「アローン・イン・ザ・ダーク」外伝

    闇の水族館

                1

  一九二九年X月X日
  マサチューセッツ州の私立探偵
  エドワード・カーンビーの覚書

  またしてもろくでもない依頼だった。ミスカトニック大学のエリアス教授が数週間前から行方不明、だと言うのだ。
  エリアス教授は東部でも有数の水棲生物学の権威で、先祖から受け継いだらしい莫大な遺産をつぎ込み、インスマスの沿岸の辺鄙な岬に研究所を兼ねた水族館を建てて、大学に出てきて教えるでもなく、隠者同然の生活を送っていたらしい。ただ、その著作「深海生物の研究」や「バージェス頁岩において発見された古生物化石に関する私的考察」「古生代生物生息の可能性」は学会で物理のハイゼンベルグや、医学のフレミングなみの高い評価を受けていて、大学も馘にはできなかったらしい。
  民間の化石や琥珀や、さまざまな珍しい生き物のオークションには、いつも郵便で参加し、狙ったものは必ず落札していたから、「金持ちの変人学者」として学会では知らない者はなかったから、きっと泥棒や強盗、詐欺師などにも狙われていたことだろう。
  親族親戚友人と呼べる者は皆無で、ただ同じ分野の一部の奇特な学者たちと文通していた。私への調査依頼も、そのうちの一人からだった。前金で過分の小切手を同封してあったので、断ることはできなかった。アーカムのような田舎町では、探偵の仕事などたまにしかない。かと言ってニューヨークなどでの仕事はほとんどが密造酒でボロ儲けしているギャングがらみで、性分に会わなかった…
  潮風を受けながら箱形フォードを走らせていると、岬の先端に回教の尖塔に似た太い円柱形の建物が見えてきた。どうやらあれがエリアスの水族館らしい。潮風で中折れ帽子が飛ばされそうになった。もっともかなりくたびれた帽子なので、飛ばされたところで別に惜しくはない…
  地元の伝説によると塔の土台は清教徒たちが移住してくる以前からあったのだ、と言う。ではアメリカ先住民のものかと思うと、彼らはこの場所を忌み嫌って数十世紀に渡って近付かなかった。
  正史の記述にはないがヴァイキングやノルマン人がその昔、この大陸まで航海していた証拠だと言う者もいる。だとすると、旧大陸のスカラブレイやバッカニアス・デンやサーパンツ・ホールドにあたる由緒ある遺跡、と言うことになる。
  道沿いには民家は全くない。最も近い漁村や集落まで数マイルある。かすれた文字で
「エリアス水族館」と記されている私設のポストの中身はカラッポだった。どうやら教授はビスケットと缶詰だけで、研究三昧の生活を送っているらしい。
  車はもちろん、モーター・バイクも、自転車もない。こんな道をトボトボ歩いていればいかに僻地とは言え、いや僻地だからこそ誰かの目につくだろう。ここへ来る前に両側の町で聞き込みをしたが、住人の誰ひとりとして教授の姿を目撃した者はない。数十年前から誰一人としていない、のだ。
  ただ、夜中になると塔に明かりが灯っていただけだ。この様なありさまだから、地元の人々は当然の如く、あの建物のことを「化け物屋敷」と呼んで、誰も近付くことはなかった…
  私は波打ち際の路側に車を止め、手紙で指示されていた通りの飛び石伝いに塔への道を歩き始めた。打ち寄せる漣が靴と靴下を濡らし、浜風で冷え始めた身体を震えさせる。
  この飛び石は、干潮の時のみ現れて、それ以外の時間は海の底にある。ボートなどは数多い岩に阻まれて使えない。従って、次の干潮時まで戻ることはできない。
  藤壷に覆われた石段を上がると、塔が目の前にあった。煉瓦ではなく、切り石を積み上げた、思ったよりも古い時代のものだ。
  敷地には桟橋があり、小型のモーター漁船が一隻、つないであった。これを使えば、近くの岸につけることは無理でも、インスマスの港などに接岸することができる。ただし、事前の調査では、エリアス教授のこの船が、近くのいかなる港にも入港・停泊した記録はなかった。この辺りは漁業権のうるさいところで、港以外のところに接岸すると、すぐに密漁船とみなされて通報される。だから、教授はこの船を沖での調査用に使っていたとしか考えられない。
  中を覗くと、浮き袋を風船のように膨らませた後、折り畳んだ紙風船みたいに干乾びさせた深海魚の死体がいくつも転がっていた。
  操舵室に備え付ける義務があるはずの日誌は見当らない。
