影たちの宴  2001/09/07

                1

「拝啓  H・P・ラヴクラフト様
  お手紙有難うございました。
  が、生憎ながら姉、ヴィヴィアン・マリンは急逝致しました。
  姉の書架にありましたあなたさまの怪奇小説を掲載した雑誌はわたくしも拝読させて頂きました。
  もしお差し支えなければ、今後はわたくしがファンを引き継ぎたいと思います。
                              かしこ
        一九二五年X月X日
                  スカーレット・マリン

  奇妙な手紙だった。
  ヴィヴィアン・マリンというのは私がプロヴィデンスにいる頃に二、三度手紙を貰ったことのある看護婦で、現在の仕事が比較的つまらなく、できれば医者か薬剤師になりたい旨が書かれてあった。私は他人の人生相談をできるような立場ではさらさらないので、当たり障りのない返事を書いたことを覚えていた。
  ここへ引っ越してきた時はころりと忘れていたが、そう言えばそのマリンの手紙の住所のすぐ近くに来たのだ。
  彼女が死んだという。
  しかも自身が病気だったのか、不幸な事故に会ったのか、理由は一言も書いていない。(ひょっとすると自殺か、殺人の犠牲者か、手紙には書けない原因なのか?)
  という思いが頭の中に浮かび、次いで
(ヴィヴィアン・マリンは生きていて、冗談でこのような手紙を書いたのではないか?)
  とすら考えた。
  住所はレッドフック街のXXX番地。
  ここからは目と鼻の先だ。
  私は滅多に新聞など読まないから、何か事件が起きていても見逃した可能性は高い。
  いや、実は白状すると、最近はスタンドで新聞を買う金にも不自由しているのだ。
  こちらへ来てからというもの、まるでいいことがない。
  心血を注ぎ、自分でもなかなかの出来だと思う小説はなかなか売れず、幸運にも掲載されても稿料は雀の涙ほどだった。
  ソニアが見限ったのは正解だったかもしれない。
  神経病持ちの、陰気な、古代の神話や伝説には詳しくとも、車やダンスやアール・ヌーヴォーといった現代の話題にはまるでついていけない暗い男。
  せめてスティーヴンソンやメリットたちのように作家として成功し、金でも持っていれば繋ぎ止めることもできただろうが…
――いいや、もう止めよう。
  これでまたゆっくりと自分だけの世界に没頭できるじゃないか。これは決して負け惜しみではない。私には妻や子供たちに囲まれ、郊外の一戸建てに住むなどという、卒倒するぐらいに平凡な生活は似合わない。
  私自身、父とは早く死に別れ、厳しい叔母に預けられて育ったせいで、コニー・アイランドやラジオシティ・ミュージックホールやドジャーズ・スタジアムといった他の子供たちが一生の思い出にする楽しそうな場所にはからきし縁がなかった。
  過ごしたのは薄暗い、黴の臭いがする叔母の屋敷の書斎で、錆び付いた騎士の甲冑や色褪せた人体模型だけが話相手だった。
「賢者は空想の中だけで旅をする」
  とカーライルは言ったが、私はホメロスのイリアスや聖書やアラビアン・ナイトの世界で、オデッセウスやモーゼやシンドバッドらと共に大冒険を繰り返し、傷一つ負わずに生還した。
  ついに、とうとう自らの手足を動かして何かをする時が来たのかもしれない。
  と言っても別に大西洋を渡ったり、大陸横断鉄道に乗ったり、小舟でナンタケット島に渡ったりする必要はない。
  ものの五分か十分歩いて、同じレッドフック街のマリン家のドアをノックするだけでいい。
  いや、別にノックせずとも、近所のポーチの揺り椅子で昼寝をしている年寄りか、棒で輪っかを転がしている子供たちに尋ねるだけでもいい。
「この家で最近葬式があっりましたか?」と。
  僅かな貯金を使い果たしてしまった私は、もうすぐ逃げるようにプロヴィデンスに返らなければならないだろう。
(空虚で殺伐としていたここでの記憶に、何かを加えることができれば)
  私の足はよく私の気付かないうちに、どこかの見知らぬ通りを歩いていることが多かったが、この時もまた、決心も、もしもマリン家の人物が応対に出た場合に言う言葉も朦ろなまま、ただ美しい黄金色の夏の満月と、満天の銀河の星星に誘われて外に出て、褐色砂石作りのアパートが続く通りをただぼんやりと歩いていた。
  目的の番地はすぐに見つかった。
  赤煉瓦などの中層建築の建物に挟まれたマリン家は、かつては白かったであろうペンキが剥げ、白蟻に喰い荒らされ、腐り果てた漆喰が剥き出しになった、ジョージアン様式の破風を伴う典型的な植民地(コロニアル)風の一戸建てだった。
  エジソン氏の発明になる白熱電灯の明かりに照らし出された、緑青が吹いて盛り上がった銅板の表札に目を凝らし、ロマネスクの花文字で「マリン」と読めた時には、余りのあっけなさにいささか拍子抜けしたぐらいだった。
  茶色く変色した真鍮の獅子のノッカーをそっと持ち上げると、元はかなりの上物だったであろう、焦げ茶色のペンキの塗られた樫のドアを二度ノックした。
  応答はなかった。
  その自分には私はいつもの消極癖にとらわれて、踵を返して立ち去りかけていた。
  と、その時、ドアの向う側で確かにカチャリと、掛け金と鎖を外す音がした。
「すみません、いらっしゃったのですか?」
  尋ねるよりも早く、向う側からノヴが回され、ギィーッという音を立てて、ドアが一インチほど開いた。
「私は作家のラヴクラフトという者です。
  夜分恐れ入ります。スカーレット・マリンさんとおっしゃる方はおいでになりませんでしょうか? ――いや別に面会の約束はしていないのですが…」
  突然のこと、よく回らない舌ながら早口でやっとそう述べた。
  答はない。開かれたままのドアの一インチの隙間から恐る恐る覗くと、家の中は果てしない暗黒だった。
(このまま黙って帰るべきか、それとも…)
  私は長いあいだ躊躇していた。表の通りをT型フォードがかまびすかしいエンジン音を鳴り響かせて走り去った。
  ここで立ち去れば、ちまちまとした、どう考えても芸術的とは言い難い、宇宙の神秘や歴史上の夢ともほど遠い、暑くも寒くも、明るくも暗くもない、常なる黄昏のように生気のない「現代の科学恩恵社会」に戻れることは確かだった。
  反対に、このドアを潜ると、当面よほどの努力か幸運もしくはその両方がなければ簡単に元の世界に戻ることのできない異界の落とし穴に転落してしまう気がした。
  私の思い過ごしかもしれない。この廃家の中には、ラヴクラフト家と同様に没落したピューリタン――ビルグリム・ファーザースの末裔の姉妹がひっそりと暮らしていただけかもしれない。
  だがそれでも、この先には何かがある、何かがいると思わずにはいられなかった。
  私はノヴを掴むと一気に開いた。
  思った通りだった。
  玄関のホールには、テュロス(古代フェニキアの港湾都市)の岬の七灯台に似た、赤々と燃える灯芯の炎が揺れていた。
  中の脂はもちろん、獣や魚のそれではなくコロセアムで敗死した剣闘士のそれである。
  赤い炎の舌は彼等の怨念を語り続けるが如く、無明の闇の間を這い回り、蜘蛛の巣だらけの壁や天井を、恨めしげな目をした貴婦人の等身大の油絵を、ところどころ腐って穴の開いた床を、床下から覗く無数の黄色く変色した髑髏を、サイドテーブルの上の宋の青磁の花瓶を、それに生けられていて、いまは乾燥花のようにカサカサになっている青い矢車の花を照らし出している。
「マリンさん、いらっしゃいませんか?  居らっしゃったら、是非ご返事して下さい」
  名状し難い恐怖の余り、私は次の部屋へと続いている扉に向かって、陳腐なことを叫んだ。頭の中では、ヴィヴィアンかスカーレットか、いずれかのマリン嬢は自分で見つけるしかないとはっきり分かっていたのに、だ。(いいや、私はとても、私の小説の中の登場人物――破滅すると分かっていて禁断の領域に踏み込んだり、古の支配者を怒らせたり、人のものならぬ物品に触れたりする――のような勇気はない!)
  そう思って振り返った途端、玄関の扉がバァーンとゼウスの雷(いかづち)もかくやと思われる轟音を立てて閉った。
  私は溜め息をついたが、他人から見るときっとギリシアの風神なみの長い溜め息だったに違いない。
(どうせ決して開かないだろうが、努力はしてみよう)
  玄関のドアに近づこうとした私の前の床が何平方フィートに渡ってごっそりと崩れ落ち中から菌糸類のような細く白い糸が束になって生えてきて行く手を阻んだ。
  どうやら私は罠に落ちたらしい。私の書いたものやこれから書こうとしているものが彼等の気に障らないはずがない。十分に注意を払い、幾分彼等を持ち上げるようにしてはいるが、無駄な努力だったのかもしれない。
  彼等の存在を他人に||世間に知らしめただけでも万死に値する罪なのだ。
(仕方ない。こうなってしまってはアブドゥル・アルハザードのような魔法も、キンメリアのコナンのような剣も使えぬ私は、まさに彼等の俎の上の鯉だ)
  半ば覚悟を決め、半ばやけになって、目玉も口も大きいアフリカか南米の原住民の顔を大きく刻んだ燭台の一つを持ち、一歩歩くたびにギシギシと嫌な音を立てる廊下を歩き始めた。
  玄関といくつかの納戸に続いて応接間があった。扉は開かれたままだ。
  分厚い埃の積もった革張りのソファ、大きな笠の卓上電灯。暖炉の上には赤い人魚――ローレライの描かれたマイセンの飾り絵皿とともに、チーク材の鯨の形をした写真立てに入った何枚かの古い写真があった。
  若い夫婦らしい男女と、その娘らしい三、四歳の幼い女の子が、セピア色の印画紙に焼きつけられている。
  男は一応フロック・コートに身を包んでいるが、鍛え上げられた肉体といい強い意思の光に満ちた目といい、いかにも屈強な感じを受ける。軍人のような感じはしない(軍人ならば、記念写真を撮るにあたっては正装用の軍服を着用するだろう)ので、おそらく高級船員か何かだろう。
  サテンのドレスに日傘を持った妻らしい女性のほうは、目を見張るほどの美しさではないものの、清楚で夢見るような、はかなげな目をしていた。
  その膝に抱かれた少女はこれ以上はないぐらいに幸せそうに、こちらに微笑みかけている。
  これがマリン一家で、少女がヴィヴィアンかスカーレットなのだろうか?
