廃都の旋律

 地名などは、すべて現代の慣用読みです。

 それは「気の毒だが、もう辞めてくれ」と言わんばかりの辞令だった。
 サハラ砂漠の西の果て、すでに滅び去って久しいシンゲッティへの踏査をたった一人でするように命じられた時、アッサムは何かの聞き間違えだとすら思った。
(自分には妻も、幼い子供たちもいる。そんな探検まがいのことは、僻地の恭順部族民か、軍の間諜にでもやらせるのが筋合いというのものじゃあないか?)
 シンゲッティとは元来「馬の泉」を意味する街の名前で、最盛期はオアシスがいくつも湧き出て、棗椰子や果物をはじめとする作物も豊富に実った豊かな土地だったが、いまは往事を偲ばせるものは何も残っていないと言う。
 伝え聞くところによると、その廃墟が砂漠から吹きすさぶ砂嵐によって、えも言われぬもの悲しいメロディを奏でているらしい…
「到達した上での調査項目は何ですか?」
「いろいろだ。一つ、シンゲッティはいかにして砂に飲まれつつあるのか、而して砂漠はいかようにしてシンゲッティを飲み込んでおるのか。砂漠が広がるのは人間の力で食い止められるのか。放っておくとどうなるのか、の最終予測も求められておる」
 なるほど、かような学術的な考察は軍人では難しいと思われる。しかしそんな大切な研究を目的とするならば、派遣するのがたった一人というのは余りにも少ない。
 上役の書記は、いつもと同じ事務的な口調でよどみなく言った。
(なぜに私なのでありますか?)
 問いかけてアッサムは、言葉をごくりと飲み込んだ。
 そして、いつものように「ガハハ…」と磊落に笑った。
 そしてすぐに気持ちを切り替えた。
(自分は音楽が好きだ。自宅では琵琶を弾き、楽譜もたくさん集めている。廃墟が奏でる旋律とは一体どういうものであるか、耳にしてみるのも一興ではないか。さらに、珈琲の調合と、栽培などにも興味があって、オアシスにそった畑を借りて栽培もしている。つまり農業も全くできないことはない。砂漠に浸食された街の緑がどういう末路を辿ったのか、その眼で確かめるのも後学のためになるだろう)
「書記官殿、それで、路銀はある程度前払いして頂けるのでしょうな?」
「払えない」
 さすがのアッサムの顔もサッと曇った。
「──と言ったら、どうするね?」
 結局彼は、途中の街々のアッバース朝アラビア帝国の役所で銀貨と兌換できる為替の束を受け取った。
「時にアッサム」
 書記は立派な絨毯を敷き詰めた部屋を出ようとしていた彼を呼び止めて言った。
「──おまえは確か絵も上手だったし、簡単な楽譜なら読み書きできたな?」
「はい」
「行く先々で、珍しい風景を見たり、部族の楽を聞いたら、できるだけ写生し、譜面に写し取って参れ」
「お安い御用です。紙代は別に支給して頂けますか?」
「申請書を書いてもらう。特に、廃都の風景と旋律はできるだけ細かく、だ。忘れるなよ」
 アッサムの脳裏にいろんな疑念が浮かんだ。
(そんな用件ならば、どうして宮殿の絵描きや楽士たちを派遣しないんだ? 彼らの中にも身体強健、精神力抜群で、長旅に充分耐えられる者もいように…)
 この命令が上のどのあたりからでているのかも謎だったけれど、彼は極力そんな興味は持たないことにした。
「それともう一つ。家族や友人に今度の出張の目的を聞かれたら、大臣閣下がアルジェの総督と打合わせをするための予備折衝に関する書類を届けるのだと言え。分かったな?」
 ますますもって怪しかったものの、もうどうすることもできない。
 彼は、ピタリと閉じた重い樫の木の扉の後ろで「ふふふ…」という忍び笑いが聞こえたような気がして仕方なかった。
 その後は略させてもらおう。
 家族、親族との水杯の宴。
 アッサムは心配して泣きすがる妻子に
「わはは、大丈夫だ」
「どこであろうと、アラーの神と、教主猊下のご威光がしろしめす帝国領土であることに変りはない」
「選ばれたことは大変な名誉なのだ。帰朝の暁には、きっと誰もが羨む部署を用意してもらえているだろう」
 と、言った。
 祝儀の餞別は前払いの出張旅費よりも多く集まり、アッサムはそっくり妻子名義でバクダッドの両替商に貯金をした。ちなみに利子はつかない。それどころか預かり料を取られる。利子などというものは異教徒のユダヤ人の習慣なのだ。
 数日後、彼は盛大な見送りに見送られて、都を後にした。

 バグダッドからアンマン、ベイルート、エルサレムへは、数千年の歴史のある重要な隊商路である。隊商は無論のこと、任地に赴く、または帰任する官僚や軍人たちのために、宿場や宿は至れり尽くせりに整備されている。
 アッサムは、ハイファの港から船に乗ることにした。
 海は、以前バスラに赴いた際に見たことがあるものの、海に浮かぶ大きな貨客船に乗るのは初めてだった。
(こりゃー ひょっとすると船酔いというやつになるかもしれないな)
 最初は恐れを抱いたが、アラーの神のご加護か、凪とゆるやかな微風が続いて、甲板も一等船室の中も陸地とほとんど変らなかった。
 その風景の素晴らしいこと!
 地中海のコバルト・ブルーの海。群れ飛ぶカモメ、時折通り過ぎる大理石でできた真っ白な島。白い小さな家並み。行き交う大小の帆船。帆に巨大な十字架を描いた対立するビザンティン帝国の船もいる…
 彼は子供たちが大きくなったら、ぜひ一度地中海を見せてやりたい、と思った。アラビアの海もいいが、
 海路は古来陸路よりはるかに安全で、快適だった。
 歩かなくてもいいし、宿を取り損ねる心配もない。シンドバッドに代表される優秀なアラビア船員は、嵐の接近を未然に予知して、そのつど船を近くの港に待避させた。
 ハイファを出た船は順風にも恵まれて数日でアレクサンドリアに到着。
 エルサレムで購入した古本は、ほとんど読破してしまっていたアッサムは、読み終えた本を古書店で読んだことのない本と交換した。
 当時は、紙も本(写本)も本当に高価な貴重品だったので、よほどの大金持ちでなけれれば、まして旅の途中であれば、こうやって下取り交換しながら読んでいくのが当たり前だった。
「旦那、ここから西には大きな本屋のある街はありませんよ。もう少し買って下さい」
 彼がさらに西に向かうことを漏らすと、アレクサンドリアに軒を並べる本屋の店員たちは、口を揃えてそう言った。
 面白そうな挿し絵の入ったビザンティンの本がずらりと並んでいたものの、あいにく彼はラテン語は片言しか分からなかった。
 物語、歴史、旅行記…
 アラビア語の本にも面白そうなものはいっぱいある。そう、バグダッドにはないような種類のものも…
 アッサムは餞別を貯金してきたことを初めて後悔した。
 そうこうするうちに船はトルブクからベンガジの港を通過。トリポリに着く頃には、また全部読み終えてしまっていた。
 桟橋を往来するまっ黒い肌の、色とりどりの民族衣装を身に纏った現地の人々を見た彼は、
「ああ、遠いところに来てしまったのだなあ」
とひしひしと感じた。
 チュニスを経由し、アルジェで下船した頃には、さすがに楽天的な彼も懐郷病に捕らわれてしまっていた。特に新天地を求めて旅でもしているのだろうか、幼い子の手を引いた家族連れを目にすると、そう思った。
「旦那、不安そうにしていると、ツキにも見放されますよ。この船はまだこれからマラガ、カディスまで行くんです。そこもまだ帝国領です。旦那はアルハンブラの宮殿をご覧になったことがありますか?」
「いいや」
「帰りにご覧になるといい。恐れながらバグダッドの宮殿よりも立派でございますよ」
「まさか」
「まさかじゃございません。わたしらはマラガ、カディス〜ハイファ、ベイルート間南回りの定期船の乗組員をやって長いんです。まぁ役得であっちこっちの港や都もたくさん見ましたが、グラナダやセビリアの都は、そりゃもう華やかで、帰るのが嫌になるくらいですよ。
 本にそう書いてありませんでしたか?」
「ああ、いや… 確かにそう書いてあった。しかしわたしが行くのは、南の砂漠なんだ」
「南の砂漠、よろしいじゃあございませんか」
 船員は相変わらず笑顔で言った。
「──旦那は砂漠のご出身なのでしょう? 何をビビることがありましょうか」
「そうだな。わたしは砂漠の出身。行き先は砂漠。何も恐れるものはないはずだ」
「南の砂漠には──」
 船員は声を潜めた。
「──建物も、砂も、全部黄金でできた幻の都があるという噂を聞いたことがありますよ」
