ミグの不思議なカード

 アメンホテプ四世王が即位される前、ギザの街はずれにミグと言う若者が住んでいた。
 ミグは、普段は役所の下級書記として、戸籍台帳の管理や、様々な小さな訴え事の記録を仕事にしていた。
 口数も少なく、控え目な性格で、特に目立たったところのないどこにでもいそうなこの若者には、一風変わった能力があった。
「カード占い」である。当時「占い」と言えば九割がたが「占星術」つまりは星占いだったので、まったく異なる手法を用いる彼の占いは、当初こそ多少疑念の目で見られていたものの、「よく当たる」と言う風評が広まるにつれ、アマルナやアスワンと言った随分と遠方からも依頼人が訪れるようになった。
 彼が使う「カード」は極上厚手のパピルス製で、地元の神殿に祀られている神々…イシス、オシリス、ハトホル、ネメシス、アヌビス、バステト…らとは少々違った、奇怪な怪物がたち描かれていた。なるほど、見ようによっては、大きな鋭い翼を広げた生き物はホルスに、鰐みたいに全身鱗で覆われたものはセベクに、蛙の頭を持った魚人はヘケトに、似ていなくはなかったが、そこここの壁画に描かれている姿よりは、ずっと不気味かつ始源的で、いわゆる「様式」にはまるで則っていなかった上、今にもカードから抜け出てもぞもぞと動き出しそうなぐらい真に迫っていたものだから、若い娘たちの中には、これから占おうと言う時に泣き出す者も少なくなかった。
 占いに訪れた者の中には、この奇怪な絵柄に怖気たちながら、これらは何を描いたものなのかとミグに訊ねた者もいたが、そうした時、ミグは微笑を浮かべながら「古い時代の支配者の姿です」とだけ答えた。
そうした言葉を放つ時の彼の表情には、セトのごとき禍々しさを感じさせずにはいられない空恐ろしい何かがあり、質問をした者はふと彼の占いには偉大なるラーに背く何かが秘められているのではないかと思い抱くのだった。
 しかし、彼の占いはそうした禍々しさとは無縁の穏やかなものであり、しかもそれが非常によく当たった。
 種子の蒔き時、収穫の時期、ナイルの洪水やいなごが襲来する日と言った重要なものから、就職や恋愛・結婚の相談、運を向上させるには、と言ったごく一般的なものまで、脅かすような言葉は決して使わず、親切かつ親身になって依頼人の相談に乗ってやった。
 普通、近くの神殿や神官たちの許可なく占いをやることは許されなかった時代のことである。ミグが咎めを受けなかったのは、彼が占いに対して全く報酬を貰わなかったからだ。 貴族や金持ちなどは「どうしても」と言って、金銀宝石や、麦や棗椰子や反物などを無理矢理に置いて帰ったものの、金銀宝石については神殿に奉納し、生活物資については恵まれない村や家庭に配って、何一つ自分のものにはしなかったものだから、これはもう、どこからも文句が出るはずがなかった。
 やがて、ついには、依頼人が老若男女、富める者と貧しい者とを問わず引きも切らないようになって、とても公休日だけでは捌き切れないようになってしまった。
 世話になった人々の中には「この際、役所にお役ご免のお願いを出し、依頼者からは若干のお礼を取って、整理をする人を雇い、専業の占い師として身を立ててはどうか?」と勧めてくれる者もあったが、ミグは頑なに固辞した。
「ぼくは人々の幸せを祈って、及ばずながら占いを立てているだけです。お礼など金輪際頂くことはできません。従って仕事のほうを辞める訳にはいきません。公休日に訪れる方々は、今までと同じく、時間が許す限り順番通り見させて頂きます」
 ミグのような下級書記の公休日は十日に一日である。当然の事ながら占いの依頼人の予約名簿はアッという間に一年、二年先まで埋まってしまった。…中には「待ち時間の順番を早めてくれ」とこっそり金品を送りつける者も現れたが、ミグはそういったものは全部送り主に送り返していた。
 ところで、実は、ミグはギザの出身ではない。
 数年前のある日、どこからともなくふらりとやって来て「何でもいいから働かせて下さい」と申し出たのである。その頃、ギザでは昔のファラオたちが建てた三大ピラミッドの修復をしたり、時々偶然に発掘される、それよりもっと大昔の、神聖文字よりもっと古い時代の楔形に似た文字を刻んだ石版やオベリスクを掘り出すのに、人手はいくらでも必要としていた。
 そこで彼はとりあえず現場で働くことになった。たまたま珍しい石版が見つかったと言うので、炎天下、仲間と一緒になってころを噛ませ、椰子の葉を幾重にも結ったロープを引っ張って掘り起こす作業していると、総責任者の大神官が天蓋の付いた輿を何人もの奴隷に担がせてやってきた。
「このような文字は私も見たことがありません。一体、国じゅうに読める者がいるのでしょうか?」
