ブライディー・ザ・マジックメイド

「英国心霊研究協会 秋の夜話」

 サダルメリク・アルハザードが語る「妖精の瓶」(これのみショート・ショート)
 ブライディーが語る「フクロウの愛読者章」
 ウォーレス博士が語る「化石コレクター」
 シスター・セアラが語る「魔女の留守番」
 デイジーが語る「馬車馬の夢」
 コナン・ドイルが語る「自殺狂時代」
(中編五本)


 サダルメリク・アルハザードが語る「妖精の瓶」

 なんと言っても広いアラビアだからね。荒涼とした砂漠に点在するオアシス、世界中の誰一人見聞きしていない、どんな本にも書いていないことを体験してしまうはめになった人もいたりして、宿集う隊商たちの話題は尽きることがないんだよ…

 バクダットの市場に、瓶詰めの妖精を売っている屋台があった。太い瓶、細い瓶がズラリと棚に並べられていた。薄く色の付いた瓶、透明な瓶が四、五十本、中には手が二十本くらいある蜘蛛のような生き物や、主が命じるとその通りの形になる不定形のなめくじのような生き物、ブンブンと音を立てて飛ぶ人面の蜂なんかが入っていた。
 中でも、通りの側から手にとって見れる一番目立つところには、薄ものを羽織ったいろんな髪の色、瞳の色をした手のひらくらいの背丈の妖精の少女たちが閉じこめられていて、行き交う、主に若い男たちの興味を惹いていた。
 しかし、値段が金貨百枚とべらぼうに高い上、傍に添えられたカードに書かれたアラビア文字の注意書きとも相まって、手にとって冷やかしてはみても、誰も買う者はいなかった。カードには、
「この妖精たちは、瓶を割るなどして外へ出すと死ぬ。
 出さなくても一週間たてば死ぬ」
 とあった。
「瓶から出して触れないんじゃなぁ…」
「寿命が一週間しかないんじゃなぁ…」
「金貨百枚あったら、本物の美しい奴隷女が何人も買えて、おまけに家でも買えるじゃないか?」
 そこへ、王の何人目かの息子で、魔法もたしなむハッサン王子が通りがかった。王子は眉目秀麗、文武両道に秀でていて、都の姫たちのあこがれの的だった。が、その自信のせいで供も連れずに一人で町に出かける趣味があった。
「ふーん、可愛らしいなぁ… 声を交し、語り合うことはできるのかい?」
 ハッサン王子は、長い煙管で煙草をふかしていた、目と口を除く顔じゅうを布で覆い隠した、明らかに異教徒の店主に尋ねた。
「声は届きません。しかし、心を通じて語り合えまさぁ」
 店主はくぐもった声で答えた。
「余計なお世話かもしれないが、もしも売れなかったらおまえはえらい損をするんじゃあないのか? それとも、いくらでもタダで仕入れるところがあるとか…」
「坊ちゃん、坊ちゃんはそんな心配をして下さらなくていいんです。あっしは、この商売をやりたいからやっているわけでして…」
「では、この中の妖精に聞いてもいいかい?」
 王子は、西洋人のような白い肌、金色の髪をした妖精が入っている瓶を取り上げた。
「ぼくはハッサン。君の名前は?」
「お名前は、買って頂いたかたに付けて頂くことになっています」
「では、たったいまからお前の名前はファムだ。…おい店主、代金は金貨百枚だったな? これではどうだ?」
 ハッサン王子は指に嵌めていたウズラ卵ほどのダイヤの指輪を放り投げた。
「毎度ありがとうございます」 しばらく指輪の品定めをしていた店主はやがてうやうやしく、包帯が巻かれた両手で揉み手した。「瓶を割って外へ出すと死ぬ。そいつの寿命は一週間、ということくれぐれもお忘れなく…」
「ああ、承知した」
 他の瓶の妖精たちは、羨ましそうな、悔しそうな目でハッサンとファムを見つめた。

 瓶をマントに包んで隠し、宮殿に帰ったハッサン王子は、部屋に鍵を掛け、扉の外に向かって「しばらく誰も来てはならない」と命じてから、紫檀のテーブルの上で包みを解いた。
 妖精は新しい主人を不安そうな表情で見つめた。
「さてファム、どうしてあんな悪い奴に捕まったんだ? 捕まる前はどこで何をしていたんだ? ぼくがその場所へ帰してあげよう…」
「瓶の中に捕まる以前のことは何も覚えていないのです」
 ファムは悲しそうに答えた。
「一週間しか生きられない、というのは本当なのか?」
「本当だと思います」
「それだったら、できるだけご馳走を食べさせてあげよう。このコルクの栓を開けたら、その中に入れられるのだろうか?」
「あいにくですが、わたくしたちは食べ物は食べません」
「では、どうしてあげたら一番幸せに思ってくれるのか?」
「貴男がずっとそばにいて、楽しい、面白い話をして下さったら…」
「分った。そうしよう」
 それからハッサン王子は、語り尽くせるだけの話をした。幼い頃からの自分の生い立ち、回りの人々、父母や家来たち、姫たちの話。人から聞いた話、本で読んだ話。寝食を忘れて語られる話の数々をファナはじっと興味深そうに聞いていた。

 一週間はあっという間に過ぎた。
 七日目、ファナは、まるで切り花がしおれるように、急にやつれはじめた。
「ファナ! ファナ! 死なないでくれ!
 いつまでもぼくのそばにいて、ぼくの話を聞いてくれ! そうだ。旅行もしよう! 砂漠なんかもう飽き飽きしたことだろう。緑の国や氷の国、海で囲まれた島を二人で旅して回ろう!」
 ハッサン王子は懇願し、神に祈りを捧げたが、ファナは次第に弱っていくばかりだった。
「こうなったら『彼』を呼ぶしか他に方法はない!」
 王子はお付きや家来の者たちにも内緒で、砂漠の奥地に追放された邪悪な魔導師を一時呼び戻すことにした。
「父王の代りに、王子ハッサンが、魔導師アブドゥル・アルハザードの追放刑を仮に許すことにする!」
 無断で持ち出した魔法の王杖を振りかざし、宮殿の自室まの窓から満天の星空に向かって呟くと、たちまち鷲鼻鉤爪の、みるからに陰険そうな老人が窓辺に現れた。
「アルハザードよ、見ての通り、瓶詰めの妖精が死にかけている。手段は問わないから、何とか彼女の命を助け、寿命を人間なみに延ばしてくれ!」
「無理じゃな」
 邪悪そのものが人の形になったような魔導師は、半分灰色に濁った瞳でギロリと瓶を睨んでそっけなく言った。
「何を言う! おまえは、いまは正しき神によって海の底深く、あるいは星々の彼方、時空のはざまに追放、封印されてはいるが、太古にこの世界を支配していた旧き神を甦らせようと企んだほどの、アラビア随一の大魔導師ではないか?」
「大魔導師」と呼ばれてアルハザードのヒビの入った土色の唇がほころんだ。
「…瓶の中の妖精の命一つ助けるくらい訳はなかろう?」
「いかに儂と言えども、出来ぬことは出来ぬ」
 アルハザードは王子専用の椅子に腰掛け、尖った爪の先で歯垢をほじりながら言った。
「それは確かに、おまえが甦らせた死刑囚は、かつての心は持たない、ただ斬り落とされた首がぐるりと一回転するだけの屍食鬼になり果てていた。…ああいうのはこちらとしても困る。大いに困る。だけども、こんなに小さい、こんなに可愛らしい、こんな弱い者に、再びの命を与えるのは、僅かな魔力ですむはずだ」
「費やす魔力の多い少ないは関係ない。この妖精は、それを作った者が寿命を七日間と定めて作っておる。あたかも、森の国に住むカゲロウという虫の寿命が一日と定められているように…」
「分った。どうしても無理だと言うのなら、このまま砂漠の奥地に帰ってもらう」
「待ってくれ! ちょっと待ってくれ!」
 王子が再び魔法の王杖を振り上げかけたのを見て、魔導師は血走った目を剥いた。
「…ちょっとダマスカスに所用があるのじゃ」
「だったら、ファナを助けてくれ! 人殺し以外の何でもするから…」
 アルハザードの皺だらけの頬がかすかに引き吊った。
「本当に何でもするのか?」
「ああ、人殺し以外は」
「おまえが小さくなってこの娘がいる瓶の中に入り、一緒に暮らせば、娘も、おまえも人間なみの寿命を過ごすことができよう」
 悲しみに沈んでいた王子の顔がたちまちにして輝いた。
「それでいい! 早くしてくれ! …待てよ、この瓶の口は小さすぎて、入れないぞ! そうか、魔法で中に入れてくれるんだな?」
「いや、それは出来ぬ」
「では、どうやって? 瓶を割ると中の妖精は死ぬ、と商人は言っていたぞ」
「まずおまえを小さくする。ガラス吹きの名人を呼んできて、妖精の入った瓶と、金槌を持ったおまえを覆うように大きめのガラス瓶を作らせる。コルクで栓をした後、おまえが金槌で妖精の瓶を叩いて割れば、妖精は命を長らえるだろう…」
「分った!」
 ただちに宮殿付きののガラス職人の名人が呼び出され、小さくなった王子と、妖精の瓶を囲むような瓶が作られた。
「待っていろよ、ファナ! いますぐ助けてやるからな!」
 王子はガラス越しに苦しんでいるファナを見つめながら金槌を振り上げた。
 妖精の瓶はガシャンと音を立てて粉々に砕けた。
 王子は金槌を投げ捨てて駈け寄り、ファナを抱きしめた。
「しっかりしろファナ! もう安心だからな! ぼくはずっと君と暮らすことにするよ!」
 魔導師が言った通り、ファナはたちまち元気を取り戻した。
「有難うございます、王子様!」
 ところが次の瞬間、ファナの皮膚は皺だらけになり、髪の毛は白くなって抜け落ちた。 王子が抱いているのは七、八十歳の老婆になった。
「ああ、言い忘れていた」 アルハザードは意地悪く目を細めた。「瓶を割ると、無理に戻していた時間が元に戻る。妖精は、もともと死にかけていた老婆で、『身体は小さくなるし、寿命は残り一週間しかなくなるが、いま一度若返ることができる』という話に乗った者たちじゃ」



 ブライディーが語る「フクロウの愛読者章」

 ロンドンの「ここ」から近いところに、とある大きな貸本屋さんがあるんです。
 仮に、「フクロウ屋貸本店」ということにしておきましょう…
 推理・探偵小説、恋愛小説、風俗小説はもちろん、ファンタジーや随筆まで、品揃えは豊富、店内は広く、店員もよく勉強していて貸本料も他店に比べて一、二割安く、ドイル様のご本のような前人気の高い本は何十冊と入荷して、いつもお客さんがたくさんいらしていましたが、店として人気がある理由はもう一つありました。
 店の誰かが考えた「サービス・ポイント・カード」です。
 借りられるのは一週間に五冊まで。その「一週間で五冊」をまるまる借りると、フクロウのイラストが入った名刺くらいの大きさの茶色いカードに、小さなフクロウのスタンプが一個、押してくれるんです。
 そのスタンプが五十個溜ると、「フクロウ屋貸本店」特製オリジナルの、小指の先ほどの銅製のフクロウ・キーホルダーと交換してくれるんです。
 メイドさんはそう言って、鍵束に付いていた錆びたフクロウを一個、テーブルの上に置いて見せた。

「いつもながら可愛いわ、お姉ちゃん」
 デイジーはマスコットを取り上げて鼻の先にかざして見せた。
「ブライディーさんは読書家でいらっしゃいますからね。いつも寝る暇を惜しんで読んでおられますし…」
 ポピーも、まるで自分のことのように嬉しそうに言った。
「…あれれ、いま初めて気が付いたけれど、脚の台座の裏に通し番号の数字と『ブライディー様』と名前が刻んであるよ」
「どれどれ…」 デイジーの言葉に、ドイルは拡大鏡を取りだして見た。「…噂はよく聞いているが、実際に見せてもらうのは初めてだな 『心からの記念品』ということで、売買できないようになっているんだろう」

「…わたくしがロンドンの白詰草亭で働くようになったのが十五歳の時、そこでおよそ一年、それから二年、こちらの『英国心霊研究協会』でご奉公させて頂いておりますが…
 その間ずっとこの『フクロウ屋貸本店』で一週間に五冊ずつ借りて読み、フクロウの数も三個になりました。
 これが十個になると、銀のフクロウ一羽と交換してくださる、ということですが、わたくしはまだ一度も、持っている御方を見たことがございません」

「えっ、銅のフクロウ十個で、銀のフクロウ一個と交換? フクロウには名前が彫ってあって、銅のフクロウ一個を手に入れるためには…実際に借りた本を読んでいるかいないかはは関係がないけれども…最短、最速でも一年は必要、ということは…」
 デイジーは指を折って計算を始めた。
「『もっとも早くても十年はかかる』ということですわ」
 ポピーが横から言った。

「…銅のフクロウを、わたくしみたいに鍵束に付けたり、お財布や小さな鞄や大切なものに取り付けて『フクロウ屋書店』にいらっしゃるかたがたは、時々お見かけします。
 特に老若男女、郷紳・市民の区別はなく、 お見かけした時は(皆さんご本がお好きなのだなぁ)と微笑ませて頂いております。
 さすがに、『いとわず本を買うことが出来る』貴族のかたは、ごく稀でございます。
 このお話には続きがあります。
『十年通い詰め、借り詰めたら手にはいるかもしれない銀のフクロウ』ですが…」

「そんな思いっきりレアなグッズ、ゲットした人がいたら、家の飾り棚の上に大切に飾ってあると思うわ」 デイジーが真顔で言った。「お姉ちゃんみたいに十五歳から初めても、手にはいるのは十年後の二十五歳でしょう?」

「銀のフクロウを五羽集めると、金のフクロウ一羽と、交換してくださる、らしいのです…」
 大きなメイドさんは(自分でも信じられませんけれど…)と言いたげな顔をして述べた。

「ええっ!」 デイジーはこれ以上はできないくらい大きくらい見開いた。「…すると…」
 また指を折って数え始める。
「五十年ですわ。十五歳で始めて、休まず続けても手にはいるのは、もっとも早くて六十五歳」
 ポピーがまた横から言った。
「…そんなものが実際にあり、貰った人がいるのだろうか… もっともフクロウ屋貸本店」は創業して百年はたっているから、持っている人がいても不思議ではないが…」
 ドイルは真剣な表情になってパイプをふかし始めた。
「持っている人がいるなんて、自宅の貴重品の飾り棚に飾っておられる人がいらっしゃるなんて、とても信じられないわ!」
 デイジーは大きく肩をすくめた。

「ドイル様のホームズはよく、『新聞の三行広告は、事件のきざしを見つけたり、解決の糸口の宝庫だ』とおっしゃっています。
 わたしもある日、何気なく見た広告欄に、次のようなものを見つけたのです。

「フクロウの愛読者章を持っている人の集い。

 フクロウ屋貸本店が、年間二百五十冊読破した人に記念品として進呈している銅のフクロウのキーホルダーをお持ちのかたがた、一度集まって交流しませんか?
 ハイドパークのサーカス広場
 ○月○日、日曜日、正午より、一流シェフによる昼食を立食形式にて振る舞わせて頂きます。飲み放題、食べ放題。もちろん会費は一切無料。小雨決行。
 招待状代りに、あなたの銅のフクロウをご持参ください。
 もちろん、銀のフクロウを持ったかたも大歓迎。金のフクロウは… 死ぬ前に一度見てみたいものです。

 なお、この催しは、フクロウ屋貸本店とは一切関係がありませんので、くれぐれも同店にお問い合わせをなさらないようにお願い申し上げます。

     ミネルヴァ王国皇太子 ナリン」

(ミネルヴァ王国?) 正直初めて聞く国の名前です。よくある詐欺…大勢人を集めておいて、おもむろにインチキな債券などを売りつける…たぐいのものではないか? と思いました。
 けれども地理の本を開くと、アルプスの片隅にちゃんと載っているではありませんか。 人口は十万人ほどで、国の主な産業は古書や古美術品、骨董品の売買…つまりパリのモンマルトルが独立したようなところでした。
 皇太子のナリン殿下は御年二十歳でいまだに独身とのこと。貴族名鑑の写真では、金髪に優しそうな瞳の、大変聡明そうな御方です。
 黄色夕刊新聞には「ナリン殿下はこの際、身分の上下にかかわらず、知性と教養に満ちあふれた女性を皇太子妃候補にするべく、今回のパーティを思いつくに至ったのだろう。 一流の名家の親は、娘をいつ大国のはざまにあって動乱に巻き込まれたり、あるいは消え去ってしまうかもしれない小国の皇太子に嫁がせたくはない。反対に、お后候補が一般市民でも、二、三年どこかの大貴族の養女に上がらせて花嫁修業をさせればまったく問題はない」
 と書いてありました。

 その日はたまたまわたくしはお休みが頂ける日でしたので、ほんの少しばかりパーティを覗いて見ることにしました。
 ナリン殿下にまったく興味はなかった、と言うと嘘になりますが、(一体どのような人々が集まっておられるのだろうか?)という好奇心に駆られていました。
 その日曜日は、風の強い晴天の日でした。 日頃「フクロウ屋貸本店」で見かける人々が、それぞれフクロウのキーホルダーをブローチにしたり、勲章のように胸のポケットに飾って多数集まっておられました。
 どなたも銅のフクロウばかりで、銀のフクロウをお持ちのかたはお見かけしませんでした。
 やがて、ナリン殿下のご挨拶が始まりました。殿下は普通の背広姿でしたが、その胸には銅のフクロウが勲章のように輝いていました、気品のある顔立ちや立ち振る舞いに、わたしと同じ年頃の若い娘たちはうっとりと聞き入っていました。
「集まってくれたことに対する御礼」の後で、殿下はおもむろに、
「この中に銀のフクロウをお持ちのかたはおられませんか?」 と問われました。
 すると、四、五人の紳士淑女が歩み出られましたが、どなたも中年以上の年配のかたばかりでした。
 気のせいでしょうか、わたしは殿下の目にかすかに失望の色が浮かんだのを、遠目に見て取りました。
(殿下はどなたか、このロンドンである特定の銀色のフクロウをお持ちのかたをお探しなかしら? でも、新聞広告で呼びかけてもみんながみんなここに来られるとは限らないし… それだったらフクロウ屋書店に問い合わせて、該当する性別年齢の人を一人ずつ当ったほうが早いような… 殿下ほどの地位のかたならできそうなのに…)
「…それでは、念のために…」 殿下の執事と思しきかたが歩み出て、慇懃に問いかけました。「…もしもこの場に『金のフクロウ』をお持ちのかたがいらっしゃっておられましたら、どうかお申し出ください。殿下より、謹んでミネルヴァ王国への無料観光旅行招待券を差し上げたいと思います」
 集まった一同は互いに顔を見合わせたまま… その場は一瞬水を打ったようにシーンとなり、ついで、どよめきと私語の渦がおきました。
 ところが、ほどなく一人の人影が執事の前に歩み出ました。
 わたしも、みなさんも(どんなお年寄りか?)と見つめて驚きました。
 胸元に小さな金のフクロウをかざしているのは、つばの広い帽子を目深にかぶった、殿下と同じ年頃のハンサムな青年だったからです。

「あんな若造が、休みなしに借りて読んでも、借りては返すだけで読んでいなくても五十年はかかる金のフクロウを持っているなんておかしい!」
「たぶん親子二代に渡って手に入れたものに違いない!」
「フクロウのキーホルダーは、親子なら譲り渡せるのか?」
 そんな囁き声があちこちで聞かれました。「…確かに金のフクロウだ…」 ナリン殿下は青年が差し出したマスコットをしげしげと眺めながら、うめくように言った。「…足元に彫られているお名前を拝見してもよろしいか?」
「どうぞ」
 青年は涼やかな声で答えました。
「『バベル』… バベルさん。お見受けしたところ大変お若いようですが、本当に五十年に渡って『フクロウ屋書店』の貸本を一万二千五百冊も読破されたのですか?」
「『そうです』と申し上げたら、どうお思いですか?」
 バベル青年は不敵に微笑んだ。
「貴男が何者なのか、お尋ねしようとは考えておりません。しかし、代りに一つだけお聞きしたいことがあります。…お集まりの皆さんにも。例え何万冊あるか分らないフクロウ屋貸本店の蔵書のほとんど全てを読んでいても、読み落としているかもしれないし、例えたった一冊しか読んでいなかったとしても、そこに書いてあって覚えておられるかたがいるかもしれない」
「一体どういうことですか、ナリン皇太子殿下?」
「本に書かれた内容のことなら、こんなまだるっこしいことをしなくても、どんなジャンルの、誰が書いた、どんな内容の本かをたぐって行けば、比較的簡単に絞り込めるのではありませんか?」
 銅のフクロウを持った紳士たちが口々に申されました。
「もしかしたら皆さんも利用されたことがあるかもしれません。フクロウ屋貸本店には、銅、銀、金のフクロウを持ったお得意様と言うか、愛読者だけが入室して借りることができる特別室があることを…」

 それはわたしも知っていて、何度か入れて頂き、書架の本を見せて頂いたことがありました。
 主に昔の貴重な写本や、遠い外国の滅びた言語で書かれているため、もはや誰も読むことができなくなった本などが集められていたように思います。
 フィオナ様や、シスター・セアラ様のようなかたがたならともかく、普通の読者にはまず関係のないものばかりでした。

「…その中の一冊で、赤いインクでこのフクロウの落書きを見かけたことがあるかたは、是非ともその本のことを教えて頂きたいのです。この通りです…」
 ナリン殿下は悲痛な面持ちで頭を垂れた。 集まっていたフクロウを持った人々がまたざわめき始めました。
 ですが、誰一人、落書きで描かれた赤いフクロウのあるページを見たことがある人は名乗り出ませんでした。
 そんな特徴のあるものなら、もし見たことがある人なら覚えているはずなのですが…
 わたくしも残念ながら記憶にありませんでした。
「ぼくは、見たことがある」
 バベル青年がポツリと言いました。
「おおっ! やはり!」
 ナリン殿下や執事は叫ばれ、人々からはどよめきが起りました。
「…とある、数が少ない、しかしじょじょに死に至る特別な難病に効く薬の処方箋が、同じページに落書きされていた。 たぶん何百年も前の、世間から認められることなく世を去った医者か、錬金術師か、魔法使いが、まったくの気まぐれで書き記したものだろう。
 その何万人、何十万人に一人がかかる稀な病気の者の関係者しか読んでも価値のないものだ」
「お願いしますバベルさん。どうか私にその本のことを教えて下さい」
 ナリン殿下がとりすがった。
「おや、もしかして、お身内のかたか、恋人か、親友が、その少しずつ死に至る病にかかられているのですか?」
 バベル青年が、まるでアラビア文字のような眉をひそめました。
「そうなんです! どうか、なにとぞ…」
 わたしはこのバベルと言う人が悪魔ではないか、と疑いました。その場にいたほとんどの人がそう思ったことでしょう。もちろん殿下とお付きのかたたちも…
 このバベルという人は、殿下の大切な人に呪いをかけるか、毒でも盛って、その病気にかからせて、その上でインチキ占い師でも雇って「治療法はロンドンのフクロウ屋貸本店の、赤いフクロウが落書きされた本に書かれてある」とでも預言をさせたのに違いありません。
「溺れる人は藁をも掴む」…困っている人の足元を見越して、とんでもない謝礼を要求するつもりなのだろう、と…

「お教え申し上げてもよいが…」
 バベル氏がゆっくりと口を開きました。
「ちょっと待って下さい!」
 わたしはなりふり構わず、人々をかきわけて殿下たちの前に歩み出ました。殿下がいいようにされてしまうのがいたたまれなかったのです。
「…わたしもその『赤いフクロウ』のことを覚えています! すぐにご案内できるか、と…」
「本当ですか、お嬢さん!」
 殿下は顔を輝かせました。
「ええ。本の題名と著者は忘れてしまいましたけど、どの書架のどのあたりにあったかはしっかりと覚えております。これからいますぐにでも赴いて…」
 実はわたくし、赤いフクロウが落書きされた本など見たことはありませんでした。ですけれど、こっそりと殿下たちには分らないようにダウジングの棒を使えば、バベルさんが予め仕込んでおいたであろうその本を取り出せる、と思ったんです。
(バベル青年の表情は?) と伺うと、これが悔しそうでも、(なんだ、この邪魔する女は?)というような気配は微塵もなく、まったく平然、淡々としていました。
(しまったわ! 仲間がいて、殿下が貸本店に入ってから問題の本を仕込むのか、それともバベルさん自身が手品師で、殿下と一緒に稀覯本室に入ってから自ら仕込むつもりなのかしら?)
 わたしは後悔しました。もしもそうなら、ダウジングで探しても、本棚に本はあるはずがなく、恥をかくだけです。
「バベルさん、有難う。しかし念のため、貴殿も一緒に来て頂けませんか?」
 ナリン殿下は穏やかに申されました。
「もちろん、そうさせて頂きましょう」
 バベルさんもにこやかに答えました。
「それではみなさん、料理も酒肴もまだまだあることですし、よかったら日没まで楽しんでいってください。…大勢で押しかけたら、フクロウ屋貸本店にもご迷惑をおかけしますからね。『キーホルダーの見せ合い』とか称して、実は私事のためにお呼び立てして本当にすみませんでした」
 殿下は深々と一礼して、わたしとバベルさんをチャーターした馬車に誘われました。
「自分は新聞記者です」 と称されるかたが「皆さん、この顛末をお知りになりたいでしょう? 明日の○○紙をぜひお楽しみに! そういう訳で…」
 と辻馬車を呼び止めて付いてこられました。
 わたしは(もしも失敗したり、はめられた場合、名前は出ないでしょうけれど、わたしのことも新聞に載ってしまうのでは?)と、ますます緊張しました。でもよく考えたら、成功しても、その経緯は報道されてしまうんです…
 馬車の中でわたしたちは終始にこやかに話をしました。有名な古典、いま流行っている本、珍しい本…
 ナリン殿下も、バベルさんも正真正銘の読書家でした。フクロウの記念品目当てに、せっかく借りても読まずに返してしまうような人ではありませんでした。
「あの… 殿下は普段ミネルヴァ公国にいらっしゃるのでしょう? 貸本を借りて、お国に送って、読んで、また送り返したりしていたら、一週間以上かかりますし、運賃のことを考えたら買ったほうが安いのでは?」
 わたしは無礼もわきまえずお尋ねしました。
 それほど殿下は気さくなかただったのです。
「おっしゃる通りです。お嬢さん。ぼくはほとんどミネルヴァにいて、読みたい本は買っています。ロンドンの上屋敷の召使いたちに、買って読破した本と同じ本を、ぼくの名義で借りさせて、このフクロウを手に入れたんです。何か反則っぽいですが、借りて、読まずに返して手に入れるよりはましだろうと思っています。…だから、赤いフクロウの落書きも目にしたことはありません」

