ブライディー・ザ・マジックメイド

 ニューグレンジの呪い

「お願いします、ドイル先生、どうかお父さんを守ってあげてください」
 一八九五年の夏、ロンドンの「英国心霊研究協会」を訪れた、青いギンガム格子のドレスに身を包んだ十歳くらいの少女エイリアは、懸命に言った。
「…あたしのお父さん、マルカム卿は、ご存じの通り有名な考古学者です。エジプトや、クレタ島や、スカラブレイの遺跡のあちこちを発掘してきて、今度はアイルランドのニューグレンジのお墓を調べようとしています。 だけど、地元の人たちは『今度と言う今度こそ呪いが降りかかる』『悲劇が起きる』と言って脅かすんです…」
 メイドのブライディーがハーブ入りのミルクティーを運んできた。
「どうぞ一口、気持ちが落ち着くわ…」
 勧められたエイリアは、ほんの一口だけ啜った。
「…でも、先に探査されてきたところでも、現地の人たちにはいい顔はされなかったけれどいちおう大丈夫だったんだろう?」
 ドイルはわざわざ窓辺に立ってパイプをふかしながら言った。
「…ええ、それはそうなんですけれど… 実は、お父さんは、発掘に際しては、できる限りいつもお祓いをして貰ってから始めるんです。ほとんどは地元でそういう仕事をやっているかたにお願いをします。そのお陰か、いままでに埋葬者の祟りや呪いを受けずに済んできました。でも、今回、あたしより一足先に行かれたニューグレンジの近辺では、ドルイド教の司祭さんにも、『魔女』と呼ばれている人にも、ことごとく断られてしまったんです… お父さんは、実は死者の魂とか幽霊を信じている人です。発掘のお仕事も、いつも葬られている人の魂の平安と安息をお祈りしながらやっています。地元の長(おさ)や司(つかさ)のご同意を得られない以上、今回のニューグレンジの踏査は延期か中止したい、とも考えたんです。ですがすでに大勢の後援者のかたがたから多額のご寄付を頂いている以上、もはやそれはかなわないんです。まだあまり誰もテーマにしていない論文を書かねばならない助手のかたもいらっしゃいます。ですからせめてロンドンから事情がわかる人を、と思って…」
 エイリアは最後はハンカチで目頭を押さえ、涙声になった。
「そんなに心配しないで」
 パイプを消し、テーブルに戻ったドイルは優しく言った。
「…すると、一緒に来て頂けるのですか?」
 少女は顔を輝かせかけた。
「いや、まことに残念ながら、わたしはどうしても手放せない事件を抱えていてね…」
 少女の顔がたちまち曇った。が、
「…ではせめて、この英国心霊研究協会の、若手の優秀なかたを…」
 と、気を取り直して続けた。
「もちろんそのつもりだよ。…そうだ、ブライディー、君はどうだろう?」
「えっ、わたくしがですか?」
 突然指名されたメイドさんは、危うくお盆を落しかけた。
「勝手知ったるアイルランドだし、君の占いで良くないことが起きそうだったら分るんじゃあないだろうか?」
「いま生きている人間の気持ちも変りやすく移ろいやすく、占いをするのは難しいです。 まして、遠い昔に亡くなっていて大きな陵墓に葬られた族長の気持ちなど、わたくしの占いで分るかどうか…」
「メイドさん、あなたは占いをなさるのですか? ぜひわたしたちと一緒にニューグレンジへ来て下さい! そしてもし宝物や考古学的に貴重なものが隠されている隠し部屋や、隠し通路があるようでしたら、お父さんに教えてあげてください!」
 エイリアは顔を輝かせてブライディーのお仕着せのスカートにすがった。
「…もう断れないわね、お姉ちゃん?」 ティーカップを下げに来たデイジーがいたずらっぽく笑いながら言った。「…ところでドイル様、あたしも行っても構いませんか? お姉ちゃんだけだと心細いし、また迷路でしょう? あたしがいたら、一日一回きりですけど脱出することができますわ」
「えっ、こちらのメイドさんはそんな凄いことがおできになるんですか? ぜひお願いしますわ!」 考古学者の小さな娘は、自分と同じくらいの年頃のメイドさんのもとへ走った。「…さすがは英国心霊研究協会ですわ! メイドさんまで、ただのメイドさんではないんですね!」
「エッヘン! おっしゃる通りですわよねお嬢様!」 デイジーは少し胸を反らせた。「それで、もし無事に発掘を終えた暁や、ブライディーさんのダウジングの力で何かを発見できた時は、お志をお願いしますね」
「デイジー、厚かましいわよ!」
 大きなメイドさんはいつものように目を吊り上げる。
「そうだな。『ここ』はポピーに任せて、行ってきてくれるかい?」
 ドイルはエイリアのものかららしい、たどたどしい字で書かれた手紙を片付けながら言った。
「行ってらっしゃいませ、ブライディーさん、デイジーさん…」
 いつのまにか傍に来ていたポピーが神妙に目を伏せた。

 数日後、三人はリヴァープールからダブリンへと渡る蒸気船の船客となった。
 アイルランドが初めてのデイジーは大はしゃぎだった。
「…あたし、お姉ちゃんがドイル様と妖精の探索旅行に行った時も一緒に連れて行ってもらえなかったし(「女神たちの森」参照)、ラキシスお嬢様をその魔女のグエンドリン様のもとに送り届ける時も(「ラキシス最後の旅」参照)はねっぽにされたし、お姉ちゃんがメルさんとアイルランドの吸血鬼退治に出かけた時も(「メイドさん対小さな吸血鬼」参照)寄せてもらえなかったし… でも、とうとう念願のアイルランド旅行ができるんだわ!」
 小さなメイドさんは、ブライディーから作りかたを習った「眠くならない船酔い止めのハーブティー」を何杯も飲んで、アイスランドの時(「氷の碑」参照)にも増して張り切っていた。…そもそもこのハーブティーは、ブライディーがシスター・セアラに教えてもらったものだったのだが…
「デイジーさんはあまり世界旅行をされたことはないのですか?」 ときどき潮風に飛ばされそうになるツバの広い帽子をきゃしゃな両手で押さえながらエイリアが訊ねた。「…わたくしはあちこち行きましてよ。…エジプト、メソポタミア、ギリシアの島々にローマの遺跡、スコットランドの北の果てのスカラブレイ…」
「…あたしはドイル様のお付きでパリへ行きましたわ」
 デイジーは小さな鼻を上に向けた。
「あら、パリは何度何度も行かなければ、良さは分りませんわ」
「あたし、つい最近アイスランドへ行ったもんね。オーロラを見ましたわよ、オーロラを! それはそれは、夢まぼろしのようとはあのことですわ…」
「そ、それは、羨ましいですわ…」
 これはエイリアも認めざるを得なかった。「アイスランドに比べたら、アイルランドなんて、すぐそこの、お金持ちの夏の保養地よ。もちろん大英帝国の領土だし…」

「主従」ということでダブリンの宿の続き部屋に一泊。ブライディーだけは恒例となった、少女時代を過ごした貧救院と教会へ立ち寄ることになった。
「お願いだから、あまりエイリア様と張りあわないでね。あちらは立派な考古学者の先生のお嬢様なんだから…」
 と言い残して。
「ええ、ええ、承知していますとも、分っていますとも…」
 デイジーはあさってのほうを見ながら返事をした。

 いつもの通り、いつもの炊きだしのジャガイモと牛すじや鶏ガラと煮込んだスープの匂い… 施設にいたあいだ、寄贈品の服や身体にしみこんでしまったもの。それでもその匂いを嗅ぐとお腹がグゥと鳴った。
 古いさびれた教会のお香の香りと、蝋燭の光も懐かしかった。
(…神様、マリア様、聖パトリック様。わたしのわがままなのかもしれませんが、そろそろこんな本来のメイドの仕事からは遠くかけ離れたことからはお暇を頂いて、ささやかで貧しくても幸せな家庭のよき妻、良きお母さんにしてください… 『お兄ちゃん』がアメリカから帰ってきて、結婚できますように…)
 十字架の上で目を伏せておられるように見えるイエス様やマリア様に何度も何度も祈った。
「ブライディー、おかえり!」
 院長先生が危なつかしい足取りで走り寄ってきて、しっかりと抱きしめてくれた。
「院長先生! この前のロザリオは、本当に役に立ちました。有難うございました」
「いえいえ、イエス様も『請う者に与え、借りんとする者を拒むな』(マタイ5.42)と仰っておられます。ドイル様にせよ、どなたにせよ、貴女に頼む人がいる限り、できるだけその願いに添って差し上げなさい」
(でも院長先生、わたしはセアラ様のようにイエス様の花嫁、妻になったわけではないんです。人の子の男の人の…『お兄ちゃん』のお嫁さんに行きたいんです。そのことを神様やマリア様にお願いしてはいけないのでしょうか?)
 言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ。
「…今度はニューグレンジだそうですね」
「ええ、ここにいた時、何回か小旅行で連れて行って貰った時は楽しかったです。アイルランドは初めての同僚のメイド子も一緒で、その子もとても楽しみにしています」
「しっかり案内してあげなさいね」
「…でも院長先生、わたしは怖いんです。不老不死の魔女、吸血鬼、今度は何が出るのかと思うと…」
「湖に浮かんだ小舟が突如嵐に見舞われて、弟子たちが慌てふためいたとき、主は何と仰せになりましたか?」
 院長先生は皺だらけの顔をニッコリとほころばせた。
「『なにゆえ臆するか、信仰薄き者よ』(マタイ8.26)と…」
「たとえ天が裂け、地が割れても、万軍の主がすぐ傍におられるのです。まことの神に背を向けて闇に潜む者など、文字通り虚ろな影法師に等しいのではありませんか?」

 その夕方、宿で待っているとニューグレンジ遺跡のあるドロヘダの町からの汽車が着く時間に、紺色のサマー・ウールの上着を着た陽気そうな若者と、おとなしそうな若い女性が、馬車でやってきた。
「トーマスさんにナンシーさん!」
 エイリアは薄青色の麻のドレスの胸元に飛び込んだ。
「紹介しますね。こちらは父の助手で秘書のトーマスさん!」
「トーマスです、よろしく」
 若者は上着に残っていた汽車の煤をはたき落しながら言った。
「…こちらはあたしの家庭教師のナンシーさん。二人ともエジプトやメソポタミアやギリシアにも一緒に来てくださった家族同然のかたたちですのよ」
 ナンシーは物憂げに会釈した。
「エイリア様、久しぶりのロンドンはいかかでございましたか?」
「とても懐かしかったわ。行きは交代するメイドが一緒だったし、ここに来るのはこのブライディーさんとデイジーさんが一緒だったから、少しも不安じゃなかったわ」
「ブライディーです、どうかよろしくお願いします」
「デイジーよ。あたしたちが来たからには、もうどんな幽霊が出ても、呪いが降りかかっても安心よ!」
 夕食は五人でアイルランド料理…とは言い料理を分けて食べた。
「いやあ、地元のかたがたのご協力がいま一つ得られない、などということはよくあることなのですよ」 トーマスは一人、蛮族の戦士のように肉にむしゃぶりつき、サラダをかきこみながら言った。「…発掘を続けていって何も起きないことが分ると、地元のかたもおずおずと作業や雑用を手伝って頂けるようになるんです。エジプトや中近東のような迷信深いところでもそうでした」
「トーマスさんって、あまり恐がりじゃあないんですね」
 デイジーも(ここぞ)とばかりに高そうなものから平らげていた。
「ええ。むかしの人の霊や木乃伊を尊敬することは大切ですけれど、むやみやたらと恐れていてはこの仕事はできません。これでもぼくは将来は、先生のマルカム卿のように、考古学者として身を立てるつもりですからね。身分のないぼくでも精進すれば、ゆくゆくは先生から研究においていろんなことを任せて頂けるようになるしかないと思うんです」
「あら、もうお一人、ヒギンズさんもいらっしゃいますが…」
 ナンシーがポツリと言った。
「ヒギンズ君はどちらかと言うと、会計や、現地雇いの作業員の人事や、スケジュールの担当で、考古学そのものには明るくありませんよ」
「でも、そういう縁の下の力持ち、みたいな仕事もとても大切なのよ」
 デイジーは口の中に食べ物を入れたまま言った。
「デイジー、そんなに食べたらお腹をこわして、明日困ったことになりますよ」
 ブライディーがたしなめる。
「大丈夫だよ! あたしは食いだめも寝だめもできるのよ!」
「それは羨ましい特技ですわ!」
 エイリアは目を見張った。

 その夜、ブライディーはデイジーと一緒に、エイリアはナンシー先生と一緒の部屋で寝ることになった。
 デイジーが「グーグー」といびきをかき、鼻ちょうちんを膨らませ始めた頃、ノックと女性の声がした。
「わたしです、ナンシーです…」
 ドアを開けると、寝間着姿の家庭教師が入ってきた。
「エイリアさんは?」
「…もう眠られました。寝顔を眺めていると、まだ幼くていらっしゃる、と思いますわ」
「うちのデイジーもご覧の通りです」
 メイドさんは苦笑いした。
「…ご存じとは思いますが、エイリア様は幼い頃に母上様を病気で亡くされています。旦那様は仕事柄海外を飛び回っておられて、後添えをもらわれることもなく…」
(フィオナ様と一緒だわ) ブライディーは思った。(…もっとも、フィオナ様の場合は、父の男爵様が後妻をもらおうとしたところ、「後添えはやめて下さい。ご養子にしてください」と、フィオナ様がお屋敷に火を付けんばかりの猛反対をされたそうだけれど…)
「…ニューグレンジの遺跡は、中に何十フィートかのトンネルがあって、何千年か古代の人たちはそのトンネルの隠し通路の向うに、いわゆる『黄泉の国』があって、亡くなった人に会うことができるという伝説があるとか。 わたくしも気を付けますが、どうか貴女様も格別にエイリア様にはお気を配ってくださいますように…」
「分りました。マルカム卿がわたしたちを呼んで下さったのは、ご自分に対する呪いが不安だったのではなく、エイリア様をお守りするためだったのですね?」
 ナンシーはコックリと頷いた。

 翌朝、五人はダブリンからドロヘダに向かう汽車の乗客になった。列車は海岸沿いの線路を北上した。
 ダブリンとドロヘダのあいだはおよそ二十マイル。急行だと一、二時間の距離だが、それでもエイリアとデイジーは窓際に座って大はしゃぎだった。
「わぁ、お城だ! でもイングランドやスコットランドのお城とは少し赴きが違うわね」
 デイジーは灰色のウエディングケーキのような城塞を指さして叫んだ。
「あれはノルマン式の城ですよ。イギリス本土にもノルマン人の城がたくさんあったはずですが、その後から来た…例えばサクソン人が、その上に建てたり、改装したりしたんです」
 トーマスが説明した。
 ブライディーもダブリンのような都ではない、アイルランドの田舎の空気を吸って心気を充実させていた。 ドロヘダからニューグレンジの遺跡へは、ボイン川に沿って、トーマスの御する馬車で二マイルほど遡ることになった。
 真夏というのに、緯度の高いアイルランドは暑くはなく、それこそまるでおとぎ話に出てくるような澄んだ水が流れる、簡単に泳いで向こう岸に渡れそうな川と、川岸に咲き乱れる色とりどりの小さな花々に、イギリス人の四人は口々に「爽やかね」とはしゃぎあった。
「…でもここは、二百年ほど前に、ジェームズ二世率いるカトリックの軍と、オレンジ公ウィリアムが率いるイングランドのプロテスタント軍が戦って、多くの血が流されたところなのですよ」
 何か言いたそうなメイドさんに代って、家庭教師のナンシーが穏やかに言った。
「そうそう、そうなのよ…」 エイリアは二度三度と頷いた。
「…いまはこんなにきれいで平和なところに、そう遠くない昔、鎧兜に身を固めて、楯を持った大勢の兵士たちが、互いに剣を振り上げて斬り合い、血を流し、命を奪い合ったなんて、想像できないわ…」「いまでもよく探すと鏃や錆びた鉄砲の弾丸、折れた剣の先が見つかることがありますよ」 ブライディーが言葉を添えた。
 途中、周辺の小さな立石柱(メンヒル)や支石墓にさしかかるとトーマスは馬車を止め、荷台から写真機を取りだしてエイリアとナンシーを写した。
「どうぞ、ブライディーさんもデイジーさんもお入りになってください!」
「いえ、わたしたちは観光で来ているのではなく、仕事で来ているのですから…」
「そんなこと言わずに一緒に写りましょうよ!」
 エイリアに促されてまずデイジーが、続いてブライディーが小さな石舞台の脇に立った。「今度はトーマスさんも!」
 撮影が終ると、ブライディーは写真機の前に立とうとした。
「ブライディーさんは写真機が扱えるのですか?」
「ええ。ドッジソン先生に習いました」
「えっ、あの有名なドッジソン先生に、ですか?」
 トーマスは「アリス」と「数学」どっちで有名なのかは言わなかった。
「あたしもドッジソン先生に写しかた教えてもらったもの」 デイジーが胸を反らせた。「…踏み台があったら写せるもの!」