  深海魚を釣るための道具、恐ろしく長い釣り糸やさまざまな疑似餌、漁火に使うランプはそのままで置いてあった。ミミズやゴカイなどの生き餌はもぞもぞと蠢いていた。
  これも餌に使う鰯などはすっかり腐敗し、凄まじい臭気を放っていた。
  何か気配を感じた。船底にいくつかある生簀のあたりだ。腐りかけていまにも踏みはずしそうな梯子を降りて、そちらの方向に向かった…
  何ものかが生簀の天板にドス、ベチャと体当りを繰り返している。獣ではなさそうだ。唸り声も聞こえない。何か軟らかいグニャグニャとした生き物のようだ。コートのポケットから拳銃を取り出したものの、効果があるかどうかは疑問だ。いままでの捜査では武器はほとんど携帯していなかった。最近考えを改めて買ったものだが、頼りにし過ぎると命取りにもなりそうだ。
  近くにネプチューンの持ち物のような三つ叉の銛があったので、それを右手に持ち、拳銃を左手で構えて、銛の先端で生簀の天板を上げた。
  と、巨大な蛙の卵に似た、ゼリー状の太いロープで、中にほぼ等間隔で黒や赤や青やその他毒毒しい色の卵を孕んだ奇怪な生物が激しくのた打ちながら飛び出してきた。
  二発、拳銃を発射したが、案の定ダメージを与えられなかった。貫通した箇所はただちに修復され、潰れた卵はそのまま水に落とした油のように二つに分裂してしまった。
  危ういところを銛で払いのけると、腐りかけていた段を飛ばして梯子を登り、慌てて船底に至る床板を閉じて、近くにあった重い網の入った木箱で重しをした
  だが、勢いづいた奴はこれまで以上の激しさで体当りを繰り返した。木片が飛び散り、自由の身になるのは時間の問題と思われた。
  回りを見回すと燃料に使う重油の缶が三つ、エンジン・オイルの缶が一つ、きちんと置かれていた。中身をぶちまけると、マッチでチリ紙に火をつけたものを投げ込んだ。
  漁船はアッという間に紅蓮の炎に包まれた。
  あの化け物がどうなったかは分からない。火事に乗じて海やこの岬に逃げた可能性も否めない…
  振り返ると、歩いてきた飛び石はすっかり波の底に沈んでいた。波は荒く、おまけに波間にははっきりと何匹もの鮫の背鰭が見え、たとえ水泳の達人でも元の岸まで泳ぎ渡るのは不可能なようだった。岬に電気や電話はない。水は天水を貯めて使っている。
  先ほどの船火事の煙を誰かが見つけて通報しても、最寄りの港からは一時間はかかる。  それまでは全くの孤立無援で、エリアス博士を捜さねばならない…

                2

  近くで見上げると、予想外に高い。一、二階を除いては窓はランダムにしかないため、正確に何階建てなのかは外からは分からない。
  塔の正面のひどく錆びた鉄扉には大きな重い閂がかかっていた。普通の鍵なら針金を曲げたものを差し込んで外す自信のある私も、これでは難しい。
  おまけに扉に耳を当てると、グチャッ、ドサリ、グチャッと軟体動物がしなるような音や、シャーッという蛇の唸り声のような音がした。
  一階の窓はとても人間がくぐれない小さなものや、かろうじてくぐれそうだが鉄格子がはまっているものなど三つばかりある。
  中を覗いて目を凝らすと、薄暗がりの中に犬とおぼしき動物の白骨が半ばバラバラに散らかっていたり、鼠のものらしい干乾びた臓物が点々と転がっていたり、割れて砕けた標本瓶で足の踏み場のない状態だった。
  それぞれの窓からは腐臭と、潮の香りが
混じった異様な臭いが立ち込めている。
  他に入れるところはないものか考えている間に、天候が一変した。
  晴れていた空には一面の雲が広がり、風が出て、波が次第に高くなった。激しい雨が降り出して、漁船をくすぶらせていた火を消し去った。
  あれよあれよという間に波は大波となり、危うく海中にさらわれそうになった。すでに帽子は持ち去られ、頭の先から足のつま先までずぶ濡れの状態だ。
  次の大波が迫ってきた。今度かぶったら間違いなく海の底に引きずり込まれるだろう。
  必死の思いでナイフをハーケン代わりに岩壁の隙間に突き立てて、一階の小さな窓を足がかりによじ登ろうとした。
  二階の窓にも小さなものと、大きいが鉄格子のはまっているものがある。小さな窓はよほどのことがない限り無理だが、鉄格子の窓は格子がゆるんでいる可能性ありと見て、そこを目指した。
  すると何という幸運!  願った通り、その窓の格子のうち一本がボロボロになってゆるんでいて取り外せるではないか!