 フクロウ屋貸本店の稀覯書室は、店の配慮でときどき焚かれる、よい香の匂いがしていました。
「ぼくはケンブリッジに留学していたので、この店自体は何度も来ていますよ」
 殿下は先頭を切って歩きながら言われました。
 わたしは、ダウジングの棒なしで占うため、いつもに増して心を鎮めました。

 心の中で、両手に棒を握っている姿を想像しました。嬉しいことに、幻の棒はいつものようにかすかに揺れます。
 けれど、指した先は、バベルさんの上着の中でした。やはりバベルさんは、「いま持っている、赤いフクロウの落書きのある本」を手品師のように、みんなの隙を窺ってこの本棚のどこかに忍び込ませるか、それとも直接上着の内ポケットから取りだして、あたかも本棚から抜き出したように見せかけるつもりのようでした。
「どうですか、お嬢さん、思い出されましたか?」
 バベルさんは意地悪く目を細めて訊ねられます。
 ナリン殿下と新聞記者のかたも真剣な目つきで、わたしを見つめられました。
(万事休す!)
『覚えています』と言ってしまった以上、いまさら『本はバベルさんが背広の内側に隠しておられます』 と指摘するわけにもいきませんでした…
「…思い出せないのでしたら、ぼくが… ミネルヴァ国への旅行は、お嬢さんにお譲りしますよ。ぼくは何度も行ったことがありますから…」
「お願いします、バベルさん」
 殿下が頭を下げようとした時、見えないダウジングの棒が、とある本箱の一角を指しました。同時にわたしは、バベルさんの上着の内ポケットから問題の本が消えているのを悟りました。
(どうして! どうして「お手柄」をわたしに譲ってくれるようなことをしたのかしら? 自分で仕込んで、自分で殿下に教えて差し上げたら、殿下に恩を売ることが出来て、ミネルヴァ国王室に入り込むことができたというのに?
…まあいいわ、とにかくいったんわたしが見つけたことにしておけば、後で本当のことをお話しすることだってできるのだから…)
「すいません、少々お待ちください!」
 わたしはすかさず本棚に手を伸ばすと、ついいましがたバベルさんが差し込んだ本を抜き出しました。
 それはホムンクルスについて書かれた翻訳本で、出版はそんなに古いほうではありませんでしたが、原典はアラビア語の本で、かなり大昔のものであるようなことが記してありました。
「失礼、ちょっと貸してくれ」
 ナリン殿下はわたしの手からひったくるようにしてその本を手に取り、中の表紙からページを繰りました。
 わたしは胸がドキドキしました。わたし自身、「赤いフクロウの落書き」は見ていないのです。「心でやったダウジング」が教えたのに過ぎません…
「あった! あったぞ!」
 ふいに殿下が叫びました。白い華奢な指が指したところには確かに、キーホルダーそっくりの赤いフクロウの落書きとともに、ラテン語らしい数行の落書きがありました。
「すごいですね、…その…」
「ブライディーです」
 わたしはバベルさんに向かって、冷たい微笑みを浮かべながら名乗りました。
 カメラのマグネシウム・フラッシュが焚かれました。
「良かったですね殿下、探しておられた本が見つかって」
「記事にしてもよろしいですか?」
 バベルさんや記者が口々に言いました。
「この本は借りて帰ろう! そうだな『ミネルヴァ国の皇太子ナリンが、探していた本を、英国人の友人たちの力添えで読むことができた』ということなら…
…バベルさんにブライディーさん、本当に有難う。このナリン、心より御礼を申し上げる。 時に、まだこの上に面倒事に付き合わせて悪いとは思うのですが、もし都合が許せば、これからわたしと一緒にミネルヴァ国のロンドンの上屋敷まで来て頂けませんか? こうなった事情を説明申し上げたい。…新聞記者のかたは、これから先はご遠慮して頂きたい」
 殿下の言葉に記者はガックリと構えた写真機を降ろしました。
「いいですよ。乗りかかった船です」
 バベルさんは、まるでこうなることを予想していたみたいに落ち着いていました。
「わたくしもご一緒申し上げますわ」
 こうして三人はまた、馬車に乗りました。「…もう薄々とお察しでしょうが、屋敷で見聞きしたことは、しかるべき時がたつまで秘密にして頂きたい」
 問題の本をしっかりと膝の上に置いた殿下は、真剣な表情でおっしゃいました。
「もちろんですとも!」
「お約束いたしますわ」
 宵闇が迫るなか、馬車は外国の大使館や、公使の館が建ち並ぶお屋敷町の一角に止りました。
 ミネルヴァ国は大国ではないので、公邸も普通の貴族のお屋敷くらいの大きさでした。 それでも、先に戻っていた執事や、数人の召使い、メイドたちが出迎えました。

 ナリン殿下は鍵と、それとは別に取り付けた南京錠を外して、自分の部屋に入りました。「…召使いたちを疑うようで申し訳ないのですが、さすがに、万が一にも見られてはいけないものがあるのです」
 ガス灯を灯すと、立派な家具や絨毯や本棚、壁に掛けられた絵画が浮かび上がりました。 表面が紺色の螺鈿の丸テーブルの上には、薄いヴェールのような絹の布がかぶせられた、小振りの鳥かごのようなものが置かれていました。
「大丈夫かい? 調子はどうだい、ファム?」
 中に何か動物でもいるのでしょうか、殿下は優しく呼びかけられました。
「本当に驚かないと約束してくださいよ」
 バベルさんもわたしも、覚悟を決めて頷きました。
「ファム、きょうはお客様を二人、お連れしてきたよ。でも心配しなくていい。お二人とも、ここロンドンの読書好きのおかたなんだ。お二人のお陰で、お前を助けることができるかもしれない方法が書かれている本を、見つけ出してくることができたんだよ…」
 ナリン殿下はそう言って、ゆっくりそっと絹の布を取り去りました。
 それは、鳥かごくらいの大きさの釣り鐘状のガラスの瓶で、中にはドールハウスのそれのような小さなミニチュアの家具がいくつか置かれていて、小さなベッドの中では、指人形くらいの大きさのお姫様が眠っていました。 わたしは「よく出来た蝋人形」だと思いましたが、バベルさんはこれ以上はないくらい大きく血走った目を見開き、十本の指で瓶を鷲掴みにしました。
「素晴らしい! 本物の妖精だ! 本物の! いったいどのようにして手に入れられたのですか?」
「三、四日前でしょうか。ロンドン郊外の別荘に滞在していたときのことです」 殿下は革張りの椅子に腰掛けて目を伏せながら語り始めました。「…日頃から施しを与えていた計算のできない、意味のある言葉も喋れない少年が、まるで巣から落ちた小鳥の雛を届けるように勝手口に持ってきたのです。
 メイド頭は(珍しい人形だ。旦那様も喜ぶに違いない)と思って、いつものように残り物を与えて受取りました。
 で、しばらく後、わたしに見せようと洗おうとした時、人形がかすかに息らしいものをしているのに気が付いて驚いたそうです。
 わたしはそのメイドに相当の額を払って口止めしました。
 わたしも結構、本は読んでいるほうなので、(この生き物は妖精か、ホムンクルスのようなものだろう)と考えました。
 そうだとすると、都会の、たくさんの人間から発せられる『気』や、工場の煤煙などが悪い影響を与えているはずです。
 とりあえず空の水槽の中にドールハウスをしつらえ、箪笥の中には(もちろん人形用の)変えの衣装などを入れて、ベッドに妖精を寝かせました。
 心なしか、荒かった息は収まり、とりあえず危機は脱したようでした。
 翌日には出入りのガラス職人を呼んで、ドールハウス全体を覆うように釣り鐘型の瓶を作らせました。
「ちょうど煙突みたいに、空気を換気する注ぎ口は、細く長いほうがいい、というのをどこかの、魔法や妖精について書かれた本で読んだ記憶があったからです」
 ナリン殿下の言葉に、バベル青年もブライディーも思わず頷いた。
「ぼくは、故国ミネルヴァの魔導師たちや、パーティで知り合っていた友好国の、有力な魔法使いたちに、かねて用意の鳩たちを飛ばしました。
 そのうちの一人が、使いの鳩に持たせてよこした手紙にはこう認められていました」

『親愛なるナリン皇太子殿下。
 殿下が手に入れられたのは、瓶詰めの妖精の一人か、と思われます。
 一般的に、妖精の寿命は大変儚いものであることはご存じでしょう…
 イギリスやアイルランド、ヨーロッパ各地の森の奥に棲んでいる妖精は、もし人間に捕らえられたら、その時点で消滅してしまうものがほとんどです。
 ですから、いま殿下の手元にいるのは、妖精のように見えて、正真正銘本物の妖精ではありません。かつては人間の女性であった者たちです。もしも彼女に薄い蜻蛉のような羽根がなければ、間違いありません』

 わたしは半分ガッカリしながらも、残り半分では興奮していました。
(人間をこのような姿にできるなんて、なんと素晴らしい術なんだ)と…

 手紙には続きがありました。
『もしも羽根がなければ、彼女は寿命が残り僅かとなった人間の老婆です。術の力で若く小さく可愛くなっているだけの。そして、これ以上寿命を長らえる方法はありません』

「わたしは胸を掻きむしられる思いでした。せっかく縁あってわたしのところに来た妖精、何とか命を延ばす方法はないものだろうか? と探し求めてみることにしたのです…」

「…わたしは、瓶の中の妖精に話しかけてみることにしました。人の言葉は通じなくても、あるいは通じなくなっていても、気持ちくらいは伝わる、と思ったからです。

『君は、元は人間だったのか? 年老いて寿命が迫ったので、さいごのはなむけに妖精の姿で若返らせてもらったのか?』
 金色の巻き毛、すみれ色の瞳、つややかな肌の妖精が、かすかに頷いたように見えました。
『わたしは魔法使いではないから、君の寿命を延ばす方法は見当も付かない。だけど、本はたくさん読んでいると自負するし、本好きの友人たちも大勢知っている。だから、方法を読んで知っている者がいないか、これから当ってみる。だから、諦めないで待っていてくれ。もし空振りに終っても、次の策を講じようと思う』
 妖精は目にうっすらと涙を溜め、頭をかすかに横に振りました。

 いま一度、知り合いの魔法使いたちに鳩を飛ばすと、東欧の辺境の朽ち果てた古城に棲む、仮の名だけ知っている、顔も姿も見たことのない一人が、返事をくれました。

『この返信、自信なし。もしも我の誤り、記憶違いであっても責めるなかれ。
 何百年も前に滅ぼされた《フクロウ魔術団》が、そのようなことに長けていたと、おぼろげながらに記憶する。彼らはフクロウの図柄や像をシンボルとし、特に自らの存在を示したい場合は、赤いフクロウをもって署名に代えた、という…
 ナリン殿下、奇しくも、そなたの国、ミネルヴァ公国の国章と同じじゃ』

「そこで、『フクロウ屋書店の、フクロウの愛読者章』を持つ人の集まり、パーティを催されたのですね?」
 わたしはおずおずと訊ねました。
「その通りです。でも良かった。貴女やバベルさんのお陰で、この本が手に入った。これでファムを救えるかもしれない… いや、きっと救えるはずだ」
 殿下は螺鈿のテーブルの上に、赤いフクロウの落書きのあるページを広げました。
「マンドラゴラ… ユニコーンの角、とにかく何が何でも調達する! それまでは…」
「それはしなくてもいい」
 低い声でバベルさんがつぶやきました。
「えっ? いま何とおっしゃったんですか?」
 わたしたちは彼の顔をみました。
 彼は、いままでとは打って変わった邪悪な笑みを浮かべながら、釣り鐘ガラスの上部の取っ手を掴んでぐいっと持ち上げました。
 中のドールハウスの家具は横滑りに滑り、ベッドも傾いて妖精が恐れ怯えた表情で目を覚ましました。
「この小さな美しい生き物の命を、定められた以上に長く引き延ばすことは、このぼくが行う! 良かったよ、新聞の広告を見つけてわざわざ出向いてきて… 正直、フクロウの読者章だけが目的の、金持ちの坊ちゃんの伊達や酔狂だったら、とんだ無駄足になるところだった」
 バベル青年はガラスの入れ物を持ったまま、ゆっくりと後じさると、窓を開けはなって夜の闇の中に消え失せました。
「待て! それはわたしのものだ! 返したまえ!」
 ナリン殿下が窓枠を乗り越えて追いかけようとするのを、わたしはしがみ付いて止めました。
「待って下さい殿下、危険です! バベルさんは間違いなく魔法使いです! 拳銃とか持っていらしても、通用する相手だとは思えません!」
「しかしこのままでは奴の行方が…」
「もう足音も聞こえません。追っても無駄です!」
 そこへ、騒ぎを聞きつけた執事やメイドたちが入ってきました。
「おお、これは!」
 彼らはカーテンが翻る窓を見て顔を引きつらせました。
「あのバベルという奴は泥棒だった」
「特に盗まれたものは見あたりませんが?」
 執事は部屋の絵画や飾り物を見渡して言った。メイドの中の一人は何かを言いかけて押し黙った。
「…しかしとにかく警察に連絡を…」
 執事たちは出て行った。
「わたしも追うぞ! このままで済ませられるか! 『黄金の暁団』でも『英国心霊研究協会』にでも、どこにでも頼んでバベルなる者の身元を突き止めて…」
「大丈夫です、殿下…」 わたしは殿下の耳元に囁きました。「わたしもバベルさんが何者であるかは分りません。でも、バベルさんがどこに居られるか、どこへ向かっているかは分ります。実はわたし…」
 ダウジングの能力と、きょうの稀覯書室での出来事を話すと、殿下はさらに驚かれました。
「何と、ブライディーさん、あなたも魔法使いでしたか!」

「…馬車を用意させます! さっそくですが、バベルの逃亡先を占ってください!」
「分りました。でもその前に、仮にバベルさんの居所を突き止めて乗り込んだとして、バベルさんが凄い魔法使いだったら、戦って勝てる魔法使いのかたが一緒でなかったら、返り討ちにあうか、また逃げられてしまうだけですわ」
「そうですね… でも困ったな… 故国ミネルヴァならともかく、ここロンドンで、いますぐ力になってくれそうな者は…」
 ナリン殿下は歯がみした。
「大丈夫です。それもわたしに心当たりがございます。『黄金の暁団』に誘われておられて、『英国心霊研究協会』にも時々出入りされているかたです。ケンブリッジの学生さんで、魔法には大変お詳しいかたです。
 いまロンドンにいらっしゃったらいいのですが…」

 運のいいことに、そのかた、アレイスター・クロウリーさんは、ロンドンにおられました。わたしはまず彼の居所を占いで突き止め、殿下とともに『黄金の暁団』本部の近くの喫茶店に向かいました。
「…で、そのバベルとか言う魔法使いにまんまとしてやられた、というわけですか?」
 クロウリーさんは肩をすくめ、小首をかしげられました。「…だめじゃないですか、ブライディーさん。貴女というかたが一緒におられながら… もう少し用心されるように、内緒で殿下にご忠告するべきでしたね」
「申し訳ございません…」
「バベルと名乗る魔導師、素行の悪い者たちの中に心当たりはないだろうか?」
 殿下が問われました。
「『妖精マニア』は結構数がいますからね。『隠れ』を足したら、もっとの数になるでしょう」
「一緒に来て頂けますか? 御礼は…」
「いや、礼など結構。実はぼくも一度、瓶詰め妖精なるものをこの目で見てみたい、と思っていましたし…」
「おお、それは何と御礼を申し上げたらいいか…」
「それよりもブライディーさん、バベルは貴女がモノの在処や人の居所を捜し当てる能力の持ち主であることを知ってしまっているのでしょう?」
 クロウリーさんの灰色の双眸が輝きます。
「ええ。こんなことになるのなら、出しゃばったりしないで、バベルさんに本を出させればよかったですわ」
「バベルは、我々が味方を集めて乗り込んでくるだろう、ということはある程度予想しているわけです。つまり、罠の中に飛び込まなくてはならないかもしれない」
 殿下もわたしも黙り込みました。
「面白いじゃありませんか。やつがどこの国の人間か知らないが、いまや、このぼくアレイスター・クロウリーがイギリス一、…いや、ヨーロッパ随一の魔法使いであることを教えてやることにしましょう!」
 殿下はお抱えの御者に馬車を飛ばすように命じました。
 わたしは懸命にダウジングの棒を見つめ、バベルさんとファムさんの行方を占いました。 夜は更け、わたしはお腹もすいてきていましたし、白詰草亭の店主オマリーさんも、メイド仲間のみんなも心配しているのでは、と思いましたが、ファムさんを拐かされた殿下の心境を考えると、とてもそんなことは言い出せませんでした。
 馬車はやがて、猥雑な建物が建て込んだ下町の路地に止りました。
 ガス灯もなく、月明かりに浮かび上がったのは、いかにも用心が悪そうな、建て増しを重ねたアパートでした。
「どうされます、ブライディーさん?」
 殿下が訊ねられました。
 アレイスターさんはと言えば、先に馬車を降りて黄色い灯りがいくつか灯った窓に目を凝らせていました。
「わたしもご一緒させて頂きますわ」
 アレイスターさんを先頭に、埃の積もった汚い階段を登りました。階段は途中から螺旋階段になり、まるで塔を登っているような感じがしました。
「さて…」
 登り切ったところのツギの当ったドアの前で立ち止まったアレイスターさんは、まるで透視でも行うように見つめました。
 ノックをすると、若い女性の声で返事がありました。
「どなたですか?」
「バベルさんの知り合いのナリンという者です。開けて頂けますか?」
「開けなかったら術で破るまでだ」
 アレイスターさんが囁きましたが、ドアはギイッと音を立てて開きました。
 わたしと同年代の…十六、七歳の美しい少女がキョトンとした目でわたしたちを見つめました。金色の巻き毛の髪、すみれ色の瞳、どこかで見た顔です。…それも最近…
「主人のバベルはただいま研究の最中で会えません…」
「ファム! わたしだ! わたしのことを忘れたのか!」
 ナリン殿下は血相を変えました。

「…あいにくですけれど、どちら様でしょうか?」
「だからわたしだ! ナリンだ!」
 大きくなったファムの身体を抱きすくめようとする殿下の両肩をアレイスターさんはさりげなく、しかししっかりと押さえました。
「殿下、せっかくですが本人が『記憶にない』と言っている以上、どうしようもありません。ここはいったん…」
「こんな莫迦なことがあるか! …それは確かに、瓶の中の小さなファムと過ごしたのは、三日か四日に過ぎないけれど、わたしの人生でも忘れられない三日か四日だった。それはファムも同じはずだ。…そうか、分ったぞ。バベルはファムを奪って、いち早くこの本の『赤いフクロウの落書きの呪文』を実行したんだ。それで、瓶の中にいたファムは、瓶から出され、元の大きさに戻されても死ぬこともなく、思い出も消されて奴のものにされてしまったんだ!」
「殿下、証拠がありません! この女は、殿下の心を乱すための者かもしれません」
(アレイスターさんのおっしゃる通りだわ) わたしもそう思い、とっさに目の前の美少女が「大きくなった瓶の中の妖精か、どうか?」を占いました。すると…
『同一ではない』 と出ました。
「殿下、アレイスターさんのおっしゃる通りです。この人はニセモノです!」 わたしは殿下の耳元に囁きました。「わたしがダウジングをしたのは、バベルさんの逃亡先です。彼はおそらく奥の部屋にいるのでしょう。瓶の中の、本物のファムさんは、どこか別の場所に隠しているんじゃあないでしょうか? もう一度占い直せば…」
「そうか、それだったら乗り込んでバベルを問いつめたほうが早いんじゃあないか?」
 ファムの大きなニセモノがにわかに唇を歪め、逆立てた金髪が灰色に変ったかと思うと、顔全体が鬼女の形相になりました。
「そこの小娘、ダウジングだけではなく、真贋も占えるのか! これは少々甘く見ていたな。…バベル様、どうかお逃げください。ここはお任せを! …黙って帰っていれば無事であったものを、おせっかいを後悔するがいい!」
 偽のファムが術を唱えようとしたその時、顔も手も胴も足も、どろどろの泥になって崩れ去り始めた。
「何?」
「ふーん、君の正体は泥人形だったのか。うっかり早まって先制攻撃して万々一本物だったら取り返しがつかない、と思って控えていたんだが…」
 アレイスターさんは、まるで他人事のように呟かれました。
「い・つ・の・ま・に…」
「やっつけていいものなら、ぼくは一瞬もためらわないよ。君如きが操る術なんか、どうせ見せて貰ったところで参考になりはしないだろうからね…」
 泥の固まりを捨て置いて、奥の部屋のドアを開けると、そこはもぬけのからで、窓が大きく開け放たれて、何枚かの書類が夜の風に舞っていました。
「こんなに逃げ足が早いということは、バベル本人も恐れるような相手ではないな。問題は本物のファムの居所です。ブライディーさん、今度はそれをダウジングで占ってください!」
 殿下の言葉にわたしは大きく頷きました。「その前に腹ごしらえを… 今夜のうちには片づくでしょうから…」
 アレイスターさんの提案に、ナリン殿下は渋々でしたけれど、わたしは正直ホッとしました。お腹が減って、このまままた馬車に乗ったらグウグウ鳴りそうだったものですから…

 わたしたちはアレイスターさんのお勧めの店で、夕食を取りました。
 そこは何か洞窟のようで、奥のほうのテーブルは他のお客から見えないようになっていました。
 殿下だけは気が気ではない様子でしたけれど…
 皿が下げられた後で、わたしはロンドンとその郊外の地図を広げて、ダウジングの棒を握り締め、占いました。
「大丈夫ですか、ブライディーさん。食事をしてすぐに…」
 アレイスターさんが半ば冷やかすように訊ねました。
「ええ。さっき飛びきり濃い紅茶も頂いたことですし…」
 占いは「馬車で一時間ほど行った田舎の屋敷」と出ました。
「どうしましょう? いまから行ったら真夜中になってしまいそうですが… もちろんぼくは構いませんが…」
「それでは腹ごしらえもすんだことだし、行きましょう!」
 ナリン殿下が椅子を蹴るように立ち上がりました。
 外へ出ると雨が降っていました。遠くに稲妻が走り、小さく雷鳴も聞こえてきます。
「いい夜ですね、そうは思いませんか?」
 アレイスターさんはニヤッと微笑まれました。

 馬車は水たまりの水を蹴立てて走ります。「ファム、無事でいてくれよ! もしものことがあったら…」
 ナリン殿下は馬車の中なのにもかかわらず器用にマントを羽織られました。
「ブライディーさんも、寒かったらどうぞ。 婦人用のものも積んでいますので」
「失礼します。こんなことを申し上げるのは何なのですが…」
 アレイスターさんは付けたばかりの紙巻き煙草を灰皿で揉み消してから言いました。
「…どうしてそんなにファムさんにこだわるのですか? 確かに妖精は珍しい。しかし妖精はファムさんただ一人だけじゃない。三年、四年と一緒に暮らしたのなら、愛情が深まるのも無理もないけれど、三日か四日でそんなに執着されますか? 殿下ほどの身分であれば、まして魔法使いのお知り合いも多いのなら、ファムさんは諦めて、新しい妖精を捕らえるほうがやさしいのではないか、と…」
「そ、それは…」 殿下は思わず言葉を詰まらせました。「…気に入ったのです。ファムの容姿も性格も…」
「それなら分ります。そういうこともあるでしょうね、たぶん…」
 アレイスターさんは二本目のシガレットに火を付け、それは根本まで吸っておられました。
「また道が二またに分かれています! どっちですか?」
 ずぶ濡れの御者が叫びます。
「樫の木の並木道が続いているほうです!」 わたしは小窓越しに指さしました。
「了解!」
 御者は目隠しした馬に軽く鞭を当てました。 しばらく走ってからのこと、馬車がガクンと揺れて傾き動かなくなりました。
「それ行け! やれ行け!」
 御者は馬たちを励ましつつ、必死で鞭を当て続けましたが、馬車はギシギシと揺れるだけでした。
「どうしたんだ?」
「申し訳ございません、殿下。ぬかるみに車輪が落ち込んでしまったみたいです」
「仕方がない。降りよう…」
 ナリン殿下をはじめ、アレイスターさんもわたしも馬車から降りました。
 空になった馬車を二頭の馬で牽くのですから、簡単に抜け出せる、と思ったのですけれど、ますます
 傾くばかりでした。
「おい、無駄だ! 車軸が折れている! 交換しなければ!」
 暗闇で土砂降りの中、アレイスターさんが灰色の眼を金色に光らせて叫びました。
「仕方がないです、皆さん。いったん馬車に戻って下さい。また持ち上げなければならない時に出て頂きますから!」
 御者は予備の車軸を取りだして言いました。「ブライディーさん、あとどれくらいの距離でしょうか?」
 ふいに殿下が訊ねられました。
「あと、数マイルくらいだと思います…」
「わたしは歩こうと思います。ブライディーさん、どうか地図を書いてください。お二人は馬車が直ってから追いかけてください。それから、雨の中でも消えないランプをお願いします」
「いけません殿下、この雨の中をお一人でなど… どうしてもとおっしゃるのなら、この私がご一緒します!」
 御者が立ちはだかった。
「おまえは一刻も早く馬車を直して、ブライディーさんとアレイスターさんを連れてきてくれ」
「わたしがご一緒します」
 わたしはマントを羽織り直しました。「…田舎育ちで雨の夜道にも慣れておりますし… アレイスター様、追いかけてきてください」
「分った。そうしよう。心配ない。君たちが屋敷に着く前に、途中で追いつくだろう」

 殿下とわたしは馬車を後に残して歩き始めました。
 幸い、雨は小やみになりかけていたものの、殿下は何度もぬかるみに足を取られて転びそうになりました。
「お気持ちはお察し申し上げますが、どうしてこれほどまでに…」 わたしはアレイスターさんと同じことを訊ねてしまいました。「…もしかして、ファムさんに恋をされてしまったのですか?」
「まぁ、そんなところだ」
 殿下は言葉を濁されました。
 小一時間ほど歩いた頃、目の前に怪しげな蔦で覆われた一軒家の灯りが見えてきました。
 振り返ったところ、馬車が追いかけてくる気配はありません。どうやらわたしたちが先に着いてしまったようでした。
「乗り込むぞ!」
 殿下は懐から拳銃を取り出しました。
「お待ちください。相手はバベルさん一人ではないかもしれません。また配下の者がいるかも…」
「では、手薄なところから忍び込もう」
 占いで、一階の鍵のかけ忘れた窓を探し出し、まず殿下が、殿下の腕に捕まってわたしが潜入しました。
 ランプの灯りが照らし出したその部屋を見て、わたしたちは思わず声を上げそうになりました。大小さまざまなフクロウの置物が所狭し飾られていたからです。
 この様子では、あの「フクロウ屋貸本店」の金色のフクロウも本物、と思いました。

