アヴロワーニュの雨 2001/06/02

                1

  魑魅魍魎はもちろん、悪鬼も魔物も悪魔でさえも今日という今日ばかりは外出を躇い、家−−と言うか、アジト巣窟で静かに本を読んでいる、そんな気にさせるひどい吹き降りの中を、現在の闇よりなお暗い漆黒の馬にまたがった一つの人影がやってきて、いまにも崩れそうな古旅篭の前で止まった。
  人影はゆっくりと馬を、風で扉が開いてバタン・バタンと音を立てている納屋に入れて柵に繋ぎ、鞍を外した。納屋は悲鳴のようなきしみを上げ、屋根からは外と変わらぬぐらいの雨が漏っている。
  影はバシャバシャと水たまりを撥ねあげながら母家の扉に戻り、コンコンと力強くノックした。
  扉はまるで誰か来訪者か帰還者を待っていたかのように、意外なぐらいに早く開いた。
  朽ちかけた板の壁、添え木で補強した木の食卓と椅子、水びたしの床、貧しい皿やカップとは不釣り合いな、三枝燭台で照らし出されたこの旅篭の主人は、ハッとするほど美しい一五、六の娘だった。
  客は明らかに娘が待っていた者とは違ったらしかった。
  緑色の両目を大きく見開き、かすかに紅を差した唇は沈黙の叫び声を上げた。
  それでも慌てて扉を閉めたりはせず、心持ち微笑んで一人ごとのようにこう言った。
「旅の御方ではなさそうですね」
  人影は水滴を滴らせている帽子も、マントも脱がないままに、一階と、二階へと続く階段を見上げた。
「この分だと、二階は洪水だな」
  低く自信に溢れた若い男の声が響いたかと思うと、帽子とマントが生き物のようにハンガーにからみついた。
「満室の心配ならございませんことよ」
  少女は、男が瞬間にここには現在彼らだけしかいないことを悟ったことに気付いていた。「『次の旅篭まではかなりございます』って訳か?」
  男は少女よりも二つ.三つ年上の、黒い瞳のちょっとした偉丈夫だった。鎧兜に身を包んでも映えただろう。しかし少女には若者は騎士には見えなかった。
「あら、この先は行き止まり。何もございませんわ」  少女は頼まれもしないのに錫のコブレットに葡萄酒を注ぎ、テーブルの上に置いた。「−−昔の人の墓以外には」
「ああ、この先は黄泉地獄か」若者は事もなげに言い、それを立ったまま一気に飲み干した。「それでは天気を云々するのは笑止よな」
  若者は懐に手を入れ、少しだけ何かを確認する仕草をすると、そのまま出て行こうとした。ハンガーにかけたばかりの帽子とマントが猟師に従う猟犬のように追いかける。
「お待ち下さい。−−もうじきみんなが帰って参ります!」
  そこで少女は初めて狼狽した。
「−−その、少しお待ち頂ければ…」
  引き留める理由は他にもあった。
(あの酒の中にはゆうに百人の人間をたちどころに殺せるだけの毒薬が入っていた。…ただ者ではない!)
「そうだ。酒代だったな」
  若者はシャルルマーニュ大王の肖像が刻まれた金貨を投げた。
「釣りはいらん」
  念の為に少女が邪眼で見ると、それは案の定小さな蠍蝎だった。
「こんなに!  ありがとうございます!」
  それでも彼女は精一杯の笑みを浮かべて胸にかき抱いた。金貨−−蠍蝎は彼女の掌の中で蠍蝎の刻印の本物の金貨に変わった。
「少なすぎるぐらいだ」
  若者はマントを翻らせると、アッという間に消えた。

                2

  一寸先も見えない烈風雨がアヴロワーニュの欝蒼とした森に吹きすさぶ。
  元より深い森に閉ざされたこの地方は、農業にも適さず、住む人もなく、ここを領地にしたがる族長もなかった。古くはシーザーを始め遠国から遠征してきた軍隊ですら、この地を避けて進軍したほど、痩せて、道らしい道、町らしい町、城らしい城もなく、太古からの自然が傲然と立ちふさがる土地だった。
  森を抜けると奇岩絶壁、かろうじてそれをよじ登り、降りると、そこからは牧草一つ生えていない荒れ地、そこを通過すると獣道すらない険しい山々がそびえている。
  隣国ロンバルド王国やバスクに向かう旅人や商人はアヴロワーニュを迂回、風光銘美、商業繁栄の昔ながらのローマ街道を通るのを常識としており、ここにもっとも相応しいと思われる、王国と教皇庁公認の公式修道院ですら、一つもないありさまだった。
  名だたる僻地ぶりは時のフランク王国国王シャルルマーニュ大帝ですら、アヴロワーニュには側近の「州伯爵」を置かず、巡察使も派遣しなかったほどである。
  その地方の、さらに鄙びたところと言えば、滅亡したケルトかゴートの落人か、異端狂信の烙印を押された信徒か、それとも魔導士、魔法使いの類いしか棲まないと思われていた。

  すぐそこで道は終わっている気配を感じる。そこから先は不気味な瘤やウロのある、ねじ曲がった巨大な老木や下草がびっしりと密生していて、何物も進めそうにない。
  だが、その先からかすかにビシャビシャと泥を蹴立てる足音が聞こえてきた。若者は身を隠すでなく、そのまま土砂降りの雨の中を心持ち馬の背中にもたれながら、跫音の本体が現れるのを待ち受けた。
  待つこと二、三時間、腐った沼の臭いとともに、突如として二人の女の人影が現れた。一人は異様なぐらいに背が高く、もう一人は低い。
「あぁ!  早くあれが手に入れれば、こんな雨などまるで問題ではないのに!」
  長身の方の女が呟き、そして若者の存在に気が付いた。
「そんな狭いところをすり抜ける力があれば、『外』との隔壁を作るぐらい朝飯前だと思うけど」
  女たちの髪もドレスもずぶ濡れなのを見た若者はほんのちょっと肩をすくめた。
「『遺跡発掘の仕事』なら足りているよ。今まで雇っていた連中もみな暇を出した」
  長身の方の女は吊り上がった鋭い眼と眉、『裂けている』と言ってよいほどの口もとを歪めて言い、そのまま通り過ぎようとした。「一人だけ帰ってこない奴がいるんだよ。俺の弟分だ」
  若者は女たちの行く手を遮って両手を広げる。
「−−帰ってきた奴らにそいつのことを尋ねても、誰も何も覚えていないし、それどころか、どんな仕事していたのかさえまるで記憶にない。そういうのは『無事』とは言わないんじゃないか?」
「テレーズとは会ったのかい?」
  長身の女は身構え、一歩あとじさった。
「あのおんぼろ旅篭の少女のことかい?  顔はあんたよりましだったが、性格は同じぐらい悪かったな」
  背の低いほうの女の顔は仮面のように氷りついて動かない。
「テレーズがし損じるとは!」
  長身の女の舌打ちがはっきりと聞こえた。「トゥ、やるよ!」
「アリス、やめたほうがいいわ」
  仮面のように無表情だった女が初めて口を開いた。
「何だって?」
  トゥはそれには答えず、すたすたと早足で若者の横を通り過ぎようとした。
「あたしたちの目的は、そんなつまらないことじゃあなかったはずよ」
「だって!」
  アリスはむきになってトゥを引き留めにかかった。
「好きにさせてあげなさいよ。この人の目的も、あたしたちを倒すと言ったヘラクレスかペルセウスめいたもんじゃあないようだから」
  トゥの語気の強さに、文字通りの魔女のアリスもしおれた。
「ええい!  いまいましい!」
  アリスが若者のそばを通る時に、わざと長靴で泥水を撥ね上げた。
  泥の滴が若者の顔にかかった。若者はゆっくりと拳でそれを拭う。
「旅篭はあの一軒だけなのかな?  だったら泊めてもらおうか…」
  若者は立ち去ろうとする女たちの背中に向けて言った。
  すぐさまアリスが振り返り、何かしようとするところをトゥに阻まれた。
「好きにするといいわ」
  トゥの生気のない目に、邪悪の炎が燃え上がり始めた。

                3

「ノミ(蚤)」
  若者は染みだらけで黴臭い宿帳にそう署名した。一行上には「ブーディカ」とルーン文字の署名と、五、六百年前に在位したローマ皇帝時代の年号が記されている。
  さらにその一段上には「ゼノビア」というアラビア語の署名があり、こちらもそれより前のローマ皇帝の年号が書かれていた。
「西暦で書いていいのかい?  それともシャルルマーニュ大帝の何年、という風に書こうか?」
  暖炉では灰が湿るにまかされており、アリスとトゥは濡れた服も乾かさないまま、テーブルで冷えて脂の浮いたスープをすすっていた。
「『西暦』って、何でしょうか?」
  旅篭の娘テレーズに笑顔で言われたノミは仕方なく、大帝のフランク建国の年を指を折って遡った。
  テレーズは別に「珍しいお名前ですね」とは言わなかった。そう言えばブーディカもゼノビアもありふれた名ではない。ノミは宿帳の前のページにも興味を覚えた。
「前金で払おうか?」
  巾着を取り出してほどきかけるノミに、テレーズは涼しい顔で答えた。
「お支払は後で結構ですわ。お部屋は二階ですわ」

