笑う人形

 それはとても奇妙な人形でした。大人の女性をそのまま赤ん坊ほどにまで縮めたような、肌の色も表情も、まとっている舞踏会用のドレスも、ミニチュアの籐椅子への座り方も、首のかしげ方もごく自然で、大変よくできておりました。
 私がその人形を見たのは、ベルキー王国の都ブリュージュの、とある運河沿いにあるさびれた商店街の一角にある古ぼけた人形店ででした。
「人形師アウグストの店」
 古書体のフラマン語でそう書かれたウイスキー色のショー・ウインドウには、その他にも顔が陶器でできた伝統的なフランス人形や、アメリカ渡りのセルロイドの人形が彼女に負けないぐらいの微笑みを浮かべて、道行く人を振り向かせようとしていました。
 見事なまでの人形、絢爛な衣装、精巧を極めた箪笥や鏡台などのお道具に魅せられた私は、知らず知らずのうちにニスの剥げた傷だらけのドアをくぐっていました。
 狭い店の中には、数百体もの西洋人形がひしめき合うように飾られていました。どれも一見して非常に高価なものと分かる芸術品ばかりです。香水までもが貴婦人たちの使う本物を使っていました。
「これで等身大のがあったら、百貨店やブティックのマネキンとして引っ張りだこだと思うわ」
 私がふと一人ごとを呟くと、薄暗い店の奥から、職人の白い前掛けをした三十なかばくらいの中肉中背の男が、先が恐ろしく細いねじ回しを持って出てきました。
「等身大のものは作らないのです。作ってはいけないのです…」
 この男、時計人形職人のアウグストは、初めてあった瞬間から口もとをテグス糸で縛ったようなぎこちない笑みを浮かべていました。「…真に完璧ではない人形たちが、大人の愛に飢え渇くのが、見ていて可愛そうでね」
「あなたがアウグストさん?」
笑いを浮かべたままの頷き。
「この嬢ちゃんたちは永遠に大人になってはいけない。彼女たちの価値のわかる貴方なら、そのあたりも理解してもらえると思いますが」「中に歯車があるとかして、動くのですね」
 笑う職人の前掛けに染み付いた機械油や、ポケットの中でジャラジャラ鳴っている小さな歯車やボルト・ナット、ワッシャー類に気が付き、もう一度彼の作品である人形に目をやります。
「『動く』?  そんな野卑た言葉は使わないで頂きたいものですな。僕の人形は生きている。…呼吸をし、食事をし、喜び、怒り、泣き、笑う存在です」
 会心の笑みを浮かべるアウグストが、近くにあった五○センチくらいの金髪でえくぼのある人形に触れると、中にトーキーでも仕組んであるのか、滑らかに口を動かし、青い目はアウグストの方をじっと見つめてこう言いました。
「お父さん、お人形買って!」
「いい子だ、買ってあげよう。どんなのがいいのかな」
「可愛い女の子のお人形!」
「それじゃあ、お父さんが作って上げよう。それでいいかい?」
 アウグストは人形を膝の上に乗せ、本物の娘のように語って聞かせます。
 アウグストは二階の工房にこもって、表情のない、抽象化された、一見して人形と分かる人形を作るべく心血を注ぎます。しかし、作っているうちに新しい仕掛けのアイデアを思いついて、ついそれを一つ一つ試しているうちに、またしても娘のような人形が出来上がってしまうようでした。
「これを作るについては、材料費その他、随分とあちこちから借金をしているんだ。貸し主はカタとして娘たちを譲れ、売れとうるさい。僕は創作している時が一番幸せなんだがこの際彼女たちと一緒に見せ物でもはじめようと思っている」
「『見せ物』?」
 彼は再び頷きます。
「そうだ。だがしかし、以前にも必要に迫られてそれをした時、とんでもないことになったんだ。聞くかね?」
 アウグストは私に小さな人形用の椅子を勧めると、自分は人形劇用の舞台の陰に隠れて人形芝居を始めました。
 ブリュージュの疎水の上を流れる濃い霧が窓の隙間から染み込んで来て、店内と舞台は靄がかかったような夢の空間になりました。