  選り好みのできない私は早速部屋の中に飛び降りた。
  部屋の隅のランプに火を付けると、きちんと並べられたいくつもの水槽が浮かび上がった。それぞれの水槽には、ハリセンボンやオコゼやウニやクラゲやヒトデやナマコや色とりどりの斑点のついたウミウシが飼われている。ガラスの隅にはラテン語らしい学名が書かれたカード…
  私にはさっぱり分からないが、異変があったことは確かだ。エリアス博士は深海釣りで、何か未知の、とんでもない生物を釣り上げたのではないだろうか?
  とにかく、うさん臭いとは言えこれだけの研究所だし、エリアス博士はこの世界の権威だ。書斎を捜し当て、ノートでも読めば何が起きたのか見当くらいつくだろう。
「エリアス教授!  教授!  いらっしゃいませんか?  いらっしゃったら返事をなさって下さい!」
  無駄とは知りつつ大声で呼んでみた。
  湿った、黴臭い壁は谺を返さず、天井から茶色く濁った水滴がポタポタと落ちただけ
だった。
  壁の向こうで「グツグツグツ」と蟇蛙が鳴くような声がした。次いでまた例のベチャベチャという、大きな水掻きのある足で歩き回るような音。
  階段は鉄扉のすぐ外なのだが、うかつに出ると塔を乗っ取ってご機嫌の連中の餌食になるのは必至のようだった。と言って、カポネ一味御用達の機関銃も、マジノ線で使われたと言う毒ガスも火炎放射器もここにはない。もっともあったところでそれで確実に倒せるとは限らない…
  その時、閃くものがあった。
  別に倒さなくてもよいのだ。階段を上がるまでの間、居座っている奴の気をそらせることさえできれば…
  奴はなぜこの扉の外にいるかの?  おそらくこの部屋に入りたいのだが、できずにいるのだ。
  ではどうしてこの部屋に入りたいのかと言えば…
  大きなピンセットのようなものを見つけた私は、それでウニやクラゲやヒトデやナマコを一つの空いた水槽に集めて回り、最後にそれを部屋の右手奥に置いた。
  開いた扉がちょうど楯になるようにして、ノヴを回した。
  それは巨大なレスラーほどもある軟体動物の固まりだった。たるんで段々に盛り上がった体の隙間に、いくつもの目のようなものがあった。余りの醜怪さに氷付きそうになった足元を床から引き剥がすようにして予定通りダッシュした。
  と、いきなり小さな、毒茸に似た鮮やかな斑点のある空飛ぶクラゲのようなものが三つ襲い掛かってきたので、拳銃で撃ち落とした。
  慌てる余り、何度も滑って転けながらも、螺旋階段を登った。途中の小さな窓からは荒れ狂う大西洋と、焼け落ちた漁船の残骸が見えた。
  三階が迫るにつれて、動物の糞尿の臭気が鼻を刺した。エリアス博士に何か起きたのなら、博士が世話をしていた生き物も餌はもらえず放ったらかしになっているはずだ。大きな獰猛な生物でないことを祈った。
  三階は回りをぐるりと、いくつもの錆びた扉のついた小部屋が並んでいた。扉の下にはちょうど食べ物を差し入れするためのポストの口のようなものがついている。さらに、目の高さには部屋の中を覗くための小窓があった。ここは間違いなく牢獄だ。しかし、生物学者の研究所に、どうしてこんな設備があるのだろう?
  覗き窓を一つ一つ、覗いてみた。ある房は最初からカラッポで、ある房にはグズグズに腐り、汚泥のようになった何かの生物の屍体があった。さらに別の房にはバラバラになって散らばった大きな魚の骨みたいなものが
あった。
  中にいたのが動物だったのなら檻で充分だろうに、まるでそれぞれのプライヴァシーを守ってやっていたみたいな様子だ。
  最後に残った小窓を覗こうとした時、いままで以上の殺気を感じた。別に物音や気配がした訳ではない。いままでの成り行きで神経が研ぎ澄まされていた。
  ずぶ濡れで邪魔だった上着を脱いで、銛の先に吊るし、自分は壁の陰に隠れてゆっくりと差し出した…
  その途端、尖った巻き貝の先端のような、あるいは大きなウニの刺に似たものが窓から飛び出し、上着の襟の部分に風穴を開けた。
  ここも長居は無用だ。
  住人の姿を確かめるのは諦めて、螺旋階段に戻ろうとした時、うめきとも、声ともさだかでない音が聞こえた。
「…スマナカッタ  アイツト思ッタノダ…」「誰だ?」
  最後の小部屋の中にいるのは人間らしかったが、油断はできない。
「オレハ泥棒ダ。えりあす博士ノ研究所ニハ高ク売レル生キ物ガイル、ト聞イテ盗ミニ入ッタノダガ…
…ココカラ出シテクレ。ソウスレバアンタノ捜シテイルモノノ在処モ教エルシ…」
「エリアス博士はどこにいる?」
「アイツハ…  アイツハ…  アイツダケハ絶対ニ許セナイ…」
「だから、どこにいるのかと聞いているんだ」「コノ塔ノ中ノドコカニイルハズダ。出シテクレタラクマナク案内スル」
「いいや。それは遠慮するよ」
「アンタモココニ来ルマデニ見タダロウ?