 馬車は夕暮れ前にはニューグレンジに着いた。
 上部を緑で覆われたサーカスのテントよりも数倍大きな巨大な岩のドームが目の前にあった。
 ひずめと車輪の音が近づいてくると、作業服を着たひげもじゃに黒縁の眼鏡をかけた中年の人のよさそうな男性が図面のようなものを投げ出して走ってきた。
「エイリア、よく来てくれたね!」
「お父様!」 まだ止りきっていない馬車から飛び降りたエイリアは、父親のひげだらけの顔に頬をこすりつけた。「…英国心霊研究協会からブライディーさんとデイジーさんが来てくださったのよ! これだもう、どんな呪いが取り憑こうとしたって安心だよ」
「そうかい、そうかい… ブライディーさんにデイジーさん、一つ、どうかよろしくお願い申し上げますよ」
 マルカム卿はクリーム色のつば広の帽を取りながら会釈した。
「いえ、こちらこそ。研究のお邪魔をしないようにしたいと思います」
「いえいえ、大いにご意見をおっしゃってください。考古学には無縁のかたの閃いたことが、大発見につながったことも多々あるのです」
 マルカム卿が温厚で腰の低そうな人だったのでブライディーはひとまずホッとした。
(こんなふうでなければ、エジプトやメソポタミアやギリシアの現地の人たちや、助手のかたがたと折り合っていけないのかもしれないわ…)
「エイリア、取りあえず着替えておいで」
 卿は踏査のために設けられた、いくつかのテントのうちの一つを指さした。
「はい、お父様!」
「…トーマスにナンシー、ご苦労だったね」
「いえ、先生…」
 二人は会釈して下がった。
 メイドさんたちが顔を上げると、幾重もの間のあいたベンチのような白い縁石に囲まれた巨大な石舞台のような遺跡が目の前に広がっていた。

「うーん、ストーンヘンジも凄いけれど、この遺跡はそれを上回ると認めざるを得ないわ」 めったに首をかしげないデイジーも、目の前に入口を開けて広がっている巨大な人工の石窟を眺めて首をひねった。「大昔の人たちは一体どうやって建てたのかしら?」
「あら、これで驚いていたらピラミッドを見たら仰天しますわよ」
 エイリアがツンと澄まして言った。
「…どちらも、と言うか、どんな巨石建造物も、古代の人々が何十年も、何百年もかけて少しずつ作ったんだよ」 マルカム卿が二人の少女の肩に手を置いて言った。「…だが実際にエジプトでも、どこでも、葬られている人に呪われてどうにかなった、というような話は、まだそんなに聞いたことがない。(カーターたちによるツタンカーメン王の墓の発掘は1907年のことです)」
「お父さんがその最初の人なんかにならないでね」
「大丈夫だよ。そのためにこうしてブライディーさんたちも来てくださったんじゃあないのかね?」
「そうよ。明日の朝、お祈りをしてしてくれるのよ!」

 メイドさんたちは二人で一つの小さなテントが与えられた。
「ちょっと、君たち、『英国心霊協会』のお屋敷ではメイドをやっているのなら、夕食の支度を手伝ってくれないか」
 現場を取り仕切っている気難しそうな青年が声を掛けてきた。
「ヒギンズさん、でいらっしゃいますか?」
「ああそうだ。占い師か降霊術師かしらないが、日にちか時間で雇われているのなら、仕事のない時は他の者を手伝ってくれ」
「失礼ね! あたしたちはマルカム先生やエイリアさんから『精神的にバックアップして下さるように』ということで、はるばるロンドンから来てあげたのよ! 十何人か分のジャガイモや玉ねぎやニンジンの皮を剥け、とでも言うの?」
 言いかけたデイジーの口をブライディーが押さえた。
「…もちろん、お手伝いさせて頂きますわ」 十数後、お仕着せに着替えたメイドさんたちは、野外に石を組んでしつらえたかまどの近くで、夕食の下ごしらえをしていた。
「…失礼しちゃうわね! お姉ちゃん、こうなったら明日の朝のお祈り、わざと手を抜いて亡霊でもオバケでも出るようにしてやればいいのよ!」
「デイジー、プンプンしながら包丁を使っていると指を切るわよ…」
 そこへトーマスが通りがかった。
「おや、お二人はそんなことはしなくていいんですよ! …分った、ヒギンズのやつですね! 先生に言って、しなくてもいいように…」
「いえ、正直、出番があるまでは手持ちぶさたなのでやらせて頂きますわ」
 ブライディーはキノコを捌きながら微笑んだ。
「いいんですか?」
「ええ、普段やっていることをやっているほうが落ち着きますわ」
 メイドさんたちが作った夕食は、小さな列柱が横倒しになったような石に腰掛けて食事をとったほかの助手たちやスタッフにも好評だった。
「今夜のスープは美味しいね」
「味付けも辛すぎず薄すぎず、ちょうどいい塩梅だ!」
「久しぶりにまともなものが食べられた!」
「いままでナンシー先生やエイリアお嬢様以外は、ほとんど男所帯だったし、地元の奥さん連中が作ってくれるものは、言っちゃあ悪いが…」
「ロンドンからやって来たお祓いをするメイドさんたちが作ってくれたんだって?」
 メイドさんたちに料理を命じたヒギンズは鼻高々だった。
「こういうところでは、各々がフルに得意なことを受け持つべきだ、と思いまして…」
 マルカム卿とエイリアは、わざわざメイドさんたちのテーブルにやってきた。
「どうも余計なこと、済まないことをさせてしまったみたいで…」
「いえ、よろしいですわ。時間さえあれば明日以降もずっとやらせて貰いますわ」
「お姉ちゃん!」
 デイジーがエプロンドレスの裾を引っ張る。「美味しかったわ、ブライディーさん、有難う」
 エイリアがペコリとおさげの頭を下げた。「さぁさぁ、当番の者は後かたづけを手伝えよ! 皿洗いくらいはまともにできるだろう?」
 トーマスは複雑な表情で叫んでいた。

「お姉ちゃんは何でも引き受けてしまうから嫌いだわ!」
 充てられたテントに戻ると、デイジーは頬を膨らませた。
「まぁまぁ、いいじゃあないの。皆さんも喜んでおられたし、貴女はいつもと同じ味付けでつまらなかったかもしれないけれど…」
「あーあ、せっかく、クック旅行社の旅行気分で来たというのに…」
 小さいメイドさんは毛布を頭からかぶると、すぐにイビキをかきはじめた。

 浅い眠りのなかで、ブライディーはまた不思議な夢を見た。
 いきなり夢の中にニューグレンジ最大の巨大な石造りの古墳と、奥の小部屋へと通じる、人一人がやっと通れるような通路が現れたことは、ある程度予想していたことだった。
 今回はまだ実物は見学していないものの、貧救院時代にみんなと小旅行に来た際に二、三度なかに入っている。「お兄ちゃん」たち男の子組は、先を争って秘密の扉や隠された通路がないか、拳を作ってトントン石の壁を作りながらはしゃいでいた。
「はいはい、大切な遺跡ですよ。傷など付けないように!」
 院長先生の声が狭いトンネルにこだまする。
 小さなブライディーは「お兄ちゃん」がドンデン返しのような魔法の扉に吸い込まれていなくなってしまうような気がした。
「ねぇ、ケリー、わたし、中も見てくるわ」
「えっ、行っちゃうの?」
 ためらっているケリーを残して、ブライディーは奥へと進んだ。
「あっ、ブライディーだ! お転婆ブライディーが入ってきた!」
 男の子たちがはやしたてた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! みんな、お兄ちゃんを見なかった?」
「さぁ?」
「入る時は一緒だったんだけど…」
 男の子たちは顔を見合わせた。
 ランプを掲げたブライディーはさらに奥へと進んだ。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! どこにいるの? いるのだったら返事をしてよ!」
 泣き出しそうになりながら、大昔、何の儀式に使われたのだろうか、よく分らない小部屋を覗いて回った」
「…もう先に外へ出て居るんじゃあないかい? 君も外で待っていたらどうだい? 仮にまだ中にいて道に迷っているとしても、セアラ様が見つけ出してくださるさ」
 最後にすれ違った男の子が言った。
 しかし小さなブライディーは引き返す気が起きなかった。
 自分が手にしたランプの灯りに照らされた両側の岩壁。物理的にはただの固くひんやりとしたすべすべの岩に過ぎないのだけれど、しっかりと見つめると、夢か幻か、いくつもいくつもの、別の場所へと通じる枠だけの扉のようなものが幾何学の線のように折り重なって見えた。
(気のせいよ! セアラ様が、いろいろと伝説や神話のお話しをして下さったから…)
 しかしそれらの線は、影絵芝居の枠線のように消えなかった。目をこすってもしばたたかせても…
(…そうよ、何千年も大昔の人たちが、いくら迷信深かったとは言っても、何の意味もなく、とてもしんどい思いをして、大きな岩をいくつもいくつも積み重ねて、こんな建物を造ったわけじゃあ決してないわ。
…行ったことはないけれど、イギリスのストーンヘンジもそう。エジプトのピラミッドもそう。いまでは何のためのものだったか、すっかり分らなくなってしまっているけれど、ただのお墓や儀式の場所以外の役割と言うか、使う方法があったはずよ!」
 小さなブライディーは、幼いなりに心を集中し、今一度目を凝らして岩の壁の向う側を見るつもりで見た。
 すると、いくつもの四角い、細い線でできた額縁の向う側に、見間違うことない「お兄ちゃん」と思しき少年の、灰色の影が映ったような気がした。
 少年の影は、別の二つの大人らしい影と何か話をしているみたいな様子だった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! そこで一体
何をしているのよ! みんなとはぐれちゃったら院長先生やセアラ様に叱られるよ! お兄ちゃんは男の子組のリーダーなんでしょう? みんなの模範にならなくちゃあ!」
 手を伸ばし、灰色の影の腕を掴んで引っ張ると、突然すぐそばに「お兄ちゃん」が現れた。
「あっ、ブライディーごめん。ついウッカリというか、ボンヤリとしていて…」
「お兄ちゃん」は鳥打ち帽越しに自分の頭をコンコンと叩いた。
「…こんなことを言っても信じてもらえないと思うけれど、トンネルの奥の小部屋の一つに、病気で亡くなったぼくの親父とおふくろの影が見えたような気がして追いかけたんだ。 伝説や神話の話を聞いてきたし、きっと思いこみが見せた錯覚だと思うよ。…ランプに照らされた友達の影がそんなふうに映ったのかもしれないな」
「そうね、きっとそうよ。その証拠に、わたしや、他のみんなには、そんなものは見えなかったもの」
 小さなブライディーは嘘をついた。もし同意すれば、お兄ちゃんが再び亡き両親の幻を追いかけて行ってしまいそうな気がしたから…
「ああよかった! 無事だったのね!」 シスター・セアラが走ってきて二人を抱きしめた。「さぁ、早く出ましょう! みんな待っているわ…」

 夢はそこで覚めた。もうほとんど忘れかけていた幼い日の記憶。
(再び同じ場所に来たことで思い出したのかしら? それにしても鮮明に思い出し過ぎるわ…)
 大きなメイドさんは、うっすらと寝汗をかいていた。

 翌朝、ブライディーとデイジーは、用意してきた白いローブをまとい、頭には自分たちで編んだ野の花の冠をかぶって、ニューグレンジの墳墓(墳墓だとして)に眠っている魂を鎮める儀式に臨んだ。
 目の前の一段高い祭壇には、トーマスが用意した古代ケルトの女神ブリギットの像が、これも花に飾られてうやうやしく祀られていた。
「…この陵墓を永遠の魂の休みどころとせし大いなる者よ…」 大きなメイドさんは盛んに香を焚きながら、それらしい祈りの文句を唱えた。「…我等は汝の安らかなる眠りを邪魔する者にあらず。我等は汝らの部族の、栄光ある歴史を学ばんとして来たりし者なり。 願わくば、汝らの残せし思いを我等に伝え賜え…」
 マルカム卿も、トーマスも、ナンシーも、ヒギンズも、小さなエイリアも、そのほかの助手たちも夏物のコートやドレスで正装して、帽子を脱いでうなだれ、真面目に踏査の成功を祈っていた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんのお祈りなんかで魔除け呪い除けなんかになるのかなぁ?」
 すぐ隣でもぐもぐと口だけ動かしていたデイジーが、ブライディーの顔を覗き込んで言った。
「大丈夫。こういうのは気持ちの持ちようだから…」

「あの、わたくし少し失礼してよろしいでしょうか?」 家庭教師のナンシーが研究担当の秘書のトーマスに言った。「何だか少し気分が…」
「どうぞどうぞ…」 トーマスは心配顔になった。「どんな儀式でもそうでしょうけど、緊張してしまいますよね。なんならデイジーちゃんに付き添って貰いましょうか?」
「いえいえ、そこまで… 一人で大丈夫です…」
「先生、気分が悪いの?」
 エイリアも顔を曇らせた。
「そんなことないわ。あくまで大事を取ってのことよ。終わったらしっかりと一緒にお勉強をしましょうね」
「あたし、お父さんやトーマスたちと一緒にトンネルに入りたいなぁ…」
「ぼくたちがちゃんと調べて、危険がないと分ったら、何日か後でちゃんと案内してあげるよ」
 トーマスが代りに答えた。

「お姉ちゃん、早めに切り上げたほうがいいみたいだよ。ナンシーさんがしんどくなって引っ込んじゃったよ…」
 またデイジーが囁いた。
「まだ始まったばかりだと思うけれど… そんなに暑くもないし…」
「もしもエイリアちゃんまで、ということになったら責任あるかもよ」
「だけど、五分か十分のお祈りで、たくさん御礼を頂いたら申し訳ないみたいで…」
「いいのよ。結婚式やお葬式じゃああるまいし、誰もそんなこと思わないって…」
「そぉ? せっかく三十分ほど用意してきたというのに…」
 ブライディーは隠し持ったメモのページをパラパラと先へ進めた。
「いにしえの神々よ、高貴なる者よ、祭司よ、神官よね穢れなき乙女たちよ、何卒我等を守り賜え!」
 気のせいか、お香が少し燻って変な匂いがしてきた。
「あら、どうしましょう? 湿っていたのかしら?」
「だから早くお開きに…」

 と、その時、森の奥から、灰色のすり切れたローブとくすんだ色のざんばらをそれこそ幽霊のように翻らせた、年の頃もよく分らない一人の女が現れた。
「祭司でも、神官でも、巫女でもないただの穢れた女が祈っても、このニューグレンジに鎮まる魂は安らいだりするものか!」
 女は白い、歪んで伸ばした手を天に向けて差し出しながら叫んだ。
「…さっさと調査隊を解散してロンドンに帰ることだ。さもないと、取り返しのつかないような大きな災いが、おまえたちの上に降りかかることだろう! 聞くところによると、おまえたちの盟友が一人、この墳墓の中で行方不明になっているそうだな! いい気味だ。これを警告と受け取れよ!」

「あの人は?」
 ブライディーはトーマスに尋ねた。
「ミルドレットさんと言って、このあたりのドルイドの女性祭司なんだよ。ぼくらが最初に安全の儀式を取り仕切ってくれるように頼みに行った人なんだけれど、断られてしまった人だよ。御礼の金額も聞かないうちにね…」
「パパ怖い…」
 エイリアはマルカム卿に抱きついた。
「大丈夫だよ、ブライディーさんたちに来て頂いて貰ったんだろう?」
 デイジーは座っていた祭壇の席を蹴ってツカツカと歩むと、ミルドレッドと対峙した。「ちょっとあんた、お金が欲しいのだったらハッキリそう言いなさいよ! 少しの額じゃあ嫌なんでしょう!」
「デイジー!」
 ブライディーは思わず顔を覆った。

「金? 金など問題ではない!」 ミルドレッドは鬼女のような形相で叫んだ。「…ただ単に調査をする、というだけなら、こうして脅かすくらいで済ませてやろうと思っていたのだが、こともあろうに別の『力』のある者を呼び寄せるとは何事か! ハッキリと挑戦しているようなものではないか! それも一人はアイルランド人の娘だ。そこのおまえ、誇り高きケルト民族の末裔として、イングランド人のいいなりになって恥ずかしくはないのか? ここへ来る時に、大勢のカトリックの兵士が血を流して倒れていった渓谷を通ってきたのではないのか? 金が目当てなのは、おまえたちのほうではないのか?」
「何よ! もう許さないから!」
 つかみかかろうとしたデイジーの前にブライディーが立ちふさがった。
「マルカム卿はあちこちの外国の遺跡での発掘の実績も多い、学会でも認められている立派なかたです。わたしたちは学術調査ということで、不慮の危険を防止するためにお手伝いに来ているんです。何もケルトやアイルランドの誇りを傷つけるつもりは…」
「先祖の墓暴きの片棒をかついで、何が学術調査だ? まぁ『あの男』の轍を踏みたい、二の舞になりたい、と言うのなら話は別だ。、そのためか知らないが、俳優みたいに姿形だけのお飾りに過ぎないような巫女ではなく、おまえたちには不思議な力があるようじゃないか!」
「ゲッ、バレてる…」
 デイジーは思わず拳を口にあてがった。
「警察を呼びましょう」
 縁なしの眼鏡をかけ、神経質そうなヒギンズがマルカム卿の耳に囁いた。
「待て、ブライディーさんやデイジーさんたちの『力』を知っているということは、あのミルドレッドも何らかの不思議な力の持ち主だ、ということだろう。これ以上刺激してもまずい。なんとか穏便に引き取ってもらえれば…」
「ぼくが行きます」 当惑して互いに顔を見合わせている助手たちの中からトーマスが進み出た。
「ミルドレッドさん、貴女が断るから、ぼくたちはこのブライディーさんたちにわざわざ来てもらったんだ。そのことを不満に思うのなら、貴女が引き受けて、貴女の思うとおりに儀式をやってくれればよかったんだ!」
「わたしは決してイングランド人のいいなりなんかにはならない!」
 ミルドレッドはそう捨てぜりふを言い残すと、ローブを風に翻らせて森の奥に消えた。
 トーマスとヒギンズが追いかけようとするのをマルカム卿が制した。
「ミルドレッドも不思議な力の持ち主だとして、そんな時のためにこうしてブライディーさんたちに来て頂いているんだ。構わずに調査を進めよう」
「ブライディーさん、デイジーさん、どうかお父さんを守ってね」
 小さなエイリアが泣き出しそうな顔で二人の衣装を引っ張った。
「ちょっと待ってよエイリア、お父さんにはトーマスさんやヒギンズさんがついていらっしゃるのでしょう? 危ないのは貴女のほうじゃないの?」 デイジーが説教した。「…ナンシーさんやわたしたちのそばを離れたりせず、絶対に一人にならないでね!」
「え、ええ… そうするわ」
「ナンシーさん、テントで休んでおられてよかったわ」 ブライディーがふとつぶやいた。「…あのかた、気が弱そうだったから…」