「本当かね?」
「本当です」
 自分が踏査に赴くのは「砂に埋もれた都」のハズだったが、こうなったら別のいろんな興味も湧いてきた。
 アルジェでは最後の為替を帝国のディナール銀貨に交換した。砂漠では極力携帯品を減らさねばならないので、貨幣もそうは持ち歩けない。もちろん一人旅に近い旅で盗賊に会ったりしたらそれまでである。
「砂漠の奥地からの隊商たちがよく利用する」という噂の大きな宿の広い相部屋に泊まった彼は、羊のバーベキューの夕食後、それとなく言ってみた。
「そう言えば、サハラ砂漠には砂で埋もれて滅びてしまったり、滅びつつある街や邑がいくつもあるんだってなぁ?」
「ああ、あるよ。たくさんある。わしはそういう廃墟をいくつも見てきた」
 ターバンの下に幾重もの深い皺を刻んだ老隊商が、宿から出された茶のあまりのまずさに顔をしかめつつ言った。
「私もだ!」
「手前も見たことがこざいます…」
 そこでアッサムは、ここぞどばかりに船旅のあいだも小さな缶にいれて大切に持ってきたモカ珈琲を取りだした。アフリカの地の果てでは、滅多に手に入らない極上品である。
「どうぞ、皆さん。ここでこうして一緒になったのもアラーの神のお導きだ。よかったら一杯やって下さい」
 馥郁とした香りに、皆の口はついつい緩んだ。
「その街は、とても豊かじゃったが、突然竜巻のような砂嵐に襲われた。人も、家畜も、家も作物も、宮殿も、王宮の宝物庫も蔵ごと巻き上げられた。そして、あたり一面金銀宝石を撒き散らしたんじゃ。
 当然、噂を聞きつけ、お宝を頂こうと遠くから欲にまみれた奴らが大勢押し掛けてきた。
 ところが、それを拾ったり掘り出そうとした連中は、渦巻く流砂に飲まれて全員お陀仏さ。中には、とうの昔に砂に飲まれて死んだかつての街の住民の干からびた腕に足首をつかまれて、引きずり込まれた者もいる…」
 老隊商はそう語ると、手にした珈琲茶碗の底を、まるで砂金でも探そうとするかの如くしみじみと眺めた。
「俺が通りがかったところは…」
 若い商人は声を潜めた。
「──ちょうど住民が避難している最中の村だった。ちょうど、ナイルの氾濫みたいに、こうして話をしているあいだにも砂が床に吹き寄せられてきて、気が付くと分厚く積もっている。村人たちは壷やら皿やら、家財道具一式を駱駝や馬の背に載せるのにてんやわんやだった。
 そうこうするうちに、出入り口の半分が砂に埋まってしまって、砂をかきわけないことには家の中に戻れなくなってしまった。それでも住民はまだ家の中にあるものを運び出そうと必死になっている。
『もういい! 逃げ遅れたら元も子もないから、諦めろ!』といった怒声も飛ぶ。
 まるで『火事場に戻るな!』と言っているようなきつい調子で、だ。
 俺は我と我が目が信じられなかった。確かに砂は、砂漠は恐ろしい。しかし、これほどまでの速度で、それまで確固としてあった人間の文明を脅かすものか、ってね。
 結局村は、俺がそこにいるうちに、完全に砂の海に没した」
 話題がとぎれた時を見計らって、アッサムはおずおずと切り出した。
「あの、皆さん、そういった廃墟の一つで、シンゲッティという街をご存じではないでしょうか? 無人となった街に砂漠の風が当って、得も言われぬ妙なる音楽を奏でている街らしいのですが…」
 ところが、「シンゲッティ」の名を聞いた途端、その場に居合わせた隊商たち全員の顔から血の気が引いた。中には茶碗をひっくり返したり、咳き込み、むせ返る者もいた。
 人々は突然「用事を思い出した」とか、「厠へ行く」と言って席を立ち、ほとんど誰もいなくなった。
 アッサムはあっけにとられ、それから困惑した。
「皆さん、私は何か言ってはいけないことを言いましたか? 神を冒涜するようなことを言いましたか?」
 残ったうちの一人が、彼の耳元に口をつけて囁いた。
「あなた、悪いことは言わないから、その街の名前だけは口にしないほうがいい」
「どうして? 理由を教えて下さい」
「例え金貨を百枚積まれたって、語る者はいないよ。賢者も愚者も、勇者も、聖人も」
「どうしてですか?」
「どうしてもだ」
「訊ねても、喋ってもいけない」と言われると、妙に興味が湧いてきた。
 そこで彼は、宵闇に紛れてこっそりとアルジェの総督府に戻り、為替を現金に換えてくれた年配の書記に同じことを尋ねた。
 相手は彼を応接間に招き入れ、長い溜息をついた末に、ゆっくりと口を開いた。
「語らぬ訳にはいかんだろう。──いや、小官も詳しくは知らぬ。
 実は…」
 内容は驚くべきものだった。
「本当ですか?」
 アッサムの顔から微笑がかき消えた。いや、笑みは一生戻らない可能性もあった。
「どうして軍隊を出さないのですか?」
「もちろん考えはした」
 書記は乾いた声で答えた。
「──しかし、砂嵐に阻まれて、大軍勢は近づけないのだ。学者の中には、『街が奏でる音楽には法則性があり、ある旋律の後には砂嵐が止む』と論じる者もいたが、仮説で軍団を危機にさらす訳にも行かぬ。なぁアッサムとやら、悪いことは言わん。都への報告書は適当に認めて、あの街のことを詮索することはやめろ」
「やめろ」と言われると、「せめてもう少し調べてから」と思うのが人情である。
 翌朝、彼はシンゲッティの近くを通る隊商に加えてもらって、サハラの西を目指した。 砂漠を旅すること一週間、二週間…
 まだまだ二、三泊するとオアシスがあり、水や乾パン、干し肉はもとより、
野菜や果物、椰子や棗椰子なども補給できる。
 村で遊んでいる子供たちや親子連れをみるたびにアッサムはバグダッドに残してきた妻子を思いだしたが、もはやこの期に及んで後戻りはできない。
 三週間、四週間目ともなると、さすがにそういったオアシスもまばらになった。
 その代わりに、泉が枯れて打ち捨てられた村や街をちらほらと見かけた。アッサムはすかさず駱駝の背中で黒墨を走らせた。
 それまであっちこっちの黒い肌の人々の村で聞きつけた音楽も、しっかりと楽譜帳に記していた。
 ご存じの通り、砂漠の旅は主に夜だ。
 星空の下、シンゲッティとの分かれ道にさしかかった頃、彼がそれまで世話になった道連れに心配させないような上手な嘘を思案していると、隊商の長が向こうから近づいて話しかけてきた。
「なあ、あんた、シンゲッティに行くのだろう?」
「あの… いや… その…」
「無理せんでもいいさ。顔にちゃんと書いてある。明らかにあんたはよそ者だ。それもバグダッドあたりの… そんな遠くからのよそ者も、実はあんたが初めてじゃあない」
 隊長は、カートの葉を噛みながら言った。
「と、申しますと?」
「十年くらい前、シンゲッティが急激に砂に埋もれ始めた頃から、国の内外からそういう奴らが、ここを目指してやってきた。探検家あり、軍人あり、──一番多かったのは魔法使いだろうか… 十人以上のパーティもあれば、二人組もあった。おぬしのように単身、という者もいた。みんな屈強な、いかにも腕のたちそうな奴らばかりだった。しかし、無事に帰ってきたところを見たことはただの一度もない」
 アッサムは生唾を飲み込んだ。
「あの向こうに砂煙に濁ったところが見えるだろう?」
 隊長が指さす幾重もの砂丘の彼方には、なるほど、満天に星をちりばめた群青色が、かすかに濁って見える。
「あそこですか?」
 相手はかすかに頷いた。
「ああ、そうだ。ここからまだ駱駝で一週間はかかる。聞こえないかね? 廃墟が奏でる音楽を…」
 耳を澄ますと、なるほど、風鳴りに混じって、気のせいかかすかに笛や琵琶の音のような調べが聞こえるような気がした。
「我々は神を畏れる者ゆえ、これ以上あそこへ近づくようなことない。ましてや、あそこで一体何があったのか、興味を持とうとも思わない。貴方がどうなろうと、我々の知ったことではない。だが同じアラーの神を崇める同胞として、どうしてもそこへ行くというのなら、改めて七日分の水を贈ろう」
「有難う…ございます…」
 アッサムはようやくそれだけ言った。
「たとえ無事にたどり着けても、着いた先で水が枯れていたら」
「覚悟、しております」
「なにしろそこは住人たちが見捨てた街だからな。何も残されていないかも」
 彼はチラリと自分の葬式が行われているところを想像した。棺の中には遺体もなく、家族や親友の中には怒って中止を叫んでいる者がいるような。
 隊商たちが進んでいくのとは直角の方角に、アッサムはたった一人、革袋に包んだ羊の膀胱の水筒をいくつもぶら下げた駱駝で出発した。