  写真立てのすぐ脇に、すっかり錆び付いた一本の鍵があった。
(銀の秘鑰、か)
  私はその鍵を握りしめた。ざらつきひんやりとした鍵から手の皮膚を通して霊気が立ち登っているのが感じられる。
  私はいったん応接間を出た。
  さらにクロークを一つ二つを挟んで食堂があった。扉は開かれたままで鍵を使う必要はない。
  古風な長い食堂のテーブルと、背面に欧州のものではない奇妙な花綵模様の刻まれた椅子が置いてある。いずれの支柱にも燭台と同じ南太平洋かカリブ海かの原住民たちが作るトーテムポールに似た気味の悪い顔がいくつも刻まれている。
  壁にはマリン家の先祖たちだろう、エリザベス・カラーに天鵞絨のコートを羽織り、反り返ったつばに白い羽根を挿した船長の帽子をかぶった男たちを描いた肖像画が何枚もあった。
「やあ、貴方たちが残した遺産のせいで、貴方たちの子孫がえらい目にあってしまったみたいですよ」
  語り掛けると、気のせいか油絵はそれぞれ表情を曇らせた。
  定石なら絵を壁から外してカンヴァスの裏を調べてみるところだが、かなり大きな絵だったのと、随分長い間誰も手を触れた形跡がなかったので確かめはしなかった。
  ただ顔に「インスマス面」と呼ばれる特異な特徴がないかだけ調べたが、どうやらそれはない様子だった。どうやらマリン家は特に呪われた家系などではなく、ある時突然何か戦慄すべき事象に巻き込まれた可能性が高い。
  食堂の隣は台所――厨房だった。ここの扉も開け放たれている。おそらくこの扉を家族の団欒に供される様々な御馳走や酒類が女中たちの手によって運ばれていったことだろう。
  コンロの上にはいくつかの鍋類が置かれっ放しになっていて、堅く締められて錆び付いている新式のガスや水道の栓とは違和感を呈していた。
  無理に想像すると、異変はこの家の女主人がガスも水道も使わずに何かの料理をしていた時に突然起きた、と考えられる。
  鍋類はどれもきっちりと蓋がしてあって中身を見ることはできなかった。開けてみたところで腐りカチカチになったシチューやスープの残骸があるだけだっただろうから、見てもよかったのだが、敢えて蓋は取らなかった。
  調理机の端、俎の脇には料理の本ならぬ昆虫図鑑があった。それも北米に生息する昆虫の図鑑ではなく、フランス語で記された南方に棲む不気味な虫たち――体長一メートルの大ミミズや、ムカシトンボ、タランチュラや化け物のように巨大な蝿蚊、蝸牛――を専門的に解説した図録だった。
(貧しい現地の人々はこういったものでも食べるのだろうか、それにしてもどう考えても台所にはふさわしくない…)
  立ち去ろうとした時、棚に並べてあったいくつかの釉をかけて焼いた東洋の壷のうち、藍色の壷がカタコトと小さく揺れた。
(地震か?)
  咄嗟にそう思ったが他の壷や食器はまるで揺れていない。
(跳ね豆か何かが入っているのだ)
  私はそう信じて、その壷を掴み、コルクの蓋に手を掛けた。蓋にはかなりの厚みがあり、厳重に奥のほうまで密栓してあった。
  開けるのを諦め、床の隅に壷を置き、今度こそ引き払おうと踵を返した弾みにふとホウロウの生ゴミ入れの蓋を開けるペダルを踏んでしまった。
  白い蓋はパックリと開き、中身が一瞬だけ目の中に飛び込んできた。
  干乾び木乃伊のようになった細い人間の腕。五本の細い指が何事か哀願するように宙空に向かって開かれている。その薬指には金色に輝く指輪が輝いていた。
  いくつかの部屋を通り過ぎた後、一番奥の書斎らしい部屋の扉に行き当った。
  さっき見つけた鍵は、どうやらこの鍵らしい。いままで素通りした部屋の扉は全て開け放たれていたのに、この部屋の扉だけはピッタリと閉っている。
  鍵をそっと鍵穴に入れてゆっくりと回すと、あれだけ錆び付いていたにも関わらず、一度でガチャリと開いた。
  ノヴを引くとキイーッと気が狂いそうな音を立てた。
  蝋燭のぼんやりとした明かりに照らされた部屋の中を見た瞬間、私は「アッ」と声を上げ、思わず手にした燭台を落とすところだった。
  首を吊った白骨がシャンデリアからぶら下がっている。ボロボロの衣服から推察すると男性のようだ。
  倒された椅子の上にはやはり分厚く埃が積もり、立派だっただろうダマスク織りの絨緞の上には大きな鼠の糞が散乱している。
  何年も開けられた形跡のない窓には差し金が降ろされている上、犬釘で打ち付けられていた。その釘も錆びて茶色になっている…
  腐臭や鼠の糞の立てる異臭は凄まじかったが、退散する前に私は、書き物机の上に遺書か日記のようなものがないかを調べた。
  残念ながら、それらしいものは何も見つからなかった。
  机の背後の書庫にも本は一冊もない。
  そこにも白い黴に似た埃が積もっていた。どうやらこの男が首を吊ったのと相前後してそっくり盗まれ、運ばれ去ったらしい。
  抽斗も、いくつかの安物の文房具だけを残してカラッポだった。
  がしかし、万年筆や吸取紙とともに、世界各国の紙幣やコインや切手が残されていた。
  中で目を引いたのは、英領マダガスカルの眼鏡猿の切手や、太平洋上、英領ニューヘプリデス島や仏領ニューカレドニア島の花の切手、英領バミューダの帆船切手や西領だった頃のフィリピンの、カルロス国王の肖像を描いた紙幣、ミクロネシアのギルバート・エリス諸島の切手や暴動を起こした黒人たちがフランスから独立を宣言し、自ら発行したハイチの硬貨もあった。
  もう間違いない…  この男――おそらくマリン氏――は、世界の海を股に掛けた船員だったのだ。そしてこの家を漁った連中は置いておくと自分たちの正体が判明するようなものだけを持ち去った…
  気配――殺気を感じてゆっくりと顔を上げると、暗闇の奥の表面が崩れ落ちた漆喰の壁を覆うように、対を成した小さな金色の瞳が何組も輝いているのが見えた。一斉に私に襲い掛かろうとしてガサッゴソッと蠢いている黒灰色の大きな鼠たちだ。
  全身に冷ややかな電流が走る。私は手にした切手や紙幣やコインを元に戻すに戻せずそのまま背広のポケットに入れた。紙のように薄い生地の安物の背広だったから、ポケットは見るからにぷっくりと膨らんだ。
(泥棒行為だ)
  そう思ったが、とてももう一度元の位置に返したり、床に投げ出す勇気はなかった。
  壁一面に張りついている鼠たちが襲い掛
かってこないのは、ひとえに私が手にしているか細い蝋燭の灯りのせいだ。
  その灯りが何処からか吹き込んできた生暖かい風にゆらゆらと揺らめき消え入りそうになったので、慌てて掌で囲った。
  待ちかね、我慢しきれなくなった何匹かの鼠たちがダッと迫ってきた。残りの鼠たちが雪崩を打って襲撃を開始してくるのは時間の問題だった。
  ところが何という幸運だろう。おそらく長い年月の末に腐っていたのだろう、白骨化したマリン氏の遺体を天井からぶら下げていたロープが急激な衝撃のせいでプツリと切れ、進撃を開始した鼠たちの先陣の上にガシャンと激しい音を立てて落ちた。
  襤褸とは言え、服の下敷きになって鼠たちはもがき、ひるんだ。後詰めの鼠たちはこの突然の障害物をよけて二手に別れた。
  私は素早く廊下に出ると、扉をピッタリと閉じ、銀の鍵で鍵をした。
  内側からは扉を噛り、あるいは体当りを繰り返す物音が聞こえたが、二度と開ける気はしなかった。
  すっかり黄ばみ、ところどころ裂けた全米地理協会の世界地図が貼ってある廊下の角を曲がると、二階へと上がる階段を見つけた。
  元はピンク色だったと思われる滑り止めのカーペットは茶褐色に変色し、手摺りは手垢にまみれている。
(一階がこんなありさまだから、二階はもっとひどいことになっているに違いない…)
  恐るべき恐怖の予感を感じたが、一階の玄関は封鎖され、窓という窓はことごとく釘で打ち付けられていて破城槌でもない限り出られない。
  二階のどこかの窓から――もしくは屋根裏部屋の窓から外へ出られるかもしれない。私は高いところは苦にならない。子供の頃はよく夢うつつのまま窓の外の桟に沿って歩いて叔母を驚かせた…
  階段の一段目に足を掛けた。ミシッという嫌な音がする。どうやら一階の廊下と同じように腐りかけているらしい。同じ理由で手摺りも掴まないほうがよさそうだ。身体をよりかからせると確実に向う側――暗闇の角。鼠と油虫の巣に頭の先から落ちるだろう。
  二段目。階段はさらに大きくミシッという音を立てた。三段目に進む勇気がなくなってしまうほどに…
  顎を引いて四段目と五段目の様子を伺う。
  どうやら三段目よりはちゃんとしている様子だ。
  私が思い切って四段目に足を伸ばそうとした瞬間、突然三段目の踏み板を叩き破って、黒く干乾びた三本指の腕が現れた。鶏の足に似た先端に琥珀色の爪を伴ったこの世のものならぬ腕が。
  あわやというところで腕は空しく虚空を掴んだ。
  私は素早く脇の手摺りの一部を引きちぎると、猛犬に餌を投げ与えるように腕に向かって投げ与えた。腕はその朽ち木をしっかりと掴むと、階段の下の闇に下がった。
  ややあって奈落の底からガリッポリッと木を噛る音が響いてきた。
  どうやって残りの階段を駆け登ったのかは記憶にない。とにかく二階まで上がってちらりと後ろを振り返ると、何本もの干乾びた腕たちが――さながら地獄の海底から手招きするセイレーンたちの腕のようにもぞもぞと群れを成して揺らめいていた。
  踊り場近くにあったのはベッドのついた子供部屋だった。
  例によって布団も枕も鼠や怪物どもに喰い荒らされて、綿や羽根が無残にも飛散している。
  これがヴィヴィアンなりスカーレットと名乗るこの家の娘の部屋だったのだろうか、引き裂かれ床に転がった熊の縫いぐるみ以外、ここに本当に子供がいた形跡はない…
  と、襤褸と化した掛け布団が小さな人間の形にこんもりと盛り上がっている。
  書架には、「若草物語」や「嵐が丘」「赤毛のアン」などとともに。数年前からの「ウィアード・テールズ」や「アメージング・ストーリーズ」がきちんと並べてあった。
「ファンタジー・アンド・サイエンス・フィクション」や「アスタウンディング」も何冊かあった。少年の書架としては珍しくないが、少女の書架としては変わっていた。
「ヴィヴィアン、それともスカーレット?」
  声を掛けてみたが、当然返事はない。
  布団を引き剥がせばはっきりしただろうが、私にはとてもそんな勇気はなかった。
  その部屋の隣も同じ作りの子供部屋だった。マリン夫妻にヴィヴィアンとスカーレットという二人の娘がいた、というところまでは本当なのだろうか――いや、この部屋のベッドには誰も眠った、眠っている形跡はない。
  相変わらずヴィヴィアンとスカーレット、どちらかがどちらかをでっち上げたという説は完全に否定することはできない。
  これだけ立派な家ならば、遊びに来た友達の寝室があっても不思議はない。
  予想通り、子守や使用人のための寝室と思われる小さな部屋が二、三あり、その一番奥に夫婦の寝室があった。
  扉は珍しく閉ざされている。
  銀の鍵を試してみたが、鍵は合わなかった。
  私は途方に暮れた。そう言えば二階の窓も全て――子供部屋も使用人たちの部屋も――まるであのダンウィッチの呪われた屋敷そっくりに堅く板で打ち付けられていた。
  仕方なく階段の際にあった最初の子供部屋まで戻った。意を決してあの掛け布団をめくれば、たとえ二目と見られぬ姿になっていたとしても、この家――マリン家を襲った怪事の真相に迫れるかもしれない。
  ベッドの上のふくらみは相変わらずそのままだった。覆われているものは形通りの少女なのか、それともその形を模した何かなのかは分からない。
  いきなり引き剥がす前に、誰でも考えることだろうが、シーツの上から指先でそっと押してみた。
  黄ばみ、茶色の染みがところどころ浮き出た布の上を、燭台の灯りで照らされた黒く細長い指の影が走る。
  シーツの下には確かに何かがいた。かすかに暖かみすら感じる。
  人間か獣か、それに準じるものであって、魚類や両生類、爬虫類その他の化け物でないことは確かなようだ。
「ヴィヴィアン、スカーレット、眠っていたら起きてくれないかな?」
  シーツを引き剥がす前に、私は優しく声をかけてみた。
  だが応答はおろか、呼吸によるかすかな波打ちもない。
  意を決してシーツに手を掛け、ほんの少し引き降ろした。
  中はポッカリと開いた空洞だった。
  ホッとしたのと同時に、ひどく失望した。
  例え私を喰い殺すべく二目と見られぬ恐ろしい怪物が身を潜めていたとしても、そのほうがよかったような気がした。
  ベッドのマットに手を触れると、確かにまだ温もりらしいものが残っていた。まるで、小さな魔導士がいて、私がシーツをめくったのと同時に瞬間移動で逃げたような感じだった。
(やはり窓を壊すしか外へは出られないのか?)
