冥王の末裔 01/05/11

                1

  下宿のドアを激しく叩く音がして、赤いチョッキのお仕着せを着たメッセンジャーの幼い少年が息を切らせながら入ってきた。
  新聞社がいつもよこす子とは違う。いつもの子はつい先ほど「員数も記事も足りているので、当分出社・寄稿に及ばず」というろくでもない手紙を持ってきたばかりだ。
  受け取った時点で手紙の中身が分かろうはずがないから、わたしはその子にもいくらかのチップを渡していた。
「ディケンズさん、急ぎの手紙です。ここに受け取りの署名をお願いします」
  わたしはポケットの小銭の中からペニー銅貨を選んでボーイに渡した。
  少年は頬を林檎色に染め、かぶっていた鳥打帽を脱いで一礼すると、安下宿の階段をきしませて帰っていった。
(やれやれ、いい加減で手紙の配達を仕切る国営の会社でもできないものだろうか。こちらも赤新聞の使い走りの駆け出し記者の身の上、このままではチップ代だけで破産してしまう)
  差出人の欄には、インクの跡も黒黒と、
「ロバート・オウエン」と署名されていた。(やれやれ、またあのご老体だ)
  目の前が真っ暗になった。
  確かにあの老人は偉い。彼の運動が実って、つい先年「一般工場法」が王立議会で成立したのだ。この法律は九歳未満の児童の労働を厳禁し、一三歳までの子供は一日最長九時間、一週間最大四八時間までの労働とし、さらに一八歳未満の少年少女の深夜労働を原則として禁止した画期的な制度だ。
  わたしも弁護士事務所の事務員だった頃から噂は聞いていたが、新聞記者に転職してからは何回か彼の演説を聞き、単独でインタヴューしたこともある。
「貴方自身、大きな工場の工場主でありながら、自分や同業者の損になるようなことをなさるのですか?」
  今から思えば我ながら随分間抜けなことを聞いたものだった。
  オウエンは白髪を振り乱し、口角泡を飛ばして答えた。
「子供は勉強したり遊んだりするのが仕事じゃ!」
  恐る恐る手紙を開くと、案の定ぞっとしないことが記してあった。

「親愛なるチャールズ、
  その後、新聞記者の仕事はうまくいっておるか?  もしも行き詰まっておったら、僭越ながら儂の教えたこと−−『富める者の味方をするのか、貧しき者の味方をするのか』を考えよ。
  もしもネタに詰まっているのなら、一つ提供してやろう。
  グラスゴーに近いレインズボロ郊外のコークス採炭場で働いていた数名の少年少女が仕事中−−即ちヤマで石炭を掘っている最中に忽然と姿を消した。
  過労と栄養失調で死亡したところを密かに火葬されたのでもなければ、落盤で埋もれてしまったのでもない。
  正真正銘、入っていったきり出てこないのだ。
  地元ではケルト人が密かに掘った地下回廊を通って脱走したのだ、という者もあれば、それ以前のデーン人の地下洞窟に迷い込んだのだ、という者もいる。
  もう十年若ければ、儂自身が赴いて断固調査するところだが、もはや細く暗く暑い炭坑の坑道には耐えられんじゃろう。
  やってくれるつもりなら、同封の小切手は手付金じゃ。気乗りがせんのなら、破り捨てること。
  チャールズ青年の才能を評価している−−
  老ロバート・オウエン」

  わたしは気乗りがしなかった。
  正直言って、わたしは気楽な旅行記や、下町の人情ものの記事が書きたくて記者になったのだ。
  不気味で奇妙な話なら、ブラム・ストーカーやシェリー夫人に任せておけばいいのだ。
  かと言って目の前の小切手を破り捨てる勇気もなかった。なにしろここ数日、フィッシュ・アンド・チップスしか食べていないのだ。
  新聞社のお下がりの古い地図と時刻表と、見出しでウイリアム四世陛下のご病状を知らせる新聞を引っ掴むと、わたしはロンドンの鉄道の駅へ向かう辻馬車に飛び乗った。

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  車窓からは、荒野とヒースの茂みばかりの光景が続いた。地主たちが延々と囲い込んだ朽ち果てた柵が、荒れた大地を一層寒寒しく見せている。
  ロンドンの方角を見ると、そこだけが雨雲に覆われているかのように黒い煙が垂れ込めている。
  永遠に晴れることのない黒雲−−
  石炭を燃やし、その時の蒸気によって動く織機や汽船、機関車などの機械の発明は、オウエン老人の言葉を借りると、「石炭と機械に奉仕する多くの奴隷」と、瘴気さながらの濁り淀んだ空気を日々大量に生み出し続けている…
  二等車の乗客は、地方に赴任する下役人らしいすり切れたフロック・コートと山高帽の紳士と、その家族、開くとすぐに店開きができる大きなトランクを脇に置いたロンドンからの小間物の行商人やカンタベリーに向かう国教会の若い牧師、とりとめもない話を絶え間なく喋り続ける着飾った婦人たちなど、多士斉斉だ。
  駅に止まる度の乗り降りも頻繁で、眠ることも、シェリー夫人の本−−死体を継ぎ合わせて甦らせられた怪物が暴れ回る話−−を読むこともままならない。「次はレインズボロ!  レインズボロ!」
  車掌の叫び声に促されたわたしは、行商人に負けないぐらいの擦り切れたトランクを担いで、小さな駅に降り立った。
  回りには黒い石炭の山−−ボタ山がいくつも築かれている。ここから貨車に積み替えられて、都市や工場に向かうのだ。
  わたしと一緒に七、八人の青年および少年少女が汽車から降りた。おそらく、大勢の失踪者をだした鉱山が新たに買った労働力なのだろう。彼らは無蓋の荷馬車に相乗りして出発した。みんな顔を伏せ、おし黙っている。
  おそらくだいたいが地主に立ち退きを迫られた小作人の倅か、織機の発明によってあぶれたかつての織り子たちだ。みんな借金のかたとして、涙金程度の金額で長い契約をし、見知らぬ土地にやってきた者ばかりだろう。
  人気がなくなってから改めてあたりを見渡すと、彼方に小さく、ローマのブリテン守備隊が築いた防塁と、デーン人のメンヒル(丘陵状の陵墓墳)が見えた。
(あの辺にいまも棲み続けているピクト人かゴブリンが、子供たちを攫って喰ったのかも…)
  莫迦なことを思いつつ辻馬車を雇って、鉱山に向かうことにした。辻馬車の御者もまた、街で問題を起こしてこの僻地に流れてきたような、安物のジンの臭いをふんぷんと漂わせた鬚面の男だった。
「旦那、鉱山(やま)の関係者(ひと)じゃあありませんね?」
  御者はしゃがれた声で訊ねた。
「僕は新聞記者だ。大勢の少年少女が坑道で採掘中に行方不明になったという噂を取材に行くんだよ」
「連中は偶然、ティルナノーグに通じる道を見つけて脱走したんだよ。…全くもって羨ましい限りだ」
  彼は道端に唾を吐き捨てて言う。
「ブリタニアのどこかにあると言う伝説の楽園さ。楽園の伝説は世界中にある。ギリシアにも、支那にも、俺の生まれた街にもキャメロットという王道楽土の伝説があって、アーサー王や円卓の騎士たちが世の乱れに目を光らせているんだ」
「随分と詳しいんだな」
「地上はもうじき煙突からの煙と廃液で地獄になるぜ。−−もっともずっと前から地獄だったような気もするが。
  頼みの綱は地底の楽園、という訳さ。アーサー王でも誰でもいいから、俺たちを救ってもらいたいものだね。
−−おっと、もっとも子供たちが見つけた秘密の抜け道は、子供しか通れない細い穴の向う側にあるらしいぜ。
  でなければ、噂が立った時点で、強欲な鉱山監督や山の主が放っておくはずがないだろう?」
  馬車はトロッコのレールを横目に見ながら走った。途中、石炭を山盛りに盛ったトロッコともいくつもすれ違った。かすかな勾配があるのか、積み出しは押すだけで下の駅まで降りていく…
  やがて、木造の宿泊所がいくつも並び、事務所らしい。
  わたしは御者に多い目の心付けを渡した。
  ここへ来て最初に取材したネタとしては、結構引く話だったからだ。
「気を付けて下さいよ、旦那。ここのウェイトリーとか言う監督は黒魔術を使う、って噂ですよ」
「まさか!  魔導士なら子供に逃げられることもなく、追いかけることも簡単だろう」
「『向う側』にいる奴が、ウェイトリーを上回る術者なんですよ。ざま見ろってえんだ。
  ともかく、旦那は見たところただの人間だから、用心に越したことはねえ」
  帰りのことを考えると不安だったが、御者は折り返して帰ってしまった。鞄の中のノートの束がやけに重たい…

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  鉱山事務所は、一部新しく建てられたものを除くと、当地レインズボロに古くから伝わる領主(マナー)の館を改造したもので、近代産業とは程遠い、黴臭く、今にも崩れそうな有様だった。
  応対に出た下っ端の採掘監督も、墓場から甦ったような眼窩の凹んだ  青白い顔のひょろっとした年齢不詳の男で、汗と機械油と黒い粉塵にまみれた極めて屈強なローマ風の奴隷監督を想像していたわたしは、拍子抜けする以上に寒けを感じた。
  血の色をした赤い絨緞を敷き詰めた応接間に案内されると、木製の車椅子に乗り、膝から下を赤い毛布で覆ったマルコム・ウェイトリーが待っていた。
  カーテンも赤、テーブルの上にはシャトー・ディケム(葡萄酒)の赤。チッペンデールの椅子や机がなければ、赤ずくめの部屋だった。「我が鉱山に、何の御用ですかな?」
  声は喉を病んでいるかのようにくぐもり、甚だ聞き取りにくい。
「新しい法律のことはご存じですね?  子供を鉱夫として働かせることは禁止されたのです」
「知っている。だが周知期間があるはずだ」
「子供たちの話を聞きたいのです。記事に書いて載せれば、互いに損のいかないように、帝国も…」
「どうせ儂を極悪非道の奴隷商人にでもするつもりなのじゃろう。−−まぁよい。栄光あるサクソン人はもはや永久に奴隷を手放したのじゃ。これからはいかなる仕事も自らの手を汚してやらねばならぬ」
  そう言うウエイトリーは、サクソン人と言うよりも、ノルマン人かデーン人の祭司の面影を残している。それもローマの端正さと理性ではなく、古い、迷信と呪術に満ちた世界の末裔であるところの、生まれながらの狂気と、侵しがたい心の領域を持つ者独特の、宙に浮かんでいる雰囲気を。
「鉱夫の食堂で非番の者の話を伺えれば、ほかに用はないのです。もちろん、組合がどうのとか、法律がどうのとか、扇動演説は行わないことは堅くお約束します」
「ま、せっかくはるばるとロンドンからいらしたのじゃ。夕方の、上りの汽車で帰るのなら、いいじゃろう」
  軽く会釈を済ませ、背中の曲がった執事に案内されて、入ってきた扉とは違う扉から出たわたしは、背筋に何か冷たいものが覆いかぶさるのを感じた。別に脅迫や恫喝があった訳ではない。ただ、マルコム・ウエイトリーの人間離れしたまがまがしい気は、百万言の脅しよりも戦慄を感じさせた。
「この屋敷はかつてノルマンの征服王の別荘があった場所に建てられているのですよ」
  執事は迷路のような廊下を案内しながら、問わず語りに言った。
「−−キリスト教の地下納骨所もありますが、そこはローマのしきたりや宗教が伝わる以前から、先住民族が祭司場として祈りを捧げてきた神聖なる場所なのです」
「僕は不信心な男だが、神聖だとか、不浄だとかは、どういった基準で分かるのかな」
  執事は血走り目脂のたまったやぶにらみの眼でギロリと睨みつけた。
「それはウエイトリー様のように、霊的な才能に恵まれていないと、難しいのかも知れませぬ。現在のみでなく、遥か過去、太古の世界から連綿と受け継がれた血脈がないと」
  汽車に乗る前に調べたが、ウエイトリー家の家系は相当に古く、記録が残っているだけでもヘイスティングスの戦いにまで遡ることができる。伝説も併せると、巨石文明を築いた名も特定できない古代民族までも…
  その支流からは幾多の王や公爵も数多く出ている。
  しかしなぜか彼らは、公式の歴史書や貴族名鑑、紳士録の類からは無視され排除されている。
  ウエイトリーの先祖が魔法を使い、数多くの暗殺や謀略に加わったから、という風説はどうやらまんざら嘘でないらしい。そのことは、ここを訪れてはっきりとした。