                4

  階段は足を乗せた途端に壊れて踏み外しそうなぐらい朽ち果てている。ノミはミシッ、ミシッという音を聴き分けつつ二階へと上がった。
  部屋は一階以上に水びたしで荒れ果てている。寝台や箪笥や戸棚など家具はあるにはあるが、どれもこれも藁がはみ出ていたり、蝶番が外れて戸が半開きになってギーギー揺れている、という代物ばかりだった。
  それにしても何人もの人間がかつて暮らしていた痕跡というか、臭いのようなものは確かにあった。家具や床、壁の修理の跡の中には施されてから日の浅いものもあった。一度でまっすぐに打たれている釘もあれば、何度も打ち直した釘もある。ノミは壁に落書きがないか調べた。彼が行方を捜している弟分は絵を描くのが好きだった。と言っても紙束は高価だったからいつも地面に小枝で描いていた。−−描いても怒鳴られそうにない壁にも…
  すると程なく、寝台の床板と壁との隙間に懐かしいタッチの黒炭で描かれたクロッキーが見つかった。
  下の魔女たちに気付かれないようにそうっと寝台をどけてみた。ノミは腕っぷしも並みの騎士に劣るところはないけれど、一人で魔力を使わずにやるとなると難しかった。
  それは、強い光を自ら放っている人間たちの胸元がパックリと割れて、中から天使に見える、背中に羽根の生えたやや小さな人間が飛び立っている図柄だった。それは救世主(メサイア)に見えないこともないが、数が多いところを見ると、やはり天使だろう。
  誰かが階段を上がってくる気配がしたので、クロッキーを手でこすって滅茶苦茶にし、満身の力を込めて寝台を元に戻し、その上に寝転がってはみ出た藁をむしった。
  上がってきたのはテレーズだった。
  彼女は半開きのまま閉まらない扉の柱にもたれて、見下すようにノミを見た。
  ノミは所在なげに天井の板を眺めた。壁の板よりは新しく、「ひょっとしたら何か仕掛けが」という気にさせる。
「貴方がいま考えていることは当っているわ」
  テレーズは(どうすればこんな無邪気な微笑みを浮かべられるのだろう?)と思うぐらいの罪のない微笑を手の甲で隠しながら言った。
「そりゃあ当っているさ。だって『屋根があるだけでもありがたい』と思っていたところだから…」
「明日になっても、あさってになっても、当分帰るつもりはないのでしょう?」
  テレーズは柱にもたれたまま足を組み直した。木綿のドレスの中にペチコートと形のよい素足がのぞく。
「ああ。友達の消息は確かにここで切れているんだ。ここがどんなところだろうと、どんな天気が続こうと、新たな手がかりが見つかるまではねばるつもりさ」
「だったら−−」
  子供っぽいと思っていたテレーズの瞳の中に初めて怪かしの光が光った。
「−−だったら、今夜じゅうに行ってみたいでしょう、『アヴロワーニュの遺跡−−洞窟』へ?」
「でも抜け駆けをしたら、姉さんたちがうるさいんじゃあ?」
  そう言いながらもノミは躰を起こし、身を乗り出していた。
「分からないわよ。ここから出れば…」
  テレーズが窓の木戸を開けると、たちまち雨風とともに黄色や赤に色づいた枯葉が何枚も舞い込んできた。それとともに、銀色に光る鱗模様で被われた蔦が蛇のように入り込んできた。
「−−それに、言うまでもないけれど、あの人たちは姉さんじゃあないわ」
  吐き捨てるが早いか、彼女はその蔦につかまって外へと飛び出した。ノミも遅れまいと続いて窓縁に姿を現した次の蔦にぶらさがった。
  裂けて割れた木窓越しに、アリスとトゥが苔むした棺桶の中に横たわり、眠っているのが見えた。
  そうした後で彼はハッと(しまった!)とおもった。
(思いきり「弾み」をつけなければ、次の枝まで届かないのでは…)
  しかしそんな心配はまるで無用だった。
  彼が乗ると同時に靴の当るところの鱗が開いてかなり広いステップとなり、蔦自体が命あるもののように、そのまま茎を垂直に立てたまま、いったん迷い込んだら二度とでることはできないというアヴロワーニュの深い森を自由自在に駆け巡った。
(仕掛けは?)
  と興味を抱いて上を見上げると、同じ種類の蔦や、違う種類のそれが、上空をびっしりと一分の隙間もないほどに覆い尽くしている。
  どおりで昼なお暗いはずだが、その蔦をかいくぐってきても勢いをまるで失わない雨風も相当のものだった。
  蔦は時折、いたるところに立ち塞がる巨岩老木にぶつかるのでは、と思わず目を閉じるぐらい迫ったかと思うと、間一髪のところで急に直角に左右に曲がり、回避する。
  人の足だと十日分ぐらいの長い距離を、ほんの瞬きする間に移動した。
  気がつくとノミとテレーズは、人の背丈の倍ぐらいの高さのある黒くつやつやと輝く石碑の前に立っていた。この石碑、厚みも相当あってちょっとした直方体の岩が突き刺さっているようにも見える。
  テレーズはカンテラでその表面を照らした。そこには文字も模様も何も記されてはいない。
  ただ、かすかに人の影のようなものがアクの如く張りついていたが、雨に打たれて原形を失い、流れ落ち、地面に吸い込まれて消えようとしていた。
「時々『壁抜け』の奥義をもって試す愚か者がいるのよ」
  びしょ濡れのドレスの裾を絞りつつ、テレーズが呟く。
「叩き割ろうと考える奴よりましかも」
  マントと帽子を持ち出すことができなかったノミも濡れ鼠になっていた。
「−−まぁ、それを言うなら、これのある場所を突き止めただけでも大したものでしょうね」
  どんな滝の雨が洗い流しても、太古から連綿と続いた生贄の血の臭いがふんぷんと立ちこめている。−−恐ろしく古いものもあればごく新しいものもある。それにノミの言うように力づくでこの黒い石碑を何とかしようとした者どもの末路を伺わせる、粉々に砕かれた骨が苔むした地面に白く点々と浮かび上がっていた。
「さてと…  遺跡のほうはどこだ?  −−少年たちが狩り出されていた」
  尋ねるより先に、テレーズは足元を指差した。
「何だって?」
「遺跡はこの下よ。私たちが掘り下げて、ようやくつるはしがカチーンと何か堅いものに当った時に、この石碑が元あった場所からアッという間に飛来して、穴を塞いでしまったの」
「すると、その時中にいた者は?」
  テレーズは目を伏せ、首を横に振った。
「あたしたちも脇を掘るとかして、穴と行き来できるようにしようとしたのだけれど…」
「やれやれ、それを試した奴がどうなったか訊かないほうがよさそうだな…」
  雨の中、ノミは石碑を睨んで腕組みしながらドカッと座り込んだ。
「どう?  友だちのことが気になるのなら、お宝は山分けということで?」
  テレーズはそんな彼の顔色を覗いて言った。「俺はお宝なんかどうでもいいんだ。どうやらあんたたちのせいでこの下に閉じ込められている弟分を助けたいだけで…」
  ノミは撫然として、目の前の土を掬い取った。
「いけない!  早く元へ戻して!」
  カンテラの黄色い光に照らされたテレーズの顔からサッと血の気が引いた。
「どうして?」
  それは名状し難い、ゾッとする恐ろしさだった。実際にそうなった訳ではないのだが、周囲の土が津波となって盛り上がり、二人を飲み込もうとしているように感じた。
  ノミは反射的に手にした土を返した。
  殺気と言うか、おぞましい気配はゆっくり潮が引く感じで薄れた。それでもしばらくは背中で蛇が這い回ったような気味悪さは当分消えなかった。
「そうか…  どうあっても遺跡は掘らせないつもりなんだな…」
  ノミは不敵な目でその先を見詰めながら、返した土をもう一度掬う仕草をした。今度はそれに触りもしないのに、一握の土がぱらぱらとこぼれながら持ち上がった。
  テレーズはへなへなと腰を抜かせて泥の中に尻餅をついた。
「だ、だめよ!  知っているでしょう?」
「知っているさ。アヴロワーニュの森で魔法を使うと『あいつ』が襲ってくるんだろう?
  だから森は御法を犯し、町や村にいられなくなった魔法使い達の格好の隠れ場所になっているんだろ?  国王の兵士はそんな森の噂を聞いただけで震え上がるし、名のある魔法使いも二の足を踏む…」
  先ほどと同じ部類のとてつもない闇の力が、頭上から押し寄せてきた。目には見えない巨大な吊り天井がたちまち身体を押し潰す…
  ノミもテレーズも無様な姿勢で泥の中に沈む…

  語り伝えられている以上に、アヴロワーニュは謎と伝説に包まれた土地だった。
  シャルルマーニュ大帝が平定するまでこの地を治めていたゴート人も、その前のローマ人も、さらにその前のケルト人も、ここを神聖な場所と考え、常人は滅多に足を踏み入れなかった。
  伝説や憶測によると、ここには人が神によって作られる前から、「あるもの」が棲みいまも棲んでいると言う…
「それ」から見れば百万の大軍団も、天地を裂くことのできる魔導士も、蝿蚊ほどの値しかないらしい。ただ、たかが蝿蚊、と言ってもうるさく感じる時は、ピシャッと叩き潰す…
  それがアヴロワーニュで一切の魔法を使ってはいけない理由だった。もし使うと、「それ」の鼻先でぶんぶんと飛び回ったことになり、ピシャリと叩かれても仕方ないとされていた。
  故に、魔導士がアヴロワーニュに逃げ込むと言うことは、一切の魔法を捨てる、ということを意味していた。ここに逃亡した魔導士はことさら追う必要も、罰を与える必要もなかったのである。
  ただ、人はまるでいないか、と言うとそうでもなく、細々猫の額ほどの土地を耕している農民はいたし、武者修行や恐いもの見たさに訪れる勇者や魔導士も結構いた。

  ノミは、神が泥から初めてアダムを創造された時もかくや、と思われる力強さで大地の中から起き上がった。それを見たか察したか押し潰そうとする力はさらに威力を増した。
  その証拠にテレーズのほうはゴボゴボという音を残してさらに地中に沈んで行く…
  それでもノミは何とか立ち上がり、ひどい猫背ながらもゆっくりと歩いて地中に消えようとしているテレーズの泥人形のそれのような手を取り、さらに力を入れて引きずり出した。
「どうして…」
  むせながら泥水を吐き出したテレーズは、かろうじてそれだけ言った。
  ノミはそれには答えず、彼女を肩に担いで脱兎の如く駆け出した。
  その間も暗黒の力はじょじょにその力を増しながらひしひしと覆いかぶさってくる。
「あんた…  あの蔦がなくても道は分かっているの?」
「覚えている」
「何ですって!」
  ノミの背中でテレーズは思わず隠していた爪を立てた。
「痛い!  −−どうやら大丈夫のようだな」
  彼は風雨と邪悪な気が荒れ狂う中、数時間駆け続け、ついに森を出て、安旅篭の前に帰り着いた。
  森に棲む「もの」は、追い払ったことに満足したのか、それとも何らかの理由で森から出ることができないのか、ここまでは追ってこなかった。

  たどり着いた途端、力尽きたノミと、ホッとしたテレーズは気を失ってその場に倒れ深い眠りに落ちた。
  もう朝になっているのか、それとも昼近くになっているのか、案に反して夜は明けていないのか、アヴロワーニュの森の中ではさっぱり分からない…
「様を見ろ!  我々を出し抜こうとなどするからだ」
  ノミは意識の隅でテレーズの二人の「姉」アリスが罵る声を聞いた。
「−−それにしても無事に帰ってくるとは、やはりこの男、ただ者ではないな。−−どうする?  テレーズと一まとめに殺そうか?」
  いま襲われてはさすがのノミも手も足も出せない。意識の一角は覚醒していても、身体は疲労困憊のためにぴくりとも動かせなかった。
  じっと黙っていたトゥが、辺りの雨粒を凍らせながら言った。
「こいつなら、成功はしないまでも、いい線まで行くかも」