  蝋燭が短くなって私は焦った。
(こんなことになるなら玄関で予備の蝋燭か灯油を拝借しておくんだった)とも思ったがいまとなっては手遅れだった。
  いまから玄関に戻るには鼠の大群や得体の知れないものが巣喰っている厨房の前をもう一度通らねばならない。――まあ通ってもいいのだけれど。
  子供部屋を注意深く見渡しているうちに、屋根裏部屋へ上がるための跳ね梯子を引き降ろす紐を見つけた。
  この紐もまたどす黒く汚れて、長く使われたことがない様子だった。
  余りにも汚れていたので私はハンケチを手に当てて紐を掴んだほどだった。
  それをゆっくり、しかし力強く引くと、木のきしむ音とともに白い埃だらけの跳ね梯子が降りてきた。子供が登ったり降りたりするのにちょうどよいぐらいの大きさで、大人が使うには少々窮屈な幅と段差になっている。
  紐を掴んだハンケチを見ると、赤黒い鉄錆びに似たよごれが付着していた。どうも人間の血の痕らしい。梯子をよく観察すると、白い綿埃越しに、一面べっとりと同じ痕が見えた。どうも上から下へとこぼれたらしい。
  私はそおっと屋根裏部屋へと続く跳ね梯子に足を掛けた。背は高いが痩せているのでどうにか大丈夫のようだ。
  頭を打たぬように気を付けて跳ね戸を潜ると、そこは天井は低い切妻になっているものの、かなり広い物置になっていた。
  窓は二三あるにはあるが、階下と同様に厳重に打ち付けられている。
  燭台を掲げると、金持の旅行者が世界一周旅行に使うような、かつては高価で洒落たものだっただろう革のトランクや絵画や小さな彫刻や造形などの美術品を一時保管しておくための櫃、湿気を嫌うものを収納しておく東洋の籐や柳のこうりがいくつも、部屋の奥に向かって無造作に積み上げられているのが、オレンジ色の光にぼんやりと浮かんで見えた。
  手前のほうにはセルロイドの人形や熊の縫いぐるみや童話の絵本がはみ出した木箱が
あった。
(マリン船長のコレクションか…  しかし不思議だ。この家を襲った連中は、この物品に気が付かなかったのだろうか?  まさか跳ね戸の存在を知らなかったのではあるまい?)
  私は小首をかしげた。
(あの紐で降ろす跳ね梯子は普通の人間ならば誰でも知っているはずだ。ということはやはり…)
  その時、階下の子供部屋をカサカサと、何物かが這いづり回る気配がした。
  私は(しまった!)と思った。梯子を上に引き上げておくべきだった。
  見張られていたのなら、私が奴等をここに案内したのも同然だ。
  遅蒔きながら紐を見つけ、慌てて梯子を引き上げた。知性のない連中ならこれで当分右往左往させられるはずだが、彼等がボスを呼びに行ったら長くは持たないだろう…
  蝋燭はさらに短くなった上に、ますます予備の灯りを取りに行くことは難しくなった。
  跳ね梯子が完全に閉じる前に、隙間からこの家を襲った連中の斥候部隊を確認することもできただろうが、私はしなかった。
  私は幼い頃からドレの描いた「神曲」の挿し絵や、数年前カナダの氷河で発見された太古の奇妙きてれつな生物、それに友人が私の小説に付けてくれた奇怪極まる化け物たちにどちらかというと嫌悪感よりは親しみを覚えており、現実に彼等の姿を見たとしても、叫び声を上げたり卒倒失神などはしないだろう。
  いや、むしろ興味を持っていると言っても過言ではないだろう。
  だから、相手に発見される恐怖よりも、自らが夢中になって、現在の自分の立場や、梯子を完全に上げきってしまわねばならないことを忘れてしまうことのほうが恐ろしかったのだ。
  言わばアルコール依存症の患者が、喉から手が出るほど飲みたいのに、酒の瓶を投げて割ってしまうような残念な気持だった。
  私は一番手前にあった黒い色の、四隅に金属の飾り金具を打ち付けた櫃に手を掛けた。
  いかにも頑丈そうな、古く、いやに大きいすっかり茶色に錆び付いた南京鍵が掛かっていたが、試しに写真立ての脇で見つけた銀の鍵を差し込んで回してみると、ガチャリと鈍い音がして外れた。
  ギィーッとさらなる嫌な音を立てて、櫃はぱっくりと口を開いた。
  中からはもうもうとした黴の粉や埃がひとしきり舞い上がり、しばらくの間目を開けていることはできず、息をしたりすることもできなかった。
  やがてそれらが収まった頃を見計らって薄目を開けると、南の島の原住民たちが祭りの時に着ける巨大な仮面や、先端に砕いた石を麻縄で縛りつけた槍や、小さな弓や矢の入った矢筒、極彩色の貝殻や鳥の羽根を繋ぎ合わせて作った特別な衣装などが割合整然と収納されているのが確認できた。
  マリン船長(仮に船長ということにしておく)が南の島の民族学に興味があったかどうかはともかくとして、スミソニアン博物館の学者が見れば泣いて喜びそうなコレクションだった。
  私は何の気なしに、それらのうちの一つ――|身体がスッポリ隠れてしまうほどの巨大な面――もしくは面のデザインの木製の楯を取り出して掲げてみた。
  長身の私の頭のてっぺんから足の爪先まで完全に防御できるところから、これはやはり面というよりは楯であろう。相手を確認する覗き窓がないところは、やはりまだ未開の民族の楯なのだ、という印象を受ける。おそらく実戦で使われるものではなくて、儀式用なのかもしれない…
  とその時、いきなり紐を引く気配がし、羽根梯子がギギキと音を立てたかと思うと、何人かの人間――人間ではないかも――がドヤドヤと屋根裏部屋に上がってきた。
(すわ、奴等に見つかった!  もうお終いだ!)
  心臓が止まるような思いながらも、素早く蝋燭の灯りを吹き消し、楯を手にしたまま壁を背にしてしゃがみ込んだ。
  楯には覗き窓がないので奴等の姿は見えない。ただ、四五人の気配と、そいつらが協力して屋根裏部屋にあったものを階下に降ろす気配だけがした。
  互いに声をかけ合ったり私語したりしないところから察すると、やはり人間ではない可能性が高い。
  と、声ならぬ声。テレパシイとか精神感応とか呼ばれる声がした。
『コレデ全部カ?』
『全部ダト思イマス』
『アソコニ一ツダケ立テ掛ケテアルノハ?』
  私は全身から冷や汗が吹き出るのを感じた。『アレモ運ビマショウカ?』
  一人がのそのそと歩いて来て、縦に触れた。(万事窮す!)
『イヤ、櫃ノ中ニアッタモノダケデ足リルダロウ。急ゲ』
『ハイ。デモ、人間ノ臭イガシマセンカ?』『ココハ長イ間人間ノ家ダッタノダ。臭イハスルサ』
  二人は来たときと同じくらいの慌てようでバタバタと降りて去った。||ご丁寧にも火の付いたままの燭台の一つを忘れたまま。
  跳ね梯子が元通り上げられる音を確かめてから楯をソッとずらせてみた。
  山のようにあった櫃や籘の箱のほとんどが運び出されている。
  床の上にはあれらを擦ったと思われる擦り跡が無数に付いていて、埃はまだ舞っている。
  心と心で話を交わし鼻は結構利くものの、耳や気配を感じることに秀でた物たちでないことは幸いだった。なにしろあの狭い部屋で心臓の鼓動(おそらく呼吸も)弾ませていた私にまるで気付かなかったのだから。

  奴等は全ての櫃や箱を降ろした訳ではなく、数が足りたのか、もとより必要のないものだったのか、二、三のトランクは放ったままにしていった。
  鍵がかかっていないことを幸いに、私はそれらのトランクを次々に開けた。
  一つのトランクには原住民の腰蓑の残りが入っていた。私は苦労して背広のズボンの上からそれを身につけた。もしも奴等がこういった格好をしているのなら、ちょっと見には正体を見破られないだろう。もしも違っていたら――その時はその時だ。
  第二のトランクには孵化した卵の殻がいくつも入っていた。全部で一五、六個分ほどあっただろうか、大きさは鴕鳥の卵ぐらいだったが、殻はガラスか水晶の細工もののようにほぼ透明だった。
(マリン船長は南の海を旅している間にこれらの卵を手に入れてニューヨークに持ち帰ったのだ。そしてこれらの卵から孵った連中に家屋敷もろとも乗っ取られたのかもしれない…
  もともとのマリン一家は既に惨殺されていて、スカーレットを名乗る者はマリン家の娘になりすまして何かをするつもりなのかも)
  私はそんな仮説を立ててみた。ということは、敵は何とか人目につかず生まれ故郷の海に帰る算段をしている可能性が高い。
  それとも南の海の環礁でやるはずだった儀式を、この摩天楼の都のど真ん中でやるつもりだろうか…
  第三――最後のトランクを開いた時、さしもの私も息が止まりそうになった。
  小柄な子供か十代の人間の骨が、骨格標本のように白光りするきれいな状態で、折りたたまれて収納されていた。腰の骨の形からすると女性――少女に違いなかった。
(「死んだ」ヴィヴィアンか。これでこの家のもともとの家族は全て見つけたことになるな
  それにしても日記や記録の類は見事なまでに見当らない。せめてメモか走り書きでもあればこの家を襲った惨劇の見当がつけられるというのに…)
  私は静かな怒りを胸に秘め、敢然と跳ね梯子を降ろして二階への子供部屋へと降りた。
  奴等の影はなく、気配はもっぱら一階から聞こえる。どうやら彼等の儀式は一階のどこかで行われるようだ。
  ただ、至る処に燭台が置かれて、明るくはなっていた。
  と、また何者かがどやどやと階段を登ってくる足音が聞こえたので、慌てて全身を覆う縦で身を隠した。
『おい。何をぐずぐずしているのだ?  もうじき始まってしまうぞ!』
  奴等のうちの一人が私に向かってテレパシィで語り掛けてきた。
(困った。返事をしなければならない。うまくできるだろうか?)