 廊下に出ると、時々香が焚かれているような匂いもしましたが、それ以上に生き物の臭いが漂っていました。それも、馬小屋や牧場のそれではない、どちらかと言うと動物園のような、いろんな動物の臭いが少しずつ入り交じったような…
 次の部屋のドアを開けて、ランプの灯りで照らすと、さらに驚きました。
 壁には一面に棚が設えてあって、そこにはズラリと大小の、太かったり細かったりの瓶が並べられていました。
 近づいて一つ一つの瓶を覗いて見ると、ある棚の瓶の中にはミニチュアの木や草が植えられていて、木の枝の上には鳥の巣があって、中には小麦の粒くらいの小鳥が眠っていました。また別の棚の瓶には水が満たされていて、サンゴが植えられていて、きれいな色の小さな魚が泳いでいました。
 さらに別の棚には、小指の先ほどのライオンや虎や、ゾウや猿たちが入れられていました。
「動物や植物を小さく縮めて瓶詰めにすることができた、と言う、いにしえの『フクロウ魔導師団』の仕業だ!」
 ナリン殿下が囁きました。
「フクロウ魔導師団は、どうしてこんなことをするのでしょう? 単なる慰みものなのでしょうか?」
「それもあるだろうが、人間を小さくすることが出来れば飢饉の時に助かる。次に大勢の囚人や捕虜を閉じこめておきたい時にも便利だ。さらに、例えば、自分の国が戦争で負けそうになった時や、地震を予知して避難しなければならない時にも利用できる」
「すると、これらの瓶は…」
「まだ実験の段階を出ないのかもしれないがなんらかの生きるための方法…一つの国や世界を具現したものなのではないだろうか…」
「その通りだ」
 部屋のガス灯が一斉に灯り、わたしたちは思わず目をつむりました。
 再び目を開くと、壁一面の瓶が、ステンドグラスかモザイクのようにキラキラとまばゆく輝いていて、その前にバベルさんが立っていました。
「…だが、何百年と研究を積み重ねてきたのにもかかわらず、ゾウやライオンなど、瓶の中で定められた寿命を生き続けるものもあれば、術をかけた途端にショックで死亡してしまうものもいる。原因は分らない… これではいくら因果を言い含めて、金をたくさん払っても、瓶の中での暮らし続けることを望む人間はいない、…死の病にかかった者以外はな…」
「ファムを返せ!」 ナリン殿下は銃口をバベルさんに向けました。「こちらにはブライディーさんがいるんだ。いくら隠しても、すぐに見つけ出してみせる。おまえなんかもういなくてもいいんだ!」
「殿下、危険です。アレイスターさんがまだ追いついてきません。もしもわたしたちが小さくされて、瓶の中に閉じこめられてしまったら…」
「おまえたちがここを探し出してやってくるというのは、最初から計算のうちさ!」
 バベルさんはそう言って、どこからともなく釣り鐘型のガラス瓶を取り出し、サイドテーブルの上に置きました。
 瓶の中には、金色の巻き毛にすみれ色の瞳の妖精がいて、小さな拳で瓶をトントンと叩いていました。
「ファム、待っていてくれ、いますぐ…」
 殿下の手にした拳銃が、たちまち小指の先くらいに小さくなって床の上に落ちました。
「そこのメイドのお嬢さん、これなる『殿下』がどうして、これほどまでにこの『ファム』なる妖精を取り戻したがっているのか、その理由をご存じか?」
「それはその… 一目で愛されるようになったから…」
「甘い! 二人は魂を交換したのだ。つまり、この中のファムが実はナリン殿下で、おまえの隣にいる殿下が、実はファムなのだ!」
「本当ですか?」
 わたしは思わず殿下の横顔を見つめました。
「ああ、本当だ。早くもう一度入れ替わらないと、二度と入れ替われなくなり、本物の殿下は一生瓶の中、殿下の身体をお借りしたわたしは、ほどなく病が進んで命が尽きてしまう…」
 殿下の姿のファムは目を伏せながら言いました。
「どうしてそんな莫迦なことをされたのですか?」
「わたしが『もう一度、瓶の中でも命を長らえる方法を知りたい。その方法を自分で探したい』と、殿下に申し上げたところ、同情して下さった殿下は一日、殿下の身体をお貸しくださったのです。
そこでわたしは、『フクロウのキーホルダーを持っている人々の集まり』を催し、自ら主催者として出席したのです。
 その前に、以前暮らしていた見せ物小屋の瓶から逃げ出したのもそのことが目的でした」
「だから、瓶の中での寿命は、このぼくが延ばしてあげる、と言っているだろう? まさかもう一度魂を交換して、元に戻るつもりじゃあないだろうな!」
 バベルが皮肉っぽく尋ねます。
「もちろん、そのために急いで来たんです。魂交換の術はナリン殿下しか持っておられません。近づいていいですか?」
 殿下の姿のファムはゆっくりと釣り鐘型の瓶に歩み寄りました。

「待て、それ以上近づくと、この瓶を叩き割ってやるぞ!」 バベルさんは、瓶を持ち上げて叫びました。「…そりゃあ面白い! 自業自得を絵に描いたようなものじゃないか? おまえたちはずっとそのままでいるんだ。 ファムとやら、おまえは残された寿命でナリン殿下の役割を演じるんだな。きっと楽しいぞ。華やかな王室行事と社交界。金の心配もしなくていいだろうしな。小さい妖精の姿になったナリン殿下は、以後ぼくかずっと大切に預かっておいてあげよう。もちろん預かり料は頂くつもりだよ」
「そんなことはさせない!」
 迫ろうとしたナリン殿下の息が次第に荒くなったかと思うと、片膝をついてひざまずきました。
「大丈夫ですか、殿下…いえ、ファムさん!」
「フフフ… 殿下として贅沢を楽しむ前に、お陀仏のようじゃないか。…おっと、無駄話はよそう。あのアレイスターという奴もこちらに向かっているのだろう? あいつとやり合うのは面倒だ」
 わたしは部屋の棚にズラリと並べられた瓶を見渡しました。
(瓶の中の「何か」で、自分を犠牲にしてもバベルに一矢報いたい、と思っている者がいたら…
 そういう者たちが、アレイスターさんが来るまで力を貸してくれたら…)
「お願い! ファムさん以外に、この瓶の中から出たいと思ったかたはいないの? もしいるのなら、どうか助けてあげて!」
 わたしは棚にズラリと並んだ大小色とりどりの瓶を見渡して呼びかけました。
 すると、全体の一割はありませんでしたけれど、いくつかの瓶がボンヤリと輝いて見えました。
(あれよ! あのいくつかの瓶を割って回れば、中のものは味方をしてくれる…)
「何を考えているか知らないが、瓶を割ったりしたら、恨まれるだけだぞ。瓶の中でおとなしくしていれば、ほぼ永遠の命を長らえることができるんだ。赤いフクロウの書き込みの処方でね」
「多くの存在はそれを幸せに思って、その状態に満足して、一切の変化を望まないかもしれない。でも、ファムさんみたいに、一部のものは、『一日でいいから瓶から出てみたい』と考えているかもしれないわ… たとえ命を失うことになっても!」
 わたしは最初の一瓶を棚から持ち上げました。
「莫迦な! 仮にそういうことがあるとすれば、不完全な術のためにファムのように寿命が尽きかけた場合だろう。赤いフクロウの方法で補えば、やけを起すものなどいないはずだ!」
『やめて!』
 瓶の中からとは違う、棚に並んだ他の瓶たちの中から声がしました。
『無茶はやめようよ! ぼくたちはずっと長い長いあいだ友達だったじゃないか! これからもずっと友達でいようよ! もう一生瓶から出られなくてもいいじゃないか! せっかくバベルさんが永遠に近い命を与えて下さったんだ。ファムは、特別な、ひねくれ者の跳ねっ返りだったんだ! 初めて会った奴の尻馬に乗って力を貸してやることなんかないよ! ぼくらは、君たちがいなくなったら寂しいんだ』
 わたしはいったん床に叩きつけて割ろうとした瓶を、棚の元あった場所にそっと戻しました。
 わたしの呼びかけに応えてくれた瓶の中の小さな人の影のような、あるいは小さな獣のような存在が次々と首をうなだれて、瓶も輝きを失ってしまいました。
「クックックッ… そら見たことか! どいつもこいつもごくたまに、一人でいる時は瓶から出て見たいと思ってみても、またすぐに考え直すのさ!」
 バベルさんは勝ち誇ったように嘲笑いました。
「…もはや誰もこれらの瓶から出たい者はいない! もちろんファムも… 心の中身がナリン殿下だろうと誰だろうと、関係ない。おまえたちも瓶詰めにされてしまわれたくなかったら、いますぐさっさと帰ることだな!」
 わたしも、殿下の姿のファムさんも歯がみしました。
 とその時、窓がパァーンと開いて、アレイスターさんが躍り込んできました。
「クロウリーさん!」
「殿下、ブライディーさん、窓の外を見て下さい… ぼくは、この屋敷が陽炎のように揺らめくのを見て、あわてて飛び込んだのですが…」
 言われるままに窓の外を見ると、宇宙を飛ぶ船のように、無数の星々が飛び去って行くのが見えました。
「この屋敷は、いわば『ノアの箱船』の一種なのです。永遠に近い命と引き替えに、瓶の中でまどろんで暮らす者たちの船なのです」 アレイスターさんは険しい表情で言われました。
「そうさ、素晴らしいだろう! もはやおまえたちも勝手に降りることは出来ない! 小さくして瓶詰めにしてやるから有難く思え!」
 バベルさんが三本の空き瓶を持ち出して迫ってきました。

「アレイスターさん、何とかできないものでしょうか?」
 ナリン殿下がすがる目で見つめます。
「地上にいる時なら、『二つ三つ』瓶を割って、騒ぎに乗じてファムさんを奪い返して逃げ去ることもできたでしょう。しかし、こうなると、逃げることが難しい… バベルを道連れにして全員自爆すると言うのなら簡単ですが… 我ながら不覚でした…」
「フフフ… さすがは『神童』アレイスター・クロウリー、状況がよく分っているじゃないか。いまのわたしたちは、さながら飛行船の火薬庫に乗り合わせた客だ。命が惜しかったらおとなしく瓶詰めになってしまうことだな!」
「バベルさん、貴男は大変本好きなかたです。読書が大好きなかたに心から悪い人なんていないと思います。きっと何かの事情があったのでしょう。よかったら話して下さいませんか?」
 わたしは心を込めて話しかけました。
「なんだかんだと言って時間を稼ぎ、何か考えるつもりなのだろうが、そうは問屋が卸さないぞ! …だがまぁいい… 教えてやる!

 アレイスターが言ったとおり、『ここ』はノアの箱船の一角だ。大昔、フクロウ魔導師団というものが、いまのミネルヴァ公国のあたりにあった。…殿下はお嫌かもしれないが、殿下とわたしは、遠い祖先を一にする同じ一族の末裔かもしれないな」
 バベルは唇を歪めました。
「…いにしえの、フクロウ魔導師団の研究テーマは、例によって不老不死、永遠の命を得ることだった。
 そしてある時、この上もなく優秀な先祖の一人が画期的な術を完成させた。
 老いて病にかかって死を待つ者も、身体を小さくして、とある瓶の中に入れば若返った上、命を長らえることができる…
 無論、その命は無限ではない。伸ばすことはできても未来永久に、というわけには行かなかった…
 それでも依頼人はひきも切らず、人間も、人間ではないものたちも、老いて死に至る病にかかったらフクロウ魔術団を頼ってきた。おまえたちがいま見ているのが、遠い過去からの依頼人の姿だ。
 また、ファムのように、逃げ出したものの回収もやってきた。
 そのためには、何代もの親子、師弟に渡って、『いままでに瓶詰めにしてきた者たちの管理をする者』が必要だった」

「それがバベルさん、貴男なのですね?」
「そうだ。いま君たちが目にしている瓶は、それらのほんの一部に過ぎない…」
「この他にも、べつの場所にまだまだたくさんある、ということか?」
 アレイスターさんが口をはさまれました。「そうだ。それらの瓶を管理する者たちも、最初はそれなりの数がいた。…しかし、長い年月が過ぎ、管理人の子孫…養子や弟子たちを含めても数は減るばかりだった。
 なぜなら、瀕死の老いたいきものを瓶に封じ込めて生きながらえさせる術は大変難しく、熱心に教えても出来るようになる者は少なく、さらに、今回のように何かあった時に対応できる者は少なかったからだ」

「わたしの代りに、いまそちらの瓶の中におられるナリン殿下も、遠くフクロウ魔術団の血を引いておられて、何らかの才能があられるかただったのかもしれないな…」
 ナリン殿下の姿のファムが呟いた。

「…とにかく、術を継承する者…すなわち瓶の管理人は十人になり、五人になり、三人になり、いつしかわたし一人だけになってしまった。好むと好まざるとに関わらず、だ。
 世界中に瓶を保管してある家屋敷、倉庫を巡っている移動の時間に、読む本の数だけが増えた。保管してある場所は、『ここ』のように普通の場所もあれば、中の生き物に合わせて灼熱の砂漠もあれば、極寒の氷河もある…
(どうすれば、もっと要領よくすることができるか? 悪意のない者を選んで術を指導し、一人前に育てることができるか?)
 悲しい別れも多かった…
 瓶に封じられた者の命は、永遠ではない。定められた寿命よりも長く生きることができる、というだけで、『ある日覗いて見ると、息絶えている』ということが一番辛かった。 優秀だった先祖や先輩なら、もっと何とかできたのではないか?)という自責の念にも駆られたし、それよりも、何百年、もしかすると何千年生きながらえてきた命をわたしの代で失ってしまったことが辛かった…」

「分った。そういうことならわたしがおまえのところに弟子入りしよう…」 突然、瓶の中の、ファムの姿のナリン殿下が言われました。「術を上手く会得できるかどうかは自信がないし、貴男の望むような後継者になれるかどうかも約束できないが、とにかく全力でやってみよう」
「莫迦な! おまえはミネルヴァ王国の皇太子ではないか! わたしのような裏方の魔法使いとはわけが違う!」

「皇太子の位は弟たちのうちのなりたい者に譲る! 考えてもみなさい。いまのこの世の中に皇太子と名の付く者は何人もいる。だけども、瓶の管理人はバベルさん、貴男しかいない。珍しくも価値ある仕事ではないか?」 瓶の中の、ファムの姿のナリン殿下が続けられます。「…バベルさんもわたしも、むかしむかしの先祖を辿れば同じミネルヴァの一族。持って生まれた才能にそんな違いがあるとは思えない」
「信じられない! いまは調子のいいことを言っているが、再び魂を入れ替わって、元の状態に戻ったら約束を反故にするのでは…」 疑いながらも、バベルさんの表情には明らかに動揺の色が浮かびました。
「アレイスターさん、ファムさんの姿で瓶の中にいらっしゃる殿下が、あんなことをおっしゃっていますが、いいんですか?」
 わたしは思わずクロウリーさんを見つめました。
「良くない! もしもナリン殿下が、大英帝国の領土内で失踪されるようなことがあれば、大英帝国とミネルヴァ公国との関係は一夜にして悪化してしまう」
「分った。それならば契約と言うか約束は、わたしがミネルヴァに帰ってから実行することにしよう!」
 瓶の中の妖精が苦渋に満ちた表情で言いました。
「それもだめです、殿下。なぜならばぼくと、ブライディーがこの秘密を知ってしまっている。一生黙って秘密を守り通すわけには行きません」
 アレイスターさんは眉をピクリとも動かさずに言われました。
「おまえたちには情けというものがないのか?」
「あの… もう魂と身体はこのまま、というわけには行かないのでしょうか?」 殿下の
姿の妖精がすがるように言いました。「…つまりわたしは、殿下の姿でミネルヴァに戻り、寿命が尽きて死にます… 死因はきっと病死と発表され、皇位継承権は誰にも疑われずに弟殿下に移るでしょう。殿下は瓶の中でバベルさんから手ほどきを受けられ、『瓶から出ても命長らえる』方法を見出されたら、瓶から出てくる…と言うのは…」
 バベルさんをはじめ、殿下も、わたしも、アレイスターさんも一瞬あっけに取られました。
「そうだな… それなら殿下はずっと瓶の中なのだから、『修行する、術を学ぶ』という約束を破ったり、胡乱なことをすれば、すぐに処罰することができるな…」
 バベルさんは小さく頷かれました。
「しかしファム、それでは君が可哀相だ! 皇太子を演じ続けて、ほどなく寿命が尽き、死なねばならない…」
「わたしはそれは構いません。瓶の中にいてもじきに尽きる命だったのです…」
「『男性』として、死なねばならないぞ」
 アレイスターさんが皮肉っぽく言いました。「それは問題ありません。なぜなら…」 殿下の姿のファムさんは、ポッと顔を赤らめました。「…殿下は女性であられましたから…」
「何だって!」
 バベルさんは目を大きく見開かれました。「何だ、バベル、君はこれだけの数の瓶を管理する魔導師でありながら、気が付かなかったのか?」 アレイスターさんは肩をすくめられました。「ファムさんはもちろん、ナリン殿下も女性だよ。二人は、仲良しの女の子同士が服を交換するみたいに、入れ替わったんだ」
「どうして…」
 バベルさんはまだ(信じられない…)といった表情でした。
「現国王…つまりわたしの父と、正妻の母とのあいだに生まれたのは、わたし一人だ。二人目を生むことができなくなった母は、名門の出だったので、母の側近たちはわたしを男子として育て、何が何でも当面の跡取りにしようした… いっぽう、反対勢力は父に側室を薦めた。弟たちは腹違い…ということだ。 だから、わたしにとって皇位は、はなから重荷以外の何ものでもなかった…」
 瓶の中のファムの姿の殿下は、溜息まじりに言いました。

 バベルさんは、その後しばらく何も言わず、『瓶の屋敷』を元の地上に戻してくれました。「殿下! ご無事でしたか?」
 待っていた御者が走り寄りました。
「ああ、無事だ。アレイスターさんもブライディーさんも本当によくやって下さった。
 目的のものは取り返すことはできなかった。 もう諦めることにする」
 ファムさんは上手に殿下を演じ続けられました。
「そう、それがよろしいです。殿下は殿下なのですから、大抵のものは手に入れ直すことがおできになります」
 御者はホッとした様子でした。
 アレイスターさんは黙って、雨の上がった夜空を眺めておられました。
 えっ、わたしが殿下の秘密に気づいていたか、ですって?
 それは内緒にさせておいて下さいね…



 ウォーレス博士が語る「化石コレクター」

「妖精」というほどファンタスティックで華やかなものではないけどね…

 ウォーレス博士は、愛用の鉄縁の眼鏡を外してクリーム色のフェルトで拭きながら語り始めた。

 ご承知の通り、「カンブリア」というのはウェールズ地方の古い呼び名だ。むかしから五億年ほど前の、奇妙奇天烈ないきものの化石が出ることで知られている…
 その片田舎に、仮の名前をニールいう、手先が器用で想像力もある男が住んでいた。
 ニールは農業と、小さな土産物屋をやっていたが、土地は痩せていて、訪れる観光客はそんなに多くはなかった。
 珍しい化石は、発掘隊が高く買ってくれたものの、珍しい化石は滅多に見つけられないから珍しいのであって、そんな僥倖に頼ってばかりいるわけにはいかなかった。
 ある日、ニールはふと思いついた。
(最初からレプリカと断ってしまったら、どんなカンブリア紀生物の化石でも高くは売れない。「なぁんだ、型にはめて石膏を流し込んで、ものすごくたくさん作ったレプリカか…」と思われてしまって、売れても数えるほどだ。飾って眺めても、きれいなものでも、気持ちのいいものでもないからな。
 かと言って、俺みたいな、正式に学校で学んだことのない者に、学者さんやマニアをだませるほどの偽化石を作れるわけがないものな。…そもそも「五億年前」なんて気が遠くなるほどのむかしじゃないか。百年前、二百年前の画家や彫刻家のニセモノを作るのとはわけが違う。五億年も前のものというのは手触りや匂いからして、まったく違うんだろう…
…待てよ。化石だ、と言うから見破られて詐欺になってしまうんだ。レプリカだと言ったらナメられてしまう。だったら、自分でオリジナルのイキモノをいくつか創って、土産物に紛れ込ませてさりげなく置いておく、というのはどうだ?
 それでもしも誰かに「あそこに置いてあるのはなんですか?」と尋ねられたら、
「すいません、アレは売り物じゃあないんです。家の物置から出てきた、俺の親父か爺さんが、土地の老人か少年に貰った手作りの模型なんだ」 とか、曖昧なことを答えるんだ。
 すると学者やマニアは、(図鑑やカタログにはない生物だ。もしかして、製作者がどこかの崖や地層で見た…まだ学術隊が掘り出していない…未知のカンブリア生物の模型ではないだろうか?) と思ってはくれないだろうか?
 もし思ってくれたなら、欲しくなるのでは? 「このウェールズの僻地の崖のどこかに実在するかもしれない新種の生物の模型」だと勝手に思い込んでくれたなら、喉から手が出るほど欲しくなっても不思議ではないのでは?
 自分は最初から「これは模型だ」と言っている。おまけに、どこかに「別に」あったものを写したものかもしれません…とか、さらにあやふやなことを言っておく。
 決して「本物です」とか「実在したものを写したものです」などとは言わない。本物かそうでないかは、相手が勝手に思い込むことだ…
 勝手に何かを思い込んで「ぜひとも売ってください」と頼まれれば、仕方なく、渋々売ることに決める。
 誰も騙したりなんかしない。すべては相手の独り相撲だ。
 ニールはその日から熱心に勉強をした。
 図書館でカンブリア紀の生物の図版が多く載っている本を借り出して、その生き物の姿形を自分のノートに写し取った。
 本文もなるべく読むようにした。
 それから、その挿絵をもとにして、自分で想像した生き物を一匹、また一匹というふうにノートに書いていった。
 次にそれらのイラストの中から自分で気に入ったものを選び出し、土産物を造るために買い込んであった粘土で造り、ちょっとずつ細部もかたどっていった。
 数日後、馬のような形をしたクラゲのような生き物や、カマキリに似た軟体動物や、鰭や節足のようなものが付いたナマコふうの生き物の素焼きが数個、焼き上がって完成した。 色はわざと付けなかった。本物の化石はどれも白っぽい骨のような色をしていたし、彩色図鑑などの図版の色は、どれも空想の域を出ない、と聞いていたので、(下手に色を塗るとかえって嘘っぽくなるのでは)と考えたからだ。
 ニールは、その中で最も気に入った、自分でも出来がいいと思うものを、ウェールズの民族衣装姿の陶器の人形(こちらはちゃんとカラフルに彩色されていた)や、土地のおばさんやお婆さん連中から仕入れた刺繍入りのスカーフやハンカチの脇に、売り物ではない飾り物のような感じでさりげなく置いた。
 最初の数日、チラホラとやってきた観光客たちは、特にでっち上げの人形には気が付かなかった様子だった。…いや、目には止っただろうが、何とも思わなかった様子だった。(このあたりを訪れる旅行者は、ほとんど有名な発掘現場を訪れるからな…) ニールは一人で頷いていた。(小さな博物館も建てられていてその中に土産物店もあるし、天気のいい日は沿道に露店も出ている。アノマロカリスやオパビニア、ハルキゲニアやクセヌシオンといったよく知られているものは、ここでは「珍しい生き物」のうちには入らない…)

 ニセモノのカンブリア紀生物を飾って数週間後、とうとう釣り餌にかかる者が現れた。
 それはクック社の団体ツアー客ではない、イングランドの郷紳か、成金のような、日曜古生物学者のような三十代の青年だった。
 青年は、チャーターした馬車を待たせたまま店の中へと入ってきて、他の客たちと同じように店内の売り物をざっと眺めて回った。 もとより10分もあれば全ての品物とその値札をチェックできるような小さな店だ。
 そうするうちにとうとう青年は、当地の古い…とうの昔に滅んだ…豪族の紋章の刺繍が入ったハンカチの、重し代りに置いてあるたくさんのミミズを束ねたような口のある素焼きに気が付いた。
「おや、これは珍しいですねぇ… こんな生き物、カンブリア生物の中にいたっけなぁ…」
 青年は背が画板になっている鞄を開き、図鑑を取りだしてページをめくった。
「…載っていない! 新種かな? でも、この素焼きは新しいな…」
 青年は小首をかしげた。
「わたしもよく分らないんですよ」 ニールは何回も練習した通りにとぼけて見せた。「貰い物でね。…売り物にするのもどうかと思いましてね…」
「貰い物…ですか?」
 青年は、それが置いてある棚に近寄って、しげしげと入念に眺めた。
「ええ。知り合いにね。その知り合いの子供が、可哀相に『小学校に来るに及ばず』と言われてしまいましてね。養護学校のある町まではとても遠いものだから、仕方なく家の手伝いをしながら、遊び時間は野山を駆けめぐっているんですよ。その子は粘土細工の名人でしてね。親御さんから頂いたものなんですよ」
「なるほど… それじゃあこのカンブリア紀の生物は、その子供さんが頭の中で想像して造ったものなんですね?」
 青年は心持ち肩をすくめて言った。
「…かもしれません。しかしその子が他に造った人形というのが、みんな近所の馬や牛や、犬や猫でしてね。それらはどれもリアルなんですよ。ですから、その子は『実際に何かを見たことがあるものしか造れない。空想では造ることができないんじゃないか』と思っているんですけどね」
「そうなんですか」
 青年の目が一瞬、ずるそうに輝いたのをニールは見逃さなかった。
「するとこのカンブリア生物も、どこかに本物の化石が実在して、その子はそれを自分の目で見てこの…レプリカを造った、と…」
「でしょうね。でも、わたしが勝手にそう思っているだけで、違うかもしれません」
「どうでしょう? ぼくにこの素焼きを譲って頂けませんでしょうか?」 青年はニールの耳に囁くように言った。「…ぼくは英国カンブリア紀学会の会員なんですよ。折を見て、友達に『この生物が実在した場合、どの種族の系列に属するものなのか』話し合いたいと思いまして…」
「頂き物ですからねぇ…」 ニールはわざと渋って見せた。「もしもその子と親御さんが来てくれたときに飾ってなかったらガッカリされるのではないか、と…」
「本当のことをおっしゃってくださったらいいんです!」 案の定、青年はムキになった。
「『ロンドンから来られた学者の卵が興味を持たれて調べて貰っている最中だ』と… …そうだ、譲って頂くのが無理でしたら、貸して頂くだけでもいい! レプリカのレプリカを造って、すぐに小包でお返し申し上げますよ! ここにあるのも、あそこにあるのも、みんなその子が造ったものですね? どれも図鑑には載っていないではありませんか。もしも化石が実在していたら、新発見ということになりますよ」
「そうですか…」
「50ポンド、いや、100ポンドでお貸し願えませんでしょうか? 借り賃はいますぐお支払いさせてもらいますよ」
 ニールは腹の中でほくそ笑んだ。
(しめしめ、願っていた通りになったぞ! 
 この出まかせでっちあげの素焼きが100ポンドに化けるとはボロいじゃないか! しかも「絶対に本物です」とは言っていない。大きな嘘はついていないわけだ。もし気の毒な親子のことを尋ねられたら「先方にご迷惑がかかっては…」と言わなければいい。
 この若者が学会で発表して、ニセモノだと決めつけられてしまっても「残念でしたね」と一緒に肩を落とせばいいだけのことだ!)
「分りました。そういうことでしたら三つともお貸ししましょう」
「有難うございます。感謝します」
 青年は何度も礼を言い、立派な名刺を置いて帰っていった。
 こうしてニールの手元には手の切れるような100ポンド紙幣が残った。