  奴ラハトテモ人間ノカナウ相手デハナイ」(おまえだってそのうちの一人じゃあないのか)と言いかけて口をつぐんだ。
「悪いが信用できない」
「待ッテクレ!  見テモラエバ分カルガ、俺ハ特別ナ枷ヲハメラレテイル。枷サエナケレバコンナ扉ナド…  今度ハ狙ッタリハシナイ。サッキダッテ博士ト間違エテ…」
  咆哮ともつかぬ声で吠え叫ぶものを残して四階へと急いだ。
  四階はところどころ剛毛の生えた寒天状態の生物でパンクしそうだった。まるで部屋の中で巨大なバルーンを膨らませたみたいに、壁がミシミシと音を立てている。
  半透明、または白く濁った細胞の中では、群体生物のようにさまざまな別種の生き物がもぞもぞと蠢いていた。
  どうしようもないので、無視して五階へと上がった。

                3

  五階にはエリアス博士の居間と書斎と寝室だった。先ほどまでとはうって変わった尋常な空間だ。打ち寄せる波しぶきもここまでは届かない。相変わらず生臭い臭いが立ち込めているものの、いまのところモンスターがいる気配はない。
  辺りを油断なく見渡す。
  マホガニーのデスクの上にはノートや書物が開きっ放しになっている。ページは湿り、ところどころに染みが広がっているから、たぶん一週間前からこのままの状態なのだろう。
  天井まで伸びた書架にびっしりと埋まった本は特に乱されていない。標本棚のシーラカンスの剥製などもきちんとしている。泥棒が侵入した形跡はまるでない。
  三階に捕まっていたあいつを含めた盗人は誰もここまでたどり着けなかったと思われる。…博士の存命中は、だ。
  日記のようなものがあれば、と考えてデスクに座り、片っ端からパラパラとめくってみた。刑事時代の習慣で、ちゃんと手袋をして、だ。
  研究ノートはやたらと難しい学術用語が並んでいて、さっぱり分からなかった。ただ、ところどころに添えられた見事なイラストから、博士の現在のテーマが寄生虫、または寄生生物であったことが伺える。
  ギョウチュウやカイチュウ、サナダムシなどのお馴染みのヤツに似たものから、間違いなく新発見と思われる奇妙キテレツな形状のものまで、綿密にスケッチしてある。
  予定表を見ると、博士は失踪する二か月前まで毎日のように、たった一人であの焼け落ちた漁船に乗り、何千メートルもの釣り糸を使って深海魚釣りにいそしんでいたことが判明した。本物の餌を付けると目的の深さに到達するまでに、浅いところに棲む魚に喰われてしまうので、頑丈な疑似餌と錘を工夫していた。それでもたまにかかるのはチョウチンアンコウや深海タイといったさして珍しくもないものがほとんどだったらしい。
  魚釣りは一か月前に突然終わっている。
  目的のものを釣り上げたのだろうか?
  そしてその頃から、最初は余芸のようだった寄生虫のノートに書き込みが爆発的に増えている…
  近くに日記は見当らなかった。ノートを並べた書架にもないところを見ると、エリアス博士は日記を付ける習慣がなかったのかも知れない。
  簡単な防火金庫のようなものがあったのでダイヤルをいじって開けてみた。大して多くない現金や小切手帳はぞんざいに、博士号を入れた革表紙の学位証などはきちんとしまってあるところからすると、金よりは名誉を重んずる人物だったようだ。
「おや、これは?」
  私は小振りの三角フラスコに入った、うずらの卵ほどの反透明の物体を見つけた。どうやら理想浸透圧の塩水に漬けてあり、きちんとコルク栓がしてあった。その半透明の物体の中には、少女がビーズ細工で使うような、赤、青、黄、緑、ピンク、紺、白色の破片が埋め込まれている。形は文字通りビーズ形のものから、小さな歯車形、ぜんまい形、正多面体、中が空洞な風船形など様々だ。
  一体何だろう?  無数の標本の中からこれだけが金庫の中に入れてあったところを見ると、やはり特別なものに違いない…
  そのすぐ隣に、ガラスではない、透明な樹脂でできた野球のボールほどのケースがあった。指で弾いてみると、カンカンと乾いた音がする。見たことがない素材だ。
  宴Xコの中の物体が、本来この中にしまわれていたらしい…
  もしかすると…
  嫌な考えが脳裏をかすめた。
…これは、いままで何匹か見てきた化け物の卵、なのかもしれない。それもたぶん未知の寄生虫の卵で、これを宿主である何かの動物に埋め込んでやると、宿主の姿をまるで変貌させてしまうまでに成長する。
(現在ならば、容易に他の細胞を融合浸食してしまう細胞核、と言いたいところだが、
一九二○年代にはまだその発見はなされていなかった)
  エリアス博士が沖で釣った深海魚の腹の中にあったものか、あるいは何らかの方法でこのケース自体を釣り上げたものかは不明。
  とにかく他の者…漁師とか釣り人…なら、せいぜい飾りにしておくか骨董品屋に持ち込むものを、博士にはこれがどういうもので、どうやって使うかが分かったのではないだろうか?