                4

  煤で煙った太陽が中天に差しかかった。
  運良く鉱夫たちの交替時間になり、けたたましいベルの音が埃の舞う空気を揺るがせた。
  炭坑の中からはまっ黒い人形(ひとがた)が続々と這い出てくる。
  どれもこれもが小さくよたよたとしているのを見て驚いた。小さな人間は大きさに見合った小さなつるはしとカンテラを持っている。
  やがて棟割りのシャワー小屋に飛び込んだ彼らは、石炭と泥土に汚れた作業衣を脱ぎ捨て、入念に身体を洗い、新しい作業衣に着替えると、弾かれたようにまっしぐらに食堂に向かった。
  一人が出るとすかさずもう一人が飛び込む。
  まるで最新発明の自動機械だ。
  何よりも、彼らがみな子供なのに驚いた。
  一番大きい子でも一五、六歳、小さい子は七つ八つにしか見えない子もいた。
  男の子もいれば、女の子もいる。わずかに膨らみかけた胸でやっと見分けがつく。
  オウエン老人ふうに言えば「明らかなる法律違反」だ。
  食堂に向かう途中の子を捕まえて話を聞こうとしていたわたしの目論見は見事に失敗した。みんなわたしの姿などまるで見えない様子で、全速力で走り抜けて行く。
  中にはわたしにぶつかりながら、そのまま行ってしまう子もいる。まるで津波かバス
チーユに向かうパリの民衆だ。
  反対に、これから採掘に向かう遅番の子供たちは、一応ちゃんとした隊列を組み、口をま一文字に引き締めた、やや大人びた表情ですれ違った。
  さすがに友達どうしは軽口を叩き合い、手を触れ合ったりしていた。
  子供たちの最後の列が引き潮のように引いた後で、よろめきながら食堂に向かった。
  あの勢いに比べれば、普通に歩いていても病人の足取りだ。
  食堂の入口を潜ると、数百の目が一斉にわたしを見た。
  彼らが手にしているブリキの食器は光り輝くまでのカラッポだ。
(ああ、これからまだ配膳なのだな)
  その考えが間違っていることはすぐに分かった。
  ブリキの皿を名残惜しそうに舐っている子供が何人かいたからだ。
「あの…」
  かろうじて声を掛けるよりも早く、子供たちは食堂の壁際にある蚕棚やハンモックに次々と飛び移って、古いボロボロの毛布にくるまったかと思うと、たちまち寝息を立て始めた。
  坑道から出てから十分とはたっていない…
  魔導士マーリンが操っているにしても、これほど手際よくは行かないだろう。
  中でただ一人、ほんのかすかに寝返りを
打った子がいた。元の色柄がどんなものだったのかさっぱり分からないほどの褐色になった毛布からチラリと覗いた顔は、男とも女とも区別がつかない、色白の上品な目鼻立ちだ。
「眠れないのかい?」
  ゆっくりと歩み寄ったわたしは、目を堅く閉じて眠ったふりをしているその子に向かって囁いた。
「−−名前だけでも教えてくれよ」
「スティアフォース」
  声を聞いても、まだ男の子なのか女の子なのかはっきりしない。
「男の子なのかい?」
  カチンとしたのか、澄んだ灰色の瞳が覗いた。
「貴方は誰?」
「これは失礼した。僕はチャールズって言うんだ。新聞記者だよ」
「新聞記者が何の用?  あの化け物のウエイトリーがよくうろつくのを許可したね」
「今夕の汽車で帰れ、と言われたよ」
  わたしは肩をすくめ、首をかしげた。
「−−どうせそれぐらいじゃあ何も分からないだろうと思ったんだ」
「時間がないんだね。でも、残念だけれど、貴方が聞きたいことは話せないよ」
  スティアフォースは遠くを見る目で、そこここにハンモックのぶら下がった、落書きだらけの柱や梁を眺めた。
  元は白い色だったのだろうが、いまは灰色や黒っぽい色のハンモックは空のものがあり、冷たいハイランド地方の隙間風にゆらゆらと揺れている。
「どうして?  ウエイトリーが口止めをしているのか?  だったら僕はとてもいい人を知っている。議会や女王陛下にかけあって、子供が勉強もできずに働くことを法律で禁止させた人なんだ。その人は議員の友達も多いし、場合によっては警察にだって…」
「ウエイトリーじゃない。あいつは何も知らないよ。もし知ったらえらいことになる」
「『えらいこと』?」
  少年は口をつぐみ、頭から毛布をかぶりなおした。
(これ以上は聞くだけ無駄のようだ)
  そう思ったわたしは、根掘り葉掘り聞くのはやめて、話題を変えた。
「寝つけないのなら、このレインズボロの鉱山を案内してくれないかな」
「いいよ」
  スティアフォースは蚕棚から跳ね起きて、手早く作業衣を着た。
  気配で他の子が二三人目を覚まし、薄く目を開いたが、彼が軽く目配せをすると、また眠りに就いた。どうやらスティアフォースこそがここで働いている子供たちのリーダーらしい。
  早番と遅番がすっかり入れ替わって誰もいない広場を横切って、道具小屋に向かった。
  つるはしやカンテラは作業中の鉱夫の数だけしかないはずだが、彼は別の非常用の木箱から取り出した。
「貴方は途中までしか無理だと思うよ」
  それから坑道の入口の脇にある機械小屋へと移った。
  扉を開けると、シリンダーやピストンや大小いくつもの歯車を組み合わせた見たこともない機械がたくさん、ぶんぶんと唸りを上げている。
  ところどころの安全弁からはピーという笛の音とともに時おり蒸気が噴き出し、部分的には汽船や機関車の動力部に似ていなくもなかったが、やはりまるで違っていた。
「ここは他の鉱山よりずっと深く、先のほうは迷路のようになっていて、熟練した炭坑夫でも迷うぐらいさ。当然、きれいな空気なんか行き渡らない。だから、この最新式のコンプレッサーとかいう機械で、地上の新鮮な空気を、地の底まで送り届けているのさ」
  スティアフォースは麦藁の束に似た管の一本をわたしに渡した。
「何をしているの。早くそれをくわえるんだよ」
  彼は自ら管を浅く口に含んで見せた。
(そう言えば、最近発明された海の底に長く潜っていられる潜水服とかいうものにも、海面からこんな管で空気を送っていた…
  これから行くところは海の底のような地底なのか?)
  そんなことを考えながら、坑道の入口を潜り抜けた。
  死人そっくりの蒼ざめた顔の出入口の監督は、文字通り冥界の下っ端の番人の如く、鼻提灯を膨らませながら白河夜船であった。まるで、好き好んでここから入る者など誰もなく、時間前に許可なしで出る者などいない−−ひどい罰を受ける−−ことを確信しているようだ。
「入坑も出坑もうるさくないさ。坑内では落盤や出水の事故がしょっちゅうで、員数が合わないのは当り前だから」
  カンテラの光がチラチラと瞬き、ムッとする土臭く生臭い風が吹き上げてくる地底へと続く道を眺めたわたしは、正直言っておじけづいた。
  ここから先へ進むと、二度と明るい太陽の光も、草木の匂いのする新鮮な空気も吸うことができない予感がした。
「どうしたの?  やっぱり止めておく?
  もちろん、そのほうが賢明だと思うけど」
  束になった管は束のまま、ずっと先へと続いている。ついさっき笑顔で潜って行った子供たちの命の綱だ。
「いや、行けるところまで行く」
  わたしは一歩を踏み出した。
  カンテラの黄色い光が黒い粉が敷き詰められた地面を照らす。
  石炭が入っている雑嚢がそこここに散らばり、空の袋の束が脇に揃えて置いてある。
  途中、小型の滑車を設けた縦穴をいくつも通り過ぎた。
  管のうちのいくつかは中央線から枝分かれしてその穴を下がっていっている。
  時々、滑車がカラカラと回って、石炭の入ったずっしりと重い袋が上げられてきた。
  そういう袋を見かけると、スティアフォースは袋を鉤から外して溜りに積み上げた。
  レインズボロ鉱山の横坑は、ゆるやかな登りと下りの勾配を繰り返ながら、幾十本の支道と縦穴に分かれていた。
  地下第一層の最深部に、何かカンテラの明かりとは少し違う、赤黄色い光が差している縦穴があった。
  その穴から何本かの空気管が下がっている。
  潜って掘ってる子供がいる証拠だ。
  わたしは試しに管をわざと外してその場の空気を嗅いでみた。
  地獄から立ち上るかのような硫黄や他の瘴気がムッとするほどたちこめていて、危うく窒息死するところだった。
  スティアフォースは桧の樹液を酒精で薄めたものを含ませた布をくれた。
  火事場に飛び込む消防夫のように、これで瘴気を防げ、ということらしい。
  縄梯子にしがみつき、時々足を滑らしながらも、先のスティアフォースに遅れまいと、何とかゆっくりと降りて行く。
  白い有毒な蒸気か靄に似た気体は、降りるに従って濃くなり、しまいには、一寸先も見えなくなった。
  これでは取材どころの話ではない。
  何も見えない。ここはもうとてもまともな鉱山と呼べるものではないと思った。
  いや、かすかに、カーン、カーンとつるはしを振るう音だけが聞こえる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
  スティアフォースの叫ぶ声に、思わず大声で答えた。
(この下には、まだ年端も行かぬ子供たちが大勢、それも半日、休息なしで働いているのだ)
  そう思うとひるんではいられなかった。
  何とかこの恐るべき実態を丹念に見聞きして、オーウェン老に報告しなければならない…
  ま下にぼんやりと黄色く光るものが見えた。
  どうやら光苔か、鉱物の一種が発光しているらしい。
  目の前の壁の、鍾乳洞の白いカゼイン質の岩石にも、大英博物館の標本室でも見たことのないキラキラと不気味かつ妖しく輝く雲母ふうの岩石が輝いていた。
  まだ何段もあると思っていた梯子が途切れ、靴のかかとがぬるつく岩に当って、危うく
滑ってひっくりかえりかけた。長い長い梯子はそこで終わっていた。
  スティアフォースはまるで自分の生まれ育った街を案内する身軽さで、横穴の、随分と先のほうまで行ってしまっている。
  手を大きく振る様子がぼんやりと見えた。
  わたしは半ば跪く体勢で、蟹のように横歩きしながら彼を追った。
「待ってくれ!」
  声は覆面(マスク)でくぐもり、届いたかどうかはなはだうたがわしい…
  カンテラで回りを照らして見ると、黒い石炭などはもう一かけらもなく、代わりに、オウム貝やアンモナイト、鱗木や三葉虫の化石がびっしりと詰まった固そうな岩盤が延々と続いている。
「この坑道はきみたちが掘ったのか?  それにしてはさっきまではあった柱も梁もないが」
  この区域の歩行にようやく慣れ、スティアフォースに追い着いたわたしは、自分のつるはしで太古の醜い甲冑魚の化石をつつきながら訊ねた。
「この道は、僕らが掘ったものじゃあありません。偶然に見つけたものなんです」
「じゃあ、ローマ帝国の塹壕なのだろうか?」
「いくらハドリアヌス帝(ブリタニアに長い防塁を築かせたことで有名なローマ皇帝)でも、こんなにきれいに化石を傷付けずに掘ることは不可能だった思いますよ。それにローマ帝国の公式記録にも、こんな燧道に触れたものはありません」
「すると…」
「それ以前。ケルト人やデーン人やピクト人か、ひょっとすると人間が掘ったものではないのかも知れませんね」
  もしも、掘削当初からこんな瘴気が立ち込めていたのなら、建設者は明らかに人間ではない。文明の利器、空気の管がなければ、人は一分ともたない。−−いや、管があっても、いまにも気を失いそうだ。
  カンテラの明かりが急に暗くなった。どうやら僅かな酸素もここで完全におしまいらしい。
  だが、光苔や発光石があるお陰で、まるっきり暗黒ということはない。靄のせいで、カンテラの明かりなどあってもなくても同じになっていた。
「ここはね、ディケンズさん、クロノスやハディスたちへの国−−冥王の国への入口なんですよ。僕らは生きながらにして、大昔の支配者−−いまではサタンだとかルシファーだとかベリアルの名で十把一からげに呼ばれている古の者共が封印されているところ−−への道を見つけたんですよ」
  振り返ったスティアフォースの顔を見て、わたしは危うく気を失うところだった。
  その瞳は青黄色く輝き、皮膚には薄い石の箔が生じて細かいひびが一面に走っていた。「ここはね、ディケンズさん、僕たちの国なんですよ。マルコム・ウェイトリーが必死で捜させていた、まさに闇の王国。
  ウェイトリーは僕らが発見すれば、到底隠しおおせぬ、と思っているらしいけれど、ここの主はウェイトリーの想像以上の力の持ち主なのですよ」
  わたしたちは、無数のつらら状の鍾乳石が垂れ下がり、石筍と地底の花のような色とりどりに光り輝く大きな結晶が立ち塞がる洞窟を這い進んだ。
  道はますます狭くなる。頭を打つことは数え切れず、腹を引っ込めて腰を無理やり通すことはしょっちゅうだった。
  ウエイトリーが鉱夫にあどけない子供たちばかりを雇い入れた秘密は、このことにあったのだ。
  この穴は絶対に後退不可能だった。もしも別の出口がなければ、もしも穴が循環構造になっていなければ、二度と出ることはできないだろう。
  ややあって、高さは大人がかろうじて立てるぐらいで、広さはテニスコートぐらいの広間に出た。
  思いきり伸びをするのを見て、スティアフォースは笑った。
  そこは地底の中継地点のようで、ランプの代わりに発光する結晶が掲げられた壁には、大小いくつかの穴があり、さらなる洞窟が伸びていて、管も続いていた。
「もう帰るだろう?」
  スティアフォースは真顔で訊ねた。
「−−ぼくらはもうじき幸せになる。みんなで幸せになるんだ。すでに楽しい暮らしを送っている友達がこの先にいる。だから、もう何の心配もいらないんだ。  そして、ウエイトリーに復讐する。
  みんな自分たちでやるから、オーウェンさんとかいう人の力なんか借りなくてもいいんだ」
「『幸せ』?  一体どういう意味だ?  ティルナノーグのように、地の底にあって太陽が燦燦と照り、木の葉が青青と繁る国があるとでもいうのか?  もしもそうならば、そこで穫れた果物を一つ、麦の穂を一本、見せてくれないか。
  だったら信じて、ここからまっすぐに帰り、見たり聞いたりしたことは誰にも話さない。
  たとえ話したところで、その程度の証拠では、誰も信じないだろう」
「分かった。ぼくがいい、というまで目をつむっていてくれれば、奥の仲間に届けるように言う」
  わたしは言われるままに目を閉じた。
  気配を感じる。何かの生き物がいづれかの穴からもぞもぞと這い出てくる気配だ。
  シュウシュウという妙な音が聞こえる。管から空気が漏れる音などではない…
  約束を破る気などさらさらなかったものの、夢の中での落下感に似た言いようのない戦慄を覚えて、半ば無意識のうちに目を開いてしまった。
  膜を通してみたような視界のつい向こうを黄色いブヨブヨとしたものがかすめ、すぐに見えなくなった。
  首を左右に振ると、空気の管を引きずったものの影がそれぞれの穴に逃げ込むところだった。
  それらは皆、黒に近い灰色の坑内服を着た子供たちの面影を残しており、どちらが頭とも尻とも、手とも足ともつかない黄色い、退化した器官を備えている。
「約束を破ったね?」
  スティアフォースは恐ろしい形相で睨みつけた。その灰褐色の手には黒白の洞窟にあって、まばゆいばかりの赤い林檎と、黄金色の麦の穂の束が握られていた。
「最初から破るつもりじゃなかったんだ。どうしようもないぐらいの寒け−−気配を感じてつい…」
  いくら落ち着こうと試みても、身体は震え、歯はガチガチと鳴った。
「そうか…  少し図に乗り過ぎた、と言うか、取り返しのつかないことをしちゃったみたいだね。
  あれを見たのなら、こんなものをいくら見せても、もう信じてはくれないだろうね」
  わたしが頷くのと、スティアフォースの手の中で林檎と麦が色を無くし、ホウ酸の結晶そっくりのもろい物質に変化しするのとは、ほぼ同時だった。
  彼が少し掌に力を込めると、それは粉々になって指の先からこぼれた。
  そのスティアフォースの手は、いつしか園芸に使うレーキの先のようにこわばり、金属的になって、ゆらゆらと不気味に蠢いていた。「−−もう先へは進めないよ。もちろん帰ることも」
「あれは何だ?  ここの環境がきみの仲間の子供たちをあんな姿に変えてしまったのか?
  それとも、この洞窟の主が、子供たちが着る坑内服を同じものを着ておどけているだけなのか?」
  やぶれかぶれになって叫んだ。
「両方とも正解だよ」
  彼はにじり寄りながら答えた。
「−−あれは仲間で、そしてここの王だ!」
  わたしは適当な穴を選んで逃げた。道順など全く知らず、洞窟の中では彼のほうがよほど素早く動けることが分かりながら、逃げずにはおられなかった。
  自分でも気持が動転し、慌てふためていてるのがよく分かった。スティアフォースの後をついて進んでいる時よりの半分ぐらいの速さでしか這うことができなかった。
  ほんの僅かに動く度ごとに、頭や肩をしたたかに打ち、流れ出た血が額を濡らした。
  当然スティアフォースは間髪を置かずにすぐ背後に迫った。化け物じみた手が踝を掴もうとするのを感じた。
  ところが何という僥倖だろう、偶然腕をついた箇所が落盤し、大小の岩の固まりとともに三、四メートルほど落下した。尻から着地したのも幸いだった。
  スティアフォースの舌打ちが聞こえ、爛爛と光る目が見えた。
「逃げるな!  逃げたら管を切るよ。そうするとどうなるか、分かっているだろう?」
  自分の管を見た。ここに入った時から命は彼らに預けているのだ。
(なるほどそうか。だが待てよ…)
  即座に逃げようとして回りを見渡すと、別の空気の管が横切っていた。
「そんなことをしてみろ、大切なキミの仲間のを拝借するぞ!」
  穴の上から呪ううめき声が聞こえた。どうやら化け物と化しても仲間は大切なようだ。(右か左か、どちらが深い部分に続いて、どちらが出口なのか…)
  余り迷っている時間はなかった。
 落盤で開いた穴からはスティアフォースが飛び降りようとしていたが、すでに下半身が卵形に変形しているために、這うことは早くできても、飛ぶ、降りるといった俊敏な動きはできなくなっている。
(ままよ!)とばかりに一方を選び、頭を打たぬように慎重に中腰で走った。
  どれぐらいの時がたったことだろう、値打ものだった懐中時計はすでにどこかに落とし、時間を確かめることはできなかった。ただ、坑内で働いている子供たちが交替した気配はないので、半日はたっていないように思われた。目の前に続いている管も、まるで動いていない。
  と、かすかに鑿を叩く音がした。
  カンテラの明かりらしい黄色い光も見える。
  どうやらわたしの勘は間違っていて、深部に向かって進んでいたらしい。
  ただちに踵を返して、今度こそ本当に出口に向かおうと決心した。
(奥にはどうせスティアフォースのように地底に順応して人の形と心を失った奴がいるんだ!)
  鑿の音がやんだかと思うと、声がした。
「誰?  そこで何をしているの?  −−こっちへおいでよ。僕は退屈してそろそろサボりたいと思っていたところなんだ」
  ひょうきんな、おどけて歌うような調子の声だった。
「キミは誰?」
「僕はトラッドルズ。おじさんはよそ者だね。どうしてこんなところに来たの?」
「キミも身体の形が洞窟に適応して変わってしまっているのかい?」
「そうだよ。そっちのほうが都合がいいもの。−−ところで、誰かに追われているのだったら、余り大声を出し続けていると居場所が分かってしまうよ!」
  わたしは声の方向に進んだ。
  卵形の身体にまだ人間の服を来た少年が坑道の行き止まりで、花のような形の奇妙な光る結晶を採掘していた。
  首はなく、足は退化し、マザーグースの挿し絵に出てくるハンプティダンプティのようだ。だが、空気の管は大切そうに口にくわえている。
「トラッドルズ、キミはこんなところで何を掘っているんだい?」
「見てのとおり結晶だよ。この結晶の粉を吸い続けるか触り続けるかすると、身体の形が変わってしまうようなんだ。でも、地上へ戻る、というか、地上に近付くと、人の姿に戻るんだ。だからこの変な格好はウエイトリーさんたちには見られていないよ」
  トラッドルズは鑿を投げ出して一息ついた。「実はスティアフォースに案内してもらっていたんだが、偶然キミのような姿を見た途端に怒り出して…」
「スティアフォース?  彼はこの結晶の粉を舐めたり、食べたりすることを覚えたんだよ」
「すると?」
「『力』は増すけれど、姿形以上に心根が変わってしまうんだ。以前はとても優しいリーダーだったんだけれど、今では『地底に子供だけの王国を造る』なんて、夢みたいなことを言っているよ」
  尖った花弁の花の形をした結晶が一時(ひととき)激しく輝いたかと思うと、白い粉末の粉を吹き上げた。
「この結晶は生きているのか?」
「生きているよ。ここよりもっと深い地底には、こんな結晶なんかより、もっともっと摩訶不思議な生き物たちがいっぱいいるよ。
  でもそこへ行くためには、もっとその場所にふさわしい身体にならなければならないんだ。空気の管だって届かないし…」
「行方不明となってウエイトリーのところに帰らない子供たちは、スティアフォースの指揮の下、皆『もっと深い地底』へと行ったのか?」
  わたしは咄嗟に海軍のガラパゴス島への探検に随行して驚異の見聞録をしたためたダーウィンという若手の学者のことを思い出した。
  人間がまだ誰一人として足を踏み入れていない世界への旅…
  いままで感じなかった脂汗が吹き出るのを感じる。この地底の温度は一定ではなく、現在は上昇に向かっているのに違いない…
「そう。マーチンもピップもエステラもドーラも、大きな茸を繰り抜いて、部屋や階段を造ってそこに住む、なんて言っていたな」
「キミは行かないのかい、トラッドルズ?」
「ぼくはまだ管が必要なんだよ。だから、行くことができないんだ」
  彼はつまらなさそうに答えた。
「ということは、管が必要でなくなれば行くのか?」
「分からないな。スティアフォースは誰かれなしに来てほしくはなさそうだったし…」
  脳裏には地底の王国に君臨するスティアフォースと、彼の眼鏡にかなった少年少女たちの姿が浮かんだ。
  彼らは時が熟するのを待って、ウエイトリーをはじめとする大人や大英帝国の支配する世界全体への復讐を開始するつもりなのだ。
  遥か遠くで呼子を吹く音が聞こえた。
「やれやれ、やっと交替だ。今日も飯とベッドにありつけるようだよ。人間の飯とベッドにね」
  トラッドルズは素早く道具を畳むと、管を巻きながら坑道を登り始めた。
  わたしは遅れないように必死で彼の背中に続いた。
  不思議なことに地上が近付くにつれて、彼の奇妙な体型はもとの人間らしくなった。あの結晶の効果は、一定の限度を越えない限り酒精のように冷めてしまうようだった。
  地上の出口付近でスティアフォースとその「地上組」の仲間が待ち受けていたが、さすがに何人もの勤務明けの少年少女たちに囲まれたわたしに手出しすることはできなかった。
  スティアフォースは恐ろしい形相でわたしやトラッドルズを睨みつけ、わたしは生きた心地がしなかった。
  出口では背中の曲がったウエイトリーの秘書と、土気色の皮膚をした屈強の監督たちに取り囲まれ、そのまま例の真紅の書斎に連れていかれた。