「僕は世紀と世紀の変わり目に生まれた。父はゲントの時計と機械人形の職人。母は人形たちの衣装を縫う職人のところで働いていた…
 暮らしは貧しい方だったが、何とか食うことはできた。僕は小学校を卒業すると、すぐに父親の工房を手伝った。鳩時計や人形時計などの仕掛けは大層面白く、僕は父の跡を次いで立派な時計職人になる決心をした。
 そんなある夜、職人通りでは見かけないような立派な馬車が家の前に止まった。細工物というのは確かに金持ちのものなんだが、間に商人たちや秘書執事が仲介に入るのがほとんどで、僕らが完成品をいろいろと持って屋敷に伺うことはあっても、貴族のほうからこんなむさくるしいところを訪ねることはまずないものだ。
 二階から見えた客は、フロック・コートにシルクハット、ステッキに片眼鏡という明らかに地位も名誉もある男だった。そんな男が、こともあろうに自分で馬車を御し、自分で重たそうな鞄を抱えているなんて、考えられないことだった。 父とその男は二人きりで明け方まで話し込んでいた。母は屋根裏部屋へ上がってきて僕を抱きしめながら声を押し殺し、涙を流して泣いていた。
 町並みに朝日が差し、教会の早鐘が鳴ると、男は馬に厳しく鞭を当て、慌てて帰っていった。
 その日からだ。僕たち一家の暮らし向きが急によくなったのは。
 一家は職人街から山手の一軒家に引っ越し、食べるものも着るものも高価なものを買えるようになった。僕は寄宿制の中学に編入し、そこで紳士にふさわしい教養や語学を学んだ。
  たまに家に帰っても、父は客に見せる表向きの工房とは別に作った秘密の作業場にこもり切りで、話も余りしなかったことはもちろん、ろくに顔さえ見なかった。
 母も相変わらず人形の衣装作りに余念がない様子だったが、昔は気さくに見せてくれた衣装も、全く見せてくれることはなかった。
 その頃だ。ゲント公とブルージュ公が人形を巡って莫大な額の賭けをし、どちらも密かに優れた人形を造らせている…という噂が立ったのは。
 貴方もご存じの通り、欧羅巴にはマリオネット(操り人形)ギニョール(指人形)、自動人形など、きら星のような人形芸術がある。
それぞれ贔気の職人を抱える、金と暇を持て余した貴族が、酒の勢いでそれぞれ自分の人形師の自慢から、人形勝負をすることになっても不思議じゃあない。
 そして僕の両親は、他でもない、ゲント公に白羽の矢を立てられた、という訳だ。
 勝てば大変な名誉で、父の名は格段に上がり、ギルドの長の地位さえ夢ではない。しかし反対に負ければ、ゲント公の顔を潰したことになり、とても町には留まれないだろう。
 いや、それどころか、責任感が人一倍強い父は、それ以上の責任の取り方をするかも知れない…
両親が息子の僕にも絶対に秘密で造っている人形を一目、覗いて見たくなった。賭け相手のブリュージュ公専属の人形師の腕前がどのようなものかまるで知る由もなかったが、それでも勝敗の行方は想像がつくだろうという確信はあった。
そのことを父に打ち明けると、父はすげなく「だめだ」と言った。その言葉の裏には、『おまえのような徒弟が見ても、今さらどうにもならん』という気持ちのあることがありありと汲み取れた。
 期日を前に焦燥と挫折の予感の色濃く、食事もろくに喉を通らないありさまなのに、だ。
僕は仕方なく、学校に戻るふりをして、ゲント市内に工房を借り、人形を造ることにした。借家料や材料費、生活費は学校へ納めるはずの一年間の授業料を使った。
『このままでは父は負け、町にいられなくなる…』
 僕は父に習った技術を生かし、不眠不休で自動人形を造った。経験や蘊蓄ではまだまだ父に遠く及ばなかったが、アイデアや新しく発見発明された科学知識を利用することが、それを補って余りある自信があった。
 ただ、衣装だけは間に合わなかったので、既製のものを買って着せた。
 それから数日後のある晩、こっそり実家を見張らせていた小僧から報告が来た。
 白い布で巻かれた人間ぐらいの大きさの荷物が、真夜中に父に付き添われて運び出され、ゲント公の屋敷に入った、というものだった。
僕も慌てて僕の人形を辻馬車に積み込み、ゲント公の屋敷に赴いた。
 まるで宮殿のような延々と続くロココ模様の鉄格子の通りに着いた時、壮麗な屋形の母家の方から一発の銃声が鳴り響いた。
 門番が止めようとするのを振り切って、大きな噴水のある中庭に入った僕は、そこで見事な舞踏会用のドレスを着た、社交界にデビューしたばかりの空色の瞳をした清楚な少女とすれ違った
「まったくお気の毒…」
 僕は立ち止まり、思わず少女の方を振り返って見た。
 少女の白磁の肌は少し紅潮し、声も少し震えていた。
「…他でもない、公のお屋敷で御自害あそばされるとは」
 少女は長い睫の瞼を閉じて言った。
 僕がなおも玄関に向けて駆け出すと、開け放たれた年代物の扉から、新聞でよく見る正装のゲント公が頭を掻きむしり、口からは涎を垂らしながら出てきた。その眼は素人目にもすでに完璧に正気を失っており、その口からは訳の分からない言葉や叫びが漏れていた。
 大勢の召使たちが主を押し留めようとしているのを幸いに、赤い絨緞を敷き詰めた半月階段を上に上がると、ドアが半開きになっていた公の書斎と思われる部屋から、硝煙の臭いが漂ってきているのに気付いた。
 恐る恐る中に入ると、波斯緞通の中央に、拳銃を手にした父がうつぶせに倒れていた。
書き物机にはブリュージュ公が窓を背にして座り、メイドに珈琲を淹れてもらっていた。
『何という神経だ!』
 そう思った次の瞬間、僕は愕然とした。
ブリュージュ公に珈琲を注いでいるのは人形だった。それもこれまでの父の作品のよいところを全て集めた傑作だった。
 ぎこちないとは言え、目や顔の豊かな表情、それに四肢は非常に滑らかに動き、一見本物のメイドと見間違うばかりの素晴らしい出来だった。
「父は最新の技術に疎い」と思っていた僕の心配は全くの杞憂だったのだ。
『だが、その父を自害に追い込み、ゲント公を破産させたブリュージュ公の人形は一体どこにあるのだろう?』
 辺りを見渡しても尖った顎に鬚を生やしたブリュージュ公その人の他に人の影はない。
  どうかしていたと言えばどうかしていたのだろう。僕は父の遺体に駆け寄ることもなく広い豪華な部屋の中にいるはずの、もう一つの人形を捜した。
「余の人形ならば、もうこの部屋にはいないぞ」
 ブリュージュ公は珈琲を一口すすると、上目使いに空間をさまよう僕の視線を射止めた。
「ではどこに?」
「庭だ。ここにやって来る時に会わなかったかね?」
「人形には会いませんでした」
「空色の瞳の少女には会わなかったかね」
  公は父の造った人形の淹れた珈琲は二口と飲まなかった。
「会いました」
答えつつ僕はハッとした。
『まさか! …まさか! まさか! まさか!』
「あれが余の作品、アロアなのだが」
全身から冷や汗と脂汗の混じったものがドッと吹き出す。
「身分の下の者がこんなことを申し上げるのは何ですが、からかうのはやめて下さい、ブリュージュ公」
「何もからかってなどおらぬ」
 公はそう言うと、仏蘭西窓を開いて、噴水に腰掛けて涼んでいるアロアを手招きして呼び戻した。
「アロア、帰っておいで」
 銀色の髪の毛をなびかせ、満面の笑顔をたたえながら雌鹿のように走るアロアが人形だとは、とても信じられなかった。ただ一つの個性は、一人の男を死に追いやり、もう一人から心の安らぎを完璧に奪ってもまるで動揺していない冷酷さだった。
 書斎に戻ってきた彼女は、父の遺体には一瞥もくれることなく、その不思議なほどに澄んだ空色の瞳で僕の方をまっすぐに見た。
「どうか致しまして、お父様?」
「こちらのお若い方がおまえを人間だとおっしゃっているんだよ。すまないがもう一度やって見せてくれないか」
「お安い御用ですわ、お父さま」
 アロアは顔色一つ変えずに、ゆっくりと着ているものを脱ぎ出した。
 最初に絹の舞踏会用のドレス、次に裾がフレアになった絹のペチコート、絹のコルセット…
 ブラジャーを取ると桜色の乳首があり、ショーツを脱ぐと陰りもあった。
『担がれているんだ。彼女は人間の、よく訓練された俳優にすぎない…』
 そう思いつつも僕の鼓動は高鳴り、心臓は今にも口から飛び出しそうだった。「お若いの、君が見たいのは、さらにまだこの下だろう?」
 ブリュージュ公が目配せすると、小さな胸と胸の谷間に白魚のような指を差し込んだアロアは、その皮膚を一気に開きめくった。
 その下には、僕も、おそらく父も、一度も見たことのない精巧な歯車やワイヤー、銅線で接続された機械がびっしりと隙間なく詰まっていた。
 飛行機、戦車をはじめとする最新兵器の心臓部でもこれほどまでに複雑ではないだろう。
 アロアはギルドの親方衆が腕によりをかけて作る自動人形の水準を遥かに越えていた。
 僕の全身は化け物に会いでもしたかのようにガタガタと震え、一歩も動くことが出来なかった。
「もういいかね? アロアの秘密を君のような有望な若手に余り見せる訳には行かないのでね」
 公がもう一度目配せすると、彼女はめくった白磁の如き皮膚を元に戻した。ネジでも磁石でも、針と糸でもない、不思議な方法で接着されている皮膚は、閉じ合わされると、まるで普通の人間の身体に戻った。
「もう服を着せてもいいかね。こう見えても随分恥ずかしがり屋でね」
「魔法だ…」
 僕は目をつむり、父が倒れている近くのソファーに座り込んだ。
『魔法』という言葉を聞いて、ブリュージュ公の眉がほんの僅かだがピクリと吊り上がった。
「…こんな凄い人形は、魔法で作ったとしか思えない。アロアは貴方が? 他に職人の手は借りていない? 予算は?」
 硬直を始めた父の死体を間近にして、現実に引き戻された。
 公はかすかに頷く。
「そうだな、お前さんの言うことは正しいかも知れんな。とても金には直せないのだが、敢えて計算すると、アロアには一千万フラン以上の金が掛かっている。アロアを主人公に映画を作るくらいなら、まだバーグマンを雇ったほうが安いだろうし、同じ額の金があればグルカ人の傭兵を雇って小さな国相手に戦争の一つや二つは始められるだろうな」
 公はアロアの手を取ると、ゆっくりと部屋を出て行こうとして、ドアのところで立ち止まり振り返って言った。
「復讐戦ならいつでも受けて立つぞ。アロア以上の作品が出来たら、遠慮なくブリュージュの我が屋敷を訪ねて来るがいい」

 父の葬儀はその地位からすると大変みすぼらしかった。ゲントには知り合いが少なく、顰蹙ものの「人形勝負」で派手に敗れた、それも相手が同じ名だたる職人ならばともかく、貴族…すなわち全くの素人に敗れたとなったら、仲間うちでの罪は軽くはなかった。
 大後援者だったゲント公は入院して面会謝絶。跡とりはいるにはいたが、資産よりも借金の方が上回っていたので、相続を放棄してコンゴに渡ってしまった。
 気落ちした母もそれから一年もしないうちに亡くなり、僕は珈琲を淹れるメイドの人形と二人きりの生活になった。
 素材、滑らかな動き、豊かな表情…
 瞼に焼きついたアロアの生き生きとした姿は、絶望の上にも絶望させるだけだった。
『あんなにまで完璧なものを一体どのようにして?』
 ブリュージュ公がどのようにして学び、どのように実践したのかばかりが気に掛かって、自分で理論を一から組み立てる作業など、とても手につかなかった。
 時間は刻一刻と過ぎる。父が使い残した研究費は底を着く。かと言っていまさら他の時計、自動人形職人のところへ弟子入りする気になどとてもなれない…
 窓を打つ冬の雨、灰色の空を突くいくつもの教会の高い塔を眺め、石畳の通りを行き交う色とりどりの傘の花を見下ろしているあっという間に半年の月日が流れた。
 不思議なことにそうしている間に、人形勝負のことは別にして、どうしてもアロアにもう一度会いたくなった。彼女に会って秘密の一端を聞き出そうなどという狭い了見ではなく、それから会ったどの人間の少女よりも彼女が素晴らしかったからだ。
 堂々と訪ね会うためには、彼女に匹敵するぐらいの人形を完成させるしかない。
 その情熱が僕を工房に戻させた。上の学校に進んでいた関係で職人としての経験は微々としたものだったが、自分の才能には自信があった。
 嘘か真かはともかく、オックスフォードで法律を学び、貴族として退屈極まりない各種の公式行事に出席し、先の大戦では将軍としてヴェルダンへ出陣した公に、そんなに時間があるとはとても思えなかった。
 反対に公にあって僕にないもの、それは金だった。
 僕はとりあえず女の子向けの可愛い抱き人形を作ることにして、銀行から金を借りた。「従来からの壊れやすい陶器や、燃えやすく変形しやすいセルロイドの顔身体を止めて、最近アメリカで発明された石油樹脂を使う」と提案し、試作品を提出すると、ストップ・ロス・オーダー即ち経営上の損が出た瞬間に融資は打ち切る、という条件で工場も貸し、問屋も世話してくれた。
 幸いこの人形は好評で、巧妙でより安いアメリカ製のコピー品が出回るまで、ベルギーはもとより仏蘭西、オランダ、ルクセンブルグ公国、スイス、オーストリアの子供たちを中心に盛んに売れて利益をもたらせてくれた。
 僕は会社の経営を人手に任せて、自分は研究所と称してブリュージュに今まで以上に立派な工房を借り、念願のアロア型の人形作りに打ち込むことにした。
 それが、この店だ。
 だがいざ工房を構え、最高級の材料を揃え、最新の参考書を取り寄せても、何一つ手に着かない。一旦最高のものを見てしまうと、それ以下のものを造る愚かさは分かり過ぎるほど分かっていた。
 気が付くと、不労所得で入ってくる少なくない金で、酒場に通い、酒に酔い、女を抱いていた。
 ゲントと違ってここブリュージュには歓楽と退廃があった。巴里の「ムーラン・ルージュ」を真似た、表に赤い風車を飾った店もあり、賭場も、阿片窟さえあったのだ。
 ある晩、ぐでんぐでんに酔っぱらい、飲み友達にも見捨てられた僕は、本人の意思とは別にブリュージュ公の屋敷の前に立っていた。
もし素面なら『哀れみを乞うている』と思われるようなことは絶対にしなかっただろう。
ブリュージュ公にはともかく、アロアには絶対に白旗を掲げたと嘲笑われたくなかった。
細い月の光とガス灯にかすかに浮かぶ、ゲント公のそれよりも一回り大きく壮麗な屋敷のバルコニーには、今にも一人のローブをまとった華奢な人影が立つところだった。
 それはアロア。最初に会った時から二年余りの歳月が流れていたが、容貌も容姿も全く変わっていなかった。
 僕は泥棒のように塀を乗り越えた。吠え寄る犬たちをアロアが制する。
「事業の成功おめでとう、アウグスト」
 アロアは眉一つ動かさずに、冷たく言い放った。
「成功だなんて、ぼくは…」
 中庭から見上げるアロアは部屋のシャンデリアの明かりを背にして女神のように美しかった。
「父のブリュージュ公は『あの若い男はあんなことをやりたかったのか』と失望していたわ」
「違う! あれは資金を集めるためにやったことだ」
「では、作品のめどはついているのね」
 アロアが目を細めた。
 僕は思わず反射的に答えてしまった。
「もちろん。…ただ、もう少し最後の仕上げをやりたいんだ」
「それを聞いて安心したわ。実は父の手の者から、貴方が毎晩怪しげな酒場を飲み歩いていることを聞いて、私もガッカリしかけていたところだったのよ」
 アロアのガウンが夜風になびき、白く細い踝があらわになった。
「紅茶を淹れる人形じゃないよ」
 僕は片目をつむって見せる。
「その人形は男? それとも女?」
「男だ。…凄くハンサムで洗練された」
 少し迷った末に答えた。
「じゃあケーキを作る人形でもなさそうね。
…どうぞ、入っていらして。父は旅行中だし、使用人は別の棟で休んでいるわ」「しかし…」
「今からでも間に合うのなら、ぜひ恋人が欲しいわ。父に頼んでいるのだけれど、どうしても造ってはくれない… その気持ちも分からないではないのだけれど」