  そして、早速試してみた。結果は、研究所じゅうに溢れている怪物たち…
  と、何者かの気配と視線を感じた。
  怪物たちに知性はあるのだろうか?  もしあるとするならば、この物体は仲間を増やすために必要なはずだ。
  気配と視線がさらに増した。
  こんなことなら最初に暖炉をつけておくのだった。燃え盛る炎の中ではさすがの物体も生き延びられなかったはずだ…
  私は黙って、それらの発見したものをそれぞれ元の位置に戻し、素早く金庫の扉を締めてダイヤルをデタラメにした。
  興奮し、集っていた存在のあちこちから溜め息が漏れ、気配は一つまた一つというふうに消えて、最後には再び静寂が戻った。
  エリアス博士が見つかったら、何とか対処してもらわねばならない…  もしも博士に万一のことが起きていれば…その可能性は高くなった…博士は不治の謎の伝染病で亡くなったことにして、この塔はガソリンをかけて燃やすしかないだろう…
  螺旋階段はまだ上に続いていた。私は時おり後ろを振り返りつつ、五階にしてまだジメジメと湿った階段を上がった。
  鉄扉を開けると、いきなり吹きつける風で登ってきた階段を転がり落ちそうになった。
  そこは塔の最上階…屋上で、錆びてボロボロになった手摺りがいまにも風で吹き飛ばされそうにガタガタと揺れていた。
  嵐で、まともに歩けないくらいだったが、慎重に一歩一歩歩み出した。
  目もくらむ高さから眼下に眺める海は大荒れで、一面白い波しぶきに覆われている。陸側を見ると、何と、断崖の道が崖崩れで崩落し、崩れ落ちた土の中から車のバンパーがちらりと顔を出していた。
  無意識に口の中で神への祈りをつぶやいていた。
  と、荒れ狂う沖の彼方に波ではなくバシャバシャと跳ねるものを見つけた。
  もっとよく見てやろうと、観光地にあるような据置式の双眼鏡に近づいた。エリアス博士が取りつけたものか、博士がこの塔を購入する以前からここにあったものかは分からない…
  レンズを覗くと、信じられないものが見えた。御伽噺の差し絵そのままの、ベティ・デイヴィスらハリウッド女優に似た人魚たちが何匹も集団で群れ泳いでいるのだ。
  目と頭がどうかしたのだと思ったが、何度目を凝らしてみても、光景は変わらなかった。
  双眼鏡のほうに仕掛けがあるのでは?
  そう考えて顔をレンズから外した瞬間、後ろからいきなり物凄い強い力で押された。
  姿はまるで見えなかったが、人間の腕ではない、堅い鞭のような、伸び縮みする物体
だった気がする。
  跳ね飛ばされ、手摺りにぶつかった。手摺りはすっかり腐っていたので、そのまままっさかさまに転落するところだったが、間一髪、両手で屋上の縁にしがみついた。
  敵がまだそこにいれば、靴のかかとで踏まれれば一巻きの終わりの場面だ。
  実際は数秒だっただろうが、私にすれば長い時間が流れた。「奴ら」には知性はないのか、視界から消え失せただけでやっつけたと思ったのか、とどめを刺しにくる気配はない。
  しかし、手元がぬるぬるにぬるついているのと、よじ登った場合今度こそ叩き落とされてしまいそうなことを考えると、下手に動くことはできない。
  恐る恐る下を見ると予想通り目もくらむ高さだった。この塔にはひさしやキャット・ウオークがまるでない。ただ、五階の少し離れたところに一か所だけ、旗を掲げるような小窓と、桟があった。
  両手の先だけであそこまで移動し、飛び降りれば僅かながらチャンスがあるかもしれない…
  そう思って、必死の力を振り絞り、壁伝いに動いた。
  塔の屋上の床の縁は、水垢とぬめりでぬるぬるだ。おまけに風雨はますますひどくなる一方で、手袋をしていなければとっくの昔に落下していただろう。
  ようやくのことで桟の上部へと近付いた。
  よく見ると、それは最初からあったものではなくて、あとから安物のセメントで継ぎ足されたらしく、付け根のところが風化して崩れ落ちかけている。
  大の大人が飛び降りれば、ひとたまりもなく壊れるだろう…
  やはり、元の場所、屋上に戻らねば命がない。