(よかった! 思った通りになったぞ!)
 ニールは貰った100ポンドで、上等の肉やウイスキーを買い、ジャンパーやコートや毛布を新調し、家の傷んだ箇所の補修をした。 ずっと欲しかったものを全部揃えても、半分は手元に残った。彼は喜んで貯金をした。 通帳の残高を眺めていると、久しぶりに人心地がついたような気がした。
(誰も騙してはいない… くどいようだが「このレプリカは、気の毒な少年の想像の産物かもしれない)と断っている… あの紳士にも「いい夢を見せてあげている」もしくは「いい夢を見せてあげた」んだ。何もやましいと思うところはないぞ。自作のレプリカだって返してもらえるはずだ。よしんば返してもらえなくても、あれが100ポンドで売れたということなら、笑いが止らないではないか!)
 数日後、ニールは「貸出中」の人形に代る、別の素焼きを造ることにした。
(貸出中のあいだに、また誰かカモがやってこないとも限らないからな。…しまった、スペアをいくつか用意しておくべきだったかもしれないな。こうして制作中に新たに客が来たら…)
 そう思うと居ても立ってもいられなくなって、またせっせと粘土をこねて造型に勤しんだ。
 空想上のカンブリア生物のイメージは後から後から湧いて出てきた。エビのようだが頭と思しきものが胴の両方に付いているように見えるもの。脚が無数にあるイカのようなもの、ムカデみたいないくつもの脚で移動できる鱗木のような生物。鱗に覆われたタコ…
 いくつものヘラを駆使してそれらしく作り上げた。
 と、空想はとどまるところを知らなかった。 ニールには明らかに特別な才能があった。 二、三日のうちに第二期製作の四体が出来上がり、彼はすぐにまた元の場所に遠慮がちに飾った。
(もし… もしあの100ポンドの紳士が、小包ではなく、直接手に持って返しに来たらどうしよう? …そうだ「あの人形は人に貸したんだよ」と子供に言ったら、また新しいのを持ってきてくれたんだ」と言うことにしよう…)
 ニールはもはや何も心配せずに、次のカモが引っかかるのを毎日楽しみにして店番をしていた。

 その老人は、空が真っ黒になった、いまにも大嵐がやって来そうな午後に現れた。
 浅黒い肌、鋭い眼、まるで猛禽みたいな、爪が伸びた皺だらけの痩せた両手。頭を黒い頭巾で隠していて一目普通の観光客には見えなかった。
 ニールは(どう見ても植民地の者だな。インド?ジプシーの老人ではないか? 嵐が過ぎるまで雨宿りのつもりで入ってきたのだったらどうしよう? 早じまいしようと思っていたところなのに…)と思った。
 他の商品には目もくれず。老人の視線はニールが勝手に造った素焼きのカンブリア生物に釘付けになった。
「あの… それは売り物ではございません」 ニールは作り笑いを浮かべて言った。
(最初にこう断っておいたほうが、欲しい相手はますます欲しくなるだろう)
「これを造ったのは誰じゃ?」
 老人は伸びた褐色の爪の先で「鱗のあるタコのような生き物」を指さしながら、まるで地獄の底から響いてくるようなしゃがれ声で尋ねた。
「近所の子供に貰ったんですよ。その子は学校に通っていない代りに、このあたりの野山を飛び歩いているんです。この不気味な生き物たちが化石となって地表に露出しているところを写し取ったものか、それともその子のまったくの想像の産物なのかは分りませんけどね」
 ニールは同じことを言った。
「もし差し支えなければ、その子の家の住所を教えてはもらえぬか? 無論、ただでとは言わない…」
 老人は黄色いヤニがこぼれそうなくらいに目を細めながら金貨を取り出した。
「あの… こんなことを申し上げては何なのですが、仮に会われても、会話はできないと思いますよ。…意味のあることは喋れない、お気の毒なお子さんなのです」
「そうか、そりゃあ残念じゃな…」
 老人は渋々、金貨を手垢にまみれた皮の巾着袋の中にしまった。チャリーンという、滅多に聞かれない景気のよい音が響いた。
(しめしめ、次は「この素焼きを売ってはもらえないか?」と言い出すぞ。このお年寄り、何人かは分らないが、金はじゅうぶんに持っているようだからな…)
「店主よ、おまえはこれらの太古の生き物の姿を見てどう思う?」
「気も遠くなるような大昔には、こんな奇怪な生き物たちがうようよと闊歩していたのだなぁ…って思いますよ。滅んでくれてよかったなぁ、とも…」
「そうじゃな… この生き物たち比べると、人間はなんと脆弱なことよのぅ…」
 老人はニヤニヤしながら、四つある素焼きの像を一つずつ手に取って、愛おしそうになで回した。

(この爺さん、見るからに欲しそうだ。さてと、どれくらいの値段をつけてやろうかな?) ニールは「捕らぬ狸の皮算用」を始めた。(前の金持ちが100ポンドだったから、今度もそれくらい…)
「どうじゃろう、この素焼きの化石の模型、わしに譲ってはもらえぬか?」
(そら来た! 出来る限り粘って、値をつり上げてやろう!)
「お譲りしたいのはやまやまなのですが、なにぶん気の毒な子供さんが、この私のために心を込めて焼いてくれたものなので、その子が今度この店に来たときに飾っていないと悲しませることになりますので…」
 ニールは心から残念そうな表情で言った。「そうじゃな、それはもっともじゃ。…では、数日貸してはもらえぬか? 儂は学者ではない。この模型を皆の前で披瀝して、自説を滔々とまくし立てたり、自慢したりするつもりはない。だから、貸してもらうのは三、四日でいい。短い期間だったら、その間に子供はこないかもしれないし、もし心配だったら四日間の休業補償もしよう。これで足りるか?」
 老人はそう言って、それこそまるで手品のように、どこからともなくずっしり重そうな革袋を取りだしてレジの台の上に置いて、くくってある紐をほどいた。
 中にはピカピカに輝くソヴリン金貨が100枚…100ポンドほどぎっしりと詰まっていた。「ええ、十分過ぎるほどです」
 ニールは心の中で笑いが止らなかった。
(ボロい! ボロ過ぎる! ぼくには才能があるんだ。インチキ化石模型を造る才能が!)
「その気の毒な子供の親にも、いくらか渡してやるのじゃぞ」
 老人は重々しく述べた。
「ええ、それはもちろん、そうさせて頂きますとも!」
 ニールは真面目な顔で言った。
 老人は「持って帰りたい」と言ったので、ニールはお土産品を包装するための紙箱に籾殻を詰め、そこへ件のレプリカの素焼きを入れ、上からも籾殻をかぶせて、後は新聞紙にきちんと包んで紐を掛けて渡した。
「あの、失礼ですが貴老のお名前とご住所は?」
 老人は彼を血走り白く濁りかけた眼でギロリと睨んだ。
「儂はおぬしに、これらの像の借り賃を前払いした。儂は必ず返すと、旧き神神にかけて約束した。儂がおぬしに名乗る必要があるのか? それとも、この店は時空を自由自在に駆け抜けて日によって場所を変えることができるのか?」
「いえ、そんなことはできません。…結構です。すいませんでした」
 老人はプイと踵を返して店の外へ出た。
「有難うございました」 と言いながら、後を追って扉の外へと出たニールだったが、すぐに道の端から端まで見渡しても老人の姿はもうどこにもなかった。
(まぁいい、例え返してもらえなくても、一週間ほどで造った素焼きのカンブリア生物のレプリカがまたしても100ポンド。折れて曲がるほどの儲けじゃないか…」

 翌日からさっそくニールは、偽レプリカ第三弾の製作を思い立った。
(「二度あることは三度ある」って言うじゃないか。またじきに別の鴨がやってくるかもしれないぞ)
 第一弾、第二弾と同じ雛型から焼いた同じものを飾っておくこともチラリと考えたが、やはり最初の郷紳とアラビア人の老人が直接店に持参して返却しに来た時のことを考えてやめにした。
(「あれ」はあくまで、発掘現場の近くに住む、きちんとした言葉を話せない『気の毒な子供』が造ったものなんだ。連中が返しに来たとき、同じものが飾ってあったら流石におかしいと思うだろう…)
 ところが不思議なことに、老人が来店してからというもの、つい最近まであれだけ湧き上がっていた奇天烈な生き物のアイデアが浮かばなくなってしまった。思いついてもいままでのものに似ていたり、実在する化石に似ていたり、何かと何かを合体させたようなものになってしまうのだった。
(いかんなぁ… せっかく目の前に楽して儲かる手段が転がっているというのに…)
 焦れば焦るほど、新しいイメージは何も出なくなった。
(借り手たち…郷紳と老人がどこかでふと自慢したとしよう… それを聞いた者が(自分も)と、はるばるやって来ないとも限らない… それまでに、画期的な新しい化石のレプリカを用意しておかないと…)
 机の前に座り、図鑑やスケッチ帳やアイデア帳を広げてみても、鉛筆を持った手は止ったままで、いつしか居眠りをしている有様だった。
(これは本当にいけない。もはや本や図鑑から得られる知識だけでは限界があるのかもしれないな…)
 そう考えた彼は、いままで数えるほどしか行ったことのない発掘現場近辺を散歩してみることにした。
 もちろん、(本物の新しい化石を発見する可能性などゼロに等しい、インスピレーションさえ得られれば…)という甘い期待からだった。

 その日は、どんよりと曇った雲の帯の合間に、時おり秋の太陽が覗き、肌寒い風が吹くという、化石探しをするには今年最後のチャンスのような日だった。
 ニールは、もともとはそれほどカンブリア紀の生物に興味を持っていたほうではなかった。たまたまウェールズに生まれ育って、その話題に慣れ親しんできただけだった。
 しかし不思議なもので「門前の小僧、習わぬ経を読む」…近所の人と話を合わせ、訪れた観光客や学者たちの相手をしているうちに、カンブリア生物の名前や形を覚え、かれらがどんな生活をしていたか、興味さえ抱くに至った。知り合いのアンティーク・ショップの店主たちの中には、目に付くところに化石を置いている者も多く、彼もかねがね(機会があれば扱ってみよう)と思っていた。
 だから、「化石探し」と言ってもまったくズブの素人ではなく、どの地層・断層の、どのへんを見れば見つけやすいか、自分でも意外と思うくらいによく理解していた。
 長い下り坂の斜面を何度も折り返して崖の下へと降りていき、谷底から持参してきた双眼鏡で断層を眺めた。
(やはり表面から見える場所にあった化石は、もう取り尽くされているだろうな…) ニールは溜息をつきながら小さく肩を落とした。(本格的に探そうと思えば、当然、発掘隊のようにしっかりと足場を組み、アタリを付けたところで作業員に横穴を掘り進めてもらわないと…)
 そんな過去の発掘隊が掘った横穴がいくつか、壁のあちこちに開いていた。ほとんどは撤収する際に板を打ち付けていたが、中にはその板が剥がれているものもあった。
(用心が悪いなぁ… 誰かお尋ね者が隠れ潜んでいても、腕白どもがが秘密基地にしていても分らないじゃあないか…)
 と、そのうちの一つから、何か小さな人影のようなものがチラリと覗いた。
 ニールは魅入られたように岩伝いにその横穴に辿り着いて、中を覗きながら叫んだ。
「おい、誰かいるのか?」
 奥のほうでカタカタと、人間の…子供の足音がした。
「危ないぞ!」
 彼は元来は臆病なたちだったが、その時はなぜか歩みを進めた。
 ランプは持ってきてなかったので、数ヤードも行かないうちに薄暗くなった。が、小さな影はそこにいた。
 半ズボンをズボン吊りで吊った十歳くらいの男の子で、怖がっているようではなく、何か好きなことをしているような感じでニコニコしていた。
「君、危ないよ」
 ニールは繰り返した。少年は笑ったような顔をするだけで、何も言わなかった。
「物が言えないのか? まさか…」
 頭から冷や水を掛けられたような気がした。(化石好きの、喋れない少年はぼくの創造の産物だ。実際にいるはずはない…)
 出入り口から差し込む淡い光が照らすなか、少年は洞窟の壁の上のほうの一角を指した。 そこにはいくつものピンポン玉くらいの球状の頭部を持った、ウミユリに似た植物とも動物ともつかない化石があった。
 それは、ニールがどの本や図鑑でも見たことのないものだった。
(これは… マニアが見たら欲しがるだろうな… しかし、こいつの姿形をレプリカとして素焼きで焼くことは不可能だ。球のような頭部と胴体をつなぐ部分…首…が折れてしまいそうだ…)
 スケッチしかけて諦めかけた時、閃くものがあった。
(そうだ! 別に「子供が作ったレプリカ」である必要はないんだ! 「ものが言えない子供が取ってきた化石」そのものとして飾っておけば…
 待てよ、でもレプリカじゃあなしに、化石そのものだと、学者やマニアたちは「どうしてもその子に会わせろ!」と言い張るだろう… ここにいるいるじゃないか!)
 そう思って辺りを見回すと、さっきまでそこにいたはずの子供の姿がフッとかき消すように消えていた。
(あれっ、どこへ行ったんだろう? …まぁいい。問いつめられても答えることができる…)
 彼はいったん自宅…店へと戻って園芸用のスコップや金槌、鑿などを持ってきた。
 あの子供が消えたように、新種の化石も消えてしまっていないか心配したが、戻った時化石はちゃんとそこにあった。
 岩盤の中の化石の掘り出しかたは本で読んだことがあったので、思い出しながら注意深く回りを大きめに彫り刻んでいった。
 夕暮れまでにはラグビー・ボールほどの固まりを掘り出すことが出来た。
 鞄に入れて持って帰り、縁をサンドペーパーで削り、レプリカと同じ場所に飾った。
 ただし、今度はレプリカではなく、「本物」のはずだった。
 それから数日、何組かの観光客がその化石を目にしたはずだが、特に質問した者は誰もいなかった。
 そのあいだに、最初に借りていった郷紳が、小包でレプリカを返してきた。
 ニールはホクホクしながら、戻ってきた自作の素焼きを元の場所に飾りなおした。
 それからまた何日かがたって、あのアラビア人の老人が、ボール箱の包みを下げて店へとやって来た。

「きょうはこれを返しに来たぞ」
 老人は包みをレジのカウンターの上に置いた。
「それはどうも…」
 受取ったニールは、後ろの壁の隅の床の上に包みを置いた。
「中身を確かめなくてもいいのか? ちゃんと揃っているか、壊れてはいないか?」
「え、ええ… いいんです。もとはと言えば子供から貰ったものですから…」
 彼は、その子供に導かれて手に入れた、本物の化石に老人が何時気が付くか、気もそぞろだった。
「では、これにて失敬するぞ」
 老人は、前にレプリカが飾ってあった場所を含めて店の中をろくに眺めることもなく、すたすたと出て行こうとした。
「ちょっと待って下さい!」
 ニールはあわてて言った。
「なんじゃ?」
「…その子供がこれを見つけてきたんです」
 彼は、花形俳優を紹介する道化師のように、ピンポン球状の頭らしきものをいくつも持った生き物の化石に手を差し向けた。素焼きのレプリカではなく、洞窟の岩壁からくり抜いてきた本物の化石を…
 だが、合点がいかないことに老人は、最初に借りて帰ったレプリカを見たときに比べてまったく驚いた様子を見せなかった。
 ただひとことそっけなく
「ああ、それか…」 と呟いただけだった。(なぜだ! どうして驚いてくれないんだ? レプリカじゃあない、本物の化石だぞ! それなのにどうしてもっと興味を示してくれないんだ?)
「君が発見し発掘したものなのかね。ニール君?」
「いえ、発見したのは例によってその子供でして… ぼくはその子に案内されて、とある場所へ行き、掘り出しただけです。図鑑に載っていないので、詳しいかたが来たら見て頂こうと…」
「儂もそんなに詳しいというわけではない」
「しかし、子供が造ったレプリカには興味を持って下さったのに…」
「儂は『本物』には興味はないんじゃ」
「え?」
「太古のむかし、かつて実在した本物には心が動かされない、と言っておる」
「どうしてですか? 学者さんなら、空想上のものかもしれないものよりも、本物のほうに価値があるはずでは?」
「儂は学者ではない」
「学者ではないとすると…」
 言いかけて彼は言葉を飲み込んだ。
「ニールとやら、せいぜい気を付けることじゃな。子供であれ、大人であれ『現実に存在したけれど、いまは固い石になってしまっているもの』などよりも『心で思い描いたもの』のほうが遙かに恐ろしい存在になり得るということ…」
「は、はぁ…」
 老人は店の外に出た。ニールが追いかけて見たものの、最初の時と同じようにその姿はふっつりと消え失せていた。
(…おかしいな、せっかくまた金儲けのチャンスだと思ったのに…)
 悔しさの余り腹わたが煮えくりかえりそうになりながら、彼は発掘してきた、いくつものピンポン球のような頭を持った化石を手のひらで触ってみた。
(…こんなことなら、化石のまま飾ったりせずに、素焼きでレプリカを造れば良かった! …いいやだめだ! こいつのこの姿を見ろ! 粘土で造るのは無理だ!)
 涙がうっすらとこみ上げかけてきた時、ふと隣に気配を感じた。
 ハッとして振り返ると、洞窟で会った少年が虚ろな眼で見上げていた。少年は手に、全身棘だらけの、エビとヤマアラシが合体したような生き物の素焼きを携えていた。もし彼が自分で造り焼いたのだとすれば、それだけでも立派な細工物だった。
「これは君が?」
 ニールは差し出されたレプリカを受取った。
「ぼくにくれるのかい? 店に飾っていいのかい?」
 何を問いかけても答はない。少年はただ「あーあー」と言うだけだった。
(いくばくかの金を渡すべきだろうか?)
 ニールは考えた。(いや、この様子ではせっかく渡しても落としたり無くしたりしてしまうに違いない)
「ありがとう。ちゃんと目立つところに飾っておくよ。もし売ってくれという客が来ても売り飛ばしたりなんかしないよ」
 それを聞くと少年はフラフラと出て行った。
 ニールが追いかけると、老人の時と同じように忽然と消えていた。
 正直、怖くなってきた。
(まぁいいか、こんな不可解なことがそうそう続くはずはない。これが最後だ。きっと…)

 ニールは「現実に現れた少年」が置いていったレプリカを空いていた場所に飾ってみた。 すると途端に、自分が苦労して造ったもの…郷紳やアラビアの老人から返却されたもの…が色あせて見えた。
(うーん、あの子のほうが腕がいい、ということか…)
 彼は懸命に自分に言い聞かせた。子供に案内されて見つけ、苦労して掘り出してきた「本物の」化石でさえ、つまらないものに見えてきた。
(「よく出来た嘘は、つまらない真実よりも素晴らしく人を感動させる、ということなのか…)
 しばらく考えた末、ニールは自分が造ったレプリカを全部ボール箱の籾殻の中にしまい込んだ。店の中の像は、子供が持ってきたもの一体だけになってしまったが、その一体はいままでの何体分を合わせた以上に、目には見えない怪しげな、滾々と黒い煙に似た輝きを放っていた。

 それからさらに数日、彼が出任せで造ったレプリカを借り、小包で返してきたあの郷紳がまた店へとやってきた。
「無事に着きましたか? 壊れてはいませんでしたか?」
 言いかけて卿紳は金縛りにあったかのように黙りこくった。
 その視線の先には、少年が持ってきた全身棘に覆われたエビににた生き物の像があった。「…あの… その… お借りしたレプリカを上部や横や後ろからスケッチして、仲間の会報に載せたんですよ。そうしたらたくさんの反響を頂きましてね。『実在するか否か?』『もし実在するとすれれば、どの系統に属するであろう生き物か?』 …いや、本当に盛り上がりました。感謝していますよ。…時に『あれ』は?」
 指さす手が少し震えていた。
「ああ、あれですか。あれは…」
(絶対に売らないぞ! もし頼まれても貸すだけだ。それも100ポンドじゃあ嫌だ。倍は出して貰わないと…)
「…また持ってきてくれたんですよ。例の気の毒な子供が…」
「し、しかし、こう申し上げては何ですが、出来の良さが格段に違うように見えます。まるで別人が造ったみたいな…」
 郷紳は、それが飾ってある棚に吸い寄せられるように近寄ってまじまじと眺めた。
(図星ですよ)
「きっと腕が上がったんですよ。その子供の…」
 ニールは何喰わない顔で言った。
「そうですか? でも迫力が違うなぁ… 前のも素晴らしかったけれど、これは…そう…まるで目の前に実物があって、生きて蠢いているのをその眼で見ながら形づくったような…」
(まさかね…)
「そこまで褒めて頂いて、きっとその子も喜びますよ」
「いや、お世辞ではなくて真実です。『言葉が喋れない』とおっしゃったが、造型の師匠に弟子入りさせてはどうですか? きっとあちこちの聖堂のガーゴイルを造ったマイスターたちのように…いや、それ以上に大成すると思いますよ」
「それは… ぼくも思いますよ」
 ニールは素直に答えた。
「…どうでしょう、この素焼きをまた貸して頂けませんでしょうか? 今度はそう…300ポンド出しますよ」
 いままでのニールなら「300ポンド」という金額に狂喜乱舞しただろうが、すでに200ポンドを手に入れ、そのうちのいくばくかを使った今となっては、あまり嬉しくはなかった。「500から1000を吹きかけてやろうか?」とさえ考えた。
「いいですよ」
(あまり欲張りすぎてもな…)
「有難うございます! 必ず壊さないように大切に持ち歩き、ご返却申し上げますよ」
 言いながら若い紳士は財布から紙幣を取り出しかけていた。
(…しかし、本当に大丈夫だろうか?)
 いままでと同じように籾殻の中に像を埋めながらニールは不安になった。
 割れてしまったり、返却されなかったりという心配ではなく、思っても見なかったとんでもないことが起きはしないか、という漠然とした…しかしハッキリとした懸念だった。「いや、きょうは実に素晴らしいものわお貸し頂いた。重ねて御礼申し上げますよ」
 紳士は小走りに走っりながら去ったのにもかかわらず、その姿は小さな点になってやがて消えるまで、長く通りの上にあった。
 ニールはさらに嫌な予感がした。
(もしや、あの紳士の元気な姿を見るのは、きょうが最後ではないだろうか?)
 そんな不吉な思いだった。

 果して、さらに数日後、それは現実のものになった。
 地元の新聞を開くと、上客だったあの若い紳士が黒枠に収まって載っていた。

「郷紳××氏、自宅書斎で変死。
 ×日午後、郷紳の××氏が、自宅書斎で変死しているのを召使いが発見した。
 氏の遺体は、まるで虎かライオンか獅子のような猛獣に襲われたかのように食い荒らされていて… 警察は放し飼いの闘犬の仕業ではないかと… しかし現場には、小さなウサギくらいの大きさの、ナメクジが這ったような跡があり…」

(ぼくのせいじゃないぞ!) ページを開いたままテーブルの上に置いたニールは心の中で何度も繰り返した。(…この人は、珍奇なもの、奇妙なものなら何でも興味を持つ好事家だったんだ。きっとカンブリアの化石以外にも、いろんなものに興味を持っていたんだ! アフリカの未開の地から輸入された珍しい動物とか、大きな昆虫とか…)
 けれども、気にしないようにしようと思うほうが無理だった。
 なにしろ、紳士は少年が造り、ニールが貸した不気味なカンブリア生物の像を借りて帰っているのだ。
 家族の人や執事や秘書、警察が調べれば覚え書きが出てくるはずだ。
「これはウェールズの××の、ニール氏からお借りしたものである。適当な期間が過ぎたら、小包または手渡しで返却のこと。なお、借り賃300ポンドはニール氏に全額前払いしてある」 と書かれたメモのようなものが。ニールはそそくさと、ロンドンから送られてくる都会の新聞を売っている店に走った。この奇怪な記事が、もっと詳しく報道されているかもしれない、と思って…
 彼は小刻みに震える手で「タイムズ」や「ガーディアン」を開いた。そして、紳士が「生きている凶暴な動物にも興味を持っていた」と書いてあるように祈った。
 だがしかし、そんなことはどの新聞のどこにも書いていなかった。
 紳士は、名の知れたアマチュアの古生物学者兼化石などのコレクターで、休日を利用してはウェールズや南イングランドの発掘現場や化石ショップを訪れるのを楽しみにしていた、と、経歴や名誉職のリスト以外にはただそれだけが書いてあっただけだった。
(化石のコレクター? 生きているものには興味がない? じゃあ、何に襲われたんだ?)
 ニールは一段と薄気味悪くなってきた。(…あの像が関係あるのか? 中には本物の生き物がいて、外から素焼きでコーティングした? 莫迦な! それだったら、「遺体のそばには割れた像の破片が散らばっていた」とか、記事にあるはずじゃあないか?」
 彼は(あのピンポン球のような頭がいくつもある、エビによく似た生物の像が返ってくればいいのに)と思った。
 返ってくれば「割れて云々」は妄想であることが証明される。だがしかしその反面、(返ってこなければいいのに。二度と目にすることがなければいいのに)とも思った。
(「あれ」は呪われた像で、持ち主を惨殺するのかもしれない…)
 ほどなくして、背広姿に鳥打ち帽をかぶった二人組の刑事がボール箱を持って訪ねてきた。
 ボール箱を開き、籾殻の中から例のおぞましい生き物の像を取り出して机の上に置いた彼らは当然、ニールに亡くなった紳士との関係を尋ねた。
 ニールは最初に三体のレプリカを貸したこと、それらは小包で返却され、別の日に別の像を貸したことを正直に答えた。
「…で、貸し借りや貸し賃を巡るトラブルはなかったのですね?」
 刑事の一人が手帳を取りだした。
「ええ。ぼくは二度に渡って合計400ポンドを現金で払って大満足でした」
「像は四つとも…先のものも後の一体…これですな…も、全部あなたが造ったものですか?」
(「『これ』は子供が持ってきたものだ」と答えたら、ややこしくなるかもしれない。けれど、紳士が日記などにぼくから聞いた話を書き留めていたら…)
 そう考えると、嘘をつくのはもっとまずいような気がした。
「いえ。これらは全部、言葉が喋れない気の毒な子供が持ってきたものなんです」
 刑事たちは顔を見合わせた。
「被害者の日記と一致する。引揚げましょうか?」
 一人が言った。もう一人が
「念のため、凶暴な闘犬のような生き物を飼っていないか、家の中と庭を見せて貰っていいですか?」 と微笑んだ。
「どうぞ…」 と答えかけてニールの頬が引きつった。作業部屋には素焼きを造る材料や資料の本が置いてある。
(しかし、ここで断ったらますます疑われてしまう…)
「どうぞご自由に… ああ、それからぼくも素焼きの、化石のレプリカを造ります。子供のほうが上手くて、やる気をなくしているんですけどね」
 刑事たちはざっと見渡しただけですぐに戻ってきた。
「大切なことです。落ち着いて答えて下さい。最初の三体も、その子供が造ったものなのですか?」
「え、ええ… そうです」
 彼は初めて嘘をついた。
「ロンドンの、造型の専門家に尋ねたところ、『被害者がアマチュア古生物研究会の会報に載せた三体の写真と、いまここにある素焼きは、明らかに作者が違う』と言ってましたが?」
 刑事たちは鋭い目でニールを睨み付けた。