「どうでした、坑内は?  なかなか快適だったでしょう?」
  ウエイトリーは紙屑を丸めたような顔をさらにくしゃくしゃにして訊ねた。
「まるでバッキンガム宮殿でしたよ」
「それは何より…  ひょっとすると、女王も羨ましがるかも知れませぬな。…で、行方不明とされる子供たちについて、何か分かりましたかな?」
「いいや。ただ坑道はいつだれが行方不明になったとしても不思議でないほど複雑に入り組んでいましたよ」
「そうですか。そろそろお約束の夕方の汽車の時間ですが、貴方が潜っておられる間に儂の部下もこの先の丘陵遺跡で思わぬ発見をしましてな。お急ぎでなければそちらのほうも見ていってくれませぬか?  −−いえいえ、お嫌とおっしゃるのなら無理にと申しませんが…」
  ウエイトリーは真っ赤な口紅を塗った唇を歪めた。
  窓の外にはスティアフォースの腹心の少年たちが手に手につるはしを持って待ち受けているのが見えた。
  人間らしい穏やかな表情をしている者は誰もいない。みんな血走らせた目を吊り上げて、口の端からは少量の涎とも泡ともつかぬものを垂れ流している。
  あちらにも化け物、こちらにも化け物、しかしまだウエイトリーにはさしたる大きな恨みは買っていない。
「遺跡?  興味深いですね」
  わたしは心にもないことを言っていた。
「ちょうどいい!  今日のこの発見が当りだとすると、もう小便臭い子供たちの手を借りずともよいかも知れぬのですよ」
  彼はわたしの肩を抱いて促した。
  ウエイトリーや、秘書や監督に囲まれて風の吹き抜ける荒野を歩かされたわたしは、いつしか小高い丘の上に立っていた。
  露天掘りで掘り降ろされた競馬のコースほどもある巨大な穴の崖っぷちに立って見下ろすと、古代の街が見えた。
  大勢の専門家が注意深く掘ったらしく、数階建ての地中海ふうの白亜の建物の屋上の部分がいくつか、ほんの頭だけ姿を見せていた。
  感じとしてはスカラブレイかサーパンツ・ホールドの遺跡に似て、ノルマン以前の古の人々が実際にここに住んで生活をしていた様子が伺えた。
  すなわち、この地方の昔の家の特徴である石組の煙突や同じく石組の風除けの石塀、高い建物と低い建物の混在、さらに屋根が崩れなくなっている部屋には、暖炉や竈、壁龕が見受けられた。
「この街は、海と炭坑との中間に設けられたようですよ」
  ウエイトリーはダウジングの棒(山師などが持つコックリさんの金属棒)を玩びつつ言った。
「−−地下にかなりの燧道が設けられているのだが、片方の先からは潮の臭いが漂ってくる。もう片方の先は、どうやら儂の炭坑に続いておるらしい。
  この辺にはレインズボロだとか、有名なスカラブレイとかいった『レイ』の付く土地が多くてな。『レイ・ライン』と名付けて研究した学者もおったぐらいだ。
  儂もその説には賛成でな。遥かな昔、ポセイドンがハディスに密かに会うのに使ったよりも以前に、もっと偉大な存在によって造られた、と考えておる」
「で、『重大な発見』とは一体何ですか?
  目的が達せられたのなら、子供たちを危険な作業から解放してやって欲しいものです」
  手にしたコートを羽織ろうとしたわたしは、ウエイトリーに制せられた。
「そろそろ列車の時間だが、貴方には別の列車に乗ってもらう。
  子供たちが掘った、あるいは今日見つかった新しい異世界行きのプラットフォームから」
  言うなり彼はわたしを発掘現場の崖から突き落とした。
(いくら何でもこの高さから落ちては命はない!)
  目の前を幾重にも掛けられた梯子が過ぎるのを見たわたしは、すっかり観念して目を閉じた。
  身体はふわりとしたマットのような物体に叩き付けられた。
  骨も筋肉も、意識も大丈夫だった。
  恐る恐る目を開くと、蛙か昆虫の卵に似た卵白をかきたたせたような奇妙な物体の上にいた。
  卵白に混じった黒紫色の粒粒が卵の本体だろう。
(これが孵化すれば、何がかえるのか)
  思いもそこそこに、上に登ることを考えた。
  そこは古の街の最下層で、建物の出入口が開いていた。
  もちろん木製だったと思われる扉自体は、すっかり朽ち果てて跡形もない。
  上を見上げると、ドーヴァー海峡の崖に似た白い断崖が聳え、梯子はその真ん中辺りまで据えられていた。
(梯子はあそこまでだ。ということは、上から掘られたのはあそこまで、ということだ。
  ここを掘って発掘をしたのは誰だ?  子供たちか?  発掘には多量の瓦礫が出ただろうが、どこに捨てたのだろうか…)
  わたしは勇を奮って歩き始めた。
  街は結構広かった。
  有力者の家だったらしい豪壮な家もあれば、そうでもない小さな家が建て込んだ区域もある。
  紀元前後のヨーロッパ系のケルト人や北欧系のデーン人を中心とするわが英国の生活は、半農半漁のほぼ未開と言ってよいものだったと学んだが、思ったよりも貧富の差があったのだろうか。それともこの街は、彼等以前のもっと別の文明を誇った者たちの街なのだろうか…
  暖炉に竈、排煙排気の煙突や、排水用の溝などは高度な水準で整っていた。現在のロンドンで加速度的に広がっている貧民窟よりもよほどましなくらいだ。
  石組みはハドリアヌス帝の長城のようなローマ形式ではなく、鱗状に積み上げられた見たことのないものだ。やはりローマ以降の比較的新しい時代のものではないことだけは確かだった。
  地下へ降りる石段があった。一つや二つではない。そここにあった。
  ストーンヘンジやドルメンなどの巨石文明を築いた先史民族は、地下墳墓など地底を利用するのが好きだったと言うが、この街は度外れていた。
(後は降りるだけだ)
  街の四方を大きな通りに沿って一巡したわたしは、陽が西に傾いたのを契機に、石段の一つを選んで降りて見ることにした。
  暗闇に掛かるところからは夜光苔や虫から精製した発光塗料が明かりとなっている。
  足を踏み出したわたしは、想像しなかった臭いを嗅いだ。
  小麦が焼ける匂い…
  パンを焼く匂い…
  それとともに、かすかに子供たちが騒ぎ、はしゃぐ声も聞こてきた…





      冥王の末裔(承前)