  決心して両手に力を入れた私の目の前に、巨大な巻き貝を背中に背負い、無数の短いピンク色の触手で顔を覆った化け物の、五つの黒い目玉がぬっとばかり現れた。
  私はふわりと宙に舞ったかと思うと、まっさかさまに下へと落ちた。
  反射的に手を伸ばすと、幸いさきほどの桟に触れた。神の慈悲か、それともひと思いには殺さない悪魔のからかいなのか桟は崩れ落ちなかった。
  改めて両手で抱え直し、半身を小窓の中に引きずり入れたところで、その桟はボロボロに砕けて落下していった。
  そこは五階ではない、隠し階である六階か屋根裏に相当する天井の低い部屋だった。
  正面に手術台に似た実験テーブルが二つあり、古い血がこびりついたのままの嚢盆や、メスや鋏子が散乱していた。
  ざっと見た感じでは、惨劇は博士が何らかの禁断の実験をしている最中に起きたような様子だ。
  劇薬や毒薬をしまった棚があり、出納帳やら注文書の控えがある。パラパラとめくるとホルマリンや麻酔薬、筋肉弛緩剤、神経毒にまじって硫酸や硝酸が大量に注文されている。
  生物学者がこんな薬品を?  肉を溶かして骨格標本をとるのには化成ソーダとかが使われるはずだ…
  向かいの壁に、ちょうど扉の形に埃が途切れたところがあったので、全身の力をこめて押してみた。
  そこは二畳ほどの「鍵」の保管室で、かなり精巧で複雑な黄金の鍵や、銀の鍵、真鍮が数十本、きちんと整理されて掛けられていた。(「特別製ノ枷ヲハメラレテイル」)
  あの牢獄にいた化け物が言っていたことを思い出した。
  このうちのどれかがあると、奴の枷を外してやることができるだろうか?
  注意深く観察すると、黄金の鍵一本、銀の鍵一本、柄のところに枷が彫刻してある真鍮の鍵一本を残して、あとはうっすらと埃が積もっていたり、錆が浮いている。
  よく使われていたらしい三本の鍵だけを取ると、手術室に戻り、隠し扉がないかどうかを捜した。
  と、実験机の一つがスライドして動き、その下から鍵のかかった床板が現れた。
  拝借した三本の鍵のうち、銀の鍵が合った。
  そこは、脚立を備えた秘密の書庫で、楔形文字で書かれた粘土板や、ヘブライ語やアラビア語で書かれた古文書がうず高く積んであった。
  もちろん、私には全く読むことができない。
  その部屋の床にも銀の鍵が合う床板があった。
  蓋を開ける前に、深呼吸をした。この下には確か膨張して破裂寸前のブヨブヨの化け物がいたはずだ…
  手術室に戻って薬品棚を眺めると、硫酸と硝酸の瓶があった。二つを混ぜ合わせて王水を作ると、ゆっくりと床板を上げた。
  驚いたことに、あのブヨブヨの風船みたいな化け物はいなくなっていた。ただ、壁の煉瓦のひび割れと、床や壁のベタベタと残った体液の滓だけが、この部屋に象さながらの大きな生き物がいた痕跡をとどめている。
  その時、殺気を感じて、サッと振り返った。
  象の鼻に似た捕食器官を持った大きな蟇蛙ほどのいきものがまっしぐらに飛んでくる…
  私は大リーガーさながらに、王水の入った瓶をそいつめがけて投げつけた。
「ギャーッ!」
  灰色と黒い煙の吐き気を催させる煙を残して、そいつはタールに似た滓に変わった。
  巨大化と矮小化を繰り返す性質のヤツだったのだろうか、不明だ。
  もしも分裂したのなら、今後どこでふい討ちを喰わせられるか分かったものではない。
  一刻も早くエリアス博士を見つけ出し、奴らを全て、倒せるものなら倒して本土に戻らなくては…

                4

  部屋の反対側の隅に設けられた落とし蓋を発見して、三階の牢獄の一つに降りた。若い女性のものと思われる朽ち果てた衣類や下着があった。
  ハンドバッグもある。中身は財布や口紅だ。
  別にバンドでくくったパンフレット類も
あった。どうやら博士に医療保険か生命保険か養老年金を勧めにきたセールス・ウーマンのようだ。
  銀の鍵を使ってホールへと出た。
  登りしなにわめいていた元・泥棒は、死んだのか、完全に化け物に変態していまったのか、うんともすんとも言わない。
「おーい!」
