多い、そんな気がするのです… どうか大切に使ってください…」
「使うって、そんな機会が再々あったら、あたしがこまるのですけれど…」
 婦警さんはすっかり当惑していた。

 商店街のメイド喫茶。
 カウベルに似たチャイムが鳴った。
 ブライディーはカップを磨いていた手を休めてドアのほうに目をやった。
「いらっしゃい!」
(また、どなたか、悩みを抱えたお客様のようだわ…)

     (次のエピソードに続く)





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