  私はふと、プロヴィデンスにやってきたフランス人の宣教師や、ドイツ人の技師に道を尋ねられたことを思い出した。
  病弱で高校を中退し、大学に行けなかったせいもあり、私の外国語は、子供の頃に好きで独習したギリシア語やラテン語を除いてかなり怪しい。
  それでも、懸命に身振り手振りを交えて話せば、彼等は熱心に聞いてくれ、無事に道を教えることができた。
「すみません」
  とりあえずそう、心の中で強く念じた。
『謝っている場合か!  急げ!  俺は先に行くぞ』
  相手は手にした鍵で夫婦の寝室の鍵を開けると中に入って行った。
  私の肝は座った。
(マリン一家の書き置きがない以上。現在この家を乗っ取っている連中から秘密を聞き出してやろう)と。
  まず一番に、手にした巨大な楯をソッと下げた。
  すると私と同じように背中から足先までを覆った蓑を着けた等身大の姿が見えた。
  人間なのかどうかはまだ分からない。おそらく人間ではないだろう…
  奴は赤黒い血糊が飛び散ったベッドの回りをゆっくりと回っていた。
  私もとりあえず奴と同じようにぐるぐると回った。
『莫迦者!  俺の真似をしてどうする?』
「何でしたっけ」などという間抜けなことは聞けない。そこで、ある程度の山勘で言った。ダメならダメでその時のことだ。
「それにしてもマリンは愚かな奴でしたねぇ」『貴様何を言うか!  マリン船長のお陰で、我等はこの四角い石の建物の国に復活したのだぞ』
(しまった!  でもおかしい。それなら書斎で首を吊っていたのは誰だ?  まぁいい。とり繕ってみよう)
「ではマリンの名は刻まれるべきですね」
『また洒落を言う!  そんな奴の名を刻んでどうする?』
  何が何だか分からないがもはや後には引けない。
「マリンは我等をこの四角い石の国に持ち帰っただけなのですね」
『阿呆!  マリンはそこそこの魔導士だ。今後とも絶対に油断するな。…ただ棲んでいた場所が絶海の孤島でもなく、砂漠の洞窟でもなく、バビロンに似たいろいろな肌の色をした人間がうじゃうじゃといて、馬のいらない鋼鉄の馬車がえらい勢いで行き交う都だったというだけだ』
  会話は喰い違ってばかりだ。私は疾走する機関車の車軸のように頭を回転させた。
  まずマリン船長はこいつらと友好関係にはないものの、何らかの関係者であることは確かだ。そしてマリンは魔法の専門家だ。
  こいつらはマリンを煙たく迷惑に思っている様子だが、すでに賽は投げられた様子で、不本意に始まった計画の進行を喜ぶのにやぶさかでない――こんなところか。
  こういった暗黒の計画のほとんどは地下か地下室で行われる。野原の一軒屋ならいざ知らず、古の昔でも一九一五年の現代でも、こう建て込んだところでは人目につき過ぎる…
  この家に地下室かその類のものがあったかどうか気が付かなかったが、私はさらに鎌を掛けた。
「地下への入口はどこだったっけ?」
『おい、貴様大丈夫か?  我等は書斎の絨緞の下にある落とし戸から匍い上がってきたのだ。祭りは無論下で行われる』
「そうかそうか、そうだったな。――いや、復活したばかりで頭がまだボーッとしていたのだ。では早速行って手伝ってくる」
『くれぐれも粗惣のないようにな。「魔法陣」は僅かな間違いや狂いがあってもいかんのだ』
  私は火の付いた燭台を持ってまっしぐらに書斎へと降りた。
  相変わらずかつては屈強な中年の男だったと思われる腐乱死体が縄で吊されてブラブラと揺れている。
  辺りに気配のないのを確かめてから、別の椅子をずらせて背広などに名前がないか確かめてみた。
「マリン」
  背広もまた朽ち果て掛けていたが、確かにそう刺繍してある。もっともファースト・ネームがないのがいささか奇妙ではあるが…
  しかし先ほどの奴の口振りでは、マリンは生きているようだ。人間の姿は失ったものの別の姿でその辺にいるのか?  手紙をくれたヴィヴィアンも…
  椅子を元に戻し、ボロボロの絨緞をそっとめくるとその下には白墨で五芒星の図形と、スカンディナビアのルーン文字に似た文字でいくつもの呪文が印されていた。
  中央に立った途端に、暗くじめじめとした細い階段のてっぺんに立っていた。
  そっと下に目をやると、上に書いてあったのと同じ陣が、やや小さいサイズで光苔で印されたかのように、ぼんやりと鈍く輝いている。
  蝋燭の光が届く距離は限られていたが、下への階段は果てしなく続いている。
  途中ところどころに踊り場があって、そこからさらにいくつもの下り階段が枝分かれしているのが見えた。
  アメリカ先住民族の墳墓か聖域か、それとも連中が魔法で空間をねじ曲げてマリン家の地下に接続したものか、こんなことを言うと変に思われるかも知れないが、私の胸は期待と喜びに高鳴った。
  他でもない、毎日毎日、頭の中で空想や妄想を巡らせてきた名状し難い暗黒の世界が目の前に広がっているのだ。
  そこは一見、英国の北端のオークニー諸島スカラブレイの遺跡に似ていた。私が生まれる四○年ほど前に、未曾有の大嵐で顕わになった紀元前三○○○年頃の新石器時代のピクト人の集落に。
  まず壁は荒い石組でできていた。厚さは二メートルと、今日から考えると要塞の城壁なみの分厚さだ。学者たちは防寒の為と、粘土の他によい断熱材がなかったせいだと言うが、まるで人間以外の何か恐ろしい外敵への備えのようにも伺える。
  石を組み合わせて作った棚や、やや大きめの揺り籃に似た石製の箱の形をしたベッド。
  棚には石の皿や包丁、火打ち石の他に、渦巻き模様の付いた石の球などの装飾彫刻品などが置かれ、飾られている。
  ここの天井は岩だが、本物のスカラブレイの遺跡は、木の梁を渡し葦などを掛けた簡単な屋根だった。
  あとは文明の灯火である蝋燭がそこここに立てられていることを除けば、全く五○○○年前の世界そのままだ。
  幸い仮面の下僕たちはどこかへ行っていて姿が見えない。
  恐る恐る石製のベットに近寄って、中を覗き込んで見た私は思わず「アッ!」と声を上げた。
  中に眠っているのは、背広姿の現代人でも仮面男でも、毛皮に御身を包んだ先史ブリタニアの先住民でもなく、エジプトの王に似たきらびやかな衣装を着け、杖を持ち、長い顎鬚の壮年の男だった。
  もう一度ベッドの側面に目をやると、ルーン文字で何か短く記されている。
  頭の中の知識を総動員して何とか思い出し解読した。
「ラムセス」
  確かにそう書いてある。
(莫迦な!  エジプトに、木乃伊としてあるのならいざ知らず、なぜラムセスがこんなところにいなくてはならないんだ?  それに、いくら木乃伊としてもこれは美し過ぎる!)
  だが驚くのはまだ早かった。このラムセスの胸はかすかに上下しており、蝋燭の炎を近付けると揺れたのだ。
――つまり、生きていたのだ。
  私は狐につままれたか、誰かに担がれているような気がしてきて、目の前のファラオを叩き起こして質問責めにしたい衝動に駆られた。もしも本物だったら、モーゼたちに逃げられた時の心境や、王妃ネフェルティティとの間を訊いてみるのも一興だ。
  だが、奴はそうする前に黒い威厳に満ちた目を開け、地獄の底から響いてくるような戦慄すべき思念でこう聞いた。
『時はまだか?  宴はまだか?』
  反射的に「まだです。いましばしのお待ちを、陛下」と答えた。
『早くせい。もう待ち切れぬ!』
  太陽王はそう言いつつもしぶしぶ目を閉じ、小さな鼾すら立てて再度眠りに就いた。
  後ずさりし、部屋を出ようとした私の踵が何かの穴にはまって、危うく仰向けに転ぶところだった。
  穴は水が満たされている。
  考古学者たちによると、スカラブレイのピクト人たちが石の釣針で釣った魚や採取した貝などを貯蔵していた生簀とされている穴だ。
  案の定しゃがんで見ると、古代貝のような感じの、いくつものややグロテスクな貝殻があぶくを吐いている。
  と、そのうちの一つが異様に長い白い触手を伸ばしたかと思うと、その先端をベッドで眠っているラムセスの後頭部に潜り込ませた。
  気のせいかファラオの体格が一回り大きくなり、顔色も薔薇色を増した。本物か巧妙な偽物かはともかく、彼は床の粘土張りの水槽の中の軟体動物によって生きていることは明らかだった。
  私は部屋を出て、廊下を進んだ。
  次の部屋はかなりの大きさで、石作りのベッドがズラリと並び、まるで第一次世界大戦の野戦病院のようだった。
  無論水槽もそれぞれのベッドに付属して同じ数だけある。
  次々と覗き込み、ルーン文字を読んだ。
「アッカド王サルゴン」
「メディア王キュロス」
「アッシリア王ネブカドネザル」その横は
「王妃アミテス」その横は「王女ニトクリス」「ペルシア王ダリウス」
「ミノス王アガメムノン」
「マゲドニア王アレクサンダー」
「ユダヤ王ヘロデ」「王妃ヘロデア」「王女サロメ」
「ローマ皇帝ネロ」
「パルミラ女王ゼノビア」…
  いずれも名の知れた古代の王や女王、それも専横を極めた者たちばかりだ。
(これだけ揃うということは、やはり偽物。――いや待て、仮に肉体は再び作り上げたものとしても、魂を召喚するつもりでは…)
  そう考えると空恐ろしくなってきた。
  英明とされる君主もいないではないが、多くは民衆を虐げたり、国を滅亡させた暴君暗君が殆どではないか?