『自動人形』アロアの寝室に招いてもらった僕は、天蓋のある寝台や、鏡台、衣装箪笥、その上に置かれた縫いぐるみを物珍しそうに眺めた。趣味も、いわゆる無駄のあるところも人間の若い女性と変わりがない。それともこれらの品はブリュージュ公が、教育や行儀と同じように教え、揃えたものだろうか。
「きみは社交界にデビューはしないのかい?人間としてでも、自動人形としてでも、十分に美しいし華やかだと思うのだけれど」
「それは本気でおっしゃってて?」
 アロアは目を伏せて溜め息を着いた。
「…もしも人間と偽ってパーティに出かければ、私に恋をする人が出てきた時に困ってしまうわ」
「恋」という言葉に、僕はギクリとした。
「…もしも正直に人形と名乗って人前に出ても、『是非とも譲ってくれ』と言われた時の断りが大変だわ。欧羅巴やアメリカには父より名誉もあれば資産もある人が大勢いらっしゃるんですもの」
 なめらかな会話、うっすらと湿った唇。アロアはどこから見ても正真正銘の人間だった。
僕は遂に、彼女が本物の人間の女性で、あの日ゲント公の書斎で見せてくれた機械の内臓は手品か何かのトリックでは、という疑いを抱いた。もしそうだとすると、父は詐欺によって死に追いやられたことになり、ゲント公は資産と精神の均衡を失ったことになる…
 僕は鏡台の上にあった小さな薄い剃刀を見て思った。
『これは飾りか? それとも本当に彼女が使うものか?
ほんのちょっとでいいんだ。彼女に切り付けて見れば、全ての真実が明らかになる…』
「…でも、もしもあなたと一緒になら逃げても構わないわ」
 晴天の霹靂だった。
「条件は、私と同じ精巧な青年の人形を完成させること。…もうほとんど出来ているのなら、それで結構よ」
 僕の心に邪悪な心が芽吹いた。
『アロアに協力して貰って、彼女の全ての部品をバラバラにして臘で型に取り、それを図面にして一.一倍にした男性の人形を作る。それを彼女に「約束の人形」として与え、同時にブリュージュ公への対決用の人形とする…
 公は一週間ぐらい旅から戻ってこない。それぐらいの間だったら使用人たちも金で目をつむらせることが出来る…』
「どうなの? あなたの人形はあとどれぐらいで完成するの?」
「アロア、貴方の協力があれば、一ヶ月ぐらいで完成に漕ぎ着けられると思う。もし気に入ったら、その彼…名前はまだないんだけれど…と一緒にどこへでも行って好きなことをすればいい」
 僕の言葉にアロアは瞳を潤ませながら微笑んだ。
 アロアは使用人に宛てて四,五日留守にする旨の手紙を書き、少なくない金額の金を添えて机の上に置いた。
「人形とも人間ともつかず、今の姿のままさっぱり成長しない、年頃になっているにも関わらずさっぱり外出させてもらえない自分を使用人たちも不思議がり気の毒がっているので、必ず黙っていてくれる」
というのがアロアの弁だった。
 僕たちは夜が明ける前に、闇に紛れて公の屋敷を出発し、工房へと逃れた。
 そこの設備と仕入れられた材料を見て、アロアは僕のやる気を信用した。
 彼女はしらじらと明けるカーテン越しの朝日の中で、再び裸になり、中身を見せてくれ、全てを停止させるボタンも教えてくれた。
『やはりトリックなどではなかったのだ』
ほんの少しでも疑ったことを恥ずかしく思いつつ、念入りの上にも念入りに全体を注意深く観察した。
 アロアは間違いなく、妊娠と出産以外はほとんどのことが出来る素晴らしい自動人形だった。
「本当に、いいのかい?」
 僕がそれらぎっしりと詰まった機械類から顔を上げ、アロアの空色の目を見て尋ねると彼女はこっくりと頷いた。
 小刻みに震える指でボタンを押すと、彼女はまるでその瞬間に身体から魂が抜けでもしたかのようにグッタリと、命のない金属と樹脂の固まりとなって僕の腕に倒れ込んだ。
 彼女を作業台の上に横たえ、もう一度そのまがまがしい灰色の鈍い輝きを覗き込んだ僕は、
『これをバラバラにして果たして再び元通り組立てられるだろうか?』
と真剣に考えた。もしも出来ないのなら、今すぐもう一度ボタンを押してアロアを甦らせ、正直に全てを打ち明けるべきだった。
『大丈夫、だろう…』
 すでに用意してあった三万まで数字を振ったいくつもの木製の部品箱。それと同じ数の臘の入ったホウロウの型取り皿を確認して、僕は自分にそう言い聞かせた。
 大小いくつものネジ回しとペンチを手元に置いて、アロアの分解作業を開始した。
 僕は仕事が早い。子供用の人形を手掛けてからからはとくに早くなった。
 歯車を一つ外す度に溶かした臘で型を取り、外した順番に番号の付いた部品箱に置いた。
もちろんメモやスケッチも必要だ。
 僕は食事もろくにとらず、不眠不休で働いた。
 アロアは見れば見るほど完璧な人形だった。 頭に置かれた豆粒大、米粒大の無数の真空管やダイオードが外界の刺激を受け止め、別のそれらが発する信号によって、人間と全く変わらない思考や動作を実現していた。
 駆動系統は型取りで復元できそうだったが、このいくつもの特別製の真空管はそうは行かなかった…
『これではせっかく型を取っても、同じものは作れない… 僕は父とは違って学校で真空管ののことを習っているが、これほどまでに小さいものは初めて見る』 失望の余り、そこで作業を中断しようとも思ったが、乗り掛けた船と思って最後までやり遂げることにした。
 短期間でこれほどまでに縮小された真空管の模造品を造るのは、例えベル研究所でも不可能と思われた。
 二日目の晩、取り外した部品の番号は用意した三万を越えていた。それでもまだアロアの身体の中には半分以上の部品が残っていた。『だめだ。どこの誰が造ったものか知らないが、とてもじゃないが模造など出来ない…』
ネジ回しを投げだし、頭を抱えて床に座り込んだ。室内陸上競技大会が開けるほど広かった工房のリノリウムの床は、立垂の余地もないぐらい、一つとして同じ形のものはない三万の部品で覆い尽くされていた。
『時間の猶予はあと二日。組立て戻すのなら今が最後の機会だ。これ以上バラしてしまうと、組立てには三日四日とかかり、ブリュージュ公が旅から戻るまでにアロアを屋敷に帰すことが出来なくなる…』
 しかし残り半分もバラしてみたいという気持ちもなかなかに押さえ難い。機械を仕事や趣味にした人間だったら分かってもらえると思う。残り半分に決定的な部品や中心になるアイデアを含むものがあるのではないかという好奇心、例え自分の技術の未熟で元通り組み立てることはできない分かっていても最後まで分解してみたいという衝動は、作業を進めるにつれてますます大きくなり、最後には罰せられても、どうなってもいい、という気分になった。
 二日後、僕はアロアの最後のネジを外し終えた。部品の数六万余り、うち超小型真空管とダイオードが合わせて千足らず…
 期待にたがわない神がかり的芸術作品だった。
 それと同時に、あらかじめ雇ってあった探偵から「ブリュージュ公が巴里から一等列車で戻った」という知らせが入った。
 アロアがいないことを知った公が使用人を問い詰めてこちらへやってくるのは火を見るより明らかだった。しかし四日もかかって分解したものを一、二時間で組み立てることなど到底できない。
 使用人たちに迷惑をかけては悪い、と思った僕は、その探偵に「公を直接こちらにお連れするように」指示を与えた。
 果たして、小一時間後、怒りと不安の表情半々のブリュージュ公が工房の前で馬車から降りた。
「アロアを一体どこへやったのかね。…まさか君はアロアを分解して、そっくり同じものを造ろうなどと考える卑怯な若者ではないだろうね」
 公は勧めた椅子にも掛けることなく、立ったまま唇を震わせて言った。
「いいえブリュージュ公、僕は卑怯な男です」
 公の顔色がますます蒼ざめた。
「すると君はやはり…」
「アロアさんをバラバラにしました」
 ぼくは目を伏せて穏やかに告白した。
「…アロアさんは、この工房の全ての部屋、 数万の小さな部品に分かれて、散らばっています」
「君は何という愚かなことをしてくれたのだ!」
 公は罵り、手にした樫のステッキで思い切り僕の頬を打った。僕は床に倒れ、痛みの為に起き上がることが出来なかった。
「…あれをバラバラにするなど、正気の沙汰とは思えん」
 ブリュージュ公は工房の一番大きな部屋のドアを開けた。
 床一面に敷き詰められた、番号を振ったシートの上に、六万の部品に分かれたアロアが、さながら金属の海のように キラキラと輝いていた。
「何ということを… 何ということを… まさか本当にやったなんて! 冗談だと思っていた。冗談でわしを担ぐつもりだったのなら許したのに…」
 公は両手で頭を掻きむしり、よろよろと部屋の中に歩み出した。その様子が誰かに似ているな、と思ったら、人形勝負に敗れて資産のほとんどを失った際のゲント公がとった態度とそっくりだった。
「アロア、おまえも愚かだ。どうしてこんな大して才能もない若僧に完璧な身体を委ねたのだ?」
 部屋の中へと歩み出した公は、取り乱した勢いで、シートを踏みにじり、いくつかの部品をメキメキと踏み潰し、きれいに並べてあったそれらをごちゃごちゃにしてしまった。
「何をするんだ。そんなことをすれば貴方のアロアが二度と元通りにならないぞ」
 慌てて取り押さえようとして格闘になり、部品群はますます滅茶苦茶に散らばり、重なり、踏まれたものは形が変わってしまった。「ブリュージュ公、貴方はアロアの作者ではありませんね。もしも作者で、設計図や何かもキッチリとってあるのだったら、これほどまでにお怒りになるはずはない!」
「その通りだよ、アウグスト君。わしはアロアの作者じゃない。従って図面のたぐいも一切持ってはおらんのだ」
 それを聞いた僕はホッとした。やはりアロアは、父と同じように、職人の手になる作品だったのだ。
「ではどこで手に入れられたのですか?」
「ベルギーと仏蘭西の国境、アルデンヌの森に『機械城』という名の、時計塔のある小さな城を探検中に出会い、連れ帰ったのだ。年頃であるにも関わらず、全く成長しないのでよもや、と思ったが、やはり人形だったのだ。
 初めて出会った時、彼女は注意書きのようなものを持たされていた。それには「少しでも触ると、決して元には戻らぬ」と警告してあった。わしはそれをずっと守って…」
 後は声にはならなかった。
「それだったら、どうして暴れられたのですか。貴方にも僕にも、マイナスになるばかりではありませんか」
「言っただろう。二度と元に戻らぬのならば徹底的に戻らぬ方が良い。そのほうがわしの為でもあり、おまえの為でもある!」
 ブリュージュ公はさらに整然と整頓して置かれた部品の数々をひっかき回そうとした。
「止めて下さい! どうしてそんなことが言い切れるのですか」
僕は公を止めようとして揉み合いになった。
「以前バラしたことがあるのだ。わしの友人で機械城の当主アルデンヌ男爵が」 ブリュージュは真顔で言った。
「ねじ一本違わず、今おまえさんがやっているのと同じやり方で分解し、組み立てた。しかしアロアはそれ以前の、ちゃんと目的に沿って造られたアロアとは、全く別のアロアになってしまっていた。…心優しい、まるで本物の人間の娘のようなアロアになってしまっていたのだ」
 公の表情は次第に恐怖を帯び、何かを思い出して錯乱状態に陥った。
「『目的』とは何だ? アロアを造ったのはアルデンヌ男爵か?」
 その時、奇怪なことが起きた。さらに部品を踏み潰し、手と足を総動員してごちゃまぜにしようとしたブリュージュは、とある歯車に足を滑らせて転んだ。うつ伏せに倒れた先に、偶然先の尖った細いシリンダー状の筒がそれを立て掛ける部品とともに立っていたのだ。
「ギャーッ!」
 ブルージュは化け物じみた悲鳴を上げてのた打ち回った。彼の目にその筒が突き刺さり、後頭部に突き抜けていた。