 彼にとって本格的な砂漠の一人旅はこれが初めてだった。キャラバンの時のように、昼間は砂丘の影で眠り、駱駝に話しかけても、やはり何かが違う。いますぐ引き返してものたれ死にすることがわかっていても、引き返したい欲求に駆られる。
 唯一の希望は、日ごとにはっきりと耳に聞こえてくる風鳴りが奏でる音楽のようなものだった。
 まるで自分たちが遠からず滅びる、と分かった国の人々が奏でているようなもの悲しく切ない調べ…
 彼はどうしても、その音楽が、無生物の手になるものとは信じられなかった。
 ずいぶん細かく、小さな記号で記入したつもりなのに、懸命に紙に写し取っているうちに紙はどんどんなくなる。
 三日目か四日目を過ぎるあたりになると、シンゲッティが奏でている曲は、二度と同じメロディが繰り返されていないらしいことに気が付いた。
 無論眠っている時のことは分からない。砂の彼方の音楽は、実に深く心地よい眠りに誘うからだ。
 とうとう持参した紙は、夜、駱駝の背中で記入した分だけで使い果たす寸前、残り僅か数枚になってしまった。
 五日目、シンゲッティを覆い尽くしている砂嵐の先端に到着した。駱駝は進むのを嫌がるようになり、目は開けていられにくい状態になった。口と鼻を頭布の端で覆っても、細かい粉が容赦なく吹き込んでくる。
 音楽のほうは、もはやハッキリと聞こえる。
 それは、想像していた以上に見事で、天上のそれと思われるほど妙なる慈愛に満ちたものだった。
 しばしば何かにつまづき、砂に目を落とすと、襤褸をまとった人骨や、駱駝の骨だった。
 それもただならぬ量だ。これだけ風が吹き巻いているところで、砂の底に埋もれてしまわずにある、ということは、もとがものすごい数だったのだろう。隊商の長の言っていた「それっきり二度と戻らなかった人々」のなれの果てであることは明らかだった。
 しかし、アッサムもまた後戻りはできない。
 なんとかシンゲッティの中に入って、水と食料を手に入れなければ、足下の者たちと同じ運命を辿るだけだ。
 街はまるで何者かの呪いに呪われたが如く、砂竜巻に覆われている。
 永久に閉ざされた彼方──そんな感じが追い詰められた男に対して、サハラじゅうの砂より重たい重しとなってのしかかった。
(死ぬわけにはいかんのだ)
 彼はまた妻子のことを思いだして、気を強く持とうとしたものの、そんなふうに自分を奮い立たせても結局無駄だった連中の骨が、足下には相変わらずごろごろ転がっていた。
 塔を縦笛とし、入り組んだ路地の壁を琴として奏でられ続ける曲は、いつ終ることもなく続いている。
(とりあえず楽しもう。楽しくなくては音楽ではないのだから)
 アッサムは取り乱したり慌てふためくことはやめ、竜巻の中心から聞こえてくる響きに耳を澄ませた。
 すると、不思議なことに、音に混じって誰かが歌っている歌詞のようなものが聞こえてきた。
「遠きむかし、世界はすべてが海だった。
 遠き未来、星は砂に埋もれるだろう。
 つかの間の緑。つかのまの生き物たち。
 それはまばたきする間の出来事だろう」
 か細い少女のような声だった。
 彼は確信した。
(シンゲッティの街に入る手段は必ずある。足下の連中は、見つけられなかっただけなのだ。必ずある、必ず…)
 そして考えた。
(もしも自分がたった一人で城のようなところに立てこもっていて、雲霞の如き敵に囲まれてしまったらどうするだろう? 尋常なことでは絶対に城門は開けない。もし開けるとすればどのような場合か?)
 答は明らかだった。
 アッサムは、歌声に合わせて、自分も歌うことにした。
「すべての海は、砂に埋もれる定め。
 乙女の老いてみまかるが如く、大地は干からびて皺が刻まれ…」
 先の歌詞など分かるはずがないから、適当にでっち上げて、しかし心はしっかりと込めて歌った。
 彼は、鬚が生える前は大層美しい声をしていて、コーランの詠唱会にも度々出場していたほどだった。
 だが、何も起らない。
 おそらく、彼よりも前に訪れた優秀な者たちもありとあらゆることを試したのに違いない。──そして、朽ち果てていった…
(ひょっとして)
 アッサムは思った。
(どうしても、何が何でも中へ入りたい、辿り着きたいという気持ちが、この砂嵐を起しているのではないだろうか? シンゲッティの秘密を知るには、何もシンゲッティに到着することだけが方法じゃあない。この先の街に誰かがいるのなら、『ここ』にいる私に、一部始終を歌い語ってもらえれば済むことだ)
 そこで彼は、「向う側」の節に合わせて、心を込めてこう歌った。
「滅びし都の人々よ、我に語り聴かせるすべがあるならば、何卒語り聴かせ賜え…
 我はすでに帰る手段を持たず。
 我もまた、砂の都と同じく、朽ち果てる定めにあり。故に仮に総てを知っても、再び他人に語る恐れはあらじ」
 すると、途端に不思議なことが起きた。
 荒れ狂う竜巻がほんの五尺ほど割れて、その中から黒い頭巾と寛衣に身を包んだ、十歳くらいの少女が、小さな荷車を懸命に引きずって現れた。
 アッサムは慌ててこけつまろびつ駆け寄った。
 荷車の荷は、ほとんどが水筒に入った水と、食べ物だった。
「十日分あるわ。大事にすれば、一番近いオアシスにまで戻れるでしょう。運が良ければそれまでに隊商と出会うかもしれないし」
 少女は低く乾いた声でそう言った。
「あの…」
「もう一度故郷で家族と抱き合いたいのなら、何も訊ねてはだめ」
 頭巾のひさしに隠された目は氷のように冷たく輝いている。明らかに本物の子供ではなかった。
「──さあどうする? 言うことを聞いて何も見聞きしなかったことにして、ここから立ち去るか、それとも…」
(相手は魔法使いだ。砂漠の精霊(ジン)だ。
いいや、ひょっとするともっと凄いものかも知れない…)
 アッサムの頭の中をいろんな考えが走馬燈のように駆けめぐる。
「待って下さい。私は歌が好きです。ここで聴いた歌をつい口づさんでしまうかも知れません」
 少女の刺すような視線がますます厳しくなった。どう考えてもまずい質問だった。
「なるほど、それはもっとも」
 少女が指をパチリと鳴らすと、砂に混じって散らばっていた白骨や髑髏が一瞬にして数十もの骸骨の形に組み上がり、それぞれ錆びた剣やナイフを振りかざした。
 ところが、
(自分は一回死んだ)と思い込んでいるアッサムは、そんなに恐ろしい光景だとは思わない。砂漠では、むしろまったく何もないほうが恐ろしく、精神に異常を来しかねない情景だからだ。
 それに比べると「化け物に襲われて殺される」というのは、むしろ平凡で陳腐な死に方でさえあった。
「忘れたか?」
 少女は鋭い声で問うたものの、彼のほうは彼女が肩をほんのかすかにすくめたのを見逃さなかった。
「忘れません。不可能です」
「ならばやむを得まい」
 少女が上げた右手を振り下ろそうとした瞬間、アッサムはすかさず言った。
「待って下さい。どうせ殺されるのなら、冥土の土産に、シンゲッティの街を一目見せて下さい。あなたはこれからまた街に戻られるのでしょう? だったら、手間は一緒のはずじゃあないですか? それともあなたはいわゆる使い走りで、私を入れると上の人に叱られるのですか?」
 少女は白い歯で薄い唇を噛み、絞り出すような声で呟いた。
「上の者など、いない」
「だったらケチケチしないで、見せて下さい」
 彼女が口笛を吹く仕草をすると、骸骨たちは一瞬にしてもとのバラバラの骨に戻った。
「いいわ。その代わりガッカリするわよ。本当に何もないのだから」
「構いません」
 手を差し伸べると、まるで滝が割れるように突風と突風のあいだに隙間ができ、少女はそのあいだに身を翻らせて消えた。
 アッサムもすかさず続いたが、飛び込んだ瞬間、自分がいまくぐったばかりの空間は元の激しい渦巻きに戻っていた。

 そこは、砂嵐の吹きすさぶ廃都だった。
 目抜き通りも、商店も、民家も、一階部分は八割がた砂に埋もれている。
 風が開け放たれたり、壊れた窓をくぐるたびに、もの悲しい笛に似た音色をたてていた。
 少女の姿は消えていた。他に人のいる──
いた気配はない…
 アッサムは早速最後の最後まで大事にとってあった紙に、シンゲッティの風景を写生した。
 描きつつ、彼は考えた。
(少女は水と食料を持ってきてくれた。あれはどこから持ってきてくれたのだろう?)