「お祓い」が「無事に」終ったということで、マルカム卿と助手たちが、それぞれ遺跡の内側と外側に計測用の棒を立て、角度を測る機械を覗き込み、岩にチョークで数字や記号を書き、図面と照らし合わせるなどして、まめまめしく動き始めた。
 トーマスはハンカチで顔の汗を拭いながら彼らが指示を仰ぎに来るたびに
「そこはそうじゃない」とか、
「ここはこうしてくれ」というふうに実際の指揮をとっていた。
 エイリアは木陰でナンシー先生から勉強を教わっていた。
 昼食の、サンドイッチのパンと食材を切っていたブライディーとデイジーのところへ、またヒギンズが、眼鏡をずりあげながらやってきた。
「料理や調理法について文句を付けられるのかしら?」
 身構えるデイジーに向かって、ヒギンズは「コホン」と空咳を一つしてから切り出した。「…メイドのようなことをさせてしまって失礼しました」
「いえいえ、いいんですよ。わたしたちはもともとメイドなのですから」
 ブライディーは微笑んで答えた。
「…あの、ミルドレッドの言うところによると、貴女たちには不思議な力があるとか。もしも本当なら、いままで未発見の隠し部屋や隠し通路などを発見して、マルカム卿に手柄を立てさせて差し上げたい、また、調査に入ったまま行方不明の学者を捜し出して欲しいのですが…」
「まぁ、調子のいい人ね! 『賄いをしろと言ってみたり、『不思議な力をあるなら使え』と言ってみたり…」
 頬を膨らませるデイジーの前に立ちふさがるようにブライディーは出た。
「わたしたちはエイリア様から、皆さんを災厄から守るように依頼をお受けしたんです。 そのようなことまでは…」

 と、そこへ仕事が一段落したトーマスが戻ってきた。ヒギンズは
「ぜひ、考えておいてください」と言い残して去った。
「あ、トーマスさん、すいません」
 ブライディーが呼び止めると、歩きながらクリップボードに目をやっていたトーマスは、立ち止まって「何でしょう?」 と、問い返した。
「…あの、最近、遺跡の中で行方不明になったかたがいらっしゃる、というのは本当ですか? ミルドレッドが『轍』とか『二の舞』とか言っていたのは、そのかたのことですか?」
 トーマスは一瞬だが瞑目した。
「ヘンダーソン卿のことですね? マルカム卿の盟友で、半年ほど先に、たった一人で遺跡の中に入った人です。入って行くところは何人かの人が目撃したのに、それっきり出てこなかった… もちろん、直後にヘンダーソン卿の助手たちが直後に二人一組、三人一組となってくまなく調べたのですけれど、どこにも見つからなかった…」
「うわっ、呪いかも…」
 デイジーは目玉がこぼれ落ちそうになるくらいに目を見張った。
「どうしてそのヘンダーソン卿は、最初にたった一人で中に入られたりされたのですか?」
 トーマスは溜息をついた。
「…ヘンダーソン卿は、黒魔術にも興味を持たれていたのです。『黄金の暁団』とも関わりがありました。…その、黒魔術と考古学を合体させようと試みられていたのです。それで、助手たちが止めるのも聞かず、最初に一人で中に入られたのです。『もしも霊が宿っているのなら、わしが聞き取ってみせる』とか申されて… ぼくたちはもちろん、その場にはいなかったのですが…」
「きっと秘密の隠し通路か落とし穴があって、そこにはまられたのよ」
「シッ、デイジー、黙って聞いて!」
「ヘンダーソン卿は… その… 調査資金が底を尽きかけていたんです。そこで一年ほど前にぼくらの主人マルカム卿にお金の無心を… サー・マルカムは『科学的な真面目な調査なら資金の援助にやぶさかではないけれど、黒魔術的見地から、などと言われると二の足を踏まざるを得ない』と申されて、丁重に断りました」
「すると、行方不明のヘンダーソン卿は、マルカム卿に恨みを持っている、ってことね」「デイジー!」
「かも知れません」
「エイリアちゃんはそのことを?」
「聡明なお嬢様なので薄々ご存じでしょう。 それで貴女がたを…」
「お父さんのマルカム卿が、親友の亡霊に足を引っ張られて道連れにされては大変、と思ったのね…」
「デイジー!」
「…噂には続きがあります。お金に困っていたのは、ヘンダーソン卿ではなくて、実はマルカム卿のほうだった、という噂です。そっちが正しいとすると、無心したのは、ぼくらの主人のサー・マルカムのほう、ということになります」
 トーマスは辺りを見回し、声を潜めた。
「マルカム卿とヘンダーソン卿は、学問に一途なかたがたで、資産の管理などは無頓着で… お二人はそれぞれの資産の管理を全部ヒギンズに任せきりでした。行方不明のヘンダーソン卿が現れでもしない限り、この話の真実を知っているのは、いまではマルカム卿とヒギンズの二人だけです」
「すると、ヘンダーソン卿が行方不明になられたあと、お二人の財産の管理人であるヒギンズさんが、コッソリとヘンダーソン卿の資産をマルカム卿の口座に移して融通した、ということも…」
「可能性はゼロではありません」
 三人が話し込んでいるのを不審に思ったのだろうか、当のヒギンズがツカツカと撚ってきた。
「トーマス君、君を捜している者がいたよ」
「失礼します。つい話し込んでしまって…」
 トーマスはバツが悪そうに駆け去った。
 ヒギンズは鋭い眼でメイドさんたちを一瞥した。まるで『余計なことには首を突っ込むな! おまえたちはサー・マルカムのプラスになるようなことだけをしてくれればいいんだ』 と言いたげな様子で。

 ぼんやりとした太陽が中天にさしかかる少し前、マルカム卿がやってきた。
「ドロヘダのお役所から依頼を受けていた安全に関する調査を一応終りました。…どうだい、エイリアにデイジーさん、ナンシーさん、ブライディーさんは見学されたことがあるかも知れませんが、一緒に中を見学してみませんか?」
「パパ、有難う!」
 エイリアは父親に飛びついた。
「ぜひお願いしますわ。少なくともパンにハムをはさんでいるよりはマシですわ」
「デイジー!」
「わたし、どうしようかしら?」
「ナンシー、一緒に見せてもらいましょうよ! 大昔の歴史を教えてくれた先生が、実物を目の前にして見て帰らないなんて、おかしいわ」
 エイリアに引っ張られるようにしてナンシーも中に入った。
「…何千年、三千年、五千年ものあいだビクともしなかったんだ。観光客や遠足の子供たちがドヤドヤと入っても、どうにかなるなんてことはありえないさ」
 マルカム卿はにこやかに言った。
 エイリアにナンシー、それにメイドさんたちは巨大なパイの形の岩の建築物の中に入った。入口のところには、唐草模様のような、渦巻き模様のような文様が描かれた巨石が鎮座している…
「墳墓か、集会所か、モニュメントか、何かだったんだろうね」 マルカム卿の説明がトンネルに響いた。「驚くべきことは、冬至の日に、このまっすぐな通路を辿って、一番奥の部屋まで太陽の光が差し込むように設計されていることだよ」
 ブライディーの目に、幼い頃「お兄ちゃん」たちと来た時と同じ、いくつもの大きな額縁のような四角が、両側の壁に浮き出して見えた。
(本当にこの世とあの世を繋ぐゲートのようなものが、この古墳の中にはあるのかしら? 「お兄ちゃん」は一時、そして最近ヘンダーソン卿はその中に吸い込まれてしまったのから?)
 そして当然予期していたこととは言え、そのいくつもの四角形はデイジーにもハッキリと見えている様子だった。
「ねぇねぇ、ヘンダーソン卿が消え去ったゲートはどれだろう? 呼び戻すことはできるのかな?」
 お喋りで「言いたいこと言い」のデイジーは、ぼそぼそと独り言のようなことを呟きながら、おとなしくみんなの後をついていった。
「…天井は岩を組み合わせてあるのだが、雨が降っても雨水一滴漏りはしない。実によくできているよ」
 マルカム卿の説明に一同は岩の天井を仰いだ。が、デイジーだけは床廊下の石畳のほうが気になる様子だった。
「お姉ちゃん、あたし…」
 デイジーはブライディーの耳に何事かを囁いた。
「分っているわ。『ここ』は貴女のような『ゲート・オープナー』の力を持っている人にとっては、『扉』だらけのところなのでしょう?」
 大きなメイドさんは囁き返した。
「…それも一つや二つじゃないの。無数にあるの。どれも通じている先はよくわからないわ… 『普通の人』でもカラクリ屋敷のドンデン返しか落とし穴みたいに、何かの拍子に『向う側』へ言ってしまってそれっきりになってしまう可能性があるわ。もしかしてヘンダーソン卿も、そんなふうにして消えてしまったんじゃあないかしら?」
 デイジーはにわかに自信をなくして、恐がり始めた。
「…わたしも小さい頃、遠足で来た時に経験があるの。でも、普段は安全な遺跡のはずよ。 わたしや貴女、『不思議な力』を持っている人が来たときだけ、ゲートが活性化するんじゃあないかしら?」
「じゃあヘンダーソン卿も不思議な力を持っていたのかしら? でもそれだったら何とか自力で帰ることができたはずじゃあ…」

 みんなは代わる代わる途中にある小部屋を覗いた。
「…おそらく何かの儀式を行うための小部屋だと思うよ。もしかしたら生け贄の心臓を備えたのかもしれないね」
「嫌だわパパ、脅かさないで!」
 そう言いつつもエイリアは瞳を輝かせていた。
 ほどなく一同は一番奥に辿り着いた。
「ここが何者か有力者の墓だった、というふうに考えられているのだが…」
 手にしたランプで擂り鉢状に削られた岩を照らして、マルカム卿の説明も一段落した。
「皆さん、そろそろ引き返しましょうよ」
 身体を小刻みに震わせながらナンシーが言った。
「まぁ、ナンシー先生も恐がりだったのね!」
 エイリアは舌を出して冷やかした。
「怖いわよ。わたし、皆さんと一緒でなかったら、一人では絶対にこんなところなんかに入れないわ」
 家庭教師の先生はエイリアの手を引っ張っりながら出口の小さな光に向かって急いだ。

「静かだわね…」
 サンドイッチの昼食のあと、デイジーはニューグレンジの遺跡を見渡せるテントの前で、あくびをかみ殺していた。
「そうね、みなさんも休憩を取っておられるそうよ」
 ブライディーが言うとおり、マルカム卿とトーマスは、少し離れた木陰に組み立てた机で、図面を眺めながら今後の計画を話し合っていた。
「…このあたりを掘ってみたらどうでしょう?」とか、
「このへんがいいんじゃないか?」
 と言った声が聞こえてきた。
 他の助手たちもパイプを吸いながら本を読んだり、草の上に寝そべったりしていた。
 エイリアは別の大きな木の枝の下で書き取りの練習をしていた。
「ナンシー先生が見えないわね」
 と、デイジー。
「午前中の遺跡見学で疲れられて、またテントの中で休んでおられるのでは?」
「ヒギンズさんがいらしたら怒り出しそうね。『この給料泥棒の家庭教師め!』とか言って…」
「でもナンシーさんは、エジプトもメソポタミアもギリシアも、ずっとエイリアさんと一緒にいらしたのでしょう? イギリスのすぐ近く、アイルランドの発掘で疲れやすくなったというのも気に掛かるわ。体調を崩されたのかしら?」
「そう言えば、あのミルドレッドとか言う魔女も来ないわね。それこそ昼寝でもしているのかしら?」 デイジーは森のほうをキョロキョロと眺め渡した。「…今度は夜襲でもかけるつもりかしら?」
「…デイジー、ちょっと… お昼の火の始末はちゃんとした?」
 ブライディーは鼻をクンクンさせながら訊ねた。
「ちゃんとしたわよ。火の用心は一番大切だもん」
「何か焦げ臭いような匂いがするような気がするのよ」
「どなたかのパイプの匂いじゃあないの?」
「いいや、煙草じゃないわ… けさ、お祓いの儀式をするためにお香を焚いた時にもこれと同じ匂いが…」
 メイドさんたちは頭がクラクラとしてきた。「…これは、魔女が使う『毒の煙』かもしれないわ! もしかして、森のほうから漂ってきている?」
 ブライディーはハンカチで口元を覆った。風はほとんどない。
「えーっ、『毒の煙』?」
 デイジーは擂り粉木でフライパンをガンガンと叩き続けた。
「みなさーん! 気を付けて下さい! 魔女のミルドレッドが嫌がらせで毒草をいぶしているみたいです! 早く森より風上に避難してください!」
 街なかでも一ブロック四方に響き渡るような大声は、デイジーの取り柄の一つだった。 ましてや何もない平原ではドロヘダの町まで聞こえたのではないか、と思われるほどの叫びだった。
 ナンシー先生はテントから飛び出してエイリアの手を引いて風上に走った。マルカム卿は駆け寄ってきたエイリアをしっかりと抱きしめた。
 トーマスは
「みんないるか? 逃げ遅れた者はいないか?」
 助手たちを見渡して訊ねた。
「ヒギンズさんがいません」
「そうだ、ヒギンズさんが…」
「手分けして探そう!」
 トーマスは手早く助手たちを何組かに分けた。
「先生たちやエイリアさん、ブライディーさんたちはここで待っていてください!」
 そう言い残すと、自分もそのうちの一隊に加わって走り去った。
「いらっしゃいません!」
「本人のはもちろん、どのテントにも見あたりません」
「森のほうでしょうか?」
「そうだな。一斑は森へ! じゅうぶん気を付けろよ! 二班は…」
 トーマスの視線の先にはニューグレンジの遺跡への入口があった。

「森でなければこの中しかありませんが…」 トーマスはマルカム卿の顔を見た。
「両方とも考えにくいな。ヒギンズは誰彼にせよ勝手に持ち場を離れたらひどく怒った。その彼が、誰にも断らずに森に入ったり、遺跡に入ったりするだろうか?」
「いまから調べてみましょう。先生は外で…」
「いや、わしも行く。これでも責任者だからな」
「あたしたちもご一緒させて頂きますわ。こんな時のためにロンドンから来ているのですから… デイジー、貴女はどうする?」
「もちろん行くわよ! ヒギンズさんを見つけてお助けして貸しにするわ!」
 ランプを掲げたトーマスを先頭に、マルカム卿とメイドさんたちがニューグレンジの岩のドームのトンネルの中に入った。
 午前中、マルカム卿の案内で入った時にはしなかった煙の匂いがした。
「もしかしたら、毒草は昼から森の奥で焚かれたものかもしれません」
 ブライディーは手のひらで口元を押さえながら言った。

 四人はランプを掲げながら一歩一歩慎重に進んだ。
「誰か、いらっしゃいませんか? いらっしゃったら返事をして下さい!」
「ヒギンズ君、いるのか?」
 トーマスとマルカム卿の声がトンネルに響く…
 両側の壁には、メイドさんたちの目には相変わらず、それこそ何か魔法を使えばどこか、とんでもない別の世界へ行けてしまうような、額縁に似たいくつもの四角形が映っていた。
「お姉ちゃん、ヒギンズさんはこの扉のうちの一つを通ってどこかへ言ってしまったんだろうか? それとも、扉を通ってきた者に、どうにかされてしまったんだろうか?」
 デイジーはひそひそ声で言った。
「分らないわ…」
 ブライディーは一言答えた。
 脇にある、曰く因縁のありそうな小部屋が照らされると、ブライディーは思わず目をそらせた。デイジーは目をつむりかけながらもシッカリと見ていた。
「何よ、お姉ちゃん、怪物が現れるか、それとも死体でもあるような顔をして…」
「何かとても嫌な予感がするわ…」
「そんなこと言わないでよ! あたしまで震えが移るじゃない!」
 四人はとうとう一番奥の、擂り鉢状に掘られた岩のある部屋まできた。
 トーマスが恐る恐るランプの灯りを近づけると、そこには、顔や身体一面に刺青をし、片手に渦巻きの文様の入った楯を持ち、片手に青銅の剣を持った、ケルトの鎧を身にまとったヒギンズが血走った目をこちらに向けて横たわっていた。
「キャーッ!」
 デイジーは思わず悲鳴を上げて腰を抜かした。
 ブライディーはあまりの怖ろしさのせいか、それともある程度予期していたことだったのか、こわばったまま古代の戦士をじっと見つめていた。
「ヒギンズ君、一体どういうつもりかね?
 我々がデモンストレーション用に作ったレプリカの衣装なんか着て? もしも冗談だとすれば、笑えない冗談だぞ!」
 マルカム卿はあからさまに不愉快そうな表情になった。
「ヒギンズさん、何の真似ですか? 真面目なあなたがこんな恰好でこんなところにいるなんて、思いもよりませんでしたよ」
 トーマスがヒギンズの、槍を持ったほうの腕に触れた。その腕は、冷たく固まっていた。
「ヒギンズさん、まさか?」
 衝撃が加わった拍子に、扮装したヒギンズの身体がそのままごろりと転がった。
「し、死んでる…」
 デイジーがまた悲鳴を上げた。
「何かあったんですか?」
「どうかしたんですか?」
 最初の悲鳴を聞きつけて他の助手たちが入ってきた。その中にはナンシー先生の姿もあった。
「…ヒギンズ君、なぜまた君がこんな目に遭わなくてはいけないんだ? お堅いはずの君がどうして?」
 マルカム卿はうめくようにつぶやいた。
 ナンシー先生もまっ青になった。
「ナンシー先生、エイリアちゃんをお願いします。ショックを受けないように…」
 トーマスが頼んだ。
「え、ええ…」
 ナンシーは踵を返して出口に向かった。
 ヒギンズは喉を後ろからナイフのようなものでかき切られていた。喉はパックリと開き、大量の血が流れた形跡があった。
「これは明らかに顔見知りの…親しい人の犯行ね!」
 デイジーがキッパリと言った。
「えっ?」
 みんなが目を見張った。
「だってそうでしょう? こんな衣装、殺してから着させるのは大変よ。血だらけになっちゃう。…従って、ヒギンズさんは、この衣装を殺される前に着たのよ。それも恐らく誰かに頼まれて、自分でね」
「ううむ…」
「そう言われればそうとしか考えられない…」
 マルカム卿はうなり、トーマスはしきりに頷いた。
「…ヒギンズさんは気難しい、神経質な人だった。そんな人は、見知らぬ誰かが後ろからナイフを抜いて近づいてきたら逃げ出すと思うわ」 デイジーは続ける。「きっとヒギンズさんが気を許しているか、頭の上がらない人に『ちょっと着てみてください』と頼まれて、『お芝居の稽古です』とか言われて、そのままバッサリ…」
「そうかも知れない…」
 マルカム卿は認めた。
「でも変だわ」 ブライディーが口をはさんだ。「気難しい、真面目な人なら『誰かほかの人に頼んで下さい。私はまっぴらごめんです』と断りそうなものよ…」
「お姉ちゃん、お姉ちゃんの占いで、犯人を突き止められないの?」
「それはやってはいけないことだわ…」
「とにかく遺体を運び出そう。それから警察に連絡だ」
 マルカム卿が皆に指示を出した。

