「風を捕える者」 金色に凍った月と銀色に凍てついた星々が照らすロンドンの下町を、コートの襟を立て靴音を石畳に響かせて歩く三人の人影があった。 「すまないな、ブライディー。またこんなことにかりだして」 大きな人影が穏やかに言った。 「いえ、ドイル様。わたくしでお役に立てることでしたら…」 小柄な人影が答えた。 「切り裂きジャックの事件から数年、ジャックとは手口はまったく違うが、第二の犯行を起させてはいけないのはジャック以上です」 刺すような目つきの男が、鋭い声で言った。「…新聞屋どもには極力伏せてはいるのですが、なにしろ被害者は首を持ち去られていたんですから」 「しかし、その被害者は刑務所に入ったり出たりを繰り返している鼻つまみ者だったんだろう、ブレード警部。…ヤクザ同士のもめごとがあって、その見せしめか何かじゃあないのか?」 「ええ。私もそうであって欲しいと思っていますよ、ドイルさん。それだったらこの寒空に、こんな依頼をしたりはしません。チンピラどもに小金をばらまいて情報を集めれば、それですむことです。首の切断方法が、ヤクザの仕業なんかじゃない、この上なく鮮やかでしてね。検死官の報告にも『まず間違いなく医者の…それも腕のいい外科医の仕業…』とありました」 「そのへんはジャックに似ていますね」 「よして下さい、ドイル様、警部様」 寒さのせいか、怖ろしさのせいか、小柄な影は肩をすくめた。 「馬車で逃げたにせよ、首のほうから流れたであろう血のあとがありませんでした。つまり、犯人は、最初から首だけを持ち去るのが目的で、入れものを持ってきていたんです。その場の思いつきで切断したのではないのです」 「とすると、実行犯とは別に親分がいて、『首を持ってこい』と命令したのかな?」 「まさか! いまどき、蛮族じゃあるまいし」 「冗談ですよ、警部」 一行は、ヴィクトリア駅からホワイトチャペルの裏町に向かった。 「おや、警部さん、今夜はじきじきに取り締まりで? しかも女連れで?」 派手なドレスにすり切れたコートをまとい、安香水の匂いをプンプンさせた娼婦たちが煙草の煙を吐きかけながら話しかけてきた。 「うるさい! 今回はおまえたちなんかに用はないから引っ込んでいろ、と言いたいところだが、最近、医者らしい男の客をとった者はいるか?」 「お医者さんも、そのほかの偉い人たちも大勢いらしてよ」 「その中で、変ったことを言っていたり、妙なそぶりの者はいなかったか?」 女たちは仮面のように濃い化粧の顔を横に振った。 「警部さん、犯人はとても近くにいる、と出ています」 ブライディーはケープの前身頃に隠し持ったダウジングの棒を見つめながら言った。 棒の曲がった先は高級住宅街のチェルシーのほうを差していた。 「なんと、チェルシーの住人とは! これはまた面倒なことになりそうだ!」 警部は小さく地団駄を踏んだ。「…そのへんの雑魚どもだったら『おいコラ!』で捕まえて、焼きを入れてやればいいが、身分卑しからざる者だったら、よほど確かな証拠がなければ事情聴取もできないし、まして逮捕状を取るのも…」 「しかし一応、この界隈に住む医者…外科医のリストは持ってきているのでしょう警部?」 ドイルはいっそう穏やかに訊ねた。 「ええ。一応リストは作らせました。開業している者、病院に勤めている者、大学で教えている者、自らの研究に没頭していて、対外的な活動はしていない者など、いろいろです。でもどうして、まともな医者がヤクザを殺してその首を持ち去ったりするのです? 解剖したいのなら、遺体はいくらでも手に入れられるでしょうに」 「表だっては頼めない理由があったんじゃあ? 加えて新鮮な頭部が必要だったとも考えられます。いまのように寒くても、また氷を用意したとしても、そういうものは見る見る傷むからね」 「傷むし、臭います」 「もう、よして下さい、ドイル様、警部様!」 ブライディーは青白い顔をますます白くして二人の紳士を見上げた。 「…ここです。ここにお住まいのかたが何かご存じではないかと…」 「『ソロモン・ウエスト博士』将来を嘱望されている若手の脳外科医だ。ただ、受け持ちの巡査の聞き込みによると、『数日前、メイドのエステルが、この家の前で馬車にはねられて倒れたけれど、ウエスト先生がすぐに抱き起こして中に入った、ということがあったのだそうだ。それ以来、二人とも、まったくではないが、前ほど姿を見せなくなった』と、近所の者が話していたとか…」 警部が手帳を見て言った。「…率直に言って、怪しい」 「よし、ブライディー、君はここで待っていてくれ」 「いえ、わたくしも参ります。相手がお医者さまでも、魔術を使うかもしれません」 「わたしも多少の術なら使えるんだがね」 警部は苦笑いしながら、窓に黄色い灯りが灯っている玄関の紐を引いた。 「はい、どちらさまでしょうか?」 鈴を振るような声とともに玄関の扉が細めに開き、ブライディーと同じ年頃の清楚な、エプロンドレス姿のメイドが姿を見せた。 「ロンドン警視庁のブレード警部と言います。 こちらは私の友人で、犯罪学について深い見識のあるコナン・ドイル氏です。ウエスト先生に少しだけお話しを伺いたいことがあるのですが…」 「先生はもう寝間着に着替えてくつろいでおられます」 「貴女がメイドのエステルさんですね?」 ドイルが横から口をはさんだ。 「はい」 「先日、この家の前で馬車にはねられるという事故に遭われたそうですが、怪我は大したことはなかったのですか?」 「はい。お陰様で。あれはまったくわたくしの不注意でした」 警部も、ドイルも、ブライディーさえも、白いキャップをかぶったエステルの短い金髪がカツラであることに気が付いた。 「そうですか。それは何よりでしたね」 「ウエスト先生に何のご質問ですか? 事故のことでしたらわたくしがお答え申し上げます。もうお調べずみでしょうが、相手方がいくばくかのお金を包もうとするのを、先生が丁重にお断りになりました。」 「いや、実はその件ではないのです。実は、我々は、先日、駅をはさんだ裏町で起きた殺人事件を捜査していましてね。ウエスト先生にご意見をお伺いしようと思って…」 「警察にも立派なお医者さまが何人もいらっしゃるんじゃあありませんか?」 「もちろんです。ですが、先生に特別に折り入ってお聞きしたいことがあるのです」 「でしたら、予め手紙か何かで…」 「書面には書けない、遺体の第一発見者は警官でして… 新聞などには伏せてあることなのです」 エステルの顔に赤味が差したかと思うと、いままでとは明かに何かが違うヒステリックな表情になった。 「ウエスト先生は真面目ないい人です。そんなものに興味や関心を持ったり、ましてや少しでも関わられたりしているはずがありません!」 警部とドイルはチラリと一瞬互いの顔を見合わせた。 (このメイドは、なぜ主人のところに取り次がないのだろう? どうして自分だけで食い止めようとやっきになっているのだろう?) 二人の目はそう言い合っていた。 騒ぎを聞きつけてソロモン・ウエスト博士が寝間着姿で階段を降りてきた。 年の頃はドイルよりも若い三十歳前後。真面目でおとなしそうな、温厚そのものと言った青年だった。 「どうしたんだい、エステル?」 改めて事情が話され、自己紹介が交された。「…そうですか。こんな恰好でよろしければお答えしますよ。どうぞ…」 三人は、書架にいかめしい医学書がズラリと並ぶ書斎に通された。 「ブライディー、エステルさんのお茶の支度を手伝っておあげ」 ドイルが言った。 「いえ、お客様にそんなことをさせるわけには…」 エステルは困惑した。 「構いません。わたくしもドイル様のメイドでして…」 二人は台所に向かった。エステルはポットにお湯を注ぎ、ブライディーはティーカップを並べ、菓子を盛りつけた。 ブライディーが見たところ、その仕草や様子に不自然なところは全くなかった。 「馬車の事故、本当にお怪我がなくて何よりでしたね」 「ええ。神様のご加護ですわ。…加えて先生が手早く処置をしてくださって…」 わざとか、無意識かは分らなかったものの、エステルは頭に手をやった。 「よかったですわね。ご主人が立派なお医者さまで…」 ブライディーは内心(かつらにしなければいけないなんて、頭にかなりの怪我をされたんだわ)と思った。 「ええ、でなければ…」 エステルは何かを言いかけて急に口をつぐんだ。 二人がそれぞれ盆を持って応接間に運んで行くと、ウエスト博士と警部、それにドイルは他愛のない世間話をしていた。 「凶悪な事件の犯人は、良心を司る毛細血管が詰まっているのだ、という説がありますが」 警部は勤めて感情を押し殺して語っていた。「それは何とも言えません。おそらくいまから百年たっても分らないでしょう。仮に『かもしれない』ということにでもなったら、すべての人間の頭蓋骨を切り開いて、中を覗いて見なくてはならないことになってしまいますからね」 ウエスト博士は淡々と答えながら、なぜかお茶の支度を手伝うブライディーのほうをチラチラと眺めていた。それに気が付いていたエステルは、気にしてもよさそうなものだったが、無関心を装い続けていた。 「百年先、例えば死者から心臓や肝臓や腎臓などの臓器を移植する手術ができるようになったとして、脳も可能でしょうか?」 ドイルが尋ねた。 「さぁ、どうでしょうね…」 博士はポツリと答えただけだった。 三人はほどなくウエスト博士の家を辞去した。エステルが辻馬車を呼びに行こうとするのを、ブライディーが代りに呼びに行った。馬車はひずめの音を凍てついた石畳に響かせて走り出した。 聞いたところによると、博士は「このチェルシーの自宅開業の準備中」ということだった。従って、簡単な手術室が、用具や薬品とともに設えられていた。 「どうですドイルさん、感触は? 私はブライディーさんの占いの通り、ズバリ怪しいと思うのですが」 ブレード警部は鼻をすすりながら言った。 「ええ。これ以上はないというくらいにね」 ドイルも認めた。「…エステルさんの髪はカツラだった。つまり、髪の毛を全部剃って手当…おそらくは手術をしなければならないくらいの大怪我を、エステルさんは馬車との事故で受けた。なのに、ウエスト博士とエステルさんは口を揃えて『大したことはなかった』言っている。なぜか? いくら事故がエステルさんの不注意が原因だったとしても、『大変な災難に遭いました』と言えばいいはずだ」 「これ以上、余計な詮索されるのが嫌だからでしょう」 警部はいつもの鋭い視線で一瞥した。 「どうして根ほり葉ほり聞かれるのが嫌なのでしょうか? …そもそも、エステルさんが頭部に大怪我をした時、ウエスト先生は近くの病院に運ばなかったのでしょうか? 理由はいくつか考えられます。一つ、一見軽傷のようで、実は動かすと命の危険があるくらいの重傷だった。二つ、ウエスト博士はエステルさんの怪我を即座に診断して『この状態なら、病院に運ぶよりも、自宅に設えた手術室で手術をするほうが治せる可能性が高い』と判断した。三つ…」 ドイルは言いかけてやめた。 「三つめは何ですか、ドイルさん?」 「治療には、普通の病院では憚られるものが必要だった」 「それは『損傷した脳を取り除き、代りに埋め込まねばならなかった脳』のことでしょうか?」 警部は声を潜めた。 「ええ。脳はおろか、腎臓や肝臓や心臓や、角膜でさえもまだ成功には至っていない。角膜移植はあと何年かで実現するだろうと言われていますが、残りのものはあと五十年、百年はたたないと無理だと言われています。 そして、もっとも不可能に近いと言われているのが脳です。なぜなら脳は、内臓に比べてはるかにその仕組みが複雑で解明されていないからです。しかし、手術や移植による治療が最も期待されているのも脳なのです。 脳溢血、脳血栓、脳腫瘍などのような病気や、戦争や事故による脳の損傷が、移植によって治せるなら、患者にとって計り知れない希望の光になります」 ドイルは車窓を流れる高級住宅街を眺めながら、パイプを取りだして火を付けた。 「…どうだいブライディー、君が見たところ、エステルさんに、他に何か気が付いたことはなかったかい?」 「いえ、取り立てては… ただ…」 「『ただ』何だ?」 警部は身を乗り出した。 「…具体的には申し上げにくいのですが、どこかが変でした」 「それはどこか変にもなるでしょう。髪の毛を剃ってかつらをかぶらねばならないほどの手術をしたのですから」 「いえ、そういったことではなくて、何かこう、言葉にはできない奇妙な違和感が…」 「だから、ウエスト先生が、傷ついて治療不可能になったエステルさんの脳の部分の代りに、ホワイトチャペルに出かけてヤクザ者の頭部を調達してきて、それを使ったんじゃあないでしょうかね? それだったらそれでもいい。殺人罪とは言え、殺されたのは無法者。助けられたのは善良なメイド。この私でさえ見て見ぬふりをしたいくらいです」 スコットランド・ヤードの建物が近づいてきて、警部は降りる支度を始めた。 「いや、それはどうかと思いますよ警部」 ドイルはしきりにパイプの煙をふかした。 露で曇った窓を開けることはためらわれて、馬車の中には煙が渦巻いた。 「どうしてですかドイルさん。ウエスト先生のような天才医師は、文字通り帝国の頭脳、財産です。今回は緊急避難的な事件で、博士が実験を繰り返したいために犯行を重ねるとも思えません」 「いえ、分りませんよ警部」 「と、申されますと?」 「それは、およそ真面目一筋、女性…それもメイドなどには興味がないであろうはずのウエスト博士が、なぜかブライディーのほうをチラチラと、盗み見するように眺めていた。 しかも、エステルさんと見比べるように… なぜか? ぼくらは事故に遭う前のエステルさんをまったく知らない。仮に、例えば、以前のエステルさんが、よく笑う、快活な、陽気なメイドさんだったとしよう。今夜のエステルさんはどうでしたか?」 ドイルが問い返した。 「物静かで、おとなしくて、控えめなかたのようでしたが?」 「もし、もしですよ。ウエスト先生自身が『手術は失敗だった』と不満に思っていたら?」 その後、数日は何事もなく過ぎた。 ホワイト・チャペルでヤクザ者の首を切り取り、持ち去って逃げた者の正体依然として分らないままだった。 ブレード警部は次第に他の事件に興味が移ってしまったような様子だったが、ドイルは忘れてはいなかった。 「戸締まりはしっかりとしておくんだよ、ポピーにブライディー」 「はい、ドイルさま」 帰り際の言葉に、「英国心霊研究協会」の屋敷の住み込みのメイドさんたちは大きく頷いた。 ブライディーは、なぜかなかなか寝つけなかった。一冊目の貸本を読み終え、二冊目も真ん中に差し掛かったというのに… 隣のベッドではポピーがスヤスヤとやすらかな寝息を立てていた。 揺れるランプの灯りを消そうとした時、何か胸騒ぎがして窓に目をやると、冬の月明かりに照らされて、大きな黒い人影が映っていた。 背筋に冷たいものが走ったものの、なぜか悲鳴は上げなかった。代りに 「誰っ?」と叫んだ。 当然答えはないまま、ガシャーンと窓が窓枠ごと押し破られた。いくら力持ちでも普通の人間にそんなことは難しい。