 気が付くと、警察が大挙してやってきていた。
 僕は相当の重罪を覚悟した。なにしろ街の名士、貴族の自慢の人形を勝手に持ち出し、それを咎められて口論となり、死亡させてしまったのだ。極刑でも文句は言えない。
 しかし警察での取り調べは親切を極めた。まるでブリュージュ公の方が長い間街じゅうの鼻つまみ者ででもあったかのように、ほとんどの人々の同情が僕へと集まった。公の使用人たちさえ僕を庇う証言をしてくれた。
 やがて、公の遠い親戚が北仏蘭西からやってきて新しいブリュージュ公を名乗ると、人の噂も何とやら、僕は過剰防衛による有罪で執行猶予付きの判決を受けて出所した。
 ただ判決に際して判事が奇妙なことを言った。
「余り忌むべきことに首を突っ込まずに、まっとうな職人として今後の人生を送るように」
 こうして僕はおよそ半年ぶりに事件のあった工房に戻った。アロアはあの時の分解された時のまま床のシート一面に並んでいた。争いがあって散らかされ、破損された箇所を除いて… その上にはうっすらと埃が積もり、中には錆が浮きかけている部品もあった。
「アロア、ずいぶん待たせたね。今すぐ組み立ててあげるよ」
 僕はそう呟きながら、最も大きな番号を振られた部品を手に取った。

 組立ては分解よりずっと手間取った。埃や錆は落とさなければならなかったし、争いで滅茶苦茶になった部品はメモを元に復元しなければならなかった。
 それでも十日ほどでアロアは元通りの美しい貌と容姿を取り戻し、僕は心からホッとした。
 後は再始動のボタンを押すだけだった。
 ブリュージュ公の言ったことは気にはなったが、僕は復活したアロアが以前と変わらない優しい声を掛けてくれるものと信じて疑わなかった…

 アロアは甦った。甦ったアロアはスクッと立ち上がり、まっすぐに僕の目を見た。
「アロア、ごめん。実はあれから長い時間がたったんだ」
 僕は事情を説明した。話がブリュージュ公の死の場面に差しかかっても、彼女は表情を変えなかった。
『やはり装置が複雑な余りに、感情を表現する部分がおかしくなってしまったのだろうか、公の脅しが現実のものになったのか?』
そう思って話を止めると、アロアは急にケラケラと下品に笑った。
「…そう、ブリュージュは死んだの。いい気味、ざまあみろ、だわ」
 分解する前のアロアは、人前で大きな口を開けて笑うこともなければ、どんなに自分に冷たく当った人間の悪口も言ったことがなかった。
「それで、アウグスト、約束の、私の男性の仲間は造ってくれたのでしょうね」「いや、それが… 実はいままで裁判に掛かっていて、自由がなかったんだよ」
 苦しい言い訳だった。例えどんなに時間があり余っていても、アロアの仲間など作れていなかっただろう。
「そう、じゃあ早くしてね」
 その口調からは以前の寂しさや哀願が消え、明らかにイライラした、命令するような響きが感じられた。
 アロアはすっかり変わってしまっていた。