  こんな連中が大挙して甦った日には、世界は確実に破滅するだろう。
  彼等が支配していた世界には剣や弓矢しかなかっただろうが、現代では大砲や機関銃、飛行機や爆弾、毒ガスが満ち満ちている。
  目覚めた彼等の喜びに血走った瞳は容易に想像がついた。



    影たちの宴(承前)

                1

  洞窟の奥からかさっこそっとものが動く気配がした。触手がベチャベチャと動く湿った音ではない。
(ここで下働きしている仮面たちか)
  そうは思ったものの、引き返す気も起きず先へと進んだ。
  ベッド――棺は延々と並んでいる。おそらくカール大帝やナポレオンも、黙々と野望を育みつつ眠っていることだろう。
  最も深いところ、万を越える蝋燭が点された黒い琥珀の祭壇の前に、青いエプロンドレスの少女がこちらに背を向けて立っていた。「いらっしゃい。ラヴクラフトさん。そんなむさ苦しい仮面などお取りになったら?」
  鈴を振るような声がぬめりを帯びた鍾乳石に響いた。
  私は拝借していた仮面をかなぐり捨てた。「スカーレット・マリンさんですか?  この世のものならぬ化け物の顔をなさっているのなら、できれば振り返らないで頂けますか。
  ホラー小説作家を職業にしていても、実際の暗黒を目にすることには耐えられないかもしれない…」
「あら、あたしはとっても美人でしてよ。でもお疑いならこのまま背を向けて話ましょう」「上にあったのはご両親とお姉さんのヴィヴィアンさんの遺体ですか?」
「そうであるとも言えるし、そうでないとも言えるわ」
「ここに眠っている仮装パーティの出席者みたいな連中は何ですか?」
「彼等はみんな『影』よ」
「『影』?」
「そう、超古代の昔から、邪悪な魂を忠実に復元して集めている者がいたの。――爪の先ほどでも残っていれば、全体を甦らせる術があるの。
  魂は一つの卵の中に圧縮されて詰まっていた。レモンのように黄色くて、少し重い卵だったわ。私がそれでレモネードを作ったの」
「一体何のために?」
「もちろん『復活』のためよ」
  私の頭に最悪のことが思い浮かんだ。
「まさか…」
「そう、その通り」
「だが、古代アッシリアの王やエジプトのファラオが大手を振って現代の世界を歩いたりはできない。うろうろしていて自動車にはねられるのが関の山だ」
「あら、衣装はもちろん、肉体などは簡単に何とかなりますわ。そんなものは『影』ですもの。彼等の鍛えられた優美な肉体には、背広やドレスや、あたしたちが傲慢にも文明と呼んでいるこの世界の服装も似合うとお思いになりませんか?」
  私の脳裏に、勲章を一杯ぶら下げた灰色の軍服に身を包み、一糸乱れず整然と行進する兵士たちを閲兵するラムセスや、アッシュールバニバルの姿が浮かんだ。
  科学と言う名の究極の魔法を使って、大勢の人々が住む都市を閃光とともに一瞬にして炎の海にする狂った支配者たちの姿も。
「この星。この世界が、貴方たちの言う生き地獄となった時、彼等は初めてやっかいな封印を解かれ、もとのように君臨できるのですわ」
「何とおろかな!  そんなことをしたらキミも死ぬのだぞ」
  言ってからハッとし、息を飲んだ。ひょっとすると、目の前にいる少女は人間ではないのかもしれない。
「ラヴクラフトさん。貴方もつまらぬ物書きなどやっていないで、あたしたちと同じ、『眠りの兄弟』になりませんか?
  永遠に生き、終焉を見届け、審判さえ逃れることができる…
  いまのままだと、貴方はあと二十年もしないうちに冷たく冷えた墓の中に入らねばならない。それが、首を縦に振って『はい』と答えるだけで、生命も時空すらも超越できる。
  貴方の同世代の人々がとうに死に絶えた後も生き続け、アメリカ合衆国がどのようにして滅び、太陽が光を失い、地球が死の星となるのも目撃できる。
  そして新しい支配者――実際には貴方がたが『善き神』と呼ぶ存在によって宇宙の果てや北極の氷壁の奥深く、太平洋の海溝や次元の隙間に追放されていた真に偉大な存在が再びやみの世界に君臨するのを見届けることもできる!」
  正直言って心が動いた。
  編集者も読者の多くも、私の小説を単なる退屈しのぎの、誇大妄想の途方もない嘘を並べ立てたフィクションとしか読んでくれない。「はい」と答えれば、古代の有名な王たちと肩を並べ、世の終わりまで生き続けることができる…
「何をそんなに迷っているの?  失うものはごくつまらないものがほんのちょっとだけ。
  得られるものは数え切れないほどあるのよ」「いいだろう。答は多分イエスだが、そう答える前に、こいつらの生い立ちと、マリン船長が何をしてどうなったのかを教えてもらいたい」
「いいわ」
  少女が指をパチリと鳴らすと、目の前の祭壇に映画のように南のとある島の風景が写し出された。映画と違って色もついていれば波の音も聞こえる…
  少女は相変わらず私に背を向けたまま石段のベンチに腰掛けた。
  どこかで見た光景だと思えば、書斎で拾った切手に描かれた島の形に似ていた。いや、島と言うよりは海底火山の爆発で隆起した珊瑚礁のような環礁だ。
  マリン船長らしき鬚の男が、たった一人小舟に乗って島へと渡ってきた。どうやら部下たちと交易船は近くの大きな港に待たせてあるらしい…
  船長は環礁のあちこちを必死で探索した後、分厚い蔦で覆われた岩の壁一面に、不思議な古代文字が描かれているのを見つける。
  それらの文字を正しい順序で触れると、壁は未知の動力で開く。
  中に入った船長は興奮を押さえ切れない様子だ。
  ところが中にあったのは黒い卵――卵というよりはブヨブヨのゼリーの固まりのようなものが一個――だけだ。
  それでも船長は同じ大きさのダイヤモンドを見つけたのと同じか、それ以上の喜び方でうやうやしくそれをおし戴くと、脇目も振らずに島を去った…
  帰りの船の中、船長室。
  人払いをし、厳重に鍵を掛けた後でマリン船長は実験をする。
  南の島でビーズやガラス瓶と交換してきた原住民の仮面と腰蓑。それに卵の物質をほんの小指の先ほどちぎってつけると、摩訶不思議、仮面と腰蓑はたちまちのうちに命を得て始源の踊りを踊り始めた…
  船長は慌てて中止の呪文を唱える。すると仮面と腰蓑は命を失って元の黴臭い集蒐品に戻った。
  ニューヨークに帰ってきたマリンは、航海の給料を貰うのもそこそこに、自宅に戻った。
  地下に遠い昔の先住民が掘った聖域があることを知ってわざわざ買い求めた家だ。
  家では妻と娘のヴィヴィアンが出迎えた。
  もちろん本当の妻子ではない、魔法で造った木偶だったが、それでも娘のヴィヴィアンはウィアード・テールズを読んでファンレターを書くぐらいの真似はできた。
  マリンは前もって、世界各地の博物館を回って集めてあった王の冠や、勇者の剣、賢者の杖などに積もっていた埃と、例の卵のかけらを石作りの揺籃に植えつけて行く。
  冠や剣や杖を手に入れるのは難しい。しかしその上に積もっていた埃を盗む者など誰が気に留めるだろう。
  だが、卵と彼が操る優れた魔法の前には、ごく僅かな残留思念のかけらがあれば、易々と全体を復活可能であった…
  このように卵の物質を割り振って行くと、その中心に卵が現れた。卵の中の卵だ。
  それはいきなり数本の触手を伸ばし、割り振られた自分の分身と、王や英雄たちの胎児たちに養分を与え始めた。
  マリンは満足だった。
(これで彼等は復活し、自分は彼等を手足の如く使って世界に君臨するであろう!
  もはや円卓の騎士たちも、聖杯も必要ではない…)
  ところが、自の手を越える魔法を使う者が陥りやすい陥穽が生じ、マリンもまた漫画(カトゥーン)のようにその落とし穴に落ちた。
  いち早く甦った一人が、彼よりも優れた魔導士だったのである。
  そいつはたちどころにマリン一家を粛清し、世界征服という大それた事業を引き継いだ。
  いま、私に背を向けて座っている少女がそうらしい…
「マリンも昔アーサー王に仕えていた頃の魔力を保っていたら、どうか分からなかったけれど、ジョゼフ・カーウィンよろしく魔法で自身をコピーし続けてきたというのは大したことはなかったわ。
  ま、せいぜいキャメロットの錆びた甲冑たちを甦らせて映画会社でも設立するぐらいの野望にしておけば命を失わずに済んだのに」
  少女はそう言ってケラケラと嘲笑った。
「キミは一体誰だ?  スカーレット・マリンか?  ――ヴィヴィアン・マリンをベースにしているらしいことは分かる。ヴィヴィアンはマリン船長をベースに造られていただろうから、船長もまたベースだろう。しかし、いまやマリンの人格を完全に征服し、全くの自分の意思で動いている。
  誰だ?  誰より早く肉体を取り戻したということは、最近の人間か?」
「そう。あたしは偉大なる預言者マホメットによってアラビア半島を追われた『死霊秘法』の著者、暗黒の魔導士アブドゥル・アルハ
ザードの娘にして…」
  ゆっくりと振り返った彼女の顔は、蝗や、甲虫や肌色の蛆の固まりだった。
  どうやら顔はまだ未完成のようだ…
  安物のケーキの生地と言うと聞こえはいいが、混ぜ物のある漆喰のような黄色味を帯びた灰白のドロドロの物質が顔のあるべきところで渦巻いている。
  やがて目ができ、耳と鼻が盛り上がり、口が裂けた。目はアーリア系かアングロサクソンの見事なブルー、肌の色は雪花石膏の如く白くなり、鼻は高く、唇は薄かった。
「アルテア・アルハザードだ」
「莫迦な!  アルハザードの娘なら、アラビア人――セム族かハムの子孫のはずで、当然瞳の色は黒く、肌の色の浅黒いはずだ」
「チッチッ」
  アルテアは舌打ちした。
「愚かな。ミスター・ラヴクラフト。あたしは貴方が人種に関する偏見の持ち主であることを考慮に入れて、わざわざこの姿を選んだのだ。
  ミスター・ラヴクラフト。貴方は貴方の物語に悪役を登場させるについて、彼または彼女を白色人種とすることは気が引けた。
  例え話の中だけとは言え、自らの民族から極悪非道の魔導士を輩出させたくはなかったのだ。
  同じように、黒人にするのも躊躇した。彼等は、知性において白人に劣るという誤った先入観念があったからだ。
  東洋人もダメ。フー・マンチューに代表されるように、うろん  かつ  うさん臭い東洋人は、パルプ・マガジンの定番の悪役で、書き尽くされていたからだ。
  そこで『怪しいアラビア人』ときた。
  宝石を嵌めたターバンを巻き、腰帯に偃月短刀(ジャンビア)を差していれば、何となく絵になりそうだ。――よし、それに決めた。そうしよう!