                1

  子供たちの声は地の底遥か深くから聞こえていた。
  階段を歩み出したわたしは、今度と言う今度こそ二度と無事に地上には出られない気がした。
  ここは、無垢な子供たちを除いては人が侵してはならない土地−−ケルト人たちがドルイドの高僧の修行の場に使ったところ、デーン人たち大地の息吹を汲み取ったところ…
  大地母神ガイアとその子ウラヌスと二人の間にできた子クロノス、そのクロノスと妻レアの間にできたヘスティア、デメテル、ヘーラ、ハディス、ポセイドン、そしてゼウスたちの生まれた国…
  その後、世界は三つに分けられ、クロノスの男子たちのうち、ハディスが地底を、ポセイドンが海を、ゼウスが陸上を支配することになった。
  だが神神の世界でも至高の武器である雷が欲しくなったゼウスは、二人の兄とも結んで父クロノスの宝物庫を襲おうとする。
  もともとクロノスも父ウラヌスを討って覇権を握った神で、ウラヌスは斃された際に
「おまえもまた己の息子に倒されるであろう」
  と予言されていた。
  時の神クロノスは妻レアが産んだ五柱の神神たちを次々に飲み込んで予言を成就させまいと努力したものの、末子ゼウスだけは助けたいと思って産着に包んだ大石を飲み込ませたレアの計り事にかかり、いったん飲み込んだ子供たちを吐き出してしまっていた。
  父神クロノスに恨みを抱いていたゼウスたちは、まずクロノスによって閉じ込められてていたキュクロプスという怪物の封印を解いて暴れさせ、その隙に宝物庫を襲って、望みの通り雷を手に入れた。
  ポセイドンは海を自由に操れる三叉の矛を、ハディスは身隠しの兜をそれぞれ自分のものにしていた。死神や魔物たちが容易に姿を隠せるのは、今は冥界に鎮座しているこの兜のお陰だと言われている。
  雷の使い方をよく練習した後で、ゼウスは冥界に攻め込み、父クロノスとその親衛隊であったティターン族を再起不能に追い込んで、地の底深くに固く封印した。
  陸上も海も冥界ですら息子たちに奪われたクロノスは、いまは果てしない時の流れの中だけに生きている。
  息子であり夫である者を永久に幽閉され、苦労して貯えた宝物の殆どを息子たちに奪われたガイアは怒り心頭に達して、もう一頭の子飼いの怪物テュポーンをさしむける。
  一度はテュポーンに敗れたゼウスだったが、危ないところをアイギバンやヘルメスらに助けられる。
「このままでは勝てない」
  と考えたゼウスは、詭計を案じ、運命の女神たちに頼んでテュポーンに人間の食べ物を食べさせる。
  それを食べて神通力を失ったテュポーンはゼウスの雷に撃ち落とされる。
  以下、ガイアやウラヌスやクロノスの時代は終わって、オリュンポス山に陣取り、姉ヘーラを正妻に娶ったゼウスの世となった…