 新しいブリュージュ公は、早々に先代の遺産の全てを相続放棄していた。先代にはその資産を上回る莫大な借財があることが判明したからだ。
 彼はアロアの存在を僕の裁判で初めて知ったけれど、その相続も放棄してしまった。
 引き取り手のなくなった「人形」アロアは簡単に僕のものになった。
 以前の僕なら、分解再組立てする前のアロアだったら、お互い跳び上がって大喜びしたことだろう。しかし、今はとてもそんな気にはなれなかった。
 分解と再組立ての間に起きたアクシデントとそれによる若干の部品の欠損のせいで、付き合えば付き合うほど、アロアは以前のアロアではなくなってしまっていたのだ。
 怒りっぽく、自分勝手で、すぐに人をなじり罵る最低の女になってしまっていた。
 とりわけ、僕が約束を守って男の人形を完成させないことについて、それは口汚く責めた。
「調子のいいことを言って私を裸に剥いたけれど、本当は、そんな人形の影も形もないのでしょう?
 望み通り私を分解して調べた後でも、どうやってつくったらいいかまるで分からない、貴方は才能がまるでない上に、大嘘つきの下司野郎よ!」
 何度再び「停止」のボタンを押したいと思ったことだろう。しかしアロアは二度と僕に身体を触らせなかった。
「貴方の魂胆は分かっているわ。私を木偶人形にしてゴミ捨て場に捨ててしまうつもりなんでしょう?」
「違うんだアロア、組立てに際してささいなミスがあったんだ。もう一度分解して組み立てれば、僕と君は他人が羨むぐらいに幸せな生活を送れるんだ」
 何度説得しようが駄目だった。顔が美しく容姿も変わらないままに性格だけがすっかり変わってしまった点がよけいに痛ましかった。
 僕の工房と心はすっかりすさみ、人形会社から届けられる「給料」はアロアによって湯水の如く浪費され、それでもまだ足りなくて借金を抱えた。そしてその額はまもなく故ブリュージュ公と肩を並べそうになった。
 金のほとんどはアロアの衣装や宝石に費やされた。それらの品物は店から届けられたきり、ついぞ箱が開けられることのないものも多数あった。明らかに僕への復讐だったのだ。
 拳銃でアロアを撃つことも何度も考えた。 人形のアロアを殺しても、罰せられるはずはない… 僕のせいとはいえ、変わり果てた アロアを見続けるのは哀れだった。
 けれども元はあれだけ完全だった人形を破壊してしまうのは、文化に対する罪のように思えた。不測の事態があったとはいえ、完全に復元できなかった僕の責任も小さくないように思われた。…それにしても、アロアが僕に暴力を振るってこなかったのは、それを防止する部品が組み込まれていたのだろうか?

 こうなったら最後の手段を取るしかなかった。ブリュージュ公の言っていた、アルデンヌの機械城…アロアの生まれ故郷を尋ねて図面なり、何なり、秘密を解き明かすのだ。
 意地悪になったアロアも夜は眠った。大きな雷鳴の如き鼾をかいて…
 僕はその隙に、わずかな旅費を持ち出してブリュージュ駅発の列車に飛び乗った。
『アロアを元の優しいアロアに戻せるのなら、どんなことでもする』
 汽笛とともに走り出した列車の堅い椅子にもたれた僕は、ただそれだけを考えていた。
 汽車は時々駅に止まりながら、北欧羅巴の、童話や人形劇に出てくるような、箱庭のような街並と、田園地帯を走り続けた。
 アルデンヌはベルギー国土の南部およそ半分を占める南側の丘陵地帯で、高原や渓谷、川の流れが美しく、春、夏、秋には観光や保養のために独逸やオランダあたりからも人がやってくる。だが、いま時分…濃い緑が殺伐とした灰色に取って変わられる冬には、よほどの物好きで無い限り観光客は来ない。
 その最も東側、オート・ファーニュと呼ばれる氷河時代に氷河の退行によって生まれた高地湿原は、赤紫色のヒースの花が咲き乱れる草原と、水苔が群生する泥炭沼の混じった緑の湿原が広がり、ところどころに潅木固まりの生えた原野だ。
 日暮れ前、南側にそのオート・ファーニュの殺風景な野原が現れ、おそらくここが最寄りの駅だろうと思われる、ポトランジュという名の鄙びた駅に降り立った。
 駅舎の裏には小さな畑があり、白い髭を生やした農民が、列車到着の時だけ駅長の制服を着て切符を売っていた。その昔ローマ帝国が造ったという馬車がかろうじて通れるほどの細い道は、魔法の世界への入口のような、黒々とした森へと続いている。
 森の中には古代から続く集落と、城があるとのことだった。
「機械城、という城はありますか」
 僕の問いに駅長の顔色からサッと血の気が引いた。
「壊れ掛けた中世の城や砦はいくつかありますが…」
 朴訥な田舎の人間。顔にはハッキリと「そんな恐ろしい所に何の用だ?」と書いてあった。
「機械城です。他の観光名所は別にどうでもいい」
「はて、そのうちのどれが貴方のおっしゃる城なのか…」
「最近亡くなったブリュージュ公をそこへ案内した人がいるはずだが」
 僕はなけなしの金貨を握らせようとしたが、駅長はそれを押し返してきた。
「それならば、村の連中に聞いて下さい。彼らなら、何か知っているかもしれない」
 僕は仕方なく、村の老人が副業でやっている年老いた馬の引くおんぼろ馬車に乗り込んだ。
 先の大戦で若い男性のほとんどが戦死した村は、陰欝を絵に描いたようにすたれていた。
 畑を耕している人も、道を行く人もほとんど見ることはなく、庭先も家も荒れるがままに任せてあり、手入れする元気のある者は誰もいないような感じだった。
「貴方は機械城という城を知らないか?」
 御者台の農夫は黙って首を横に振った。
「ブリュージュ公をそこへ案内した村人がいるはずだ」
 再びの「ノン」
「分かった。どっちみち今日中に行くことは無理のようだ。村に宿はないか?」
 そうやって着いたのは「人形亭」という名の食堂兼宿屋だった。観光シーズンにはそこそこ賑わうのだろう。さすがに村の中でも小ぎれいで明るい、窓の多い店だった。
 おかみは、でっぷりと太った中年の女で、寒風が吹きすさぶ中ふらりとやってきた僕を、うさん臭そうに見た。
「機械城を知らないか?」
 一週間分の宿泊代を前払いし、夕食を注文しながら小声で尋ねると、おかみはそれよりもっと小さな声で尋ね返した。
「あんた、人形師かい?」
「そうだ。その通りだ」
「御者にはよっぽど弾まなきゃあ」
「帰りの汽車賃を除いて、全部出してもいい」「あんた、それこそ取っておいても無駄になるかもしれない最たるものだよ」
「何だって? しかしブリュージュ公は…」
「あの人だって行きと帰りじゃあ、すっかり人が違っちまっていた。…でっけえ棺桶みたいなものを担いで帰ってきて…」
『アロアだ!』 僕は思った。『城にはアロアの仲間や製造の秘密が眠っているに違いない!』
 僕は財布ごとおかみに差し出した。