  考えてもみよ。宇宙を滅ぼす人知を越える邪悪な存在を召喚できる魔導士が、自動車が行き交い、飛行機が飛ぼうかと言う二○世紀に、そんな阿呆な格好で現れると思うか?」
  私はかすかに首を横に振った。
「おまえたちの先祖であるサクソン人が裸で獣を追っていた時代に、我々中東の人間は、四大文明のうちの二つを生み出し、各地に巨大な神殿や宮殿を建て、いくつもの大都市を築き、道路や運河を建設し、星星を正確に観察し、正しい暦を使っていたのだ。
  おまえたちが洞窟に狩りの絵を描き、署名代わりに手形を押していた頃に、法律も、宗教も、科学も、粘土板に刻んだ文学もあったのだ。
  おまえたちが釣り針さえなく、手掴みで魚を漁っていた頃に、交易船を建造し、ムーやアトランティスなど今はなき大陸と往来していた。
  その頃には肌の色による差別はなかった。
  ごく最近のローマ帝国やビザンティン帝国においてすら、人種による差別はなかっのだぞ。
  作ったのはおまえたち「白人」だ。
  いまでこそ、やれ「文明」だの「民主主義」だの「人権」だのお高く止まっているが、第一次世界大戦を引き起こしたのは、アフリカの原住民か?  アラビア人か?」
  私はアルハザードの娘が、頭のてっぺんから足の爪先まで、典型的なアメリカの中産階級の娘として甦ったことを認めざるを得なかった。
  だから待機中のラムセスやアッシュールバニバルも、金髪をなびかせ、ブリーフケースを携えて、証券取引所や各種の科学研究所に散って行くのだろう…
「魔法なんかもう古いわ」
  彼女はいともあっさり言ってのけた。
「――これからは閃光とともに一瞬のうちに都市を焼き尽くす爆弾や、試験管の中で作った目に見えない細菌の時代よ。
  宇宙から堕ちる人工の雷(いかづち)や、汚染された空気や水や大地が牙を剥いて人間たちに襲い掛かるでしょう…
  ミスター・ラヴクラフト。貴方の物語は、物語や映画や漫画の中では生き続けるでしょうけれど、現実には貴方が創造したものよりも、もっと醜悪かつ陰湿陰険で破滅的な『邪悪なる神』が創造されるわ。――他でもない当の現代の人間の手によって
『ただ一つの神』は軽んじられ、天国も地獄も信じなくなった人々は己の欲望のままに、他を傷付ける行動をも平気で行うようになるでしょう。
『魔導士』という職業が消滅しても、己が額に汗して働くことなしに大金を得ようとする錬金術師や、神の摂理に刃向かう死体蘇生者が続々と輩出することでしょう。
  昔の魔導士たちが人里離れた山奥の洞窟で密かに行っていた禁断の実験を、糊の効いた白衣に身を包んだ『博士』たちがコンクリートの実験室で堂々とやる。
  かくてアルハザードのような『魔導士』は時代遅れの『戯言(たわごと)』となり、現実逃避の物語を構成する一つの要素に過ぎなくなることでしょう…
  でも、これだけは忘れないで、ミスター・ラヴクラフト。人の心に巣喰う『魔』はいまも昔も変わりはなく、人の世界の外なる『魔』もまた、永遠に存在を続けることを」
  ざわざわと少なくない数の人間が蠢く気配を感じた私は、慌てて振り返った。
  石のベッドで育まれた者たちがうつろな目を光らせ列を成しながら一階とへ上がって行く光景が見えた。いつのまにか古代の衣装は最新型の背広やドレスに変わっている。
「待て!」
  私し叫んだが、当然私如きの命令に従うやからではない。
  出口の全くない怪かしの屋敷も、彼等特別の存在には出口を開いたのか、やがて足音も気配もしなくなった。
「頼む!  人間ではなく、たぶん人間以上の存在であるおまえにとっては人類の末路などどうでもいいことだろうが、いつかはきっと必ず起きるであろう破滅――三大宗教の言う『審判の日』を急がせることだけはやめてくれ!」
「できる限りのことはしてもよいけど、条件が一つだけある」
  彼女がそう言うと、背にした幾万の蝋燭の灯が一斉に激しくゆらめいた。
  それは簡単なことだった。物語の中に登場する魔物や魔女か決まり切って口にする言葉「ここで見、知ったことは一言片句決して誰にも話さない」
「しかしそれでは、誰にもこの恐ろしい事態の警告をすることができない」
「ミスター・ラヴクラフト。貴方が沈黙を守れば私もまた時間や次元を弄ぶことはない」
  どうも損な取引のようだったが、私はともかく生きてこの閉ざされた洞窟を出たかった。
  そこで「約束する。約束するからとにかくここから解放してくれ。そして、そんなに言ってはならないことなら、いっそ今夜の出来事を私の記憶から消してくれ」と哀願した。「第一の願いはいいでしょう」
  アルテアがそう呟いた瞬間、私は気を失った。
「第二の願い。ミスター・ラヴクラフト。貴方は特異な体質なので記憶を消しても今宵目撃したことは度々夢の中に現れて貴方を悩ませることでしょう。そしてもし、肝心の『誰にも喋ってはいけない』という約束の部分だけきれいに欠落すれば、貴方は平気で他人に話し、タイプライターで打つことでしょう。
  だからこちらは聞き届けることはできない。貴方自身の意思で守っもらうわ…」

                2

  目が覚めると、そこは覚えのある饐えた臭いのするレッドフック街の私のアパートの一室だった。
  窓の外は真っ暗で、行き交う人影もない。
  安物の目覚まし時計は午前一一時五○分を指している。
  どうやら私は同じ通りにあるヴィヴィアン・マリンの家を見に行こうとして、そのまま
眠ってしまったらしい。
  アルハザードの娘――アルテアとの約束ははっきりと覚えていた。どうやら彼女は時間を戻してくれたみたいだった。つまり私がいまから再びあの場所へ行きさえしなければ、何の怪しい事件も起きなかったことになる
――らしい…
  私はまんじりともせず夜明けを待った。
  書きかけの原稿を進めようとしても言葉が浮かばず、スミスやハワードの新作を読もうとしても目が霞み、ダーレスやブロックに手紙の返事を書こうとして住所を認めたところで、今夜の体験||夢が書けないことを思いだし、机に伏したまま眠ってしまった。

  翌朝は朝から雨が激しく降っていた。
  私は朝食を摂るのも忘れたまま、プロヴィデンスから持ってきた黴臭いレインコートを着込み、二三本の骨がうまく曲がらない蝙蝠傘を差して、昨夜の家を目指した。
  アパートを出た途端、雨は一層ひどく横殴りになった。まるでノアの洪水を招いた雨の降り出しのようだった。
  マリン家のある番地まで歩いた時には、
コートはびしょ濡れになっていた。
  見上げると昨晩と同じぴったりと閉じられた窓には幾筋もの雨の雫が伝い落ちている。
  家の中に影らしいものがみえるが気のせいかもしれない…
  ぴかぴかと輝く真鍮の表札には確かに「マリン」と読み取れた。蔦はつい最近庭師が鋏を入れたらしく、きれいに刈り込まれている。
  ギッと音がして玄関のドアが開き、顎鬚を生やし、ジャケットを羽織った筋肉質の男が顔を覗かせた。
「失礼ですがラヴクラフトさんじゃあありませんか?」
  男は四十歳前後。節くれだった逞しい手をかざしながら尋ねた。
「そうですが。御宅をじろじろと拝見して申し訳ありません」
「いや、娘が窓越しに貴方様を拝見して『ラヴクラフトさんではないかしら』と言うものですから…
――どうぞ、お急ぎでなければ雨をやませていって下さい」
  私は男――マリン船長の言葉に甘えることにした。
  マリン家の応接間は昨夜訪れた時と同じ間取りで、暖炉の上の家族の写真も絨緞の柄も同じだった。
  ただ、暖炉には炎が赤々と燃え、どこもかもがきれいに掃除が行き届いていて、死や破滅の前兆はどこにもなかった。
「少し待っていて下さい。間もなく娘のヴィヴィアンが二階から降りてくると思います。
  ヴィヴィアンは貴方の夢見るような小説の大ファンなのですよ」
  美しい船長の妻が、ボーンチャイナのカップに淹れてくれた香り高いコーヒーを一口すすると、私の全神経は甦り、昨夜の出来事を明確に思い出した。
  しかし小さな足音とともに現れたエプロン・ドレスの少女を見た時には思わず「アッ」と声を上げそうになった
  アルハザードの娘、アルテアにそっくりだったからだ。
「ラヴクラフトさん、来て下さったのですね」
  声もまたアルテアと同じだったが幾分張りがなく、透き通るように白い肌の色も、どこかに持病があることを伺わせた。
  私とヴィヴィアンと船長はひとしきりサイエンス・フィクションやホラー小説談義に花を咲かせた。
  船長は若い頃から貿易船に乗り組んで、世界中を航海していた。
「アフリカは取り残された西洋人の少年が一人で育っていけるほど甘い土地ではありませんよ」
  彼はバロウズの密林冒険小説に疑問を呈したので、私も相鎚を打った。
「ところでラヴクラフトさん。ここレッドフック街の地下には、先住民族が掘ったと思われる広い地下室や地下道があるのをご存じですか?」
  マリンは心もち声を潜めて訊ねた。
  私はアルテアとの約束があるので注意深く首を横に振った。
「いいえ。まったく」
「この間、床が白蟻にやられたので剥がしてみると、地下に降りる階段や通路がずっと続いているのですよ。
  じめじめと湿っている上に、隣家との関係もあるので、我が家の延長としては使えませんが、建築業者もよくもこんなものの上に住宅を建てたな、そう思わせる立派な古代の遺跡でしたよ」
「そうですか。でも考古学者ならともかく素人がそんなところを探検しないほうがいいんじゃありませんか。陥没や落盤があったら危険じゃないですか」
「ところがそうも言ってられない。このレッドフック街の地下に地下鉄を通そうという計画があるのですよ。
  予算が通れば我々は立ち退きになるのか、そんなことをしなくてもいいぐらい深い地下を掘るのか、そこまでは分かりませんが、遺跡が破壊されることだけは確実です。
  ヨーロッパの人々は自分たちの祖先が築いたものを大切にしますが、アメリカ人ときたら、そういう学術的なことは後回しですからね。『インディアンのものなどどうでもいい』そんな態度じゃないですか?