                5

  翌日もまたひどい嵐が続いた。
  この森−−いや、この地方にかけられた呪いを解かない限り、永遠に太陽の光を拝することはできないのは明白だった。
  風雨の中を、アリスとトゥは徒歩で例の遺跡に出かけて行った。アリスのほうは、インドの王候貴族が差しかけてもらうような大きな風よけの布を翻らせた傘を手にしていた。
  もっともそれも茸そっくりに逆立ってし
まってまるで本来の役には立っていないようだったが…
「いくら待ったって無駄さ!  この嵐は決して収まりはしない…  誰を捜してやってきたか知らないが、ここには最初から誰も来ていない!」
  アリスの嘲笑いがノミの耳にこびりついて仕方なかった。
  テレーズの姿をみかけないので階下へと降りて行くと、彼女は昨夜の打撃がよほどこたえたのか粗末な木のベッドに俯ったままでいた。
  ヒビの入った陶器のカップに水を汲んで行くと、躰を起こした彼女は喉をゴクゴクと鳴らして飲んだ。
「別に貴女たちの秘密を横取りしようとは思わないが、あの遺跡の発掘に成功すると、どんないいことがあるんだ?」
  テレーズの瞳はうつろで宙空を漂っていた。
「あの石碑の中に入る方法が分かるはずなのよ…」
「あの黒い岩の中に入ると、凄い魔力でも授かるのか?」
「そう…  それに近い…  魂だけの存在になって、どんな攻撃も受け付けなくなるし、どんなに悪いことをしていても、神も、最後の審判も恐れなくて済むはずなのよ。
  さらにそれを取引材料にすると、世界じゅうの富も権力も思いのまま…」
「そりゃあ確かに凄い。−−まあしかしそれぐらいのものが手に入るのでないと、この嵐の中を毎日日参する気にはならないだろうな…−−ところで、遺跡発掘の手伝いに来ていた若者たちは何人が来て、何人が帰って、何人が埋もれているんだ?
−−俺は本当に中のお宝には興味がないんだ。それを教えてくれて、弟分を助け出せたら、すぐに立ち去る。以後は絶対にあんたらの邪魔はしない。だから教えてくれ!」
  テレーズを見据えるノミは真剣そのものだった
「分かったわ…  彼らは確かに来た…  私たちが呼んだのよ」
  彼女は小さい、しかしはっきりした声で話始めた。

  アヴロワーニュの遺跡は最初は掘ることができたのよ。もちろん魔法は使えなかったけれども…
  地面だって言うほど堅くはなかった。かと言って頑丈な梁を入れていかなければならないほど柔らかくもなく、一言で言うと、素人でも簡単に掘り進むことができた。
−−でも最初にアリスが「人を雇おう」ということを言い出して…
  それにはトゥも私も賛成した。だってやはり何から何まで自分たちで作業するのは大変だったからよ。
  アヴロワーニュ地方には子供は少ない−−と言うよりほとんどいなかった。それ以前に夫婦者すら数えるほどしかいないわ。ここに棲んでいるのは、人間というものにどうしようもない嫌悪感を持ち、愛に絶望し、全てに絶望した者たちばかり…
  この地でもしも家族夫婦、友人どうしで住んでいる者がいたとしても、それは私たちのように共通の目的、欲望で結ばれた者たちよ。
  そこで、私たちは近隣から人を集めねばならなかった。とは言ってもアヴロワーニュに関する様々な噂は、フランクはもちろん、ブリタニアにロンバルド王国まで鳴り響いている。多少金銭的な条件を良くしたぐらいでは、誰一人としてやってこなかった、と思うわ。
  その時トゥが凍てついた瞼をぴくつかせてこう言ったの。
『子供や若者ばかりを集めてはどうかしら。
  それも、家庭やシャルルマーニュ大帝の御治世御政道に嫌気がさしていて、「魔導士にでもなりたい」と願っている子たちを…」
  それは全く素晴らしい発案だった。
  周辺の町や村の高札にそのようなことをほのめかした羊革紙を張り出した途端、烏と山犬、狼しかいないアヴロワーニュへの街道に少年や少女たちがひしめき、この地の大地がかつて聞いたことのない賑やかな話声が谺したの…
  それは無邪気で、若さと希望にあふれていて、おまけに無知無謀とも言える挑戦心もあった。−−そう、その力はまるで、アヴロワーニュに絶えて久しく輝くことのなかった太陽を呼び戻すような気さえしたぐらいよ!
  アリスとトゥと私は、それぞれ、魔法の素質に優れ、それなりに容姿器量の良い子を選んで何人かずつを採用したわ。
  本当はやって来た子供たち全員を雇いたかった。でもここでは魔法は使えない。人を雇うということは正味食料や水その他を確保しなければならなかったので、いい加減な試験の結果、何人かはそのまま帰ってもらった。
  残った一同で彼らを見送ったのだけれど、あんなに寂しそうないくつもの背中、いままでついぞ見たことがなかったわ…」

「俺が捜しているのはモーネという奴だ」
  ノミは半ば困惑した表情で口をさしはさんだ。『早く要点を、肝心なことだけ聞きたい』といった抑揚がありありとあった。
  しかしテレーズは、あくまで断固、事の順序通りに話すつもりらしかった。まるでそうしなければ意味を成さないものであるかのように、義務のように…

「その子なら…」
  彼女は『ああ、やっぱり』と言いたげに口もとを綻ばせた。
「−−最初から私たちの間では人気ものだったわ。アリスも、トゥも、私も、彼をそば仕えにしたくて、再三見えない火花を散らしあったものよ…
  彼は、顔は幼く、可愛く見えたけれども、実際は年を喰っているようだった」「確か一七か八のはずだ」
「心配しないで。私たち、彼の心に傷を刻むようなことは何もしていないわ」
  ノミの顔に険悪の雲が横切ったのを察したテレーズが慌てて打ち消した。
「−−そんなこと、もしやりたくてもできる訳はないでしょう?  大目的があるのに、魔法は使えず、おまけに一見仲良く見える仮の姉妹は、実は互いに牽制しあい、隙があれば蹴落とそうとする仲なのですもの。
…でもあの子はどこか特別だった。休憩時間にも仲間と遊ぼうとはせず、気の合った誰かとずっと話をしているような子だったわ」
「モーネの友だちも彼と一緒に生き埋めになっている?」
「あ、いえ…」
  テレーズの頬にほんの少し赤味がさした。「それは…  私です。ノミさん、思えば貴方のことと思われる魔導士の話も時折聞かせてもらいましたわ。それに…」
「『それに』?」
「生き埋めになっているのは多分彼一人…」
  風がまた一際激しくざわめいた。
「−−遺跡は、数ケ月前までは、手掘りで掘り進むことができたのです」
  ちょうどその時、バアーンと玄関の戸が開かれる音がした。
「アリスとトゥ?  おかしいわ。こんなに早く帰ってくるなんて…」
  起き上がろうとするテレーズを制して、ノミが表に向かった。
  それは確かにアリスとトゥだったが、今までの彼女たちと、どこか、何かが違っていた。
  二人は開け放った戸口にジッと立ちすくんだまま、家の中に入るでなく、木戸を閉めるでなく、暗殺にやってきた刺客のように、自分たちの家の気配を伺っている。
「お帰り」
  ノミはゆっくりと近づきながら言った。
「今日限りで、旅篭は閉店よ!」
  アリスは目を妙にギラギラと燃え立たせている。
「どうして?  引越しでもするのかい?」
「貴方に話す必要などない」
  トゥのほうはその言葉にさらに冷たさを増していた。
「もしもこのあばら家が必要でなくなったのなら、どうだろう、俺に譲ってくれないか?
  弟分のモーネを捜す拠点があったら便利なんだ」
  モーネの名を聞いても、アリスもトゥも眉一つ動かさなかった。例え短い間でも愛着を覚えていたことを考えると、腑に落ちない反応だった。
「そうか、便利なのか」
「そうだ。ただでくれ、とは言わない…」
  トゥが蛇のような細く先の割れた舌でちろりと青味がかった唇を舐めた。
  と、その瞬間、家の床板は春先の薄い氷のようにメリメリと割れ、腰板はハラハラと剥離し、天井がザーッとばかり崩れ落ちてきた。「危ない!」
  ノミはテレーズを抱えて逃げ出そうとした。
「テレーズ、おいで。あんなに楽しみにしていたじゃないか」
  そう言うアリスの顔も手もこの旅篭と同時に腐り落ちようとしており、トゥの仮面の顔は本物の黒耀石そっくりに堅くこわばりつつあった。
「あの石碑−−遺跡の中に入る方法を見つけたの?  そうじゃないでしょ?」
  彼女はもはやノミにすがりつき、かつての仲間を恐れ怯えていた。
「あの石碑、あの遺跡の中には、人間では入ることはできないのよ。それこそ魂だけの存在にでもならなければね。でもその願いは石碑の『中』でしかかなわない…  でも他のものなら簡単…」
  口が次第に崩れていくアリスの声は次第に聞き辛くなった。
「−−でも芋虫だったら、自由に土を穿つことができるし、遺跡の主も文句を言わないわ」
  かつてアリスの脂身だったものがボタボタと崩れきると、後には巨大なピンク色の芋虫が残った。
  一方トゥのほうは完全に石化して動かなくなった。
  テレーズが悲鳴を上げる。ノミはトゥをまじまじと見つめた。ただの黒い石像ではない。中に無数の小さな核が見える。目を凝らすとそれは大小さまざまな虫で、トゥは大きな黒い琥珀の固まりと化していた。
  ノミはすらりと剣を抜き、アリスとトゥに斬りかかった。アリスを一刀両断にすると、緑色の体液がサッと飛び散り、石像のトゥを叩くと、黒い琥珀の破片と粉が舞った。
  驚くべきことに、石の中で死んでいた虫たちは羽根をはばたかせて、辺りを飛び交い始めた。
  蜻蛉のようなもの、蝿、蝶、蛾、蜂のようで複眼や針が大きく、毒々しい縞模様や斑点、鱗粉を持つものが、アッという間に黒く太い柱を築いた。
  さらに真っ二つにしたはずの芋虫の裂け目からは、大小の芋虫がわらわらと溢れ出て、これらもまた意外なほどの速さで二人めがけて迫ってきた。
  崩れ落ち、倒れる梁や柱を避けて外へ飛び出ると、外は普段以上の土砂降りだった。
  テレーズを抱いたノミは脇目もふらずに泥を撥ね上げ馬小屋に走った。
  虫どももまっしぐらに追跡してくる。
  母家と同じく馬小屋も納屋も、ほとんど形を留めないほどに壊れていた。
  瓦礫を掻き分け、愛馬のいた辺りを捜そうとしたノミは、それが無残な血と肉の固まりとなり、その上に無数の羽虫や芋虫が白黒まだらのかさぶたとなってたかっているのを見た。
  大抵のものに目を反らさない彼も。こればかりは目を背け、二三歩後じさった。後ろからは大群となった虫が迫り、馬の肉を喰い尽くした虫も、彼らの気配を察して飛び立ってきた。
「魔法だ…  こうなったら魔法で追い払うしかない!」
  ノミが口の中でラテン語の呪法を唱え始めるのを聞いたテレーズはハッと目を覚ました。「だめよ!」
「しかし…」
  彼女は奇怪な虫の大群を見て、再び気を失った。
  ノミが呪文を続けると、地面の泥が命あるかのように波打ち、のたくって彼の長靴の踝を捕らえて地中に引きずり込もうとした。
またたく間に両膝までが沈み、動きは完全に封じられた。虫が顔や体にたかり始める。細く先端が鉤状になった不規則な針の束を振り回して…
  思わずその虫のその針を注目したノミは、その部分が螺旋状になっていて、おまけにギザギザ刃が付いており、その刃からは毒と分かる液体が滴っているのを認めた。
  蝿は自体の大きさの数倍はある、虫のというよりは深海生物のそれのような吸液口を伸ばした。ベチャリと先端が頬に当ると悪寒が背筋の端から端までを走り往復し、消えることがなかった。
  蛾どもは嘲笑うように羽ばたき、その度に羽根の気味の悪い人面紋が嘲り、驚き、哄笑した。
(もうだめだ!)
  ノミが覚悟を決めた時、徐々ににではあるが不思議なことが起きた。
  体じゅうにたかっていた虫が激しい雨に打たれて安定を失い、次々に滑り落ちていった。いったん外れた虫、落ちた虫は泥に埋もれて再び飛び上がることはできなかった。ホッとしたノミが落ち着いて見渡すと、虫の数はめっきりと減っていた。地を這う芋虫までもが自ら潜ったのか、それとも飲み込まれたのか、泥の中に吸い込まれていった。