 その晩、僕は夢を見た。ジメジメとした湿原の中にポツンと建つ苔と蔦に覆われた灰色の城館…
 その広間や部屋、廊下の壁一面に建てかけられたまま眠るいくつもの命のない人形…
 その最も奥の部屋は、魔法使いの実験室さながらの、まがまがしい工房になっており、この屋形の主、機械公がせっせと組立ての最中だった。
 公がゆっくりと振り返る。その顔は剥き出しの歯車やゼンマイがひしめいている。作業台に寝かされているのはアロアだ。
「アロア!」
 声を掛けたところで目が覚めた。古ぼけた鳩時計はまだ真夜中を指していた。
 それからはまるで眠れなかった。宿のおかみが御者付きの馬車を呼んでくれると約束したのは、翌朝まだ陽が昇る前だったからだ。
 午前四時頃、コンコンとノックをする音が聞こえた。僕はとっくの昔に服を着て待っていた。
 ドアを開けると、ジプシーの黒い衣装に黒いスカーフで顔をすっぽりと隠したおかみが燭台を手にヌッと立っていた。
 彼女は何も言わずに、弛んだ顎をしゃくって、付いて来いと促した。
 宿の裏口には黒い馬の牽くボロボロの馬車が一台止まっていた。
「御者が見当らないが」
 ぼくがそう呟くと、おかみは驚くほど軽い身のこなしで御者台に乗った。
「あんたが案内してくれるのか」
 続いて荷台に腰を降ろすと、馬はまるで流行り病で死んだ死人を墓地まで運ぶかのような重い足取りで走り始めた。
「機械公は腕のいい技術者だというのに、どうして戦争の時はお国のために尽くさなかったんだろう? 仏蘭西人はタンクという給水車に偽装したとんでもない新兵器を発明したそうじゃないか」
「失礼だがこんな田舎で、研究がはかどるのだろうか。部品一つ調達するにしても大変だろうに」
 僕が何を話しかけても、おかみは何も答えなかった。御者台の先に吊した嫌な臭いのする獣油ランプのほの暗い明かりがチラチラと頼りなさそうに揺れる。
 やっとのことで、夜がしらじらと明けかけてくる頃になって、馬車はとある腐り淀んで瘴気を発している大きな沼の近くに止まった。
おかみは「とっとと降りてくれ」といいたげな身振りをした。
「しかし機械城は?」
 僕が尋ねると、おかみは面倒臭そうに乳のような朝靄に覆われたその沼の真ん中を、節くれだった指で指した。
 するとなるほど、沼の中央には島があり、その上にちょっとした貴族の屋敷が立っていた。
「でもどうやって渡ればいいんだ?」
 辺りを見渡す僕の耳にピシッという鞭の音が聞こえたかと思うと、ガラガラという今にも外れそうな轍の音を響かせて馬車は来た時の倍の速度で去って行った。
 沼のほとりにただ一人取り残された僕は、ゆっくりとその沼を一周してみた。 そこは、深い森の木立に囲まれていて、空気もあまり通わず、他の世界ではとうに太陽がさんさんと照っている頃になっても、霧と瘴気のせいで物の輪郭以外ほとんど何も見えはしなかった。
 木立にナイフに傷を付けつつ、ぐるりと回ってみても、島に渡るためのボートや桟橋はまるでなかった。
『ボートは一つで、それは島にあるのかも知れない。ブリュージュ公と機械公は貴族同士、友達か何かだったので入れてもらったのだ』
 心の中に絶望が広がった。城は招待者しか受け付けない。無理やり侵入するためには、沼を泳いで行く他はないが、試しに木の枝を折って沼の水に浸して見ると、シューッと白い煙を吐いて、数分で跡形もなくなった。
 仕方なく、歩いて出直そうと馬車の轍の跡を捜しても、十分踏みつけられたはずの下草も苔も急速に再生していて、帰り道もすっかり分からなくなってしまっていた。
「おーい!」
 僕はついにたまらなくなって、島に建つ城に向かって叫んだ。もうこうなったら相手がどんなに恐ろしい奴でも構わなかった。
「…誰かいないか?」
 何分か間を置いて叫び続けたが、誰も何も答えてはくれず、疲れ果て息も苦しくなった僕は大きな枯木の幹にもたれているうちに、うとうとと眠ってしまった。
 どれぐらい眠っただろうか、ギイーッ、ギイーッというきしんだ艪の音で目が覚めた。
 慌てて立ち上がり、沼の水面に目をやると、相変わらず霧の立ち込めたその上を、一つの人影が金属を張ってあるらしい鈍く反射するボートを操ってこちらに来るところだった。「こっちだ! こっちだ!」
 必死の手招きに応えて、そいつは僕の方にやってきた。近付くにつれて分かったのだけれど、そいつは、僕の父がブリュージュ公との対決の時に造った、幼拙な珈琲人形に似たギクシャクと動くだけの木偶だった。
ボートはこちらの岸に着いた。「船頭人形」はボーッとつっ立ったまま辺りを見回そうともせず、突っ立っていた。
『こいつはある一定の時間が過ぎれば、また元に戻ってしまうぞ』
 そう判断した僕は、案山子のみたいにダブダブの古着を来ている彼の元に歩み寄ると、軽く会釈して金属製のボートに乗り込んだ。
 顔はマネキン程度に大したことはなかったが、関節の動きなどは父のそれ程度にうまく造ってあった。
 船頭人形は僕が乗るのを待っていたように、滑らかに舟を出した。
 僕はできるだけ瘴気を吸い込まないよう、ハンケチで口元を押さえた。
 その瘴気に耐えられるように変異を遂げたまがまがしい水草と藻。それらの合間には、ポツリポツリと人形の形の残骸が、水死体のさながらに浮かんでいる。多分、機械城の城主がその出来映えに不満足で窓から投げ捨てたものだろう…
「城には誰かいるのか? 人間は? 人形は?」
 こちらもさっぱり返事がない。どうやらやはりアロアなどとは違って、会話は出来ない型らしい。
 そうこうするうちにボートは島の桟橋に着いた。霧にかすむ陸側。桟橋の板はほとんど腐って、水に濡れた紙のようにもろくなっている。それでも船頭の人形は「ここへ降りろ」と言ったジェスチャーをした。
 僕は仕方なくなるべく大丈夫そうな部分を選んで降り立ったが、案の定ズボッと踏み抜いてしまった。幸い水かさが低かったので、靴の裏と表面を溶かしただけで大事はなかったが、板の消滅している桟橋の真ん中をジャブジャブと歩いてついてくる船頭人形の方は、よく見ると腰から下が錆色に変色し、今にもバラバラに分解してしまいそうだった。
「ありがとう。帰りも案内してくれよ」
 ポケットの中から小銭を捜して手のひらの上に乗せてやると、彼はペコリと会釈して、崩れかけた船頭小屋の中に入って行った。
僕は苔と茸、菌類に覆われた中庭を踏みしめて、霧の中に佇む機械城へと進んだ。
 閉め切られた窓のいくつかは無残に割られており、引き裂かれたレースのカーテンがはらわたのようにはみ出している。
 以前は立派だっただろう重々しい玄関の扉も、開けっ放しになっていた。
 数回ベルの紐を引いても応答がない。どうやら人けはないようだ。
 僕は中へと入った。玄関のホールには誰も出迎えてはくれない。かと言って泥棒や賊に荒された跡はなく、埃の積もったマイセンの花瓶には茶色く枯れ果てた草花がそのままになっていた。
「人間でも人形でもいい、誰かいないのか?」
 叫びはがらんとした邸内に谺する。
 何かに蹴つまずきそうになったので見ると、それは人形の部品だった。テーブルの下や物入れを調べて見ると、手や足、顔や身体がいくつも放り出されていた。機械公爵は屋敷じゅうをところ構わず工房にしていた様子だった。
 二階三階の角部屋は、部品室であったり、食料倉庫であったりした。穀物室は大鼠の巣窟になっていた。それらの間に挟まれたまん中の部屋は、いずれも人形の居室になっていた。チェス人形は番面に向かったまま、ダンス人形は控えの椅子に座ったまま、動力が切れていた。これらの人形は皆、埃をかぶっているものの、壊れている箇所はないように見えた。
『誰か喋れそうな奴を捜して話てみたいものだ』
 そう思いつつ、さらに探検を続けるとある棟の大きな部屋から、瘴気でも機械油の臭いでもない、かすかな異臭が漂っているのを感じた。
 死の臭いだ。
 そこも扉が開けっ放しのままだったので入ると、大きな机や作業台がいくつも並んだ主工房で、その机の下にはボロボロの背広、白衣を着たバラバラの白骨が散らかっていた。
 どうやら、肉の方は鼠や蛆たちが片付けてしまったらしい。
 でも僕には見当がついた。この骸骨こそ、この城館の主で、ブリュージュ公の友人の機械公爵だ。機械公爵はブリュージュの裏切りに会って殺され、その生涯の最高傑作であるアロアを奪われたのだ。その他の口のきける人形たちもブリュージュによって破壊され、前の湖に沈められた。村人も公によって金で口止めされているに違いない…
 暖炉の中には膨大な書籍と図面の形を留めた灰がある… 灰はすっかり焼け朽ちていてまるで読むことができない。ただ、書籍、図面、日記のような灰の他、かなりの量の手紙の灰があるのに気が付いた。こんなところまで手紙を配達しなければならなかった係の者はさぞやご苦労なことだっただろう。
 三階は丸ごと劇場の舞台になっていて、客席も十列ぐらいはあった。楽屋もちゃんと付いている。
 僕はこの舞台に見覚えがあった。人形師、奇術師、軽技師、霊媒、その他「けれん」が売り物の者なら一度は憧れる「ブリュージュ闇の演芸館」の舞台をそっくり模して造ってあった。無論、本物のそれには、客席はもっと沢山あり、金はないがどうしても見たいという人々のために立ち見席もある。だが、出演者が舞台の雰囲気に場馴れするためにはこれで十分だっただろう。
『出演者?』 僕は首をひねった。『機械公の出し物なら、等身大の人形が演じる人形芝居に決まっている。彼は誰かの依頼を受けてアロア型の製作と、将来「闇の演芸館」での実演を行うために、これらの設備を建てて貰ったのだ。ところがそれは名目で、アロアが完成した途端、用済みとなった機械公は相手…おそらくはブリュージュ公に暗殺された…』
 僕は楽屋も覗いた。そこにはアロア型の人間そっくりの人形たちが破壊を免れて化粧台の前に座っていた。
 衣装から推察するに、出し物は「ジュリアス・シーザー」元老院の寛衣(トーガ)を羽織ったキャシアス、ブルータスらのローマ人ばかりだった。
『ジュリアス・シーザー? 何故シーザーなんだ?』
とその時、驚くべきことが起きた。
 キャシアス、ブルータスらの人形が、いきなり小道具の短刀をスラリと抜きながら、ムックリと起き上がり、血走った目でこちらを睨みつけながらジリジリと迫ってきたのだ。
 慌てて逃げようとしたところ、逃げ路にも奴等の仲間がいた。

『そうか、こいつらは暗殺人形で、アロアはその中で最も出来のいい一体だったのだ。どこかの国の王か貴族か外交官か、「闇の演芸館」を訪ねた時に暗殺するつもりだったのだ。
 だが依頼者、ブリュージュ公及びその影に隠れている連中は、アロアを見て気が変わった。
「暗殺には彼女一人で十分だ」と。
 そのためにアロアは素晴らしい性格をしていたのだ。「まさかあの娘が」というパターンを装うために。
 しかしアロアは僕が分解し、調子が狂ってしまった。ブリュージュ公は怒り狂い、そのせいで命を落とした。
 結果、暗殺を企んでいる首領は、手段を失い、別の方法を考えねばならなくなった…』
 謎が少しずつ解けていく。しかし、刺客は容赦なく迫る。
 僕は大道具の木片を取り上げて、奴等を片っ端から殴りつけたが、倒れもしなければ血の一滴すらこぼさなかった。
 彼等が鋭く振り回す短刀たちは、僕の身体を切り裂き、突き立った。
 血の海に沈み、遠のく意識の中で、僕は大鼠たちが壁の穴から虎視耽々と死骸を狙っているのを見た…