  実際インディアンのものかどうかも分からない、もっと古い、我々の想像を絶するほど古代のものかも知れないのに…」
「でも素人の、それもたった一人の探検はやはり危険きわまりない」
  譫言のように抑揚のない言葉で繰り返しているもう一人の自分が、はっきりと分かる。「分かっていますとも。私も仕事で長いこと家を開けることが多いのです。ですがこの間ほんのちょっとだけ降りた時に、奇妙なものを見つけましてね」
「『奇妙』?」
「地図――岩に刻まれた地図ですよ。世界の形は現在とほぼ同じなのですが、不思議なことに太平洋や大西洋に大きな大陸があり、いまの小さな島島はその大陸の一部らしいのですよ。北極や南極の形も少し違いますしね」(ムーやアトランティス、それにレムーリアやハイパーポリアだ!)
  自分でも興奮を抑えがたかった。しかし抑えねばならない。マリン一家の幸せな生活を守るためには…
「インディアンがここを白人たちに明け渡して立ち去る前に、白人に貰った地図をいい加減に複写して刻んだのではありませんか?」「みんながそうおっしゃるだろうと思って、ちゃんと拓本を取っておきました」
  マリンは笑顔で丸めて置いてあった新聞紙を広げたぐらいの古代の海図をテーブルの上に伸ばした。
  私もヴィヴィアンも喰い入るようにその地図に見入った。
  なるほど、船長の言う通り太平洋と大西洋のど真ん中に未知の大きな大陸が描かれていて、ベーリング海峡は氷の階(きざはし)で結ばれている。
  氷の堀に囲まれた北極の中央や、有り得ざる大陸のあちこちには都市を表すものらしい記号がいくつか記されており、同じ記号が現在のエジプトやメソポタミアのあたりにも数多く刻まれていた。
  記号はどことなくスカンディナビアやイギリスの遺跡で発見された古代ルーン文字に似ていた。
  ヴァイキングたちの遠い先祖である超古代の北欧人たちは、すでに高度な造船や航海の技術を駆使して、スカラ・ブレイやアイルランド島を拠点にし、北極やグリーンランド沿いにアメリカにやってきていたのだろうか。
  大英博物館の学者たちならきっと解読するだろう…
「ここにX印が刻まれているでしょう?」
  ふいにマリンが指さした。
「――太平洋上の  どでかい大陸の南東。大陸が沈んだものと考えると、現在のポナペ環礁の近くです。
  私は明日からパナマ運河、チリ、アルゼンチン、ガラパゴス諸島を経由してオーストラリア、蘭領インドネシアを回る船に乗るので、近くまで行った時に是非立ち寄ってみるつもりです」
「それはいけない、危険過ぎる!」
  私は思わず大声を出し、船長とヴィヴィアンを驚かせた。
「どうして?  私は外洋貿易船の職業船員なのですよ。危険を恐れていては飯の食い上げです」
「あ、いや、危ないのは航海じゃなくて、ポナペの近海です。バミューダ海域と同じで、あの辺りではよく海難事故が起きると聞いています」
  ヴィヴィアンの表情に不安の翳が覆った。「バミューダのは大繁殖した藻や、激変しやすい天候や、地磁気を狂わせる何かがあるせいだ。
  もしもポナペ海域にも同じことが起きるとしても、ひるむ訳には行かないのです」
「私は船員としての貴方の能力を疑っている訳ではないのです!  ただ、ここにある――ここにいるものは普通の人間には荷が重いものではないかと…」
「もしも古代の王か海賊の宝だったら?  ミスター・ラヴクラフト、お金や宝物だったら貴方も欲しいでしょう?」
  マリンは身を乗り出し、声を潜めた。
「『欲しくない』と云えば嘘になりますけれど、ここに封印されているものは、そんないいものじゃあないのです」
  私は喉を振り絞るようにして言った。
「おや、まるで見てきたようなことをおっ
しゃいますが?」
「ああ、いや、何か嫌な予感がするのです」「私は娘の病を治してやりたのです。いい医者に診て貰うためには金が要るし、別に金でなくても、娘には他の人間が百歳まで生きても見れないものを見せてやりたいのです」
  これ以上何を言っても無駄のようだった。
  私は丁重に礼を述べてマリン家を辞去した。
  外は相変わらず土砂降りの雨だった。
  最後にもう一度灯の点ったマリン家の窓を振り返った。幸せに満ちたマリン家を見るのはこれが最後になる気がしたからだ。

                3

  数週間後、私はマリン家を出発した葬儀の列を目撃した。やや小振りの棺を担いだ男たちは、マリンの親戚や友人と言うよりはどこか儚い影のように見えた。
  黒いヴェールで顔を隠した夫人には悲しそうな様子はなく、気のせいか娘は必ず生き返ると確信しているかのような、しっかりとした足取りだった。
  葬列にはマリン氏の姿はなかった。
  遠洋を航海中で、戻ることができなかったのか、私にはもっと他に重要な意図がある気がしてならなかった。
  それからさらに数日が過ぎて、今度はマリン夫人の訃報を風の噂に聞いた。何でも娘の死による心の痛手から立ち直れなかった、とのことだった。
  今度の葬列も私のアパートの下を通ったがやはりマリン氏の姿は見えなかった。
  私は私でニューヨークでの生活に限界を感じていた。風にそよぐ木立も、朝夕に稜線が染まる山なみも、教会の鐘の音も、善良なプロテスタンティズムも、何もかもがない。
  あるのはうるさい車の列と煤煙と、バビロンのように灰色の煉瓦を積み上げた建物と、有色人種と酔っぱらいの姿ばかりだ。
  頼みの白人も、やれ「どの株が上がった」の「下がった」の、「どの銀行の利子がいい」だの「あの会社は危ない」だの、すぐに金銭の話ばかりをする。彼等は宇宙の彼方や、アラビアの砂漠や、極北に秘められた人智を越えた秘密などにはまるで興味がないようで、こちらが熱心に話しても、感想はいつも同じだった。
「でラヴクラフトさん、そこにはどれぐらいの財宝が眠っているのかね?」
 (もう我慢できない!)
  そう思って荷物を片付け、あの美しく懐かしいニューイングランドの、合衆国一小さな州都に帰る決心をした。
  帰郷の前日、最後にもう一度だけほんの短い間だったが、住人として暮らしたレッド
フック街を散策した。
  マリン船長の家はドアに戸が打ち付けられ無人となっていた。
  私は物静かでおとなしかったヴィヴィアン・マリンや、ただ一度きりだが訪問した際に歓待してくれた夫人のことを思い出して悲しみに沈むと同時に、何故かほっと安堵した。
(やはり船長はポナペで何も見つけることはできなかったのだ)と。
  踵を返して戻ろうとした私の目の前に、黒い影が立ち塞がった。
  黒い、腐ったバナナに似た顔色の男――それは間違うことないマリン船長だった。船長は両手に船員が持つ大振りのトランクを下げていたが、私には両腕がその重さに耐え切れずいまにもズボッと抜け落ちそうに見えた。「おや、ラヴクラフトさん。またお散歩ですか?  どうか家にお立ち寄り下さい。娘もさぞや喜ぶことでしょう。
  ――私もたったいま帰ってきたばかりで、大したお構いはできませんが、ポナペでのお話でも致しましょう」
「しかし」
  そう言いかけて、ハッと息を飲み、我と我が目を疑った。
  いつの間にか玄関のドアを打ち付けていた木はなくなり、窓からは明かりが漏れていたのだ。
「どうぞ、ご遠慮なく。私の話を分かって戴けるのは、家族以外では貴方だけだ。また、貴方の話を本当に真面目に聞くのはニュー
ヨーク広しと言えども私の家族だけでしょう?」
  マリン自身よりも実在が確かな古ぼけた茶色の革のトランクに押されるようにして、私は再び――いや、正確には三度――マリン家の敷居をまたいだ。
  居間には、船長と同じぐらい黒い粘土で造ったような顔をしたヴィヴィアンと夫人がいた。
  私は息を飲んだ。もともと心臓がいいほうでもないので、これは拷問だった。
「やあヴィヴィアン、いま帰ったよ。ずいぶんと待たせたけれど、身体のほうの調子はいいかね?」
「お帰りなさいお父さん!」
  ソファーから跳ね起きたヴィヴィアンは、黒く萎びた両手を父の背中に回して抱きついた。
「でもね、お父さん、私ヴィヴィアンじゃあないみたいなの」
「『ヴィヴィアンじゃあない』って、それは一体どう言う意味だい?」
「よく分からないけれど、完全に私じゃあない感じなの」
  夫人が寄り添ってきて黒ずんだ不健康な唇で夫に接吻をした。
「あなた、ひょっとしたら…」
「『ひょっとしたら』って、何だね、おまえ?」
「流産で亡くしたあの子も、ついでに甦ったのじゃあないかしら。肉体がないから、心だけこの子の身体に寄生して。ほら、また貴方が『また女の子だったら、マーガレット・ミッチェルの小説にちなんだ…』」
「それ以上言うな!」
  マリン氏が怒鳴った。以前出会った時のマリン氏は、船員には珍しく多少のことでは妻子に大声を出すような人には見えなかったのだが…
  いや、それよりも、あの二つの葬式は冗談だったのだろうか。それとも…
「いやあ嬉しいよ。ポナペのあの神はやはり願いを聞き届けてくれたんだ」
  マリン船長は晴れ晴れとした表情で語り始めた。そう言えば船長の顔色もかなり黒ずんでいるが、どうも南洋焼けではなさそうだ。「貨物船の部下たちとは別れて、プライベートで小さな船をチャーターしようとしたのだが、原住民たちが妙に嫌がってね。まあアミニズムというか、過度の自然崇拝だな。
  私が地図に記された環礁に向かうのだと知ったら、小舟を売ることさえ断られ続けたよ。
  仕方がないから、現地に来て間もないフランス人貿易商のレジャー用のヨットを買った。
  それはとても私のような雇われ船長に出せる値段ではなかったのだが、その貿易商が条件を出してね。
『自分も秘境に興味があるから、一緒に連れて行ってくれるのなら、無料で貸そう』
  と言ってくれたんだ。
  こっちも断れる立場にないから、こちらからも条件を一つだけ出して借りることにした。『一緒に行くのは貴方一人だけです。それでもいいですか、ムッシュー?』
  彼は一瞬戸惑ったが、やがて「ウイ」と言った。好奇心が不安に勝ったみたいだった。
  幸いなことに彼も多少はヨットの操船ができた。だから彼の常雇いの船員たちも強い反対はできなかった。もしも現地人の乗組員がまじっていれば、猛烈に反対しただろうがね。
  私たちは出発した。
  それを見た原住民たちは、いくつもの小舟に乗り組み、船列を作って妨害しようとしたから、こっちは威嚇のためにライフルを海面に撃たねばならないぐらいだった。
  ところがそれでも奴等はひるまない。どうも命は惜しくない様子なのだ。
  そこで仕方なく何人かを撃って突破した。
  宗主国の有力な白人の邪魔をしたのだから咎めは受けないはずだ。