押し込むことに慣れている感じがした。 ハッと目を覚ましたポピーが、「キャーッ!」と絹を裂くような悲鳴を上げた。 ブライディーはポピーをかばうように立ちふさがった。 凍てつく月光に浮かび上がった黒い影は、意外なくらいに小柄だった。 (こんな小さな人が、窓枠を壊して?) 恐怖は減らなかったものの、そんなことを考えるくらいに… 小さな影はドミノの仮面を付けていた。 華奢な右手には山刀のような刃物を、左手にはシルクハットの箱のような入れ物を提げていた。 とっさに(首を狙っているんだ。わたしの首を!)と思った。 そして、もちろんその通りだった。 相手はブライディーの細い首筋を狙って山刀を横薙に払った。 一度、二度、三度… 狙いをつけてブンブンと… そのたびに、間一髪、身を退けてかわした。 相手は、力はあっても身に余る大きな凶器であるために、持て余している感じだった。 ポピーは悲鳴を上げ続け、下の街路に人が集まり始めた。 (わたしの命を狙っているんじゃない! それだったら小振りのナイフとか、もっと効率的な凶器があるはずよ。この人は、わたしの首を持ち去るつもりだわ。左手のはそのための入れ物…) ポピーがベッドサイドに積んであった貸本を影に向かって投げつけた。そのうちの一冊が影の仮面の額に当った。そう強く当ったわけでもなかったのに影はよろめき、そのまま窓の外に戻ってひさしを伝って逃げた。 下の街路からは、 「泥棒だ!」 「いや、押し込み強盗だ!」 「誰か警察に連絡しろ!」 「近くに電話はないのか?」 と、口々に叫ぶ声が聞こえた。 しばらく凍り付いたまま動けなかったブライディーだったが、本が投げられたことに気が付いて我に返った。 「まぁ大変! 借りてきた本なのに!」 「何を言ってるんですか、ブライディーさん。 殺されなかっただけでも、怪我をしなかっただけでもみっけものじゃあないですか!」 ポピーがすがりついた。 ほどなくしてドイルやブレード警部が飛んできた。 「どうですか、ブライディーさん、相手の人相風体はシッカリ見ましたか?」 犯人の追跡は部下たちに任せた警部は、目を血走らせて訊ねた。 「…ですから仮面を… ただ、わたしと同じくらいの小柄な者でした」 「女か? それとも子供か? いいや、女や子供にこの窓枠を壊して入ってくるのは無理だ。屈強な男にしかできないと思う」 警部は飛び散ったガラスや木枠を拾い上げて言った。 「…おまけに、大きな山刀のようなものや、シルクハットの箱のようなものも持っていたと言う… あのヤクザを殺して首を持ち去った容疑者、ウエスト博士だろうか?」 「いいえ。ウエスト先生は中肉中背。申し上げているように…」 「ではエステルだろうか? ウエスト博士のメイドの? 莫迦な! 私たちが会ったエステルさんは、とてもこの窓枠を押し破れるような人じゃない。そうでしょう、ドイルさん?」 「いや、普通ならそれが常識というものなのだが、今度のことに関しては否定できない。 身体はエステルさんのものでも、それを司る頭…脳の一部が、先に殺されたヤクザの脳なのかもしれません。警部、そのヤクザの…前歴や服役歴は分りますか?」 「もちろん、持ってきています」 警部は書類をめくった。 「…共犯とともに押し込み強盗を数件… 鍵のかかったドアや窓を体当たりで壊して押し込むという、荒っぽい手口で…」 あとは言葉にならなかった。 「すると『殺されたはずの人』が『新たな肉体』を得て、襲ってきたというわけですか?」 落ち着きを取り戻したポピーが冷静に言った。どうやら先ほどの悲鳴は、あくまで犯人を威嚇する目的だったようだ。 「襲ってきたのがエステルさんだったとしよう。…けれど我々がウエスト博士宅で会ったエステルさんは、ごく普通のおとなしいメイドさんだった。『ジキル博士とハイド氏』のように、何かの拍子に移植された脳の持ち主の人格が顔を出す、ということだろうか?」 手帳を取りだしたドイルが、何かを書き加えながら言った。彼が現場でそんなことをするのは珍しいことだった。 「どの場合でも、エステルさんはいまや重要な容疑者です。こんな時間ですけれど、さっそくチェルシーのウエスト博士宅まで行って確かめましょう。…彼女が戻っていたら、の話ですがね」 警部は部下たちに指図して、すぐに馬車を用意させた。 「ブライディー、きみはここにいたまえ」 「いえ、ドイル様、わたしも参ります」 「どうして? こんな危険な目に遭ったばかりだと言うのに?」 「不思議なんです。なぜわたしが襲われなければならないのかが。…事故に遭い、手術後のエステルさんは、わたしに似たタイプのメイドのように見えました。もし、ドイル様のおっしゃる通り、以前が快活な性格だったら、そういう性格のメイドを狙わないと意味がないと思うのです」 「確かにそうだ」 警部が代りに相づちを打った。「…おまけに、我々が訪ねていった数日後にやってきている。ある意味でブライディーさんに、いや、ブライディーさんの脳に一目惚れしたとしか言いようがない。一体どんなところに一目惚れしたと言うのだろう?」 「わたくし、そんなに頭がよいこともなければ、外国語も喋れませんわ」 「逮捕したら訊いてみましょう。…首尾よく捕まえられたら、の話ですが…」 三人は再び警察の馬車の車中の人になった。 「この、ウエスト博士の履歴書は面白いですね」 ドイルは印刷された書類と、もう一枚手書きの報告書のようなものを見比べて言った。 「どこが面白いのですかドイルさん」 警部は憮然とした。「…それは公式の経歴書ですから、適当に花を添えて書かれています。いわば広告のパンフレットのようなものに過ぎません」 「確かにこれだけでは何とも言えない。ただ、これと、きみの部下が調べてきたウエスト博士の私的な情報を照らし合わせると、実に興味深くてね」 「どこがですか?」 「履歴書を読むと、ウエスト博士は一八九×年の春までは、実に普通の脳外科医だったことが分る。 普通に大学の医学部を卒業し、普通に国家試験に合格し、普通に師となる教授の助手として治療に研究に従事している。 大学の入試の時の点数も、大学での成績も、国家試験の時も、すべて真ん中よりやや上。人より抜きんでてはいるものの、『ずば抜けて』というほどのものではない。 ところが、一八九×年の春、晴れて師匠の教授から独立し、開業の準備をするためにチェルシーに居を構えてからは、実に独創的な論文を次々と医学雑誌に発表している」 「知っている。そのあたりは念入りに調べたさ」 警部は別のリストを取りだして指でなぞった。「…まず角膜、それから腎臓や肝臓、心臓などの臓器移植は、五十年、百年先には実現されるだろうことが予言されている。だが、具体的な方法や手順などについては、もちろん、どんなに優れた医学者でも克明にイメージできる者はまだ誰一人いない。 それなのに、ウエスト先生の論文では、内臓の移植よりは数段難しいと予想されている脳の移植について、実に具体的かつリアルにイメージされていて、専門を同じくする医者たちを驚嘆させたのだ。それはまるで、許可さえ下りればきょう明日にでもできるような感じだった…」 「おっしゃる通りだよ、警部」 ドイルは大きく頷いた。「…おかしいとは思わないか? それまで成績優秀ではあっても、『神童』でも『天才』でもなかった医者が、突如としてそんな成果を発表するなんて」 「誰か友達か仲間の研究を奪ったか盗んだりしたとでも?」 「そんな…」 それまでずっと黙って二人の話を聞いていたブライディーがたまりかねて口をはさんだ。「…わたくし、ウエスト先生とは一度お会いしただけですが、そんなことをされるようなかたには見えませんでした」 「と言うか、ウエスト先生の学友や仲間の中にも、そんな人間離れした閃きを持った医学者は見あたらない。もちろん、殺されたり行方不明になったり不和になった者もいない。ただ…」 「『ただ』? 何ですか、ドイルさん?」 警部は繰り返した。 「ただ、問題の一八九×年の春、チェルシーに居を構えるにあたって、ウエスト博士は一人のメイドを雇っている。それがエステルだ」 「莫迦な!」 警部が一笑した。エステルはどこから見てもただのメイドだ。論文を代筆しようにも、医学の知識などこれっぽっちもあろうはずがない!」 「しかし、そういうものの全くないエステルさんが来てから、ウエスト博士は学会の一部から脚光を浴び始めたのだろう?」 ロンドンの冬の夜明けは遅いものの、使用人たちが台所などに灯す明りがチラホラとまたたき始めたチェルシーの街並みを眺めながらドイルが言った。 「すると何ですかドイルさん。『エステルは優れた霊媒で、百年先の未来の優秀な脳外科医と降霊術で交信して、ウエスト博士に現実離れした論文を書かせた』と、おっしゃるのですか?」 「ああ、ぼくは本気で、そうでもなければ、こんな突出した論文は書けない、と思っていますよ。ウエスト博士にとって、エステルはかけがえのないメイドだったんです。しかし彼女は不慮の事故で重傷を負ってしまった。博士は、いままでの恩を返すためにも、必ず命を救わなければならない、と考えたのに違いありません。さらにエステルがいままで、自分に遙か未来の智恵や知識を授けてくれたのは、エステル自身が『いつかやがてこういう事故に遭う』と予見していたからかもしれない、とも思ったのかもしれません。 そこで、阿片の密売人か何かを装ってヤクザを殺し、脳を奪って、その脳を傷ついたエステルさんの脳と取り替えたんです。 手術は、成功し、失敗しました。エステルさんの命は救うことはできたのですが、甦ったエステルさんは、ソックリ元のままのエステルさんではなかったのです。 まず、未来の医師と降霊術で交信したり、知識を引出したりすることはできなくなっていました。これではもう、論文の続きを書くことはできません。 次に、脳を奪ったヤクザが凶暴だったために、治ったエステルさんもその性格を引き継いでしまった。 そこから導き出される結論。『未来と交信できるような霊感の強い者…できればメイドが望ましい…を探し出し、その脳を奪って再手術しなければならない…』 「何と勝手な!」 警部は歯ぎしりした。「…たとえ相手がヤクザでも、殺せば立派な犯罪だ。まして、何の罪もないメイドの命を狙うなんて!」 「わたし、占いはできますけれど、未来の人と交信したりはできませんわ」 ブライディーがポツリと言った。 「それは分らなかったのかもしれないな」 ドイルは首をかしげた。「霊感の強い者はみんな同じに見えたのかもしれない」 馬車はウエスト博士が開業の準備をしていた家の、少し手前で止った。博士の家には灯りが灯ってはいなかった。 「…今夜、こんなことをしでかして、のこのこと戻っているとは思えないが、とにかく用心を」 警部は拳銃を握り締めた両手に白い息をはきかけた。 「博士! ウエスト博士! こんな時間に失礼します!」 鍵はかかっていなかった。玄関のホールに入った警部は、ガス灯の火を付けた。 「きみはいいのか、ブライディー。狙われていたのはきみなんだぞ」 ドイルが中を見渡しながら言った。 「大丈夫です、ドイルさま。警部のおっしゃる通り、もうこのお屋敷には誰もいらっしゃらない様子です…」 暗い書斎の中で、暖炉だけがパチパチと燃えくすぶっていた。赤い燠の中には数冊のノートや書類だったものの灰が元のままの形を留めていた。 テーブルの上には書き置きがあった。 ブレード警部、ドイル先生、ご承知の通り、私は取り返しのつかないことをしてしまった。 ブライディーさん。謝って済むことではないが、許して欲しい… 本来なら、『かつてエステルであったもの』とともに警察に出頭し、二人で罪を償うべきなのだろうが、いまはとてもできない… 身勝手と思われるのは仕方がない。とにかく、こんなことをし、ここまで来てしまった以上、後戻りはできないし、したいとも思わない。 「一ペニー盗んでも泥棒、一ポンド盗んでも泥棒」というのがいまの心境だ。 すでにお察しの通り、エステルがうちに来てから私の運命は変った。 私が研究や執筆をしていると、お茶とお菓子を乗せた盆を手にしたエステルが入ってきて、私が眺めている脳の図版をチラリと見て、「まぁ先生、まるで何々のようですね。何々の働きをしている部分なのでしょうか?」 と、まるで屈託なく、無邪気に感想や意見を述べてくれた。 それらは何十年研究に勤しんでいる専門の学者でも、なかなか閃くことのない霊感に満ちたものだった。 無学で、教養といったものもほとんどないメイドがなぜ? かねてからドイル先生と同じく超自然の力や心霊学に興味を持っていた私は、はたと思い当たった。 「人間の真の能力のほとんどは、使われず終いで一生を終える。フルに使った者は、学問にしろ芸術にしろスポーツにしろ、『天才』と呼ばれて偉大な業績を残す」と… ウエスト博士の書き置きの文字は、次第に乱れて走り書きになってきた… …確かにエステルは、義務教育をちゃんと履修したことさえ定かではないメイドだった。 だが、彼女がちょっとした弾みで発する言葉は、ことごとく私の霊感を刺激し、それまでのまったく思いつかなかったことを次々に思いつかせた。 エステルがいれば、私は確実に輝かしい業績を残すことができる。先頃スウェーデンのノーベル氏が創設した賞を貰うことも夢ではない。いや、誤解で欲しい。私は功名心にはやったり、名誉欲に駆られたりしたわけではない。純粋に、医者としての初心に立ち返って、脳の疾患に悩む患者たちを救う手助けができればされでいい、と思っていた。誓って言うが、本当だ。 加えて、私には、それまでなかった感情がエステルに対して芽生えていた。 彼女に好意を持ったのだ。 エステルが「役に立つ」、私に富と名誉をもたらすだろう女性だからではない。もしエステルに超能力がなくても、好きになっていただろう。 もしもエステルが、それなりの家柄の令嬢だったら、一も二もなくプロポーズしたことだろう。 私たちの前に、ほかの多くの愛し合う者たちと同じように身分の壁が立ちはだかった。 それまで、多くの親戚が私に見合いの話を持ってきてくれていた。私は丁重に断る…と言うか逃げていた。ひょっとしたらこの私にも、かすかに予知能力みたいなものがあって、いつかエステルが私の前に現れることを予見していたのかもしれない。 私の未来はバラ色だった。身分の壁は、私がエステルの力を借りて出世することによって越えられると確信していた。それが純粋に科学的なものであろうと、超常現象にもとづくものであろうと、実力があってそれによって実績を積み上げれば、誰も大きな声では非難しなくなるだろう。重大な犯罪以外は… そんな時に、あの痛ましい事故が起きてしまったのだ。 突然の絹を裂くような悲鳴と、馬のいななきに驚いて外に飛び出した時、エステルが路上に倒れていて、加害者の御者がオロオロしており、通行人が集まりかけているところだった。 エステルは、外見上は目だった傷はなく、耳から少し血が流れているくらいで、まるで眠っているかのようだった。 だが私は、即座に彼女が致命的な傷を負ってしまったことを悟った。