 そう、それが差し迫った問題だった。
 あんなことは言ったものの、彼はそう簡単にやられてしまう気持ちはさらさらなかった。
 最初の命令通り、こうして街を見た以上、さっさと帰りの水と糧食ほ手に入れて、引き上げるつもりだった。
 幸い、あのあやかしの匂いがぷんぷんする少女は、いまはいない…ようだ。
 かつて豊かな大尽だった者の邸宅を見つけて中に入ってみた。
 中庭には大きな井戸があり、かつて厩舎だったところのそばには、馬や駱駝の水飲み場もあった。
 彼は井戸を覗いてみた。釣瓶縄の長さから推し量って、深い井戸が半分以上砂に埋もれてしまっている。
 隣の邸宅も、その隣の邸宅の井戸も同じだった。家財道具は、寝台や大きな長椅子や机、それに食器入れなどを残してほとんどが持ち去られ、床は分厚い砂に覆われていた。
(窓を抜ける風が歌っているだけの、ただの幽霊都市じゃあないか。このことを都に報告しても、おそらくみんなはガッカリするだけだろう)
 足下の砂を蹴り上げても、事態がよくなる訳ではない。
 気を取り直して、街の共同の水汲み場へと赴いた。
 バグダッドには、家に井戸がない、共同井戸のある集合住宅にも住めない、かと言って水売りから水を買うこともできない貧しい人々のために、旅人を含め誰が使ってもいい共同井戸がいくつもあった。
 例えちゃんとした仕事がなくても、ここで水を汲んで香草で味付けし、そこここの建築現場などに運んでいって売れば、誰でも一日の糧くらいには預かれるという有難いものだ。
 シンゲッティのその井戸は、一際立派なものだった。
 直径は教主猊下の宮殿の、最も大きな噴水と同じくらいある。一度に十人が、十の釣瓶を投げ込んで水が汲める井戸だ。
 周りの石組みには、この地方の伝説の獣──象や、麒麟や、縞馬や河馬や鰐がにぎにぎしく描かれていた。…そう。このあたりは以前は一面に緑あふれる、また泉の多い豊かな平原だったのだ。
 石組みから身を乗り出して覗いてみた。
 案の定半分がた砂に埋もれて、かつてはここから水が湧き出ていたなどと想像することもできない状態になってしまっている。
 そろそろ喉が乾いてきた。最後の水を飲んだのは…
 アッサムは少女の警告通りに水を貰って踵を返さなかったことをちょっと後悔した。
(まだまだ音を上げるのは早い!)
 次は役所に向かってみた。
(役所には、この街がなぜこんなふうになってしまったかの記録が残されているかもしれない。少なくとも、下っ端のを含めて、全部の記録文書が一冊残さず持ち出されたとは思えない)
 推理の通り、役所だった建物の執務室には、いくつもの記録文書が置き捨てられたままになっていた。
 黒檀でできた長官の机の上には、まるで誰かに報告するのを待っているばかりのように、一巻の報告書が、来訪者のほうに向けて置かれていた。
 彼は小刻みに震える手で、その紐を解いた。

 いつの日か、この街を訪れるであろう誰かのために、この顛末書を残しておく。
 知っての通り、ここシンゲッティは、かつては溢れるが如き緑に囲まれた、泉の多い、花が咲き、鳥は歌う豊かな土地だった。
 椰子や棗椰子はもちろん、各種の果物や野菜、麦すら耕作することができ、羊や馬、駱駝の放牧も行われていた。
 大人たちは日々の仕事に勤しみ、子供たちの遊ぶ声は絶えることがなかった。
 各地との交易も盛んで、市場にはさまざまな商品が溢れていた。
 ところがある日のことだ。一人の牧童が役所に相談に来た。
 聞けば、「きのうまで牧草が生えていた街の東側の緑地にうっすらと砂がかぶっている」と言う。
 早速調査に赴いて見ると、なるほどその通りで、砂漠と緑地の境目がいくぶん街側に押しやられている。──とは言っても、それはほんの僅かな範囲で、広大なシンゲッティのオアシス全体からすると、ほんの微々たるものだった。
 我々は、牧童をなだめて帰し、特に何の手も打たなかった。
 翌朝は、同じようなことを訴えてくる者が二人に、三日目は四人に、四日目は八人になっていた。
「いくら扉をきちんと閉めても、家の中に砂が舞い込んでいる」
 と泣きつく者もいた。
 一週間ほどすると、「何とかしてくれ」と申し出てくる者は、役所を幾重にも取り巻くようになった。
 特に農民は深刻だった。
 それまで自給できていた野菜類に、分厚い砂が覆いだしたのだ。
 街のあちこちの井戸が枯れだしたのもその頃からだった。それまで十湧き出ていたものが五、三の割合になっておまけに濁りだしたのだ。井戸や泉の水はそれまで大変澄んでいたので、誰も「濾し器」の作り方を知らない。
 もちろん持っている者もいなかった。
 そこへ来て我々は初めて、事態の重大さを悟った。
 アルジェの総督府に伺いを立てて、専門家の派遣を依頼しても、数ヶ月はかかるだろう…
 とてもそんなには待てない。
 まず金持ちたちが逃げ出し始めた。
 駱駝や馬に積めるだけの家財道具を積み、近くの街まで持つ分の水を水筒に詰め、子供たちや老人の手を引いて引っ越していった。
 次ぎに一般の商人や職人たちが続いた。
 シンゲッティの水は凄まじい勢いで枯渇し、植物は枯れ果て、代わりに砂が街中を覆い始めている。
 さらに数日が経つと、サハラ砂漠から吹き付ける砂は、牧草地と農地のほとんどを埋め尽くし、あらゆる井戸からは一滴の水をくみ出すこともできなくなった。
 とうとう最後まで踏みとどまっていた農民たちが、滂沱の涙を流しつつ街を離れて行った。
 そして、転居転出届けの作成や、前年度納税証明書の発行に忙殺されていた我々役人も、ここを捨てなければいけない時がきた。
 砂嵐は絶え間なく吹き付け、おちおち目も開けてはおられない。何かを喋ると口の中は砂でザラザラになる。
 お役目放棄と罵られても、とても総督閣下の指示を待ってはいられない。甕の底の水を全部水筒に移して、治安維持のため最後まで残った五十名の駐屯兵とともに、西の海岸を目指して出発することにする。
 ああ、それからきのうあたりから、不気味な歌のようなものが聞こえる。
 ギリシア人の言うセイレーンのような、低くもの悲しい歌声だ。
 おそらく風が、無人となった街の窓や扉を壊して吹き抜ける際に音を立てているのであろう…
 以上で報告を終るが、我々のことを決して悪く思わないで欲しい。
 我々シンゲッティの住民は、みんなメッカにおわす神を敬い、日々の礼拝を欠かすことなく、静かに真面目に懸命に暮らしてきた。
 総督府に報告せねばならぬような凶悪な事件は、ここ数年起きてはいない。裁判の判決も所払いや鞭打ちがせいぜいである。
 まかり間違っても、どこかの魔導師に呪いを掛けられたとか、恨みを買ったなどということは金輪際ない。
 それでは、これを読んだ者が、帰りの分の水と食料をちゃんと残していることを祈りつつ…
          シンゲッティ執政官

 読み終えたアッサムは溜息まじりに書類を置いた。
(これでは何も分からないじゃあないか)
 それが率直な感想だった。
 ただ、報告書の中に「祈り」に関するくだりがあったので、彼は役所の庁舎に隣り合った回教寺院に赴いてみた。
 入り口の手足や顔を清める泉にも、砂が盛られている。
(これで洗う仕草をしてくれ)
 ということらしい…
 砂で洗う恰好だけして、彼はモスクの中に入った。
 聖地のほうに向けて叩頭して礼拝し、
(とりあえずなにとぞ水と食料が手に入りますように)と祈った。
 喉の乾きはいましばらく辛抱できそうだったが、それも時間の問題だった。
 寺院を出ると、見捨てられた建物が砂地に細く長い影を伸ばしていた。
 影伝いに歩いて行こうとすると、光塔(ミナレット)の先端に、何か黒い固まりのようなものの影がひっついているのが見えた。
(鳥か?)