 ニューグレンジの駐在さんは、なんとか自転車に乗れるくらいのかなりの年配だったが、馬に乗った医者も連れてきて、ソツのないところを見せた。
「うーむ、この刺青は本当の刺青ではなくて、ただのペインティングですね」
 駐在と医者はショボついた目を見合わせて言った。
「それはそうでしょう、昼食のサンドイッチをみんなで食べた時、ヒギンズさんは普通の姿で、普通の顔をしていました」
 トーマスは憮然として言った。
「…いまは二時半、遺体の発見が二時頃、発掘チームのお昼休みが一時から二時頃まで、ということで、死亡推定時刻もそれくらいですなぁ…」
 医者はのんびりしていた。
「…このペインティング、かなり凝っていると思うのだが、描くのに小一時間はかかっているような気がする」
 マルカム卿が言った。
「そうですなぁ… 例えば首の後ろとか、たとえ合わせ鏡を使ったとしても、一人ではこんなにきれいに塗れない部分もありますから、誰かに塗って貰ったんでしょう。そいつがおそらく犯人です」
(田舎の駐在さんにしたらいい推理ね)
 デイジーは生唾を飲み込みながら検視の様子を眺めていた。
「トーマス君、ヒギンズ君のテントにボディ・ペインティング用の絵の具や絵筆がないか確かめてきてくれたまえ」
 マルカム卿が言った。
「かしこまりました」

「ねぇねぇ、お姉ちゃん、誰が犯人なのかな?」 デイジーはブライディーの耳元に囁いた。「…魔女のミルドレッドなら動機はあるよね。彼女、調査隊全体を『遺跡を荒らすヤツ』と恨んでいた。行方不明のヘンダーソン卿も怪しいよね。ヒギンズさんはヘンダーソン卿とマルカム卿のお二人の財産や、調査にかかるお金を管理されておられたのでしょう? もしもいまメインで仕えているマルカム卿にいいように、ヘンダーソン卿に損なように帳簿を操作していたら、ヘンダーソン卿は怒っていると思うわ…」
「シーッ、推理や憶測で滅多なことは言えないわ…」 大きなメイドさんはほんのかすかに小首をかしげた。「…問題は、気難しくて文句言いで、芝居っ気なんかさらさらないヒギンズさんが、どうしてあんな恰好をしていたのか、ということよ…」
「だからそれは呪いなのよ!」
 デイジーは目を吊り上げた。
「メイドさん、それは違うよ」 駐在は入れ歯をスースーさせながら言った。「呪いとかそんなものはありゃせん。幽霊とか、そういうものはむしろロンドンに多く出るんじゃあないかね? わしらアイルランド人に、遠い遠いご先祖様がバチを当てるはずなどなかろう? かわいい子孫じゃてな」
「でもヒギンズさんはイングランド人よ」
「しかしケルトの戦士の扮装をして殺されておる…」
「そうよ!」 デイジーは大きく頷いた。「…ヒギンズさんは誰かを脅かすつもりだったのでは?」
「それはどういう意味でしょうか?」
 ナンシーがおずおずと訊ねた。
「ヒギンズさんは、この扮装で一番奥の部屋で待受ける… ペインティングを手伝った犯人が、脅かすターゲットの人に向かって『奥の部屋に何か忘れた。取ってきてくれないか』と言う。その人はそれを取りに行く… そしてケルトの戦士に扮装したヒギンズさんがたっぷりと脅かすか、もしくは聞き出したいことを訊ねる… 相手が腰を抜かして答えてくれたら儲けもの… ターゲットがほうほうのていで逃げ出したら、ヒギンズさんはヘンダーソン卿が脱出したのと同じ方法で消える…
 何か毒草をいぶすような匂いがしたのは、相手を洞窟の中で朦朧とさせる効果を高めるために違いないわ…」
「いい推理だが…」 マルカム卿が口をはさんだ。「それだったらヒギンズが一番脅かしたがっていたのはデイジーさんにブライディーさん、貴女がただ」
「えっ?」
「…エイリアの頼みとは言え、祓い師をロンドンから呼ぶことについては、わしもヒギンズからさんざん嫌味を言われたよ。『無駄遣い』だと… もしも犯人にトンネルの奥へと呼び出されるターゲットが貴女がたで、扮装したヒギンズを見て…毒の煙の演出もあって…泣き叫び、這々の体で逃げ出したら、ギャラを払わなくて済む… みんなにも、エイリアにも『ほら見て下さい、とんでもないインチキ霊媒だったでしょう』と言える」
「そのことをヒギンズさんに吹き込んで、『ペインティングを手伝ってやる』と言った人が犯人ということですね…」 ブライディーが静かに言った。「…犯人の目的は、もちろん、わたしたちを脅かすことではなくて、ヒギンズさんに味方のフリをして油断させて殺害すること、だったのでしょう…」
「するとお姉ちゃん、あたしたちはダシにされた、またされるかもしれない、ってこと?」
「ええ。大いにあり得るわ」

 その場で簡単な事情聴取が行われ、ブライディーもデイジーも駐在さんが作った走り書きにサインをした。
 マルカム卿とトーマスは、ヒギンズの遺体に付き添ってドロヘダの町まで行って、今夜は帰らない、ということだった。
 ほかの助手たちをはじめ、確固としたアリバイなどがある者は一人もなく、時間的には誰もが犯行に及ぶ機会があったらしい…
「でもヒギンズさんが、あんな派手な恰好をして遺跡の前をうろうろしていたのなら、誰かが見とがめると思うわ」 ションボリとジャガイモや、玉ねぎや、にんじんの皮を剥きながらデイジーがつぶやいた。「…遺跡の中で犯人と一緒にコスプレをしたか、それともやっぱりあの入口以外に、トンネルの中と外を結ぶ通路があって、ヘンダーソン卿とヒギンズ、それに犯人は、そこを通って行き来したのよ!」
「そうね…」 ブライディーは暮れなずんでいくニューグレンジの晩夏の空を見上げた。
「…犯人がわたしたちの仲間で、入口付近でうろうろしていても目立たない人だとしても、ヒギンズさんが着せられていた鎧や兜の入った大きな袋を下げていたら、やっぱり目だってしまうと思うわ」
「…でも変ね… ヒギンズさんはあたしたちに『お宝が隠されているような秘密の部屋か通路があったら探し出してくれ』と命令していたのよ。自分が知っていてあたしたちを脅かすためにコッソリと行き来するつもりだったら、そんなこと頼む必要ないし、あたしたちが見つけてしまったら逆に都合が悪くなるんじゃあないの?」
 遺跡に夕陽が差して、岩のドーム全体がオレンジ色に輝いた。
「…やっぱりヒギンズさんは普通の服を着て、普通の入口からさりげなく入っていったのよ。そこへ、特別な通路を通って、鎧兜や絵の具を持って待っていた犯人がいたのよ」
「デイジー、なかなかの名推理だけど、シチューの味付けを間違わないでね。今夜はマルカム卿とトーマスさんのお二人がいらっしゃらなくて、その分少ないのよ…」
 仕上げ直前に入れるキノコが籠の中でほのかにいい香りを立てていた。
「エッヘン! あたし、ドイル先生の『シャーロック・ホームズ・シリーズ』を愛読しているもんね!」
 とそこへ、エイリアの手を引いて小脇に教科書を抱えたナンシーがやってきた。
「ブライディーさんにデイジーさん…」
 と、ナンシーはデイジーが籠を鍋のそばに持っていって入れようとしているキノコを見てはたき落とした。
「な、何をするのよ先生!」
「デイジーは血相を変えた。
「これは食用の榎茸にソックリだけれども、毒茸ですわ」
「えっ!」
 メイドさんたちは身をすくめた。
「『毒茸』とは言っても、死んでしまうほどの毒ではありません。たくさん食べ過ぎるとお腹を壊してしまう程度です」
 ブライディーが地面に落ちた茸を見比べると、なるほど、傘の裏の色や具合がかすかに違っていた。
「申し訳ありません。わたしとしたことが…」
 ブライディーは平謝りに謝った。
「この毒茸はアイルランドでもこのあたりだけにあって、数自体も稀で、地元の人でも食べてしまうことがあるんです」
 ナンシーは穏やかに言った。
「あたし、お腹を壊すところだったの?」
 エイリアが先生を見上げた。
「ごめんなさいね、エイリアさん…」
 大きなメイドさんは膝をつき、エイリアの手を取って謝った。
「そんなの、仕入れてきた人が悪いのよ」 デイジーがポソッと言った。「おまけについさっきあんなことがあったから、気持ちも浮ついていたし… 普段はお姉ちゃんも茸取りと料理の名人なんだよ」
「デイジー、言い訳は良くないわ… 確かに、この地方にそんな茸があるというのは聞いたことがあるわ。わたしの不注意よ…」
「そんなにご自分を責めないでください。間一髪間に合って、もう済んだことですわ」
 ナンシーは優しく言った。
「…でも、でもナンシー先生はイギリスのかたなのに、アイルランドの田舎の珍しい毒茸のことをよく知ってましたよね」
 デイジーは意地悪っぽく訊ねた。
「え、ええ… わたしは植物のことが大好きで、マルカム先生が調査される先の植物の図鑑をしっかりと勉強しているんです」 先生は眉根を潜めた。「…でも、エジプトやメソポタミアのような砂漠は、さすがに植物の種類は少なくて、あまり勉強のし甲斐はないんですけれど…」
(食べたり燻したりすると幻影を見るようなキノコもご存じではなくて?)
 さすがのデイジーも言いかけて言葉に出すことはできなかった。
「ところで、お願いがあるのです」
 ナンシー先生は、地面に散らばった毒ではないキノコを集めるのを手伝いながら言った。「今夜から貴女がたのテントをわたしたちのテントに近づけてお休みになってくださいませんか? 助手たちに命じたら、やってくれると思うのですが…」

 テントの移動を、トーマス以外のほかの助手たちに頼んだところ、彼らは「おいしい献立の御礼ですよ」と快くやってくれた。
 危うくお腹を壊すキノコを食べさせられるところだったとはつゆ知らず…が、これは言わぬが花だった。
「寂しいんだったら、そちらがこっちらに近づいてくればいいのに…」
 デイジーはぶつぶつ言いながら旅行鞄を背中に背負って運んでいた。
「ねぇデイジー、マルカム卿とトーマスさんのお戻りは早くても明日の午後になるでしょうし、お二人が帰られるまでは調査も開店休業だと思うから、明日の午前中に、トンネルの中のゲートやその他のことを二人で調べてみない?」
 ブライディーは毛布にくるまりながら話しかけた。
「いいわよ。あたしたちはそのために来たんですもんね」 デイジーはあくびをかみ殺しながら答えた。「…行方不明のヘンダーソン卿も探してあげなければいけないし… もっともヘンダーソン卿がヒギンズさん殺しの犯人なら、隠れて出てこないでしょうけれど」
「かつての主人とは言え、ヘンダーソン卿が鎧兜を差し出して、『ヒギンズ君、一つメイドの連中を脅かしてやろう。これを着てくれ』と頼んだら、ヒギンズさんは聞くかしら?」
「愚問ね。お休みなさい…」
 小さなメイドさんは頭から深く毛布をかぶった。
 小さなエイリアを思ってのことだろうか、隣のナンシーのテントは夜の早いうちから灯りが消えていた。

 翌朝、メイドさんたちは朝早くからパンを切り分け、野菜でサラダを作り、紅茶を淹れ、大きめのフライパンで次々に卵を焼いた。
 二人に賄いの仕事も頼んだヒギンズが殺されていない、というのは皮肉だったが、それでも忙しく手を動かしていると気が紛れてアイデアも出てきた。

 後かたづけは助手たちに加えて、ナンシーやエイリアも小さい手で手伝った。
 悲劇があったせいで調査隊の結束は固まったようだった。
「それでは、あたしたちは遺跡のトンネルの中の、摩訶不思議な通路が使用可能か、可能ならどこへつながっているのか調べてくるわね」
 デイジーは胸を張った。
「気を付けてね…」
 エイリアは祈るように両手を合わせた。
「マルカム先生やトーマスさんが戻られるまで待たれてはどうでしょうか?」
 ナンシーも不安そうだった。
「お二人が戻られるまでに解決しちゃうわよ!」
 小さなメイドさんは大股で先陣を切った。

 トンネルを少し進んだところにある四角い、額縁のような幾重もの枠線は、ブライディーとデイジーの目には、どれも生き物のようにゆらゆらと揺らめいて見えた。
 中にはその先に、藁の三角屋根を乗せた、円筒形の古代ケルト民家がチラチラと見えているものもあった。
「どうする、お姉ちゃん、どれか一つに飛び込んでみようか?」
「そうね、でもどの時代、どの次元に飛び込めばいいのか… ヘンダーソン卿が赴いた場所があるのなら、それを占ってみるわ」
 ブライディーは黄金のダウジングの棒を取りだして、遠い過去から連綿と続く魔術の系譜を嗣ぐ者として掲げた。
「そうそう、お姉ちゃんはそれがあったんだ! すっかり忘れていたわ!」
 黄金の棒の少し曲がった先は、例の何かの儀式が行われていたとされる小部屋の奥の壁を指した。そこにも四角い額縁が浮き出ていて、ケルト人の部族同士の争いだろうか、鎧兜を身にまとい、全身に刺青をした戦士たちが干戈を交えて戦っている場面が断片的にのぞき見えた。
 剣が、槍が、戦斧がやられた者の肉を引き裂き、骨を絶ち、血しぶきが飛んでいる…
「お姉ちゃん、ちょっと待ってよ! いきなりあんな世界に行ってしまったら、戦いに巻き込まれて殺されてしまうかもしれないわ! 
 こちらも、せめて鎧兜くらい着ていかないと…」
「それよ、デイジー、それよ!」
 ブライディーは手にした棒を取り落とさんばかりにはたと手を打った。
「な、何よ、ビックリするじゃない!」
「ヒギンズさんがレプリカの鎧兜を付け、本物の刺青に見せかけたボディ・ペインティングをしていたのは、ケルトの戦士の亡霊になりすまして、わたしたちや、他の人たちを脅かすつもりなんかじゃあなかったのよ!」
「じゃあなんで?」
「ペインティングしてくれた誰かの力で時空を越えて、一時的に過去に旅行するつもりだったのよ。『向こう』へ行ったとき、現代のファッションをしていたらたちまち怪しまれるでしょう? だから、工夫をしたのよ」
「なるほど… でも無事に帰ってこれるという100パーセントの保証がないのに、どうしてそんな危険なことをしたのかな、ヒギンズさんは?」
 デイジーは首をひねった。