まだ息も脈もあるものの、現在の医学では救うことができない致命傷を負ってしまったことを… 「吐く息は、吸う息を待たずに、命は終る」 東洋の仏陀は、そのように「死」を説明した。 一瞬のうちに、胸にありとあらゆることが走馬燈のように駆けめぐった。何の変哲もない三行の求人広告でエステルと巡り会えたこと、彼女の不思議な力。夢と希望に満ちた新しい生活を思い描いたこと。そして次第にふくらんだそれまでになかった感情… それらは実にあっけなく消え去った。 「早く病院に…」 誰かが叫んでいた。 このまま病院に運び込めば、エステルの死が確実な事実になってしまうことが私には分りすぎるほど分っていた。 このまま墓の下に埋めてしまうなんて、あまりにもあっけなさ過ぎる。ついさっきまで、あんなに元気にしていたじゃないか? 私はとっさにこう言い返した。 「大丈夫。大したことはない。私は医者だ。皆さんもよくご存じでしょう。少し手当すればじきによくなりますよ」 それはとんでもない嘘だった。 エステルを抱いた私は、必死で詫びようとする加害者の御者を押し返して自宅に入った。幸せこの上ない愛の巣になるはずの家に。私は、禁忌をおかしてでもエステルの命をこの世に留め置く決心をした。 ほかでもない、彼女が「こことは違うどこかから取り次いでくれた」智恵と知識を使って… そのためには、新しい、新鮮な脳が要ることは重々承知していた。通常の解剖用の献体では古すぎて用をなさないことは分っていた。 必要な部分を切り離して、すぐにそれなりの処置をしなければならない。その間およそ30分ほどしか猶予はない… ホワイトチャペルに行けば、この世のゴミでしかない連中が大勢いることはすぐに思いついた。およそ善人とは言えない者と、エステルと、どちらが価値があるか? 自明だった。 とは言え、辻姫の脳を使うのは気が引けた。別の者にしよう、と… 私は目的のものを手に入れた。その際の方法や状況などには多分ご興味はないだろう。エステルの傷ついた脳を取り去って、新しいものを移植すると、見事に彼女は再び目を開いた。我ながら神がかった執刀だった。 「ここはどこ? あたしは何をしていたの?」 問いを発し続ける彼女を、無言で抱きしめた。涙はなかった。できて当然のことだったからだ。その時は、これではダメであることなど思いもよらなかった。 私は満足していた。 (医者になって本当によかった) と、心から思った。 これが他の職業だったら、仮に天才的な脳外科医の友達がいたとしても、頼んだりしているあいだにエステルの命運は尽きていたことだろう。 エステルの様子がおかしいことに気が付いたのは、彼女がメイドの仕事に戻ってから数日してからだった。 私に口ごたえをするようになったのだ。それも、些細なことで、さらに時折激しい調子で。 (あの馬車事故の、心の傷が原因なのだ。怖い思いをしたからだ) 最初は楽観的に考えていたものの、次第に不安を感じるようになった。 (もしや、他人の脳を移植したことに原因があるのではないだろうか? いや、それよりも、移植した者の脳に何らかの不都合があったのではないだろうか?) そんなある日、エステルが公休日に外出した。 「要って参ります」も言わずに、無言で… ふと覗き込んだ横顔は、それまで見たことのない大変険しいものだった。 気になった私は、彼女のあとを尾けることにした。しばらく尾行して、行き先が普通の店や友達のところだったら、すぐに止めるつもりだった。 だが、彼女が赴いた先は、そのどちらでもなかった。 エステルは、自分をはねた馬車の御者の家を、下町のアパートに訪ねたのだ。 遠目だったが、ひどく激昂しており、怒鳴っている内容もほぼ聞き取れた。 「あんたのせいで、あたしはこんなふうになってしまったんだよ!」 「ですけれど、貴女のご主人はあの時『大したことはない。自分が治療するから、どうかこのまま引き取ってくれ』と仰って下さって、俺が『いくばくかでも治療費を』と言うのを『そんなものは要らない』と断って…」 「あたしの主人は優しい人なのさ。だけど、あたしは違う。とにかく落とし前をつけて欲しいんだよ!」 あまりの剣幕にビビった御者は、おそらく最初に包もうと思っていた額の金を、封筒に入れて渡した。 「…すまないが、これくらいで勘弁してくれよ、メイドさん。俺の家もご覧の通りなんだ」 その場で封筒を破いたエステルは、中身の紙幣をハラハラと地面に捨てた。 「見くびってもらっちゃ困るわ! これっぽっちの涙金で許してもらえると思っているの?」 「だけど、こう言っては何だけれど、いまの貴女は、先生の治療のお陰でピンピンしてるじゃないか? こうなったら警察でも、先生にでもあいだに入ってもらって、互いの言い分を聞いてもらおう!」 さすがにエステルは、それ以上何も言えなかった。仕方なく札を拾い、舌打ちして踵を返した。 私にはもちろん、心当たりがあった。 窮余の一策で移植したヤクザ者の脳が、エステルの性格の一部またはすべてに影響を及ぼしているのだ、と… 私は尾行していたことが分からないように、急いで先に家に帰った。 (これはいけない! やはり手術は失敗だったんだ。…いや、移植した脳に問題があったのだ) 後悔が津波のように押し寄せてきた。 (こうなったら、元のエステルと同じく温厚で心優しい若い女性の頭部を頂いて再手術するか? …いいや、それはできない。社会のダニのようなやつでも殺せば殺人なのだ。 ましてや、善良な、立場の弱い者を殺めれば、世間は大騒ぎになり、警察も本腰を入れるだろう。それに、何よりも、そんなことは神がお許しにならない… いまさらながら責任の重大さを悟った私は、エステルを楽に死なせてやろう、と考えた。 私は医者だ。毒薬も持っている。エステルは、あの時、天に召される存在であり、それが彼女の運命だったのだ。 だから、それを無理矢理押しとどめた私が再執行するしか道はない… 私は、高価なリキュールを一瓶買い求め、瓶の中に十分な毒薬を入れ、ある夜、エステルに勧めた。彼女が飲めば、自分も飲むつもりだった。愛する者のいない世界で生き続けても空しい。 しかし、一連の思惑はすでに彼女の知るところになっていた。 「ウエスト先生、先生はあたしに『死ね』と仰るのですか?」 頬を紅潮させ、可憐な表情を取り戻していたエステルは、グラスを捧げ持って言った。 「いや、それは…」 私は答えられずにいた。エステルが元のエステルである時間も、無くはなかったからだ。 「手術は失敗だったのですね? あたしはあたしではなくなってしまったのですね?」 「そんなことは…」 「飲め、とおっしゃるのなら飲みます。ただ、一つだけ約束してください。先生は、同じものは飲まない、と…」 『分った。そうしよう』 嘘を付くのは簡単なはずだった… 「いいや、私には責任がある。きみというキマイラを作り出した責任と、すでに発表してしまった『未来の』論文に対する責任だ。 脳移植に関する論文のほとんどは、エステル、きみが『未来から』取り次いでくれたものだ。 仮に、私一人が生き残ったとしよう。学会は『あの素晴らしい論文の続きを、研究の続きを、ぜひとも発表したまえ。それがウエスト君、きみの医学に対する義務だ』と迫るだろう… しかし、私一人ではとてもあんな、神が降りてきたような論文は書けない。真実ありのままを話したところで誰も信じてはくれないだろう。せいぜい怠けていることの言い訳に思われるのが関の山だ。 さらに、最大の理由は、きみのいない世界で、なにかをするつもりはなく、なにかを成し遂げる自信はまったくない、ということだ」 エステル、きみは私が黄泉の国から無理矢理連れ戻してきた存在だ。私が送って行こう。 そして私も、今度はそちらの側に留まろう。 きみが寂しくないように…」 彼女の頬に涙が伝った。 「ウエスト先生、どうかそんな悲しいことをおっしゃらないでください。死んだ気になれば、何でもできるのではありませんか? 確かにあたしは、この世のものならぬ智恵と方法を取り次いだかもしれませんが、それを見事に実行してみせたのは先生です。これ以上人を傷つけずに、元の『あたし』を取り戻す方法も、やってのけられると思います。 あたしがその理論を、『未来から』取り次ぐことができるかもしれません」 「そうだな… 希望的に観測すれば、あり得ないことではないかもしれない。だけども、いまのきみは、移植した脳の、元の持ち主の『人となり』に次第に侵食されている。悲観的に考えれば、きみは私のことをすっかり忘れてしまうかもしれない」 「そんなことはありません。あたしは、『あたしを補っている者』と戦います。あたしも先生のことを思っています。だから、負けるはずはない、と… 万一、先生のことをすっかり忘れてしまったら、その時は… その時が訪れるまで、精一杯の努力をするべきではないでしょうか? 何よりも、あたしにはまだ不思議な力が、先生にはそれを具現化する『手と腕』があるのです。諦めるのは、すべての手段が断たれてからでも遅くはないのでは?」 「そうだな、確かにそうだ」 私は、すっかり短絡的になってしまっていた自分を恥じた。 侵食は一進一退で時折起きる現象に過ぎない。そうならない限り、進行しない限り、エステルは愛しいエステルであり、ほかの何者でもない… 警察のかた、ドイルさん。そしてブライディーさん、今回のことは、詫びたくらいでは済まされないのは分っている。 とても見逃してはもらえないし、そんな厚かましいことを願うつもりはない… ブライディーさん、貴女にもエステルに似た、不思議な力があるのですね。でも、できれば、しばらく私たちをソッとしておいて欲しい。二人だけの静謐と幸福を見守って欲しいのだ。きみなら『あの時』エステルに覆いかぶさっていた影の存在が分るはずだ。だから、普通の人なら怒るところを怒らず、許せないところを許して暮れる…かもしれない… そう願っている。 最後に、あなたがたに向けて改めてお願いする。 私たちが、自分たちで何とかするまで、しばらくの猶予をもらえないだろうか? もしも、皆さんの寛容を頂くことができず、例えば追跡が開始されたりしたら、やむを得ない。私たちは、戦う… 「何と勝手な…」 警部は思わず、証拠品のはずの手紙を握りつぶした。その腕はわなわなと震えていた。「ブライディーさん、さっそくこの二人の逃亡先を占ってください。この者たちは、他でもない貴女を殺して、貴女の脳を奪おうとしたのですよ!」 「ですけど、押し込んできたのは、押し込み強盗を生業としていたヤクザ者のような気もするのですが…」 「それは『甘い』というものです。それを認めたら、都合の悪いことは全て『移植された脳の元の持ち主の性格』のせいにしてしまいますよ、かれらは。…そうでしょう、ドイルさん?」 腕組みをし、目を閉じたドイルはしばらくのあいだ無言で考えていたが、やがてゆっくりと言った。 「ウエスト博士の言い分を信じると、博士は新たな論文を発表し、それによって脳の病気に苦しんでいる多くの患者が救われる…かもしれない…」 「ドイルさん、貴男は『社会に役立つ立派な仕事をした者の、今後やり遂げる可能性がある者の、多少の犯罪には目をつむってやるべきだ』とおっしゃるのですか?」 警部は怒鳴った。 「エステルさんの馬車事故は、文字通り事故だった。そこからすると、エステルさんがブライディーを襲ったことも事故だった、悪意はなく、過失だったと言えるかも知れない」「ブライディーさん、貴女の気持ちはどうなんですか? 殺されかけたのは貴女なのですよ!」 ブライディーは警部とドイルを代わる代わる見た。 「しかし、ウエスト先生もエステルさんも、もう悪いことはされないのではないでしょうか。どこかでひっそりと静かに隠れて暮らされるのでは?」 「だとしても、ウエスト先生が殺人の容疑者であることには変わりない。もっとうがったことを考えると、このことを知った別の悪人が、エステルさんの霊力とウエスト博士の技術を利用するために、二人をかくまうかも知れない。そうなる前に、こちらで押さえなければ…」 警部はそわそわし始めた。 「だが、事情を知った上で二人を利用する者がいるとは、そうそう思えないな」 警部に促されて馬車に戻ったドイルはかぶりを振った。「…『黄金の暁団』のメイザースも、アレイスター君も、こんな『どんな結果になるかさっぱり分らない、遙か未来の技術』などには興味を示さないだろう」 「わたしもそう思いますわ」 ブライディーは声を潜めて言った。「…わたしたちが関わった『清浄派…カタリ派…』のかたたちも、隠れ里に棲んで永遠の命を求めたり(「女神たちの森」参照)、肖像画から人物を呼び出したり(「パリのインキュバス」参照)、ネス湖の怪獣を召喚したり(「メイドさん対ネス湖の怪獣」参照)、魔力の強い若い女性を甘い言葉でスカウトして回ったり(「ブライディー女子大生になる」参照)、深海に封印された超古代の邪神を甦らそうとしてみたり(「北海の邪神」参照)、吸血鬼となって永遠の命を得ようとしてみたり(「メイドさん対、小さな吸血鬼」参照)、およそ科学や医学とは大きくかけ離れた、魔法の使い手ばかりでした。あの人たちがやるとすれば、精神と肉体を丸ごと交換して入れ替えるような、派手なことを試みられると思います。脳移植の天才がいたとしても、食指を動かしたりしないのではないか、と…」 「そうだな、もしも本当にそんなことができる連中なら、手術のような辛気臭いことは鬱陶しがるだろうな」 警部は溜息をついた。 「ちょっと待てよ…」 馬車の天井を見つめていたドイルが、火を付けたパイプをくわえた。「…オーストリア帝国のブラウナウの街で、税関長の息子のアドルフ君に、ひたすらユダヤ人の悪口を吹き込んでいた、メイドになりすましていた魔女はどうだろう?」 「ヴァイオレット様ですか? 確か『アドルフ君は、世界に破滅をもたらす者に成長する子なのです』と予言していて、ぼくたちは一笑に付したのだが… ああいうタイプの魔女なら、もしかして…」 「ブライディーさん、占って頂けませんか? ウエスト博士とエステルさんが、そういう奴と手を組む前に、身柄を押さえられるように…」 警部の頼みに、ブライディーは渋々頷いた。 プラハは、千の尖塔を擁する街である。 欧州のほかのどの街…ロンドンや、パリや、ベルリンや、ウイーンや、ローマよりもずっと古色蒼然としており、陰々滅々としていた。 まして、春まだ遠い冬ということもなれば、なおさらのこと… 寒々としたボヘミアおろしの粉雪が舞う中を、仕立ての良いフラノのコートの前をかき合せながら歩く、若い男女があった。 「安心をし、エステル。名だたるスコットランド・ヤードも、まさかここまでは追いかけてはこないだろう」 ウエスト博士は、傍らの女性をかき抱くように囁いた。 「いいえ、先生と一緒に暮らせるのなら、世界のどこでも構いません」 白い息が混じり合う。 「本来ならば、留学したことのあるフランクフルトのほうが土地鑑があるのだが、あそこはイギリス人も多い… 何かのはずみで警察関係者と鉢合わせしないとも限らない。 いざとなったらこのプラハにも、立派な手術室を備えた大きな病院もあるし、助手を頼むにしても安い謝礼で優秀な者を頼める。