「…ええ、実はそうなんです。すいません」 ニールは深々と頭を下げた。「…最初の三体は、ぼくが造ったものなんです」
「どうしてそんな嘘を付かれたのですか? 別にあなたが造ったものだと言ってもいいじゃないですか? それも、有名な造形作家の作品だと騙るのならともかく、『近所の気の毒な子供が造った』なんて言っても、何の得にもならないじゃないですか?」
「いや、何となくそのほうが神秘的なイメージを持たせられると思ったんです」
 答えがしどろもどろになってきた。
「『神秘的』ねぇ…」 刑事たちは顔を見合わせた。「…すみませんがニールさん、あなたはきのう、どこで何をしておられましたか?」
「きのうは一日じゅうこの店にいました」
「お客さんは来ましたか?この町の知っている人に会われていたら一番いいんですけれど…」
「お客さんは何人か来ましたよ。でも冷やかしの観光客ばかりで、知っているかたは…」 ニールは(自分も疑われているんだ)と悟った。
(でも、この刑事たちは莫迦じゃないか? あの郷紳の紳士は、ぼくにとってはいいお客さんだった。ぼくが造ったレプリカと、子供が置いていったレプリカを、合計400ポンドで借りていってくれた。これからも新作を借りてくれるかもしれない、いいお客さんをどうして殺さなければならないんだ?)
「いいでしょう。よく分りました。きょうはこれで失礼します。また何かありましたらご協力をお願いするかもしれません」
 刑事たちは手帳をポケットにしまった。
「ええ、いいですよ。ぼくの知っていることなら何でもお答えしますよ」
「その『言葉の喋れない気の毒なお子さん』の住所氏名を知りたいですね」
「…実は、この界隈の子、ということだけで、ぼくも名前や住んでいる場所は知らないんですよ」
「分りました。そうしたらそれは、私たちで調べましょう。…このピンポン球頭のカンブリア生物の置物は、もうしばらくお借りしていてもよろしいですか?」
「ええ。証拠品なのでしょう?」
「はい。おっしゃる通り証拠品でして… 黄色新聞のなかには『この像が実体化して紳士を殺した』などと書くものも現れて… 本当に莫迦げていますよ。『切り裂きジャック物語』や『ジキル博士とハイド氏』を読んで興奮し、人殺しをしてしまった輩はいますけどね…」
 刑事たちが玄関のドアを開けると、その向こうには一寸先も見えないような濃い牛乳のような霧が立ちこめていた。
 この町にずっと住んでいるニールが、いままでに見たことがないくらいの、恐ろしく濃い霧だった。
「あの、この霧です。しばらく休んで行かれてはどうでしょうか?」
「お言葉は有難いですが、先を急ぎますので…」
 刑事たちはお互いに目配せをし合い、濃霧に溶け込むように去っていった。
 ホッと溜息をついたニールがドアを閉めかけた時、遠くで男たちの悲鳴のようなものがした。悲鳴は長く、数十秒ほど続いて、やがて消えた。
(あの刑事さんたちだろうか? まさかな… この霧だ。僅かな時間でそんな遠くにまで行けるはずがない。きっと誰か別の人間で、、いまごろは刑事さんたちが向かってくれているさ…)
 彼はドアを閉め、鍵を閉めてかんぬきを下ろした。
(…まったく見通しが効かないじゃないか。こんな時に外に出られるわけがない…)
 狭い店の中を通って作業部屋のあるほうへ向いかけた時、チリンチリンと来客のベルがなった。
(さっきの刑事さんたちだな。きっと引き返してこられたんだ。
「はい。いま開けます!」
 かんぬきを上げかけた手が止った。ドアの向う側に、何かまがまがしいものが立っている気配がしたからだ。
「あの… どなたでしょうか?」
「儂じゃ!」 あの酔狂なアラビア人の老人の声がした。「…別に開けて貰わなくてもいいぞ。扉越しに話そう!」
「いえ、開けます!」
 ニールがドアを開けると、やはり肌の浅黒い学者ふうの外国人が立っていた。…もっとも本人は「学者ではない」と言っていたが… その外の霧はますます濃くなっていた。
「気を付けろ! おまえはおまえが作り出した幻に滅ぼされるぞ」
 アラビア人の老人は、中へは入ってこずに言った。
「そうじゃ。ものが言えない気の毒な子供も、その子供に導かれて掘り出したという化石も、少年が造って持ってきたというその像も、刑事たちも、すべてはおまえさんが造り出した幻じゃ」
「『ぼくが造り出した幻』?
「夢が現実を侵食しておる。おまえ自身と、おまえに関わるものは災難に遭うぞ!」

「では、どうすれば?」
 ニールは頬を引きつらせた。
「難しい」
 老人はそっけなく言った。
「そうおっしゃらずに、教えてください!」 彼は老人のマントにすがらんばかりに尋ねた。
「おまえの目の前に何が現れても、興味を持たぬことじゃ。それはおまえの脳みそがアメーバだった頃にしっかりとプリントされたものじゃ。ほとんどの人間はそういうものは一生固く封印されている。おまえの場合はたまたまそのタガが外れたのじゃ。だがそれは言うは易く、行うは難いことじゃろう… ましてや、自分の好きな者で労せず楽して大金を手に入れた後となっては…」
「必ずご忠告に従います!」
「例え石の化石が再び命を得て動き出しているところを見たとしても、決して追いかけてはならぬぞ」
「分りました! 分りましたとも!」
「よし。確かに教えたぞ。おまえは造型師になっても作家になってもそこそこ成功するじゃろう。儂も興味がある。楽しませてもらったし、これからも楽しませて欲しい」
「はい」
 老人は悠々とした自信たっぷりの足取りで
霧の中に去った。
 ニールが「今度こそ、誰がノックして訪ねてきても絶対に開けないぞ」 と自分に言い聞かせてドアを閉めようとした時のこと…
 頭が二つあるエビのような生き物が、全身針だられの軟体動物が、ウミウシに似た奇怪な生物たちが、霧の中からぬめぬめとした跡を引いて現れ、意外なくらいの速さで蠢き回った。
「だめだ! 出て行け!おまえたちはみんなぼくが頭の中で創造したもので、実体はないんだ! 頼むからうろうろしないで出て行ってくれ! 早く消え去ってくれ!」
 だが、珍妙な生き物たちは後から後からやってきて、やがて店の床じゅうを埋め尽くした。
 ニールはそいつらを眺めているうちに、へんてこな形か超古代の色彩の渦に飲み込まれそうになった。
(いけない! あの老人は、これはみんなぼくの頭の奥底にある封印された太古の記憶から漏れだした映像であるみたいなことを言っていた。「奴等」に誘われてはいけないんだ!」
 生き物たちは、まるで彼に挨拶に来たみたいに、ニールの回りをグルグルと、右回り、左回りに回った。
 それから次第に、まるで潮が引くみたいにぞろぞろとドアから出て行った。
「待て! 待ってくれ! 少しスケッチさせてくれよ!」
 彼は画板を持って追いかけようとした。
(…いや、だめだ! あの老人と固く約束したじゃないか! でも、ここはぼくの店、ぼくの家だ。ここなら大丈夫のはずだ!)
 素早く手を動かして何匹かを大まかに書き写した。
 しかし連中は、まるで約束か何かがあるかのように霧の中に引き返して行った。
「そんなに慌てることはないじゃないか! 水くさいぞ!」
 夢中になるうちについ、霧の中にの出てしまった。
 その少し先には、象くらいの大きさの生き物が、小さいものたちを統べるように堂々とそびえ立っていた。
 それは、いくつものサッカーボール大の触眼を持つ、ナメクジのような、カタツムリのような生物…彼が化石として掘り出し、少年が象を持ってきた「もの」の王だった。
「やぁ、おまえか! 五億年前はそれくらいの大きさがあったんだな? 化石になったらどうしてあんなに小さくなってしまったんだ? 縮んだのか? いま、姿を見せてやったらみんな驚くのにな!」
 無駄と分っていても話しかけずにはいられなかった。
 気が付くと、小さい連中も地面一面を埋め尽くしていた。
 そいつらはゆっくりと、彼の足元から身体に向かって這い上がってきた。
「いいぞ! 逃げることなんかないんだ!
 しっかりと書き写して、レプリカを造って売ったり貸したりすれば、また大もうけができるんだ! いや、もう別に儲けなんかどうだっていい! まだ誰も掘り出していない大昔の生き物を、ぼくだけが目にすることができるなんて、素晴らしいことじゃないか!
 お金なんかに換えられない!」
 彼は、いくつものぶよぶよとした触眼に向かって両手をかざした。
 その時、バラエティーに富んだ生き物たちは彼の全身を覆い尽くそうとしていた。

…翌朝、ニールは自分の店のドアの前で死んでいた。死因は心臓麻痺とされたが、彼にはそんな持病はまったくなかった。
 不可解なことに、全身には、ナメクジかカタツムリかが這い回ったような粘液が付いていた。夕刊新聞の中には、彼の素焼きの像を借りた郷紳との関係を取りざたするものもあったが、亡くなりかたが違っていたので、そのうち立ち消えになった。
 さらに謎めいたことに、ニールはこれ以上はないというくらい幸せそうな表情で事切れていた、という…



 シスター・セアラが語る「魔女の留守番」

 わたしがまだ見習いのシスターだった頃の話です。
 大先輩の、悪魔払いの資格も持っているシスターとともに、沼地に棲む恐ろしい魔女に、神様の御言葉を伝えに行くことになりました。 ところが大先輩は、あと一歩というところの村の宿で身体の調子を崩してしまわれました。
「どうします、セアラ。こうなったのも、もしかしたら神様の御心。贅沢と責められることになっても、このまま馬車で修道院まで帰りましょうか?」
 先輩は穏やかな笑顔を崩さず言いました。
「いいえシスター。せっかく苦労してここまでやって来たのです。わたくし一人だけでも魔女ウィンスレットの家まで赴いて、まことの神様のもとに立ち戻るように説いてみたいと思います」
 若く、ずっと無鉄砲だったわたしは、大先輩に負けないくらいの笑顔で述べました。
「…こうして私が老いたように、アイルランドがエリンと呼ばれていた頃から何百年も生き続けてきたウィンスレットも、ついに塵に還る時が近づいていることを悟っていることととは思いますが…」
「だからこそなお、できることなら最期に臨んでの福音をお伝えしたく思います」
「セアラ、おまえはまだ若い。相手はそれこそ海千山千の老獪な魔女。命を取られ、地獄への道連れにされるかもしれませんよ」
「大丈夫。いつでもどこでもどんな時でもイエス様とマリア様がご一緒です。もし万一のことがあっても、それもまた思し召しでございましょう」
「そこまで言うのなら、最早とめません。…ご加護を…」
 シスターは数珠を巻いた皺だらけの手でわたしの頬に触れて下さいました。

 小さな宿を出発したわたしは、大きな黒い水たまりのような沼地の、葉脈のように浮かび上がっている畦道のような縁を進みながら魔女の家を目指しました。
 何度も重心を崩して、足首が飲み込まれそうになりながらも、何とか魔女の家に辿り着きました。
「こんにちは。見習いシスターのセアラと申します。レディ・ウィンスレット様はいらっしゃいますでしょうか?」
 すると、腐りかけた両腕で顔を覆った女性が戸口から出てきて、嗄れ、くぐもった声で意外なことを言いました。
「よいところへ来てくれた。魔王は我が望みを聞き届けてくれた! セアラとやら、済まぬがしばし、ここで留守番をしてはくれぬか? 妾はこの世界のどこかにあるという不老不死の薬を探す旅に出る!
 無論、こうなる前に、あちこちのツテを頼って、それを見つけて持ってきてくれるように頼んである。だから、妾と入れ違いに『それ』を持ってくる輩がいるやも知れぬ。おぬしはそれを受取り、『もしも本物だったら、魔女ウィンスレットが後で必ず代価を払うから』と言って、いったん引き取ってもらってくれ!
 仮に、すべてが徒労に終ることがあれば、妾はおまえの話に耳を傾けようぞ」
「えっ?」
 驚いているまもあればこそ、魔女は使い込まれたホウキにまたがり、ポタポタと腐汁をこぼしながらフラフラと薄暗い空にたちまちのうちに消え去りました。
 しばらくはあっけに取られていたわたしでしたが、気を取り直し、家の中で待たせて貰うことにしました。
(ウィンスレット様が、一刻も早くこの家に、まことの神様のもとに立ち返ってくださるように…)と一所懸命祈っていると、コンコンとノックの音が聞こえました。
「私だ、ウィンスレット。『伯爵』だ。頼まれたものを持ってきたから開けてくれ」
 野太い傲慢な声が響き渡りました。
「どうぞ。開いていますよ」
 シルクハットに燕尾服姿の、狡猾そうな、顔色の悪い男が入ってきました。その男…伯爵…は、魔女の家に見知らぬ修道女がいるのを見て、血走った目を大きく見開きました。
「おまえは何者だ? なぜそんな恰好をしてここにいる?」
 わたしは咄嗟に、(何か上手な嘘がつけないものかしら?)と考えを巡らせました。けれど「然り、然り、否、否」という御言葉を思い出し、正直にいままでのいきさつを語りました。
「…嘘臭いな。いや、嘘だろう。いやいや、嘘に違いない!」
 伯爵は信じてはくれませんでした。
「わかった! おまえはウィンスレットに雇われた者だろう? ウィンスレットは私に品物の代償を払うのが嫌で、おまえさんを雇い、そんなコスプレをさせ、私を油断させてどうにかしようと言う作戦ではないか?」
「ウィンスレット様は『留守中に頼んだものを持ってきてくれた者がいたら、本物かどうかを確かめて、もし本物だったら後で必ず代価を払う』とおっしゃっていました」
 わたしは毅然として言いました。
「…ところで、おまえさんは一体何者だ?」
 伯爵は胡散臭そうな視線を注ぎながら、わたしの回りを回りながら尋ねました。

「ですから、わたしはシスターの見習いでして…」
「嘘をつけ! そういう恰好をしているだけだろう? もしも本当にシスターだったら…そんなかわいいシスターだったら、レディ・ウィンスレットは猛烈に嫉妬して、怪物の餌にしてしまうか、自分で食べてしまうに違いない!」
「魔女のウィンスレットさんって、そんなに恐ろしいかたなのですか?」
「しらばっくれるとは白々しいやつだ! いまおまえの心の中を読んだが、完全にシスターの見習いになりすましているじゃないか?
 わたしの読心術をブロックするとは、おまえ、相当できるな…」
「伯爵」の表情に、あからさまに警戒の色が浮かび、長身の身体を少し引きました。
「ですから、そんなことはしていませんってば…」
「うーん、レディウインスレットは不在。代りに初めて見るおまえがいて、そのおまえは『ウィンスレット様から留守番を言付かり、不老不死の薬を持ってくる者がいたら預かって老いてくれ』と頼まれた、と言う…」
「そうです。ですから、もしお急ぎなら、お薬はわたしがお預かりして、確かにウィンスレット様にお渡し申し上げますので、どうかご遠慮なく…」
 わたしが手を差し伸べますと、伯爵はさらに後じさりました。
「疑ってすまないが、おまえは…」
「シスター・セアラです」
「…シスター・セアラ、おまえは寿命の尽き掛けたレディ・ウインスレットを倒して葬り去り、留守番のフリをしているのではないか?」
「そんなことしていませんってば! わたしはただ…」
 わたしもさすがに腹が立ってきました。
「いいや、わからんぞ。彼女は当たり前だが敵も多かった。弱っているのを見透かされて倒されたとしても不思議ではない。だが、ヘタっていたとは言え、あのレディ・ウィンスレットを倒すとは、おまえは…」
「ですから、そんなことはしていません、と申し上げています!」
「これはろくでもない者と鉢合わせしてしまったものだな… もしも私が、レディ・ウィンスレットのために持参したものを渡さなかったら、力づくでも奪うつもりなのか?」
「そんな恐ろしいこと、しませんわ。…でも、ウィンスレット様が帰ってこられたなら、がっかりされると思いますわ」
「さりげない脅迫だな…」
 伯爵は懐の中の品物をかばうように手を当てました。
「脅迫なんかしていません!」
 わたしは思わず立ち上がって伯爵ににじり寄りました。
「ま、待て! 話せば分る! 老いさらばえていたとは言え、レディ・ウィンスレットを何とかしてしまうような新進気鋭のやつと事を構えるつもりはない!」
「争いはよくありませんわ」
「そうだ。その通りだ。そう言っている!
…おまえの言うとおり、これはおまえに預けていく」
 長く伸びた黄色い爪がフロックコートの内側にから、まっ黒い液体の入った小瓶を掴んで出しテーブルの上に置きました。
「その… レディ・ウィンスレットが戻られたらよろしく伝えておいてくれ」
「確かにお預かりしましたわ…」
「うーむ、若く元気だった頃のウィンスレットは、一度外出すると、何十年、時として何百年も帰らないことは『ざら』だった…
 そんな者の留守番を気安く引き受けるとは… 魔法で造ったとは思えない若く溌剌としとした自然な肌… きょうは日が悪かった…
 そう、きょうは日が悪かったのだ!」
 伯爵は何か独り言をブツブツと呟きながら出て行きました。

 伯爵が去ってからしばらくして、レディ・ウィンスレットが帰ってこられました。
 もう立っている力もなく、わたしは肩をお貸ししました。
「そうか! 伯爵が! よく留守番をして、よく預かっておいてくれた! 厚く礼を言うぞ!」
 ウィンスレット様は、わたしから小瓶を受取るなり、黒い液体を一気に飲み干しました。 するとたちまち、彼女の身体は燃え尽きた紙人形の灰のようになって床に崩れ倒れました。
 わたしはウィンスレット様の魂のために神様に祈りました。
 そこへなぜか、伯爵が戻ってきました。
「残念ですが、お薬は効かなかったみたいです…」
 伯爵は風に飛び散りつつある塵を、唖然とした表情で見つめていました。
「私か悪かった… 頼むから、できたら忘れてくれ! 私も忘れる! それにしても…」 狼狽の色を隠せないまま姿を消して、今度こそ二度と戻りませんでした…

 わたしは途方に暮れました。「不測の事態」とはこういうことを言うのだ、と思いました。なにしろ、改心を勧めようとしていた魔女が、目の前で天に召されてしまったのです…
 えっ? わたしに見守られて亡くなったことで、たぶん救われている? いえ、そこまではとても…
 とにかく、部屋を見渡しました。
 ゆっくり落ち着いて眺めて分ったことですが、魔女ウィンスレットは大変な研究家でした。書棚は丁寧に分類され、本業の魔術や錬金術の本、薬草の本、占術の本、それに関するノートなどがきちんと整理されて収まっていました。
 寝室にも書架があり、そこには天文学や鉱物学、生物学、それに世界各国の神話や伝説を記した本が並べられていました。
(このままにしておいてよいものかしら? それとも老シスターがいらしたら『油を撒いて全部燃やしてしまいなさい』とおっしゃるかしら?)
 真剣に悩み、神様にお祈りしました。
 魔女のウィンスレット様の先が長くないということは、聖界にも魔界にもすでに知れ渡っていることです。遅かれ速かれ何者かがやってきて、欲しいもの役に立ちそうなものを持ち去り、荒らすのは目に見えています…
(やはり、もったいないけれど、悪用を避けるために焚書に処しましょう…)
 わたしは台所から油の壷を持ってきて、それぞれの本棚の床に撒き、マッチを擦ろうとしました。
 と、その時、朧な影となって亡きウィンスレット様の亡霊が現れました。
「待て、小さなシスターよ!」
「ウィンスレット様…」
 わたしは魔女の霊が、イエス様と一緒に磔にされた大罪人と同じように、天国の門をくぐれるように懸命に祈りました。
「有難う。けれども妾は地獄に行く。友や知り合いのほとんどはそこにいるからな。おまえのことは恨んではいない。おまえはよく留守番をしてくれた。伯爵は最初から落ち目になった妾を殺すつもりだったのであろう…」
「そんな…」
「邪悪な者同士の絆というのはそのようなものだ」
「あの、伯爵様は、わたしが小瓶の薬を試すかもしれないと思って毒を仕込まれたのかもしれません。わたしのことをずいぶんと買いかぶっておられて…」
「かもしれぬな… いまとなってはどちらでもいいことだ。時に、妾の所蔵する本の中で、最もずば抜けて価値のあるものを教えてやろう…」
 わたしは本棚を見上げました。すると、目の高さの棚に、手あかにまみれた革張り羊皮紙の本から、かすかに黒い瘴気を立ち上らせているのが見えました。
 手に取ると、表紙にはラテン語で「死霊秘法」とありました。
「さすがに若くして一人で妾のところに乗り込んでくるだけのことはあるな。女にしておくのは惜しい。もし男なら、枢機卿あたりにまで登れただろうにな…」
「そんな… 神様を畏れぬ傲慢は大罪です」
「その本は、城と同じくらいの値打ちがある本だ。売りに出せば、何千何万という人間を飢えから救えるだけの金を手にすることができもであろう」
「そんな凄い値打ちが…」
 わたしは思わず本を胸に抱きしめました。「…あるのだ。それと同じものは世界に数えるほどしかない。おまえの知っているところではヴァチカンや大英博物館の禁書庫に厳重に秘匿されている」
「先輩のシスターと相談して、売ってお金に換え、人々を救いたいと思います」
「それは勧めかねる。なぜならば、相談したら最後『ただちに焼却するように』命ぜられるからだ」
「そんなに邪なことが書かれているのですか?」
「読めば分る」
 魔女の亡霊はニヤリと笑って消え失せました。
 わたしは、この本を持って帰るかどうか、悩みに悩みました。夕暮れがどんどんと迫ります。夜の闇の帳が落ち始めたら、沼地の畦道はあまりにも危険です。
(ここに泊まって、じっくりと祈り、考えようかしら?)
 しかし、すでに床に油を撒いた後です。
 くどいようですが、魔女ウィンスレットの死が知れ渡ったら、死肉を狙うハイエナのように魔物たちが押し寄せてきても不思議ではありません。(最初に思っていた通り、日没の前にたちましょう)
 テーブルの上においた「あの本」が嘲笑うようにわたしを見つめます。
(燃やすのはいつでもできる。相談申し上げることも… とりあえず持って帰りましょう!)
 油紙に包み、修道服の内側に隠し、戸口に立ちました。
 マッチで床に火を付けると、赤い炎のネズミが四方八方に走って、魔女の家はたちまち燃え上がりました。
 わたしはロトのように、二度と振り返ることなく大先輩のシスターが待つ村に向かって裾を両手でつまみ上げて小走りに走りました。

 胸のあたりでは「死霊秘法」が熱した鉄板のように熱く感じられました。
(わたしはレディ・ウィンスレットに騙されているのかもしれない。魔女はわたしを惑わせ、悩ませるために、この本の存在を教え、持って帰らせたのかもしれない…
 すると、この本は真っ赤なニセモノ? わたしは、死んだ魔女の手のひらで踊らされている? …いいえ、この感じはどう考えても本物よ!
 でも、本物であることを、権威のある他人に訊くことなく証明するためには、『自分でこの本を読んで本物だと分らなくてはいけない』わ。
 この魔道書に、どうして『城が買える』ほどの値打ちがあるのかしら?
 それだったら写して二冊、三冊、もっとにしてしまえば、世界で一、二の大富豪になれるじゃない?
 でもウィンスレットさんはそうせずに、隠者のように暮らしておられたわ。もしもこの本に『持ち主に富や権力などの望みを叶える方法』が書いてあるのだったら、あんなような寂しく、みじめとも思える最期を迎えるはずはないわ…)
 いろんなことを考えているうちに、日没までに無事に辺境の村の小さな宿に戻ることができました。
 先輩のシスターが、いつもと変らない笑顔で迎えてくれ、わたしは魔女の家での出来事を丁寧に報告しました。『本』のことを除いては…
「そうですか… 一生懸命にやったあとの結果は、神様の思し召しでしょう… セアラ、貴女は今回じゅうぶん神様のために働いたことと思います。もう魔女ウィンスレットの魂のことは神様にお委ねして、修道院に帰ることに致しましょう…」
「あの…」
「まだ何か?」
「お身体の具合は?」
「有難う、お陰でずいぶん良くなりました」
「それは何よりのお恵みです」
「セアラ」 先輩はわたしの、文字通り胸に隠した秘密を見透かすようにつけ加えました。
「…もし、もしも万一、わたしに言えないことがあったとしても、イエス様やマリア様にはお話し申し上げるのですよ。深くお祈りすれば、必ず答えてくださるはずです」
「はい」
「『魔法』というものは、読んで字の如く悪魔たちの力、あたかも神様のように振る舞うための力です。この世で使うことのできる力…例えば富や、何かを操る力は、死を前にすれば何の役にも立たない、まことの天国の平安とはまったく無縁なものですよ」
「はい。分っています」

 ダブリン郊外の小さな女子修道院と、それに付属した恵まれない人々のための施設に戻ったわたしは、例の本を修道院のこじんまりした図書館の、とある本棚の後ろに隠しました。そして、日常の祈りや孤児院の子供たちの世話の合間に、少しずつ読むことにしました。
「死霊秘法」は西暦七百年頃、アラビア半島の南端、現在の英領イエメンのサナア出身のアブドゥル・アルハザードという魔導師によって書かれたものでした。
 わたしは深夜、寝る暇を惜しんでその本を読みました。