 何にせよ、鳥がいるのなら、近くにまだ水が残っているはずだ。
 影は小さくはない黒い翼をはたはたとはためかせて、街全体を睥睨している様子だった。
(鳥だ! あの鳥が地上に降り立つ場所が分かれば、そこに水があるに違いない!)
 慎重に、ゆっくりと振り返った。
 塔の先端にも太陽を背にして、そいつは止っていた。鉤爪かなにかを引っかけて。
 金色の光がまぶしく、すぐにはそいつの輪郭さえ定まらなかったものの、目が慣れてくるのに従って、鳥ではないことが分かった。
 鳥ではない。羽根の生えた人だ…
 ひょっとすると天使かも知れない。神が彼の祈りを聞き届け賜うたのかも知れなかった。
 いいや、黒い翼の魔人ということもあり得た。
 魔人でも何でもいい。アッサムはこの街であの少女に続いて生き物に会えたことが嬉しかった。
「やあ、こんちわ」
 彼はそいつに向けて、とっておきの笑顔で手を振った。
 黒い影は、一つではなかった。
 気が付くとそこの塔の上、あそこの屋根、といった具合に、無数に飛来していた。
 大きさも、姿も、翼も不揃い…
 もはや人でもなければ天使でもないことは明らかだった。
 不思議なことにそいつらは、彼を襲ってはこなかった。
 虫けらみたいに思っているのか、別に何か大切な用事でもあるのか、どうやら後者の感じだった。
 奴らの数は次第に増えて、ついに屋根や塔を埋め尽くすくらいになった。
(これから集会でも始まるのか?)
 当らずと言えども遠からず、といった様子。
 アッサムは打ち捨てられた一軒の商店に入った。
 そこは、かつては楽器店だった。
 砂をかぶった飾り棚には、縦笛や横笛、琵琶や鼓などがいくつも並べられたまま打ち捨てられたままになっていた。
 どうやら運び出しても、商品の値段よりも運賃のほうが高くつくので、そのまま放置されて行ったものらしい…
 シンゲッティの街が奏でていた音楽に、竪琴の音が混じった。
(竪琴?)
 思わず音のするほう──裏庭へと走って出ると、そこには一人のおばあさんがいて、弦をつまびいていた。
「お婆さん、こんなところで何をしているのですか?」
 老婆の足下には、茶碗ほどの面積の、ほんの小さな泉が湧きだしていて、幾分濁ってはいるものの、確かに水をたたえていた。
「わたしはご覧の通り、もう年だ。みんなと一緒に逃げても、どうせ旅の途中で死んでしまうと思って留まったのさ」
 彼女の目は絶え間なく吹き付ける砂の微粒子で、すっかり見えなくなってしまっていた。
「この水は?」
「ご存じとは思うが、このシンゲッティは、かつてはどこを掘っても簡単に澄んだ泉が湧き出すオアシスだったのだよ。良かったら飲むがいい」
「しかし…」
「地面から湧き出したものは、どうせまた地面に吸い込まれていくのだよ」
「有難うございます」
 アッサムは腹這いになって、そのちいさな水たまりの水を飲んだ。生き返った心地がし、まともな思考が甦ってきた。
「わたしはここから遠い遠いところにある帝国の都から、教主猊下のご命令を受けて、この街の様子を見に来た者です。
──おばあさん、このシンゲッティがどうしてこのような有様になったのか、心当たりはありませんか?」
「さあ、わたしには難しいことは分からないね。ただ…」
「『ただ』?」
「古くから伝わる伝説では、この街は、昔えらい魔法使いが、その杖で最初の泉を湧き出させて拓いたものと言うことだ。それまでこの砂漠には、人ではなく、あまたの魔人や精霊たちが棲んでいた。魔法使いは、彼らからあるものと引き替えに、この土地を千年か二千年か借り受ける約束を交したらしい。その約束の期限が切れたので、このあたりは元の砂の海に戻るのかも知れない…」
 アッサムはその昔話が、ビザンティン帝国との約定のように、信憑性を帯びたもののように感じた。
(そう、そうだ。そうなのだ…
 現在、街が奏でる音に惹かれて塔や屋根の上に戻ってきた連中は、この土地のかつての主たちなのに違いない…
 だったらいま一度、そのあるものを支払うことによって、このシンゲッティを再び緑豊かな土地にすることはできないだろうか?)

 夜が来た。
 空腹は、最後の抵抗で枯れずに頑張っている棗椰子の実を食べてしのぐことができた。わずかに付いた実は、人々が街を見捨ててからのものらしかった。
 クタクタに疲れて眠りたいのはやまやまだったものの、砂漠での探索は夜のほうが適している。ましてやこちらがたった一人で、相手が大勢らしい場合は。
 周りで吹きすさんでいる砂嵐のせいで、月も星もほとんどおぼろに霞み、光は届かない。
 アッサムは置き捨てられたカンテラを持って、さらなる探索に出かけた。もしかしたら、あの老婆のように居残った人々を発見できるかも知れない…
 もちろん偃月刀も帯びている。しかし、いざとなったらあんな化け物どもに、ただの剣が役に立つとは思えなかったが。
 ここぞ、と思う家は一部屋一部屋家捜しもしてみた。結果はどこもただの廃屋だった。
 音楽は相変わらず鳴り続けている。
 むせび泣くように、
 窓から屋根の上を見上げると、翼のある連中がただひたすら街の響きに尖った大きな耳を傾けていた。
 こちらが奴らの顔を見つめると、連中は牙を剥きだしてニヤリと笑った。奴らの中に人語を解する者がいるとしても、とても話しかけられる雰囲気ではない。
 彼が楽師長にでもなってこの曲を止めることができれば、奴らはもといた場所に飛び去り、シンゲッティの泉も復活するように思える。しかし、その方法が皆目見当がつかない。
(楽師長…)
 彼は考えた。そして閃いた。
(鳴っているのは街だ。いくつもの建物を吹き抜ける風が、シンゲッティの街をして音楽を奏でさしめているのだ。ということは、この街は、予め、そういう風が吹けば鳴るように街の建築計画がなされてあるのではないだろうか?)
 大急ぎで役所へととって返し、置き捨てられていった街の計画図や建築申請書の束を繰ってみた。
 役所…設計者アシュトン
 回教寺院…設計者アシュトン
 施薬院…設計者アシュトン
 学校…アシュトン
 交易所…アシュトン
 共同住宅…アシュトン
 民家…アシュトン
 広場…アシュトン
 噴水…アシュトン
 新しく建て直される民家…アシュトン

(もう間違いない! このシンゲッティの街のありとあらゆる建物の設計は、何代、何百年にも渡ってアシュトン一族の独占事業になっている!)
 アッサムはただ一人残っている老婆のところへと戻って、彼女を叩き起した。
「お婆さん! この街の建物は全部アシュトンと呼ばれる一族がやっているが、一体どういう訳なんだ?」
「何をやぶからぼうに…」
 お婆さんは眠い目をこすりながら、再び毛布をかぶろうとした。
「アシュトンだよ! 知っているでしょう?」
「ああ、知っているとも。このシンゲッティの街の建物は、アシュトン家の設計でなければ建てることはできないのだよ。街ができた時からね」
「なぜ? なぜそういうふうになっている?」
「うるさいねぇ… なんでも最初に街を拓いた時に、莫大な黄金を街や総督府に寄付して、その権利を買ったそうだよ」
「貧乏人の中には、設計料が払えない人もいただろうに?」
「だから、アシュトン家は、別に両替商を営んでいて、設計料は無料だったんだよ。だからみんな頼んだし、独占も続けることができたんじゃ」
「なんだって! タダ!」
 彼は思わず天を仰いだ。
(みんなどうして早くそのことに気が付かなかったんだろう?)