…どれぐらい眠っただろうか、奇妙な夢を見ていた。
 まるでミイラを造る時のようにズタズタにされた僕の身体から内臓という内臓が放り出され、代わりに樹脂が流し込まれて内側から型取りがなされた。それがすぐに固まると、いらなくなったボロ布のような皮膚は古い張り紙のようにぺりぺりとめくり落とされた。
 ガランドウの身体には、歯車やバネやネジや、それらの組み合わさったものが、どんどん格納された。それが余りにも手早くて淀みのない作業だったので、自分の身体がいじくりまわされているにもかかわらず、何だか愉快にすらなってきた。
『死とは永遠の夢なのだろうか。それにしても奇妙な夢だな』
 僕はこうなる前には、特に持病も不自由なところもなかったが、もしそういうものがあったならば、爽快感やホッとする気持ちも生まれていたかも知れない。
 やがて幾万もの小さな部品がガランドウの身体を満たすと、作業をしていた一対の、白い手袋をはめた手は胸板をカチッと嵌め込み、身体から離れた…
 その瞬間、僕は目覚めた。朝、目覚まし時計の力を借りずに目覚めた時のような、自然な気分だった。
 僕は全裸だった。人形たちに襲われた時に着ていたものは、影も形もなかった。辺りを見回すと、機械城の一室らしかった。
 胸の周辺、あたふたと、おっかなびっくりで「継ぎ目」を捜したけれども、そんなものはどこにも見当らない…
 関節の滑らかな動き、光のまぶしさ、記憶… どれも襲われる以前の僕と変わりがない。
『あれは夢だったのだろうか』
 誰もが思うことを僕も思った。
 とりあえず、押し入れの中から黴臭くなった衣装を捜して着た。
 館を去る前に、もう一度機械公の死体に目をやった。自分の死が夢ではなく現実で、どこも変わっていないと思う身体がこっそり中身をすり替えられているとしたら、それをやったのは彼しかいない。とすると、この骸骨はまやかしで本人は生きていて、この屋敷に隠れているのだ。
 一度死ぬのも二度死ぬのも同じだから、もっと探索を続けても良かったのだけれど、その時にはいったん引き上げる気分になっていた。どっちにしても、帰って科学の最先端、レントゲン写真を写せば分かることだ。
 船頭人形の操るボートで陸に戻った。不思議なことに宿のおかみに見捨てられた時よりも勘が働いた。
『だいたいこの小道ではないか?』という道を歩いていると、案の定道はだんだん太くなって終いには街道へと出た。しかもまるで疲れない。さらに気分は高揚して、
『やはりもう一度あの屋館に引き返してやろうか』
という考えまで湧き上がってくるぐらいだった。
 かなりの道のりだったのに、アッという間に村に着いた。
 僕はあのおかみに一言挨拶して帰ろうと思い、宿の戸をドンドンと叩いたが、中から閂が降ろされているのか、押しても戸は開かずシーンと静まり返っていた。
 来た時もそうだったが、村人たちがいる気配はするのに誰も大っぴらに姿を現さない。『まるで中世の御伽話に出てくる、周りを化け物たちに囲まれた村みたいじゃないか』
 少し腹を立てた僕は、最後に扉をガーンと強く叩いた。>
 すると、何ということだろう、堅い樫の木の扉は拳の形にへこみ、ヒビが走り、木片が飛び散った。
 誓って言うが、僕はそれまで格闘術など一度も習ったことはなかったのに、だ。
 僕はもう誰にも何も聞かずにブリュージュへと夜通し歩いて戻った。
 身体はいくら歩いても疲れず、空腹にもならず、喉も渇かなかった。さらには、眠くもならなかった。

『機械だ。やはり機械の身体になってしまっているんだ』

 レントゲン写真を写して見るまでもなく、身体からこんこんと湧き上がってくる力が以前とはまるで違っていた。
 夜半頃、ブリュージュの工房に帰り着いた僕は、まっすぐに二階の寝室に上がった。
 そこ寝台にはアロアが鼾をかきながら眠っていた。
 僕はまっすぐアロアに近付くと、彼女が目を覚ましてヒステリックに叫ぶ前に寝間着を引き裂き、目にも止まらない速さで胸の蓋を開くと、「停止」のボタンを押した。
 途端にアロアは木偶になって床の上にバッタリと倒れた。僕の以前の組立て方が不十分だったのか、それとも性格が歪んだ分、部品が勝手に崩れ去ったていたのか、とにかくしっかり止めてあったいくつかの歯車がバラバラとそこからこぼれた。
 アロアを作業台の上に乗せると、休む間もなく再びの分解を開始した。以前と違うのは自信があったことだ。あれから本を読んだり自分で勉強をするなどまるでしなかったのに、どの歯車がどんな意味を持ち、何を受け持っているかが克明に理解できた。
 まるで魔法で頭をよくしてもらったか、秀才になれる部品を取りつけてもらったと言った気分だった。
 手の先も、ミシン針さながらに素早く動く。目はどんな小さな部品も見逃さない。分解しているうちに大きな組立てミスや、足りないものを十箇所以上は発見した。アロアが元の優しいアロアでなくなった原因を…
 それらの原因を全て究明し、足りない部品は全部自分で作って、今度こそちゃんと組立てを終えた。ついでに自分で図面を引き、約束の男の人形を作ってみようと思う余力さえ残していたが、とりあえずアロアを再び動かして見ることにした。…自信は確信に近いぐらいあったけれど、それでも万一の時に困る…
 もうボタンを押す手は震えもせず、緊張もしなかった。僕は電灯やラジオをつける気軽さでボタンを押した。
「アウグストは? アウグストはどこ?」
 それが二度目に目を覚ましたアロアの最初の言葉だった。
 正直驚いた。彼女は目の前にいる者のことが分からないのだろうか? あんなに完全に組み立て直した、と言うのに…
 いや待て、完全に組み立て直すことによって、彼女はより完全な眼を手に入れたのでは?
「アウグストは約束を守ってくれたのね」
 そう言って彼女は僕に抱きついた。
「アウグストはどこにいるの。お礼を言いたいわ。ごめんなさい。…私、どこか具合が悪くて、親切にしてくれるあの人にさんざん八つ当りしたような気がするの…」
 それを聞いて愕然とした。
 どうやら僕はやはり完全に機械の僕になってしまったいるようだった。見かけはどんなに人間にそっくりでも、だ。
 少なくとも、彼女には分かるのだ。
「アウグストはどこかへ行ってしまったよ。多分、君との約束を果たすのがひどく遅れたので、申し訳なくて合わせる顔がなかったんだろう」
「私、あの人にはとても感謝しているわ。お陰で、人間のように、とてもいい夢を見ることができて…」
 アロアは瞳を潤ませて言った。
 それから後のことは詳しく言わないでおこう。わざわざレントゲン写真を写してみる必要もなかった。僕はすっかり機械の身体になってしまっていた。でも僕は嘆かなかった。『これでようやくアロアと対等の立場になれたのだ』と思うと、人間で無くなった悲しみなど些細なことに思われた。
 僕とアロアは人間の服を来て、人間の料理を食べ、劇や映画を観、郊外に出かけた。
「全て」が人間の若いカップルと同じだったのだ。

 二人の甘く幸せな生活が破られたのは、ブリュージュの街に「機械一座」の芝居がやってきてからだった。
 街角という街角にポスターが貼られ、アルルカンの格好をした呼び込みが立ち見席の割引券を配って回った。