「…そうね、どうしても大昔の世界に会いたい人がいる、調べたいことがあったんじゃあ…」
 ブライディーと万華鏡のように様子を変える岩壁に映る風景を覗き込みながら言った。「でも、研究担当の秘書のトーマスさんならいざ知らず、経理などの実務担当のヒギンズさんが、ケルトの古代史について、どうしても知りたいことなんてあるのかな? それでなくても黒魔術には否定的だったのに… 行方不明のヘンダーソン卿を捜しに行くつもりだった、というのなら話は分るけれど、それだったらあたしのように『時空の扉』を開く『力』のある人に、それこそ古代の衣装を着て捜しに行ってもらって、連れ戻してもらったほうが簡単なような…」
 デイジーは、とある額縁のような枠の左右の線に両手を当てて、まるでゴム紐でできた枠を広げるみたいに広げた。
 覗くことができる面積が大きくなった「向う側」では、壮絶な合戦の光景がまだまだ繰り広げられていた。
 敵の戦士の首をいくつも切り取って、その髪の毛を束にして見せびらかす者、戦利品の剣や盾が積み上げられ、村の藁葺き屋根のそここに火が放たれた。
 どうやら想像するところ、攻めてきた側が村の攻略に成功したようだった。
 そここで虐殺や略奪が行われ、金か銀や宝石や、宝飾品が攻撃軍の大将らしい立派な鎧を着た大男の前の岩の上に積み上げられた。「分ったわ! なぜヒギンズさんが、同じ古代の衣装でも、ローブのような普段着じゃなくて、鎧兜を着ていたのか…」 ブライディーが小さく叫んだ。「…戦場に紛れ込んで、あの宝物のうちの…全部は無理でも…いくつかを、自分のものにするつもりだったんだわ」
「なるほど、さすがはお姉ちゃん! じゃあヒギンズさんが魔法にケチをつけていたのはカムフラージュで、後になって『魔法でこのニューグレンジの遺跡のお宝を見つけてください』と頼んでいたほうが本音だったのね…」
「ええ、きっとそうよ。ヒギンズさんは何かの理由でお金に困っていた。おそらく、先に一人でトンネルに入ったヘンダーソン卿もお金に困っていて、ヒギンズさんと同じことを考えた… そうでないと一人で行くはずはないわ。黒魔術仲間と行って山分けしても、宝物はじゅうぶんにあったはずだし…」
「それにヘンダーソン卿は探検用の服装で行ってるじゃない、おかしいわ。『怪しいヤツ』ということで、たちまち捕まって処刑されたのかな?」
「何人かが見ている前で鎧兜姿で行く訳にはいかなかったのよ。それこそ『向う側』に行けるかどうか、ちょっとだけ試してみるつもりだったのでは…」
「でも行ってしまわれてそれっきり… いきておられるものやら、亡くなられているものやら…」
 デイジーは両手を広げ、肩をすくめて見せた。
「…でも問題は、最初に戻って、どなたがヒギンズさんを殺められたか、よ…」
 ブライディーは焼け落ちる村から目を背けた。
「決まっているじゃない。ヒギンズさんを焚きつけた人がいるのよ。『お金に困っているのなら、手に入れる方法がないこともありませんよ。ただし、もちろんそれなりに危険が伴いますよ』って…」
「その焚きつけた人は、デイジー、貴女みたいに時間と空間のゲートを広げて見せたりすることはできても、本人はお金には困っていない人なのかしら? もし魔術師本人がお金に困っていたのなら、戦士に扮装したヒギンズさんが、首尾良く宝物を手に入れて帰還してから殺めて、独り占めする、ということも考えられたような…」
「いえ、それはないと思うわ、お姉ちゃん」 デイジーは自信を持って言った。「もしも上手く宝物を持ち帰ることが出来たのなら、ヒギンズさんは用心されるでしょう。いきなり後ろからバッサリやられて独り占めされはしないか、と… だから、『ヒギンズさんを殺すことだけが目的』だったら、出発前が確実だったはずよ! (どうせあんな戦乱の中に潜入したら、無事で帰れるはずがない)と、良心の呵責も感じずに済むし…」
「それよ!」 大きなメイドさんは思わず小さなメイドさんと顔を見合わせた。「何が何でもヒギンズさんを古代の戦場に送り込めば、直接自分で手を下さなくても、巻き添えの流れ矢に当って勝手に死んでくれる確率が高いというのに、また、ヒギンズさんを『向こう』に置き去りにしたまましらんフリをすることもできたのに、犯人はどうして危険をおかして自分で手を下したのかしら?」
「だからそれは、ヒギンズさんが、思いの外うまく立ち回って、お宝を持って帰ってきたときにやりにくくなるでしょう? 置き去りは、ヒギンズさんが一生懸命『向こうの世界』で努力して、それこそ必死で黒魔術を学んで、自力で帰ってきた時に困るでしょう? それこと『よくも追放しようとしたな!』って恨まれて復讐されるかもよ!」
「『復讐』それに違いないわ! 犯人は、ヒギンズさんを古代の兵士なんかに殺してもらいたくはなかった。自分で罰を下したかったのよ…」
「かもね…」
 デイジーは初めて渋々ながら同意した。

「…それで、ヒギンズさんを殺めたのはだれなのよ、お姉ちゃん?」
「だから、そこまでは分からないわ。この時空の壁を通り抜けて『向う側』へ行けば分かるかもしれないわ」
「恐ろしいことを言わないでよ! 現在、このゲートの向こうでは血で血を洗う戦争の最中なのよ。いのまこの服を着ていっても、寝間着のような古代の衣装わ着ていっても、なぶり殺しにされるのは目に見えているわ。仮に拳銃を持っていったとしても、多勢に無勢、五、六発撃って、弾丸を込め直そうとしている時に斬られてしまうに違いないわ」
「そうね… でもヒギンズさんは行こうとし、ヘンダーソン卿は彼に先立って赴かれた…」
「だからそれは、大変お金に困っておられたからよ。一か八か、まとまったお金を手に入れなくては裁判に訴えられて、地位と名誉も失うかもしれなかった。だから…」
「だったらやはり、いずれわたしたちが『向こう』の戦場の世界に行くより他に手だてはなさそうね」 ブライディーは眉をひきしめた。
「そんな… みんなが引き留めるのに決まっているわ」 デイジーは苦笑いした。「これ以上犠牲者を出す危険性を高めてどうするのよ?」
「でも、ヒギンズさん殺害の犯人を野放しにしてどうするのよ? 新たな生け贄を求めてさまよいはじめたりしたら?」
「『犯人は時空の扉をくぐって行方不明のヘンダーソン卿』…そういうことにしておきましょうよ。
『ヒギンズ君、君はわしの研究資金を使い込んだそうじゃが、目をつぶってやれないこともない。ただし、わしの言う通りにするのじゃ。いまから古代ケルトの戦士の衣装に着替えて、このニューグレンジ遺跡のトンネルの、時空の扉を通って、たったいま部族同士の戦が繰り広げられている村に赴き、どさくさにまぎれて財宝のいくらかを盗んでくるのじゃ。そうすれば訴追は思いとどまってやるぞ』…なんちゃって」
 デイジーはジェスチャーを交えて、卿を演じて見せた。
「でもデイジー、その説だったらヘンダーソン卿は、とりあえずいったん私たちの世界に戻ってきていることになるわよ」
「だから帰ってきておられるのよ。…でもって、『続け様に二度も行くのはヤバい。今度こそ戦の巻き添えで殺される。…そうだヒギンズに行かそう! わしは奴の弱みを握っている』…で、ペインティングしているうちに、だんだん腹が立ってきて、『ええい、やっぱり腹に据えかねる! いまここで殺してやる』って…」
「何か説得力ないわ…」
 ブライディーは首を横に振った。
「いま、このメイドの服のままでくぐれる時空の扉はないかしら?」
 再びダウジング棒を掲げて、トンネルの中を進んだり戻ったりしてみた。
「…そうね、このニューグレンジの森の奥のさらに奥へと続いている扉なんかどうかしら?」
 棒が指しているのは、これ以上はないくらい鬱蒼とした木立と茂みだった。
「あたしの術が使えるのは一日一回限りだけれど、だったらきょうはここへ行ってみましょうよ! いまの世界で、しかもニューグレンジなのだったら、最悪でもお姉ちゃんのダウジングで、『歩いて』みんなのいるところへ帰ってこれると思うわ」
「そうね。わたしも、もし試すのなら、一番近いところから試してみるのが無難だと思うわ」
 デイジーは両手で大きく弧を描き、手刀で丸く切り抜く仕草をした。岩壁がゆらゆらと揺らめいたかと思うと、二人はあっちにも、こっちにも半ば崩れかけた石碑や石柱が目に付くニューグレンジの森に立っていた。
「これでよく分ったわ。やはりヘンダーソン卿はこういうことで『どこかの世界』へ行ってしまっているんだわ」
 チラリと後ろを振り返ったブライディーの眼に、いま出てきた丸い穴が急速に閉じていく光景が映った。
「それは分らないわ。さっきの話のように、自力で帰ってきておられるかも…」 と、デイジー。
 ブナやニレの大木の根本には、アイルランドでも珍しい、茶色や黒色の傘の珍しいキノコが、いろいろと生えていた。
 白くて小さくてフワフワしたマッシュルームみたいなものもあれば、トリュフのようにほとんど地中に埋もれていて、かすかに傘を覗かせているものもあった。
「これだけ種類があるのなら、ナンシーさんの言うように『一見食用とソックリなのに、実は毒キノコ』みたいなものもあるでしょうねぇ…」
 デイジーは時々腰をかがめて観察した。
「触ったりして刺激を与えると、胞子がパーッと飛んで、その胞子が毒、というのも稀にあるから気を付けて」
 言いながらブライディーも、珍しい薬草や薬になるキノコを見つけると摘んでポケットに入れていた。
 細い細い文字通りの獣道を、枝を掻き分けながら進むと、少しだけ開けたところがあり、赤い煉瓦造りの、おとぎ話に出てくるような家があった。
「誰の家かな? もしも土地の魔女ミルドレッドの家で中にいたらとっちめてやるのに…」
 デイジーは腕をまくりながら、窓のガラス越しに中を覗き込んだ。

 居間には誰もいなかった。
 年代物のテーブルや椅子、カーペットには遠目にもうっすらと埃が積もっていた。
 サイド・テーブルの上の籠には、ミルドレッドが摘んできたと思われる各種の薬草がしおれている。
 その隣の籠にはいろんなキノコが入っていた。
「やっぱり毒茸を燻していたのはこの家の主だよ!」
 デイジーはさらに舐めるように眺めた。
 古文書らしい巻物や写本が並べられた小さな本箱があり、空いたスペースにメモらしいものが長い釘を逆さにした「メモ刺し」に何枚も刺されていた。
 日記らしいものは見あたらなかった。あったとしても持ち去られていたようだった。
「あれを調べたら、何か分るんじゃあ?」
「でも、もし敵だと思われていたら中へ入れてくれるはずなんかないし…」
「とりあえずノックしてみようよ!」
 ブライディーが止める前に、デイジーは古びた樫の木のドアをドンドンと叩いた。
「こんにちわ! 誰かいませんか?」
 返事はなく、代りにかんぬきの掛かっていなかったドアがギィーッと開いた。
「…こんにちわ! 失礼します! 入れて頂きますよ!」
 デイジーはスタスタと進んだ。
 台所のかまどにかかった鍋の中の料理が腐って異臭を漂わせていた。パン籠のパンには黴が生えていた。
 寝室にも人影はなく、クローゼットを開くとドルイド教女祭司の儀式用の白いローブなどが掛けてあった。
「…もう間違いないよ。ここはあたしたちがお祓いをした時に、脅かしに出てきたミルドレッドの家だよ!」
「どうもそうみたい… でも、何かひどく腐っているような匂いが…」
 ブライディーがハンカチで口元を押さえると、デイジーも倣った。
「台所の食べ物だよ」
「いえ、これは食べ物がどうにかなったような臭いじゃないわ」
 さすがにもうダウジングの棒も必要ではなかった。臭いがするほうにそろそろと進むと、半開きのドアがあった。
「失礼しますわよ!」
 ドアを押した途端、デイジーはくるりとブライディーのほうに向き直った。悲鳴を上げることさえ忘れたその瞳は恐怖に歪んでいた。
「お姉ちゃん…」
「デイジー、貴女はいいから、廊下に出ていなさい!」
 そこは水浴に使う部屋で、大きめの金のたらいに半身を漬けた全裸の中年の女性が、かつては水だった…いまは汚水の中で朽ちつつあった。
「ねぇ、ミルドレッドさんかな?」
 廊下から、吐き気を懸命にこらえながらデイジーが訊ねた。
「ええ、そうみたいね…」
「お姉ちゃん、そんなものをまともに見てよく平気でいられるわね」
「仕方がないじゃないの。見つけてしまったんだから…」
 ブライディーは潜る時と同じように息を止めながら遺体を見た。
(…鋭い刃物で背後から首を一突き、ヒギンズさんの時と同じ手口だわ…)
 二目と見られぬような顔を恐る恐る見ると、気のせいか恐怖や苦痛の表情は浮かべていないような感じだった。
「でも、ミルドレッドさんだとすると、変だよ!」
 デイジーがまた廊下から叫んだ。
「それはそうね… この遺体はどう見ても死後一週間前後は過ぎているのに、わたしたちはつい昨日、ミルドレッドさんに脅かされているんだから…」
「の、呪い、かな?」
「いえ、そうじゃないわ。誰かがミルドレッドさんを殺めて、なりすましていたのよ」
 ブライディーは一歩一歩後じさりして廊下に出てドアを閉めた。
「なぜまたそんなことを?」
 デイジーは先頭を切って居間に戻りながら訊ねた。
「推測だけれど、ミルドレッドさんはお金が目当てだったのよ。最初断ったのは、マルカム卿やトーマスさんと交渉して報酬をつり上げるつもりだったのだ、と思うわ」
 二人は居間のメモ刺しに刺されたメモを一枚ずつ抜いて読んでみた。
 ドロヘダの町での買物の領収書、ニューグレンジ近辺のドルイド教祭司仲間の、『次の集会はいつにするか?』 問い合わせの覚え書き、恋占いの依頼状…
「…ダメね! 今回の事件に関係のあるメモは持ち去られているみたいだわ!」
 デイジーはメモを揃えて再びメモ刺しに突き刺そうとした。
「待ってデイジー」
 ブライディーはその束を受取って、窓に透かしてみた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「このメモ、全部穴が一つしか開いていない… 犯人が物色して、自分に関係のあるものは持ち去って、残りを元に戻したのなら。何枚かは『穴が二つ開いた』メモがないとおかしいはずよ!」
「それは分らないわ。犯人は自分のことがかいてあるメモをポケットにねじ込んだあと、手間を嫌がらずに、一枚一枚、一度開いた穴をメモ刺しの釘に通したのかもしれなくてよ。時間はたっぷりあったはずだし…」

「でも、そんなことは調べようがないわ」
 小さなメイド名探偵はむくれた。
「とにかく一度みんなのいるところ引き返しましょう。貴女の術は『一日一度限り』だから、わたしのダウジングで歩いて帰りましょう」
 ブライディーに促されてデイジーも外へ出た。
「…遠かったら、嫌だなぁ…」

 幸い、魔女の家からキャンプ地まではそう遠くはなかった。体感で二、三マイル、一時間少し、というところだった。
 歩きながら二人はあれこれと推理を巡らせた。二人とも異論のないことは、
「ヘンダーソン卿は、黒魔術の時空を越える術が使える。もっとも行き先は不明」
「いまのところ真犯人にその術が使える、という確証はない。なぜならヒギンズさんは古代の戦場に赴く前に殺されており、犯人の『送り届けてやる』はハッタリだったのかもしれない」
「犯人は女性か? なぜならミルドレッドは裸で水浴中に殺されていて、そんな状態で招き入れる相手は女性ではないか?」
「幻覚を起こしやすくなる毒キノコを燻すのは真犯人。ブライディーたちのお祓いの式場に現れたのもミルドレッドに化けた真犯人」
 と言うことぐらいだった。
「だったら、ナンシーさんが怪しいわね。お祓いの儀式の時に気分が悪くなって中座したでしょう? テントの裏か、地面の下の『時空の出入り口』から森へと抜けて、自分が殺したミルドレッドさんに素早く変装して、脅しに現れたのよ。誰もおとなしいナンシーさんと、鬼女のようなミルドレッドさんとが同一人物とは思わないでしょう?」
 深い森の中、デイジーは金箔のようなこもれびを受けて歩きながら言った。
「今回の貴女は冴えているかも…」 ブライディーも認めた。「でもどうしてナンシーさんがミルドレッドさんを殺さなくてはいけないわけ?」
「二人はむかし、親友同士だったのよ。ともに魔法の修行をした仲間だから、裸を見られても何とも思わない… だから来訪があった時、裸であったのにもかかわらず招き入れたか、順番に水浴中に… 動機は…何かのトラブルよ」
「でも、証拠も何もないのに問いつめるわけには… じゃあ、ヒギンズもナンシーさんが?」
「たぶんそうよ。警察に調べてもらえれば、ナンシーさんはヘンダーソン卿ゆかりの人だということが分るかも… 『少々危険が伴いますけれど、使い込みがバレないようにする方法がありますわ』、て煽ったのよ。で、実はやっぱり何か恨みがあって…」
「でも、ナンシーさんは、わたしたちに、『近くにいてください』と、テントを近づけてくれるように頼んだのよ。連続殺人の犯人がそんなことをするかしら?」
「だから、逆に怪しいじゃない。自分たちのテントの下に、遺跡や森とつながっている『時空空の穴』があるから、動かせないのよ。自分たちのテントは…」
 デイジーは力説した。
「うーん、『当らずと言えども遠からず』というところでしょうけれど、何かシックリこないわねぇ」
「これからは、申し訳ないけれどナンシーさんを重点的に見張ろうよ、お姉ちゃん」

 二人はほどなくニューグレンジの森の一角を抜け、発掘隊のテントが並んだところに帰り着いた。
 マルカム卿とトーマス、それに駐在さんはドロヘダの町から戻っていた。
「わたしたち、見つけたのよ!」
 マルカム卿、トーマス、ナンシー、それに駐在さんがいる前で、デイジーは恐ろしい顔をして劇的に語った。
「…森の中の一軒家で、『本物のミルドレッドさんと思われる女の人』が、全裸で腐乱死体になっているのを!」
「なんだって!」
 マルカム卿の顔が見る見る朱に染まった。
「いくら夏でも一日じゃあそんなに腐りませんよね。じゃあ、ぼくらが昨日、お祓いをやっている時に現れて脅かしたのは誰なんですか? ミルドレッドさんの仲間ですか? それとも嫌がらせのために誰かに雇われた安物の女優ですか?」
 そこに考えが行くだけ、トーマスのほうはまだ落ち着いていた。
「呪いだわ、ニューグレンジに葬られている魂たちの…」 ナンシーは顔を土気色にしてつぶやいた。「…古代の魂たちが怒っているのよ! まず最初にヘンダーソン卿、次にヒギンズさん、そしてミルドレッド… みんな呪われたんだわ!」
「ナンシーさん、しっかりしてください!」
 トーマスは家庭教師の肩を掴んで揺り動かした。「…ヘンダーソン卿とヒギンズさんはともかく、ミルドレッドさんは遺跡の発掘に反対し、報酬の出るお祓いも断ったんですよ! 遺跡に眠る魂たちの味方、みたいな人が、どうしてそんな無惨な最期を迎えなければいけないんですか?」