                6

「何だと!  『雨を降りやませる方法』だと!」
  時は西暦七六八年、所はフランス中部城砦都市トゥールの宮殿、父ピピン(小ピピン)の跡を継いでフランク王国の国王となったシャルルマーニュ大帝は、人払いをし広々としているバルコニーから、真紅の騎士のマントを翻らせて玉座の間を振り返った。
  その向こうには抜けるような青空が広がり、麦の穂のざわめく音が聞こえる。
「−−アルクィン、貴様神学の学者なら、神が降らせ賜うている雨をやませる、などという恐ろしいことは考えるな!」
  王と二人きりで対峙しているのは、いまは修道僧のローブを着ているものの、つい先日まで「ノミ」と名乗って禁断の地アヴロワーニュの森に出かけていた青年だった。
「どうもその雨が、太古の昔より彼の地に棲むとされている邪悪なるものを封印しているに違いありません」
  アルクィンことノミは、屈託のない調子で言った。
「だったらなおのことだ!  そんな化け物を復活させてしまったら、誰が退治するのだ?」
「しかし退治しなければ、アヴロワーニュは永遠に今のままですが…」
  戦場にあっては勇猛果敢、弁舌も爽やかな大帝が思わず口ごもった。
「相手が何で、どういうものというのは分かっておるのか?」
「分かるはずがないでしょう。特別な予知能力でもあれば別ですが…」
  アルクィンは肩をすくめる。
「−−人の創造よりも古くからいるもの、というのは確かでしょう」
「すると堕天使−−悪魔(サタン)か?」
  シャルルマーニュ大帝は最近勉強したばかりのことを思い出して目を輝かせ、勢い込んだ。
「そう思って頂いて結構です」
「やはりやめておこう。雨をやませることなど、それこそ強力な魔法でもなければ不可能だし、その魔法がアヴロワーニュでは通じない、ときている」
  踵を返した大帝は再びうつむいてしまった。「おや、そうですか。まだ全ての魔法が通じないと決まった訳ではないでしょう。何なら回教徒どもが得意とする火薬の技に頼っても…」
  独り言めいたアルクィンの呟きに、大帝は思わず勢いよく顔を上げ、もじゃもじゃ眉を吊り上げた。帝は先年、欧州大陸から回教徒を一掃する勅を発し、自ら十万の大軍を率いて出陣したが、イスパニア国境ロンズヴォーで敵軍の最新兵器「火砲」によりさんざんに打ち破られ、あえなく敗走を余儀なくされている。
  その際に大帝はもっとも信頼する腹心の家臣であったブルターニュ辺境伯ローランを激戦の末失っていた。ローランは武勇に秀でていた上、眉目秀麗、義侠に富んでいたので、その死は民衆にも深く悼まれて、数々の伝説が、吟遊詩人たちによって語られることになった。
  結果、フランク建国とシャルルマーニュ即位によっておおいに盛り上がっていた国運は下を向き、人心にはようやく忘れようとしていた不安が甦った。
  つまり、先の大戦はフランクにとって軍事、政治経済的に大打撃だけを残していた。
  大帝の祖父、その名も同じフランクの族長シャルルが同国境トゥール・ポワチエ間で欧州征服の野望に燃えて北上するコルドバ回教徒軍を見事に撃退して見せた時とは雲泥の差ができてしまった。
  今上大帝はもとより残った辺境伯や将軍連、騎士従者に至るまで厭戦気分が広がり、内政外交にも積極性がなくなっていた。
「分かった。アヴロワーニュをそのままにはすまい。−−しかし、そなたがこれほど急に彼の地の問題を上奏するのは、そなたの弟子が行方不明になったせいもあると聞く。だから軍隊は出さん。予算もだ」
  大帝の言葉にアルクィンは一瞬歯囓りした。アヴロワーニュに、燦燦と輝く太陽と、善なる神の福音を甦らせる今回の計画には、軍隊も金貨もほとんど必要ではなかったが、遺跡にモーネが閉じ込められていることを讒訴した仲間の魔導士がいることには腹が立った。
「もちろん結構です。その代わり…」

  数日後、フランク王国の一五歳以上の婦人−−貴賎の別なく全員に、縦横それぞれ一尺の丈夫な麻布を一枚づつ供出し、それを村ごとに、町ならば区画ごとに集めて、日曜日の彌撒の後、辺と辺とを縫い合わせて、巨大な大きな布にせよ、との命令が出た。
  婦人たちは
(こんな大きな布、一体何に使うのか?)
  大いにいぶかしみながらも、せっせと針仕事に励んだ。
  それは確かに野戦用の陣幕や天幕に使うしては多きすぎた。
  時を同じくして国じゅうの大工がトゥール近くの広い草原に集められ、そこで城の骨組や矢倉に使う最高級の木材を使って、あるものを作るように命じられた。
  その材料費及び職人たちの給金はアルクィンの私財より支払われた。ために彼は貴重な羊革紙の蔵書(神学、魔法に関するもの)を売り払い、まだその上に多額の借金をした。
  作業を陣頭指揮する本人や親友、それに職人たちが寝泊まりする天幕は、大帝の軍隊から借りることができた。
  かれらは相場の倍三倍の給金と引換に、それが完成するまで帰郷できず、トゥールの町に外出することもできない約束になっていた。
  やがて「それ」がほぼ出来上がった頃、各町町村村から提出された小さな布を繋ぎ合わせた大きな布が現場に運び込まれ、そこでさらに連繋を繰り返された。  針子として駆り出された女たちの噂では
「巨人の寛衣に間違いない」
  とか
「帆船の帆よ」
  とかいったことが誠しやかに語られたが、布はもはや自己増殖と言ってよいほど果てしなく広がりつつあった。
「これは一体何に使うものか?」
  気にはなってもシャルルマーニュ大帝の逆鱗に触れることが恐ろしくて、正面切って訊く者は誰一人としていない…
「果たして完成後は無事家に返してもらえるかしら?」
  女たちの不安が頂点に達しかけた時、黒いマントに身を包んだ若くて美しい女魔導士が現れ、おごそかに言った。
「心配無用!」
  彼女=テレーズはそう言いながら両手の白く細い指で巧みに印を結ぶと、繋ぎ合わされた布の端から端までをゆるやかな弧を描いて一条の炎が走った。
  一瞬たじろいだ女たちがおずおずとその跡を見ると、細く黒い条痕を残してきれいに裁断されていた。
「やはり服よ!  伝説のイルルニュの巨人に着せる服なんだわ!」
  一人が素頓狂な声で叫んだ。
「莫迦ね!  イルルニュの巨人は大勢の遺体で作ったおぞましい限りのものなのよ。例え服を着せたところでおぞましさが消えるものじゃあないわ!」
  実際に我と我が目で見た訳でもないのに、ほとんどの女たちが震え上がり、その顔からは血の気が引いた。
「案ずるな。これは巨人の服ではない」
  テレーズが瞳を軽く閉じたままそう述べると、一斉に溜め息が漏れた。それは、今しがた裁断を終えたばかりの布をふわりと持ち上げてしまうほどたった。

  同じ頃、ノミことアルクィンもまた、外の大工や人夫たちを集めて、組み上がった建築物を検査していた。
「よし、いいぞ。引っ張れ!」
  アルクィンの指図の下、大勢の牛馬が掛綱を引くと、「それ」は予め掘ってあった深い穴を梃子にして、ググッと立ち上がった。
  雰囲気としては古代エジプトにおけるオベリスクの建設に似てはいるが、こちらの方は、回りは大人が十人以上手をつないでも回りを取り囲み切れないほど大きく、高さは天を突くほどに高い、一本の巨大な木製の柱に見えた。しかもこの柱、上部のあるところから急に太さが太くなっている。
「こらぁ一体何だべさ?」
  大工の一人が空を見上げて首をかしげた。「決まってるじゃねえか、おめえ。もちろんローラン様の仇討ち−−回教徒どもをブッ飛ばすための新兵器さ!」
  別の一人が目を輝かせた。
  それは当らずと言えども遠からず。歴代王が手を付けなかったアヴロワーニュから闇を払うということは、間違いなく萎えかけていた人々を奮い立たせ、回教徒軍に一目置かせることになるだろう。
  アルクィンが息を整えて、短いが鋭い呪文を唱えると、さながら傘の柄が開くように、巨大な柱の上部の太くなった部分がバッと四方八方に開いた。
  時を同じくしてテレーズが同じ呪文を唱えると巨大な布は作業場の屋根を突き破って空に浮かび、広がりながらその傘の部分に覆いかぶさった。そうしてできあがったものは、フランクはもとより世界中の人々がかつて見たことのない、巨人アトラス、あるいは世間を騒がせたイルルニュの巨人用の巨大な傘だった…



  アヴロワーニュの雨(承前)

                1

  大群集の前でその威容を現した巨大な傘は、魔法で吹かせた風にあおられて、そのままふわふわとアヴロワーニュ目指して飛んだ。
  沿道で野良仕事をしていた百姓、鍾楼の窓から天を向いて祈りを捧げていたカソリックの僧侶、領地で早駆けをしていた騎士も、雲間を漂う奇妙な物体に度胆を抜かれ、腰を抜かし、胸の前で十字を切った。
「それでは、我々も行って参ります」
  アルクィンとテレーズは大帝の前に膝まずいた。
「うむ、頼んだぞ。誰もが近くを横切ることすら嫌がる魔物の巣窟アヴロワーニュを、誰もが先を争って住みたがる楽園に変えてくれ」
「御意」
  二人はその姿勢のまま、壁一面にカロリング家や回教徒との戦いを延々と織りなした綴れ織りを巡らせた大帝の私室からかき消えた。