  階段を降りるに連れて、じょじょに大きくなる子供たちの声は、わたしには地底の光のない国に生まれた小さなゼウスと姉兄たちの声に思われた。
  三人の娘と三人の息子、計六人がクロノスとレアの間に生まれた子供たちで、長じてからはそれぞれが相当の「力」を持ったはずだ。
  足が棒になるぐらい降りたところで、ようやく横坑に続く道があった。
  それまでにも横坑はあるにはあったが、みな落盤で塞がってしまっていて、進むことはできなかった。
  その坑は、始めての進むことのできるものだった。と同時に、下へ降りる階段は泥炭で埋まってしまっていた。
  横坑を歩くこと二、三時間。
  幸い度重なる酷使にも、スペアの懐中時計は無事で、進路表示も兼ねる発行塗料に照らすことによって、地上が夜になっていることが分かった。
(やれやれ、とうとう夕方の汽車には乗れなかったな)
  一方で緊張のため肩を怒らせながら、一方で溜息をつきながら、先に進んだ。
  と、突然、目の前が開けて広間に出た。
  そこには、見たことのない鈍く輝く金属で造られた高さ六○フィートほどの巨人の像がざっと数十、通路の両端にずらりと並んでいた。
(クロノスやガイアの親衛隊、ティターン族か?)
  金属像のティターンたちは、みんな顔を覆う冠兜に似た仮面をかぶっていた。
  目と口が開いていて、鼻や耳の凹凸はない単純な形の仮面だ。無論、顔立ちまではまるで分からない。フェニキア風なのか、ローマ風なのか、意表をついて北欧風なのか…
  ラグナロク神話のロキやオーディーンは巨人であったという説があるが、それを容れると、彼らこそ仲間とはぐれたティターンだったのかも知れない。
  鎧はと言うと、金属の薄い箔片を鱗状に継ぎ合わせたもので、こちらも古いシュメールかメソポタミアに端を発し、バイキングやノルマンが踏襲したものそっくりだった。
  これらの文明の共通点は、民族発祥の伝説において、先祖が遠く天やあるいは海の果てからやってきた、と語られている点だ。ユダヤ教のように「人間は神によって造られた」という神話ではない。
  ティターンたちの膝や肘の防具には、自在に動かすことのできる鳩目があって、まるで主の命令一下、いつでも闘えそうな雰囲気を呈していた。
  わたしには彼らが数万年の時を越えて、この地を守る衛兵として立っているような気がした。
  と、廊下は土の壁を前に、唐突に終わっていた。
  子供たちの声は壁の向う側から聞こえてくる。
(壁は薄い!)
  そう思ったわたしは拳でトントンと叩いてみた。果たせるかな、土はザーッと音を立てて崩れ落ち、子供がようやく通れるくらいの狭い穴が現れた。
  わたしはその穴に入ってみた。午前中からの練習の成果で、何とか進めそうだ。
  彼方に眩しい光が見えた。目が地底の闇に慣れた者にとっては耐え難いほどの輝きだ。
  普通の大人なら途中でつかえてしまう狭くくびれた処も、何とか潜り抜けることができた。
  炭坑側の通路で吸った結晶の粉のせいで、スティアフォースの言う「変形」が起こっていたのかも知れない。
  だとしたら、自分で炭坑を掘ることはもちろん、坑道の視察もまるでしなかったウエイトリーは金輪際子供たちのところまでは行くことができないだろう…
  光はますます大きくなり、ついに視界全体に広がった。
  そこは街だった。
  地底の街。
  外観と輪郭は、遺跡の廃墟を丁寧に発掘し十分に手入れしたものと同じだった。
  石壁の建物とアーチ、木の門、庭園に生い茂る花花、噴水…
  住人は子供たちばかりで、肩のところでくくったローマ庶民風の貫頭衣を着て走り回っていた。
「大人だ!  変な服を着た大人が来た!」
  子供たちはわたしの姿を見るなり街の中心の広場目がけて逃げ散ってしまった。
  入れ替わりに、やや年嵩の少年少女たちが手に手に刃の輝く剣や、黄金の矢をつがえた黄金の弓を手にして立ち塞がった。
  先頭はスティアフォースで、トラッドルズの姿もあった。
「とうとうここまで来てしまったんですね、ディケンズさん。一体どれぐらい僕らの邪魔をすれば気が済むんですか?」
「ここが楽園であることは分かる。でも逃げちゃだめだ!」
  街全体に何とも言えない奇妙な感触を感じたわたしは、身振り手振りを交えて説明した。「−−炭坑がひどいのなら、ちゃんとみんなで訴えなければだめだ。オーウェン老人や議会が、きっと力になる!」
「嘘だ!  いまのいままで何の力にもなってくれなかったくせに!」
「僕らがやっと自分の国を見つけた途端、横取りするつもりなんだ!」
  周りにいた子供たちが口々に言った。
「よせ、ピップ、エステラ、ドーラ!
  この人はそんな人じゃあない。ないけれど僕たちの幸せを邪魔するとんだ御節介焼きだ」
  スティアフォースは手にした七色に光輝く剣のきっ先を突きつけた。
「よせ、スティアフォース!  食事は一体どうしているんだ?  まさかあの不気味な結晶の粉を食べているんじゃないだろうな?」
「ベーコンに卵、ポテトに法蓮草、焼き立てのパンにお菓子を食べて、新鮮な牛乳にジュースを飲んでいるさ!」
「そんなもの、この街のどこにあるんと言うんだ?  光と水と空気はあっても、小麦畑も牧場もないじゃないか?」
「わざわざ作らなくてもいいんだよ!  願うだけで出てくるんだよ!」
  一番小さな男の子が叫んだ。
「何だって!」
「余計なことを喋るな、ピップ!」
  スティアフォースが恐ろしい目で睨んだので、小さな男の子は泣き出しきそうな表情になった。
「怒ることはないじゃないか、スティア。どうせディケンズさんは−−」
  助け船を出そうとしたトラッドルズですら、つかつかと歩み寄ったスティアフォースに胸倉を掴まれた。
  どうやらこの地底の子供たちの楽園にさえ、絶対的な君臨者が誕生した、という雰囲気だった。
「デブは黙っていろ!  おまえはつい今日正式な仲間として認められたばかりじゃないか。
  この出歯亀記者に僕たちの秘密も喋っただろう?」
「だから、どうせ−−」
  わたしは彼が繰り返した『どうせ』という言葉が気になった。
(『どうせ』どうと言うのだろう?)
  と、その時、ドーンと鈍い地響きを立てて洞窟世界全体が揺れた。
  揺れはがくんがくんと数回繰り返され、途中の洞窟や通路の穴が埋もれるザーッという地鳴りが響いた。
「クッ、ウエイトリーの奴がやけを起こしたのか?  どうしても『神殿』にたどり着けないと諦めて、火薬で鉱山や遺跡を破壊しているのか?」
  建物や漆喰の石片が剥落し、少女たちが悲鳴を上げた。スティアフォースも立っておられずに片膝をついた。
「−−みんな慌てるな!  ここは大丈夫だ。あの方がおられる限り」
  それでもスティアフォースやトラッドルズや年長の少女たちは、より幼い子供たちをかかえて円陣を作って伏せた。
  振動はやや収まったのを見極めたわたしは、街の中心目指して走り出した。
(『あの方』はどういうことだ?  ウエイトリーとは別に、この世界の子供たちの首領がいる、ということか。
  もしそうなら、その者の正体を必ず見極めてやる!)
  揺れというか、蒸気機関のトルクのような規則正しい蠕動はまだ続いていた。
  建物から飛び出してくる子供たち、また逆に家の中に駆け込む子供たちと何度もぶつかり、掻き分けながら進むと、やがてここが地底とは思えないほど広い広場に出た。
  中央には、バールベックの石柱に似た巨大なギリシア様式の柱が直線や弧を描いて何本も並んでいた。ただし、柱だけで天井は失われたものか、最初から設けられなかったものか、存在していない。
  空も雲もない白く燦然と輝く空からは、太陽の光の数倍数十倍の光が差しているから、眩しくて長く見詰め続けていることができない。
(ここが、クロノスやハディスの神殿か?
  わが英国にあったなんて!
  …待てよ、いくつかの洞窟を越えた時に、時空の扉も越えてしまったのかも…)
  神殿には壁もなかった。おそらく長い長い間、誰にも脅かされることがなかったからだろう。中の様子は素通しで見えた。
  黄金でできた何かを置いて置くような器具が三つ、等間隔に並んでいる。うちの二つは槍か矛を立て掛けておくものと、兜掛けだった。
(あそこには、ゼウスたちによって略奪された冥界の至宝、三叉の矛と身隠しの兜が飾られていたのだ。すると、三つ目の黄金の皿には雷をいくらでも造り出すことができる雷の素が乗っていたはずだ…)
  もっとよく見ようとして、柱に近付いた。
  柱には影が全くない。
(光が真上から注いでいるせいか?)と思って、右手を差しのべて見たが、地面には影が落ちない。
  ようやくのことで、白い地面もまた、内側から激しい輝きをもって照り上げていることが分かった。
  広い柱の間を潜って神殿の中に入ろうと試みた。特に結界のようなものもなく、簡単に入ることができた。
  内部はがらんとして、像や装飾品の類は特になかった。その代わり、内陣の方から子供たちの声がした。
「甘いケーキを出して欲しいな!  白いクリームに真っ赤な苺が乗っているやつ!」
「わたしはキャンデーを食べたいな。色とりどりの、きれいな包み紙に包んであって、いろんな果物の味がするやつ…」
(この奥には、子供たちの願いを何でも叶える万能の神がいるのだ)
  わたしはコツコツと靴音を弾ませて、声のする方に向かった。
「お待ち!」
  後ろから声がした。
  振り返ると、黒い鞭を手にした二人の少女が立っていた。確かエステラとドーラと呼ばれていた子たちだ。
「ここから先は、シュブ・ニグラス様の子羊しか進むことができないのよ!」
「『シュブ・ニグラス』?  何だそれは?」
「古き神、『千の仔羊を連れたもろもろの邪悪の祖なる地母神』−−ハディスよりも、クロノスよりも、ガイアよりも、ウラヌスよりも古き神。
  人々がティターンと呼ぶ巨大なる下僕を造りし存在。宇宙の誕生とともに生まれ、ほどなく美しきこの星を棲み家としたものの、善なる神神に敗れて光なき世界に追いやられし創造主の一人…」
  告げるなり二人の少女は黒い鞭を放った。
  わたしは手と足をからめ取られて、輝く石の床の上に倒れ込んだ。
  眦を吊り上げたエステラとドーラが鞭を巻き取りながら迫ってきた。
  よく見ると、鞭を思われていたものは、二人の手の指先から直接伸びていた。
  トラッドルズの言っていた「変形」に違いなかった。
「あなたは冥王の生贄として、生きながら八ツ裂きにされるのよ」
  二人は何本もの鞭ならぬ触手でわたしを宙空高く持ち上げた。
  下を見ると、床には一面、色とりどりの菓子や飴玉や砂糖パンがが敷き詰められていた。
  それらは上からの光と、下からの光に照らし出されて、まるで生まれ立ての銀河の星星さながらに輝いていた。
  いつの間にか、子供たちが大勢集まっていた。
  腕組みをし、この上なく険しい表情のスティアフォース、トラッドルズは心配と不安に満ちた表情でわたしを見上げていた。
  神殿の内陣の飾り気のない祭壇の上には、黒い小さな粘土の固まりがもぞもぞと蠢いていた。
『あいつか…』
  わたしは思った。
『−−あんなやつのどこがそんなに凄いのだ?』
  次の瞬間、粘土の固まりは一気に百倍ほどの大きさに広がって、菓子の海に広がった。「早く!  僕らの神は怒っている!」