住民の三人に二人はドイツ系。残りはロシア系などだが、教養のある人にはドイツ語が通じる。私は特に不自由はない。ゲットーに棲む裏家業のユダヤ人に頼めば、偽の旅券を作ってくれる。ほとぼりが冷めればドイツに逗留している友人とも連絡を取れるだろう… エステル、きみは不便だろうが、買物などがあったら遠慮無く言うんだよ」 「いいえ、欲しいものはありません」 元メイドは、博士の胸に顔を埋めた。 二人の行く手に、黄色いカンテラの灯りが雪の間に揺れていた。 目を凝らすと、小銃を背負ったチェコの憲兵が二人、ゆっくりと近づいてきた。 「失礼。身分証明書を拝見」 相手は、出された旅券と査証の写真と本人とをじろじろと見比べた。 「イギリスからの旅行者のかたですか?」 「ええ」 「この寒いのに? 当地に知り合いでもおられるのですか? …これによると、フランクフルトに留学されていた、とのことですが?」 「ええ」 「どうぞ、ドクター・ウエスト。今夜の宿はお決りですか?」 憲兵は書類を返しながら訊ねた。 「いえ、これから…」 「どこに泊まろうと、あたしたちの勝手でしょう? 無粋な人たちね」 エステルがゾッとするような声で言った。 「失礼しました。この子は初めての外国旅行で、気が高ぶっているのです」 ウエスト博士はエステルの背中を押さえつけるようにして言った。「…さぁ、謝るんだ、エステル」 「ごめんなさい」 その表情は、つい数秒前とはガラリと違った、尋問をはじめた時と同じ殊勝なものに戻っていた。 これには憲兵たちも顔を見合わせた。 「申し訳ない。この子は私の患者で、ときどき病気が出るのです」 「そうですか。どうかお大事に…」 言いかけた憲兵がハッと何かを思い出した。「すみません。しばらくお待ちを…」 「まだ何か?」 「もし何か特別な治療のための入国でしたら、受け入れ先の保証書が必要です」 声がこわばっていた。もう一人の憲兵が、ずっとろくに読んだことのない「国際指名手配書」の束を開いてページをめくった。 「貴国にはそんな決まりがあるのですか? まぁいいでしょう。ここにも医者の友人がいる…」 ウエスト博士は名刺帳を取り出した。 「その必要はないよ、先生、とうとうバレちまったようだぜ。やっちまおう!」 エステルが英語で、博士の耳元に囁いた。「だめだエステル。咎められたら私だけが捕まり、きみは好きなところでおとなしく暮らす、という計画だったじゃないか」 「先生のいない世界に、意味はありませんわ!」 エステルはいきなりナイフをきらめかせ、目の前の憲兵の喉をサッと裂いた。 白い雪の上に一条の線が走り、憲兵はそれに覆い被さるように倒れた。 書類を見ていたもう一人の憲兵は唖然とし、慌てて小銃を構えた。 「何をする! ナイフを捨てろ!」 「エステル、ナイフを捨てるんだ!」 ウエスト博士も繰り返した。 「嫌よ! あたしは何度でも蘇れるのよ!」 「莫迦なことを言うんじゃない! 限界というものがあるんだ」 「捕まったら別れ別れになってしまうわ!」 「『何度でも蘇る』って、おまえたちは吸血鬼か何かか?」 憲兵が引金を絞った。 と、その時、カマイタチのような突風が一閃したかと思うと、憲兵の首が宙に舞い上がった。残された身体は小銃を構えたまま前のめりに倒れた。 「誰だ?」 エステルが仰いだ尖塔の屋根に、メイドのお仕着せを着た邪悪な影が立っていた。 「『世界を滅ぼすつもりのメイド』というのは長いかしら? …『ヴァイオレット』でいいわ。…あなたたち、これで二人とも死刑は確実ね」 長い紫の髪をなびかせた影は、きれいな…しかし悪意に満ちた英語で言った。 「ヴァイオレット、何をする? こんなことをして、何の得があると言うんだ?」 ウエスト博士が訊ねた。 「『得』? わたしはあなたたちを助けた。 この御礼は高いわよ」 気が付くとヴァイオレットは、二人のすぐうしろに立って舌なめずりをしていた。 「私たちは、金はそうたくさん持ってはいない」 ウエスト博士は小声で言った。 「あら、お金なんか要らないわ」 「見たところ、おまえは魔女だろう。魔女なら魔法が使えて、私が持っている技術なんかに興味はないはずだ」 「あら、確かに、魔法を使えば心と身体を入れ替えて、次々に新しい肉体を乗り継いで行くこともできますわ。だけども、頭脳の…」 と言いながらヴァイオレットは自分の頭を人差し指で指さした。「ある部分を頂戴したい時は、それではできませんわ。 例えば、たった一発で大きな都市全体を吹き飛ばしてしまうような爆弾を発明した科学者がいた、としましょう。けれども、普通は良心が咎めて、そんなものを国家や何かに提供したりはせず、黙っているでしょう。 そういう場合は、その科学者から『作り方を思いついた頭だけ』を頂く必要があるわ。『死んでも拒否する者』の知識だけをね…」 「何という恐ろしいことを…」 我に、正気に返ったエステルがわなわなと震えながら呟いた。 「あら、兵隊さんを殺しておいてよく言うわね」 「だから、『これは病気…馬車事故の結果なんだ』と言っているだろう?」 毅然として言ったウエスト博士の目の前の雪の上に、ヴァイオレットは折りたたんだ英字新聞を投げ出した。 その見だしには 『天才青年外科医、殺人を犯して脳移植を実行。患者のメイドを連れて国外逃亡か?』 と書かれていた。 「あなたたち、根から葉っからの犯罪者じゃないでしょう? それは『移植した脳の持ち主』だけ… 大丈夫、わたしがかくまってさしあげますわ」 「先生、お断りしましょう! こんな人に教えたら、取り返しのつかないことになってしまうかもしれないわ!」 エステルは博士のコートにすがった。 「もう取り返しのつかない、のっぴきならないことになってしまっているんだよ、あんたたちは」 ヴァイオレットは唇を少し歪めた。 「でも、もう私にはどうしたらいいか…」 ウエスト博士は頭を抱えた。 「おやおや、おまえは博士だろう? 人より頭がいいんだろう? そこのメイドとは違って別に頭を打ったりはしていないんだろう?」 「と言うと?」 「そこのメイドは、おまえに『未来の医学知識』を取り次いでくれたのだろう? おまえはその知識とは別に、その子を愛している…」 博士とエステルは手を取り合って頬を染めた。 「ならば、何があっても幸せにしてやるべきではないのか?」 「私もそうしてやりたい」 「おまえはすでに、ロンドンでヤクザ者を殺している。逃げ切るのは難しいだろう。だが、エステルはまだ誰も殺してはいない… この二人の兵隊は、正体がバレそうになった『おまえ』が逆上して殺したのだ。そうだな?」 「…ああ、その通りだ」 ウエスト博士は少し考えてから答えた。 「わたしにいい智恵がある。聞いてみるか?」 「しかし、ロンドンからの追手には、強力な占い、ダウジングの能力を持つ少女がいるのだ。彼女を何とかしない限り逃げ切るのは難しい。私は、ロシアにでも逃げるつもりだった」 「その小娘のことはよく知っている。わたしはそのメイドと、『英国心霊研究協会』の者たちに何度も仲間をやられて煮え湯を飲まされた。はっきり言って目の上の瘤だ」 「貴女みたいな魔女にも、苦手なものがあるのね」 エステルがなじった。 「だが、今度こそ何とかする! このプラハが、奴らの墓場になるだろう! …おまえたちも加わるな?」 もう到底断ることはできなかった。 雪は深々と降り積もっていた。 翌朝、褐色に変色した血のあとが点々と残る雪の上に、四人の男女が佇んでいた。 「これはまさしく、ウエスト博士の仕業に違いありませんな」 ロシアふうの毛皮の帽子をかぶった、スコットランド・ヤードのブレード警部は、首を刎ねられたほうの憲兵の遺体を検分しながら言った。「博士が留学したことのあるフランクフルトからの、女連れでの入国、間違いないでしょう」 「ちょっと待ってください、警部。この切断面、ロンドンの時とは明らかに違いますよ」 ドイルはマントで遺体を隠すようにして拡大鏡を覗き込んだ。「…ロンドンのは確かに手術用の刃物だった。しかしこの遺体は、道具ではなく、何か人智を越えた方法で切られている」 「やれやれ、また『魔法』ですか、ドイルさん」 「小官もドイルさんのご意見に賛成です」 立派なカイゼル髯を生やした憲兵隊長が、軍帽の雪を払い落しながら言った。帽子の下は見事な禿頭だった。 「どうしてですか、隊長?」 「もう一人の憲兵は、普通に…と言うと何か変な言いかたですが…喉を裂かれて殺されているからですよ」 ドイルが代りに答えた。「…つまり犯行の手口が、一人は高度なマジック・テクニックで、もう一人はロー・テクでやられているわけです。犯人は別々…二人いた、と考えるのが妥当でしょう」 「だから、憲兵の一人はエステルが、もう一人はウエスト博士がやったんでしょう?」 警部も譲らない。 「ナイフで喉を裂いたのはエステル…の脳に宿っているホワイトチャペルのヤクザ者でしょう。この手口は、前科の通りです。しかしもう一人はウエスト博士がやったんじゃあない。もし博士がやったのなら、手術用のノコギリを持ち歩いていて、それでわざわざ首を切断した、ということになりますが、切り口はまったく違うし、そもそも時間がかかり、面倒で、ことさら自分に疑いを向けさせるようなことを、なぜ自分でしなくてはならないのでしょう?」 「と言うと?」 「首を切断したのは、魔法使いの仕業です」 ドイルは立ち上がってマントに積もった雪をはたいた。 「すると、ウエスト博士にエステルは、すでにここで、その…ヴァイオレットとか言う魔女と会った、と?」 「残念ながら想定していた最悪の、やっかいなことになった、と考えて間違いないでしょう」 ドイルはパイプを取りだしてマッチで火を付けた。煙が降り続く雪の合間に立ちこめた。 「ボヘミアは、魔女の伝説には事欠きません」 憲兵隊長は声を潜めた。「…欧州大陸の中央では、あまたの民族が興亡を繰り返してきています。滅ぼされた者たちの怨念が凝縮しているのです」 「けれどもヴァイオレットはイギリス人…それも貴族の娘です」 ドイルは肩をすくめた。「…なぜこんなところに出没するんでしょうね」 「それは彼女が『世界を滅ぼす人物』が、このあたりから現れる、と思っているからですわ」 それまで少し離れたところに立ってじっと黙っていたブライディーが、ショールをかき合せながらポツリと言った。 と、そこへ、帽子と肩章に雪を積もらせた別の憲兵がやってきて、隊長の耳に何事かを囁いた。 「警部さん、ドイルさん、またです。連中がまた犯行を…」 「何ですと?」 警部は大きく眉をひそめた。 「ロンドンではヤクザ者を一人殺しただけだと言うのに、このプラハでは早くも三人目ですか?」 ドイルも動揺の色を隠せなかった。 「一緒に来られますよね?」 「もちろん」 二人は異口同音に答えた。 「わたくしも…」 ブライディーも強い口調で言った。 新たな犯行現場は、プラハのユダヤ人居住区の、古びたアパートの一角だった。 四人が馬車で到着した時、雪の降り積もった細い路地には人の姿はなかったが、朽ちかけたドアや鎧戸の影から覗くいくつもの視線が感じられた。 「名刺、招待状、値段表、メニュー、何でも印刷します」と書かれた年代物の小さな看板のかかった部屋に入ると、一人の、背中の曲がった老人の遺体が俯せに倒れていた。 首は切断された上、持ち去られていた。 「…被害者はイサク・ヴァーンヘルト。表向きは印刷屋。裏家業に偽の旅券を作って高い値段で売りつけていたようです。証拠をつかめず、逮捕されたことはありません」 憲兵隊長は書類を見て言った。 「すると、ウエスト博士とエステルは、この老人に偽の旅券や査証の製作を依頼して、完成すると金を払う代りにバッサリ… よくあるパターンですな」 警部はいろんな種類や大きさの紙がストックされた棚を眺めて言った。「…『顧客リスト』のようなものは、最初から存在しないか、隠してあっても持ち去られたでしょうな。なにしろエステルには『不思議な能力』があるのですから…」 「いや、エステルにブライディーと同じ占いやダウジングの能力があるとは限りませんよ」 ドイルはまたしても首なし死体の切断面を検分しながら言った。「…エステルの能力は、あくまで『未来の医学知識を受取って語る』だけ… 優れた霊媒に過ぎないかもしれません。それに、ヴァーンヘルト老人がリストを自宅に置いていたとも考えにくい… もしそうなら、放火される危険があるけれど、これまでのどの依頼人も、ウエスト博士も火は付けていない」 「わたし、占ってみましょうか?」 ブライディーはダウジングの棒を取りだしながら言った。 「いや、だからその必要はない。リストは最初から作られていないか、少なくとも『ここ』にはない」 ドイルはキッパリと言った。 「小官もそう思います」 と、憲兵隊長。 「…そもそも被害者ヴァーンヘルトの首の切断面は、さっきの憲兵と同じく、『医学用のノコギリ』で切ったものではない。現代の科学の道具で切ったものでもない」 「すると、憲兵とヴァーンヘルトをやったのは、魔女ヴァイオレットですか?」 警部が勢い込んだ。「…何故また? そんな凄い魔法が使える魔女ならば、『偽造の身分証明書』など必要ないでしょうに… 姿を自在に変えることもできるでしょうに… ウエスト博士とエステルが、ヴァイオレットにヴァーンヘルト抹殺を頼んだ?」 「魔女ヴァイオレットは、そんな使い走りみたいな仕事はしませんよ」 ドイルはまた苦笑いした。 「では、なぜ?」 「ヴァーンヘルトの脳を持ち去って使う…ためだと思いますよ、警部」 「『使う』? しがない『偽の身分証明書の印刷屋』の頭を、何に使うんですか? そんな凄い魔女が? 変装もチョチョイのチョイなら、偽の証明書も『ワン・ツー・スリー、パッ!』と出せるでしょう?」 「難しいけれど、ぼくはヴァーンヘルトは『ただの、偽の身分証明書の印刷屋』ではなかったのでは? と考えています。そうすると、辻褄が合う。ヴァーンヘルトには『裏のそのまた裏』の顔があったのでは、と…」 ドイルは、それまで我慢していたパイプを取りだしてくゆらせた。 「莫迦な! ヴァーンヘルトにヴァイオレットのような凄い魔法が使えたなら、こんなところで貧乏暮らしはしていないでしょう。どこかの海に、財宝を積んだまま沈んだ船を探しに行っていると思いますよ」 警部は肩をすくめた。 「小官もそう思います」 「じゃあ、例えば、こういう仮説はどうですか? 『ヴァーンヘルトには、近い未来を知る予知能力があって、彼には世界を滅ぼすかもしれない戦争を起す人物と、その取り巻きの面々を知ることが出来た。でもそんなことはとても恐ろしくて誰にも言えなかった』 彼は自身の『力』を自ら封印して貧乏暮らしに耐えた… 『ヴァーンヘルトが悪魔の人物たちを知っていることを知った魔女ヴァイオレットは、ヴァーンヘルトの脳を頂くことを思いつく。みんなを一同に集めて焚きつければ、確実に世界戦争が起きる』… ヴァーンヘルトを捕まえて拷問にかけたら、彼は自決するだろう。しかし、エステルとウエスト博士の方法があれば…」 パイプの煙が天井に渦巻いた。 