  しばらく進むと、あれほど良かった天気が急に悪くなり、まっ黒い雲が空一面に広がった。風は次第に激しくなるのに船はだんだんと速度を落とす。
  ふと波間に目をやると、見渡すかぎり真っ赤な藻が茂り、ヨットは止まっていた。
  目的地の環礁は影すら見えない。
「危険だ。いったん引き返そう」
  貿易商は英語で言った。
  しかしこれぐらいでひるみおじけづく私ではない。彼を銃の台尻で殴って気絶させて、さらに先を目指した。
  やがて雨が降り出した。
  帆はすでに全部畳んであったものの、ヨットは木の葉のように揺れ、すぐにどこかの暗礁にぶっつかって粉々に壊れた。
  次の引き潮が残骸を完全に暗い海底に引きずり込んだ。
  私は間一髪飛び降りて、ぬるぬるの藻がびっしりと張りついた岩に爪を立ててしがみついた。
  嵐の音にまじってどこからから詠唱か連祷のような声が聞こえた。かなり大勢の声だ。
  ただ、人間の声と言うよりは、獣たちの咆哮に近い。言葉も世界のどの国の言葉の抑揚にも似ていない…
  私はごつごつとした絶海の環礁の上を声たちの主を求めしばしさ彷徨った。
  この島は確かに変わっていた。ダーウィンがコンチキ号で旅をしたガラパゴス島よりもさらに輪をかけて。
  まず、立ち木のほとんどが鱗木や石炭木ばかりだ。中に少しだけ棕梠や椰子に似た木もあったが、大半は化石でしか見たことのない太古の木木だった。下生えはシダが多かった。
  昆虫は全て大きく、体長三フィートのトンボや犬猫よりも大きいゴキブリや甲虫がウヨウヨと這い回っていた。
  幸い恐ろしくも奇怪な生物に襲われるよりも先に、祈りの声の源に辿り着いた。
  そこは洞窟を少し進んだところにある広間で、大昔のいろんな国の祭司の式服を纏った数十名の人間が、祭壇に祭られている黒い卵のようなものに平伏していた。
  ミタンニ、アッカド、シュメール、フェニキア、古代エジプトを震憾させた「海の民」、ペリシテ、ミケーネ、ムーやアトランティスやレムリアのそれらしき面々もいた。
  さらに、背中から半分――ないし折れた翼を生やせた堕天使(ネピリム)たちも…
  彼らからすれば、アッシリアや新バビロニアなどは合衆国と同じぐらいごく最近の国国だろう。
  共通点を捜せば、皆ことごとく目つきが悪く、善き神を信じない傲慢不遜な表情をしていたことだった。
  彼等は祈りを中断し、闖入した私のほうを一斉に振り返った。
「魔導士マリンの末裔よ。何の用か?」
  中世の王候の衣装を着た男が、古い時代の英語でおごそかに尋ねた。
  私は新大陸の東の岸の家の地下にあった地図を頼りにここまで来たことや、娘が不治の病に侵されており永遠の命に預かりたいことなどを一気に申し立てた。
「お安い御用だ」
  相手がそう言ってくれたので、私は心底報われた気がした。
  騎士は仲間たちのほうを振り返って言った。「皆の者。我等がここに棲み着いて古い者で早や一万数千年。そろそろ新しい場所に変わるのも悪くないと思うが如何?」
  無論何人かは反対を唱える者もいた。
「ここは由緒正しき復活の場。ここから動くなどと…」
  もともとここが故郷であるムーの魔導士が反対した。
「まま、時が満つればまたすぐここに戻れば良いではないか」
  時の船を操るスカンディナビアの邪神(トール)が雷声でがなった。
「――この男が言っている隠れ家はその昔に俺が造ったものだ。大陸の東の端にあり、アトランティスの海にも面している。自分で言うのも何だが、悪くはないし…」
「そろそろ腹も減ってきた。また愚かな人間共の悪しき欲望をたらふく喰いたくなってきたぞ」
  アッカドの雷神がじれったそうに言った。「我等の姿が見えなくなったら、祭壇の黒い卵を一つ残らず手に持って、『我が家に帰りたい』と念ずるがよい。さすれば汝はたちどころに念じた場所に戻るであろう」
  彼らはそう言うなり全員が黒い瘴気と化してアッという間に黒い卵の中に入っていった。
  私は恐る恐る祭壇に登ると、石炭のように黒い卵を手に取り、一刻も早く戻れるように念じたのだよ」
  マリンはそう言いながらトランクの留め金を外した。
  逃げ出す間もなく、もうもうとした黒い煙が部屋中にたちこめた。
  私、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは激しくむせ、咳き込んだ。が、マリン一家はまるで平気で平然としていた。
  煙が散ると、トランクの中身が見えた。
  そこには確かに黒い中国料理のピータンに似た卵が一二、三個入っていた。
「お父さん、こちらも開けていい?」
  ヴィヴィアンがもう一つのほうのトランクを持ち上げて聞いた。
「もちろん。そちらはおまえへのお土産だよ、ヴィヴィアン」
  ヴィヴィアンが留め金を外すと、こんな小さなトランクにどうやって入れてあったのだろうとおもうぐらいの大きな南洋の原住民の仮面が、まるでそれ自体が生き物であるかのようにいくつもピョーンと飛び出した。
「卵は魔法でいくつもにちぎって、地下の遺跡のベッドの上に置かねばならない。雑用は仮面たちに命を吹き込んでやらせよう。
  それまでヴィヴィアン、このトランクは屋根裏の物置に置いておこう」
「はい、お父様!」
  ヴィヴィアンは元気そのものだった。ただ一つ、黒っぽく呪われた姿を除いては。
「いやあ、全く良かったですよ、ラヴクラフトさん」
  妻子が階上に去るのを見届けてから、マリン氏はしみじみと言った。
「――あの娘も、妻も、私も、不死身の肉体を得たのです。どうです?  羨ましいでしょう?  私は私たち家族の幸せをまるっきり他人様に御裾分けしないケチで心の狭い人間ではないのです。
  よろしかったら卵の断片を差し上げますが」「いいえ、結構です」
  私は毒気を吸い込んでいがらっぽい声で慌てて断った。
「そうご遠慮なさらずに、本当にいいものですよ。『永遠の生命』って」
  しつこく食い下がるマリン船長の喉の奥に大きな啖の固まりのような、貝の中身のような、折り畳んだ触手をもぞもぞと蠢かせているものが見えた。
  卵はあいつがいなければ元の肉体らしきものを復元できない。そしてあいつは魂を無料で完全に元の肉体を再生してやるほど御人好しじゃあない。
「ここまで聞いて断るなんてひどいじゃあないですか?」
「失礼ですが雑誌の原稿の締め切りが迫っているのでこれでし失礼させて頂きます!」
  マリンの黒ずんだ手を振り切り、ソファを蹴って立ち上がりドアに向かった。
  マリンは追ってきた。私は廊下へ出てドアを閉めた。そんなことをしてもまるで無駄なことは分かっていたけれど、とりあえず閉じてみたのだ。
  内側からガチャガチャともどかしくノヴを回す音を背中で聞きながら、二階へと上がる広い階段を上がった。
「奥さん、ヴィヴィアン、今すぐそのトランクを燃やすか、ハドソン湾に捨てるかするんだ!」
  ヴィヴィアンの部屋はからっぽで、屋根裏に上がる跳ね梯子が降りたままになってたいた。
「悪いことは言わない!」
  後ろからはマリン氏が追ってきた。普通の人間とは思えないほどゆっくりとした足取り――まるで二本の足で歩くのは慣れていないかのようなちぐはぐな足音を響かせながら。
  屋根裏に上がった私は紐を引いて梯子を匹上げた。上で何が待っていようと、下から
やってくるものよりはましなように思えたからだ。
  煙草は吸わないものの、たまたま持っていたマッチを擦ってランプに火を灯した。
  二つのトランクは奥のほうにきちんと並べて置いてあった。
  ヴィヴィアンやマリン夫人の姿は見えなかった。すでに卵の中に取り込まれたのかもしれない。
  私はトランクを開けた。
  黒い卵の入っていたほうのトランクも、仮面が入っていたほうのトランクもからっぽだった。
(しまった!  やはり手遅れだったか…)
  彼等は容易に時空を越え得るとびきりの魔物たちだ。思ったことを間髪を置かず行動に移すことなど何でもないのに違いない。
  ヴィヴィアンの部屋でうろうろしていたマリン氏だったものの気配も消えた。
  屋根裏の窓には全て戸板が打ち付けてある。
  床に目を落とせば白い埃が分厚く積もり、足跡と言えば私のものしかなかった。
  全ては最初、私が無人のマリン家に迷い込んだ時と同じになっていた。
(地下だ。地下を探検して太古の王や英雄たちの影が眠っているのを発見し、「アルハザードの娘」を名乗る少女と会った)
  私は跳ね梯子を降りた。跳ね梯子も、二階と一階を結ぶ階段も、ボロボロに腐って、うかつに足を乗せると突き抜けてしまいそうなぐらいに痛んでいた。
  飛ぶように上がったのはつい数分前なのに…
  地下へ降りる跳ね戸を開けた。
  秘密の階段を降りると、広い地下道が広
がっている。地下鉄工事が始まると秘密裡壊されるであろうと言われているスカラ・ブレイに似た造りの遺跡だ。
  私は辺りを見渡した。岩を組み合わせた
いくつものベッドもそのままだった。ただ、もう中に甦った魔導士や僣王たちはいなかった。
  頭の上から岩のかけらや砂が落ちてきた。
  数千年――いや数万年びくともしなかった魔導士たちや魔物たちのアジトが崩れ去ろうとしている。いや、役目を終えたので彼らが自ら崩壊するように細工したのかもしれない。
  落下する石は最初子供の拳大であったものが、次第に大きさを増していた。
  私が一階へ上がるのと、地盤全体が緩んでマリン家全体がその奈落の底に吸い込まれていくのと、引き裂かれるようにしてできた壁の隙間から私が外へと飛び出したのはほぼ同時だった。
  振り返るとマリン家は完全に陥没し、切妻の屋根がちょうど地上になってしまっていた。
  近所の人々が集まってきて中の一人が
「大丈夫ですか?」
  と尋ねてくれた。
  箱形フォードを改造したパトカーや消防車も手回しサイレンを回しながらやってきた。
  不思議なことにすっかり陥没したマリン家は、大地に棲む巨人タイタンに呑み込まれたかのように、屋根も何もかもすっかり姿を消して、後には擦り鉢状の穴だけが残った。

  ニューヨーク市は「白蟻による被害」と発表した。両隣の家家は辛くも無事だったからだ。白衣もいかめしい業者がやつてきて辺りに殺虫剤と消毒液を撒いた。
  マリン一家は戸籍上はすでに全員死去していることになっており、所定の相続人捜索の手続きが取られたものの見つからず、土地は数年後にニューヨーク市のものになった。
  私は数枚の南太平洋上に浮かぶ植民地の切手を持ってプロヴィデンスに戻った。
  今でも時たま街に出ると、マリン氏や甦った連中に良く似た紳士淑女とすれ違う時がある。





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