  スティアフォースが命じると、二人の少女は触手をねじらせて、わたしを膨張した粘土の中心に投げ込もうとした。
  と、その時、先ほどの地震がまたしても
揺った。地鳴り地響きともに前回よりも相当激しくなっている。
  子供たちは全員立っておれずにひっくり返り、わたしを捕らえていた触手も離れて、幸いにも綿菓子の上に落下した。
「何だ?  一体何だ?」
  スティアフォースでさえ慌てふためいていた。
  光る壁がはらはらと剥がれ落ち、小さな穴が開いた。
  現れたのは、ドリルの先端だった。間欠的な蒸気の噴出もあった。
  やがて壁の全面が崩れ倒れて、先端に巨大なドリルを取りつけた蒸気機関車の化け物が現れた。
  機関士の席にいるのは黒煙と土で顔を真っ黒にしたウエイトリーで、屈強の護衛たちが脂汗まみれになって、石炭をくべていた。
「ウエイトリー!」
  スティアフォースは顔を真っ赤にした。
「子供たち、それにディケンズさん、本当にご苦労だった。
  今日からは儂がシュブ・ニグラスの大祭司にして、この星最強の魔導士となる。
  一千年前のアラビアの不世出の魔導士、アブドゥル・アルハザード以上の魔導士にな」
  幼い子供たちはてっきり逃れ切ったと思っていた無慈悲この上ないかつての雇い主の姿を見て、互いに抱き合って震え上がった。
  エステラとドーラは自らの触手を機関車の化け物目がけて放ったが、機関車から蒸気バネ仕掛けでとび出した回転鋸にあえなく寸断された。
「残念だね。古代の魔法もきっと素晴らしかったと思うのだが、科学という名の現代の魔法はそれを上回る威力だろう?
  蒸気の力を使えば、馬なしで車を走らせることができ、風も漕ぎ手の奴隷がなくとも巨大な船を動かすことができるのだ!」
  ウエイトリーはさも得意げに、無数のレバーやハンドルを操りながら言った。
  やがて、地底の機関車は蒸気で逆噴射しながらズーンと神殿の広間に着地した。
  たちまちのうちに機械仕掛けの鋸や剣や槍が子供たちを取り囲んだ。
  もちろん、鉄砲や大砲の銃口も休みなくもぞもぞと標的を追っている。
  トラッドルズがまっ先に両手を上げて降参した。
「蒸気か、笑わせるじゃないか!  −−シュブ・ニグラス様、何卒あの小賢しい人間どもに、科学や文明と称するものがいかに非力なものかを知らしめさせ賜え!」
  スティアフォースやエステラやドーラの瞳が黄色く光った。
  それまで盆に乗るほどの大きさだった黒い流動体は、いきなり祭壇全体に黒い絨鍛と
なって広がり、グツグツとタールが煮えたぎるように沸き立った。跳ね上がったそれぞれの部分の先端には、昆虫の複眼に似た目が睨んでいる。
「おお、やはり本物じゃ!  これぞまさしく邪悪なる神の一つ…  おまえたちのような何も分からぬ餓鬼どもが、シュブ・ニグラス様の下僕とは片腹痛い!
  古くデーン〜ラグナロク〜アトランティス〜ルルイエの海の民の末裔である、このマルコム・ウエイトリー様こそ、古き神の大祭司として相応しいのじゃ!」
  銃口が一斉に火を吹いた。
  飛び出したのは鉛の銃弾ならぬ、大きな魚の鱗だった。
  命中した途端、鱗は倍倍の速さで増殖して子供たちを不気味な魚人に変えた。
  わたしは幸い間一髪のところで柱の陰に隠れることができた。
  スティアフォースやトラッドルズも何とか無事だったが、小さな子供たち数人が魚の顔をしたマーマンに変えられた。
「シュブ・ニグラス様!  どうか仇を!」
  スティアフォースの皮膚はけば立ち、長い顫毛となって波打った。
  それでも彼らが最初に発見し神と崇める、ほら吹きダーウィンが言うところの、未知かつ始源の生命体は、うねうねとうねるだけで一向に願いを聞き届けようとはしない。
「シュブ・ニグラス様、かような幼き祭司では、さぞかしご不満でございましたでしょう。
  もうご安心下さい!  儂、ウエイトリーは生贄も、儀式も、『死霊秘法』に則って、正式かつ十分に行い、貴方様に続いてクトゥルー様を深き淵より甦らせ、アザトース様の封印を解き、ハスター様やナイアラトテップ様を召喚し、世を再び邪悪なるものの天下に致します!」
  ウエイトリーはフロックコートをかなぐり捨て、ペルシアの魔導士(マギ)の式服姿となって、蒸気地底機関車の屋根の上に登って吠えた。
「あの黒いぐにゅぐにゅは僕らの願いは何でも聞き届けてくれる神様じゃあなかったの?」
  小さな子供たちは恐怖に泣き叫んだ。
「シュブ・ニグラスはウエイトリーの口車に乗せられて、祭司を変えようとしているのじゃあないかしら」
  エステラは全身から幾本もの触手を伸ばし、スティアフォースを庇いながら言った。
「そんな…  僕らのほうが、全ての始まりに近い身体をしているはずなのに…」
  トラッドルズのベソ掻き声がウエイトリーの耳に入った。
  ウエイトリーが魔導士の寛衣も脱ぎ捨てると、腹は蛙そっくりの爬虫類で、背の部分は全身銀色に輝く鱗に被われた身体が現れた。
  顔と思われていた部分は仮面で、段になった章魚(たこ)そっくりの顔があらわになった。
「昨日今日に使徒になったばかりの者が、何を言うか!
  ウエイトリー家こそは、アルハザードの血脈にも負けぬ古の神の使徒!」
「見たところおまえはクトゥルーの下僕だ。地の使徒は僕らに譲れ!」
「何が使徒だ!  誰が祭司だ!  おまえたちの身体は隷従する奴隷のそれではないか!」
  戦局優勢を見届けて、ウエイトリーは地底の蒸気機関車を黒く波打つ物体に横付けし、鰭の付いた脇に挟んだ一冊の分厚い書物を開いた。
「スティアフォース、やつに『死霊秘法』の呪文を読ませてはいけないわ」
  ドーラが触手をひねらせて何とか突撃しようと試みるが、鱗の弾幕やウエイトリーの部下や、魚人に変えられてしまったかつての仲間に阻まれて止められた。
「分かった」
  スティアフォースと味方は退却し、鉱山側の穴状の通路の手前で立ち止まった。
「一生穴を棲む家とする蛆となるがよい!」
  ウエイトリーの声は次第に人間の声ではなくなり、唸り吠える音となった。
  呪文が始まると共に、黒い波は規則的な動きを取り戻し始めた。
「ソウデス。しゅぶ・にぐらす様。貴神は子供相手ニ菓子ナドヲ作ッテ見セルダケノ神ナドデハ決シテゴザイマセン」
  ウエイトリーの章魚面が喜びに歪んでいるように見えた。
  スティアフォースは固く両目を閉じて、何かを念じ始めた…
  地底蒸気機関車が現れた時よりもなお大きい、大地全体を揺るがす地響きがし、ドスン、ザック、ドスン、ザックと大勢の巨人の規則正しい足音が聞こえてきた。
「な、なんだ?」
  ウエイトリーの部下たちは顔色を失ったが、章魚ウエイトリーは落ち着いたものだった。「ウロタエルナ!  てぃたーん共ダ」
  地底にあって高楼の廊下に二列に並んで寝殿を守護していた鎧兜に身を包んだ巨人たちが、光る壁を叩き壊して続続と詰めかけた。
  神殿の間の天井も、例の廊下に負けないくらい高いことが、いまやっと分かった。
  ティターンたちが腰を屈めず背も曲げずに林立整列したからだ。
「来た!  来てくれた!  僕たちの衛兵が」
  子供たちは両手を叩いて喜んだ。
  ウエイトリーの部下たちはますますうろたえて、逃げようとする者すら出た。
  章魚の化け物がその者を触手の一本で捕らえると、ボキリと背骨の折れる不気味な音がした。
「愚カ者メ!  対策ハ考エテアル、ト言ッテオロウガ!」
  ウエイトリーは何本かの触手をくねらせ、自分に変わって地底蒸気機関車の運転手をしている部下に何事か合図を送った。
  他の部下たちもそれを見て、各々がニヤリと卑しい笑みを浮かべると、機関車に逃げ戻った。
  最後にウエイトリーも乗った。もっとも怪物化してしまったために、人間用に造られていた扉からは入ることはできずに、機関車のドリルの後ろ、運転台の前の釜室の上に平たく広がってへばりつくに留まったが。
「やーい!  やーい!
  偉そうなことを言って、逃げるんじゃないか!」
「様を見ろ!」
  子供たちは快哉を叫んだ。
  ウエイトリーの言葉とは裏腹に、蒸気地底車は後退を開始した。
  土埃が舞い上がり、無数の車輪が回転する音(キャタピラーはまだ発明されていない)が谺した。
「追え!」
  スティアフォースは目を閉じたまま命じた。余りにも懸命の祈りに、急速に年老いて大人びた顔になったように見える。
  ティターンたちはしばらくまごまごしていたものの、やがて一体づつ、地底蒸気機関車が戻っていった穴に向かった。
「追え!  それぐらいの穴なら通れるだろう?場合によっては地上まで追撃してもいい!」
  スティアフォースは振り上げた右手で穴の方を指した。
  先頭の巨人が首を縮めて穴を這い上がったのに続き、二番目の巨人も続いた。
  あれよあれよという間に、二十体ものティターンたちが怪車両を追いかけて消えた。
  すると間もなく、穴全体が金色に光り始めた。
  広がったままだった黒い粘土の生命体は、素早く元の大きさに縮まって本来収まっていた祭壇の上に帰った。
「スティアフォース、すぐにティターンたちを退却させて!」
「早く!」
  エステラとドーラは口々に叫んだ。
  どうやら二人は、ここの黒い得体の知れない神の意思をほんの少しだけ汲み取れる様子だ。
「なぜ?」
  スティアフォースは得意の絶頂だった。
「奴らはもうじき地上、あの乗り物は地上では意外と早く動くことはできない。
  取り囲んで完腑なきまでに破壊し、さらに屋敷や鉱山を跡形もなく蹂躙した後に、ロンドンに向かわせるつもりなのに!
  驚くぞ!  女王も、大臣も、知ったかぶりの学者たちや僧侶たちも、太古の者共の編み出した超科学に怯え、恐れ慄き、何もかも打ち捨てて、逃げ惑い、全員がドーヴァー海峡に飛び込んで去るであろう。
  我らはとりあえずこのブリタニアの支配者となって、まず島じゅうに残る遺跡に眠っている仲間を盡く甦らせ、その後、ヨーロッパに向かって大進撃を開始するのだ!」
  スティアフォースにはすでに古代にローマの大軍団に敗れて滅んだドルイド僧の魂が巣喰い蝕んでいた。
  どうやら、あの黒い生命体は、様々な人間の魂を喰い、貯蔵し、おそらくは自らの都合のよいように再び構築できるようだった。
  その為には餌を撒き、棲み家や変身能力を与える。
  だが結局は、皆、取り込まれてしまう運命をたどるのだ。
「ウエイトリーの科学をみくびってはいけないわ!」
  エステラはスティアフォースの寛衣にすがり、ドーラは前に立ちはだかって入神状態の彼の身体をゆすり、何とか目を覚まさせようとした。
「『力』を感じるの。無機的な、まっすぐに直進する『力』を!」
「あの蒸気で動く乗り物は真っすぐに地底に降りてきた。出来た穴も、古のものやあたしたちが掘ったものではなくて、真っすぐ…」
「だから、追撃しているティターンたちはいままっすぐの穴をよじ登っている」
「機械で造った『力』はまっすぐに進む。だから−−」
  エステラとドーラが言い終わらないうちに先ほどのような大きな振動ではないが、同じように立っておられないほどの細かい強烈な波が連続してやってきた。
「何ッ!」
  スティアフォースもひっくり返って目を覚した。
「みんな、目を固く閉じて!  これから来る光を直接目で見たら、潰れてしまうわ!」