「そんな! 在り場所の分らない『無くしもの』や、居場所の分らない『行方不明者』を探し出す占いというのはポピュラーですけど、『何かを知っている誰か』や『誰かを知っている誰か』というのも占うことができる占い師がいるのですか?」 憲兵隊長は目を見張った。 「ええ。貴官は外国人だから内緒でお教えしますが、この子がそうなんですよ」 ドイルはブライディーを紹介し、彼女は改めて深々と会釈した。 「すると、家出人、行方不明者、逃走中の容疑者、盗品の隠し場所も占って頂けるのですか?」 「いえ、『何でもかんでも』ということになってしまうと、きりも果てしもありませんし、我々警察も努力をしなくなってしまいます。また、もしブライディーさんがいなくなってしまった時にたちまち困りますから、今回のような降霊術や超能力が絡む事件の時だけお願いしているのです」 警部が代りに答えた。 「…でしょうね。…いゃあ、ぜひ我が国にも欲しいものです。そのようなかたの一人や二人…」 憲兵隊長は本当に羨ましそうに呟いた。「…では、ウエスト博士とエステルを、ここプラハまで追ってこれたのも、そのブライディーさんの不思議な力で、ということですね。『超能力者同士、いくら巧妙に逃亡の痕跡を隠しても分る』ということで」 「ええ。二人は『その力にも限界があるだろう』と踏んで、ブライディーを再び襲うことは諦めていた様子なのですが、ここまで追跡されていることを知ったら、『窮鼠猫を噛む』ということで、改めてなりふり構わず何かしてくるかもしれません」 「警部、貴官も危ないですね」 「自分は覚悟の上で職責を果たしておりますから…」 「とにかく、『あの人たち』がこれ以上罪を重ねる前に、何とかしなくてはいけませんわ。 そのために、こんな遠い国まで来たのですから」 ブライディーはキッパリと言った。 「かれらの潜伏先を占って取り囲んでも、かれらもじゅうぶんに備えて、罠を張り巡らしているかもしれないぞ。こちらもアレイスター君やサダルメリク君、安倍君など、信用できる魔導師に同行を頼めばよかったな…」 ドイルは少し後悔している様子だった。 「なにをいまさら! ロンドンを離れれば離れるほど奴等の拠点に近づくというのは最初から分っていたことです。いまさらおめおめと引き下がれませんぞ」 警部は鼻息を荒くして言った。 同じ頃、プラハ郊外の荒れ果てた古城の書斎では、ヴァイオレットとウエスト博士が口論していた。 「…こんなすぐに『あれ』を試してみるなんて、約束が違うじゃないか?」 博士は、中世の貴婦人のような古めかしいドレスに身を包んだ魔女に向かってなじった。 「あら、必要だからやったまでですわ」 魔女は涼しい顔で答えた。「世界を滅ぼすには大国同士に戦争をさせるのが一番手っ取り早い。わたしたちはほとんど何もしなくてすみますからね。『そういう戦争を起しそうな連中』を『知っている』『預言者』の『脳味噌』は、ぜひ頂いておかないと、この作戦は進めようがありませんわ」 「私たちは、そんな大それた計画に荷担する気はさらさらなかったんだ!」 博士はエステルをかばうように立ちはだかった。「よりによって、彼女の『力』を、こんな恐ろしいことに使うなんて…」 「教えて頂いた知識をどう使おうと、わたしの勝手でしょう」 ヴァイオレットは古い魔法の本がびっしりと埋り、蜘蛛の巣が張った書架を背にして言った。「…そんなことよりも自分たちのことを心配したらどうなの? もうじきドイルや警部、それにブライディーがここにやってくるわよ。おとなしく捕まってロンドンに連れて帰ってもらいたいわけ?」 「いや、それは…」 ウエスト博士は口ごもり、エステルはまた博士の背中に隠れようとした。 「『静かなところで、誰にも邪魔されずにひっそりと暮らしたい』ってわけ? でもそれはもう無理というものよ。あなたたたちもねわたしも、人を殺しているでしょう? それも派手な方法で。警察や軍隊、それにかれらに雇われたブライディーみたいな魔法使いが追ってくるでしょうよ、地の果てまで。助かるすべはただ一つ。それは、世界を、何が正義で何が悪なのか、分らない状態にしてしまう以外にないわ。何千人、何万人、何十万人、何百万人、何千万人と、まとめて虐殺する者が現れ、そいつが英雄ということになれば、すべては許されるはず…」 「それがきみの復讐なのか? …まぁいい。魔女の主義主張や信条に興味はないし、言われる通り、こちらはそんなことに構っている場合ではないようだ。わたしたちは、二人が一緒に、末永く暮らせるようになれればそれでいいんだ」 「あら、それなら意外と簡単なのじゃない?」 ヴァイオレットの瞳が冷ややかに光った。 「『簡単』だなんて、それは貴女のような魔女なら、断崖絶壁の上の古城に棲む、とか、底なし沼に囲まれた荒れ地の館に住むとかすれば簡単だろう。用事があればホウキにまたがって飛んでいけばいいんだからな。しかし私たちのような、ただの人間は、再々食料や衣料を買いに行かねばならないし、病気や怪我をすれば医者にもかからなければならない。たとえ自分が医者でも、診療所というか、ある程度の設備がなければ検査も何もできない…」 ウエスト博士は苦笑いした。 「あら、いまどきは魔女とは言っても、そんな人里離れたところには住んでいませんことよ」 ヴァイオレットは、大きな不気味な目をした羊を中心に半裸の男女が群れ集う魔宴の様子を描いた銅版画を背にして言った。「…多くはあなたがたとおなじように、街に住み、文明を享受していますわ」 「あたしたちは警察に顔が知られてしまっていますわ」 エステルも珍しく進み出た。「…顔の整形手術をしろとでもおっしゃるのですか?」 「いいえ。苦労してそんなことをしても、外国ではイギリス人は目だってしまうし、あのいまいましいブライディーのダウジングは振り切れないわ」 「では、どうしろと?」 博士が詰め寄る。 「あなたがたは『永遠に一緒に』暮らしたいのでしょう? 『生まれた年月日は違っても、同じ日に死にたい、と思っているのでしょう?』 「ええそうよ。貴女はあたしたちに心中でもしろ、とおっしゃるんじゃあないでしょうね?」 「まさか!」 魔女は懐から長い銀の煙管を取りだして、先端に付けた紙巻きに火を付けて煙をくゆらせた。 最初に雪の中で会った時のメイドのお仕着せとはずいぶんと落差があった。メイドの衣装は明らかに『世を忍ぶ仮の姿』なのだろう… 「…あなたがたはわたくしに『未来の脳移植の方法』…魔法よりも凄い医学を教えてくれた大恩人。お陰様でわたしは、前々からずっと欲しかった『ある男』の脳味噌を無事に手に入れた。この脳は、いまでは仲間に移させてもらって、いつでも前の持ち主の知識を使える状態になっているわ。さらにまた、エステルさんは、未来のもっと凄い医学を受信できるかもしれない。いつまでも味方でいて欲しいわ。わたくしの、ね」 「だからどうすればいいのだ、と訊いているんだ!」 しびれを切らせた博士が怒鳴った。 「お二人の脳を、それぞれ重要なところを半分ずつ取りだして、別の生け贄に移せばいいのよ。エステルさんからはヤクザから移植した分を外して、もとからエステルさんだった分を残す… ウエスト博士からは、手先の器用な部分だけを残して、あとは諦める… これで二人は永遠に一緒。死ぬときも一緒でしょう? 手術は、わたしがやって上げる。信用してくださるでしょう?」 「そんな莫迦な! 一体何を言い出すのかと思ったら…」 博士は目を血走らせた。「『二人で一人になれ』と言うのか?」 「そうよ。ブライディーを上手くまくにはそれくらいしか方法はないでしょう?」 別室に戻り、二人きりになったウエスト博士はじっとエステルの瞳を見つめた。 「どうしようエステル。わたしには、きみのその可愛い、美しい顔を見られなくなるのは悲しい…」 「顔も身体も、いつか年老いて皺だらけの醜い姿になってしまいますわ。あたしは、また発作が起きて、ヤクザの思考に支配されて事件を起し、先生にご迷惑をおかけしては、と思いますわ」 エステルは、魔女の提案に大いに乗り気のようだった。「…あたしを愛して下さる先生のお気持ちと、先生をお慕いするあたしの気持ちが、一つになれるのなら、素晴らしいことでは、と…」 窓の外では、雪を乗せた梢の上に、春告げ鳥が二羽、飛び交っていた。 「しかし、そのためには、器にするための新たな犠牲者が必要だ。ヴァイオレットがどんな身体を用意してくれるのか、こちらの要望を聞いてくれるのか… さらに『恐るべき占い、ダウジングの能力を持つブライディー』が『探し求める人間の身体の、一体どこをダウジングしているのか』ということも問題だ。 もしも、行方不明の人間の、脳や脳波、考えをダウジングしているのなら、いくら他人の肉体を奪って脳を移植してもらっても、骨折り損のくたびれもうけだ。もしも、心臓や顔や肉体をダウジングしているのなら、脳を移し替えればまくことができるだろうが…」 「大丈夫ですわ先生、行方不明の人間の居場所を占う占い師は、顔と肉体の在処を占っているのです。その証拠に、殺されて地中や川や海の底に鎮められている被害者の居場所だって占っているではありませんか? もしも脳や脳波や考えていることから探知するのなら、生きている人の居場所しか占えないはずですわ」 エステルは瞳を不気味に輝かせた。 同じ頃、プラハの憲兵隊本部の、飾り気のない静かな一室では、何枚かの市街地や近郊の地図が、大きな会議用のテーブルに広げられ、その前に、黄金のダウジング用の棒を手にしたブライディーが座っていた。 暖炉には薪があかあかと燃えている。 窓の外は、いくつか見える尖塔も、家並みも白一色になっていた。 ひとしきり目を閉じて精神を集中し、目を固く閉じていたブライディーだったが、やがてゆっくりと鳶色の瞳を開くと、白い木綿のハンカチで顔の汗を拭った。 「申し訳ありません。やはり、奪われたヴァーンヘルトさんの脳の行方を占うのは無理なようです」 「なぜだ? きみは失せものも探せるのじゃあなかったのか?」 スコットランド・ヤードのブレード警部は両手を地図の上に置いてなじるように言った。 「『モノ』なら占えるはずなのですけれど、『身体の一部』というのは何とも… まして奪われた身体の一部『脳』が、他人に移植されて組み込まれてしまった場合は、その『他人』の姿形や顔、名前などが分らなければ占えません」 「くそぅ、これでヴァーンヘルトの事件の糸はプッツリか… 近い未来、『世界を破滅させるような戦争を起す連中の名前や人となりなどを予言することができたヴァーンヘルトの脳』は、ヴァイオレットとその手下の行方は、とらえどころがなくなってしまった、というわけだな… 上層部との打合わせに出かけている憲兵隊長が聞けば、さぞかしガッカリすることだろうな」 警部は地団駄を踏んだ。 「すみません… 理由は違いますが、ヴァイオレットさんの居所も確定できません。ヴァイオレットさんは、わたしとほぼ同じ能力を持っておられますので、わたしが…わたしたちが動いて居所を目指せば、彼女はそれに押し出されるようにして場所を変えると思います。 いまは、プラハ郊外の『この』廃城にいる、とでていますけれど、わたしたちが兵隊さんを揃えてそこに向かったら、ヴァイオレットさんもただちに移動することでしょう。永遠にイタチごっこです」 「謝ることはないんだよ、ブライディー。きみはこんな遠い外国にまで一緒に来てくれて、一所懸命やってくれているんだ」 ドイルはパイプをふかしながら宥めるように言った。 「では、ヴァーンヘルトの脳と、ヴァイオレットの逮捕は諦めることにして、肝心かなめの当初の目的である、ウエスト博士とエステルの潜伏先を占って下さい!」 警部は、良く言うと仕事熱心、悪く言うと執拗に迫った。 「もちろん占いました。つい先ほどまでヴァイオレットと同じ、この廃城にいたんです。ところが…」 「ところが…」 しばらく沈黙が流れた。 「…突然消えてしまって… こんなことは初めでです。わけが分りません。とにかく二人とも忽然と…」 「何だって?」 警部は頬を引きつらせた。 「魔女に『もう用済み』とみなされて、殺されて焼かれて灰にされてしまったのだろうか? それとも、バラバラにされて…」 「いや、ヴァイオレットはそう簡単にあの二人を殺したりはしないと思いますよ、警部」 ドイルが横から割って入った。「…エステルさんの『未来の、医学技術を受信する』というのは、我々が考えているよりもずっと凄い術なんです。 例えば、遠い未来の、あるいは遠い過去…超古代の…全人類を滅ぼせる兵器の作り方を受信できたら… そうは思いませんか?」 「なるほど。それは確かにそうだ」 警部も大きく頷いた。「魔女の最終目的に近づくためにも、大いに有利なことだ。殺してしまうようなことはしないだろう。むしろ、おだててすかして用済みになるまで仲間にしておくことだろう」 「申し訳ございません!」 ブライディー自身もひどく狼狽していた。「…万一、ウエスト博士とエステルさんが殺されて焼かれて灰にされたのなら、『灰になったので分らなくなった』と示されるはずなのです。同じようにバラバラにされても『バラバラにされたので分らなくなった』と示されるはずなのです。 預言者ヴァーンヘルトさんの脳は、『持ち去られてどうにかされたから、行方は分らない』のです。 だけども、ついいましがたまで廃城にいらした二人が、『急に消えて』、『しかもその理由が占えない』んです!」 「たまにはそういうこともあるだろうさ、ブライディー」 ドイルは彼女の肩を優しく叩きながら言った。「…相手は、いまの世の中にいる最強の魔女であり、700年前に『異端』の烙印を押されて滅ぼされた『清浄派…カタリ派…』の、いまでは数人しかいない『完徳者』なんだ。我々が知らない、書物で読んだこともない未知の術を使ったのかもしれない」 「自分は、兵士をお借りしてその城跡に言ってみます!」 警部は言うが早いか部屋から出て行った。「無駄だと思いますよ、警部。かれらは我々よりも凄い術を持っているんですよ。しゃにむに追いかけることは、むしろ危険だと思います」 ドイルの声が空しく、靴音が遠ざかっていく廊下に響いた。 部屋にはドイルと、ブライディーだけが残された。雪はしんしんと降り続き、窓の外の塔や街の輪郭も消え消えになってきた。 「ドイルさま…」 ふだん、英国心霊研究協会の屋敷にいる時も、どこか自信のなさそうなところがあるブライディーだったが、こんなに遠くまでやってきて、とうとう探すべき相手を全員見失ってしまって、ひどく意気消沈した様子だった。 「ブライディー。思ったことがあるのなら遠慮せずに言ってごらん」 「こんなことを申し上げると言い訳になってしまうような気がするのですが…」 「それでも構わないよ。もともと、きみを担ぎ出し無理をさせているのはぼくらのほうなのだから」 ドイルはあかあかとはぜる薪に目を落とした。 「ウエスト博士とエステルさんは、確かに悪いことをしたかも知れません。けれども、お二人は、わたしたちが想像した以上に愛し合っておられたのだ、と思います。