「等身の人形たちが演じる芝居の数々。
 当都初御目見え!
 X月X日より『闇の演芸館』にて」

 僕は突如アルデンヌの深い森の中で見た、機械公爵の城館にしつらえてあった「闇の演芸館」のセットのことを思い出した。
『奴等がとうとう動き出したんだ。僕もアロアも絶対にこの公演を見に行ってはならないぞ! 誰が誰に対して陰謀を仕掛けたがっているのか知らないが、そんなものに巻き込まれてたまるものか!』
 そう決心したが、案の定アロアは行きたがった。
「あなた、つれて行ってちょうだい! 木戸銭は高くないし、ご近所でも評判の見せ物らしいわよ」
「あんなもの、どうせつまらないのに決まっているよ。僕らと違って、まるで表情のない、ガクガクとぎこちなく動く操り人形さ」
 その頃、僕は会社から新しく売り出す、三〜四歳の子供の人形の製作に携わっていて、多忙を極めていた。「行方不明の」「人間の」アウグストに代わって、その仕事を引き継いでいたのだ。
 人間そっくりの人形を造ろうと思えば作れるが、それでは世界は大混乱に陥り、収拾がつかなくなってしまう。 …つまり、いかに完璧な人形を造るか、ではなく、いかに人形らしい人形を造るか、ということに悩んでいたのだ。
「見てきた人の話では、私たちと同じで、人間と変わらないように見えた、ということだったわ」
「そうか、それじゃあきっと人間が演じているのだろう」
 僕は仕事の手を休めずに言った。
「そこをうまく見せているのよ。ある人形は腹の部分をわざとガランドウにして、それを観客に見せながら演じるし、また別の人形は本物の壁の下敷きになってペシャンコになりながらも演技を続けるの」
 アロアははしゃいでていた。再び修理をしてからは明るい少女に戻っていたが、それでもこんなに楽しそうな彼女を見るのは久しぶりだった。
 試作品の評判は上々で、販売や広告の方法を巡って連夜の会議が続いた。当然、アロアと一緒にいる時間は減り、彼女もふと寂しそうな表情を見せることが多くなった。
『アロアが僕のいない間に「闇の演芸館」に行ってしまったらどうしよう?』
 そんな不安がふと頭の中を横切った。
 しかし人を雇ってアロアの監視をさせるようなことはしたくはなかった。…そう、したくなかったのだ。
『一度ぐらいはいいだろう。あんな低級な娯楽、王候貴族は誰も見にいくものか』
 そこで、仕事がようやく一段落し、二三日後からまた忙しくなりそうだったある日、僕はアロアに言った。
「きみが以前から見たがっていた人形劇を観に行こうじゃないか」
 アロアが跳び上がらんばかりに喜んだのは言うまでもない。早速一番いい観劇用のドレスを試着して、僕の前で一回転してくれた。
 僕もフロック・コートに帽子をかぶり、「玩具会社の社長」として、彼女の腕を組み馬車を呼んで家を出た。
「闇の演芸館」はよくベルリンやボリショイ・サーカス団が天幕を張る遊園地の一角にあり、ウィーンのそれに負けないぐらいの大観覧車や、回転木馬があった。
 人形芝居は連日満員札止めで、切符を手に入れるのは大変だったが、僕は会社を通じて何枚か買ってあり、予め信頼のおける部下たちに見に行かせてもあった。
「素晴らしいですよ、社長!」
 部下たちは口を揃えて誉めちぎった。
「…僭越ですが、あれだけはいくら天才の社長でもご覧になっておかれるべきだと思います」
 盛装した僕とアロアは、舞台やオーケストラ・ボックスに近い特等スイート席に陣取った。開幕の時間が迫るにつれて、新聞や雑誌のグラビアで見たことのある貴族や社交界の人々、金持ち、芸能人のカップルたちが席を埋め尽くし始めた。
 首から盆をかけたタバコ売りの娘が笑顔で通路を巡回してくる。人間そっくりのそれは、金やタバコの銘柄の識別もできれば、お釣りの計算もできる人形だった。
 オーケストラの楽団が入場してきて、ボックスに落ち着いた。一礼ののち音合わせを始めた彼らもまた全て人形だった。
「聞きしに勝る精巧さですな。わしは初めてだが、芝居も大いに期待してしまいますな」「私は今夜で三度目だが、こんな素晴らしい人形芝居はどの国でも見たことはないですな」「お友達に勧められたんです『ぜひ一度ご覧になってみなさい』って」
 幕が上がるのを待つ間、紳士や淑女たちの話が漏れ聞こえてきた。
 やがて開幕のベルが鳴り、芝居が始まった。出し物ははやはりシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」この出し物は前半三分の一ぐらいのところでハイライトの暗殺シーンがある。
 舞台の上では機械城で僕の命を奪ったキャシアスやブルータスらの人形たちが陰謀の計り事を進めている。目の表情、頬の微妙な動き、こまやかな指先の演技、さらに雄弁この上ない台詞… どれを取っても人間の役者裸足だった。
 アロアもすっかり感動して舞台に見入っていた。
『それにしても彼女は彼らに見覚えはないのだろうか。二度も分解して再び組み立てた拍子に、その辺りの記憶は飛んでしまったのか…
 さらに、彼らは客席の彼女…かつての仲間を見ても何も感じないのだろうか』 僕は少しずつ不安になってきた。
『…それにいくらうまく出来ているとは言え、所詮は際物に過ぎないものに身分の高い人々が大勢観劇に来ているのも気になった。
上がこうだから一等、二等、立ち見まで、押すな押すなの盛況だった。
「シーザー」は特にヒロインの出ない硬派の演目だ。これでもし美しい人形のヒロインが登場するようなもの…「ハムレット」とか「ロミオとジュリエット」だったらどんなことになっていたか、思いやられた。
 そしてハッと気付いた。
『アロアがそのヒロインを演じるはずだったんだ! アロアがブリュージュ公によって持ち去られ、再びの製作が間に会わなかったために、出し物はヒロインのないものに変更を余儀なくされた!』
 もう一つ、僕は先ほどから埋まらない特等のボックス・シートが気になっていた。
『あとの値段の高い席は全て埋まっているのに、あそこだけは空席のままだ…」
すると、一幕がまだ進行中にも関わらず、仮面舞踏会用の目だけを隠す仮面で顔を隠した二人の男女が入ってきて、その席に腰を下ろした。
『国王陛下と王妃だ!』
 僕は愕然とした。当然周りもざわめく。
「どうしたの、あなた?」
 アロアはキョトンした表情で尋ねた。
「何でもない、何でもないよ」
 そう答えたものの、もはや視線は舞台よりも後ろのそちらの方にばかりに行っていた。
 陛下と王妃は金モールの付いたベルギー陸軍の軍服を着た側近たちにそれとなく守られている。
「大丈夫だ。暗殺などそうそう容易ではない」
 僕は勤めてそう思うようにした。
 劇は三幕一場、あの有名な暗殺のシーンにさしかかろうとしていた。
 との時、金モールに威儀を正した衛兵の一人が僕たちのスイートにやってきて囁いた。
 御観劇中誠に恐縮ですが、陛下がお呼びです。あの舞台の上の人形の動作の仕掛けの説明を、お望みで」
 僕もアロアもあっけに取られた。
「お言葉ですが、あの人形の俳優を造ったのは僕ではありません。説明をお望みならば、造った者にさせるべきです」
「それが、彼らには座長はいなくて、『あなたならば説明できる』と申しておるのです」
 衛兵も困り切った表情で肩をすくめた。
「何? あれほどの大がかりな人形劇団に、座長がいない? それでは彼らは互いに自分たちに油を差し、整備し合っているのですか」
「自分も疑問に思ってそう尋ねたら、「そうだ」と申しておりました」
「僕は、事故とは言え、陛下の大切なご家臣であるブリュージュ公を殺めています」
「陛下はブリュージュ公がお嫌いでした。…さあ、早く!」
「ちょっと行ってくるよ。すぐに戻るから心配しなくていい」
 アロアにそう囁いて席を立った僕だが、心の中に何か得体の知れない別の生き物がドクンドクンと鼓動を始めていることに気付いていた。
 アロアの空色の瞳がどこまでも僕を追いかけてくる…
 王と王妃はすこぶる上機嫌だった。
「玩具会社の社長にして、天才人形師のアウグストだな?」
 王は仮面のまま静かに囁いた。
「…私たちの王子や姫たちも、あなたの人形の大ファンなのですよ」
「恐れ入ります」
「で、早速だが、あの人形はどのような精巧な仕掛けで動いておるのか?」
 と、その時、僕の身体に思いもかけない変化が現れた。
 歯車という歯車、カムというカムがギシギシと音をたててその組み合わせを変え、皮膚の下で盛り上がったりへっこんだりした。
 驚いた護衛の人々は王と王妃をかばうように前に立ちふさがった。
 だが、指の先、手首の先を突き破って飛び出した鋭い刃物が彼らの胸を一突きにし、内臓をズダスタに引き裂いた。
 顔を破って飛び出した機械からは小さな機関銃が発射され、さらに詰めかけた新手の護衛をなぎ倒した。
 こうなると、他の人々も観劇どころではない、「闇の演芸館」の中は阿鼻叫喚の渦に包まれ、我勝ちに出口に殺到しようとする人々は、あちこちで将棋倒しに倒れた。
 不思議なことにこれだけとんでもない変身をしても、僕の意識は失われずにあった。まるで死んで魂が身体から抜け出した者が、部屋の隅から自分の葬式を眺めているような気分だった。無論、『こんなことはやりたくない。やめよう』と思っても止めることは出来ない…
『なるほど、あの時僕を一思いに殺さずに生かして帰した訳が分かったぞ。機械公は僕に刺客の代役をさせるつもりだったんだ。そのチャンスがやってきた時、僕は変身して目標を襲撃するように出来ており、そして今その時を迎えているのだ…」
 僕はすでに多くの人の血に塗られている腕に仕込まれた刃物を、改めて王に向かって振り下ろした。
 そこへ、さらに新たにもう一人の人影が飛び出して王をかばった。
 それはアロアだった。胸を二本の刃物で突き刺されたアロアは前進から火花を飛び散らせながら、僕の目を見た。
「アロア!」
 僕は叫んだ。
 王と王妃は間一髪、隙を伺って逃げた。
「よかった…」
 アロアはから機械の油を流しながら僕の胸に倒れた。
 僕は人の形に戻った。どうやら王と会った時だけおぞましい変身をするように仕掛けてあったらしかった。

 僕はアロアと逃げた。人形会社社長の地位も、何もかも捨てて… 顔の皮膚は別のものを造った。そしてほとぼりが冷めると、この運河のほとりに小さな人形の店を出した。
 ここだ。
 この手にかけたアロアは、いくら手を尽くし、部品を修復しても生き返らなかった。
 それが、大人の女性の人形を造らない理由だ。彼女を甦らせられることなく、どうして他のものを作ることが出来るだろう?

 語り終えると人形師はいとおしそうに、小さな女の子の人形を抱き締めました。
「どうです。これが人形を愛した男の末路だ。
僕はこの家から一歩も外出しない。道で王のパレードに会ったら困るからだ。この人形たちも売り物にはしたくはない… 僕は何も食べなくても生きて行ける…」
 
 私は店を出ました。
 運河の周りには、さらに濃い霧が立ち込めています。
 振り返ると、その店は忽然と消えてもうありませんでした。ひょっとすると、最初からそんな店も人形師もなかったのかも知れません。
 きっとそうでしょう。



KIJISUKE@aol.com