 現場監督の神官が訊ねても、大神官は首をかしげ、顎鬚をひねるだけだった時、疲労のために意識朦朧となりかけていたミグが半ば上の空で呟いた。
「…そは永久(とこしえ)に眠る者にあれど、
永劫なる時の果てには死もまた滅せん」
「貴様これが読めるのか?」
 監督に襟首を掴み上げられたミグはハッと目を覚ました。
「滅相もございません。ただ、そんなふうなことが書いてあるのじゃあないかなあ、と思っただけです」
「労働者風情が、いい加減なことを申すではない!」
 だが、このやりとりは、輿の上の大神官の耳にも届いてしまった。彼にとって幸運だったのは、この大神官がひとかどの人物だったことである。
 大神官は、部下たちに「ミグに下級書記の試験を受けさせてみるように」と命じた。
 採点をして驚いたことに、彼は象形文字や民衆文字はもちろん、神聖文字も、遠くフェニキアやバビロニアの文字もすらすらと読み書きできた。成績は満点だったが、門閥の後ろ盾がなかったので、下級書記にしか任じられなかったものの、当のミグは大喜びした。
「このような素晴らしい能力があるのに、どうして最初からそのことを言わなかったのか?」
 大神官は、最初はやや疑いの眼差しで彼に問うた。
 ミグはなかなか答えなかったが、やがてぽつりと呟いた。
「知識は必ずしも、その持ち主を幸せには致しません」
「それは真実か?」
「猊下のお心のままに」
「ではそういうことにしておこう」
 大神官も満足し、見慣れぬものが出土すると、内緒でミグに相談し、あるものは埋め戻し、あるものはわざわざ海まで船で運んで、深い海溝に捨てた。
 その時から人目に触れるようになったのが例の異形たちが描かれた一組のカードである。
「それは?」
 額に皺を寄せて尋ねる大神官に対して、ミグは静かに答えた。
「ぼくが故郷から持ってきたただ一つのものです」
 大神官は駆け引きに長けた老人だったので、それ以上はもう何も聞かなかった。
 こうなると気に入らないのはトト神を奉じる主流派の占い師たちである。彼らのうちの特に嫉妬深い三人は何とかして、ミグの占いがよく当たる秘密を突き止めようとした。
 そしてついに次の結論に達した。
「奴の占いの秘密は、きっとあの変なカードにあるに違いない。あのカードを奪い取って調べ、からくりを暴けば、我らもきっと真似することができるようになるだろう…」
 まず最初に彼らは、何とかしてミグのカードを盗み出すことを考えた。
 だけども、ミグは愛用のカードを肌身離さず身につけて、水浴の時も油紙に包んで頭の上に紐で縛り付けて手放さなかった。
 次は、物騒にも、ならず者たちを雇って力ずくで奪い取ろうと策略を巡らせた。
 が、これも少々無理だった。ミグの周囲にはいつしか恩を受けた者たちが集まり、無料で彼の役所への行き帰りを警護したり、不審な依頼人を予め調べる役目を買って出ていたからだ。大きな騒ぎを起こせば、自分たちも火の粉をかぶらずにはいられない…
「それでは…」
 心邪な者たちは無い知恵をさらに絞った。
「まず絵の上手な者を雇って依頼人に仕立てる。そやつには占って貰っている最中に、ミグが目の前で使っているカードのうち、覚えやすい図柄のものを何枚か、徹底的に頭の中に叩き込んでもらう。帰宅後、覚え込んだ図柄を正確に写し描いて偽物のカードを作る。
 それから、今度はまた別の、掏摸に長けた者が依頼人として再訪し、隙を狙って本物と偽物とをすり替える。…こうすればミグは、本物のカードが何枚か盗まれたことに決して気づくまいて…」
 がしかし、予約は数年先まで埋まっている。
 悪い占い師たちは、「どうしたら早く借金が返せるか?」を相談に行こうとしていたある男を少なくない金で買収し、その男の身代わりに、有名美術作品のニセモノ造りとして知られる画家を行かせることに成功した。
「気をつけて下さい…」
 送り込まれた贋作者を前にしてミグは静かに言った。
「今からでも遅くないから正しい道を歩んで下さい。貴方自身は決して悪い人ではありません。ただ、もしも、悪い人たちに能力とかを利用されることになると、しかも貴方がそれと分かっていて、そういう人たちとのつき合いを続けると、遠くない時期に復讐の女神アスタルテの鉄槌が下るでしょう…」
 ニセモノを作ることを生業としている画家は震え上がったものの、彼も詐欺師仲間相手に小さくない借金を抱えていたので、もう後戻りはできなかった。
 彼は必死で、目の前に示されたホルスと言うよりは蝙蝠に似た羽根のある生き物と、セベクのような鰐の頭を持つ怪物と、ヘケトらしい蛙頭の魚人の図案と、全部のカードに共通する背の図柄とを徹底的に覚え込んだ。