 彼によると、まことの神が天地創造をなされた直後、星辰の彼方より『旧き神を名乗るものども』いくつかがやってきて、異形の奴隷をはべらせるなど好き放題なことをしたらしいのです…
 彼らは、火山の溶岩の中や、深海の熱水孔の中でも生きることができた…
 まことの神は大いにお怒りになり、彼らを深海底や次元の隙間に固く封印し、その記録を正史から抹殺されました。
 まことの神が、その『自称・神』たちに、なぜ永劫の死をお与えにならなかったは謎です…
 おそらく完全に消滅させてしまわれなかったのは、将来、バビロニアのマルドゥクやイシュタール、フェニキアやカルタゴのバアルやダゴンを崇める堕天使たちやネピリムたち、ペリシテ人を見分けるための『篩』として残しておかれたのではないか、と思われます…
 さて、アルハザードの言うことには、これらの「旧き神」を甦らせることが可能らしいのです…

 以下、『死霊秘法』は、その具体的な方法や手順を、図版などともに書き記していました。
(だけども、なぜこのような途方もないことが書かれてあるだけの本に、莫大な価値があると言えるのでしょう?)
 わたしは正直、納得が行きませんでした。仮に、魔人アルハザードの述べていることが本当のことだったとしても、旧き神々を甦らせることができたとしても、甦った者たちが人間の言うことを聞くなどとは到底思えません。なにしろ、彼らは『自分が神だと思っている』のです。
 ただ「できる」「かもしれない」という記述に、大金を払う人が果しているのでしょうか?
『いる』
 どこからともなく声がしました。思わず四方を向いても、そこには埃の積もった本の山と、ランプの灯りが届かない闇があるだけでした。

「では、あなたが買ってください」 言いかけて、わたしは思わず言葉を飲み込みました。 相手が一体何者で、この「死霊秘法」をどのように使うつもりなのか、分らなかったからです。
『金を払おう…』 その声はとてもくぐもっていて、よく耳を澄ましていないと、聞き取れないくらいでした。
『金は、金貨で払おう。ソヴリン金貨で良いか? いくらだ?』
「待って下さい! まだお売りする、と決めたわけでは…」
『おまえはシスター、そんなものを持っているだけでも異端者となり、昔ならたちまち否応なく火焙りにされても文句は言えないはずだ』
「おっしゃる通りです」
『それを、いますぐ買い取ってやろうと申し出ているのだ。これでおまえは肩の荷を降ろし、信仰の平安うちに暮らせるはずだ。おまけに、莫大な金を手にして、他の道を選び直すこともできるのだ』
「莫大なお金」と聞いて、わたしの心は揺らぎました。いくばくかのお金があったら、屋根は雨漏りし、壁の漆喰は剥げ、床には穴が開いている修道院や、お年寄りや子供たちの施設を修繕することができるはず…
 みんなの食事や着ているものも、もう少しましなものに…
 それどころか、わたしたちの修道院よりも、もっと困っている近隣の修道院に援助することもできるでしょう…
「取らぬ狸の皮算用」が続きました。
「けれど、『そんなお金をどうやって手に入れたのですか?』と、聞かれたらたちまち困ります。まさか『魔女の家で、魔女の亡霊から貰った本を、どなたとも分らないお金持ちに売って…』などとは申せません」
『なるほど、もっともだ。…ではこうしてやろう。今夜のうちに、サクソン時代の金貨を数百枚、同じ時代の壷に入れて、この修道院のイチイの根本に埋めておく。おまえは『夢の中に、おまえが信じている神が現れて、木の根本を掘れ』とのお告げがあったと言うのだ。もちろん本をもらうのは金を確かめてもらってからでいい。金貨は十分入れておくから、半分をおまえたちの女王に、さらに残ったうちの半分をおまえたちに使命を与える者たちに納めても、まだ余りあるようにしておいてやろう。これでいいだろう。これ以上の条件は、もう思いつかないぞ。…さぁ、この上、一体何を悩む必要があると言うのだ?』
「有難うございます。…でも…すみません。一日だけ考えさせてください…」
『ここで相談する相手はいないはずだぞ』
「神様にご相談して、お許しを得てからにしたいと思います」
 わたしは必死で述べました。
(この得体の知れない相手は、正真正銘の悪魔では?)と思い、恐怖に駆られたからです。
『…やむを得まい。よい返事を待っているぞ。…おまえが持っていてもどうしようもない、さらには、おまえ自身や仲間を破滅に追いやるかも知れぬ古ぼけた本と、安楽と幸せのどちらを取るか?』
 声はそれっきり消えました。
 わたしは懸命に息を整えようと努力しながら、「死霊秘法」の写本を、前と同じ本箱の後ろに隠しました。
 取引をしようとしている相手が、盗んだりしないことは分っていました。「彼」は、こそ泥ではありません。盗もうと思ったら、いままでにとっくに盗んでいるはずです。なのにしなかった… 紳士だからでしょうか? かも知れません…
 でも、何か他に思惑がある、と考えるほうが妥当ではないでしょうか?
「彼」が買おうとしているのは、「狂気のアラビア人が書いた、支離滅裂な本の写本」とともに、わたしの心も、ではないかと…

 足音を忍ばせ、仲間のシスターたちが眠る寝室へ戻ったものの、なかなか寝付くことができませんでした。
 ベッドの中で懸命に祈りました。
(神様、マリア様、わたしはお断りしたいのです。あの声のかたは、どう考えても天使さまではありません。魔女の家から、持って帰らなくてもよいものを持って帰ってきてしまったことは、大変後悔しています。決して神様の御心にかなった生涯を送った人ではない者の言葉に、うかつにも乗ってしまったことを悔い改めます…
 しかし、たとえ相手が何者であれ、悪魔だとしても『返答は明晩』と約束してしまったのです。丁重にお断りして、無事でいられるように、どうかお守りください…)
 そんなお祈りを繰り返しているうちに、起床と朝祷の時間が迫ってきました。

 夜明けの少し前、相部屋の見習いシスター仲間たちが、あくびをしたり背伸びをしたり、上半身ベッドから起きあがったりしかけていた時のことです。
 突然ドーンと、稲妻が落ちたような音が響いたかと思うと、ぐらぐらと建物全体が揺れました。
「キャーッ!」
 女子修道院のあちこちから悲鳴が上がりました。
 ベッドにしがみつく者、何とか立ち上がって逃げ出そうとする者、思わず箪笥などの家具を支えようとする者など、大混乱になりました。
(おかしいわ) 
 わたしはとっさに思いました。
 アイルランドもイギリスも、地震はほとんどない国なのです。それなのに…
 幸い、揺れはすぐに収まりました。
 でも、余震があるかもしれません。
「みんな、大丈夫ですか? 動ける者は寝間着のままでいいですから、すぐに子供たちやお年寄りたちのところへ行ってあげてください!」
 先輩シスターの声が響きました。(お顔は?)と覗き見ると、落ち着いておられました。
(不測の事態の時でも、信仰が深いと神様のご加護で、動転しないですむのでしょう…) 思いながら施設の棟へと走ると、子供たちが、
「お姉ちゃん、怖いよ!」
「助けて!」
 と叫びながら飛び出してきました。
「さぁさぁみんな、大丈夫ですよ。慌てずに運動場の真ん中に集まるように! 他の子を押したり追い抜いたりしてはいけませんよ!」
 いち早く逃げ出してきた子たちを他のシスターたちにお任せして、わたしは遅れたり残っている子を探そうと中に入りました。
 もともと老朽化していた壁や床のそここには大きな亀裂が入っています。
 天井からはミシミシという音とともに木片がパラパラと落ちてきます。
「さぁ、みんな、怖くないからお外へ出ましょう! ここにいるほうが遙かに危ないですよ! 大きい子は小さい子の手を引いてあげて!」
 幼くて動けなくなっている子を背負い、もう一人を抱き、残った子供たちの人数を数えてから外に導きました。神様がお力を貸してくださったのでしょうか、自分でも信じられないような力が出すことができました。
 みんなが定められた場所に避難すると、初めてホッとすることができました。
 しかし、目の前にある修道院も、子供たちやお年寄りたちの施設も、どれもがいまにも倒れそうなぐらいに大きく傾いて崩れそうになっていました。
「ぼくたちの、あたしたちの家が…」
 男の子たちも、女の子たちも、若いシスターたちも、泣くか顔をくしゃくしゃにしていました。
「大丈夫です。いつ、どんな時でも神様がご一緒です。誰も大きな怪我がなかったことは、これ以上はない御恵みですよ」
 院長先生や先輩シスターたちはニコニコして皆を抱きしめて下さいました。
「でも先生、きょうからどこで暮らして、どこで眠るのですか?」
 そんな問いが、そこここから上がりました。
(あの、図書室で声を掛けてきた者の仕業だわ!)
 我に返ったわたしは、胸がしめつけられる思いでした。
(こんな大変なことになったのも、みんなわたしのせいよ! わたしがあんな本を持って帰りさえしなければ… あの声の主は悪魔か、それに準ずる者だわ。わたしをどうしてもお金が要る立場に追い込みたくてこんなことを…)
 修道院の敷地の地面のあちこちにも大小の地割れが走っていました。
「みんな、気を付けて! 落ちないように下を見て歩きなさい! 大きい子はそのまま小さい子の手をつないであげて!」
 じきに夜が明けて、近所の自警団の人たちも来てくれました。
「地震じゃなくて陥没か何かだと思う」
「いま隣町から朝一番の馬車で来た者に尋ねると、道中でそんな揺れはなかったそうだ」
「井戸水の汲み上げ過ぎかなにかじゃないか?」
 そんな声が聞こえてきました。
「おーい、みんな、ここはすぐに何とかしないと危ないぞ! とりあえずぼくたちだけでできることは、ぼくたちでやろうぜ!」
 大きなイチイの木の下で、みんなから「お兄ちゃん」と慕われている男の子たちのリーダーが叫びました。
 駆けつけると、なるほど、大人でも落ちてしまいそうな大きな穴が開いていました。
「倉庫にスコップを取りに行こう!」
 何人かが歩きかけた時、小さなブライディーが、穴を覗き込んで言いました。
「ちょっと待って、お兄ちゃん。穴の底に何か見えているわ。何かが埋っているみたいよ」
 みんなと一緒にわたしも覗くと、壷のようなものの、釉薬を掛けて焼いた光沢のある曲面が見えました。
「宝物の入った壷かもしれないわ」
 と、ブライディー。
「よし、それなら回りを掘って、ロープを掛けて引揚げて確かめてみようぜ!」
「お兄ちゃん」を含めて力自慢の男の子たちが、道具を持って穴に降りました。
「みんな、気を付けて…」
 院長先生や先輩のシスターたちもやってきて、お祈りされました。

「おーい、この壷、何か知らないが滅茶苦茶に重たいぞ!」
「ロープを幾重にも掛けながら「お兄ちゃん」が叫びました。
「お兄ちゃん」も、他の子たちも、いったん穴から出てきてロープを引っ張って持ち上げようとしたものの、壷はびくともしません。とうとう、子供たちもわたしも、他のシスター見習いも、自警団の人々も総出で引っ張り上げました。
「よいしょ!」
 壷が地上に着いた途端、ほとんどの人はヘナヘナと地面に腰を下ろしました。
 と、最初からあちこちにヒビが走っていた壷がピキピキと音を立てて壊れました。
 中からはザザーッとまばゆく輝く金貨がこぼれました。
「おおっ、神様、マリア様!」
 院長先生や先輩シスターたちは、その場に膝をついて祈りました。
 金貨には遠いむかしのノルマンの王の肖像と、ヴァイキングの帆船が刻まれていました。
 明らかに持ち主も、その子孫も分らないものでした。
「やった! これでぼくたちのお家も建て直せるね!」
「お兄ちゃん」もブライディーも、ほかの子供たちも手に手を取って飛び上がって喜びました。
 ただ一人、わたしだけが暗い顔をして肩を落としていました。
「どうしたの、セアラ様。嬉しくないの?」 子供たちが不思議そうに尋ねます。
「いえ、そんなことはないのよ。決してそんなことは…」
 警官や税務署の役人たちが走ってきて「九割はただちに帝国の国庫に納めるべし」と宣言し、あっという間に枚数を数えて小袋に仕訳して、九割を有無を言わさず鉄板で装甲した馬車で持ち去りました。
「『カイザルのものは、カイザルのものに…』」
 それでもまだ一割も残っているのですから、みんな大船に乗った気持ちでした…
 ダブリンの司教さまがやってこられて、「いったん残りの全部を預かり、枢機卿台下やヴァチカンと相談し、その後各教会や修道院に配分する」とおっしゃって、持って帰られると、みんなホッと肩の荷を降ろしました。

 その晩、みんなは信者さんたちの家に分かれて泊まることにしました。
 泊める側としても、食費や心付けを払ってもらえるあてがあるのですから、みんなニコニコされていました。
 わたしは、ほかのシスターたちとともに、崩れかけた建物に戻って、とりあえず重要な書類をボール箱に詰めることにしました。
 修繕するにしろね立て直すにしろ、このまま放っておくことができないものからてきぱきと荷造りしました。
 わたしは、一人になれた隙に図書館に戻り、恐る恐る例の本箱の裏に手を伸ばしました。 幸い、「死霊秘法」はちゃんとそこにありました。
(でも、どうして「あの人」は、こんなまだるっこしいことをするのかしら?)
 わたしは腹が立ってきました。
(…欲しいのなら、どうして盗んで持って行かないのかしら? そのせいで、みんなは一時的にせよ不自由を強いられて…)
 パラパラと、どこの誰が写したかも分らないラテン語の文字をめくりました。
(まるで、何者かの手の中で踊らされているみたいな… イエス様は「右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ」とおっしゃったけれど、いっそ逆襲しましょうか? …この「本」を使って…)
 そう考えたとき、ハッと閃くものがありました。
(あの何者とも知れない…たぶん悪魔に違いない…「あの者」は、わたしを怒らせて、この「本」を使わせたがっているのではないか)と…
(もしかしたら、この「死霊秘法」という本は、読み解き使う者の能力や個性によって、異なる魔力を発揮するのではないかしら?) だとすると、すべて合点がいきます。
(「あの者」は、きっとすでに「死霊秘法」の別の写本を持っていて、何度も読み返しているのです… で、書かれている魔法を使ったときに起きることをすでに目にしている…
 だけども、それだけでは満足できなくて、誰か他の者が使ったときの様子も見たい、と願っているのでは?
「彼」は、わたしがこの「死霊秘法」を使って「よくも!」と襲いかかるのを待っている、のだったら…
「金貨を有難うございました。約束通り本はお譲りします」と素直に渡してあげましょうか。でも…
 もしそうした時、「本は頂いていく。それから、可哀相だが、秘密を知った者は生かしてはおけない! 金は渡した。約束は守った。それとこれは別だ!」と問答無用でやってこられたら…)
 どうやら、戦って勝ち、その上で本を持って帰ってもらうほかに方法はなさそうでした…

「わたしたちは信者さんたちの家や、町の公民館に分かれて泊まりますが、安否を尋ねる連絡が来た時や、泥棒よけのために、何人かは留守番も要りますね」
 院長先生がわたしたち見習いを見渡されておっしゃいました。
「そのお役目、わたくしに賜わせてください!」
 わたしが真っ先に歩み出ると、仲間の二、三人も手を挙げました。
「よいのですか、セアラ?」
 先輩シスターが心配そうに訊ねて下さいました。
「ええ、大丈夫です」
「結局わたしが図書館のある棟に泊まり、他の仲間は訪ねてくる人がやって来そうな部屋に泊まることになりました。
 さぁ、これでいつでも「声の主」と対決できることになりました。
 重要だったり、値打ちがあると思われる本から順番に、丁寧にボール箱に詰めていると、次第に陽が傾き、薄暗くなってきました。
 わたしは(そろそろ対決に備えて「死霊秘法」の、敵をやっつける手段の書かれているあたりを研究しておかないと…)と、思いましたけれど、なかなかそのような気になれず、崩れたり歪んだり床に落ちたりしている本の片付けを続けました。
(そもそも、シスターが魔法を使うなど、やってはいけないことです。そんなものを使わなくても、神様とマリア様がお守りしてくださるはず)
 用意してあったパンとワインとお水のお弁当を食べ、夜が更けてきても目はますます冴えるばかりでした。
 きのうの夜からいろんなことが続いて、相当疲れているはずなのに、です…
 と、その時、何者かが廊下をやってくる気配がし、戸口のところで立ち止まりました。
 わたしは(すわっ!)と立ち上がり、祈ろうとしました。
 ところが、おずおずと現れた顔は、よく見慣れたものでした。
「ブライディー!」
「セアラさま!」
 小さなブライディーが駈け寄ってきて抱きつきました。
「こんな夜遅くどうしたのです? 公民館に泊まっていたのではありませんか? みんな心配して探していますよ!」
「ケリーちゃんに言付けてきました。セアラ様のことが心配だったので…」
「何を言うのです! さぁ早く帰って…」
「セアラ様の身に何かあるのでは、と思ったのです。金貨の入った壷が出てきた時も、みんなのように喜んでおられませんでしたし…」
「いけません! 公民館に戻るのは無理でも、他のシスターたちがいる玄関近くの部屋で眠りなさい。わたしも一緒に行って事情を説明してあげますから…」
「セアラ様、何か心配事を抱えておられますね? 神様やマリア様にお祈りしても、なかなか聞き届けて頂けないようなことを…」
「何を言うのです、ブライディー! 神様やマリア様は、どんなことでも聞き届けて下さいます!」
「わたし、何のお力にもなれないかも知れませんが、もしかしたら、何かお力になれるかもしれません。もしかしたら『この本』にまつわることではありませんか?」
 ブライディーは長い読書机の上にいっぱい積んで並べてあった本の中から、一冊だけポツンと置かれてあった「死霊秘法」に手を伸ばし掛けました。
「その本に触ってはだめ!」
 取り上げようとした時には、手にして数歩引き下がられた後でした。
「この本、とても禍々しい邪気を発しています… この修道院の図書館には相応しくない本です。ここに元からあった本ではないのでしょう? たぶんどこかに出かけられたときに持って帰られたものでは? あたし、黙っています! 絶対黙っていますから、セアラ様を守らせて下さい! この本を奪いに来る者から…」
 わたしの心は千々に乱れました。
(わたしが神様から罰を受けるのならともかく、こんな小さなブライディーに心配をかけ、危険にさらすなんて…)
「この本は、渡しても構わないのでょう?
 セアラ様さえご無事だったら…」
「ええ、そうです。その通りです、ブライディー いっそ相手が来る前に暖炉で燃やしてしまおうとも考えたのですが…」
「それはいけないわ。たとえ相手が悪魔でも、『売る』と約束されたのでしょう? あの金貨はその代金なのでしょう? だから、嬉しいどころか、悲しそうな顔をされていたのでしょう?」
「ええ。すべてわたしが播い種子なのです。だからわたし一人で何とかします。貴女は隠れていて…」
「いえ、二人で考えましょう! この本を渡しても無事でいられるように…」
「魔法を使って?」
「セアラ様は、まだ見習いとは言え、シスターの見習いでしょう? 悪魔の力なんか使ってはいけませんわ。わたしはただの女の子だから…」
「でも、貴女はラテン語なんか読めないじゃないの? まして難しい呪文なんて…」

「ですから、たぶん、書いてあることが問題じゃあないんですよ、セアラ様」
 小さなブライディーが、あどけない顔を不安に染めたとき、わたしもハッとしました。「! 目に見えている部分が問題じゃない、ということね?」
「あたしたち、よく遊ぶんです。誰にとは言いませんけれど、オレンジや牛乳を絵筆に付けて、乾いたら何も見えないんです… でも、届いた人が火で焙ったら、字の部分が茶色に焦げて出てくるんです」
「『あぶり出し』ね?」
「ええ… 東洋の国、中国や日本では、カイコや、ある特別な虫が大好きな樹液で手紙を書いて、虫がその部分を食べて、初めて文章が読める、ということも本で読んだことがあります…」
 わたしはもう一度、目の前の「死霊秘法」をランプの前にかざして見ました。
「この本を…おそらく何百年も持っていた魔女ウィンスレットは、魔法の才能にも恵まれた人だったと思います。だけども、ここに書かれた呪文を使って邪悪なものを召喚することはなかった… それはたぶん、ウィンスレットさんが大変賢くて、実際に使った場合の代償、と言うか、恐ろしい結果を予見できたからでしょう… 本家本元の大魔女ですら二の足を踏んだことを、まことの神様を信じているわたしたちが実行するわけにはいかないわ…」
「セアラさま、もう少しです! 一生懸命考えてみましょう! たとえばそれは、『聖なるものにしかできないこと』だとか…」
 小さなブライディーの言うことには無理があるように思いました。
『あぶり出し?』『虫』? 手練れの魔女がそんな簡単な仕掛けを見破れないはずがありません…
 また、いまから読み返している時間もないでしょう。
「処女の血」? いくらでも調達できそうです。「神に仕える処女の血」? これもあらゆる悪事に手を染めた者なら、手に入れられそうです…
 本当に一体何なのでしょう?
「あの…」
 小さなブライディーが、わたしの修道服の胸元を引っ張りました。
「…キャベツの汁で書いた文字は、蝶々の芋虫に食べさせたら浮き出ます。だけど、芋虫が気持ち悪くて触れない子は、どうしても読むことができないわ。友達に頼んだら、『秘密の手紙』じゃなくなってしまうし…」
「心の清い人しか読めない、と言うの? いくらなんでもそれは…」
 わたしはハッとしました。
 そして、本とランプを手にして礼拝堂に向かいました。
「ブライディー、一人になっては危ないわ。 わたしについてきて!」
「はい、セアラ様!」
 礼拝堂もまた、けさがたの地震で被害を受け、壁の漆喰にはヒビが走り、床もところどころ割れていました。
 それでも、飴色の木製のイエス様は十字架の上から、いつもと変らない哀れみの目でわたしたちを見守って下さっていました。
 マリア様や聖人たちの像の足元には、いくつもの蝋燭の明りが揺れ、お香の匂いが漂っていました。
「…魔女や悪魔が嫌がる聖別された場所、そこでこの本を読む、か何かするのよ! 誰もこんなまがまがしい呪われた本を、まことの神様の御前に持ってきたり、開いたり、読んだりはしないだろうから…」
 開くより前に、本は、まるで何者か見えざる手にひったくられたかのようにフワリと浮かび上がったかと思うと、強風に吹きさらされたかのようにパラパラッとページがめくれました。
「セアラ様!」
 小さなブライディーがしがみつきました。
「大丈夫! これが正解だったのよ」
 本は宙空で青白い光に包まれ、煙を上げて燃え上がりました。
 そこには、写本したと思われる人…おそらくは魔法にも通じた修道士…が書いた文字が細い、みみずのような煙となって浮かび上がりました。
《…まことの神が示す永遠の命、以外の『永遠の命』『永劫の時の果てに、とこしえの眠りから覚める者』…
 まことの神ですら、奪うことができなかった命…
 それは、広大無辺の宇宙を自由に駆け巡り、旅をし、あまたの次元を自在に移動できる命である…
 その姿は始源の生命にして、いかなる過酷な環境にも耐えうるものである…
 かれらは、その身体を瞬時にして、なにものよりも固い鱗で覆ったり、不死のアメーバに変身できる存在…
 いま、かれらは我等の前から、何万年、何億年姿を隠している。が、かれらにしてみればそれは「一瞬の不在」にしかすぎない…
 太古より、かれらの信奉者は堕天使、ネピリム、フェニキアからペリシテに通じる我等人間と、後を絶たない。
 なぜならば、彼らこそ『実体を備えた永遠の命の存在』であるからだ…》

「…やはり、この煙文字を仕込んだ人は、修道士様か、聖なる立場の人だったんだわ…」 わたしは思わず呟きました。
「…大っぴらに、ノートか何かに認め残すことはできなかった。だからこそ、こんなふうに、言わば『あぶり出し』にして仕込んだのよ…」
 魔女ウィンスレットがさぞかし読みたがっていたであろう文字は続きました。

《かれらにすがれば、まことの神に依らなくても「永遠の命」を得られるかもしれない。 ゆえに古来、堕天使、ネピリム、フェニキア人やカルタゴ人、ペリシテ人の末裔は、かれら即ち『古き神々』を崇めることをやめない。それぞれの場所で、永遠とも思われる長き眠りに就いているかれらを目覚めさせ、甦らせることができれば、暗黒への道は開けるかもしれない。たとえそれが、かれらと同じく長い長い眠りに就くたげのことであったとしても…》

「堕天使たちが求める永遠の命って、天国にも地獄にも行けない、『長い長い眠り』のことなのかしら、セアラ様?」
 小さなブライディーが囁きました。
「ええ、そうみたいね」
「でも、それだったら神様…じゃあなかった、誰かよこしまな心を持った人が封印を解きにきてくれなければ、永遠に目覚められないことになるんじゃあないかしら?」
「邪悪な心を持った人は、いつの世の中にもいるわ。例えばこの本の元の本になった本を書いたアラビアの魔導師アブドゥル・アルハザードみたいに…」
「そういう人に目覚めさせてもらわなければ復活できないなんて、何かとても空しいと思うわ」
「そうね。でもそういう『邪悪でおせっかいな人』というのは、いつの時代でもいるんじゃあないかしら? たとえ、長い時間の果てに、人類が恐竜みたいにいなくなって、みんながまことの神様が設けて下さった天国か地獄に行ってしまうことがあっても、代りの者たちが『邪悪な意味でおせっかいを働いて』目を覚まさせてしまうのじゃあないかしら?」

 声を潜めて話ているうちに、煙の文字は終りのほうにさしかかりました。

《…旧き神々は、果てしない時の果てに、自ら目覚めるであろう。それは、まことの神がわれわれ罪深い人類を最後の審判にかけたあとのことで、われらは、ついに、かれらの復活した姿を目にすることはないかもしれない。
 それこそが、まことの神の大いなるお慈悲であり、御恵みであろう。
 しかし、この本の著者、アラビアの狂える魔導師アブドゥル・アルハザードのように、まことの神がこのように固く厳重に封印した『旧き神を名乗る者たち』を人為的に甦らそうとしている者も少なくない。まことの神の篩からこぼれ落ちたその眷属も、この世界の各地にたむろしている。
 眷属ではない、まことの神の似姿であるまことの人間であるにもかかわらず、かれら旧き神々に近づこうとするのは、かれらの目を覚まさせて、その魔王のような強大無比な力を利用しようとするのではなく…そのようなことは土台不可能だ…かれらの『永遠の命』…すなわち『永劫の眠り』の秘密に近づこうとするのに他ならないであろう。
 我が思うのに…》