  彼らはアヴロワーニュとの境目の峠で傘の到着を待ちわびた。
  しばらくして、青空の彼方にポツンと小さな点が現れたかと思うと、次第にローマ法王の傘のような輪郭が明らかになった。
  予想した通り、その下には数百数千もの騎馬や徒歩の野次馬が土煙を上げて傘の行き先を見極めんものと怒涛の追跡を続けている。追跡者たちの群れは、時折疲労や怪我による落伍者を糞のようにポロポロとこぼしなら、こちらを目指してまっしぐらに迫って来る…
  実は当初は傘も瞬間移動させるつもりだったのだが、さすがにものが大きすぎて、これは断念せざるを得なかったのだ。かと言って傘をアヴロワーニュのすぐ近くで製作するのはより勇気がいった。
「あの人たち、どうしよう?」
  テレーズは早口で尋ねる。
「なあに、傘がアヴロワーニュとの県境を越えれば、みんな我に返って立ち止まるさ」
  アルクィンは用意していた答えを言ったが、大事な決戦を前に目はうつろだった。それほど野次馬たちの勢いは衰えを知らなかった。
  県境を守る関所の兵士たちが槍を捨てて一目散に逃げ出した。
  野次馬たちの目はひたすら傘だけを追い続け、たとえそれが地獄に向かっていても、まるで気にしていない様子だった。
「まさかあの傘、完成と同時に作る途中で使用した魔法が複合干渉し合って、予期予想していなかった魔法をも持ってしまったのでは…」
  アルクィンの顔色が変わった。
「そう言えばあの人の死体を集めて造ったイルルニュの巨人も、二目と見られぬ恐ろしい姿をしていたにも関わらず、濶歩した沿道の墓地からは別の多数の死体たちが従い、挙句の果てに、心の弱い生きた人間をも従えて、己の身体の一部に取り込んだ、と言われているわ…」
  テレーズもまだ本来の敵とは戦うどころかまみえてもいないのに、たじろぎ、数歩退いた。
『愚かな!  己の造った傘をも御せぬとは!』
  森の中心、遺跡の地下の辺りから、嘲笑う思念が響いてきた。
  言わずと知れた魔女アリスの思念だ。彼女の肉体はそこに巣喰う奇怪な虫に貪り尽くされて、魂は異形のものに取り込まれているに違いない。
『−−アヴロワーニュの森の雨、何が何でも決してやませはしない!  まして傘などもっての他!』
  アリスがカラカラと笑う。
  これで分かった。傘の製作過程には何等問題なかったのだ。問題は傘は現在、アリスたちの支配下にあると言うことだった。
  男たち、女たち−−トゥール近郊の民衆を働かせ、やっとのことで造り上げた傘を、こんなに易々と奪われては格好がつかない。
  傘の制御を取り戻すべく、懸命に呪文を唱えていたアルクィンは、急に両手で頭を抱えて地面に倒れた。
「ノミ−−いや、アルクィン、どうしたの?」
  抱き起こそうとするテレーズの目前に、大きな黒い影が迫った。言わずと知れたアルクィンたちの作った傘が天を覆ってできた影だ。
『おっと、残念だがアヴロワーニュの雨は我が結界、生命線。おまえら人間の皮膚のようなもの。察しの通り、雨がなくなると我が命は絶える。故に傘は畳ませてもらうぞ』
  魔神はアリスの思念を借りて、堂々と自らの秘密を叫んだ。よほど雨をやませぬ自信があるに違いない…
  影がアッという間に縮んだ。テレーズが天を見上げると全ての空を蔽っていた傘は、まるで見えない巨人が勢いをつけてすぼめたように、畳まれつつあった。
  何が何でも傘を畳もうとする魔物と、アルクィンの間で目には見えない念力比べが行われつつあった。そしてどうやら敵のほうが力において数段上回っていることは明らかだった。
  やがて、遠目には一本の丸太に見えるように畳まれた傘は、改めてアヴロワーニュの森の方向に飛行を再開し始めた。
  それを見た野次馬も、もうすっかり魅入られ、魂を抜かれた表情でまた追跡を始めた。「よせっ!  あのアヴロワーニュの、太古よりの恐ろしい魔物の棲む森だぞ。死よりもひどい目に合わされるぞ!」
  テレーズは突進する百姓、牧童たちを必死で止めようとしたが、いかに覚醒の術を使っても催眠の術に陥っている数百数千の群集はどうにもならない。踏み潰されないように転げながら逃げるのがやっとだった。
  アルクィンは術に敗れてうずくまったきりだ。
  畳まれた傘に導かれるまま、テレーズたちの旅篭のあった街道の辺りを通り過ぎて、あのアヴロワーニュの森の石碑と遺跡目指して走り続けているらしかった人々から、森じゅうに谺する凄まじい悲鳴が上がったのが聞こえると同時に、回教徒軍の火砲の着弾した際に上がる火柱の百倍ぐらいの血柱が上がった。
  アヴロワーニュの雨は直ちに真紅の血の雨となり、もうもうとした血煙とともにムッとする生臭さがたち込めた。
「おのれ、化け物め!」
  ようやく我に返ったアルクィンは地団太を踏んだが、もはや敗北は決定的だった。
『うまい!  久しぶりに喰う人の血肉がこれほどうまいとは!』
  魔物がアリスの口を借りてビチャピチャと舌舐めずりをする音が脳裏に響いてきた。
『こんなにうまいものならば、例え永遠の命は失おうとも、自ら封印、結界の内より出てこの国、この世界の人間全てを食ってやろうか…』
  この邪悪な思念は森の周辺はもちろん、フランク王国の国民全体に語り掛けられた。
  驚愕した人々は教会に救いを求めて押しかけ、大帝やその側近たちにも卒倒したり腰を抜かす者が続出した。
「これではまるで薮蛇ではないか!」
「民に賦役まで科し。日数を費やした傘をかように容易に奪われさるとは、誠にもって不届き!」
「しかも、おめおめと逃げ帰るとは、ロンズヴォーで雲霞の如き回教徒軍にも背中を見せず、勇猛果敢に戦い続けてついに戦死したローラン伯爵とはえらい違いじゃ!」
「是非とも責任を取らせろ!」
「斬首じゃ!」
  大臣や将軍たちは口々に大帝に訴えた。
  無論アルクィンはただ平伏するだけで一言の弁明もない。
「しかし、首を斬ってしまえば、誰があの傘を取り戻して、再びアヴロワーニュの森に棲む魔物と戦うのだ?」
  シャルルマーニュ大帝は眉を吊り上げて怒鳴った。
  さすがに衆議の席上はシンと水を打ったように静かになったが、また放言や私語が飛び交い始めた。
「−−それではアルクィン殿には傘を取り戻す明確かつ勝算のある方法がおありなのか?」「あればお教え頂きたい!」
  アルクィンは額を玉座下の絨緞に当てたままだった。
「どうだアルクィン?  当然傘を取り戻し、再びの戦いを挑むのであろう?」
  大帝は立ち上がって鋭く尋ねた。
  ちょうどその時、近衛兵二人が一人の傷付いた兵士の肩を抱えて進み出た。
「も、申し上げます…」
  傷付いた兵士は息も絶え絶えに言った。
「−−傘が暴れて…」
「何ッ!  傘だと?」
  満場の家臣たちが俄に浮き足立った。
  兵士はコックリと頷く。
「はい、傘です。巨人の傘が地面すれすれに飛び、作物や民家をなぎ倒し、軍隊が出動すると逆さになって独楽のように回転して、兵士は全員なぎ倒され、蹴散らされました。
  そこで弓矢を射かけたり、槍を投げて攻撃してみましたが、ことごとく弾き返されてしまいます…  我が辺境伯の軍団は全滅し、伯も胴をまっぷたつにされて…」
  兵士の言葉が途切れ、ガックリと首をうなだれた。
  「おい、しっかりしろ!」と揺さぶった近衛兵たちが一礼し、兵士を抱えたまま後じさって退出した。
「もしお許し戴けるのなら、ただちに傘を奪回し、魔物を討伐すべく出立します…」
  アルクィンは表を上げて大帝の目を見つめて言った。
「監視をつけろ!  でないと遁走するやも知れず、素知らぬ顔で敵方に寝返るかも…」
「そうだ。アルクィン殿は優秀な神学者で魔導士だが、この件については彼の手に余ると見た!  なにとぞロンバルド(いまのイタリア)やスコットランドの著名な魔導士に連絡を!  一流の魔導士なら、我らの難儀を知れば即座に駆けつけてくれるはず…」
  大臣たちは口々に勝手なことを叫んだ。
「お恐れながら、いま一度私に機会を!」
  アルクィンは声を振り絞った。
「−−異国の魔導士に頼めば、よしんば成功したとしても莫大な報酬を支払わねばならず、その上に大変な借りを作ってしまうことになります」
「分かった。いま一度だけそちに任せる」
  シャルルマーニュ大帝が裁断を下し、王国としての方針が決定した。
「有難き幸せ。−−それともう一つだけお願いですが…」
「軍隊の派遣か?  それとも親交のある魔導士の援護協力か?  遠慮なく申してみよ」
「私は金輪際どこにも逃げ隠れしませんし、まして敵方に寝返ったりするつもりはないので、なにとぞ監視のほうはご容赦頂きたい」
  またしても満場から轟轟たる非難が撒き起こった。
「それは何故だ?  見られていると不都合なことでも生じるのか?」
「御意」
「分かった。それでは只今より一日の期限を与える。明日のこの時刻までに傘を取り戻し、アヴロワーニュの魔物を退治せよ」
  王の命令を聞いても、まだ家臣たちの不満が止まないなか、アルクィンは城から下がった。
「あんな約束をして、何か策でもあるの?」
  堀の近くをうつむき加減に歩いていると、テレーズが寄ってきて尋ねた。
「一つだけある」
  アルクィンの心の中を素早く読み取ったテレーズの顔色がサッと変わった。
「まさか…  そんな…」
「しかしこれしかないだろう。アリスもトゥも、それにきみも、『アヴロワーニュの森の遺跡や石碑の中には、人間を魂だけの存在にして、最後の審判から逃れる魔法がある』と言っていた。それならこの方法がピッタリだし、これしかないだろう?」