…その、法律や、道徳や、倫理を越えて…」 ドイルは無言だった。その表情は(たとえどんな理由があったとしても、許されないことは許されない)と言いたげだった。 「愚痴になるかも知れませんが、お二人がイギリスから逃亡された時、わたしたちは追いかけるべきではなかったように思うのです。そうしていたならお二人は、こんな遠い遠いところまで逃げることはなく、魔女ヴァイオレットに利用されることもなかったか、と…」 ドイルは、ただ黙ってメイドの言うことに耳を傾けていた。 「『何をいまさら』とお腹立ちでしょう。ですけれど、ウエスト博士とエステルさんの愛は、もろもろのことを越えるくらいに強かったんです。わたしの、ダウジングの占いを無力にしてしまうくらいに…」 柱時計のコチコチという音と、暖炉のパチパチという音だけが聞こえた。 窓の外はもうすっかり白い雪と、黒い闇の二色に染め分けられた。 「『愛はすべてを越える』か…」 探偵作家は重々しくつぶやいた。「…しかし、それは『正しい愛』だろうか? そうまでして手に入れた愛には違いないだろえが、果して『真実の愛』と呼べるのか? もしも万一、世の中の多くの男女が『我も我も』と、自分たちの愛を貫くために殺人を犯したら、『熱烈な愛のためなのだから同情できる』と、見て見ぬフリをして良いものだろうか?」 「普通のカップルは、こんなことをしませんわ。ウエスト先生とエステルさんの場合は、特別の中でも特別なんです」 「いいや、そんなことはない。例えば、愛する人が重い病気で、その特効薬を得るために、彼なり彼女なりが犯罪を犯したとしよう。確かに世間の何割かは『気の毒だ』と思うかもしれない。裁判になった時、情状酌量されるかもしれない。だけども、その犯罪自体はやはり許されることではないんだよ。だから、ブライディー…」 ドイルは彼女の鳶色の瞳を見つめ、語気を強めた。「…ぼくらがやったこと、努力してきたことは間違いじゃあないんだ。ぼくも、きみも、警部も、『ジャン・バルジャンをしつこく追い詰めるジャベール警部』なんかじゃない。 ウエスト博士もエステルも、『罪をつぐなった人』じゃあない。『これから償うべき人』なんだ。 だから、ダウジングが効かなくなったしても、それが『追いかけるこちら側にやましいところがあるからかもしれない』などと憂うことはないんだ」 「そうでしょうか?」 ブライディーはドイルの青い瞳を見つめ返した。 「そうだ。…とにかく、取りあえず二、三日様子を見よう。何か新しい進展があるかもしれない。きみはプラハの街の見物をしてもいい。何ならぼくも付き合うよ」 「いえ、そんな…」 日没後、警部が帰ってきた。 「残念です。…やはりドイルさんのおっしゃる通り『もぬけのから』でした」 「いや、罠でなくてよかったですよ」 ドイルもホッとした様子だった。 「…でも収穫もありましたよ。城の、とある部屋には手術室らしきところがあり、道具一式が置き捨てられていました。おそらく、奪ったヴァーンヘルトの脳を、手下に移植したんでしょう、魔女ヴァイオレットは」 「なるほど」 持ち帰った写真には、その部屋や道具が写っていた。 「ブライディーさんの探知能力はまだ戻りませんか?」 どうやら警部は、まだ一縷の望みをかけている様子だった。 「すいません…」 「ブライディーさん、貴女、連中に変な情けを掛けておられるんじゃあないでしょうな?」 「警部、それは言い過ぎですよ。彼女は全力でやっています。だからこそ、ここまで来れたんじゃあないですか?」 しかし、当のブライディーの返事は意外なものだった。 「いえ、警部さんのおっしゃる通りかも知れません…」 「なんだって! ブライディーさん、貴女は『もう、ウエスト博士とエステルを追跡することには気乗りがしない』と言うのか?」 警部の顔色が変った。 「ええ。ウエスト博士が殺めたのは『法の網を逃れつつ悪いことをしてきたひと』…『博士が殺めなくても、いずれどこかで誰かに殺められるだろうひと』です。憲兵さんを殺めたのはエステルさんではなく『その人』だと思うのです。何らかの方法…魔法…で違う人になったのなら、『生まれ変わった』ということで、もういいのでは、と…」 「よくない!」 警部は拳を握り締め机をドンと叩いた。「…いいですか。やつらは、その『別の人間』になるために…いや、なりすますために、また誰か、我々の知らない誰かを殺めているのかもしれないのですよ! その誰かが、我々とは縁もゆかりもないボヘミア人の赤の他人だからどうでもいい、ということでしょうか? ブライディーさん、もしも貴女のお友達が…例えばデイジーさんやポピーさんが脳が刳り抜かれて、代りにウエスト博士やエステルの脳が収まったらどう思いますか?」 「そ、それは…」 メイドさんは返答に詰まった。 「二人の言うことはよく分る」 ドイルがあいだに入った。「ブライディーが言っていることは、『ウエスト博士やエステル、それに魔女ヴァイオレットを追い詰めれば追い詰めるほど、かれらは罪のない人々の身体を次々と乗り継いで犠牲者が増えるだけ…かもしれない』と言うことでしょう」 ブライディーが小さく頷く。 「もう一つ」 ドイルが続ける「ここはボヘミアの領土。ボヘミアにはボヘミアの『正義の魔術師、魔法使い』がいるはずです。イギリス人の我々がここでしつこく粘り続けるのはどうか、と…」 「ドイルさんのおっしゃる通りです」 いつのまにか戻ってきていた憲兵隊長が威厳のある声で言った。「あなたがたの力をもってすれば、すぐに解決の方向が見える、というのならともかく、そうでない以上、むしろ恐縮の至りです。あとは何としてでも我々の手で…我々ボヘミアの憲兵隊と魔導師の手で三人を捕縛し、我が国の法律で罰したいと思います」 警部は溜息をつきながら肩を落とした。 「やむを得ません」 「あとはお任せして、ぼくたちはウィーン方面へ戻る汽車の切符が取れ次第、出国しましょう」 ドイルは残念そうに言った。 「…ブライディー、きみはロンドンのみんなにお土産を買ってきてあげるといいと思うよ。 ここプラハは、きみの故郷アイルランドと同じように、とても素敵なガラス細工で有名なんだ。指先くらいの小さなものだったらかさばらないよ」 「すみません、ドイル様」 「小官は最後まで諦めませんからね! 隊長殿、首尾良く三人を捕縛したら、すみやかに身柄を大英帝国にお引き渡しください」 「それはお約束できかねます。いかに『陽の没することのない大英帝国』と申しても、わがボヘミア公国も独立国。そう簡単には…」 「小官はいましばらく、時間の許す限り捜査を続けます!」 警部はドアをバーンと閉めて出て行った。 「すみません、ドイル様、隊長さま」 ブライディーは深く頭を下げた。「…しかし、何でもそうでしょうけれど、力の足りない者が期待をされると、ご迷惑をかけるだけのような気がするのです」 「いや、ブライディーさん、どうかお気になさらずに…」 憲兵隊長は優しい目で彼女を見た。「貴女は、はるばるこんな遠い国まで来てよくやりました。ご心配なく、ボヘミアにも優れた魔法使いが大勢います。外国人の貴女が無理して頑張る必要はないのです」 「有難うございます…」 「では、失礼します」 憲兵隊長が敬礼して退出しようとするのを、ドイルが呼び止めた。 「隊長!」 「まだ何か?」 「…その… 個人の身体的特徴のことをお聞きするのは大変失礼だとは思うのですが、最初お会いした時の隊長は禿頭。なのにいま、軍帽の端から髪の毛が見えているのは何故ですか?」 「ああ、これですか!」 破顔一笑した隊長は軍帽を脱いで髪を撫でた。「…実は今度、娘が結婚することになりましてな! 式の際、実際の年齢よりも老けて見えては娘が可哀相と考えて、カツラを誂えたのですよ」 「そうですか、それはおめでとうございます」 ドイルはニコニコしながらも、その目には絶好調の時の輝きが甦っていた。 「…時に隊長、ボヘミアの魔導師のかたに容疑者三名の追跡の依頼をされるのも隊長さんなのですか?」 「ええ。小官が引き続き指揮をとらせていただく所存ですが」 「お差し支えなければ、どのような作戦、方針を採られるおつもりのか、後学のため御教示いただければ…」 「そ、それは…」 隊長は言葉に詰まった。 「…いや、やはりやめておきましょう。我々はすでに部外者なのですから…」 「それではこうしましょう。貴方がたがロンドンに戻られた頃を見計らって、小官が立案した捜査方針を手紙にしてお送りしますよ。何かお気付きの点があったらご返事ください。…なにぶんこちらも各部署と連絡を取り合わねばならず、おまけに小官ドイルさんのような頭脳明晰ではないもので、てきぱきとは…」 「手紙でお役に立てることがあればいつでも」 ドイルは一度出しかけたパイプを再び懐にしまった。 「それでは、有難うございました。警部殿にもよろしくお伝えください」 憲兵隊長は踵をカチリと合わせ、敬礼して出て行った。 (…貴男、やはり、さすがにこれはちょっとやり過ぎだったんじゃあ? 相手はあのドイル様よ。一目で見破られたのでは?) エステルの思念が囁いた。 『確かに怪しまれたかもしれない。しかし、ヴァイオレット様が立てた策も一理ある。かれらがイギリスに帰ったところで、ボヘミアの魔導師が代りに任務についたら、相変わらず逃げ回らなければならない。新任の魔導師がブライディーさんよりも優秀なダウジングの能力を持っているかもしれない。この姿でいれば安心だ』 ウエスト博士の思考波が答えた。 (わざと能力の乏しい者を捜査にあてるの? それはそれで疑われるのでは?) 『大丈夫だ。相手が高額の報酬を要求してきたら、それを理由に断ればいいし、気難しい魔導師だったら、わざと気に触ることばかりして降りさせればいいんだ』 (でも、たぶん、いま、ドイル様に悟られたわ) 『彼は「次の汽車で帰る」と言った。もし、しつこく迫られれば、その時はまたヴァイオレット様にお願いして別の器…身体…に移し替えてもらえばいいことだ』 (あたしは、いまでも、この身体は気に入らないわ。中年でお腹は出ているし…) 『しかし、このプラハにおいて、事件の捜査の中心にいる。「この」肉体を拝借している限り、捜査陣の不意打ちを受けることは絶対にあり得ない…』 (そうね… せっかく念願の「二人で一人」になれたんですもの。もっと楽しまなくちゃあ、幸せにならなくちゃあ… みんなが忘れた頃になったら、隊長の仕事を引退して、南イタリアの海岸で、のんびりゆっくり暮らす、というのはどうかしら?) 『それはいいね、エステル』 (…そうしたら、あたしはまた、あたしによく似た娘に、ウエスト先生はウエスト先生によく似たハンサムなかたに脳を移してもらって、もとの二人に戻る、というのはどうかしら?) 『それはどうだろう。私は今回が初めてだが、きみはすでに二度手術を受けている。二度、三度と繰り返すのは…』 (では、そういうことをしても大丈夫か、また未来の偉いお医者さまに伺って参りたいと思いますわ…) 「ブライディー、しつこいことを言って嫌われるかもしれないが…」 憲兵隊長が退出してしばらくしてから、ドイルはパイプに火を付けて言った。「…もう一度だけ、ウエスト博士とエステルさんの行方を占ってはもらえないだろうか?」 「えっ、『もう一度』でございますか?」 メイドさんは少し驚いた様子だった。 「ああ」 雪が降り続く灰色の空が覗く窓の外を前にして、プラハの地図を開き、旅行のお陰でロンドンにいる時よりはきれいになった白い手に黄金のダウジングの棒を握り締めて心を集中した。 「…だめですわ。残念ながら、やはりさっぱり分りません」 「そうかな? ぼくは、二人はすぐ近くにいるような気がするよ」 「そのままの姿で、ですか?」 「いや、予想したように『二人で一人』になってしまっていると思うよ」 「でしたら、人相や体つきで調べることもできず、占いで探すことも難しいか、と…」 「また、身体的特徴のことを言って悪いが、当然、つい最近、頭に手術をした跡がある人物を探せばいいんだよ」 「ドイル様! ドイル様はまさか、憲兵隊長さんがそうだと?」 ブライディーは飛び跳ねるように椅子から立ち上がった。 「その通りだよ。警部にはくれぐれも内緒にね。彼は、そうとう業を煮やしていたから、いきなり拳銃で憲兵隊長の頭を撃ってしまわないとも限らない。…すると、今度は警部がれっきとした殺人犯人になってしまう」 「分りました。黙っておりますわ。しかし、警部も気が付かれて、詰め寄ったらどうしましょう?」 「それはそうなった時のことだ。警部も警察の人間だから、そうそう簡単に軽はずみなことはしないだろう」 「でも…」 ブライディーは目にうっすらと涙を浮かべて顔を伏せた。「…ウエスト先生もエステルさんも、優しいいいかただと思っていたのに、どうしてこんなに犯行を繰り返すのでしょう? こんなに遠い外国まで逃げてきて…」 「もはや、自分たちの幸せのことだけしか考えていないのかもしれない。悲しいことに、ね…」 「では、プラハの憲兵総監様にお願いして、隊長を捕らえて…」 メイドさんは小さな、しかしハッキリとした声でドイルに言った。 「だから、それが難しい。ぼくたちの話を聞いて詳しい事情を知っているのは隊長だけだ。 憲兵総監に直接話すとなると、また一からだ。隊長は魔術や魔法に理解があって、『英国心霊研究協会』のことも風の噂に知っていてくれたけれど、総監のような偉い人はどうだろう。信じてくれるだろうか? いや、その前に、ぼくらに会ってくれるだろうか? 隊長を乗っ取ったウエスト博士とエステルの最大の狙いもそこにあると思うよ」 「どうすれば?」 「普通に取り調べても、隊長は隊長の記憶も持っている。記憶を共有しているんだ。だから決してボロは出ない。 カツラを取って手術の跡を示しても、『じゃあそれがどうしたんだ?』ということになって、やはり最初から説明しなくてはいけなくなる。仮に、信じてもらったところで状況証拠にしか過ぎない」 ドイルは珍しく唇を噛んだ。 「やはり警部さんには、お教えしないほうが…」 「警部には悪いけれど、押し問答になってしまっては最悪だ。汽車に乗る前に名案を思いつかないと…」 ドイルは安楽椅子に深々と腰を下ろして考え込んだ。こういう時は、邪魔をしないのが一番だとブライディーは肝に銘じていた。 「ドイル様、わたくし、おいしいお茶を淹れて参りますわ!」 別の部屋では、憲兵隊長の姿のウエスト博士とエステルが、『他でもない自分を捕らえる任務に指名されるであろう、ボヘミアの魔導師たちの極秘のリスト』のページをめくっていた。 そこには顔じゅうヒゲだらけのロシア正教の修道士や、蜥蜴のような顔の魔女や、棺桶のなかで正装で眠る青白い顔の貴族などの写真が張り込まれていた。 『うーん、優れた占いとダウジングの能力を持つ術者も何人かいるな。もしもブライディーさんより実力があったなら、小官がそうだ、とバレてしまうかもしれないな…』 (ウエスト先生、そんな心配になるようなことはおっしゃらないで下さい! 不安が増すではありませんか) 『大丈夫だ。