「エイリアは? エイリアはどこにいる?」 マルカム卿は目を血走らせて辺りを見回した。周囲に広がる森の木の陰、いく梁かあるテントの陰、発掘用の木箱の陰…トーマスを初めとする助手たちが手分けしてくまなく探したが、エイリアは見つからなかった。
「お願いします、ブライディーさん、貴女の占いの力で、どうか一刻も早くエイリアを見つけて下さい!」
 マルカム卿はメイドさんの両手を握り締めた。

 ブライディーがダウジングの棒を取ると、マルカム卿もトーマスも、他の助手たちも固唾を呑んで静まりかえった。
 デイジーだけは油断なく、ナンシー先生の様子を伺っていたが、ナンシーもまたおろおろと取り乱し、その土色の顔はとても芝居をしているようには見えなかった。
 棒は遺跡のトンネルの入口を指した。
「…あの中だと思います」
「しかし、トンネルは隅から隅までぼくたちが調べましたよ!」
 トーマスが叫ぶ。
「…ですから、物理的なトンネルではなくて、トンネルの壁面を経由して行くことができる大昔や別世界、ということだと思います」
「ヘンダーソン卿が消えた世界とか、ですか?」
 マルカム卿の瞳にさらに不安の色が増した。「貴女たちが通ってこられた『森の中の魔女の家』のあるところ、とか?」 ナンシー先生が訊ねた。「それでしたらわたくし、歩いて探しに行きます!」
「もしもあの古代ケルトの村の戦場だったらヤバいよね」 デイジーはブライディーの耳に囁いた。「…でもあたしはきょう『一日一度限り』の術を使っちゃったから、例えどの世界へ行ってたとしても『いますぐ』助けに行くことはできないわよ」
「分っているわ。でもとにかく『どの世界へ行ったか』だけでも確かめなくては…」
 メイドさんたち、マルカム卿、ナンシー先生の四人は小走りに中へ入った。しんがりのトーマスは、他の助手たちが続こうとするのを制した。
「ここはぼくに任せてくれ!」
 岩壁一面に浮かんだ幾重もの額縁のような四角形は、いつもにも増してその数は多く、例の古代ケルトの無の戦場や「森の中の魔女の家」をはじめ、一見したところどこの世界か分らないところまで、浮かんでは消え、消えては浮かんだりしていた。
「おお、これは… 何と言うことだ! やはりこの遺跡はあちこちとつながっていたのか!」
 そしてとうとう、その中の一つにエイリアと思しき少女のシルエットが映し出されているものを見つけた。
 その少女は、何者か大人の女性に手を引かれていた。
「エイリア! エイリア! 戻っておいで! そちらに行ってはいけない! お母さんのほうへ行ってはいけない!」
 マルカム卿は写し絵が映っているような岩壁を手で触れ、通り抜けようとしたものの、弾かれてしまった。
「あの大人の女性のほうは、病気で亡くなられたエイリアさんの母上なのですか?」 ブライディーはあわてた。(もしもエイリアさんが赴こうとしているのが黄泉の国なのだったら、そしてエイリアさん本人が母親と一緒に行こうとしているなら、連れ戻すことは非常に難しくなってしまうわ…)
「エイリア、帰ってくるんだ! ほかはともかく、そこへだけは行っては行けない!」
 マルカム卿の呼びかけは悲痛さを帯びてきた。
「デイジーさんは『一日一度の術を使ってしまって、ブライディーさんは占いの力しかない、ということなら、いまこの情景を写しだしているのは一体誰ですか?」
 トーマスは一同を見渡した。
「すいません、わたくしです! わたくしなんです!」 今度はナンシー先生が岩の敷石に座り込んで泣き崩れた。「…わたくしにはデイジーさんと同じ力があるんです。いつ頃からは覚えていません。でも、恐ろしくて、怖くて、実際に別の世界に通り抜けたことはありません。本当です。夢の中を除けば… いままで黙っていて申し訳ありませんでした」
「泣くな! 謝らなくてもいい! いまはそんな場合じゃあない! いま、エイリアを連れ戻してくれたら、すべてを不問に付す! 約束する!」
「マルカム先生、しっかりしてください!
 魔法の力を持った三人の女性がいるんです。 きっとエイリアさんを助けてくださいますとも!」 トーマスは主人を取り押さえるように抱きかかえた。「…ですからここで先生が取り乱されたら、救出できるものもできなくなってしまいますよ!」
「そ、そうだな、トーマス、おまえの言うとおりだ…」
「ナンシーさん、貴女はデイジーと同じ不思議な力を持っておられるのに、一度も『向う側』に行かれたことはないとおっしゃたわね?」
 ブライディーが訊ねた。
「ええ」
「でも夢の中では、通り抜けられているのでしょう? どんな夢の中でですか、最近では?」
「ここへ来てからは、ニューグレンジの森を通り抜け、ドルイドの巫女になって、その… マルカム先生やトーマスさんたちを脅かす夢を見ました。もちろん事前にそんなことを漏れ伺っていたからです。ブライディーさんたちのお祓いの最中、気分が悪くなってテントの中で見た夢なのですが、実際にそういう女が現れたとのことで、もしかしたら外の様子を夢うつつで聞こえていたのかもしれません…」

「そんなことはいまどうでもいい! デイジーさんがだめなのだったら、ナンシーさん、貴女がエイリアを連れ戻して下さい!」
 マルカム卿が怒鳴った。
「連れ戻すためには、わたくしが一度、エイリアさんのいらっしゃるところに行かなくてはならないと思います」
「じゃあ行ってください、早く!」
「分りました。やってみます…」
 ナンシーは恐る恐るエイリアと母親の姿が陽炎のように揺らめいている岩壁に向かってまず右手を、続いて左手をゆっくりと伸ばした。細い華奢な両手は、まるで幻灯機の影絵のように『向う側』に映し出され、身を乗り出すと身体全体が『向う側』の存在となった。 ナンシー先生は『こちら』に向かって軽く会釈するように頷いた。
 残された四人は固唾を呑んで頷き返した。「あんなこと言っていたけれど、慣れている感じよね」 デイジーはブライディーの耳に囁いた。「…自分のテントから森のミルドレッドの家へ行って彼女を殺め、あたしたちがお祓いをしていた時に彼女に扮装して現れて脅迫したのもナンシーさんの仕業よ、きっと…」
「証拠もないのに決めつけてはいけないわ」

「エイリアさん! エイリアさん! 聞こえたら返事をしてください! 一緒に帰りましょう!」
「黄泉の国」…ケルト人の言うところのティルナノーグでは、ナンシーが必死になってエイリアを探していた。
 岩壁の『こちら側』では、マルカム卿は視界の良くない状況を正視できなくて、ひざまづいて座り、懸命に祈っていた。
 トーマスとメイドさんたちは霧に霞むような朧な世界をじっと見つめていた。
 ドレスのスカートの裾をつまんだナンシーが、エイリアと亡くなった母親のほうへ小走りに駆けていくのが見えた。
 と、エイリアの傍らに母親以外に、背の高い人影が見えた。
「ヘンダーソン卿!」
 トーマスが思わず叫ぶと、マルカム卿は思わず顔を上げた。
「なんだって!」
「ヘンダーソン卿が、亡き奥様と、エイリア様とご一緒にいらっしゃいます!」
「そうか… そういうことだったのか…」
 マルカム卿は崩れるようにして再び敷石にひざまづいた。
「どういうことですか?」
 ブライディーが囁くように訊ねた。
「…もう察しておられると思うが、わたしの年に比べてエイリアはまだ幼い… わたしは若い妻をもらったのだ。当時ヘンダーソン卿も当時わたしと同じく五十歳近くでまだ独身だった。二人は同じ女性を好きになった。彼女はわたしの妻になり、エイリアを生んだが… いや、妻が病死したいまとなっては、何も語るまい…」
「なるほど… ヘンダーソン卿が『向う側』へ行ってしまったのはお金とか名誉が目当てじゃあなかったんだ…」 デイジーはこまっしゃくれた感じで囁いた。「…ヘンダーソン卿とマルカム卿、二人はそれまで考古学の研究の財政を一にしていたけれど、女性問題から友情は破綻、会計を担当していたヒギンズさんは帳簿を勝利者であるマルカム卿に有利なようにしてマルカム卿のほうに走った。またはヒギンズがマルカム卿に頼まれてそのようにし向けた。 …と言うことは、ヒギンズさんを殺したのはやはりヘンダーソン卿なのかな? だったら次に狙われるのはマルカム卿?」
「くどいようだが、いまはそれどころではない! いまはナンシー先生が無事にエイリアを連れ戻してくれることのみを祈る! わたしは、エイリアが間違いなく自分の子供であると信じている! ヘンダーソンが何と言おうと関係ない!」
 マルカム卿の悲痛な叫びが通じたのか、ナンシー先生は何とか大小三人の人影のところまで辿り着いた。
「エイリアちゃん、気持ちは分るわ。お母さんに会いたかったのはよく分るわ。…でもね、ここはあなたがいてはいけない場所なの。お名残りは惜しいでしょうけれど、もう帰りましょう!」
 エイリアらしい少女の影が「嫌、嫌!」とかぶりを振った。
「…お母様からも、どうか言ってあげてください!」
 大人の女性の人影は、膝を折ってエイリアの顔を見て、何事かを言い含めた。エイリアは仕方なく納得したようだった。
「あと残りはヘンダーソンだ。…おのれヘンダーソン、そんなふうにしてわたしに復讐するつもりだったんだな! 許さんぞ!」
 拳で岩壁を叩いたマルカム卿はハッと我に返った。
「おい、トーマス、もしかしてナンシー先生はヘンダーソンと関係の深い人物ではなかろうな? ヘンダーソンと彼女はグルだということはないだろうな?」
「いえ、先生、エイリアさんの家庭教師になって頂くについて、それなりに身上調査もしましたが、特にそのような点ははありませんでした。先生とヘンダーソン卿がよくお会いになられていた頃には、彼女もヘンダーソン卿に何度か会ってはいると思うのですが…」
 トーマスは弁解するように言った。

「お願いします、お母様! どうかエイリアさんを生者の世界に返してあげてください!」
 ナンシー先生は懸命に頼んだが、婦人の影はエイリアを抱えて離さなかった。
 ヘンダーソン卿は両者のあいだに入って、ナンシーを追い返そうとしていた。
「おいジェーン、何を考えているんだ? エイリアにはこの先長い将来があるんだぞ!」
 マルカム卿も影に向かって叫んだ。
『向こう側』では何か押し問答が続いていたが、結局、岩壁が再び陽炎のように揺らめいたかと思うと、ナンシー先生だけが帰ってきた。
「申し訳ありません。エイリアさんがお母さんに会えた嬉しさの余り、どうしても帰りたくない、と…」
「莫迦な!」
 マルカム卿がナンシーに殴りかかろうとするのをトーマスやブライディー、それにデイジーがそれぞれ身体や足にしがみついて止めた。
「『向う側』の世界に長く留まっていても大丈夫なのか? 二度と戻れなくなってしまうような危険性はないのか?」
 マルカム卿はかろうじて言った。
「それは分らないわ」 デイジーは瞼を閉じた。「…大丈夫、とも言える。でないと、行く人はあたしを含めて誰もいないと思うわ。…だけど、『常に、絶対』大丈夫ではないかもしれない。アフリカやアマゾンの奥地への探検に例えるといいかも。何度行っても、病気怪我何一つしないで無事に帰ってくる人もあれば、たった一度でも命を落としたりもするようなものかも…」
「わたしが行く! わたしが行ってエイリアを連れ戻してくる!」
 マルカム卿は両の拳で岩を叩き続けたものの、爪の先ほども通らなかった。
「誰か! 誰か他に魔法が使えるものはいないのか?」
 トンネルの出口のところで待機している助手たちに向かって叫んだ。が、みんな尻込みをして後じさりするだけだった。
「…デイジーさん、『一日一回』と言わず、何とかいま一度だけお願いできませんか?」 地位も名誉も極めた考古学者のマルカム卿は、目を真っ赤にして頼んだ。「ナンシー先生、貴女も続けてできないのか?」
「やってあげたいけれど危ないわ」 デイジーは腕組みして言った。「…マーリンみたいに歴史に名を残す魔法使いならいざ知らず、あたしやナンシー先生みたいに普段はメイドや家庭教師をやっている者がたて続けに術を使えば、それこそこの岩の中に閉じこめられてしまうかも…」
「わたし、やってみます…」
 ブライディーが静かに言った。
「えっ、お姉ちゃんが?」
 デイジーが仰天する。
「だめでもともと、必死でやってみます。成功は保証できませんけれど、それでもよろしいですか?」
「もちろんです! どうかよろしくお願いします」
 マルカム卿の頬に血の気が戻った。
 ブライディーは軽く目を閉じ、二、三回、静かに深呼吸した。
 息を整え、「神様、マリア様、聖パトリック様、この一回限りでいいですから、なにとぞ『向こう側』へ渡らせてください。もし願いを叶えてくださったら、二度と同じ願いは致しません」と願を掛けた。
 それから、デイジーやナンシー先生がやったように、そっと手を差し出した。
 すると、手の指の先は通って『向う側』に突き抜けた。続けて身体をもたせかけるように前に進めると、身体も岩壁をすり抜けた。
「お姉ちゃん、危険を感じたらすぐに戻ってくるのよ!」
「ブライディーさん、無理をなさらないでくださいましね!」
「ブライディーさん、頼みましたぞ!」
 三人の励ます声に送られて、メイドさんはゆっくりと『黄泉の国』へと入っていった。「…ところで、エイリアさんは一体誰の術で『向う側』へ行ったのかしら?」
 デイジーがふいに訊ねた。
「ナンシーさん、まさか貴女が?」
 マルカム卿が責めるような目で家庭教師を見た。
「いえ、わたくしは金輪際にそんなことは。ただ…」
「『ただ』?」
「ただ、このニューグレンジに行くことが決まったときに、『古代ケルトの民は、この世とあの世を行き来できる道があることを信じていて、そのうちの一つがこの遺跡だと伝えられています』とお教えしました。
 すると、エイリアさんは『あたしは亡くなった母様にぜひお会いしたい。どうしたらそこを通り抜けて会えるの』? と尋ねられました。わたしは、ご承知のように自分では薄々出来そうなことを察しておりましたので、(これは詳しくお話ししてはいけない)と思って『ドルイド教の祭司や巫女、それといわゆる魔法使いと言われる人々なら知っているかもしれません』とお茶を濁しました。すると、エイリア様は『本当? そういう人たちなら知っているの?』と言われました。それはそれですんだ、と思ったのですけれど…」

「でも、エイリアさんにしてみたら、せっかくそんなニューグレンジみたいなところで何泊かするのだから、(ぜひとも入門書を隠れて読んででも、ティルナノーグへ行ってみたい、と思ったはずよ。あたしなら私書箱を借りて、地元のドルイド祭司に手紙を書くわ
『突然のお手紙、どうかお許しください。あたし、今回ニューグレンジを調査することになったマルカムの娘エイリアです。できることなら亡くなったお母さんに会いたいんです。御礼はおこずかいからお支払いします。でも二人いるお父さんの秘書のうち、ヒギンズという人は大変口うるさいんです。だから秘密でお願いします。どうか方法を教えてください、お願いします』って…」
「すると、エイリアは誰かに…ヘンダーソン卿や妻のジェーンの『向う側に呼び寄せられた』のではなくて、『ミルドレッドに送り届けてもらった』か『ミルドレッドに方法を習って、自力で向う側へ赴いた』と言うのか?」
 マルカム卿は額に手を当ててうつむいた。「本当に本当のところは、本人に訊いてみないことには分らないわ」 デイジーは溜息をついた。「…お姉ちゃんが無事に連れ戻せたら聞けると思うけれど…」
「先生にデイジーさん、そんなことは後にして、いまはブライディーさんがエイリアさんを無事に連れ帰ってくるように祈りませんか?」
 トーマスが声を張り上げた。
「そうだな、そうしよう」
「そうしましょう…」
 マルカム卿もナンシーもひざまづき、両手を組んで祈った。
 トーマスもデイジーも、二人に倣った。