  エステラの絶叫でみんなが一斉に目を閉じた。
  今度ばかりはわたしも薄く目を開けることはしなかった。
  閉じた瞳を焼き焦がす強烈な白熱光が落ちてきて、神殿じゅうをおそらくは百倍くらい明るく照らしたのは、それからすぐのこと
だった。
  大勢のティターンたちが追撃していった穴から、木乃伊のそれのように干乾びた、巨大な手足や頭、胴体がさらさらと、残り滓となって滑り落ちてきたのは、それから間もなくのことだった。
  わたしも子供たちも、暫く目を開けられなかった。強烈な光は、数日の間、目に網膜の網目模様の残像を残して拭い去ることはできなかった。
  白い、乳色の光の海の中で、祭壇に蠢く邪悪なる神だけが唯一ぼんやりと黒かった。
  穴のま下にうず高く積み上がったティターンたちの死体は灰色だったが、上からの僅かな風によって塵と化し、飛び散って完全に存在を消した。
「そんな…」
  スティアフォースは絶句した。
  茫然と立ち尽くすわたしたちの耳に、聞き慣れた蒸気機関のピストン音が聞こえてきた。「おのれ、ウエイトリー!」
  彼の唇からは黄色い血が流れていた。
  見ると上顎からはもぐらに似た曲がった牙が生えている。
  蒸気地底車はすぐに姿を現した。海から来た闇の末裔は、相変わらず釜室の上にべったりとへばりつくように乗っていた。
「フフフ、残念ダッタネ。トコロデ、顔ヲ覆ッタ兜ノ下ノ、彼ラノ素顔ヲ知リタクナイカネ?」
  ウエイトリーは我々の返事を待たずして、一個の風船そっくりに中身のなくなった丸い物体を放り投げた。
  兜の仮面が塵となって崩れ落ちたその奥はウエイトリーと同じ数段に皴の寄った章魚面だった。
「同ジ根ヲ持ツ物ヲ倒スノハ気ガ引ケタガネ…コイツラハ命令者ノ命ニ絶対服従スル下等ナ奴等ナノデ仕方ナカッタヨ…
−−サア、コレデコノ神の真ノ祭司が儂デアルコトガヨク分カッタダロウ?」
  ますます聞き取りにくくなってきた化け物の言葉に、子供たちは震え上がった。
「命ダケは見逃シテヤル!  戻レ、永劫ナル闇の迷宮ヘ!  クネクネト曲ガッタ無明ノ穴ノ世界ヘ!  ソコデ大地ノ妖蛆トシテ、しゅぶ・にぐらす様の主食タル無限ノ怨念ヲ送リ続ケヨ!」
  地底機関車からは、いままでの鱗を発射する銃に加えて、新たに黄色や緑褐色の膿のようなものを発射する銃が銃口を覗かせた。
  どろどろとした液体が命中した子供たちはたちまちのうちにれに全身を覆われ、倒れて蛆となって這い回るのだった。
「シュブ・ニグラス様!  何卒、僕らをお救い下さい!」
  もはや刀は折れ、矢の尽きたスティアフォースたちは、祭壇に膝まづいて、平伏して祈るだけだった。
  そんな彼らを鱗や膿状の毒液が次々に襲い、トラッドルズやエステラ、ドーラたちが次々に醜い下等生物に姿を変えられた。
「愚カナ!  神ハ常ニ力アル祭司ヲ望ンデオラレル。しゅぶ・にぐらす様ニ再ビコノ世界ヲ治メテイタダク術ヲ知ッテイル儂ノホウガ、祭司トシテ数段優レテオル!」
「スティアフォース、残念だが奴の言う通りだ!
  ここは一旦、まだ変身させられてない子供たちを連れて逃げよう!」
  いたたまれなくなったわたしは、それまでじっと隠れていた柱の陰から身体を伸ばして言った。
「嫌だ!  ここは僕らの国で、シュブ・ニグラスは僕らの神なんだ!」
「マダ言ウカ?  何万年、何億年より君臨セシ神、オマエタチノコトナド、虫ケラや微生物ホドニモ思ッテオラヌハ!」
  気味の悪い液体が、ついに逃げかわしていたスティアフォースを捕らえた。
  彼は他の子よりもずっと長い時間もがき、破ろうとしていたが、ついにぐったりと横になり、もぞもぞとしか動かなくなった。
「サテ、後ハ貴方ダケニナッタヨウダナ。
  出歯亀ノ新聞記者殿!」
  ウエイトリーの幾つもの複眼が一斉にこちらを向いた。
  わたしは改めて身震いした。あんなにも醜い蛆や魚人に変えられてしまうことを思えば、改めて一思いに死んだほうがましだと思った。
「逃レル術ハナイノダヨ。ムシロ、しゅぶ・にぐらすノ下僕ニナレルコトヲ喜ビタマエ!」
  わたしは逃げ出した。もっと早い時点で逃げなかったことを疑問に思うだろうが、それまで釘付けになっていた足が、もつれつつもやっと動かすことができた、と言ったほうがいいかもしれない。
  行く手には、すでに蛆に変えられた子供たちが折り重なり、積み重なって障害を作り、魚人は掴みかかってきた。
  後ろからは、地底機関車から発射される変身物質が雨あられと降り注ぐ−−
(シュブ・ニグラス!  シュブ・ニグラス!おまえは、おまえを最初に発見し、最初に
敬った子供たちを、こうも簡単に見捨てるのか?
  それはたしかに、おまえは太古の神で、猿に毛が生えたぐらいの人間の子供のことなど、どうでもいいことに違いない。
  しかし、心あり、意思のあるものならば、その片鱗を見せてくれ。
  あんな機械のガラクタなど、子供たちと同じくらいに−−子供の手をひねるようなものであることを見せてくれ!)
  進退窮まったわたしは、回りを取り囲んだかつては可愛い子供たちであった「もの」の向こうで相変わらずゆらゆらと揺らめいている黒い不定形に向かって、心の叫びを上げた。
「無駄ダト言ッテイルダロウ?
  邪悪ナル太古ノ神ニハ、古ノ彼等ノ言葉、古代るるいえノ言葉シカ通ジヌ!」
(そうだ。そうなのだ。子供たちの神は退屈だったので遊んでくれていただけなのだ)
  わたしもついに絶望し、諦めた。
  合体して大きくなったり、小さく分裂したりして大地の妖蛆たちの中に、飛び込みたくなった。
  あのぶよぶよの中には、永遠の安息と、生命がある気がしたからだ。少なくとも、魚人にされるよりはましに見えた。
  と、その時、異変が起こった。
  人間同士の諍いなど何の興味も示さないはずのシュブ・ニグラスが、再び沸騰するように沸き立ったかと思うと、神殿の広場の光る床じゅうにどっと広がった。
  薄く伸びた黒は輝く黒となって、蛆や魚人を膜のように薄く覆った。
  それは、ウエイトリーと部下たちの乗った蒸気地底車もすっぽりと覆ってしまった。
  章魚ウエイトリーは、最初、喜び勇んで巨大な軟体動物と化した身体をぶるんぶるんと揺すっていたが、やがてその目に苦悶の色を浮かべ始めた。
  そして大急ぎで触手を総動員して、魔導書の呪文を唱え始めたが、シュブ・ニグラスは全く御された様子は見せなかった。
  それどころか、黒い被膜に覆われた部下たちは次々と、萎み、吸収され、跡形もなく消え去った。
「何故ダ?」
  それがわたしが聞いたウエイトリーの人間としての最後の言葉だった。
  もっとも、さすがにウエイトリーはしぶとく、触手に高熱を持たせ、雷撃を宿らせて被膜を破ると、蝸牛なみのゆっくりとした速さながらも、自ら身体をうんと縮めて、何とか開いたハッチから地底車の中に逃れた。
  途端に、地底車の蒸気弁が一斉に開いて、高熱の蒸気が神殿や広場じゅうに立ち込めた。
  高く波立つ黒い被膜がなければ、わたしは大火傷をしていたことだろう。
  柱の装飾が溶け、石よりも固い物質でできていた床が飴のようにぬかるんだことからすれば、ただの蒸気ではなく、特殊な薬液の蒸気だったのに違いない。
  それでも、シュブ・ニグラスがびくともしないことに業を煮やしたウエイトリーは、次に地底車自体を真っ赤に熱して体当りしてきた。神殿や広場はたちまち灼熱の地獄となった。
  かんばしい結果が得られないのは同じだった。
  黒い粘液は地底車のハッチというハッチの上からへばり付き、空気口を封鎖する作戦に出た。
  シュブ・ニグラス自身は宇宙の果てからやってきたのだから、空気はおろか、温度も重力も必要ないはずだが、つい先ほどまで人間の姿をしていたウエイトリーは違った。
  のたうち、悶え苦しんで七転八倒した。
  挙句の果てに、地底車に開けてあった窓という窓から触手をだして、その吸盤から、やっとのことで瘴気に満ち満ちた空気を吸うことができた。
  ウエイトリーは、窓から出した触手でしつこく立ち上がり、再び動くことを得た。
  地底車の車輪はほとんどが己の撒き散らした酸や毒液や熱によってぼろぼろになり、原形を留めていなかった。
  触手の中の地面に着いている部分が、自らが撒いた毒液に浸かり、肉が腐り溶ける時の鼻が曲がるような臭いが立ちこめた。
  半分が醜怪な生き物、半分が今や腐食した金属物からなるそれは、なおも抵抗を続けようと試みている様子だった。
  腐ることによって金属と合体した触手を当てもなくやみくもに振り回し、金剛石の固さを誇った神殿の壁も、いたるところにひびが走った。
  機関車両が金剛石より固いはずなどないはずだが、黄色い乳のように立ち込める毒霧のせいか、未知の有機物質と合体した金属の成せる技か、やすやすと傷が付き、ぼろぼろに剥がれ落ちた。
  シュブ・ニグラスは自らを元の、祭壇に乗るぐらいの大きさに折りたたんだ。
  機械触手は、無数の歯車やピストンや、他の伝達機関と思われる大小無数の部品と、朽ち果てた触手の先端をぽろぽろと落としながら、最後まで野望を叶えんものと、よろめき、何度も倒れぐしゃりがしゃりと断末魔の音を立てながら迫った。
  大地はまたしても大きく、縦横に揺れ始めた。今度は、以前とは比較にならないほどの大きな振動だった。
  嵐の中、小舟が弄れるように、床全体が隆起し、また陥没した。
  鉱山も遺跡も、坑道も、遺跡の中の道も、もう滅茶苦茶になってしまったことだろう。
  機械と触手の化け物は、勢い余って仰向けに倒れ、その衝撃で身体がいくつかに割れた。
  傷口からは、飯蛸の米粒を大きくした胞がたくさん露出し、この化け物が分裂、増殖する寸前だったことを伺わせた。
  その小さな不気味な細胞群もまた、金属片と癒着合体し、半分は有機物、半分は無機物として育つ要素を秘めていた。
  もっとも、それはもはや決して叶わぬ望みとなっていた。
  やはり、古き神を人間が祀り御するのは、度の外れた、分際をわきまえぬことだったのだ。
  急激な隆起と落盤がますます勢いを増し、土砂崩れが襲った。
  ウエイトリーと地底機関車だったものがまず地獄への穴に吸い込まれ、続いてシュブ・ニグラスが祭壇の石板ごと、こちらは悠々と、下降していった。
  おそらく、こんなに浅い地底では、眠りを邪魔する者−−特に、小賢しい科学を使う人間どもが−−絶えないと、判断して、より快適な処に棲家を移したのだろう。
  かつては子供たちだった魚人や蛆たちも、次々と激しく渦巻く地底の蟻地獄へと吸い込まれていった。
  わたしは、内心ほっとした。
(あの子たちはこのほうが幸せだ。あの醜い姿のまま助け出されても、珍生物として見せ物にされるか、生物学の実験に供されて、解剖され、切り刻まれることだろう。
  深い深い地底では、酷使されることもなく、姿や形状をとやかく言う者もないだろう。
  もしかすると、彼らは再びあの古き神を囲んで、地の底の国で楽しく暮らせるのかも知れない…)
  神殿の残りと、地底の都市全体が奔流に呑み込まれ始めた。
  わたしは最後まで残った柱の装飾に、無様な姿勢でしがみつき、覚悟を決めた。
  と、その時、地底の渦の中心から、ガスのようなものが噴出した。
  器用に果物の種だけを吐き出す猿のように、地底の口はわたしを空中高く舞い上げた…