  用心深く、少し離れた場所から呼びかけてみた。
「アンタカ…  早ク助ケテクレ。アンタニハ慈悲ト言ウモノガナイノカ?」
「ないことはないが、助けた途端に頭からガブリとかじられない保証がないからね」
「アンタは他者ヲ信ジナイノカ?」
「ここへ来てからは襲われ続けだ。こんな状況で信じろと言うほうが無理なんじゃあないか?」
「デハ、ドウスレバ信ジテクレル?」
「質問に答えてくれ。上に手術室があったが、博士はキミに何かしたのか?」
「直前ニ麻酔ヲカケラレタノデ、覚エテイナイ」
「キミはいまどんな姿をしているんだ?」
「扉ヲ開ケレバ分カルダロウ?」
  私は、秘密の部屋で見つけた鍵束をちゃらちゃらと鳴らした。
「聞こえるか?  鍵束だ。もちろん枷の鍵もある。先に博士の居所を教えてくれれば、枷を外してやる」
「本当カ?」
「本当だとも」
「約束スルカ?」
「神に誓って約束する」
「本当ニ本当ダナ?」
「くどいな。私は博士を見つけるためにここへ来たんだ。仕事が済めばお互いにギャラをいただいてオサラバってことにしないか」
「博士ハ地下ダ」
「地下、だと?」
「コノ塔ニハ深イ深イ地下ガアリ、がらす窓ガハマッテイテ海底ノ様子ヲ見ルコトガデキル」
  踵を返して下に降りる階段を捜した。
「オイ待テ!  約束ハ?」
「ガセネタでないかどうか確かめてからだ」「ばかナ!  絶対ニ生キテハ戻レヌゾ!」
「なぜだ?」
「海底ニハ博士ガ観察シテイタ『あいつ』ガイルカラダ」
  二階に降りた。レスラーほどもある目玉だらけの軟体動物が踊り場にのさばっている。
  くねくねとした薄気味悪い蠕動を見ていると、あれっぽっちの餌ではとても満腹にはならなかったらしい。
  三階にとって返し、枷の鍵だけを砕けた鉄格子の間から投げ込んで別の房に隠れた。
  ガーンと衝撃音がして扉がふっ飛んだ。
「有難ウ。感謝スル。二度トアンタノ前ニハ現レナイカラ安心シロ」
  奴はそう言い残して、ベチャベチャと水掻きでもあるような足音を残して階段を降りて行った。
  奴の姿は敢えて見なかった。
  しばらくして「グワーッ!」と耳をつんざく悲鳴が聞こえた。
  その隙に二段おき三段おきに飛んで降りた。
  踊り場で意地張っていたヤツは壁際でバリバリボリボリと食事の真っ最中だった。
  奇妙に変形した骨や、花弁のような鱗がこちらに飛んできた。

  初めて見る一階は、学校の遠足で行く水族館そっくりの、間取りだった。壁に埋め込まれた水槽にはピラニアや熱帯魚など、人畜無害の魚たちが泳いでおり、その下には素人向けの解説が書かれた札が下げられている。
  売店ふうの屋台もあり、網の袋に詰められた貝殻や、紙の小箱に入った小さなアンモナイトや三葉虫、オーム貝やベレムナイトが並んで何セントといった値札が掲げられている。
  どうやら博士はここを観光客向けの施設にするつもりだったらしい。それも金儲けなどが目的ではなく、閉館間際にふらりと訪れたよそ者で一人ぼっちの観光客を特別に歓待するような…
  一見物置か納戸のふうの扉があり、中身がまるで入っていないいくつかの木箱をどけると、厳重に施錠された地下へと通じる扉が現れた。ただの鍵ではない。よく見ると回りに何か見たこともない古代の文字が記されている。
  力づくで開けようとすると、忌まわしい門番が一斉に這い寄ってきそうだ。前に立っただけでも、連中が物影を伝って忍び寄って来る気配が感じられる…
  金の鍵が合いそうなので差し込んでみた。
  カチリと軽ろやかな響きを立てて鍵が外れ邪悪な門番どもが匍い去る気配がした。
  カンテラに火を入れてゆっくりと歩み出す…
  地下へと続く螺旋階段は、登り以上におぞましく呪われたものを予感させる。
  石の階段は塔のものよりも格段に古く、まん中を除いてびっしりと黴や菌類が生え、よどんだ瘴気がたち込めていた。
  しばらく窓はないが、古い壁の向こうは海の底であることはゴオーッという海瀟から分かる。
  少し降りると、踊り場と丸いガラス窓があった。
  ガラス窓?  こんな古い建築物に?  水圧に耐える?