ブライディーさんを、上手くまくことができたのだから』 (けれど、ドイル様には感づかれているような…) 『それは計算のうちだ、気にしなくていい。彼は何もできない。確固とした証拠が何もないのだから…』 (かれらを追い返しても、新しい追跡者を自分で指名しなくてはならないなんて矛盾していますわ! こんなことだったら、ロンドンでブライディーさんの頭を手に入れておくんでしたわ! そうすれば、こんな遠い遠い寒い国まで逃げてくることはなかったんですもの! あの時、やり損じたのが悔やまれますわ!) 隊長の頭の中のウエスト博士の脳に警告を知らせる電流のようなものが走った。 「エステル、何と恐ろしいことを言うんだ? その未遂に終った計画…というか思考は、最初、馬車にはねられ、傷ついた脳を取りだして代りに埋め込んだホワイトチャペルのヤクザ者の考えたことじゃないか? きみはそんなことを思いつく人じゃあない」 (うるさいわね、ウエスト! 一度決め損なったから、こんなにもグズグスと後を引いて苦労するのじゃない?) ウエスト博士の部分、領域に衝撃が走った。『なんだこれは? エステルじゃない! エステルは私にこんなことは言わない。言うはずがない! …さては、手術してくれた魔女ヴァイオレットの執刀の腕が未熟で、ヤクザの部分が残ってしまって、さらに表に出てきてしまっているのに違いない! しかしこれは大変だ。言うまでもなく、どんなに優れた医者でも、当たり前のことだが、自分で自分の手術をするわけにはいかない。 またヴァイオレットに頼むしかない。 そのヴァイオレットの手術はヘタクソ… 同じ失敗をまたしてしまう可能性も高い。彼女は、魔女としては世界一かも知れないが、医者としての修練はしていない… すべて魔法魔術でやったしっぺ返しか?』 (何をゴチャゴチャ思い悩んでいるの? こんな中年太りの憲兵隊長の身体などおっぽり出して、代りにブライディーさんの身体を頂いて、ドイルと一緒にロンドンへ帰りましょう。あたし、決めたわ!) 『莫迦な! そんなことをすれば…できたらの話だが…今度という今度こそ、温厚なドイルさんもブチ切れるだろう!』 (いいじゃない! のるかそるか、決戦を挑むのよ。いま、ここで!) 『よすんだエステル! どうか、もとの優しい可愛いエステルに戻ってくれ! 私が殺人を犯しても助けたエステルに!』 (戻ってあげるわよ。予定通り、ブライディーさんの頭か、身体か、両方を手に入れたら!) 『無理だ! ここは憲兵隊本部だぞ。おまけにブライディーさんも術者だ。ドイルさんや警部もいる。そんなこと、できるわけがない!』 (大丈夫。あたしに考えがあるわ! 任せておいて!) 憲兵隊長はゆっくりと憲兵隊本部の厨房へと歩いていった。 すでに昼食の時間は過ぎており、夕食までにはまだ間がある、ということで、ブライディーはたった一人お湯を沸かし、ポットや紅茶の葉を準備していた。 「やあ、ブライディーさん」 メイドさんはギクリとして振り返った。 「ドイルさんや貴女は、小官がもはや小官ではない、とお疑いのようだが…」 「あ、いえ…」 「悲鳴を上げて人を呼ぶことはいつでもできるでしょう。ほんの少しのあいだだけ、わたしの…いや、わたしたちの話を聞いて欲しい」 メイドさんは無言で頷いた。 「憲兵隊長の命と、肉体を奪ったのは悪かった。これで三人目の殺人だ。極悪非道と思われても仕方ないだろう。しかしこれにはわけがあるんだ。 わたしたちは『罪滅ぼし』がしたかったのだ。 『新たに人を殺めておいて、何が罪滅ぼしだ』と思われるだろう。だがしかし、これは捨て身の作戦なのだ。ヴァイオレットを信用させるための」 「『ヴァイオレット様を信用させる』?」 「ああそうだ。彼女は世界を戦争の渦に巻き込んで人類を滅ぼそうとしている。わけは知るよしもない。すでにその戦争を起す者たちを知っている預言者の脳を奪って部下に移すことに成功している。 わたしたちは、殺人者となってしまったいまでも、イギリスを愛しているし、世界も平和であり続けて欲しい」 「けれどそのために…」 ブライディーが口をはさもうとしたのを隊長は制した。 「よほど信用させ、信頼を勝ち得ないことには彼女を捕らえ、葬れないだろう。これはすでに死刑になるくらいの罪を重ねている者にしかできない捨て身の作戦なのだ」 「その… ウエスト先生とエステルさんは、ヴァイオレット様の居場所をご存じなのでしょうか? ヴァイオレット様が居を移しても追跡できるのでしょうか?」 「ああ、彼女は、わたしたちの『未来の医学』をもっと欲しがっている。居場所を移しても、その場所は教えてもらえる」 「では、十分にこちらの陣容を整えてからそこに向かえば…」 「ああ、捕らえるのも夢ではないと思う」 お湯が煮立ち始めていた。メイドさんは火を止めてエプロンを脱いだ。 「わたくし、さっそくこのことをドイル様に…」 「いや、それはもう少しだけ待って欲しいんだ」 隊長はメイドさんの前に立ちはだかった。「『敵を欺くにはまず味方から』と言うだろう?」 (しかしドイル様はいま、何とか隊長さんがウエスト先生とエステルさんであることを暴こうと思案されておられます) 言いかけて思わず言葉を飲み込んだ。 「それは、いましばらく我々魔導師のあいだだけの秘密にしておいて欲しいのだ」 「いつまでですか?」 「ヴァイオレットさまの弱点を掴むまで」 「なるほど、で、それはどなたが? あなたがたが努力してくださるのですか?」 「いやいや、それはわたしたちでは無理だ。エステルは未来の医者たちからのイメージや言葉を受取ることができるが、それだけだ。もっと『探る』力に秀でた魔法を使える人でないと…」 「それは、例えば?」 「ブライディーさん、貴女だ。汽車が出る前に貴女がもう一働きしてもらえれば、ヴァイオレットの弱みを握ることができると思う。 これは、ヴァイオレットから聞いた話だが、貴女やドイルさんや『英国心霊研究協会』のメンバーは中世の異端者『清浄派…カタリ派…』の完徳者たちの正体を暴いてきたそうではないか?」 ブライディーは過去に出会った『完徳者』たちに思いを馳せた。 アイルランドの深い森で不老不死を探究していたグエンドリン(「女神たちの森」「ラキシス最後の旅」参照)…彼女は健在だ。 ケンブリッジのニューナム女子大で有望な者をスカウトしていたゼリューシャ(「ブライディー女子大生になる」参照)…彼女も健在。確か東欧の出身だった。 北海に浮かぶ絶海の孤島の女子修道院長になりすまして、いにしえの邪神の召喚を試みていたキーウリン。彼女は、両親の敵と付け狙う別の魔女の娘に討たれて死んだ… アイルランドの森で、吸血鬼として永遠の命を得ようとしていたシーリア(「メイドさん対、小さな吸血鬼」参照) 彼女も健在… そして、ヴァイオレット… さすがに『永遠の命を持つ』とされる『完徳者』だけあって、深い恨みを買って殺された一人を除いて、五人のうち四人がいまも生き続けている… 「でも、ヴァイオレット様以外は、そんな『人類を滅ぼす』などというようなことは考えておられませんでした。 「だから、いまこそ、なぜ彼女がそのようなことを思うに至ったか、知りたいとは思いませんか?」 隊長の瞳が光った。 「ぜひ、知りたいです。それを知ることができれば、いろいろと対抗策が打てると思います」 「小官も、もちろん知りたい。そこで、これを罪滅ぼしとして提供したい。貴女は、小官に捕まったことにして、一緒に来て頂けませんか? もちろん、ドイルさんや警部には内緒で」 メイドさんは迷った。 (普通に考えたら… どう考えても罠。でも、どうしても知りたい…) 「いいですわ。わたしも、こんな遠い国まで来て、役立たずで終ってしまうところでしたから、ぜひ、そのお芝居をやります」 (ほらほら、ウエスト先生。根が真面目な子だから、乗って来たでしょう?) 『いや、エステル。これは自ら墓穴を掘るかも…』 (先生、もう弱気はなしですよ。もう策略は始まっているのだから…) 『エステル、おまえはどうなってしまったんだ? まるで魔女の片割れみたいだ…』 (あら、そうおっしゃる先生こそ、この憲兵隊長を乗っ取ることに、やぶさかではなかった癖に…) 『どうかしている… 私もどうかしている… いや、どうにかなってしまったようだ。 まるで私まで、最初に殺めてしまったヤクザの影響を受けてしまっているみたいだ。…伝染病か何かのように…』 (夫婦というものはお互いに影響し合うものですわ。あたしたちは、今や、一つの身体に二つの心を持つ存在。だから、互いの思いが移っても、不思議ではありませんわ。夫婦以上の存在と言っても過言ではないですわ。 首尾良くブライディーさんの脳の一部と身体を手に入れれば、優しさを取り戻せるでしょうし、ついでにブライディーさんの能力も頂けて、あたしたちはますます力を得られることと思いますわ) 『そうだな。ここまで来てしまった以上、もはやどの道、私たちは引き返すことはできない。とことん、とことん進むまでだ』 隊長は憲兵隊本部の裏庭に、二頭立ての馬車を用意していた。小さな旅行鞄を一つだけ持ったメイドさんは、その馬車に乗った。 御者はおらず、隊長自らが御者台で鞭を手にした。 馬車は固く凍てついたプラハの雪道を走り出した。街を出た馬車は郊外へ向かう… いくつもの高い塔と、鐘の音が次第に遠ざかった。 (でも、割と簡単に乗ったわね、あの子。もしかして、占いやダウジングの能力のほかに、テレパシーとかが使えて、ドイルさんや警部に連絡できるのでは?) 『いや、そんな話は聞いていないぞ。英国心霊研究協会のメンバーには使える者もいるだろうが、いまここには来ていない』 (本当に大丈夫?) 『そんなに心配なら「やはりヴァイオレットが怖くなった」とでも言って引き返そうか? ヴァイオレットには「ブライディーさんが引っかからなかった」と言えば済むことだ』 (それはもったいない! あの子が乗ってきたのは神様の…いや、魔王の思し召しよ。頂けるものは有難く頂きましょう!) 『おかしい… おかしい… 以前の私ならこんな計画は、自分でも許せなかったはずだ。 もちろんエステルもこんなのじゃあなかった。それなのに、私も、エステルも、自分が自分でなくなってしまったまたいだ。何もかも、あのヤクザ者の脳の影響だろうか? それとも…』 (ないまさら何をごちゃごちゃ言っているのよ先生! ほら、お城が見えてきたわよ!) 「これは、もしかして、わたしがダウジングで割り出して警部が検分したお城ですか?」 馬車から雪道に降り立ったメイドさんが訊ねた。 「その通りだよ。ヴァイオレット様はまた戻ってこられたのだ。警部も『まさか』と思いもよらないだろう… 小官は先にヴァイオレット様にお会いしてくる。きみは壁のタペストリーや銅版画でも見ていてくれたまえ」 隊長が去った隙に、ブライディーは素早く小さな旅行鞄を開けた。鞄の中には白い伝書鳩が一羽入っていた。 (おとなしくしてくれていて有難う! この場所をどうかドイル様や警部様にお伝えして!) メイドさんは鳩の脚の小さな管の中にメモを入れ、雪が降り続く鉛色の空に向けて放した。鳩は二、三度弧を描いて帰る方向を見定めようとしていた。 と、その時、どこかから一羽の鷹が飛来してきたかと思うと、アッというまに鳩を捕らえて去った。 ブライディーは息を呑んだ。 (どうしましょう! ヴァイオレットさんに気づかれたのかしら! それとも偶然? いや、どっちにしても同じことよ!) 全身から血の気が引き、冷や汗が吹き出したが、もうどうすることもできなかった。 憲兵隊長の姿のウエスト博士とエステルはすぐに戻ってきた。 「手はずは整った。きみは、ヴァイオレット様を説得できる…かもしれないと思って、単身乗り込んできた…ということにしてある。 真に聞きたいことを聞き出せるか聞き出せないかは、きみの駆け引きの力にかかっている。『上手く行くか行かないか』や、きみの運命については関知しない。それでいいか?」 「え、ええ…」 (もうこうなったら、神様、マリア様にお任せするしかないわ…) 決心したメイドさんは、書斎に入った。 左右の角が大きく曲がった黒い巨大な山羊。それにひれ伏し従う歪んだ顔の人々。生け贄に捧げられた裸の美女が描かれた大きな銅版画を背にして、何の皮肉か、同じメイドのお仕着せを着た英国ふうの美少女が主の席に身体を斜めに傾けて腰掛け、血のように赤いワインを飲んでいた。 「お連れして参りました、ヴァイオレット様」 隊長はひざまづいて一礼してから部屋を出て行った。 「お久しぶりね、ブライディーさん。オーストリアのブラウナウ以来かしら?」 「お願いします、ヴァイオレット様。どうか、イギリスに、ロンドンにお帰り下さい。姉上のオクタヴィア様も、ずいぶんとご心配されておられます」 「あら、会っていきなり説教?」 メイド姿の魔女は細い眉をひそめた。 (…ヴァイオレット様はそんなに怒っていないみたい… すると、わたしの鳩を捕らえたのはヴァイオレット様じゃあない? 偶然? と言うことは、助かるチャンスは少しだけれど増した? わたしが真心をこめて説得申し上げれば…) 「わたくし、貴女が邪魔なのよね。分っていらっしゃる? 遠大な計画を実行するためには、そう簡単に居所を知られてしまうわけにはいかないの」 「あの… そこまでしてヴァイオレット様が成し遂げたいこととは一体何ですか? 以前『大きな戦争を起して世界を滅ぼしたい』とおっしゃっておられましたが、そんなことをして何の得があるのでしょう? 仮に、ヴァイオレット様が『死の商人』だったとしても、世界が滅びてしまったら、もう大砲も軍艦も売れないではありませんか?」 「…ふん、お金儲けなど論外です」 ヴァイオレットは鼻先でせせら笑った。「…これだから下々の者は困りますね」 「ではどうして?」 「そのような、こちらの大きな秘密、核心に触れるようなことを、そんな簡単に教えると思いますか?」 「わたしがお世話になっている『英国心霊研究協会』には、大勢の優れた研究者のかたがいらっしゃいます。目的を教えて頂ければ、戦争など起さなくても、その目的が遂げられるかもしれません」 「無理です」 魔女はピシャリと言った。「…いままで数多の魔法使いや錬金術師が試みて、ことごとく失敗したことです。いまさら誰かが成功できるとは思いません。わたくしが知る方法以外では…」 「するとやはり、数百年前に滅ぼされた『清浄派…カタリ派…』の皆様のための復讐とか、そういうことではなくて、何か特別な目的があるのですね?」 「何で…」 ヴァイオレットは目をそらせた。「…大昔に滅ぼされた者たちに義理立てする必要があるのでしょうか? 莫迦らしい! 確かに、わたくしが学び身につけた魔法はかれらのものです。才能があったのか、血のにじむような努力が実ったのか、いまでは一番若い『完徳者』として名前を連ねてもいます。しかしそれは、例えるなら『卒業した学校』のようなもの。すべては、最終的には全部自分のためですわ」 「一体何のためですか?」 ブライディーは懇願するように訊ねた。「戦争で大勢の人が亡くなると、どんないいことがあるのですか?」 