 その頃、ティルナノーグの世界へやってきたブライディーは、黄昏色の空や灰色の樹木、頭巾を目深にかぶって行き交う冥界の住人に当惑していた。
(幻術師が見せる『死の世界』は、何度も入ったことがあるけれど、ここは正真正銘の『黄泉の国』なのかしら? だとすると、どれくらいの時間留まってしまうと、現実の世界へ帰れなくなってしまうのかしら? それともいつまで留まっていても、好きなときに戻れるのかしら?)
 ソッと黄金のダウジング棒を取りだして、エイリアと母親、ヘンダーソン卿のいる方角を占う…
(ナンシーさんは簡単に近づくことができたようだけれども…)
 棒は、いままでのどんな世界とも同じように(ジャミングがない限り)目標の正しい方向を指した。
 三人は灰色の光の下、灰色の樹木の木陰に布を敷いて、バスケットからお弁当を取りだして食べようとしているところだった。
「こんにちは、初めまして。わたし、ブライディーと申します。エイリアさんを生きている者の世界に連れ戻しに来ました」
「ナンシーに続いてまた来たの?」
 エイリアは「やれやれ」といった顔をした。「…確かに、『わたしたちを呪いから守ってください』とお願いして、わざわざロンドンから一緒に来て頂くようにお願いしたのは、ほかでもないあたしなのだけれど…」
「ヒギンズさんを呪いから守れなかったことはお詫びします。ですが、そのこともあってお父さんが大変心配していますよ…」
「父さんやトーマス、ナンシー先生たちに心配をかけて申し訳ないのだけれど、あたしはもう少し母さんとこうして一緒にいたいの。 いいでしょう、お母さん?」
 エイリアは灰色ではあるが穏やかな若い婦人の顔を覗き込んだ。
「エイリア、おまえのほうから尋ねてきてくれてとても嬉しかったわ。でも、これほどつづけさまに心配している人が迎えに来るということは、早めに帰ったほうがいいのではないかい?」
「ほら、お母様もこのようにおっしゃっておられますよ。…ヘンダーソン卿、貴男も生きている者の身でありながら、どうしてこんなところに来られているのですか? ニューグレンジの遺跡の研究をなされるはずではなかったのですか?」
「ここのほうが居心地がいい」 痩せた初老の考古学者はポツリと言った。「…ヒギンズに上手く出し抜かれた。証拠はない… 戻っても財産はないし、ここにはジェーンがいて話ができるし、それに…」
 何かを言いかけて押し黙った。
「ヒギンズさんは『生者の世界』で何者かに殺されました。…ここには来られていないみたいですね?」
 ブライディーはあたりを見渡した。
「なんだって? 『ヒギンズが殺された』だって?」 ヘンダーソン卿は青いガラス玉のような眼を見張った。「わしではないぞ! わしはそこまでの恨みは抱いてはおらん。…やつのことだ。おおかた他でも恨みを買うようなことをしておったのだろう…」
「貴男もエイリアさんと共に現世に戻って、釈明してください」
「断る! わしはこうして自力で行き来ができる。おまえさんのようにな。帰れば疑いを掛けられるのは目に見えている!」

「分りました。わたしも『ここ』へはかなり無理をして来ているので、いまはエイリアさんをお連れして帰るだけにします。…さぁ、エイリアさん… お父様やトーマスさん、ナンシーさんたちが事件に巻き込まれないように、心配をされないように、わたしとデイジーにお願いをされたのはエイリアさん、貴女じゃあありませんか? その貴女が、皆様に一番心配をかけてどうするのですか?」
 ブライディーが懸命に述べると、エイリアは仕方なさそうに母と別れた。
「お母さん、また来るね。…あたしがこのニューグレンジにいる限り、いつでも会えるから…」
 エイリアの言葉に、急に朧になった母は悲しそうに頷いた。
「さぁ、エイリア様、急ぎましょう! デイジーやナンシーさんと違って、わたしのゲート・オープンとクローズの術は『一度きり』なんです」
 メイドさんは、何度も振り返って手を振ったりしようとするエイリアの手を半ば無理矢理に引っ張って、自分がくぐってきた時空の穴を目指した。
 まだかなり先に見えるゲートは急速に縮んで、いまにも閉じようとしていた。
「大変! デイジーやナンシーさんなら一日待てばまた開くことができるけれど、わたしは神様やマリア様にお願いして『一度きり』ということで叶えていただいたもの… デイジーに迎えに来て貰わなくてはいけないけれど、一日たつと時空がシャッフルされて、確定することができなくなるかもしれないわ…」
 まだ百ヤードは先にあるゲートは完全に閉じて消滅しようとしていた。
(だめ! 間に合わない!)
 そう思って走るのを諦めかけた時、閉じて消えようとしていたゲートが再び現れ、人間が十分通れるくらいの大きさに開いた。
「良かった! デイジーやナンシーさんが何かしてくれたのかしら?」
 エイリアの手を引いてゲートをくぐったメイドさんは、気が付くとニューグレンジの遺跡のトンネルに戻った。
「エイリア! エイリア! よく帰ってきてくれた! 一体誰に連れて行かれたんだ?」
 マルカム卿の喜びは一通りではなく、ひげを娘の頬にすりつけた。
「お父さん、心配をかけてごめんなさい! ナンシー先生も、トーマスもごめんなさい!」
「一体どうやって『向う側』へ行ったんだい?」
「お母さんに会いたい、と願ったら、自然に…」
「黄泉の国にはヘンダーソン卿がいらっしゃいました」 ブライディーは報告した。「むかしに亡くなられた奥様のジェーン様と一緒にいらっしゃいました」
「なんだと! ヘンダーソンが?」 マルカム卿は血相を変えた。「やはりあいつの仕業だったのか…」
「ですがヘンダーソン卿は、ヒギンズ様が殺されたことはご存じなくて、教えて差し上げると『自分ではない』とおっしゃっておられました」
「それは、しらばっくれているのに違いない…」 マルカム卿はエイリアをナンシーに預けると、唇を噛んだ。「…ヒギンズを殺す動機のある人物は彼しかいない… ブライディーさん、彼はわたしまでも逆恨みしている様子はなかったですか?」
「いえ、それは特に…」
「分らんぞ。『黄泉の国』でジェーンと一緒にいた、というのも気に入らない…」
「マルカム先生、奥様はすでに亡くなられて久しいおかた。ヘンダーソン卿の好きにさせてあげては如何でしょうか?」
 トーマスは恐る恐る言った。
「いや、妻はともかく、ヘンダーソンは『生きながら』にしてティルナノーグへ行っている。ということは、いつまたこの世に戻ってきて、何か言いふらしたり、したりするか分ったったものではない…」
「ヘンダーソン卿はそんなことをなさるかただとは思いませんが…」
 トーマスの言葉にマルカム卿は黙った。
「…とにかく用心しよう。遺跡の調査は予定通り進めねばならない。…そうだ! エイリアとナンシー先生は、先にロンドンに帰ってもらう、というのはどうだろう? ここにはまだ捕まっていない殺人者がうろうろしている…」
「確かに。それはいい考えです!」
 トーマスも頷いた。
「ちょっと待ってよ!」 ナンシー先生がエイリアを連れて外へ出て行くのを眺めながら、デイジーが声をひそめて囁いた。「…ナンシー先生は怪しいのよ! さっき自分で、『お祓いの最中に退席して、自分のテントで休んでいるときに、魔女ミルドレッドが現れて脅迫した夢を見た』と言っていたけれど、あれは自分が成りすましていたかもしれないのよ! だって、本物のミルドレッドさんはそれより以前に殺されていたのだし、ナンシーさんがあたしのように時空を越えられるのはいま分ったし、彼女がヘンダーソン卿ゆかりの人物でなかったとしても、何か個人的にヒギンズさんを恨んでいたかもしれないし…」「デイジー、憶測でものを言ってはいけないわ」
 ブライディーが頭を小突いた。
 マルカム卿とトーマスは思わず互いに顔を見合わせた。
(そんな疑いのある家庭教師にエイリアを預けておいていいものか?) と言いたげに。

「エイリアが心配だ…」
 マルカム卿が呟いた。
「しかし先生、ナンシーさんが何か良からぬことをした、という証拠はどこにもないんです。状況証拠だけで、エジプトからメソポタミア、ギリシアと、ずっとエイリアさんの勉強と面倒を見て下さっていた先生を、いきなりどうこうはできませんよ。エイリアさんもナンシー先生になついていますし…」
 トーマスは懸命に言った。
「うむむ… どうすればいいのだ? ニューグレンジの調査は諦めて、さっさとみんなでロンドンに帰ればいいのか…」
 マルカム卿は頭を抱えた。
「わたし、ひとつ確かめたいことがあるわ」
 またデイジーと二人で夕食の支度をすることになったブライディーがふいに言った。「…ジェーンさんをマルカム卿に譲って去ったヘンダーソン卿は、魔法を使った考古学に傾いて、一体何を一番やりたかったのかしら?」
「そんなの決まり切っているじやない!」 デイジーは岩を組み合わせたかまどの火加減を覗き込みながら言った。かまどの上の鍋の中では今夜のご馳走の肉の煮込み料理がグツグツと煮え、おいしい匂いを漂わせている。
「…復讐よ、復讐。自分をえらい目に遭わせたマルカム卿とヒギンズさんに復讐するためよ」
「確かにヒギンズさんは殺されたけれど、マルカム卿はご健在でいられるわ。それに、マルカム卿はヘンダーソン卿のことをそんなに恐れてはいらっしゃらない… もしも、相当後ろめたいことがあるのなら、いまや時空を越えることができるようになったヘンダーソン卿を、もっと恐れてビクビクするようになっても不思議ではないのに…」
 ブライディーは味見をしながら今度こそ慎重にチェックしながら鍋にキノコを加えた。
「だから、マルカム卿は、ヘンダーソン卿が思っているほど『自分が悪いことをしたとは思っていない』『ヒギンズには何も指示はしていなかった』のよ。後ろめたい気持ちや良心の呵責がないから、自分が狙われるなどとは露ほども思っておられないわけ」
「ヘンダーソン卿はヒギンズさんを殺すことはできなかった。なぜなら、ヒギンズさんにとって最も要注意人物は自分が裏切ったヘンダーソン卿のはず。そんな人の前で古代ケルトの戦士の衣装を着て、刺青を描いてもらうなんて考えられない。…つまりヘンダーソン卿は時空を越える魔法が使えるのに、ヒギンズさんも、マルカム卿も殺してはいない。だったらなぜ苦労して十年もかけて魔法を学んだのかしら?」
「十数年前に病死したジェーンさんと一緒に『黄泉の国』で暮らしたかったからよ。デイジーはセロリを裂いてサラダの皿に並べ始めた。「…実際、お二人は一緒に居られたのでしょう? つまらない復讐に走るよりも『実』のほうを取られたのよ『実』のほうを… それとも、ジキルのほうのヘンダーソン卿はティルナノーグでおとなしくしていて、ハイドのほうのヘンダーソン卿がヒギンズさんやミルドレッドさんを殺して回っているのかしら?」
「それよ、デイジー、それ!」
 大きなメイドさんは手にしたお玉杓子を煮物のなかにポチャンと落とした。
「何者かが、穏和で復讐など思いつかない、あるいは思いついても実行には移さない…移せない…ヘンダーソン卿に成り代わって、ヒギンズさんとミルドレッドさんを殺害したのよ!」
「そこまでヘンダーソン卿に肩入れしている人が、あたしたちのなかにいるかしら? トーマスさんによると、ナンシーさんとヘンダーソン卿とのあいだには、特に縁故も何もない、らしいけれど…」
「ナンシーさんはダシにされただけだわ。ついでに言うと、わたしたちもダシにされた。
 真犯人は上手く立ち回って、ここまで何も証拠らしいものを残してはいない。だから、次の、最後の犯行の現場を押さえるしかないと思うわ…」 ブライディーはお玉杓子を剣のように握り締めて掲げた。「真犯人は魔法使いよ。まず時空を越える魔法を使える。デイジー、貴女やナンシーさんと同じように。その他にもアッと驚くような術が使えると見て間違いないでしょう。強力な催眠術なんかもね。それらの魔法を一体誰に習ったのか?
 おそらくミルドレッドさんに習ったのでしょう。だからミルドレッドさんは殺された。
 犯人が秘密を守るために… つまりミルドレッドさんは弟子に殺されたのよ」
「評判の良くないヒギンズさんを恨むのは分る気がするけれど、師匠を殺すなんて、なんていうやつかしら!」
 デイジーは目を吊り上げる。
「真犯人にとっては、絶対必要な犯行だったのよ。魔法の師匠のミルドレッドさんを生かしておくと、そんなおぞましい計画は断固反対され、ヒギンズさんの殺害を阻止されてしまうから… だからもちろん、時間の順番から言うと、まずミルドレッドさんをやり、次にヒギンズさんに手を下した… 次の、最後に狙う相手も決まっている…」
「誰? まさか犯人の標的はエイリアさんじゃあ?」
 デイジーは青ざめる。
 鍋から漂うご馳走の匂いとは裏腹に、ニューグレンジにまたオレンジ色の宵闇が迫ってきた。

 夕食は重苦しい雰囲気だった。
 メイドさんたちがせっかく腕によりをかけたのにも関わらず、助手たちは囚人のような顔でスプーンを運んだ。
 明るいはずのトーマスも、ナイフとフォークを動かす手は操り人形のようだった。
 食後の熱い紅茶が配られ、気の早い者がランプに火を灯そうとする頃、マルカム卿が立ち上がり、近くの石舞台の上の乗って重々しく切り出した。
「諸君、聞いてくれ。せっかくここまで漕ぎ着けたニューグレンジの調査ではあるが、今回は今夜をもって中止しようと思う」
 一同からはざわめきや私語が巻き起こった。「ここまで研究費、時間、労力をつぎ込んではなはだもったいないことだ。資金を援助後援者や、諸君たちにも大変申し訳のないことだと思う。しかし、ヒギンズがあんなことになり、続いて土地の女性も殺されているのが発見された。いま駐在さんと自警団が向かってくれているそうだ…
 犯人が何者か分らない以上、いや、例え仮に分っていたとしても、わたしは諸君たちをこれ以上危険にさらすわけにはいかない。よって、まことに残念なことではあるが、明日、ここを引き払おうと思う。
 疲れているところ申し訳ないが、各自は今夜じゅうに荷物などの支度をしておいてくれたまえ…」
「先生、もったいなさ過ぎます!」
 トーマスが詰め寄った。
「いま聞いた通りだ。わたしはもう決心したのだ」
「おっしゃる通り何者かはまったく分りませんけれど、相手は幽霊…怨霊でもなければ、恐ろしい怪物でもなく、ましてや呪いなんかでもありません。ヒギンズと先生に逆恨みをしている人間…魔法が使える人間です。
 ヒギンズ亡きいま、エイリアさんとナンシーさんにだけロンドンに帰って頂き、先生をぼくと他の助手たちでお守りすれば、いかなる魔法使いであろうとも、もうそう簡単に手は出せないのでは、と…」
「いいんだよ、トーマス。気持ちは有難いけれどもういいんだ…」
 マルカム卿は秘書の肩をねぎらうようにポンポンと叩いた。

「マルカム卿も余計なことをおっしゃったものだわ!」 デイジーは古道具屋で買った旅行鞄に身の回りのものを詰め込みながら言った。「…みんなの前であんなことを言ったら、犯人は今夜じゅうに、何か仕掛けてくるかもしれないじゃあない!」
 いつのまにかニューグレンジに秋の気配が忍び寄って、そこここの草むらではリーンリーンと虫の声が聞こえてきている。
「そうね。…でもマルカム卿は犯人を捕まえてやろうとお考えになって、わざとあんなふうに公言されたのではないかしら? わたしも頑張って、エイリアさんとマルカム卿を、今夜一晩お守りするわ」
 荷物が少なく、すぐに片付け終えたブライディーが言った。
「素手で大丈夫なの? ドイル様から拳銃でも借りてくればよかったのに…」
「いえ、聖ブレンダン修道院の時もそうだったけれど(「北海の邪神」参照)、今度の相手も強力な魔導師。拳銃などは、あってもたぶん何の役にも立たないと思うわ」
「あたしも手伝うわ。お守りする相手が二人で、別のテントにいるのなら、守り手も二人要るでしょう?」
「そうね… でもデイジー、貴女はきょう術を使ってしまって、明日の昼頃までは使えない… 犯人が遺跡の時空の扉を通って逃げるなどしても、追いかけることはできなくってよ」
「それはお姉ちゃんも一緒だもの。うーん、正体を暴くことができれば、後は警察に任せればいいのだけれど…」
 デイジーは唇を噛みしめた。

 ニューグレンジの遺跡の上では、満天の秋の星空が輝いていた。
(あーあ、犯人が狙ってくるとすれば、か弱いエイリアさんよ。いつもお姉ちゃんのほうがおいしいところを持っていこうとするから、嫌いよ…)
 あくびをかみ殺しながら、マルカム卿とトーマスのテントを見下ろす石の上に、毛布を敷いて腰を下ろしたデイジーは、急な冷え込みに思わず身体を震わせた。
(しまった… 毛布を持ってくれば良かったわ。お手洗いにも行きたいし、この見張り、二人では無理よ。全部で四人くらいいなければ…)
 目をショボつかせていると、またあの毒キノコを燻すような香りが漂ってきた。何か白く細い人影のようなものがキャンプ地を横切り、マルカム卿のテントの入口の垂れ幕をするりとくぐって中へと入っていった。
「出たっ!」
 黒い布の覆いを剥がしたランプを掲げたデイジーはコマネズミのように岩を駆け下り、人影を追ってテントに入った。
「ちょい待ち!」
 テントの中ではマルカム卿が跳ね起きて二人の侵入者を見た。トーマスは眠り薬を盛られたか、催眠術を掛けられたかのように、騒ぎにも気が付かずグーグーと眠りこけていた。
「デイジーさん!」
「あたしが来たからにはもう安心よ、マルカム先生!」
 もう一人の侵入者がかぶっていた頭巾をはずした。
 それは、十年ほど前に死んだはずのマルカム卿の妻で、いまは黄泉の国にいるはずのジェーンだった。
「…あなた… おひさしぶりね…」