  いぶかしみつつコンコンと指先で叩いてみると、我々がよく使うガラスではなく、透明度の高い石英か水晶か何かを磨き上げた特殊なものだった。
  やはりヴァイキングかノルマン人か、それよりもっと以前のゲール人かデーン人がはるばると大西洋を渡って、ここニューイングランドに遺跡を築いていたのだ。それも旧大陸でも発見されていない高度な文明を。
  こここそゲール人の言うティルナノーグ
(常世国)だったのかもしれない。
  ところが窓から見る海底の風景は悲惨なものだった。おい茂っていた珊瑚は無残に枯れ果て、鬼ヒトデがうようよと漂っている。
  魚影はまるでなく、海はなぜかヘドロで濁り、たまに泳ぎかかるのはウツボや海蛇と
いったゾッとしないものばかりだった。
  とそこへ、海面のほうから一尾の人魚がゆらゆらと泳いできた。屋上の双眼鏡で見た人魚だ。
  彼女は名状し難い悲しそうな表情で、下腹の盲腸の手術のあとや、歯の治療の跡などを示した。どうやらかつては人間だったらしい…牢獄に捕らわれていた女性だろうか?
  人魚は顎をつまむジェスチャーをした。エリアス博士は、顎鬚を生やしていた。
  続いて両手に試験管を持っていじる仕草。
  そして爆発と驚きの表情…
  やはり博士は、何かの実験をしようとして失敗したらしい。
  私も顎をつまむ仕草をして、海底を指差した。
  人魚は頷いたが、口もとが「でも」と言いたげに動いた。そして両手を交差させて×印を作った。
  とその瞬間、長いピンク色の鞭のような触手が何本か海底から登ってきて彼女を捕らえ、かなりのスピードで海底へと戻った。
「おい!」
  と思わず叫んだ。
  人魚は「これ以上来ないで!」と言いたげに、自由が効くほうの腕を激しく横に振っている。
  滑らないように気を付けながら全速力で螺旋階段を降りた。次の窓ではやたらと口だけが大きいグロテスクな深海魚たちが見えた。
  その次の窓からはマリンスノーが降り積
もった海底と、案外まともな形状のエビやカニたちと、触手に捕らわれた人魚がそのまま砂の中に消え去るのを目撃した。
  螺旋階段はなおも続いている。つまり海の底へと続いていた。
  やがてようやく終点の総水晶張りの、ボクシングのリングほどの海底展望台||と言うか神殿の内陣のような雰囲気の部屋が見えてきた。
  正面を見て驚いた。ニューヨークのビルほどもある大きな鱗木ほどの足に、いくつもの触手を持った巨大な蛸を乗せた、いくつもの目を持ち、体の節節から滲出物をにじみ出させている、全体では鯨の数倍もある生物が、海底のまだその底にある洞窟の中でもぞもぞと蠢いている。
  回りには、体の中に色とりどりの核を持つ透明な海蛇や、五ツ目の海老に似た生物や、寒天の固まりのような生物たちがつき従っている。
  先ほどの人魚はいままさに化け物の口に吸い込まれそうになっていた。
  こんなところで拳銃など何の役にも立たない。この水圧を支えるガラスが数発の弾丸で破壊できるとは思えない。それに仮に割ったところでどうなる?
「博士!」
  やけくそになって呼びかけてみた。
  すると、驚いたことに、化け物は食べ掛けていた人魚を手放した。彼女は気を失ったままゆらゆらと上昇していくところを、私同様決死の覚悟で追いかけてきたと思われる仲間の人魚たちによって救出された。
「博士、お願いです。あなたも科学を志し修めた人ならば、これ以上のことはやらないで下さい。こんな人家に近いところではなく、大西洋か太平洋のどまん中なら、その姿でも暮らしていける場所もあるはずです。そこにはきっと、貴方が求める禁断の文明の遺産も残っていると思います。人間が未だ到達不可能な深い海の底や海底火山の溶岩の中でも、その姿なら行くことができるでしょう。下僕以外の仲間に会える可能性だってあります」
  会話をしている、と言うよりは「神」…例えそれが著しく邪悪なものだとしても…に訴え掛けているか、心に呼びかけている感じだった。
  かつて博士だった「もの」はゆっくりと動き出した。
  私は一目散に降りてきた階段を再び駆け上がった。二度三度、地震に似た衝撃が繰り返されたか思うと、さすがに何万年という風雪に耐えてきた超古代の石壁にもヒビが走った。
  壁が崩れるのと同時に、海水が物凄い勢いで入ってきた。
  一階の土産物屋の屋台にしがみついたのと、地下から水が吹きだし、地割れが走って塔が崩れ始めたのは同時だった。
  屋台の板をヘルメット代わりに頭の上に乗せ、最初の裂け目から荒れ狂う海に向かって飛び込んだ…
  ふと沖のほうを眺めると、白い航跡を残して潜りながら泳ぎ去る大きなものが見えた。

  それから三○分くらいは、目をつむり必死で急造の筏につかまっていた。
  やがて目を開くと、すっかり崩れ落ち、影も形もなくなった塔と、何とか上陸できそうな地形となった岸辺が見えた。



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