                2

  大帝より「アルクィンの監視は罷りならぬ」と申し渡された家臣たちははなはだ不満だった。
  そこで、アルクィンたちの学派とは対立しているアリウス派の神学者兼魔導士を呼び出してこう命令した。
「奴から決して目を離すな。奴の行動は逐一報告し、逃げようとしたり、敵と通じようとした場合は、誅殺せよ」
  アリウス派魔導士は大いに張り切り、
(彼に裏切りの気配がなくとも、多勢をもって暗殺し、理由はあとからいくらでもでっち上げてやろう)
  とほくそ笑んだ。
(−−アルクィンさえ何とかしてしまえば、他のアナスタシウス派の神学者など烏合の衆も同然。シャルルマーニュを心よく思っていない諸候と結託して、再び宗教界の主導権を伺うのも夢ではなくなる…)
  しばらくして日が暮れたので、アリウス派魔導士は梟に姿を変えてアルクィンの後を
追った。
(王国各地で被害を与え続けている、あのとんでもない傘を鎮める方法などある訳がない。念力の強さではアヴロワーニュの魔物に勝てないことは、奴も分かっているはずだ…)
  アルクィンとテレーズは闇に紛れてトゥールの町はずれの墓地までやってきた。すぐ近くに城壁と門があり、その外はもう狼や夜盗の徘徊する街道だった。
(やはり奴らは逃亡するつもりだな!)
  アリスウ派の魔導士はかねてとり決めてあった鳴き声でホーホーと鳴いた。すると、近くに待機していた同じ梟の姿をした仲間が何羽も寄ってきて、枯木のそこここに止まった。
(アルクィンは相当な術の使い手だが、一斉にかかれば何とかなるだろう。なにしろ奴は昼間術に敗れてかなり消耗しているはずだ)
  細い月の光に長い影を引きずったアルクィンは、墓地に向かって両手を伸ばし、不気味な抑揚の呪文を唱えた。
  それはラテン語のそれでも、ケルトやルーン、ヘブライのものでもなかった。何か人が創造される以前の、混沌とした世界の残滓を引きずるぞっとする響きだった。
  アリウス派の魔導士たちも、大地全体が発酵し蠢くただならぬ気配に、思わず人の姿に戻ってしまうところだった。
  殺気、深い呪咀、妄念など、姿形は見えないが、ぞぞとするおぞましさを放つ妖気が竜巻となって渦巻いたかと思うと、墓場で眠っていた無数の死体が次々に、さながら悪の種子から根と芽を生やすかのように腐った手足を伸ばしてむくむくと起き上がり始めた。
「ま、まさか…」
  テレーズは息を飲んだ。梟姿の魔導士たちに至っては、物心両方の衝撃のせいで、木から転げ落ちて裸の人の姿に戻ってしまっていた。
「見・た・な…」
  その存在に気がついた亡者たちは、ゆっくりと彼らを取り囲んで、腐敗した肉をボロボロと落としながら、白や黄色の骨が剥き出た腕を伸ばした。
  いくつもの長く物凄い悲鳴がトゥールの城壁に響き渡り、やがて止んだ。再び起き上がった彼らはもう、自分たちを襲撃した亡者どもの仲間になっていた。
「覗き見など、下品なことをするからだ」
  アルクィンは、本当に本人かと疑うぐらいの冷たく悪意に満ちた口調で呟いた。
「−−まさか、伝説のイルルニュの巨人を復活させるつもりでは?」
  テレーズは一歩退き、責めた。
「それ以外にどんな方法がある?  俺たちはせっかく造った巨大な傘をまんまと奪われた。直接魔法の力では傘を取り戻すことはできない。だから亡者たちの力を借りるのだ」
  そう言うアルクィンの目の周りには黒い隈ができて吊り上がり、耳の上部は心なしか尖り、口は裂けていた。
  どうやら、この魔法を使う者は、太古の邪悪な存在に戻ってしまうようだ。
「止めて、アルクィン!  それだけは!」
  嗚咽混じりの声で叫ぶテレーズだったが、もう現在の彼にすがる勇気はなかった。
「どうして?  傘を野放しにし続ければ、生きている者たちに迷惑をかけ、光の世界が闇に遮られる。ならばすでに闇の世界−−冥府の住人どもをもってして封じる!」
  アルクィンが犬のように慕い寄ってくる亡者どもに向かって、再び先ほどの呪文の続きを唱えると、彼らは二人、三人と組を作り、手や足を組み始めた。
  そうしてできた腐肉の固まりは、やがてさらに一つに固まって、人の背丈の十倍はあろうかという巨人になった。
  巨人は怪我の治った人間が手足を少しずつ動かしてみるように、遺骸が合体して出来上がった拳を開いたり、閉じたりし、足をゆっくりと踏み出して見せた。
  ズシーン、と、生暖かい大地と濁った夜霧を振るわせて、巨人は歩き始めた。その後には溜池ほどの足跡が点々と残っている。
「本当は、胎内ないし背中に、術者自身も乗らなくてはならないのだが、傘を取り戻すだけだったらいいだろう…」
  アルクィンはゾッとする声で言った。
「術者が乗り込めば、世界征服でもできる、とでも言うの?」
  テレーズは自分の口が勝手に調子を合わせていることを悟って、さらに怯えた。
「もちろん!  何しろ巨人は無敵だ。軍隊なんかが阻止しようとしても、死体の山を築くだけだ。そして巨人はさらにそれらと合体して無限に大きくなる…
  太初、魔が横行していた頃、最初の最終戦争では、対立する両軍ともこの巨人を繰り出し、昼夜を問わず殺戮を続けた。巨人が殺した人間の死体から、また新たな巨人が生まれ、各々の巨人はさらに巨大化した…
  やがて、敵にも味方にも生きている人間が一人もいなくなると、巨人たちはついに、それ以上仲間を増やすことも、肥え太ることもできなくなって、今度は巨人同士で殺し合いを始めた。
  まず小さ目の巨人から叩き潰され、バラバラに引きちぎられた。飛び散った死体は、大きな巨人の、それでなくても無様なぐらいに盛り上がっている筋肉に、まるで粘土のようにペタペタと貼り付けられた…
  次に大きな巨人同士の殺し合いになった。
  今度は誰が勝った、ということはなく、最後の最後にはどの巨人も肉を剥がされ、骨(にあたる連結された死体)を引きちぎられてズダズタになった。再び起き上がり、あちこちに飛び散って腐臭を漂わせている死体を集めて修復する力を残している巨人は誰一人としていなかった。またそういう動きを少しでも見せた巨人は、近くに倒れている敵にバラバラにされてしまった。
  こうして全ての巨人は土に返り、巨人を造る魔法は完璧に失われた−−はずだった」
  アルクィンが例り奇怪な言葉で短い命令を発すると、巨人の手が降りてきて、二人はその上に飛び乗った。
「本当は木で大きなつづらを作って背中に背負わせて乗れば、乗りごこちも上々なのだがね。材料が足らなかったから、行く道で作ることにしよう。−−もっとも木で作ったものよりは、ちょっとばかり揺れるだろうがね」
  アルクィンの言う意味はすぐに分かった。
  巨人は畑や池や橋を踏み潰しながら、
トゥール一帯をうろつき回り、墓場を見つけては、そこで新たな遺体を付け加えてさらに大きくなった。いつの間にか背中には指令塔らしきつづらも、これまた組み合わさった遺体ででき上がっていて、二人は巨人の手のひらから乗り移った。これだけの「もの」の中に居ながら、不思議に鼻が曲がらない。どうやらアルクィンは二人の鼻の構造をも変えているらしかった。
  それが証拠に、手に手に松明を掲げ、沿道や村はずれに集まった人々は皆、分厚い木綿の布で鼻と口を覆っていた。
「百姓ども、道を開けろ!  これから傘を取り戻しに行くところだ。邪魔立てすると、この巨人の身体の一部に取り込んでしまうぞ!」
  自分たちの土地と実りを守るため、盲勇を振るって集まった農夫たちも、雷鳴を聞き違える巨人の声に腰を抜かし、蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
  面白いのは軍隊で、アルクィンに監視を送った将軍の兵士たちは、いつでも逃げられる森を背にした高い丘の上から、じっくりと事の成り行きを眺めていた。
  自動的に昇降する屍肉の梯子に乗って、巨人の頭部に登り、四方を見渡すと、とある方角に白い傘が竜巻となって暴れ狂っているのが見えた。
「よし急げ!」
  巨人は不気味な地鳴りを響かせて、そちらへと向かった。もちろん、巨人は足元に何があるか感知する能力などありはしないから、たまたま進行方向にあった家屋や教会、城、砦までがことごとく破壊蹂躙された。
  無事に逃げ出した人々は、細かい事情など何も知らないから、「魔の傘に続いて、あの恐ろしいイルルニュの巨人の再来」と膝まづいて天に祈りを捧げるだけだった。
  徒歩や騎馬では幾日もかかる行程も、巨人の足ではわずか数分だった。
  頭の上から見る傘は、この巨人にちょうどよい大きさで、文字通り手を伸ばせば掴めそうだった。
「簡単だ!  よし、早く取り戻せ!」
  アルクィンは巨人に命令した。
  つぎはぎの巨人は、同じくつぎはぎの、化け物茸のような傘の柄に向かって、その大きな図体からは信じられない素早さで、かがみつつ腕を伸ばした。
  と、動きがぎこちなくでたらめと思われていた傘は、それを上回る速さでサッと逃れた。「おのれ、アリスとトゥ!  これだけ離れていて、あれほど大きなものを動かせるのか」
  二人の後ろには何かとてつもない邪悪な存在があることは分かっていたが、次もその次も、傘は巨人とアルクィンたちをからかうような仕草を見せて逃れた。
  巨人は傘を追いかけて走り、傘はそれを上回る速度で、あるいは浮遊し、あるいは転
がって逃走した。
  この追跡劇のせいで、またしてもフランク王国の肥沃に耕地、繁栄していた町や村の多くが傘にはね飛ばされ、さらに巨人の足の下敷きになった。
  やがて夜が白み始めると、人々は、巨大な傘を必死になって追いかける巨人を見た。巨人は、その間にもそこここの墓地の死体を、鉄の釘を集める磁石のように集めて、無様な瘤を作り、何本もの尾を引きずって、少しずつ傘から遅れていた。
「おお、何ということだ…」
  トゥールの城の望楼でこの様子を目撃したシャルルマーニュ大帝は、何度も胸の上で十字を切った。
  巨人は埋葬されたばかりの死体や悪疫で亡くなった者のそれを加えて、灰色の地に桃色や黒や黄色を加えて、斑ができていた。
「あの傘、アヴロワーニュに向かっているわ」
  傘が黒い雨雲を従えた鬱蒼とした森に近付いているのを見たテレーズが叫んだ。
  人にとってはとてつもない迷いの森だということは、この位置で眺めて渡すとよりはっきりと分かる…
「ちょうどいい。傘を取り戻して、雨を封じてやる」
「でもどうやって?  相手のほうがすばしこいじゃないの」
「奥の手があるのさ!」
  アルクィンが瞳を凝らし、念を集中させると、巨人の両手が弓弦のようにグーンと伸び、森に入ったところでついに傘の柄を捕まえた。
  傘はそこから逃れようと身をよじり、くねらせたが、巨人もさすがに一度捕まえたものは二度と離さなかった。