 実は開示されたカードは他にもっとあったのだが、この画家の能力では、比較的覚えやすい三枚、と共通の、星辰が描かれた共通の背模様だけと言うのが精一杯の線だったのだ。
 盗賊団の工房に戻った彼は、いま見てきたばかりのデザインを懸命に思い出して下絵に起こし、そっくりの紙と絵の具を選んで贋作造りを開始した。
 仕事は手早いほうだったから、三枚の偽のカードはほどなく完成した。
 ただ、制作している最中、ミグから告げられたあの占いが、ずっと頭の中から離れなかった。
『…貴方がそれと分かっていて、そういう人たちとのつき合いを続けると、遠くない時期に復讐の女神アスタルテの鉄槌が下るでしょう…』
「できました。…できましたから、今度こそもうこんな仕事から足を洗わせて下さい」
「ああ、抜けさせてやるよ」
 盗賊団の首領は出来上がったカードの出来映えに目を細めながら言った。
「そうですか、有り難うございます」
「…おまえの腕は大変に惜しいが、秘密を守るために、必ず消してくれ、とおっしゃっている方々がいるのでな」
 言い終わるか終わらないうちに、団の仲間たちの何本もの短剣が画家の身体を貫いた。
「そんな… 約束が違う…」
 彼は砂の底深くに埋められ、秘密を知る者は確実に一人減った。
 次は掏摸の名人の登場だった。
 彼はホルス、セベク、ヘケトもどきの描かれた三枚のカードを懐に忍ばせ、ミグのところへと出かけて行った。今度も支払いに困っていることを相談に行こうとする者の頬を金の延べ棒で張って。
「今からでも遅くないから、正しい道を歩んで下さい」
 ミグは、この男にも、画家と同じことを告げた。
 掏摸は、ミグが瞑目して極度に精神を集中している間に、三枚のカードを目にも止まらぬ早さですり替えた。
「…貴方の場合は事態が切迫している。もし何でしたら、ぼくの身辺警護を買って出てくれている人々のうち、特に武勇に秀でた者を護衛に付けて、外国へ行くことのできる船の出ている港まで送らせましょう」
 それを聞いた掏摸の名人は矢も盾もたまらなくなって、走って外へ出た。
 掏摸は盗賊仲間の贋作者が、街から出た形跡もなくふっつりと行方不明になったことを聞いている。
 その途端、暗殺者の一人が走り寄って、掏摸の心臓を一突きに突き、掏摸の取った本物の三枚のカードを持って一目散に逃げた。
 女性たちは悲鳴を上げ、男たちは犯人を追ったが、逃げ足が早く、ついに逃げ切られてしまった…
 こうして、カードは三枚だけ、三人の邪な占い師たちの手に落ちた。これを手に入れるに当たっては莫大な金を悪党どもに払っていたので、喜びは殊の外だった。
 彼らは、いつも秘密の会合に使っている、窓の全くない離れの土蔵の分厚い扉に鉄の閂を掛け、召使いたちに「酒も料理も持ってこいと言うまで誰も来るな」と命令してから、ゆっくりと奪い取ったカードを取り出した。
「おお、これがそうか、何だ、図柄が気味悪いだけで、何の変哲もないただの紙きれじゃあないか…」
「こっちもそうだ。しかし、これはいったい何を描いたものなのだろう…」
 三人の邪な占い師たちが、めいめいに灯火の明かりに照らして眺めているうち、カードに描かれた翼あるものと、鰐に似たものと、蛙らしきものたちの姿がゆらゆらと蠢いたかに見えた。
「まさかな… 絵が動き出すなどとは…」
 絶叫と悲鳴を聞きつけ、閂を回りの壁ごとたたき壊して部屋に入った召使いたちや弟子たちは、あまりの光景に息を呑んだ。
 ぶちまけられた大量の血と、散らばった肉片、衣服の端切れ、それがその部屋にあるすべてだった。
 苦労して手に入れたカードは、どこにもなかった。ただし、いかに頑丈な扉とは言え、下の隙間には紙切れ一枚くらいはすり抜ける隙間はあったのだが…
 その日のうちに、ミグは忽然と姿を消した。
「欲深き者たちは、欲によって滅ぼされる。秘密を探って利用しようとする者は、その秘密によって滅ぼされるのです。ぼくは故郷でもそのことを繰り返し説きましたが、残念ながら耳を傾けてくれる人はいませんでした」
 最後に彼に占ってもらった者は、ミグがそう言っていたことを皆に伝えた。
 人々は彼のことを「欲望の果てに、互いに最終兵器の製造競争を行っていると言われるアトランティスを早早に見限って逃げてきた落人ではなかったか?」と噂し合った。
 素晴らしかった占い師を失った第十八王朝は、この後、偶像嫌いのアメンホテプ四世が王位に就いたものの、サントリーニ島の火山の大噴火に始まる開闢以来の天変地異や凶事が次々と埃及王国に襲いかかったことは、歴史が伝える通りである。

 written by MIG and KIJISUKE

KIJISUKE@aol.com