「それほど知りたいのなら、一つわたくしの一部になってみませんか?」 魔女の瞳がキラリと光った。「…わたくしは、貴女の、ずば抜けた占いの能力が欲しいのです。もっと単刀直入に言えば、わたしは貴女の容姿や身体や性格には、それほどの魅力を感じませんけれど、貴女の頭、脳は欲しい、と思うのです!」 「あ、あの… わたしの占いの能力は頭に依っているものではないかもしれません。もしかしたら心臓、もしかしたら身体の別の部分にあるのかも知れませんわ」 ブライディーは必死で言った。 「ふふふ… あちこち試して見るのも面白いかも…」 ヴァイオレットは立ち上がってゆっくりと歩み寄ってきた。「…幸い、こちらにはいま、いいお医者様がいますしね」 「あの… ウエスト先生のことでしたら、失礼ですけど全幅の信頼は置けないと思います。 なぜなら、身体がウエスト先生の時ならできたことも、いまの憲兵隊長さんは指も太くて不器用そうです。頭の中で分っていても手が自在に動くかどうか…」 ブライディーはゆっくりと後じさった。 「あら、人を見くびるのは悪い癖ですよ」 魔女は真ん中に輪をつくった細い紐を取りだした。 (助けて下さい神様、マリア様! やっぱり無謀でした…) (あのお人好しのメイド、まさかこんなに簡単にノコノコとついてくるなんて、あたしたちはツイているわ!) 隊長の頭の中のエステルははしゃいだ。(…あたしたちが手を汚さなくても、ヴァイオレット様が始末してくださるし、あの子の脳はめでたく山分け… 占いや、ダウジングの能力はヴァイオレット様が、優しくて気だてのいい部分や、身体はあたしたちが頂いて…) 『なぁ、エステル』 ウエスト博士の部分は複雑な思いだった。『くどいようだが、以前のきみはそんなじゃなかった。どうしてそう、次から次へと恐ろしいことを思いつくようになったんだ?』 (これが最後よ。これで何もかも上手く行くの!) 『本当にそうだろうか? 私には、手術を繰り返すごとに、元のきみからかけ離れて行くような気がしてならない…』 (いまさら何を言っているのよ! もう少しで全てが上手く行くの!) 『ああ、頭が痛い! やはり私は誤っていたような気がする。きみが馬車にはねられて神に召されたとき、御手にお渡しするべきだったんだ。楽しく美しかった思い出とともに!』 (何を言うの先生! 楽しみも喜びも生きていればこそよ! 死んだら何もかも終ってしまうのよ! 先生の決断は正しかった。気まぐれに人をーの命を奪ったり不幸にしたりする神とは、断固戦うべきなのよ。いままでも、これからも…) 『それはもちろん戦う! 戦うとも! しかしやはり、もうこれ以上、関係のない人の命を奪うことはいけないことだとも思う。よく考えたら、この憲兵隊長の無骨な手で手術を行うのは難しいだろう。私はそのことをヴァイオレット様に申し上げて来る!』 (莫迦ね! 自分で計画して自分でぶち壊すことないじゃない!) 『エステル、きみはもう、昔のきみじゃない! 何をやっても完全に元に戻るアテもない!』 (お互いに望んで一つの身体になったというのに、気にくわないと言うの?) 『ああ、その通りだ。「こんなはずじゃあなかった」と思っているよ。大恋愛の末に一緒になった夫婦でも、なぜかじきに離婚してしまうことだってあるじゃないか。私たちもそうだったんだ。きみを変えてしまった責任は私にあり、そのことは悪かったと思っているよ』 (そんな…) 隊長が書斎に入ると、ヴァイオレットがブライディーの首に紐を巻き付けて絞めている最中だった。 「やめて下さい、ヴァイオレット様!」 隊長は腰の拳銃を抜いて発射した。 バーンという銃声とともに紐は真っ二つになった。 椅子に倒れ込んだブライディーは「コホン、コホン…」と咳き込みながら、首の紐を外した。 「…有難う、ウエスト先生にエステルさん」 「何を血迷ったの?」 魔女は血走った目で隊長を睨み付けた。「…怖じ気づいた、のかしら? これだから小者は困るわね」 それから、自ら、どこからともなく小振りの銃を取りだして隊長に狙いを付けた。 「『二人の脳を、一つの頭に入れたら不安定』ということかしら? だったら、そんなのは要らない。要らないわ!」 バーンともう一発、銃声が轟いたかと思うと、隊長は頭から血を流して倒れた。 「ウエスト先生! エステルさん!」 ブライディーは駈け寄って抱き起こした。「ブライディーさん、迷惑を掛けて済まなかった。でもこれで、私たちを追いかけなくてもいいだろう… ドイルさんたちや警部さんたちとともにロンドンに帰れるだろう?」 「一緒に帰りましょう、ウエスト先生にエステルさん!」 「それは無理というものだ。私の姿を見たままえ。プラハの憲兵隊長の姿だろう?」 「なぜこんなことになったんですか?」 「東洋には『朱に交われば赤くなる』という諺があるそうだ… 脳を移植すればどうしても『もってきた元の持ち主の考え』に染まってしまって、それはもう何をしても消し去ることはできないのだ。心臓や、肝臓や、腎臓や、他の臓器はいざ知らず、脳の場合はそういうことらしい。エステルが手に入れた未来の医学の知識、それよりもさらに未来の技術をもってすれば、克服できるかもしれないが、とりあえず、移植前とまったく同じ状態には戻すことができない。それは風を捕らえるようなものだった、ということだ…」 そう言いながら、隊長は、ウエスト博士は息を引き取った。 「ウエスト先生! エステルさん! しっかりしてください!」 ブライディーは揺り動かした。 「無駄な努力でしてよ、ブライディーさん…」 ヴァイオレット新しい紐を用意し直して近寄ってきた。「…役立たずに用はありませんでしてよ。でも、わたくしはその者たちから方法を学んでいる。ゆっくりと実験させてもらうことにしましょう」 「そんな…『役立たず』だなんて…」 「他人の… それも自分たちが追跡してきた者たちの心配なんかしないで、ご自分の心配をしたらいかがかしら?」 紐で作った輪が再び素早く、まだ先ほどの跡が消えていない首に掛かって締め上げられた。 「さよならブライディーさん。残念だけれど。貴女の脳は、せいぜい活用させてもらうから安心してね」 (そんなの嫌! ただ命を奪われるだけならまだしも、そんなの嫌!) 意識が遠のきかけた時、ガチャーンと何かが割れる音がして、急に首を締め上げていた紐が揺るんだ。 ブライディーは素早く輪を外して壁まで逃げた。目を上げるとヴァイオレットが額から血を流し、両手で後頭部を抱えていた。 彼女の後ろには、頭を半分、弾丸で吹き飛ばされた憲兵隊長の姿をしたものが立っていた。二人の足元には粉々に砕けたボヘミアン・ガラスの花瓶のカケラが散らかっていた。「早く逃げるんだ! 逃げるのよ!」 顔半分の男は、憲兵隊長と、ウエスト博士とエステルが混じり合ったような声で言った。「有難うございます!」 「ぐずぐずするな!」 「はい!」 ブライディーは開かれたドアから廊下へと逃げた。 「おのれ、逃すものか!」 よろめきながら立ち上がったヴァイオレットが額を一撫ですると、傷口は瞬く間にふさがって血痕も消えた。 「その前におまえたちだ! わたしとしたことが抜かったわ!」 魔女が、長く爪の伸びた人差し指を一振りすると、隊長の首は、まるで首切り役人に斬られたかのようにスパッと宙を飛んでドサッと床に落ちた。 「さて、改めて…」 ヴァイオレットが駆け出そうとした時、隊長の身体の両手が彼女を羽交い締めにした。(たとえ頭は潰されても、我々はブライディーさかの味方だ!) 「おのれ、しつこいぞ!」 (しつこいのは貴女です。世界戦争を起そうなどという考えは捨ててください!) 「おまえたちに言われる筋合いはない!」 魔女が素早く幾度か人差し指を動かすと、隊長の身体は手も足もバラバラになった。 「…さすがにこれではもう追ってはこれまい…」 珍しく息を弾ませながら廊下に出た。 「ブライディーのダウジングの能力があれば、どこに隠れようとすぐに分るのだが… こんなことになるのだったら、ヴァーンヘルトの脳よりも、あのいまいましいメイドの脳のほうを先に手に入れておくのだった!」 あれこれ後悔しているうちに、さらに遅れをとってしまった。 一方、「その能力がある」ブライディーは、迷路のような荒れた城を、階段を駆け降り、分りにくい近道を通って一直線に出口へと向かっていた。 と、黒いドレスを身にまとった女性の腕が伸びてきて彼女の肩を掴んだ。 「ゼリューシャさん!」 それはブライディーがかつて、ケンブリッジ大学のニューナム女子大で、少しあいだだがともに学んだ魔女だった。 「助けて下さるのですか?」 「いえ、残念だけれど助けてはあげられないわ。なぜなら、ヴァイオレットは曲がりなりにもわたくしたちの仲間ですから」 「そうおっしゃると言うことは…」 「そんな悲しそうな顔をしないで。『表だって力はお貸しできない』ということです」 ゼリューシャは小さな籠に入った鳩を返してよこした。 「鳩など飛ばしたら、すぐに見つかってしまいます」 「鳩を捕らえたのは貴女だったのですか?」 ゼリューシャは頷いた。 「この荒れ城は人里離れたところにあります。正門にしろ、裏口にしろ、普通の出入り口から逃げたりしたらたちまち…」 「では、どうすれば?」 「城の地下に、一番近い村の涸れ井戸に通じている抜け道があり、途中は複雑な迷路になっています。貴女なら行けると思います。ヴァイオレットも追ってこれないでしょう」 「有難うございます」 地下道の入口、ランプを受取ったブライディーは深く一礼した。 「早く行きなさい! わたくしもヴァイオレットに会いたくありません」 「あの… ヴァイオレット様は、どうして大きな戦争を引き起こそうとしておられるのですか?」 しばらく間があった。 「…それはわたくしの口からは申し上げられません」 「なぜですか?」 「聞くと、必ず真似をしたがる愚か者が現れるのは必定だからです」 「そんなに良いことが起るのですか?」 「良いことか悪いことかは分りません。わたくしに言えるのはただ、莫迦げたことを信じている者がいる、ということです」 「それは、ヴァイオレット様のことですか?」 答はなく、地下道の先に少し目をそらせているあいだにゼリューシャの姿は消えてしまっていた。 ブライディーは水を得た魚のように迷路の中に逃げた。 ヴァイオレットは追ってきたものの、立ち止まって歯がみしただけだった。 「すみませんでした。何もかも上手く出来なくて…」 長い時間、頭を下げていたブライディーが再び顔を上げると、ドイルは怒っているような、情けなさそうなような表情でパイプを手放した。そして、 「もうそんなことはどうでもいいよ。とにかく無事でよかった」 と、抑揚のない乾いた声で呟いた。 「被疑者のウエスト博士とエステルは、ともに死亡した模様、ということでいいのかな?」 警部は吐き捨てるように言った。 「ええ。あの状態から甦らせるのは、もはやどんな魔法を使っても不可能か、と…」 「ヴァイオレットが最終的に何を企んでいるのか、むしろそちらのほうが気になってきたよ。このプラハ周辺でもう少し粘って、このあたりでしか閲覧することができない資料や書物を研究してから帰ってもいいのだが、ロンドンのことも心配だし、いったん引揚げることにしよう」 ドイルはそう言い残してホテルの自室へ戻っていった。 「しかしこれはまたやっかいなことになりましたね、ブライディーさん」 警部はこれ以上はないくらいの深刻な表情で言った。「…これからは『自分』と言うか、『自分の脳』を自分で守らなくては、もし奪われたら世間に対して大迷惑が掛かるんですよ。もしヴァイオレットがヤケを起して『ブライディーさんの脳には値打ちがある』と言いふらし、移植の方法を本にでもして、仲間に売り歩いたりすれば、世界中の悪い魔導師が貴女を付け狙うことになりますね」 「そうはならないことを神様にお祈りしますわ」 「果してそれだけで大丈夫でしょうか。…まぁ『英国心霊研究協会』の屋敷に戻れば、デイジーもポピーもいるし、アレイスター君やサダルメリク君、安倍君も時々は覗いてくれるでしょうから、連中もそう簡単には手を出せないでしょうがね」 警部は肩をすくめた。「…でも、ヴァイオレットの最終目標は何としてでも知りたかったですな」 警部も疲れたような足取りで出て行って、部屋にはブライディー一人が取り残された。 メイドさんは (上手くは行かなかったけれど、これでやっとロンドンに帰れる)と、ホッとした表情で天に向かって無数の針を刺す如く塔が聳えている白一色の街を窓越しに眺めていた。 と、目の前に突然、ヴァイオレットが現れた。魔女は、彼女が悲鳴を上げ掛けるのを指を立てて制した。 「あら、もうお帰りになるつもり? ずいぶん諦めるのが早いのね。…まぁいいでしょう。 わたしもそのほうがやりやすいわ。今回も得るところが多かったし…」 「よくも、ウエスト先生やエステルさんにひどいことを!」 ブライディーは窓を開けようとしたものの、雪と氷で凍り付いていて開かなかった。 「『ひどい』? 二人はやっと、本当の意味で一つになれたのよ。あの世でね。おまけに遺産まで残してくれて…」 「許せないわ!」 「でも、捕らえたところでどうするつもりだったの? プラハの憲兵隊長に手錠をかけて、ロンドンまで連れ帰るつもりだったの? ウエスト博士とエステルの身体は『こちら』が氷漬けにして持っていて、代りの脳を詰め込めば、いつだって甦るのよ。もちろん、以前とソックリとまでは行かないでしょうが、銃弾でグシャグシャになった脳を、ある程度元通りにできる魔導師が見つかりさえすれば」 「えっ、そんなことが出来るんですか?」 「あら、わたくしとしたことが、ちょっと口が滑ってしまって… まぁ、まぁ、いいでしょう。一番大切なことさえ言わなければ」 魔女はそう言い残して、吹雪にかき消されるようにして去った。 ロンドンは、もうすっかり春めいていた。 デイジーとポピーは、ブライディーからお土産の、ニワトリの卵くらいの大きさの色つきガラスの動物たちをテーブルの上に並べてとても喜んだ。 「でも、やっぱり一緒に行きたかった。あたしが行っていたら、ウエスト先生もエステルさんも、そのままの姿で捕らえられていたかもしれないわ」 デイジーは悔しそうに言った。 「いや、たぶん結果は同じだったと思うよ。 ブライディーさんの力をもってしても、探すこと自体が非常に難しくなってしまったのだから」 ドイルは暮れなずみ、一列に灯り始めたガス灯を見下ろして言った。 「そうですよ、デイジーさん、今回は特別な事件で、ブライディーさんでもどうにもならなかったんですよ」 ポピーは、お土産を前にしてもあまり嬉しそうな顔にはならなかった。 「こんなことを言ったら冷たい人間だと思われるだろうが…」 ドイルはガラスの猫を夕陽にかざした。猫は角度を変えるごとに色を変えた。「あの二人が二度と甦らないことを神に祈るよ。人の心は、それでなくても変りやすいものなんだ。ましてや、『未来の医学』なり『魔法』なり、とてもぼくらの手に負えないものが関わった、となると…」 (次のエピソードに続く…) KIJISUKE@aol.com