  巨人の手が縮まる。その際、手を形作っていた死体のいくつかがポロポロと剥離した。やはり無理に伸び縮みさせるのはかなり無理がある様子だった。
「落ちているわ、大丈夫?」
「目的は遂げたんだ。多少構成物を減らしたぐらいどうということはないさ!」
  アルクィンは巨人を通じて取り戻した傘を剣槍のようにくるくると振り回して見せた。「そう…  後はあの上で傘を差して封印の雨を封じるだけでいいのね?」
「その通り。アヴロワーニュの邪神もこれまでさ!」
「さすがはシャルルマーニュ大帝の信任厚い大神学者にして大魔導士アルクィン様。これで大帝も、民草も枕を高くして眠れるというものですね」
  アルクィンの口元が綻び掛けた瞬間、うなじに強烈な電撃が走った。
  森の景色が、雨が、そして魔女テレーズのいつになく覚めた表情がクルクルと渦巻いたかと思うと、巨人の頭上にバッタリと倒れた。
  彼が彼自身にかけた魔法は全て解け、ブヨブヨでゾッとする死体の感触が全身に触れ、たまらない臭気が鼻を襲った。
「テレーズ…」
「ご苦労だったわね、御人好しのお坊ちゃん魔導士さん。傘も巨人も揃えて下さるなんて、本当に有難いわ。ほんのお礼のしるしに、私たちがアヴロワーニュの遺跡の秘密を暴いて、生きながらにして霊の肉体=霊体を得るところを見せてあげましょう!」
「テレーズ、裏切ったな!」
「アルクィンは何とか身体を起こそうとしたが、指先をかすかに動かすこともできなかった。それなのに眼球は自由に動かせ、喋ることもできた。
「元よりそのつもり。これほど簡単に騙される貴方が悪いのよ!」
  テレーズはそれまで隠していた尖った牙を剥き出しにして笑った。
「−−さあ巨人よ、その傘をアヴロワーニュの森の遺跡の上に差し掛けて、封印を解き、しかる後に黒金剛石の石碑を粉々に打ち砕け!」
  主が交替した巨人は、命じられるままにした。
  何億年もの間降りやむことのなかったアヴロワーニュの森の上に、ついに傘が差し掛けられる時がやってきた。
「−−ここまで貴方にやってもらっても良かったのだけれど…  私たちは甦らせた邪神にフランク王国を−−いや、全世界を破壊し尽くして貰うつもりなの。そしてその代償に永遠不滅の命を戴く…」
  テレーズが目配せすると、巨人はアルクィンが命令していた時よりもかなりぎこちない動作で、遺跡をまたいで立ち、傘を垂直に差し掛けた。
  巨人を作ったのは究極の魔法だが、現在巨人を動かしているのは、怨念であり、醜悪な妄念だった。従って、魔法に対する強力な結界も妨げにはならない…
  絶え間なく降り続いていた雨も傘によって弾かれ、雨は石碑や遺跡周辺の土地に雨が当らなくなった。
  すると、期待にたがわず泥土が盛り上がり始めた。
  石碑が揺れ、遺跡のある丘全体に地鳴りが響き、八方に亀裂が走り、地中から毒毒しい色の閃光走りながら、無数の虫が飛び立ち始めた。
  それはこの前、アルクィンとテレーズを襲撃したものとおなじ虫たちだった。拳ほどもある蜂、人面蛾、烏ほどもあるカゲロウ…
  今度は彼らを地面に叩きつける雨はなく、アヴロワーニュの森を跳梁跋扈し溢れた。
「いいわ、いいわ!  その調子よ!」
  黒い霧のように、虫たちが巨人の身体を取り巻くのを眺めてるテレーズ。だが、その直後に魔女である彼女ですら予期せぬことが起きた。
  石碑と遺跡全体が完全に隆起し、土を振るい落とした。
  そこに現れたのは、ぬめぬめとぬめった、丘のように巨大な蛆−−ないし芋虫だった。
  全身が青白いゼリー状態である中、蝸牛の触角にあたる一本しかない角が、例のとてつもなく堅い黒い石碑に見えていたものだった。
  一見ブヨブヨに見える体のところどころに、漆喰か石壁の残骸のような、おそらくは人工的な建築の後が見える。
(人類以前の太古に超文明を築いた生物たちの遺物だ…)
  アルクィンは暈いがして、気絶しそうだった。
  確かにそれは生命体と建築物ないし機械を合体させたものに見えた。
(鯨に飲まれた船乗りが鯨の体内で生活できる部屋を作ったように、彼らはいとも恐ろしい化け物を改造して、魔城にしていたのだ)
  芋虫には、肉と肉の蛇腹になった部分に無数の半透明の複眼があった。その一つ一つはそれぞれ別方向を認識することができるらしく、久しぶりに見る地上の姿を各々がてんでバラバラに眺めていた。
  アルクィンはそのうちの一つ二つから、覚えのある思念が投射されているのを感じた。どうやらアリスとトゥらしい。
『テレーズも早くこちらへおいで!  ここは言わば古今東西、全ての宇宙、次元、時代、世界の天才魔導士たちが集う、命があって移動も可能な魔城だ。
  各魔導士たちとの交感は楽しいし、何よりも理想の霊体になれる…』
  お喋りだったアリスは、彼女の言う霊体になっても口喧しい。
(…するとモーネも、モーネもあのおぞましい目玉の一つに封じ込められてしまったのか)
  一旦は落胆しかけたアルクィンだったが、気を取り直して弟分の思念を捜し読んだ。
  ところが、それらしいものは、芋虫のどこにも感じられない。
(…魔力が弱くて、化け物のほうが「留め置く資格なし」として消滅させてしまったのだろうか)
  そう思うと新たな怒りが沸沸と込み上げ、萎えかけていた使命感が復讐の炎となって
甦った。
「ちょっと待ってよ。『霊の姿』って言うから、私は『天使のような優雅で美しい姿』を想像していたのよ。それなのに、これでは余りに落差があるわ」
  テレーズはたじろぎ、芋虫の上に傘を差し掛けている巨人も、それに合わせてよろめいた。
「そりゃあ私もトゥも最初は抵抗があったさ。しかし、テレーズ、おまえの言う美しさはフランク王国の、キリスト教世界の、ごく狭い範囲の地域で作られたちっぽけな価値観でしかない」
「それは私も覚悟承知していたわ。でもこれはあんまりよ。遠慮できるものなら遠慮しておくわ。−−それに、どこへ行くにも大勢と一緒なんて、いまよりも自由じゃないじゃない」
  逃げ、あるいは戦うために身構えると、巨人もつられて身構える。
「お分かりでない子だねぇ…  魂だけの存在になると言うことは、プライヴァシーなんかなくなるということなんだよ。着替えを覗かれることもなければ、お互いの衣食住を気にすることもない。−−みんなの目的はただ一つ、こうして目出たく復活することのできたこの世界を完腑なきまでに、徹底的に破滅させるこどだよ!  同じ目的を持ったみんなと一緒にいるんだから、楽しいったらありゃしない。さあ、ただっ子みたいにぐずぐす言ってないで、早くこちらへおいで!」
  向こうは歓迎のドアを開けたつもりなのだろうか、いくつかの大きな擬口腔が開き、ヒクヒクと蠕動させた。
「アリスお姉様、トゥお姉様、悪いけれど、私はご遠慮申し上げるわ」
「おや、そうなると、貴女もこの世界もろとも塵芥となって消えてもらう−−無に帰してもらう他ないんだけれど…」
  それまで黙っていたトゥが、一際邪悪な思念を送ってきた。どうやらこの芋虫の化け物は、存在するものの全てが気に食わなかった邪念の化身らしかった。
「そうは行かないわ!  今の私にはイルルニュの巨人がいるのよ!  バラバラに引き裂いて元の土の中に埋め戻してやる!」
  テレーズの瞳に殺意の光が走ったかと思うと、巨人はかつてなかったほどの素早さで傘を畳んだ。
「−−何億年もただの雨に封じ込められていた癖にナマ言うんじゃないよ!」
  ところが、巨大な芋虫の回りの次元がスッと歪むや否や、芋虫はちょうど森を出たばかりの、アヴロワーニュの平原に移動していた。「おのれ!  瞬間移動ができるのか!」
  地団太を踏んだテレーズが両手の指を目まぐるしく動かすと、巨人が持っていた傘は、一本の剣に姿を変えた。
「ありとあらゆる世界を滅ぼした、ありとあらゆる魔導士たちが結集しておるのだぞ。およそ出来ぬことなど何もない!  そして永久に滅びを知らぬ我々は事実上の神だ。その神に逆らうとは身の程知らずにもほどがある!」
  アリスはせせら笑う。
「そうかしら、それだったらどうしてあんなむさ苦しい森の中に気も遠くなるぐらい閉じ込められていたのかしら?」
  テレーズは意識を集中し、巨人ごとの瞬間移動を試みた。
「よせテレーズ!  やられに行くようなものだ。あの中の全ての魔導士が覚醒しないうちに、一旦逃げるんだ!」
  だが彼女はもうアルクィンの言葉など耳に入っていなかった。
  ほんのまばたきする間、巨人の回りの空間が歪み流れたかと思うと、雲を突く汚れた死体の固まりはサッと掻き消えた。
(今のところ奴は武器を持っていない。全ての魔導士が覚醒している訳でもない。今なら一刀両断にできる…)
  一瞬後、剣を高々と振り上げた巨人は、芋虫の真ん前に姿を現した。
「これまでだ!」
  剣は目にも止まらぬ速さで一直線に降り降ろされた。先ほどは素早くかわした芋虫も、今回は逃げ遅れた。巨人はまるでピレネー山脈を切るように巨大な芋虫を断ち切った。
  剣からは桁外れの電撃、炎撃。氷撃の稲妻と光がほと走る…
  血しぶきに似た青黒い、あるいは黄色が
かった乳白色の、またあるいは完全にどす黒い体液、妖液が飛び散り、それが着地した場所はこれから先千年はペンペン草一本生えることのない毒の沼になった。アヴロワーニュはもともと毒沼の多い地方だったが、それがさらに数十増えた。
「やった!  イルルニュの巨人は無敵だ!」
  テレーズが息を弾ませながら敵を見下ろすと、芋虫は確かにま二つに切られているものの、その二つともがピンピンと跳ね回っていた。そしてそれはどう見ても断末魔の苦しみにもがいているようには見えない…
「二つに分けてくれて有難う。−−トゥ、こちらは私が勝手にやるからね」
「ちょっとした僥幸ですわ、アリスお姉様。私、お姉様のやりかたは少々生ぬるいと思っておりましたの」
  分かれた二つのぶよぶよの物体が喋り合った。
「おのれ!  これではどうだ!」
  テレーズは滅多やたらに剣を振るった。
(よせ!  無駄どころか、相手を有利にするばかりだ…)
  何とか立ち上がろうと必死にもがくアル
クィン。だが、テレーズのかけた術は強力で、指をほんの少し上げるのがやっとだった。
  芋虫は数百もの断片に分かれた。巨人はそのうちの五つ六つを思いきり踏み潰した。
  地割れが八方に走り、フランク王国じゅうに大地震が襲った。城や民家の大部分が無残に倒壊した。
  巨人の足跡は、雨が降ると深く大きな池になった。
  バラバラにされた小さな芋虫たちは、まだもぞもぞと動いていた。小さいと言ってもその一つ一つは小山か攻城投石機ぐらいはあって、長く尖った牙がズラリと並んだ口を開くと、人間の百人や二百人は一呑みにされてしまいそうだ。
  やがて宵闇に街の灯が点り出すように、その先端にルビー色や、トパーズ色や、アクアマリン色の目玉が光り始めた。
「やれやれ、長い間眠ってしまった。ここはどこだ?  どのような生き物が支配している世界なのだ?」