 わたしは、わたしたち以外に、煙の文字を読んでいる者の気配を感じました。
 ハッとして振り返ると、礼拝堂の入口付近で、中に入ってこようとしない老婆の姿が見えました。
「ウィンスレット様!」
 その、水を浴びせられて崩れかけた粘土の像のような姿を見て、小さなブライディーがわたしの背中に隠れました。
「…生きておられたのですか?」
「…ああ、さすがに死期が近いと思ってなぁ…」 魔女ウィンスレットは泥が伝う杖をつきながら言いました。「『伯爵』に頼んで一芝居打ってもらったんだよ… この本はずっと前から持っていた。それこそ何百年も前からね… だけども、書かれている内容は、正直あたしのような無名の魔女の手には余るものだった。だけども、あたしは思ったんだ。…そう、思ったんだよ。(この写本には、表向きに書かれている以外のことが書かれているに違いない)と…
 しかし、どんな魔術魔法を試してみても、その文章は現れてはくれなかった。わたしは諦めていた。そして、いよいよという時になって、前から(もしや)と、ひっかかっていた最後の手段を試してみることにしたんだ。そう、(この写本の隠れている文章は『聖なる呪文』で書かれている。ゆえに、あたしたち邪悪な存在は決して目にすることはできない。唯一の方法は、聖なる者に読んでもらうことだったのさ。そこへあんたがのこのこと現れた…」
「ひどい! シスター様を、セアラ様をそんなふうに利用したなんて! あたしたちのお家を壊して、代わりにお金を押しつけたなんて…」
 小さなブライディーが、わたしの陰から飛び出して叫びました。

「危ないわ、ブライディー! 息も絶え絶えとは言いながら、ウィンスレットさんは魔女なのよ。何の拍子に元の姿に戻ってわたしたちを石像にしてしまわないとも限らないわ」「えっ、石像に?」
「それは今回は見逃してやる! だから、早く続きを見せるのだ!」
 泥人形が泥の手を伸ばしながら近づいてきました。

《我が思うのに、かれらは「宇宙をさまよう種子のような存在」なのであろう。「種子」と言ってもその姿はさまざまで、単に植物の種子や、キノコの胞子のようなものではなく、千差万別である…
 また、かれらは「神」を名乗る者たちであるから、原則として生殖はしないが、その気になりさえすれば、いかなる生物とも混血できるであろう。もちろん人間とも…
「永劫の眠りに就いているにもかかわらず、長き時の果てには死も死を迎える」というのは、かれらが自らを固く防御でき、外からの何らかの力によって復活できることを示している、希有な生命体であることを示している…》

「…そういうわけですよ、ウィンスレット様。不老不死なのは『旧き神々』そのものたちだけ。封印を解き、復活させ、身体の一部を取り込むか交わるかすれば、かれらの永遠に近づけるかもしれないけれど、もはやいまからでは無理。
 諦めて、まことの神様におすがりしなさい」
 わたしは聖水の入った小瓶を手にして、もはやアメーバのようにひしゃげかけた魔女に近づきました。
「嫌じゃ! まことの神が何をしてくれる? 妾はずっといつまでもこの世におりたいのじゃ!」
 もはや聞き取れないくらいのくぐもった声が、顔の口のあたりから聞こえてきました。「『復活を待つ』という考えは、おまえたちの言う『まことの神』…我等が言うところの『預言者イエス』の『復活を待て』という教えとよく似ておるではないか? どこが悪い?」
「アルハザードの言う『旧き神たち』は、この挿絵によると、どこから見てもまがまがしい、醜い、始源の生き物の姿をしています。 神の似姿である人間の姿を大切にすべきです」
「うるさい、妾は姿などどうでもよい! 強大な力を伴えるのであれば…」
 言いながら倒れたウィンスレットの身体は、もう溶け崩れることを止めて、そのまま朽ちた木のように固まりました。
「終油の儀式をしましょう。せめて、最後は神の子として葬ってあげましょう」
「でも、魔女は最後まで悔い改めませんでしたよ、セアラ様。そんな人でも天国に行けるのでしょうか?」
 小さなブライディーが眉をひそめました。「ウィンスレット様は悔い改めておられたと思いますよ。この教会に来られたのも、まことの神様のことが知りたかったからではないでしょうか?」
「えーっ、それは違うのでは?」
「ブライディー、そんなに人のことを悪くとってはいけませんよ。まことの神様のまえでは、その人がいままで何をしてきたかということは関係ないのです。イエス様の隣の十字架に懸けられた重罪人は『俺たちは自分たちがやった悪事の報いを受けているだけだ。だが、この人は何も悪いことはしていないのに十字架にかけられている』と言って、一緒に天国に連れて行ってもらえたではありませんか?」
 わたしが魔女の変わり果てた遺体の前にひざまずいて臨終の祈りを唱え、終油を施そうとした時、崩れかけた入口からなま暖かい風が吹き込んできました。まるで真夏のダブリンの港から吹いてくるような、生臭い魚の臭いが混じったような潮風とともに、数人の漆黒の寛衣をまとい、顔を頭巾で隠した猫背の者たちが、列を成して入ってきました。
「待て、その者の骸は、我等が貰い受ける。黙って渡せばよし、さもなくば…」
 頭領らしい者が蛙の鳴き声のような声で言いました。
「あなたたちは誰ですか?」
 わたしは訊ねました。頭巾の隙間から、人のものならぬ顔がチラリと見えました。
「我等は、その魔女ウィンスレットの同胞。彼女に我等『旧き神の信奉者』の約定に従って儀式を行う!」
 小さなブライディーがいなければ、即座に断っていたでしょう。しかし、彼女を巻き込みたくなくて、ためらっていました。
 彼らが四、五人で魔女の骸を床から引きはがし、肩に担いで出て行こうとした時のことです。
 一瞬、まぶしい光が輝き、わたしと小さなブライディーは目を閉じました。
 恐る恐る目を開けた時、黒い寛衣の者たちも、魔女の遺骸も、そしてあの「死霊秘法」も、消えてなくなっていました…


「…是をもてダゴンの祭司およびダゴンの家にいるもの今日(こんにち)にいたるまでアシドドにあるダゴンの閾(しきい)をふまず」(サムエル前書5.5)



 デイジーが語る「馬車馬の夢」

…お姉ちゃんがシスター・セアラのお手伝いでしばらくお屋敷を留守にしていて、あたしとポピーでお屋敷の切り盛りをしていた時のことよ。
 いつも野菜や果物、お肉や魚や卵のご用聞きに来て配達してくれるお店の小僧のサミーが、息を切らせ、まっ青な顔をしてやってきたの。
「大変だ、デイジー!」
「どうしたのサミー、食料品を納めているお宅から食中毒患者でも出たの?」
「そんなんじゃないよ。いつも配達に一緒に来ていたピース号だけど…」
「ああ、『年をとって荷馬車を牽けなくなってしまったので、親方さんが売って新しいお馬さんに換えた』と言ってた…」
「ああ、その馬のことだよ」
「だったらいまごろは潰されて、安物の桜肉か鞄か何かになって最後のご奉公をしていると思うわよ」
「おいらもそう思っていた。この新聞を見るまでは」
 彼はそう言って、包装用にたくさん仕入れる古新聞の切れ端を見せてくれたの。
 紙が黄色の夕刊紙で、社交界や芸能界のゴシップ、スポーツの話題から競馬の掛け率、あることないことが書いてある新聞で、日付は最近のだった。

「エヴァンス博士、動物が考えていることを映像化か?

 わが国の大脳生理学の第一人者、ジョン・エヴァンス博士は近々、生きている動物の脳に電極を繋いで、彼らが考えていることを幻灯またはルミエール兄弟の『映画』のようにして見せる、と発表した。
 犬や猫では視点が低いために、人間の足元しか映らないという心配があるため、実験に使われる動物は馬になる予定。それも、例えば農耕馬などだと見ていた景色に代わり映えがないので、町中をあちこち走り回っていた馬車馬になる可能性が高い模様…」

「…ひと思いに潰されていたらいいけれど、もしもエヴァンス博士の実験材料になって、頭に電極を差し込まれて見せ物にされたら可哀相だよ…
 親方は『出入りの博労じゃない、博労っぽくない紳士ふうの男に、相場より高い値で売った』言っていたし…」
 サミーは気の毒なくらいうろたえていたわ。「うーん、ブライディーお姉ちゃんがいたら、ピース号がどこへ連れて行かれてどうなったか占ってもらえるんだけれど、生憎しばらく留守にしているし…」
「…だったよね。新聞社に聞いてもエヴァンス博士の研究所がロンドンのどこにあるかは知らない様子だったよ。エヴァンス博士は秘密主義者みたいで。…『ここ』英国心霊研究協会の偉い先生だったら『仲間』ということで教えてくれるんじゃあないだろうか?」
 たまたまクルックス先生が来ていらしたので、あたしはお茶を運ぶついでに、意を決してお尋ねしてみることにした。クルックス先生は会員の皆様の中でも気難しいほうだったけれど、お年寄りというのはだいたいそういうものよ…
「デイジー、きみもあの新聞記事を読んだのじゃな?」
 案の定クルックス先生は嘆かわしそうな顔をして仰ったわ。
「ええ、そうなんです」
「エヴァンス博士の研究所の住所は知っているが、教えるわけにはいかん。彼はそういうことにはうるさい男でな。儂も敢えて恨まれるようなことはしたくはないのじゃ。それでなくてもエヴァンスは今回のことで『英国動物愛護協会』から非難されておるしな」
「でも、医学の進歩のために犠牲になっている動物は多いのでしょう?」
「それはそうじゃ」
 クルックス先生は紅茶を一口だけ啜られてすぐにお皿に置かれたわ。あたしは
(熱すぎたのかしら? ぬる過ぎたのかしら? 濃すぎたのかしら? 薄すぎたのかしら? お姉ちゃんのようにはいかないわ)と思ったわ。
「…じゃが、エヴァンスのやろうとしている実験は、医学の進歩とはあまり関係はない。動物がふだん思い描いていることを映像にして見せたところで、いったい何の益があると言うのか? まさか馬で成功したら次は人間で試してみるというわけには行くまい。死刑囚を使ってする実験ならば、角膜や内臓の移植のほうがずっと有意義だし、成功を心待ちにしている患者も多い… それらの実験でも宗教勢力などの反対は根強く、なかなか実行することは難しいのじゃ。ましてや『どうでもいいもの』については…」
「分りました。すいませんでした」
 あたしはいったん引き下がったものの、諦めはしなかったわ。だって、いつもお掃除させてもらうんだけれどクルックス先生の実験室って、いろんな本やノート類はもちろん、名簿なんかもそのへんに出しっぱなしにしてあるのだもの…

 あたしはクルックス先生がご自宅に帰られてから、ホウキやちり取り、雑巾を浸したバケツなんかを持って先生の実験室に入った。先生のご専門は電気だから、ディーゼル発電機のほかに、広い机の上にはいろんな形の管や、エジソン電球や「蛍光灯」と呼ばれる発光管や、螺旋状のコイルや、真空管のいっぱい刺さった板なんかがところ狭しと並んだいた。
 開きっぱなしの難しい書物やノートに混じって、見慣れた革表紙の名簿もそのままにしてあった。
(これだ、これだ…)
 あたしはホウキを片手にページを繰った。(…えーっと、エヴァンスだからEね…)
 すると、なんとクルックス先生の知り合いのジョン・エヴァンスは三人もいた。
(何エヴァンスだろう? …まぁいいわ。取りあえず三つとも写そう)
 三人は揃ってロンドンの郊外に住んでいた。「おーいデイジー、すまないけれど、そこが終ったら私の部屋も頼むよ」
 ウォーレス先生の声が響いて、あたしはドキッとした。ホウキを持っていて良かったわ。おまけにウォーレス先生はひどい近眼で、眼鏡を掛けても遠くはぼやけて見えないの。
 夕方近くになってポピーが買い出しから帰ってきた。サミーのお店にない特別な食材や、先生がたからの頼まれものは専門店を買い回るのよ。
「ポピー、ごめんなさい。今夜はちょっと一人で頑張ってくれないかな?」
「えっ、デイジーさん、またお義母さんの具合が良くないのですか?」
「いえ、そういうわけじゃあないんだけれど… お願い! この埋め合わせは必ずさせてもらうから」
「はぁ… 分りましたわ」
 ポピーは本当に根ほり葉ほり聞かないいい子よ。
 日暮れ前、サミーがやってきた。
「どう、分った、エヴァンス先生の住所?」
「えへへ、この通り…」
 あたしがメモを見せるとサミーは目を輝かせた。
「やったね。さっそく順番に当ってみよう」「サミー、貴男バカじゃない? ここに電話番号が書いてあるでしょう? 電話を掛けてみればすむことよ」
「でも何て言う? 『馬を使って実験しているエヴァンス先生のお宅ですか?』なんて聞いたら、ガチャンと切られた上に用心されちまうぜ」
「サミー、貴男も学校に通ったほうがいいんじゃない? ものには要領というものがあるのよ」
「と言うと?」
 あたしはお屋敷の玄関脇に一つだけある電話機様のハンドルを回して交換手さんを呼び出した。
 まず一軒目のエヴァンスさん…
「…もしもし、頼まれていた馬の調達のアテがつきました…」
「何かの間違いじゃない? うちは馬なんか頼んでいないわよ」
 女の人の声がした。
 二軒目。
「ああ、それならエヴァンス違いだ。その研究をしているのは別のエヴァンスだ」
 三軒目。
「…………」
 あたしが切り出すと、相手はしばらく何も答えなかった。ややあって無言のままカチッと切れた。
「ここよ! きっとこのエヴァンスよ!」
「でも怪しまれたかもな」
「大丈夫よ。エヴァンス先生も最終的には公開実験を行って世間の賞賛を集めたいわけでしょう? 夕刊新聞にすっぱ抜かれても、そんなに嫌な気はしていないと思うわ。むしろ内心少し喜んでいるんじゃないかしら?」
「だといいけれど…」

「あー、デイジーさんまた電話を掛けている!」
 振り返ると、ビーフシチューの匂いのする湯気のたったおたまを手にしたポピーが目を吊り上げていた。
「電話代はものすごく高いんですよ! メイドが掛けていいものじゃあないんですよ!」
「た、頼まれものの注文よ…」
「それなら手紙を出されればいいでしょう?」
「デュード侯爵様の、株の売買のご指示で『電話でしておいてくれ』と頼まれたのよ」
「証券取引所はもう閉まっていると思いますけれど」
「だから明日の朝一番の」
 ポピーは肩をすくめて厨房に戻っていった。まったくブライディーお姉ちゃんの真似なんかしなくてもいいのに…
 ふと気が付くとサミーが、お世辞にもきれいとは言えない布の中から、海賊の船長が持っていそうな年代ものの拳銃を取りだしていた。
「サミー、何よその物騒なものは?」
「ボーア戦争に行っていた従兄弟に借りてきたんだよ。ピース号がひどい目に遭っていたら、一思いに撃ち殺してやろうと思って…」

「なぁデイジー、おいらだって木や石でできているわけじゃあないよ。おいらがお店に丁稚奉公に来てからずっと一緒だったピース号を殺したりしたくはないよ。雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も、仕入れの時も配達の時もずっとずっと一緒だったんだ。
 別れの時は涙がこぼれて仕方なかった。
 でも、ピース号は年をとっていたんだよ。おいらがお店に入った時には、すでにお爺さんだったんだ。最近は荷馬車を牽くのもしんどそうだった。正直(もう休ませてあげたい)と思ったよ。だけども、おいらは食料品店の住み込みの店員に過ぎないし、ピース号を引き取れるような故郷や田舎もないんだよ。
 レースで何回も優勝した競馬馬で、持ち主が貴族だったら、寿命が尽きるまで遊ばせてあげる牧場もあるだろうけれど…」
 サミーの瞳が潤み始めた。
「分った。分ったわよサミー。でも拳銃はいくら何でも… それに第一、貴男その拳銃の試し撃ちはしてみたの?」
「『試し撃ち』?」
「ええ。練習で、的や空き缶や瓶を撃ってみることよ。弾丸が古くて湿っていたら不発ということもあるし、もし拳銃自体が故障していて爆発したら自分の腕が吹き飛ぶわよ」
「ええっ!」
 サミーの顔色が変った。
「サミー貴男、『借りてきた』というのは嘘で、本当は黙って持ち出してきたんじゃあないの?」
「ああ、実はそうなんだ…」 サミーは口ごもりながら認めた。「…でも、いくらおいらの馬じゃあなくても、働きに働いた末に、最後に実験に使われるなんてあまりにもかわいそうで…」
「サミー、失礼だけれど、貴男貯金している?」
「少しだけなら…」
「あたしも少しだったらあるのよ。二人の貯金を合わせて、もしもピース号が実験動物になりかけていたら、エヴァンス先生に『買値よりも高い値段で買い戻しますから』とお願いしてみましょうよ」
「有難うデイジー、恩に着るよ! …でもエヴァンス先生が『いいだろう』と言って返してくれたとして、ピース号はどうしてあげたらいいんだろう? それからもしも『ダメだ』と言われたら…」
「そんな心配はその時になってからすればいいのよ。少なくともどちらか一つしかしなくていいはずなんだから」
「そうだね。でも念のために試し撃ちはしてみておくよ。どこでやればいいんだろう?」 サミーは拳銃を包んだ布をしっかりと胸に押し抱いた。
「ドイル様は小説の中で、ホームズに部屋の中で試し撃ちをさせているけれど、それはしないほうがいいわね。やるとすれば猟銃を扱う店よ。貴族が狩りに使う…
 あたし、お使いで弾丸を買いに行く店があるから、そこで頼んでみましょう」

「ドイル様のお使い、ということでしたら…」
 銃砲店の禿頭の店主は、サミーが持参した拳銃を分解し、耳かきのような道具で掃除しながら言った。
 お店の奥の壁には立派なライフル銃がしっかりと南京錠の付いた鎖でつなぎ合わされて、黒光りして並べられていた。
「…持ってこられて良かったですよ。これはずいぶん傷んでいます。このまま撃ったら暴発したかもしれません」
 あたしたちは思わず顔を見合わせ、生唾を飲み込んだ。
「…さぁどうぞ。『壊れ掛けていた部品を新品に交換しましたので、これで大丈夫です』と、ドイル様に申し上げておいてください」
 店主は包んであったボロ布をポイとゴミ箱に捨てて、代わりに店の名前が刺繍された立派なセーム皮に包んで返した。
「あの、弾丸も売ってください」
 サミーは口ごもりながら言った。
「何発ですか?」
「五、六発でいい、とのことです」
「ハハハ…」 店主は破顔一笑した。あたしたちは思わずギクッとした。「『五、六発』? そんなバラ売りはしませんよ。最低30発です」
 目の前に小さな紙箱が出された。持つとズッシリと重かったわ。
「料金は二ポンドと3/4。ドイル様におつけしておきますよ。よろしくおっしゃっておいてください」
 あたしたちは冷や汗をかきながら店を出た。「ああ、とても『試し撃ちをさせてください』なんか言い出せなかったわ」
「それよりもドイル様のところにツケが行ってしまうよ」
 サミーはいまにも泣き出しそうだった。
「大丈夫。ドイル様はホームズもののヒットで高額納税者であられるのよ。二ポンドや三ポンドの請求書なんか、いちいち気にとめられないわ」
「そ、そうかな…」
「それよりもピース号を助け出すのでしょう?」
「ああそうだよ。そのためにおいらたちはこんなヤバいことをしているんだ!」

 あたしたちはエヴァンス先生の研究所に行くために辻馬車に乗った。
「ちょっと郊外だね。またお金がかかるね」 サミーは遠くなっていく街並みと、黄昏て灰色がかっていく草木を眺めながら言った。
「ピース号のためよ。仕方ないわ」
「なぁデイジー、だんだん人けもなくなってきたし、少し手前で降ろしてもらって試し撃ちしてから行く、というのはどうだろう?」「だめだめ。いくら田舎だからと言ってそここに家が建っているじゃない。猟場でもないのに…まして暗くなりかけているというのに銃声がしたら、人が飛んで出てきてお巡りさんが駆けつけてくるわよ」
「そうかぁ… ぶっつけ本番… 戦争やレース中に大怪我をして動けなくなった馬は、やっぱり頭を撃つんだろうか?」
「でしょうね。あたしもよく知らないけれど、皮を使いたいときは、胴体とかは傷つけちゃあいけないんじゃあないかしら?」
「ちゃんと命中するだろうか?」
「仕方ない子ねぇ。そこまで心配するのならあたしが撃ってあげようか?」
 あたしはサミーの手から拳銃をひったくって弾倉を開けてみた。六つある弾倉には買ったばかりの六発の弾丸が装填されていた。
「でも、罪になるんじゃあ?」
「もちろんなるわよ」
「きみを罪人にするわけにはいかないよ、デイジー」
「大丈夫。『英国心霊研究協会』の会員さんの中には弁護士さんもいっぱいいらっしゃるのよ。あたしたちみたいにお金のない者にはタダで弁護してくださる勅選弁護士さんもね。 でももしあたしが起訴されたら、ブライディーお姉ちゃんやポピーやドイル様たちがお金を出し合って、どんな罪状でも絶対に無罪かかなりの情状酌量にして下さる腕利きの弁護士さんを雇って下さると思うわ」
「本当に?」
 とりとめのない話をしているうちに、畑の中の一軒家が見えてきた。
「ここでいいわ、止めて! それと済まないけれど一時間待っていて。待っていてくれたら同じ額のチップを払うわ。一時間して戻らなかったら帰ってちょうだい」
 御者にかなりの心付けを渡したあたしたちは辻馬車を降りて、さわさわと揺れる木立の中を進んだ。日はとっぷりと暮れていて、雲が月と夜空の半分を隠していたけれど、真っ暗闇じゃあなかった。
 あたしたちは庭から家の中を覗き込んだ。 窓には明りが灯っていて、カーテンに映った影が揺れているように見えたわ。
 と、「ヒヒヒーン」といななきが聞こえた。 家の中から!
「ピース号だ!」
 大声を出しかけたサミーの口を、あたしは押さえた。
「シッ! 間違いない?」
「間違いあるものか! おいらはずっと荷馬車の御者台で声を聴いてきたんだ。…待っていろよピース号! いますぐ助け出してやるからな!」
 サミーは拳銃を振りかざして柵をまたごうとした。
「待って、助け出しちゃあだめ! 相手は…エヴァンス先生は、ちゃんとお金を出してピース号を…廃馬を…買っているのよ! 一度は買い戻したいと提案しないと… でないと、後で過激なことをした時に情状酌量にならないわよ!」
「デイジー、キミって、どうしてそんなことを詳しく知っているんだい?」
「さぁ、よくドイル様と一緒にいるし、ドイル様が他のかたとお話しされているのを漏れ聞いてしまうせいかしら」
「それって立ち聞きじゃあ? まぁいいか。おいらは本当にピース号がいるか確かめてくるよ」
 サミーは吊りズボンの腰に拳銃を差し込んで柵をまたいだ。あたしも彼の手を借りて乗り越えた。
 臭いがするのか、窓は少し開いていてカーテンが揺れていた。
「おいらが肩車するから、デイジー、きみが覗いてくれ」
 サミーの肩の上に乗って恐る恐るカーテンを開いて見ると…
 見慣れたピース号がいた。
 馬体を固定する柵に囲まれ、両耳の下に太い針金のようなものを差し込まれ、両目からは涙をこぼしていた。
 回りにはわけの分らないたくさんの機械が置かれていて、いくつもの計器の針が揺れ、豆電球が灯ったり消えたりしていた。
 その横には、ドアを横にしたくらいの大きさ影絵を映し出すような幕があって、機械類と何本もの線でつながっていた。
 ピース号は気が付いてあたしのほうを見た。 そして「助けて!」と大きくいなないた。「ピース号か?」
 下からサミーの声がした。
「ええ。間違いないわ」
「ひどい目に遭わされている?」
「ええ。貴男は見ないほうがいいわ」
「そんなに?」
「いったん表に回りましょう。計画の通り『買い戻したい』とお願いしてみましょう」「でも、そんなのだったらとても…」
「ええ。でも一度はお願いしてみましょう」
「警戒されちゃうよ!」
「じゃあ、あたしが口笛を吹いたら、貴男は… 踏み台か小さな梯子を探しておいて!」

 あたしが表に回りかけようとした時、サミーが肩を掴み、拳銃の銃口を握って差し出しながら囁いた。
「デイジー、やっぱりおいらには撃てないよ。君が撃ってやってくれよ。おいらはずっとピース号と一緒にいたんだ。キミはおいらが配達に行った時だけ会っているだけだ」
「サミー、貴男、男の子でしょう? ピース号のことを可哀相だと思って上げているわけでしょう? だったら…」
「できないよ… やっぱりおいらには撃てないよ…」
 彼はいまにも泣き出しそうになった。
「分った。分ったわ。だから、玄関に回ってもしもエヴァンス先生に断られたら口笛を吹いて! その時はあたしが…」
「有難うデイジー! 有難う! 一生恩に着るよ!」
 あたしに拳銃を押しつけると、サミーはそう言い残して小走りに玄関のほうへと回った。
 あたしは大急ぎで踏み台になるようなものを探した。幸い、物置小屋の板壁に小さな脚立のようなものが立てかけられていた。
 あたしは拳銃をいったん茂みの下に隠すと、脚立をそーっと両手に持って、窓の下に置いた。
 拳銃を持ち、脚立に登って、再びカーテンの隙間から覗いた。
 突然ガタンと音がして、ピース号の足元のベルトが動き出した。
 頭に電極の棒のようなものを差し込まれたピース号は、仕方なく走り出した。…いえ、走らされた。
(ごめんね…)
 あたしは珍しく…本当に珍しく神様に祈りながら銃口をピース号の頭に向けた。
 ピース号は(早く撃って)と言いたげに、悲しそうな瞳をあたしに向けた。
(ちょっと待っていてね。いまサミーが話しに行っているの。上手く行けば買い戻して上げられるかもしれないわ…」
 玄関でベルの音がして、「誰だ?」という男の声がした。たぶんエヴァンス先生か助手の人に違いない…
 緊張しながらドイル様がときどきなさっているのを真似て両手で拳銃を構え、引金に指をかけた時、不思議なことが起きたの。いや、エヴァンス先生にしてみれば「立派な研究の成果」で、不思議でもなんでもないことかもしれない…
 立ててあった影絵芝居の幕のようなものに次第に影のようなものが浮かび上がり始めたの。
 影はだんだんと形になったわ。
 サミーと、たくさんの品物を乗せてロンドンの往来を元気に嬉しそうに、颯爽と走るピース号…
 サミーが荷物の積み降ろしをしているあいだ待っているピース号…
 サミーにたてがみを撫でて貰ったり、にんじんや飼い葉を貰っているピース号…
 あたしとサミーが立ち話をしているのをじっと聞いているようなピース号…
 どれも楽しい懐かしい思い出ばかりだった。
 あたしは思わず泣きそうになり、袖口で両目を拭った。
 その時、ヒューッと長い口笛が聞こえた。(サミーが断られたんだわ。撃たなくちゃあ! あたしがピース号にお別れしてあげなくちゃあ!)
 もう一度拳銃をシッカリと両手で構えてピース号の眉間を狙った。
 ヒューッ、もう一度口笛が鳴った。
(早く撃たなくちゃあ! 誰かここに来て見つかってしまうかもしれない… いやきっと見つかるわ!)
 でも、両手がブルブルと小刻みに震えてなかなか引金は引けなかった。
(何をやっているのデイジー! 毎日毎日お魚を捌いているし、鶏だって何度も絞めて羽根をむしったことがあるじゃないの!)
 自分にそう言い聞かせ、思わず目を固くつむって引金を引いた。
 銃声が轟いた。
 弾丸は見事に外れて機械の一つに当たり、機械は火花を散らして白い煙を立てた。
 ピース号は驚いて「ヒヒーン」といななき、ブルブルと思い切り馬体を震わせ、いましめていた柵やベルトを断ち切って外し、思い出が映っていた幕を破って突っ込んだ。
 そしてそのまま、消えていなくなった。
 そう、消えていなくなったの…
 あたしはサミーと合流し、二人で一目散に辻馬車を待たせてあるところまで走って逃げた。相手は出火を消すのに大わらわらしくて、とりあえず誰も追っては来なかった。
「ピース号は?」
 駆けながらサミーが訊ねた。
「安心して。ちゃんと…」
 あたしは嘘を付いた。本当のことを言っても信じてもらえないと思ったからよ…
「そう… 有難う。一生恩に着るよ」
 馬車に戻ると御者さんから、さっきの銃声について聞かれた。あたしは正直に
「かわいそうな馬を殺してあげてきたの」
 と答えた。御者さんは
「そうかい。俺にも覚えがあるよ」
 と言って、それ以上は聞かずに馬車を出してくれた。
 ふと窓の外に目をやると、暗い畑の中に馬の影のようなものがじっとこちらを見ていた。じっとうつむいたままのサミーには教えなかった。だって、ピース号は天国に行ったんですもの。