「おばあさん、そのアシュトン家というのは街のどのあたりにあるのですか?」
 場所を訊いたアッサムは、ゆっくりとあたりを伺いながらそのところを目指した。
 場合によっては探索は夜が明けてからのほうがよいかもしれない。
 アシュトン邸はすぐに見つかった。アシュトンという名はビザンティンの名前のようだったが、屋敷は、東西南北に棟があって中庭があるごく普通のアラビアふうの民家だった。
(ここの主が、時期が来ると、街全体が音楽を奏でるように設計した。路地を吹き抜ける風、屋根や塔を渡る季節風がそうだ。そしてその音楽の魔法の力で、膨大な砂嵐と、魔物たちを呼び寄せた…)
 書斎と思しき奥の間には、立派なチークの製図機が何台も置かれていた。中には、まだ図面が引きかけのものもあった。
 中央の大きなテーブルには、シンゲッティの街の模型が飾られている。
 小さな積み木ふうの、やり直しが効くブロックで成り立っている。彼は思わずバグダッドに残してきた子供たちのことを思い出した。
 不思議なことに、各大通りや脇道のあちこち、大きな建物の窓の周辺には、赤い矢印や黄色の矢印、青い矢印が針金で突き刺してあった。
「シンゲッティの街全体が、一つの巨大な楽器だったんだ…」
 脇机には香炉があり、火打ち石で火を付けると、かぐわしい乳香の香りとともに、幾条もの煙が模型の街を這い、オルゴールに似た音色を建てた。
「しかし、一体何の目的で、このような遠大なな計画を? せっかく築いた街を砂に埋もれさせ、魔物の棲み家にしてしまって、一体何の得があるというんだ? アシュトン一家が魔物の一味だと言うのなら、どうしてもうこの家にはいないんだ?」
 彼は図面棚の設計図を片っ端から引きずり出した。
 どれもの窓や戸口に、いろんな色の矢印が書き加えられている。
「アシュトンは天才音楽家だったのよ」
 声のほうを振り返ると、街の入り口で出会った少女が、一本のムーア人のギターを持って立っていた。
「で、人間の聴衆を喜ばせるのに飽きてしまって、今度はこの星自体を喜ばせようとしたの。そのためには、小さな楽器では埒があかなかったのよ」
「キミはアシュトンの一族なのか?」
「だとしたら?」
 少女の瞳がキラリと輝いた。
「街を元通りの緑豊かな土地に戻してくれ」
「あら、この世界は別に人間たちだけのものではなくってよ」
「分かっている。分かっているけれど、ここが故郷の人だって多いんだ」
「人間たちも、多くの生き物の故郷を奪っているわ。一カ所くらい逆襲しても、文句は言えないはずよ」
「キミがアシュトン本人だな?」
 彼は書斎に備え付けの衣装棚を開いてみた。
 普通は男女別々のはずの衣装が一緒にしまわれている。おまけに、大人のものと子供のものが混じっている。鬘や付け髭も並んでいる。
「──おまえは不老不死の魔法使いだな? よくも街の人々を騙してひどい目に遭わせてくれたな!」
 彼は、抽斗を開けて何か武器になりそうなものを探した。ナイフの類はなかったが、短い笛や葦笛がぞんざいに放り込んであった。
 彼はすかさずその一本を口にくわえた。
「あら、道具は同じでも、正しい曲を吹かなければ、何も起らなくてよ」
「何か起るか、何も起らないか、やってみなければ分かるものか!」
 アッサムは必死で、いま街が奏でててるのと同じ曲の変奏曲を吹いた。
 するとどうだろう、押し入れのほうから一本の細長い舌が伸びてきて、彼をぐるぐる巻きにからめ取った。
「た、助けてくれ!」
「おや、生兵法はケガの元よ」
 鋭い牙をきらめかせている暗闇の中に引きずり込まれる寸前に、やけくそで吹いた一節が、いましめを解かせた。
「も、もとに戻すメロディーもあるんだな?」
 息を荒げて少女のほうを見つめる。
「あるとしても──」
 彼女は嘲笑った。
「──どうやって音を出すのかしら? このシンゲッティの隣に、あなたたった一人でもう一つ新しい街でも建設するというの? 魔法の旋律も知らない癖に」
(ちょっと待て)
 アッサムは考え直した。
(こいつがもしアシュトンだったら、もう目的はとっくの昔に達成されているはずだ。さっさとわたしを殺して魔宴でも何でも始めればいいハズだ。なのにまだ生かされている。いままでこのシンゲッティに押し寄せてきた有名無名の魔導師たちは、みんな手前の砂漠で骸骨にされたにも関わらず、だ。これは絶対にまだ何かある…)
「キミは、アシュトンではないな?」
「さあて、どうかしら?」
「箪笥の衣装や付け髭は、フェイクだ。キミがもしも本物のアシュトンだとしたら、そんなものすごい秘密はそう易々とは見せないハズだ。なのに簡単に見せた、と言うことは、そういうふうに思い込ませたいからに過ぎない」
 ほんの一瞬だが、少女が唇を歪めたのを彼は見逃さなかった。
「──本物のアシュトンを一体どこへやった? …ははん、実はキミも探しているところ、そうだな?」
 あっちこっちの壁を拳で叩き、耳を近づけて音を確かめる。
「無駄よ。そんなことで秘密の部屋が見つかるくらいなら、もう見つけている」
 彼女は窓の外に目をそらせた。
「アシュトンを探し求めている奴がいる。そうだな? で、まだ誰も肝腎の彼を見つけだしてはいない…」
 もともと青白かった少女の顔からさらに血の気が引く。
「あわよくば、ぼくが見つけるかもしれない、そう思っているんだろう?」
「何とでもお言いなさい。あなたなんか、この街のことを何もわかってないんだから」
 そう言いつつ、少女は壁の中に吸い込まれるようにして消えた。
(砂漠でやられていた面々は、みんな相当の才能の持ち主たちだった。彼らをいとも簡単に葬ったあの少女が見つけだせない人間などいるのだろうか?
 アシュトンもまた、すでにこのシンゲッティを見限って、どこかへ去ってしまったと考えるほうが妥当なのではないだろうか?)