  気がつくと青空と白雲が広がっていた。
(助かったんだ…)
  わたしはゆっくりと息をしながら思った。(しかし、あんなことを話ても、誰が信じてくれるだろう?)
  すでに語ることを諦め、ゆっくりと立ち上がった。
  上着もズボンも何もかもが真っ黒だった。
  回りを見ると、かさかさに萎びた黄色い巨大な蛆と、蝉の抜け殻そっくりに乾いた魚人がいくつも転々と転がっていた。
  ざっと数えただけでも五十は下らない…
  恐る恐る、一番近くの殻に近寄って見ると、枯葉そっくりの黄色い樹皮越しに、トラッドルズの(この環境にあって)ふっくらと膨らんだ顔が見えた。
「トラッドルズ?」
  声にならない声で言った。
「トラッドルズ?」
  少しずつ声が戻ってきた。
  空気がこんなにおいしかったなんて、かつては思ったことはなかった。
「トラッドルズ!」
  三度呼びかけながら、かさかさの皮に爪を突き立てて破いた。それはもう、薄紙のようにもろくなっていた。
(死んでいたって不思議はない。なにしろ、あんなひどい目に会ったんだ)
  半ば諦めつつ、蒼ざめた頬にそっと触ってみた。
  愛嬌のある眉根が動くのと同時に、小さくうめいて目を醒した。
「ここは…  どこ?」
「地上だ。助かったんだよ」
  わたしは嬉しかった。ひょっとすると、そこらあたりを飛び跳ねたかもしれない。
  見ると、倒れている抜け殻の中から、子供たちが一人また一人と起き上がっていた。
「鉱山?  落盤でもあったのかな?」
「あのことを覚えていないのか?」
「『あのこと』ってどんなこと?」
  どうやら、トラッドルズはあの一連の恐怖と戦慄を全く覚えていないらしかった。
  自分たちは、あの日、いつもと同じように少年鉱夫として地底深く入ったところまでしか記憶がないらしかった。
(何よりだ…  本当に何よりだ…)
  わたしはホッとした。
  エステラもドーラも、その他の子供たちも今や全員が起き上がって仲間と無事を喜びあい、抱き合っていた。
「スティアフォースはどこだ?」
  尋ねて回ったが、みんなは悲しそうに首を横に振るだけだった。
「そんな莫迦な!  ほとんどが助かっているのに、何故彼だけが?」
  手分けして捜しているうちに、少女たちが黄色い声を張り上げた。
  急いで行って見ると、スティアフォースが半身を土に埋もれさせて倒れていた。
  幸い、彼もまた息があった。
「落盤ですね。…それにしても悪い夢を見てしまいました…」
  その夢の内容を言おうとする彼を、わたしは優しく遮った。
「忘れなさい。あくまで夢なんだから…」

  伝説によると、シュブ・ニグラスは古き邪悪な神神の中で、唯一子供を連れた存在なのだそうだ。
  彼等は宇宙の塵よりも小さい人間にことなど、まるで考慮頓着しないらしいが、時にその思いが通じることはあるらしい…

  ウエイトリー鉱山は、大規模な陥没に会い、屋敷にいたウエイトリーと監督官たちは巻き込まれて命を失った。
  皮肉なことに、鉱内で働いていた少年少女たちは全員が助かった。
  大英帝国政府は、この不思議な事件を調査するべく、数十人の学者や技師から成る大規模な調査団を派遣したが、結局、局地的な地殻の変動、地震ということ以外は何も分からなかった。
  政府が子供たちを炭坑などで働かせることをより強く禁止したことは言うまでもない。
  わたしは、わたしの存命中は真相をだれにも語らない決心をして、文章に認め、固く封印をして屋根裏に隠した。
  そう…  わたしはあの日のうちに炭坑で働く気の毒な子供たちの取材を済ませて、夕方の汽車で帰ったのだ…





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