 エヴァンス先生から警察への被害届は出されなかったみたい…



 コナン・ドイルが語る「自殺狂時代」

『死んだら楽になった!』

 そのポスターには、読みやすい大きな活字体でそう書かれてあった。

『…生きていてもしんどいことのほうが多い。それは楽しいこともあるだろうが、それは少なく、また稀である。さっさと死んだほうが断然ラクなのである…』

 ロンドン警視庁の会議室。私は薄いコルク板が貼られた壁にズラリとピンで留められた何枚ものポスターを順番の眺めて歩いた。
「悪質ないたずらだね」
「一枚や二枚ならいざ知らず、このところあちこちで発見されている」
 何としてでも切り裂きジャックを捕らえようとして、危険な囮捜査を何度も行ったことで知られる野心家のブレード警部が、唇を尖らせて言った。
「で、どう思う、ドイルさん?」
「…どのポスターも、雨に濡れて絵の具が落ちた跡がある… …このポスターなんか、下半分はまともなサーカスの公演の案内だ。雨が途中で止んだんだろう。
 と言うことは、犯人はまず『普通ポスターに使われる落ちないインク』で自殺を勧めるポスターを印刷し、その上から『水で簡単に落ちる水性のインクで何の変哲もない案内を印刷』して、ポスター貼りを請け負う会社に、市内に張って回るように依頼したんだ」
 私は会議室に、他に誰もいないのをいいことにパイプをふかし続けた。
「さすがはホームズの作家。ご明察ですよ」
「もちろん依頼人はたぐったんでしょうね?」
「無論。依頼人は別の依頼人に頼まれた男で、その別の依頼人は住所も氏名も架空の人物だった。似顔絵も描いてもらったが、おそらく変装しているだろう。すべての支払いは現金だった」
「ふーむ、少なくとも犯人には、自分が健全な社会の秩序を乱しているという自覚はあるようだね」
「金持ちの酔狂だろうか? それとも何か意図があるのだろうか?」
 ブレード警部は眉間の皺をさらに増やしてうめいた。

『…この世界には何億人もの人間がひしめき合うようにして生きている。あなた一人が死んだところで、どうということはない。あなたのかわりはいくらでもいる。そう、いくらでも…いくらでも…』

「某・仮想敵国の嫌がらせ的な策謀、ということは?」
 私は洒落のつもりで言ってみたが、警部はますます怒ったような顔になった。
「おお、ドイルさんもそうお考えですか? いちおう国内の大小あらゆる印刷所に当ってみたのですが、手応えはありませんでした。某仮想敵国の情報部が印刷して密かに我が国に持ち込んだものに違いありません!」
「それか、屋敷の中に、かなり凝った印刷設備を持っているような金持ちの仕業か…」
「その可能性も捨ててはいませんよ。自分一人で死ぬのが嫌で、道連れが欲しくてたまらない人物の仕業かもしれません… しかし見ず知らずの、縁もゆかりもない者を誘い込んで楽しいでしょうかね? 『このポスターを見て、その気になって自殺した』という証拠も得られませんでしょうし…」
 警部はいまいましそうに別のポスターを睨み付けた。

『生きることになんて、何の意味もない。我々は無駄な人生をダラダラと、漫然と生き、他人に迷惑をかけ、自分も悩み苦しみ続けるだけである』

「ちなみに、このポスターを見て自殺した、とハッキリ分っている自殺者はいるんですか?」
「それはまだ…」 ブレード警部は言葉を濁らせた。「…ご存じでしょうが自殺者と言うのは、毎日、月単位、年単位で何人かはあるものなのです。ハッキリとこのポスターをちぎってそれをポケットの中に入れて自殺した者、というのは幸いまだ報告はされていません」
「すると、現在のところまだ実害は出ていないのですね?」
「ええ、そういう意味では。しかし市民からの通報が相次いでいます。子供たちへの悪影響も危惧されていますし、宗教家や熱心な信者たちはカンカンになって破って回っている者もいるそうです。不穏当な細工のない、まともなポスターもトバッチリで破られている、とか…」
「騒ぎが大きくなる前に、何とかしなくてはいけませんね。ところで、これは何の罪になるのでしょうか?」
「騒乱罪、擾乱罪、さらには国家転覆・叛逆罪の適用を上申しているところです。そうなると、最高刑は死刑です」
 ブレード警部は胸を張った。
「市民が勝手に容疑者を私刑にしてしまわないうちに、ね…」
 私はつけ加えた。

『…最悪の場合を想定していないと、困ったことになってしまうのが現実である。しかし、最悪の事態ばかりを考えていると、気が滅入ってしまう。かと言って、ちょっと楽観するとそれはほとんどことごとく無惨にも打ち砕かれてしまう。ならば、最悪かそれに近い出来事が次々に襲いかかってくる前に、自分で幕を引くのが賢明というものではないだろうか?』

「これはどうやら『某・仮想敵国の陰謀』なんかではありませんよ」
 私は椅子に掛けて壁に並べて貼られた『自死を勧めるポスター』を、パイプを持った手の肘をついて眺めながら呟いた。
「なぜそんなことが分りますか?」
「もしもどこかの国が、わが国の混乱を願っているのなら、例えば…

『ユダヤ人どもがあなたの財産を巻き上げようと狙っている』とか、
『王室や貴族の連中は腐っている』

 とか、宣伝するのがパターンだからですよ。 それだったら、わざわざこんな手の込んだことをしなくても、堂々と本に書いて出すこともできます。いままでそれに近いことをしてきていますしね。…第一、そんなことをするよりも阿片を持ち込んだり、偽札を造ったりするほうがずっと手っ取り早いんじゃあありませんか?」
「なるほど、そうかもしれない」 ブレード警部は表情を変えないまま頷いた。「するとやはり…」
「おそらく国内の人間の仕業です。全面重ね刷りができる印刷機を持っていて、インクも持っている…」
「印刷会社はこんなものの印刷を引き受けたりはしない。従業員の口に戸は立てられないからな」 警部は認めた。「…だが、売られた機械やインクのすべてのリストを押さえるのは難しい。最近のものならともかく、数年前のものなら記録はないし、覚えているものも少ない…」
 と、その時ドアが激しくノックされて、巻いたポスターを手にした制服警官が飛び込んできた。
「ブレード警部殿、また新たなポスターが発見されました!」
 さっそく警部が広げて張った。

『…この世は災難に充ち満ちている。生まれてくるということは災難の海に飛び込むようなものだ。子供をつくる夫婦は、我が子を無数の災難に遭わせるためにつくっているのだ。自分たちがたどってきたきた、しんどい辛い、苦しかった思いを子供にもさせて平気なのだろうか?』

「ううむ…」 警部は張ったばかりの証拠品のポスターをドンと拳で叩いた。「…許せないな! 『ポスターを張って回る組合』の親方連中には、張る前に水で洗ってみてチェックするように、と、固く指示したというのに…」
「それが、上の数枚は『まともなポスター』だったので、その下の『細工されたポスター』には気が付かなかった、と言い訳をしておりまして…」
 巡査は直立不動のまま、敬礼して言った。「相手も考えてきている、ということですよ」 私は窓の外のまた降り出した小糠雨を眺めて呟いた。「…せめて雨が止んでくれてしばらく降らないでいてくれたら、その間に対策を講じられるのですが…」
「それは神頼み、というものではありませんかドイルさん? …こうなったら警視総監にお願いして、『すべてのポスターを張るのをしばらく中止するように』親方衆に命令してもらいましょう!」
「そんなことをしても、アルバイトに困る人々が出てくるだけで無駄ですよ」 私は肩をすくめた。「…小さなサーカスや見せ物小屋や、商店の広告ポスターは、それぞれ自分たちが、ゲリラ的に張っていますからね」
「市民の自警団や、国教会教区の有志、それに救世軍の人々があらゆるポスターに水をかけてみて該当するものを剥がして処分して回っています!」
 巡査が報告を続けた。
「ご苦労なことですな」
 私が言うと、警部は、
「ドイルさん、そんな他人事みたいに!」
 と目を吊り上げた。
「とにかくこれは金持ちの仕業ですよ。貧乏人はこんなことに金を使うくらいだったら、おいしいものの一つでも食べますからね」
「くそぅ… 『病気で余命いくばくもない金持ち』の仕業なのか? それだったら教会に寄付するなどして死んでいってくれればいいものを…」
「『死にかけている』とは限らないかもしれませんね」
 私は苦笑いした。

「さて、我々もずっとこんなところで思案している場合ではありませんな」
 ブレード警部は事件簿と思しき紐で綴じて黒い表紙を付けた分厚い書類を取り上げて開いて見せた。
「…ドイルさんもご存じで、中身も読んでおられるでしょう…十数年前に『楽に自殺できる方法』なる本を地下出版して世間を騒がせようとした男の居所を押さえて見張りも付けてありますので、もう一度埃を叩いてみましょう」
「確かジェンキンズとか言いましたね。無政府主義者でも何でもなかったはずですが…」 私は警部とともに制服警官が御者を務めるロンドン警視庁の馬車に乗り込んだ。
「ええ、本人は『無神論者』だと言ってました。本に書いてあった毒薬の調合もかなりいい加減なもので、実際に試した自殺志願者たちが七転八倒して病院に担ぎ込まれる騒ぎになりました。…そのうちの何人かは望み通り死にましたけどね」
 馬車は裏町の安アパートや雑然とした建物がひしめき合っているところに入り込んだ。 雨は本降りになっていてコウモリ傘をささねばならなかった。
「『風紀を紊乱する違法出版物出版の罪』で懲役十年の判決を受けたものの、服役態度良好ということで八年で釈放されました。しかし今だに青少年に悪影響を与える本をなりわいにしているようですよ」
 警部は雨の中、見張っている刑事に小さく会釈した。
「誰か訪ねてきたか? 郵便は?」
「いえ、特に何も…」
 警部は汚いドアを激しくノックした。
「おい、ジェンキンズ、開けろ!」
 鍵を外す音がして、禿げたネズミのような中年男が顔を覗かせた。
「何回同じことを言わせるんだ? 今回のポスター事件と俺とは関係ないんだ!」
「何か思い出してくれたんじゃないか、と期待してね…」
 警部は礼状なしに男の部屋に踏み込んだ。 中は安物の小型印刷機や積み上げられた紙の束で足の踏み場もないくらいだった。どうやらやはり、まともな印刷屋や製本屋に頼めない本を自分一人で刷っているらしい。
「何も思い出さないよ。『あれ』は割りが合わなかった、それだけしか言うことはないね」
「じゃあ、おまえは今回の犯人はどんなヤツだと思う?」
「そんなこと知るものか!」
「いやに愛想が悪いじゃないか。ここにあるもの全部没収することだってできるんだぞ」 警部はジェンキンズの汚れた襟首をつかんで締め上げた。
「そんな無茶な! …分った。分りましたよ! 放してください! …いいですか、今回の『お騒がせポスター』の製作者は金持ちです。種類がたくさんあるでしょう? 当たり前ですけれど、たくさんの種類を印刷するのには金がかかるんです」
 男はネズミのように鼻をヒクヒクさせて警部を見上げた。
「他には?」
「…そうですね。ふだんからたくさんのパターンを印刷する、というか、『それが当然だ』と思っている者の仕業ですよ。我々はいつも『できることなら最小の手間で最大の利益…と言うか話題になる』ことを目指していますからね。もしも自殺を勧めるポスターを刷るのだったら、インパクトのあるもの二、三種類に絞り込んで、ドカンと印刷しますよ」
「と、言うと? 具体的には?」
「例えば、政治や選挙用のポスターは、種類があまりにもたくさんあったら、有権者はかえって混乱してしまうんです。『この政党はいったい何が言いたいのだろう?』ってね。 そこでなるべく一点に的を絞るんです。
 反対に、大人にも、老人にも、子供にも、婦人にも、金持ちにも、貧乏人にも、選挙権のある者、ない者。在留外国人。ありとあらゆる人にアピールしようと思ったら、それぞれの対象向けの『別々のもの』が必要です。 たくさんの種類が要るんですよ! ご婦人に男性向けのヌード写真集を見せても顔を背けられるだけでしょう?」
 ネズミ男ジェンキンスの話に私はハッとした。
「警部、いまちょっと思いつきましたよ!」 私はブレード警部に耳打ちした。「…いったんヤードに帰りましょう!」
「なんだって! ドイルさん、本当ですか?」
 会議室に戻った私たちは、張って並べられたポスターをもう一度眺めた。

『貧乏人は首を吊れ!』
『老い先短い年よりは川へでも飛び込め!』
『暴力亭主から逃れる道は、毒でも飲んで死ぬしかないぞ』
『勉強のできない学生は、生きていたって仕方がないぞ!』

「確かに種類が多い…」
 警部は大きく目を見開いた。

「なぜこんなに種類があると思われますか、ドイルさん?」
「自信はありませんが、何かの理由があるという気がしますよ」
 私は改めて「自殺を勧める」いろんな文言のポスターを見比べた。紙は風雨にさらされていてよく分らないが、元になった紙はそう新しいものではなさそうだった。書体に大小の違いはあるものの、同じところで刷られたもののようだった。
「その『理由』とは?」
「…何年か前にスティーヴンソン氏が『自殺クラブ』という小説を発表されていますね。 あれに触発された何者かが、自作の『自殺の勧め』を書いたんですよ。…本にではなく。ポスターに」
「なぜ、本ではなくてポスターに?」 ブレード警部は不思議そうな顔をした。「…本にしておけば、もしかしたらスティーヴンソン氏の作品のように後世に残ったかもしれないのに…」
「登場人物や事件など、面白く肉付けする才能がなかったのかもしれません。とにかくその者、またはその者たちは、いま、または少し前にポスターを作った」
 そこへ、また先ほどの制服警官がやってきた。
「ブレード警部殿、大変です!」
「どうした?」
「自殺者なんですが、ポケットに例のポスターが!」
「なんだって? 身元は分ったのか?」
「はい。判事で、一族は倉庫業も手広く営んでいるラインスター氏の奥さんでして…」
 私は遺体が持っていたという小さく折りたたまれたポスターを広げて見せて貰った。

『生きていたって空しいだけだぞ。毎日同じことの繰り返しじゃないか。もういいことなんか滅多に起きないんだ』

「死因は?」
 警部が訊ねた。
「自宅でガスを… ラインスター夫人は長いあいだ鬱病で医者にもかかっていたそうです」
「分った。行ってみよう!」

 ラインスター判事の家は、高級住宅街の一角にあった。
 白髪に鼻眼鏡の判事は、怒りに声を震わせていた。
「…本当に誰がこんなことを! ポスターを見なくても妻は自殺していたかもしれない。しかし…」
 私は現場になった夫人の自室をぐるりと見渡してみた。遺体は引揚げられた後だったが、まだかすかにガスの臭いが残っていた。
 開かれた窓からは寒い風が吹き込んでうす茶色のビロードのカーテンを揺らしている。鏡台や箪笥はあったが本箱はなかった。
「ブレード警部、早くこのろくでもないポスターを街じゅうから一掃してくれたまえ!」 判事は声を荒げた。
「鋭意、やっております」
「それから刷った者も何とか見つけ出して罰するのだ!」
「もちろんです」
 私は、と言えば、遺体が持っていたというポスターをもう一度広げた。
 四隅に糊が付いていて、破って引き剥がした跡がある…
「ちょっと」 私は警部を呼んで小声で訊ねた。「『自殺勧誘ポスター』は、四隅で糊付けされているのだろうか?」
「いいえ。ご存じの通り、張るのは業者がやっていて、ほとんどが裏全面に糊付けされています。ですから『証拠物件』として保存する時は、乱暴に滅茶苦茶に削り取ることができず、糊を溶かす薬品を使用して慎重に少しずつ剥がすなど、非常に苦労しているとのことです」
「じゃあ警視庁で見せてもらったいろんなポスターは、みんな苦労して持ってきたものなのですね?」
「そうです」
「…なのに、ラインスター夫人が持っていたポスターは、四隅だけ糊付けされた、剥がしやすいものだった…」
「『たまたま』ではありませんか、ドイルさん。張る仕事の者も日雇いのアルバイトなどがいて、『全部糊付けしろ』と指示されていても横着して四隅だけにした、とか?」
「それを『偶然に』ラインスター夫人が?」
「ドイルさん、貴男なにが言いたいんですか?」
「いえ、特に… 私は捜査する立場の人間ではありませんが、ラインスター氏とお話しさせて頂いてもいいですか?」
「もちろんだとも」 判事が代りに答えながら近寄ってきた。
「ご一族は倉庫業を営んでおられる、とのことですが、主にどのようなものを預かっているかご存じですか?」
「いや、君も知っているように公職者…特に判事は兼職を厳に禁じられている。親戚がやっている仕事には一切関わっていないので、知るよしもない。そんなことが今回のことに関係があるのかね?」
 判事は声を震わせながら言った。

「ちょっと気になることがありましてね。…でも『倉庫業で有名』なくらい、手広く事業をなさっているのだから、倉庫の数は一つや二つではないのでしょう」
 私が穏やかに言うと、ラインスター判事も落ち着きを取り戻した。
「そりゃあそうだ。何を預かっているか、帳簿を見るだけでも何人かの人間が、何日もかかるだろう」
「預かりものが全て漏れなく記帳されているとも限りませんしね」
「なんだって?」
「いえ、こちらの独り言です。…失礼しました。警部、ここは部下のかたに任せて、我々は引揚げませんか?」
「そ、そうだな…」
 ガス栓や窓に施された目張りを調べていたブレード警部は、よそよそしく頷いた。
「警部、あの『自殺方法本』を出して八年刑務所に行っていたジェンキンズをもう一度絞ってみましょうよ。彼は絶対に何か隠していますよ」
「そうだろうか…」 いつも自信たっぷりで立場の弱い者には居丈高のブレード警部は、私の考えていることを薄々と悟ったのか、視線をさまよわせた。「…他でもないドイルさんがそうおっしゃるのなら…」

 私たちは再び、場末の雑居アパートを訪ねた。
「またですか? もう勘弁してくださいよ」 ねずみ男のジェンキンズは泣きそうな顔をしたが、明らかに芝居だった。
「確かに、いまの仕事も清廉潔白というわけじゃあありません。前科もいくつかあるのも事実です。でも人殺しや泥棒はしていないんだ! 何度も来るくらいだったら、もっと凶悪なヤツを捕まえてくださいよ」
「そりゃあ済まなかったなぁ…」 私はジェンキンズの肩を叩いた。雑然と散らかった机の上には、

「ついに『自殺推奨ポスター』による自殺者か?」

 とセンセーショナルな大活字が踊るスッパ抜き新聞が置かれていた。
「くどいようだけれど、本当に関係ないんだ! こんな事件が起きて、こっちも迷惑しているんだ」
「本当に、これっぽっちも関係はないのか?」
 警部がいつもの凄みを取り戻して詰め寄った。
「え、ええ…」
「君はいま『人殺しはしていない』と言ったが、実際に手を下していないだけで、間接的に関わったことがないだけではないかね?」
 私はネズミ男の耳元に囁いた。
「そりゃあ確かに俺の出した『自殺本』に触発されて自殺したやつはいたかもしれない。だけども、それはあくまで自殺した本人の責任だ。そのことは裁判ででも…」
「その裁判なんだが、君の審理を担当した判事のことを覚えているかね?」
 ジェンキンズの顔からサッと血の気が引いた。
「そんな… そんな昔のことは覚えちゃあいない!」
「おまえに風紀紊乱罪で懲役十年の判決をくだした裁判官だ。覚えていないはずはないだろう?」
 ブレード警部がまた襟首をつかんで締め上げた。
「…そこまでおっしゃるということは、もう調べはついているんですね。…言いますよ、ラインスター判事ですよ。でも今回の夫人の自殺とは関係ありませんからね!」
「あくまでシラを切ると、殺人の共犯にするぞ! また十年は出てこれないかもな」
 警部が凄んだ。
「そんな…」
「『自殺本』の時、検事の求刑は懲役十二年だった。しかし判決は二年少ない懲役十年…」
 私は静かに言った。
「一般的に判決は検事の求刑よりも少なくいのが普通ですよ、ご存じでしょう。…お願いします。もう勘弁して下さいよ! 俺の命が危ない」
 ネズミ男が漏らしたのを警部は聞き逃さなかった。
「ほぅ… どうして命が危ないんだ? 猥褻書画販売屋の株はいつのまに上がったのかな? ギャングから借りた金を踏み倒すような度胸があるようにも見えないが?」
「あのむかしの『自殺本』は君が自分が思いついて出版したのではないだろう?」
 私は警部に続いて言った。
「…誰かに『出してみないか?』と言われて出したんだ。『資金は全部こちらが用意するから。もし売れなくて金を回収できなくても、その金は返さなくてもいいから』と言われてね。そしてそのことを、君は裁判で黙っていた。頼んだのはギャングで、君はいま言ったように(バラせば殺される)と思ったからだ」
「ええ、そうですよ! だったらどうだと言うんです? 俺は八年刑務所に入った。もうその罪は償ったんだ!」
「君はふと考えたはずだ。(ギャングがこんな前代未聞の『事業』を思いつくはずがない。裏に誰かがいる。ギャングはその手先にすぎない)と… そして、(他に、同じことか、よく似た別のことを依頼された者がいるのではないか、と…」

「冗談じゃない! 俺はそんな複雑なことを考える頭は持ってないんだ」
 ジェンキンズは懸命にかぶりを振った。
「いいや、君にはじゅうぶん分っていたはずだ。この『自殺を勧める本』は、たくさん売って儲ける以外の意味があるんじゃあないか、と…」
「『安く作って高く売る』ほかに、いったいどんなオイシイことがあると言うんです?」 その時、また制服警官がやってきてブレード警部の耳に耳打ちした。
「なんだって?」
 警部の言葉にネズミ男はすくみ上がった。「行きましょうドイルさん。またです。それからおまえはこの男を引き続きしっかりと見張っているように! 特に窓から飛び降りたりしないように!」
「しません。しません。したくないです。護衛、しっかりお願いします」
「じゃあ、おまえの知っていることを、今度こそ洗いざらい白状するか? でないと護衛を外すぞ。証言に値することに署名してくれたら、おまえさんの罪は…聞かなかったことにしてやってもいいぞ」
「分りました。…これは俺が刑務所で聞いた噂…ただの噂なのですが…」
 ネズミ男ジェンキンズは、さらに一層声を潜めて話し始めた…

「スティーヴンソン先生の小説にヒントを得て、『人々に自殺を勧め、そのいろんな方法などを記した本』を刷って安く売ったらどうだろう? と思いついた奴等がいたんです。 そいつらは皆お金持ちで、地位も名誉もあり、作った本が売れなくても、儲からなくても痛くも痒くもなかった。ただその本が、広く世間一般に流布されればそれでよかったんだ。
 なぜかと言うと、そいつらには殺したいヤツがいたんだ。口うるさい奥さん、舅、姑、鬱陶しい兄弟姉妹、弱みを握られている友人…
 ただ殺したのでは、一番利益を得るものが最も疑われる。仲が悪かった者も… 『うまく自殺に見せかけて殺すことができれば、疑われる可能性は減る』…そう考えた連中は、『とりあえず自殺本をたくさん印刷しよう』と考えたんです…
 実際に『自殺に見せかけた殺人計画を実行に移すかどうか』は、また別の問題だったんだ。犯行のチャンスがないかもしれないし、そもそも被害者になるべき人間が、うきうきいそいそと、『とても自殺するような状態には見えなかった』ら、かえって疑いを増してしまうのがおちですから…」

「まったく何という連中だ!」
 ブレード警部は舌打ちした。

「その連中とはまた別に…」
 一度話し出すとネズミ男ジェンキンズは立て板に水のようにまくし立てた。
「…別のグループがいたんですよ。彼らは『自殺本プロジェクト』の面々の目論見に気が付いて、自分たちでも『似て非なる』オリジナルなことをやってみることにしたんです。

「それが『自殺推奨ポスター』を製作した一味だな?」

「ええそうです。自殺本のブームに乗っかって利用しても良かったんですけれど、本家本元が何かのドジを踏んで逮捕された時に、『仲間』と思われてしまうのが嫌だったんだと思います。そいつらからして見れば『自殺本』の一味は「見ず知らず」でしたから、気味が悪かったのでしょう。

「『目くそが鼻くそを笑う』とはこのことだ」

「ポスターのグループは、病人や老人向け、あるいは失恋した若者や、破産した実業家向けなどに、異なった『自殺を勧める見だし』を書いた、たくさんの種類のポスターを印刷した。だけども、作ったときはチャンスがなかったか、良心の呵責を感じたのか、実行しなかった。二の足を踏んだんです。で、いまごろになって、そいつらの残党か、あるいは遺産を見つけた者が『実際に使用する』ことに踏み切ったんです」

「ドイルさん、貴男の睨んだ通りでしたね?」
 ブレード警部はニッコリと笑いながら言った。
「ええ、ラインスター判事の回りを厳しく調べれば、残りのポスターや印刷機が出てくることでしょうよ」
 私は微笑みを返した。
「…ところで旦那がた、さっき警官が知らせに来た『第二の犠牲者』は?」
 ジェンキンズが、去ろうとする私たちに向かって尋ねた。
「『第二の犠牲者』? そんな者知らないな」
 警部は吐き捨てた。
「えっ、どうして? そんな…」
 ネズミ男はカマにかけられたことに気が付いたが、手遅れだった。


     (次のエピソードに続く)





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