 彼はアシュトンが座って図面を引いていたであろう椅子に座って、目の前の設計図を眺めた。
 とりたててどうということのない共同住宅のようだ…
(建物の一つ一つはごく普通のもののはずだ。
 しかし、窓や戸口は、それらが一つの街を形成した時、非常に意味のある位置に設計がなされている。
 つまり、一種の魔法だ。
 そんな凄い、また変った魔法を操るアシュトンは、人間ではないのではないか? 少なくともあの少女ですら、隠れているのを見つけ出すことのできない魔力の持ち主、ということになる…)
 アッサムは少し離れて図面を見てみた。
 やはり何の変哲もない…
(ヨーロッパのほうでは、「建築は凍れる音楽」と言うらしい。ならば製図は楽譜を書く作業に似ている、と言っても過言ではないだろう。ジッと見ていれば、きっと何か分かるのでは…)
 彼は、しばらくのあいだずっと、アシュトンがしたためた三面図や、細かい部屋の間取り図などを見つめていた。
 アシュトンの構想では、街の建物はほとんど長期の砂嵐や、今回のような自然の猛威に対しても対応できるように、言い換えれば地下水を何が何でも枯渇させないように、地下水脈に負担をかけないよう、建物や道を配列することになっていた。
 シンゲッティの街全体を巨大なドームで覆うような一枚スケッチを見たとき、何かが閃いた。
(もしや…)
 窓の外を覗いて見た。
 相変わらず砂嵐が巻き起り、大量の砂塵が街全体に降り注いでいる。
 家々の尾根には魔物たちが所在なさげに何かを待っている…
 アッサムは想像してみた。この街全体が透明なドームで覆われ、それから砂が押し寄せ降り注いでいる姿を。
(おそらくアシュトンは、最後の仕上げにこの町をドームで覆って、それから適当に砂に埋めてしまうつもりだったんだ。
 ドームには窓を開ける。そして街全体が呪文の旋律を奏でる。それで覆う砂の量を加減して、太陽光線を適度に制御できれば、シンゲッティは素晴らしい砂漠の楽園になるはず、だった…
 しかし、最も重要なカナメであるドームが出来なかったことから、悲劇が始まった…)
 彼は時折転びながら、あのたった一人だけ残っていた老婆のところに戻った。
「あなたがアシュトン、ですね?」
 彼は老婆の背中に向かって問いかけた。
「人違いじゃ。アシュトンはもっと偉い人じゃ」
「どうして、ドームができなかったのですか? それさえあれば完璧だったはず」
「この街のすべての建物は人間が作った。設計者、労働者、職人…
 ただし、あんたのおっしゃる街全体を覆ってしまうようなものは今の技術を持ってしても、人の手で作ることは全く不可能。それこそ魔法で作るか、作らせるより他に方法はない」
「しかし、砂は押し寄せてきている」
「いや、押し寄せてきたんじゃあない。呼んだのだ。わたしが。
 ただし、ドームが出来るより先に来てしまったのだ」
 そう言うなり老婆は、変装をかなぐり捨てた。あとにはビザンティンの金色の髪をなびかせた若い男が立っていた。
「やっぱりアシュトンじゃないか。どうして街を滅ぼし、人々を路頭に迷わせるようなことをした?」
「実験だ。ちゃんとビザンティンの皇帝陛下の許可も得ている。だから、自分の国でやる訳には行かなかった」
「なんだと!」
 アッサムは魔法建築家の胸ぐらをつかんで締め上げた。
「そう責めるなよ。成功して、ここが砂漠で最初の楽園となる可能性も少なからずあったんだ」
「おまえさんの実験のせいで、街がめちゃくちゃに…」
「だから、わざとじゃあない、と言ってるだろう」
 と、新たに人の気配が近づいてきて、二人はもみあうのをやめた。
「ビザンティンの魔導師アシュトン、やっと見つけたわ。まさか地上に這いつくばって、泥水を啜っているとは思わなかったもので」
 例の少女は偃月短刀をスラリと抜きはなって二人に突きつけた。
「だから言わんこっちゃない! おまえのせいでバレたじゃないか」
「そんなこと、いつかはバレることだ」
「アシュトン、わたしと一緒に来て、音楽を奏でる街の──いいえ、砂や魔物たちを呼ぶことのできる旋律を奏でる街の、設計方法を教えなさい」
「嫌だ、と言ったら?」
「無理矢理にでも来てもらうわ」
「愚かな… 誰がおまえなんかと組んだりするか、アルハザードの娘よ! わたしは仮にもビザンティン皇帝陛下のお側に使える魔導師なのだぞ。貴様や貴様の父親のような追放者とは訳が違う」
 襤褸服の胸元から、一管の横笛を取り出した建築家は、アラビアのものでもない、アフリカのものでもない、ビザンティンのものでもない奇妙な音楽を吹き始めた。すると、それまで漫然と家々の屋根にたむろしていたガーゴイルに似た魔物たちが、急に三人の上空に集まってきた。
「なるほど、ね」
 少女は顔色一つ変えずに、眉を引き締め指をぱちりと鳴らした。
「そのあなただって、もはや帰るところはない癖に!」
 ほどなく空の一角に、黒い点が湧き出たかと思うと見る見る大きくなって、シンゲッティに集っていた魔物たちを、もの凄い勢いで吸い込み始めた。
 やがて、街の上空や屋根の上には一匹の魔物もいなくなった。
「ふーん、やるじゃないか」
 さすかにアシュトンの眉が引きつった。
「ちょっと待て、二人とも無益な争いはやめろ」
 アッサムは睨み合っている二人の真ん中に割って入った。
「ただの人間は引っ込んでいろ!」
「邪魔よ!」
 二人の魔導師はそれぞれ指先で蹴鞠ほどの炎の球を造って彼のほうに向けた。
「まあ待て。私は確かに取り立てて何の取り柄もない、命もたった一つしか持たない儚い人間だ。がしかし、音楽を奏でる街も、またその旋律の素晴らしさは十分に理解できる」
「だろう? だったら引っ込んでいろ!」
「ただの人間が、シンゲッティの音楽の素晴らしさが分かる、なんて片腹痛いわ。これはただ聴いて楽しむための音楽じゃあないのよ」
 二人は同時に腕を振りかぶって、燃えさかる炎の球を投げつけようとした。
「頼む、もう一言だけ聞いてくれ。──アシュトン、キミは何で失敗したんだ? 原因に心当たりはあるのか? 例えば、この娘が妨害したとか」
「あなた莫迦じゃない? 術を盗みに来たあたしが、どうして邪魔をしなくちゃあいけない訳?」
「原因は分からない。だからぼく自身、街から立ち去らずにいたのだ」
 アシュトンはいまいましそうに足下の砂を蹴り上げた。
「ひょっとして、アシュトン、それにそこの娘も、まだ何かわたしに隠していることはないか? ひょっとしたら力になれることがあるかも知れない」
 少女の表情は変らなかったが、アシュトンはかすかに顔を伏せる仕草をした。
「まだ何かあるのだな、アシュトン? 三人で力を合わせれば、シンゲッティを元のような緑の街に戻せると思わないか?」
 アッサムは建築家の肩を鷲掴みにした。
「…いや、もう無理だ。この街は滅びる」
「どうしてそう断言できるんだよ?」
「それは…」
「言っちゃあだめ。それ以上は」
 少女の視線がアシュトンを射た。
「構わない。アシュトン言え。言ってみろ。まだ間に合うかも分からない」
 砂嵐によどんだ空に、塔や家並みの影がぼんやりと浮かび上がる。
「シンゲッティを選んだ理由だが──」
 アシュトンは振り絞るようにうめいた。
「──ここでなければいけない理由があったんだ」
「二人とも、もとよりここから一歩も出させないつもりだったけれど、これでもう確実に生きて帰る見込みは無くなったわね」
 彼女は短い口笛を吹いた。
 すると、砂の中から一本の長い剣が生え出て、少女は身に余るその剣をまっすぐに構えた。
「始末する」
「アッサムさん。逃げてください。ぼくが時間を稼ぎます」
「ちょっと待て、アシュトン。ここでなければいけない理由、というのは一体何だ?」
 答える間もあらばこそ、少女はまっすぐに突き掛かってきた。アシュトンはどこからともなく製図用の金属製の長い定規を構えた。
「愚かな! たかが定規で…」
 だが、彼の定規は見事に少女の剣を跳ね返した。
「さあ早く、アッサムさん! よく持って五分だ」
「そんな…」
 少女の第二撃が建築家を襲う。
 彼は今度も受け止め、すり上げた瞬間、相手の頬に傷さえ付けた。
(勝てる!)