「寝過ごしてしまったのか?  まあ、この躯の中にいる限り、最後の審判が行われても大丈夫、だとの能書きを信じて従ったのだから、十億年や二十億年の遅れは屁でもないはずだが…」
  小さな芋虫の一つ一つには、気の遠くなるほど大昔に、永遠の命を願って自らの魂をこの物体の中に封印した世界中の−−いや、宇宙じゅうの、全ての次元の天才魔導士たちが宿っていた。
「そ、そんな…」
  ここに至ってようやく事態を把握したテレーズはヘナヘナと腰を抜かした。彼女と連動している巨人も尻餅をついた。
「−−俺たちを起こしたのはどいつだ?  説明しろ!」
  先ほど巨人が踏み潰し、紙のようにペシャンコにしたはずの芋虫の一匹がパンのように膨らんでぴょんぴょんと跳ね回って言った。
「何て言ったってそれは私だよ!」
  お喋りなアリスがしゃしゃり出てわめく。「−−私が貴導士たちを堅く堅く封印していたアヴロワーニュの雨を止めて、貴導士たちを甦らせてやったのさ」
  それについては同じぐらいの功績があったはずのトゥは、かつて感じたことのない強烈な邪念を察して押し黙ったままだ。
「おまえか?」
「そうさ、私だよ!」
  アリスは有頂天だった。
「よけいなことをしやがって!」
  芋虫の形に戻ったその魔導士が真冬の吹雪の雪鳴りのような呪文を唱えると、アリスの魂の宿った芋虫のま下から、一柱のオレンジ色の火柱が上がった。彼女は見る見る黒い塵となって溶け去った。
「な、なぜ!」
  その直前、影絵の顔が浮き上がらせてアリスはうめいた。
「俺はあと三十億年は眠っていたかったんだ」
「この躯はハルマゲドンや審判にも耐える躯のはずでは−−」
  それが彼女の最後の言葉だった。
「高価な甲冑をまとっただけで強くなれるのなら、誰も苦労はせんさ…」
  そこここから嘲笑が起きた。
「さて、俺はもう一度眠ることにする。だいたい審判の前に目覚めてしまうなんて、計算違いも甚だしい!」
  魔導士のリーダーらしき者が命じると、彼に従う他の魔導士たちも芋虫のような不定形から、本来の姿に戻るのは止めて、それぞれ隣の芋虫、そのまた隣の芋虫と合体を何度も繰り返して、元の巨大な一体の芋虫に戻ろうと試みた。
  トゥも自分本来の目的と合致したらしく、何喰わぬ顔で他と合体して、涼しい顔を決め込んでいた。
「ちょっと待て!」
  別の声−−思念が彼らの動きをピタリと遮った。
  アルクィンにとっては聞き覚えのある、懐かしい波長だった。
「−−せっかく目が覚めちゃったんだ。行きがけの駄賃にこの世界を徹底的に破壊しちゃおうよ!」
  アルクィンは絶句した。それは彼が助け出そうと七転八倒の努力をしていたはずのモーネの思念だった。
「下らん!  実に下らん!」
  リーダーは吐き捨てるように言った。
「−−こんな世界、三文芝居の劃き割りほどの価値もない!  時間と力の無駄使いだ。それどころか、下手をすると宇宙の彼方、次元の隙間から我々の存在を突き止めようとしている連中に見つかってしまうやも知れぬ。
  俺も破壊と殺戮は大好きだ。ただし、ここはそれをやっても面白くも何ともない。貴導士は新参者だな?  我々の目的は箱庭に等しいちっぽけな世界を粉々にし、中に棲んでいる蟻どもを皆殺しにするといったつまらぬことではないはずだ」
「貴導士方はここで眠りにつく前に、それぞれの世界、あるいは別の世界や次元をいくつも−−それこそ十や二十以上破壊してきているはずだ。僕はまだ一つの世界も破壊したことはないんだ。貴導士方から莫迦にされないためにも、ここをまず破滅させたい!」
「モーネ、何と言うことを!」
  余りの怒りと衝撃に、アルクィンの動きを封じていた魔法が溶け去った。
  それにしても、とてつもない魔力だった。
  アルクィンの知るモーネは、彼自身よりもまだ遥か下のレヴェルの、魔導士見習いに過ぎなかった。それなのに現在、芋虫の一つに寄生しているモーネは、桁外れの、リーダーや他の魔導士たちと同じぐらいの力をみなぎらせている。
  遺跡に長く封じ込められていると、どんなに才能や能力のない者もこうなることができるのか、ブヨブヨの不定形の細胞が蕾の状態だったモーネの魔力を開花させたのか、いずれにしても脅威だった。
「貴様、つい先ほど仲間に加わったばかりの新参者のくせに、俺に意見をするのか?」
  リーダーは乳白色の体を朱に染め、細胞をもこもこと盛り上げ、変形させて正体を現そうとした。ところが、すでにリーダーに合体していた他の芋虫は、さながら沈む船から鼠が逃げ出すように離れ始めた。その中には
機を見るに敏なトゥもいる。彼女は何とモーネの後ろに回った。
「何だ?  一体どういう訳だ?」
  やがてリーダーも、アルクィンもテレーズも気が付いた。モーネの芋虫の背中には一星テントウさながらに、アヴロワーニュの黒い石碑が埋まっていた。
「石碑は僕が貰っているよ。バラバラになった衝撃で外れた時に貰っておいたんだ。何しろあの時目覚めていたのは僕だけだったからね。役得さ…」
  リーダー−−いや、今となっては「元」
リーダーと言った方が良いかも知れないが、芋虫の体が蒼くなった。
「待ってくれ!  こいつはうかつだった。許してくれ!  …同じ究極の魔法を求める仲じゃあないか!  ほんの少し意見が違っただけじゃあ−−」
  モーネの眼から蜘蛛の糸に似た光線が発射され、それはリーダーの体にほんの小さな穴を開けた。その穴は始めゆっくりと、次第に加速度的に早く大きくなり、怨念に満ちたうめきを上げる頃には完全に消滅していた。「モーネ!  俺だ!  アルクィンだ!  救出が遅れて済まなかった!」
  アルクィンは巨人の頭上でスックと立ち上がって叫んだ。
「わかっちゃいないね。僕はもう師匠なんか必要ないんだ。いままで世話になったお返しだ。その目障りなデクと一緒にさっさと消えてくれないかな」
  小さな芋虫のモーネは、次第に人−−一五、六歳のあどけなさを残した少年の姿に戻った。ただし、その背中には小さく縮んではいるものの、例の黒い石碑の甲虫の甲羅が暗黒の騎士の甲冑のようにひっついていた。
「モーネ、さっき言っていたこと−−この世界を滅ぼすなんてことは、もちろん冗談なんだろう?  さっさとこのろくでもない奴らを封印して、元の静かに神学や魔法を勉強する生活に戻ろうじゃないか」
「アルクィン、貴方ほどの魔導士が気付かないの?」
  耳元でテレーズが囁いた。
「−−あの子、モーネは黒い石碑の邪気に完全に支配されている。何を言っても無駄よ」
「分かってる。分かっているけれど…」
「分かっているのなら、貴方も聖人君子を装うのは止めにしたらどうなんですか、アルクィン?  シャルルマーニュ大帝の世の中になっても相変わらず威張っているのは大貴族や大地主ばかり…  貧しい農民はいつまでたっても貧しいままだ。騎士たちも皆自分の利害のためだけに戦い、宗教家も堕落している。人々の心の中で燃える欲望の火の玉に比べれば、我々魔導士が掌から飛ばす火球などほんの子供騙しに過ぎない。
  そんな恐ろしい世の中なら、僕が一度精算して、その後で新しい世界を造り直してやる。−−美しい空と、森と湖に囲まれた、人間のいない素晴らしい世界をね」
  石のせいでモーネの魔力が幾何級数的に増幅され、ついで日頃の下積み生活の欝憤も全精神を覆うかのように増殖していた。
  アルクィンはテレーズに代わって、巨人に剣を振り上げさせた。ことモーネが関わっているとなれば「一旦逃げる」などという悠長なことは言っていられなかった。
「モーネ、おまえはいま、おまえ以外の者に支配され、操られている。何とか助けてやるから、じっとしているんだ」
「まだ分からないの?  僕はやっと日頃思っていたことを実行に移す力を得たんだ」
  モーネに従う芋虫姿の魔導士たちが一斉に凄まじい妖気を放ち始めた。
  アルクィンは手で押し、足で蹴るようにして、瞬間移動でテレーズを安全な場所に逃した。
「ちょうどいい。この下らない野卑た世界を破壊するのに、まずその巨人を戴こう!」
  まだモーネが命令を下さないうちに、気の早い芋虫姿の魔導士たちが宙をビュンビュンと飛んで死体でできたイルルニュの巨人の表面にペタペタと張りつき始めた。
「伝説のイルルニュの巨人が伝説以上り恐ろしい力で甦り、ゆっくりと村から町を滅ぼして回れば、その噂を聞いただけでまだ見ぬ村町の人々も、発狂自殺する者が後を断たないだろうな!」
  モーネの意思はますます堅く、残りの芋虫姿の魔導士たちも次々と巨人に張りついた。
  やがてついに、表面をブヨブヨの軟体細胞で覆われた巨人が完成した。それはヌルヌルスベスベしていて、一見積み重なった死体のオベリスクのような本来のすがたよりは幾分グロテスクな趣きが減少した。−−とはいえ共に理性を崩壊させてしまうほどのおぞましさは同等だった。
「止めろモーネ!」
  巨人の頭上にいたアルクィンにも芋虫が覆いかぶさった。暫くはもがいていたアルクィンだったがだんだんとその動きが小さくなり、やがてついにピクリともしなくなった。
「僕があれだけ『巨人の術を教えて下さい』と頼んでも、少しも教えてくれなかったケチな師匠だ。くたばるがいい!」
  巨人の回りに紫色やオレンジ色の不気味な電光、稲妻が走った。ただの巨人でも最終兵器であるのに、これはもう完全な魔人であった。
「おい、そこの者、何をグスグズしている?」
  モーネはたった一体、合体に加わらない芋虫を咎めて言った。
「−−貴様、トゥだな?  さては僕からこの黒い石碑を、主導権を奪うつもりで何か企んでいるな!」
「いいえ、そうではありません!  貴導士はいま、たった一つだけやってはいけないことをやっているのでは、と…」
「何?  僕に説教するのか!」
  モーネの指先からごく細い黄金の光が発射され、トゥは一瞬にして蒸発消滅した。
  トゥが寡黙でなく、早目に要領よく、何故いけないかを説明していたら、聞く耳を持たないモーネではなかっただろう。土壇場で長所が短所となった。
「よーし、行くぞ!」
  モーネが最後に巨人の頭に合体した。
  そして、一歩踏み出した途端に、目の前に落ちた。巨人を飲み込むほどの巨大な穴は、つい一秒前にはまるで存在していなかった穴だった。
  モーネは知らなかったのだ。イルルニュの巨人には、術者が目的を遂げた時のために消滅装置があったことを…
  死体でできた巨人は本来の棲み家、真紅のマグマがグツグツと煮えたぎる煉獄へと、まっさかさまに落ちていった。
  モーネを始め、芋虫姿の魔導士たちは必死になって離れようとしたものの、仲間と結束することでは全ての世界、全ての次元で最強である巨人から逃れることは誰ひとり出来なかった。



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