「今宵がニューグレンジで最後の夜、ということで、確かめに来たのよ…」
 ジェーンには、足もあれば肉体もあるようだった。
「マルカム卿、お答えになってはいけません! 何を言っても言葉尻をとらえられて相手の思う壷です!」 デイジーが叫んだ。「待ってください。あたしがすぐにティルナノーグへ追い返しますから…」
 と言いかけてハッと気が付いた。
(しまった! 明日の昼まで使えないんだった… お姉ちゃんを呼びに行く? でも行っているあいだにもしものことがあれば…)
「いいんだよデイジーさん、たとえ短いあいだだったとは言え、わたしの妻だった女性だ。答えられることなら答えよう」
 マルカム卿は立ち上がってジェーンと対峙した。ほんの短い期間にその顔は皺が増え、老人のようになっていた。
「十数年前、わたしの実家が傾きかけていることを知ったあなたは、わたしをヘンダーソン卿から奪ってやろう、と思ったということは本当ですか?」
「いいや、そんなことは思ってはいない。ジェーン、おまえを愛するようになっただけだ」
「しかし、当時から、ヘンダーソン卿もわたしを愛して下さっている、ということはご存じだったはず。…ヘンダーソン卿の資産ではわたしの実家を救うことは出来ず、あなたの資産なら救うことができた、ということも…」
 ジェーンはヒギンズとミルドレッドの命を奪ったと思える、古代の文様をあしらった青銅のナイフを構えて訊ねた。
「それは単なる成り行きだ。決して意図したり、画策したりしたものではない。誓って言うがヒギンズに命令したこともなければ、彼の進言を受けて『そのようにしろ』と言ったこともない! もしも… もしもヘンダーソンの財産をわたしのものとする工作があったとすれば、それは利鞘を抜こうとしたヒギンズ一人の仕業だ。わたしは本当に何も知らなかったんだ!」
「そうですか…」
「信じてくれ、ジェーン!」
 マルカム卿は膝を折って座り、哀願した。
「ちょっとジェーンさん、先生を信じてあげなさいよ! 財産目当てでヘンダーソン卿から乗り換えざるを得なかったとは言え、かつてのご主人でしょう? エイリアさんというかわいいお嬢さんももうけられたのでしょう?」
 デイジーは二人のあいだに割って入り。両手を大きく広げた。
「エイリア… エイリア… あの子は…」
 苦笑しながら何かを言いかけたジェーンだったが、言葉を飲み込むようにして黙った。「…分りました。直接あなたの口から聞きたかっただけです。もう二度とニューグレンジには来ないでください。さようなら…」
 ジェーンはキノコを燻す煙か、白い霧の中へと去った。マルカム卿はヘナヘナと崩れるように倒れた。
「お待ちなさいよ! 二人も殺しておいてタダで済むと思っているの?」
 デイジーはジェーンを追ってテントの外へ出たが、そこにはもうその姿はなかった。
「くそぅ… 術ね… あの人は連発できるのね。悔しいけれど…」
 それから転がっていたフライパンをすりこぎでガンガンと叩いた。
「みんな、起きて!」
 いまさらながら、棍棒を手にしたトーマスや、エイリアの手を引き、寝間着の前をかき合わせたナンシー先生とブライディーや、ほかの助手たちも出てきた。マルカム卿はフラフラと、ベンチのような敷石の一つに座り込んだ。
「お姉ちゃん、出たのよ! 出た! マルカム卿の亡くなった奥さんのジェーンさんが現れて問いつめたの」
「ええっ、そうだったんですか? ぼくはさっぱり気が付かなかったな…」
 トーマスは目をしょぼつかせて言った。
「…あれは幽霊じゃあなかった。生身の人間だったわ」 デイジーは続ける。「…襲いかかったりはせず、問いつめただけで引揚げたけれど、犯人は一日複数回時空を越え、トーマスさんを完全に眠らせておくような催眠術と、別人になりすますことができる、この三つの術を操る人よ!」
「えっ、そうすると、あれはジェーンの幽霊ではなかった?」
 マルカム卿は意外そうな顔をした。
「だってちゃんと足があったじゃない! ヒギンズさんもミルドレッドさんも、心臓麻痺とかじゃあなくて、刃物で命を奪われていたじゃない!」
「ちょっと待って、デイジー、わたし、犯人が分ったような気がするわ…」
「ええっ!」
 ブライディーの言葉に、一同は叫び声を上げた。
「だって、犯人は犯人は『一日複数回時空を越え、トーマスさんを完全に眠らせておくような催眠術と、別人になりすますことができる』 のでしょう? 『あの人しか心当たりがないわ…』

「えっ、誰? 誰なの?」
「誰なんだ?」
「誰ですの?」
 デイジーも、マルカム卿も、トーマスも、ナンシーも、ブライディー詰め寄った。
「待ってください。間違いはないかと思うのですが、やはり証拠がないのです。明日の朝、ここをたつ時まで待って下さい。それまでには…」
「夜明けまでそれほど間もない、とはいうものの、それまでやはり犯人と一緒というのは…」
 トーマスが渋った。
「わしはもう着替えて起きていよう。もうとても眠れそうにない…」
 マルカム卿は目をこすりながらテントの中に消えた。
「ナンシーさん、くれぐれもエイリアさんから目を離さないでくださいましね」
「はい。でもしかし、そう言えばいままで(お守りしなくては)と思えば思うほど、眠くなったりして記憶が途切れてしまうことがありました。魔女ミルドレッドが焚いていた毒キノコの煙のせいでしょうか?」
 ナンシーは目を伏せた。
「…かも、しれませんね」
「ねぇお姉ちゃん、あたしはもうマルカム卿とトーマスさんのテントを見張らなくてもいいの?」
 デイジーはあくびをかみ殺した。
「いいわよ。犯人はもう全ての計画を終ったと思うから…」

 平原の地平線に朝日が少し顔を出し、ニューグレンジを白い朝霧が覆い尽くす頃、遺跡の入口からトンネルのある中へと向かおうとするランプを手にした一人の小さな影があった。
 文様石のある入口には、二人の助手が不寝番をしていたが、二人とも尻餅をついてものの見事に眠っていた。
 小さな影はトンネルを小走りに走って、壁に浮き上がっては消える額縁のような時空の扉をうちの一つを探し求めていた。
「まだあった! あったわ! …さようなら、みんなさようなら! あたしはもう二度と帰らないわ。ヘンダーソン卿…お父さんと一緒に『向う側』の存在になって、お母さんと三人一緒に暮らすことにするわ!」
 小さな影は揺らめく世界の一つに吸い込まれて消えた。

「大変です! 申し訳ございません!」 少し明るさを増したキャンプ地に、ナンシーの泣き叫ぶ声が響いた。「また、エイリア様が…」
「なぜ同じ失敗をするんだ! 二度目じゃないか! ロンドンに帰ったら、君には暇を取って貰うことにする!」
 日頃は温厚なマルカム卿も、ついに烈火の如く怒った。
「また、あの『時空の扉』をくぐったに違いないわ!」
 メイドさんたちは先を争って、遺跡のトンネルを目指した。マルカム卿も、トーマスもデイジーも、再び遺跡のトンネルの中の岩壁を捜した。が、昨夜まではあったはずの額縁のような時空の壁は、きれいさっぱりと消え去っていた。
「しまった! これは『向う側』から意図的に閉じられてしまっているわ!」
 デイジーはパチッと指を鳴らした。
「エイリア! エイリア! わたしのエイリア、帰ってきておくれ!」
 マルカム卿は岩壁を拳で叩き続けた。
「申し訳ありませんでした…」
 朝早い出立に合わせて、ドレスに着替えていたナンシーが敷石に座って泣き崩れた。
「ヒギンズさんと、ミルドレッドさんの命を奪ったのはわたしでございます…」
「えっ!」
 四人は目を見張り、たじろいだ。
「ナンシー先生、やはり貴女だったのですか?」
 マルカム卿は蔑みの目で家庭教師を見下ろした。
「ぼくにはとても信じられません…」
 トーマスは茫然自失だった。
「エイリア様に『ニューグレンジの遺跡の中のトンネルの岩壁には、時空を越えて黄泉の国などへ行き来できる扉があるという伝説』がございます、とエイリア様にお話し申し上げたところ、エイリア様は大変興味を持たれました。
 わたくしは絶対にお教えしなかったのですけれど、エイリア様は、ロンドンからニューグレンジに、何度も『空間移動』されました。
 魔法の才能がおありになられたのです。
 そこで、ミルドレッド様を捜して訪ねて行かれて、『黄泉の国』へ行って、母上に会ってまた帰ってくる方法を学ばれました。
 エイリア様に口止めをされたわたしは、エイリア様をご不憫に思って、旦那様やトーマスさんには黙っていることにしました。ミルドレッドに『黄泉の国に行き来する術』を学び、母上に会えたエイリア様は、とても嬉しそうでした。
 ところが、そのうちに欲深いミルドレッドが、エイリア様が払われた授業料以外に、法外な口止め料の上乗せの要求をしてきたのです。このわたくしに!
『払わないと、旦那様やトーマスに言いつけてやる』と…
 カッとなったわたくしは水浴中のミルドレッドを後ろから喉を切って命を奪いました…」

「まったく何ということをしてくれたんだ!」 マルカム卿は片方の手のひらで顔を覆った。「…エイリアのことも、ミルドレッドのことも、どうして早めに、わたしかトーマスに相談してくれなかったんだ?」
「ナンシーさん、ぼくは貴女がこんなことをする人だなんて、信じられません!」
 トーマスはキッパリと言った。
「エイリアさんがひどく叱られてはお可哀相…と思っているうちにこんなことになってしまったんです…
 ブライディーさんと、デイジーさんがお祓いをする朝に『気分がすぐれないから』と先にテントに戻り、ミルドレッドさんに変装し、毒キノコを燻し、術を使って森から現れて皆さんを脅かしたのはわたしです… 一週間前に命を奪ったミルドレッドさんが、まだ生きていることにしたかったんです…」
「ヒギンズさんはなぜ?」
 デイジーが問いつめた。
「ヒギンズさんは、わたしの個人的なことでトラブルになったんです。ヒギンズさんも、わたしも、お金に困っていました。わたしは実家の借金。ヒギンズさんの理由は知りません。知りたいとも思いませんでした。わたしは、ヒギンズさんから借金をしようとして断られたのです。
(せっかくニューグレンジのような神秘的な場所に来ているのです。なんとか一攫千金する方法はないものか?) と、話し合っているうちに、ヒギンズさんに扮装してもらって、わたしの術で古代ケルトの戦場へと飛んでもらって、ドサクサにまぎれて宝物を盗む作戦を立てました。しかし、ペインティングを終えた時に、ヒギンズが『俺だけ危険なことをするのだから…』と、分け前を増やすことと、もっと嫌らしい要求をほのめかしてきたのです。ミルドレットさんをやってしまっているわたしは、計画全体を断念してヒギンズさんを…
 ヘンダーソン卿が疑われる、と思いました…」
「ヒギンズさんは、飛んだ先の古代の戦場で流れ矢に当って死ぬ可能性もあったのに、どうして折角あそこまで準備したのに、実行しなかったのですか?」
 ブライディーが訊ねた。
「首尾よく宝物を手に入れることができたら、ヒギンズさんも用心して、もう簡単には背中は見せないだろう、と思ったからです…
 でも、わたしがそんなふうに自分のことにかまけているあいだに、エイリア様は完全に『黄泉の国…ティルナーノーグ…常世の国』に行く方法を身につけてしまいました。わたしの目を盗んで… わたしも薄々気が付いていましたが、エイリア様も次第に薄々とわたしの弱みを察しておられて、きつく咎めることはできなくなっていました。…後は皆さんがたのご存じの通りです。
…本当に申し訳ございませんでした…」
 メアリーはもう一度泣き崩れた。
「トーマス、駐在さんに連絡しなさい!」
 マルカム卿が命じた。
「分りました。先生」
「ブライディーさんたちは、メアリーさんが時空を越えて逃げ出してしまわないように、駐在さんが来られるまで見張っていてください」
「もう逃げ出したりはできないと思うわ。歩いて走って、なら別でしょうけれど…」 デイジーは肩をすくめた。「…このニューグレンジの遺跡のトンネルの『時空の扉』はいっぱいあったけれども、エイリアさんが全て『向う側』から厳重に封印して行ってしまったんですもの」
「わたしは諦めないぞ! みんなにはロンドンに帰ってもらうが、わしはここに残って、エイリアをジェーンとヘンダーソン卿の手から取り戻してやる! 世界中から一流の魔導師を呼び寄せて、再び時空の扉をこじ開けて…」
「ぼくもご一緒に残らせて頂きます!」
 トーマスが言った。
 ほどなく駐在さんが到着し、とりあえずナンシーを警察署があって刑事たちもいるドロヘダの町まで護送して行くことになった。
 ほかの助手たちは、肩を落としながら主な発掘用具やテントを畳んで馬車に分乗してドロヘダに向かった。
 ブライディーもデイジーも馬車の上の人になった。
 秋風に吹かれるニューグレンジの、大きな石の鍋をひっくり返したような遺跡がどんどんと遠ざかる…
「『呪いから守って』と依頼に来たエイリアさんが、消えちゃったね…」
 デイジーは頬杖をついて、野の花が咲き乱れる車窓を眺めながら呟いた。
「ナンシーさんは、真犯人じゃあないわ」
 ブライディーは歌うように言った。
「えっ? でもナンシーさんは自白、自供したんだよ!」
「物的な証拠が何もないわ」
「じゃあ、じゃあ、真犯人は誰なのよ、お姉ちゃん!」
 デイジーは身を乗り出してきた。

「…本当のね、犯人はエイリアさんだったのよ」
 ブライディーは穏やかに言った。
「ええっ! あんなに小さいのに! あたしと年もそんなに変わらないのに!」
「エイリアさんは、一日に何度でも時空を越えることができる、素晴らしい魔法が使えたのよ。最初からね…
『お父様のマルカム卿が、ニユーグレンジを考古学調査される』と聞いて、エイリアさんの心は躍った。ニューグレンジの遺跡の時空の扉を使えば、幼い頃に亡くなっていて、記憶も定かではないお母さんのジェーンさんに会える…かもしれない…
 それまでエイリアさんは、いま現在のどこかからどこかまでは移動できたのだけれど、さすがに黄泉の国への行き来はできなかった。(ニューグレンジの扉を使えばできそうだ) けれど、その方法と言うか、術は知らない。誰かに習わなければならなかった…
 エイリアさんは、ミルドレッドさんに習うことにした。
 わたしたちと一緒に、船や汽車や馬車を乗り継いでニューグレンジに来る前に、ロンドンの、自分の子供部屋やら、ニューグレンジの森の奥にあるミルドレッドさんの家へ、通ったのよ。何度も何度も、瞬間移動の術で。エイリアさんは並はずれて優秀な生徒だった。ヘンダーソン卿が、何年も…十年近くかかって修得した『黄泉の国』への行き来を、いとも簡単に、短期間に修得した。
 ティルナノーグへ行ってみたエイリアさんは、母親のジェーンさんと再会を果たした。 ところが、ジェーンさんは、エイリアさんと同じように『生者の国』から来たヘンダーソン卿と幸せに暮らしていた。
 戸惑うエイリアさんに、ジェーンさんは口ごもりながら真実を話した。
『わたしが愛したのは、ここにいるヘンダーソンという人で、貴女の真実のお父さんはこのヘンダーソンさんなの』と。
 エイリアさんはショックを受けた。
 でもほどなく立ち直って、こう思った。
『悪いのは、いままでお父さんと信じていたマルカム卿と、その腹心のヒギンズよ。いままであたしを騙し続けた復讐をしなければ…』
 そこで、公式にロンドンからにニューグレンジに向かうことが決まってから『英国心霊研究協会』を訪れて『呪いが恐いから一緒に来て下さい』と依頼した…」

「下手をしたらあたしたちが見破ってしまうかもしれないのに、どうして同行を頼んだのかしら?」
 デイジーは首をかしげた。
「たぶんヒギンズさんを罠にはめるために必要だったのよ…
 でも、それに先立つ一週間ほど前、ヘンダーソン卿にも黄泉の国に行き来する方法を教えたミルドレッドが欲を起こした。
 エイリアさんからは『お祓いを断って、遺跡の調査にも反対するように』頼まれている… それはいいとして、このネタでマルカム卿を強請れば金になるのではないか?
 怒ったエイリアさんは、いったんは承諾するふりをし、油断していた水浴中のミルドレッドさんをあやめた。
 家庭教師のジェーンさんは、そのことを察してエイリアさんをかばい、わたしたちがお祓いをしている最中に中座してテントに戻り、ミルドレッドさんに化けて、術を使って森から現れてミルドレッドさんがまだ生きているかのような工作をした…
 これからが復讐の本番。
『あたしが頼んだあのメイドさんたち、インチキじゃあないかしら? ヒギンズさん、古代ケルトの戦士の鎧兜を着て、あの人たちを脅かしてくれないかしら? それに、そのまま古代の戦場に旅をすれば、楽してお金を手に入れられるかもしれないわ。ペインティングを手伝うわ… お礼にスカートの中を見せて上げてもいいわ…』
 で、ヒギンズさんも殺害。
 それから、自分も被害者であるかのように装うために『黄泉の国』のジェーンさんとヘンダーソン卿のところへ赴き、ナンシーさんにではなく、わたしに連れ戻された。
 ナンシーさんが連れ戻したら、もしかして自分とナンシーさんはグルではないか、と思われるのが嫌だったからよ。
 そして仕上げ、『大人になる魔法』を使って母親のジェーンさんに変装し、マルカム卿を問いつめた。
 しかし、どうやらマルカム卿は何も知らない様子だった。帳簿の操作はヒギンズの一存だったらしいことが察せられて、マルカム卿は許すことにした…
 ニューグレンジでの計画を完了したエイリアさんはすべての時空の扉を閉じた。各『向う側』からね…」

「でも、証拠がないわ。このままではナンシーさんがエイリアさんの罪をかぶったままになって大変なことに…」
 デイジーは両手で口を覆った。
「さっき、ポケットの中を見たら…」
 ブライディーは、真ん中に穴が開いたメモ用紙の束を取りだした。それには、数週間前の日付と時間とともに、『エイリア』と書かれていた。
「さすがにエイリアさんも、ナンシーさんに罪を着せたまにするのは良心が許さなかったみたいなのよ。…でも、もう決して戻ることはないエイリアさんを待って、遺跡に残ったマルカム卿のことを思うと…」
 ブライディーは言葉を詰まらせて顔を伏せた。


     (次のエピソードに続く…)





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