 アッサムはそう思ってその場に留まろうとした。
「これは仮の話です。決して目覚めさせてはならない凶悪な魔物がいたとして、あなたはそれをどこに封印しますか?」
「それは、地の底とか深い海の底とか…」
「正解です。それが分別というものです」
 会話を交したことによって、アシュトンのほうに若干の隙が生じた。そして、少女はその隙を逃さなかった。
 次の瞬間、彼は袈裟切りに斬り下ろされ、砂を地に血に染めて倒れていた。
 少女は血糊を振り払い、アッサムのほうにゆっくりと歩いてきた。
「『助けてください』と言っても、聞き届けて下さる訳ないよね」
 アッサムの覚えている限り、少女は始めて微笑んだ。
「もちろん」
「ところでキミは、アシュトンがいまわの際に言った言葉の意味が分かったか?」
「ただの戯言よ」
 少女が剣を振りかぶった。
「わたしには分かった。はっきりと」
「ふん。命惜しさに知ったかぶりか」
「ウソじゃあない。本当に分かったんだ。彼がこのシンゲッティで、音楽を奏でる都市を設計した真の理由が」
「言ってみろ」
「命を助けてくれたら」
「あたしの約束が信用できるのか?」
「信用する。だから約束してくれ」
 少女はしばらく考えていた。
「いいだろう。約束しよう」
「有難う。それではいまこのシンゲッティを覆い尽くしている砂と、元からこの街の地盤を形成してた砂…その全てをサハラに戻してくれたら、キミにも分かると思う」
「何だと? おまえはこの街の下に、何かが埋められているとでも言うのか?」
「アシュトンの言葉、そんなふうに聞こえなかったかね? まさかいまから死に行く人間がでまかせを語るとは思えないが」
 少女は剣を砂に突き刺し、「ハーッ」と長い深呼吸をした。
「…これだけの砂を全部どけるのは、例えどんな魔導師の力を持ってしても難しい。ランプの魔人か、都市の奏でる魔法の音楽の力でも借りない限り」
 彼女が口の中で、古の言葉による短い呪文を呟いた。
 ほどなく、風向きが変り、窓や戸口の奏でるメロディーがそれまでのものとは一変した。
 異国の、という言葉では片付けられない、名状しがたい、何か獣か龍の唸り声のような音が、繰り返し繰り返し、一定の法則をもって奏でられていた。
「こ、これは!」
 アッサムは思わず耳を塞ぎつつ叫んだ。
 少女は、と言えば、さすがにこれだけの砂を一気にどけるために魔力を全て使ってしまったのか、砂の上に両膝をついて喘いでいたが、やがてがっくりと俯せに倒れた。
 砂はそんなことにはお構いなく、雪崩を打ってサハラ砂漠のほうに戻って行く…
「危ない!」
 砂ごと攫われそうになった少女を、彼は間一髪抱きかかえて、反対の方向──西へ向かって全速力で逃げた。
 途中、ちょっとだけ振り返ると、アシュトンの遺体が砂の潮に飲み込まれて消えて行くのが見えた。
 うねりの先端は、またもやすぐ足下まで迫っている。その後は再び振り返ることもなく走りに走り、駆けに駆けて、シンゲッティの街の外一里のあたりまで逃げたところで、ばたりと倒れた。
 彼自身、バグダッドに帰れば幼い子供がいるとはいえ、つごう二里、少女を抱えての疾走は、夜とは言え辛かった。
 軍隊の重装歩兵の一回の突撃がこれくらいだ。
 シンゲッティの方向からは、ゴゴゴ…と不気味な地鳴りに混じって、あの不気味な音楽が鳴り続けている。
 二度目に振り返った時、シンゲッティのあった場所、次第に砂嵐がおさまりつつある場所には、地蜂の巣に似た、巨大な円錐形の構築物がにょきにょきとそびえ立っていた。
「あ、あれは…」
 目を凝らすと、全貌が明らかになった。
 人間が築いたシンゲッティの街は、大量の火薬で吹き飛ばされた如く跡形もなくなり、すり鉢状にえぐり去られた底のほうから、その構築物が顔を出していた。
 音楽は… 人間の建てたシンゲッティの街が奏でていた第二の旋律、不気味で名状し難いものと同じだ。
「人より昔に栄えていた生き物たちと、彼らの音楽か…」
「どうして、どうしてわたしを助けたの?」
 少女が荒い息の下で訊ねた。
「そんなこと決まっているだろ」
「あたし、人間じゃあないわよ。あのアシュトンとか言う奴も」
「人間じゃなくても人間の姿をしている」
「そう… だったら早く元の姿に戻ればよかったわね」
「いまここでは戻らないでくれ」
「そう… 命の恩人の願いは、聞き届けなければね」
 シンゲッティの塔や屋根に集合していた悪鬼たちは、より生き生きと黒い蝙蝠に似た羽根を羽ばたかせて、新たな居住区の屋根に整列して並んでいる。
 まるで何か英雄が戻ってくるのを、歓呼の声を上げて待っている群衆のようだ。
「まだ何か現れると言うのか?」
「見ないほうがいいと思うわ。普通の人間が見たら狂い死ぬわ」
 彼女はポツリと呟いた。
「キミはどうなんだ?」
「あたしだって、ただでは済まないかも…」
 アッサムは少女をかばうようにして、砂漠に伏せ、耳を覆った。
 少女は抗ったものの、魔力も気力も使い果たしていたので、されるままだった。
 恐ろしい音楽は、これほど離れているにも関わらず風に乗って聞こえてきた。
 地鳴りが轟き、地面が続け様に激しく揺れ続けた。
(もうだめか…)
 そう覚悟を決めた時、地震が鳴りやみ、地獄からの旋律も次第に静かになった。
 二人が恐る恐る顔を上げると、夜明けの光の中に、果てしない砂漠だけが広がっていて、あのおぞましい建物も、妖魔たちもきれいさっぱり消え失せていた。
「何とか命だけはあったみたいだ」
 アッサムはどしりと砂漠に腰を下ろした。
「──アシュトンは、シンゲッティの下に何か恐ろしいものが棲んでいることを知っていて、それを呼び出すか、飼い慣らして武器にでもしようと考えて、街全体を、太古の街が奏でていたのと同じ旋律を奏でる楽器に改築した。途中までは上手くいったものの、制御できるハズの砂漠の砂は操れず、術は完全に失敗に終ったんだ。
 失敗に終ってよかったよ。とことんまで上手く行っていたら、街の人々全員が、下で眠っていた奴や、その下僕たちの餌にされていたかも知れない…」
「世界のあちこちには、まだまだそういった街がたくさんあるわ」
 少女はポツリと言った。
「古い街の上に新しい街を築くというのは、よくある話だけれど、その古い街の中には、人が築いたものじゃない街も多いのよ…」
「さてと、どうするかな。これから太陽が昇ったら、炎天になるだろうし、水と食料はまるでなし。最も近いオアシスまではまる三日もかかるときた」
「心配ないわ。それくらいだったら送ってあげる。わたしの力も回復したし」
「おやおや、急に親切になったんだな」
「借りを作るのは嫌なの。目をつむって」
 アッサムは目を閉じた。そしてすぐこっそりと薄目を開けると、目の前で大勢の人々が砂漠の彼方を指さして大声で騒いでいた。
「大変だ! シンゲッティのほうがとんでもないことになっている!」
「地震か?」
「伝説の化け物じゃあないか?」
「こっちへ来ないだろうな?」
(こっちへは来ませんよ、たぶん)
 彼は心の中でそう呟いて、隊商宿へと向かった。そして、次にチュニスに向かう隊商に加えてもらうつもりだった。幸い、財布は落とさずに持ち続けていたのだ。

 帰りの船のあいだじゅう、彼はシンゲッティで聴いた旋律を懸命に思い出して譜面に写していた。
 アシュトン設計の街が奏でた最初の旋律。
 奇妙かつ不気味な構築物が奏でた人のものではない第二の旋律…
 いろいろきちっと再現し終った末に、彼はその譜面を割れて捨てられていた壷に入れ、地中海の最も深いあたりに投げ捨てた。
 壷はブクブクし水泡だけを残して沈んだ。
(でも、このわたしが覚えているんだよな)
 アッサムは思い出そうとしたのと同じくらいの努力を払って、それを忘れようとした。
 酒、寄港地のさまざまな音楽、そして面白い本…
 しかし、きれいさっぱりとは忘れられないうちに、バグダッドまで帰ってきてしまった。
 港で家族と涙の再会を果たすと、彼を遙かシンゲッティまで派遣した書記の配下によって、さっそく役所に連れて行かれた。

「報告書は、できているだろうな?」
 人払いをした後、書記は険しい表情で言った。
「恐れながら、あれは文書に残すには、あまりにも恐ろしいことでございました」
「チュニスの総督府には、おまえがちょうどシンゲッティに赴いているあいだ、そこで大規模な異変が起きた、との報告が入っておる」
「はい。それは確かに…」
「では報告書と、現地で聴いたであろう楽譜を出せ」
「まだ一行も書いていません」
「ならば、完全なそれを書くまで、ここから帰ることは許さん」
「そんな、ご無体な…」
「従わなければ、家族を牢に入れてやる」
「分かりました。楽器をお借りします」
 アッサムは仕方なしに、部屋の隅にあった琵琶をとって、シンゲッティで聴いた旋律を奏でた。すると、役所の庭の砂がむくむくとあふれ出て、風に乗り、窓からその部屋へと吹き込んできた。
「素晴らしい! これは魔法の音楽か! この音楽があれば、わが軍…いやわしは無敵になる!」
 彼は、曲を変えた。少女が砂をどけた後に現れた、太古のシンゲッティの街が奏でた曲に…
「でかしたぞ、アッサム。今後、これらの曲は、わしが命じる時に、わしのためだけに弾いてくれ」
 上役は有頂天になって、窓から太い、鱗に覆われた鞭のような触手が侵入してきたのに気づかなかった。
 鞭は、書記をからめ取って、アッという間に中庭の砂の中に消えた。
 アッサムは何回も取り調べられたが、結局「何も知りません」で押し通した。
 死体も何も見つからなかった以上、誰も彼を罰することはできなかった。
 その後、彼が仕事の上で重要な案件を任されることはなかったものの、街を歩いている時、窓や戸口を通り抜ける風に、ときどき耳を傾ける仕草を奇妙に思う者は一人や二人ではなかった。



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